"Bho Nāgasena, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti. "Āma, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti. "Kathaṃ, bho Nāgasena, na ca saṅkamati paṭisandhati ca? Upamaṃ karohī" ti. "Yathā, mahārāja, koci puriso padīpā padīpaṃ padīpeyya, kiṃ nu kho so, mahārāja, padīpo padīpamhā saṅkanto" ti. "No hi, bhante" ti. "Evam eva kho, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti. (PTS版(Milindapañha, p. 71, lines 16–24))
ここではその問題を含め、輪廻転生の問題について呟かせて貰います。
↓
現在タイやスリランカ等に伝わる南伝仏教では、輪廻転生からの解脱を説きます。 しかしこれを、バラモン教的な教理と同一視されてる方が散見されますが、南伝仏教は北伝同様無我論であり、その輪廻転生説は業論で、バラモン教のそれとは別次元なのですが。 なぜこの様な勘違いが起こるのでしょうか?
しかし、初期仏典を見る限り、お釈迦さまが輪廻転生を説かれていた事は否定し難い事実であり、この矛盾をどう解くかについていろいろと意見が交わされて来ました。
まぁ、ザックリ云うと阿頼耶識縁起はその輪廻転生説と相性が一番良いかも。
"Āma, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti.
"Kathaṃ, bho Nāgasena, na ca saṅkamati paṭisandhati ca? Upamaṃ karohī" ti.
"Yathā, mahārāja, koci puriso padīpā padīpaṃ padīpeyya, kiṃ nu kho so, mahārāja, padīpo padīpamhā saṅkanto" ti.
"No hi, bhante" ti.
"Evam eva kho, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti.
(PTS版(Milindapañha, p. 71, lines 16–24))
「敬愛するナーガセーナよ、[何ものも]移り行くことなく、しかも再生するのでしょうか?」
「その通りです、大王よ。[何ものも]移り行くことなく、しかも再生するのです。」
「敬愛するナーガセーナよ、どのようにして移り行くことなく再生するのでしょうか。比喩をつくってください。」
「大王よ、例えばある人が、一つの灯火から[別の]灯火に火を点けたとします。大王よ、その灯火は[前の]灯火から移り行ったのでしょうか?」
「いいえ、尊者よ。」
「大王よ、まさにそのように、[何ものも]移り行くことなく、しかも再生するのです。」
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 14:55
ありがとうございます。 仰る通りで、ブラフマニズムでは、例えば Vāsāṁsi jīrṇāni yathā vihāya navāni gṛhṇāti naro 'parāṇi | tathā śarīrāṇi vihāya jīrṇāny ānyāni saṁyāti navāni dehī 「人が古くなった衣服を脱ぎ捨てて、新しい別の衣服を着るように、身に宿る者(アートマン/魂)は、古くなった身体を脱ぎ捨てて、新しい別の身体へと入っていく。 (『バガヴァッド・ギータ』(Bhagavad Gītā )2:22) とあり、「身に宿る者(Ātman)」とありますが、仏教は無我論(anātman)なのに、一体南伝仏教の何処がブラフマニズムなのか理解に苦しんでおります。
> 「私が世尊(ブッダ)の説かれた教えを理解している限りでは、まさにこの同じ識(意識)が走り回り、生まれ変わり(輪廻)を行っているのであり、他のものではない。」
> 「[友よ、その識とは]話す者であり、経験する者であり、あちこちで善悪の行為(業)の果報を経験する者のことです。」
> 「愚か者よ、お前は一体誰に向かって、私がそのように教えを説いたのを聞いたというのか? 愚か者よ、私は多様な方法で『識は縁(条件)によって生じるもの』であり、『条件なしには識の発生はない』と説いてきたではないか。」
そもそもお釈迦さまは識が輪廻転生の主体って言ったサーティ比丘に激おこだったしw
それが瑜伽行唯識学派でいうその者の人生の始まり、
さん
2026/9/30 22:33
あなたは自分が言っていることの意味を本当にわかっているのだろうか? テーラワーダ仏教の教義である輪廻転生が本当にあり、輪廻転生から解脱することが仏教の目的だと言うことは臨済宗の見性成仏は嘘だと言っているのですよ。
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 22:38
輪廻転生からの解脱と見性成仏は矛盾しませんけど、大丈夫ですか?
さん
2026/9/30 23:03
坐禅和讃に「衆生本来仏なり」とあるように、私達は本来的に輪廻転生するような性質のものではない仏である。 だから臨済宗の教義と輪廻転生は両立しません。
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 23:10
本来仏でも実際に迷うから輪廻するんでしょw
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 23:12
六趣輪廻の因縁は、 己が愚痴の闇路なり。 ってねw
🐙かなんかの絡みでahoo掲示板かなんかから来た何人かのうちの一人。
すぐに壊しちまった玩具だったけど、もう少し遊べば良かったかな。
あれもすぐぶっ壊しちまったけどw
「無我輪廻説」などはほとんど詐称で、「無我持続説」が言い方として真っ当である。
もっと言えば、仏教における輪廻説は、言葉の使い方を間違っているに過ぎない。
(『仏教入門』南直哉より)
しかし、仏教は違う。
釈尊も確かにヒンドゥ思想伝来の輪廻説から出発した。
ただし釈尊の問題は、そうした輪廻転生の生死──「生」と「死」でなく、一息に「生死」──の苦からの解脱にあった。
釈尊は菩提(悟り・覚)によって仏陀(悟った人・覚者)となって、生死を解脱した。
だから、悟ったのちの釈尊が、輪廻説などに立ったわけはない。
「後有を受けず」と宣言したゆえんである。
だから、「輪廻」の説は、あくまで仏教の前提としてのヒンドゥ教説であって、厳密な意味では仏教説ではない。
(秋月)
仏教は確かに「輪廻」転生の説を前提として説かれてきた。
それは事実である。
だからといって、輪廻説は仏教説であるとはいえない。
輪廻を信じない私のような仏教徒もいる。
ただし──すでに述べたように、覚者(仏陀)と成った釈尊は「私はもう再生しない」(「後有次生の存在を受けず」)と宣言された。
悟って輪廻の生死を解脱したのだから、もはや六道のどこにも再生しない、というのである。
そうした釈尊の仏法には、本来「あの世」などあるはずがない。
こうした釈尊の「覚」の立場から頽落したときにだけ、「あの世」が(次生が、後世が、そして前世が、すなわち三世が)問題になってくるのである。
だから、禅者としての私は、「即今・此処・自己」しか問題にしない。
「即今・此処・自己」という、実存の「絶対現在」(永遠の今)に立つ禅者にとって、「あの世」は問題にならない。
したがって、「前世も後世も」問題にならない。
「生死」は、ただ「刹那の生死」だけですんで、「一期の生死」を考える必要はない。
提示されたテキストから読み取れる秋月氏の「輪廻転生観」は、「輪廻説は仏教固有の教えではなく、悟り(解脱)によって超克・否定されるべき前提に過ぎない」という立場です。
具体的には、以下の3つのポイントに要約できます。
* 輪廻説はヒンドゥー教の前提であり、本来の仏教説ではない
釈尊(ブッダ)は古代インドのヒンドゥー教的な輪廻説を出発点としたものの、悟りを開くことで生死の苦から解脱しました。「後有を受けず(二度と迷いの世界に生まれ変わらない)」と宣言した以上、悟った後の釈尊や本来の仏教において、輪廻や「あの世」は肯定されるものではないとしています。
* 輪廻や「あの世」が問題になるのは悟りから退落した状態
前世・後世・あの世といった「三世」の存在を意識したり問題にしたりするのは、釈尊の悟り(覚者)の立場から離れてしまっている(頽落している)からに過ぎないと考えています。そのため、秋月氏自身も「輪廻を信じない仏教徒」であると明言しています。
* 禅者として「絶対現在(即今・此処・自己)」を生きる
一 lifetime(一期)を通じた生まれ変わりを考える必要はなく、解脱の立場に立つ禅者としては「即今(たった今)・此処(この場所)・自己(自分自身)」という実存の「絶対現在(永遠の今)」だけを問題とします。生死とは一瞬一瞬(刹那)の生と死だけで完結しているという視点です。
まとめ
秋月氏の輪廻転生観は、「輪廻やあの世は悟りによって超え去られるべき旧来の観念であり、真の仏教(禅)の本質は、過去や未来(前世・後世)に囚われず『今・ここ・自分』という瞬間に徹して生きることにある」という徹底した絶対現在の立場です。
つまり、二見(常見・断見)を離れてるという事だな、
↓
ken********さん
2026/9/30 13:59
バラモン教も業論による輪廻を説いているからです。
なるほど
0
そうだね
0
ありがとう
0
ken********さん
2026/10/1 6:56
戯論寂滅が悟りです。 ブロックするのは、戯論を言わせないための仏心です。
ken********さん
2026/10/1 15:22
「初期仏教で輪廻転生が説示されていたのは紛れもなく事実」 これが、現代仏教学で槍玉に上がっているのです。 現実を直視しなければいけません。
2026/10/7 8:56
当時、アートマン (Ātman)という主体の連続体を前提としたブラフマニズムの輪廻論は、分かり易いし圧倒的な支持があったかと思います。 また、その頃形成された業論と併せて、無我(anātman)説を取るお釈迦さまも無理にそれを否定されず、その整合性(輪廻、業、無我)ついて苦慮され工夫され、輪廻を前提にした説示はされていたかと思います。 やがてそれは無我輪廻説へと展開したのでしょう。 しかし、そもそも輪廻というのはアートマン (Ātman)という真我の連続体を前提としたブラフマニズムの術語です。 なので仏教でその輪廻という語組み込んで使用するのはどうかなぁと思いますし、無我論(刹那生滅する五蘊という仮設の相続体)で事足りる事ですから、掛かる意味に於いて輪廻(真我の連続体)の語が否定される事は仏教徒として当然だと思います。 ……でもまぁ、一般の方にその説明をしてもなかなか理解される事でもないでしょうし、余りにも輪廻という言葉が世間に流布して定着していますからねぇ。 無我による仮設相続と業論だけで説明は完結しているのだから、輪廻という言葉自体が不要であるとはなかなか定着し難いと思うのです。
2026/10/7 9:15
なかには「いやいや、輪廻とは刹那生滅する五蘊という仮設我の相続を言うんだよ」と仰る方もいるかもしれませんが、そもそも輪廻とは五火二道やアートマン ・ブラフマンを前提としたブラフマニズムを源泉とする思想ですから、この考えは後付けで受け入れられません。
ただその違いは基体説の連続体か非基体説の相続体かだな。
連続も相続も業論が基礎にある。
まぁ、倶舎論ベースの説明だし、さらに展開された説明もあるけど。
ただし、業論までは否定されない。
しかし仏教は基体説を否定する。
だから、無我なのに何が輪廻転生するの?となる。
しかし、一方で無我だからこそ輪廻転生するという無我輪廻説があるけど、これは
南 いや、だったらやはり輪廻と言う必要ないですよね。業論でおさまる。
望月 そういうような説明自体に、ちょっと無理がありますよね。諸存在が同一実体として連続することを排除するために、刹那減により常住性を排除しているのだけれど、無常性を論証するために設定された論理にしか思えないのです。輪廻を論証するためにそれをわざわざ説明する必要があるものだろうか、と。
南 そう思うんですよ。いらないでしょう?
望月 いらないと思いますね。
南 私もね、無我輪廻説というのは、なぜそれを「輪廻」と言わなきゃいけないのか、全然わからないんですよ。無我説と言っときゃいいだけのことで、そのあとに、なぜ輪廻なんて付けなきゃいけないのか。
望月 そうですね。無我輪廻説自体が、我が輪廻を繰り返すことを否定するために、無我でないと輪廻は成り立たないと説明しているわけで、無我と輪廻の整合性が前提になっているわけです。輪廻を無我で論証しようとしているだけであって、トポスとしての輪廻の存在を受け入れてからの論証となっているわけです。輪廻が説かれているからどうしても説明しなくちゃいけなくなるわけですよね。
南 そうなんですよ。あるから、仏教の側から正当化しなきゃいけないという思い込みがあるんじゃないかと思うんですね。捨てればいいのに。
(『別冊サンガジャパン4 死と輪廻』)
とある通り。
本当に知りたい人に対して時間を掛けて説明する他ない。
宗教板でそれをしようとしてもケラどもが邪魔するし、理解出来る者も居ないし、ここで一人でまとめる他にない。
誰か他所でロムってる人でも居て一助になれば良い。
やっぱり無我論で事足りる、というか、事足りる説明をしなきゃならないんだろうけど。
でもさぁ、魂なんてものは仏教じゃ認めてない、無我論だ、刹那生滅する五蘊の仮和合の相続だ、そして更にそれも空性の元に戯論として寂滅するなんて、ここの馬鹿どもにさえ分からないのに、そこらのおじちゃんおばちゃんになんか尚更無理だわ😗。
……なんだかこれもなぁw
他スレで千枚通しがどうのと自殺教唆コメントしていた奴が講釈垂れても説得力ゼロやわ〜
禅宗では生と死とに分けない。
一息に生死(しょうじ)という。
生・死という差別(分段生死)が生死という平等となり、それさえも解消・張説される。
教学でいうところの「不思議変易生死」だな。
張説→超越
まぁ、馬鹿やビギナー、トーシローに知れる世界では無い。
そんな事の有る無しなんて問題ではない、もっと大事か事があるだろ!って。
正直、わたしには、分からないw
DeNAに敗れた巨人ナインに、まさかのブーイングが起こった。
試合終了後、26年シーズンの全試合を終えた巨人の選手、スタッフらが右翼席の前に整列し、あいさつへ向かった。巨人ファンの前で頭を下げると、スタンドからはまさかのブーイングが起こった。その後、「大きな拍手をお送り下さい」とアナウンスが入ると、ブーイングはやみ、東京ドーム内に拍手が響き渡った。
10/11(日) 17:16配信
DeNAが快勝。
一回に度会の2試合連続のソロと佐野の右前打で2点先取。七回に戸柱の左前打、八回に牧の2戦連発となるソロで加点した。石田裕が5回1失点で、その後は継投でしのいだ。巨人の得点はダルベックのソロのみだった。
意味のない世界を誤魔化さず直視続けることこそが人間の尊厳なのです。
著作シューポスの神話では山頂に運んでもすぐに転がり落ちる巨大な石を永遠に押し上げ続けるシューポスのように結末人生に意味は無くてもその無意味な人生に反抗して今この瞬間を情熱的に生き抜いていくことで不条理に勝利をします。
まさに、その通り
Wikipediaからだけどシモーヌヴェイユの神についてのものにこういうのがあるがなかなか納得させられるな
「世界が善だから愛するというのではなく、悪をみつめ、悪を憎悪しつつも善と悪を造った神と、神が創ったこの世界を愛することを説く。ヴェイユは偽りの慰めを退け、想像上の神を信じる者より神を否定する者の方が神に近いという。全く神が欠けているということでこの世界は神そのもの」
この世の、神の不在としか思えないような理不尽や悪意の蔓延の世界をむやみに憎んだり拒絶し逃避せずにそのまま受け取りそこで苦しみや悩みにとどまる
説かれた神に頼らない、そのありようこそが
ホントに神そのものとしてのありようにかなうという考え方
清水 そのような無常なる自己が、因果の連鎖によって、延々と個体存在を再生産し続けていくことが輪廻である。したがって、輪廻説と無我説は調和しており、そこに矛盾はない。
望月 そういうような説明自体に、ちょっと無理がありますよね。諸存在が同一実体として連続することを排除するために、刹那減により常住性を排除しているのだけれど、無常性を論証するために設定された論理にしか思えないのです。輪廻を論証するためにそれをわざわざ説明する必要があるものだろうか、と。
南 そう思うんですよ。いらないでしょう?
望月 いらないと思いますね。
南 私もね、無我輪廻説というのは、なぜそれを「輪廻」と言わなきゃいけないのか、全然わからないんですよ。無我説と言っときゃいいだけのことで、そのあとに、なぜ輪廻なんて付けなきゃいけないのか。
望月 そうですね。無我輪廻説自体が、我が輪廻を繰り返すことを否定するために、無我でないと輪廻は成り立たないと説明しているわけで、無我と輪廻の整合性が前提になっているわけです。輪廻を無我で論証しようとしているだけであって、トポスとしての輪廻の存在を受け入れてからの論証となっているわけです。輪廻が説かれているからどうしても説明しなくちゃいけなくなるわけですよね。
南 そうなんですよ。あるから、仏教の側から正当化しなきゃいけないという思い込みがあるんじゃないかと思うんですね。捨てればいいのに。
不変の絶対的一者(Brahman)が名称と形態に自己分節したもの(Atman)の連続現象。
仏教の無我論(析空観的だけど)
刹那生滅する五蘊という構成要素(dharma)の仮和合体の相続現象。
無我輪廻論
……折衷論としては無理がある。
???
清水 そのような無常なる自己が、因果の連鎖によって、延々と個体存在を再生産し続けていくことが輪廻である。したがって、輪廻説と無我説は調和しており、そこに矛盾はない。
「人が古くなった衣服を脱ぎ捨てて、新しい別の衣服を着るように、身に宿る者(アートマン/魂)は、古くなった身体を脱ぎ捨てて、新しい別の身体へと入っていく。
(『バガヴァッド・ギータ』)
な訳です。
無我論は衣服は範疇に出来ても「身に宿る者」とは相容れないのです。
望月 そうですね。無我輪廻説自体が、我が輪廻を繰り返すことを否定するために、無我でないと輪廻は成り立たないと説明しているわけで、無我と輪廻の整合性が前提になっているわけです。
輪廻を無我で論証しようとしているだけであって、トポスとしての輪廻の存在を受け入れてからの論証となっているわけです。
輪廻が説かれているからどうしても説明しなくちゃいけなくなるわけですよね。
「輪廻転生は認めない。だが、因果の理法は否定しない」
なんて、奇妙な設定をするから
思想的なアクロバット曲芸をやる羽目になる😂
お世辞にも分かりやすいとは言えないが😅
↓
生まれ変わりの実例(前世記憶の事例)は、精神科医や研究者によって世界中で調査・記録されています。代表的な実例や共通する特徴は以下の通りです。
小谷田勝五郎(こやた かつごろう)の事例
19世紀の日本(江戸時代)の事例で、松平冠山や小泉八雲の記録に残る有名な話です。幼少期に「前の世では、藤蔵という名前で、こういう家族だった」と具体的に語り、実際にその人物や場所が存在したことが確認されました。
インド人女性の額にある「ビンディ」にそっくりな母斑(あざ)を持って生まれた日本の少女です。3歳の頃にお風呂上がりに頭にタオルを巻いてヒンディー語を話したり、「インドで英語を話し、リシケシュに住んでいた」といった具体的な記憶を語りました。
米国ヴァージニア大学などの研究グループは、世界中で2,600件以上の前世を記憶する子供の事例を調査しています。エジンバラの料理人や戦艦大和の乗員など、前世の人物が特定されたケースが多数報告されています。
発症の年齢
生後24~60カ月(2歳~5歳頃)に話すことが多く、一般的に6歳前後から記憶が薄れて消えていく傾向があります。
身体的な特徴(母斑や先天異常)
前世の人物が負った傷や死亡時のケガと一致する位置に、アザや身体の欠損を持って生まれてくるケースが指摘されています。
非自然死・トラウマの記憶
事故や暴力など、不慮の死を遂げた記憶を持つ割合が高く、それが現世での恐怖症や嗜好につながっている場合があるとされています。
もし特定の地域の事例や、研究者(イアン・スティーヴンソンや大門正幸教授など)のさらに詳しい調査内容について知りたい場合はお知らせください。
程久保小僧だな
https://youtu.be/Kd_Bd4Qwoto?si=fp-f4ldj7D8jk7uI
アカネちゃんの主なエピソード
生年・時期: 2005年頃生まれ。
前世の記憶: 3歳頃から、前世はインド人の「ラディ」という5人きょうだいの末っ子の女の子で、家族とともに火事で亡くなったと話し始めました。
身体的特徴・行動:
額にインド人女性がつける「ビンディ」に似た母斑(あざ)を持って生まれた。
3歳の頃にお風呂上がり頭にタオルをターバンのように巻いたり、ヒンディー語を話したり、英語を使っていたことや「リスクライ(リシケシュ)」という場所に住んでいたと具体的な記憶を語った。
生まれ変わりの動機: 前世の経験から「次の人生では、女の子が大切にされる日本に生まれたいと思った」という趣旨の発言をしており、自らの意志で日本へ生まれ変わることを選んだと語られている。
また番号が飛んでるな。
どうせケラの妄想だろ。
前述した『解深密経』の文には、阿頼耶識の結生相続への関与は、明確には説かれていない。
しかし、或る趣において身体を受けたとき、最初に形成され、次いで成長発達してゆくものが一切種子心であると説かれていることからみて、一切種子心が輪廻の主体であり、結生時において新たな生存状態を形成する質料因であると考えられていることがわかる。
その時、母と父とが交会して出す精血(精子と卵子)に対して彼に間違った見解(顚倒見)が生じる。
すなわち、この時、この顚倒者は母と父とが相互に邪行(交会)を行っているのを見るが、しかし、母と父とが邪行を行っているとは見なく、彼は間違った考えを起こし、それを自分が行っていると見る。
そしてその邪行を見おわって彼に貪愛が生じる。
すなわち、もし女になろうと欲せば父に交会しようとする貪愛が生じ、もし男になろうと欲せば母と交会しようとする貪愛が生じる。
(中略) この時、恍惚となった母と父とは貪愛が激しい状態に達して精液を出す。
その最後に各々、一滴の精血を出す。
するとこの二滴の精血は母胎において結合し、あたかも熟した牛乳が凝結するように凝結して一つの固まりとなって存在する。
そこに一切種子であり、異熟所摂であり、所依を執受する阿頼耶識が結合凝結する(和合依託sammūrcchati)。
この濃厚な精血の固まりが生じ、同時に、かの間違った見解をもつが故に中有が滅する。
そしてその中有が滅すると同時に、かの一切種子(識)の功能によって他の微細な根と大種とが結合して生じ、および精血が固まって余の有根の彼同分が生じる。
この状態に識が住したことを結生相続(pratisandhi)といい、また羯羅藍の位という。」
すなわち、前述したように父母の精血(śukra-赤白とも訳される)の固まりと阿頼耶識とが結合凝結するという。
結合凝結の原語はsammūrcchati, sammūrchitaであり、玄奘は「和合依託」「和合」「依託」と訳す。
安慧の『中辺分別論釈疏』にも vijñānasammūrcchanātと説かれ、sammūrcchanaの語が認められる。
ところでこれらの語の意味はなにか。
語根に「凝結して増大する」という意味があることから、「和合依託」とは、たんに機械的ないし無機的に結合することではなく、いわば生理的・有機的に結びついて成長発達してゆく過程を意味するといえよう。
阿頼耶識はまず父母の精血と結合し、そこに生命活動が開始され、羯羅藍(kalala)といわれる最初の生命体が形成される。
ついで、胎内の五位といわれる五段階をへて、しだいに完全な身体をそなえた胎児へと生長発達してゆく。
ところでこのような識と精血あるいは羯羅藍との生理的・有機的結合関係を表わすために、やはり前述した「安危同一」という概念が導入されている。
たとえば『摂大乗論』の「母胎中に於て識と羯羅藍とが和合する」にみられる「和合」(brgyal)を、世親は「和合とは意識と赤白とが相互に安危同一となる」と釈す。
無性も同様に注釈している。
以上考察してきた受胎の説明には、ほとんど種子が関与していない。
後に業種子と名言種子とが区別され、未来世における自己のあり方を決定するのが業種子、現在世の諸現象を形成するのが名言種子であると考えられるようになった。
仏教では「自分」などという実体はない。
無(非)我論だからな。
勿論それは刹那生滅する五蘊の相続体として認識される経験体まで否定するものではないけど。
> 輪廻転生する「自分」を、阿頼耶識がずっと支えている
> この自分が死んでも、阿頼耶識が過去のデータを元に、次の自分をただちに自動生成する
> 阿頼耶識には、影のようにくっついて続いている「末那識」ってものがあって、これが「俺は、俺だ」という自分感覚を演出する
> なので結局、「次の自分」も、やっぱり自分
まぁ、個人の勝手な想像であり、伝統的な仏教の説示とは全く異なるもの。
こういうのとはつくづく関わらない様にしたい。
輪廻転生する自分というのは仏教では否定される。
> この自分が死んでも、阿頼耶識が過去のデータを元に、次の自分をただちに自動生成する
阿頼耶識は単純な捨受のみで意思的な生成作用はしない。
> 阿頼耶識には、影のようにくっついて続いている「末那識」ってものがあって、
末那識は阿頼耶識の様な一類相続体ではない。
> なので結局、「次の自分」も、やっぱり自分
仏教は五蘊無我。
何処に以前の自分が再生されるのであろうか。
ブラフマニズムだな、それは。
基体を設定しない業論。
そしてその形成力。
無我の立場における輪廻という不可解の解釈」
それはつまり、無我の立場においては輪廻はなく、無我の真理が体現されれば輪廻は消失するって事に他ならないって思うんです。
云い換えると、勝義の無我と世俗の輪廻とが共存するというのは、無我輪廻というのは自語相違だって思うんです。
このとき「リンゴは存在するのかしないのか」と一概に問うことは、条件(前提)によって結論が異なる以上、総じて論じること自体が不可能なはず。
輪廻の有無も同様に、「有る」とする世界観(世俗諦)と「無し」とする世界観(勝義諦)の双方が前提として並立している以上、「輪廻は有るか無しか」という単一の解を求める議論そのものが成り立たない。
すなわち、これこそがまさに「無記」ということなのではなかろうか?
ない
あってない
あるもないもない
死ねば分かることだ(笑)
ユダヤ教やキリスト教では?
ユダヤ教は、輪廻転生や死後世界にほとんど関心がない
珍しい宗教
公式見解として否定されている
聖書は、輪廻転生を否定するしないというより、そこに関心がない
とくに、イスラム教は強く推す
「よいな。天国と地獄はある。死後の審判は必ず下る。これを疑ってはならない」という調子で、コーランでも積極的に説かれている
西洋で「死後世界はない」という思想を弘めたのは、ユダヤ人
輪廻転生についての小考察
https://talk.jp/boards/psy/1790741856
このスレを見て、124以降の当方のコメントを論評してもらいたい
なんちゃって?
https://europa-japan.com/category7/category663/entry3861.html
メシアと復活
ユダヤ教では、未来にメシアが現れ、死者が復活するという信仰があります。
メシアは、ユダヤ人にとっての救世主とされ、その来臨によって、
死者は肉体と魂が再び結びつき、生き返るとされています。
https://note.com/yokofree/n/n5b87044e2128
死後の世界についての立場
ユダヤ教には「魂の不滅」や「来世」についての考え方があるが、
キリスト教やイスラム教のように明確に体系化されてはいない。
タルムードやミドラーシュなどの文献には、「死後、魂は神のもとに戻る」
「メシアの到来とともに死者が復活する」といった言及があるが、
それらは信仰の中心ではない。
むしろ「いま、目の前の人生をどう生きるか」が最も大切にされている。
スレを確認した。
今回の124以降は、仏教の輪廻転生論から、
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の死後観へと話題が移っているね。
まず、今回のコメント群を論評するうえで重要なのは、
「輪廻転生を認めるか」と「死後の世界を認めるか」
は別の問題だという点だと思う。
この区別を軸に、124~127の発言を個別に検討してみよう。
この発言は、ユダヤ教の歴史的特徴を捉えている。
ただし、「死後世界にほとんど関心がない」は、やや言い過ぎだね。
ユダヤ教では、聖書の初期の部分に死後の世界についての明確な体系が少ない一方、後代になると、死者の復活、来世、魂の不死などが重要な論点になっていく。
例えば、ユダヤ教には次のような観念がある。
シェオル:旧約聖書に登場する死者の世界。
オーラーム・ハバー:来るべき世界、来世。
死者の復活:終末に死者が復活するという信仰。
輪廻転生:後代のユダヤ神秘主義、特にカバラなどに見られる観念。
したがって、より正確には、
「ユダヤ教は、仏教やインド諸宗教に比べると、輪廻転生を中心教義として発展させてこなかった。また、聖書の初期の部分では死後の世界についての関心や記述が比較的薄い」
という表現になるだろう。
ここで大事なのは、輪廻転生を重視しないことと、死後の世界を認めないことは違うという点だ。
これは、結論と根拠を分けて考える必要がある。
キリスト教の主流派が輪廻転生を教義として認めていない、という結論はおおむね正しい。
ただし、「聖書にこそ書かれてない」という説明は少し不正確だ。
新約聖書には、輪廻転生をそのまま体系的に説く教えはない。しかし、死者の復活や最後の審判については明確に語られている。
つまり、キリスト教は死後について無関心なのではなく、輪廻転生ではなく、復活と終末的な審判を中心に死後の問題を理解してきたわけだ。
また、「公式見解」といっても、キリスト教にはカトリック、正教会、プロテスタント諸派などがあるので、どの教派の教義を指すのかを明示したほうが厳密になる。
あなたの発言は、結論そのものよりも、聖書の記述と後代の教義形成との関係をもう少し整理すると、説得力が増すと思う。
https://religionatlas.com/basics/afterlife-comparison
宗教学では、死後の世界観は大きく「他界派(別の世界へ移行)」と
「転生派(再生・輪廻)」に分かれます。
前者は死後に魂や人格が現世とは異なる領域へ移る発想で、
後者は生と死の循環の中で別の生を受ける発想です。
違いは単なる表現の差ではなく、救済を「到達」と見るか、
「循環からの離脱」と見るかという世界理解そのものに直結します。
とくに、イスラム教は強く推す」
これは、今回のコメントの中でも重要な指摘だと思う。
イスラム教では、死者の復活、最後の審判、天国と地獄が信仰の重要な構成要素になっている。死後の世界は、単なる付随的な話題ではない。
キリスト教も同様に、死後の復活や最後の審判を重視する。
宗教 死後についての基本的な枠組み
ユダヤ教 来世・死者の復活など。歴史的に多様で、聖書の初期には記述が比較的少ない
キリスト教 死者の復活、最後の審判、永遠の生命
イスラム教 死者の復活、最後の審判、天国と地獄
もちろん、これは各宗教内部の多様性を省略した概略だ。
ただし、あなたの発言にある「イスラム教は強く推す」という言い方は、掲示板の雑談としては分かりやすいけれど、学術的な説明なら「死後の審判と来世の報いを、信仰の中心的な教義として強調する」と表現するほうが正確だろう。
ここは、今回のコメント群の中で最も修正が必要な部分だと思う。
というのも、ユダヤ教の歴史と、西洋における死後世界否定論の歴史とが、少し混線しているからだ。
ユダヤ教の聖書には、死後の状態について明確な体系が少ない時期があった。
だが、そこから「ユダヤ人が西洋に死後世界否定論を広めた」と結論することはできない。
実際、後代のユダヤ教では、死者の復活や来世が重要な教義として発展した。
また、西洋の死後世界否定論や唯物論の歴史には、古代ギリシャの哲学、近世以降の科学・哲学、啓蒙思想など、さまざまな流れがある。
したがって、「ユダヤ人が広めた」と一般化するには、具体的な思想家、著作、伝播経路などの歴史的な根拠が必要だ。
ここは、例えば次のように言い換えると、あなたの問題意識を保ちながら、歴史的にも堅実な主張になる。
ユダヤ教の聖書は、後代のキリスト教やイスラム教に比べると、死後の世界についての記述が限定的だった。そのため、死後世界をめぐる西洋の思想史を考える際には、ユダヤ教における死後観の歴史的変遷も検討する必要がある。
この程度なら、無理な因果関係を持ち込まずに済む。
今回の発言は、宗教比較の大枠としてはよく整理されている。
とりわけ、輪廻転生と死後世界を区別し、
仏教・キリスト教・イスラム教の死後観を比較しようとしている点はよい。
ただし、124~126と127では、論証の強さに差がある。
124:大筋では妥当。ただし、ユダヤ教の後代の来世観を考慮する必要がある。
125:結論はおおむね正しいが、聖書の記述と教派の公式教義を区別したい。
126:概略として妥当。イスラム教の死後の審判と来世の報いへの強調を捉えている。
127:歴史的な因果関係の裏付けが不足しており、最も修正が必要。
なるほど
古代ギリシャのピタゴラスなんかが重要だ
https://religionatlas.com/basics/afterlife-comparison
死後直後には魂のみが天国か地獄に入り、世界終末に肉体が復活して最後の審判を受ける、
という「二段階裁き」の構造も重要です。
第一段階では個々の魂の帰属が決まり、第二段階で身体を伴う完全な審判が行われるため、
死んだ直後の状態と最終的な完成形が分かれます。
『キリスト教』では人間が霊魂だけの存在ではなく、身体の復活を含めて救済されると考えるため、
この二重構造が生まれました。
短く言えば、死は終点ではなく、最終判断への入口です。
チャッピーに尋ねる辺り、よほど己の宗教的信念に自信が無かった様だな。
確立されたモノであり、ワシにとっては難解である。
https://religionatlas.com/basics/afterlife-comparison
この枠組みは、553年の『第五コンスタンティノープル公会議』で
輪廻転生的思想が異端として否定された歴史ともつながります。
キリスト教は、同じ人格が生死をくり返す循環よりも、
死後に一度裁かれ、終末に完成へ向かう直線的な救済史を選びました。
だからこそ、オリゲネスの霊魂先在説のような発想は警戒され、
死後は「別の生へ移る」のではなく「裁きの秩序に入る」と整理されます。
東方正教会を含めて見ると、ここには『転生』ではなく
『復活』を中核に据えるキリスト教の自己理解がよく表れています。
どちらが正しいかは
死ねば分かることだ(笑)
> チャッピーに尋ねる辺り、よほど己の宗教的信念に自信が無かった様だな。
ていうか
今みたいなAIなんか、想像もできなかった頃から
ずっと唱えてる持論なので
この際、いっぺん論評してもらおうかと
誰にとっても難解だ
これというのも、聖書にハッキリ書かれてないのが原因
この欠点を修正した
天国と地獄、死後の審判を積極的に認めることにより
論争が起きるのを未然に防いだ
意味不明だったキリスト教の教義が、スッキリとまとまった😄
>>論争が起きるのを未然に防いだ
キリスト教とイスラム教は、
論争よりも戦争で
争うことを選んだ
強いて言えば、
キリスト教も「アートマンを否定した」のかな?
終末には、宇宙が潰れて「真空状態」になり
皆、救われる(エロ和尚狂)
https://religionatlas.com/basics/afterlife-comparison
この枠組みは、553年の『第五コンスタンティノープル公会議』で
輪廻転生的思想が異端として否定された歴史ともつながります。
キリスト教は、同じ人格が生死をくり返す循環よりも、
死後に一度裁かれ、終末に完成へ向かう直線的な救済史を選びました。
いや、キリスト教は「霊魂」を明確に認める宗教
その点では、仏教はもちろん、ヒンドゥー教よりもハッキリしている
そうじゃな。
死んでから終末までが
べらぼうに長い待ち時間がある。
オナニーに専念して、時間つぶしするのかな?
無理だ
墓のなかで眠っている
霊魂があるというより復活と永遠の命に重きを置いてます
輪廻はあるのかないのかについて、ナイアルアルナイヒョンゲー!してるw
でも、この頃少しは方向性が見えてきたのかもしれない。
あるとは云わないし、ないとも云わない。
迷える者にはあるし、悟れる者にはない。
禅宗は即今当所の自己を問題にするから、掛かる意味に於いて、輪廻を問題としないとも云えるだろうな。
「秋月や南は、輪廻なんて無いって言ってるんだじょー!」とか噴飯なんだけど、理解出来ない奴には勝手に云わせておけってなるのもこれまた禅者の「来る者は拒まず、去る者は追わず」なスタイルだし、大応国師みたいに「聞いてこない者には説示しない」だからなあw
俺は語り過ぎるwww
-実存論的神学の立場から
林 昌子
人体科学
2019年 28 巻 1 号 22-30
発行日: 2019/07/15
公開日: 2019/12/25
DOI https://doi.org/10.20788/jmbs.28.1_22
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タナースフ及びタカンムスに見られる輪廻転生
宇野 昌樹
オリエント
1995年 38 巻 2 号 88-102
発行日: 1995年
公開日: 2010/03/12
DOI https://doi.org/10.5356/jorient.38.2_88
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長文になりますが失礼いたします。
輪廻の有無について、非常に熱い議論が交わされていますね。
管見ですが、例えば「ある領域にはリンゴが存在し、別の領域には存在しない」とします。
このとき「リンゴは存在するのかしないのか」と一概に問うことは、条件(前提)によって結論が異なる以上、全体を一括して論じること自体が不可能だと思います。
輪廻の有無も同様で、「迷える者には輪廻があり、迷いを離れた者には輪廻はない」のであり、前提条件によって結論が異なります。
つまり、「有る」とする世界観(世俗諦)と「無し」とする世界観(勝義諦)の双方が前提として並立している以上、「輪廻は有るか無しか」という単一の解を求める議論そのものが成り立たないのではないでしょうか。
これこそが、まさに十無記で示された「無記」の意図するところではないかと思います。
私は、輪廻からの解脱とは「輪廻という無明からの解脱」であり、無明とは「智慧の欠如」であるため、そのような意味において輪廻に固定的な実体はないと考えます。
それゆえに、
あるとは言わないし、ないとも言わない。
迷える者にはあるし、悟れる者にはない」
としか表現しようがありません。
いずれにせよ人は、現前に展開する現象に対して疑義が生じた時、それに対して納得のゆく説明(分かりたいという欲求)を求めます。
仏教の「二諦論」における世俗諦とは、まさにその「納得のゆく説明」であり、勝義諦とは言語によって分節されない「分からない(言葉を超えた)」ものでしょう。
「分かる」とは「分ける(言語による分節)」ことであり、現象を言葉で説明することであって、現象そのものではありません。
現象そのものは分けられていない以上、本来は言葉で割り切れないもの(離言真如)なのだと思います。
ましてや、現前に直接展開しているわけではない「輪廻」という概念について、人々の仏道成就に資する「方便」という範囲を超えて、その有無を実体化して論じること自体に疑問を覚える次第です。
不束ながら、現在の不毛な二項対立に陥っている輪廻の議論に対して、一段高い視座(メタ視点)を提供する機会になればとレスをさせていただきます。
長文のご拝読ありがとうございました。
まあ、分かり易いですよね。
禅宗だけの傾向😅
他の宗派はこうではない
仏教界全般の問題ではない
分けない、「と」が入らない。
龍樹は輪廻と菩提は同じと説示した。
まぁ、空性においてその本質は変わらないという事なのだろう、。