【ヨーガ】 インドの瞑想宗教 【ヴェーダンタ】 Part2最終更新 2026/05/01 04:581.◆JBLfMwCXhYtWt0j哲学と宗教の本場インドの教えを学ぼう前スレ【ラマナ・マハルシ】インドの宗教哲人【ラーマクリシュナ】https://talk.jp/boards/psy/16894892092026/04/05 15:58:28362コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.◆JBLfMwCXhYtWt0j参考サイト日本ヴェーダーンタ協会https://www.vedantajp.com/?mobile=12026/04/05 16:01:183.◆JBLfMwCXhYtWt0jスワーミー・メーダサーナンダ師 プロフィール師は世界的に活動しているラーマクリシュナ・ミッションの僧である。このミッションは、宗教の調和を信条とし、インドに本部を置く宗教と慈善の団体です。師の生誕地はインドの西ベンガルであり、その後カルカッタ大学で法律と現代歴史を勉強し、1974年ラーマクリシュナ僧団に入団しました。1980年よ り、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を12年間務め、1993年からはミッションの日本支部の会長を務めています。現在は、インドで培われた霊性、そしてヨーガの道徳・心のあり方・宗教的な事柄について、日本の各地・島々で、時には海外にも出かけて、講演を行っています。今まで、師はたくさんの雑誌に文章を書いてきました。特に、インドの歴史、宗教、文化の中心地として有名なバラナシ(ベナレス)を詳しく調べた師の本は、世界的に評価されています。また、ディヤーナムという瞑想ガイドのCDは、世界で販売されています。霊性修行やヒンドゥ教の経典の解説、その他のご相談でスワーミー(インドの僧侶)に会いたいと思われる方は、お電話で常駐のインドのラーマクリシュナ僧団のスワーミー・メダサーナンダ師に日時を打ち合わせください。日本ヴェーダーンタ協会 046-873-04282026/04/05 16:04:414.◆JBLfMwCXhYtWt0j質問:ヨガ哲学の二元論と、ヴェーダーンタ哲学の非二元は矛盾しないのか?ChatGPT:鋭いところですね。ここはインド哲学の“いちばん議論されてきたポイント”です。結論から言うと:👉厳密には矛盾する(理論としては両立しない)👉 でも実践レベルでは補完的に使われることが多いこの「二層構造」で理解するとスッキリします。2026/04/05 16:06:285.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ まずは立場の違いを整理● ヨガ(サーンキヤ系の二元論)代表:ヨーガ・スートラプルシャ(純粋意識)とプラクリティ(物質・心)は別物苦しみは「混同」から起こる解脱=両者を切り離して区別すること👉 世界は「本当に二つある」● ヴェーダーンタ(特に不二一元論)代表:ウパニシャッド体系化:シャンカラアートマン=ブラフマン(すべては一つ)世界の分離は無知による見かけ解脱=最初から一つだったと悟ること👉 世界は「本当は一つ」2026/04/05 16:07:496.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ じゃあ矛盾してる?はい、哲学としては真正面から矛盾します。ヨガ:精神と物質の二つは「実在として別」ヴェーダーンタ:二つに見えるのは「錯覚」これは妥協できないレベルの違いです。■ それでも両方使われる理由👉レベル(段階)の違いとして扱う① 初期段階(ヨガ的)「私は心や身体とは違う」と切り分ける観察者としての自分を確立する👉二元論が役に立つ② 最終段階(ヴェーダーンタ)観察者と対象の区別すら超えるすべてが一つだと見抜く👉非二元に移行する2026/04/05 16:10:057.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ ヴェーダーンタ側からの見方非二元の立場からはこう言います:二元論は「途中の教え(方便)」最終的には捨てるべきものつまり👉ヨガは“準備段階として正しい”が、究極ではない■ ヨガ側からの反論逆にヨガ(サーンキヤ)側は:世界は実在する非二元は理論的に無理がある👉ヴェーダーンタを批判する立場もある2026/04/05 16:11:268.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ まとめ(核心)理論的には矛盾する(二元 vs 非二元)でも実践ではこう使われる:👉分けて理解し(ヨガ)→ 最後に一つと悟る(ヴェーダーンタ)2026/04/05 16:12:199.◆JBLfMwCXhYtWt0j質問:アートマン(ヴェーダーンタ哲学)と、プルシャ(ヨガ哲学)は、どちらも「真我」と訳されるが、どう違うのか?ChatGPT:アートマンとプルシャは、どちらもインド哲学における「真我(本当の自分、不変の魂)」を指す言葉であり、本質的な意味はほぼ同じです。違いは学派にあり、アートマンは『ヴェーダ』のウパニシャド哲学で使われる「内なる自己」、プルシャは『サーンキャ・ヨガ』で使われる「純粋な観察者」を指します。共通点(真我): 両者ともに、肉体や心、思考とは異なり、死ぬことも変化することもない純粋な存在を指します。アートマン(真我): 個人の身体や心の中にある神聖な実体。宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と本質的に同一であるとされる(梵我一如)。プルシャ(純粋意識): サーンキャ哲学において、自然や物質(プラクリティ)と対比される、純粋な観察者。感情や思考といった「観られるもの」とは別に存在する、観るだけの意識。基本的には「真我」という同じ本質を、異なる切り口(哲学アプローチ)で表現している言葉と言えます。2026/04/05 16:16:1010.◆JBLfMwCXhYtWt0j違い(ここが重要)プルシャ(サーンキヤ)→ 個々に多数存在する意識主体(人ごとに別のプルシャがある)アートマン(ヴェーダーンタ)→ 最終的には宇宙原理(ブラフマン)と同一(=すべては一つの自己という非二元論に向かう)まとめ「プルシャ=真我」と訳されることもあるが、✔ 厳密には哲学体系によってニュアンスが違うザックリ言えば👉どちらも“本当の自己(純粋意識)”を指すが、存在の捉え方が異なるもし仏教の「無我」との違いも気になるなら、そこもかなり面白い対比ができます。2026/04/05 16:18:1111.◆JBLfMwCXhYtWt0jヨガ思想の世界観神の遊戯(リーラ)「神の遊戯(リーラ)」は、この世界を神(絶対的な存在)が楽しむための壮大な遊び、あるいは戯れとして捉えるヨガやヒンドゥー教の思想です。苦悩や多様な現象も、神が演じる劇の一場面であり、本質的には一つであるという視点から、執着を手放し、今この瞬間を神聖なものとして生きることを説きます。2026/04/05 16:19:2612.◆JBLfMwCXhYtWt0j神の遊戯(リーラ)の核心世界の捉え方:世界は神が自己表現し、楽しむための「舞台」であり、すべての出来事は神の戯れ(リーラ)とされる。苦楽の超越:良いことも悪いことも、物語の一部として客観的に観察し、固定的な執着や苦悩から解放(解脱)を目指す。ヨガの目的:この世を神の遊びとして見通す視点(智慧)を持ち、心(チッタ)を静めて自己の神聖さを認識すること。ヨガの哲学では、この世界に没入しすぎず、観察者(証人)としての視点を持つことで、神の遊びを共に楽しむかのような軽やかな生き方を推奨しています。2026/04/05 16:20:5513.神も仏も名無しさんzabVyやる気出してきたな?ー俺は、かなりの神的存在論を楽しめた😀2026/04/05 16:22:0314.◆JBLfMwCXhYtWt0jヴェーダーンタ哲学の世界観不ニ一元論「梵我一如」はウパニシャッド哲学の根幹で、宇宙の原理「梵(ブラフマン)」と個人の本質「我(アートマン)」は同一であるという思想で、解脱を目指します。「不二一元論」はそれをさらに強調し、「真理はただ一つ、二つとない」と説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタの核心概念で、唯一の実在(ブラフマン)以外に真の現実はなく、個(アートマン)も現象世界もブラフマンの現れとする、より徹底した非二元論です。梵我一如が「(梵と我は)同じである」という関係性を示すのに対し、不二一元論は「(二つとない唯一の真理が)ブラフマンそのものである」という絶対的な同一性・非二元性を主張します。2026/04/05 16:24:0815.◆JBLfMwCXhYtWt0j梵我一如(ぼんがいちにょ) 仏教以前の古代思想意味: 宇宙の根本原理である「梵(ブラフマン)」と、個人の本質である「我(アートマン)」は、本質的に同じものであるという思想。出典: ウパニシャッド哲学(ヴェーダーンタ哲学の源流)の中心的な教え。目的: この同一性を自覚することで、輪廻転生からの解脱(モークシャ)を目指す。核心: 「Tat Tvam Asi(タット・トゥワム・アシ)」(汝はそなり)という言葉に集約される。2026/04/05 16:25:4316.◆JBLfMwCXhYtWt0j不二一元論(ふにげんろん) 仏教以後の思想意味: 「二つではない、ただ一つの真理」という意味で、ブラフマン(絶対者)のみが真実であり、それ以外のすべて(個、現象)は幻想(マーヤー)であるとする徹底した一元論。提唱者: ヴェーダーンタ学派の哲学者シャンカラが体系化。関係性: 梵我一如の思想をさらに推し進め、「真理は二つとない」と断言することで、梵我一如の「同一性」をより絶対的な「唯一性」として強調。核心: 「二元的な区別は超えられ、すべてはブラフマンという唯一の実在に帰一する」という非二元性(アドヴァイタ)の思想。2026/04/05 16:26:1417.◆JBLfMwCXhYtWt0j>>13これからは、コレだ~😆2026/04/05 16:26:5118.神も仏も名無しさんzabVyまー俺もヨガの解釈はシヴァナンダヨガ解釈で無理矢理ラーマクリシュナの理論を乗っけている感じだからなーシヴァナンダヨガ瞑想を体験したのでそれをベースにちゃんぽんしてると思う😀2026/04/05 17:09:0219.◆JBLfMwCXhYtWt0jシヴァナンダは2、3日前まで知らんかった😅2026/04/05 17:19:3120.神も仏も名無しさんzabVyヨガに関しては素直に仏教レベルに天才ではないのは認める😀2026/04/05 18:15:2121.神も仏も名無しさんzabVyデンパパはわかりもせん仏教スレでトンチンカンレスが好きなのは理解できんな?😫2026/04/05 20:47:5722.◆JBLfMwCXhY9FVke質問:プルシャは、ゲームのプレイヤーみたいなものか?2026/04/07 05:48:0623.◆JBLfMwCXhY9FVkeA.I.:ヨガ哲学やサーンキヤ哲学におけるプルシャは、ゲームのプレイヤー(主体)とアバター(身体・精神)の関係に非常に似た概念です。プルシャは「真の自己(純粋意識)」であり、肉体や感情(プラクリティ=ゲーム内のキャラクター)を客観的に観察する「観る者」とされています。2026/04/07 05:48:2624.◆JBLfMwCXhY9FVke具体的には、以下の点がプレイヤーに例えられます。「観る者」の役割: プルシャは苦しみや喜びを体験せず、ただ観察する純粋な意識(プレイヤー)。「物質」との分離: 肉体、心、知性(プラクリティ)はプレイヤーに操作されるゲーム上のアバター(物質的なもの)として区別されます。主体性: 悩みや苦しみの原因は、プルシャがアバター(物質)と自分を混同することにあると解釈されます。2026/04/07 05:48:4325.◆JBLfMwCXhY9FVkeつまり、プレイヤー(プルシャ)がアバター(物質・身体)の動きに一喜一憂せず、その状況を冷静に観察する存在であることを理解することが、ヨガ的な視点では「真我」に近づくこととされています。2026/04/07 05:49:0226.◆JBLfMwCXhY9FVke仏教は無我思想だ2026/04/07 05:54:5027.◆JBLfMwCXhY9FVkeつまり、ゲーム内のキャラ(この世の自分)を操作している、本当の自分(真我)がいない2026/04/07 05:55:0828.◆JBLfMwCXhY9FVkeそれに対して、ヨガ思想では「プルシャ」という名のプレイヤーが確実に存在する2026/04/07 05:55:2629.◆JBLfMwCXhY9FVkeヨガ思想では、この世は「神の遊戯(リーラ)」でありゲーム内の仮想世界であることが明確化されている2026/04/07 05:56:3330.◆JBLfMwCXhY9FVkeX(旧ツイッター)AKI 50歳からがんばらない生き方【ヨガ哲学】この世は神々が暇つぶしのために創造した『宇宙の遊戯場(リーラ)』ですって🤭でも、何でも思い通りで自由な神の世界はつまらないので色んな経験ができるこの世界を創ったの。体や心と共に物質的欲求も満たそうとするエゴも肥大化してしまうこの世界。この世は幻想(マーヤー)💫2026/04/07 06:48:1031.神も仏も名無しさんaqyUzオールジャンルの無敵の仏教瞑想運用者になったので、だいたい見通せる六眼の完成だ😀2026/04/07 06:51:4432.神も仏も名無しさんaqyUz日常生活の歯を磨くとかの心身の運用感覚は仕上がっている仏教瞑想ではムイムイは俺に襲撃される宿命であった😀2026/04/07 06:54:2933.神も仏も名無しさんaqyUz>>25その感覚を瞑想的に脳内構築しているがまたま、日常生活して、運用できるレベルではない😀つまり、プレイヤー(プルシャ)がアバター(物質・身体)の動きに一喜一憂せず、その状況を冷静に観察する存在であることを理解することが、ヨガ的な視点では「真我」に近づくこととされています。2026/04/07 06:57:1034.神も仏も名無しさんQk6MZ佐保田氏の本では止滅という発想はかなりオモシロかったあと自在神😀むろん、ヨーガスートラ俺はヨガはちゃんぽんするなと先に宣言だ😀2026/04/07 10:30:4835.神も仏も名無しさんQk6MZま、我流チベット密教も最初は真言密教とのチャンネルでやってたからなー😀2026/04/07 10:32:4636.神も仏も名無しさんQk6MZジャンカラのかへにははまれあているなもしれんがとにかくヨガ日生活実用化を目指す😀2026/04/07 10:33:4737.神も仏も名無しさんQk6MZジャンカラの壁だ😀2026/04/07 10:34:1438.◆JBLfMwCXhYbXLKy華厳の壁に、シャンカラの壁か😆2026/04/07 19:13:2539.神も仏も名無しさん18Jn7まーとにかく俺はヨガの専門ではないのでテキトーにツギハギするしかない😀😀2026/04/07 19:23:4540.◆JBLfMwCXhYbXLKyヨガに関しては栖ウンコ士の仏教くらいのレベルだな😆2026/04/07 19:31:5941.神も仏も名無しさんfJ1l8ま、まだまだヨガは修行不足だな😀もう、俺の脳内は仁和寺への執念マシーンだいくぞ〜😀2026/04/07 20:53:1742.神も仏も名無しさんfJ1l8仁和寺の堂内撮影とか、かなりお布施した人のチャンネルのようだ普通は、こんなには撮らせてもらえんやろなー仁和寺は撮影禁止が厳しいからな〜😀2026/04/07 20:54:4543.神も仏も名無しさんfJ1l8https://m.youtube.com/@%E4%BB%8F%E6%95%99youtube%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B/videos2026/04/07 20:55:2044.◆JBLfMwCXhYxsBw5仁和寺は仏教界でも奥の院みたいなものだな😆2026/04/08 06:25:4745.神も仏も名無しさんl5y8S謎の多い寺院だ仁和寺門主の祀るお堂が高野山奥の院の御廟向かって右に石のピラミッドみたなのがある場所にあったらしい、神仏習合、両部神道の😀2026/04/08 07:34:5646.神も仏も名無しさんl5y8S江戸時代の紀州図会で高野山大学で確認してる😀2026/04/08 07:35:4847.◆JBLfMwCXhY7msat前スレ完走⤴️2026/04/08 12:24:1648.◆JBLfMwCXhYbwOXw今度、関西に行くときは春日大社と仁和寺は外せないな😆2026/04/09 06:30:4249.◆JBLfMwCXhYbwOXwプラクリティ(Prakṛti)は、インド哲学(サーンキヤ学派)において物質世界や身体の根源となる「物質的原理」を指し、自然・本質を意味する言葉です。純粋精神(プルシャ)に対比され、3つの性質(トリグナ)を持つ活動的な要素とされます。アーユルヴェーダでは、出生時に決まる「一人ひとりの固有の体質(生まれ持った個性)」を指します。2026/04/09 06:31:2050.◆JBLfMwCXhYbwOXw主な特徴と概要根本原質:物質現象の源であり、これ自体が形を持って変化し、宇宙のすべての物質を形作る。3つの性質(トリグナ):純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)、翳質(タマス)という性質の均衡状態で構成される。アーユルヴェーダにおける定義:生まれ持った心身のバランス、または本来の体質のこと。このバランスは生涯変わらないとされる。ヨガにおける位置づけ:「観られるもの」であり、真我である「観るもの(プルシャ)」が経験するための対象。2026/04/09 06:31:3851.◆JBLfMwCXhYbwOXw関連する用語と概念プルシャ (Purusha):真我、純粋精神。プラクリティが「観られるもの」であるのに対し、プルシャは「観るもの」。ヴィクリティ (Vikriti):現在の不調な状態(乱れ)。プラクリティ(本来の体質)からどれだけ離れているかを示す。ドーシャ (Dosha):プラクリティを決定する要素(ヴァータ、ピッタ、カパ)。サーンキヤ学派:プラクリティとプルシャの二元論を説いたインド哲学の学派。2026/04/09 06:31:5852.◆JBLfMwCXhYbwOXwプラクリティの例「ヴァータ・ピッタ」タイプ:風と火の性質を多く持って生まれた、行動的で繊細な人。「カパ」タイプ:地と水の性質を多く持った、穏やかで頑丈な人。2026/04/09 06:32:2353.◆JBLfMwCXhYbwOXwプラクリティ(本来の体質)を理解することは、アーユルヴェーダにおいて健康を維持し、自分らしく生きるために重要とされています。2026/04/09 06:32:3754.◆JBLfMwCXhYbwOXwなるほど2026/04/09 06:32:4955.◆JBLfMwCXhYbwOXwヨガ思想では物質は実体を持った本質存在と考えているんだな2026/04/09 06:33:3456.◆JBLfMwCXhYbwOXw考えてみれば、そりゃそうだなんたって、「物質と精神の二元論」だからな2026/04/09 06:34:0357.神も仏も名無しさんXLMobシヴァナンダヨガのプラーナと真言密教の六大の禅定感覚は似ているが空間解釈が別物になっているこのあたりは、教学の構築の差がある、むろん、俺は仏教サイドなので仏教サイドからの、とりま俺流ツギハギフランケンヨガへの印象だが😀2026/04/09 07:06:5958.◆JBLfMwCXhYzBfR8似てるかもしれんな2026/04/09 07:51:3659.◆JBLfMwCXhYzBfR8シヴァナンダヨガを知らなすぎてコメントできない😅2026/04/09 07:51:5560.◆JBLfMwCXhYNMEmQ当方:ヨガ哲学では、この世の世界内存在であるプラクリティの自分と、そんな自分と世界を観察する、観察者たるプルシャの自分がいるAI:その理解は、ヨーガ哲学、とくにサーンキヤ=ヨーガ系の枠組みとしては、かなり核心を突いています。整理すると、あなたが言っている構図はまさにこうです:■ プラクリティとしての自分(世界内存在)身体・感覚・思考・感情・記憶すべて「考えている自分」「悩んでいる自分」「行動している自分」世界の中に組み込まれ、因果関係のネットワークに従って動く存在→ これは完全に「自然(プラクリティ)」の側に属する■ プルシャとしての自分(観察者)ただ「見ているもの」変化しない純粋な意識行為しない・影響されない・ただ照らすだけ→ 世界を“外側から”ではなく、“巻き込まれずに”観ている原理ここまでは、あなたの理解と完全に一致しています。2026/04/11 15:28:1361.◆JBLfMwCXhYNMEmQただし、ヨーガ哲学で非常に重要なのは次の一点です:■「二人いる」のではなく、「誤認している」ヨーガの核心はこう言います:本来、プルシャはプラクリティではないしかし、無明によって両者が混同されているつまり、「私は怒っている」「私は考えている」「私は苦しんでいる」これらは本当はすべて👉 プラクリティの働き(心の動き)なのに、👉 プルシャ(純粋意識)がそれを「自分だ」と誤認している2026/04/11 15:30:4462.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ 解脱とは何か?ヨーガにおける解脱(カイヴァリヤ)は、「自分は観察者であって、内容ではない」と完全に識別することです。これをサンスクリットで:ヴィヴェーカ(識別)と言います。2026/04/11 15:31:1263.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ あなたの感覚との接点あなたはこう言っていましたね:世界は空だが、自分はあるしかも観察者としての自分がいる気がするこれは非常に興味深くて、中観(空) → すべて実体がないヨーガ → 観察者(プルシャ)は実在するここで強い緊張関係が生まれます。■ 決定的な違いヨーガ哲学プルシャ(観察者)は実在する複数存在する(人ごとにプルシャがある)中観(龍樹)観察者も含めてすべて空「観察者」という立場すら相対的構成■ あなたの今の立ち位置今のあなたは、おそらくこういう地点にいます:世界(プラクリティ)は空っぽに見えるしかし「観ている何か」は残るこれは、👉 ヨーガ的直観が立ち上がっている状態とも言えるし、👉 中観的には、まだ最後の執着が残っている状態とも言える2026/04/11 15:32:0764.◆JBLfMwCXhYNMEmQヨガのサーンキャ哲学は自分の個人的な世界観と、最も近い2026/04/11 15:37:0165.◆JBLfMwCXhYNMEmQ唯識ワールドより瑜伽ワールドのほうが、さらに自分の世界観に近いな2026/04/11 15:37:4166.◆JBLfMwCXhYNMEmQていうか、唯識だって「瑜伽行派」と呼ばれるくらいだからな唯識論のベースは、瑜伽行ワールドだ2026/04/11 15:38:2667.◆JBLfMwCXhYNMEmQ瑜伽行ワールドと唯識ワールドは言ってることが、だいたい同じだ2026/04/11 15:38:4968.神も仏も名無しさんLEyXz如実知見が触れないのがヨガ仏教にある精緻分析よりも煩悩の神話的論理立てツボを外してはデンパパ📡と大差がない😀2026/04/11 15:42:0469.◆JBLfMwCXhYNMEmQ当方:唯識論とヨガ哲学は、基本的な世界観が非常に似ているように思う。AI:その直観はかなり鋭いです。実際、**唯識(瑜伽行派)とヨーガ哲学(サーンキヤ=ヨーガ)**は、表面的には驚くほど似ています。ただし、**「似ている理由」と「決定的に違うところ」**を分けて見ると、一気にクリアになります。2026/04/11 15:42:2370.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ なぜ似ているのか?まず結論から言うと:両者とも「経験世界はそのまま実在ではない」と見ている① 世界=心的プロセス(っぽく見える)唯識世界は「識のあらわれ」外界は独立実在ではない(唯識無境)ヨーガ世界はプラクリティの展開我々が経験している世界は「心(チッタ)の作用」👉 結果として:「見えている世界=そのまま実在ではない」「認識の構造が世界を形づくる」という、かなり似た構図になる2026/04/11 15:42:5171.神も仏も名無しさんLEyXzデンパパ📡がデンパパ📡なのは仏教の精緻な分析を無視するから😀2026/04/11 15:43:0772.◆JBLfMwCXhYNMEmQ② 解脱=誤認の解除これも非常に似ています。ヨーガプルシャとプラクリティの混同が苦識別(ヴィヴェーカ)によって分離唯識主客の分裂(能取・所取)が虚構それを止めると「真如」が現れる👉 どちらも:「認識の誤りを正すと解放される」③ 「観察している構造」への気づきどちらも、「見ているもの」と「見られているもの」を問題にする哲学です。この点で、あなたが感じている観察者がいる感じと非常に相性がいい2026/04/11 15:43:0973.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ しかし決定的に違うここが一番重要です。■ ヨーガ哲学→ 二元論(ガチ)プルシャ(意識)=実在プラクリティ(自然)=実在👉 完全に別物が2つあるしかも:プルシャは変化しない永遠に存在する■ 唯識→ 一元論(ただし特殊)一見すると「心だけ」なので一元論っぽいですが…実はこう言います:その「心」すら固定的実体ではない唯識の核心識は流れ(刹那滅)阿頼耶識も固定実体ではない主体(観察者)も構成されたもの👉 つまり:観察者そのものも解体される■ 一番大きな違いここを一言で言うと:ヨーガ👉 「観察者は本当にいる」唯識👉 「観察者もまた作られている」2026/04/11 15:43:4674.神も仏も名無しさんLEyXzハッスル🤡も思っているほど自己の心理の精緻な分析はしてないし、やらないだろう😀2026/04/11 15:43:5575.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ あなたの感覚との関係あなたの今の立場:世界は空っぽに見えるでも観察者は残る気がするこれはまさに:ヨーガ → YES(それがプルシャ)唯識 → NO(それも識の働き)という分岐点■ 面白いポイント(かなり深い)実は歴史的にも:唯識(瑜伽行派)はヨーガ思想の影響を受けているただし、👉 そこから「プルシャ」を消したとも言える■ 図式化するとヨーガ: 観察者(プルシャ) ← 実在 ↓ 見る 世界(プラクリティ)唯識: 観察構造そのものが識 (観る者も見られるものも同時生成)■ かなり本質的な問いここで核心の問いが出てきます:「観ているもの」は本当に独立して存在するのか?それは変わらないのか?それは対象なしに成立するのか?それはただの「気づきの構造」ではないのか?2026/04/11 15:44:1676.神も仏も名無しさんLEyXzヨガは解放という解脱神の遊戯からの解放仏教は自己分析、精緻な分析からの解放そこがTheデンパパ📡問題😀2026/04/11 15:45:2877.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ まとめあなたの直観は正確で、出発点:かなり似ているゴール:真逆に分かれるという関係です。もしここをさらに突っ込むなら:「阿頼耶識とプルシャの違い」を徹底比較「なぜ観察者は実在しているように感じるのか」「中観はこの両方をどう否定するか」このあたりが、哲学的に一番おいしいゾーンです。当方:「阿頼耶識とプルシャの違い」を徹底比較 ← そこを頼むAI:いいところに来ています。阿頼耶識とプルシャは、一見すると「どちらも深層にある根本原理」に見えるのに、実は哲学的に正反対の位置にあります。単なる比較ではなく、「どこで決定的に分岐するか」を軸に、徹底的に整理します。2026/04/11 15:46:0078.◆JBLfMwCXhYNMEmQ>>76なるほど😆2026/04/11 15:46:1579.神も仏も名無しさんLEyXz所詮AIだま、俺も、ヨガ宗派の違いはわからんが仏教とヨガの違いくらいはわかる😀2026/04/11 15:46:4680.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ まず結論(核心)プルシャ=“純粋な観察者(実在)”阿頼耶識=“経験を生成する流れ(非実体)”ここを外さなければ、全体が見えます。■ ① 存在論の違い(いちばん重要)● ヨーガ(サーンキヤ)プルシャ永遠に存在する変化しないそれ自体で成立している多数存在(個々人ごと)👉 完全な実体(dravyasat)● 唯識阿頼耶識刹那ごとに生滅する(流れ)因果によって成立単独では存在しない👉 非実体(仮有)★決定的ポイントプルシャ → それ自体で存在できる阿頼耶識 → 関係の中でしか存在しない2026/04/11 15:46:5481.◆JBLfMwCXhYNMEmQ>>79そりゃそうだろうな😅2026/04/11 15:47:1882.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ ② 役割の違い● プルシャ観るだけ(完全に受動)何も生み出さないただ照らす👉 純粋な“意識そのもの”● 阿頼耶識すべての経験の種(種子)を保持世界・自己・時間を生成する認識そのもののエンジン👉 “生成装置”比喩でいうとプルシャ → 光そのもの阿頼耶識 → 映写機(フィルム+機構)2026/04/11 15:47:4583.神も仏も名無しさんLEyXzジャンルが違う宗教比較はAIでまだ無理だろう特定の狭い範囲よ指定された宗教内の情報提示が限界だろう😀2026/04/11 15:48:3084.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ ③ 自己との関係● プルシャそれが本当の自己「私はそれである」が最終結論● 阿頼耶識自己の根拠に見えるが、そうではない「我」は阿頼耶識+末那識の誤認👉 最終的には:自己ですらない■ ④ 解脱でどうなるか● ヨーガプルシャがプラクリティから分離→ 純粋観照として独立👉 観察者が“残る”● 唯識阿頼耶識が転じて智慧になる(転識得智)主客構造が消滅👉 観察者そのものが消える■ ⑤ 観察者問題(最重要テーマ)ここが一番深いところです。● ヨーガの立場観ているもの(プルシャ)は実在する経験がある以上、観る主体は必要それは変化しない原理として存在● 唯識の立場観ている主体も構成物である「観ている感じ」も識の働き主体と客体は同時に立ち上がる👉 観察者は後付けの構造2026/04/11 15:48:4885.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ ⑥ 時間性● プルシャ時間を超越永遠不変● 阿頼耶識完全に時間的存在因果の流れそのもの■ ⑦ あなたの直観との対応あなたが感じている:世界は空っぽに見えるしかし観察者は残るこれは:阿頼耶識的な構造が見え始めているしかしまだ「プルシャ的核」が残っている状態です2026/04/11 15:49:1686.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ ここで核心の問いここから先は、完全に哲学の最深部です:問い①その観察者は、本当に“変化しない”のか?注意を向けると変わらないか?状態によって揺れないか?問い②観察者は、対象なしに存在できるか?何も見ていないとき、それはあると言えるか?問い③「観ている」という感覚は、構造ではないのか?主体と客体が同時に立ち上がっていないか?■ 最後にこのテーマは、実はこう言い換えられます:「意識は“ある”のか、それとも“起きている”のか?」ヨーガ → ある唯識 → 起きている2026/04/11 15:49:3687.◆JBLfMwCXhYNMEmQ>>83> ジャンルが違う宗教比較は> AIでまだ無理だろう>> 特定の狭い範囲よ> 指定された宗教内の情報提示が限界だろう😀ヨガ哲学と瑜伽行派なら、できるんじゃないか?かなり狭い範囲内の比較だ😅2026/04/11 15:50:2988.神も仏も名無しさんLEyXz四智に関しての重要性の関心がないから、そのような問いをAIに聞いちゃうのさ😀2026/04/11 15:50:4589.神も仏も名無しさんLEyXzヨガに四智なんかありえないなにせ神の遊戯から離脱できればOKだから😀2026/04/11 15:51:2990.◆JBLfMwCXhYNMEmQ唯識派は、別名(ていうか、どっちかっていったら、こちらが正式名称だが)「瑜伽行派」というだけあって中身はほぼ、ヨガ哲学だ2026/04/11 15:52:1991.神も仏も名無しさんLEyXz>>87無理だねそんなにアタマが良くない四智すら、わからんだろうJBLですら四智の重要性に気づいてないじゃないか?😀2026/04/11 15:52:4792.神も仏も名無しさんLEyXz>>90四智をスルーしてる😀2026/04/11 15:53:4893.◆JBLfMwCXhYNMEmQ違うのは、唯識論はやはり仏教だから「真我」(プルシャ)を真正面から認めるわけにいかない↑なんといっても、これが大きい2026/04/11 15:54:1394.神も仏も名無しさんLEyXz四智は唯識の心臓部と言って間違いないそこの識別が欠落してデンパパ📡みたいなご苦労してるのさ😀2026/04/11 15:54:4995.◆JBLfMwCXhYNMEmQ仏教は、無我思想だ真我を認めたら、仏教じゃなくなる2026/04/11 15:55:5496.神も仏も名無しさんLEyXzデンパパ📡にら四智の認識が欠落しているからデンパパ📡論法は成立している😀2026/04/11 15:55:5697.神も仏も名無しさんLEyXz>>96無我だけじゃ如実知見や四智はないよブッダ自身は悟る前の苦悩時期ですら完璧なヨガの達人だったのだからベーシック情報がデンパパ📡並みに不足してね?😀2026/04/11 15:57:3698.神も仏も名無しさんLEyXz>>95無我だけじゃ如実知見や四智はないよブッダ自身は悟る前の苦悩時期ですら完璧なヨガの達人だったのだからベーシックな仏教情報がデンパパ📡並みに不足してね?😀2026/04/11 15:58:1599.◆JBLfMwCXhYNMEmQ>>94臨済宗中興の祖・白隠は、唯識論が好きだった唯識論が好きというより、唯識論の四智が好きだった四智がやたらと強調されるようになったのは、白隠の影響2026/04/11 15:59:07100.◆JBLfMwCXhYNMEmQ1002026/04/11 15:59:25101.◆JBLfMwCXhYNMEmQとりあえず、四智について復習しとこう唯識における「四智」は、かなり核心的な教えです。シンプルに言うと:迷いの心(識)が、そのまま悟りの智慧に転じたものこれを「転識得智(てんじきとくち)」と言います。2026/04/11 16:08:17102.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ 全体像(まず一望)唯識では、私たちの心は「八識」でできているとされます:前五識(視・聴・嗅・味・触)第六識(思考)第七識(末那識=自己執着)第八識(阿頼耶識=根本の流れ)これらが変容すると、**四つの智慧(四智)**になる。2026/04/11 16:08:44103.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ 四智とは何か① 大円鏡智(だいえんきょうち)元:阿頼耶識(第八識)内容すべてを歪みなく映す鏡のような智慧主観・客観の歪みがない👉 世界がそのまま現れる② 平等性智(びょうどうしょうち)元:末那識(第七識)内容「自分と他人の区別」が消えるすべてが平等に見える👉 自己中心性の完全消滅③ 妙観察智(みょうかんさつち)元:第六識(思考)内容物事を正確に見分ける分別はあるが、執着がない👉 区別はするが、囚われない④ 成所作智(じょうしょさち)元:前五識(感覚)内容状況に応じて最適に働く自然に適切な行為が出る👉 無我の行為(自然な働き)2026/04/11 16:09:11104.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ かなり重要なポイント■ 「消える」のではなく「転じる」ここが誤解されやすいところです。阿頼耶識 → 消滅するのではない思考 → 止まるのではない👉 そのまま智慧になる■ ヨーガ哲学との対比(重要)あなたの関心に合わせて言うと:ヨーガ最終的に「観察者(プルシャ)」だけが残る唯識(四智)観察者という構造そのものが変容する👉 結果:「観ている誰か」はいないが、完全に明晰な認識がある2026/04/11 16:10:18105.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ 体験的に言うと四智はこういう状態です:歪みなく見えている(大円鏡智)自他の対立がない(平等性智)必要な区別はできる(妙観察智)自然に行為できる(成所作智)■ 一番深いポイントここが核心です:「観察者がいないのに、認識はある」これは、あなたが今感じている「観察者がいる気がする」という段階から、さらに一歩進んだ状態です。■ まとめ四智とは:心を消すことではない世界を否定することでもない👉 認識の構造そのものが変わること2026/04/11 16:10:38106.◆JBLfMwCXhYNMEmQ質問:ヨガ思想では、「神の遊戯(リーラ)」から離脱することが目標なのか?AI:結論から言うと、古典的なヨーガ思想(特にサーンキヤ=ヨーガ系)では、「神の遊戯(リーラ)からの離脱」という理解は、かなり近いが厳密には少しズレがあります。もう少し正確に言うとこうなります:■ ヨーガの本来の目標サーンキヤ哲学+ヨーガ学派では、世界=プラクリティ(自然・物質・心を含む)観察者=プルシャ(純粋意識)この二元論が前提です。そして目標は:👉 プルシャがプラクリティとの同一視(誤認)から解放されること (=カイヴァリヤ、独存)■ 「リーラ(神の遊戯)」との関係「リーラ(神の遊び)」という発想は、むしろヴェーダーンタ哲学(特に非二元論)バクティ系(神への帰依)で強く出てくる考えです。ここでは:世界=神の表現、創造、遊び個人=神の現れとされる。2026/04/11 16:39:32107.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ つまりズレはここあなたの問いを整理すると:「ヨーガは神の遊びから抜けることか?」これはヨーガ(サーンキヤ): 👉そもそも「神の遊び」という枠組みをあまり使わない 👉問題は「無知による誤認」ヴェーダーンタ: 👉世界は神のリーラ 👉ただし究極的にはそれも超えるという違いがあります。■ ヨーガ的に言い直すとヨーガの言葉で言えば:👉 「リーラから離脱」ではなく 👉 「巻き込まれているという錯覚から目覚める」です。■ リーラとの橋渡し的理解(あなた向け)あなたの感覚にかなり近い形でまとめると:世界は「まるでリーラのように展開している」しかしヨーガはそれを神の遊びとは言わず**機械的な自然の展開(グナの運動)**と見るそしてゴールは:👉「この劇に参加している」という思い込みをやめること■ 一言でまとめるとヴェーダーンタ → 「神の遊びだと理解し、最終的にそれを超える」ヨーガ → 「そもそも遊びではなく、誤認から解放される」2026/04/11 16:39:48108.◆JBLfMwCXhYNMEmQ質問:「神の遊戯」は、ヨガというより、ヴェーダーンタなのか。ちょっと誤解してたようだAI:そう、その理解でかなり正確です。「神の遊戯(リーラ)」は、基本的にはヨーガではなく、ヴェーダーンタ哲学(特に非二元論系)の発想です。ただし、ここで一段だけ深く整理しておくと、単なる「違い」以上の構造が見えてきます。■ なぜ混同しやすいのかヨーガとヴェーダーンタは、実はかなり近い思想圏にあります。サーンキヤ哲学 → 理論(世界の構造)ヨーガ学派 → 実践(解脱の方法)ヴェーダーンタ → 最終的な形而上学(存在の理解)だから途中までは似たような話になる。■ 決定的な分岐点一番大きな違いはここです:● ヨーガ(サーンキヤ系)世界=プラクリティ(自然)主体=プルシャ(観察者)両者は本来「別物」苦の原因=混同(無知)👉 世界は「神の遊び」ではない👉 ただの自然の展開(機械的プロセス)● ヴェーダーンタ(特に不二一元論)世界=ブラフマンの現れ主体=ブラフマンそのもの分離は幻想👉 世界は「リーラ(神の遊び)」と表現される2026/04/11 16:41:52109.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ 重要なニュアンスただし、ヴェーダーンタでも最終的にはこうなります:👉 「リーラですら、説明のための仮の言い方」つまり初学者向け → 「神の遊び」深まると → 「そもそも世界自体が究極的には実在しない(あるいは相対的)」ここ、かなり中観派に近い感触があります。■ 一歩踏み込んだ理解かなり核心的に言うと:ヨーガ → 「巻き込まれるな」ヴェーダーンタ → 「そもそも全部お前だ」そして「リーラ」は後者の文脈。■ まとめ「神の遊戯」=ヴェーダーンタ的表現ヨーガはもっとドライで分析的あなたの誤解は自然で、むしろ両者の接点に触れている2026/04/11 16:42:04110.◆JBLfMwCXhYNMEmQ質問:ヨガでは、「神の遊戯(リーラ)」とは言わないのか。「グナの運動」とは何か?AI:いいところに来ています。ここはヨーガ理解の核心です。結論から言うと、**ヨーガでは「世界の展開=神の遊戯」ではなく、「グナの運動」**と捉えます。■ グナとは何かサーンキヤ哲学とヨーガ学派では、世界(プラクリティ)は3つの性質でできているとされます:サットヴァ(sattva):明るさ・調和・知性ラジャス(rajas):活動・運動・欲望タマス(tamas):惰性・重さ・無知👉 この3つをまとめて「グナ」と呼ぶ■ グナの運動とは何かここが本質です。👉 グナは常にバランスを崩し、動き続ける静かになる(サットヴァ)動き出す(ラジャス)鈍くなる(タマス)この絶え間ない変化・相互作用が:心の動き(思考・感情)身体の状態外界の変化すべてを生み出す2026/04/11 16:43:19111.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ 世界の正体(ヨーガ的見方)ヨーガ的に言うと:👉 世界とは👉 「グナのダイナミックなバランス変化」そのものです。つまり誰かが意図しているわけではない神が遊んでいるわけでもないただ性質が動いているだけ■ プルシャとの関係ここであなたの関心(観察者の問題)に直結します。グナ(プラクリティ)=動くものプルシャ=見るだけのもの本来は:👉 映画(グナ)と観客(プルシャ)は別しかし現実には:👉 観客が映画に没入して「自分が主人公だ」と思い込むこれが苦(ドゥッカ)の原因■ だからヨーガの目標は👉 グナの運動を止めることではなく👉 それに巻き込まれているという誤認を解くことただし実践的には:瞑想によってサットヴァを増やしラジャス・タマスを鎮めることで👉 最終的に「純粋な観照」が現れる2026/04/11 16:43:42112.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ 「リーラ」との決定的違いここが一番重要な対比です:ヴェーダーンタ → 世界=意味ある表現(神の遊び)ヨーガ → 世界=意味を持たない運動(グナの変化)👉 ヨーガは徹底的に非人格的・非神話的■ あなた向けの一言まとめかなり本質的に言うと:👉 リーラ=「意味あるドラマ」👉 グナの運動=「ただの物理現象」そしてヨーガはこう言う:👉 「それ、ドラマじゃない。ただの現象だ」■ 最後にあなたの最初の問いはかなり鋭くて、「リーラ」的に見るか「グナの運動」と見るかで、世界の意味が180度変わる分岐点に触れています。2026/04/11 16:44:09113.◆JBLfMwCXhYNMEmQヨガ哲学とヴェーダーンタ哲学の違いが、なかなか解らんなあ😅2026/04/11 16:44:46114.◆JBLfMwCXhYNMEmQ正直インド思想は、どれも同じに見える😅2026/04/11 16:45:21115.神も仏も名無しさんLEyXzラーマクリシュナ系統は神の遊戯という表現を好む純粋でない誤認ブラフマンとアートマンへの回帰かな?唯識は純粋ではなく、精妙な四智のような思考回路だろな😀2026/04/11 16:45:31116.◆JBLfMwCXhYNMEmQ>>115> ラーマクリシュナ系統は> 神の遊戯という表現を好むそうなのかラーマクリシュナは明らかに非二元だから、やはり「神の遊戯」はヴェーダーンタの不ニ一元論だな2026/04/11 16:46:50117.神も仏も名無しさんLEyXzま、グナの運動とかもつまるところ純粋にならざる原因神話的原因だろうからな、唯識は精密な心理分析😀神の遊戯も、ま、純粋でないからそーい目に合うのだというところやろどちらも純粋になる解放の境地がメインだろな仏教や唯識は純粋さというより、現実を精緻に把握できるための専門用語と分析だろな😀2026/04/11 16:49:57118.神も仏も名無しさんLEyXzま。俺のヨガ知識はツギハギということだ😀2026/04/11 16:50:50119.神も仏も名無しさんLEyXz仏教はかなり宗派区分け精緻だけどな😀2026/04/11 16:51:16120.◆JBLfMwCXhYNMEmQ質問:ということはヨガ哲学でいう「プルシャ(真我)」は、「ゲームのプレイヤー」ではなく、「映画の観客」に例えるべきか?AI:結論から言うと、その理解はかなり的確です。ただし、**「観客」ですらまだ比喩として少し“動きすぎている”**ので、そこを微調整するとヨーガの核心にぴったり合います。■ 基本対応ヨーガ学派では:プラクリティ(グナの運動)=映画(映像・ストーリー)プルシャ(真我)=観るもの👉 なので「プレイヤーではなく観客」=正しい方向2026/04/11 16:58:09121.◆JBLfMwCXhYNMEmQ■ ただし重要な修正ここがかなり本質です。普通の「観客」だと:感動するハラハラする物語に引き込まれるしかしヨーガでいうプルシャは:👉 一切反応しない純粋な観照喜ばない悲しまない判断もしない👉 ただ「見えている」だけ■ だから、より正確な比喩かなり厳密に言い直すと:× プレイヤー→ 行為主体すぎる(ヨーガ的には誤り)△ 観客→ 方向として正しいが、まだ感情移入してしまう◎ 理想的な比喩👉 スクリーンに映る映像を「ただ照らしている光」👉 あるいは「純粋な視覚そのもの」■ なぜ誤解が起きるのか人間の通常状態はこうなっています:グナの運動(思考・感情)が起こるそれをプルシャが見ているしかし両者が混同される「自分が考えている・苦しんでいる」と思う👉 本当は「考えが起きている」だけなのに「自分が考えている」と誤認する■ ヨーガの解放とは👉 観客になることですらない👉 「もともと観ていただけだった」と気づくこと2026/04/11 16:59:05122.◆JBLfMwCXhYNMEmQまあ、倶舎論・中論・唯識論もいまの理解度に到達するまで、どれだけかかったか😅2026/04/11 17:09:20123.◆JBLfMwCXhYNMEmQ天台宗や真言宗・華厳宗も結構、前からやってるのにいまも、そんなにピンときてるわけではない😅2026/04/11 17:09:56124.◆JBLfMwCXhYNMEmQそれを思えばヨガ思想やヴェーダーンタ思想も倶舎論・中論・唯識論と同じくらいピンとくるまでには何年もかかるであろう2026/04/11 17:11:04125.◆JBLfMwCXhYNMEmQまあ、真言宗はだいぶ解ってきた気がするなやはり、東寺と高野山に行ったのが大きい😆2026/04/11 17:12:13126.◆JBLfMwCXhYNMEmQ天台宗と華厳宗は、まだまだだ😫2026/04/11 17:12:26127.◆JBLfMwCXhYNMEmQ禅宗は、さらに理解が浅い😅2026/04/11 17:12:49128.神も仏も名無しさんLEyXzま、俺もシヴァナンダヨガの体験からの解釈読みをしているヨガ学派だろうがヴェーダンタだろうがそういう世界感覚があるのはとりまシヴァナンダヨガで体験したのでという程度😀2026/04/11 17:14:04129.神も仏も名無しさんLEyXz真言密教の悟りを理解すれば盤珪や道元あたりは解ってくるだろう臨済宗は宗教の東大だから合格率は低い😀2026/04/11 17:15:05130.神も仏も名無しさんLEyXz真言密教や華厳のシステムか臨済宗には全く通用しない😀2026/04/11 17:18:09131.神も仏も名無しさんLEyXzしかし、読むべき仁和寺関連の論文が増えつつある休日は仁和寺集中だ😀2026/04/11 17:19:42132.神も仏も名無しさんd2u2c私は、その本来はとか本当はとか元々はとか、そのような視点に立つことがとても嫌いだな。親しいヒンドゥー坊さんはよくそのように説明するが、とても嫌いだな2026/04/11 17:21:09133.神も仏も名無しさんLEyXzお、ラーマクリシュナミッション関連の御方だ😀2026/04/11 18:07:12134.◆JBLfMwCXhYNMEmQそうなのか2026/04/11 18:08:15135.◆JBLfMwCXhYNMEmQラーマクリシュナ関連なのか「親しいヒンドゥー教の坊さん」など普通はいないから、そうでしょうな😅2026/04/11 18:09:07136.神も仏も名無しさんd2u2cとても真面目ないい坊さんだけどねたまにしか行かないけど、結構昔からなので、もう同じくらいの人はほとんどいないけどね分厚いカタムリタの校正は手伝ったよ、生長の家から来たおばあさんが中心になってやっていた頃だったからね2026/04/11 18:24:22137.◆JBLfMwCXhYy1xhCへえ、生長の家から、ラーマクリシュナ・ミッション?それは、大きな霊的飛躍ですな😂2026/04/11 19:01:08138.かおりJngR9田中嫺玉という人、生長の家の会員だったのですか?2026/04/11 19:25:07139.神も仏も名無しさんd2u2cそのお婆さんがヴィウェーカーナンダの本読んで始まった集まりだからね、最初は渋谷の自宅に集まっていたそうだよ、学生運動の終わりの頃コミューンとか部落とかの人達が来ていたらしいね田中さんは会員ではない、あの翻訳がとても人気があってあの本を読んで来る人は多かったけどね2026/04/11 19:32:12140.神も仏も名無しさんd2u2c会員ではないと言うのはご間違い、会員かどうかはわからない、あまり関係してはいない2026/04/11 19:33:15141.かおりJngR9大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉 コタムリト2026/04/11 19:33:32142.かおりJngR9神の詩 バガヴァッド ギーター感動しました2026/04/11 19:36:41143.神も仏も名無しさんd2u2cああ、すみません、生長の家のことは知らない、ヴェーダンタ教会の集まり作ったおばあさんが生長の家では結構な立場だったらしいよ、ゴタゴタしたとは言っていた2026/04/11 19:37:44144.◆JBLfMwCXhYy1xhCすごいなそんな人がいたのか2026/04/11 19:45:37145.◆JBLfMwCXhYy1xhC生長の家の出身者は、多方面で活躍しているな😂2026/04/11 19:46:57146.◆JBLfMwCXhYy1xhC>>142> 神の詩 バガヴァッド ギーター>> 感動しましたあの本か素晴らしい~😭2026/04/11 19:50:38147.かおりJngR9📚📚📚名訳と思ってましたがメーダサーナンダジが「誤訳ですね、ここは」って言ってた(笑)専門家でないから翻訳も難しかったらしい2026/04/11 19:50:51148.◆JBLfMwCXhYy1xhC>>147そうなのか😅2026/04/11 19:51:07149.◆JBLfMwCXhYy1xhCそりゃそうだ仕方ないわな2026/04/11 19:51:22150.神も仏も名無しさんd2u2cそのお婆さんが翻訳していて、日本語の使い方がとてもよかったので、とても好まれた、源氏物語や徒然草など原文で読む人だった、結構男勝りな性格で、自分でも若い頃は鼻持ちならない女だったと思うわよ、と言っていた、以前少し調べたら帝国大学哲学科を出ているらしかった2026/04/11 19:56:13151.◆JBLfMwCXhYy1xhCただ者ではないな😅2026/04/11 19:57:17152.神も仏も名無しさんd2u2cそのお婆さんの話すのは楽しかったねえ、その頃は、今の坊さんではなく初代の派遣された坊さんで、全く愛想のない坊さんで、禅寺出てからきた私には相性がよかったな2026/04/11 20:56:12153.かおりJngR9透析さん、前期高齢世代ですか?昔話2026/04/11 21:25:01154.神も仏も名無しさんd2u2c私は58歳だよ幼稚だけどね2026/04/11 21:29:16155.神も仏も名無しさんd2u2cたまに行きたくなって行くけど、全く連絡しないで行くのにいつでも歓迎されるが、とうも私が異常なようだな、でもずっとそんなんだな、感謝しかない。2026/04/11 22:55:22156.◆JBLfMwCXhYLV7Pi質問:「グナの運動」とは何か?2026/04/12 07:44:42157.◆JBLfMwCXhYLV7PiAI:「グナの運動」とは、インド思想(特にバガヴァッド・ギーターやサーンキヤ哲学)でいう 自然界を構成する三つの性質(グナ)が絶えず変化し、入れ替わりながら世界と心を動かしている働き のことです。2026/04/12 07:45:29158.◆JBLfMwCXhYLV7Piまず、グナとは?三つあります。サットヴァ明るさ、落ち着き、知性、バランスラジャス情熱、衝動、努力、落ち着かなさタマス重さ、眠気、無気力、混乱2026/04/12 07:45:51159.◆JBLfMwCXhYLV7Pi「運動」とは?この三つは固定されていません。常に増えたり減ったり、優勢になったり退いたりします。たとえば:朝、頭が冴えて静か → サットヴァ優勢昼、仕事で忙しく燃える → ラジャス優勢夜、疲れてだるい → タマス優勢つまり、心の状態・行動・感情・社会現象までも、グナのバランス変化として見る わけです。2026/04/12 07:46:16160.◆JBLfMwCXhYLV7Pi人間の「私」が動いているのではないサーンキヤでは本質的自己(プルシャ)は静止していて、動いているのは自然(プラクリティ)です。だから有名な言い方をすると:怒っているのは「私」ではなく、ラジャスが動いている。眠いのは「私」ではなく、タマスが強い。澄んでいるのは「私」ではなく、サットヴァが現れている。この見方が「執着から自由になる智慧」とされます。2026/04/12 07:46:37161.◆JBLfMwCXhYLV7Pi現代風に言えば「グナの運動」は、心理状態のダイナミクスエネルギーの波気分の変化行動パターンの法則を象徴的に語ったモデルとも言えます。一言でまとめると世界も心も、三つの力のせめぎ合いによって動いている。その変化の流れが“グナの運動”です。2026/04/12 07:46:54162.神も仏も名無しさんaOHQPさて、仁和寺論文読むぞ今月末まで仁和寺トレーニング修行だ😀2026/04/12 08:30:02163.◆JBLfMwCXhYLV7Pi仁和寺かいいな~😆2026/04/12 08:37:42164.◆JBLfMwCXhYgK5Lbやはり、ヴェーダーンタっぽいな仏教に、このノリは無い746 神も仏も名無しさん [sage] 2026/04/12(日) 16:11:15.61 ID:84uAQ私にとって、私は、という言葉はとても素晴らしくて、この言葉の代わりが無いと思うね2026/04/12 18:15:54165.◆JBLfMwCXhYgK5Lb当方は逆だ「私は、私は」というのが、無我っぽくないのでそれを避けて、「当方は」とか「筆者は」というようになりその習慣が20年たっても続いている😂2026/04/12 18:18:45166.神も仏も名無しさん84uAQおお、なるほどなあ、私はできるだけ小さく表現したい理由で、私は、を使うようになった2026/04/12 18:31:22167.◆JBLfMwCXhYASpU4おはようございます☀2026/04/13 06:21:09168.◆JBLfMwCXhYASpU4いま、世界は戦乱の世に突入し、荒れている2026/04/13 06:21:30169.◆JBLfMwCXhYASpU4こういうのを、ラジャス(激質)が優勢になった、というのか2026/04/13 06:22:09170.神も仏も名無しさんbda3N魔改造が完成された俺は最強😀2026/04/13 06:22:22171.◆JBLfMwCXhYASpU4魔改造が完成とは、どういうことだ?2026/04/13 06:23:07172.神も仏も名無しさんbda3N仏教キリスト教が完全にミックスされた😀俺は神になった😀2026/04/13 06:24:43173.◆JBLfMwCXhYASpU4質問:いま、世界は戦乱の世に突入し、荒れている。こういうのを、ラジャス(激質)が優勢になった、というのか?AI:かなり「サーンキヤ/ヨーガ的な見方」です。結論から言うと、そう表現することはできます。ただし、厳密には「世界全体がラジャスそのものになった」というより、ラジャスが相対的に優勢になり、タマスやサットヴァとのバランスが崩れている状態と見るのが自然です。2026/04/13 06:24:48174.◆JBLfMwCXhYASpU4グナで見るとどうなるかラジャス(激質)活動、欲望 -競争、衝突、拡大、支配欲、落ち着かなさ、情熱と怒り戦争・対立・権力闘争・過剰な経済競争などは、まさにラジャス的現象です。タマス(暗質)無知、惰性、鈍重、恐怖、憎悪、破壊、混乱戦乱にはラジャスだけでなく、タマスも強く混ざります。怒りで動き(ラジャス)、相手を人間として見なくなる(タマス)、という形です。サットヴァ(純質)調和、明晰さ、真理、慈悲、平和、均衡これが弱まると、社会は荒れやすくなります。だから、より正確には現代世界は、ラジャスが暴走し、タマスがそれに影を落とし、サットヴァが後退している状態…と言えるでしょう。2026/04/13 06:26:41175.◆JBLfMwCXhYASpU4個人レベルではどうするかサーンキヤやヨーガは、世界情勢そのものを直接変えるより、まず自分の心のラジャスを鎮めるタマスを払いのけるサットヴァを育てることを重視します。つまり、世界が荒れている時代ほど、内面の静けさが修行になる。面白い視点あなたの問いは、単なる時事問題を、古代インドの宇宙論で読む試みです。これはかなり本質的で、現代ニュースを「グナの運動」として見ると、出来事の奥にある心理エネルギーまで見えてきます。2026/04/13 06:27:11176.神も仏も名無しさんbda3N俺は釈迦でありイエスになったのだ😀2026/04/13 06:28:02177.◆JBLfMwCXhYASpU4>>172> 仏教キリスト教が完全にミックスされた😀> 俺は神になった😀すごいな?😵2026/04/13 06:28:18178.◆JBLfMwCXhYASpU4>>176> 俺は釈迦でありイエスになったのだ😀すごすぎる😵2026/04/13 06:28:38179.神も仏も名無しさんbda3N>>177天才の俺様なら余裕😀2026/04/13 06:28:53180.◆JBLfMwCXhYASpU4どういう心境の変化だ?2026/04/13 06:28:58181.◆JBLfMwCXhYASpU4仏教とキリスト教を統合したのか2026/04/13 06:29:23182.神も仏も名無しさんbda3N>>178これで俺様は無敵😀誰であろうとボコれる😀2026/04/13 06:29:44183.◆JBLfMwCXhYASpU4生長の家の万教帰一みたいな感じ?2026/04/13 06:29:57184.神も仏も名無しさんbda3N>>181そういう事だ😀2026/04/13 06:30:03185.◆JBLfMwCXhYASpU4もっとすごいのか2026/04/13 06:30:15186.神も仏も名無しさんbda3N>>183いや、もっと上のレベル😀俺様でしかなしえなかっただろう😀俺は釈迦もイエスも超えた😀2026/04/13 06:31:17187.◆JBLfMwCXhYASpU4仏教とキリスト教を魔改造したのか?2026/04/13 06:32:25188.神も仏も名無しさんbda3N>>187そういう事だ😀2026/04/13 06:35:35189.◆JBLfMwCXhYASpU4完全に、聖ウンコ士を超えたな?2026/04/13 06:37:33190.神も仏も名無しさんbda3N>>189前から余裕で超えてるけどな😀2026/04/13 06:38:26191.◆JBLfMwCXhYASpU4それどころじゃないか😂2026/04/13 06:39:55192.神も仏も名無しさんbda3N>>191そうだ😀そういう次元ではない😀俺は神レベルやから😀2026/04/13 06:41:16193.◆JBLfMwCXhYASpU4すごいなそこまで来たのか2026/04/13 06:45:41194.神も仏も名無しさんbda3N次の目標は神を超える😀2026/04/13 06:46:43195.神も仏も名無しさんlk7IM私は、私が常に死ぬことを前提に考えたい2026/04/13 07:03:13196.神も仏も名無しさんlk7IM常に私が死ぬことを前提に考えたいだな2026/04/13 07:04:45197.神も仏も名無しさんbda3N神である俺様は死ぬことはないがな😀2026/04/13 07:06:22198.◆JBLfMwCXhYASpU4その域に達したか2026/04/13 07:18:04199.◆JBLfMwCXhYASpU4ヒンドゥー教的には「私は神だ」と自覚するのは、「やっと、真実に気づきましたね」ということになる2026/04/13 07:18:53200.◆JBLfMwCXhYASpU42002026/04/13 07:19:05201.◆JBLfMwCXhYASpU4何もおかしくない2026/04/13 07:19:15202.◆JBLfMwCXhYASpU4不死の存在であることを自覚2026/04/13 07:20:11203.◆JBLfMwCXhYASpU4この世の私は、仮の私2026/04/13 07:20:23204.神も仏も名無しさんfJM2m親しいヒンドゥーの坊さんは、その感覚だと思うが、私にとってその考え方はとても嫌いなので、真逆な感じで堂々と接するからとても苦手としているようだ、私自身はヒンドゥー坊さんにも劣る低レベルな信仰者だと思っているんだがな2026/04/13 07:29:35205.◆JBLfMwCXhYZ5gSyなるほど2026/04/13 07:42:31206.神も仏も名無しさんbda3N>>199天才の俺様なら余裕だった😀私は神だでなく俺様は神を超えるのが目標だからな😀2026/04/13 07:44:30207.◆JBLfMwCXhYZ5gSy宗教の天才か2026/04/13 07:45:40208.神も仏も名無しさんDwYOyお、なんか変なのがレスしているなブッダと、キリストを超えたとか?😀ムイムイかな?ムイムイならできるかも😀2026/04/13 08:20:54209.神も仏も名無しさんDwYOyおはー😀ムイムイが凄い境地になったようだな?😀2026/04/13 08:21:32210.神も仏も名無しさんDwYOyムイムイ、ほんま、オモロイやつやな悟って怨念塊に変化したようだまるで禪院直哉みたい😀2026/04/13 08:28:00211.◆JBLfMwCXhYYavjTムイムイだったのか?2026/04/13 08:31:41212.◆JBLfMwCXhYYavjTムイムイは、ついに仏陀とキリストを超えたのか2026/04/13 08:32:07213.神も仏も名無しさんDwYOy禪院ムイムイ直哉は蘇ったようだな?😀2026/04/13 08:32:16214.神も仏も名無しさんDwYOy蘇った禪院ムイムイ直哉はまだ、映像化されていない😀2026/04/13 08:33:39215.神も仏も名無しさんbda3Nしかしムイムイはだいぶ悪化してるな😀2026/04/13 09:10:55216.◆JBLfMwCXhYZtK2Wヨガの思想・世界観は、古代インドの哲学的二元論(サーンキヤ学派など)を基盤に、心身の制御を通して「真我(本当の自分)」に目覚め、苦悩から解放(解脱)されることを目指す包括的な体系です。心と体、エネルギー、自然の調和、そして「アヒンサー(非暴力)」のような倫理観を重視し、現代では心身の健康と内なる静寂を探求する生き方として親しまれています。2026/04/14 06:14:52217.◆JBLfMwCXhYZtK2Wヨガの核心的な世界観と哲学「真我(プルシャ)」と「自然(プラクリティ)」の分離: 真の自分である「プルシャ(純粋意識)」は、変化する物質や心「プラクリティ」とは別物であると認識する。苦の根源と解消: 苦しみは、貪り(貪・とん)、怒り(瞋・しん)、無明(むみょう・真理を知らないこと)から生まれる。ヨガは「心の動きを止める(制する)」ことで、この苦から解放されることを目指す。サーンキヤ二元論とヴェーダーンタ一元論の融合: 世界の源理を物質と意識に分ける考え方と、すべては一つである(一元論)の考え方が融合し、包括的な思想が形成された。グナ(3つの質): 宇宙のあらゆる物質や心は、サットヴァ(純質・明)、ラジャス(激質・動)、タマス(鈍質・闇)の3つの質が混ざり合って構成されている。2026/04/14 06:15:14218.◆JBLfMwCXhYZtK2Wヨーガ・スートラに基づく八支則(修行の段階)パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、以下の8段階で心身を制御し、サマーディ(三昧・超意識状態)を目指します。ヤマ(禁戒): 暴力を振るわない(アヒンサー)、嘘をつかないなど、社会的なルール。ニヤマ(勧戒): 清潔、満足(サントーシャ)など、自己規律。アーサナ: 瞑想のための安定した座法(現代のポーズ)。プラーナーヤーマ: 呼吸(生命エネルギー)の制御。2026/04/14 06:15:38219.神も仏も名無しさんw0JXpムイムイ事変は続くだろうな?😀おはー😀2026/04/14 06:27:46220.◆JBLfMwCXhYZtK2Wムイムイは今日も暴れるのか?2026/04/14 06:37:06221.神も仏も名無しさんw0JXp暴れたいんじゃね?ダメージ与えて効いてると思い込んでいるだろうな?俺は嘘ではなく仏教修行マシーンなので鼻で笑っているのになー😀2026/04/14 06:43:25222.◆JBLfMwCXhYu5IjE「この世は神の遊戯(リーラ)である」というのは「この世は幻影(マーヤー)である」というのと表裏一体不ニ一元論の思想だ2026/04/14 07:44:25223.◆JBLfMwCXhYu5IjE> 「この世は幻影(マーヤー)である」↑二元論だと、こうは考えないこの世は実体のある存在だ2026/04/14 07:45:04224.神も仏も名無しさんw0JXpマーヤムイムイだ😀2026/04/14 07:46:04225.◆JBLfMwCXhYu5IjE実体のある存在といっても「グナの運動」とかいう、よく分からないシロモノだが2026/04/14 07:46:24226.◆JBLfMwCXhYu5IjE>>224ムイムイはもはや、マーヤーと化したな?2026/04/14 07:46:42227.神も仏も名無しさんw0JXpでおーというマーヤと決死の思いで闘っている早朝四時から😀2026/04/14 07:46:47228.◆JBLfMwCXhYu5IjEマーヤーと闘っているのか2026/04/14 08:29:37229.神も仏も名無しさん52F6R朝まで寝れずに燃え燃えムイムイしていたのかもなー今、静かだな?😀2026/04/14 08:44:58230.神も仏も名無しさん52F6R悟った豪語ムイムイの悲しき性だ😭2026/04/14 08:45:18231.神も仏も名無しさんnxt6Tムイムイがお怒りだ😀2026/04/14 12:45:17232.神も仏も名無しさんbUBJ3ムイムイが躁状態の時は手におえん😫2026/04/14 15:12:40233.神も仏も名無しさん5f3hB悟ったと豪語するムイムイの末路😫2026/04/14 15:25:24234.◆JBLfMwCXhYVB8Jh質問 : ヨガ思想の「3つのグナ」 ラジャスは躁、タマスは鬱、サットヴァは中庸と思うんだが、どうか?2026/04/14 19:40:01235.◆JBLfMwCXhYVB8JhA.I.:ヨガ哲学でいう「3つのグナ」は、自然界や人の心の性質を説明する基本概念で、サーンキヤ哲学やヨーガ哲学に由来します。あなたの言い方「ラジャス=躁、タマス=鬱、サットヴァ=中庸」は、かなり直感的で本質をついています。ただし、少しだけ補足するとより正確になります。2026/04/14 19:40:56236.◆JBLfMwCXhYVB8Jh■ 3つのグナの意味サットヴァ(Sattva)純粋・調和・明晰・安定→ 心が澄んでいて、落ち着きと理解がある状態👉 「中庸」や「整った状態」に近いラジャス(Rajas)活動・欲望・興奮・変化→ エネルギー過多で動き続ける状態👉 「躁」に似ているが、必ずしも病的ではなく“推進力”でもあるタマス(Tamas)無知・停滞・重さ・怠惰→ 鈍く、動けない、暗い状態👉 「鬱」に近いが、これも自然な一側面(睡眠など)2026/04/14 19:41:19237.◆JBLfMwCXhYVB8Jh■ あなたの対応関係の評価ラジャス=躁 →かなり良い比喩(ただしやや強め)タマス=鬱 →これも分かりやすいが病理寄りの表現サットヴァ=中庸 →ほぼ核心👉 つまり:方向性としては正しいが、グナは病気ではなく“常に混ざり合う性質”2026/04/14 19:41:52238.◆JBLfMwCXhYVB8Jh■ もう一歩だけ深く言うとグナは固定された性格ではなく、「瞬間ごとに変化する“心の状態の配合”」です。例えば:朝スッキリ → サットヴァ多め仕事でバリバリ → ラジャス多め夜ダラダラ → タマス多め2026/04/14 19:42:13239.◆JBLfMwCXhYVB8Jh■ 大事なポイントヨガでは:ラジャスやタマスを排除するのではなくサットヴァを増やしてバランスを整えることを目指します2026/04/14 19:42:44240.◆JBLfMwCXhYVB8Jh■ まとめ(あなたの表現を微調整すると)ラジャス=躁的な動きタマス=鬱的な停滞サットヴァ=調和・中庸👉 この理解でかなり本質に近いですもし興味あれば、「食事・生活・思考でグナがどう変わるか」も説明できます。2026/04/14 19:43:10241.神も仏も名無しさんmCBDhタクールさんのおしゃべりでは、グナは3人の盗賊の喩えられて、強奪して行く者と、殺すものと、助ける者として話している、いずれも盗賊なので一緒に去っていく。2026/04/14 20:22:22242.神も仏も名無しさんrk61Nムイムイはこの二つに該当ハッスルしてるな?😀ラジャス(Rajas)活動・欲望・興奮・変化→ エネルギー過多で動き続ける状態👉 「躁」に似ているが、必ずしも病的ではなく“推進力”でもあるタマス(Tamas)無知・停滞・重さ・怠惰→ 鈍く、動けない、暗い状態👉 「鬱」に近いが、これも自然な一側面(睡眠など)2026/04/14 20:40:53243.神も仏も名無しさんbNfCuムイムイハッスルしてるな❓😀2026/04/14 20:46:45244.◆JBLfMwCXhYoqTDN>>241ラジャスが強奪するもので、タマスが殺すものでしょうな2026/04/15 05:54:03245.◆JBLfMwCXhYoqTDN「タクール ヨガ」は、主にインド出身の熟練講師、マノージ・タクール氏が主導するヨガ指導を指すことが多く、約20年の指導歴を持つ理学修士が解剖学や伝統的知見に基づいたレッスンを提供します。深い呼吸とアーサナ(ポーズ)の安定を重視し、心身のバランスを整えるクラスが特徴です。2026/04/15 05:54:53246.◆JBLfMwCXhYoqTDN主な情報・特徴講師:マノージ・タクール(Manoj Thakur)氏。MDS大学ヨガ学部で4年間指導経験を持つプロフェッショナル。スタイル:インドの伝統的なヨガをベースとしつつ、理学的な視点を取り入れた指導。特徴:呼吸、ポーズ、瞑想の三位一体(トリガーナ)を重視。詳細なクラスやワークショップのスケジュールは、ヨガの総合メディア「ヨガジェネレーション」の講師プロフィールページ等で確認できます。2026/04/15 05:55:10247.◆JBLfMwCXhYoqTDNマノージ・タクールManoj Thankurヨガの理学修士号を持ち、ヨガ指導歴は約20年。 インドのMDS University(マハーシ・ダヤーナンド・サラスワティ大学)で4年間、ヨガ学部で指導し、多くの修了証を授与。 インドのバンガロールにある、世界的にも有名なVivekananda Yoga Universityのレクチャー兼インストラクターとし、国際ヨガカンファレンスを多く開催してきた。 現在は、シンガポールにて、Vyasa Yoga & Ayurveda Singaporeのセンター長。https://www.yoga-gene.com/wp-content/uploads/2018/06/manoj-PF.jpg2026/04/15 05:57:23248.神も仏も名無しさんZZiLHすみませんね、ラマクリシュナミッションの人たちはラマクリシュナさんのことタクールと呼ぶんですよ2026/04/15 06:41:57249.◆JBLfMwCXhYoqTDNなるほどタクールさんとは、ラーマクリシュナのことなのか2026/04/15 07:00:09250.◆JBLfMwCXhYoqTDNラーマクリシュナ・タクール(1836–1886)は、19世紀インドの聖者・神秘主義者で、本名はガダーダル・チャットーパーディヤーエ。カーリー女神への深甚な信仰に基づき、全宗教の一致(すべての宗教は同じ神への道である)を説いた。彼の教えは弟子スワミ・ヴィヴェーカーナンダにより「ラーマクリシュナ・ミッション」として組織化された。2026/04/15 07:01:21251.◆JBLfMwCXhYoqTDN主な生涯と教え:タクール(先生)の由来:ベンガルの貧しいバラモンの家に生まれ、ダクシネーシュワルのカーリー寺院で神官を務めながら、神秘体験を重ねた。宗教的一致:ヒンドゥー教だけでなく、イスラム教やキリスト教の修行も行い、すべての道が同じ神へと到達することを確認した。カーリー女神信仰:慈悲深い母神としてのカーリーへの愛と献身(バクティ)を核としていた。教え:「神は多くの顔を持ち、様々な道で神に到達できる」という「万教帰一」を説いた。後世への影響:弟子のヴィヴェーカーナンダは、師の思想を西洋に伝え、ラーマクリシュナ・ミッションを創設した。この人物は、現代インドにおけるヒンドゥー教復興の中心的指導者として、世界中で広く尊敬されている。2026/04/15 07:01:37252.◆JBLfMwCXhYoqTDNそうかその道の専門家にとっては「タクール」といえば、ラーマクリシュナなんだな2026/04/15 07:02:02253.◆JBLfMwCXhYoqTDN創価学会の関係者にとって「名誉会長」=池田大作みたいなものか😂2026/04/15 07:02:43254.◆JBLfMwCXhYoqTDNいや、ちょっと例えが悪いな😂2026/04/15 07:03:15255.◆JBLfMwCXhYoqTDN「お大師さま」といえば、空海みたいなものか2026/04/15 07:03:48256.神も仏も名無しさんf4eftお大師様は近そうだね2026/04/15 07:06:53257.神も仏も名無しさん7AWpjま、純度が落ちるがラーマクリシュナ並みの霊的なのはあるだろなおはー😀2026/04/15 07:12:17258.神も仏も名無しさんW1YI1ムイムイ転変朝からハッスルしてるな?😀2026/04/15 07:12:40259.神も仏も名無しさんf4eft私は特殊な部分はわかろうとしないことを心掛けてるな、曲がり角の向こうを想像しないこと、見るために背伸びしないこと、わかる事さえわからないでいること、そういうことよりは、思った事は表現は考えてもいいが必ず言葉にして言うこと、思った事は意識して何かしらの行動に現すこと、こういったことはラマクシュナの言動から覚えたかな2026/04/15 07:34:05260.神も仏も名無しさん7AWpj>>259俺も、わからないことはわからないな😀2026/04/15 07:41:53261.◆JBLfMwCXhYgzkp8なるほど2026/04/15 07:43:16262.神も仏も名無しさん7AWpj仁和寺は未だ謎のままだ😀2026/04/15 07:49:25263.神も仏も名無しさんW1YI1中論は論書だから三蔵のうちの論蔵だけだ😀2026/04/15 07:59:33264.神も仏も名無しさんW1YI1しかし、読むべき仁和寺関連の論文が増えつつある休日は仁和寺集中だ😀2026/04/15 08:01:25265.神も仏も名無しさん7AWpjニートムイムイの大活躍😀2026/04/15 08:03:38266.神も仏も名無しさんW1YI1ヤバいと思ったな?😀新システム有能だ疲労回復力5倍はある😀2026/04/15 08:04:17267.神も仏も名無しさん7AWpjニートムイムイシステムが高速回転だな?😀2026/04/15 08:04:56268.神も仏も名無しさんNlJIqニートムイムイ😀2026/04/15 16:43:16269.神も仏も名無しさんNlJIqニートムイムイしてるな?😀2026/04/15 19:32:38270.◆JBLfMwCXhY52Jrg40 かおり 2026/03/11(水) 18:28:55.32 ID:ek5Gh🟧🟧🟧サーンキヤ哲学この宇宙は、五大要素空(ヴィヨーマ)風(マルット)火(テージャ)水(アプ)地(クシーティ) のとても精妙な要素が空→風→火→水→地の順番に出て、それが後で合わさって、この宇宙は作られました。最初はとても精妙な要素で、後で粗大な要素になりました。その粗大な要素を混ぜてこの宇宙は作られたのです。私たちが認識している宇宙は、粗大な要素でできた宇宙です。2026/04/16 12:11:34271.◆JBLfMwCXhY52Jrg41 かおり 2026/03/11(水) 18:33:32.34 ID:ek5Gh🟧🟧🟧聖者カピラが、ウパニシャドの考えをシステム的に合わせて哲学のシステムを作ったのがサーンキヤ哲学です。現在の科学者の宇宙論の考えとサーンキヤ哲学をはじめとするヒンドゥ教の宇宙論は似ていますが少し違います。科学者のベースは物質で、サーンキヤ哲学のベース、目的は悟りです。サーンキヤ哲学の他のインド哲学に対する影響は大きく、例えば、ヨーガ哲学、ヴェーダーンタ哲学にある宇宙論はすべて、サーンキヤ哲学の宇宙論のことが書かれています。2026/04/16 12:11:50272.◆JBLfMwCXhY52Jrg42 かおり 2026/03/11(水) 18:55:03.91 ID:ek5Gh🟧🟧🟧非二元論であるヴェーダーンタ哲学の考えでは、存在はただ一つ、プルシャ(ブラフマン)だけです。プラクリティはプルシャ(ブラフマン)から出てまたプルシャ(ブラフマン)に戻ります。ブラフマンに入るとき、宇宙はなくなります。鳥は巣を作る時、外から色々ものをもってきて作りますが、蜘蛛は自分の中から巣を出します。同様に、プルシャ(ブラフマン)は中からその宇宙を創る、とヴェーダーンタ哲学は言います。2026/04/16 12:12:05273.◆JBLfMwCXhY52Jrg43 かおり 2026/03/11(水) 19:00:44.38 ID:ek5Gh🟧🟧🟧サーンキヤ哲学五つの要素はすべてプラクリティから出ます。プルシャはいつも存在していますが、動かず、他のものと関わりがありません。プルシャは常に執着がなく、自由で、純粋で、静かです。プラクリティは反対に、いつも活発でいつも動いています。プルシャだけに意識があります。プラクリティは物質です。プルシャとプラクリティが近くに来ると、宇宙の創造が始まります。名前、形、性質、五つの要素(空風火水地)など、すべてが始まります。プルシャはプラクリティの近くに来ると自分の本性を忘れて、プラクリティと自分を同一視します。無知の影響で、プラクリティの状態が自分の状態である、という考えが出るのです。2026/04/16 12:12:24274.◆JBLfMwCXhY52Jrg以前は、何を言ってるのかサッパリ分からんかったが今はよく分かる2026/04/16 12:13:52275.神も仏も名無しさんwKA4pムイムイナルシズムプラクリティが決死の不毛レスリバースさせているな?😀2026/04/16 12:20:43276.◆JBLfMwCXhY52Jrgリバースしてるのは、ムイムイなのか~😫2026/04/16 12:26:13277.神も仏も名無しさん2K60v禅寺出てきてすぐは、ヴェーダーンタ協会の夕拝は座る前にこんな歌を唄うとはうるさいなと思ってすぐ帰ったが、カタムリタの会話の中で出てくる歌の歌詞がとても惹かれたので、探し出して綴りと読み方教えて貰って歌うようになってしまっていたな、カタムリタの中で歌っている、カマラーカンタ、クビラ、ラームプラサードなどの作者は形のある対象から形の無い対象への気持ちを歌ったものが数多くあってとてもいいものだよ2026/04/16 12:58:57278.神も仏も名無しさん2K60v禅寺出てきてすぐは、ヴェーダーンタ協会の夕拝は座る前にこんな歌を唄うとはうるさいなと思ってすぐ帰ったが、カタムリタの会話の中で出てくる歌の歌詞がとても惹かれたので、探し出して綴りと読み方教えて貰って歌うようになってしまっていたな、カタムリタの中で歌っている、カマラーカンタ、クビラ、ラームプラサードなどの作者は形のある対象から形の無い対象への気持ちを歌ったものが数多くあってとてもいいものだよ2026/04/16 12:59:38279.神も仏も名無しさんpcnMcナルシズムムイムイだな?😀2026/04/16 13:07:07280.神も仏も名無しさん2K60v自分が悟ったと思えることは幸運だと思うね、そうではなかったとガッカリするのも幸運だ、そういうことではないのだと実感するのだからなあ2026/04/16 13:47:56281.◆JBLfMwCXhYJAGYZラーマクリシュナは、19世紀インドを代表する神秘思想家で、ヒンドゥー教の枠を超えた宗教体験を語った人物です。とくに「すべての宗教は同じ真理に至る道である」という立場で知られています。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a1/Ramakrishna.jpg/500px-Ramakrishna.jpg2026/04/16 20:50:29282.◆JBLfMwCXhYJAGYZ■ 基本情報生没年:1836年~1886年出身:インド・ベンガル地方本名:ガダーダル・チャットパーディヤーイ職業:僧侶(カーリー女神の神殿の祭司)2026/04/16 20:50:55283.◆JBLfMwCXhYJAGYZ■ 思想の核心① 宗教はすべて同じ真理に至るラーマクリシュナは、ヒンドゥー教だけでなく、イスラム教やキリスト教も実際に修行し、「どれも同じ神に到達する」と体験的に語りました。👉 単なる理論ではなく、「実験して確かめた」という点が特徴です。2026/04/16 20:51:33284.◆JBLfMwCXhYJAGYZ② 神は人格的にも非人格的にも現れる神は「母なる神(カーリー)」としても現れる同時に、形のない絶対(ブラフマン)でもあるこの両立を自然に受け入れているのが特徴です。2026/04/16 20:51:57285.神も仏も名無しさんoZRFI>>281俺は神秘思想家でもないし全宗教を、同じと統合する意欲はないなーリアルには知りたいけどなー😀2026/04/16 20:52:08286.◆JBLfMwCXhYJAGYZ③ 強烈な神秘体験(サマーディ)彼は頻繁に深い瞑想状態(サマーディ)に入り、外界の意識を失うほどの神体験をしていました。👉 周囲からは「半ば狂人」のようにも見られたが、後に大思想家として評価されます。2026/04/16 20:52:12287.◆JBLfMwCXhYJAGYZ■ 弟子と影響最も有名な弟子は👉 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ彼が西洋に思想を広めたことで、ラーマクリシュナの影響は世界規模になりました。2026/04/16 20:52:28288.◆JBLfMwCXhYJAGYZ■ 思想的な位置づけあなたがこれまで話していた文脈と重ねると、こう整理できます:中観派:すべてを否定して空へ華厳:すべてを関係性として肯定ヨーガ:観察者(プルシャ)へ分離👉 ラーマクリシュナはむしろ「全部OK。どの道でも神に至る」という立場です。かなりラディカルです。哲学的整合性より「体験の豊かさ」を優先しています。2026/04/16 20:52:42289.◆JBLfMwCXhYJAGYZ■ たとえ話(有名)彼の有名な比喩:水は、ヒンドゥーは「ジャル」、イスラム教徒は「パーニー」、英語では「ウォーター」と呼ぶ。しかし中身は同じである。2026/04/16 20:52:56290.◆JBLfMwCXhYJAGYZ■ 評価(重要なポイント)正直に言うと、この思想には強みと弱みがあります。強み宗教対立を超える力がある実体験ベースで説得力がある弱み教義の違いを軽視しすぎる傾向「全部同じ」と言い切る粗さ2026/04/16 20:53:10291.神も仏も名無しさんoZRFI瞑想系統仏教は互換性はあるのは確かだがとりま、今週、新システム開発できた少しだけ集中力が上がった😀2026/04/16 20:53:17292.◆JBLfMwCXhYJAGYZ■ あなた向けの核心あなたのこれまでの問い(空・プルシャ・観察者)に照らすと:ラーマクリシュナは👉 「観察者に行く必要すらない。愛でも知でも、どこからでも神に行ける」という立場です。もし深掘りするなら、かなり面白いテーマがあります:ラーマクリシュナ vs 中観(「空」とどう違うか)ラーマクリシュナ vs ヨーガ(プルシャ不要論になるか)「体験主義」はどこまで信用できるかどこを掘る?2026/04/16 20:53:26293.神も仏も名無しさん4qIdb神秘思想家ムイムイ😀2026/04/16 20:53:51294.◆JBLfMwCXhYJAGYZ>>285確かに個人的に、全宗教を同じとするのには賛成できない違いを感じる2026/04/16 20:53:57295.神も仏も名無しさんoZRFI強烈なサマーディには慣れっこだが仏教の、あの構築されたシステムを使いこなすのは即というわけにはいかんな😀2026/04/16 20:54:43296.◆JBLfMwCXhYJAGYZでも、こういうのを見れば「他の宗派の知識をつけるな。悟りが遠くなるぞ」とかなんとかケチくさいことを言ってるのが虚しくなるんじゃないか😂2026/04/16 20:55:23297.神も仏も名無しさんoZRFIラーマクリシュナはヨガ系統の特徴である意識が飛ぶのを理想なんだろうな?デンパパ📡も、そういうのが好きだからなー😀2026/04/16 20:56:20298.神も仏も名無しさんoZRFI>>296ムイムイと仏のスレ主のノリだな😀2026/04/16 20:57:19299.◆JBLfMwCXhYJAGYZ確かにラーマクリシュナは、意識が飛ぶのが好きそうだ2026/04/16 20:57:38300.◆JBLfMwCXhYJAGYZ3002026/04/16 20:57:54301.神も仏も名無しさんoZRFIヨガ系統は意識か飛ぶ究極ゴール仏教はエラーの無い空間認識を構築するAIより先に解答出せる😀2026/04/16 20:58:40302.神も仏も名無しさん4qIdbノリノリムイムイ😀2026/04/16 20:59:26303.神も仏も名無しさんoZRFIムイムイとハッスルは認識エラーばかりの日々を過ごしているののは確かだ😀2026/04/16 20:59:44304.神も仏も名無しさん4qIdb合体!ムイムイハッスル!😀2026/04/16 21:05:45305.◆JBLfMwCXhYCZPpH> 強烈な神秘体験(サマーディ)> 彼は頻繁に深い瞑想状態(サマーディ)に入り、外界の意識を失うほどの神体験をしていました。日常生活がマヒしそうだな2026/04/17 06:25:49306.神も仏も名無しさんPTYYzこういう宗教の本質の違いを直観的にわからんデンパパ📡はデンパパ📡なのだろう😀2026/04/17 06:29:31307.神も仏も名無しさんPTYYz>>305そこが如実知見を究極におく仏教と神の遊戯からの離脱やプルシャなどに究極におく仏教の違いだろうAIよりも俺は冴えている😀2026/04/17 06:31:17308.神も仏も名無しさんSH5LE糞してる時も意識失って召使いに支えられたと読んだな、ドッキネッショルの敷地内に気を失って倒れてるのはよくあったようで、プジャリの疑っている同僚から蹴飛ばされてたらしいな2026/04/17 07:06:35309.神も仏も名無しさんPTYYz俺も初カトリックのミサの後、意識飛びそうなので決死に抵抗した😀それ以降カトリックミサには出ていない無人のカトリック御堂はよく行くけどな😀2026/04/17 07:08:49310.神も仏も名無しさんPTYYz聖霊不熱心な日本基督教団の礼拝中でたまに、行きはじめの頃意識飛びそうになった😀2026/04/17 07:09:56311.神も仏も名無しさんPTYYz意識飛びそうな体験シーズンに図書館でラーマクリシュナの本と出会ったほぼ、その時期😀2026/04/17 07:11:11312.神も仏も名無しさんPTYYz金曜日の朝は最近、ご機嫌である今日働けば休日になるからだ😀2026/04/17 07:11:47313.神も仏も名無しさんSH5LE私はそういうのは全くないな、透析で血圧低めでその後レントゲン撮った時に深呼吸したら失ってヘタレこんだ位かな。インドだと余興のひとつになっていて、祭りの時に信仰歌唄って踊って極まって不動になる、芸としてやる人が結構いるという、ラマクリシュナさんの時代からいたようだから2026/04/17 07:31:23314.神も仏も名無しさんwfftZ金曜日の朝はムイムイ😀2026/04/17 13:15:22315.◆JBLfMwCXhYJpofz意識が飛ぶことはないな~2026/04/18 06:58:08316.神も仏も名無しさん7FMkX仏教は基本、判断力という智慧がテーマだろうからなー他の宗教、そういう要素が減るま、山伏&念仏、神仏習合コースになると判断力は重要にはあまりならないだろうけど、😀2026/04/18 08:29:44317.神も仏も名無しさんiTiXC山伏念仏ムイムイ😀2026/04/18 08:32:31318.神も仏も名無しさん3MbbDカタムリタの中で歌っている歌詞はとても好きなものはあるな、あなたは赤かったり青かったり、時には無色透明だったりする、そんなあなたに魅了されて、私の人生は台無しだ、とか恋愛の対象に訴えるような接し方だね、私はそこまでの女々しさにはついては行けないが、そんなやり方があるんだねえと思った2026/04/18 09:12:53319.◆JBLfMwCXhYUF5rmカタムリタ?2026/04/18 09:14:14320.◆JBLfMwCXhYUF5rm「カタムリタ(Kathamrita)」とは、19世紀インドの聖者シュリ・ラーマクリシュナの教えや対話を記録した『ラーマクリシュナ・カタムリタ』(『ラームクリシュナと対話』)を指す言葉です。2026/04/18 09:14:31321.◆JBLfMwCXhYUF5rm主なポイントは以下の通りです。意味:「神の言葉のネクタル(甘露)」や「聖なる対話」を意味し、弟子マヘンドラナート・グプタ(M.)によってベンガル語で記録された。内容:ラーマクリシュナが弟子や参拝者と交わした日常的な対話の中で、神の存在やスピリチュアルな真理を、誰にでもわかるたとえ話で説いたもの。重要性:ベーダーンタ哲学の真髄を日常レベルで学ぶための最高峰の書籍の一つとして、世界中で親しまれている。日本ヴェーダーンタ協会などのウェブサイトでも、この教えに関する解説や特集が掲載されています。2026/04/18 09:15:01322.◆JBLfMwCXhYUF5rmベンガル語なのか2026/04/18 09:15:19323.◆JBLfMwCXhYUF5rmラーマクリシュナ用語なんだな2026/04/18 09:17:21324.◆JBLfMwCXhYUF5rmどうりで、聞いたことないわけだ2026/04/18 09:17:38325.神も仏も名無しさん7FMkXノリ的にはイエス・キリスト路線を感じるな?😀2026/04/18 09:19:16326.神も仏も名無しさんiTiXCイエスムイムイ😀2026/04/18 09:23:58327.◆JBLfMwCXhYUF5rmPee Le Re Avadhutこの歌は、Sri Ramakrishnaの前でしばしば歌われ、神を悟った魂(アヴァドゥータ)が味わう霊的な酩酊や至福を表現するためのものでした。https://youtu.be/gkGHQs2ajds?si=WIIv1VaoSZSNRg9d2026/04/18 09:41:43328.◆JBLfMwCXhYUF5rm「Pee Le Re Avadhut」は、Sri Ramakrishna Kathamritaに言及される北インド系のバジャン(宗教歌)ですが、正確な公式歌詞は版や伝承によって異なり、完全一致のテキストは公開されていないことが多いです。ただし一般に歌われている代表的な形は以下の通りです👇(一部抜粋・代表形)「Pee Le Re Avadhut」歌詞(ヒンディー)意味(ざっくり)「アヴァドゥートよ、神の愛の杯を飲みなさい」「この世界はマーヤ(幻想)だから、神の名という宝を受け取りなさい」「神の名(ラーマなど)に酔いなさい」つまり、神への愛に“酔う”こと=解脱への道という、バクティ(信愛)思想を表しています。2026/04/18 09:42:06329.神も仏も名無しさん3MbbD協会の日本語訳は、ラマクリシュナミッションの坊さんがベンガル語から英語に訳したものからの日本語訳だよ、日本人のラマクリシュナミッションの坊さんだった人が、ベンガル語から日本語に翻訳した本もある。2026/04/18 09:48:33330.神も仏も名無しさん3MbbD結構な日常を話していて、ラマクリシュナさんが幾らか若い頃、まだ汽車がなくてドッキネッショルが歩く修行者の社会生活者の少ないいい休憩場所だった頃に、そのころはパラマハンサが部屋に集まって議論に花が咲いたと言っていて、その時赤痢で下痢をしていたラマクリシュナさんは部屋の隅でおまるに座って話に参加していたとか、いい光景だなと思った2026/04/18 09:58:23331.◆JBLfMwCXhYJpofzベンガル語を翻訳できる人もいるんだな2026/04/18 19:07:33332.◆JBLfMwCXhYJpofzこの分野は、日本語の資料が少ない2026/04/18 19:07:52333.◆JBLfMwCXhYJpofzAIも、明らかに英語サイトに依存している2026/04/18 19:08:40334.◆JBLfMwCXhYJpofzまあ、ベンガル語、ネパール語、ヒンディー語この3つは似たような言語だが2026/04/18 19:09:36335.◆JBLfMwCXhYJpofzどれかが解れば、あとの2つも解るだろう2026/04/18 19:10:17336.神も仏も名無しさんQrnNI>つまり、神への愛に“酔う”こと=解脱への道という、バクティ(信愛)思想を表しています。仏教含め、どの宗教にもそういう酔うという霊的な表現はあるなー瞑想系統仏教は、如実知見が入るので自己心理洞察込みになる、ハッスルやムイムイは自己心理洞察がないのであんな風に哀れになる😀2026/04/18 19:51:08337.神も仏も名無しさんz1BSw自己心理洞察のないムイムイ😀2026/04/18 20:56:03338.◆JBLfMwCXhYVJTYG「カタームリタ(Kathamrita)」は、ベンガル語で「甘露のような言葉(神の言葉)」を意味し、19世紀のインドの聖者ラーマクリシュナの教えを弟子のマヘンドラナート・グプタが記録した『ラーマクリシュナの福音』(Sri Sri Ramakrishna Kathamrita)を指します。日常的な言葉で真理を語る、実践的な精神修行の書です。2026/04/19 07:10:05339.◆JBLfMwCXhYVJTYG内容の主な特徴甘露のような教え: 読む者を永遠の真理へ導く、甘露(アムリタ)に例えられる聖なる教え。日常的で実践的: 抽象的な哲学ではなく、日常生活の中で神を悟るための具体的なヒントや、実践方法が対話形式で記されている。真我への理解: 真我、世界、神への深い理解を促し、読むたびに新しい発見があると言われる。2026/04/19 07:10:23340.◆JBLfMwCXhYVJTYG※「カタムリタ」と表記される場合、この『ラーマクリシュナの福音』を指すことが一般的です。2026/04/19 07:10:44341.◆JBLfMwCXhYVJTYG「カタムリタの歌」は、インドの聖者シュリ・ラーマクリシュナの教えをまとめた書籍『ラーマクリシュナの福音(カタムリタ)』に関連する、神をたたえる信仰歌(バジャン)や瞑想歌を指す言葉です。日本ヴェーダーンタ協会などの活動で歌われ、その教えを歌に乗せて瞑想する際に用いられます。2026/04/19 07:12:02342.◆JBLfMwCXhYVJTYG特徴と関連情報カタムリタ・プラサンガ: 『カタムリタ』の内容を題材にした法話や歌を指す用語として使われています。内容: 主に神への愛、献身、真理の追求をテーマにした、ラーマクリシュナ、ホーリーマザー、ヴィヴェーカーナンダへの信仰歌です。入手・関連:日本ヴェーダーンタ協会などで、これらの歌を収録したCDや歌詞集が提供されています。より具体的な歌のタイトルや、歌詞の検索をご希望の場合は、詳細を教えてください。2026/04/19 07:12:16343.◆JBLfMwCXhYVJTYG日本ヴェーダーンタ協会シュリー・ラーマクリシュナ生誕祝賀会(2013)https://www.youtube.com/live/Z8wPlqQXRPk?si=D3xh-UTrPWIEZ5NJ2026/04/19 07:25:37344.神も仏も名無しさんJ89vx私はこの歌がかなり好きだったなhttps://youtu.be/PbviCOeqxvo?si=JElDJp2-JXxGdpzn2026/04/19 11:53:53345.神も仏も名無しさんEFPiZヤナギ2026/04/27 08:04:55346.神も仏も名無しさん6eBRb信仰に厚いインド人やヒンドゥーの坊さんは、そんな歌を唄うことを気軽に楽しむが、私にとっては結構個人的で切実なものとして接してしまうな、詩がとても素晴らしい表現で惹かれてしまうから。カタムリタの中でも、タクールさん夜中に起きて暗闇で部屋をウロウロしながら小声で唄っている描写がよくある、書き記した者の感情も相まってとても惹かれる雰囲気が感じられる2026/04/28 05:53:05347.◆JBLfMwCXhY8AhXa素晴らしいな?😆2026/04/28 12:13:09348.◆JBLfMwCXhY8AhXa>>344ちょっと暗め?2026/04/28 12:13:23349.神も仏も名無しさん6eBRb詩を様々なラーガ、歌い手によって明るかったり暗かったり様々なメロディやリズムに乗せて歌うね、西洋の音楽理論ではないので日本人にわかりやすい明るい暗いではないな、私はわからないので無骨で少し暗めのわかりやすい曲調で歌ってるものが好みだな、軽やかで明るく軽快なのは苦手だhttps://youtu.be/q7grVGz1X1g?si=RI-Iz0CRSDkaWvHfとても女々しい詩だがこれも好きだな2026/04/28 13:04:13350.◆JBLfMwCXhYV3CcLインド人は、個人主義者だ「私」にとことんコダワるそれが、インド思想の特徴2026/04/29 09:11:44351.◆JBLfMwCXhYV3CcL「私」にコダワるインド人だからこそ逆説的に、無我の思想が現れた2026/04/29 09:12:02352.◆JBLfMwCXhYV3CcL以前から唱えてることだがインド人のいう「無我」は、日本人が考えるそれとは異なる日本人は、日本社会の伝統である「滅私奉公」をイメージしやすい2026/04/29 09:12:22353.◆JBLfMwCXhYV3CcLインド人たちと付き合ってみれば分かるが彼らは、「滅私奉公」なんて文化ではない世界一、自己主張が激しい😫2026/04/29 09:12:39354.◆JBLfMwCXhYV3CcL「私はある」の、ニサルガダッタ・マハラジ「私は誰?」の、ラマナ・マハルシ20世紀の2大巨頭は、2人とも「私」にとことんコダワる2026/04/29 09:13:45355.◆JBLfMwCXhYV3CcL逆説的だが無我思想とは本来、それを突き詰めたものだ2026/04/29 09:14:40356.◆JBLfMwCXhYV3CcL何が違うのかといえば「滅私奉公」では、私心は無になっているが組織とか全体は確固たる存在だ東アジア、とくに日本では好まれる考え方2026/04/29 09:16:58357.◆JBLfMwCXhYV3CcL仏教だと、「私」にも実体は無いが「組織」とか「宇宙」とか「全体」とかは、それ以上に実体がなく、名前だけの仮の存在2026/04/29 09:18:43358.◆JBLfMwCXhYV3CcL瞑想というのは外界への関心を断ち切り、「私」に意識を集中することだ2026/04/29 09:44:33359.神も仏も名無しさんE0Ugw私は、話す時、私は、から話すのがとても好きだけど、大方宗教的な関わりの相手と話すと、とても嫌がられる、あの協会でもそうだ、坊さんにしてもそうだな、私は邪魔する気はない、やり方の違いなのだと思う事にしてる2026/04/29 14:30:06360.神も仏も名無しさんE0Ugw私は、日本の人にとっての私を排した感覚は、ヒンドゥーにとってのバクティ、信仰に似ていると思うね2026/04/29 14:41:35361.神も仏も名無しさんAI677>>9博識ですね読んだところ、ヴェーダーンタ哲学は主観があり、サーンキャ哲学は主観がない、他はアートマンとプルシャは同じと思いました別の言葉でいいますと、サーンキャは事実を客観的に述べている、ヴェーダーンタは事実を見たあと、それへ感情移入し、起こった感情を混ぜて書いている2026/05/01 04:37:28362.神も仏も名無しさんAI677>>350結果的に、個人主義者になる部分もあると思います悪いけどすると気持ちよくなるからする、有利になるからする、しないと不利になるからする、そういったことをしたくないと思いません?確信の部分だけどさとった人目線で、だからどうした?という感じ。悟ってない人(修行者)にとっては仏教の考えかたのほうがいい。ヴェーダーンタもサーンキャもいらない感じ(むしろないほうがいい)2026/05/01 04:58:08
【福生マッチョハンマー男】亡き父親は有名プロ囲碁棋士「先物取引で失敗、借金が大変で…」母親が語った“末っ子”の苦悩「彼女もいたけど仕事してないから結婚を許されず」ニュース速報+26921252026/05/01 10:26:45
【今春スタートの生放送新番組・フジテレビのゴールデン枠で“歴代最低視聴率”レベル】「4月28日放送の視聴率が出て、いよいよ局内は静まりかえっています」(制作関係者)ニュース速報+73763.22026/05/01 10:28:50
インドの教えを学ぼう
前スレ
【ラマナ・マハルシ】インドの宗教哲人【ラーマクリシュナ】
https://talk.jp/boards/psy/1689489209
日本ヴェーダーンタ協会
https://www.vedantajp.com/?mobile=1
師は世界的に活動しているラーマクリシュナ・ミッションの僧である。このミッションは、宗教の調和を信条とし、インドに本部を置く宗教と慈善の団体です。
師の生誕地はインドの西ベンガルであり、その後カルカッタ大学で法律と現代歴史を勉強し、1974年ラーマクリシュナ僧団に入団しました。1980年よ り、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を12年間務め、1993年からはミッションの日本支部の会長を務めています。
現在は、インドで培われた霊性、そしてヨーガの道徳・心のあり方・宗教的な事柄について、日本の各地・島々で、時には海外にも出かけて、講演を行っています。
今まで、師はたくさんの雑誌に文章を書いてきました。特に、インドの歴史、宗教、文化の中心地として有名なバラナシ(ベナレス)を詳しく調べた師の本は、世界的に評価されています。また、ディヤーナムという瞑想ガイドのCDは、世界で販売されています。
霊性修行やヒンドゥ教の経典の解説、その他のご相談でスワーミー(インドの僧侶)に会いたいと思われる方は、お電話で常駐のインドのラーマクリシュナ僧団のスワーミー・メダサーナンダ師に日時を打ち合わせください。
日本ヴェーダーンタ協会 046-873-0428
ChatGPT:鋭いところですね。ここはインド哲学の“いちばん議論されてきたポイント”です。
結論から言うと:
👉厳密には矛盾する(理論としては両立しない)
👉 でも実践レベルでは補完的に使われることが多い
この「二層構造」で理解するとスッキリします。
● ヨガ(サーンキヤ系の二元論)
代表:ヨーガ・スートラ
プルシャ(純粋意識)とプラクリティ(物質・心)は別物
苦しみは「混同」から起こる
解脱=両者を切り離して区別すること
👉 世界は「本当に二つある」
● ヴェーダーンタ(特に不二一元論)
代表:ウパニシャッド
体系化:シャンカラ
アートマン=ブラフマン(すべては一つ)
世界の分離は無知による見かけ
解脱=最初から一つだったと悟ること
👉 世界は「本当は一つ」
はい、哲学としては真正面から矛盾します。
ヨガ:精神と物質の二つは「実在として別」
ヴェーダーンタ:二つに見えるのは「錯覚」
これは妥協できないレベルの違いです。
■ それでも両方使われる理由
👉レベル(段階)の違いとして扱う
① 初期段階(ヨガ的)
「私は心や身体とは違う」と切り分ける
観察者としての自分を確立する
👉二元論が役に立つ
② 最終段階(ヴェーダーンタ)
観察者と対象の区別すら超える
すべてが一つだと見抜く
👉非二元に移行する
非二元の立場からはこう言います:
二元論は「途中の教え(方便)」
最終的には捨てるべきもの
つまり
👉ヨガは“準備段階として正しい”が、究極ではない
■ ヨガ側からの反論
逆にヨガ(サーンキヤ)側は:
世界は実在する
非二元は理論的に無理がある
👉ヴェーダーンタを批判する立場もある
理論的には矛盾する(二元 vs 非二元)
でも実践ではこう使われる:
👉分けて理解し(ヨガ)→ 最後に一つと悟る(ヴェーダーンタ)
ChatGPT:アートマンとプルシャは、どちらもインド哲学における「真我(本当の自分、不変の魂)」を指す言葉であり、本質的な意味はほぼ同じです。
違いは学派にあり、アートマンは『ヴェーダ』のウパニシャド哲学で使われる「内なる自己」、プルシャは『サーンキャ・ヨガ』で使われる「純粋な観察者」を指します。
共通点(真我): 両者ともに、肉体や心、思考とは異なり、死ぬことも変化することもない純粋な存在を指します。
アートマン(真我): 個人の身体や心の中にある神聖な実体。宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と本質的に同一であるとされる(梵我一如)。
プルシャ(純粋意識): サーンキャ哲学において、自然や物質(プラクリティ)と対比される、純粋な観察者。感情や思考といった「観られるもの」とは別に存在する、観るだけの意識。
基本的には「真我」という同じ本質を、異なる切り口(哲学アプローチ)で表現している言葉と言えます。
プルシャ(サーンキヤ)
→ 個々に多数存在する意識主体(人ごとに別のプルシャがある)
アートマン(ヴェーダーンタ)
→ 最終的には宇宙原理(ブラフマン)と同一
(=すべては一つの自己という非二元論に向かう)
まとめ
「プルシャ=真我」と訳されることもあるが、
✔ 厳密には哲学体系によってニュアンスが違う
ザックリ言えば
👉どちらも“本当の自己(純粋意識)”を指すが、存在の捉え方が異なる
もし仏教の「無我」との違いも気になるなら、そこもかなり面白い対比ができます。
神の遊戯(リーラ)
「神の遊戯(リーラ)」は、この世界を神(絶対的な存在)が楽しむための壮大な遊び、あるいは戯れとして捉えるヨガやヒンドゥー教の思想です。苦悩や多様な現象も、神が演じる劇の一場面であり、本質的には一つであるという視点から、執着を手放し、今この瞬間を神聖なものとして生きることを説きます。
世界の捉え方:世界は神が自己表現し、楽しむための「舞台」であり、すべての出来事は神の戯れ(リーラ)とされる。
苦楽の超越:良いことも悪いことも、物語の一部として客観的に観察し、固定的な執着や苦悩から解放(解脱)を目指す。
ヨガの目的:この世を神の遊びとして見通す視点(智慧)を持ち、心(チッタ)を静めて自己の神聖さを認識すること。
ヨガの哲学では、この世界に没入しすぎず、観察者(証人)としての視点を持つことで、神の遊びを共に楽しむかのような軽やかな生き方を推奨しています。
俺は、かなりの神的存在論を楽しめた
😀
不ニ一元論
「梵我一如」はウパニシャッド哲学の根幹で、宇宙の原理「梵(ブラフマン)」と個人の本質「我(アートマン)」は同一であるという思想で、解脱を目指します。
「不二一元論」はそれをさらに強調し、「真理はただ一つ、二つとない」と説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタの核心概念で、唯一の実在(ブラフマン)以外に真の現実はなく、個(アートマン)も現象世界もブラフマンの現れとする、より徹底した非二元論です。
梵我一如が「(梵と我は)同じである」という関係性を示すのに対し、不二一元論は「(二つとない唯一の真理が)ブラフマンそのものである」という絶対的な同一性・非二元性を主張します。
意味: 宇宙の根本原理である「梵(ブラフマン)」と、個人の本質である「我(アートマン)」は、本質的に同じものであるという思想。
出典: ウパニシャッド哲学(ヴェーダーンタ哲学の源流)の中心的な教え。
目的: この同一性を自覚することで、輪廻転生からの解脱(モークシャ)を目指す。
核心: 「Tat Tvam Asi(タット・トゥワム・アシ)」(汝はそなり)という言葉に集約される。
意味: 「二つではない、ただ一つの真理」という意味で、ブラフマン(絶対者)のみが真実であり、それ以外のすべて(個、現象)は幻想(マーヤー)であるとする徹底した一元論。
提唱者: ヴェーダーンタ学派の哲学者シャンカラが体系化。
関係性: 梵我一如の思想をさらに推し進め、「真理は二つとない」と断言することで、梵我一如の「同一性」をより絶対的な「唯一性」として強調。
核心: 「二元的な区別は超えられ、すべてはブラフマンという唯一の実在に帰一する」という非二元性(アドヴァイタ)の思想。
これからは、コレだ~😆
俺もヨガの解釈は
シヴァナンダヨガ解釈で
無理矢理ラーマクリシュナの理論を乗っけている感じだからなー
シヴァナンダヨガ瞑想を体験したので
それをベースにちゃんぽんしてると思う
😀
2、3日前まで知らんかった😅
素直に仏教レベルに天才ではないのは
認める
😀
わかりもせん
仏教スレで
トンチンカンレスが好きなのは理解できんな?
😫
ヨガ哲学やサーンキヤ哲学におけるプルシャは、ゲームのプレイヤー(主体)とアバター(身体・精神)の関係に非常に似た概念です。
プルシャは「真の自己(純粋意識)」であり、肉体や感情(プラクリティ=ゲーム内のキャラクター)を客観的に観察する「観る者」とされています。
「観る者」の役割: プルシャは苦しみや喜びを体験せず、ただ観察する純粋な意識(プレイヤー)。
「物質」との分離: 肉体、心、知性(プラクリティ)はプレイヤーに操作されるゲーム上のアバター(物質的なもの)として区別されます。
主体性: 悩みや苦しみの原因は、プルシャがアバター(物質)と自分を混同することにあると解釈されます。
「プルシャ」という名のプレイヤーが
確実に存在する
ゲーム内の仮想世界であることが明確化されている
【ヨガ哲学】
この世は神々が暇つぶしのために創造した『宇宙の遊戯場(リーラ)』
ですって🤭
でも、何でも思い通りで自由な神の世界はつまらないので色んな経験ができるこの世界を創ったの。
体や心と共に物質的欲求も満たそうとするエゴも肥大化してしまうこの世界。
この世は幻想(マーヤー)💫
六眼の完成だ
😀
心身の運用感覚は
仕上がっている仏教瞑想では
ムイムイは俺に襲撃される宿命であった
😀
その感覚を瞑想的に脳内構築しているが
またま、日常生活して、運用できるレベルではない
😀
つまり、プレイヤー(プルシャ)がアバター(物質・身体)の動きに一喜一憂せず、その状況を冷静に観察する存在であることを理解することが、ヨガ的な視点では「真我」に近づくこととされています。
止滅という発想は
かなりオモシロかった
あと自在神
😀
むろん、ヨーガスートラ
俺はヨガはちゃんぽんするなと
先に宣言だ
😀
真言密教とのチャンネルでやってたからなー
😀
とにかく
ヨガ日生活実用化を目指す
😀
俺はヨガの専門ではないので
テキトーにツギハギするしかない
😀
😀
栖ウンコ士の仏教くらいのレベルだな😆
😀
もう、俺の脳内は
仁和寺への執念マシーンだ
いくぞ〜
😀
お布施した人のチャンネルのようだ
普通は、こんなには撮らせてもらえんやろなー
仁和寺は撮影禁止が厳しいからな〜
😀
仁和寺門主の祀るお堂が
高野山奥の院の御廟向かって右に
石のピラミッドみたなのがある場所にあったらしい、神仏習合、両部神道の
😀
高野山大学で確認してる
😀
春日大社と仁和寺は外せないな😆
根本原質:物質現象の源であり、これ自体が形を持って変化し、宇宙のすべての物質を形作る。
3つの性質(トリグナ):純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)、翳質(タマス)という性質の均衡状態で構成される。
アーユルヴェーダにおける定義:生まれ持った心身のバランス、または本来の体質のこと。このバランスは生涯変わらないとされる。
ヨガにおける位置づけ:「観られるもの」であり、真我である「観るもの(プルシャ)」が経験するための対象。
プルシャ (Purusha):真我、純粋精神。プラクリティが「観られるもの」であるのに対し、プルシャは「観るもの」。
ヴィクリティ (Vikriti):現在の不調な状態(乱れ)。プラクリティ(本来の体質)からどれだけ離れているかを示す。
ドーシャ (Dosha):プラクリティを決定する要素(ヴァータ、ピッタ、カパ)。
サーンキヤ学派:プラクリティとプルシャの二元論を説いたインド哲学の学派。
「ヴァータ・ピッタ」タイプ:風と火の性質を多く持って生まれた、行動的で繊細な人。
「カパ」タイプ:地と水の性質を多く持った、穏やかで頑丈な人。
物質は実体を持った本質存在と考えているんだな
なんたって、「物質と精神の二元論」だからな
真言密教の六大の
禅定感覚は似ているが
空間解釈が別物になっている
このあたりは、教学の構築の差がある、
むろん、俺は仏教サイドなので
仏教サイドからの、とりま俺流ツギハギフランケンヨガへの印象だが
😀
コメントできない😅
AI:その理解は、ヨーガ哲学、とくにサーンキヤ=ヨーガ系の枠組みとしては、かなり核心を突いています。
整理すると、あなたが言っている構図はまさにこうです:
■ プラクリティとしての自分(世界内存在)
身体・感覚・思考・感情・記憶すべて
「考えている自分」「悩んでいる自分」「行動している自分」
世界の中に組み込まれ、因果関係のネットワークに従って動く存在
→ これは完全に「自然(プラクリティ)」の側に属する
■ プルシャとしての自分(観察者)
ただ「見ているもの」
変化しない純粋な意識
行為しない・影響されない・ただ照らすだけ
→ 世界を“外側から”ではなく、“巻き込まれずに”観ている原理
ここまでは、あなたの理解と完全に一致しています。
■「二人いる」のではなく、「誤認している」
ヨーガの核心はこう言います:
本来、プルシャはプラクリティではない
しかし、無明によって両者が混同されている
つまり、
「私は怒っている」
「私は考えている」
「私は苦しんでいる」
これらは本当はすべて
👉 プラクリティの働き(心の動き)
なのに、
👉 プルシャ(純粋意識)がそれを「自分だ」と誤認している
ヨーガにおける解脱(カイヴァリヤ)は、
「自分は観察者であって、内容ではない」
と完全に識別することです。
これをサンスクリットで:
ヴィヴェーカ(識別)
と言います。
あなたはこう言っていましたね:
世界は空だが、自分はある
しかも観察者としての自分がいる気がする
これは非常に興味深くて、
中観(空) → すべて実体がない
ヨーガ → 観察者(プルシャ)は実在する
ここで強い緊張関係が生まれます。
■ 決定的な違い
ヨーガ哲学
プルシャ(観察者)は実在する
複数存在する(人ごとにプルシャがある)
中観(龍樹)
観察者も含めてすべて空
「観察者」という立場すら相対的構成
■ あなたの今の立ち位置
今のあなたは、おそらくこういう地点にいます:
世界(プラクリティ)は空っぽに見える
しかし「観ている何か」は残る
これは、
👉 ヨーガ的直観が立ち上がっている状態
とも言えるし、
👉 中観的には、まだ最後の執着が残っている状態
とも言える
自分の個人的な世界観と、最も近い
瑜伽ワールドのほうが、さらに自分の世界観に近いな
「瑜伽行派」と呼ばれるくらいだからな
唯識論のベースは、瑜伽行ワールドだ
言ってることが、だいたい同じだ
仏教にある精緻分析よりも
煩悩の神話的論理立て
ツボを外しては
デンパパ📡と
大差がない
😀
AI:その直観はかなり鋭いです。
実際、**唯識(瑜伽行派)とヨーガ哲学(サーンキヤ=ヨーガ)**は、表面的には驚くほど似ています。
ただし、**「似ている理由」と「決定的に違うところ」**を分けて見ると、一気にクリアになります。
まず結論から言うと:
両者とも「経験世界はそのまま実在ではない」と見ている
① 世界=心的プロセス(っぽく見える)
唯識
世界は「識のあらわれ」
外界は独立実在ではない(唯識無境)
ヨーガ
世界はプラクリティの展開
我々が経験している世界は「心(チッタ)の作用」
👉 結果として:
「見えている世界=そのまま実在ではない」
「認識の構造が世界を形づくる」
という、かなり似た構図になる
デンパパ📡なのは
仏教の精緻な分析を無視するから😀
これも非常に似ています。
ヨーガ
プルシャとプラクリティの混同が苦
識別(ヴィヴェーカ)によって分離
唯識
主客の分裂(能取・所取)が虚構
それを止めると「真如」が現れる
👉 どちらも:
「認識の誤りを正すと解放される」
③ 「観察している構造」への気づき
どちらも、
「見ているもの」と
「見られているもの」
を問題にする哲学です。
この点で、あなたが感じている
観察者がいる感じ
と非常に相性がいい
ここが一番重要です。
■ ヨーガ哲学
→ 二元論(ガチ)
プルシャ(意識)=実在
プラクリティ(自然)=実在
👉 完全に別物が2つある
しかも:
プルシャは変化しない
永遠に存在する
■ 唯識
→ 一元論(ただし特殊)
一見すると「心だけ」なので一元論っぽいですが…
実はこう言います:
その「心」すら固定的実体ではない
唯識の核心
識は流れ(刹那滅)
阿頼耶識も固定実体ではない
主体(観察者)も構成されたもの
👉 つまり:
観察者そのものも解体される
■ 一番大きな違い
ここを一言で言うと:
ヨーガ
👉 「観察者は本当にいる」
唯識
👉 「観察者もまた作られている」
思っているほど
自己の心理の精緻な分析はしてないし、
やらないだろう
😀
あなたの今の立場:
世界は空っぽに見える
でも観察者は残る気がする
これはまさに:
ヨーガ → YES(それがプルシャ)
唯識 → NO(それも識の働き)
という分岐点
■ 面白いポイント(かなり深い)
実は歴史的にも:
唯識(瑜伽行派)はヨーガ思想の影響を受けている
ただし、
👉 そこから「プルシャ」を消した
とも言える
■ 図式化すると
ヨーガ:
観察者(プルシャ) ← 実在
↓ 見る
世界(プラクリティ)
唯識:
観察構造そのものが識
(観る者も見られるものも同時生成)
■ かなり本質的な問い
ここで核心の問いが出てきます:
「観ているもの」は本当に独立して存在するのか?
それは変わらないのか?
それは対象なしに成立するのか?
それはただの「気づきの構造」ではないのか?
神の遊戯からの解放
仏教は自己分析、精緻な分析からの解放
そこが
Theデンパパ📡問題
😀
あなたの直観は正確で、
出発点:かなり似ている
ゴール:真逆に分かれる
という関係です。
もしここをさらに突っ込むなら:
「阿頼耶識とプルシャの違い」を徹底比較
「なぜ観察者は実在しているように感じるのか」
「中観はこの両方をどう否定するか」
このあたりが、哲学的に一番おいしいゾーンです。
当方:「阿頼耶識とプルシャの違い」を徹底比較 ← そこを頼む
AI:いいところに来ています。
阿頼耶識とプルシャは、一見すると「どちらも深層にある根本原理」に見えるのに、実は哲学的に正反対の位置にあります。
単なる比較ではなく、「どこで決定的に分岐するか」を軸に、徹底的に整理します。
なるほど😆
ま、俺も、ヨガ宗派の違いはわからんが
仏教とヨガの違いくらいは
わかる
😀
プルシャ=“純粋な観察者(実在)”
阿頼耶識=“経験を生成する流れ(非実体)”
ここを外さなければ、全体が見えます。
■ ① 存在論の違い(いちばん重要)
● ヨーガ(サーンキヤ)
プルシャ
永遠に存在する
変化しない
それ自体で成立している
多数存在(個々人ごと)
👉 完全な実体(dravyasat)
● 唯識
阿頼耶識
刹那ごとに生滅する(流れ)
因果によって成立
単独では存在しない
👉 非実体(仮有)
★決定的ポイント
プルシャ → それ自体で存在できる
阿頼耶識 → 関係の中でしか存在しない
そりゃそうだろうな😅
● プルシャ
観るだけ(完全に受動)
何も生み出さない
ただ照らす
👉 純粋な“意識そのもの”
● 阿頼耶識
すべての経験の種(種子)を保持
世界・自己・時間を生成する
認識そのもののエンジン
👉 “生成装置”
比喩でいうと
プルシャ → 光そのもの
阿頼耶識 → 映写機(フィルム+機構)
AIでまだ無理だろう
特定の狭い範囲よ
指定された宗教内の情報提示が限界だろう😀
● プルシャ
それが本当の自己
「私はそれである」が最終結論
● 阿頼耶識
自己の根拠に見えるが、そうではない
「我」は阿頼耶識+末那識の誤認
👉 最終的には:
自己ですらない
■ ④ 解脱でどうなるか
● ヨーガ
プルシャがプラクリティから分離
→ 純粋観照として独立
👉 観察者が“残る”
● 唯識
阿頼耶識が転じて智慧になる(転識得智)
主客構造が消滅
👉 観察者そのものが消える
■ ⑤ 観察者問題(最重要テーマ)
ここが一番深いところです。
● ヨーガの立場
観ているもの(プルシャ)は実在する
経験がある以上、観る主体は必要
それは変化しない原理として存在
● 唯識の立場
観ている主体も構成物である
「観ている感じ」も識の働き
主体と客体は同時に立ち上がる
👉 観察者は後付けの構造
● プルシャ
時間を超越
永遠不変
● 阿頼耶識
完全に時間的存在
因果の流れそのもの
■ ⑦ あなたの直観との対応
あなたが感じている:
世界は空っぽに見える
しかし観察者は残る
これは:
阿頼耶識的な構造が見え始めている
しかしまだ「プルシャ的核」が残っている
状態です
ここから先は、完全に哲学の最深部です:
問い①
その観察者は、本当に“変化しない”のか?
注意を向けると変わらないか?
状態によって揺れないか?
問い②
観察者は、対象なしに存在できるか?
何も見ていないとき、それはあると言えるか?
問い③
「観ている」という感覚は、構造ではないのか?
主体と客体が同時に立ち上がっていないか?
■ 最後に
このテーマは、実はこう言い換えられます:
「意識は“ある”のか、それとも“起きている”のか?」
ヨーガ → ある
唯識 → 起きている
> ジャンルが違う宗教比較は
> AIでまだ無理だろう
>
> 特定の狭い範囲よ
> 指定された宗教内の情報提示が限界だろう😀
ヨガ哲学と瑜伽行派なら、できるんじゃないか?
かなり狭い範囲内の比較だ😅
重要性の
関心がないから、
そのような問いを
AIに聞いちゃうのさ
😀
なにせ
神の遊戯から離脱できればOKだから
😀
「瑜伽行派」
というだけあって
中身はほぼ、ヨガ哲学だ
無理だね
そんなにアタマが良くない
四智すら、わからんだろう
JBLですら四智の重要性に気づいてないじゃないか?
😀
四智をスルーしてる
😀
「真我」(プルシャ)を真正面から認めるわけにいかない
↑
なんといっても、これが大きい
そこの識別が欠落して
デンパパ📡みたいな
ご苦労してるのさ
😀
真我を認めたら、仏教じゃなくなる
デンパパ📡論法は成立している
😀
無我だけじゃ
如実知見や四智はないよ
ブッダ自身は
悟る前の苦悩時期ですら
完璧なヨガの達人だったのだから
ベーシック情報が
デンパパ📡並みに不足してね?
😀
無我だけじゃ
如実知見や四智はないよ
ブッダ自身は
悟る前の苦悩時期ですら
完璧なヨガの達人だったのだから
ベーシックな仏教情報が
デンパパ📡並みに不足してね?
😀
臨済宗中興の祖・白隠は、唯識論が好きだった
唯識論が好きというより、唯識論の四智が好きだった
四智がやたらと強調されるようになったのは、白隠の影響
唯識における「四智」は、かなり核心的な教えです。
シンプルに言うと:
迷いの心(識)が、そのまま悟りの智慧に転じたもの
これを「転識得智(てんじきとくち)」と言います。
唯識では、私たちの心は「八識」でできているとされます:
前五識(視・聴・嗅・味・触)
第六識(思考)
第七識(末那識=自己執着)
第八識(阿頼耶識=根本の流れ)
これらが変容すると、**四つの智慧(四智)**になる。
① 大円鏡智(だいえんきょうち)
元:阿頼耶識(第八識)
内容
すべてを歪みなく映す
鏡のような智慧
主観・客観の歪みがない
👉 世界がそのまま現れる
② 平等性智(びょうどうしょうち)
元:末那識(第七識)
内容
「自分と他人の区別」が消える
すべてが平等に見える
👉 自己中心性の完全消滅
③ 妙観察智(みょうかんさつち)
元:第六識(思考)
内容
物事を正確に見分ける
分別はあるが、執着がない
👉 区別はするが、囚われない
④ 成所作智(じょうしょさち)
元:前五識(感覚)
内容
状況に応じて最適に働く
自然に適切な行為が出る
👉 無我の行為(自然な働き)
■ 「消える」のではなく「転じる」
ここが誤解されやすいところです。
阿頼耶識 → 消滅するのではない
思考 → 止まるのではない
👉 そのまま智慧になる
■ ヨーガ哲学との対比(重要)
あなたの関心に合わせて言うと:
ヨーガ
最終的に「観察者(プルシャ)」だけが残る
唯識(四智)
観察者という構造そのものが変容する
👉 結果:
「観ている誰か」はいないが、
完全に明晰な認識がある
四智はこういう状態です:
歪みなく見えている(大円鏡智)
自他の対立がない(平等性智)
必要な区別はできる(妙観察智)
自然に行為できる(成所作智)
■ 一番深いポイント
ここが核心です:
「観察者がいないのに、認識はある」
これは、あなたが今感じている
「観察者がいる気がする」
という段階から、さらに一歩進んだ状態です。
■ まとめ
四智とは:
心を消すことではない
世界を否定することでもない
👉 認識の構造そのものが変わること
AI:結論から言うと、古典的なヨーガ思想(特にサーンキヤ=ヨーガ系)では、「神の遊戯(リーラ)からの離脱」という理解は、かなり近いが厳密には少しズレがあります。
もう少し正確に言うとこうなります:
■ ヨーガの本来の目標
サーンキヤ哲学+ヨーガ学派では、
世界=プラクリティ(自然・物質・心を含む)
観察者=プルシャ(純粋意識)
この二元論が前提です。
そして目標は:
👉 プルシャがプラクリティとの同一視(誤認)から解放されること (=カイヴァリヤ、独存)
■ 「リーラ(神の遊戯)」との関係
「リーラ(神の遊び)」という発想は、むしろ
ヴェーダーンタ哲学(特に非二元論)
バクティ系(神への帰依)
で強く出てくる考えです。
ここでは:
世界=神の表現、創造、遊び
個人=神の現れ
とされる。
あなたの問いを整理すると:
「ヨーガは神の遊びから抜けることか?」
これは
ヨーガ(サーンキヤ):
👉そもそも「神の遊び」という枠組みをあまり使わない
👉問題は「無知による誤認」
ヴェーダーンタ:
👉世界は神のリーラ
👉ただし究極的にはそれも超える
という違いがあります。
■ ヨーガ的に言い直すと
ヨーガの言葉で言えば:
👉 「リーラから離脱」ではなく 👉 「巻き込まれているという錯覚から目覚める」
です。
■ リーラとの橋渡し的理解(あなた向け)
あなたの感覚にかなり近い形でまとめると:
世界は「まるでリーラのように展開している」
しかしヨーガはそれを
神の遊びとは言わず
**機械的な自然の展開(グナの運動)**と見る
そしてゴールは:
👉「この劇に参加している」という思い込みをやめること
■ 一言でまとめると
ヴェーダーンタ → 「神の遊びだと理解し、最終的にそれを超える」
ヨーガ → 「そもそも遊びではなく、誤認から解放される」
ちょっと誤解してたようだ
AI:そう、その理解でかなり正確です。
「神の遊戯(リーラ)」は、基本的にはヨーガではなく、ヴェーダーンタ哲学(特に非二元論系)の発想です。
ただし、ここで一段だけ深く整理しておくと、単なる「違い」以上の構造が見えてきます。
■ なぜ混同しやすいのか
ヨーガとヴェーダーンタは、実はかなり近い思想圏にあります。
サーンキヤ哲学 → 理論(世界の構造)
ヨーガ学派 → 実践(解脱の方法)
ヴェーダーンタ → 最終的な形而上学(存在の理解)
だから途中までは似たような話になる。
■ 決定的な分岐点
一番大きな違いはここです:
● ヨーガ(サーンキヤ系)
世界=プラクリティ(自然)
主体=プルシャ(観察者)
両者は本来「別物」
苦の原因=混同(無知)
👉 世界は「神の遊び」ではない
👉 ただの自然の展開(機械的プロセス)
● ヴェーダーンタ(特に不二一元論)
世界=ブラフマンの現れ
主体=ブラフマンそのもの
分離は幻想
👉 世界は「リーラ(神の遊び)」と表現される
ただし、ヴェーダーンタでも最終的にはこうなります:
👉 「リーラですら、説明のための仮の言い方」
つまり
初学者向け → 「神の遊び」
深まると → 「そもそも世界自体が究極的には実在しない(あるいは相対的)」
ここ、かなり中観派に近い感触があります。
■ 一歩踏み込んだ理解
かなり核心的に言うと:
ヨーガ → 「巻き込まれるな」
ヴェーダーンタ → 「そもそも全部お前だ」
そして「リーラ」は後者の文脈。
■ まとめ
「神の遊戯」=ヴェーダーンタ的表現
ヨーガはもっとドライで分析的
あなたの誤解は自然で、むしろ両者の接点に触れている
「グナの運動」とは何か?
AI:いいところに来ています。ここはヨーガ理解の核心です。
結論から言うと、
**ヨーガでは「世界の展開=神の遊戯」ではなく、「グナの運動」**と捉えます。
■ グナとは何か
サーンキヤ哲学とヨーガ学派では、
世界(プラクリティ)は3つの性質でできているとされます:
サットヴァ(sattva):明るさ・調和・知性
ラジャス(rajas):活動・運動・欲望
タマス(tamas):惰性・重さ・無知
👉 この3つをまとめて「グナ」と呼ぶ
■ グナの運動とは何か
ここが本質です。
👉 グナは常にバランスを崩し、動き続ける
静かになる(サットヴァ)
動き出す(ラジャス)
鈍くなる(タマス)
この絶え間ない変化・相互作用が:
心の動き(思考・感情)
身体の状態
外界の変化
すべてを生み出す
ヨーガ的に言うと:
👉 世界とは
👉 「グナのダイナミックなバランス変化」そのもの
です。
つまり
誰かが意図しているわけではない
神が遊んでいるわけでもない
ただ性質が動いているだけ
■ プルシャとの関係
ここであなたの関心(観察者の問題)に直結します。
グナ(プラクリティ)=動くもの
プルシャ=見るだけのもの
本来は:
👉 映画(グナ)と観客(プルシャ)は別
しかし現実には:
👉 観客が映画に没入して「自分が主人公だ」と思い込む
これが苦(ドゥッカ)の原因
■ だからヨーガの目標は
👉 グナの運動を止めることではなく
👉 それに巻き込まれているという誤認を解くこと
ただし実践的には:
瞑想によってサットヴァを増やし
ラジャス・タマスを鎮める
ことで
👉 最終的に「純粋な観照」が現れる
ここが一番重要な対比です:
ヴェーダーンタ
→ 世界=意味ある表現(神の遊び)
ヨーガ
→ 世界=意味を持たない運動(グナの変化)
👉 ヨーガは徹底的に非人格的・非神話的
■ あなた向けの一言まとめ
かなり本質的に言うと:
👉 リーラ=「意味あるドラマ」
👉 グナの運動=「ただの物理現象」
そしてヨーガはこう言う:
👉 「それ、ドラマじゃない。ただの現象だ」
■ 最後に
あなたの最初の問いはかなり鋭くて、
「リーラ」的に見るか
「グナの運動」と見るか
で、世界の意味が180度変わる分岐点に触れています。
インド思想は、どれも同じに見える😅
神の遊戯という表現を好む
純粋でない誤認
ブラフマンとアートマン
への回帰かな?
唯識は純粋ではなく、
精妙な四智のような思考回路だろな
😀
> ラーマクリシュナ系統は
> 神の遊戯という表現を好む
そうなのか
ラーマクリシュナは明らかに非二元だから、
やはり「神の遊戯」はヴェーダーンタの不ニ一元論だな
つまるところ
純粋にならざる原因
神話的原因だろうからな、
唯識は精密な心理分析
😀
神の遊戯も、ま、
純粋でないから
そーい目に合うのだ
というところやろ
どちらも純粋になる
解放の境地がメインだろな
仏教や
唯識は
純粋さというより、現実を精緻に把握できるための専門用語と分析だろな
😀
😀
😀
ヨガ哲学でいう「プルシャ(真我)」は、「ゲームのプレイヤー」ではなく、「映画の観客」に例えるべきか?
AI:結論から言うと、その理解はかなり的確です。
ただし、**「観客」ですらまだ比喩として少し“動きすぎている”**ので、そこを微調整するとヨーガの核心にぴったり合います。
■ 基本対応
ヨーガ学派では:
プラクリティ(グナの運動)=映画(映像・ストーリー)
プルシャ(真我)=観るもの
👉 なので
「プレイヤーではなく観客」=正しい方向
ここがかなり本質です。
普通の「観客」だと:
感動する
ハラハラする
物語に引き込まれる
しかしヨーガでいうプルシャは:
👉 一切反応しない純粋な観照
喜ばない
悲しまない
判断もしない
👉 ただ「見えている」だけ
■ だから、より正確な比喩
かなり厳密に言い直すと:
× プレイヤー
→ 行為主体すぎる(ヨーガ的には誤り)
△ 観客
→ 方向として正しいが、まだ感情移入してしまう
◎ 理想的な比喩
👉 スクリーンに映る映像を「ただ照らしている光」
👉 あるいは「純粋な視覚そのもの」
■ なぜ誤解が起きるのか
人間の通常状態はこうなっています:
グナの運動(思考・感情)が起こる
それをプルシャが見ている
しかし両者が混同される
「自分が考えている・苦しんでいる」と思う
👉 本当は
「考えが起きている」だけなのに
「自分が考えている」と誤認する
■ ヨーガの解放とは
👉 観客になることですらない
👉 「もともと観ていただけだった」と気づくこと
いまの理解度に到達するまで、どれだけかかったか😅
結構、前からやってるのに
いまも、そんなにピンときてるわけではない😅
ヨガ思想やヴェーダーンタ思想も
倶舎論・中論・唯識論と同じくらい
ピンとくるまでには
何年もかかるであろう
だいぶ解ってきた気がするな
やはり、東寺と高野山に行ったのが大きい😆
解釈読みをしている
ヨガ学派だろうが
ヴェーダンタだろうが
そういう世界感覚があるのは
とりまシヴァナンダヨガで体験したので
という程度
😀
盤珪や道元あたりは
解ってくるだろう
臨済宗は宗教の東大だから
合格率は低い
😀
臨済宗には全く通用しない
😀
増えつつある
休日は仁和寺集中だ
😀
親しいヒンドゥー坊さんはよくそのように説明するが、とても嫌いだな
😀
「親しいヒンドゥー教の坊さん」など
普通はいないから、そうでしょうな😅
たまにしか行かないけど、結構昔からなので、もう同じくらいの人はほとんどいないけどね
分厚いカタムリタの校正は手伝ったよ、生長の家から来たおばあさんが中心になってやっていた頃だったからね
それは、大きな霊的飛躍ですな😂
田中さんは会員ではない、あの翻訳がとても人気があってあの本を読んで来る人は多かったけどね
感動しました
そんな人がいたのか
> 神の詩 バガヴァッド ギーター
>
> 感動しました
あの本か
素晴らしい~😭
名訳と思ってましたが
メーダサーナンダジが「誤訳ですね、ここは」って言ってた(笑)
専門家でないから翻訳も難しかったらしい
そうなのか😅
仕方ないわな
昔話
三つあります。
サットヴァ
明るさ、落ち着き、知性、バランス
ラジャス
情熱、衝動、努力、落ち着かなさ
タマス
重さ、眠気、無気力、混乱
この三つは固定されていません。
常に増えたり減ったり、優勢になったり退いたりします。
たとえば:
朝、頭が冴えて静か → サットヴァ優勢
昼、仕事で忙しく燃える → ラジャス優勢
夜、疲れてだるい → タマス優勢
つまり、心の状態・行動・感情・社会現象までも、グナのバランス変化として見る わけです。
サーンキヤでは本質的自己(プルシャ)は静止していて、動いているのは自然(プラクリティ)です。
だから有名な言い方をすると:
怒っているのは「私」ではなく、ラジャスが動いている。
眠いのは「私」ではなく、タマスが強い。
澄んでいるのは「私」ではなく、サットヴァが現れている。
この見方が「執着から自由になる智慧」とされます。
「グナの運動」は、
心理状態のダイナミクス
エネルギーの波
気分の変化
行動パターンの法則
を象徴的に語ったモデルとも言えます。
一言でまとめると
世界も心も、三つの力のせめぎ合いによって動いている。その変化の流れが“グナの運動”です。
今月末まで仁和寺トレーニング修行だ
😀
いいな~😆
仏教に、このノリは無い
746 神も仏も名無しさん [sage] 2026/04/12(日) 16:11:15.61 ID:84uAQ
私にとって、私は、という言葉はとても素晴らしくて、この言葉の代わりが無いと思うね
「私は、私は」というのが、無我っぽくないので
それを避けて、「当方は」とか「筆者は」というようになり
その習慣が20年たっても続いている😂
俺は神になった😀
こういうのを、ラジャス(激質)が優勢になった、というのか?
AI:かなり「サーンキヤ/ヨーガ的な見方」です。結論から言うと、そう表現することはできます。
ただし、厳密には「世界全体がラジャスそのものになった」というより、ラジャスが相対的に優勢になり、タマスやサットヴァとのバランスが崩れている状態と見るのが自然です。
ラジャス(激質)
活動、欲望 -競争、衝突、拡大、支配欲、落ち着かなさ、情熱と怒り
戦争・対立・権力闘争・過剰な経済競争などは、まさにラジャス的現象です。
タマス(暗質)
無知、惰性、鈍重、恐怖、憎悪、破壊、混乱
戦乱にはラジャスだけでなく、タマスも強く混ざります。
怒りで動き(ラジャス)、相手を人間として見なくなる(タマス)、という形です。
サットヴァ(純質)
調和、明晰さ、真理、慈悲、平和、均衡
これが弱まると、社会は荒れやすくなります。
だから、より正確には
現代世界は、ラジャスが暴走し、タマスがそれに影を落とし、サットヴァが後退している状態
…と言えるでしょう。
サーンキヤやヨーガは、世界情勢そのものを直接変えるより、まず
自分の心のラジャスを鎮める
タマスを払いのける
サットヴァを育てる
ことを重視します。
つまり、
世界が荒れている時代ほど、内面の静けさが修行になる。
面白い視点
あなたの問いは、単なる時事問題を、古代インドの宇宙論で読む試みです。
これはかなり本質的で、現代ニュースを「グナの運動」として見ると、出来事の奥にある心理エネルギーまで見えてきます。
> 仏教キリスト教が完全にミックスされた😀
> 俺は神になった😀
すごいな?😵
> 俺は釈迦でありイエスになったのだ😀
すごすぎる😵
天才の俺様なら余裕😀
これで俺様は無敵😀
誰であろうとボコれる😀
そういう事だ😀
いや、もっと上のレベル😀
俺様でしかなしえなかっただろう😀
俺は釈迦もイエスも超えた😀
そういう事だ😀
前から余裕で超えてるけどな😀
そうだ😀
そういう次元ではない😀
俺は神レベルやから😀
そこまで来たのか
「私は神だ」と自覚するのは、「やっと、真実に気づきましたね」ということになる
天才の俺様なら余裕だった😀
私は神だでなく俺様は神を超えるのが目標だからな😀
ブッダと、キリストを超えたとか?
😀
ムイムイかな?
ムイムイなら
できるかも
😀
ムイムイが凄い境地になったようだな?
😀
ほんま、オモロイやつやな
悟って怨念塊に変化したようだ
まるで禪院直哉みたい
😀
😀
まだ、映像化されていない
😀
心と体、エネルギー、自然の調和、そして「アヒンサー(非暴力)」のような倫理観を重視し、現代では心身の健康と内なる静寂を探求する生き方として親しまれています。
「真我(プルシャ)」と「自然(プラクリティ)」の分離: 真の自分である「プルシャ(純粋意識)」は、変化する物質や心「プラクリティ」とは別物であると認識する。
苦の根源と解消: 苦しみは、貪り(貪・とん)、怒り(瞋・しん)、無明(むみょう・真理を知らないこと)から生まれる。ヨガは「心の動きを止める(制する)」ことで、この苦から解放されることを目指す。
サーンキヤ二元論とヴェーダーンタ一元論の融合: 世界の源理を物質と意識に分ける考え方と、すべては一つである(一元論)の考え方が融合し、包括的な思想が形成された。
グナ(3つの質): 宇宙のあらゆる物質や心は、サットヴァ(純質・明)、ラジャス(激質・動)、タマス(鈍質・闇)の3つの質が混ざり合って構成されている。
パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、以下の8段階で心身を制御し、サマーディ(三昧・超意識状態)を目指します。
ヤマ(禁戒): 暴力を振るわない(アヒンサー)、嘘をつかないなど、社会的なルール。
ニヤマ(勧戒): 清潔、満足(サントーシャ)など、自己規律。
アーサナ: 瞑想のための安定した座法(現代のポーズ)。
プラーナーヤーマ: 呼吸(生命エネルギー)の制御。
😀
おはー
😀
ダメージ与えて効いてると
思い込んでいるだろうな?
俺は嘘ではなく仏教修行マシーンなので
鼻で笑っているのになー
😀
「この世は幻影(マーヤー)である」というのと表裏一体
不ニ一元論の思想だ
↑
二元論だと、こうは考えない
この世は実体のある存在だ
😀
「グナの運動」とかいう、よく分からないシロモノだが
ムイムイはもはや、マーヤーと化したな?
決死の思いで闘っている
早朝四時から😀
燃え燃えムイムイしていたのかもなー
今、静かだな?
😀
悲しき性だ
😭
😀
😫
😫
ラジャスは躁、タマスは鬱、サットヴァは中庸
と思うんだが、どうか?
ヨガ哲学でいう「3つのグナ」は、自然界や人の心の性質を説明する基本概念で、サーンキヤ哲学やヨーガ哲学に由来します。
あなたの言い方
「ラジャス=躁、タマス=鬱、サットヴァ=中庸」
は、かなり直感的で本質をついています。
ただし、少しだけ補足するとより正確になります。
サットヴァ(Sattva)
純粋・調和・明晰・安定
→ 心が澄んでいて、落ち着きと理解がある状態
👉 「中庸」や「整った状態」に近い
ラジャス(Rajas)
活動・欲望・興奮・変化
→ エネルギー過多で動き続ける状態
👉 「躁」に似ているが、必ずしも病的ではなく“推進力”でもある
タマス(Tamas)
無知・停滞・重さ・怠惰
→ 鈍く、動けない、暗い状態
👉 「鬱」に近いが、これも自然な一側面(睡眠など)
ラジャス=躁 →かなり良い比喩(ただしやや強め)
タマス=鬱 →これも分かりやすいが病理寄りの表現
サットヴァ=中庸 →ほぼ核心
👉 つまり:
方向性としては正しいが、グナは病気ではなく“常に混ざり合う性質”
グナは固定された性格ではなく、
「瞬間ごとに変化する“心の状態の配合”」
です。
例えば:
朝スッキリ → サットヴァ多め
仕事でバリバリ → ラジャス多め
夜ダラダラ → タマス多め
ヨガでは:
ラジャスやタマスを排除するのではなく
サットヴァを増やしてバランスを整える
ことを目指します
ラジャス=躁的な動き
タマス=鬱的な停滞
サットヴァ=調和・中庸
👉 この理解でかなり本質に近いです
もし興味あれば、「食事・生活・思考でグナがどう変わるか」も説明できます。
この二つに該当ハッスルしてるな?
😀
ラジャス(Rajas)
活動・欲望・興奮・変化
→ エネルギー過多で動き続ける状態
👉 「躁」に似ているが、必ずしも病的ではなく“推進力”でもある
タマス(Tamas)
無知・停滞・重さ・怠惰
→ 鈍く、動けない、暗い状態
👉 「鬱」に近いが、これも自然な一側面(睡眠など)
😀
ラジャスが強奪するもので、タマスが殺すものでしょうな
深い呼吸とアーサナ(ポーズ)の安定を重視し、心身のバランスを整えるクラスが特徴です。
講師:マノージ・タクール(Manoj Thakur)氏。MDS大学ヨガ学部で4年間指導経験を持つプロフェッショナル。
スタイル:インドの伝統的なヨガをベースとしつつ、理学的な視点を取り入れた指導。
特徴:呼吸、ポーズ、瞑想の三位一体(トリガーナ)を重視。
詳細なクラスやワークショップのスケジュールは、ヨガの総合メディア「ヨガジェネレーション」の講師プロフィールページ等で確認できます。
Manoj Thankur
ヨガの理学修士号を持ち、ヨガ指導歴は約20年。 インドのMDS University(マハーシ・ダヤーナンド・サラスワティ大学)で4年間、ヨガ学部で指導し、多くの修了証を授与。 インドのバンガロールにある、世界的にも有名なVivekananda Yoga Universityのレクチャー兼インストラクターとし、国際ヨガカンファレンスを多く開催してきた。
現在は、シンガポールにて、Vyasa Yoga & Ayurveda Singaporeのセンター長。
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タクールさんとは、ラーマクリシュナのことなのか
(1836–1886)は、19世紀インドの聖者・神秘主義者で、本名はガダーダル・チャットーパーディヤーエ。カーリー女神への深甚な信仰に基づき、全宗教の一致(すべての宗教は同じ神への道である)を説いた。
彼の教えは弟子スワミ・ヴィヴェーカーナンダにより「ラーマクリシュナ・ミッション」として組織化された。
タクール(先生)の由来:ベンガルの貧しいバラモンの家に生まれ、ダクシネーシュワルのカーリー寺院で神官を務めながら、神秘体験を重ねた。
宗教的一致:ヒンドゥー教だけでなく、イスラム教やキリスト教の修行も行い、すべての道が同じ神へと到達することを確認した。
カーリー女神信仰:慈悲深い母神としてのカーリーへの愛と献身(バクティ)を核としていた。
教え:「神は多くの顔を持ち、様々な道で神に到達できる」という「万教帰一」を説いた。
後世への影響:弟子のヴィヴェーカーナンダは、師の思想を西洋に伝え、ラーマクリシュナ・ミッションを創設した。
この人物は、現代インドにおけるヒンドゥー教復興の中心的指導者として、世界中で広く尊敬されている。
その道の専門家にとっては
「タクール」といえば、ラーマクリシュナなんだな
「名誉会長」=池田大作
みたいなものか😂
例えが悪いな😂
みたいなものか
ラーマクリシュナ並みの霊的なのはあるだろな
おはー😀
😀
俺も、わからないことはわからないな
😀
😀
三蔵のうちの
論蔵だけだ
😀
増えつつある
休日は仁和寺集中だ
😀
😀
新システム有能だ
疲労回復力5倍はある
😀
高速回転だな?
😀
😀
😀
🟧🟧🟧
サーンキヤ哲学
この宇宙は、五大要素
空(ヴィヨーマ)風(マルット)火(テージャ)水(アプ)地(クシーティ) の
とても精妙な要素が空→風→火→水→地の順番に出て、それが後で合わさって、この宇宙は作られました。
最初はとても精妙な要素で、後で粗大な要素になりました。
その粗大な要素を混ぜてこの宇宙は作られたのです。
私たちが認識している宇宙は、粗大な要素でできた宇宙です。
🟧🟧🟧
聖者カピラが、ウパニシャドの考えをシステム的に合わせて哲学のシステムを作ったのがサーンキヤ哲学です。
現在の科学者の宇宙論の考えとサーンキヤ哲学をはじめとするヒンドゥ教の宇宙論は似ていますが少し違います。
科学者のベースは物質で、サーンキヤ哲学のベース、目的は悟りです。
サーンキヤ哲学の他のインド哲学に対する影響は大きく、例えば、ヨーガ哲学、ヴェーダーンタ哲学にある宇宙論はすべて、サーンキヤ哲学の宇宙論のことが書かれています。
🟧🟧🟧
非二元論であるヴェーダーンタ哲学の考えでは、存在はただ一つ、プルシャ(ブラフマン)だけです。
プラクリティはプルシャ(ブラフマン)から出てまたプルシャ(ブラフマン)に戻ります。ブラフマンに入るとき、宇宙はなくなります。
鳥は巣を作る時、外から色々ものをもってきて作りますが、蜘蛛は自分の中から巣を出します。
同様に、プルシャ(ブラフマン)は中からその宇宙を創る、とヴェーダーンタ哲学は言います。
🟧🟧🟧
サーンキヤ哲学
五つの要素はすべてプラクリティから出ます。
プルシャはいつも存在していますが、動かず、他のものと関わりがありません。
プルシャは常に執着がなく、自由で、純粋で、静かです。
プラクリティは反対に、いつも活発でいつも動いています。
プルシャだけに意識があります。プラクリティは物質です。
プルシャとプラクリティが近くに来ると、宇宙の創造が始まります。
名前、形、性質、五つの要素(空風火水地)など、すべてが始まります。
プルシャはプラクリティの近くに来ると自分の本性を忘れて、プラクリティと自分を同一視します。
無知の影響で、プラクリティの状態が自分の状態である、という考えが出るのです。
今はよく分かる
決死の不毛レスリバースさせているな?
😀
😀
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a1/Ramakrishna.jpg/500px-Ramakrishna.jpg
生没年:1836年~1886年
出身:インド・ベンガル地方
本名:ガダーダル・チャットパーディヤーイ
職業:僧侶(カーリー女神の神殿の祭司)
① 宗教はすべて同じ真理に至る
ラーマクリシュナは、ヒンドゥー教だけでなく、イスラム教やキリスト教も実際に修行し、「どれも同じ神に到達する」と体験的に語りました。
👉 単なる理論ではなく、「実験して確かめた」という点が特徴です。
神は「母なる神(カーリー)」としても現れる
同時に、形のない絶対(ブラフマン)でもある
この両立を自然に受け入れているのが特徴です。
俺は神秘思想家でもないし
全宗教を、同じと統合する意欲はないなー
リアルには知りたいけどなー
😀
彼は頻繁に深い瞑想状態(サマーディ)に入り、外界の意識を失うほどの神体験をしていました。
👉 周囲からは「半ば狂人」のようにも見られたが、後に大思想家として評価されます。
最も有名な弟子は
👉 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
彼が西洋に思想を広めたことで、ラーマクリシュナの影響は世界規模になりました。
あなたがこれまで話していた文脈と重ねると、こう整理できます:
中観派:すべてを否定して空へ
華厳:すべてを関係性として肯定
ヨーガ:観察者(プルシャ)へ分離
👉 ラーマクリシュナはむしろ
「全部OK。どの道でも神に至る」
という立場です。
かなりラディカルです。
哲学的整合性より「体験の豊かさ」を優先しています。
彼の有名な比喩:
水は、ヒンドゥーは「ジャル」、イスラム教徒は「パーニー」、英語では「ウォーター」と呼ぶ。
しかし中身は同じである。
正直に言うと、この思想には強みと弱みがあります。
強み
宗教対立を超える力がある
実体験ベースで説得力がある
弱み
教義の違いを軽視しすぎる傾向
「全部同じ」と言い切る粗さ
互換性はあるのは確かだが
とりま、今週、新システム開発できた
少しだけ集中力が上がった
😀
あなたのこれまでの問い(空・プルシャ・観察者)に照らすと:
ラーマクリシュナは
👉 「観察者に行く必要すらない。愛でも知でも、どこからでも神に行ける」
という立場です。
もし深掘りするなら、かなり面白いテーマがあります:
ラーマクリシュナ vs 中観(「空」とどう違うか)
ラーマクリシュナ vs ヨーガ(プルシャ不要論になるか)
「体験主義」はどこまで信用できるか
どこを掘る?
😀
確かに
個人的に、全宗教を同じとするのには賛成できない
違いを感じる
仏教の、あの構築されたシステムを
使いこなすのは
即というわけにはいかんな
😀
「他の宗派の知識をつけるな。悟りが遠くなるぞ」
とかなんとか
ケチくさいことを言ってるのが虚しくなるんじゃないか😂
ヨガ系統の特徴である
意識が飛ぶのを理想なんだろうな?
デンパパ📡も、そういうのが好きだからなー
😀
ムイムイと
仏のスレ主のノリだな
😀
ラーマクリシュナは、意識が飛ぶのが好きそうだ
意識か飛ぶ究極ゴール
仏教はエラーの無い空間認識を構築する
AIより先に解答出せる
😀
😀
認識エラーばかりの日々を過ごしているののは確かだ
😀
ムイムイハッスル!
😀
> 彼は頻繁に深い瞑想状態(サマーディ)に入り、外界の意識を失うほどの神体験をしていました。
日常生活がマヒしそうだな
デンパパ📡は
デンパパ📡なのだろう
😀
そこが
如実知見を究極におく仏教と
神の遊戯からの離脱
やプルシャなどに究極におく
仏教の違いだろう
AIよりも俺は冴えている
😀
意識飛びそうなので
決死に抵抗した
😀
それ以降カトリックミサには出ていない
無人のカトリック御堂はよく行くけどな
😀
たまに、行きはじめの頃
意識飛びそうになった
😀
図書館でラーマクリシュナの本と出会った
ほぼ、その時期
😀
最近、ご機嫌である今日働けば休日になるからだ
😀
インドだと余興のひとつになっていて、祭りの時に信仰歌唄って踊って極まって不動になる、芸としてやる人が結構いるという、ラマクリシュナさんの時代からいたようだから
😀
判断力という智慧がテーマだろうからなー
他の宗教、そういう要素が減る
ま、山伏&念仏、神仏習合コースになると
判断力は重要にはあまりならないだろうけど、
😀
😀
意味:「神の言葉のネクタル(甘露)」や「聖なる対話」を意味し、弟子マヘンドラナート・グプタ(M.)によってベンガル語で記録された。
内容:ラーマクリシュナが弟子や参拝者と交わした日常的な対話の中で、神の存在やスピリチュアルな真理を、誰にでもわかるたとえ話で説いたもの。
重要性:ベーダーンタ哲学の真髄を日常レベルで学ぶための最高峰の書籍の一つとして、世界中で親しまれている。
日本ヴェーダーンタ協会などのウェブサイトでも、この教えに関する解説や特集が掲載されています。
イエス・キリスト路線を感じるな?
😀
😀
この歌は、Sri Ramakrishnaの前でしばしば歌われ、神を悟った魂(アヴァドゥータ)が味わう霊的な酩酊や至福を表現するためのものでした。
https://youtu.be/gkGHQs2ajds?si=WIIv1VaoSZSNRg9d
ただし一般に歌われている代表的な形は以下の通りです👇(一部抜粋・代表形)
「Pee Le Re Avadhut」歌詞(ヒンディー)
意味(ざっくり)
「アヴァドゥートよ、神の愛の杯を飲みなさい」
「この世界はマーヤ(幻想)だから、神の名という宝を受け取りなさい」
「神の名(ラーマなど)に酔いなさい」
つまり、神への愛に“酔う”こと=解脱への道という、バクティ(信愛)思想を表しています。
この3つは似たような言語だが
仏教含め、どの宗教にも
そういう酔うという霊的な表現はあるなー
瞑想系統仏教は、如実知見が入るので
自己心理洞察込みになる、
ハッスルやムイムイは
自己心理洞察がないので
あんな風に哀れになる
😀
😀
甘露のような教え: 読む者を永遠の真理へ導く、甘露(アムリタ)に例えられる聖なる教え。
日常的で実践的: 抽象的な哲学ではなく、日常生活の中で神を悟るための具体的なヒントや、実践方法が対話形式で記されている。
真我への理解: 真我、世界、神への深い理解を促し、読むたびに新しい発見があると言われる。
日本ヴェーダーンタ協会などの活動で歌われ、その教えを歌に乗せて瞑想する際に用いられます。
カタムリタ・プラサンガ: 『カタムリタ』の内容を題材にした法話や歌を指す用語として使われています。
内容: 主に神への愛、献身、真理の追求をテーマにした、ラーマクリシュナ、ホーリーマザー、ヴィヴェーカーナンダへの信仰歌です。
入手・関連:日本ヴェーダーンタ協会などで、これらの歌を収録したCDや歌詞集が提供されています。
より具体的な歌のタイトルや、歌詞の検索をご希望の場合は、詳細を教えてください。
シュリー・ラーマクリシュナ生誕祝賀会(2013)
https://www.youtube.com/live/Z8wPlqQXRPk?si=D3xh-UTrPWIEZ5NJ
https://youtu.be/PbviCOeqxvo?si=JElDJp2-JXxGdpzn
カタムリタの中でも、タクールさん夜中に起きて暗闇で部屋をウロウロしながら小声で唄っている描写がよくある、書き記した者の感情も相まってとても惹かれる雰囲気が感じられる
ちょっと暗め?
https://youtu.be/q7grVGz1X1g?si=RI-Iz0CRSDkaWvHf
とても女々しい詩だがこれも好きだな
「私」にとことんコダワる
それが、インド思想の特徴
逆説的に、無我の思想が現れた
インド人のいう「無我」は、日本人が考えるそれとは異なる
日本人は、日本社会の伝統である「滅私奉公」をイメージしやすい
彼らは、「滅私奉公」なんて文化ではない
世界一、自己主張が激しい😫
「私は誰?」の、ラマナ・マハルシ
20世紀の2大巨頭は、2人とも「私」にとことんコダワる
無我思想とは本来、それを突き詰めたものだ
「滅私奉公」では、私心は無になっているが
組織とか全体は確固たる存在だ
東アジア、とくに日本では好まれる考え方
「組織」とか「宇宙」とか「全体」とかは、それ以上に実体がなく、名前だけの仮の存在
外界への関心を断ち切り、
「私」に意識を集中することだ
博識ですね
読んだところ、ヴェーダーンタ哲学は主観があり、サーンキャ哲学は主観がない、他はアートマンとプルシャは同じと思いました
別の言葉でいいますと、サーンキャは事実を客観的に述べている、ヴェーダーンタは事実を見たあと、それへ感情移入し、起こった感情を混ぜて書いている
結果的に、個人主義者になる部分もあると思います
悪いけどすると気持ちよくなるからする、有利になるからする、しないと不利になるからする、そういったことをしたくないと思いません?
確信の部分だけどさとった人目線で、だからどうした?という感じ。悟ってない人(修行者)にとっては仏教の考えかたのほうがいい。ヴェーダーンタもサーンキャもいらない感じ(むしろないほうがいい)