法華経を読もう最終更新 2026/09/11 09:241.夕ENGHi天台教学とは関係なく純粋に法華経を読もう。2026/08/29 23:09:58327コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.リダン◆3y/i8XtGLYi8I8q法華経の出来事は三昧の内容であるようは夕が多宝如来であり釈迦2026/08/29 23:29:573.◆JBLfMwCXhYfd7O1>>2やめとけ(笑)2026/08/29 23:33:484.リダン◆3y/i8XtGLYi8I8q>>3暇なんだよ、酒のつまみだ2026/08/29 23:37:235.リダン◆3y/i8XtGLYi8I8qようは真如→如来、如是→有為法という我々の現れを虚空会で描写してんのよ定なりやってりゃ気がつく2026/08/29 23:41:066.リダン◆3y/i8XtGLYzx86bしかも、三昧、定により智顗は虚空会に参加したこれは法処所摂色の定所引色で説明がつく2026/08/30 00:00:297.リダン◆3y/i8XtGLYzx86bつまり「目で普通に見える外界の物体」と同じカテゴリーに置く必要がないようは虚空会が歴史的事実である必要はない2026/08/30 00:02:428.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b法処所摂色とは唯識の走りで瞑想中に糞リアルな死体か現れるんだけど!(修行で死体をみることがある)想像とかではなくて色として現出するので心にも対象があるのでは?というきっかけ2026/08/30 00:07:549.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b瞑想中に糞リアルな死体か現れるこの定所引色、定果色が現れるまで定、瞑想をしてないとちょっと理解が及ばない2026/08/30 00:09:1710.リダン◆3y/i8XtGLYzx86bということで法華経の虚空会は奇想天外の荒唐無稽ではなく智顗のように定でリアルタイム参加が可能である2026/08/30 00:15:0111.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b法華経は頭で定義をこねくりまわすと遠回りだゾ2026/08/30 00:20:5012.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b仮名(虚空会の自性ではなく縁起の現象)であって、何も比喩に落とすこともない素直に受け取ってよし2026/08/30 00:25:4813.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b智顗及び日蓮は、その虚空会を現前にすることが出来ない層、いわば識字率の問題と定の問題がある在家に向けた、円融や当体蓮華というパッケージの発明が素晴らしいということ万人に再現性がある2026/08/30 00:35:1514.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b法処所摂色という特殊な体験を必要としない方法論だな2026/08/30 00:37:2915.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b智顗に円融が、日蓮にお題目が必要か?実は必要ではないんよね誰が必要か、凡夫が必要なパッケージ2026/08/30 00:40:1116.リダン◆3y/i8XtGLYzx86bまあ、法介のように果報の当体蓮華でもいいんだがなんなら智顗のように虚空会リアルタイムオフ会をやりたい2026/08/30 00:52:0417.リダン◆3y/i8XtGLYzx86b日蓮宗や創価は法華経を信じることは難しいと言うが素直に受け取ればよい2026/08/30 01:09:1118.夕smvKa見宝塔品第十一の概要釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった。要約するとこういことである。多宝は過去法華経で悟った仏である。娑婆世界で法華経を唱えているのは釈迦である。多宝は法華経を説く者があれば証明しようと現れた。※私が感じるのは、法華経はよく法を説くと言われている。この辺がそのいわれの根拠なのか仏よりも法が先みたいな。多宝は「釈迦の不二の法」を証明するために現れる比縁性とは順縁、逆縁が混ざっている。不二の始まりである。釈迦そのものが不二である。その不二を証明する為に、多宝があらわれたともいえる。此があれば彼がある(順縁)此がなければ彼がない(逆縁)此が生じれば彼が生じる(順観)此が滅すれば彼が滅する(逆観)2026/08/30 06:05:4519.夕smvKa二仏並坐は「仏が重なる」のではなく、法が重なる(法が自己証明する)という構図として読む方が合っているように感じる2026/08/30 06:09:4420.夕smvKa宝塔品(法の二重提示)過去の法(多宝)現在の法(釈迦)法が自らを証明する構造2026/08/30 06:14:4421.◆JBLfMwCXhY10W6W法華経の内容は、額面通りに受け取るのが正しい何かの象徴(坐禅していて見えたビジョンとか)と解釈するのは邪道2026/08/30 06:15:4922.◆JBLfMwCXhY10W6W>>18見宝塔品が好きですな~確かに、法華経でも最も印象的な場面のひとつ2026/08/30 06:27:2923.◆JBLfMwCXhY10W6W石原慎太郎は、地面が割れて地涌の菩薩が一斉に現れるシーンが好きだった霊友会の小谷喜美から「どの品が好きか?」と問われて、そう即答したという2026/08/30 06:28:4624.◆JBLfMwCXhY10W6W二仏並坐(にぶつびょうざ)とは、『法華経』の「見宝塔品(けんほうとうほん)」に基づき、釈迦如来と多宝如来が宝塔の中で並んで座る情景、およびそれを表した仏像(二仏並坐像)のことです。『法華経』の説話: 釈迦が説法をしているとき、大地から巨大な宝塔が湧き出ました。中から多宝仏が現れ、自分の隣の半座を空けて釈迦を招き、共に並んで座ったとされる奇跡の場面です。教えの証明: 過去の仏である多宝仏が現在の仏である釈迦の説法が真実であると証明する、法華経の重要な象徴的場面です。2026/08/30 06:30:5625.◆JBLfMwCXhY10W6W中国・北魏時代: 5世紀後半の雲岡石窟をはじめ、中国では北魏時代を中心に信仰を集め、多くの金銅製の二仏並坐像が造られました。https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEigB73235TWx3J3iiBdv5Xf94wSLwoEh2slZoG1T5bSPmSM_D1_TddVT652Ar7SOI6Om4rRTnhHEvlOdqA8vSG5f6m_RwtGIzVvzI07LZ3uS7k3ImBfs2FZlTbRwrwX20XP37u_/s400/I3-103.jpghttps://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjnToMBW4ztSndUivmvrmcH-87w6Jg2dz-HdJUTdjyC_sqkrZenZYupwLSaPv4UxgTy0-Lu5Jdgx1j5eiTxPfiqABV2K-jGeWZ1TTCucSw_SJxJ72eBpQoineStJFE6kyLx5iyM/s400/09IMG_7534.jpg2026/08/30 06:34:0726.◆JBLfMwCXhY10W6W日本での作例: 日本でも奈良時代の長谷寺にある「銅板法華説法図」などにその古例を見ることができます。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Hokke_Sesso_Bronze_Plaque_Hasedera.JPG/960px-Hokke_Sesso_Bronze_Plaque_Hasedera.JPG?utm_source=ja.wikipedia.org&utm_campaign=parser&utm_content=thumbnail2026/08/30 06:36:1527.◆JBLfMwCXhY10W6W二仏並坐像https://stat.ameba.jp/user_images/20170713/14/gokokuji5594/c6/20/j/o0551064013981470550.jpg?caw=8002026/08/30 06:37:1828.夕smvKa>>22見宝塔品が好きというより、法華経との出会いが特殊だったんだよね。創価学会と正宗の知人がいて、そこから法華経を読むことになった。現代語訳を読んで、一度は離れたんだけど、道元も法華信者だったと知って読み直している。今は漢文を拾ってAIに訳させながら読んでいる。声に出して読むのもいいかなと思っている。今日、座布が届くから、しばらく坐ってみるつもり。宝塔品については、過去仏(多宝)が現法(釈迦)を証明する構図が面白い。過去法が現法を証明するというのは、法が法を照らす、法が法を証明するという自己証明の構造だと思っている。仏が重なるというより、法が重なるという感じで読んでいる。2026/08/30 07:03:3829.夕smvKa此宝塔中。有如来全身。乃往過去。東方無量千万億。阿僧祇世界。国名宝浄。彼中有仏。号曰多宝。其仏本行菩薩道時。作大誓願。若我成仏。滅度之後。於十方国土。有説法華経処。我之塔廟。為聴是経故。涌現其前。為作証明。讃言善哉。この宝塔の中には如来の全身がまします。その如来は、はるか過去の東方、無量千万億阿僧祇の世界にある「宝浄」という国の仏で、多宝如来と名づけられる。この仏が菩薩であった時、大いなる誓願を立てた。「もし私が成仏し、滅度した後で、十方のどこかの国土において法華経を説く者があれば、私はその者の前に塔廟を湧き出させて現れ、その教えが真実であることを証明しよう。そして『善いかな、善いかな』と讃嘆しよう。」2026/08/30 08:07:2030.夕smvKa彼仏成道已。臨滅度時。於天人大衆中。告諸比丘。我滅度後。欲供養。我全身者。応起一大塔。其仏以神通願力。十方世界。在在処処。若有説法華経者。彼之宝塔。皆涌出其前。全身在於塔中。讃言善哉善哉。大楽説。今多宝如来塔。聞説法華経故。従地涌出。讃言善哉善哉。その仏(多宝如来)は成道したのち、滅度に臨んだ時、天人をはじめとする大衆の前で比丘たちにこう告げた。「私が滅度した後、もし私の全身を供養したいと思うなら、大きな塔を建てるがよい。」その仏は、神通と誓願の力によって、十方世界のどこであっても、もし法華経を説く者がいれば、その者の前に宝塔が湧き出て現れるようにした。その塔の中には多宝如来の全身があり、『善いかな、善いかな』と讃嘆するのである。今まさに、多宝如来の塔は、釈迦が法華経を説いているのを聞くために、地中から湧き出て現れ、『善いかな、善いかな』と讃嘆しているのである。2026/08/30 08:14:0131.夕smvKa是時大楽説菩薩。以如来神力故。白仏言世尊。我等願欲。見此仏身。その時、大楽説菩薩は、如来の神通力によって立ち上がり、 釈尊に申し上げた。「世尊よ。私たちは、どうかこの多宝如来のお姿を拝見したいと願っております。」仏告大楽説菩薩摩訶薩。是多宝仏。有深重願。若我宝塔。為聴法華経故。出於諸仏前時。其有欲以我身。示四衆者。彼仏分身諸仏。在於十方世界説法。尽還集一処。然後我身。乃出現耳。大楽説。我分身諸仏。在於十方世界。説法者。今於当集。仏(釈尊)は、大楽説菩薩摩訶薩に告げられた。「この多宝仏には深く重い誓願がある。 もし私の宝塔が、法華経を聴くために諸仏の前に湧き出て現れる時、 もし四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)に 私の姿を示したいと願う者がいるならば、 まず私の分身である諸仏が、 十方世界で説法しているのをすべて一か所に集めなければならない。 その後になって、ようやく私の身は塔の中に現れるのである。」「大楽説よ、 今まさに、十方世界で説法している私の分身諸仏は、 すべてこの場に集まっている。」2026/08/30 08:30:3332.夕tX023いや、現代語訳をして、aiと会話していると吸い込まるね。次はどうなるのかってね。お経を読んで面白と思ったことはなかった。面白いねw坐布が来た。私は、坐禅と法華経にするわ。この頃暗記力は今三www2026/08/30 13:36:0633.夕tX023大楽説。白仏言世尊。我等亦願。欲見世尊。分身諸仏。礼拝供養。「世尊よ、私たちもまた願っております。 どうか、世尊の分身である諸仏のお姿を拝し、礼拝し、供養したいのです。」爾時仏放。白毫一光。即見東方。五百万億。那由他。恒河沙等。国土諸仏。彼諸国土。皆以頗黎為地。宝樹宝衣。以為荘厳。無数千万億菩薩。充満其中。張宝幔。宝網羅上。彼国諸仏。以大妙音。而説諸法。及見無量千万億菩薩。満諸国。為衆説法。南西北方。四維上下。白毫相光。所照之処。亦復如是その時、仏(釈迦)は白毫相から一筋の光を放たれた。 すると、東方の五百万億・那由他・恒河沙ほどの数の国土にいる諸仏の姿が見えた。それらの国土はすべて頗梨(クリスタル)の地でできており、 宝の樹や宝の衣で荘厳され、 無数千万億の菩薩たちが満ちていた。 宝の幔(とばり)が張られ、宝の網が上にかけられていた。その国々の諸仏は、妙なる大音声で諸法を説いており、 また無量千万億の菩薩たちが国々に満ちて衆生に法を説いていた。南・西・北・四隅・上下の諸方も同じで、 白毫相の光が照らすところはすべて、 東方と同じように荘厳された国土と諸仏・菩薩の姿が現れた。2026/08/30 13:40:3534.神も仏も名無しさんvMBDsお、知らん間にこんなスレをまー天台マスター目指せ😀2026/08/30 17:22:0535.神も仏も名無しさんvMBDsスコラ哲学魔王エナジー状態だこちらは😀2026/08/30 17:22:3136.神も仏も名無しさんvMBDs便利なまともそうな動画で学習なかあー😀2026/08/30 17:23:0337.夕k4hkY>>34そこまでわねwチョット法華経にこだわってみようかなってね。2026/08/31 04:48:2438.神も仏も名無しさんCVpPzやっぱり夕は天台、華厳、真言あたりの空間認識が不足しているな、無関係に見えてなんか、禅ぽい夕にレスしていた人もその面で鈍い😅2026/08/31 06:05:5639.夕HD6J5>>38>空間認識が不足しているな、無関係に見えて法界縁起ってことかな?2026/08/31 06:43:2540.神も仏も名無しさんSUOry空間認識の問題だな存在論ではない😀2026/08/31 06:49:5341.夕HD6J5爾時十方諸仏。各告衆菩薩言。善男子。我今応往。娑婆世界。釈迦牟尼仏所。竝供養多宝如来宝塔。その時、十方世界の諸仏は、それぞれ自分の周りの菩薩たちにこう告げた。「善男子たちよ。 私は今、娑婆世界へ行き、 釈迦牟尼仏のもとへ赴き、 多宝如来の宝塔をともに供養しよう。」2026/08/31 06:50:0042.神も仏も名無しさんSUOryリダンや麦は西欧哲学的ものさしで測っているから知らず知らずに毒をやつらから飲まされていたんだな感2026/08/31 06:50:4843.◆JBLfMwCXhYTe6uz天台教学マスターになるのか😅2026/08/31 06:50:5144.◆JBLfMwCXhYTe6uz>>42確かに製ウンコ派から、かなり影響を受けてるみたいだな?2026/08/31 06:51:3245.神も仏も名無しさんSUOryせんうんこ軍団はイミフな哲学を混入してるからなーさて、昨夜と今朝は山伏念仏の聖地における信仰 修行、往生について検索した、まだ、やるべき検索があったので聖地検索する😀2026/08/31 06:56:3146.神も仏も名無しさんSUOryAIで聖地検索してなかった禅定ゲット満足してたのでリアル洞察してなかった😀明治以前の奈良・大和の総本山 長谷寺(大和長谷寺)における信仰・修行内容、および独自の「往生(あの世への旅立ちと救済)」の過程について解説します。明治以前の長谷寺は、現在の真言宗としての法要だけでなく、現世利益(いま生きるための願い)と来世往生(死後の救済)がグラデーションのように結びついた、極めて独特な「聖地」として信仰されていました。🌸 1. 明治以前の信仰・修行内容明治より前の長谷寺における主たる信仰は、本尊である「十一面観世音菩薩」への絶対的な帰依です。それは主に以下の3つの形で行われていました。① 長谷詣(はせもうで)と参籠(さんろう)修行夜通しの祈願(参籠): 平安時代から江戸時代にかけて、貴族や庶民が「長谷詣」を行いました。参拝者は本堂に何日も泊まり込み(参籠)、夜通し観音経を唱えたり、灯明を捧げたりして祈りました。お告げ(夢告)を待つ: 参籠の最大の目的は、観音様から夢の中でメッセージ(夢告)をもらうことでした。これが人生の指針や救いになると信じられていました。② 女性救済の聖地罪深いとされた女性の救い: 当時の仏教観(五障三従など)では「女性は往生が難しい(あるいはそのままでは極楽に行けない)」とされる風潮がありました。しかし、長谷寺の観音様は「女性をそのままの姿で無条件に救う」と信じられ、『源氏物語』や『蜻蛉日記』に見られるように、多くの女性が命がけで参拝しました。③ 山林修行・修験(しゅげん)との習合初瀬山(泊瀬峯)での修行: 長谷寺が位置する初瀬の地は、古くから神仏が宿る霊山とされていました。僧侶や修験者(山伏)たちは、山奥の滝や断崖、周辺の霊峰を巡る過酷な山林修行を行い、観音の霊力を自らの身体に宿そうとしました。霊木と地獄の記憶:長谷寺特有の「往生の過程」長谷寺における「往生(死後に救われるプロセス)」は、阿弥陀如来の極楽浄土へ行くものとは少し異なり、「地獄・現世・浄土の境界にある初瀬の谷で、観音様の手によって直接救い上げられる」という独自のストーリーを持っています。鎌倉時代の説話集『長谷寺験記』などに基づくと、明治以前の人々が信じていた往生のプロセスは以下の通りです2026/08/31 07:00:1347.神も仏も名無しさんSUOry。💡 往生の4つのステップ[1. 死去・初瀬の谷へ] ➔ [2. 地獄の王・閻魔との対峙] ➔ [3. 錫杖による救い上げ] ➔ [4. 補陀落(観音浄土)へ往生]初瀬の谷への魂の集結古来、初瀬は「隠国(こもりく)の泊瀬」と呼ばれ、現世とあの世が繋がる「あの世の入り口(葬送の地)」と考えられていました。人が亡くなると、その魂はまず長谷寺のある初瀬の谷へ赴くと信じられていました。地獄の閻魔大王との対峙(長谷寺式十一面観音の特長)長谷寺の観音様は、右手に「地蔵菩薩」と同じ「錫杖(しゃくじょう)」を持っています。地蔵菩薩は地獄に落ちた衆生を救う仏です。人間が死後、地獄の裁判官である閻魔大王(徳道上人に三十三所霊場を開くよう命じたとされる存在)の前に引き出されたとき、長谷寺の観音様は地獄にまでその錫杖を突いて現れます。地獄・悪道からの「救い上げ」死者が生前に長谷寺へ参拝していたり、観音様の名を唱えていたり(あるいは灯明を捧げていたり)すると、観音様がその錫杖の力で地獄の業火を消し去り、死者の苦しみを取り除いて、罪人であっても直接引き上げてくれます。補陀落(ふだらく)浄土への往生観音様に救い上げられた魂は、阿弥陀如来の「西方極楽浄土」ではなく、観音菩薩の住処である「補陀落山(観音浄土)」、あるいは「長谷寺の本堂そのものが現世の浄土」として、そこに迎え入れられ、永遠の平穏を得るとされていました。📌 まとめ明治以前の長谷寺は、単なる「お祈りをする場所」ではなく、「生きていくためのあらゆる願い(現世利益)を叶えつつ、死後は地獄の縁から観音様が直接手をつかんで引っ張り上げてくれる(来世往生)」という、生死のすべてを保障してくれるワンストップの聖地として機能していました。2026/08/31 07:01:1748.神も仏も名無しさんSUOry長谷寺というのも法華経の聖地ではあるんだが修験道寄りだ😅2026/08/31 07:01:5449.夕HD6J5>>40天台の空間認識(重なり)一念三千十界互具三世間(五陰・衆生・国土)→ 法が「重なり合う」空間→ 一念の中に三千世界が折り畳まれているこれは 重層的空間。② 華厳の空間認識(貫入)事事無礙法界一即一切・一切即一帝網の重々無尽→ 法が「相互貫入」する空間→ 一つの事物が全世界と無礙に貫入し合うこれは 無限貫入空間。③ 真言の空間認識(配置)曼荼羅胎蔵界・金剛界→ 法の働きが「どこに位置し、どう流れるか」を図形化→ 法の空間的配置図これは 機能配置空間。法界縁起と言わないで、法界認識または、単純に法界?2026/08/31 07:04:3850.神も仏も名無しさんSUOry室生寺が開くまでに暇つぶしに行った室生龍穴神社のパワーに満足し過ぎて検索しなかった😀明治以前(江戸時代まで)の室生龍穴神社は、隣接する室生寺と一体の「神仏習合」の聖地として信仰されていました。当時は現在の「神社」という単独の枠組みではなく、室生寺(かつては龍王寺とも呼ばれた)の鎮守社、あるいは一体の山岳密教道場として独自の修行や往生思想が展開されていました。その具体的な信仰・修行内容、および「往生(救済)の過程」についての詳細は以下の通りです。1. 明治以前の信仰と修行内容明治以前の室生龍穴神社(当時は「善女龍王社」などと称された)を中心とする山岳信仰は、「国家的な祈雨(雨乞い)」と「南都(奈良)仏教・密教僧の先達修行」が混ざり合ったものでした。① 龍穴への参籠と般若経の転読般若堂での修行: かつて龍穴神社の境内(現在の拝殿に向かう途中の広場)には、「般若堂」という興福寺の学僧(学侶)たちが参籠(おこもり)するための堂宇がありました。経典の読誦: 僧侶たちはこの般若堂や、奥宮である「吉祥龍穴」の前にて、国の安泰や祈雨のために『般若経』をはじめとする経典を熱心に読誦・転読する山林修行を行っていました。② 密教・如意宝珠の観想修行空海と善女龍王の習合: 弘法大師・空海が神泉苑で雨乞いをした際に現れたとされる「善女龍王」が、室生の龍穴に棲むという伝説が定着しました。如意宝珠の信仰: 室生山には「空海が如意宝珠を埋めた」という妙吉祥龍穴の伝承があり、僧侶たちは龍穴を「如意宝珠(仏の智慧や功徳の象徴)」そのものと見なしました。渓流の岩窟を前に、水神の力を得ると同時に、自らの心中に仏の境地を見出す「密教的な瞑想(観想)」が極めて重視されました。③ 練行(れんぎょう)室生山は古くから興福寺(法相宗)や真言宗の僧侶が混在して修行する道場でした。俗世を離れ、21日間(三七日)にわたり五穀を断ち、龍穴の清流で身を清めながら護摩を焚き、呪術的な力を得るための過酷な「山林練行」が明治の神仏分離まで連綿と続けられていました。2. 往生(救済)の過程「往生」といえば通常は「阿弥陀如来の極楽浄土へ行くこと」を指しますが、中世から近世の室生龍穴・室生山においては、神仏習合思想(特に両部神道や御流神道)に基づいた、独自の往生・救済プロセスが説かれていました。2026/08/31 07:09:0651.神も仏も名無しさんSUOry室生における往生の過程は、主に以下の3つのステップ・思想で成り立っていました。段階1:龍穴の「胎内」に見立てた即身の擬似死(穢れの消滅)古来、風水や陰陽道において大地の気が噴き出すとされる「龍穴」は、同時に「生と死が交錯する境界(胎内)」と見なされていました。修行者や参拝者は、世俗の身を捨てて深い渓谷の龍穴(洞窟)に赴くこと自体を「一度死んで生まれ変わる(疑似的な死と再生)」のプロセスと捉えました。龍神(善女龍王)の清浄な水によって現世の罪障や穢れを完全に消滅させることが、往生への第一歩でした。段階2:如意宝珠による「浄土往生」への直結密教の神仏習合が進むと、室生の龍神は「釈迦の分身(または大日如来の法身)」である如意宝珠の守護神と同一視されます。室町時代末期から江戸時代にかけて、室生山を濫觴(発祥)の地とする「御流神道(ごりゅうしんとう)」などの教義において、龍穴での修行や灌頂(儀礼)を受けることは、「そのまま極楽往生や現世成仏(神仏との一体化)が約束される」という強力な救済論へと発展しました。龍神に守られた宝珠の功徳によって、死後は迷うことなく阿弥陀如来や釈迦の浄土へ導かれると信じられたのです。段階3:弥勒の兜率天(とそつてん)への往生への昇華室生寺の鎧坂を登ったところにある「天神社拝殿」は、龍穴神社の龍神を遥拝する場所ですが、そのすぐ近くには「弥勒堂」があります。当時の信仰では、現世の水を司る龍神(龍穴)に祈りを捧げることは、未来の救済仏である「弥勒菩薩」の信仰とも深く結びついていました。そのため、龍穴で修行を積んだ高僧や篤い信仰を持った人々は、死後に龍神の導きを経て、弥勒菩薩の待つ「兜率天浄土」へ往生するという過程をたどるとされていました。まとめ明治以前の室生龍穴神社における信仰は、単に神道的な「雨乞いの神」に留まらず、龍穴という神秘的な洞窟を舞台にした「密教修行・般若経読誦の場」でした。そしてここでの往生とは、龍穴という聖地で現世の罪を洗い流し(擬似的な死)、如意宝珠の功徳と龍神の守護によって、極楽浄土や弥勒の兜率天へとスムーズに魂が引き上げられるという、神仏が完全に融合した極めてダイナミックな救済の過程だったと言えます。2026/08/31 07:09:2952.神も仏も名無しさんSUOry室生龍穴神社の内容も調べずに行って超ウルトラゴッド化味わっのにろくに歴史を調べてなかった、今、リアルな霊的世界を知った😀2026/08/31 07:10:4753.神も仏も名無しさんSUOry龍穴まで行かないのに超ウルトラゴッドしてた前調査無しに😀2026/08/31 07:12:1154.神も仏も名無しさんSUOry日本人の法華経は天台智顗の法華経よりも山伏的な法華経が多数派だった😀2026/08/31 07:13:5055.神も仏も名無しさんSUOry室生龍穴神社みたいな信仰世界の背景には山伏的法華経がある😀2026/08/31 07:14:2756.神も仏も名無しさんSUOry室生龍穴神社では山伏的法華経のゴッド化してた調べてないのに😀2026/08/31 07:15:0657.夕HD6J5>>46🟥 最短まとめ(あなた向けに構造化)観音信仰の聖地現世利益(生きるための願い)来世救済(観音による直接救済)女性救済の中心地修験道との習合(山岳修行)夢告による個人的救い真言宗の枠を超えた民衆信仰の中心これらが 重層的に重なった“法界的な聖地” が長谷寺。※これでいいのか?2026/08/31 07:15:5558.神も仏も名無しさんSUOry>>57中国仏教や道元禅師のイメージする法華経とは別の法華経信仰が日本で流行っていた😀2026/08/31 07:18:0159.神も仏も名無しさんSUOry>>57ほーかいくん信仰の発想もこーいう世界観と大差ないやろなー色々理屈をつけてはいるが😀2026/08/31 07:20:4960.夕KgEPnふと思った以前、源氏物語は法華経の影響を受けてると聞いたことがある。するとaiは4つあるという① 長谷寺(十一面観音)と法華経の強い結びつきあなたが前のメッセージで扱ったように、長谷寺は平安期の女性たちの“救済の聖地”だった。紫式部清少納言和泉式部藤原道綱母(蜻蛉日記)彼女たちは長谷寺に参籠し、観音に祈り、夢告を受け、人生の指針を得た。長谷寺の観音信仰は 法華経(観音品)と密接。源氏物語の女性たちの救済観はこの観音信仰(=法華経的救済)と重なる。2026/08/31 07:22:3961.夕KgEPn② 源氏物語の救済観が「法華経的」源氏物語の救済は、阿弥陀の極楽往生ではなく観音による現世救済(法華経的救済)に近い。特に女性救済は、女性をそのまま救う観音(法華経)の思想と一致する。法華経は「女性成仏」を強く肯定する経典。源氏物語も「女性の苦しみと救済」が中心テーマ。2026/08/31 07:23:4962.夕KgEPn③ 空間構造が「法華経的」源氏物語の空間は、現世霊的世界夢幻物語世界仏の世界が重層的に重なっている。これはあなたが言う 法界的空間構造 に近い。法華経の宝塔品のように、現世が突然“法界化”するという感覚が源氏物語にもある。2026/08/31 07:24:5363.夕KgEPn④ 物語構造が「法華経の構造」と似ている法華経は、過去現在未来十方世界不二法が法を照らす法が法を証明するという“重層構造の物語”。源氏物語も、現実夢幻霊的世界過去の因縁来世の救済が重層的に重なる。これは 法華経的な物語構造 と非常に近い。2026/08/31 07:25:4764.夕HD6J5🟥 では、源氏物語は「法華経の物語化」なのか?これは言い過ぎ。しかし、源氏物語は法華経的世界観を物語として展開した作品というのは学術的にも妥当。特に、女性救済観音信仰空間の重層性夢告現世利益と来世救済のグラデーションこれらは 法華経的感性そのもの。2026/08/31 07:26:5465.◆JBLfMwCXhYcbeaKすごい研究だな?😄2026/08/31 07:28:3566.◆JBLfMwCXhYcbeaK文学・歴史・宗教のクロスオーバー👍️2026/08/31 07:28:5667.神も仏も名無しさんSUOry気軽に行ける念仏や修験道の聖地も検索すると流石AIだ出てくるなー😀2026/08/31 07:37:4168.神も仏も名無しさんSUOry近所&有名山伏念仏の聖地をAIに検索させてその具体的霊的なイメージが解ってきたぞ😀かなり研究進んだ2026/08/31 08:29:0569.神も仏も名無しさんSUOryほーかいくん信仰ワールドの構造もさらに見えてきたほーかいくんの屁理屈は別にして😀2026/08/31 08:34:1670.夕IimRY鎌田茂雄氏が、法華経は事事無碍に至っていない。理事無礙で終わっている。それを補ったのが天台教学であると言った。法華経だけを読んでいるとそうなのだろう。法華経=理事無礙(不二・一乗)華厳=事事無礙(法界縁起)天台=法華の理事無礙を華厳レベルまで拡張した哲学2026/08/31 10:09:3571.神も仏も名無しさんozfkI>>70その意味を理解深掘りしないままに西欧哲学発想に食われて解釈できないのが多いなにせ、日本人は兜率天往生みたいな法華経かメインだ修験道の往生思想を検索しまくってたまー俺は弥勒上生で生きているみたいに色んな情報がゲットできるらしい😀2026/08/31 10:15:2672.神も仏も名無しさんozfkIなんて、言いつつも西欧哲学研究探索をコツコツとやるプランに乗りつつあるんだがイスラム礼拝学習も合わせて😀2026/08/31 10:16:1773.神も仏も名無しさんozfkI間食ソーセージ好きなのでソーセージたべる前にしかイスラム礼拝学習はできぬ😀2026/08/31 10:17:1774.神も仏も名無しさんozfkI修験道の往生思想の霊的イメージが仕上がってきた😀2026/08/31 10:18:2875.神も仏も名無しさんozfkI日本人は明治以前は往生思想が大好きだった😀2026/08/31 10:19:0776.神も仏も名無しさんozfkI明治以降の近代化、開祖回帰の教学仏教ワールドとは別物の世界があったま、道元禅師とは別物の世界観宗教が多数やった😀2026/08/31 10:20:2777.神も仏も名無しさんozfkI日本の山伏念仏の聖地をAI検索でリサーチすれば、するほど道元禅師や中国仏教の世界観とは別物のストリームがある脳内で霊的な統合が少しずつできつつある😀2026/08/31 10:21:5878.神も仏も名無しさんozfkI日本の山伏念仏の聖地はとにかく往生できるパスポートのオプションが増殖している😀2026/08/31 10:22:5279.神も仏も名無しさんozfkI往生した世界観から今を見るみたいな道元禅師や中国仏教が考えない発想で出来上がっていると解ってきた😀2026/08/31 10:23:4680.神も仏も名無しさんozfkI源氏物語も往生した世界観からの逆算した世界観だ😀2026/08/31 10:24:2781.神も仏も名無しさんozfkI山伏念仏の聖地の信仰は往生した世界観からの逆算した世界観という確信が自分の中で確信めいてきた😀2026/08/31 10:25:2982.神も仏も名無しさんozfkIほーかいくんもいわば、その逆算の世界観の住人と言っても過言ではないだろう😀2026/08/31 10:26:5583.神も仏も名無しさんiKyO6>>71しいていうなら、事事無碍の世俗版だ源氏物語の設定は道長の時代じゃなかつたか阿弥陀さま、はやってたの?2026/08/31 11:20:4584.神も仏も名無しさんaqD4w>>88んなレベルじゃないよ長谷寺は神仏習合で現世安穏、後生善処だ源氏物語の時代は末法だから、そんなもの悟りがなきゃ事事無碍なんて語れないよ😀2026/08/31 11:40:3985.神も仏も名無しさんaqD4w長谷寺参拝一度目は神仏習合の魂が無かったから空海著作の即身成仏義読んでも薄いリアクションしかしてけれなかった帰る前に山に手を合わせたら、少しリアクションあり、次で相手してもらったよ😀2026/08/31 11:41:5986.神も仏も名無しさんaqD4w>>83んなレベルじゃないよ長谷寺は神仏習合で現世安穏、後生善処だ源氏物語の時代は末法だから、そんなもの悟りがなきゃ事事無碍なんて語れないよ😀どうせ観音の補陀落浄土か弥勒の兜率天往生とかの往生だろ、後生善処日蓮と、大差ない😀2026/08/31 11:43:5887.神も仏も名無しさんaqD4w日蓮は身延の霊山浄土だ😀2026/08/31 11:47:4288.神も仏も名無しさんaqD4w長谷寺のリアリズム信仰も日蓮もずっとわからなかった俺が中国インド仏教肌たからだエリート過ぎてわからんかった😀2026/08/31 11:49:1289.神も仏も名無しさんaqD4w仁和寺なんかは法皇信仰がなくて弾かれたかもなー三度弾かれた資金がかかるのに😭2026/08/31 11:50:1990.◆njyWqBlpsM88wM3日本土着の神仏習合が、アナザーワールドだったか?😆2026/08/31 11:50:3291.ゆうa7W1s>>86そうなにか毎日1万歩近く歩いているからふくらはぎが今温泉にいる。また後で。2026/08/31 11:51:0792.神も仏も名無しさんaqD4w興福寺は門跡信仰も春日信仰もないのに一発クリアだった😀2026/08/31 11:51:4393.神も仏も名無しさんaqD4w>>91偉いアンチエイジング努力してんな?俺は無理、既に全身ガタが😀2026/08/31 11:52:4394.神も仏も名無しさんaqD4w>>90中国インド仏教エリート過ぎて長谷寺のリアリズムがわからんかった仁和寺が三度俺を弾いて理解させてくれたよーだ😀2026/08/31 11:53:5095.神も仏も名無しさんaqD4w今さっき修験道と弥勒上生と弥勒下生の関係をAIでリサーチしてた😀2026/08/31 11:54:3896.◆njyWqBlpsM88wM391 ゆう 2026/08/31(月) 11:51:07.79 ID:a7W1sそうなにか毎日1万歩近く歩いているからふくらはぎが今温泉にいる。また後で。夕は、漢字の「ゆう」だったのかカタカナの「タ」だと思ってた2026/08/31 11:56:0597.神も仏も名無しさんaqD4w俺も金峯山寺の禅定ゲット先行なのでどうしても日蓮、浄土宗関連含めて自動的に中国仏教解釈してまうからヤツラのリアリズムがわからなくなる仁和寺に冷遇されて仁和寺の法皇信仰とか中国ではイミフなのが、やっと見えてきたよーなもん😀2026/08/31 11:56:3398.◆njyWqBlpsMfvFei夕とタの違いタは少し突き出してるな2026/08/31 18:01:0699.夕42eIM>>71宝塔品私の分身である諸仏が、 十方世界で説法しているのをすべて一か所に集めなければならない。 その後になって、ようやく私の身は塔の中に現れるのである。」「大楽説よ、 今まさに、十方世界で説法している私の分身諸仏は、 すべてこの場に集まっている。」 法華経の理事無礙とは、本体(理)と分身(事)が十方に展開しながらも、互いを妨げず同時成立する“空間構造”である。宝塔品の「十方の分身諸仏を一処に集め、本体が塔に現れる」場面がその典型。“一であり多である”は、中心(理)と展開(事)が矛盾しないことを示す。法華経は存在論ではなく空間論であり、理事無礙までを示す。事事無礙は華厳・天台の領域である。※本体と分身、事事無碍の萌芽ななのかなとしらべたら、aiが理事無礙だと言ってきた。2026/08/31 18:05:07100.夕42eIM>>98ポッタンスレにいた時、夕方にコテを考えていたので、夕にした。懐かしいなw大王と喧嘩していたw2026/08/31 18:07:24101.◆JBLfMwCXhYfvFei朝だったら、コテは「朝」になってたのか2026/08/31 18:08:25102.夕42eIM>>101どうかなw2026/08/31 18:09:20103.夕42eIM理事無礙にしろ事事無碍しろこれは、存在論ではなくて空間論であるのか?とaiにきいてみた。理事無礙も事事無礙も、存在論ではなく空間論。法華経は「理=中心軸」「事=十方への展開」という空間構造を描く。宝塔品の分身集結→本体顕現はその典型。事事無礙は華厳・天台がこの空間構造を無限貫入レベルまで拡張したもの。2026/08/31 18:12:10104.神も仏も名無しさんJYC7hそういうことだそういう基本が解ってないと麦やハッスルやムイムイとおなし処を周遊するぞ😀2026/08/31 18:14:22105.神も仏も名無しさんJYC7h俺は仏像や、この世におらん高僧から土産をもらう、それはもはや存在ではない😀2026/08/31 18:15:13106.神も仏も名無しさんJYC7h三度も土産をくれない仁和寺なんてレアケースだ早朝勤行に15回以上トライしつづけた高野山の宿坊すらあったが😀高野山は京都ほど費用はかからない😀2026/08/31 18:17:05107.夕42eIMその時、仏(釈迦)は白毫相から一筋の光を放たれた。 すると、東方の五百万億・那由他・恒河沙ほどの数の国土にいる諸仏の姿が見えた。それらの国土はすべて頗梨(クリスタル)の地でできており、 宝の樹や宝の衣で荘厳され、 無数千万億の菩薩たちが満ちていた。 宝の幔(とばり)が張られ、宝の網が上にかけられていた。その国々の諸仏は、妙なる大音声で諸法を説いており、 また無量千万億の菩薩たちが国々に満ちて衆生に法を説いていた。南・西・北・四隅・上下の諸方も同じで、 白毫相の光が照らすところはすべて、 東方と同じように荘厳された国土と諸仏・菩薩の姿が現れた。※重層化の兆し白毫相光が十方を照らし、東方と同じ荘厳世界が南・西・北・四隅・上下にも現れる。これは明らかに 空間の重層化。つまり、理(光)が十方の事(国土)に同じ構造を同時に顕すこれは 理→事の重層化であり、法華経はすでに「重層化」を始めている。2026/08/31 18:29:46108.夕42eIMそれでも事事無碍じゃないんだよな。2026/08/31 18:30:57109.夕42eIM 無碍 まちがい 無礙 です2026/08/31 18:32:00110.神も仏も名無しさんJYC7h仏陀の悟りの力で世界を覆うというのが理事無礙やろ念仏な日蓮宗やら山伏は自動的にこのゾーンやれる😀2026/08/31 19:46:09111.神も仏も名無しさんJYC7h仏陀の悟りの力がセンターにあるということや😀2026/08/31 19:46:41112.神も仏も名無しさんJYC7h日蓮やほーかいくんの一念三千という一念とは仏陀の悟りの力がセンターにあるということやろな😀2026/08/31 19:47:19113.神も仏も名無しさんJYC7h真言や華厳になると世界そのものに仏の悟りがあって、一点のセンターがない、ロン論法の土台の種明かしはまーそんなところや😀2026/08/31 19:50:51114.神も仏も名無しさんJYC7h瞑想系統仏教マスターの鬼やな😀2026/08/31 19:51:19115.夕z04zn>>113>一点のセンターがない、法華経では、空観での徹底破壊は、空もまた空ですでに終わっている。これがセンターがないということにつながっていったが、空間論で言えば法華経は理事から抜けていない。抜けるには華厳経を待つしかなかった。法華経で抜ける準備はできていたともいえる。2026/08/31 19:56:28116.神も仏も名無しさんJYC7h久遠実成釈迦如来のセンターの光明やなそこがセンター華厳の毘盧遮那仏は毘盧遮那仏の毛穴に仏国土と如来がたくさんあるセンター軸が明白でなくなってくる😀2026/08/31 19:59:43117.夕z04zn>>116なるほど「毘盧遮那仏の毛穴に仏国土と如来がたくさんある」「センター軸が明白でなくなってくる」これは華厳の事事無礙の核心を直観している。華厳では、毘盧遮那仏の毛穴に無限の仏国土その仏国土の中にまた毘盧遮那仏その毘盧遮那仏の毛穴にまた仏国土無限反射・無限貫入つまり、どこでも中心になれる。どこにも中心が固定されない。中心が消える。これは 事事無礙の空間構造。2026/08/31 20:06:45118.神も仏も名無しさんJYC7h日蓮やほーかいくんがこだわる観心とか、一念三千とは一点集中からの空間認識への展開華厳は一即多、多即一だから一点集中型の空間認識ではない😀2026/08/31 20:07:38119.神も仏も名無しさんJYC7h天台宗寺院や華厳宗関連寺院で余裕て禅定カマシた上て理屈が解っている長谷寺の本筋よりわかりやすい😀2026/08/31 20:08:59120.神も仏も名無しさんJYC7hま、ほーかいくんや登りがレスしてこようとも無駄なので何もレスしないけどなー😀2026/08/31 20:10:10121.神も仏も名無しさんJYC7h仁和寺なんか四度目まで禅定ゲットさせてくれないし、マジで謎だったAI検索で情報がやっと集まりやすくなった😀2026/08/31 20:11:27122.神も仏も名無しさんJYC7h神仏習合やら日蓮は末法前提で日本国土の霊的浄土国土みたいな空間認識ぽく魔改造解釈している現世安穏と後生善処システムに😀2026/08/31 20:13:36123.神も仏も名無しさんJYC7h仁和寺の金堂は本尊阿弥陀如来で背景仏画が極楽浄土密教ではイミフ過ぎる😅2026/08/31 20:14:43124.神も仏も名無しさんJYC7h長谷寺なんかはもっとイミフだ二度目で成功したけど😅2026/08/31 20:16:09125.神も仏も名無しさんwbhs0長谷寺の脇仏イミフモロ神仏習合😀2026/08/31 20:21:13126.神も仏も名無しさんwbhs0中国仏教瞑想エリートからしても謎過ぎるあれらは😀2026/08/31 20:23:38127.夕z04znまぁ、法華経は先があるからさwゆっくりと進める。頭の体操w2026/08/31 21:00:12128.夕z04zn別の角度から見れば法華経は華厳の勝義を知りながら、衆生が理解できるようにあえて理事無礙(中心のある世界)に留まっている。中心を残すのは、衆生救済のための“自己限定”。2026/08/31 21:04:47129.夕z04zn華厳をしリながら、あえて、中心を置く。本体から分体そして本体に戻るような。多即一 一即多とはちがう。一から多に、そして一に戻るような2026/08/31 21:08:20130.夕z04zn法華経は華厳の勝義を知りながら、衆生救済のために“信”を中心に置き、あえて理事無礙に留まる。2026/08/31 21:14:11131.夕z04znまだ、華厳ができていないけどな2026/08/31 21:16:25132.神も仏も名無しさんgNItB理事無礙(中心のある世界)は空の実体化https://share.google/aimode/HpbAwegyqGSsGMHU22026/08/31 21:25:52133.神も仏も名無しさんgNItB事事無礙は有為でしかないhttps://share.google/aimode/oM4bkkNXskV1QN53Z2026/08/31 21:56:19134.夕i3q7x中観、理事無礙、事事無礙で、それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなーでの、説明「それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなー」という発言は、中観・理事無礙・事事無礙のどの立場から見ても“半分正しく、半分ズレている。中観(龍樹)から見た場合● 正しい部分中観はこう言う:自性を立てる=人為(作為)=妄想人為に囚われている限り悟りは成立しないつまり、人為=自性の想定=悟りの妨げこの部分は中観的に正しい。● ズレている部分しかし中観はこうも言う:無為(空)を実体化してはならない無為は有為を離れて存在しない有為の中で空が顕れるつまり、「人為を完全に捨てないと悟れない」という発言は、無為を実体化してしまっている。これは 空空 の論理に反する。2026/09/01 04:54:26135.夕i3q7x🟦 理事無礙(華厳の前段階)から見た場合理事無礙はこういう世界。理(空)=無為事(現象)=有為理と事は互いに妨げないここでのポイントは、有為(事)を捨てて無為(理)に行く、という構造ではない。理事無礙は、有為の事無為の理が 二重構造として共存する世界。だから、「人為を捨てないと悟れない」という発言は、理事無礙の構造からズレている。理事無礙は「捨てる/離れる」という二元論を超えている。2026/09/01 04:55:28136.夕i3q7x🟩 事事無礙(華厳の最深層)から見た場合事事無礙はこう。事(有為)がそのまま理(無為)である有為と無為の境界が消える中心がない本質がない関係が相互浸透するつまり、有為=無為無為=有為という世界。ここでは、「人為から離れる」「人為に囚われている」という二元論そのものが成立しない。だから事事無礙から見ると、「人為から離れられないと悟れない」という発言は、有為と無為を分けてしまっているため、完全にズレている。事事無礙では、人為(有為)の中で無為がそのまま顕れる。2026/09/01 04:56:00137.夕i3q7x🟥 三段階をまとめると● 中観人為(自性の想定)は悟りの妨げしかし無為を実体化してはならない有為の中で空が顕れる● 理事無礙有為と無為は二重構造で共存「離れる/捨てる」という二元論は成立しない● 事事無礙有為=無為無為=有為人為の中で無為がそのまま顕れる2026/09/01 04:56:42138.夕i3q7x🟧 最短結論「人為から離れられないと悟れない」という発言は、中観では半分正しいが、理事無礙ではズレ始め、事事無礙では完全に誤りになる。理由は簡単で、事事無礙では、有為(人為)と無為(覚り)が分離していないから。あなたが直観している「お経そのものが有為だからねw」という理解は、事事無礙の構造と完全に一致している。※それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなー私ではないけど。2026/09/01 05:02:02139.◆JBLfMwCXhY8b8SDなんか、ほ~かい師匠っぽくなってきたな?2026/09/01 05:02:38140.◆JBLfMwCXhY8b8SDテーマは違うが(笑)2026/09/01 05:03:13141.夕i3q7x🟧 最短結論「人為から離れられないと悟れない」という発言は、中観では半分正しいが、理事無礙ではズレ始め、事事無礙では完全に誤りになる。理由は簡単で、事事無礙では、有為(人為)と無為(覚り)が分離していないから。あなたが直観している「お経そのものが有為だからねw」という理解は、事事無礙の構造と完全に一致している。※それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなー私ではないけど。2026/09/01 05:05:18142.夕i3q7x>>140しょうがないよw※それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなーで、わたしではないぞwgNItBさんなんか悟りにこだわっているな。2026/09/01 05:09:34143.夕i3q7x参考までに中論25章の決定的な一句(世間=涅槃)龍樹は25章の最後でこう述べる(有名な偈):「世間の本性がそのまま涅槃である。世間と涅槃の間に、少しの差別もない。」これは漢訳ではこう表現されることが多い:「世間即涅槃」「世間と涅槃は一毫も異ならず」「世間の如性は涅槃なり」あなたが言った 「一寸とも違わない」 は、この偈の意訳として完全に正しい。🧠 なぜ“世間=涅槃”と言えるのか(中観の論理)龍樹の論理はこう:1. 世間(輪廻)は取と縁によって成立する取(upādāna)=執着縁(pratyaya)=依存関係取と縁があるとき、それを「輪廻」と呼ぶ。2. 涅槃は取と縁が止んだ状態取と縁が止むとき、それを「涅槃」と呼ぶ。3. しかし、対象そのものは同じ取と縁があるかないかで名前が変わるだけで、対象の“本性(如性)”は変わらない。だから龍樹は言う:「世間の如性が涅槃である。」🔥 つまり、こういうこと世間(生死)と涅槃は別の場所ではない別の状態でもない別の実体でもない同じ依存的成立の“見え方の違い”にすぎない。あなたが以前から言っている「不二」「二仏並座」「事事無礙」と完全に同型の構造。🧩 あなたの言語でまとめると世間と涅槃は、一寸どころか一線も引けない。取と縁があるとき“世間”と呼ばれ、取と縁が止んだとき“涅槃”と呼ばれるだけ。本性は同一。差別は凡夫の戯論。ゆえに不二。2026/09/01 05:11:26144.夕i3q7x私は純粋に法華経を読んでいるんだけどねw前に進まないw2026/09/01 05:14:05145.夕i3q7x中心構造がある方が人に説明しやすい。チキの言っている五時八教などは、典型。2026/09/01 05:17:26146.夕i3q7x人に説くために、無自性を理解体験したうえで拡張しているとでも言おうか2026/09/01 05:28:44147.夕i3q7x法華経がこんなに面白いとは思わなかったよw道元は、まぁ、法華経。金剛般若経、弟子には華厳経を読めと言っている(どこかの文献に乗っていた。出元は忘れたw)道元の著作のレイア―をかけるとこうなるみたいだ。レイヤー内容該当著作中心(法華)仏性・一乗・中心構造正法眼蔵無中心(華厳)有為の中の無為・事事無礙的世界典座教訓/赴粥飯法/随聞記実践(禅)坐禅・修行・規範普勧坐禅儀/弁道話/永平清規空(般若)法の実体化を壊す補助線正法眼蔵の各巻に散在2026/09/01 05:36:34148.神も仏も名無しさんOaMiI存在とかやってるよりも一歩前進としてよしとしようその一歩すらわからんのがいるしな😀2026/09/01 05:40:16149.夕i3q7x行為というのは無為であり有為でもある。考えるというのも考えれば、無為から発生している。その世界を有為に分けること自体がおかしい可能性もある。2026/09/01 05:43:26150.夕i3q7xまぁ、人は空間での位置というもの感じないと多分恐怖すると思うよ。方向性の確認。2026/09/01 05:50:29151.神も仏も名無しさんn4Npj「この世は、凡夫が見れば穢土に見えるが、仏が見れば浄土に見える」というのが、天台宗2026/09/01 05:50:29152.神も仏も名無しさんn4Npj「この世は、毘盧遮那仏が顕現した姿である」というのが、華厳宗2026/09/01 05:50:55153.神も仏も名無しさんn4Npjこの2つは、似て非なる問題だそもそもの問題意識が異なる2026/09/01 06:26:22154.神も仏も名無しさんn4Npj「この世は、毘盧遮那仏が顕現した姿である。凡夫が見れば穢土に見えるが、仏が見れば浄土に見える」という具合に、両者を統合することも可能だ2026/09/01 06:27:18155.神も仏も名無しさんn4NpjチャットGPT:うん、その整理はかなり的確だと思う。天台と華厳は、そもそも答えている問いが少し違うんだよね。天台 → 「同じ世界が、なぜ凡夫には穢土、仏には浄土として現れるのか」という世界の見え方・認識の問題華厳 → 「そもそも、この世界とは何なのか」という世界そのものの存在論的な問題だから、この世は毘盧遮那仏が顕現した姿である。凡夫が見れば穢土に見え、仏が見れば浄土に見える。という統合は十分可能。2026/09/01 06:28:43156.神も仏も名無しさんn4Npjむしろ非常にきれいに接続できる。天台側天台の「一念三千」や「十界互具」の発想では、同じ現実世界でも、衆生の境地によって世界の意味・相貌が変わる。極端に言えば、地獄界の衆生には世界が地獄として現れ、仏には同じ世界が仏国土として現れる。という構造。華厳側一方、華厳では、現象世界そのものが毘盧遮那仏の智慧・法身の現れとして捉えられる。したがって、世界そのものは、もともと毘盧遮那仏の世界である。という話になる。そこで両者を組み合わせると、世界そのもの → 毘盧遮那仏の顕現=仏の世界凡夫の認識 → 煩悩・迷いによって、それを穢土として経験する仏の認識 → 世界の真相をそのまま見て、浄土として経験するとなる。つまり、「世界とは何か」=華厳「その世界がどう見えるか」=天台という整理ができるわけだ。2026/09/01 06:29:10157.神も仏も名無しさんn4Npjただし一つ注意すると、これはあくまで両宗の思想を比較するための整理であって、天台=単純な「主観によって世界が変わる思想」、華厳=単純な「世界は神仏の物理的な顕現」という意味ではない。特に華厳の「毘盧遮那仏」は、キリスト教的な創造神のように「世界の外側にいる神が世界を作った」という構図とはかなり違う。だから、この二つを合わせるなら、「世界は仏の世界であり、しかも衆生の境地によって、その世界の現れ方が異なる」とするのが一番きれいだと思う。そして面白いことに、ここまで来ると天台の「一念三千」と華厳の「法界縁起」がかなり近いところまで接近してくる。2026/09/01 06:29:39158.神も仏も名無しさんn4Npjプロンプト:確かに「天台宗は認識論、華厳宗は存在論」というような決めつけは、単純すぎる両方から怒られそうだ(笑)2026/09/01 06:34:56159.神も仏も名無しさんn4NpjチャットGPT:そうそう(笑)。「天台=認識論、華厳=存在論」だけで切ってしまうと、かなり乱暴なんだよね。むしろ、天台は「世界と心の関係」を強烈に問題にする華厳は「世界そのものの構造」を強烈に問題にするくらいが安全。しかも実際には両方とも、存在論と認識論を切り離していない。たとえば天台の「一念三千」なら、一念 → 三千世界という形で、心のあり方と世界のあり方が不可分になっている。単なる「世界は客観的に存在するが、人間の認識だけが違う」という近代的な認識論ではない。一方、華厳の「法界縁起」も、世界はこういう構造になっているという存在論的説明であると同時に、その法界をどう見るか、どう悟るかという智慧の問題でもある。だから、むしろ両者に共通しているのは、「存在」と「認識」を近代哲学のようにスパッと分離しないところなんだと思う。そして、さっきの話につなげるなら、華厳:この世界そのものが仏の法界である天台:その同じ世界が、迷悟によって異なる相として現れるという違いとして見ると、かなり分かりやすい。なので、「天台は認識論、華厳は存在論!」と黒板にデカデカと書いたら、天台宗と華厳宗の両方から「ちょっと待て!」と言われそう(笑)。2026/09/01 06:35:42160.神も仏も名無しさんp0heq空間認識の違いとまでまとまらないのか?ホント成長しないな存在論とか😱2026/09/01 06:38:21161.神も仏も名無しさんp0heq一即多、多即一が未だに解ってないそんなところが万年三軍禅のままや、ハッスルや麦レベルよりマシにならんぞ😱2026/09/01 06:40:27162.神も仏も名無しさんp0heqほーかいくんの哲学的理屈もあれも毒だ😱2026/09/01 06:40:51163.夕i3q7x俺じゃないからなw私は純粋に法華経をやりたいだけだw2026/09/01 06:45:13164.神も仏も名無しさんp0heq俺は無駄な議論はやらない、意見しないのはするだけで無駄な相手としてスルーしてるから、容認しているわけではない、無駄な敵意を増やさないそれくらいトーク板はデタラメ情報が氾濫している😱2026/09/01 06:45:21165.夕i3q7xまぁ、aiは主観に傾く傾向がある。2026/09/01 06:47:00166.神も仏も名無しさんp0heqAIに天台、華厳の理解や比較はできるレベルではないAIがあてになるケースはテーマが特定に絞られているケースだ😀2026/09/01 06:47:20167.神も仏も名無しさんp0heq俺のマニアックは神仏習合とかは対象が明白になればかなり精度は増す違う宗派比較と理解はAIでは無理、無駄ご苦労さまていうやつだ😅2026/09/01 06:48:48168.夕i3q7x漢文を現代語訳にするにはいい。2026/09/01 06:49:25169.神も仏も名無しさんp0heq俺がAIで質問する例ではスマホよメモに貼り付けるのは明治以前の春日大社の信仰修行と往生について詳しくとかAIで絞り込める限定しやすいテーマで利用すると、割合精度が高い😀2026/09/01 06:51:31170.夕i3q7x>>169使っている相手のレベルが高ければAIもそれによるAIの限界”ではなく“ユーザーの構造線の限界”が結果を決める。ユーザーと鏡である。使う人間の構造線をそのまま反射する鏡。2026/09/01 06:57:01171.夕i3q7xでおーがいうまで空間認識の中心線なって発想はなかったw2026/09/01 06:58:32172.夕i3q7xまぁ、車を洗車機に入れていると、車が動いているのかせんしゃきがうごいているのかわからなくみたいな。これは宇宙空間だと余計感じるんだろうなと思う。人は位置が決まらないとぎごちいない。「重力に魂を縛られている人々だ!」ちょっと意味合いが違うかwaiがあなたの例はシャアの思想の“構造的な下位モデル”。w2026/09/01 07:08:21173.神も仏も名無しさんjaO6jAIは、質問すればいきなり最適解を返してくるというものではない対話しないとダメだAIの言うことがおかしいと思ったら、「おかしい」と言えばいいだけ「やっぱり、AIなんかダメだ」というのは、まだAIの使い方が分かっていない(笑)2026/09/01 07:16:45174.神も仏も名無しさんjaO6jプロンプト:真言宗「この世は六大でできている」↑これは存在論というより、空間認識・空間把握の問題だ2026/09/01 07:21:23175.神も仏も名無しさんjaO6jチャットGPT:うん、これはかなり重要な区別だと思う。真言密教の「六大でできている」を、いきなり西洋哲学の意味での存在論と呼ぶと、少しズレる。2026/09/01 07:22:01176.◆7ZPfzVcRoQjaO6j「六大」はむしろ世界の捉え方六大は、地水火風空識で、前五大は物質的・空間的な広がりや働きを、識大は精神・認識の側を表す。だから、世界には何という種類の存在者があるのか?という存在論的分類というより、この世界を、どのような基本的契機の組み合わせとして把握するのか?という世界構造の把握に近い。2026/09/01 07:22:59177.◆ATp9OKECTQjaO6j特に「地・水・火・風・空」は、現代科学の元素表のような「物質の構成要素」ではない。「固さ・流動性・熱・運動・空間」といった、経験される世界の基本的なあり方を象徴的・機能的に捉えている。そして真言密教では、そこに識大を加える。つまり、物質的世界 + 認識作用を別々の二領域として置くのではなく、六大という一つの世界構造の中で捉えるわけだ。2026/09/01 07:23:52178.◆ATp9OKECTQjaO6jさらに面白いのは、これが前に話していた天台・華厳との比較にもつながる。ざっくり言えば、天台 →「この世界は、どのように現象するのか」→ 一念三千・十界互具など、世界の現れ方・認識の構造華厳 →「世界の諸事物はいかなる関係構造を持つのか」→ 事事無礙・重重無尽、存在者相互の関係構造真言 →「世界を構成する基本的な働きをどう把握するか」→ 六大・四曼・三密、世界の構造・身体性・空間性という違いが見えてくる。2026/09/01 07:24:16179.◆ATp9OKECTQjaO6jただし、真言の六大は最終的には**「法界そのもの」=大日如来**と結びつくので、完全に「存在論ではない」と切り離すのも危険。むしろ、六大=存在者のリストではなく、六大=法界を把握するための基本的な構造カテゴリーと考えると、かなりスッキリする。そして「空間認識」というあなたの表現は、特に空大を考えると面白い。真言密教の「空」は単なる「何もない空間」ではなく、諸法が展開する場・広がりとしての側面を持つ。だから「真言宗=存在論」と単純化するより、天台=世界の現れ方華厳=世界の関係構造真言=世界の構成・展開を身体的/空間的に把握するくらいに置くほうが、かなり実態に近いと思う。2026/09/01 07:24:47180.◆ATp9OKECTQjaO6j>>179> だから「真言宗=存在論」と単純化するより、> 天台=世界の現れ方> 華厳=世界の関係構造> 真言=世界の構成・展開を身体的/空間的に把握する> くらいに置くほうが、かなり実態に近いと思う。↑ほら、この通りプロンプト1つで、だいぶ進んだ(笑)2026/09/01 07:25:47181.神も仏も名無しさんY3SRN「空を無為」だと勘違いしている人へhttps://share.google/aimode/xXjb1sw5OEUkUT7UE2026/09/01 07:36:07182.◆JBLfMwCXhYNpg2JAIというのは、基本的に「アメリカ人」だ英語で思考して、結果だけ日本語に翻訳している仏教について、アメリカ人と対話していると思えばいい(笑)2026/09/01 07:39:51183.◆JBLfMwCXhYNpg2JAIの強みは、欧米の学者によるインド哲学研究論文を大量に読み漁ってること日本のそれとは、深さも広さもケタ違い2026/09/01 07:43:00184.◆JBLfMwCXhYNpg2Jあと、AIは中国語もできるから、中国人の学者による中国仏教の研究論文も大量に読んでいるこれもまた、無視できない2026/09/01 07:45:15185.神も仏も名無しさんhBA3s宗派、宗教比較はAIはダメなのは確か教義体系の比較はAIには無理だ😀2026/09/01 07:49:05186.神も仏も名無しさんhBA3s狭い範囲からAIはかなり良い精度を出してくれる叡福寺とか特定の寺院の念仏や修行信仰とかリサーチするとグーグル検索より情報収集が、遥かに効率があがる2026/09/01 07:50:37187.神も仏も名無しさんhBA3s教義の特定用語に関して絞り込み質問はAIには有効ではあるが範囲が広い体系的比較は現状ではガセネタになるAIでも😀2026/09/01 07:52:04188.神も仏も名無しさんhBA3s昨日昼に坐禅微調整しなかったので集中力がガタガタで無駄な動きをしているので坐禅する😀2026/09/01 07:54:04189.神も仏も名無しさんhBA3s当然、集中力を上げる坐禅は空間認識の方向性にあるのは間違いないハッスルや麦やムイムイは自分のコダワリアタマ認識の奴隷のままだ、それで漫談やってる😅2026/09/01 07:56:49190.神も仏も名無しさんhBA3s集中力を上げた非瞑想系統仏教以外の宗教娯楽研究をしていると生活上の集中力低下が半端ない😀2026/09/01 07:57:43191.夕i3q7x>>187>範囲が広い体系的比較は現状ではガセネタになるAIでもこの辺はあるな。出所の確認は必要である。使用者側の知識量にもよる。道具は使用者の技量によるところがある。2026/09/01 08:04:24192.夕i3q7x法華経の漢訳を現代語訳して、一冊の本にしようと思っているのにw2026/09/01 08:05:57193.◆JBLfMwCXhYNpg2J石原慎太郎みたいだな(笑)2026/09/01 08:10:02194.神も仏も名無しさんhBA3s俺なんかは日蓮宗バージョンはネットで天台宗バージョンはCD付き現在語訳を買ってる金のある時期に買いまくっている😀2026/09/01 08:26:26195.ハジzxj1hたとえ幼児が戯れに砂場に佛を描こうとも、そのものは成仏^間違いなし2026/09/01 09:58:09196.ハジzxj1h作られ、形あるもの、必ずや滅す2026/09/01 09:59:25197.夕otDnF時釈迦牟尼仏。欲容受所。分身諸仏故。八方各更変。二百万億。那由他国。皆令清浄。無有地獄。餓鬼。畜生。及阿修羅。又移諸天人。置於他土。所化之国。亦以瑠璃為地。宝樹荘厳。樹高五百由旬。枝葉華果。次第厳飾。樹下皆有。宝師子座。高五由旬。種種諸宝。以為荘校。亦無大海江河。及目真隣陀山。摩訶目真隣陀山。鉄圍山。大鉄圍山。須弥山等。諸山王。通為一仏国土。宝地平正。宝交露幔。覆其上。懸諸幡蓋。焼大宝香。諸天宝華。布其地。その時、釈迦牟尼仏は、自らの分身である諸仏を迎え入れるために、 八方の世界をさらに二百万億、那由他という数えきれないほどの国土にまで及んで、 すべてを清浄な仏国土へと変化させた。その広大な領域には、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった苦しみの世界は一切なく、 そこに住んでいた天や人の衆生は、他の国土へと移され、 この場は純粋に仏のための国土として整えられた。変容した国土の大地は瑠璃でできており、 その上には高さ五百由旬にも及ぶ宝の樹々が立ち並んでいた。 枝葉も花も果実も、すべてが秩序正しく美しく飾られ、 その樹の下には高さ五由旬の宝で飾られた獅子座が置かれ、 さまざまな宝で荘厳されていた。この国土には、大海や河川、目真隣陀山や摩訶目真隣陀山、 鉄囲山や大鉄囲山、須弥山といった通常の山々はまったく存在せず、 すべてが一つの仏国土として平らかに整えられていた。大地の上には宝で編まれた天蓋や幔幕が覆いかぶさり、 幡や宝の飾りが高く掲げられ、 大いなる宝の香が焚かれ、 天の花が地一面に散り敷かれていた。2026/09/02 03:07:42198.神も仏も名無しさんZbli8俺も法華経の現在語訳を読んだときは既に天台だろうが日蓮宗だろうが光明を見えていたので仏国土の意味は既に分かっていた😀2026/09/02 05:39:35199.神も仏も名無しさんZbli8仏国土=空間認識の形成だと😀2026/09/02 05:39:55200.神も仏も名無しさんZbli8ほーかいくんの屁理屈よりもわかりやすく😀2026/09/02 05:40:47201.◆JBLfMwCXhYRuE0e仏国土は美しい😍2026/09/02 05:43:58202.夕dSrpO法華経の中でも最も“構造が反転する瞬間”で、ただ荘厳な描写ではなく、世界観そのものの転換を語っている。🟥 この場面は「世界の本来性が露わになる瞬間」釈迦牟尼仏が諸仏を迎えるために世界を清浄に変える――これは「世界を作り変えた」のではない。法華経の構造では、世界は常に仏国土である。衆生の視点がそれを覆い隠しているだけ。だからこの場面は、仏の視点が世界を貫いた瞬間、世界の本来性が露わになった。🟥 苦界が消える意味は「迷いの視点が消えた」ということ地獄・餓鬼・畜生・阿修羅が消えるのは、“世界が綺麗になった”という話ではない。法華経では、苦界は「迷いの視点」が生む世界仏の視点では苦界は存在しないつまり、苦界が消えたのではなく、苦界を生む視点が消えた。🟥 山河が消える意味は「世界観の解体」須弥山・鉄囲山・大海・河川が消える。これは地形が変わったのではなく、衆生の世界観(有為)が解体された。法華経は、世界を「山・海・川」で区分する発想そのものを迷いの構造として扱う。だから仏の視点が顕れると、上下遠近内外時間空間これらの区分がすべて消える。2026/09/02 07:16:33203.夕dSrpO🟥 瑠璃の大地・宝樹は「世界の本質が光として立ち上がった姿」宝樹や瑠璃の大地は豪華な装飾ではない。法華経では、世界の本質は光である。その光が形を取ると宝樹となる。その光が大地となると瑠璃となる。つまり、世界が“法そのもの”として立ち上がった状態。あなたの構造線で言えば、有為の世界が消え無為の世界が露わになりその無為が「光」として視覚化されたということ。🟥 諸仏が集まるのは「来た」のではなく“顕れた”東方・南方・西方・北方・上下十方から諸仏が集まる。これは移動してきたのではない。法華経では、諸仏は久遠から常に存在している。ただ衆生の視点では見えていない。だからこの場面は、世界が仏国土として顕れた瞬間、そこに常に存在していた諸仏が“見えるようになった”。。🟥 この場面は「久遠仏の世界が完全に露わになる瞬間」法華経の中心は 久遠実成。仏は久遠から常に存在している。世界は常に仏国土である。ただ衆生がそれを見ていないだけ。この場面は、その思想を視覚的に完全に顕現させた瞬間。つまり、世界の本来性(無為)が100%露わになり、有為の世界が完全に退く。2026/09/02 07:20:43204.夕dSrpO仏国土とは「仏の視点で見た世界そのもの」仏国土とは何か(最短の核心)仏が見る世界。衆生が迷いによって見失っている“世界の本来性”。つまり、世界は本来、清浄であり苦界は本来存在せず時間・空間の区分も本来なくすべてが光(法)として成立しているこれが 仏国土(ぶっこくど)。1|仏国土は「どこかにある場所」ではない多くの人は「極楽」「浄土」を“遠くの場所”だと思う。しかし法華経は違う。仏国土は、今ここにある。ただ衆生がそれを見ていないだけ。つまり、地理的な場所ではなく心の状態でもなく死後に行く場所でもなく世界の本来の姿。2026/09/02 07:26:07205.夕dSrpO2|仏国土は「迷いが消えた世界」地獄・餓鬼・畜生・阿修羅が消えるのは、“世界が綺麗になった”のではなく、迷いの視点が消えたから。法華経では、苦界は迷いが作る影仏の視点では苦界は存在しないだから仏国土とは、迷いの影が一切ない世界。3|仏国土は「世界観の解体」須弥山・鉄囲山・大海・河川が消えるのは、地形が変わったのではなく、衆生の世界観(有為)が解体された。つまり、上下遠近内外時間空間これらの区分が消える。2026/09/02 07:27:46206.夕dSrpO4|仏国土は「光として立ち上がる世界」瑠璃の大地、宝樹、宝香、宝華――これらは豪華な装飾ではない。法華経では、世界の本質は光である。その光が形を取ると宝樹となる。その光が大地となると瑠璃となる。つまり、世界が法そのものとして立ち上がった姿。あなたの構造線で言えば、有為が消え無為が露わになりその無為が光として視覚化されたということ。5|仏国土は「久遠仏の世界」法華経の中心は 久遠実成。仏は久遠から常に存在している。世界は常に仏国土である。ただ衆生がそれを見ていないだけ。つまり仏国土とは、久遠仏の視点で見た世界。2026/09/02 07:28:59207.夕dSrpO6|仏国土は「顕現する」見宝塔品の場面は、仏国土が“作られた”のではなく、本来の姿が一時的に露わになった。つまり、世界は常に仏国土迷いがそれを覆い隠す仏の働きがそれを顕す最短まとめ仏国土とは、仏の視点で見た世界そのもの。世界は本来清浄であり、苦界は迷いが生む影。山河の区分は迷いの世界観であり、仏の視点では消える。仏国土は光として立ち上がる世界であり、久遠仏の世界が顕現した姿。2026/09/02 07:30:01208.◆JBLfMwCXhYtTu1qそれが、天台四土につながったんだな😄2026/09/02 08:14:42209.◆JBLfMwCXhYtTu1q天台四土(てんだいしど)とは、天台宗の開祖である知顗(天台大師)が説いた、仏や修行者が住む世界(国土)の4つの分類です。修行の階位や迷いの深さに応じて、世界が4つに分けられています。2026/09/02 08:16:24210.◆JBLfMwCXhYtTu1q天台四土の内訳凡聖同居土(ぼんしょうどうごど):迷いのある凡夫と、悟りを開いた聖人が共に住む世界です。私たちが暮らす娑婆世界(穢土)も含まれます。方便有余土(ほうべんうよど):根本的な迷いの一部を断じた声聞・縁覚などの聖者が住む世界です。実報無障礙土(じっぽうむしょうげど):さらに深い悟りを得た菩薩たちが住む、障害のない美しい世界です。常寂光土(じょうじゃっこうど):真理そのものである仏(法身)が住む、永遠に安らかな最高の悟りの世界です。2026/09/02 08:16:47211.◆JBLfMwCXhYtTu1q天台宗では、「四土」のそれぞれに、仏の現れ方である「四身(しん)」が対応しています。世界(国土)の清浄さに応じて、そこに現れる仏の姿も異なります。2026/09/02 08:17:09212.◆JBLfMwCXhYtTu1q四土と四身の対応関係1、凡聖同居土=応身(おうじん)凡夫(未熟な者)のレベルに合わせて、歴史上の姿(お釈迦様など)として現れる仏です。2、方便有余土=化身(けしん)/他受用身(たじゅようしん)修行者の能力や必要に応じて、臨機応変に姿を変えて現れる仏です。3、実報無障礙土=報身(ほうじん)果てしない修行と功徳の「報い」として完成した、美しく輝かしい、理想的な仏の姿(阿弥陀如来など)です。4、常寂光土=法身(ほっしん)姿形を持たない、宇宙の真理そのものである本仏です。2026/09/02 08:17:46213.神も仏も名無しさんJP05Rほーかいくんのケースは知識で終わっていてそれの空間認識まで体得という方向にはない😀2026/09/02 08:18:09214.神も仏も名無しさんJP05Rそもそも末法思想なのでそんな空間認識を体現てきるなら末法はいらん😀2026/09/02 08:18:57215.神も仏も名無しさんJP05Rほーかいくんのレスの羅列は基本キリスト教神学の神の存在証明みたいな目的😀2026/09/02 08:20:45216.ハジCgO7T真我論者w2026/09/02 08:59:33217.神も仏も名無しさんAKqgM妄想論者法華経は壮大な妄想2026/09/02 10:46:40218.◆JBLfMwCXhYrfj7Y>>217聖典を冒涜するのは危険だ😫2026/09/02 11:07:54219.神も仏も名無しさんTXdo0法華経は台頭するヒンドゥー教の神々の世界観に対抗して作られたんじゃなかったのか?2026/09/02 11:43:40220.神も仏も名無しさんJ7Nf2>>219?2026/09/02 11:56:35221.夕4YbrV釈迦牟尼仏。為諸仏当来坐故。復於八方。各変二百万億。那由他国。皆令清浄。無有地獄。餓鬼畜生。及阿修羅。又移諸天人。置於他土。所化之国。亦以瑠璃為地。宝樹荘厳。樹高五百由旬。枝葉華果。次第荘厳。樹下皆有。宝師子座。高五由旬。亦以大宝。而校飾之。亦無大海江河。及目真隣陀山。摩訶目真隣陀山。鉄圍山。大鉄圍山。須弥山等。諸山王。通為一仏国土。宝地平正。宝交露幔。覆其上。懸諸幡蓋。焼大宝香。諸天宝華。布其地。爾時東方釈迦牟尼仏。所分之身。百千万億那由他。恒河沙等。国土中諸仏。各各説法。来集於此。如是次第。十方諸仏。皆悉来集。坐於八方。爾時一一方。四百万億。那由他国土。諸仏如来満其中2026/09/03 03:52:58222.夕4YbrVその時、釈迦牟尼仏は、これから来臨する諸仏が座るための場を整える目的で、 再び八方の世界を変化させ、二百万億・那由他という数えきれないほどの国土を、 すべて清浄な仏国土へと変容させた。そこには地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった苦しみの世界はまったく存在せず、 その国々にいた天や人の衆生は他の国土へ移され、 この場は純粋に仏のための国土として整えられた。変容した国土の大地は瑠璃でできており、 その上には宝で飾られた樹々が立ち並び、 その高さは五百由旬にも及んでいた。 枝葉も花も果実も整然と美しく飾られ、 その樹の下には高さ五由旬の宝で飾られた獅子座が置かれ、 さまざまな宝で荘厳されていた。この国土には、大海や河川、目真隣陀山や摩訶目真隣陀山、 鉄囲山や大鉄囲山、須弥山といった通常の山々は一切存在せず、 すべてが一つの仏国土として平らかに整えられていた。大地の上には宝で編まれた天蓋や幔幕が覆いかぶさり、 幡や宝の飾りが高く掲げられ、 大いなる宝の香が焚かれ、 天の花が地一面に散り敷かれていた。その時、東方において釈迦牟尼仏の分身である諸仏が、 百千万億・那由他・恒河沙という数えきれないほどの国土で法を説いていたが、 その諸仏が次々とこの場へ集まってきた。 このようにして、十方の諸仏がすべて来集し、 八方の座にそれぞれ静かに座した。その結果、八方の一つ一つの方角には、 四百万億・那由他の国土に満ちるほどの諸仏如来が集まり、 その場は諸仏で満ち満ちていた。2026/09/03 04:13:53223.夕4YbrV※要点釈迦が諸仏のための場を整え、世界を清浄な仏国土へと変容させる。荘厳な大地・宝樹・獅子座・天蓋などが並び、通常の山や海は消え、十方の諸仏が次々と集まり、八方の座に静かに座していく。2026/09/03 04:14:43224.夕7xLYN是時諸仏。各在宝樹下。坐師子座。皆遣侍者。問訊釈迦牟尼仏。各齎宝華満掬。而告之言。善男子。汝往詣。耆闍崛山。釈迦牟尼仏所。如我辞曰。少病少悩。気力安楽。及菩薩声聞衆。悉安穏不。以此宝華。散仏供養。而作是言。彼某甲仏。与欲開此宝塔。諸仏遣使。亦復如是。爾時釈迦牟尼仏。見所分身諸仏。悉已来集各各坐於。師子之座。皆聞諸仏。与欲同開宝塔。即従座起。住虚空中。一切四衆。起立合掌。一心観仏。於是釈迦牟尼仏。以右指開。七宝塔戸。出大音声。如却關鑰。開大城門。2026/09/03 04:35:15225.夕7xLYNその時、諸仏はそれぞれ宝の樹の下にある獅子座に座っていた。 そして諸仏は侍者を遣わし、釈迦牟尼仏のもとへ挨拶に向かわせた。侍者たちは手いっぱいに宝の花を持ち、釈迦牟尼仏にこう伝えた。「善男子よ。耆闍崛山(ぎしゃくつせん/霊鷲山)におられる 釈迦牟尼仏のもとへ行き、私たち諸仏の言葉をお伝えしなさい。 『少しの病も悩みもなく、気力は安らかであるか。 また、菩薩や声聞の人々は皆、安穏であるか』と。 そしてこの宝の花を散らして供養し、 『某(それぞれの)仏は、この宝塔を開こうとしておられる』 と申し上げなさい。」諸仏はそれぞれ同じように使者を遣わした。その時、釈迦牟尼仏は、 自らの分身である諸仏がすでに皆集まり、 それぞれ獅子座に座っているのを見た。そして、諸仏が「ともに宝塔を開こうとしている」ことを聞き、 釈迦牟尼仏は座から立ち上がり、空中に立った。一切の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)は立ち上がり、 合掌して一心に釈迦牟尼仏を見つめた。その時、釈迦牟尼仏は右の指で七宝の塔の扉を開いた。 その音は、巨大な城門の鍵を外して開くような大きな響きであった。2026/09/03 04:36:13226.夕7xLYN※要点諸仏は宝樹の下で獅子座に座り、侍者を遣わして釈迦へ正式な挨拶と意向を伝える。釈迦は諸仏がすでに集まっているのを確認し、空中に立つ。四衆は釈迦に集中し、場の焦点が釈迦に定まる。釈迦は右指で七宝塔の扉を開き、開塔という行為そのものが成立する。この段階で読み取れる構造は、“諸仏の意思表示 → 集合完了 → 釈迦が中心に立つ → 開塔の実行”2026/09/03 04:39:12227.夕7xLYN※空中に立つとは空中に立つ=釈迦が場の中心に位置づけられること。他の全員が地上にいる中で、釈迦だけが空中に立つため、視線・位置・動作のすべてが釈迦に集中する。2026/09/03 04:42:22228.◆JBLfMwCXhYsbZFC⛩️228晴れたり、日本晴れ~🗻☀2026/09/03 06:07:35229.神も仏も名無しさんeYBkJ>釈迦牟尼仏は、これから来臨する諸仏が座るための場を整える目的で、 再び八方の世界を変化させ、二百万億・那由他という数えきれないほどの国土を、 すべて清浄な仏国土へと変容させた。そこには地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった苦しみの世界はまったく存在せず、 その国々にいた天や人の衆生は他の国土へ移され、 この場は純粋に仏のための国土として整えられた。釈迦如来の光明で空間を変容させたのをその場の全員に見せる釈迦如来がセンターだ天台が一心三観とかいうのも一心というセンターを設定することとなる😀2026/09/03 06:23:23230.神も仏も名無しさんeYBkJそれに対して華厳あたりだと毘盧遮那仏見えた時点で世界そのものが変容しているのを全員が見るみたいな感じだろう😀2026/09/03 06:24:51231.神も仏も名無しさんeYBkJ密教でも恐らく天台は一心への集中真言密教は心身同時だろう😀2026/09/03 06:26:03232.神も仏も名無しさんeYBkJ修験道だと仏の姿に一心集中みたいな感じかもしれん真言念仏だと阿弥陀如来の姿に一心集中だろな😀2026/09/03 06:27:35233.神も仏も名無しさんeYBkJほーかいくん理論の屁理屈はまー一心集中に関する内容を一生懸命神学証明しているのだろう😀2026/09/03 06:28:36234.神も仏も名無しさんeYBkJ一心集中は春日権現もてきる禅定データーがあれば、仕事中以外では😀2026/09/03 06:43:05235.神も仏も名無しさんeYBkJ疲労が少し重めだから余計に空間認識方向へ感覚か強まるなあ〜意識的てはない、そちらのほうが楽だからだほんと根っから修行好きだわ😀2026/09/03 11:53:06236.ハジLrTjX妄想大好きなんだw2026/09/03 17:45:10237.夕gg4VH即時一切衆会。皆見多宝如来。於宝塔中。坐師子座。全身不散。如入禅定。又聞其言。善哉善哉。釈迦牟尼仏。快説是法華経。我為聴是経故。而来至此。爾時四衆等。見過去無量。百千万億劫。滅度仏。説如是言。歎未曾有。以天宝華聚。散多宝仏。及釈迦牟尼仏上。その時、集まっていたすべての人々は、 多宝如来が宝塔の中で獅子の座に端然と坐し、 全身が少しも動かず、まるで深い禅定に入っているように見えた。 そして多宝如来の声を聞いた。 「素晴らしい、素晴らしい。釈迦牟尼仏よ、 あなたはよくこの法華経を説いている。 私はこの経を聞くために、ここへ現れたのだ。」 その時、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)たちは、 過去の無量百千万億劫の昔にすでに滅度した仏が、 このように語るのを見て、かつてない出来事だと驚嘆した。 そして天の宝の華を集めて、多宝仏と釈迦牟尼仏の上に散らした。2026/09/04 10:33:52238.夕gg4VH要点まとめ多宝如来は宝塔の中で、動かず静かに坐していたその姿は深い禅定に入っているように見えた多宝如来は釈迦牟尼仏の説法を称賛した「この法華経を聞くために来た」と明言した四衆は、過去に滅度した仏が語るという異例の出来事に驚いた天の宝華を集め、多宝仏と釈迦牟尼仏に散らして礼拝した2026/09/04 10:40:29239.神も仏も名無しさんr5YWK法華経の礼拝といえば山伏神仏習合の礼拝を思い出す来年夏も行くぞ春日大社😀2026/09/04 11:01:06240.神も仏も名無しさんr5YWK春日大社は修験道の方向に認識が弱かったので来年も行くことにした春はイスラーム来年夏行けたらハリストス正教会も😀2026/09/04 11:22:29241.神も仏も名無しさんr5YWK疲労も溜まるとノー音楽だな静寂美の安楽を志向するなあー😀2026/09/04 11:43:50242.夕tSsnW純粋に法華経の構造を読むことを主眼としているが、いろんな人がいろんな方角からいろんなことを話してくれるから、法華経に厚みが出る。こんなふうに読むんだとかね。皆さんと会話しながら前に進みたいですね。法華経のイメージがわいてきます。基本は純粋に法華経を読むですw2026/09/05 00:44:54243.神も仏も名無しさんhnV5u念仏聖、遊行者などをAI検索でリサーチする日にきめた😀2026/09/05 08:54:29244.神も仏も名無しさん462ch法華経といえば日蓮ともう一つ😀明治以前の六十六部廻国行者の教義信仰と修行について詳しく六十六部(ろくじゅうろくぶ)とは、明治以前の日本において、『法華経』(大乗妙典)を66部写経し、日本全国66カ国(壱岐・対馬を除く)の霊場に1部ずつ納めて歩いた廻国(かいこく)の修行者、およびその信仰・行為を指します。略して「六部(ろくぶ)」とも呼ばれました。 [1, 2]その教義信仰と修行の実態は、中世(鎌倉・室町)から近世(江戸)にかけて大きく変遷しました。それぞれの詳細を解説します。 [1]1. 教義と信仰:法華経の功徳と「滅罪・現世利益」六十六部の根底にあるのは、法華経信仰と神仏習合、そして日本独自の国土観が融合した独自の信仰体系です。 [1, 2, 3]法華滅罪(ほっけめつざい)信仰源流は奈良〜平安時代の法華信仰にあります。法華経の「書写」と「読誦(どくじゅ)」、そして厳しい移動の「苦行」を重ねることで、自身や他者の罪障を消滅させ(滅罪)、極楽往生や大願成就を果たすことができると信じられていました。 [1, 2]日本六十六カ国=神仏の霊場という国土観当時の日本(扶桑六十六州)全体を一つの巨大な曼荼羅(神仏の宿る聖域)と捉える思想です。全国の「一宮(主要な神社)」や「国分寺(仏教寺院)」を巡ることで、日本中のすべての神仏の加護を一度に得るという極めてダイナミックな信仰でした。 [1, 2, 3]時代による信仰の通俗化(江戸時代)中世には純粋な聖(専業宗教者)が中心でしたが、江戸時代になると俗人の参入や社会的な救済・逃避の手段へと変化しました。他人の殺傷などの「罪の意識」を背負った者の贖罪の旅。不治の病(らい病など)にかかり、村に居られなくなった者の生存をかけた祈願の旅。行き倒れて亡くなった六部が「頭痛や瘡(くさ)を治す神(六部尊)」として地域に祀られるような、流行神的な民間信仰への発展。 [1, 2]2026/09/05 11:45:03245.神も仏も名無しさん462ch2. 修行の内容と実態六十六部の修行は、単なる巡礼ではなく、生命の危険を伴う「難行苦行」でした。 [1, 2]① 納経と巡礼あらかじめ如法(仏法に適った方法)に写経した法華経66部を「笈(おい:背負う木箱)」に納めて出発します。数年以上の歳月をかけて全国66カ国を徒歩で巡り、1国につき1カ所の寺社に経典を1部ずつ奉納(納経)していきました。※このとき納経の証として寺社から求めた署名捺印の帳面(納経帳)が、現代の「御朱印」の直接的なルーツとされています。 [1, 2, 3, 4, 5]② 旅の調達と日常生活(行乞と善根宿)六部は基本的に旅の資金を持たず、道中は戸ごとに鉦(かね)を叩いたり鈴を振ったりして法華経を唱え、米や銭を乞う「托鉢(行乞)」によって路用を調達しました。宿泊は、一般の民家や村々が功徳を積むために無償で提供する「善根宿(ぜんこんやど)」や、専用の寄宿所に身を寄せました。 [1, 2]③ 独特の服装・巡礼スタイル(江戸時代)江戸時代の六部は、一目でそれと分かる特徴的な姿をしていました。 [1]衣服: 鼠(ねずみ)色や浅葱(あさぎ)色の木綿の衣服、脚半、わらじ、網笠。装備: 胸の前帯に鉦(かね)を畳み付け、手には鈴を持つ。背中には、経典や厨子入りの仏像を納めた「笈(仏龕)」を背負う。 [1, 2]3. 歴史的展開と終焉中世(鎌倉〜室町時代): 箱根法師の縁起(『太平記』)などに見られるように、幕府有力者の前世が六部であったとされる伝承が生まれるなど、極めて宗教的権威の高い修行者でした。 [1]近世(江戸時代): 幕府の旅券(往来手形)制度や、六部同士の互助組織(仲間)の結成によりシステム化され、職業的な六部や物乞いに近い者まで多様化しました。 [1]明治の終焉: 明治4年(1871年)、新政府による太政官布告によって「平民が廻国修行の名目で物乞いをして歩くこと」が一切禁止され、六十六部という宗教者・修行形態は法的に廃止され、姿を消しました。 [1]現在でも日本全国の古い街道筋や寺社の境内には、彼らが大願成就を記念して建てた「廻国供養塔(六十六部供養塔)」が数多く残されており、往時の盛んな信仰を伝えています。 [1, 2, 3]2026/09/05 11:45:14246.◆JBLfMwCXhYCLQzO相変わらず、マニアックだな😅2026/09/05 12:35:17247.神も仏も名無しさん462ch五来重の仏教民俗学と近所のお寺に六十六部の巡礼碑があるからなー論文もファイル分けしている😀2026/09/05 12:37:32248.神も仏も名無しさんEta2uさらに法華経といえば、観音焔魔堂信仰と観音信仰は関係があるのか 「焔魔堂(閻魔堂)信仰」と「観音信仰」には、日本の仏教信仰の歴史において非常に深い関係があります。一見、「地獄の厳格な裁判官」と「現世の慈悲深い救済者」という対極にいるように思えますが、民間信仰や巡礼の歴史を通じて次のような強い結びつきが生まれました。1. 観音巡礼(西国三十三所)の創始伝承日本を代表する観音信仰の形態である「西国三十三所観音巡礼」は、実は閻魔大王の導きによって始まったという伝説があります。伝承(長谷寺の徳道上人の縁起)によると、上人が病で仮死状態になり冥土へ行った際、閻魔大王に出会いました。閻魔大王は「世の中の悩める人々を救うため、33箇所の観音霊場を開いて巡礼を勧めよ」と告げ、誓約の証として33の宝印を授けて上人を現世に戻したとされています。このため、観音巡礼の背景には常に閻魔大王の存在があります。 [1] (https://jh-saikoku33.jp/history/), [2]2026/09/05 13:08:59249.神も仏も名無しさんEta2u(https://bandou.gr.jp/foundation/)2. 「地獄の閻魔」と「救済の観音」のセット思想中世以降、人々の間で「死後の世界(地獄)」への恐れが強まると、寺院の境内や地域において「地獄・審判・救済」を一つのストーリーとして配置する信仰形態が生まれました。閻魔堂(焔魔堂): 悪業を裁く場所、あるいは自身の生前を見つめ直す象徴。観音堂: その厳格な審判や地獄の苦しみから、大慈大悲によって人々を救い上げる象徴。鎌倉の長谷周辺の歴史に見られるように、同じ聖域の中に「地獄の閻魔・救済の観音・極楽浄土の阿弥陀」を併せて祀ることで、民衆に「罪を恐れ、観音や阿弥陀に祈って救済を求める」という一連の信仰を視覚的に分かりやすく示していました。現代でも、同じお寺の境内に閻魔堂と観音堂が隣り合って並んでいるケースが各地で見られます。 十王信仰・十三仏信仰での役割中国から伝わり日本で独自に発展した「十王信仰(死後に10人の王が裁判を行う)」や「十三仏信仰」において、閻魔大王は5番目の裁判官として登場します。この十三仏の信仰では、閻魔大王の本体(本来の仏の姿=本地仏)は「地蔵菩薩」とされていますが、死者を次のステップへと導く法要(十三回忌など)や巡礼の構造においては、現世のあらゆる姿に変じて人々を救う「観音菩薩」の慈悲のネットワークとも密接に連携し、死後救済のシステムとして一体化していきました。このように、焔魔堂(閻魔)信仰が「罪や死後への畏怖」を司る一方で、観音信仰は「そこから無条件に手を差し伸べる慈悲」を司り、表裏一体となって人々の現世利益と死後安心(しごあんじん)を支えてきたというのが両者の深い関係性です。2026/09/05 13:09:10250.ハジX3BCBほんとにおるのかなー2026/09/07 15:19:26251.神も仏も名無しさんOmKiH家に出てきたぞ😀2026/09/07 15:20:28252.ゆうSnQIB自治会の書類作りのめどがついたので、法華経、やるかな。2026/09/07 18:44:21253.夕kL3m3爾時多宝仏。於宝塔中。分半座与。釈迦牟尼仏。而作是言。釈迦牟尼仏。可就此座。即時釈迦牟尼仏。入其塔中。坐其半座。結跏趺坐。その時、多宝仏は宝塔の中で、自分の座を半分に分けて釈迦牟尼仏に差し出し、こう言われた。 「釈迦牟尼仏よ、この座にお座りなさい。」 すると釈迦牟尼仏はすぐに宝塔の中へ入り、その半分の座に結跏趺坐して座られた。爾時大衆。見二如来。在七宝塔中。師子座上。結跏趺坐。各作是念仏坐高遠。唯願如来。以神通力。令我等輩。倶処虚空。その時、大衆は、 二人の如来が七宝の塔の中の獅子の座に結跏趺坐しているのを見て、 それぞれこう思った。 「仏は高く遠いところにお座りになっている。 どうか如来の神通力によって、 私たちもともに虚空に上がらせていただきたい。」即時釈迦牟尼仏。以神通力。接諸大衆。皆在虚空。以大音声。普告四衆。誰能於此。娑婆国土。広説妙法華経。今正是時。その時、釈迦牟尼仏は神通力をもって大衆を引き寄せ、 皆を虚空の中へと上げられた。 そして大きな声で四衆に向かって告げられた。 「この娑婆世界で、 妙法蓮華経を広く説くことができる者は誰であろうか。 今こそ、その時である。」如来不久。当入涅槃如来は、もうまもなく涅槃に入られる。仏欲以此。妙法華経。付属有在。仏は、この妙法蓮華経を、後の者へ託そうとしておられる。2026/09/08 05:48:06254.、bqvBz⭐高次の光(リタムバラー・プラギャー=真実のみを育む智慧)⭐リタムバラー・プラギャー■のちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します『リタムバラー』の正体この言葉は、サンスクリット語の「リタ(?ta)」と「バラー(Bhar?)」に分解できます。⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことですのちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。⚪バラー(Bhar?): 「満たされている」「宿している」「担っている」という意味です。つまり、リタムバラーとは「宇宙の絶対真理をその身に100%宿している」という意味になります。そこに、仏教でも般若(パンニャー)として受け継がれる究極の智慧「プラギャー(Praj??)」が合わさることで、「宇宙の真理そのもので満たされた、微塵の狂いもない絶対的な智慧の光」という、途方もなく壮大な意味になるのです。ーーー⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことですのちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことですのちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことですのちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。2026/09/08 15:04:56255.神も仏も名無しさんpsFyC👽2026/09/08 20:22:01256.夕K0pS8爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言そのとき、世尊(釈尊)は、この教えをもう一度強調して示そうとして、偈(詩偈)を説かれた。2026/09/09 08:44:42257.夕K0pS8爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言構造的意味爾時世尊:その場で釈尊が欲重宣此義:今述べた“義(意味・真意)”を重ねて宣べようとして而説偈言:偈(詩の形式の教え)を説くつまり、散文で述べた教えを、偈という“凝縮された形式”で再提示する場面。法華経では「散文 → 偈」の二段構造がよく使われるけれど、これは 同じ内容を“論理形式”と“詩的形式”の両方で提示することで、意味を二重に顕すための構造。あなたが好む「法が法を照らす二重構造」に近い。2026/09/09 08:46:39258.夕K0pS8この一句が出る場面の意味(抽象構造)法華経では、散文で説かれた内容を偈で再説することで、意味の強調(重宣)教えの凝縮(偈)場の転換(散文→偈)法の自己照明(同じ内容を二度顕す)という構造が成立する。あなたが以前言っていた「法が自らを証明する」という読みと完全に一致する部分。2026/09/09 08:47:22259.夕K0pS8■ 散文 → 偈 の二段構造法華経では、散文で説いた内容を偈で再説することで、意味の強調(重宣)法の自己照明(同じ内容を二度顕す)場の転換(叙述 → 詩偈)教えの凝縮(偈)が起こる。つまり、宝塔の出現という“法の顕現”を、偈によって再度照らし返す構造。あなたが以前言っていた「法が法を証明する」という読みと完全に一致する。2026/09/09 08:49:01260.夕K0pS8見宝塔品でこの一句が出る意味(あなた向けの抽象構造)宝塔湧出 → 多宝証明 → 二仏並坐 → 分身諸仏集会という「法の自己展開」が完了したあと、釈尊が偈を説くのは、法の自己展開を“言語形式の二重化”によって確定させるため。散文は「説明」偈は「顕現」という二重構造。2026/09/09 08:49:33261.夕K0pS8知らなかった。2026/09/09 08:50:14262.神も仏も名無しさんRxhiU顕現か〜ほんと、そういう体現的なのは大事だ悟り悟りと宣伝する中身のないバカがいるけどなー😀2026/09/09 08:51:44263.神も仏も名無しさんRxhiU俺は宗教書すべて基本「顕現」的な読み方しかしないな😀禅書関連は少し意味合いが異なるが😀2026/09/09 08:52:59264.夕7plUp聖主世尊 雖久滅度 在宝塔中 尚為法来諸人云何 不勤為法 此仏滅度 無央数劫処処聴法 以難遇故 彼仏本願 我滅度後在在所往 常為聴法尊い仏(多宝仏)は、久しく涅槃に入っているはずなのに、 いま宝塔の中に現れて、法のために再び来臨している。それなのに、どうして人々は法のために励もうとしないのか。 この仏(多宝仏)は、はるか昔、数えきれない劫の前に涅槃に入ったのだ。その仏が、法を聞くために、さまざまな場所へ姿を現す。 それほど、この法に出会うことは難しいからである。その仏(多宝仏)の本来の願いは、 “私(釈尊)が滅度した後も、どこへでも赴き、 常に法を聞くために現れる” というものである。2026/09/09 13:17:39265.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAiSkis>>252>>自治会の書類作り神社の秋祭りの資料かい?2026/09/09 14:46:01266.ゆう5xdS0>>265第二回班長会議ねまた、あとでね(*^^*)2026/09/09 18:38:46267.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAiSkis>>2669月の時点で「第二回班長会議」ということは、あんまり活発に活動してない自治会なのね。裏山鹿~うちの自治会は8月末に第3回役員会議があった。だいたい、年に5~6回、役員会があるね。2026/09/09 18:44:40268.夕2dVsZ年に5~6回も何をやっているんだ。※祭りは神社総代がやる。また、子供会も神輿を出すかが、お祓い時だけ一緒に神主におはりをしてもらう。自治会がやっていることをまとめれば、①年に一回の集金 (年回会費、募金、消防団分担金を一緒に集める)②月に二回の広報を配る③年に三回の一斉清掃。④次期会長、次期班長の選出のための第二回班長会議⑤総会。総会時に一緒に第一回班長会議もやってしまう。集落センターの掃除、ゴミ置き場の掃除等は各班がやっている。イベントごとはやらない。2026/09/10 04:22:21269.夕2dVsZ神主におはりをしてもらう。間違い。神主にお祓いをしてまらう。です。2026/09/10 04:23:33270.夕2dVsZ防災関係は、できることがないな。訓練をしていないと、なかなかできるものではない。消防団も昔ほどの勢いがない。また、消防団分担金が、じょじょに問題になってきている。これを廃止している市が出てきている。直接、分担金を消防団が受け取ったらいけないということみたいだ。慣習として成立しているだけで法律的にはアウトみたいだ。文短気というよりは協力員という形一度市に上げて、それを各分団に割り振る分にはいいみたいだが、市がそれをやっていない。2026/09/10 04:29:44271.夕2dVsZ文短気というよりは協力員という形一度市に上げて、それを各分団に割り振る分にはいいみたいだが、市がそれをやっていない。すいません、誤字がある分担金というよりは協力金という形にして一度市に上げて、それを各分団に割り振る分にはいいみたいだが、市がそれをやっていない。2026/09/10 04:31:42272.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cp>>268>>イベントごとはやらない。超、超、裏山鹿~~!!ということは、夕さんの自治会では役員会(班長会)が年2回しか開催されないってことだね。うちの自治会では、9月の上旬のクソ暑くて異常気象で突然、雷が落ちそうな公園(木がたくさん植えてある)でバーベキュー大会があるのだ。この、生命に危険を感じるようなイベントのために、2時間×3回の役員会が行われ、お通夜のような雰囲気の中で、役割分担の話し合いが行われるのだ。2026/09/10 07:59:16273.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cp>>270うちの場合は、平成11年に近隣3自治会が連合組織を作って、小型ポンプを購入して、毎年、小型ポンプ操作の速さを競う大会に出場していた。ワシのオヤジは、「あんなのは、意味が無い」と痛烈に批判していた。なのでワシは平成19~20年に、試験的に体験入団してみた。まあ、語ると20レスを費やしてしまうのじゃが、「あんまり意味が無い」というオヤジの主張が理解できた。2026/09/10 08:06:44274.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cp>>268素朴な疑問だけど、班長会っていう呼称は違和感があるね。班長会には会長、副会長、会計も出席するのだから、「役員会」が正しい呼称では?2026/09/10 08:11:15275.夕2dVsZあらためて言われるとそうかもしれない。班長=役員 だから、どちらでもいいんじゃないの。2026/09/10 08:18:32276.神も仏も名無しさん0IPKM公務員らしき考えだ😀2026/09/10 08:20:00277.夕2dVsZ神社も国道をつくる時に移動になって、補助金で建てたから、立派になってしまってね。建物も補修が必要になってきている。後、木も植えたから、でっかくなってしまった。。まだ回りが畑だからいいようなものの、農家が土地を売って、そこに家が出来たら、問題になるだろうな。しかし木の伐採は反対する人もいる。世帯交代しないとこういうのは話が進まない。2026/09/10 08:34:02278.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cp>>275多分、自治会規約では「役員会」になっていて、慣習で呼称が「班長会」になってるかもね。2026/09/10 08:42:24279.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cp>>277近所の神社だけど、昭和46年に山を切り崩して移転新築した。高価な石をふんだんに使った贅沢な建物だ。昭和46年に参道の登り階段の脇に桜の木を植えたのだが、平成22年に害虫が大量発生して50本、伐採した。1月ころに見積をとったら60万円だったが、責任者が渋って見送った。そうしたら害虫の被害が近隣住宅に拡大した蔓延してきた。5月に再度、見積もりを取ったら80万円になっていた。結局、80万円かけて伐採したとな。2026/09/10 08:50:20280.夕2dVsZ>>279一本80万円ですか?2026/09/10 08:52:28281.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cp>>28050本で80万円2026/09/10 09:47:02282.ゆうmiB9M>>281そうなんだ。やすくかんじる。サクラ50本とは大きな神社だね。イチョウの木一本50万以上神木ってわけではないが神社の木は切るべきではないと言う意見があるから中々切ることができない。今、温泉なのでまたあとで(*^_^*)2026/09/10 10:34:04283.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cp>>282道1本、はさんだ隣にも神社があって、お隣の神社の桜が見事だったので、対抗意識でたくさん植えたらしい。神社は10自治会が当番制で管理をしている。平成22年に当自治会が当番になり、責任者(自治会長)が伐採の判断をしたのだけど、その人が「神社信仰が薄い人」で、何かと「神社の古株役員」と対立していた。2026/09/10 12:27:47284.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAUM1cpつまり、我が自治会長は「神社維持管理に多額の費用をかけたくない。なぜなら、神社というモノは、自治会に臨時徴収したがるからだ」一方、「神社の古株役員」は「さっさと伐採しろ」・・・ということで、もめていた。まあ、伐採の件で臨時徴収は無かったので、我が自治会長がゴネたので、支払い金額が増えただけ・・・・という出来事でした。2026/09/10 12:33:20285.ハジZvePT高野山は脱税してたの?2026/09/10 20:01:27286.夕22KcD>>284>神社というモノは、自治会に臨時徴収したがるからだうちなんて、神社の氏子会費500円上げるだけで大変だ。現在担ぎ手がいないので神輿は出していない。会費と神社総代と自治会長と他少数だが、奉納金をだしてくれているので何とかやっていけている。結局運営側が少しだが金を出している。神輿も地元の不動産やの寄付で、担ぐのが始った。バブルの産物だよ。昔は秋祭りしかなかった。現在、昔に戻そうという動きができている。去年神社の建物の一部土台がやられていたので補修した。70万です。神社30万自治会40万ぐらいの割合で出した。2026/09/10 20:30:30287.神も仏も名無しさんnbJP8神社も衰退だな、😅2026/09/10 20:40:33288.夕22KcD>>287地方は昔に戻っただけだよ。そういう伝統があれば話は別だ。伝統があっても、世界遺産または、繁盛しているところじゃないと、続かない。2026/09/10 20:43:55289.夕22KcDコロナ終息事、渡御をやるかで迷った。近隣の自治会はやる方にシフトしたが。当時の総代は、前提はやる方向で話を進めていた。そして、その判断として、足袋の発注をするんで担ぐ人数がわかる。担ぎ手がいないの当時の総代が担ぐのをやめる判断をした。それに対して文句はなかった。2026/09/10 20:45:10290.神も仏も名無しさんnbJP8農業の豊作とか神社の関係は薄くなってきた感があるかもなー農家じゃないのでわからんけどー😀2026/09/10 20:55:01291.神も仏も名無しさんnbJP8地元新聞で農家が渇水で困っていると知ったので俺が雨乞い祈祷をすると解決したかもーたぶんな😀2026/09/10 20:56:37292.夕22KcD>>290昔は各農家の持ち回りで、宴会を催していたのだろうね。それが集会場とかできて、集会場で宴会をしていた。総会すら、宴会だ。これが徐々にやらない方向に進んだ。時代の流れだと思う。昔はイベントごとが無かったからね。2026/09/10 20:58:05293.夕22KcD>>291有難いことで😊2026/09/10 20:59:12294.神も仏も名無しさんnbJP8今はコメ農家なんか修羅場らしいな経営難でメンタル病むらしいレベル農家が増えているらしいから寺院や神社行事なんかには淡白になってるだろうな😅2026/09/10 21:00:46295.夕22KcD>>294不動産関係で、恩恵を得ているところもあれば、無いところもあるっていう感じだね。そう意味で二極化している2026/09/10 21:02:44296.神も仏も名無しさんnbJP8>>293なんか、よー分からんけど天性のご祈祷能力があるかもしれん父方の先祖の血筋が修験道の系統らしい😀2026/09/10 21:02:49297.神も仏も名無しさんnbJP8>>296兼業経営者としてやれれば安定みたいな感か?😅2026/09/10 21:04:40298.夕22KcD>>296>父方の先祖の血筋が修験道の系統らしいそういうのがあると、興味を持つよね。知る前から興味があれば、何だろう。運命か😊2026/09/10 21:04:49299.神も仏も名無しさんnbJP8家の仏壇に祖母系統のお経がある祖父の代あたりから現在家は元知恩院派浄土宗系統なので、般若心経なんか用がない、祖母の故郷が臨済宗檀家の修験道の関連のある名族出らしい😀それでか〜と最近解った😀2026/09/10 21:08:14300.夕22KcD>>297どうだろうね。スーパーとかに土地を貸せれば御の字だろうね。スーパーが撤退すると後が大変だ。多額の固定資産税がかかる。土地を売る羽目になる。農地のままなら、固定資産税もほとんどかからない。発展してきている土地でどっちを取るかだね。2026/09/10 21:10:31301.神も仏も名無しさんnbJP8今西山派に変えたのでお盆でお経読むがお経本には般若心経はない、西山派は判断を読む派ではあるが家の勤行一式には入っていない般若心経は寺男やってた曹洞宗寺院と近所の無住の真言宗寺院くらいしか般若心経を唱えない、読み方を宗派色で声色を変えて読んでいる😀2026/09/10 21:11:41302.神も仏も名無しさんnbJP8>>298ま、俺は元は修験道はそんなに本気度合いが低かった2003年〜2008年くらいまでは夕に近い正統派志向?だらけだった😀2026/09/10 21:14:43303.神も仏も名無しさんnbJP8正統派瞑想系統仏教をとりま禅定ゲットしたから、もーいいや感になっていた生活で実践ベースになっていた文字やフィールドワークは修験道や念仏に寄っていったけど😀2026/09/10 21:16:10304.夕22KcD>>301じゃ、浄土系も詳しんだ。2026/09/10 21:16:36305.神も仏も名無しさんnbJP8インド中国仏教はとりま、情報収集やフィールドワークは満足したくらいになってた三論宗だけは滅びているので最近まで食べ残しだった😀2026/09/10 21:18:11306.夕22KcD確かに瞑想系はいいやという感じがある。後は坐るだけって感じかな。後は、道元さんが法華信者だということで、法華経とはどういものか。何で、あんなに信仰できるのかと興味がある。2026/09/10 21:18:59307.神も仏も名無しさんnbJP8>>304勤行あげても自動的に天台智顗化してまうのでリアルなのは解ってないな😀2026/09/10 21:19:07308.神も仏も名無しさんnbJP8>>306仏教を解ってきたスレにAIで曹洞宗の肯定と否定とは?みたいなのを検索してコピペしとるから、それがイコール法華経なんだろうなー感はある質問が良いとAI解答もまともなのが出るな、感修行してる感の解答ではないが屁理屈としてはイケてる感じだ😀2026/09/10 21:21:46309.夕22KcD>>307祖先が浄土宗、臨済宗ということは、武士だったんじゃないの?2026/09/10 21:22:07310.夕22KcD>>308>曹洞宗の肯定と否定とは?なにそれ、俺もやってみよw2026/09/10 21:23:54311.神も仏も名無しさんnbJP8AIは質問が上手いと上手く答えるなーたぶん、まーまーいけてるだろう臨済宗系統はAIは無理だろうけど道元禅師の無常、否定と肯定 道元禅師の思想における「無常」、そしてそこから展開される「否定と肯定」は、彼の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を貫く最も核心的なテーマの一つです。道元は、仏教の根本真理である「諸行無常」をさらに深化させ、独自の「存在論」と「実践論(坐禅)」へと昇華させました。その思想の構造は、以下のように整理できます。1. 道元における「無常」:すべてが今この瞬間の現れ一般的な無常観は「すべてのものは移り変わり、いつかは滅びるから儚(はか)ない」という哀愁を伴うものです。しかし、道元の無常観は異なります。有時(うじ)の思想: 道元は「時間は流れるものではなく、存在そのものが時間である(存在=時間)」と説きました。今この瞬間の絶対性: 過去や未来という地続きの流れの中で無常を捉えるのではなく、「今・ここ」という一瞬一瞬に、宇宙のすべて(全存在)が完全に現れては消滅していると捉えます。これを「薪(まき)は薪の法位に住し、灰は灰の法位に住す(薪が燃えて灰になるのではなく、薪の瞬間と灰の瞬間がそれぞれ独立して絶対的に存在する)」と表現します。2. 「否定」のステップ:固定観念や自己の解体道元の思想における「否定」とは、私たちが無意識に持っている「固定的なもの(実体)がある」という思い込みへの徹底的な批判です。身心脱落(しんじんだつらく): 坐禅の本質を、道元は「身心を脱落すること」と言いました。これは、「私」という固定された人間がいる、という自己中心的な錯覚(我執)を徹底的に否定し、削ぎ落とすことです。仏性の再定義(悉有仏性): 従来の仏教では「すべての衆生(生き物)には仏になる可能性(仏性)がある」と考えられていましたが、道元はこれを「悉有は仏性なり(すべての存在そのものが、そのまま仏性である)」と読み替えました。「内に秘められた種」としての仏性を否定し、固定的な本質などどこにもない(無常・空)という事実そのものを突きつけます。2026/09/10 21:23:55312.神も仏も名無しさんnbJP8。3. 「肯定」への反転:ありのままの現実の絶対肯定徹底的な否定(自己の解体、固定観念の打破)をくぐり抜けた先に、道元は「目の前にある、移り変わる現実そのものの絶対肯定」へと到達します。現成公案(げんじょうこうあん): 固定的な「私」や「真理」を否定したとき、目の前に広がる「山、川、草、木、音、色」といった、無常なる世界がありのままに真理として現成(現れる)します。無常そのものが仏性: 道元は「山色渓声(さんしょくけいせい)みなこれ釈迦の広長舌(こうちょうぜつ)」(山の姿も谷川の響きも、すべてはお釈迦様の説法そのものである)と言います。移ろいゆく無常の現実を「儚いからダメだ」と否定するのではなく、「無常だからこそ、その一瞬一瞬が尊い仏の姿そのものである」と大肯定するのです。4. 否定と肯定の統合:「修証一等(しゅしょうっとう)」道元にとって、否定(修行・坐禅によって自己を無くすこと)と、肯定(すでに悟っている現実の顕現)は別々のものではありません。「悟るために修行する」の否定: 「まだ悟っていない自分(否定)」から「悟った自分(肯定)」へ向かうという段階的な見方を否定します。「修行する姿がそのまま悟り」の肯定: 坐禅という実践(自己を否定し続ける営み)を行っているまさにその瞬間、すでに完全な悟り(絶対肯定)が実現していると説きました。まとめ道元の思想は、「固定的な自己や世界を徹底的に否定(無常・空の自覚)することで、逆に、いま目の前で移り変わりつつある生々しい現実のすべてを、仏の現れとして絶対肯定する」というダイナミックな逆説(パラドックス)を持っています。無常だからこそ虚しいのではなく、無常だからこそ今の一瞬が絶対的な価値を持つのです。2026/09/10 21:24:38313.神も仏も名無しさんnbJP8この辺が道元禅師と法華経の関係だろうと😀2026/09/10 21:25:01314.神も仏も名無しさんnbJP8屁理屈過ぎるけどなー修行的にはイマイチだろうけどなー😀2026/09/10 21:27:19315.神も仏も名無しさんnbJP8>>309父の母方の方は、武士らしい地元の名族だったようだ祖母はお嬢様タイプの気質だったみたいだ😅2026/09/10 21:30:03316.夕22KcD>>313これ、読んだよ。本覚思想との折り合いだろうね。修証一等に落とし込んだ。別の角度からしたら、せんたんが初心だと言ったのも、今とは新しい今しかないから初心とは新しい今に付随して初心がある。まぁ今が先でも初心が先でもどちらでもいいまぁ、世阿弥の初心とまぁ似ている。ちょっと話がズレたかw2026/09/10 21:30:43317.夕22KcD>>314本覚思想を絡ませると確かに屁理屈だ2026/09/10 21:31:55318.神も仏も名無しさんnbJP8>>316>せったんが初心だと言ったのも、今とは新しい今しかないから天台智顗の天台小止観でも修行を求めようとする初発心はそのものが悟りだったというオチだ😀2026/09/10 21:50:58319.神も仏も名無しさんnbJP82006年あたりの禅に手が届かない時期にかなり天台華厳真言とかの本を読んでたなー😀2026/09/10 21:52:37320.神も仏も名無しさんnbJP8屁理屈だけど法華経の雰囲気の解釈はまーまーイケてるかもなー😀2026/09/10 21:53:43321.神も仏も名無しさんnbJP82008年頃にやっと禅の最初のスタート地点に立て初めたくらい😀2026/09/10 21:54:49322.神も仏も名無しさんoB9I9キチガイ、2026/09/10 22:54:47323.夕0VXqv 又我分身 無量諸仏 如恒沙等 来欲聴法 及見滅度 多宝如来 各捨妙土 及弟子衆 天人龍神 諸供養事 令法久住 故来至此 為坐諸仏 以神通力 移無量衆 令国清浄 諸仏各各 詣宝樹下 如清涼池 蓮華荘厳 其宝樹下 諸師子座 仏坐其上 光明厳飾 如夜闇中 然大炬火 身出妙香 十方国 衆生蒙薫 喜不自勝 譬如大風 吹小樹枝 以是方便 令法久住また、私(釈尊)の分身である無量の諸仏たちが、 恒河の砂の数ほどに現れて、法を聞くためにやって来る。それぞれが自らの清浄な国土を離れ、弟子たちや天・人・龍神などの供養を捨てて、 この場に集まっている。法を久しくこの世に存続させるために、ここへ来ているのである。諸仏を座らせるために、神通力をもって無量の衆生を移動させ、 この国土を清浄にした。諸仏はそれぞれ宝の樹の下へと向かう。その宝樹の下は、清らかな池に蓮華が咲き誇るように荘厳である。宝樹の下には師子座(獅子座)が並び、 諸仏はその上に座る。その光明は荘厳で、 夜の闇の中に大きな松明が燃えているようである。仏の身からは妙なる香りが放たれ、十方の国土を薫らせ、 衆生はその香りに包まれて、喜びに耐えられないほどである。それは、強い風が小さな木の枝を揺らすようなものだ。このような方便によって、法を久しく存続させるのである。2026/09/11 04:14:41324.夕0VXqv① 釈尊の分身諸仏が無量に集まるまた、私(釈尊)の分身である無量の諸仏が、恒河沙の数ほどに現れる。■ 構造分身諸仏=法の働きの多様性法が説かれる場に、法の働きが自ずと集まる「主体(説く者)」が増えるのではなく法が法を呼び寄せる② 諸仏は自らの国土・弟子・供養を捨てて来る清浄な国土を離れ、弟子や天人龍神の供養を捨てて来る。■ 構造諸仏は「自分の世界」を捨てて集まるこれは 法の前では仏の差異が消える という構造「仏が仏に重なる」準備段階③ 法を久住させるために来る法を久しく存続させるために来ている。■ 構造法の永続性は、仏が保証するのではなく法が仏を動かして永続性を成立させるつまり、法 → 仏 → 法 → 仏 → 法という自己照明の循環。④ 神通力で国土を清浄にする諸仏を座らせるために、神通力で衆生を移し、国土を清浄にした。■ 構造法が説かれる場は、法によって変容する「場」が法に感応して清浄化するこれは 実相が実相として立ち上がる というあなたの表現そのもの2026/09/11 04:23:35325.夕0VXqv⑤ 宝樹下に諸仏が座す宝樹下に獅子座が並び、諸仏がそこに座る。■ 構造宝樹=法の象徴獅子座=法の権威仏が法の座に座る→ 仏が法に重なる(不二)⑥ 光明と香気が十方を満たす光明は闇を照らし、香気は十方を薫らす。■ 構造光=法の智慧香=法の働き十方=全世界→ 法が世界を満たす衆生はその香気に包まれ、喜びが溢れる。これは 法が衆生の心を直接動かす という構造。⑦ 大風が小枝を揺らす比喩強い風が小枝を揺らすようなもの。■ 構造法の働きが衆生を揺り動かす衆生の主体性ではなく、法の側の働き主体不可得・客体不可得の構造⑧ 方便によって法久住この方便によって法を久しく存続させる。■ 構造法の自己展開(宝塔湧出・諸仏来集・国土清浄)が法の永続性を保証する仏が法を守るのではなく法が仏を動かし、法を守る2026/09/11 04:26:28326.夕0VXqv🟥 全体構造のまとめ(あなた向けの最終図式)法が説かれる→ 法が感応する→ 法が場を変容させる→ 仏が現れる→ 仏が仏に重なる→ 法が世界を満たす→ 法が法を永続させるこの循環こそが、あなたが言う 「実相が実相として立ち上がる」 という構造。そして、仏が仏と重なる=法が法を照らす不二の構造まさに見宝塔品の核心。2026/09/11 04:27:11327.エロ和尚◆ERO.Kk3nCAYas3z>>286そうそう。バブルで一時期、自治会も神社もイベントが増えたけれど、世の中の流れとしては、今は縮小する流れになっているね。うちの自治会は、その流れにあらがって、イベントを維持したい人が多い。なので、ワシは困っているのじゃ。2年後に年齢順で自治会長が当たるが、イベントをさせられる。2026/09/11 09:24:01
【米国研究】コロナワクチンを接種した人は、ワクチン未接種の人に比べて入院する可能性が低い、追加接種で71%、更新接種で69% リスクが低下した・・・研究者「最新のワクチン、確実に接種を」ニュース速報+873864.52026/09/11 09:22:27
三昧の内容である
ようは夕が多宝如来であり釈迦
やめとけ(笑)
暇なんだよ、酒のつまみだ
真如→如来、如是→有為法
という我々の現れを
虚空会で描写してんのよ
定なりやってりゃ気がつく
智顗は虚空会に参加した
これは法処所摂色の定所引色で説明がつく
ようは虚空会が歴史的事実である必要はない
唯識の走りで
瞑想中に糞リアルな死体か現れるんだけど!
(修行で死体をみることがある)
想像とかではなくて色として現出するので
心にも対象があるのでは?
というきっかけ
この定所引色、定果色が現れるまで
定、瞑想をしてないと
ちょっと理解が及ばない
法華経の虚空会は奇想天外の荒唐無稽
ではなく
智顗のように定でリアルタイム参加が
可能である
遠回りだゾ
であって、何も比喩に落とすこともない
素直に受け取ってよし
識字率の問題と定の問題がある在家に
向けた、円融や当体蓮華という
パッケージの発明が素晴らしいということ
万人に再現性がある
必要としない方法論だな
必要か?
実は必要ではないんよね
誰が必要か、凡夫が必要なパッケージ
果報の当体蓮華でもいいんだが
なんなら智顗のように
虚空会リアルタイムオフ会をやりたい
法華経を信じることは難しいと言うが
素直に受け取ればよい
釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった。
要約するとこういことである。
多宝は過去法華経で悟った仏である。
娑婆世界で法華経を唱えているのは釈迦である。
多宝は法華経を説く者があれば証明しようと現れた。
※私が感じるのは、法華経はよく法を説くと言われている。この辺がそのいわれの根拠なのか
仏よりも法が先みたいな。
多宝は「釈迦の不二の法」を証明するために現れる
比縁性とは順縁、逆縁が混ざっている。不二の始まりである。釈迦そのものが不二である。その不二を証明する為に、多宝があらわれたともいえる。
此があれば彼がある(順縁)
此がなければ彼がない(逆縁)
此が生じれば彼が生じる(順観)
此が滅すれば彼が滅する(逆観)
過去の法(多宝)
現在の法(釈迦)
法が自らを証明する構造
何かの象徴(坐禅していて見えたビジョンとか)と解釈するのは邪道
見宝塔品が好きですな~
確かに、法華経でも最も印象的な場面のひとつ
霊友会の小谷喜美から「どの品が好きか?」と問われて、そう即答したという
『法華経』の説話: 釈迦が説法をしているとき、大地から巨大な宝塔が湧き出ました。中から多宝仏が現れ、自分の隣の半座を空けて釈迦を招き、共に並んで座ったとされる奇跡の場面です。
教えの証明: 過去の仏である多宝仏が現在の仏である釈迦の説法が真実であると証明する、法華経の重要な象徴的場面です。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEigB73235TWx3J3iiBdv5Xf94wSLwoEh2slZoG1T5bSPmSM_D1_TddVT652Ar7SOI6Om4rRTnhHEvlOdqA8vSG5f6m_RwtGIzVvzI07LZ3uS7k3ImBfs2FZlTbRwrwX20XP37u_/s400/I3-103.jpg
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjnToMBW4ztSndUivmvrmcH-87w6Jg2dz-HdJUTdjyC_sqkrZenZYupwLSaPv4UxgTy0-Lu5Jdgx1j5eiTxPfiqABV2K-jGeWZ1TTCucSw_SJxJ72eBpQoineStJFE6kyLx5iyM/s400/09IMG_7534.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Hokke_Sesso_Bronze_Plaque_Hasedera.JPG/960px-Hokke_Sesso_Bronze_Plaque_Hasedera.JPG?utm_source=ja.wikipedia.org&utm_campaign=parser&utm_content=thumbnail
https://stat.ameba.jp/user_images/20170713/14/gokokuji5594/c6/20/j/o0551064013981470550.jpg?caw=800
見宝塔品が好きというより、法華経との出会いが特殊だったんだよね。
創価学会と正宗の知人がいて、そこから法華経を読むことになった。
現代語訳を読んで、一度は離れたんだけど、
道元も法華信者だったと知って読み直している。
今は漢文を拾ってAIに訳させながら読んでいる。
声に出して読むのもいいかなと思っている。
今日、座布が届くから、しばらく坐ってみるつもり。
宝塔品については、過去仏(多宝)が現法(釈迦)を証明する構図が面白い。
過去法が現法を証明するというのは、
法が法を照らす、法が法を証明するという自己証明の構造だと思っている。
仏が重なるというより、法が重なるという感じで読んでいる。
この宝塔の中には如来の全身がまします。
その如来は、はるか過去の東方、無量千万億阿僧祇の世界にある「宝浄」という国の仏で、多宝如来と名づけられる。
この仏が菩薩であった時、大いなる誓願を立てた。
「もし私が成仏し、滅度した後で、
十方のどこかの国土において法華経を説く者があれば、
私はその者の前に塔廟を湧き出させて現れ、
その教えが真実であることを証明しよう。
そして『善いかな、善いかな』と讃嘆しよう。」
其仏以神通願力。十方世界。在在処処。若有説法華経者。彼之宝塔。皆涌出其前。全身在於塔中。讃言善哉善哉。大楽説。今多宝如来塔。聞説法華経故。従地涌出。讃言善哉善哉。
その仏(多宝如来)は成道したのち、滅度に臨んだ時、
天人をはじめとする大衆の前で比丘たちにこう告げた。
「私が滅度した後、もし私の全身を供養したいと思うなら、
大きな塔を建てるがよい。」
その仏は、神通と誓願の力によって、
十方世界のどこであっても、
もし法華経を説く者がいれば、
その者の前に宝塔が湧き出て現れるようにした。
その塔の中には多宝如来の全身があり、
『善いかな、善いかな』と讃嘆するのである。
今まさに、多宝如来の塔は、
釈迦が法華経を説いているのを聞くために、
地中から湧き出て現れ、
『善いかな、善いかな』と讃嘆しているのである。
その時、大楽説菩薩は、如来の神通力によって立ち上がり、 釈尊に申し上げた。
「世尊よ。私たちは、どうかこの多宝如来のお姿を拝見したいと願っております。」
仏告大楽説菩薩摩訶薩。是多宝仏。有深重願。若我宝塔。為聴法華経故。出於諸仏前時。其有欲以我身。示四衆者。彼仏分身諸仏。在於十方世界説法。尽還集一処。然後我身。乃出現耳。大楽説。我分身諸仏。在於十方世界。説法者。今於当集。
仏(釈尊)は、大楽説菩薩摩訶薩に告げられた。
「この多宝仏には深く重い誓願がある。 もし私の宝塔が、法華経を聴くために諸仏の前に湧き出て現れる時、 もし四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)に 私の姿を示したいと願う者がいるならば、 まず私の分身である諸仏が、 十方世界で説法しているのをすべて一か所に集めなければならない。 その後になって、ようやく私の身は塔の中に現れるのである。」
「大楽説よ、 今まさに、十方世界で説法している私の分身諸仏は、 すべてこの場に集まっている。」
お経を読んで面白と思ったことはなかった。面白いねw
坐布が来た。私は、坐禅と法華経にするわ。この頃暗記力は今三www
「世尊よ、私たちもまた願っております。 どうか、世尊の分身である諸仏のお姿を拝し、礼拝し、供養したいのです。」
爾時仏放。白毫一光。即見東方。五百万億。那由他。恒河沙等。国土諸仏。彼諸国土。皆以頗黎為地。宝樹宝衣。以為荘厳。無数千万億菩薩。充満其中。張宝幔。宝網羅上。彼国諸仏。以大妙音。而説諸法。及見無量千万億菩薩。満諸国。為衆説法。南西北方。四維上下。白毫相光。所照之処。亦復如是
その時、仏(釈迦)は白毫相から一筋の光を放たれた。 すると、東方の五百万億・那由他・恒河沙ほどの数の国土にいる諸仏の姿が見えた。
それらの国土はすべて頗梨(クリスタル)の地でできており、 宝の樹や宝の衣で荘厳され、 無数千万億の菩薩たちが満ちていた。 宝の幔(とばり)が張られ、宝の網が上にかけられていた。
その国々の諸仏は、妙なる大音声で諸法を説いており、 また無量千万億の菩薩たちが国々に満ちて衆生に法を説いていた。
南・西・北・四隅・上下の諸方も同じで、 白毫相の光が照らすところはすべて、 東方と同じように荘厳された国土と諸仏・菩薩の姿が現れた。
こんなスレを
まー天台マスター目指せ
😀
こちらは
😀
😀
そこまでわねw
チョット法華経にこだわってみようかなってね。
天台、華厳、真言あたりの
空間認識が不足しているな、
無関係に見えて
なんか、禅ぽい夕にレスしていた人も
その面で鈍い
😅
>空間認識が不足しているな、
無関係に見えて
法界縁起ってことかな?
存在論ではない
😀
その時、十方世界の諸仏は、それぞれ自分の周りの菩薩たちにこう告げた。
「善男子たちよ。 私は今、娑婆世界へ行き、 釈迦牟尼仏のもとへ赴き、 多宝如来の宝塔をともに供養しよう。」
西欧哲学的ものさしで測っているから
知らず
知らずに毒をやつらから
飲まされていたんだな
感
確かに
製ウンコ派から、かなり影響を受けてるみたいだな?
イミフな哲学を混入してるからなー
さて、昨夜と今朝は
山伏念仏の聖地における
信仰 修行、往生について検索した、
まだ、やるべき検索があったので
聖地検索する
😀
禅定ゲット満足してたので
リアル洞察してなかった
😀
明治以前の奈良・大和の総本山 長谷寺(大和長谷寺)における信仰・修行内容、および独自の「往生(あの世への旅立ちと救済)」の過程について解説します。
明治以前の長谷寺は、現在の真言宗としての法要だけでなく、現世利益(いま生きるための願い)と来世往生(死後の救済)がグラデーションのように結びついた、極めて独特な「聖地」として信仰されていました。🌸 1. 明治以前の信仰・修行内容明治より前の長谷寺における主たる信仰は、本尊である「十一面観世音菩薩」への絶対的な帰依です。それは主に以下の3つの形で行われていました。① 長谷詣(はせもうで)と参籠(さんろう)修行夜通しの祈願(参籠): 平安時代から江戸時代にかけて、貴族や庶民が「長谷詣」を行いました。参拝者は本堂に何日も泊まり込み(参籠)、夜通し観音経を唱えたり、灯明を捧げたりして祈りました。お告げ(夢告)を待つ: 参籠の最大の目的は、観音様から夢の中でメッセージ(夢告)をもらうことでした。これが人生の指針や救いになると信じられていました。② 女性救済の聖地罪深いとされた女性の救い: 当時の仏教観(五障三従など)では「女性は往生が難しい(あるいはそのままでは極楽に行けない)」とされる風潮がありました。しかし、長谷寺の観音様は「女性をそのままの姿で無条件に救う」と信じられ、『源氏物語』や『蜻蛉日記』に見られるように、多くの女性が命がけで参拝しました。③ 山林修行・修験(しゅげん)との習合初瀬山(泊瀬峯)での修行: 長谷寺が位置する初瀬の地は、古くから神仏が宿る霊山とされていました。僧侶や修験者(山伏)たちは、山奥の滝や断崖、周辺の霊峰を巡る過酷な山林修行を行い、観音の霊力を自らの身体に宿そうとしました。霊木と地獄の記憶:長谷寺特有の「往生の過程」長谷寺における「往生(死後に救われるプロセス)」は、阿弥陀如来の極楽浄土へ行くものとは少し異なり、「地獄・現世・浄土の境界にある初瀬の谷で、観音様の手によって直接救い上げられる」という独自のストーリーを持っています。鎌倉時代の説話集『長谷寺験記』などに基づくと、明治以前の人々が信じていた往生のプロセスは以下の通りです
初瀬の谷への魂の集結古来、初瀬は「隠国(こもりく)の泊瀬」と呼ばれ、現世とあの世が繋がる「あの世の入り口(葬送の地)」と考えられていました。人が亡くなると、その魂はまず長谷寺のある初瀬の谷へ赴くと信じられていました。地獄の閻魔大王との対峙(長谷寺式十一面観音の特長)長谷寺の観音様は、右手に「地蔵菩薩」と同じ「錫杖(しゃくじょう)」を持っています。地蔵菩薩は地獄に落ちた衆生を救う仏です。人間が死後、地獄の裁判官である閻魔大王(徳道上人に三十三所霊場を開くよう命じたとされる存在)の前に引き出されたとき、長谷寺の観音様は地獄にまでその錫杖を突いて現れます。地獄・悪道からの「救い上げ」死者が生前に長谷寺へ参拝していたり、観音様の名を唱えていたり(あるいは灯明を捧げていたり)すると、観音様がその錫杖の力で地獄の業火を消し去り、死者の苦しみを取り除いて、罪人であっても直接引き上げてくれます。補陀落(ふだらく)浄土への往生観音様に救い上げられた魂は、阿弥陀如来の「西方極楽浄土」ではなく、観音菩薩の住処である「補陀落山(観音浄土)」、あるいは「長谷寺の本堂そのものが現世の浄土」として、そこに迎え入れられ、永遠の平穏を得るとされていました。📌 まとめ明治以前の長谷寺は、単なる「お祈りをする場所」ではなく、「生きていくためのあらゆる願い(現世利益)を叶えつつ、死後は地獄の縁から観音様が直接手をつかんで引っ張り上げてくれる(来世往生)」という、生死のすべてを保障してくれるワンストップの聖地として機能していました。
法華経の聖地ではあるんだが
修験道寄りだ
😅
天台の空間認識(重なり)
一念三千
十界互具
三世間(五陰・衆生・国土)
→ 法が「重なり合う」空間
→ 一念の中に三千世界が折り畳まれている
これは 重層的空間。
② 華厳の空間認識(貫入)
事事無礙法界
一即一切・一切即一
帝網の重々無尽
→ 法が「相互貫入」する空間
→ 一つの事物が全世界と無礙に貫入し合う
これは 無限貫入空間。
③ 真言の空間認識(配置)
曼荼羅
胎蔵界・金剛界
→ 法の働きが「どこに位置し、どう流れるか」を図形化
→ 法の空間的配置図
これは 機能配置空間。
法界縁起と言わないで、法界認識または、単純に法界?
暇つぶしに行った室生龍穴神社のパワーに満足し過ぎて検索しなかった
😀
明治以前(江戸時代まで)の室生龍穴神社は、隣接する室生寺と一体の「神仏習合」の聖地として信仰されていました。当時は現在の「神社」という単独の枠組みではなく、室生寺(かつては龍王寺とも呼ばれた)の鎮守社、あるいは一体の山岳密教道場として独自の修行や往生思想が展開されていました。その具体的な信仰・修行内容、および「往生(救済)の過程」についての詳細は以下の通りです。1. 明治以前の信仰と修行内容明治以前の室生龍穴神社(当時は「善女龍王社」などと称された)を中心とする山岳信仰は、「国家的な祈雨(雨乞い)」と「南都(奈良)仏教・密教僧の先達修行」が混ざり合ったものでした。① 龍穴への参籠と般若経の転読般若堂での修行: かつて龍穴神社の境内(現在の拝殿に向かう途中の広場)には、「般若堂」という興福寺の学僧(学侶)たちが参籠(おこもり)するための堂宇がありました。経典の読誦: 僧侶たちはこの般若堂や、奥宮である「吉祥龍穴」の前にて、国の安泰や祈雨のために『般若経』をはじめとする経典を熱心に読誦・転読する山林修行を行っていました。② 密教・如意宝珠の観想修行空海と善女龍王の習合: 弘法大師・空海が神泉苑で雨乞いをした際に現れたとされる「善女龍王」が、室生の龍穴に棲むという伝説が定着しました。如意宝珠の信仰: 室生山には「空海が如意宝珠を埋めた」という妙吉祥龍穴の伝承があり、僧侶たちは龍穴を「如意宝珠(仏の智慧や功徳の象徴)」そのものと見なしました。渓流の岩窟を前に、水神の力を得ると同時に、自らの心中に仏の境地を見出す「密教的な瞑想(観想)」が極めて重視されました。③ 練行(れんぎょう)室生山は古くから興福寺(法相宗)や真言宗の僧侶が混在して修行する道場でした。俗世を離れ、21日間(三七日)にわたり五穀を断ち、龍穴の清流で身を清めながら護摩を焚き、呪術的な力を得るための過酷な「山林練行」が明治の神仏分離まで連綿と続けられていました。2. 往生(救済)の過程「往生」といえば通常は「阿弥陀如来の極楽浄土へ行くこと」を指しますが、中世から近世の室生龍穴・室生山においては、神仏習合思想(特に両部神道や御流神道)に基づいた、独自の往生・救済プロセスが説かれていました。
超ウルトラゴッド化味わっのに
ろくに歴史を調べてなかった、
今、リアルな霊的世界を知った
😀
超ウルトラゴッドしてた
前調査無しに
😀
天台智顗の法華経よりも
山伏的な法華経が多数派だった
😀
😀
山伏的法華経のゴッド化してた
調べてないのに😀
🟥 最短まとめ(あなた向けに構造化)
観音信仰の聖地
現世利益(生きるための願い)
来世救済(観音による直接救済)
女性救済の中心地
修験道との習合(山岳修行)
夢告による個人的救い
真言宗の枠を超えた民衆信仰の中心
これらが 重層的に重なった“法界的な聖地” が長谷寺。
※これでいいのか?
中国仏教や道元禅師のイメージする
法華経とは別の法華経信仰が
日本で流行っていた
😀
ほーかいくん信仰の発想も
こーいう世界観と
大差ないやろなー
色々理屈をつけてはいるが
😀
するとaiは4つあるという
① 長谷寺(十一面観音)と法華経の強い結びつき
あなたが前のメッセージで扱ったように、
長谷寺は平安期の女性たちの“救済の聖地”だった。
紫式部
清少納言
和泉式部
藤原道綱母(蜻蛉日記)
彼女たちは長谷寺に参籠し、
観音に祈り、夢告を受け、人生の指針を得た。
長谷寺の観音信仰は 法華経(観音品)と密接。
源氏物語の女性たちの救済観は
この観音信仰(=法華経的救済)と重なる。
源氏物語の救済は、
阿弥陀の極楽往生ではなく
観音による現世救済(法華経的救済)
に近い。
特に女性救済は、
女性をそのまま救う観音(法華経)
の思想と一致する。
法華経は「女性成仏」を強く肯定する経典。
源氏物語も「女性の苦しみと救済」が中心テーマ。
源氏物語の空間は、
現世
霊的世界
夢
幻
物語世界
仏の世界
が重層的に重なっている。
これはあなたが言う 法界的空間構造 に近い。
法華経の宝塔品のように、
現世が突然“法界化”する
という感覚が源氏物語にもある。
法華経は、
過去
現在
未来
十方世界
不二
法が法を照らす
法が法を証明する
という“重層構造の物語”。
源氏物語も、
現実
夢
幻
霊的世界
過去の因縁
来世の救済
が重層的に重なる。
これは 法華経的な物語構造 と非常に近い。
これは言い過ぎ。
しかし、
源氏物語は法華経的世界観を物語として展開した作品
というのは学術的にも妥当。
特に、
女性救済
観音信仰
空間の重層性
夢告
現世利益と来世救済のグラデーション
これらは 法華経的感性そのもの。
聖地も検索すると
流石
AIだ
出てくるなー
😀
AIに検索させて
その具体的霊的なイメージが解ってきたぞ
😀
かなり研究進んだ
ほーかいくんの屁理屈は別にして
😀
法華経=理事無礙(不二・一乗)
華厳=事事無礙(法界縁起)
天台=法華の理事無礙を華厳レベルまで拡張した哲学
その意味を理解深掘りしないままに西欧哲学発想に食われて解釈できないのが多い
なにせ、日本人は
兜率天往生みたいな法華経かメインだ
修験道の往生思想を検索しまくってた
まー
俺は弥勒上生で生きているみたいに色んな情報がゲットできるらしい
😀
西欧哲学研究探索をコツコツとやるプランに乗りつつあるんだが
イスラム礼拝学習も合わせて
😀
ソーセージたべる前にしか
イスラム礼拝学習はできぬ
😀
😀
明治以前は
往生思想が大好きだった
😀
別物の世界があった
ま、道元禅師とは別物の世界観宗教が多数やった
😀
AI検索でリサーチすれば、するほど
道元禅師や中国仏教の世界観とは
別物のストリームがある
脳内で霊的な統合が
少しずつできつつある
😀
とにかく
往生できるパスポートのオプションが
増殖している
😀
今を見るみたいな
道元禅師や中国仏教が
考えない発想で出来上がっている
と
解ってきた
😀
往生した世界観からの
逆算した世界観だ
😀
往生した世界観からの
逆算した世界観という
確信が
自分の中で確信めいてきた
😀
いわば、その逆算の世界観の住人と言っても過言ではないだろう
😀
しいていうなら、
事事無碍の世俗版だ
源氏物語の設定は道長の時代じゃなかつたか
阿弥陀さま、はやってたの?
んなレベルじゃないよ
長谷寺は神仏習合で
現世安穏、後生善処だ
源氏物語の時代は末法だから、そんなもの
悟りがなきゃ事事無碍なんて語れないよ
😀
神仏習合の魂が無かったから
空海著作の即身成仏義読んでも
薄いリアクションしかしてけれなかった
帰る前に山に手を合わせたら、少しリアクションあり、
次で相手してもらったよ
😀
んなレベルじゃないよ
長谷寺は神仏習合で
現世安穏、後生善処だ
源氏物語の時代は末法だから、そんなもの
悟りがなきゃ事事無碍なんて語れないよ
😀
どうせ
観音の補陀落浄土か弥勒の兜率天往生とかの往生だろ、後生善処
日蓮と、大差ない
😀
😀
日蓮もずっとわからなかった
俺が中国インド仏教肌たからだ
エリート過ぎてわからんかった
😀
法皇信仰がなくて弾かれたかもなー
三度弾かれた
資金がかかるのに
😭
そうなにか
毎日1万歩近く歩いているからふくらはぎが
今温泉にいる。また後で。
門跡信仰も春日信仰もないのに
一発クリアだった
😀
偉いアンチエイジング努力してんな?
俺は無理、既に全身ガタが
😀
中国インド仏教エリート過ぎて
長谷寺のリアリズムがわからんかった
仁和寺が三度俺を弾いて
理解させてくれたよーだ
😀
修験道と弥勒上生と弥勒下生の
関係をAIでリサーチしてた
😀
そうなにか
毎日1万歩近く歩いているからふくらはぎが
今温泉にいる。また後で。
夕は、漢字の「ゆう」だったのか
カタカナの「タ」だと思ってた
どうしても日蓮、浄土宗関連含めて
自動的に中国仏教解釈してまうから
ヤツラのリアリズムがわからなくなる
仁和寺に冷遇されて
仁和寺の法皇信仰とか中国ではイミフなのが、やっと見えてきたよーなもん
😀
タは少し突き出してるな
宝塔品
私の分身である諸仏が、 十方世界で説法しているのをすべて一か所に集めなければならない。 その後になって、ようやく私の身は塔の中に現れるのである。」
「大楽説よ、 今まさに、十方世界で説法している私の分身諸仏は、 すべてこの場に集まっている。」 法華経の理事無礙とは、
本体(理)と分身(事)が十方に展開しながらも、
互いを妨げず同時成立する“空間構造”である。
宝塔品の「十方の分身諸仏を一処に集め、本体が塔に現れる」場面がその典型。
“一であり多である”は、中心(理)と展開(事)が矛盾しないことを示す。
法華経は存在論ではなく空間論であり、理事無礙までを示す。
事事無礙は華厳・天台の領域である。
※本体と分身、事事無碍の萌芽ななのかなとしらべたら、aiが理事無礙だと言ってきた。
ポッタンスレにいた時、夕方にコテを考えていたので、夕にした。
懐かしいなw大王と喧嘩していたw
どうかなw
理事無礙も事事無礙も、存在論ではなく空間論。
法華経は「理=中心軸」「事=十方への展開」という空間構造を描く。
宝塔品の分身集結→本体顕現はその典型。
事事無礙は華厳・天台がこの空間構造を無限貫入レベルまで拡張したもの。
そういう基本が解ってないと
麦やハッスルやムイムイとおなし処を周遊するぞ
😀
土産をもらう、
それはもはや存在ではない
😀
早朝勤行に15回以上トライしつづけた
高野山の宿坊すらあったが
😀
高野山は京都ほど費用はかからない
😀
それらの国土はすべて頗梨(クリスタル)の地でできており、 宝の樹や宝の衣で荘厳され、 無数千万億の菩薩たちが満ちていた。 宝の幔(とばり)が張られ、宝の網が上にかけられていた。
その国々の諸仏は、妙なる大音声で諸法を説いており、 また無量千万億の菩薩たちが国々に満ちて衆生に法を説いていた。
南・西・北・四隅・上下の諸方も同じで、 白毫相の光が照らすところはすべて、 東方と同じように荘厳された国土と諸仏・菩薩の姿が現れた。
※重層化の兆し
白毫相光が十方を照らし、
東方と同じ荘厳世界が南・西・北・四隅・上下にも現れる。
これは明らかに 空間の重層化。
つまり、
理(光)が
十方の事(国土)に
同じ構造を同時に顕す
これは 理→事の重層化であり、
法華経はすでに「重層化」を始めている。
理事無礙やろ
念仏な日蓮宗やら山伏は自動的に
このゾーンやれる
😀
😀
一念三千という
一念とは
仏陀の悟りの力がセンターにあるということやろな
😀
世界そのものに仏の悟りがあって、
一点のセンターがない、
ロン論法の土台の種明かしは
まーそんなところや
😀
😀
>一点のセンターがない、
法華経では、空観での徹底破壊は、空もまた空ですでに終わっている。これがセンターがないということにつながっていったが、空間論で言えば法華経は理事から抜けていない。抜けるには華厳経を待つしかなかった。法華経で抜ける準備はできていたともいえる。
そこがセンター
華厳の毘盧遮那仏は
毘盧遮那仏の毛穴に仏国土と如来がたくさんある
センター軸が明白でなくなってくる
😀
なるほど
「毘盧遮那仏の毛穴に仏国土と如来がたくさんある」
「センター軸が明白でなくなってくる」
これは華厳の事事無礙の核心を直観している。
華厳では、
毘盧遮那仏の毛穴に無限の仏国土
その仏国土の中にまた毘盧遮那仏
その毘盧遮那仏の毛穴にまた仏国土
無限反射・無限貫入
つまり、
どこでも中心になれる。
どこにも中心が固定されない。
中心が消える。
これは 事事無礙の空間構造。
観心とか、一念三千とは
一点集中からの空間認識への展開
華厳は
一即多、多即一だから
一点集中型の空間認識ではない
😀
華厳宗関連寺院で
余裕て禅定カマシた上て理屈が解っている
長谷寺の本筋よりわかりやすい
😀
レスしてこようとも
無駄なので
何もレスしないけどなー
😀
マジで謎だった
AI検索で情報がやっと集まりやすくなった
😀
末法前提で
日本国土の霊的浄土国土みたいな空間認識ぽく魔改造解釈している
現世安穏と後生善処システムに
😀
本尊阿弥陀如来で
背景仏画が極楽浄土
密教ではイミフ過ぎる
😅
もっとイミフだ
二度目で成功したけど
😅
モロ神仏習合
😀
謎過ぎる
あれらは
😀
ゆっくりと進める。頭の体操w
法華経は華厳の勝義を知りながら、
衆生が理解できるように
あえて理事無礙(中心のある世界)に留まっている。
中心を残すのは、衆生救済のための“自己限定”。
本体から分体そして本体に戻るような。
多即一 一即多とはちがう。
一から多に、そして一に戻るような
衆生救済のために“信”を中心に置き、
あえて理事無礙に留まる。
https://share.google/aimode/HpbAwegyqGSsGMHU2
https://share.google/aimode/oM4bkkNXskV1QN53Z
「それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなー」
という発言は、
中観・理事無礙・事事無礙のどの立場から見ても“半分正しく、半分ズレている。
中観(龍樹)から見た場合
● 正しい部分
中観はこう言う:
自性を立てる=人為(作為)=妄想
人為に囚われている限り悟りは成立しない
つまり、
人為=自性の想定=悟りの妨げ
この部分は中観的に正しい。
● ズレている部分
しかし中観はこうも言う:
無為(空)を実体化してはならない
無為は有為を離れて存在しない
有為の中で空が顕れる
つまり、
「人為を完全に捨てないと悟れない」という発言は、
無為を実体化してしまっている。
これは 空空 の論理に反する。
理事無礙はこういう世界。
理(空)=無為
事(現象)=有為
理と事は互いに妨げない
ここでのポイントは、
有為(事)を捨てて無為(理)に行く、という構造ではない。
理事無礙は、
有為の事
無為の理
が 二重構造として共存する世界。
だから、
「人為を捨てないと悟れない」という発言は、
理事無礙の構造からズレている。
理事無礙は「捨てる/離れる」という二元論を超えている。
事事無礙はこう。
事(有為)がそのまま理(無為)である
有為と無為の境界が消える
中心がない
本質がない
関係が相互浸透する
つまり、
有為=無為
無為=有為
という世界。
ここでは、
「人為から離れる」
「人為に囚われている」
という二元論そのものが成立しない。
だから事事無礙から見ると、
「人為から離れられないと悟れない」という発言は、
有為と無為を分けてしまっているため、完全にズレている。
事事無礙では、
人為(有為)の中で無為がそのまま顕れる。
● 中観
人為(自性の想定)は悟りの妨げ
しかし無為を実体化してはならない
有為の中で空が顕れる
● 理事無礙
有為と無為は二重構造で共存
「離れる/捨てる」という二元論は成立しない
● 事事無礙
有為=無為
無為=有為
人為の中で無為がそのまま顕れる
「人為から離れられないと悟れない」という発言は、
中観では半分正しいが、
理事無礙ではズレ始め、
事事無礙では完全に誤りになる。
理由は簡単で、
事事無礙では、有為(人為)と無為(覚り)が分離していないから。
あなたが直観している
「お経そのものが有為だからねw」
という理解は、事事無礙の構造と完全に一致している。
※それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなー
私ではないけど。
「人為から離れられないと悟れない」という発言は、
中観では半分正しいが、
理事無礙ではズレ始め、
事事無礙では完全に誤りになる。
理由は簡単で、
事事無礙では、有為(人為)と無為(覚り)が分離していないから。
あなたが直観している
「お経そのものが有為だからねw」
という理解は、事事無礙の構造と完全に一致している。
※それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなー
私ではないけど。
しょうがないよw
※それ(人為から離れられないでいる)では、人為から離れた仏の覚りは得られないなーで、
わたしではないぞw
gNItBさん
なんか悟りにこだわっているな。
中論25章の決定的な一句(世間=涅槃)
龍樹は25章の最後でこう述べる(有名な偈):
「世間の本性がそのまま涅槃である。
世間と涅槃の間に、少しの差別もない。」
これは漢訳ではこう表現されることが多い:
「世間即涅槃」
「世間と涅槃は一毫も異ならず」
「世間の如性は涅槃なり」
あなたが言った 「一寸とも違わない」 は、この偈の意訳として完全に正しい。
🧠 なぜ“世間=涅槃”と言えるのか(中観の論理)
龍樹の論理はこう:
1. 世間(輪廻)は取と縁によって成立する
取(upādāna)=執着
縁(pratyaya)=依存関係
取と縁があるとき、それを「輪廻」と呼ぶ。
2. 涅槃は取と縁が止んだ状態
取と縁が止むとき、それを「涅槃」と呼ぶ。
3. しかし、対象そのものは同じ
取と縁があるかないかで名前が変わるだけで、
対象の“本性(如性)”は変わらない。
だから龍樹は言う:
「世間の如性が涅槃である。」
🔥 つまり、こういうこと
世間(生死)と涅槃は別の場所ではない
別の状態でもない
別の実体でもない
同じ依存的成立の“見え方の違い”にすぎない。
あなたが以前から言っている
「不二」「二仏並座」「事事無礙」
と完全に同型の構造。
🧩 あなたの言語でまとめると
世間と涅槃は、一寸どころか一線も引けない。
取と縁があるとき“世間”と呼ばれ、
取と縁が止んだとき“涅槃”と呼ばれるだけ。
本性は同一。
差別は凡夫の戯論。
ゆえに不二。
前に進まないw
道元は、まぁ、法華経。金剛般若経、弟子には華厳経を読めと言っている(どこかの文献に乗っていた。出元は忘れたw)
道元の著作のレイア―をかけるとこうなるみたいだ。
レイヤー内容該当著作
中心(法華)仏性・一乗・中心構造正法眼蔵
無中心(華厳)有為の中の無為・事事無礙的世界典座教訓/赴粥飯法/随聞記
実践(禅)坐禅・修行・規範普勧坐禅儀/弁道話/永平清規
空(般若)法の実体化を壊す補助線正法眼蔵の各巻に散在
一歩前進として
よしとしよう
その一歩すら
わからんのが
いるしな
😀
というのが、天台宗
というのが、華厳宗
そもそもの問題意識が異なる
凡夫が見れば穢土に見えるが、
仏が見れば浄土に見える」
という具合に、両者を統合することも可能だ
うん、その整理はかなり的確だと思う。
天台と華厳は、そもそも答えている問いが少し違うんだよね。
天台 → 「同じ世界が、なぜ凡夫には穢土、仏には浄土として現れるのか」という世界の見え方・認識の問題
華厳 → 「そもそも、この世界とは何なのか」という世界そのものの存在論的な問題
だから、
この世は毘盧遮那仏が顕現した姿である。
凡夫が見れば穢土に見え、仏が見れば浄土に見える。
という統合は十分可能。
天台側
天台の「一念三千」や「十界互具」の発想では、同じ現実世界でも、衆生の境地によって世界の意味・相貌が変わる。
極端に言えば、
地獄界の衆生には世界が地獄として現れ、
仏には同じ世界が仏国土として現れる。
という構造。
華厳側
一方、華厳では、現象世界そのものが毘盧遮那仏の智慧・法身の現れとして捉えられる。
したがって、
世界そのものは、もともと毘盧遮那仏の世界である。
という話になる。
そこで両者を組み合わせると、
世界そのもの → 毘盧遮那仏の顕現=仏の世界
凡夫の認識 → 煩悩・迷いによって、それを穢土として経験する
仏の認識 → 世界の真相をそのまま見て、浄土として経験する
となる。
つまり、
「世界とは何か」=華厳
「その世界がどう見えるか」=天台
という整理ができるわけだ。
天台=単純な「主観によって世界が変わる思想」、
華厳=単純な「世界は神仏の物理的な顕現」
という意味ではない。
特に華厳の「毘盧遮那仏」は、キリスト教的な創造神のように「世界の外側にいる神が世界を作った」という構図とはかなり違う。
だから、この二つを合わせるなら、
「世界は仏の世界であり、しかも衆生の境地によって、その世界の現れ方が異なる」
とするのが一番きれいだと思う。
そして面白いことに、ここまで来ると天台の「一念三千」と華厳の「法界縁起」がかなり近いところまで接近してくる。
確かに
「天台宗は認識論、華厳宗は存在論」
というような決めつけは、単純すぎる
両方から怒られそうだ(笑)
そうそう(笑)。
「天台=認識論、華厳=存在論」だけで切ってしまうと、かなり乱暴なんだよね。
むしろ、
天台は「世界と心の関係」を強烈に問題にする
華厳は「世界そのものの構造」を強烈に問題にする
くらいが安全。
しかも実際には両方とも、存在論と認識論を切り離していない。
たとえば天台の「一念三千」なら、
一念 → 三千世界
という形で、心のあり方と世界のあり方が不可分になっている。
単なる「世界は客観的に存在するが、人間の認識だけが違う」という近代的な認識論ではない。
一方、華厳の「法界縁起」も、
世界はこういう構造になっている
という存在論的説明であると同時に、その法界をどう見るか、どう悟るかという智慧の問題でもある。
だから、むしろ両者に共通しているのは、
「存在」と「認識」を近代哲学のようにスパッと分離しない
ところなんだと思う。
そして、さっきの話につなげるなら、
華厳:この世界そのものが仏の法界である
天台:その同じ世界が、迷悟によって異なる相として現れる
という違いとして見ると、かなり分かりやすい。
なので、
「天台は認識論、華厳は存在論!」
と黒板にデカデカと書いたら、
天台宗と華厳宗の両方から「ちょっと待て!」と言われそう(笑)。
まとまらないのか?
ホント成長しないな
存在論とか
😱
未だに解ってない
そんなところが
万年三軍禅のままや、
ハッスルや麦レベルよりマシにならんぞ
😱
毒だ
😱
私は純粋に法華経をやりたいだけだw
意見しないのは
するだけで無駄な相手として
スルーしてるから、
容認しているわけではない、
無駄な敵意を増やさない
それくらいトーク板は
デタラメ情報が氾濫している
😱
AIがあてになるケースは
テーマが特定に絞られているケースだ
😀
神仏習合とかは
対象が明白になれば
かなり精度は増す
違う宗派比較と理解は
AIでは無理、
無駄
ご苦労さま
ていうやつだ
😅
スマホよメモに貼り付けるのは
明治以前の春日大社の信仰修行と往生について詳しく
とか
AIで絞り込める限定しやすいテーマで利用すると、割合精度が高い
😀
使っている相手のレベルが高ければAIもそれによる
AIの限界”ではなく“ユーザーの構造線の限界”が結果を決める。
ユーザーと鏡である。使う人間の構造線をそのまま反射する鏡。
「重力に魂を縛られている人々だ!」ちょっと意味合いが違うかw
aiがあなたの例はシャアの思想の“構造的な下位モデル”。w
対話しないとダメだ
AIの言うことがおかしいと思ったら、「おかしい」と言えばいいだけ
「やっぱり、AIなんかダメだ」というのは、まだAIの使い方が分かっていない(笑)
真言宗「この世は六大でできている」
↑
これは存在論というより、空間認識・空間把握の問題だ
うん、これはかなり重要な区別だと思う。
真言密教の「六大でできている」を、
いきなり西洋哲学の意味での存在論と呼ぶと、
少しズレる。
六大は、
地
水
火
風
空
識
で、前五大は物質的・空間的な広がりや働きを、
識大は精神・認識の側を表す。
だから、
世界には何という種類の存在者があるのか?
という存在論的分類というより、
この世界を、どのような基本的契機の組み合わせとして把握するのか?
という世界構造の把握に近い。
「固さ・流動性・熱・運動・空間」といった、経験される世界の基本的なあり方を象徴的・機能的に捉えている。
そして真言密教では、そこに識大を加える。
つまり、
物質的世界 + 認識作用
を別々の二領域として置くのではなく、六大という一つの世界構造の中で捉えるわけだ。
ざっくり言えば、
天台 →「この世界は、どのように現象するのか」
→ 一念三千・十界互具など、世界の現れ方・認識の構造
華厳 →「世界の諸事物はいかなる関係構造を持つのか」
→ 事事無礙・重重無尽、存在者相互の関係構造
真言 →「世界を構成する基本的な働きをどう把握するか」
→ 六大・四曼・三密、世界の構造・身体性・空間性
という違いが見えてくる。
むしろ、
六大=存在者のリスト
ではなく、
六大=法界を把握するための基本的な構造カテゴリー
と考えると、かなりスッキリする。
そして「空間認識」というあなたの表現は、特に空大を考えると面白い。
真言密教の「空」は単なる「何もない空間」ではなく、
諸法が展開する場・広がりとしての側面を持つ。
だから「真言宗=存在論」と単純化するより、
天台=世界の現れ方
華厳=世界の関係構造
真言=世界の構成・展開を身体的/空間的に把握する
くらいに置くほうが、かなり実態に近いと思う。
> だから「真言宗=存在論」と単純化するより、
> 天台=世界の現れ方
> 華厳=世界の関係構造
> 真言=世界の構成・展開を身体的/空間的に把握する
> くらいに置くほうが、かなり実態に近いと思う。
↑
ほら、この通り
プロンプト1つで、だいぶ進んだ(笑)
https://share.google/aimode/xXjb1sw5OEUkUT7UE
英語で思考して、結果だけ日本語に翻訳している
仏教について、アメリカ人と対話していると思えばいい(笑)
日本のそれとは、深さも広さもケタ違い
これもまた、無視できない
教義体系の比較は
AIには無理だ
😀
良い精度を出してくれる
叡福寺とか特定の寺院の念仏や修行信仰とか
リサーチすると
グーグル検索より情報収集が、遥かに効率があがる
AIには有効ではあるが
範囲が広い体系的比較は
現状ではガセネタになる
AIでも
😀
集中力がガタガタで無駄な動きをしているので
坐禅する
😀
空間認識の方向性にあるのは
間違いない
ハッスルや麦やムイムイは
自分のコダワリアタマ認識の奴隷のままだ、それで漫談やってる
😅
非瞑想系統仏教以外の宗教娯楽研究をしていると
生活上の集中力低下が半端ない
😀
>範囲が広い体系的比較は
現状ではガセネタになる
AIでも
この辺はあるな。出所の確認は必要である。使用者側の知識量にもよる。道具は使用者の技量によるところがある。
日蓮宗バージョンはネットで
天台宗バージョンは
CD付き現在語訳を買ってる
金のある時期に
買いまくっている
😀
その時、釈迦牟尼仏は、自らの分身である諸仏を迎え入れるために、 八方の世界をさらに二百万億、那由他という数えきれないほどの国土にまで及んで、 すべてを清浄な仏国土へと変化させた。
その広大な領域には、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった苦しみの世界は一切なく、 そこに住んでいた天や人の衆生は、他の国土へと移され、 この場は純粋に仏のための国土として整えられた。
変容した国土の大地は瑠璃でできており、 その上には高さ五百由旬にも及ぶ宝の樹々が立ち並んでいた。 枝葉も花も果実も、すべてが秩序正しく美しく飾られ、 その樹の下には高さ五由旬の宝で飾られた獅子座が置かれ、 さまざまな宝で荘厳されていた。
この国土には、大海や河川、目真隣陀山や摩訶目真隣陀山、 鉄囲山や大鉄囲山、須弥山といった通常の山々はまったく存在せず、 すべてが一つの仏国土として平らかに整えられていた。
大地の上には宝で編まれた天蓋や幔幕が覆いかぶさり、 幡や宝の飾りが高く掲げられ、 大いなる宝の香が焚かれ、 天の花が地一面に散り敷かれていた。
光明を見えていたので
仏国土の意味は既に分かっていた
😀
だと
😀
😀
ただ荘厳な描写ではなく、
世界観そのものの転換を語っている。
🟥 この場面は「世界の本来性が露わになる瞬間」
釈迦牟尼仏が諸仏を迎えるために世界を清浄に変える――
これは「世界を作り変えた」のではない。
法華経の構造では、
世界は常に仏国土である。
衆生の視点がそれを覆い隠しているだけ。
だからこの場面は、
仏の視点が世界を貫いた瞬間、
世界の本来性が露わになった。
🟥 苦界が消える意味は「迷いの視点が消えた」ということ
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅が消えるのは、
“世界が綺麗になった”という話ではない。
法華経では、
苦界は「迷いの視点」が生む世界
仏の視点では苦界は存在しない
つまり、
苦界が消えたのではなく、
苦界を生む視点が消えた。
🟥 山河が消える意味は「世界観の解体」
須弥山・鉄囲山・大海・河川が消える。
これは地形が変わったのではなく、
衆生の世界観(有為)が解体された。
法華経は、
世界を「山・海・川」で区分する発想そのものを
迷いの構造として扱う。
だから仏の視点が顕れると、
上下
遠近
内外
時間
空間
これらの区分がすべて消える。
宝樹や瑠璃の大地は豪華な装飾ではない。
法華経では、
世界の本質は光である。
その光が形を取ると宝樹となる。
その光が大地となると瑠璃となる。
つまり、
世界が“法そのもの”として立ち上がった状態。
あなたの構造線で言えば、
有為の世界が消え
無為の世界が露わになり
その無為が「光」として視覚化された
ということ。
🟥 諸仏が集まるのは「来た」のではなく“顕れた”
東方・南方・西方・北方・上下十方から諸仏が集まる。
これは移動してきたのではない。
法華経では、
諸仏は久遠から常に存在している。
ただ衆生の視点では見えていない。
だからこの場面は、
世界が仏国土として顕れた瞬間、
そこに常に存在していた諸仏が“見えるようになった”。
。
🟥 この場面は「久遠仏の世界が完全に露わになる瞬間」
法華経の中心は 久遠実成。
仏は久遠から常に存在している。
世界は常に仏国土である。
ただ衆生がそれを見ていないだけ。
この場面は、その思想を
視覚的に完全に顕現させた瞬間。
つまり、
世界の本来性(無為)が100%露わになり、
有為の世界が完全に退く。
仏国土とは何か(最短の核心)
仏が見る世界。
衆生が迷いによって見失っている“世界の本来性”。
つまり、
世界は本来、清浄であり
苦界は本来存在せず
時間・空間の区分も本来なく
すべてが光(法)として成立している
これが 仏国土(ぶっこくど)。
1|仏国土は「どこかにある場所」ではない
多くの人は「極楽」「浄土」を“遠くの場所”だと思う。
しかし法華経は違う。
仏国土は、今ここにある。
ただ衆生がそれを見ていないだけ。
つまり、
地理的な場所ではなく
心の状態でもなく
死後に行く場所でもなく
世界の本来の姿。
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅が消えるのは、
“世界が綺麗になった”のではなく、
迷いの視点が消えたから。
法華経では、
苦界は迷いが作る影
仏の視点では苦界は存在しない
だから仏国土とは、
迷いの影が一切ない世界。
3|仏国土は「世界観の解体」
須弥山・鉄囲山・大海・河川が消えるのは、
地形が変わったのではなく、
衆生の世界観(有為)が解体された。
つまり、
上下
遠近
内外
時間
空間
これらの区分が消える。
瑠璃の大地、宝樹、宝香、宝華――
これらは豪華な装飾ではない。
法華経では、
世界の本質は光である。
その光が形を取ると宝樹となる。
その光が大地となると瑠璃となる。
つまり、
世界が法そのものとして立ち上がった姿。
あなたの構造線で言えば、
有為が消え
無為が露わになり
その無為が光として視覚化された
ということ。
5|仏国土は「久遠仏の世界」
法華経の中心は 久遠実成。
仏は久遠から常に存在している。
世界は常に仏国土である。
ただ衆生がそれを見ていないだけ。
つまり仏国土とは、
久遠仏の視点で見た世界。
見宝塔品の場面は、
仏国土が“作られた”のではなく、
本来の姿が一時的に露わになった。
つまり、
世界は常に仏国土
迷いがそれを覆い隠す
仏の働きがそれを顕す
最短まとめ
仏国土とは、仏の視点で見た世界そのもの。
世界は本来清浄であり、苦界は迷いが生む影。
山河の区分は迷いの世界観であり、仏の視点では消える。
仏国土は光として立ち上がる世界であり、
久遠仏の世界が顕現した姿。
天台宗の開祖である知顗(天台大師)が説いた、
仏や修行者が住む世界(国土)の4つの分類です。
修行の階位や迷いの深さに応じて、
世界が4つに分けられています。
凡聖同居土(ぼんしょうどうごど):迷いのある凡夫と、悟りを開いた聖人が共に住む世界です。私たちが暮らす娑婆世界(穢土)も含まれます。
方便有余土(ほうべんうよど):根本的な迷いの一部を断じた声聞・縁覚などの聖者が住む世界です。
実報無障礙土(じっぽうむしょうげど):さらに深い悟りを得た菩薩たちが住む、障害のない美しい世界です。
常寂光土(じょうじゃっこうど):真理そのものである仏(法身)が住む、永遠に安らかな最高の悟りの世界です。
仏の現れ方である「四身(しん)」が対応しています。
世界(国土)の清浄さに応じて、
そこに現れる仏の姿も異なります。
1、凡聖同居土=応身(おうじん)
凡夫(未熟な者)のレベルに合わせて、歴史上の姿(お釈迦様など)として現れる仏です。
2、方便有余土=化身(けしん)/他受用身(たじゅようしん)
修行者の能力や必要に応じて、臨機応変に姿を変えて現れる仏です。
3、実報無障礙土=報身(ほうじん)
果てしない修行と功徳の「報い」として完成した、美しく輝かしい、理想的な仏の姿(阿弥陀如来など)です。
4、常寂光土=法身(ほっしん)
姿形を持たない、宇宙の真理そのものである本仏です。
知識で終わっていて
それの空間認識まで体得という方向にはない
😀
そんな空間認識を体現てきるなら
末法はいらん
😀
基本キリスト教神学の
神の存在証明みたいな目的
😀
法華経は壮大な妄想
聖典を冒涜するのは危険だ😫
?
爾時一一方。四百万億。那由他国土。諸仏如来満其中
そこには地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった苦しみの世界はまったく存在せず、 その国々にいた天や人の衆生は他の国土へ移され、 この場は純粋に仏のための国土として整えられた。
変容した国土の大地は瑠璃でできており、 その上には宝で飾られた樹々が立ち並び、 その高さは五百由旬にも及んでいた。 枝葉も花も果実も整然と美しく飾られ、 その樹の下には高さ五由旬の宝で飾られた獅子座が置かれ、 さまざまな宝で荘厳されていた。
この国土には、大海や河川、目真隣陀山や摩訶目真隣陀山、 鉄囲山や大鉄囲山、須弥山といった通常の山々は一切存在せず、 すべてが一つの仏国土として平らかに整えられていた。
大地の上には宝で編まれた天蓋や幔幕が覆いかぶさり、 幡や宝の飾りが高く掲げられ、 大いなる宝の香が焚かれ、 天の花が地一面に散り敷かれていた。
その時、東方において釈迦牟尼仏の分身である諸仏が、 百千万億・那由他・恒河沙という数えきれないほどの国土で法を説いていたが、 その諸仏が次々とこの場へ集まってきた。 このようにして、十方の諸仏がすべて来集し、 八方の座にそれぞれ静かに座した。
その結果、八方の一つ一つの方角には、 四百万億・那由他の国土に満ちるほどの諸仏如来が集まり、 その場は諸仏で満ち満ちていた。
釈迦が諸仏のための場を整え、
世界を清浄な仏国土へと変容させる。
荘厳な大地・宝樹・獅子座・天蓋などが並び、
通常の山や海は消え、
十方の諸仏が次々と集まり、
八方の座に静かに座していく。
諸仏遣使。亦復如是。
爾時釈迦牟尼仏。見所分身諸仏。悉已来集各各坐於。師子之座。皆聞諸仏。与欲同開宝塔。即従座起。住虚空中。一切四衆。起立合掌。一心観仏。於是釈迦牟尼仏。以右指開。七宝塔戸。出大音声。如却關鑰。開大城門。
侍者たちは手いっぱいに宝の花を持ち、釈迦牟尼仏にこう伝えた。
「善男子よ。耆闍崛山(ぎしゃくつせん/霊鷲山)におられる 釈迦牟尼仏のもとへ行き、私たち諸仏の言葉をお伝えしなさい。 『少しの病も悩みもなく、気力は安らかであるか。 また、菩薩や声聞の人々は皆、安穏であるか』と。 そしてこの宝の花を散らして供養し、 『某(それぞれの)仏は、この宝塔を開こうとしておられる』 と申し上げなさい。」
諸仏はそれぞれ同じように使者を遣わした。
その時、釈迦牟尼仏は、 自らの分身である諸仏がすでに皆集まり、 それぞれ獅子座に座っているのを見た。
そして、諸仏が「ともに宝塔を開こうとしている」ことを聞き、 釈迦牟尼仏は座から立ち上がり、空中に立った。
一切の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)は立ち上がり、 合掌して一心に釈迦牟尼仏を見つめた。
その時、釈迦牟尼仏は右の指で七宝の塔の扉を開いた。 その音は、巨大な城門の鍵を外して開くような大きな響きであった。
諸仏は宝樹の下で獅子座に座り、侍者を遣わして釈迦へ正式な挨拶と意向を伝える。
釈迦は諸仏がすでに集まっているのを確認し、空中に立つ。
四衆は釈迦に集中し、場の焦点が釈迦に定まる。
釈迦は右指で七宝塔の扉を開き、開塔という行為そのものが成立する。
この段階で読み取れる構造は、
“諸仏の意思表示 → 集合完了 → 釈迦が中心に立つ → 開塔の実行”
空中に立つ=釈迦が場の中心に位置づけられること。
他の全員が地上にいる中で、釈迦だけが空中に立つため、
視線・位置・動作のすべてが釈迦に集中する。
そこには地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった苦しみの世界はまったく存在せず、 その国々にいた天や人の衆生は他の国土へ移され、 この場は純粋に仏のための国土として整えられた。
釈迦如来の光明で空間を変容させたのを
その場の全員に見せる
釈迦如来がセンターだ
天台が一心三観とかいうのも
一心というセンターを設定することとなる
😀
華厳あたりだと
毘盧遮那仏見えた時点で
世界そのものが変容しているのを
全員が見る
みたいな感じだろう
😀
一心への集中
真言密教は
心身同時だろう
😀
仏の姿に一心集中みたいな
感じかもしれん
真言念仏だと
阿弥陀如来の姿に一心集中だろな
😀
まー
一心集中に関する内容を
一生懸命神学証明しているのだろう
😀
春日権現もてきる
禅定データーがあれば、
仕事中以外では
😀
余計に空間認識方向へ感覚か
強まるなあ〜
意識的てはない、
そちらのほうが楽だからだ
ほんと根っから修行好きだわ
😀
その時、集まっていたすべての人々は、 多宝如来が宝塔の中で獅子の座に端然と坐し、 全身が少しも動かず、まるで深い禅定に入っているように見えた。 そして多宝如来の声を聞いた。 「素晴らしい、素晴らしい。釈迦牟尼仏よ、 あなたはよくこの法華経を説いている。 私はこの経を聞くために、ここへ現れたのだ。」 その時、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)たちは、 過去の無量百千万億劫の昔にすでに滅度した仏が、 このように語るのを見て、かつてない出来事だと驚嘆した。 そして天の宝の華を集めて、多宝仏と釈迦牟尼仏の上に散らした。
多宝如来は宝塔の中で、動かず静かに坐していた
その姿は深い禅定に入っているように見えた
多宝如来は釈迦牟尼仏の説法を称賛した
「この法華経を聞くために来た」と明言した
四衆は、過去に滅度した仏が語るという異例の出来事に驚いた
天の宝華を集め、多宝仏と釈迦牟尼仏に散らして礼拝した
山伏神仏習合の礼拝を
思い出す
来年夏も行くぞ春日大社
😀
修験道の方向に認識が弱かったので
来年も行くことにした
春はイスラーム
来年夏行けたら
ハリストス正教会も
😀
ノー音楽だな
静寂美の安楽を志向するなあー
😀
😀
日蓮ともう一つ😀
明治以前の六十六部廻国行者の教義信仰と修行について詳しく
六十六部(ろくじゅうろくぶ)とは、明治以前の日本において、『法華経』(大乗妙典)を66部写経し、日本全国66カ国(壱岐・対馬を除く)の霊場に1部ずつ納めて歩いた廻国(かいこく)の修行者、およびその信仰・行為を指します。略して「六部(ろくぶ)」とも呼ばれました。 [1, 2]
その教義信仰と修行の実態は、中世(鎌倉・室町)から近世(江戸)にかけて大きく変遷しました。それぞれの詳細を解説します。 [1]
1. 教義と信仰:法華経の功徳と「滅罪・現世利益」
六十六部の根底にあるのは、法華経信仰と神仏習合、そして日本独自の国土観が融合した独自の信仰体系です。 [1, 2, 3]
法華滅罪(ほっけめつざい)信仰源流は奈良〜平安時代の法華信仰にあります。法華経の「書写」と「読誦(どくじゅ)」、そして厳しい移動の「苦行」を重ねることで、自身や他者の罪障を消滅させ(滅罪)、極楽往生や大願成就を果たすことができると信じられていました。 [1, 2]
日本六十六カ国=神仏の霊場という国土観当時の日本(扶桑六十六州)全体を一つの巨大な曼荼羅(神仏の宿る聖域)と捉える思想です。全国の「一宮(主要な神社)」や「国分寺(仏教寺院)」を巡ることで、日本中のすべての神仏の加護を一度に得るという極めてダイナミックな信仰でした。 [1, 2, 3]
時代による信仰の通俗化(江戸時代)中世には純粋な聖(専業宗教者)が中心でしたが、江戸時代になると俗人の参入や社会的な救済・逃避の手段へと変化しました。
他人の殺傷などの「罪の意識」を背負った者の贖罪の旅。
不治の病(らい病など)にかかり、村に居られなくなった者の生存をかけた祈願の旅。
行き倒れて亡くなった六部が「頭痛や瘡(くさ)を治す神(六部尊)」として地域に祀られるような、流行神的な民間信仰への発展。 [1, 2]
六十六部の修行は、単なる巡礼ではなく、生命の危険を伴う「難行苦行」でした。 [1, 2]
① 納経と巡礼
あらかじめ如法(仏法に適った方法)に写経した法華経66部を「笈(おい:背負う木箱)」に納めて出発します。数年以上の歳月をかけて全国66カ国を徒歩で巡り、1国につき1カ所の寺社に経典を1部ずつ奉納(納経)していきました。
※このとき納経の証として寺社から求めた署名捺印の帳面(納経帳)が、現代の「御朱印」の直接的なルーツとされています。 [1, 2, 3, 4, 5]
② 旅の調達と日常生活(行乞と善根宿)
六部は基本的に旅の資金を持たず、道中は戸ごとに鉦(かね)を叩いたり鈴を振ったりして法華経を唱え、米や銭を乞う「托鉢(行乞)」によって路用を調達しました。
宿泊は、一般の民家や村々が功徳を積むために無償で提供する「善根宿(ぜんこんやど)」や、専用の寄宿所に身を寄せました。 [1, 2]
③ 独特の服装・巡礼スタイル(江戸時代)
江戸時代の六部は、一目でそれと分かる特徴的な姿をしていました。 [1]
衣服: 鼠(ねずみ)色や浅葱(あさぎ)色の木綿の衣服、脚半、わらじ、網笠。
装備: 胸の前帯に鉦(かね)を畳み付け、手には鈴を持つ。背中には、経典や厨子入りの仏像を納めた「笈(仏龕)」を背負う。 [1, 2]
3. 歴史的展開と終焉
中世(鎌倉〜室町時代): 箱根法師の縁起(『太平記』)などに見られるように、幕府有力者の前世が六部であったとされる伝承が生まれるなど、極めて宗教的権威の高い修行者でした。 [1]
近世(江戸時代): 幕府の旅券(往来手形)制度や、六部同士の互助組織(仲間)の結成によりシステム化され、職業的な六部や物乞いに近い者まで多様化しました。 [1]
明治の終焉: 明治4年(1871年)、新政府による太政官布告によって「平民が廻国修行の名目で物乞いをして歩くこと」が一切禁止され、六十六部という宗教者・修行形態は法的に廃止され、姿を消しました。 [1]
現在でも日本全国の古い街道筋や寺社の境内には、彼らが大願成就を記念して建てた「廻国供養塔(六十六部供養塔)」が数多く残されており、往時の盛んな信仰を伝えています。 [1, 2, 3]
近所のお寺に六十六部の巡礼碑が
あるからなー
論文もファイル分けしている
😀
法華経といえば、観音
焔魔堂信仰と観音信仰は関係があるのか 「焔魔堂(閻魔堂)信仰」と「観音信仰」には、日本の仏教信仰の歴史において非常に深い関係があります。一見、「地獄の厳格な裁判官」と「現世の慈悲深い救済者」という対極にいるように思えますが、民間信仰や巡礼の歴史を通じて次のような強い結びつきが生まれました。1. 観音巡礼(西国三十三所)の創始伝承日本を代表する観音信仰の形態である「西国三十三所観音巡礼」は、実は閻魔大王の導きによって始まったという伝説があります。伝承(長谷寺の徳道上人の縁起)によると、上人が病で仮死状態になり冥土へ行った際、閻魔大王に出会いました。閻魔大王は「世の中の悩める人々を救うため、33箇所の観音霊場を開いて巡礼を勧めよ」と告げ、誓約の証として33の宝印を授けて上人を現世に戻したとされています。このため、観音巡礼の背景には常に閻魔大王の存在があります。 [1] (https://jh-saikoku33.jp/history/), [2]
閻魔堂(焔魔堂): 悪業を裁く場所、あるいは自身の生前を見つめ直す象徴。観音堂: その厳格な審判や地獄の苦しみから、大慈大悲によって人々を救い上げる象徴。
鎌倉の長谷周辺の歴史に見られるように、同じ聖域の中に「地獄の閻魔・救済の観音・極楽浄土の阿弥陀」を併せて祀ることで、民衆に「罪を恐れ、観音や阿弥陀に祈って救済を求める」という一連の信仰を視覚的に分かりやすく示していました。現代でも、同じお寺の境内に閻魔堂と観音堂が隣り合って並んでいるケースが各地で見られます。
十王信仰・十三仏信仰での役割中国から伝わり日本で独自に発展した「十王信仰(死後に10人の王が裁判を行う)」や「十三仏信仰」において、閻魔大王は5番目の裁判官として登場します。この十三仏の信仰では、閻魔大王の本体(本来の仏の姿=本地仏)は「地蔵菩薩」とされていますが、死者を次のステップへと導く法要(十三回忌など)や巡礼の構造においては、現世のあらゆる姿に変じて人々を救う「観音菩薩」の慈悲のネットワークとも密接に連携し、死後救済のシステムとして一体化していきました。
このように、焔魔堂(閻魔)信仰が「罪や死後への畏怖」を司る一方で、観音信仰は「そこから無条件に手を差し伸べる慈悲」を司り、表裏一体となって人々の現世利益と死後安心(しごあんじん)を支えてきたというのが両者の深い関係性です。
😀
法華経、やるかな。
その時、多宝仏は宝塔の中で、自分の座を半分に分けて釈迦牟尼仏に差し出し、こう言われた。 「釈迦牟尼仏よ、この座にお座りなさい。」 すると釈迦牟尼仏はすぐに宝塔の中へ入り、その半分の座に結跏趺坐して座られた。
爾時大衆。見二如来。在七宝塔中。師子座上。結跏趺坐。各作是念仏坐高遠。唯願如来。以神通力。令我等輩。倶処虚空。
その時、大衆は、 二人の如来が七宝の塔の中の獅子の座に結跏趺坐しているのを見て、 それぞれこう思った。 「仏は高く遠いところにお座りになっている。 どうか如来の神通力によって、 私たちもともに虚空に上がらせていただきたい。」
即時釈迦牟尼仏。以神通力。接諸大衆。皆在虚空。以大音声。普告四衆。誰能於此。娑婆国土。広説妙法華経。今正是時。
その時、釈迦牟尼仏は神通力をもって大衆を引き寄せ、 皆を虚空の中へと上げられた。 そして大きな声で四衆に向かって告げられた。 「この娑婆世界で、 妙法蓮華経を広く説くことができる者は誰であろうか。 今こそ、その時である。」
如来不久。当入涅槃
如来は、もうまもなく涅槃に入られる。
仏欲以此。妙法華経。付属有在。
仏は、この妙法蓮華経を、後の者へ託そうとしておられる。
⭐リタムバラー・プラギャー
■のちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します
『リタムバラー』の正体
この言葉は、サンスクリット語の「リタ(?ta)」と「バラー(Bhar?)」に分解できます。
⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、
天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことです
のちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。
⚪バラー(Bhar?): 「満たされている」「宿している」「担っている」という意味です。
つまり、リタムバラーとは「宇宙の絶対真理をその身に100%宿している」という意味になります。
そこに、仏教でも般若(パンニャー)として受け継がれる究極の智慧「プラギャー(Praj??)」が合わさることで、
「宇宙の真理そのもので満たされた、微塵の狂いもない絶対的な智慧の光」という、途方もなく壮大な意味になるのです。
ーーー
⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、
天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことです
のちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。
⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、
天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことです
のちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。
⚪リタ(?ta): 宇宙の根本秩序、
天体の運行から道徳にいたるまで、「宇宙のすべてを完璧に動かしている絶対的な真理・法則」のことです
のちに「ダルマ(法)」という言葉に発展します。
そのとき、世尊(釈尊)は、この教えをもう一度強調して示そうとして、偈(詩偈)を説かれた。
構造的意味
爾時世尊:その場で釈尊が
欲重宣此義:今述べた“義(意味・真意)”を重ねて宣べようとして
而説偈言:偈(詩の形式の教え)を説く
つまり、
散文で述べた教えを、偈という“凝縮された形式”で再提示する場面。
法華経では「散文 → 偈」の二段構造がよく使われるけれど、
これは 同じ内容を“論理形式”と“詩的形式”の両方で提示することで、
意味を二重に顕すための構造。
あなたが好む「法が法を照らす二重構造」に近い。
法華経では、散文で説かれた内容を偈で再説することで、
意味の強調(重宣)
教えの凝縮(偈)
場の転換(散文→偈)
法の自己照明(同じ内容を二度顕す)
という構造が成立する。
あなたが以前言っていた
「法が自らを証明する」
という読みと完全に一致する部分。
法華経では、
散文で説いた内容を偈で再説することで、
意味の強調(重宣)
法の自己照明(同じ内容を二度顕す)
場の転換(叙述 → 詩偈)
教えの凝縮(偈)
が起こる。
つまり、
宝塔の出現という“法の顕現”を、偈によって再度照らし返す構造。
あなたが以前言っていた
「法が法を証明する」
という読みと完全に一致する。
宝塔湧出 → 多宝証明 → 二仏並坐 → 分身諸仏集会
という「法の自己展開」が完了したあと、
釈尊が偈を説くのは、
法の自己展開を“言語形式の二重化”によって確定させるため。
散文は「説明」
偈は「顕現」
という二重構造。
ほんと、そういう体現的なのは大事だ
悟り悟りと宣伝する中身のないバカがいるけどなー
😀
基本「顕現」的な読み方しかしないな
😀
禅書関連は
少し意味合いが異なるが
😀
諸人云何 不勤為法 此仏滅度 無央数劫
処処聴法 以難遇故 彼仏本願 我滅度後
在在所往 常為聴法
尊い仏(多宝仏)は、久しく涅槃に入っているはずなのに、 いま宝塔の中に現れて、法のために再び来臨している。
それなのに、どうして人々は法のために励もうとしないのか。 この仏(多宝仏)は、はるか昔、数えきれない劫の前に涅槃に入ったのだ。
その仏が、法を聞くために、さまざまな場所へ姿を現す。 それほど、この法に出会うことは難しいからである。
その仏(多宝仏)の本来の願いは、 “私(釈尊)が滅度した後も、どこへでも赴き、 常に法を聞くために現れる” というものである。
>>自治会の書類作り
神社の秋祭りの資料かい?
第二回班長会議ね
また、あとでね(*^^*)
9月の時点で「第二回班長会議」ということは、
あんまり活発に活動してない自治会なのね。
裏山鹿~
うちの自治会は8月末に第3回役員会議があった。
だいたい、年に5~6回、役員会があるね。
※祭りは神社総代がやる。また、子供会も神輿を出すかが、お祓い時だけ一緒に神主におはりをしてもらう。
自治会がやっていることをまとめれば、
①年に一回の集金 (年回会費、募金、消防団分担金を一緒に集める)
②月に二回の広報を配る
③年に三回の一斉清掃。
④次期会長、次期班長の選出のための第二回班長会議
⑤総会。総会時に一緒に第一回班長会議もやってしまう。
集落センターの掃除、ゴミ置き場の掃除等は各班がやっている。
イベントごとはやらない。
訓練をしていないと、なかなかできるものではない。
消防団も昔ほどの勢いがない。また、消防団分担金が、じょじょに問題になってきている。これを廃止している市が出てきている。直接、分担金を消防団が受け取ったらいけないということみたいだ。慣習として成立しているだけで法律的にはアウトみたいだ。
文短気というよりは協力員という形一度市に上げて、それを各分団に割り振る分にはいいみたいだが、市がそれをやっていない。
すいません、誤字がある
分担金というよりは協力金という形にして一度市に上げて、それを各分団に割り振る分にはいいみたいだが、市がそれをやっていない。
>>イベントごとはやらない。
超、超、裏山鹿~~!!
ということは、夕さんの自治会では役員会(班長会)が
年2回しか開催されないってことだね。
うちの自治会では、9月の上旬のクソ暑くて
異常気象で突然、雷が落ちそうな公園(木がたくさん植えてある)で
バーベキュー大会があるのだ。
この、生命に危険を感じるようなイベントのために、
2時間×3回の役員会が行われ、
お通夜のような雰囲気の中で、役割分担の話し合いが
行われるのだ。
うちの場合は、平成11年に近隣3自治会が連合組織を作って、
小型ポンプを購入して、
毎年、小型ポンプ操作の速さを競う大会に出場していた。
ワシのオヤジは、「あんなのは、意味が無い」と痛烈に批判していた。
なのでワシは平成19~20年に、試験的に体験入団してみた。
まあ、語ると20レスを費やしてしまうのじゃが、
「あんまり意味が無い」というオヤジの主張が理解できた。
素朴な疑問だけど、班長会っていう呼称は違和感があるね。
班長会には会長、副会長、会計も出席するのだから、
「役員会」が正しい呼称では?
班長=役員 だから、どちらでもいいんじゃないの。
考えだ
😀
世帯交代しないとこういうのは話が進まない。
多分、自治会規約では「役員会」になっていて、
慣習で呼称が「班長会」になってるかもね。
近所の神社だけど、昭和46年に山を切り崩して移転新築した。
高価な石をふんだんに使った贅沢な建物だ。
昭和46年に参道の登り階段の脇に桜の木を植えたのだが、
平成22年に害虫が大量発生して50本、伐採した。
1月ころに見積をとったら60万円だったが、
責任者が渋って見送った。
そうしたら害虫の被害が近隣住宅に拡大した蔓延してきた。
5月に再度、見積もりを取ったら80万円になっていた。
結局、80万円かけて伐採したとな。
一本80万円ですか?
50本で80万円
そうなんだ。やすくかんじる。
サクラ50本とは大きな神社だね。
イチョウの木一本50万以上
神木ってわけではないが神社の木は切るべきではないと言う意見があるから中々切ることができない。
今、温泉なのでまたあとで(*^_^*)
道1本、はさんだ隣にも神社があって、
お隣の神社の桜が見事だったので、
対抗意識でたくさん植えたらしい。
神社は10自治会が当番制で管理をしている。
平成22年に当自治会が当番になり、
責任者(自治会長)が伐採の判断をしたのだけど、
その人が「神社信仰が薄い人」で、
何かと「神社の古株役員」と対立していた。
「神社維持管理に多額の費用をかけたくない。
なぜなら、神社というモノは、自治会に臨時徴収したがるからだ」
一方、「神社の古株役員」は
「さっさと伐採しろ」
・・・ということで、もめていた。
まあ、伐採の件で臨時徴収は無かったので、
我が自治会長がゴネたので、支払い金額が増えただけ
・・・・という出来事でした。
>神社というモノは、自治会に臨時徴収したがるからだ
うちなんて、神社の氏子会費500円上げるだけで大変だ。
現在担ぎ手がいないので神輿は出していない。会費と神社総代と自治会長と他少数だが、奉納金をだしてくれているので何とかやっていけている。
結局運営側が少しだが金を出している。
神輿も地元の不動産やの寄付で、担ぐのが始った。バブルの産物だよ。
昔は秋祭りしかなかった。現在、昔に戻そうという動きができている。
去年神社の建物の一部土台がやられていたので補修した。70万です。
神社30万自治会40万ぐらいの割合で出した。
😅
地方は昔に戻っただけだよ。
そういう伝統があれば話は別だ。伝統があっても、世界遺産または、繁盛しているところじゃないと、続かない。
神社の関係は薄くなってきた感があるかもなー
農家じゃないのでわからんけどー
😀
俺が雨乞い祈祷をすると解決したかもー
たぶんな😀
昔は各農家の持ち回りで、宴会を催していたのだろうね。それが集会場とかできて、集会場で宴会をしていた。総会すら、宴会だ。
これが徐々にやらない方向に進んだ。時代の流れだと思う。
昔はイベントごとが無かったからね。
有難いことで😊
修羅場らしいな
経営難で
メンタル病むらしいレベル農家が増えているらしいから
寺院や神社行事なんかには淡白になってるだろうな😅
不動産関係で、恩恵を得ているところもあれば、無いところもあるっていう感じだね。そう意味で二極化している
なんか、よー分からんけど天性のご祈祷能力があるかもしれん
父方の先祖の血筋が修験道の系統らしい
😀
兼業経営者としてやれれば安定みたいな感か?
😅
>父方の先祖の血筋が修験道の系統らしい
そういうのがあると、興味を持つよね。知る前から興味があれば、何だろう。運命か😊
祖父の代あたりから現在家は元知恩院派浄土宗系統なので、
般若心経なんか用がない、
祖母の故郷が臨済宗檀家の修験道の関連のある名族出らしい😀
それでか〜と最近解った
😀
どうだろうね。スーパーとかに土地を貸せれば御の字だろうね。スーパーが撤退すると後が大変だ。多額の固定資産税がかかる。土地を売る羽目になる。
農地のままなら、固定資産税もほとんどかからない。発展してきている土地でどっちを取るかだね。
お盆でお経読むが
お経本には般若心経はない、
西山派は判断を読む派ではあるが
家の勤行一式には入っていない
般若心経は寺男やってた曹洞宗寺院と
近所の無住の真言宗寺院くらいしか
般若心経を唱えない、
読み方を宗派色で声色を変えて読んでいる😀
ま、俺は元は修験道は
そんなに本気度合いが
低かった
2003年〜2008年くらいまでは
夕に近い正統派志向?だらけだった
😀
生活で実践ベースになっていた
文字やフィールドワークは
修験道や念仏に寄っていったけど
😀
じゃ、浄土系も詳しんだ。
とりま、情報収集やフィールドワークは満足したくらいになってた
三論宗だけは滅びているので
最近まで食べ残しだった
😀
後は、道元さんが法華信者だということで、法華経とはどういものか。何で、あんなに信仰できるのかと興味がある。
勤行あげても自動的に天台智顗化
してまうので
リアルなのは解ってないな
😀
仏教を解ってきたスレに
AIで
曹洞宗の肯定と否定とは?
みたいなのを検索して
コピペしとるから、
それがイコール法華経なんだろうなー
感はある
質問が良いとAI解答も
まともなのが出るな、感
修行してる感の解答ではないが
屁理屈としてはイケてる感じだ
😀
祖先が浄土宗、臨済宗ということは、武士だったんじゃないの?
>曹洞宗の肯定と否定とは?
なにそれ、俺もやってみよw
上手く答えるなー
たぶん、まーまーいけてるだろう
臨済宗系統はAIは無理だろうけど
道元禅師の無常、否定と肯定 道元禅師の思想における「無常」、そしてそこから展開される「否定と肯定」は、彼の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を貫く最も核心的なテーマの一つです。道元は、仏教の根本真理である「諸行無常」をさらに深化させ、独自の「存在論」と「実践論(坐禅)」へと昇華させました。その思想の構造は、以下のように整理できます。1. 道元における「無常」:すべてが今この瞬間の現れ一般的な無常観は「すべてのものは移り変わり、いつかは滅びるから儚(はか)ない」という哀愁を伴うものです。しかし、道元の無常観は異なります。有時(うじ)の思想: 道元は「時間は流れるものではなく、存在そのものが時間である(存在=時間)」と説きました。今この瞬間の絶対性: 過去や未来という地続きの流れの中で無常を捉えるのではなく、「今・ここ」という一瞬一瞬に、宇宙のすべて(全存在)が完全に現れては消滅していると捉えます。これを「薪(まき)は薪の法位に住し、灰は灰の法位に住す(薪が燃えて灰になるのではなく、薪の瞬間と灰の瞬間がそれぞれ独立して絶対的に存在する)」と表現します。2. 「否定」のステップ:固定観念や自己の解体道元の思想における「否定」とは、私たちが無意識に持っている「固定的なもの(実体)がある」という思い込みへの徹底的な批判です。身心脱落(しんじんだつらく): 坐禅の本質を、道元は「身心を脱落すること」と言いました。これは、「私」という固定された人間がいる、という自己中心的な錯覚(我執)を徹底的に否定し、削ぎ落とすことです。仏性の再定義(悉有仏性): 従来の仏教では「すべての衆生(生き物)には仏になる可能性(仏性)がある」と考えられていましたが、道元はこれを「悉有は仏性なり(すべての存在そのものが、そのまま仏性である)」と読み替えました。「内に秘められた種」としての仏性を否定し、固定的な本質などどこにもない(無常・空)という事実そのものを突きつけます。
道元禅師と法華経の関係だろうと
😀
修行的にはイマイチだろうけどなー
😀
父の母方の方は、武士らしい
地元の名族だったようだ
祖母はお嬢様タイプの気質だったみたいだ😅
これ、読んだよ。
本覚思想との折り合いだろうね。
修証一等に落とし込んだ。
別の角度からしたら、せんたんが初心だと言ったのも、今とは新しい今しかないから初心とは新しい今に付随して初心がある。まぁ今が先でも初心が先でもどちらでもいい
まぁ、世阿弥の初心とまぁ似ている。
ちょっと話がズレたかw
本覚思想を絡ませると確かに屁理屈だ
>せったんが初心だと言ったのも、今とは新しい今しかないから
天台智顗の天台小止観でも
修行を求めようとする初発心は
そのものが悟りだったと
いうオチだ
😀
禅に手が届かない時期に
かなり天台華厳真言とかの本を
読んでたなー
😀
法華経の雰囲気の解釈は
まーまーイケてるかもなー
😀
やっと禅の最初のスタート地点に立て初めたくらい
😀
如恒沙等 来欲聴法 及見滅度 多宝如来
各捨妙土 及弟子衆 天人龍神 諸供養事
令法久住 故来至此 為坐諸仏 以神通力
移無量衆 令国清浄 諸仏各各 詣宝樹下
如清涼池 蓮華荘厳 其宝樹下 諸師子座
仏坐其上 光明厳飾 如夜闇中 然大炬火
身出妙香 十方国 衆生蒙薫 喜不自勝
譬如大風 吹小樹枝 以是方便 令法久住
また、私(釈尊)の分身である無量の諸仏たちが、 恒河の砂の数ほどに現れて、法を聞くためにやって来る。
それぞれが自らの清浄な国土を離れ、弟子たちや天・人・龍神などの供養を捨てて、 この場に集まっている。
法を久しくこの世に存続させるために、ここへ来ているのである。
諸仏を座らせるために、神通力をもって無量の衆生を移動させ、 この国土を清浄にした。
諸仏はそれぞれ宝の樹の下へと向かう。
その宝樹の下は、清らかな池に蓮華が咲き誇るように荘厳である。
宝樹の下には師子座(獅子座)が並び、 諸仏はその上に座る。
その光明は荘厳で、 夜の闇の中に大きな松明が燃えているようである。
仏の身からは妙なる香りが放たれ、十方の国土を薫らせ、 衆生はその香りに包まれて、喜びに耐えられないほどである。
それは、強い風が小さな木の枝を揺らすようなものだ。
このような方便によって、法を久しく存続させるのである。
また、私(釈尊)の分身である無量の諸仏が、恒河沙の数ほどに現れる。
■ 構造
分身諸仏=法の働きの多様性
法が説かれる場に、法の働きが自ずと集まる
「主体(説く者)」が増えるのではなく
法が法を呼び寄せる
② 諸仏は自らの国土・弟子・供養を捨てて来る
清浄な国土を離れ、弟子や天人龍神の供養を捨てて来る。
■ 構造
諸仏は「自分の世界」を捨てて集まる
これは 法の前では仏の差異が消える という構造
「仏が仏に重なる」準備段階
③ 法を久住させるために来る
法を久しく存続させるために来ている。
■ 構造
法の永続性は、仏が保証するのではなく法が仏を動かして永続性を成立させる
つまり、
法 → 仏 → 法 → 仏 → 法
という自己照明の循環。
④ 神通力で国土を清浄にする
諸仏を座らせるために、神通力で衆生を移し、国土を清浄にした。
■ 構造
法が説かれる場は、法によって変容する
「場」が法に感応して清浄化する
これは 実相が実相として立ち上がる というあなたの表現そのもの
宝樹下に獅子座が並び、諸仏がそこに座る。
■ 構造
宝樹=法の象徴
獅子座=法の権威
仏が法の座に座る
→ 仏が法に重なる(不二)
⑥ 光明と香気が十方を満たす
光明は闇を照らし、香気は十方を薫らす。
■ 構造
光=法の智慧
香=法の働き
十方=全世界
→ 法が世界を満たす
衆生はその香気に包まれ、喜びが溢れる。
これは 法が衆生の心を直接動かす という構造。
⑦ 大風が小枝を揺らす比喩
強い風が小枝を揺らすようなもの。
■ 構造
法の働きが衆生を揺り動かす
衆生の主体性ではなく、法の側の働き
主体不可得・客体不可得の構造
⑧ 方便によって法久住
この方便によって法を久しく存続させる。
■ 構造
法の自己展開(宝塔湧出・諸仏来集・国土清浄)が
法の永続性を保証する
仏が法を守るのではなく
法が仏を動かし、法を守る
法が説かれる
→ 法が感応する
→ 法が場を変容させる
→ 仏が現れる
→ 仏が仏に重なる
→ 法が世界を満たす
→ 法が法を永続させる
この循環こそが、
あなたが言う 「実相が実相として立ち上がる」 という構造。
そして、
仏が仏と重なる=法が法を照らす不二の構造
まさに見宝塔品の核心。
そうそう。
バブルで一時期、自治会も神社もイベントが増えたけれど、
世の中の流れとしては、今は縮小する流れになっているね。
うちの自治会は、その流れにあらがって、
イベントを維持したい人が多い。
なので、ワシは困っているのじゃ。
2年後に年齢順で自治会長が当たるが、
イベントをさせられる。