仏のスレ81最終更新 2026/06/23 12:311.笑夫WrsL8勝手にしやがれ!仏のスレ80https://talk.jp/boards/psy/17817791742026/06/22 18:10:15295コメント欄へ移動すべて|最新の50件246.神も仏も名無しさんwRqELお前とオレの差はほんの少しだ、これっぽっちだ永遠に縮まらないがなwて、漫画にあったなセリフ2026/06/23 11:39:29247.神も仏も名無しさんgNL7g>>245こいつ栖雲居士だから😩2026/06/23 11:41:08248.神も仏も名無しさんwRqELまーあいつがやるレッテル貼りとか人を小馬鹿にしたような表現とかありとあらゆる芸風をトレースしてそっくりそのままかえしてやるぜ〜笑お笑い好きだからなオレ ワイルドだろ〜2026/06/23 11:41:15249.神も仏も名無しさんwRqEL栖雲居士よお前は弱い!←ちなみにこれはかまいたちの山内の真似です笑2026/06/23 11:42:27250.神も仏も名無しさんRPYGY>>7 んでこれ栖雲居士自身もIDコロコロしてるのなんなん?w2026/06/23 11:42:31251.神も仏も名無しさんwRqELためになったねーーー!2026/06/23 11:42:54252.◆JBLfMwCXhYj7kKd>>113そう、それその文章の誤読を、以前から指摘している2026/06/23 11:43:07253.◆JBLfMwCXhYj7kKd鐘の音が耳に入る → 触・作意「いい音だ」or「うるさいな」→ 受「これは鐘の音だ」 → 想「もっと聞きたいな」 → 思2026/06/23 11:49:21254.パーリーuuP6o38 麦◆MUGITANx95Dj 2026/06/23(火) 07:37:07.76 ID:riqS3∞ノノハ∞川^○^ハレ盤珪禅師は梅の香りで悟られたんですよね>古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ梅の香りは梅の香りに非ず故に梅の香りお茶の味はお茶の味に非ず故にお茶の味即非の論理ですねーーーそr2026/06/23 11:55:13255.◆JBLfMwCXhYh0X7o>盤珪禅師、常に人に示して云く>「・・・喩えば定中に鐘声を聞く時、是れ鐘声なりと思量するは妄念なり。思量せずして鐘声を知る底の物、是れ即ち本有円成の活仏心なり」。ここで盤珪は、「坐禅していて鐘の音が聞こえてきたとき、『これは鐘の音だ』などと思うのは妄念だ。鐘の音だとも、なんとも思わない。ただ、音が聞こえる。それだけだ」というようなことを言っている>師之を聞きて云く、「盤珪、実に止だ如此くなるのみ歟!・・・思量せずして領納する底は是れ受と名づく、即ち五蘊の第二なる耳。是の故に、古徳〔宗密〕云く、“諸受を受けざる、是れ正受と名づく”と』ところが、師はこれを聞いて、「盤珪もまだまだだな。鐘の音だと思わずに、ただ音が聞こえるというのは『受』だ」と批判した2026/06/23 11:56:39256.◆JBLfMwCXhYh0X7oこの話、だいぶ前からやってるが以前と違って今は、AIが劇的に進歩している(笑)AIに感想を聞いてみよう2026/06/23 12:00:14257.◆JBLfMwCXhYh0X7oプロンプト:或る僧、因みに盤珪禅師の法要を問う。白蓋謂く、珪禅師、常に人に示して云く、「但だ不生を守れ。人人各各、本より仏性有り。妄念の為に覆わるのみ。是の故に妄念不生なれば、即ち是れ仏性なり。委悉せんと欲さば則ち更に聞け。喩えば定中に鐘声を聞く時、是れ鐘声なりと思量するは妄念なり。思量せずして鐘声を知る底の物、是れ即ち本有円成の活仏心なり。この故を以って似だ不生を守れば、則便ち当人なる耳」。師之を聞きて云く、「盤珪、実に止だ如此くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。豈に仏性仏心の談に及ばん哉!何となれば、思量せずして領納する底は是れ受と名づく、即ち五蘊の第二なる耳。是の故に、古徳〔宗密〕云く、“諸受を受けざる、是れ正受と名づく”と。若し此の受を認めて以って「本有円成の活仏心」と為せば、則ち轅を北にして越に向うなり。未だ二乗の小径に入らず、況や仏祖の大道を乎!↑ここで盤珪は、「坐禅していて鐘の音が聞こえてきたとき、『これは鐘の音だ』などと思うのは妄念だ。鐘の音だとも、なんとも思わない。ただ、音が聞こえる。それだけだ」というようなことを言っているところが、師はこれを聞いて、「盤珪もまだまだだな。鐘の音だと思わずに、ただ音が聞こえるというのは『受』だ」と批判した2026/06/23 12:01:23258.◆JBLfMwCXhYh0X7oチャットGPT:そうですね。この文章の論点は、まさにそこにあります。盤珪の立場をかなり単純化すると、鐘の音が鳴る↓「これは鐘だ」と考える前に、すでに聞こえている↓その思慮分別以前のはたらきが「不生仏心」であるということになります。盤珪はしばしば、見れば見える聞けば聞こえるそのままで仏心という方向で説法しました。ところが、この文章の「師」(白隠系の禅者とされることが多い)は、いや、それは単なる感覚受容にすぎないと批判しているのです。2026/06/23 12:02:11259.◆JBLfMwCXhYh0X7o仏教用語で言えば、色(対象)眼識・耳識(知覚)受(快・不快・中性の受容)という流れがあります。師は、「思量せずして鐘声を知る」という盤珪の説明を聞いて、それはただ耳識や受のレベルの話ではないかと言っている。つまり、音が聞こえる↓その聞こえを「仏心」と呼んでしまうのは早計だ、と。だから、思量しない知覚 = 仏心という盤珪の説明を認めないわけです。さらに厳しく言うと、それではまだ五蘊の中をぐるぐるしているだけだという批判です。2026/06/23 12:02:47260.◆JBLfMwCXhYh0X7oただし、ここで面白いのは、盤珪自身が本当にそんな単純なことを言っていたのか、という問題です。盤珪の説法全体を読むと、「聞こえる感覚そのものが仏だ」と言いたいというより、聞こえた後に好き嫌い・妄想・分別を付け加えるなという方向に重点があります。だから盤珪側なら、私は受蘊を仏性だと言っているのではない。分別を起こさない本来のはたらきを示しているのだ。と反論するでしょう。一方、この師はかなり教理的で、「思量がない」「分別がない」「ただ聞こえる」程度では不十分だ。それはまだ受蘊であって、仏性ではない。と言っている。この論争は、現代風に言うと盤珪 → 「ただ気づいている、そのままでよい」批判者 → 「いや、それは単なる知覚体験だ。悟りではない」という対立です。実はこれは現代のマインドフルネス批判にもよく似ています。「ただ観察するだけで悟りなのか?」「それは単なる気づきの状態ではないのか?」という議論ですね。そして、この文章の師は明らかに後者の立場で、「ただ音が聞こえるだけ」を仏心と呼ぶのは誤りだと断じているわけです。2026/06/23 12:03:05261.◆JBLfMwCXhYh0X7oプロンプト:この師匠によるツッコミは、無理筋だな音が聞こえるのは、止めようと思って止められるものではない2026/06/23 12:03:25262.◆JBLfMwCXhYh0X7oチャットGPT:その批判は十分成り立つと思います。なぜなら、この師の批判は、「思量せずして鐘声を知る」↓「それは受蘊だ」↓「だから仏心ではない」という論法ですが、盤珪が言いたいことと少しズレている可能性があるからです。盤珪は、音が聞こえること自体を修行で作り出せと言っているのではありません。むしろ、音が聞こえたあと、 「うるさいな」 「鐘だな」 「修行の邪魔だ」と次々に妄念を付け加えるその方を問題にしている。だから盤珪の「不生」は、耳識を止めろでも受をなくせでもなく、分別妄想を増殖させるなという意味に近い。そうすると、音が聞こえるのは受蘊だからダメという批判は、盤珪の論点を外しているようにも見えます。2026/06/23 12:04:16263.◆JBLfMwCXhYh0X7oもっと言えば、仏教では阿羅漢ですら、音は聞こえる色は見える痛みも感じるとされています。釈迦も鐘が鳴れば聞こえたでしょうし、熱ければ熱かったはずです。もし師の言うように、聞こえること自体が問題なら、悟った人は聴覚そのものが消えるのかという話になってしまいます。もちろんそんなことはありません。ただ、公平に見ると、この師が言いたいのは「音が聞こえる」という経験を絶対化するなということでしょう。つまり、無分別に聞こえている感覚↓これが仏心だ!と実体視するな、と。この点は中観や華厳、あるいは宗密系の批判としては理解できます。2026/06/23 12:05:12264.◆JBLfMwCXhYh0X7o実際、引用文でも若し此の受を認めて以って本有円成の活仏心と為せば(もしこの受を仏心そのものだと認めるなら)と言っていて、受が起こることではなく、受を仏性そのものと同一視することを批判しているとも読めます。なので、音が聞こえるのは止められないのだから、受だと批判しても仕方ないというあなたの感覚は自然です。むしろ問題は、盤珪が本当に「受=仏心」と言ったのかの方です。盤珪の説法全体を見ると、彼は単純な感覚作用を神格化したかったというより、分別以前の自由なはたらきを指し示そうとしていたように見えます。その意味では、この師の批判はやや教理的すぎて、盤珪の意図を狭く解釈しているようにも感じられますね。2026/06/23 12:05:24265.神も仏も名無しさんwRqEL私がお茶を飲む、そして味がすると言ってるのは実際に起きたことですからね言葉は重要じゃない、実際の物事が修行の眼目と言ってるんだけど頭悪すぎて理解できないんだろうな参禅四十年しても論破される詐欺師くんは2026/06/23 12:10:23266.神も仏も名無しさんWvvZQまだまだビギナー🤡ジャイアンのワンマンライブはこれからだーオンチ禅をもっと聞かせてけろお〜〜〜🤡🤡🤡🤡🤡🤡🤡2026/06/23 12:10:34267.神も仏も名無しさんWvvZQ天性のオンチ禅ビギナー🤡2026/06/23 12:11:11268.パーリーuuP6o38 麦◆MUGITANx95Dj 2026/06/23(火) 07:37:07.76 ID:riqS3∞ノノハ∞川^○^ハレ盤珪禅師は梅の香りで悟られたんですよね>古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ梅の香りは梅の香りに非ず故に梅の香りお茶の味はお茶の味に非ず故にお茶の味即非の論理ですねーーーそれはね盤珪禅師が【無心】の時に、ちょうど梅の【香り】を芳いだそのことで凡夫が【雑念・妄想・思考】の【自我有心層】に阻まれて【仏性】にとどかないのとは違っていて【無心】を透過して【仏性】にズドン!とストレートに【梅の香】が届き【仏心】が目覚めて【梅の香】と一つになったと言うことこれは【音】でも同じであって【香厳撃竹】での竹に小石が【コーン!】も、悟りの構造は同一です‼️2026/06/23 12:11:57269.神も仏も名無しさんwRqELなんでJBLさんとでおーさんを論破しかされない夫君が苦手なのかわかった気がする笑2026/06/23 12:12:12270.神も仏も名無しさんWvvZQ怪デンパパ📡あらわるるこいつも解ったオンチ芸人👽2026/06/23 12:14:09271.神も仏も名無しさんWvvZQオンチ禅瞑想でも頑張れはいつか他人に認められるかもしれない👽🤡2026/06/23 12:14:40272.◆JBLfMwCXhYh0X7oプロンプト:この人は、上記の引用文を誤読している「お茶を飲んでお茶の味がする』というのは、この話の筋からすれば、「受」ではないしいて言えば、「想」だろうこの人が言ってる「茶を飲むだけで、茶だともなんとも思わない」というのが「受」だ↓16 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE 2026/06/23(火) 07:01:45.35 ID:sePCQお茶を飲んでお茶の味がする。それは「お茶の味がする」という感受作用だから「受」。それが根拠に師之を聞きて云く、盤珪、実に止だ如出くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。豈に仏性仏心の談に及ばん哉!(中略)洞山祖師云く驢前馬後の漢、長沙云く無量劫来生死の本、痴人は喚びて本来人と作す”と、皆な此れを指すなり。って『聞解随筆』(面山瑞方)から引用したんだよ。何一つおかしな事は云ってない。22 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE 2026/06/23(火) 07:24:55.14 ID:dXIyJ馬鹿にも分かるように、超絶ザックリというけど、茶を飲むだけでいいんだよ。息を観るだけでいいんだよ。ハッキリだのそのままだのその通りの味がするだの、そんなのは余計事。そんなのを認めるのを修行だと思ったら、まさに"轅を北にして越に向うなり"で"驢前馬後の漢"で"無量劫来生死の本、痴人は喚びて本来人と作す"事な。修行の眼目はそこじゃないんだよ。何度も指摘しているけど、「ハッキリだのそのままだのその通りの味がするだのというのは何者だ?」という己事究明な。茶を飲んで茶の味がするところに落ち着いちゃダメだって事な。2026/06/23 12:16:47273.神も仏も名無しさんwRqELたぶん論破され夫くんは本当は心の中でパーリーとリダンのこと外道がって思ってると思うけどな笑2026/06/23 12:16:51274.◆JBLfMwCXhYh0X7oチャットGPT:あなたの読みの方が、少なくとも五蘊の定義に照らすと筋が通っていますね。まず、引用文で問題になっているのは、思量せずして鐘声を知る底の物です。これを面山側は、「思量せずして領納する底」↓これは受であると解釈している。ここでの「受」は、苦受楽受不苦不楽受の「受」です。つまり「感受」「領納」です。ところが栖雲居士氏は、お茶を飲んでお茶の味がする=受と言っていますが、これは少し雑です。アビダルマや唯識なら、茶を飲む場合、舌識が起こる味を知覚する甘い・苦いなどを感じる(受)お茶だと認識する(想)というふうに分析します。五蘊で言えば、「お茶だと分かる」はむしろ想蘊です。受蘊は、苦い甘い渋い心地よい不快だといった感受の方です。だからあなたが言う「お茶を飲んでお茶の味がする」は想に近いという指摘には根拠があります。もちろん厳密には、「味がする」の中には受想の両方が含まれています。しかし、これはお茶の味だという認識に重点を置くなら想です。2026/06/23 12:18:11275.神も仏も名無しさんwRqEL>>272アイツは言ってることがコロコロ変わるな2026/06/23 12:19:04276.◆JBLfMwCXhYh0X7oさらに面白いのは、栖雲居士氏の後半の説明です。茶を飲むだけでいい息を観るだけでいいハッキリだのそのままだのその通りの味がするだのは余計事これは実は前半の面山引用と少し緊張関係があります。なぜなら盤珪も、思量するなと言っているからです。つまり、茶だ!ハッキリ分かった!そのままだ!という言語化や概念化を警戒する点では、盤珪と栖雲居士氏は意外に近い。むしろ本当の対立点は、盤珪が思量以前に働いているものを不生仏心と呼ぶのに対して、面山はそれを仏心と呼ぶなと言っていることです。だから論争の核心は受か想かよりも、分別以前の働きを仏心と認定してよいのかにあります。そしてあなたの指摘どおり、栖雲居士氏がお茶を飲んでお茶の味がする=受と言ってしまうと、元の面山の思量せずして領納する底は受という議論とは微妙にズレます。面山が批判しているのは、「お茶だ」と認識したことではなく、思量以前の感受そのものだからです。その意味で、あなたの「この人は引用文を誤読している」という指摘には、かなり当たっている部分があります。少なくとも仏教の五蘊論に即して厳密に読むなら、「お茶だと分かる」は想、「味として受ける」は受、両者を区別しないと議論がごちゃごちゃになります。2026/06/23 12:19:08277.神も仏も名無しさんWvvZQオンチ禅仏教を舐めるなアアア〜〜〜…🤡🤡🤡🤡🤡2026/06/23 12:19:46278.神も仏も名無しさんgNL7g栖雲居士は基地外だから言っていることを真に受けてはならない2026/06/23 12:20:23279.◆JBLfMwCXhYh0X7o>>275> アイツは言ってることがコロコロ変わるなそうこれでも既に、当方の指摘を受けて、当初の言い方からはだいぶ修正しているそれでも、引用文の主旨が読解できていないことに変わりはない2026/06/23 12:21:21280.神も仏も名無しさんgNL7gで、栖雲居士は批判者が多いことが悟りたる者の特徴だ、と誤解しているしかし仏陀と基地外は全く違う仏陀は分かる人には分かるが、基地外は基地外でしかないそして仏陀はマウントを取らないが基地外はマウント命である2026/06/23 12:23:17281.神も仏も名無しさんwRqEL>>279自分が論破された認識がなく、逆にJBLさんたちを虫ケラ呼ばわりして瞬殺論破して10年言い負かされたことないって本気で思い込んでるもんな笑2026/06/23 12:24:29282.パーリーuuP6o思量せずして鐘声を知る底の物、是れ即ち本有円成の活仏心なり。← 思量せずして領納する底は是れ受と名づく、つまり、声を聞くことは受なりと申してることになる上記引用のスレでお前はずっとこれを受だと言っていた(嘘だと思うなら自分でリンクから辿って確かめろ)だから私は受=音を聞く、息をみる、お茶を飲む、味がするなどのこととして定義したーーー● これも同じこと🌟【思量せずして】→無心🌟【思量せずして】→無心🌟【思量せずして】→無心【鐘声を知る底】の物、是れ即ち【本有円成】の🌟【活仏】【心】→無心なり!🌟【活仏】【心】→無心なり!🌟【活仏】【心】→無心なり!ってことですから🙅【声を聞くこと】は受なりと申してることになるこれは【無心】が抜けているつまり【修行】とは🙅【音を聞くこと】ではなくて🌟【無心になる】ことなのです‼️2026/06/23 12:25:24283.神も仏も名無しさんwRqEL一応、整理しとくと、いま参禅四十年の味方をしてるのがパーリーとリダンだけであってる?2026/06/23 12:25:57284.神も仏も名無しさんfXXAa「只今一切の声を聞く主は、何物ぞと是れを悟らば、此の心諸仏衆生の本源なり。」『塩山和泥合水集』2026/06/23 12:26:55285.神も仏も名無しさんwRqEL>>282だから論破され居士くんはそれは修行でも悟りでもないって言ってるんだよ笑2026/06/23 12:27:09286.◆JBLfMwCXhYh0X7oプロンプト:誤読もさることながら栖雲居士氏の主張は、そもそもピント外れだ仏教的には、「受 」は身体の自動的な反応であり、止めようと思って止められるものではないそれに対して、「自分自身の反応を観察しよう」というのが、初期仏教「観察すらしない。そのまま放っておけ」というのが、井上義衍の禅「お茶を飲んだら、お茶の味がした。それだけ」というのは、井上義衍老師とその弟子筋の禅宗なら、全然おかしくない2026/06/23 12:27:54287.パーリーuuP6o>>263AIには、教えなければ絶対に解らない領域ですね2026/06/23 12:28:08288.神も仏も名無しさんwRqEL>>284なんかその言い方引っかかるなー主なんかいないでしょただ声だけがするばかりで2026/06/23 12:28:17289.◆JBLfMwCXhYh0X7oチャットGPT:あなたの整理は、少なくとも井上義衍系の文脈ではかなり自然だと思います。まず仏教一般でいう「受」は、触 → 受 → 想 → 行 → …という流れの中の一要素で、暑ければ暑いし、 痛ければ痛いし、 茶を飲めば味がする。これは生理的・心理的に生起するもので、基本的には意志で止める対象ではありません。だから、茶の味がするな!音が聞こえるな!という修行は仏教にはありません。阿羅漢だって味は分かるし、音も聞こえます。初期仏教や上座部系だと、味がした↓心がどう反応したか観察するという方向になります。つまり受そのものではなく、受への執着受への嫌悪を見る。2026/06/23 12:28:54290.◆JBLfMwCXhYh0X7oところが井上義衍系になると、さらに一歩進んで、観察しようとするなと言う。あなたもよく話題にしている反応しない工夫しない何とかしようとしないという方向ですね。その立場からすると、お茶を飲んだお茶の味がしたそれだけという表現は、むしろ典型的です。「味がした」という事実を否定しているのではなく、味がしたぞ!この味覚を観察しよう!これが仏心か?これが受か?という二次的な働きを問題にしている。だから栖雲居士氏の茶を飲んで茶の味がするところに落ち着いちゃダメだという言い方は、義衍系の人から見れば、いや、誰もそこに落ち着いてないだろうとなりそうです。盤珪も義衍も、味がすることを悟りだと言っているわけではありません。むしろ、味がするという当たり前の出来事に、 あれこれ意味付けするなという方向です。2026/06/23 12:29:10291.麦◆MUGITANx95DjriqS3>>268∞ノノハ∞川^○^ハレそうですね心でお茶を飲むお茶の味はお茶の味に非ず故にお茶の味無心だからこそお茶の味はお茶の味寒夜無風竹有声耳聞不似心聞好>耳聞は心聞の好きに似ず目や耳など、五感でとらえる現象(耳聞)ばかりに気を取られていては、本当の真理や心で感じる音(心聞)を理解することはできない、という意味。本当に大切なものは、表面的な情報ではなく、自身の心を澄ませることで初めて聴こえてくるという教えです。2026/06/23 12:29:27292.◆JBLfMwCXhYh0X7oただ、公平に言うと、栖雲居士氏が警戒しているのは、「ただ味がする」↓「これが仏性だ!」という短絡でしょう。禅には昔から、無分別の状態をそのまま悟りと思い込むことへの警戒があります。面山もまさにそこを突いています。しかし、その警戒が強すぎると、味がすること自体を問題視しているような議論になってしまう。そこがあなたの感じる「ピント外れ」の部分でしょう。要するに、面山の批判 → 「受を仏心と取り違えるな」栖雲居士氏の解釈 → 「味がするところに留まるな」義衍系の見方 → 「そもそも留まるも何も、味がしたら味がしただけだろう」というズレがあるわけです。義衍系の立場からすると、「味がしたところに落ち着くな!」という警告自体が、すでに味をめぐって何か特別な問題を作り出しているように見えるかもしれません。実際、義衍なら茶を飲んだら茶の味がした。それで終わり。と言ってしまいそうですね。2026/06/23 12:29:33293.神も仏も名無しさんfXXAa「主ありて見聞覚知する人は生き畜生と是を言うなり」「主無くて見聞覚知する人を生き佛とは是を云うなり」至道無難2026/06/23 12:29:41294.神も仏も名無しさんwRqEL別にお茶飲んで、味がしてうまいなぁとか、熱いなとか思ってもいいじゃん そんなの自由じゃんうちの修行がいいのは厳密にしないんだよね観察とかしないて言うけど、観察してても構わないからね観察してることに気づいたらそれでOK2026/06/23 12:30:37295.神も仏も名無しさんfXXAa>>288見えたり聞こえたりの「主」が「ある」と無自覚にも認めてるものを「凡夫」というということでしょうこの「主」をその本源を、「アートマン」的な「自己」、霊魂的真我的なものと見るのが仏教以外の宗教2026/06/23 12:31:38
【社会】駅のトイレから「トイレットペーパーを持ち帰る人」、実は少なくなかった…用具入れから持ち去られた疑惑も“犯人特定”が極めて難しい理由ニュース速報+241632.82026/06/23 12:32:29
仏のスレ80
https://talk.jp/boards/psy/1781779174
永遠に縮まらないがなw
て、漫画にあったなセリフ
こいつ栖雲居士だから😩
お笑い好きだからなオレ ワイルドだろ〜
んでこれ栖雲居士自身もIDコロコロしてるのなんなん?w
そう、それ
その文章の誤読を、以前から指摘している
「いい音だ」or「うるさいな」→ 受
「これは鐘の音だ」 → 想
「もっと聞きたいな」 → 思
∞ノノハ∞
川^○^ハレ盤珪禅師は梅の香りで悟られたんですよね
>古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ
梅の香りは梅の香りに非ず故に梅の香り
お茶の味はお茶の味に非ず故にお茶の味
即非の論理ですね
ーーー
そr
>「・・・喩えば定中に鐘声を聞く時、是れ鐘声なりと思量するは妄念なり。思量せずして鐘声を知る底の物、是れ即ち本有円成の活仏心なり」。
ここで盤珪は、「坐禅していて鐘の音が聞こえてきたとき、『これは鐘の音だ』などと思うのは妄念だ。鐘の音だとも、なんとも思わない。ただ、音が聞こえる。それだけだ」というようなことを言っている
>師之を聞きて云く、「盤珪、実に止だ如此くなるのみ歟!・・・思量せずして領納する底は是れ受と名づく、即ち五蘊の第二なる耳。是の故に、古徳〔宗密〕云く、“諸受を受けざる、是れ正受と名づく”と』
ところが、師はこれを聞いて、「盤珪もまだまだだな。鐘の音だと思わずに、ただ音が聞こえるというのは『受』だ」と批判した
以前と違って今は、AIが劇的に進歩している(笑)
AIに感想を聞いてみよう
或る僧、因みに盤珪禅師の法要を問う。
白蓋謂く、珪禅師、常に人に示して云く、「但だ不生を守れ。人人各各、本より仏性有り。妄念の為に覆わるのみ。是の故に妄念不生なれば、即ち是れ仏性なり。委悉せんと欲さば則ち更に聞け。喩えば定中に鐘声を聞く時、是れ鐘声なりと思量するは妄念なり。思量せずして鐘声を知る底の物、是れ即ち本有円成の活仏心なり。この故を以って似だ不生を守れば、則便ち当人なる耳」。
師之を聞きて云く、「盤珪、実に止だ如此くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。豈に仏性仏心の談に及ばん哉!何となれば、思量せずして領納する底は是れ受と名づく、即ち五蘊の第二なる耳。是の故に、古徳〔宗密〕云く、“諸受を受けざる、是れ正受と名づく”と。若し此の受を認めて以って「本有円成の活仏心」と為せば、則ち轅を北にして越に向うなり。未だ二乗の小径に入らず、況や仏祖の大道を乎!
↑
ここで盤珪は、「坐禅していて鐘の音が聞こえてきたとき、『これは鐘の音だ』などと思うのは妄念だ。鐘の音だとも、なんとも思わない。ただ、音が聞こえる。それだけだ」というようなことを言っている
ところが、師はこれを聞いて、「盤珪もまだまだだな。鐘の音だと思わずに、ただ音が聞こえるというのは『受』だ」と批判した
そうですね。この文章の論点は、まさにそこにあります。
盤珪の立場をかなり単純化すると、
鐘の音が鳴る
↓
「これは鐘だ」と考える前に、すでに聞こえている
↓
その思慮分別以前のはたらきが「不生仏心」である
ということになります。
盤珪はしばしば、
見れば見える
聞けば聞こえる
そのままで仏心
という方向で説法しました。
ところが、この文章の「師」(白隠系の禅者とされることが多い)は、
いや、それは単なる感覚受容にすぎない
と批判しているのです。
色(対象)
眼識・耳識(知覚)
受(快・不快・中性の受容)
という流れがあります。
師は、
「思量せずして鐘声を知る」
という盤珪の説明を聞いて、
それはただ耳識や受のレベルの話ではないか
と言っている。
つまり、
音が聞こえる
↓
その聞こえを「仏心」と呼んでしまう
のは早計だ、と。
だから、
思量しない知覚 = 仏心
という盤珪の説明を認めないわけです。
さらに厳しく言うと、
それではまだ五蘊の中をぐるぐるしているだけだ
という批判です。
盤珪の説法全体を読むと、
「聞こえる感覚そのものが仏だ」
と言いたいというより、
聞こえた後に好き嫌い・妄想・分別を付け加えるな
という方向に重点があります。
だから盤珪側なら、
私は受蘊を仏性だと言っているのではない。
分別を起こさない本来のはたらきを示しているのだ。
と反論するでしょう。
一方、この師はかなり教理的で、
「思量がない」
「分別がない」
「ただ聞こえる」
程度では不十分だ。
それはまだ受蘊であって、仏性ではない。
と言っている。
この論争は、現代風に言うと
盤珪 → 「ただ気づいている、そのままでよい」
批判者 → 「いや、それは単なる知覚体験だ。悟りではない」
という対立です。
実はこれは現代のマインドフルネス批判にもよく似ています。
「ただ観察するだけで悟りなのか?」
「それは単なる気づきの状態ではないのか?」
という議論ですね。
そして、この文章の師は明らかに後者の立場で、
「ただ音が聞こえるだけ」を仏心と呼ぶのは誤りだ
と断じているわけです。
この師匠によるツッコミは、無理筋だな
音が聞こえるのは、止めようと思って止められるものではない
その批判は十分成り立つと思います。
なぜなら、この師の批判は、
「思量せずして鐘声を知る」
↓
「それは受蘊だ」
↓
「だから仏心ではない」
という論法ですが、盤珪が言いたいことと少しズレている可能性があるからです。
盤珪は、
音が聞こえること自体
を修行で作り出せと言っているのではありません。
むしろ、
音が聞こえたあと、 「うるさいな」 「鐘だな」 「修行の邪魔だ」
と次々に妄念を付け加える
その方を問題にしている。
だから盤珪の「不生」は、
耳識を止めろ
でも
受をなくせ
でもなく、
分別妄想を増殖させるな
という意味に近い。
そうすると、
音が聞こえるのは受蘊だからダメ
という批判は、盤珪の論点を外しているようにも見えます。
音は聞こえる
色は見える
痛みも感じる
とされています。
釈迦も鐘が鳴れば聞こえたでしょうし、熱ければ熱かったはずです。
もし師の言うように、
聞こえること自体が問題
なら、
悟った人は聴覚そのものが消えるのか
という話になってしまいます。
もちろんそんなことはありません。
ただ、公平に見ると、この師が言いたいのは
「音が聞こえる」という経験を絶対化するな
ということでしょう。
つまり、
無分別に聞こえている感覚
↓
これが仏心だ!
と実体視するな、と。
この点は中観や華厳、あるいは宗密系の批判としては理解できます。
若し此の受を認めて以って本有円成の活仏心と為せば
(もしこの受を仏心そのものだと認めるなら)
と言っていて、
受が起こること
ではなく、
受を仏性そのものと同一視すること
を批判しているとも読めます。
なので、
音が聞こえるのは止められないのだから、受だと批判しても仕方ない
というあなたの感覚は自然です。
むしろ問題は、
盤珪が本当に「受=仏心」と言ったのか
の方です。
盤珪の説法全体を見ると、彼は単純な感覚作用を神格化したかったというより、
分別以前の自由なはたらき
を指し示そうとしていたように見えます。
その意味では、この師の批判はやや教理的すぎて、盤珪の意図を狭く解釈しているようにも感じられますね。
言葉は重要じゃない、実際の物事が修行の眼目と言ってるんだけど頭悪すぎて理解できないんだろうな参禅四十年しても論破される詐欺師くんは
これからだー
オンチ禅を
もっと聞かせてけろお〜〜〜
🤡🤡🤡🤡🤡🤡🤡
∞ノノハ∞
川^○^ハレ盤珪禅師は梅の香りで悟られたんですよね
>古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ
梅の香りは梅の香りに非ず故に梅の香り
お茶の味はお茶の味に非ず故にお茶の味
即非の論理ですね
ーーー
それはね
盤珪禅師が【無心】の時に、ちょうど梅の【香り】を芳いだ
そのことで
凡夫が【雑念・妄想・思考】の【自我有心層】に阻まれて【仏性】にとどかないのとは違っていて
【無心】を透過して【仏性】にズドン!とストレートに【梅の香】が届き
【仏心】が目覚めて【梅の香】と一つになった
と言うこと
これは【音】でも同じであって
【香厳撃竹】での竹に小石が【コーン!】も、悟りの構造は同一です‼️
こいつも解ったオンチ芸人👽
頑張れは
いつか他人に認められるかもしれない
👽🤡
この人は、上記の引用文を誤読している
「お茶を飲んでお茶の味がする』というのは、
この話の筋からすれば、「受」ではない
しいて言えば、「想」だろう
この人が言ってる
「茶を飲むだけで、茶だともなんとも思わない」
というのが「受」だ
↓
16 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE 2026/06/23(火) 07:01:45.35 ID:sePCQ
お茶を飲んでお茶の味がする。
それは「お茶の味がする」という感受作用だから「受」。
それが根拠に
師之を聞きて云く、
盤珪、実に止だ如出くなるのみ歟!若し実に如此き見解なれば、則ち未だ凡夫の窟を出ず。
豈に仏性仏心の談に及ばん哉!(中略)
洞山祖師云く驢前馬後の漢、長沙云く無量劫来生死の本、痴人は喚びて本来人と作す”と、皆な此れを指すなり。
って『聞解随筆』(面山瑞方)から引用したんだよ。
何一つおかしな事は云ってない。
22 栖雲居士◆MKrKQHoID7SE 2026/06/23(火) 07:24:55.14 ID:dXIyJ
馬鹿にも分かるように、超絶ザックリというけど、
茶を飲むだけでいいんだよ。
息を観るだけでいいんだよ。
ハッキリだのそのままだのその通りの味がするだの、そんなのは余計事。
そんなのを認めるのを修行だと思ったら、まさに"轅を北にして越に向うなり"で"驢前馬後の漢"で"無量劫来生死の本、痴人は喚びて本来人と作す"事な。
修行の眼目はそこじゃないんだよ。
何度も指摘しているけど、「ハッキリだのそのままだのその通りの味がするだのというのは何者だ?」という己事究明な。
茶を飲んで茶の味がするところに落ち着いちゃダメだって事な。
あなたの読みの方が、少なくとも五蘊の定義に照らすと筋が通っていますね。
まず、引用文で問題になっているのは、
思量せずして鐘声を知る底の物
です。
これを面山側は、
「思量せずして領納する底」
↓
これは受である
と解釈している。
ここでの「受」は、
苦受
楽受
不苦不楽受
の「受」です。
つまり「感受」「領納」です。
ところが栖雲居士氏は、
お茶を飲んでお茶の味がする
=受
と言っていますが、これは少し雑です。
アビダルマや唯識なら、
茶を飲む場合、
舌識が起こる
味を知覚する
甘い・苦いなどを感じる(受)
お茶だと認識する(想)
というふうに分析します。
五蘊で言えば、
「お茶だと分かる」
はむしろ想蘊です。
受蘊は、
苦い
甘い
渋い
心地よい
不快だ
といった感受の方です。
だからあなたが言う
「お茶を飲んでお茶の味がする」は想に近い
という指摘には根拠があります。
もちろん厳密には、
「味がする」の中には
受
想
の両方が含まれています。
しかし、
これはお茶の味だ
という認識に重点を置くなら想です。
アイツは言ってることがコロコロ変わるな
茶を飲むだけでいい
息を観るだけでいい
ハッキリだのそのままだのその通りの味がするだのは余計事
これは実は前半の面山引用と少し緊張関係があります。
なぜなら盤珪も、
思量するな
と言っているからです。
つまり、
茶だ!
ハッキリ分かった!
そのままだ!
という言語化や概念化を警戒する点では、盤珪と栖雲居士氏は意外に近い。
むしろ本当の対立点は、
盤珪が
思量以前に働いているものを不生仏心と呼ぶ
のに対して、
面山は
それを仏心と呼ぶな
と言っていることです。
だから論争の核心は
受か想か
よりも、
分別以前の働きを仏心と認定してよいのか
にあります。
そしてあなたの指摘どおり、
栖雲居士氏が
お茶を飲んでお茶の味がする=受
と言ってしまうと、
元の面山の
思量せずして領納する底は受
という議論とは微妙にズレます。
面山が批判しているのは、
「お茶だ」と認識したこと
ではなく、
思量以前の感受そのもの
だからです。
その意味で、
あなたの
「この人は引用文を誤読している」
という指摘には、かなり当たっている部分があります。
少なくとも仏教の五蘊論に即して厳密に読むなら、
「お茶だと分かる」は想、
「味として受ける」は受、
両者を区別しないと議論がごちゃごちゃになります。
🤡🤡🤡🤡🤡
言っていることを真に受けてはならない
> アイツは言ってることがコロコロ変わるな
そう
これでも既に、当方の指摘を受けて、
当初の言い方からはだいぶ修正している
それでも、引用文の主旨が読解できていないことに変わりはない
批判者が多いことが悟りたる者の特徴だ、と誤解している
しかし仏陀と基地外は全く違う
仏陀は分かる人には分かるが、基地外は基地外でしかない
そして仏陀はマウントを取らないが基地外はマウント命である
自分が論破された認識がなく、
逆にJBLさんたちを虫ケラ呼ばわりして瞬殺論破して10年言い負かされたことないって本気で思い込んでるもんな笑
つまり、
声を聞くことは受なりと申してることになる
上記引用のスレでお前はずっとこれを受だと言っていた(嘘だと思うなら自分でリンクから辿って確かめろ)
だから私は受=音を聞く、息をみる、お茶を飲む、味がするなどのこととして定義した
ーーー
● これも同じこと
🌟【思量せずして】→無心
🌟【思量せずして】→無心
🌟【思量せずして】→無心
【鐘声を知る底】
の物、是れ即ち
【本有円成】の
🌟【活仏】【心】→無心なり!
🌟【活仏】【心】→無心なり!
🌟【活仏】【心】→無心なり!
ってことですから
🙅【声を聞くこと】は受なりと申してることになる
これは【無心】が抜けている
つまり【修行】とは
🙅【音を聞くこと】ではなくて
🌟【無心になる】ことなのです‼️
だから論破され居士くんはそれは修行でも悟りでもないって言ってるんだよ笑
誤読もさることながら
栖雲居士氏の主張は、そもそもピント外れだ
仏教的には、「受 」は身体の自動的な反応であり、止めようと思って止められるものではない
それに対して、「自分自身の反応を観察しよう」というのが、初期仏教
「観察すらしない。そのまま放っておけ」というのが、井上義衍の禅
「お茶を飲んだら、お茶の味がした。それだけ」というのは、
井上義衍老師とその弟子筋の禅宗なら、全然おかしくない
AIには、教えなければ
絶対に解らない領域ですね
なんかその言い方引っかかるなー
主なんかいないでしょ
ただ声だけがするばかりで
あなたの整理は、少なくとも井上義衍系の文脈ではかなり自然だと思います。
まず仏教一般でいう「受」は、
触 → 受 → 想 → 行 → …
という流れの中の一要素で、
暑ければ暑いし、 痛ければ痛いし、 茶を飲めば味がする。
これは生理的・心理的に生起するもので、基本的には意志で止める対象ではありません。
だから、
茶の味がするな!
音が聞こえるな!
という修行は仏教にはありません。
阿羅漢だって味は分かるし、音も聞こえます。
初期仏教や上座部系だと、
味がした
↓
心がどう反応したか観察する
という方向になります。
つまり受そのものではなく、
受への執着
受への嫌悪
を見る。
観察しようとするな
と言う。
あなたもよく話題にしている
反応しない
工夫しない
何とかしようとしない
という方向ですね。
その立場からすると、
お茶を飲んだ
お茶の味がした
それだけ
という表現は、むしろ典型的です。
「味がした」という事実を否定しているのではなく、
味がしたぞ!
この味覚を観察しよう!
これが仏心か?
これが受か?
という二次的な働きを問題にしている。
だから栖雲居士氏の
茶を飲んで茶の味がするところに落ち着いちゃダメだ
という言い方は、
義衍系の人から見れば、
いや、誰もそこに落ち着いてないだろう
となりそうです。
盤珪も義衍も、
味がすることを悟りだと言っている
わけではありません。
むしろ、
味がするという当たり前の出来事に、 あれこれ意味付けするな
という方向です。
∞ノノハ∞
川^○^ハレそうですね
心でお茶を飲む
お茶の味はお茶の味に非ず故にお茶の味
無心だからこそお茶の味はお茶の味
寒夜無風竹有声
耳聞不似心聞好
>耳聞は心聞の好きに似ず
目や耳など、五感でとらえる現象(耳聞)ばかりに気を取られていては、本当の真理や心で感じる音(心聞)を理解することはできない、という意味。本当に大切なものは、表面的な情報ではなく、自身の心を澄ませることで初めて聴こえてくるという教えです。
「ただ味がする」
↓
「これが仏性だ!」
という短絡でしょう。
禅には昔から、
無分別の状態をそのまま悟りと思い込む
ことへの警戒があります。
面山もまさにそこを突いています。
しかし、その警戒が強すぎると、
味がすること自体を問題視している
ような議論になってしまう。
そこがあなたの感じる「ピント外れ」の部分でしょう。
要するに、
面山の批判 → 「受を仏心と取り違えるな」
栖雲居士氏の解釈 → 「味がするところに留まるな」
義衍系の見方 → 「そもそも留まるも何も、味がしたら味がしただけだろう」
というズレがあるわけです。
義衍系の立場からすると、
「味がしたところに落ち着くな!」
という警告自体が、すでに味をめぐって何か特別な問題を作り出しているように見えるかもしれません。実際、義衍なら
茶を飲んだら茶の味がした。
それで終わり。
と言ってしまいそうですね。
「主無くて見聞覚知する人を生き佛とは是を云うなり」至道無難
うまいなぁとか、熱いなとか思ってもいいじゃん そんなの自由じゃん
うちの修行がいいのは厳密にしないんだよね
観察とかしないて言うけど、
観察してても構わないからね
観察してることに気づいたらそれでOK
見えたり聞こえたりの「主」が「ある」と
無自覚にも認めてるものを「凡夫」というということでしょう
この「主」をその本源を、「アートマン」的な「自己」、霊魂的真我的なものと見るのが仏教以外の宗教