"Bho Nāgasena, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti. "Āma, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti. "Kathaṃ, bho Nāgasena, na ca saṅkamati paṭisandhati ca? Upamaṃ karohī" ti. "Yathā, mahārāja, koci puriso padīpā padīpaṃ padīpeyya, kiṃ nu kho so, mahārāja, padīpo padīpamhā saṅkanto" ti. "No hi, bhante" ti. "Evam eva kho, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti. (PTS版(Milindapañha, p. 71, lines 16–24))
ここではその問題を含め、輪廻転生の問題について呟かせて貰います。
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現在タイやスリランカ等に伝わる南伝仏教では、輪廻転生からの解脱を説きます。 しかしこれを、バラモン教的な教理と同一視されてる方が散見されますが、南伝仏教は北伝同様無我論であり、その輪廻転生説は業論で、バラモン教のそれとは別次元なのですが。 なぜこの様な勘違いが起こるのでしょうか?
しかし、初期仏典を見る限り、お釈迦さまが輪廻転生を説かれていた事は否定し難い事実であり、この矛盾をどう解くかについていろいろと意見が交わされて来ました。
まぁ、ザックリ云うと阿頼耶識縁起はその輪廻転生説と相性が一番良いかも。
"Āma, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti.
"Kathaṃ, bho Nāgasena, na ca saṅkamati paṭisandhati ca? Upamaṃ karohī" ti.
"Yathā, mahārāja, koci puriso padīpā padīpaṃ padīpeyya, kiṃ nu kho so, mahārāja, padīpo padīpamhā saṅkanto" ti.
"No hi, bhante" ti.
"Evam eva kho, mahārāja, na ca saṅkamati paṭisandhati cā" ti.
(PTS版(Milindapañha, p. 71, lines 16–24))
「敬愛するナーガセーナよ、[何ものも]移り行くことなく、しかも再生するのでしょうか?」
「その通りです、大王よ。[何ものも]移り行くことなく、しかも再生するのです。」
「敬愛するナーガセーナよ、どのようにして移り行くことなく再生するのでしょうか。比喩をつくってください。」
「大王よ、例えばある人が、一つの灯火から[別の]灯火に火を点けたとします。大王よ、その灯火は[前の]灯火から移り行ったのでしょうか?」
「いいえ、尊者よ。」
「大王よ、まさにそのように、[何ものも]移り行くことなく、しかも再生するのです。」
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 14:55
ありがとうございます。 仰る通りで、ブラフマニズムでは、例えば Vāsāṁsi jīrṇāni yathā vihāya navāni gṛhṇāti naro 'parāṇi | tathā śarīrāṇi vihāya jīrṇāny ānyāni saṁyāti navāni dehī 「人が古くなった衣服を脱ぎ捨てて、新しい別の衣服を着るように、身に宿る者(アートマン/魂)は、古くなった身体を脱ぎ捨てて、新しい別の身体へと入っていく。 (『バガヴァッド・ギータ』(Bhagavad Gītā )2:22) とあり、「身に宿る者(Ātman)」とありますが、仏教は無我論(anātman)なのに、一体南伝仏教の何処がブラフマニズムなのか理解に苦しんでおります。
> 「私が世尊(ブッダ)の説かれた教えを理解している限りでは、まさにこの同じ識(意識)が走り回り、生まれ変わり(輪廻)を行っているのであり、他のものではない。」
> 「[友よ、その識とは]話す者であり、経験する者であり、あちこちで善悪の行為(業)の果報を経験する者のことです。」
> 「愚か者よ、お前は一体誰に向かって、私がそのように教えを説いたのを聞いたというのか? 愚か者よ、私は多様な方法で『識は縁(条件)によって生じるもの』であり、『条件なしには識の発生はない』と説いてきたではないか。」
そもそもお釈迦さまは識が輪廻転生の主体って言ったサーティ比丘に激おこだったしw
それが瑜伽行唯識学派でいうその者の人生の始まり、
さん
2026/9/30 22:33
あなたは自分が言っていることの意味を本当にわかっているのだろうか? テーラワーダ仏教の教義である輪廻転生が本当にあり、輪廻転生から解脱することが仏教の目的だと言うことは臨済宗の見性成仏は嘘だと言っているのですよ。
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 22:38
輪廻転生からの解脱と見性成仏は矛盾しませんけど、大丈夫ですか?
さん
2026/9/30 23:03
坐禅和讃に「衆生本来仏なり」とあるように、私達は本来的に輪廻転生するような性質のものではない仏である。 だから臨済宗の教義と輪廻転生は両立しません。
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 23:10
本来仏でも実際に迷うから輪廻するんでしょw
Rokuyaonさん
質問者2026/9/30 23:12
六趣輪廻の因縁は、 己が愚痴の闇路なり。 ってねw
🐙かなんかの絡みでahoo掲示板かなんかから来た何人かのうちの一人。
すぐに壊しちまった玩具だったけど、もう少し遊べば良かったかな。
あれもすぐぶっ壊しちまったけどw
「無我輪廻説」などはほとんど詐称で、「無我持続説」が言い方として真っ当である。
もっと言えば、仏教における輪廻説は、言葉の使い方を間違っているに過ぎない。
(『仏教入門』南直哉より)
しかし、仏教は違う。
釈尊も確かにヒンドゥ思想伝来の輪廻説から出発した。
ただし釈尊の問題は、そうした輪廻転生の生死──「生」と「死」でなく、一息に「生死」──の苦からの解脱にあった。
釈尊は菩提(悟り・覚)によって仏陀(悟った人・覚者)となって、生死を解脱した。
だから、悟ったのちの釈尊が、輪廻説などに立ったわけはない。
「後有を受けず」と宣言したゆえんである。
だから、「輪廻」の説は、あくまで仏教の前提としてのヒンドゥ教説であって、厳密な意味では仏教説ではない。
(秋月)
仏教は確かに「輪廻」転生の説を前提として説かれてきた。
それは事実である。
だからといって、輪廻説は仏教説であるとはいえない。
輪廻を信じない私のような仏教徒もいる。
ただし──すでに述べたように、覚者(仏陀)と成った釈尊は「私はもう再生しない」(「後有次生の存在を受けず」)と宣言された。
悟って輪廻の生死を解脱したのだから、もはや六道のどこにも再生しない、というのである。
そうした釈尊の仏法には、本来「あの世」などあるはずがない。
こうした釈尊の「覚」の立場から頽落したときにだけ、「あの世」が(次生が、後世が、そして前世が、すなわち三世が)問題になってくるのである。
だから、禅者としての私は、「即今・此処・自己」しか問題にしない。
「即今・此処・自己」という、実存の「絶対現在」(永遠の今)に立つ禅者にとって、「あの世」は問題にならない。
したがって、「前世も後世も」問題にならない。
「生死」は、ただ「刹那の生死」だけですんで、「一期の生死」を考える必要はない。
提示されたテキストから読み取れる秋月氏の「輪廻転生観」は、「輪廻説は仏教固有の教えではなく、悟り(解脱)によって超克・否定されるべき前提に過ぎない」という立場です。
具体的には、以下の3つのポイントに要約できます。
* 輪廻説はヒンドゥー教の前提であり、本来の仏教説ではない
釈尊(ブッダ)は古代インドのヒンドゥー教的な輪廻説を出発点としたものの、悟りを開くことで生死の苦から解脱しました。「後有を受けず(二度と迷いの世界に生まれ変わらない)」と宣言した以上、悟った後の釈尊や本来の仏教において、輪廻や「あの世」は肯定されるものではないとしています。
* 輪廻や「あの世」が問題になるのは悟りから退落した状態
前世・後世・あの世といった「三世」の存在を意識したり問題にしたりするのは、釈尊の悟り(覚者)の立場から離れてしまっている(頽落している)からに過ぎないと考えています。そのため、秋月氏自身も「輪廻を信じない仏教徒」であると明言しています。
* 禅者として「絶対現在(即今・此処・自己)」を生きる
一 lifetime(一期)を通じた生まれ変わりを考える必要はなく、解脱の立場に立つ禅者としては「即今(たった今)・此処(この場所)・自己(自分自身)」という実存の「絶対現在(永遠の今)」だけを問題とします。生死とは一瞬一瞬(刹那)の生と死だけで完結しているという視点です。
まとめ
秋月氏の輪廻転生観は、「輪廻やあの世は悟りによって超え去られるべき旧来の観念であり、真の仏教(禅)の本質は、過去や未来(前世・後世)に囚われず『今・ここ・自分』という瞬間に徹して生きることにある」という徹底した絶対現在の立場です。
つまり、二見(常見・断見)を離れてるという事だな、