【ヨーガ】 インドの瞑想宗教 【ヴェーダンタ】 Part2最終更新 2026/04/09 07:511.◆JBLfMwCXhYtWt0j哲学と宗教の本場インドの教えを学ぼう前スレ【ラマナ・マハルシ】インドの宗教哲人【ラーマクリシュナ】https://talk.jp/boards/psy/16894892092026/04/05 15:58:2859コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.◆JBLfMwCXhYtWt0j参考サイト日本ヴェーダーンタ協会https://www.vedantajp.com/?mobile=12026/04/05 16:01:183.◆JBLfMwCXhYtWt0jスワーミー・メーダサーナンダ師 プロフィール師は世界的に活動しているラーマクリシュナ・ミッションの僧である。このミッションは、宗教の調和を信条とし、インドに本部を置く宗教と慈善の団体です。師の生誕地はインドの西ベンガルであり、その後カルカッタ大学で法律と現代歴史を勉強し、1974年ラーマクリシュナ僧団に入団しました。1980年よ り、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を12年間務め、1993年からはミッションの日本支部の会長を務めています。現在は、インドで培われた霊性、そしてヨーガの道徳・心のあり方・宗教的な事柄について、日本の各地・島々で、時には海外にも出かけて、講演を行っています。今まで、師はたくさんの雑誌に文章を書いてきました。特に、インドの歴史、宗教、文化の中心地として有名なバラナシ(ベナレス)を詳しく調べた師の本は、世界的に評価されています。また、ディヤーナムという瞑想ガイドのCDは、世界で販売されています。霊性修行やヒンドゥ教の経典の解説、その他のご相談でスワーミー(インドの僧侶)に会いたいと思われる方は、お電話で常駐のインドのラーマクリシュナ僧団のスワーミー・メダサーナンダ師に日時を打ち合わせください。日本ヴェーダーンタ協会 046-873-04282026/04/05 16:04:414.◆JBLfMwCXhYtWt0j質問:ヨガ哲学の二元論と、ヴェーダーンタ哲学の非二元は矛盾しないのか?ChatGPT:鋭いところですね。ここはインド哲学の“いちばん議論されてきたポイント”です。結論から言うと:👉厳密には矛盾する(理論としては両立しない)👉 でも実践レベルでは補完的に使われることが多いこの「二層構造」で理解するとスッキリします。2026/04/05 16:06:285.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ まずは立場の違いを整理● ヨガ(サーンキヤ系の二元論)代表:ヨーガ・スートラプルシャ(純粋意識)とプラクリティ(物質・心)は別物苦しみは「混同」から起こる解脱=両者を切り離して区別すること👉 世界は「本当に二つある」● ヴェーダーンタ(特に不二一元論)代表:ウパニシャッド体系化:シャンカラアートマン=ブラフマン(すべては一つ)世界の分離は無知による見かけ解脱=最初から一つだったと悟ること👉 世界は「本当は一つ」2026/04/05 16:07:496.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ じゃあ矛盾してる?はい、哲学としては真正面から矛盾します。ヨガ:精神と物質の二つは「実在として別」ヴェーダーンタ:二つに見えるのは「錯覚」これは妥協できないレベルの違いです。■ それでも両方使われる理由👉レベル(段階)の違いとして扱う① 初期段階(ヨガ的)「私は心や身体とは違う」と切り分ける観察者としての自分を確立する👉二元論が役に立つ② 最終段階(ヴェーダーンタ)観察者と対象の区別すら超えるすべてが一つだと見抜く👉非二元に移行する2026/04/05 16:10:057.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ ヴェーダーンタ側からの見方非二元の立場からはこう言います:二元論は「途中の教え(方便)」最終的には捨てるべきものつまり👉ヨガは“準備段階として正しい”が、究極ではない■ ヨガ側からの反論逆にヨガ(サーンキヤ)側は:世界は実在する非二元は理論的に無理がある👉ヴェーダーンタを批判する立場もある2026/04/05 16:11:268.◆JBLfMwCXhYtWt0j■ まとめ(核心)理論的には矛盾する(二元 vs 非二元)でも実践ではこう使われる:👉分けて理解し(ヨガ)→ 最後に一つと悟る(ヴェーダーンタ)2026/04/05 16:12:199.◆JBLfMwCXhYtWt0j質問:アートマン(ヴェーダーンタ哲学)と、プルシャ(ヨガ哲学)は、どちらも「真我」と訳されるが、どう違うのか?ChatGPT:アートマンとプルシャは、どちらもインド哲学における「真我(本当の自分、不変の魂)」を指す言葉であり、本質的な意味はほぼ同じです。違いは学派にあり、アートマンは『ヴェーダ』のウパニシャド哲学で使われる「内なる自己」、プルシャは『サーンキャ・ヨガ』で使われる「純粋な観察者」を指します。共通点(真我): 両者ともに、肉体や心、思考とは異なり、死ぬことも変化することもない純粋な存在を指します。アートマン(真我): 個人の身体や心の中にある神聖な実体。宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と本質的に同一であるとされる(梵我一如)。プルシャ(純粋意識): サーンキャ哲学において、自然や物質(プラクリティ)と対比される、純粋な観察者。感情や思考といった「観られるもの」とは別に存在する、観るだけの意識。基本的には「真我」という同じ本質を、異なる切り口(哲学アプローチ)で表現している言葉と言えます。2026/04/05 16:16:1010.◆JBLfMwCXhYtWt0j違い(ここが重要)プルシャ(サーンキヤ)→ 個々に多数存在する意識主体(人ごとに別のプルシャがある)アートマン(ヴェーダーンタ)→ 最終的には宇宙原理(ブラフマン)と同一(=すべては一つの自己という非二元論に向かう)まとめ「プルシャ=真我」と訳されることもあるが、✔ 厳密には哲学体系によってニュアンスが違うザックリ言えば👉どちらも“本当の自己(純粋意識)”を指すが、存在の捉え方が異なるもし仏教の「無我」との違いも気になるなら、そこもかなり面白い対比ができます。2026/04/05 16:18:1111.◆JBLfMwCXhYtWt0jヨガ思想の世界観神の遊戯(リーラ)「神の遊戯(リーラ)」は、この世界を神(絶対的な存在)が楽しむための壮大な遊び、あるいは戯れとして捉えるヨガやヒンドゥー教の思想です。苦悩や多様な現象も、神が演じる劇の一場面であり、本質的には一つであるという視点から、執着を手放し、今この瞬間を神聖なものとして生きることを説きます。2026/04/05 16:19:2612.◆JBLfMwCXhYtWt0j神の遊戯(リーラ)の核心世界の捉え方:世界は神が自己表現し、楽しむための「舞台」であり、すべての出来事は神の戯れ(リーラ)とされる。苦楽の超越:良いことも悪いことも、物語の一部として客観的に観察し、固定的な執着や苦悩から解放(解脱)を目指す。ヨガの目的:この世を神の遊びとして見通す視点(智慧)を持ち、心(チッタ)を静めて自己の神聖さを認識すること。ヨガの哲学では、この世界に没入しすぎず、観察者(証人)としての視点を持つことで、神の遊びを共に楽しむかのような軽やかな生き方を推奨しています。2026/04/05 16:20:5513.神も仏も名無しさんzabVyやる気出してきたな?ー俺は、かなりの神的存在論を楽しめた😀2026/04/05 16:22:0314.◆JBLfMwCXhYtWt0jヴェーダーンタ哲学の世界観不ニ一元論「梵我一如」はウパニシャッド哲学の根幹で、宇宙の原理「梵(ブラフマン)」と個人の本質「我(アートマン)」は同一であるという思想で、解脱を目指します。「不二一元論」はそれをさらに強調し、「真理はただ一つ、二つとない」と説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタの核心概念で、唯一の実在(ブラフマン)以外に真の現実はなく、個(アートマン)も現象世界もブラフマンの現れとする、より徹底した非二元論です。梵我一如が「(梵と我は)同じである」という関係性を示すのに対し、不二一元論は「(二つとない唯一の真理が)ブラフマンそのものである」という絶対的な同一性・非二元性を主張します。2026/04/05 16:24:0815.◆JBLfMwCXhYtWt0j梵我一如(ぼんがいちにょ) 仏教以前の古代思想意味: 宇宙の根本原理である「梵(ブラフマン)」と、個人の本質である「我(アートマン)」は、本質的に同じものであるという思想。出典: ウパニシャッド哲学(ヴェーダーンタ哲学の源流)の中心的な教え。目的: この同一性を自覚することで、輪廻転生からの解脱(モークシャ)を目指す。核心: 「Tat Tvam Asi(タット・トゥワム・アシ)」(汝はそなり)という言葉に集約される。2026/04/05 16:25:4316.◆JBLfMwCXhYtWt0j不二一元論(ふにげんろん) 仏教以後の思想意味: 「二つではない、ただ一つの真理」という意味で、ブラフマン(絶対者)のみが真実であり、それ以外のすべて(個、現象)は幻想(マーヤー)であるとする徹底した一元論。提唱者: ヴェーダーンタ学派の哲学者シャンカラが体系化。関係性: 梵我一如の思想をさらに推し進め、「真理は二つとない」と断言することで、梵我一如の「同一性」をより絶対的な「唯一性」として強調。核心: 「二元的な区別は超えられ、すべてはブラフマンという唯一の実在に帰一する」という非二元性(アドヴァイタ)の思想。2026/04/05 16:26:1417.◆JBLfMwCXhYtWt0j>>13これからは、コレだ~😆2026/04/05 16:26:5118.神も仏も名無しさんzabVyまー俺もヨガの解釈はシヴァナンダヨガ解釈で無理矢理ラーマクリシュナの理論を乗っけている感じだからなーシヴァナンダヨガ瞑想を体験したのでそれをベースにちゃんぽんしてると思う😀2026/04/05 17:09:0219.◆JBLfMwCXhYtWt0jシヴァナンダは2、3日前まで知らんかった😅2026/04/05 17:19:3120.神も仏も名無しさんzabVyヨガに関しては素直に仏教レベルに天才ではないのは認める😀2026/04/05 18:15:2121.神も仏も名無しさんzabVyデンパパはわかりもせん仏教スレでトンチンカンレスが好きなのは理解できんな?😫2026/04/05 20:47:5722.◆JBLfMwCXhY9FVke質問:プルシャは、ゲームのプレイヤーみたいなものか?2026/04/07 05:48:0623.◆JBLfMwCXhY9FVkeA.I.:ヨガ哲学やサーンキヤ哲学におけるプルシャは、ゲームのプレイヤー(主体)とアバター(身体・精神)の関係に非常に似た概念です。プルシャは「真の自己(純粋意識)」であり、肉体や感情(プラクリティ=ゲーム内のキャラクター)を客観的に観察する「観る者」とされています。2026/04/07 05:48:2624.◆JBLfMwCXhY9FVke具体的には、以下の点がプレイヤーに例えられます。「観る者」の役割: プルシャは苦しみや喜びを体験せず、ただ観察する純粋な意識(プレイヤー)。「物質」との分離: 肉体、心、知性(プラクリティ)はプレイヤーに操作されるゲーム上のアバター(物質的なもの)として区別されます。主体性: 悩みや苦しみの原因は、プルシャがアバター(物質)と自分を混同することにあると解釈されます。2026/04/07 05:48:4325.◆JBLfMwCXhY9FVkeつまり、プレイヤー(プルシャ)がアバター(物質・身体)の動きに一喜一憂せず、その状況を冷静に観察する存在であることを理解することが、ヨガ的な視点では「真我」に近づくこととされています。2026/04/07 05:49:0226.◆JBLfMwCXhY9FVke仏教は無我思想だ2026/04/07 05:54:5027.◆JBLfMwCXhY9FVkeつまり、ゲーム内のキャラ(この世の自分)を操作している、本当の自分(真我)がいない2026/04/07 05:55:0828.◆JBLfMwCXhY9FVkeそれに対して、ヨガ思想では「プルシャ」という名のプレイヤーが確実に存在する2026/04/07 05:55:2629.◆JBLfMwCXhY9FVkeヨガ思想では、この世は「神の遊戯(リーラ)」でありゲーム内の仮想世界であることが明確化されている2026/04/07 05:56:3330.◆JBLfMwCXhY9FVkeX(旧ツイッター)AKI 50歳からがんばらない生き方【ヨガ哲学】この世は神々が暇つぶしのために創造した『宇宙の遊戯場(リーラ)』ですって🤭でも、何でも思い通りで自由な神の世界はつまらないので色んな経験ができるこの世界を創ったの。体や心と共に物質的欲求も満たそうとするエゴも肥大化してしまうこの世界。この世は幻想(マーヤー)💫2026/04/07 06:48:1031.神も仏も名無しさんaqyUzオールジャンルの無敵の仏教瞑想運用者になったので、だいたい見通せる六眼の完成だ😀2026/04/07 06:51:4432.神も仏も名無しさんaqyUz日常生活の歯を磨くとかの心身の運用感覚は仕上がっている仏教瞑想ではムイムイは俺に襲撃される宿命であった😀2026/04/07 06:54:2933.神も仏も名無しさんaqyUz>>25その感覚を瞑想的に脳内構築しているがまたま、日常生活して、運用できるレベルではない😀つまり、プレイヤー(プルシャ)がアバター(物質・身体)の動きに一喜一憂せず、その状況を冷静に観察する存在であることを理解することが、ヨガ的な視点では「真我」に近づくこととされています。2026/04/07 06:57:1034.神も仏も名無しさんQk6MZ佐保田氏の本では止滅という発想はかなりオモシロかったあと自在神😀むろん、ヨーガスートラ俺はヨガはちゃんぽんするなと先に宣言だ😀2026/04/07 10:30:4835.神も仏も名無しさんQk6MZま、我流チベット密教も最初は真言密教とのチャンネルでやってたからなー😀2026/04/07 10:32:4636.神も仏も名無しさんQk6MZジャンカラのかへにははまれあているなもしれんがとにかくヨガ日生活実用化を目指す😀2026/04/07 10:33:4737.神も仏も名無しさんQk6MZジャンカラの壁だ😀2026/04/07 10:34:1438.◆JBLfMwCXhYbXLKy華厳の壁に、シャンカラの壁か😆2026/04/07 19:13:2539.神も仏も名無しさん18Jn7まーとにかく俺はヨガの専門ではないのでテキトーにツギハギするしかない😀😀2026/04/07 19:23:4540.◆JBLfMwCXhYbXLKyヨガに関しては栖ウンコ士の仏教くらいのレベルだな😆2026/04/07 19:31:5941.神も仏も名無しさんfJ1l8ま、まだまだヨガは修行不足だな😀もう、俺の脳内は仁和寺への執念マシーンだいくぞ〜😀2026/04/07 20:53:1742.神も仏も名無しさんfJ1l8仁和寺の堂内撮影とか、かなりお布施した人のチャンネルのようだ普通は、こんなには撮らせてもらえんやろなー仁和寺は撮影禁止が厳しいからな〜😀2026/04/07 20:54:4543.神も仏も名無しさんfJ1l8https://m.youtube.com/@%E4%BB%8F%E6%95%99youtube%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B/videos2026/04/07 20:55:2044.◆JBLfMwCXhYxsBw5仁和寺は仏教界でも奥の院みたいなものだな😆2026/04/08 06:25:4745.神も仏も名無しさんl5y8S謎の多い寺院だ仁和寺門主の祀るお堂が高野山奥の院の御廟向かって右に石のピラミッドみたなのがある場所にあったらしい、神仏習合、両部神道の😀2026/04/08 07:34:5646.神も仏も名無しさんl5y8S江戸時代の紀州図会で高野山大学で確認してる😀2026/04/08 07:35:4847.◆JBLfMwCXhY7msat前スレ完走⤴️2026/04/08 12:24:1648.◆JBLfMwCXhYbwOXw今度、関西に行くときは春日大社と仁和寺は外せないな😆2026/04/09 06:30:4249.◆JBLfMwCXhYbwOXwプラクリティ(Prakṛti)は、インド哲学(サーンキヤ学派)において物質世界や身体の根源となる「物質的原理」を指し、自然・本質を意味する言葉です。純粋精神(プルシャ)に対比され、3つの性質(トリグナ)を持つ活動的な要素とされます。アーユルヴェーダでは、出生時に決まる「一人ひとりの固有の体質(生まれ持った個性)」を指します。2026/04/09 06:31:2050.◆JBLfMwCXhYbwOXw主な特徴と概要根本原質:物質現象の源であり、これ自体が形を持って変化し、宇宙のすべての物質を形作る。3つの性質(トリグナ):純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)、翳質(タマス)という性質の均衡状態で構成される。アーユルヴェーダにおける定義:生まれ持った心身のバランス、または本来の体質のこと。このバランスは生涯変わらないとされる。ヨガにおける位置づけ:「観られるもの」であり、真我である「観るもの(プルシャ)」が経験するための対象。2026/04/09 06:31:3851.◆JBLfMwCXhYbwOXw関連する用語と概念プルシャ (Purusha):真我、純粋精神。プラクリティが「観られるもの」であるのに対し、プルシャは「観るもの」。ヴィクリティ (Vikriti):現在の不調な状態(乱れ)。プラクリティ(本来の体質)からどれだけ離れているかを示す。ドーシャ (Dosha):プラクリティを決定する要素(ヴァータ、ピッタ、カパ)。サーンキヤ学派:プラクリティとプルシャの二元論を説いたインド哲学の学派。2026/04/09 06:31:5852.◆JBLfMwCXhYbwOXwプラクリティの例「ヴァータ・ピッタ」タイプ:風と火の性質を多く持って生まれた、行動的で繊細な人。「カパ」タイプ:地と水の性質を多く持った、穏やかで頑丈な人。2026/04/09 06:32:2353.◆JBLfMwCXhYbwOXwプラクリティ(本来の体質)を理解することは、アーユルヴェーダにおいて健康を維持し、自分らしく生きるために重要とされています。2026/04/09 06:32:3754.◆JBLfMwCXhYbwOXwなるほど2026/04/09 06:32:4955.◆JBLfMwCXhYbwOXwヨガ思想では物質は実体を持った本質存在と考えているんだな2026/04/09 06:33:3456.◆JBLfMwCXhYbwOXw考えてみれば、そりゃそうだなんたって、「物質と精神の二元論」だからな2026/04/09 06:34:0357.神も仏も名無しさんXLMobシヴァナンダヨガのプラーナと真言密教の六大の禅定感覚は似ているが空間解釈が別物になっているこのあたりは、教学の構築の差がある、むろん、俺は仏教サイドなので仏教サイドからの、とりま俺流ツギハギフランケンヨガへの印象だが😀2026/04/09 07:06:5958.◆JBLfMwCXhYzBfR8似てるかもしれんな2026/04/09 07:51:3659.◆JBLfMwCXhYzBfR8シヴァナンダヨガを知らなすぎてコメントできない😅2026/04/09 07:51:55
インドの教えを学ぼう
前スレ
【ラマナ・マハルシ】インドの宗教哲人【ラーマクリシュナ】
https://talk.jp/boards/psy/1689489209
日本ヴェーダーンタ協会
https://www.vedantajp.com/?mobile=1
師は世界的に活動しているラーマクリシュナ・ミッションの僧である。このミッションは、宗教の調和を信条とし、インドに本部を置く宗教と慈善の団体です。
師の生誕地はインドの西ベンガルであり、その後カルカッタ大学で法律と現代歴史を勉強し、1974年ラーマクリシュナ僧団に入団しました。1980年よ り、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を12年間務め、1993年からはミッションの日本支部の会長を務めています。
現在は、インドで培われた霊性、そしてヨーガの道徳・心のあり方・宗教的な事柄について、日本の各地・島々で、時には海外にも出かけて、講演を行っています。
今まで、師はたくさんの雑誌に文章を書いてきました。特に、インドの歴史、宗教、文化の中心地として有名なバラナシ(ベナレス)を詳しく調べた師の本は、世界的に評価されています。また、ディヤーナムという瞑想ガイドのCDは、世界で販売されています。
霊性修行やヒンドゥ教の経典の解説、その他のご相談でスワーミー(インドの僧侶)に会いたいと思われる方は、お電話で常駐のインドのラーマクリシュナ僧団のスワーミー・メダサーナンダ師に日時を打ち合わせください。
日本ヴェーダーンタ協会 046-873-0428
ChatGPT:鋭いところですね。ここはインド哲学の“いちばん議論されてきたポイント”です。
結論から言うと:
👉厳密には矛盾する(理論としては両立しない)
👉 でも実践レベルでは補完的に使われることが多い
この「二層構造」で理解するとスッキリします。
● ヨガ(サーンキヤ系の二元論)
代表:ヨーガ・スートラ
プルシャ(純粋意識)とプラクリティ(物質・心)は別物
苦しみは「混同」から起こる
解脱=両者を切り離して区別すること
👉 世界は「本当に二つある」
● ヴェーダーンタ(特に不二一元論)
代表:ウパニシャッド
体系化:シャンカラ
アートマン=ブラフマン(すべては一つ)
世界の分離は無知による見かけ
解脱=最初から一つだったと悟ること
👉 世界は「本当は一つ」
はい、哲学としては真正面から矛盾します。
ヨガ:精神と物質の二つは「実在として別」
ヴェーダーンタ:二つに見えるのは「錯覚」
これは妥協できないレベルの違いです。
■ それでも両方使われる理由
👉レベル(段階)の違いとして扱う
① 初期段階(ヨガ的)
「私は心や身体とは違う」と切り分ける
観察者としての自分を確立する
👉二元論が役に立つ
② 最終段階(ヴェーダーンタ)
観察者と対象の区別すら超える
すべてが一つだと見抜く
👉非二元に移行する
非二元の立場からはこう言います:
二元論は「途中の教え(方便)」
最終的には捨てるべきもの
つまり
👉ヨガは“準備段階として正しい”が、究極ではない
■ ヨガ側からの反論
逆にヨガ(サーンキヤ)側は:
世界は実在する
非二元は理論的に無理がある
👉ヴェーダーンタを批判する立場もある
理論的には矛盾する(二元 vs 非二元)
でも実践ではこう使われる:
👉分けて理解し(ヨガ)→ 最後に一つと悟る(ヴェーダーンタ)
ChatGPT:アートマンとプルシャは、どちらもインド哲学における「真我(本当の自分、不変の魂)」を指す言葉であり、本質的な意味はほぼ同じです。
違いは学派にあり、アートマンは『ヴェーダ』のウパニシャド哲学で使われる「内なる自己」、プルシャは『サーンキャ・ヨガ』で使われる「純粋な観察者」を指します。
共通点(真我): 両者ともに、肉体や心、思考とは異なり、死ぬことも変化することもない純粋な存在を指します。
アートマン(真我): 個人の身体や心の中にある神聖な実体。宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と本質的に同一であるとされる(梵我一如)。
プルシャ(純粋意識): サーンキャ哲学において、自然や物質(プラクリティ)と対比される、純粋な観察者。感情や思考といった「観られるもの」とは別に存在する、観るだけの意識。
基本的には「真我」という同じ本質を、異なる切り口(哲学アプローチ)で表現している言葉と言えます。
プルシャ(サーンキヤ)
→ 個々に多数存在する意識主体(人ごとに別のプルシャがある)
アートマン(ヴェーダーンタ)
→ 最終的には宇宙原理(ブラフマン)と同一
(=すべては一つの自己という非二元論に向かう)
まとめ
「プルシャ=真我」と訳されることもあるが、
✔ 厳密には哲学体系によってニュアンスが違う
ザックリ言えば
👉どちらも“本当の自己(純粋意識)”を指すが、存在の捉え方が異なる
もし仏教の「無我」との違いも気になるなら、そこもかなり面白い対比ができます。
神の遊戯(リーラ)
「神の遊戯(リーラ)」は、この世界を神(絶対的な存在)が楽しむための壮大な遊び、あるいは戯れとして捉えるヨガやヒンドゥー教の思想です。苦悩や多様な現象も、神が演じる劇の一場面であり、本質的には一つであるという視点から、執着を手放し、今この瞬間を神聖なものとして生きることを説きます。
世界の捉え方:世界は神が自己表現し、楽しむための「舞台」であり、すべての出来事は神の戯れ(リーラ)とされる。
苦楽の超越:良いことも悪いことも、物語の一部として客観的に観察し、固定的な執着や苦悩から解放(解脱)を目指す。
ヨガの目的:この世を神の遊びとして見通す視点(智慧)を持ち、心(チッタ)を静めて自己の神聖さを認識すること。
ヨガの哲学では、この世界に没入しすぎず、観察者(証人)としての視点を持つことで、神の遊びを共に楽しむかのような軽やかな生き方を推奨しています。
俺は、かなりの神的存在論を楽しめた
😀
不ニ一元論
「梵我一如」はウパニシャッド哲学の根幹で、宇宙の原理「梵(ブラフマン)」と個人の本質「我(アートマン)」は同一であるという思想で、解脱を目指します。
「不二一元論」はそれをさらに強調し、「真理はただ一つ、二つとない」と説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタの核心概念で、唯一の実在(ブラフマン)以外に真の現実はなく、個(アートマン)も現象世界もブラフマンの現れとする、より徹底した非二元論です。
梵我一如が「(梵と我は)同じである」という関係性を示すのに対し、不二一元論は「(二つとない唯一の真理が)ブラフマンそのものである」という絶対的な同一性・非二元性を主張します。
意味: 宇宙の根本原理である「梵(ブラフマン)」と、個人の本質である「我(アートマン)」は、本質的に同じものであるという思想。
出典: ウパニシャッド哲学(ヴェーダーンタ哲学の源流)の中心的な教え。
目的: この同一性を自覚することで、輪廻転生からの解脱(モークシャ)を目指す。
核心: 「Tat Tvam Asi(タット・トゥワム・アシ)」(汝はそなり)という言葉に集約される。
意味: 「二つではない、ただ一つの真理」という意味で、ブラフマン(絶対者)のみが真実であり、それ以外のすべて(個、現象)は幻想(マーヤー)であるとする徹底した一元論。
提唱者: ヴェーダーンタ学派の哲学者シャンカラが体系化。
関係性: 梵我一如の思想をさらに推し進め、「真理は二つとない」と断言することで、梵我一如の「同一性」をより絶対的な「唯一性」として強調。
核心: 「二元的な区別は超えられ、すべてはブラフマンという唯一の実在に帰一する」という非二元性(アドヴァイタ)の思想。
これからは、コレだ~😆
俺もヨガの解釈は
シヴァナンダヨガ解釈で
無理矢理ラーマクリシュナの理論を乗っけている感じだからなー
シヴァナンダヨガ瞑想を体験したので
それをベースにちゃんぽんしてると思う
😀
2、3日前まで知らんかった😅
素直に仏教レベルに天才ではないのは
認める
😀
わかりもせん
仏教スレで
トンチンカンレスが好きなのは理解できんな?
😫
ヨガ哲学やサーンキヤ哲学におけるプルシャは、ゲームのプレイヤー(主体)とアバター(身体・精神)の関係に非常に似た概念です。
プルシャは「真の自己(純粋意識)」であり、肉体や感情(プラクリティ=ゲーム内のキャラクター)を客観的に観察する「観る者」とされています。
「観る者」の役割: プルシャは苦しみや喜びを体験せず、ただ観察する純粋な意識(プレイヤー)。
「物質」との分離: 肉体、心、知性(プラクリティ)はプレイヤーに操作されるゲーム上のアバター(物質的なもの)として区別されます。
主体性: 悩みや苦しみの原因は、プルシャがアバター(物質)と自分を混同することにあると解釈されます。
「プルシャ」という名のプレイヤーが
確実に存在する
ゲーム内の仮想世界であることが明確化されている
【ヨガ哲学】
この世は神々が暇つぶしのために創造した『宇宙の遊戯場(リーラ)』
ですって🤭
でも、何でも思い通りで自由な神の世界はつまらないので色んな経験ができるこの世界を創ったの。
体や心と共に物質的欲求も満たそうとするエゴも肥大化してしまうこの世界。
この世は幻想(マーヤー)💫
六眼の完成だ
😀
心身の運用感覚は
仕上がっている仏教瞑想では
ムイムイは俺に襲撃される宿命であった
😀
その感覚を瞑想的に脳内構築しているが
またま、日常生活して、運用できるレベルではない
😀
つまり、プレイヤー(プルシャ)がアバター(物質・身体)の動きに一喜一憂せず、その状況を冷静に観察する存在であることを理解することが、ヨガ的な視点では「真我」に近づくこととされています。
止滅という発想は
かなりオモシロかった
あと自在神
😀
むろん、ヨーガスートラ
俺はヨガはちゃんぽんするなと
先に宣言だ
😀
真言密教とのチャンネルでやってたからなー
😀
とにかく
ヨガ日生活実用化を目指す
😀
俺はヨガの専門ではないので
テキトーにツギハギするしかない
😀
😀
栖ウンコ士の仏教くらいのレベルだな😆
😀
もう、俺の脳内は
仁和寺への執念マシーンだ
いくぞ〜
😀
お布施した人のチャンネルのようだ
普通は、こんなには撮らせてもらえんやろなー
仁和寺は撮影禁止が厳しいからな〜
😀
仁和寺門主の祀るお堂が
高野山奥の院の御廟向かって右に
石のピラミッドみたなのがある場所にあったらしい、神仏習合、両部神道の
😀
高野山大学で確認してる
😀
春日大社と仁和寺は外せないな😆
根本原質:物質現象の源であり、これ自体が形を持って変化し、宇宙のすべての物質を形作る。
3つの性質(トリグナ):純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)、翳質(タマス)という性質の均衡状態で構成される。
アーユルヴェーダにおける定義:生まれ持った心身のバランス、または本来の体質のこと。このバランスは生涯変わらないとされる。
ヨガにおける位置づけ:「観られるもの」であり、真我である「観るもの(プルシャ)」が経験するための対象。
プルシャ (Purusha):真我、純粋精神。プラクリティが「観られるもの」であるのに対し、プルシャは「観るもの」。
ヴィクリティ (Vikriti):現在の不調な状態(乱れ)。プラクリティ(本来の体質)からどれだけ離れているかを示す。
ドーシャ (Dosha):プラクリティを決定する要素(ヴァータ、ピッタ、カパ)。
サーンキヤ学派:プラクリティとプルシャの二元論を説いたインド哲学の学派。
「ヴァータ・ピッタ」タイプ:風と火の性質を多く持って生まれた、行動的で繊細な人。
「カパ」タイプ:地と水の性質を多く持った、穏やかで頑丈な人。
物質は実体を持った本質存在と考えているんだな
なんたって、「物質と精神の二元論」だからな
真言密教の六大の
禅定感覚は似ているが
空間解釈が別物になっている
このあたりは、教学の構築の差がある、
むろん、俺は仏教サイドなので
仏教サイドからの、とりま俺流ツギハギフランケンヨガへの印象だが
😀
コメントできない😅