Nisargadatta Maharaj(bornMaruti Shivrampant Kambli; 17 April 1897– 8 September 1981) was an Indianguruofnondualism, belonging to theInchagiri Sampradaya, a lineage of teachers from theNavnath SampradayaandLingayatShaivism.
『ラーマクリシュナの福音』は、ベンガル語の原典『シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・カタームリタ』全5巻の内の3巻までを和訳したものです。カタームリタとは「甘露の言葉」「不滅の言葉」という意味です。残念ながら、今のところ日本語の完訳は存在しません。英語訳なら、原典の構成に忠実な全訳が2001年に発行され、インターネットで公開されています("Kathamrita", 2001, Sri Ma Trust)。
① 荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる ② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗 ③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事 ④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
インドの教えを学ぼう
本名ガダーダル・チャットーパーディヤーエ(Gadadhar Chattopadhyay, ベンガル語:গদাধর চট্টোপাধ্যায় Gôdadhor Chôţţopaddhae、1836年2月18日-1886年8月16日)はインドのヒンドゥー教の出家者、弟子のヴィヴェーカーナンダらが創始した宗教団体ラーマクリシュナ・ミッションの宗祖。
「シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサ」とも呼ばれるが、「シュリ」は「聖」に当たる称号で、パラマハンサは聖者に対する尊称。インドでは中間層のグル、女優・劇場の守護聖人として慕われている。
子供のような特異な人柄で、多くの人を魅了した。
解放に到達するための直っすぐな道として真我の探求(サンスクリット語:आत्म विचार、英語:Self-enquiry)を推奨した。
アートマンは「真我」をヴィチャーラは「探求」を意味する。英語ではアートマンを大文字で始まるSelfとして、自我を小文字のselfとして区別して表記される。
近年の日本語訳は、大文字のSelfを「真我(アートマン)」として「自我(self)」と厳密に区別している。
Nisargadatta Maharaj(bornMaruti Shivrampant Kambli; 17 April 1897– 8 September 1981) was an Indianguruofnondualism, belonging to theInchagiri Sampradaya, a lineage of teachers from theNavnath SampradayaandLingayatShaivism.
すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つと考え、人は組織、信条、教義、聖職者、儀式等によって真理に到達することはできず、ただ自己認識によってのみ真理を見出すことができると説いた。
あらゆる伝統を否定したが、彼が語る真理の発見と体験はインド思想に立脚していると考えられており、インド哲学・ヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ、仏教との共通点が指摘されている。インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得た。
😄
アキラーンが
お祭りしだしたら、
退避てきる〜
😄
神の声に従う聖なる人生。
😄
5ch〜
まなみん復活〜
シカーチンは
相変わらずキリスト教スレデ何様威張り
😫
神仏の声に従うから〜
ヒンズー教、スーフィズムを
見切った〜
😄
煽るだけ煽って、放置プレー
レスが止まると
何もなかったかのように
俺はレスする〜
キャッチ&リリース〜
😄
が
只今発生してます〜
ホワイトでおーです
いつもは
崩壊くんに
ブラックでおーです〜
😭
😄
😄
ブラックでおーに〜
👹
ホワイトでおー、
忙しい〜
😄
彼はしばらくの間、沈黙した。「偉大なスーフィーの師が、かつてこう言った。『神を現実とせよ。されば、神は君を真実とす』今晩、今、この意味を理解し始めるのだ。神と直接出会ってみたいとは思わないかね?」
拒絶された感じと恥ずかしさを同時に感じながら、私は神に対し、静かに感謝の言葉を捧げ始めた。まるで、言葉が解放されるのを待ちのぞんでいたかのようだった。祈りはそれ自身のリズムを取りはじめた。
そして、返答があった。感謝の中から喜びが生まれ、それは緊張や疑いを流し去っていった。その反応があまりにも速かったので、私は一瞬、疑いを抱き、目をあけてしまった。ハミッドが私の真ん前にすわっていた。再び目を閉じると、心の中に再び解放される喜びを感じた。
た、たいへんだっ!
JBLの知らない創価の
教学が判明っ!
崩壊くんは意外にも創価の
オリジナルの中論と五智論に
忠実であったよーだ〜
天台本覚思想の中論と五智論である〜
💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥😳
凄いビッグニュースだ
創価教学については
栄進スレにまとめてレスしている
分析してね〜
😄
307.
ユーザー
神も仏も名無しさん
崩壊くんが引用する〜
評論、
https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2022/01/16/000000
私個人は、最蓮房宛ての日蓮遺文とされるものは、真蹟不存もあり、真偽未決とされるべきと考えます。
しかしながら、もしも日蓮の御書全集に『十八円満抄』を載せるなら、関係が深いと考えられる『当体蓮華抄』も併せて収録すべきなのだと思います。
そう言った読者の便を考えない編集態度に私は違和感を覚えます。
創価学会や大石寺の信徒たちの多くは『当体蓮華抄』の存在さえ知らないでしょうが、もしかすると創価学会教学部の人たちでさえ、日蓮の遺文に関して基礎的な素養が欠落しているのかもしれませんね。
2023/07/16 20:23
オリジナルの中論と五智論かあるとは〜
😄
完璧に密教〜
😭
ま〜よーマジメに
創価オリジナルの中論と五智論を
お勉強しとること〜
崩壊くんが崩壊しとるのではなく、
創価の中論、五智論が
そもそも崩壊しとるらしい〜😭
個人的に、法華経は好きだが
創価の教学なんか知らん
これが、崩壊くんのブログ、
創価のオリジナルの中論と五智論を
よーマジメにお勉強しとるんやろな〜
😄
https://sinnyo.blog.jp/archives/19935177.html?ref=category00000_article_footer2_slider&id=8562785
このブログと同じ内容に遠からずの発想してたから、
見て、はは〜ん
と思ったわ〜
むろん、
崩壊くんを指摘して議論しない〜
😄😄😄😄😄
だとよ〜
😄
.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
こちら↓で池田先生が三諦論を解りやすく説明されておられます。
https://syozou.blog.jp/archives/19085878.html
水が水素と酸素に分解して水蒸気になったり、氷になったりといったモノの状態の変化を例えとして空・仮・中を説明されておりますが、モノの状態の変化は科学のお話です。
科学は客観性、即ち誰が見ても誰が行っても同じ結果が得られるといった世間における真理を説く学術です。
2023/07/13 09:
25.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
空の理解はこの此縁性(客観)と相依性(主観)の二空の理解があって、
此縁性(客観)=人空
相依性(主観)=法空
となります。
2023/07/13 15:24:47
普通は
自分の観念の固定から開放、
法空とは
社会の概念からの開放、
というのが
本来の仏教用語の解釈だろう。
だから、
我執、法執といい、
我空、法空が
本来の使用言語だろうな、
五智やし
だとよ〜
先程の崩壊くんのブログから、
日蓮聖人が顕された「十界曼荼羅」は、この二つの両界曼荼羅によって示された「従因至果」と「従果向因」を一枚に収めた究極の曼荼羅となります。
その曼荼羅を縁因仏性として修行の対境とし、法華経を了因仏性として読誦し、お題目を正因仏性として縁起を起こす(一仮一切仮・一空一切空・一中一切中)と凡夫の一身(九識)に諸仏の五眼が顕れます。
<仏意の五重玄>
妙=仏眼:第九識は法界体性智
法=法眼:第八識は大円鏡智
蓮=慧眼:第七識は平等性智
華=天眼:第六識は妙観察智
経=肉眼:前の五識は成所作智
続く
このような五智は引用してない、
ま、
天台本覚思想あたりの文献で
日蓮直筆かは
真偽不詳ていうヤツやろな〜
😄
念仏や題目に当てはめてるので
はは〜ん、とね〜😄
創価が御書として信奉しとる
現代語訳
「仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。すなわち、仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経にあたる。
また妙は不可思議を妙名づけるゆえに仏眼にあたる。真実にして空、冥寂であるがゆえに仏眼である。法は分別を法と名づけるゆえに法眼は仮であり、分別の形である。慧眼は空にあたる。果の体は蓮なのである。華は用であるゆえに天眼と名づける。神通化用のゆえである。経は迷いを破す義がある。迷いを所対とするゆえに肉眼と名づけるのである。仏智の内証に五眼を具する。これがすなわち五字であり、五字はまた五重玄と名づけるのである。
また五眼即五智である。法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼にあたるのである。
問うて言う。天台一家には五智を立てるのか。
答えて言う。すでに九識を立てるゆえに五智も立てるのである。九識のうち最初の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智にあたるのである」と。
天台本覚思想の流れる正宗創価系統の天台と
の〜
ヤツラは基本天台本覚思想が前提の
構造になっている
日本仏教研究者からは
明白に言われている。
と主張している。
これが
人間煩悩そのままに、
良いみたいな
天台本覚思想の流れがあるのだろう。
> 遍計所執性=仮観
>
> と主張している。
それは、おかしいな
商品名を「トクホン」にしたんだったな
シカーチン様と同じ
誤読創作芸人と確定
絶叫はしないが
ムイムイ的効いて無いポーズが大好き〜
😫
崩壊くんのようであるな
😫
ここにレスするわ〜
😄
ストレスで
しんでまう〜
😄
無間動揺しとるな〜
ナイーブやな〜
😄
😄
0321 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/04/12(水) 14:12:27.37
ハルモニのラピ婆もそうなのでしょうけど、「撤退する」と言いながら、この様に執拗なレスを何度も何度も何度もする背景に、口角を飛ばし、血走った目をロンパらせながら、「グワっババアバッ!!!」と奇声を発しながら発狂するその姿を想起せざるを得ないのです😟
ID:b2hftG
トラウマレスやろかろな〜
崩壊くん、やっと自スレに帰られた〜
俺は、こっちの全宗教スレで
不思議な芸を
すげーだろ〜スラスラと出てくるで〜
😄
😄
どういう場面かのキーワードはしっかりアタマにある
😄
寂しがりやな〜
また受け入れられん上から目線レスで
ドスンと自爆する
😫
シッカリパトロールを
0484 鹿野園 ◆dqam8SqGUPdm 2023/07/17(月) 10:18:41.38
talkの方は知障バトルで凄まじいな😂
唯識三年倶舎八年。
知障には唯識どころか倶舎さえも理解不能なのに、互いに支離滅裂の解釈していてテラカオスだわ😂
ID:FIdQWpo1(
とても、ご機嫌で
あらせられた〜
😫
昼間眠い、仕事日はゆっくり寝るが
休日夏は朝5時に始めると決めている、
昼間は熱いからだ〜
😫
融解モードも終わり、
凄かったなあ〜
あっちでレスすると
また虫が湧いてきそうだからな〜
とても、実にナイーブやった〜
ヘンテコな中論レスしなければ
ああまで
やられこまれなかったのに、
前夜、ヤツのスレで忠告してやった、
マジメに
しかし、ムイムイのようにシカーチンのように
ヘンテコな中論を
レスしないと
気がすまなかったのか、
特攻をしかけてきて、
あの
展開〜
😫
ヘンテコ中論を力説自慢さえ、
やらなければ
カワイイ、オモロイヤツである、
創価仏教分派離脱した
池田以前の創価仏教丸出し?ぽい熱いヤツのようだ、
😄
有神教の霊的な全貌が
明らかになってきたような気がする、
やはり、日本の山伏や念仏聖は
ヒンズー教のバクティ・ヨーガに近いのだ〜
😄
みたいな路線は
ヒンズー教のバクティ・ヨーガやスーフィズムの世界の霊的な生き方まで
イメージが湧いた
今週の休日はとても楽しかった
😄
ヤツラの霊的な生き方なんだ、
と〜
この内容は
ラーマクリシュナにピッタリなテーマである
😄
崩壊くんへの親切な忠告、
しかし、今日崩壊くんは
特攻をしかけた〜
😭
537.
ユーザー
神も仏も名無しさん
522あたりの五智や中論はスタンダードではない、
ま、それは崩壊くんの信仰の゙世界にしまっておかないと
通じない外国籍だ
1
2023/07/16 23:43:17
TTwbm
538.
ユーザー
神も仏も名無しさん
中論、唯識、五智なんて
創価正宗系統の日蓮御書は、
そんなに外部ではメジャーてはない、
日本語と中国語ぐらいの差がある、
1
2023/07/16 23:45:54
TTwbm
旧ボンベイ時代に生クリシュナムルティーの討論会を聞いたことがある。
亡くなった時もインドのプーナで知ったな、懐かしき思い出だー☺️
自由謳歌な時代だった。
👽👽👽👽👽
62はパーリーくんぽいな〜
😄
俺のこと?
居たよ。
あの、五井昌久先生に心酔してる人でしょ
👽👽👽
崩壊くん一人なら、
またしも、ぼったん、シカーチンが来ると、
もはや〜
まともな連中が消えそう
😄
やはりザコキャラが燃え上がるなあ〜
😄
😄
シカーチンや崩壊くんは
ともかくとしても、
ぼったんが来ると
長文連投やりだすぞ〜
あれは
あのスレは
ぼったんがらみでしばらくの間、
放置だ〜
😄
ヴィヴェーカーナンダの著書は読んだことありますか?
一応持っている、
こっちは
ヨガはシヴァナンダヨガと
キリスト教と
クルアーンの霊感があった程度、
意識を飛ぶのは嫌うので
関与は避ける
😄
愉快犯パーリーか〜
まったく〜
😓
クズやのお〜
👽
ヤクブツスキーか
シカーチンしかないな〜
👽
👽
レス意欲が低下したわ
👽
虚仮100万倍になるとな〜
👽
モラル無さ過ぎて
もはや
昔より関与する黃がない
周忌モラル意識がないのは
無敵やからな
👽
モラル無さ過ぎて
もはや
昔より関与する気がない
宗教モラル意識がないのは
無敵やからな
👽
やくぶつらんようすきーが中心に
ハイ鬱虚仮崩壊に
ぼったん
もはや
廃墟やん
👽
昔より
悪くなったんやろな
あの感じは
昔より
酷い
👽
なかなかのブラックホールやな〜
さらに強くなった、やくぶつらんようすきーを
巻き込むとはな〜
👽
やくぶつらんようすきーのメンタル廃墟感覚は
さすがに
引いたわ〜
👽
あるヤツにはレスする価値はあるが、
やくぶつらんようすきーみたいな
元から宗教モラル無いのは
無敵の部類やからな
👽
見て
元から建前としての宗教意識が保とうとする意識が無いのに
気味悪くなったわ〜
👽
でおが逝ったー
ああいうモラルゼロのバカでも
建前上モラルを保とうとカッコ付けるやつは
大好きだが〜
😄
気持ち悪さに
衝撃うけました
👽
ホントウに関われる無い
宗教モラルゼロの
お方になられたんやと〜
👽
糖質の薬物
気持ち悪い人間に
立派に
成長なされたな〜
👽
やくぶつらんようすきーに
なったんやろ
👽
もう飲んでるのか😓
ホントウに
気味悪い
👽
触らぬ神に祟りなし
👽
👽
初めてみたわ
👽
はいじん悪霊の相手やめとこ
👽
👽
俺の光明パワー当たると直ぐ萎れる🥀
元気出せデオデオ
できるだけ、避ける
👽
仏陀も近よっては行けない人間がいる、
と言っとるし〜
ほんと、 その意味を
今日学習できました〜
キモ〜
👽
ホンモノやったんやな〜
😄
👽
vol 10にほうすけ兄さん出たぞ‼️
☺️
退散するしかないね〜
👽
ハイジン無敵くんへの
悪寒が〜
👽
ハイジンの相手しません
👽
見参
おかんがー
って、マザコンでおちゃん
☺️
崩壊くんのハイ鬱が酷くなった
😫
さらに宗教モラル低下の
無敵の人になった〜
俺は、ヤツの無敵ハイジンパワーに
白旗である、
仏陀も言っている、
近づいてはいけない人間がいると、
宗教板掲示板ネットも
いることを
仏陀の金言であることを
昨夜確認した
😄
虚言平気のインドでやくぶつらんようすきーくんは、
初めて、俺は、関与を直感的に全面拒絶した人間だ
😄
臨済宗禅の
機を敏に見る
という価値体系における
判断は
基本守る主義だからな〜
😄
放棄、
インドでやくぶつらんようすきーを
生理的にマジてで
気持ち悪くて
直感的に
拒絶しているから、
この直感を
信じるタイプなので
😄
強化人間となったのだろうな
😄
金星人の交信できるらしい
😄
でおーさんが白旗とかって、焼きが回ったのかな?
あり得ない!
さらに
やくぶつらんようで
人間オカシイくなった
金星人信じるパーとなったリーくんに
は
関与拒否ですなあ〜
😭
JBLがラピチュを見るような目線になってきた
😭
宗教板らしさは残そうとするが、
ラピチュや
パーとなったリーくんは
もはや
😭
五井昌久先生の教えから
金星人は外せませんなあ
インドで
えるえすでぃーや
まじっくまっしゅるーむで
瞑想野境地が
自慢だそうだ〜、
前に関与したときは
まだ人間らしさは残っていだが、
今はもはや、
パーとなったリーと呼ばれるくらいには
パーリー訳仏典を読むが
崩壊くんが正宗教学に汚染誤読しているように、
パーリーくんの解釈は
五井やバグワン・シュリ・ラジニーシ路線からの誤読である
些末は
あっていても
解釈は
パーリーくんは
崩壊くん並みに崩壊しており、
崩壊くん並みに
教祖肌であれ
😫
空虚に教祖ハイテンション〜
エアライン状態〜
😭
だとよ〜
ウソつきヤロー過ぎて
ウンザリ〜
😭
344.
ユーザー
R2
ほうすけ兄さん
でおーさんに前世がバレたので当分あの世というロムに戻り、ほとぼり冷めたらまた生まれ変わって来ます。
どうやら、馬頭観音の大光明力がでおーさんの憑き物に嫌われたようです。
昨夜憑き物は、罵倒堪忍と言いながらでおーさんの後ろに隠れてしまったけど、今朝は復活しましたね。
私は怪人デオーザウルスを降参させた唯一の人間として5チャン史上に燦然と輝く、禁じ統(統失が暴れるを禁ずる!)を打ち立てました-ましたー‼️
生まれ変わった時のHNには、UかM、またはうかまの文字が使われるでしょう。
が効いたな
😄
パーリクン現る〜
355.
ユーザー
うらしまたろう
759
苦諦=空の第一段回目の理解(此縁性縁起)
集諦=空の第二段階目の理解(相依性縁起)
滅諦=空の第三段階目の理解(空無辺/識無辺処)
道諦=空の第四段階目の理解(有処無処/非想非非想処)
法介さんにお訊ねします。
滅諦と道諦に於て九次第禅定の第7禅定と第8禅定があてられていますが、それ以前を色界とし、以降が無色の別ととれます。
また、では涅槃とも言われる第9禅定の『滅受相(想)定』別に滅尽定とも称される段階は何空なのでょうか?
空なき空で滅空とでも言うのでしょうか、ご見解をお訊きしたく存じます。m(_ _)m
2023/07/21 15:59:23
BMppc
356.
ユーザー
法介◆T3azX0Hk1U
パーリーくんでした〜
😄
テンションハイである
😵💫
ヨーダってどんなキャラ?
ヨーダの名言集
【ヨーダの名言①】「違う!やるか、やらぬかだ。ためしなどいらん。」
【ヨーダの名言②】「だから失敗したのだ。」
【ヨーダの名言③】「恐れはダークサイドに通じる。恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦痛へ。」
【ヨーダの名言④】「死は生きることの一部だ。」
【ヨーダの名言⑤】「偉大な戦士?戦争で偉大にはなれん。」
【ヨーダの名言⑥】「固定観念を捨てろ!」
【ヨーダの名言⑦】「いや、そうではない。入りやすいのだ。」
【ヨーダの名言⑧】「考えるな、感じろ」
【ヨーダの名言⑨】「暗闇に閉ざされたときは少しの知識が光をかざしてくれるのだ」
【ヨーダの名言⑩】「失敗は最大の師である。ルークよ、我々は彼らが超えるべき存在なのだ。」
まとめ
これつかお〜
😄
ほーかいくんの
教育指導に
励みたい〜
😫
(これまで)覚えたことを全て忘れるのじゃ。
to unlearnで「知識を捨て去る」、「忘れる」といった意味になります。
2、No. Try not. Do or do not. There is no try.
違う、やってみるではだめじゃ。やるか、さもなければやらないかじゃ。”トライ”なんて存在しない。
3、Named must your fear be before banish it, you can.
払いのける前に自分の恐怖を列挙するんじゃ
「恐怖を克服するにはそれをよく理解しないといけない」というニュアンスになります。
何が必要かはすでに自分が分かっているはずじゃ
5、When you look at the dark side, careful you must be … for the dark side looks back.
ダークサイドを覗くときは、向こうが覗き返してこないかどうか気をつけるんじゃ
dark sideは「暗黒面」と訳されることもあります。
6、Train yourself to let go of everything you fear to lose.
失いたくない全てのものを解放するように自分を鍛えるんじゃ
to let go of~で「~を手放す」、「~を忘れる」という意味になります。
7、Patience you must have my young padawan.
忍耐強くならないとダメじゃ、若きパダワンよ
padawanはジェダイの修行中の「見習い」を表す造語です。
8、Much to learn you still have…my old padawan.
まだ覚えることはたくさんある、年老いたパダワンよ
9、Always in motion is the future.
未来は常に動いている
「 未来は絶えず揺れ動く」と訳されたりもします。
10、Always two there are, no more, no less. A master and an apprentice.
いつも2人、それ以上でもそれ以下でもない。マスターがいて見習いがいるんじゃ。
11、Use your feelings, Obi-Wan, and find him you will.
フィーリングを使うんだ、オビワンよ、きっと彼を見つけるだろう
12、I cannot teach him. The boy has no patience.
彼には教えられない。この子は忍耐が全くないからな。
ダークサイズは全てを曇らせてしまう。未来が見えなくなるんじゃ。
14、A Jedi’s strength flows from the Force.
ジェダイの力はフォースから流れるんじゃ。
to flow from~で「~から流れる」、「~から循環する」という意味になります。
15、In a dark place we find ourselves, and a little more knowledge lights our way.
暗闇に閉ざされたときは少しの知識が光をかざしてくれるんじゃ。
to lightで「明かりをつける」、「~を照らす」といった意味になります。
16、Strong is Vader. Mind what you have learned. Save you it can.
ベイダーは強いぞ。自分が覚えたことを忘れるな。それがお前を救ってくれるかもしれないから。
17、Hmm. In the end, cowards are those who follow the dark side.
ふーん、結局、ダークサイドに進んだ者は臆病なんじゃ。
In the endで「結局」、「つまり」という表現になります。
18、Many of the truths that we cling to depend on our point of view.
我々がしがみついてる真実なんてものは、物の見方次第なんじゃ。
to cling toで「固守する」、「執着する」、「しがみつく」といった意味になります。
19、When nine hundred years old you reach, look as good, you will not, hmmmm?
お前が900歳になったら、こんなに若くは見えないじゃろうな、ふーん?
20、If you end your training now — if you choose the quick and easy path as Vader did — you will become an agent of evil.
もし今修行を止めたら、ベイダーのように手っ取り早くて簡単な道を選んだら、お前は悪の使いになるじゃろう。
地獄に引き込まれないように、誰か指導頼む🙏
普通に、シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマ―神の世界
124 神も仏も名無しさん 2023/08/18(金) 22:57:29.65 ID:0B2jwKj/
『ラーマナ・マハリシの言葉から』
●【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】は
ラヤ【 一 時 的 な 心 の 停 止 】である。
【 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディー 】の状態にいる者は【 真 我 を 実 現 してい無い !】
彼らは未だ【 探 究 者 】である。
ときおり【 心 を 制 御 しなければ】ならない。
● 要するに、禅定・瞑想などの、一時的な入定・出定の繰り返しのことと思われる。
●【 サ ハ ジャ・ニ ルヴィ カ ル パ・サ マ ディー】は
【 心 の 完 全 な 破 壊 】である。
もし【サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディー】のように【 心 が完全に《 破 壊》 された 】なら、
【心は 再 び 主体として現 れ る ことが無い】。
【彼】はその【 崇 高 な 状 態 】から【決して《落ちることが無い》】のである。
● ようは解脱されたってことでしょうね。
我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい』
ーー『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』より引用ーー
ーーラマナアシュラム HPより引用ーー
初期の段階では、この問い掛けにより、心が静まり、心が生じる源を探り求める「助け」になります。
で、源の近くにたどり着き、そこに居続けられるようになったとき、この問い掛けは、心を源により近づける「助け」になることがわかりました。
「居続けられる」にも段階がありますが、それぞれすべての段階に対し、これ以上ない「助け」だと感じました。
「『私』は誰か?」と問い掛けるたびに、視点が変化します。
ものの見方・考え方が変化します。
これまで、このようなことは一度もありませんでした。
「『私』は誰か?」、とても良い感じです!
(⌒_⌒)
「私」が見るとき、真我も「私」を通して、見ている。
「私」が聴くとき、真我も「私」を通して、聴いている。
「私」がマハルシの写真を見るとき、(「私」を通して)見る者が見る者を見、見られる者はなくなる。
「私」が鏡に映る「私」を見るとき、見る者が見る者を見、見られる者はなくなる。
「私」が他者を見るとき、見る者が(「他者」を通して)見る者を見、見られる者はなくなる。
見られる者がなくなったとき、見る者だけになる。
「私」は誰か?
が、マハルシは、もっとも良い方法は、「『私』が生じる源を探り求めること」だと言われています。
→「私」が生じる源を探り求め(探求)、そこに居続ける
「心を強くし、心が静まったら、『私』が生じる源を探る。源を探り求めたら、そこにとどまり続ける。真我が『私』をとけ込ませてくれるまで、すべてを手放しながら、源を感じ続ける」
と理解しました。
*真我探求は、心による、あるいは知的な「探究」ではなく、献身的な「探求(探り求める)」である
*「真我」には、いろいろな意味がありますが、ここで用いる「真我」は、マハルシの言われる「真我(Self)」です
心を静めた後、静めたにもかかわらず、いろいろな想念が生じると思います。
*想念:心の中に浮かぶ思い、考え
想念が生じたとき、どこから想念が生じるのか注意深く探ります。
注意深く探れたとき、想念が一時的に消えます。
ですが、いったん消えた想念、なぜかまた生じます。
想念が生じにくくなるまで、何度も何度もこの作業を行います。
想念が生じにくくなったら、ゆっくりと、穏やかに、「私は誰か?」と思います。
「わたしは・・・」が生じる先に意識を集中し、どこから「わ」が生じるのか探ります。
最初、「わ」は、頭の中で生じるかもしれません。
ですが、何度も探っていると、少しずつ生じるところが変わっていきます。
毎日コツコツ、根気よく続けることが大事です。
「わ」になる前の、「わ」が生じる先を探れるようになると、ハート(右胸)にたどり着けると思います。
*頭→喉→胸(壇中)→右胸の左側→右胸の真ん中
*ハートから「わ」が生じるのであれば、ハートを意識すれば良いと思うのですが、その方法はダメでした
たどり着いた当初、静寂に包み込まれます。
が、しばらくすると、また想念が生じます。
で、また、「私は誰か?」と思い、「わ」が生じる先を探ります。
何度も繰り返していると、静寂が続くようになってきます。
カオリンが
こないな〜
😟
*ここで、光を見たり、何かを感じたりするかもしれませんが、それらはすべて錯覚です
探り続けて見つけた源が、本当に源なのかどうかわかりません。
とにかく、探れなくなるまで探り続け、「これ以上探れないなぁ」と思ったところが、当面の源です。
源にたどり着いたら、探り続ける努力をやめ、そこにとどまり続けるようにします。
1.執着をできるだけ手放す
この段階では、かなり「執着」がなくなっているはずですが、
「根深い執着(vasana、samskara)」は、まだ残っています。
*vasana:現世の心の習慣。潜在的な傾向、または、印象
もっとも微細な形でハートの中に囲い込まれている
samskara:生まれながらの傾向。過去から続いている心の印象
(傾向と気質)なので、一時的にすべての執着を手放すのです。
ずっと手放すことはかなり難しいのですが、
一時的であれば思ったより簡単にできると思います。
2.信じる
「真我が『ある』こと」を、そして「マハルシの教え」を。
3.息にとらわれない
息を吸うときに、「源」を見失いやすいです。。。
息を吸うとき、「源」が開き、息を吐くとき、「源」が閉じる?
源にとどまり続けられるようになったら、思考を働かせず、源を感じ続けるようにします。
寝る前、目覚めるとき、仕事中など、できるだけ、源を感じ続けるようにします。
*目覚めと夢見の合間に真の「私」がある
【不滅の意識 196ページ】
人が目覚めたとき、実際に外部の世界に
十分気付くようになる前に、その合間、時間、空間のないことが
真の「私」の状態
源に没入すると、「知性・理性」はなくなり、「感じる」のみになります。
「感じる」のみになれたとき、遮るものはなくなります。
(源は、想念・息などによって遮られています)
そして、源にすべてを明け渡すことができるよう努力し続けます。
「明け渡し(帰依:bhakti:devotion)」は、とても難しいです。。。
なので、執着を手放すときと同じで、一時的に明け渡します。
一時的な明け渡しを何度も繰り返し、明け渡している状態が続くようにします。
この状態は、おそらく、laya(心と息が、ハートの中でとけること)だと思います。
ここでも、光を見たり、何かを感じたり、
身体を感じなくなるかもしれませんが、それらはすべて錯覚です。
とけ込まなければならないのは、ハートではなく、ハートの中の源。
*「感じる」のみになれたとき、
「源=ハート」でないことがわかると思います。
源は、ハートの中の一点です
ハートの中の源から、「私」という思考が生じ、ハートの中のvasanaなどを取り込み、心が現れ、粗雑な身体が現れ、世界が現れる。
源を探り、とどまり(感じ)続けられるようになると、心がハートにとけ込む。
努力し続けることで、心と息がハートにとけ込む。(心の源と、息の源は同じ)
ただ、努力し続ければ、vasanaを弱らせることができます。
*samskaraは、無理っぽい。。。
真我が、弱ったvasana(samskara)を消滅させ、「私」をとけ込ませてくれるまで、ただひたすら努力し続ける。
溺れる直前に感じる、未練(執着)・恐怖にとらわれることなく、息を源に明け渡す。
すべてを源に明け渡せれたとき、源に没入し続けられたとき、消えかかるかすかな心で 「私」は誰か? と問いかける。
真我が、「私」と真我を隔てている壁をなくし、「私」をとけ込ませてくれる。(「私」が真我にとけ込むことはできない)
→真我は、どこか遠くにあり続けているのではなく、今、ここにあり続けている。
「私」が真我との間に壁を作り、「私」と真我を隔てている
「真我探求は、源へのバクティである」
今の私は、ここまでです。
おそらく、真我が「私」をとけ込ませた後、「源」は、「ハートの中の一点」ではなく、すべてが「源」になるのではないかと。
「私」がマハルシの写真を見るとき、(「私」を通して)見る者が見る者を見、見られる者はなくなる。
見られる者がなくなったとき、見る者だけになる。
「真我の探求」がこの段階に達すると、努力を続けていた「私」は一時的に存在をやめ、個人的な努力は、もはや不可能となり、努力なしに真我があらわになりだす。
「私」という思考は、真我にとけ込んでいるのではなく、真我に没入しているだけなので、周期的に主張してくる。
これはまだ、「真我の実現」ではないが、この状態を繰り返し「体験」することにより、「私」という思考を起こす原因である「vasana」が徐々に弱まってくる。
そして、「vasana」の影響力が十分弱まったとき、真我が、残存している「vasana」と「samskara」を完全に破壊する。
「私」という思考は、真我にとけてなくなり、二度と再び立ち現れることはなくなる。
これが、最終的な、覆すことのできない 「真我の実現」 である。
Sri Ramakrishna
(通称;タクール)
(1836年2月18日~1886年8月16日)近代インドの聖者。本名はガダーダル・チャットーパーディヤーヤ。ベンガルの貧しいバラモンの家に生まれ、学校教育はほとんど受けていない。幼時からさまざまな神秘体験をした。17、18歳でコルカタに出て、祈祷(きとう)や祭式の仕事をしていたが、21、22歳のころ、ダクシネーシュワルのカーリー女神を祀(まつ)る寺院の役僧となった。その後12年間、彼は世俗を捨てた生活を送り、ヴェーダーンタ哲学やビシュヌ派の諸聖典の研鑽(けんさん)に努めた。その結果、神秘的交感のうちにカーリー女神やその他のヒンドゥー教の諸神との合一を達成でき、自らを神の化身(けしん)と考えるようになった。その後もイスラム教やキリスト教に接近し、それぞれの宗教の修行を積み、さまざまな神秘体験を得、ついに『あらゆる宗教において神に至る道が同一であること』を確信した。このような体験と確信に基づいて神のことばと真理を語り始めた彼のもとに多くの民衆が集まり、1875年ごろにはベンガル地方の大きな宗教勢力となった。しかし、局地的な存在にすぎなかった彼の名を世界的にしたのは、82年に彼の弟子となったスワーミー・ヴィヴェーカーナンダである。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはシュリー・ラーマクリシュナの死後、その名を冠したラーマクリシュナ・マト・アンド・ミッション、通称ラーマクリシュナ・ミッションを設立して、世界に向けての組織的な伝道活動を行った。
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Sri Sarada Devi
(通称:ホーリー・マザー)
(1853年12月22日 ~ 1920年7月20日)シュリー・ラーマクリシュナの霊性のパートナーである。当時のインドの一般的な慣習に従い、彼女は6歳の頃にシュリー・ラーマクリシュナの許嫁となった。18歳で、約100km離れたコルカタに程近いダクシネーシュワル(現在はコルカタに編入)のカーリー寺院に住む彼女の婚約者と生涯を共にするために、生まれ故郷のジャイラーンバーティーを発った。その頃、シュリー・ラーマクリシュナは霊性修行と修行僧としての生活に、自己の精神と肉体を捧げていたが、それでも、彼は非常に親切にサーラダーを迎えた。神の意志が彼女をここまで連れてこさせたのを感じたからである。シュリー・サーラダー・デーヴィーは、霊的・知的なリーダーとしての才のある人物であった。彼女は、長きに渡りシュリー・ラーマクリシュナと彼の弟子に仕えた。シュリー・ラーマクリシュナが死去した後も彼女は宗教的な奉仕を続け、新しい霊性運動において感化と指導に勤めた。彼女は地味で控え目な女性であったといわれているが、シュリー・ラーマクリシュナによって始められた運動の重要性は高まり続け、英国の植民地支配の弱まった時期には大きな影響力を持つようになった。シュリー・ラーマクリシュナは死去する前に、彼の弟子に、彼女をあたかも彼らの母親であるかのように見なすことを奨めた。そして、彼女は人類の母としての役割を果たした。彼女は彼らを養育し、私事を手伝った。さらに彼女は、全ての訪問者のためのシュリー・ラーマクリシュナの教えの重要な説明者・教師であった。
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SwamiVivekananda
(通称:スワーミージー、[出家前]ナーレン)
(1863年1月12日 ~1902年7月4日)インドの宗教家。
ヨーガとヴェーダーンタ哲学の霊的指導者としてインドを中心として、アジア諸国、西側諸国の人々に影響を及ぼした。1893年5月31日(当時30歳)、ムンバイを出港し、日本を含めたアジアを経由し、横浜港からカナダのバンクーバーへ渡り、7月中旬、汽車でシカゴに到着した。
そして同年9月11日、世界宗教会議第一回集会は始まった。彼は原稿を何も用意していなかった。「アメリカの姉妹たち、兄弟たち」という言葉でスワーミージーが講演を始めると、拍手が会場を包んだ。彼はシュリー・ラーマクリシュナの教えを継承した普遍宗教の理想を語った。演説は大成功を収め、新聞に掲載された。彼はシュリー・ラーマクリシュナの一番弟子であり、ラーマクリシュナ・マト(僧団)とラーマクリシュナ・ミッション(奉仕団)の創設者である。彼は師の教えを霊性と知性によって体系化し、世界に通じる言葉として発信した。
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https://ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12456590962.html
オモロイで〜あれで
随分お勉強した〜
図書館で借りた講談社版のコピーかお家にある
😄
キリスト教教会で当たり前に
ハマれる確率は
俺は高い
😄
このラーマクリシュナの福音の
文書
一点突破なんだがな〜
😄
意識を失う以外の
霊的ゾーンは
キリスト教で
ほぼ体験した〜
😄
俺は仏教徒して
許せないっ!
😄
ヴィヴェカーナンダに
最初の頃、
ヴィヴェカーナンダの額に手を当てると
ヴィヴェカーナンダは、首から下の感覚がなくなったらしい〜
ま、俺も初坐禅で首からの下の感覚がなくなったな〜
それ以後は、それを目指さなかったし、
いや、リアルの把握が大事でしょう〜
路線を目指しましたから〜
😄
まずはラーマクリシュナについて簡単なスケッチを箇条書きしてみたいと思います。
● カーリー女神への強烈な信愛によって霊的な覚醒へと導かれた
● 霊的自覚の最高境地に到達した
● サハジャ・ニルビカルパ・サマーディを実現した
● 神を見、神と語り、神と合一し、神性を完全に体現した
● キリスト教やイスラム教の道を通っても同じ霊的境地にたどり着くことを証明した
● 普遍的真理のもとにおける諸宗教や学派の調和を説いた
● 受肉したキリストのように人類を救済するために地上に降りてきた神の化身と見られている
ラーマクリシュナの生涯の出来事を、時系列で非常にシンプルに記してみます。
(1)1836年、インドのコルカタ近郊のカーマルプクル村のバラモンの子供として生まれる
(2)6歳のときに不意にサマーディ(神聖な神秘的体験)に没入する経験をする
(3)16歳のときにダクシネシュワルというカーリー女神の寺院の手伝いをすることになる
(4)カーリー女神への熱烈な信仰(バクティ)によって、カーリー女神を実在として見ることができるようになり直接会話をするようになる
(5)サーラダー・デーヴィと結婚する
(6)ヨーゲシュワリという女性行者の指導でタントラの行法をマスターする
(7)トータ・プリーという男性行者の指導で出家の誓いを立て、究極的実在を悟り、無分別三昧というサマーディに没入する
(8)ラーマクリシュナの教えを聞くために人々があつまり始める
(9)のちのヴィヴェーカーナンダとなるナレンドラなどの主要な弟子たちがあつまってくる
(10)1886年、喉頭癌で逝去する
(11)死後、ヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナ・ミッションを設立する
(12)弟子と信者たちの活動を通して、世界中に僧団の活動とラーマクリシュナの教えが広がる
彼の死後、スワミ・ヴィヴェーカーナンダを中心としてラーマクリシュナ僧団が設立されました。さらに彼はベルル・マトという僧院を建立し、僧団と奉仕団の基礎をつくられました。
ラーマクリシュナの奉仕団は在家や出家の弟子たちから構成されており、現在でもインド各地で災害被害などがあれば積極的に奉仕に駆けつけており、また、教育や医療の分野においても社会に多大な貢献をされている団体です。
『カタームリタ』には、ラーマクリシュナの最晩年の1882年から1886年にかけての言葉が記録されています。著者は、在家の弟子であるマヘンドラナート・グプタ氏です。出版に際して氏は筆名を「M」と名乗り、記録のなかに自身が登場する場面でも「M」や別名を用いて自身を謙虚に隠しています。その謙虚さは、ラーマクリシュナの有名な弟子であるスワーミー・ヴィヴェーカーナンダも絶賛しています。のちに氏は、人々から尊敬の念を込めて「シュリー・マ(shri M)」と呼ばれるようになります。
仏教に真我とか
混ぜ回すが〜
ラーマクリシュナの真我は、
世界に遍く広がるエネルギーみたいな
感じはあるなあ〜
シヴァナンダヨガの
プラーナ感覚なんやろな〜
😄
≫そして、「vasana」の影響力が十分弱まったとき、真我が、残存している「vasana」と「samskara」を完全に破壊する。
≫「私」という思考は、真我にとけてなくなり、二度と再び立ち現れることはなくなる。
マナ識が退治されたんだな。
ラーマクリシュナの格言
https://ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12456590962.html
非常に得ることの難しい『人間の生』を得ていながら、
まさに今生で神を悟ろうという努力をしない人は、生まれたかいのない人である。
まず、第一に神を悟り、それから、他の一切のことをせよ。
「私」という意識があるあいだは、どうしても相対界(転変の世界)を棄てることは出来ません。
これではない!これではない!と否定を重ね、
瞑想のヨーガによって、人は実体・ブラフマンに到達することが出来るのです。
『知慧』とは何か?
自己の本性を知って、そこから心を動かさないことだ!
これが、『真我を知る』ということだ。
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
四つのシャマタは本然の境地ではない。
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ラーマクリシュナの格言
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非常に得ることの難しい『人間の生』を得ていながら、
まさに今生で神を悟ろうという努力をしない人は、生まれたかいのない人である。
まず、第一に神を悟り、それから、他の一切のことをせよ。
「私」という意識があるあいだは、どうしても相対界(転変の世界)を棄てることは出来ません。
これではない!これではない!と否定を重ね、
瞑想のヨーガによって、人は実体・ブラフマンに到達することが出来るのです。
『知慧』とは何か?
自己の本性を知って、そこから心を動かさないことだ!
これが、『真我を知る』ということだ。
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
修行者、求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものでありませんく、まさに 体得します。
その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、自他が無くなります。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味である。拡大解釈しては、原意が蒸発してしまう。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
追い込まれた人に取っては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。
>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』
地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
> 南無阿弥陀仏 』
南無阿弥陀佛陀
帰依します
アンミータ
のっと、めーたー
量る事が出来ない
アミターユ
無量光
アミターバ
無量寿
佛
Buddha
佛陀
目覚めた者
本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。
地獄極楽。
極楽地獄。
一対のものだよね。
なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。
地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
独身を貫(つらぬ)いて程好(ほどよ)い労働。
酒を呑(の)みながらNHKテレビ。
量子(りょうし)コンピューター。
悟(さと)り。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
私は空気を読まない。
アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪
私は空気を読まない。
アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪
私は空気を読まない。
アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
イヌがぼやく。なんで、みんなワイを無視すんねん大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知り煩悩即菩提の法相宗でええやろ、ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
病名:発達障害ASDの症状尊大の雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ 反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ 臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除で寸
教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
公案は佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事は出来ない。
問いには立ち止まって、検討して行かないと此れにはこれと言う安易な振り分けになる。
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、
唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろ言うか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
問う。『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である
真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨ては出来ない。
問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
真理(さとり)は言語によって伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
問う。
『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
潰されたか
独身を貫(つらぬ)いて程好(ほどよ)い労働。
酒を呑(の)みながらNHKテレビ。
量子(りょうし)コンピューター。
悟(さと)り。
神経疲労に効く漢方薬は加味帰脾湯(かみきひとう)である。
私は空気を読まない。
アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪
私は空気を読まない。
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私は空気を読まない。
アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪アハハハッハハーアハハハッハハー♪♪アハハハッハハー♪アハハハッハハー♪
ニサルガダッタ・マハラジの名言【私は在る、それ以外はすべて推測だ】
今回は、独断と偏見で、ニサルガダッタ・マハラジの名言をピックアップしてみたいと思います。
私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。
『I AM THAT 私は在る』(ナチュラルスピリット刊)の中に登場します。ニサルガダッタ・マハラジといえば、〝幻想〟という言葉を多用するイメージがあります。でも、ここでは、〝幻想〟ではなく、〝推測〟という言葉を使っています。
私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。しかし、推測が習慣になってしまったのだ。考えることと見ることといった、あらゆる習慣を打ち破りなさい。「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。それを自己、神、実在、あるいは他の名で呼んでもいい。「私は在る」は世界の中にある。しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。水面に踊る月は、水の中に見られる。だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。(中略)理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもととした、想像の世界を投影したということだ。そして、その中にあなた自身を監禁したのだ。その魔法を解いて自由になりなさい。
一般的な感覚で言えば、この世界が存在しているということは明確なのではないかと思います。そして、自分は、この世界の中に存在している一人の個人だということも明確なのではないかと思います。そこには〝推測〟が入り込む余地は無いようにも思えます。あまりにも明確だからです。でも、ニサルガダッタ・マハラジは「推測が習慣になってしまったのだ」と言います。
人は、無自覚に、推測するということをします。例えば、数字が〝1、2、3、4、5、6、7〟と並んでいるとします。この次にくる数字は何でしょうか? 多くの人は〝8〟と推測するんじゃないかと思います。数字がひとつずつ増えていくという規則が、そこにあるように感じられるからです。でも、何も知らない赤ちゃんは、そんなふうには推測しないのではないかと思います。数字とも文字とも言えない何かを、衝動のままにクレヨンで描き殴るかもしれません。
この世界が存在しているという認識も、そのようにして無自覚に推測されたものだとしたらどうでしょうか? 自分はこの世界の中の一人の個人だという認識も、無自覚に推測されたものだとしたらどうでしょうか? もしそうなのだとすれば、それは自分自身を、この世界という名の〝推測〟に監禁しているようなものかもしれません。であるならば、この〝推測〟という名の魔法を解いてみてもいいんじゃないでしょうか?
魔法を解くための方法として、ニサルガダッタ・マハラジはこう言います。
思考と行為において、あなたの非依存性を主張しなさい。結局、すべてはあなたが見、聞き、考え、感じることが現実だと確信する、あなた自身の信念にかかっているのだ。なぜあなたの信念を疑わないのか? この世界が意識のスクリーン上に、あなたによって描かれたものだということは疑いないのだ。そして、それは完全にあなたの個人的な世界だ。たとえ世界の中にあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、世界に属さないものだ。どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」に変えることはできない。あなたの存在を否定すること自体が、あなたの存在を主張している。ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。あなた自身の想像の中にしか存在しない世界から、自由になる必要はない!
こっちワールドが疎遠だ
😃
ラーマクリシュナ 1836 - 1886
ラマナ・マハルシ 1879 - 1950
パラマハンサ・ヨガナンダ 1893 - 1952
ジッドゥ・クリシュナムルティ 1895 - 1986
ニサルガダッタ・マハラジ 1897 -1981
サティヤ・サイババ 1926 - 2011
和尚・ラジニーシ 1931 - 1990
ディーパック・チョプラ 1946 -
ラーマクリシュナと
ヨガやったこがある
スワミ、シヴァナンダ
😄
😄
😄
https://kansaiminobu.org/shin-yu/howa/2256.html
想像を想像として見なさい。そして恐れから自由になるがいい
ニサルガダッタ・マハラジの言葉を、さらに引用します。
1931 - 1990
インド生まれ。精神世界のグルとして世界中に弟子を集める。アメリカ、オレゴンにコミューンを作ったが後に国外退去となる。晩年はインドのプーナで活動を行った。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3a/Bhagwan_beweging_gekwetst_door_reclame-affiche_van_het_NRC_met_de_tekst_profeet_%2C_Bestanddeelnr_933-0734-cropped.jpg/1280px-Bhagwan_beweging_gekwetst_door_reclame-affiche_van_het_NRC_met_de_tekst_profeet_%2C_Bestanddeelnr_933-0734-cropped.jpg
<行為>と<行動>の違いを感じとるのだ
そして<行動>があなたをとらえたとき
──実際のところ、それは憑依と呼ばれるべきだ
<行動>が幽霊のようにあなたに取り憑いたとき
──行動というのは実に幽霊だ
それは過去からやって来る
それは死んでいるのだ
その<行動>に取り憑かれて
あなたが熱病的になってしまうそのとき
もっと醒めること
それがあなたの為し得るすべてだ
それを見守ること」
– バグワン・シュリ・ラジニーシ -『存在の詩』より
カウンターカルチャーの流れからニューサイエンス、ニューエイジ、各種の心理療法、ボディワークなどのムーブメントを牽引した日本人のリーダーの中には少なからずラジニーシの弟子がいた。直接の弟子にならなくとも、彼の『存在の詩』などの著作に衝撃を受けた日本人は多かった。
絶大な影響力を持ったカリスマ、ラジニーシ。その背景には様々なスキャンダルも存在している。今回は、日本の精神世界史を語る上で避けては通れない、ラジニーシの光と影に目を向けてみたいと思う。
デンパパの思考の
御本尊感があるねー
😫
90年に死ぬまでが、ラジニーシの時代
オウム真理教と、時代的にはたいして変わらんのだな
レスよろお〜
😄
内容として、
これ知ってる?
最近発掘したブログ
https://tsubouchitakahiko.com/?p=181
おっ、いいね?
出口王仁三郎聖師が、師と仰ぐ人物
古神道の立役者の1人
現在の出口王仁三郎路線?
動画
https://m.youtube.com/watch?v=cp4ypVT2YXk
五チャンネル可能
😄
スワミ・ヴェンカテーシャーナンダ【英訳】(翻訳)
真我実現へと導く最高峰の聖典!
20世紀の偉大な聖者、ラマナ・マハルシが最も愛し、重要視した聖典!!
「二十世紀の偉大な賢者ラマナ・マハルシは、一九三〇年代に、のちに彼の恩寵によって真我実現することになる弟子のアンナーマライ・スワミから、『真我実現のために読むべき本を教えてください』と求められた。
そのとき、マハルシが挙げた六冊の聖典(Kaivalya Navanitam, Ribhu Gita, Ashtavakra Gita, Ellam Ondre, Swarupa Saram, Yoga Vasishtha)の中でもマハルシが最も愛し、頻繁に教えを引用し、重要視した聖典が『ヨーガ・ヴァーシシュタ』である。」
他に類を見ないこの専門書は、聖書とヒンドゥー教の聖典の、類似する一節を探究して、すべての宗教が根本的に一つであることを明らかにしています。パラマハンサ・ヨガナンダの聖なる師であるスワミ・スリ・ユクテスワは、悟りへ向かうにあたってすべての人が歩まなければならない、普遍の道を概説しています。また、文明の周期の、悠久なる繰り返しを説明して、歴史を深く理解しながら、千変万化し激動する世界の全景を見る方法を教えます。
なんか
出口王仁三郎的ぽいなー
😁
笑える幽霊見る
https://m.youtube.com/watch?v=V3QdcPLACWU&list=PL5fq3AoahaSh4iRXKpL_ySqXcNI-7FwjM&index=116&pp=iAQB
へえ、それは良い買い物をしましたな?
紙の本のカバー、ただの紙だからラミネート加工しました
Kindle買いましたけど、Google Books販売待ちです
問答、名付けられた名詞から名前を剥ぎ取ったそれを何と呼ぼうか。
真理(さとり) を 無我 と言う事が出来るのだが、無我と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事はは出来ない。
問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、否か。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは。道端のタンポポのさよなら、出会えば別れるのであ
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
また、問う。 『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によって伝わらない。生
まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
真理(さとり)である一如。如とは如来、来と言う助辞を漬けたものである。如来とは佛を言う。
スレ主逃走の為、このスレは終了。
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② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
誤字脱字誤変換、加筆訂正 します
訂正
而二不二(ににふに) 不二而二(ふににに)
二は、二ではない。 二ではないが、二である。
> 最初はなるほど。なりましたが、 途中から見失ってしまいました。 もうちょっとシンプルに坐禅も公案ということの説明をお願いします。 それと曹洞宗のさとりと公案禅の悟りは別物なんですか? それなら坐禅も公案という話しが矛盾してきませんか? 』
わたくしは解からないことだらけでいいのだ、と思います。
それは お寺の裏は 墓地がいっぱい。なので、ボチボチ 屋って言ったほうがいいのです。
大事な子pとは聞いて回ることではありません。
自分に問い、自分が答えを出していくことです。
ただそれだけが、禅の教えです。
そういう意味においては宗派は不必要でむしろ固定させて、腐敗衆がふんぷんなのです。
まっとうな坊さんはいません。
ダイオ卒が坊さんの資格であって李、その大学も首位右派の大学であったり、お寺の息子で有ったりと家業なのですから。
しかも、妻帯飲酒、外車所有と贅沢三昧です。
そうでない方がいるのかもしれませんが、そういう方は宗派の管長が一人だけ、独身なのです。
いずれ仏教も滅します。生老病死なのですから。
ただ個人の真理の探究は続きます。
そういうところを観ていくよう、お願いします。
外の雑音ではなく、内面の声を悔いくことが大切です。
シャンカラは不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を唱え、絶対的なブラフマン(梵)のみが存在し、現象界はブラフマンの幻影に過ぎないと説きました。
一方、ラーマーヌジャは限定的二元論(ヴィシシュター イタ・ヴェーダーンタ)を唱え、ブラフマン(神)と個我(アートマン)は区別されるが、個我はブラフマンの一部であり、ブラフマンに帰属すると考えました。
不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ):
唯一絶対のブラフマンのみが存在し、現象界はブラフマンの幻影(マーヤー)であると説く。個我(アートマン)もブラフマンと同質であり、真我に目覚めることでブラフマンと一体化できると考える。
梵我一如(ブラフマンとアートマンの同一性):
宇宙の根源であるブラフマンと、個人の本質であるアートマンは同一であると説く。
マーヤー(幻影):
現象界はブラフマンの幻影であり、真実ではないと考える。
解脱(モークシャ):
マーヤーから解放され、ブラフマンとの一体化を果たすこと。
限定的二元論(ヴィシシュター イタ・ヴェーダーンタ):
ブラフマン(神)と個我(アートマン)は区別されるが、個我はブラフマンの一部であり、ブラフマンに帰属すると考える。
ブラフマンとアートマンの関係:
ブラフマンは最高存在であり、アートマンはその一部であり、ブラフマンの属性であると考える。
バクティ(帰依):
神への絶対的な信仰と帰依を通じて、神との関係を深めることを重視する。
解脱(モークシャ):
神への帰依を通じて、神の国に到達すること。
シャンカラは、ブラフマンとアートマンの同一性を強調し、現象界を幻影と捉えることで、究極的な真理を説きました。
一方、ラーマーヌジャは、ブラフマンとアートマンの区別を認めつつも、アートマンがブラフマンに帰属することを強調し、バクティの実践を通して神との関係を深めることを重視しました。
古代インドの哲人
ヤージュニャヴァルキヤ(Yājñavalkya[1], 漢訳: 祭皮衣仙)は、インド哲学におけるウパニシャッド最大の哲人、「聖仙」とも称される古代インドの哲人。およそ紀元前750~前700年の人物。生没年不詳。
ウッダーラカ・アールニの弟子と伝えられ、梵我一如の哲理の先覚者として著名である。
太陽神から授けられたという白ヤジュル・ヴェーダの創始者でヨーガ哲学の元祖ともいわれる。王仙ジャナカと共に後の仏陀の思想、仏教の道を用意したという説もある。
彼によれば、この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。
しかし一方では、アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた。
ヴィデーハ国のジャナカ王の宮廷に招かれた公開討論会において、並み居る論敵を圧倒、最大の論争相手ヴィダグダ・シャカーリアを論破して千頭の牛を獲得したとのエピソードをもっている。
現代では以下の六派の総称として使われている。この選択は、おそらくフリードリヒ・マックス・ミュラーや木村泰賢に始まると思われる
ミーマーンサー学派- 祭祀の解釈
ヴェーダーンタ学派- 宇宙原理との一体化を説く神秘主義
サーンキヤ学派- 精神原理・非精神原理の二元論
ヨーガ学派- 身心の訓練で解脱を目指す。
ニヤーヤ学派- 論理学
ヴァイシェーシカ学派- 自然哲学
ミーマーンサーとヴェーダーンタ、サーンキヤとヨーガ、ニヤーヤとヴァイシェーシカはそれぞれ補完しあう関係になっている。
これらヴェーダの権威を認める学派をアースティカ(正統派, 有神論者)と呼ぶ。一方で、ヴェーダから離れていった仏教、ジャイナ教、順世派などの先行する思想派閥をナースティカ(非正統派、無神論者)として区別する。
😀
> 君らは超能力あるの?
ないよ~
サーンキヤ学派(数論):
世界の根源として精神原理(プルシャ)と物質原理(プラクリティ)の二元論を説き、物質世界がプラクリティから展開すると考えました。
サーンキヤの思想に影響を受け、精神と身体の鍛錬を通じて解脱を目指す実践的な学派です。
論理学や認識論を重視し、論証や推論の方法論を体系化しました。
原子論に基づき、世界の現象を現象論・実体論的に分析する学派です。
ヴェーダの解釈を重視し、ヴェーダの祭儀(儀礼)とその方法を究明しました。
ウパニシャッドの思想を基盤とし、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人の主体であるアートマン(我)の同一性(梵我一如)などを説きました。
六派哲学は、インドのヴェーダ(吠陀経)の権威を認め、これに従う正統派の哲学として興起しました。
グプタ朝期に盛んになり、中世後期にその勢力が衰退しましたが、ヴェーダーンタ諸派がその中心的な役割を担うようになり、現代のヒンドゥー教の思想的基礎となりました。
中世の六派哲学
「6」が同じなだけで、内容は似ていない(笑)
ヴェーダンタ哲学が残った
六師外道には、以下の6人の指導者が含まれます。
富蘭那迦葉(ふらんなかしょう)::形而上学を伴わない道徳否定論を説いたとされます。
末迦梨瞿舎梨子(まかりくしゃりし)::アージーヴィカ教の指導者で、運命論や業を否定する思想を説きました。
刪闍夜毘羅眡子(さんじゃやびらていし)::不確定な回答をする特徴がありました。
阿耆多趐舍欽婆羅(あぎたししゃきんばら)::無効説、つまり善い行いや悪い行いの結果はないとする思想を説きました。
迦羅鳩駄迦旃延(からくだかせんねん)::人間は地・水・火・風などの元素から成り立っていると説きました。
尼犍陀若提子(にけんだにゃくだいし)::ジャイナ教の創始者で、厳格な禁欲主義と不殺生(非暴力)を重んじました。
時代背景:
六師外道が活躍した古代インドでは、バラモン教の権威が衰退し、商工業の発展に伴う都市文化の成熟期でした。
支持層:
物質的な豊かさと自由な享楽的な雰囲気の中で、バラモン教の権威に挑戦する反ヴェーダ・非正統バラモン思想が支持を集めました。
仏教との関係:
六師外道の多様な思想は、釈迦を含む多数の思想家の活動と議論の土壌となり、後のジャイナ教や仏教の思想の誕生に影響を与えました。
古代インドには様々な思想家、諸教派が存在したが、その中でも有数の教派を、仏教側から見て、まとめて指すための呼称、総称である。仏教の視点であるので、仏教以外の宗派の教説を異教だと見なし「外道」と呼んでおり、仏教を「内道」と呼んでいる。
釈迦の時代のインドの都市では、商工業者たちが貨幣経済によって栄え、ギルドのような組織を作って経済的な実権を握り、それまでの祭祀を司るバラモン、政治を握るクシャトリヤが社会を支配する旧体制は崩れ、物質的な豊かさと都市文化の爛熟で自由享楽的な空気になっていた。バラモン教ヴェーダ学派を否定する自由な思想家が多数輩出し、ヴェーダの権威を否定する諸学説を提唱して盛んに議論していた。
原始仏典ではその諸学説を六十二見にまとめ、その中で主要なものを「六師外道」と総称した。波斯匿王は、仏教が六師外道と呼んだ思想家を年長者と呼び、対して釈迦を年少者と呼んだ。後に、各六師にそれぞれ16人の弟子がいるとし、これらを総称して「九十六種外道」とも言うようになった。
インドには、釈迦が出てきた
「仏教は、有るとも無いとも回答を確定しない、無記の教えなのだ」という人がよくいるが、これは仏教というより、六師外道のサンジャヤの特徴だ
仏教にも、そういう要素があるということだ
プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那(不蘭)迦葉、富蘭那迦葉)無道徳論、道徳否定論。殺人や盗み、虚言などの悪行も悪をなしたことにはならず、祭祀、布施、修養、真実を語ること、感官の制御(ヨーガ)、自制などのいかなる善行を積んでも善をなしたことにならず、善悪いずれの報いも存在しないとした。釈迦と同時代人で、奴隷の子であったという。
要素集合説、七要素説。
人は地・水・火・風の四元素と、苦・楽および命(霊魂)の七つの要素の集合により構成されていると考え、霊魂の独立性を認めない。七要素は作られるものでも他を作るものでもなく、不変不動で、互いに影響はない。よって世の中には、殺すものも殺されるものもなく、聞くものも聞かれるものもなく、知るものも知らしめるものも存在しない。宇宙あるいは人間が多元の要素の集合で構成されているという積集説(アーランバ・ヴァーダ)、唯物論的思考の先駆
唯物論、感覚論、快楽主義。
プーラナ・カッサパのような道徳否定論者の思想には、程度の差はあれ、ウパニシャッドに説かれるアートマンを否定し、霊魂と身体の不可分と死後の霊魂の非存在を主張する唯物論的な思考があるが、ケーサカンバリンはそうした唯物論者の代表である。人間は地・水・火・風の四元素から成り、各元素は独立して実在し、死によって人間を構成していた四元素は各元素の集合へと戻り、ゆえに人間は死ぬと空無となり霊魂も何も残らない。来世もなく、善の報いも悪の報いもなく、よって宗教も道徳も不要である。現世の快楽・享楽のみを説く。 このような思想をローカーヤタ(順世派)、チャールヴァーカ(Carvaka、ブリハスパティを祖とする)と呼ぶが、その先駆的な例。
アージーヴィカ教(邪命外道と呼ばれた)。運命決定論(宿命論)。
パクダ・カッチャーヤナの七要素に虚空・得・失・生・死を加え、生きているものはこの一二要素から構成されるとした。得以下の六要素は、それぞれの作用を原理化したものである。一切の生き物は輪廻の生存を続けるが、輪廻から抜け出せないものも、そこから解脱するものも、すべて無因無縁であり、自己の意志による行いは何一つない。一切はあらかじめ決定されており、定められた期間は流転する運命である。八四〇万大劫という計り知れない年月の果てに苦しみの終焉に達するまで、どのような修行をしても解脱することはできない。よって、道徳を否定し、宗教を無用とする考えが含まれる。
ジャイナ教の開祖。相対主義、苦行主義、要素実在説。
サンジャヤの懐疑論が実践の役に立たないことを反省し、知識の問題に関しては相対主義(不定主義)の立場を取り、一方的な判断を排した。宇宙は世界と非世界からなり、世界は霊魂(ジーヴァ)・物質(プドガラ)・運動の条件(ダルマ)・静止の条件(アダルマ)・虚空(アーカーシャ)の五実体または時間(カーラ)を加えた六実体からなるとする。宇宙はこれらの実体から構成され、太古よりあるとして、創造神は想定しない。霊魂は永遠不滅の実体であり、行為の主体として行為の果報を受けるため、家を離れて乞食・苦行の生活を行って業の汚れを離れ、本来の霊魂が持つ上昇性を取り戻し、世界を脱してその頂上にある非世界を目指し、生きながら涅槃に達することを目指す[14]。全ての邪悪を避け、浄化し、祝福せよ。
編集
なお、「六師外道」というのはあくまで仏教側からの表現であり他宗では、異なった視点で区別しており、結果として同一の思想家が全く異なった位置づけになっている場合がある。例えばヒンドゥー教においては、仏教も含めたこれらヴェーダの権威を否定する諸派閥を、そのなかでもとりわけ仏教とジャイナ教の方を「ナースティカ」(非正統派,異端)と呼び、それに対し六派哲学(シャド・ダルシャナ)を「アースティカ」(正統派)と呼び区別している。
「これらに答えず、無記であること。あらゆる判断を停止すること。それが仏教の特徴なのだ」という人がよくいるのだが
それは仏教というより、六師外道のサンジャヤの特徴だ
仏教にも、サンジャヤ的な要素はあるということだ
これまた、仏教というより、唯物論者のパクダやアジタの特徴だ
仏教にも、パクダ的、アジタ的な要素はあるということだ
「仏教とは、禁欲主義なのだ」という人もいる
いずれも、六師外道っぽい要素だ
仏教にも、そういう面はあるということだ
インドでは、逆だ
ヒンドゥー教が正統派であり、仏教が異端思想だ
バラモン教、仏教、ヒンドゥー教
この3つには、いうほど違いがない(笑)
基本的に、似たような思想だ
日本的仏教は
似ているなー?
だが
スマナサーラあたりの
観察やら
倶舎論や唯識の土台を意識した場合
仏教は特種になる
😀
日本における仏教は
葬式法事勤行仏教であり
観察とか重んじない仏教僧侶が
多数派だ
😀
『リグ・ヴェーダ』
『サーマ・ヴェーダ』
『ヤジュル・ヴェーダ』
『アタルヴァ・ヴェーダ』
各『ヴェーダ』は4つの部分からなっています。
本集(サンヒター)、ブラーフマナ(祭儀書)、アーラニヤカ(森林書)、ウパニシャッド(奥義書)です。
本集が中核部分で、狭い意味での『ヴェーダ』は、本集の部分になります。
讃歌や歌詞、祭詞、呪詞などが記されています。
ブラーフマナは、本集に附属した散文の解説です。
神話や伝説も含まれています。
アーラニヤカ(森林書)は、森林で教えられるべき秘儀を記されているということでアーラニヤカ(森林書)といわれます。
祭式や、哲学的な内容もあります。
ウパニシャッドは、ヴェーダーンタともいわれ、哲学的思想の極致が記されています。
『ヴェーダ』とは、インドの古い文献の総称です。
「知る」という意味の「√vid」から派生した言葉です。
つまり「知識」というほどの意味です。
ヴェーダには、作者はありません。
もし人間が作ったものだとすれば、人間は間違えるものなので、ヴェーダには間違いがあることになってしまいます。
ですが、ヴェーダは自明の真理とされるので、人間の著作ではなく、聖仙や詩人によって感得された掲示とされます。
そのため、天啓聖典ともいわれます。
これを「六派哲学」といわれます。
これが正統派といわれるのは、その時代に主流だったというよりも、後の時代に、シャンカラ派ヴェーダーンタを強く押し出したヒンドゥーリヴァイヴァルの動きがあったことが大きい、ともいわれます。
六師外道というのは、プーラナ・カッサパ、パクダ・カッチャーヤナ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、サンジャヤ、ニガンタ・ナータプッタの6人の教えです。
ニガンタ・ナータプッタの教えがジャイナ教です。
これらの六派哲学と、仏教、六師外道が代表的なインド哲学です。
正統派と非正統派を分けるのは、『ヴェーダ』に対するスタンスです。
プルシャ (Puruṣa)
純粋な意識、真我。
常に他者を観察する、傍観者のような存在。
本来清浄で不変だが、プラクリティに束縛されてしまうことで苦しみが生じるとされる。
物質的な原理、現象世界の根本原因。
3つのグナ(トリグナ)と呼ばれる性質から構成されている。
プルシャの干渉によってバランスが崩れ、そこからマハット(宇宙的知性)などが流出するとされる。
全ての現象世界はプラクリティが変化して生まれたもの。
プルシャとプラクリティが出会うことで、外の世界が生まれると考える。
プラクリティが自らを転変させて人間身心を含む現象世界を形成する。
苦しみは、プルシャがプラクリティから完全に離れられないことに起因する。
解脱のためには、プラクリティに対して無関心になることが必要となる。
「プルシャとプラクリティの二元論」
プラクリティは、見られるもの
プラクリティは、物質世界(の原理)
唯識論でいう、阿頼耶識みたいなものだ
プラクリティは物質世界を生じさせる可能性を秘めた、可能態に過ぎない
プレイヤーがいなければ、世界は存在しないも同然だ
初めて、世界が立ち現れる
ずっとシンプルな世界観だ
「無我なのに、何が輪廻転生しているのか?」
という、古くて新しい難題がつきまとう
だから、途方もなくややこしい説明になってしまう
「真我」を認めさえすれば、話は簡単だ😂
キリスト教は、「父と子と聖霊はひとつ」という三位一体の教義のおかげで、難解になった
「イエス・キリストは神なのか、人なのか?」なんて問題で、何百年も流血沙汰を伴う大論争が続いた
イスラム教はこれを他山の石として、「アッラーの他に神は無し。ムハンマドはその使徒である」というシンプルな教義に決めた
ヨーガ哲学は、仏教哲学をずっとシンプルなものにしている
現象世界が現れるのに認識は必要。それゆえプルシャというものは常に付きまとう。
過去を振り返るにも振り返った過去を認識するものが現れる。
でも仏教は縁起の理を説く。今の現象が成立するには過去等の成り立ちも含めて全てが破綻なく成立したからこそ現れている。
その成り立ちには認識がなかった時間帯すら含まれて整合し現れている。
プルシャも常にあるわけではなく実体はない。
まぁこの説明の仕方だと唯識の認識とぶつかるんだけどそこはもろに中論と唯識の対立内容と被る。
プルシャだ、真我だといっても
無我と真っ向から対立するようなものではない
似たような話だ
彼らが言うほどの違いは無い(笑)

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深めようヨガ哲学
プルシャとプラクリティの関係で学ぶ、生まれた意味
ヨガを練習していると、自分のことを客観的に見ているもう一人の自分の存在を感じることがあるかもしれません。もしかしたら、それがヨガで探している本当の自分の可能性があります。
自分の本質に近づくと、物質世界への執着が少しずつ弱まります。すると、そもそも何のために生まれて何のために生きているのかを見失うことがあるかもしれません。
今回は、ヨガの練習で見つける、自分の本質と物質的な自分の関係を『ヨガ・スートラ』の教えを元に見ていきましょう。
『ヨガ・スートラ』では自分の本質のことをプルシャ(真我)と呼びます。それは、姿形のない霊魂のようなものです。プルシャは何も行動をすることがなく、物質世界で起きていることを映画を見るように眺めています。
私たちが見ている世界は全てプラクリティと呼ばれる物質原理が開展して生まれたもので、プラクリティを理解することが、世界で起きているあらゆる現象を理解することに繋がります。
見られるものとは、照明、活動、鈍重の性向をあわせそなえ、物質元素と知覚、運動の器官とから成るものであって、真我の経験と解脱とをその目的としている。
佐保田鶴治, 1983, 『ヨーガ根本経典 ヨガ・スートラ』2章18節, 平河出版社, p. 95
ヨガの哲学部分を担ったサーンキャ哲学では、世界はプルシャとプラクリティの出会いによって作られたと説かれます。
プルシャ:私たちの本質部分、霊魂、真我です。傍観すること以外に何も行動を起こさない純粋な存在です。
プラクリティ:物質全ての原理です。私たちがこの世にあると認識できるものは全てプラクリティが根源となって生まれました。
プラクリティによって全ての原因と結果を作るものだと言われる。プルシャは様々な苦痛と快楽を受け取る要因である。(バガヴァッド・ギーター13章20節)
物質的な要因のプラクリティと、そこから生じた感覚を受け取るプルシャの両方で世界は成り立っています。
世界を成立させる、プラクリティとプルシャのうち、プラクリティが、先にも述べた3つのグナで構成されているのです。それぞれの性質は下記のとおり。
サットバ:汚れないもの、軽い、照らし輝く、調和、軽い、幸福、知識
ラジャス:激しい動き、激情、渇愛、執着、行為、躁状態、貪欲
タマス:濁っている、思い込み、怠慢、怠惰、睡眠、怠慢、迷想、無活動
プラクリティがプルシャと出会って活動を始めて、最初に優勢になったのはサットバです。サットバは限りなく純粋な状態。つまり、プルシャに近い状態です。その後、活動的なラジャスが活発に動くことにより、タマスも活動を始めて様々な性質をもった存在が生まれました。
私たちはサットバが優勢になると上昇し、ラジャスが強くなると中間に留まり、タマスが優勢になると下降します。私たちは純粋なプルシャ(幸福)に近づくために、自分自身のサットバ性を上げなくてはいけません。
世の中のあらゆるものは、3つのグナで構成されています。できるだけサットバ性が多く、タマスが低いものを自身に取り入れることによって、自分自身の意識を高い次元(本来あるべきプルシャに近い状態)にもっていくことができます。
食品のグナ
例えば、食べ物を選ぶ時にもそれぞれの性質を考えるようにしましょう。
サットバ性の食べ物
新鮮なもの、軽いもの、調理したばかりのもの、長時間調理していないもの。
例)新鮮な野菜、果物、豆、ミルク、シンプルな調理のもの、消化しやすいもの
ラジャス性の食べ物
刺激の強いもの、辛味、苦み、酸味などがあるもの。
例)辛味スパイスの多い料理、コーヒーなどのカフェイン飲料
タマス性の食べ物
一度調理したあと時間が経って温め直したもの、古くて新鮮でないもの、加工し過ぎたもの。
例)インスタント食品、保存料の入ったもの、前日に調理した料理、お酒、カフェイン飲料(一度活発になった後、タマス性が上がる)、砂糖の多く含まれたもの
ライフスタイルによっては常に新鮮な野菜ばかり食べられないこともあるでしょう。しかし、できるだけ良くないものを減らす努力は難しくありません。
お酒を飲まないと寝れない、コーヒーを飲まないと集中できない……。このような習慣を変えるだけでも効果がとても大きいです。
自分の思考の状態がどのグナに当てはまっているかを観察することも、とても役に立ちます。すぐにサットバ性の思考に変更することは難しいですが、現状を理解することで冷静になり、対処法が分かるようになります。
それぞれのグナの心理状態
サットバ
穏やか、安定、長く続く幸福感、寛大、温かい愛、集中力
ラジャス
感情的、渇愛、執着、切迫感、短期の極端な楽しみ、貪欲、集中力がなく落ち着きがない
タマス
怠け、やる気のなさ、眠気、思い込み、妄想、答え出ない悩み
自身の心の状態を観察すると、どのグナが優勢になっているかを観察することができます。タマスの状態はヨガの練習や生活全体で心地良く生きることの妨げになってしまいます。ヨガの障害として以前紹介した心の状態はタマスの状態と言えます。
自分の心の状態を自覚して、サットバ性を上げることができると良いですね。
普段の生活で自分が触れるもの、行うこと、口にするもの、言葉などをできるだけサットバ性の高いものにしましょう。
場所も重要です。自然の中にいるだけで心が洗われる感覚になるのも、場所のサットバ性の影響を受けているからです。自宅が綺麗に整っているのかもとても大切です。汚れている部屋、物の散乱している部屋は精神状態にも良くない影響を与えます。気持ちが沈んでいる時に、自宅を掃除して自分のいる環境のサットバ性を高めると、気持ちも整うかもしれません。
何を行うのかも大切ですし、汚い言葉を使わないことも大切。全てのエネルギーは繋がっていることを認識して、自分自身の周りをサットバ性の高い状態に保つようにしましょう。
サットバ性が上がると本当の自分を感じやすい
ヨガの目的とは、本来の自分の姿であるプルシャに出会うことです。自身のサットバ性を上げると、自身の本質を見ることができます。
本来の自分の姿である“プルシャ”は池の底の地面の部分のようなもの
池が汚れて濁っていると底は見えません。それはタマス(鈍質)が上がっている状態です。池の水に動きがあり波紋が立っていても底は見えません。それはラジャス(激質)の上がっている状態です。サットバの状態である澄んだ水、それ自体が底ではありませんが、サットバな状態である水を通し、底を見ることができます。
私たちは身体を通して行動し、あらゆる対象を見ます。プラクリティによって作り出された身体は本来のプルシャとなることはできませんが、自分自身の純粋さを高めていくことで自身の本質を見ることができます。
ヨガの実践により、実践者が真我(プルシャ)に到達することができると3つのグナは活動を停止します。
カイバルヤ(孤立)とは、3グナがプルシャのために行う目的が叶い没し去ることである。もしくは、プルシャが本来の状態に安住することである。(ヨガスートラ4章34節)
3つのグナ、つまりプラクリティの全ての活動は、プルシャのための活動です。ヨガの実践によって、私たちが本来のプルシャの状態に到達することが叶うとプラクリティは活動の目的を果たします。本来プルシャとプラクリティは別々に存在し、安住していました。活動を止めた先には、プルシャの本来の姿である永遠の平穏さ、至高の状態に戻ります。それがヨガの最終的な到達点です。
3グナは、あらゆる物質、事柄の性質を考えるために、とても分かりやすいコンセプトです。自分が心地いいと思える状態は、できるだけサットバ性の高いものを選択することで叶います。世の中の「好き」という感情は様々な種類があります。タマス性のものは痛みを伴う快楽、ラジャス性のものは劇的で瞬間的な快楽、この2つは、一時的な楽しみの後、苦痛に繋がってしまいがちです。長く幸福が続くサットバ性の喜びを選ぶことで、人生が安定して幸せなものに近づいていきます。
刺激の強いもの、辛味、苦み、酸味などがあるもの。
例)辛味スパイスの多い料理、コーヒーなどのカフェイン飲料
あなたは自分は一個の肉体であるという思考を忘れ、ただ名前も形もない「私は在る」という知識だけにならなければならない。
真我に対する愛、それは「私は在る」という意識だが、これを真実の愛だと理解した者たちは自分自身が愛となる。
この「私は在る」にはどんなメッセージもなかった。この状態に関して、私は多くを語ることができない。なぜなら、言葉で表現できる余地がないからだ。
「私は在る」という知識は個人的なものではなく、宇宙的なものなのだ。
「私は在る」という概念を身につけると、あらゆる概念に巻き込まれる。この「私は在る」という概念が去ると、私は存在していたとか、こういった経験をしたという記憶は何も残らない。
ニサルガダッタ・マハラジ
「不二一元論」はそれをさらに強調し、「真理はただ一つ、二つとない」と説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタの核心概念で、唯一の実在(ブラフマン)以外に真の現実はなく、個(アートマン)も現象世界もブラフマンの現れとする、より徹底した非二元論です。
梵我一如が「(梵と我は)同じである」という関係性を示すのに対し、不二一元論は「(二つとない唯一の真理が)ブラフマンそのものである」という絶対的な同一性・非二元性を主張します。
意味: 宇宙の根本原理である「梵(ブラフマン)」と、個人の本質である「我(アートマン)」は、本質的に同じものであるという思想。
出典: ウパニシャッド哲学(ヴェーダーンタ哲学の源流)の中心的な教え。
目的: この同一性を自覚することで、輪廻転生からの解脱(モークシャ)を目指す。
核心: 「Tat Tvam Asi(タット・トゥワム・アシ)」(汝はそなり)という言葉に集約される。
意味: 「二つではない、ただ一つの真理」という意味で、ブラフマン(絶対者)のみが真実であり、それ以外のすべて(個、現象)は幻想(マーヤー)であるとする徹底した一元論。
提唱者: ヴェーダーンタ学派の哲学者シャンカラが体系化。
関係性: 梵我一如の思想をさらに推し進め、「真理は二つとない」と断言することで、梵我一如の「同一性」をより絶対的な「唯一性」として強調。
核心: 「二元的な区別は超えられ、すべてはブラフマンという唯一の実在に帰一する」という非二元性(アドヴァイタ)の思想。
梵我一如: 「梵」と「我」は「同じ」という関係性・同一性に着目。
不二一元論: 「二つではない(=唯一である)」という絶対的な「非二元性」を主張し、ブラフマン以外に実体はないとする。
関係: 不二一元論は、梵我一如の教えを基礎に、より厳密な「一元性」を打ち立てたものと言えます。
不ニ一元論 (ふにいちげんろん)
聖典が首尾一貫していればよいのですが、中身を見てみれば矛盾のオンパレードでした。
哲学者たちはそれになんとか整合性をつけようとがんばって、様々な哲学を打ち出します。
その際に、特に問題になったものが、流出論と自己論でした。
インドで最初に哲学を打ち出したのは、ウッダーラカ・アールニ(ヤージュニャヴァルキヤの師匠)です。
彼はインド最古の哲学者と呼ばれ、彼の哲学は流出論的一元論の「有の哲学」と呼ばれます。
簡単に言うと、世界すべてのものは1つの真実在である「有」から流出したとされるという哲学です。
彼の言葉である「汝はそれ(有)である(Tat Tvam Asi)」はインド思想に大きな影響を及ぼしました。
そして彼の哲学はヒンドゥー教へと受け継がれ、ヴェーダーンタ学派では、「最高ブラフマン(梵)=最高自己(我)=最高神」とする典型的な梵我一如の流出論的一元論として、理論を構築していきました。
それは、世界は「善/悪」「浄/不浄」など相容れないものが、どうして一元である「有」から生じるのか、という問題です。
つまり、一元から二元、多元が生じるのは矛盾しているということです。
そして、いつ・どうして流出が始まったのかが不明でした。
そしてウッダーラカ・アールニの後、ヤージュニャヴァルキヤが世界に関与しない自己ということを打ち出します。
「有の哲学」では、世界を生み出す真実在は世界に遍満している世界内存在でした。
しかし、ヤージュニャヴァルキヤはこれまで見たように、真実在(自己)は世界の外に存在するとしたのです。
真実在が世界内と世界外に両方あるこの状況。
哲学者たちはこの整合性をとるの苦心しました。
そこで名乗りを挙げたのがサーンキヤ学派が打ち出した哲学です。
彼らは、「一元論で考えるからダメなのであって、二元論で考えちゃえば話は早い」としました。
この哲学は、自己と根本原質の二元論をとります。
心は物質原理の方に含まれます。
例えて言うなら、脳という物質が思考や感情、判断など心の作用を司るというようなものです。
サーンキヤ学派は、世界の外にいる自己が、世界の原因である根本原質と結びつくことによって、世界の流出が起きるとしました。
その時、世界は3種類の性質原理によって成り立っていて、それらの混合比率で、多様な世界を表すとしました。
つまり、サーンキヤ哲学は一元論を捨てることによって、流出論と自己論を両立したのです。
もともと、流出論的一元論はインドの最も歴史のある正統派のヴェーダーンタ学派が提唱していました。
しかし、当時インド哲学界では、二元論のサーンキヤ学派や、自己も世界も存在しないとする仏教哲学が最盛期を迎えていました。
インドの歴史でヴェーダ聖典の正当性を謳ってきたヴェーダーンタ学派は、これまでは権威のはずであった聖典が、逆に自らの哲学を縛る重荷になっていました。
そんな中、彗星の如く現れたのがインド最高の哲学者と評されるシャンカラでした。
彼の哲学は「不二一元論」と呼ばれて、再び一元論を復活させたのです。(現代においても最も勢力を持っている学派です)
不二一元論はアドヴァイタ(非二元)とも言われます。
「不二」とは、二つ目のものがないという意味です。
シャンカラによれば、世界内の現象世界は幻影(マーヤー)であり、本当の意味では「自己=ブラフマン(梵)」一つのものしか存在しない、といいます。
図のように、世界を幻影とすることで、これまでの流出論的世界観を「無明」の産物と一刀両断し、徹底的な自己=ブラフマン一元論をとりました。
仏教からは真俗二諦論や、現象世界を否定する論理などを、
サーンキヤ学派からは、世界外の自己と現象世界における自我を峻別する理論を用いました。
仏教とサーンキヤ学派の理論を上手く縫い合わせることによって、シャンカラは「世界幻影論=不二一元論」を完成させました。
つまり、これまでのヴェーダーンタ学派がいう流出論的一元論の、「世界流出論」を幻影とすることによって、自己は世界外にあるという伝統的な一元論をまもったのです。
これにより、聖典の中で矛盾があった記述もシャンカラが見事に捌き、初めて聖典の一貫した解説がなされるようになりました。
シャンカラの哲学はあまりにも仏教と類似していたので、仲間からは「仮面の仏教徒」と揶揄されることがあったそうです。
彼は仏教が否定したヒンドゥー教の「自己=アートマン(ブラフマン)」を、仏教の論理を用いながら肯定するという、一発逆転の離れ業をやってのけたのです。
という設定
神の遊戯=世の幻という設定
仏教の無明は自己の心の洞察力か欠くということ
そこが違う
😆
結構にサマーデイ?😆
キメられるので
違いはわかる
😆
😆
イスラームと
既存のキリスト教は
道徳、善悪二元論はあるな
霊的道徳とかいうイメージで
既存のキリスト教やイスラームを読解しようとはしているな?
😆
概要: 「ウパデーシャ」は教え、「サーハスリー」は1000のという意味で、「千の教え」と訳されることが多いですが、実際には約600強の詩句と散文で構成されています。
特徴: シャンカラの著作の中で、唯一直接執筆したと確実視される独立した著作(註釈書ではないもの)です。
内容: 散文(第一部)と詩(第二部)に分かれ、自己の本質が究極の現実である「ブラフマン」であることを説き、無知(アヴィディヤー)を取り除いて解脱に至る道を教えます。
邦訳: 前田專學氏による岩波文庫の『ウパデーシャ・サーハスリー: 真実の自己の探求』が有名です。
この本について、さらに詳しく知りたい箇所(例えば「具体的な教えの構成」や「アヴィディヤーについての解釈」)があれば、お気軽に教えてください。
影響:アヴィディヤーにより、人間は「私は肉体である」「これは私のものだ」というエゴ(我執)に陥り、輪廻(サンサーラ)の苦しみを引き起こす。
解消:知識(ヴィディヤー)すなわち、ウパニシャッドの教えと真我の体得によってのみ、アヴィディヤーは消滅する。
こちらは、世界をプルシャとプラクリティの二元から成り立つとする
一方、二元論はサーンキヤ学派や『ヨーガ・スートラ』が代表的で、純粋精神「プルシャ」と根本物質「プラクリティ」の2つの実体を認めます。
不二一元論(アドヴァイタ): 8世紀のシャンカラにより体系化された、インド哲学の主流。宇宙の根本原理(ブラフマン)と個人の真我(アートマン)は完全に同一であり、世界は唯一の実在しかないと説く。
梵我一如(ぼんがいちにょ): 『ウパニシャッド』の根本思想。「梵(ブラフマン)」と「我(アートマン)」は一つであるという認識。
サーンキヤ学派: 純粋精神「プルシャ」と、根本物質「プラクリティ」という2つの独立した原理を立てる。
『ヨーガ・スートラ』: サーンキヤ学派の二元論を背景とし、物質(心・体)であるプラクリティから、真の精神(プルシャ)を離す(独存・カイヴァリヤ)ことを目的とする。
『バガヴァッド・ギーター』は一元論的背景を持つ一方、ヨガの実践において二元論的な『ヨーガ・スートラ』の手法を取り入れるなど、これら二つの視点はインド哲学(特にヨガ)の中で相互に組み合わさっている。
一般的に二元論は対立を解決するために一元論を要請し、一元論は現実の差異を説明するために二元論的な変容を遂げることがある。
「精神と物質は同じ」と言ってるわけではない
「アートマンとブラフマンは別々の存在だ」と言ってるわけではない
ヨガの目的は、自分の内側に向き合い、自身の本質を理解することです。徹底して自己探求を続けたヨガ派の修行者にとっては、自分自身を理解することが大切であり、世界全体との繋がりには関心が弱かったのかもしれません。
ヨガの瞑想を続けたヨガ派の人たちは、人間は霊魂(プルシャ)と物質(プラクリティ)の2つが出会うことによって発生したのであると気が付きます。
全ての物質(プラクリティ)は無常なものであり、必ず苦しみを生み出してしまいます。そのため、物質世界への執着を弱め、自己の本質(プルシャ)の内に幸福を見出します。
このようにプルシャとプラクリティの2つを全ての根本だと考える哲学を二元論と呼びます。
二元論が生まれたのは、自己探求というテーマがあってこそなのですね。
「物質は有るか、無いか?」
「この外界、物質世界は本当に実在しているのか?」
という、仏教思想史でさんざんオナジミのテーマと
ここでもまた、出っくわすことになる
非二元論は、「物質世界など、有るように見えるだけで、本当は無いのである」と主張する
インド思想なんて、どれも基本は似たようなものだから(笑)
特徴: シャンカラが確立したヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派の思想。
根源: 世界の根源は普遍的な「梵(ブラフマン)」であり、自己の「我(アートマン)」と同一である(梵我一如)。
認識: 個人が感じている分離感や現象世界は「マーヤー(幻影)」であり、真実は一つ(不二)しかない。
特徴: 弥勒、無著、世親らが大成した仏教の思想。
根源: 認識対象となる物質は存在せず、すべては「識(心、vijñāna)」が描き出したもの(唯識)である。
認識: 「アーラヤ識」という心の深層に蓄えられた種子(習気)が現象を現す。外界の独立性を否定する。
実在の定義: 不二一元論は「普遍的な一つの実在(ブラフマン)」を認め、唯識論は「客観的な実在はない(心のみ)」と説く。
立場の違い: 不二一元論は、本質を「有(存在)」と捉えるのに対し、唯識論は(空の視点から)すべては認識に依拠する(縁起)と捉える傾向にある。
これはもう、「ブラフマン」という存在が有るか無いかに尽きる
ここでいう神とは、宇宙の創造主みたいな存在のことだ
法華経や華厳経とは違って、永遠の根本仏も出てこない
天界の諸天は、人間から見れば神様だが
「宇宙の創造主」なんてものとはホド遠い
「アートマンもあるじゃないか」
と言われるかもしれないが、
不二一元論は基本的に無我思想だ
ブラフマンが、アートマンなのである
物質のせいで、有為転変に翻弄される
そこに苦悩が生じる
実際のところ、この2つには見た目ほどの違いがない
シャンカラの不ニ一元論は、唯識論の後に出てきた、次の時代の思想
かつて読んでた「ウパデーシャ・サーハスリー」には、唯識派を批判する箇所が多い
だから、そういう印象がある
阿頼耶識という、アートマンと似たような存在が登場するせいで
唯識論はやたら難解になっている
https://www.yoga-gene.com/post-21800/
サーンキヤ学派(数論):古代インドの六派哲学の一つで、世界を2つの根本原理から構成されると考える二元論です。
プルシャ(神我・自己):純粋な精神、主体的な観察者(魂)。
プラクリティ(自性・原質):物質的な根源、感覚や思考能力を含む、プルシャ以外のすべて。
目的(解脱):人間は苦しみを味わう理由として、自身の「プルシャ」と「プラクリティ」を混同しているとサーンキヤ学派は説く。両者を明確に識別・分離(純粋な観察者として物質世界から離脱)することで、二元論的な自由を得る。
ヨーガ学派との関係:サーンキヤ学派の「理論」を実践的・修行的な手法に取り入れたのが「ヨーガ学派」であり、両者は姉妹関係にある。
プルシャ(Purusha)
哲学: 主にサーンキヤ哲学、ヨーガ・スートラ。
意味: 「真我」「純粋精神」「観照者」。
特徴: 物質的な根本原理「プラクリティ」とは独立した、変化しない個々の「観るもの」。
哲学: 主にヴェーダーンタ哲学、ウパニシャッド。
意味: 「真我」「個の魂」「霊魂」。
特徴: 宇宙の根本原理「ブラフマン」と本質的に同一(梵我一如)とされることが多い。
https://ameblo.jp/naotookamotoyoga/entry-12662341190.html
プラクリティ (Prakṛti):
物質、自然、心、身体、知性など「観られるもの」。
3つの性質(サットヴァ・ラジャス・タマス)から成り、常に変化・創造し続けるエネルギー。
ヨガ哲学(サーンキヤ学派)では「物質的な根本原因」。
宇宙の真理、根本原理、純粋意識、絶対的な存在。
不変、無限、意識そのもの。
ウパニシャッド哲学における絶対真理(梵)。
プラクリティはブラフマンのエネルギー(シャクティ)として、物質世界を展開する役割を果たします。ブラフマン(意識・観る者)とプラクリティ(物質・観られる者)の相互作用により世界が動いていると考えられています。
■ ヨガの微細身の構造との具体的な対応関係は以下の通りです。
■ 1. アンタカラーナ(内的器官)における対応
「じゃあ、アンタからな」って、
カラオケの歌う順番みたい
マナ識に最も近い概念。
万物を「自分」に関連付け、個我としての執着を生み出す機能です。
● マナス(Manas):
唯識の「第六意識」に近い働き(感覚情報の整理や迷い)を指しますが、
文脈によってはマナ識の「思考・意図」の側面を含んで語られることもあります。
「マナ識」が「マナス」の音訳だってのは、よく知られたところだが
ヨーガ哲学だと、末那識に相当するのは「アハンカーラ」(自我意識)なんだな
まあ、仕方ない
違う宗派なので(笑)
心素 チッタ
「チッタ(citta)」はサンスクリット語で「心」や「心素(心の根本要素)」を意味し、
思考、感情、記憶、知性などを含む広い意味での精神活動全般を指します。ヨガ哲学では、記憶や感情が渦巻く「心素(チッタ)」の波立ち(ヴリッティ)を制御し、静寂をもたらすことが目的とされます。
定義:単なる思考を超えた、意識、記憶、知性、感情などの内なる領域全体。
チッタ・ヴリッティ:心の中で絶えず生じては消える波立ち(思考や感情の動き)。
ヨガにおける目的:チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(心素の働きを止滅する)こと。
サーンキヤ=ヨガ哲学:ヨーガ・スートラにおける心の概念の核心。
倶舎論や唯識論の「心所」とは、だいぶ違うな
データを保存する識がない
代わりに、心素がある
ラージャ・ヨーガ
古来のヨーガ修行体系を一つの書としてまとめた聖者がいました。その名前はパタンジャリ大師と言います。
パタンジャリ大師が生きていたのは紀元前300年頃とも言われていますが、当時既に2000年近いヨーガ修行の歴史がありましたから、その間にヨーガ行者たちに伝承されてきていたヨーガの多くの格言を収録してまとめたものがこのヨーガ・スートラとなっています。
ですからこの書は、今でもヨーガを学ぶ者たちが必ず紐解く書になっていて、沢山の解説書が世界中で出版されています。
1 ヤーマ(禁止事項/社会次元の自己制御法)非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪
2 ニヤーマ(お勧め事項/社会次元の自己制御 清浄、知足、努力、聖典学習、絶対者ブラーフマン信仰
3 アーサナ(ヨーガの体位法/肉体次元の自己制御)
4 プラーナーヤーマ(呼吸法/呼吸次元の自己制御)
5 プラーティヤーハーラ(制感/感覚次元の自己制御)
6 ダーラナ(精神集中法/知性次元の自己制御)
7 ディヤーナ(禅那/静慮/知性次元の自己制御)
8 サマーディー(三昧/記憶次元の自己制御)
「記憶とは、かつて経験した対象を心素(チッタ)の内にとどめることである」
ヨガは、常に波立ち動くこのチッタの働き(チッタ・ヴリッティ)を鎮め、平静な状態にすることを目的とします。
本質:心の広大な領域であり、思考や感情、記憶の貯蔵庫。
別名/関連概念:心素(しんそ=意識、心そのもの)。
チッタ・ヴリッティ:チッタの動きや波立ち(思考、感情、記憶、空想)のこと。
ヨガの定義:「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(心の作用を止滅すること)」—ヨーガスートラ1章2節。
記憶する領域という点では似ている
似て非なるものだ
どちらかといえば、表面意識だな
記憶との関係: 第六意識は日常的な記憶の想起や、対象の認識において「記憶と照らし合わせる」役割を持つ。
深層の記憶: 経験の記憶は「種子」として阿頼耶識(第八識)に保存され、必要に応じて第六意識に引き出される。
波のように絶えず変化する思考、感情、記憶などの心の作用を指し、この揺らぎを鎮める(ニローダ)ことこそが、ヨガの目的であるとされています。
チッタ(心): 思考、知性、記憶、感情を含む広範な「精神」そのもの。
ヴリッティ(作用・揺らぎ): 心が外部の刺激や過去の記憶によって形を変え、波立っている状態。不安やストレスもこれに含まれる。
この状態を目指すことで、真の自分自身(真我)を正確に認識し、平穏を得ることができるとされています。
チッタ・シュッディ:心の浄化の理解と実現
投稿日: 2025年03月04日
著者: SitaRama
インド哲学
はじめに
現代社会において、私たちの心は絶え間ない情報の洪水と感覚的刺激にさらされています。スマートフォンの通知、SNSの更新、仕事の締め切り、人間関係の緊張—これらはすべて私たちの心を揺さぶり、しばしば混乱と不安をもたらします。このような状況の中で、古代インドの叡智であるヴェーダーンタ哲学が示す「チッタ・シュッディ」(心の浄化)という概念は、かつてないほど現代人にとって重要な意味を持っています。
輪廻やカルマ(業)を否定し、社会変革と科学的合理性を重視する「社会的行動主義」的な解釈が特徴。
ハッスル🤡様はお気に入のようだ
参禅30年で
どこへ向かっていったのだ?
😫
1. アヴィディヤーの本質:自己の非認識
『ウパデーシャ・サーハスリー』では、アヴィディヤーは単なる「知らないこと(知識不足)」ではなく、「真実の自己(アートマン)を認識していないこと」、または「非自己(体、心、感覚など)を自己と混同すること」と定義されます。
自他混同:純粋な意識である「私」を、身体や心の動きと誤って同一視する状態。
主体・客体の取り違え:本来、全てを照らす「見る者(主体)」である自己を、見られる「対象(客体)」の中に含めてしまうこと。
特に同書の第15~18章(特に詩節篇の後半)では、アヴィディヤーはマインド(心の働き・ブッディ)とほぼ等価であると教えられます。
投影の源:アヴィディヤー(マインド)は、夢の中のように、身体、感覚、対象といった現象世界を投影する。
マインドの停止:マインドが真我(自己)に集中し、その活動が停止する時、アヴィディヤーも消滅する。
アヴィディヤーにより、アートマン(真我)は偽りの「行為者(doer)」や「享受者(enjoyer)」であると誤認され、苦しみや輪廻の連鎖に縛られます。
スーパーインポジション(Superimposition, 擬似付加・adhyāsa):無知によって、不変の自己に変化する性質が投影され、私たちが「私は動いている」「私は死ぬ」「私は悲しい」と感じる原因となる。
アヴィディヤーは、「行為(カルマ)」によって取り除くことはできず、「真理の知(ジュニャーナ)」のみによってのみ滅ぼされます。
タット・トヴァム・アシ(汝はそれである):『ウパデーシャ・サーハスリー』の特に第18章において、この聖句の真意を理解する(自己探求・ニディディヤーサナ)ことが、無知を滅ぼす直接的な手段として説かれます。
結果の不存:無知の根本原因(アートマンの誤認)が消えれば、その効果である輪廻も自動的に消滅する。
『ウパデーシャ・サーハスリー』の構成は、前田専学訳(岩波文庫)が日本語で最も権威のある資料として親しまれています。特に第18章(真実の理解)が、アヴィディヤーに対するシャンカラの論理的対応が詳細に記された最大の章です。
アヴィディヤーが、シャンカラ思想のキーワード
👉 **「心を制御して、本来の自己に目覚めるための体系」**です。
ただし、かなり体系が広いので、核心だけを整理していきます。
ヨガの古典的定義は、ヨーガ・スートラにあります。
有名な一句:
「ヨーガとは、心の働きの止滅である」
ヨガは、サーンキヤ哲学の影響を強く受けています。
基本構造はシンプル:
● 二元論
プルシャ(純粋意識)
プラクリティ(物質・心・自然)
本来:
プルシャ=観るだけの存在(不変)
プラクリティ=変化するもの(身体・心・思考)
しかし人間は
👉 これを混同してしまう
心の動き=自分
感情=自分
思考=自分
と思い込む。
👉 「分離(識別)」すること
「これは心の動き」
「私はそれを見ている側」
と見抜く。
これを
👉 カイヴァリヤ(解脱)
と呼びます。
ヨガは理論だけでなく、実践が超重要です。
これもヨーガ・スートラに出てくる:
八支則(アシュタンガ・ヨガ)
ヤマ(禁戒)
ニヤマ(勧戒)
アーサナ(姿勢)
プラーナーヤーマ(呼吸法)
プラティヤーハーラ(感覚制御)
ダーラナ(集中)
ディヤーナ(瞑想)
サマーディ(三昧)
ヨガも
「脱世俗」という感じなのが
解ってきた
😀
釈迦は
ヨガの達人だったが
苦悩解決できず
苦行してたのはご存知かね?
デンパパ📡にはわからん部分だ
何かを解決していなかったから、
倶舎論には明白に書かれている
😀
シンプルに
如実知見だ
デンパパ📡には
わからない
😀
解答示さず
ここにレスする
😀
龍樹のいう 「戯論」の山盛りしているのに
過ぎない
戯論魔王ハッスル🤡様も
おられるし
😀
観だ
サティだ
デンパパ📡やヨガには不要
😀
他の宗教には
そんな観の
システムはない
😀
如実知見
と言っていいだろう
故に
デンパパ📡に
アホらしくて
マジレスしてやらん
😀
パーリー語だ
アホ〜📡感
お前はさ
戯論によって戯論を滅すが分からんようやな
龍樹の中論はむしろ戯論(仮名)だらけの構成だぞ
おバカ
体を整える
呼吸を整える
感覚を引き込む
意識を一点に集中
深い瞑想へ
最終的に「観る者」だけが残る
ヨガでは心を細かく分析します。
主なもの:
マナス(感覚処理)
ブッディ(判断)
アハンカーラ(自我)
これらすべてが
👉 プラクリティ側(=本当の自分ではない)
ヨガでは苦の原因を
👉 無明(アヴィディヤー)
とします。
つまり:
本当の自己を知らない
心を自己と誤認する
あなたの関心に合わせて比較すると:
● ヨガ
真の自己(プルシャ)がある
それに目覚める
● 仏教
固定的な自己はない(無我)
執着を離れる
■ 共通点
心の観察
執着からの解放
瞑想の重視
■ 決定的違い
👉 「自己があるかどうか」
ヨガ思想とは:
👉 「私は心ではない、と徹底的に見抜くための実践哲学」
■ あなた向けに一歩踏み込むと
禅との対比で言うと:
禅:今ここに直接突入
ヨガ:段階的に意識を純化
そして浄土系(親鸞)と比べると:
ヨガ:自己努力(徹底的修行)
浄土:他力(すでに救われている)
もし興味があれば、さらに深いテーマとして:
ヨガとヴェーダーンタの違い(かなり重要)
サマーディの種類(有想・無想など)
クンダリーニとの関係
このあたりもかなり面白いです。
天台、真言密教、チベット密教、華厳の
ほうが、
ヨガぽくなっているけど
やはり、世界をリアルに捉える観法がないのが
ヨガ
根源への回帰がヨガ
世界のリアルは神の遊戯と断定する脱世俗
😀
プラーナーに入れる
ヨガ聖典の日本語訳読んでも気持ち良く入れる
だが、世界のリアル認知は狙わないのが
ヨガ 😀
念仏山伏神仏習合になると
より
ヨガっぽくなってくる
リアルな
世界認知のできない末法なので超越的そんさに期待するから
超越的存在と結びつく、結縁とか
ヨガっぽくなる
😀
アストラル体とか、なんでも混ぜ合わせる
ヨガ的にもトンデモだから
デンパパ📡と
お呼びしている
😀
衆生のリアルを認知しないといけない
唯識に四智あって、
密教に五智あるのは
そういう意味、
ヨガは
神の遊戯の幻からの解脱であり
衆生のリアル認知はどうでもええ
法然みたいに、この世を穢土決定して、
神の遊戯から離脱すれば
ええみたいな狙いなっているんだろな、
😀
それが
「脱世俗」
😀
デンパパ📡?
はあ?
何を仏教関連スレでマウント頑張ってるんだ?
感
😀
全く異なる
😀
後のディグナーガの論理学も
ある意味
ヨガの神の遊戯の離脱に対して
アンチテーゼの
如実知見の些末な分析なんだろな
😀
相当ヨガ勢力に危機感があったんだろな、
インドでは後にヨガ勢力が圧倒する
玄奘三蔵の時代ですら
廃墟になった有名寺院を見たらしい
😀
ヨガ勢力が本格的になったんだろな
😀
心の目的と機能
ヴェーダーンタ(वेदान्त, vedānta)哲学において、人間の心は複雑な構造を持ち、明確な目的と機能を有しています。心の理解と浄化は、チッタ・シュッディ(心の浄化)と呼ばれる精神的な実践の中核をなします。この概念は現代の霊的求道者にとって馴染み深い言葉ですが、その本質的な意味を理解するためには、心の構造についての理解を深めることが役立ちます。
ヴェーダンタなんやろ
唯識は
自己の、心の苦しみの原因を取り除く
その違いやろ
😀
ムイムイにナルシズム
ハッスルにはハッスルしてるな?
と分析サービスしている
お前らは自分の幻を見てるんだ、
とは言っていない
😀
人間は幻を見ている説だからなー
😀
神の遊戯の中にいる
とか
😀
苦しみの輪廻、神の遊戯、幻から
自我断滅によって解脱するのが
ヨガ
ということやろ
単なる脱世俗か
分析と洞察か、
むろんデンパパ📡に
分析や洞察すらない
😀
世界の捉え方:世界は神が自己表現し、楽しむための「舞台」であり、すべての出来事は神の戯れ(リーラ)とされる。
苦楽の超越:良いことも悪いことも、物語の一部として客観的に観察し、固定的な執着や苦悩から解放(解脱)を目指す。
ヨガの目的:この世を神の遊びとして見通す視点(智慧)を持ち、心(チッタ)を静めて自己の神聖さを認識すること。
ヨガの哲学では、この世界に没入しすぎず、観察者(証人)としての視点を持つことで、神の遊びを共に楽しむかのような軽やかな生き方を推奨しています。
ここでは、哲学的・実践的な側面から整理してみます。
1. ヨガ思想の基本
ヨガは単なる体操ではなく、心身の統合と解脱(モークシャ)を目指す古代インドの体系的思想です。代表的には以下があります:
パタンジャリのヨーガ・スートラ
8段階の修行法(アシュタンガ・ヨーガ)を説く
ヤマ(道徳規範)
ニヤマ(自己規律)
アーサナ(座法・身体修行)
プラーナーヤーマ(呼吸制御)
プラティヤーハーラ(感覚の制御)
ダーラナ(集中)
ディヤーナ(瞑想)
サマディ(三昧、完全な統一意識)
ラージャ・ヨーガ(王のヨーガ)
精神の制御と瞑想を重視する体系
ハタ・ヨーガ:身体と呼吸を中心にした修行
バクティ・ヨーガ:神への献身
ジャナ・ヨーガ:知識による解脱
クンダリーニ・ヨーガ:内なる覚醒エネルギーを目覚めさせる
ヒマラヤ山脈には古来より「聖者(リシ・サドゥ)」たちが隠遁生活を送り、ヨガや瞑想を実践してきました。特徴は以下です:
修行の場としてのヒマラヤ
自然環境が厳しく、人里離れた孤独の中で精神を集中できる
伝統的に「解脱に最適な地」とされる
著名なヒマラヤ聖者の例
スワミ・サッチダーナンダ:ヒマラヤで瞑想修行、ヨガの普及者
マハトマ・ミラバイ(伝説的な修行者)
ヒマラヤの隠者(ナナクなどの伝承):口伝でのみ知られることが多い
教義の特色
経典や文字に頼らず、直接体験による悟りを重視
クンダリーニ覚醒やチャクラ瞑想など高度なヨガ実践
世界観としては、身体と精神、宇宙の一体性を強調
孤独と自然の中での修行:外界の雑音を断ち、内面の真理に向かう
体・呼吸・意識の統合:アーサナやプラーナーヤーマを単なる体操でなく、精神統一に使う
直接体験重視:書物や理論よりも「内的覚醒」を優先
師弟関係:多くの場合、個別に指導するグルやマスターから直接学ぶ
もし希望であれば、具体的なヒマラヤ聖者の名前とそのヨガ実践法を年代や流派別に一覧でまとめることもできます。
作ってほしいですか?
ただし、思想的・伝承的に有名な人物はけっこういます。
● マハーヴァター・ババジ
伝説的存在で、「不死の聖者」とも言われる
ヒマラヤに住み、密かに人類を導いているとされる
パラマハンサ・ヨガナンダ の『あるヨギの自叙伝』で世界的に有名に
👉 実在か象徴かは議論あり
チベット仏教の大聖者
若い頃に罪を犯すが、厳しい修行で悟りに至る
洞窟での極限修行で有名
👉 「罪→懺悔→悟り」というドラマ性が強い
チベット仏教の開祖的存在
ヒマラヤの霊的世界と深く結びつく人物
超常的能力(神通力)の伝説が多い
👉 「密教的な聖者」の典型
厳密には南インド中心だが、ヒマラヤ的精神性の代表
「私は誰か?」という自己探求(アートマン探求)を説く
👉 神秘よりも“純粋な意識”にフォーカス
ヒマラヤの麓(リシケシ)で活動
現代ヨガに大きな影響
👉 修行だけでなく、実践的な教えを体系化
ざっくり言うと:
世俗社会から離脱(洞窟・山中)
極限的修行(断食・瞑想・沈黙)
自我の超越(エゴの消滅)
神秘体験(悟り・解脱)
師弟伝承(グルと弟子)
ここが重要で、
👉 ヒマラヤ聖者は「歴史的人物」と「神話的存在」が混ざっている
例えば:
ミラレパ → ほぼ歴史的実在
ババジ → かなり神話寄り
つまりヒマラヤ聖者とは、
「人間が到達しうる極限の精神状態」を象徴した存在でもある
すごいな?
プラーナはマスターしてる😀
俺ちゃまほ天才だ
他のヨーがは、やったことないので
知らない
😀
😀
😀
スワミ シヴァナンダとは
スワミ・シヴァナンダ(1887-1963)は、医師から転身し、リシケシを拠点にインド古来のヨーガと哲学を世界に広めた近代の聖人・ヨガ指導者です。愛と奉仕の精神を説き、シヴァナンダ・ヨガの創始者として、現代の健康的な心身と精神的安定を目指す体系を確立しました。
経歴と変遷: 南インドに生まれ、マレーシアで医師として貧しい人々を治療していました。しかし、肉体的な癒やしだけでなく精神的な救済が必要だと感じ、ヒマラヤのリシケシで出家し、修行を経て聖者となりました。
教えと理念: 「全てに奉仕し、全てを愛し、すべての生きとし生けるものの中に神の存在を見る」という教えのもと、ヨーガの知識を現代に伝えました。彼の教えは、6つの言葉「奉仕せよ、愛せよ、与えよ、浄化せよ、瞑想せよ、悟れ」に要約されます。
シヴァナンダ・ヨガ (Sivananda Yoga): 伝統的なヨガのスタイルの一つ。呼吸法(プラーナヤーマ)、太陽礼拝、12の基本ポーズ、そして瞑想やチャンティング(マントラ唱詠)をバランスよく行い、心と体の調和を目指します。
ディヴァイン・ライフ・ソサエティー (Divine Life Society): 彼が設立した精神修養団体。
聖者・師: スワミ・シヴァナンダ・サラスワティ。
関連する著名な弟子: スワミ・ヴィシュヌ・デヴァナンダ(シヴァナンダ・ヨガを世界へ普及)、スワミ・サッチダーナンダ(インテグラル・ヨガ創始)など。
5つのヨガ原理: 適切な運動(アーサナ)、適切な呼吸(プラーナヤーマ)、適切な休息(サヴァーサナ)、適切な食事(ベジタリアン)、ポジティブな思考と瞑想の5つを指針としています。
シヴァナンダ・アシュラム: インドのリシケシにあり、現在も多くの人々が修行の場として訪れます。
スワミ・シヴァナンダは、現代においてもその愛と奉仕の精神、そして実践的なヨガの教えを通じて、世界中で尊敬され続けているスピリチュアルリーダーです。
シヴァナンダ系統じゃないかな?
😀
寝言よりも
ありがたみがある
😀
寺ヨガで、
シヴァナンダヨガは
勢力を伸ばしているようだ
😀
スワミ・シヴァナンダの教えに基づき、アーサナ、呼吸法、瞑想、奉仕(カルマ・ヨーガ)を軸にした「ヨガ・バケーション」プログラムを提供し、世界中から参加者が集まる心身の浄化と自己探求の聖地です。
場所:インドの主要アシュラムはリシケシ(Divine Life Society)やケララ(Dhanwantari Ashram)に位置する。
教え:「奉仕せよ、愛せよ、与えよ、純粋であれ、瞑想せよ、悟れ」という理念。
活動内容:毎日のヨガクラス(アーサナ)、呼吸法(プラナヤマ)、瞑想、サットサンガ(講話)、カルマ・ヨーガ(奉仕活動)。
生活:シンプルで規律ある生活。食事はベジタリアン(サトヴィック・ダイエット)。
目的:心身のバランスを整え、精神的な成長を目指す。
東京都世田谷区(旧代々木)に「シヴァーナンダ・ヨーガ東京センター」があり、本部の指導法に基づいたクラスやワークショップ、指導者養成コースが提供されています。
デリーから車で約6時間の距離にあり、ヒンズー教の聖なる川「ガンジス川」の上流に位置しています。
世界的な「ヨガの首都」として知られ、多くのヨガ道場(アシュラム)やカフェが点在しています。
場所:デリーの北約280kmに位置。
環境:ヒマラヤの山々に囲まれ、ガンジス川が流れる自然豊かな環境。
特徴:1960年代にビートルズが滞在したことで知られる、世界中のヨギーが訪れるヨガの修行地。
エリア:ラクシュマン・ジュラ(中心地)、タポバン(ヨガやカフェが多い)、ラム・ジュラ(もう一つの主要な橋周辺)のエリアに分かれます。
じつは、自分がヨガについて
ほとんど何も知らないってことに😂
よほど興味なかったんだろうな😂
https://yogabyminami.com/wp-content/uploads/2023/02/P1230072-1-1536x1152.jpg
リシケシはヨーガの聖地とも言われています。それはなぜか?
本物のヨーガ行者は、ヒマラヤ奥地の過酷な状況下で修行していると言われています。
(私は行ったことがないので、本物のヨーガ行者には出会ったことがありません…いつか出会いたい)
私の師匠である木村慧心先生もヒマラヤで修行されました。
木村先生の師匠はスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師(マハラジ)です。
木村先生は50年ほど前にインドで彼の本を読み、彼の存在を知ります。
その本の所有者(マハラジの弟子だった女性)に居場所を聞くと、ヒマラヤから下りて一時的にリシケシにいるだろうと教えてもらい、リシケシで初めてマハラジに出会います。
その時はすでにご高齢だったマハラジですが、15歳頃からヒマラヤで修行をしていたそうです。
これらから推測すると、ヒマラヤで修行をしている行者は、時々下りてきては、リシケシに滞在していたのではないでしょうか。
マハラジと同じように、リシケシにヨーガ道場を開いた行者もいます。
リシケシはヨーガ行者にとって、玄関のような場所なのでしょう。
実際にリシケシへ行って私が感じたことは、ヨーガをするのに最適な環境だということ✨
こうやって聖地リシケシが出来上がっていったのでしょうね。
https://yogabyminami.com/wp-content/uploads/2023/02/P1230089-1536x1152.jpg
シヴァナンダヨガだけは
知ってる
デンパパ📡路線は無関心
😫
ラマナ・マハルシとか
ニサルガダッタ・マハラジだな
ハッスル知識に近い不審感がある
テキトーこいてるんではないか?
と
😀
異端もいいところやろな
😀
デンパパ📡に感じる
今や、
アストラル体とかな
引き寄せの法則とか
😀
神智学だな😆
デンパパ📡は神智学、引き寄せの法則
なんでもあり
俺にみたいに宗教別区別しないので
イミフ教祖
👽
ヨガ哲学とヴェーダーンタ哲学は、どちらもインドの深い精神思想ですが、目指す方向やアプローチが少し違います。わかりやすく整理します。
両方ともインド哲学の一部
人生の苦しみからの解放(解脱)を目指す
ヒンドゥー教の思想体系に基づく
代表的な経典:ヨーガ・スートラ(パタンジャリ)
特徴
実践重視(心と体のトレーニング)
心の働きを止めて本来の自己を知る
「八支則(アシュタンガ)」が中心
目的
心の乱れを止めることで「純粋意識(プルシャ)」に気づく
👉イメージ
→瞑想・呼吸・ポーズで到達する道
代表的な経典:ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター
特徴
知識・洞察重視(哲学的理解)
「自分とは何か?」を論理的に探求
特に有名なのが不二一元論(アドヴァイタ)
代表思想家:シャンカラ
目的
「自我(アートマン)=宇宙の根源(ブラフマン)」と理解する
👉イメージ
→深い思索と理解で目覚める道
ヨガ哲学 →「やって体験する」
ヴェーダーンタ →「考えて理解する」
■ 実は補完関係
この2つは対立ではなく、
👉ヨガで心を整え
👉ヴェーダーンタで真理を理解する
というふうに、一緒に使われることも多いです。
もし興味あれば、
「仏教との違い」や「現代ヨガとの関係」もかなり面白いので説明できます。
■ ヨガ哲学を実践している人たち
① 現代のヨガ実践者
ヨガスタジオに通う人
インストラクターやトレーナー
健康・ストレスケア目的の人
👉いわゆる「ヨガ=ポーズ」から入る人が多いですが、背景に
ヨーガ・スートラの思想があります
アシュラム(修行道場)にいる修行者
瞑想を中心にする人たち
インドの伝統的な修行者(サドゥーなど)
代表的な流れはパタンジャリの系譜
👉特徴
実際に「心を止める」ことを本気でやる
長時間の瞑想や禁欲生活も珍しくない
フィットネスとしてヨガをやる人
ピラティスやトレーニングと併用
👉この層は哲学よりも「体」が中心
① 哲学・スピリチュアル探求者
「自分とは何か?」を知りたい人
宗教・哲学に興味がある人
意識や存在に関心がある人
ベースになるのは
ウパニシャッドや
バガヴァッド・ギーター
インド哲学を研究する人
宗教学・思想史の専門家
👉かなり理論的・言語的な理解を重視
グル(師)について学ぶ弟子
インドや海外のヴェーダーンタスクールの学生
代表思想家:シャンカラ
👉特徴
講義・対話・思索が中心
「理解すること」が修行になる
ヨガ哲学に向いている人
まず体を動かしたい
感覚や体験を重視
ストレスを整えたい
言葉より実践タイプ
👉「考えるより、やって感じたい人」
深く考えるのが好き
抽象的な話が苦じゃない
「本当の自分とは?」に強い関心
哲学・宗教が好き
👉「体験より、理解で納得したい人」
実は多くの人はこうなります👇
ヨガから入る(健康・ストレス対策)
↓
「これって何のため?」と疑問が出る
↓
ヴェーダーンタに興味を持つ
つまり
👉ヨガ=入口、ヴェーダーンタ=深掘り
ヨガやってる人 →「整えたい人」
ヴェーダーンタやってる人 →「知りたい人」
もしよければ、
「自分はどっちタイプか」もかなりはっきり分かるので、簡単に診断っぽく見ることもできますよ。
実際はもう少しこういう感じ👇
ヨガ好き → ヨガ哲学に入りやすい
哲学好き → ヴェーダーンタに入りやすい
👉これはかなり現実に近いです
実はインドの伝統では、この2つは別ルートというより段階的です。
流れとしてはこう👇
ヨガで心を整える(実践)
ベース:ヨーガ・スートラ
その後、真理を理解する(知識)
ベース:ウパニシャッド
👉つまり
ヨガ → ヴェーダーンタ が王道ルート
ヨガ側(現代)
フィットネス化している
体・健康目的が強い
哲学まで行かない人も多い
ヴェーダーンタ側
最初から「真理」に興味ある人が来る
かなり抽象的で難しい
あなたの一文を少しだけ修正すると👇
👉
「ヨガ好きな人はヨガから入りやすい。
哲学好きな人は最初からヴェーダーンタに行くことも多い。
でも本来は両方やるもの」
極端に言うと👇
ヨガだけ → 体験はあるけど言語化できない
ヴェーダーンタだけ → 理解はあるけど実感が弱い
👉だから伝統的には
両方やって完成なんです
ヨガ:水を飲む
ヴェーダーンタ:水の正体を理解する
👉どっちかだけだと偏る
いいところに気づいてるので、もう一歩だけ進めるとかなり理解が深まります。
もし興味あれば、
「仏教とヴェーダーンタの違い」とかもかなり面白い比較になりますよ。
いい質問です。結論から言うと、「瞑想で心を鎮めること」はヨガ哲学の“重要な一部”ですが、それがすべてではありません。
ヨガ哲学の代表的な体系であるヨーガ・スートラでは、ヨガは
**「心の働き(思考や感情)の動きを止めること」**と定義されています。
ここでいう「止める」は、無理に抑え込むというより、静まり、本来の状態に戻るイメージです。
倫理(ヤマ・ニヤマ)
身体(アーサナ)
呼吸(プラーナーヤーマ)
感覚の制御
集中
瞑想(ディヤーナ)
深い没入(サマーディ)
つまり、瞑想はゴールに近い段階の一つであって、
その前に生活や行動、身体、呼吸なども含めた総合的な実践があります。
瞑想で心を鎮める → ヨガの核心に近い
でもヨガ哲学はそれだけではなく、
「どう生きるか」まで含めた広い体系
もし気になるなら、
「なんで心を止める必要があるのか?」とか「瞑想とマインドフルネスの違い」もかなり面白いテーマですよ。
ヨガはなんたって、そこだ
ヨガよりヴェーダーンタがオススメだ
結論から言うと、ヴェーダーンタ哲学にも「心を静める」という要素はあるのですが、ヨガ哲学とは位置づけが少し違います。
ヴェーダーンタの代表的な経典であるウパニシャッドでは、
自分の本質(アートマン)=宇宙の根源(ブラフマン)であると悟ること
が最も重要とされています。
つまりヨガのように
「心を止めることそのもの」が目的というよりは、
👉無知(勘違い)を取り除いて、本当の自己を理解すること
がゴールです。
いえ、ちゃんと出てきます。
ヴェーダーンタでも、理解を深めるプロセスとして:
聞く(シュラヴァナ)
熟考する(マナナ)
深く観る・瞑想する(ニディディヤーサナ)
という段階があり、
最後の「深く観る」はかなり瞑想的な実践です。
ここが一番大事です:
ヨガ(例:ヨーガ・スートラ)
→ 心を静めること自体が解脱への直接手段
ヴェーダーンタ
→ 真理を「理解・認識する」ことが解脱
(心の静けさは、その理解を助ける条件)
ヨガ:水面の波を止める(静寂そのものが鍵)
ヴェーダーンタ:水の正体が「もともと水だ」と知る(認識が鍵)
ヴェーダーンタにも瞑想はある
ただし目的は「心を止めること」ではなく
👉真理をはっきり認識するため
もし興味あれば、「じゃあ両者は対立するのか?」とか「実際の修行ではどう組み合わされているのか」もかなり面白いテーマです。
このスレタイテーマで
ヨーガ瞑想の究極を
模索する
😀
無思考、無感情という
方面への突撃だな、
とヒラメイた
😀
😀
https://www.vedantajp.com/?mobile=1
師は世界的に活動しているラーマクリシュナ・ミッションの僧である。このミッションは、宗教の調和を信条とし、インドに本部を置く宗教と慈善の団体です。
師の生誕地はインドの西ベンガルであり、その後カルカッタ大学で法律と現代歴史を勉強し、1974年ラーマクリシュナ僧団に入団しました。1980年よ り、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を12年間務め、1993年からはミッションの日本支部の会長を務めています。
現在は、インドで培われた霊性、そしてヨーガの道徳・心のあり方・宗教的な事柄について、日本の各地・島々で、時には海外にも出かけて、講演を行っています。
今まで、師はたくさんの雑誌に文章を書いてきました。特に、インドの歴史、宗教、文化の中心地として有名なバラナシ(ベナレス)を詳しく調べた師の本は、世界的に評価されています。また、ディヤーナムという瞑想ガイドのCDは、世界で販売されています。
ヨーガ瞑想は
仏教瞑想だと
自己の内外同時の如実知見を扱うが
ヨーガ瞑想はそれではない
心身の根源の統御とか狙う
😀
😀
罰あたらなきゃよいがな?
😀
スワーミー・メーダサーナンダ師
スワーミー・メーダサーナンダ師(Swami Medhasananda / メーダサーナンダ)は、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ伝統(ラーマクリシュナ・ミッション)に属するインドの僧侶で、宗教的・哲学的な教師として活動している人物です。
概要
所属宗派:インドのラーマクリシュナ・ミッション(宗教と慈善活動を行う団体)の僧侶。
役職:日本支部(日本ヴェーダーンタ協会)の会長を務める。
教育とキャリア:
インド西ベンガル生まれ。カルカッタ大学で法律と現代歴史を学んだ後、1974年にラーマクリシュナ僧団に入団。
1980年~12年間、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を務めた。
1993年からはミッション日本支部の会長として、日本国内を中心に講演や指導を行っている。
教えと活動
師はヒンドゥー教の霊性修行、ヨーガ、心のあり方、宗教的教えについて講話・リトリート・執筆活動を精力的に行っています。
多数の書籍を著しており、日本語でも『輪廻転生とカルマの法則』や『生きがい ― インド哲学の見方で』などが出版されています。
著作の例(日本語版)
輪廻転生とカルマの法則— 輪廻・カルマ・死後の世界などについて解説。
生きがい インド哲学の見方で— インド哲学を通した人生観を述べた一冊。
パタンジャリ・ヨーガの実践 そのヒントと例— ヨーガ実践のガイド。
現在の活動
師は日本各地で霊性や哲学に関する講話・リトリートを行っているほか、相談や面会に応じる活動もしています(面会は要予約)。
まとめ:スワーミー・メーダサーナンダ師は、インドの伝統的ヴェーダーンタ(哲学・宗教)を日本で広めているラーマクリシュナ・ミッションの僧侶・教師であり、著作や講話を通して生き方や精神性について教えています。
スワーミー・メーダサーナンダ師の教えは、基本的にインドのヴェーダーンタ哲学とラーマクリシュナ・ミッションの霊性実践に基づいています。日本語の講話や著作を通じて、わかりやすく日常生活に落とし込んだ形で説かれています。具体的には次のような内容です。
1.輪廻とカルマの法則
人間は生まれ変わり(輪廻)を通じて魂を成長させる存在であると説く。
今の人生の状況や性格、経験は「カルマ(行為の結果)」によって影響される。
そのため、苦しみや困難も単なる偶然ではなく、魂の学びの一部として捉えることが重要。
2.生き方・人生の目的
人生の最終目的は、魂の自由(モークシャ)や自己認識にあると強調。
日常生活の中での行為や思考を通じて、自己を浄化し、他者への愛や奉仕を通じて成長することが勧められる。
著書『生きがい ― インド哲学の見方で』では、仕事や家族生活、学びの中で霊性を実践する方法を具体的に示している。
3.ヨーガと瞑想の実践
パタンジャリ・ヨーガ経典に基づき、**心の統御(瞑想・呼吸法・集中法)**を重視。
身体的健康だけでなく、心の平静と洞察力を養うための具体的な方法も指導。
ヨーガは単なる運動ではなく、「精神的成長の道」として位置づけられている。
4.宗教的寛容と内的体験
特定の宗教儀式や形式だけにこだわらず、個々の体験と理解を重視。
他宗教・他文化の価値も尊重し、神や真理への体験を深めることを説く。
ラーマクリシュナ・ミッションの教え「宗教は一つの目的に向かう異なる道」を実践的に解説。
5.日常生活での実践
思いやり・正直・自己制御・勤勉といった倫理的生活が、霊的成長につながると教える。
小さな行動や意識の変化が、カルマを浄化し、心の平安をもたらすと説く。
要するに、スワーミー・メーダサーナンダ師は哲学的理論だけでなく、日常生活の中での実践を重視したヴェーダーンタの教えを説いていると言えます。
作ってほしいですか?
そこを頼む
了解です。では、スワーミー・メーダサーナンダ師の教えを日常生活で具体的に実践する方法を整理してみます。彼の思想の核は「心の浄化・カルマの理解・他者への奉仕・瞑想的生活」にあります。
1.心の浄化・自己観察
朝晩の自己反省:その日あった出来事や自分の反応を振り返り、良かった点・改善点をメモする。
感情のコントロール:怒りや嫉妬を感じたら、「これは自分のカルマの学び」と捉え、反応する前に深呼吸する。
感謝の習慣:家族、友人、職場、自然など日常の小さなことにも感謝の意識を持つ。
ポイント: 感情や反応を「良い・悪い」で裁くのではなく、「学びの機会」として見る。
2.奉仕と他者への思いやり
小さな奉仕:家族や同僚、地域での手助けを意識的に行う。
聞き役に徹する:相手の話を遮らずに最後まで聞く。これは「思いやりの訓練」となる。
ボランティア活動:時間やスキルを使った無償の奉仕も推奨される。
ポイント: 奉仕は「見返りを求めず」に行うことが大事。
短時間の朝瞑想:5~15分でもよいので、呼吸に意識を集中する。
マインドフルネス:食事や歩行など日常動作でも「今、この瞬間」に意識を向ける。
心の静けさを意識:怒りや焦りが出たときに数回深呼吸して「心の平安」を取り戻す。
ポイント: ヨーガや瞑想は特別な道具不要で、日常の動作に組み込むだけでも効果がある。
4.倫理的生活(ダルマの実践)
正直:小さな嘘も避ける。誠実さが心の安定につながる。
節度:食事・消費・言葉・時間の使い方に節度を持つ。
勤勉:仕事や学びを丁寧に行うことも、カルマの浄化になる。
ポイント: 日常の「小さな正しい行い」が大きな霊的成長につながる。
哲学書を読む:ヴェーダーンタの入門書や師の著作を1日10~20分読む。
内面での問いかけ:「自分の行動は誰かのためになっているか」「今日、自分はどんな学びをしたか」など自問する。
教えの共有:家族や友人に教えを話すことで理解が深まる。
ポイント: 学ぶだけでなく、実生活で実践してこそ効果がある。
💡まとめ:
師の教えを日常に落とすには、
小さな習慣(瞑想・自己反省・感謝)
倫理的行動(正直・節度・奉仕)
学びの意識(哲学書・内省・対話)
をコツコツ積み重ねることが大切です。
> カオリンが絶叫する前に、なんかコピペしてるな?
> 😀
カオリンの代理でコピペしといた
識別する
ま、仏教では
こんな事をを想定しない
自分と世界を如実知見に知り分析して
ゴールを建てる
ここがデンパパ📡やら仏教知識やレスするしないの識別ポイントである
😀
コントロールする
という発想のようだ
シヴァナンダヨガでも
脱落した
至福の感覚があるが
その根源的な魂で全てを
コントロールする、統御だ
😀
魂の根源的なエネルギーで世界を識別する
それがヨガ瞑想の究極だ
😀
ヨガ瞑想の呼吸そのものが
全てのエネルギー源だと
ほぼ、直観的理解ね
😀
ノーサンキューだ
😀
まともな宗教な
どの宗教でも
ありそーな設定ではある
😀
アストラル体は
魂の根源的なエネルギーではないな?
直観的把握している
😀
月分のクラスを1月31日に行っています。↓
ダウンロード
2026年01月 テーマ:『「 敵の心から友の心になる方法」—「識別の最終目的」のための「気付き」の実践 』
2026-01-31-Gītā.pdf
PDFファイル 451.1 KB
ダウンロード
全ては自分の内側にあると
書いている
デンパパは金星人や
自分の外部を求める
ヨガ瞑想ではないな
😀
目的ではないが
😀
一時仏教タイムだ
やる気がないけどなー
習慣だ
あと真言宗寺院もいく
これも習慣だ、この季節限定の
😀
ということに対して、過剰反応な人が多いな
真言宗寺院は
家に戻った
😀
ま、シヴァナンダヨガのみ体験ごあるので
そのデータリンクで読める
😀
アートマンではない、と識別する
😀
😀
ツギハギコピペ
かなり、思い出してきたな?
😀
アートマンはいつも永遠、いつも静か、平安です、いつも至福です➖
もちろん、「瞑想」は、絶対に必要です。ヨギーたちは、6時間、8時間「瞑想」します。
ほかの時、どうしますか?(「瞑想」しない時)世俗的な者になりますか? そうではない。
ほかの時も、霊的な生活を続けてください
霊的になりたいなら、ある時から貴方の考え・生活を別々にしないといけない。
幸や不幸があろうが、名誉や不名誉などにもかかわることなく、
いとものどかで平安な境地に住んでいる。
もし貴方が、自分の心と感覚をコントロールできたなら。
平安の一番大事な特徴は、「心は静かぁ~」です。
向こうのみんな、人間だけではなく、動物も皆、お釈迦さまを見て静かぁ~になりました。
もう一つの意味は、「全ての中に神様を観る」です。
とても大切なことは、心・性質が清らかな方、ブラフマン
釈迦如来の神の化身扱いで
静かなる存在、
アートマン、ブラフマン解釈しており
如実知見がベースにした像ではない
😀
シャンティ
😀
シヴァナンダヨガの記憶から
データリンクしてる
体験の解説は
このような感じらしい
😀
静か
よりも
ホッスル🤡してるしか記憶がない
😀
マウントハッスル👽してるしか
印象がない
😀
カオリンにしろ
😫
日本ヴェーダンタ協会の
お勉強ができた
😀
ヴェーダーンタ協会までマスターしつつあるな?😆
鋭いところですね。ここはインド哲学の“いちばん議論されてきたポイント”です。
結論から言うと:
👉厳密には矛盾する(理論としては両立しない)
👉 でも実践レベルでは補完的に使われることが多い
この「二層構造」で理解するとスッキリします。
● ヨガ(サーンキヤ系の二元論)
代表:ヨーガ・スートラ
プルシャ(純粋意識)とプラクリティ(物質・心)は別物
苦しみは「混同」から起こる
解脱=両者を切り離して区別すること
👉 世界は「本当に二つある」
代表:ウパニシャッド
体系化:シャンカラ
アートマン=ブラフマン(すべては一つ)
世界の分離は無知による見かけ
解脱=最初から一つだったと悟ること
👉 世界は「本当は一つ」
はい、哲学としては真正面から矛盾します。
ヨガ:精神と物質の二つは「実在として別」
ヴェーダーンタ:二つに見えるのは「錯覚」
これは妥協できないレベルの違いです。
ここが面白いところです。
■ レベル(段階)の違いとして扱う
多くの伝統ではこう解釈します:
① 初期段階(ヨガ的)
「私は心や身体とは違う」と切り分ける
観察者としての自分を確立する
👉二元論が役に立つ
② 最終段階(ヴェーダーンタ)
観察者と対象の区別すら超える
すべてが一つだと見抜く
👉非二元に移行する
有名な流れです:
「私はこの波ではない」(ヨガ)
「そもそも全部、水だった」(ヴェーダーンタ)
👉 否定 → 統合
非二元の立場からはこう言います:
二元論は「途中の教え(方便)」
最終的には捨てるべきもの
つまり
👉ヨガは“準備段階として正しい”が、究極ではない
「自我心を克服した人にとって、心は最良の友であるが、それを克服できない人にとっては、 心こそ最大の敵となる。」
ギーターより
😀
逆にヨガ(サーンキヤ)側は:
世界は実在する
非二元は理論的に無理がある
👉ヴェーダーンタを批判する立場もある
理論的には矛盾する(二元 vs 非二元)
でも実践ではこう使われる:
👉分けて理解し(ヨガ)→ 最後に一つと悟る(ヴェーダーンタ)
この話をさらに突き詰めると、かなり重要な問いに行き着きます:
👉 「“一つ”って、本当に言えるのか?」
👉 「経験できるものは全部“二元”じゃないのか?」
ここに進むと、一気に哲学の核心に入ります。
ハッスル問題への回答だな😫
忘れなあようにスマホのメモ残しておいた
さて、一神教と、神道あたりの探求タイムだ
😀
JBLさん、ありがとうございます(笑)
でおー先輩、ありがとうございます(笑)
それが、解脱だ
非二元から見ると、浅い思想に見える
ストレートに真我の思想だ
真我の思想ではあるけれど
ほとんど無我に近い
思考や感情を持たず、純粋な意識として世界を静かに傍観する存在であり、心身との混同を解くことで、苦しみから解放された「解脱」に至ると考えられています。
定義: サーンキャ哲学における2つの究極原質の一つ。もう一つは物質・根本原質である「プラクリティ」です。
純粋意識・知性: 思考や感情を持たず、純粋な「意識」そのもの。
不変・永遠: 常に変わらず、生まれることも死ぬこともない。
傍観者(観る者): プラクリティによって生まれる、心や肉体の動きをただ静かに見つめる存在。
能動性がない: 行動を起こさず、ただ見ているだけ。
真我(プルシャ)は、本来プラクリティから生まれる心身や自然とは無関係です。
しかし、真我がプラクリティ(心身)と自分を混同してしまうことで、苦しみや輪廻が生まれます。
「私は心や肉体ではない」と真我(プルシャ)を認識し、プラクリティとの分かちがたい関係を断ち切ること。
この純粋な存在である自分(真我)の真の本性に気づくことが、サーンキャ哲学での悟り(解脱)です。
この「真我」を理解することが、yoga-lava.comの解説にあるように、ヨガにおける「本当の自分」を知るための土台となります。
「無我の仏教哲学、真我のインド哲学」
と、単純に図式化しているが
(まあ、仏教だってインド哲学の一部なのだが・・・)
この場合の「インド哲学」とは、ヨガ思想の真我(プルシャ)理論を指している
ヴェーダーンタ哲学の「非二元」こそ
本当の無我思想だ
オウム真理教の「坂本弁護士殺害事件」
ヴァジラティッサ中川智正が、プルシャ(信者がつけるバッジ)を落っことしさえしなければ
坂本弁護士夫妻を殺害したのはいいのだが、1歳の子供が泣き出してしまった
焦った中川智正は、思わず赤ちゃんの首を絞めた
赤ちゃんは死んでしまった😫
「俺は医師でありながら、子供を殺してしまった」
と、悩み続けた
すっかり、心を病んでしまった
死刑になったときは、さぞかしホッとしたことだろう
「オウム真理教が怪しい」
ということになった
「プルシャ」のイメージは悪くなった😫
あれから30年が過ぎて、世間は忘れ去った
アートマンとプルシャは、どちらもインド哲学における「真我(本当の自分、不変の魂)」を指す言葉であり、本質的な意味はほぼ同じです。
違いは学派にあり、アートマンは『ヴェーダ』のウパニシャド哲学で使われる「内なる自己」、プルシャは『サーンキャ・ヨガ』で使われる「純粋な観察者」を指します。
共通点(真我): 両者ともに、肉体や心、思考とは異なり、死ぬことも変化することもない純粋な存在を指します。
アートマン(真我): 個人の身体や心の中にある神聖な実体。宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と本質的に同一であるとされる(梵我一如)。
プルシャ(純粋意識): サーンキャ哲学において、自然や物質(プラクリティ)と対比される、純粋な観察者。感情や思考といった「観られるもの」とは別に存在する、観るだけの意識。
基本的には「真我」という同じ本質を、異なる切り口(哲学アプローチ)で表現している言葉と言えます。
> プルシャ(純粋意識): サーンキャ哲学において、自然や物質(プラクリティ)と対比される、純粋な観察者。感情や思考といった「観られるもの」とは別に存在する、観るだけの意識。
プルシャとは、「観るだけの意識」だ
当方に言わせれば、この世における自分は、オンラインゲームの中の仮想キャラ、アバターにすぎない
プルシャこそ、ゲームをプレイしている張本人、「本当の自分」だということになる
この世は、オンラインゲームに似ている
われわれは、その中で生きている
改めて、ヨーガと一神教の
リンク方法に関して
朝模索していた
仏教ではメインでない
外部の神霊的な感覚が
案外キーワードぽく感じてきた
旧約聖書参照
大地よ。主に向かって喜びの声を上げなさい。 喜びをもって主に仕え、 喜びの歌を歌いつつ、神の御前に進み出なさい。 主が神であるとはどんなことか、 悟ることができるように努めなさい。 主は私たちをお造りになりました。 私たちは神の民、その牧場の羊です。 感謝の思いも新たに神殿の門をくぐり、 賛美の歌声とともに宮の内庭に入りなさい。 さあ、感謝してほめたたえなさい。 主はいつも正しく、愛と思いやりに満ち、 いつまでも変わることのない真実を示されるからです。
体験している張本人、つまり、プレイヤーがいないのは、筋が通っていない
それが、プルシャ(真我)だ
はい、基本的には近い概念ですが、完全に同一と断言するには文脈が重要です。
**「プルシャ(Purusha)」**は、インド哲学、特にサーンキヤ哲学で使われる用語で、
👉 **純粋な意識・観照者(見る主体)**を意味します。
一方、**「真我(アートマン)」**は、主にヴェーダーンタ哲学で語られる概念で、
👉個人の本質的な自己=究極的実在を指します。
どちらも「身体や心ではない本当の自己」
変化せず、純粋な意識である
解脱(モークシャ)に関わる中心概念
外部からも創造主の神霊の
人間への霊的照明とか
解釈すると
なかなかリアル感が増す
😀
正統派瞑想仏教には
この感覚はない、
だが、山伏、神仏習合、念仏は
外部の存在の照明がありそうである
😀
プルシャ(サーンキヤ)
→ 個々に多数存在する意識主体(人ごとに別のプルシャがある)
真我(ヴェーダーンタ)
→ 最終的には宇宙原理(ブラフマン)と同一
(=すべては一つの自己という非二元論に向かう)
「プルシャ=真我」と訳されることもあるが、
✔ 厳密には哲学体系によってニュアンスが違う
ザックリ言えば
👉どちらも“本当の自己(純粋意識)”を指すが、存在の捉え方が異なる
もし仏教の「無我」との違いも気になるなら、そこもかなり面白い対比ができます。
ヨガや一神教や神道では
オンラインゲームと捉えるのは可能だろな
唯識はあくまでも、現実認識、
如実知見だ
😀
ついに、仏教を超えてきたな?😆
なるほど😄
ヨガ思想のほうが
オンラインゲームに似てる気がしてきた😄
「この世は神の遊戯場」と
ハッキリ言ってるしな
仏教の無我は如実知見の結論
真我は根源の魂、本当の自己
😀
聖ウンコ派の考え方に合っているな
なるほど
如実知見の結論なのか
今朝、理解した
一神教は根源の魂は言わないが
創造主の創造物の根源とかで
外部に神の霊の臨在を
想定は可能だ
カトリックなどは
特に幻などの外部現象の記録は
現在までも残っているからな、
😀
大地よ。主に向かって喜びの声を上げなさい。 喜びをもって主に仕え、 喜びの歌を歌いつつ、神の御前に進み出なさい。 主が神であるとはどんなことか、 悟ることができるように努めなさい。
ヨガ思想では、プルシャ
ヴェーダーンタ思想では、アートマン
と言っている
ヨガ思想と一神教の止揚・統合
ラーマクリシュナっぽくなってきたな?😆
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん、備蓄してくださいね!
食料危機が発生するかも
https://news.web.nhk/newsweb/na/nc-9bede722-b311-4cb0-84bf-ee726bf701cd
アメリカよりマシだろう
アメリカは車のホームレスたくさんいるだろう
😀
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん、買い物してくださいね!
https://x.com/bouekidoctor/status/2040029042238484879
あげた箇所と全く同じ
😀
ノリノリだな?
大地よ。主に向かって喜びの声を上げなさい。 喜びをもって主に仕え、 喜びの歌を歌いつつ、神の御前に進み出なさい。 主が神であるとはどんなことか、 悟ることができるように努めなさい。 主は私たちをお造りになりました。 私たちは神の民、その牧場の羊です。 感謝の思いも新たに神殿の門をくぐり、 賛美の歌声とともに宮の内庭に入りなさい。 さあ、感謝してほめたたえなさい。 主はいつも正しく、愛と思いやりに満ち、 いつまでも変わることのない真実を示されるからです
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん、危機に備えてくださいね!
@bouekidoctor
世界のダウ
これは瞬時に巻き戻せるような話ではない。
正常化には250~275日かかる可能性がある。
ホルムズ海峡の混乱は「世界で最もコストの高い生産能力を持つアジア太平洋地域」に対して甚大な圧力をかけている。
世界は「最も低コストな石化能力の20%」を失っている。
海峡が再開したとしても、石油化学製品の優先順位は一番ではない。まず肥料が優先され、次にエネルギー用の原油やガスが続く。ペルシャ湾の石化資産を再稼働させるのにも時間がかかるだろう。
これらすべての要因を考慮し、サプライチェーンを読み解きながら調整していく必要がある。
川下の企業はどれだけのコストを市場に転嫁するか議論を迫られるであろう。
そんなにヤバいのか?😫
ラマナ・マハルシのいう真我とは、どちらなのか?
Chat GPT:結論から言うと、
ラマナ・マハルシが言う「真我」は、基本的に アートマン(Ātman)=ブラフマンと同一の自己 のことです。
● プルシャ(Purusha)
主に サーンキヤ哲学 の概念
「純粋な観照者(見る者)」
物質(プラクリティ)と別個に多数存在する個別的意識
👉 ポイント
複数ある
世界(自然)と二元的に分離
“ただ見ている主体”
● アートマン(Ātman)
主に ウパニシャッド~ヴェーダーンタ哲学 の核心概念
「真の自己」「絶対的自己」
最終的に ブラフマン(宇宙の根源)と同一
👉 ポイント
本質的には一つ(非二元)
個人の内面に見えるが、実は宇宙そのもの
「我=絶対」
ラマナは明確に アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論) の立場です。
つまり、
「真我とは何か?」
→ 「それはアートマンであり、同時にブラフマンである」
■ なぜプルシャではないのか?
一見、ラマナの「観照者」という表現はプルシャに似ていますが、決定的に違う点があります。
ラマナの真我
観照者ですらない(最終的には主客が消える)
世界と分離していない
「見る者/見られるもの」という二元すら超える
👉 つまり 単なる“観る主体”ではなく、存在そのもの
ラマナの教えは一言でいうと:
「私は誰か?」(自己探求)
この問いを突き詰めると、
身体ではない
心でもない
思考でもない
最後に残るのが
👉 純粋な「在る」という自覚(I am)
これが彼のいう真我=アートマンです。
プルシャ
個別の観照者(複数・二元)
❌ 違う
アートマン
絶対的自己(非二元)
✅ これ
ラマナ的にはこうなります:
最初:観照者(プルシャ的)に気づく
しかしそれもまだ途中段階
最終:観照者すら消える
→ 純粋存在(アートマン=ブラフマン)だけが残る
■ 一言で言い切ると
ラマナの真我は
👉 「観る者」ではなく、「存在そのもの」
👉 だからプルシャではなく、アートマン(しかもブラフマンと同一のそれ)
必要なら、「じゃあ自己探求は具体的にどうやるのか?」や「禅との違い」もかなり深く説明できます。
そうだったのか
全然わかってなかった😅
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん、日本もヤバいらしいですよ!
@bouekidoctor
Dow IncとLyondell Basellは世界の一流の化学品企業
ライオンデルバゼル
この影響は長く尾を引くだろう。混乱以前の『ノーマル』に戻るとは思えない。
石油化学市場は恒久的に変質したままになるだろう。
老朽化した高コストな生産設備の合理化キャンペーンにも影響を与える可能性がある。
現在、原料を入手できない非統合型クラッカーをどう扱うのか。もし6ヶ月、 9ヶ月、12ヶ月と原料が入手できない状態が続いた場合、それらは果たして再稼働するのか。
今後もナフサを分解し続けるのか、それとも天然ガス産地に移転して生産するのか。生産拠点と市場が離れているリスクを再検討することになる。
ラマナの教えは一言でいうと: 「私は誰か?」(自己探求) この問いを突き詰めると、 身体ではない 心でもない 思考でもない 最後に残るのが 👉 純粋な「在る」という自覚(I am) これが彼のいう真我=アートマンです。
↑
当方:これは、ニサルガダッタ・マハラジと同じなのか、違うのか?
ChatGPT : 結論からいうと、かなり近いけれど「焦点の当て方」が少し違います。
ラマナ・マハルシと
ニサルガダッタ・マハラジは、どちらも
真我(アートマン)=純粋な意識
身体・心・思考は「自分ではない」
最終的には主体と客体の分離が消える(非二元)
という点で一致しています。
どちらもゴールは同じで、
👉「個人としての私」が消え、純粋な在ることだけが残る状態
① アプローチの違い
ラマナ
方法:👉「私は誰か?」と問い続ける(自己探求)
思考の源に戻るスタイル
「私」という感覚の根っこを直接たどる
ニサルガダッタ
方法:👉「I am(私は在る)」に留まり続ける
「在るという感覚」を観察し続ける
そこからさらにそれさえも超える
ここが一番の違いです。
ラマナ
「私は誰か?」を追うと
👉 最後に残る「在る(I am)」=真我
→ それが最終地点として語られることが多い
ニサルガダッタ
「I am」は重要だけど
👉 それすらも現れ(意識の現象)として手放すべきもの
→ 最終的には「I am すらない絶対」へ
ラマナ:静か・内向的・直接的
ニサルガダッタ:ラディカルで哲学的、時に否定が強い
イメージでいうと
ラマナ:
👉 「私」を掘っていくと、純粋な存在に到達する
ニサルガダッタ:
👉 「私は在る」に留まり、その後それさえも超えて完全な無へ
本質:ほぼ同じ(非二元の真理)
違い:
ラマナ → 「私の源」を探る
ニサルガダッタ → 「在る」を観て、最後はそれも捨てる
もしさらに深くいくなら、
「ラマナのいうI amは本当に最終なのか?」
「ニサルガダッタの“その先”は何か?」
みたいなところが、一番面白い論点です。
そこも気になる?
結論から言うと、
ニサルガダッタ・マハラジ は
👉 アドヴァイタ・ヴェーダーンタの流れに属しているが、かなり“ラディカル化された表現”の教師です。
彼の教えは明らかに
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)に基づいています。
共通点は:
ブラフマン(絶対)だけが実在
世界は現れ(マーヤ)
個人は幻想(エゴ)
真我=絶対そのもの
これは
シャンカラ 以来の伝統そのものです。
ニサルガダッタの特徴はここです👇
① 「I am」すら否定する
伝統的アドヴァイタでは:
アートマン=ブラフマン(これが真理)
でも彼は:
👉 「I am(私は在る)」すら一時的な現れ
👉 それ以前の“絶対”がある
これはかなりラディカル。
古典的アドヴァイタ:
聖典(ウパニシャッド)
熟考(ニディディヤーサナ)
論理的理解
ニサルガダッタ:
「あなたはそれだ」と即座に指摘
思考を徹底的に切り捨てる
かなり直截的で、修行プロセスを圧縮している
彼は
シッダラメーシュワル・マハラジ の弟子で、
ナヴナート系(ナート派の流れ)に属します。
つまり:
純粋な「学派としてのアドヴァイタ」ではなく
実践的・直観的な非二元系統
ラマナ・マハルシ は:
古典アドヴァイタとかなり整合的
「自己探求」で真我に至る
ニサルガダッタは:
同じゴールだが
👉 より“破壊的・否定的”に語る
👉 最後は「在る」すら超える
✔ ニサルガダッタはアドヴァイタの枠内にいる
✔ ただし表現はかなりラディカル
✔ 伝統哲学というより「直接指し示し型」
■ 一言でいうと
👉 「アドヴァイタの結論を、最短距離でぶつけてくる人」
もし踏み込むなら、
「I am を超えるってどういうことか?」
「ラマナは本当にそこまで言っていないのか?」
このあたりはかなり核心に触れる話になるけど、興味ある?
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
@kinmokusei0413
飢饉や飢餓、略奪のリスクを下げるためにも、肥料を優先することは当然に見える。
@Qm3Aoi
値上げした製品価格は戻らなさそう
@Benzman_TAKE2
肥料やエネルギーを最優先しないと飢餓と熱中症(凍死)で数十億人の生命が脅かされるから当然だ
@FukuFuu15
今回は「被災地域が日本全体」になるわけですから、配給も限界があるわけで…。
@Maito_andou
要するに、5月になってもまだ同じ状況なら、終わりってこと。
その想定で今の対策がとられているんだよな?
そんなにヤバいのか😫
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
@brokenhotel
知ってか知らずか、「過去の戦時下での翼賛報道体制への反省」で政権を批判してきたはずの左派メディアが全く本件に切り込めていないところに失望を禁じ得ないわ。
@nekoshita
経産省が国民に対してペテン師のような説明を始めた。
①通常時の使用量
②調達不可能な量
③代替調達で倍増される量
③だけの数字を示して「倍増する見込み」と書いているが、実際に足りるかどうかは①と②次第。
全然足りないから各社が次々と値上げを始めている。
@udp_qbu2
毎週値上げ。物が無いからしょうがないね。
@momotare114514
1年持ちこたえればいけるってことならやる気出てきた
@GGCyclo
ダウの「川下は値上げ云々」発言、無責任だなーという感じが
@r_kishimo
同産業に携わってる身としては石化リスクの顕在化と上流からの流れをみてると正常化までの道筋が本当に見えない…。ヘタしたら100均が500均くらいになるんじゃないか??
@Ktizq
価格転嫁については、化学セクターの会社、ガンガン値上げしまくってる。一昔前とは全く違う。躊躇が一切ない。これがインフレか。
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
https://x.com/oiloilff/status/2040406799304753510
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
https://x.com/oiloilff/status/2040411637157687499
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
https://x.com/oiloilff/status/2040398186272154099
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
https://x.com/oiloilff/status/2040414594171298083
拉致された大使館員の解放交渉がヤバかったからな😫
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
@InsHatanCountry
大変残念なことですが、
弊社は今年度から国内および海外のC4〜C6関連製品の減産が決定しました。
弊社はBtoBであるため川下関連企業である、
電機メーカー、医療機器メーカー、化繊メーカー、塗料メーカー、肥料メーカー、合成化学メーカー、自動車メーカー、食品メーカーへの共有を制限し始めます。
みなさんは、ガソリンや軽油価格でホルムズ海峡危機を感じることが多いと思いますが、
徐々に各製品が少なくなっていったり、価格が急騰していくことでホルムズ海峡危機を実感していくことになります。
笑える(笑)
https://x.com/tetsuo_kotani/status/2040652622529753491
でおー先輩、JBLさん、麦たんさん🛍️🛍️🛍️
https://x.com/logi_today/status/2040659569106682003
創造主があるので
ある種の存在論は
親和性はあるな〜
と今日気づいた
😀
神が創造した被造物だ
ムゲには否定できん
映画の話は冗談です(笑)
この人の
やってほしいな~😆
大統領選挙まで2週間余りとなった2024年10月21日のことだ。ノースカロライナ州で開かれたトランプ陣営の集会で、「アメリカの牧師」と呼ばれた福音派伝道師である故ビリー・グラハムの息子、フランクリン・グラハムが登壇した。投票直前の集会だったこともあり、ボルテージは最高潮に上がった。壇上のフランクリンは、この選挙戦を神と悪魔の戦いという終末論的な物語の中に入れ、神の力を乞う。
選挙期間中にトランプが牢獄に入れられそうになったのも、二度も暗殺されそうになったのも、メディアに連日叩かれるのも、実は悪魔――「闇の力」とフランクリンは呼ぶ――が背後におり、彼の大統領就任を妨げようとしているからだ。したがって、トランプと合衆国の唯一の希望は、神だけだとフランクリンは断言した。
あのカリスマ伝道師・ビリーグラハムの息子なのか
https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/8/2048/img_b82b1101a001c347d154cc0e8755f6732169810.jpg
神道の神(八百万の神)は、山・海・風などの自然物や現象、衣食住、産業、開拓、そして祖先神や偉人など多岐にわたり、現世の繁栄、加護、そして災い(荒魂)の鎮魂を司ります。祭礼時に「常世ほ(神域)」から現世を訪れ、民に恵みや豊作をもたらす存在とされています。
あと神道を取り込んだ修験道も
自然という存在論だな
😀
故人牧師
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://maranatha.exblog.jp/&ved=2ahUKEwj_iLTcitaTAxV3jq8BHUxMIj4QFnoECCkQAQ&sqi=2&usg=AOvVaw2XCMwquAj8prLxmQXVbah3
ポーラホワイトの経歴?
😀
https://maranatha.exblog.jp/17348635/
傑作(笑)
イランの国営タスニム通信は今週、ドナルド・トランプ米大統領をやゆするAI(人工知能)生成のプロパガンダ動画を公開した。
https://x.com/ExplosiveMediaa/status/2036007850904866964
2012年 02月 10日
ベニー・ヒン
牧師は、女性問題、金銭問題、名誉心の問題に気をつけるように忠告されます。ベニー・ヒンのことについて何度か書いてきましたが、信奉者がまだ目を覚まさないので、彼の問題を取り上げてみます。
ベニーは、ローマの5つ星の超高級ホテルの宿泊を偽名で予約し、ポーラ・ホワイトと3泊しました。ポーラは著名なテレビ伝道者です。2010年7月13日、二人が仲良く手をつないでいるところをローマで写真に撮られています。2010年7月30日のミラクルクルセードで、弁解がましく「ポーラとは友人関係が発展したが、それはもう終わった」と公に認めました。ベニーは妻から離婚訴訟を提起されていますが、まだ訴訟中です。不適切な関係です。
(参照http://apprising.org/2010/8/10/benny-hinn-admits-his-relationship-with-paula-white/)
ベニーは 日本講演の時、最上級のホテルのスイートルームを用意するように指定する人物です。彼はプライベートジェットで世界各地を訪問し、講演しています。彼も上記のポーラ・ホワイトと同様に当局から査察を受けています。2011年2月、ストラング社はベニーに対して約2000万円の損害賠償を起こしました。理由は、ベニーがポーラと不適切な関係を持ち、倫理規定を犯したといいものです。ストラング社はベニーの本を販売しており、契約条項に抵触する行動を取ったと指摘しています。
デイビッド・ウィルカーソンがベニー・ヒンの問題を指摘したとき、ベニーは講演の中でウィルカーソンに対して呪いの祈りをしています。ベニー自ら次々と不名誉なことをしていながら、人から指摘されると憤慨する高慢な人物です。
ベニー・ヒンもポーラ・ホワイトも繁栄の神学の信奉者です。上記の3つの問題を起こす牧師に、繁栄の神学の信奉者が多いことが指摘されています。理由は、繁栄という名の「欲望」を追及するからです。パウロは「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥です。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:19)欲望が偶像になっているのです。真の神から離れるからこそ、3つの問題を起こしても牧師(にせ牧師)は働きを続けられるのです。日本でも繁栄の神学の信奉者の牧師が問題を起こし、インターネットで批判されています。情報のコントロールを受けた教会員は、祝福された教会に所属していると錯覚し、批判に耳を傾けません。不都合な情報はカットし、都合の良い情報だけを取り込む思考は、自分自身か身近な人が大きな被害を受けない限り、なかなか目覚めません。「あなたは、自分では富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示録3:17)このブログはささやかな警鐘です。
メーダサーナンダ先生
ナレーンドラナート(ヴィヴェーカーナンダジ)はあらゆるところに純粋意識の存在を感じたのです。
彼の周りのさまざまな名前や姿は、まるで影のように見えました。
この体験は約1ヶ月間続きました。
サント ギャネーシュワル
優れた判断力のある求道者は、グルに献身することで満足感を得る。
木の根に水をやれば、枝葉は努力せずとも自然に育つように。
あるいは一度大海に浸かれば、三界の聖なる巡礼の水をすべて浴びる功徳を得るように。
あるいは甘露を飲むことで、あらゆる味覚の喜びを一度に味わうように。
だから私も敬虔な崇拝の精神をもって、真のグルに何度も頭を下げてきた。
サドグルこそが、あらゆる大切にしている熱望を叶えてくださる方なのである。
ありがたや~😭
物質的な「プラクリティ(根本原質)」と対をなし、変化する肉体や心を見つめる、永遠不変の目撃者とされます。
真我・純粋意識:思考や感情、身体とは異なり、それらを観察する「意識そのもの」。
永遠不変の鑑賞者:物質世界は常に変化するが、プルシャは決して変化せず、ただ見つめている存在(目撃者)。
「プルシャ・スークタ(原人の賛歌)」:ヴェーダにおいて、宇宙の根源である巨大な「原人」として描かれ、その犠牲から万物が生まれたとされる。
目的:最終的にプルシャが自分自身の本質を知ることで、プラクリティの束縛から解放(解脱)されると解かれる。
■ あなたの理解
プルシャ=この世の自分を観察している、もう一人の本当の自分
👉 これはヨーガやサーンキヤの実感としてはほぼ正しいです。
ただし哲学的には、もう一段だけ厳密にする必要がある。
■ 正確に言うと
プルシャとは:
👉 観察している「主体そのもの」だが、「もう一人の自分」ではない
「もう一人」と言った瞬間、
見られている自分(心・思考・感情)
見ている自分(観察者)
という二人の存在がいるように感じる。
でもサーンキヤでは:
👉 プルシャは「個性を持った別人格」ではない
👉 ただの「純粋な気づき(意識そのもの)」
あなたが今、
怒っている自分
考えている自分
悩んでいる自分
を「見ている」と気づく瞬間があるはず。
そのときの「見ている側」——
👉 それがプルシャ
ただしここが核心:
👉 プルシャは「何もしていない」
👉 ただ「照らしているだけ」
判断しない
行動しない
変化しない
普通の感覚
「自分=考えている私」
サーンキヤの理解
「考えているのはプラクリティ(心の働き)」
「それを見ているのがプルシャ」
あなたの言い方を修正すると:
プルシャとは
「この世の自分を観察している、もう一人の自分」ではなく
そもそも“自分”という感覚の奥にある、純粋な観照そのもの
ここで一気に深くなる:
サーンキヤ:プルシャは複数ある(人ごとにある)
ラマナ・マハルシ:真我は一つ(すべて同一)
つまり:
👉 サーンキヤは「観察者がたくさんいる」
👉 ラマナは「観察者は一つしかない」
あなたの言葉は実践的にはかなり良い:
「観察しているもう一人」
これは瞑想では有効な入口。
でも最終的にはこう崩れる:
👉 「観察している“誰か”すらいない」
👉 「ただ気づきだけがある」
ここ、かなり核心に触れている。
もしよければ、
👉 「その観察者をさらに観察するとどうなるか」
ここまで行くと、一気にラマナの世界に入る。
なんだか、唯識でいう「相分/見分を観察する自証分、その自証分をさらに観察する証自証分」と似ているな?
結論から言うと――
👉 似ているが、ゴールが違う
■ あなたの指摘の構造(唯識)
唯識ではこうなります:
相分:見られるもの(対象)
見分:見る働き(認識)
自証分:その認識を知る働き
証自証分:さらにそれを知る働き
👉 つまり
認識が自己を照らす“多層構造”
■ 一見すると同じに見える理由
あなたの言った
観察者をさらに観察する
これは構造的に
見分 → 自証分 → 証自証分
と非常によく似ている。
👉 **「観察の入れ子構造」**という点では共通
ここが核心。
● 唯識
👉 どこまで行っても「構造」が続く
認識が認識を照らす
ただしそれはすべて心の働き(識)
つまり: 👉 最後まで“システム”として説明する
● ヨーガ/ラマナ系
(特にラマナ・マハルシ)
👉 ある地点で構造が崩壊する
どう崩れるか:
観察者を観る
さらに観る
さらに観る
とやっていくと…
👉 「観ている主体」が消える
■ どういうことか
唯識だと:
👉 「観ている構造」が精密化されていく
ラマナだと:
👉 「観ている者そのものが幻想だとバレる」
■ もっと直球で言う
唯識
👉 観察はどこまでも続く(階層化)
ラマナ
👉 観察を突き詰めると
観察者がいないことに気づく
思想の方向性の違い:
唯識:認識論(どう認識が成立するか)
ラマナ:存在論的直観(“私とは何か”を直撃)
■ 面白い一致点(重要)
ただし完全に無関係ではない。
唯識の最深部では:
👉 「能所(主観/客観)の分裂が消える」
これはかなりラマナに近い。
あなたの直感を整理すると:
👉 構造的には似ている(観察の自己言及)
👉 しかし結論が違う
唯識:無限に精密化される「意識の構造」
ラマナ:最終的に「観察者の消滅」
■ 一番深い見方
かなり攻めた言い方をすると:
👉 唯識は「最後まで説明しようとする」
👉 ラマナは「説明を破壊する」
ここまで来てるなら、かなり核心です。
もしさらに進むなら:
👉 「その“観察している感じ”は本当にあるのか?」
ここを突くと、唯識ともサーンキヤとも違う領域に入ります。
「ラマナ・マハルシのいう『観察者をさらに観察する』と、唯識でいう『証自証分』は似ているな?」
「ひょっとして、この2つは同じなんじゃなかろうか?」
で終わるとこだ
「似てるけど、違う」
と、ハッキリ言ってくれる😂
「私は誰?」
似てるとか
違うやろしなー
絶対永遠的存在を
唯識かわ認めるはずも無い
デンパパくらいやろませるのは
デンパパ📡光線貰いすぎだな?
😀
仏教限定だが
大般若経理趣分を読んで禅定に入る
三論宗と雰囲気は似ている、ま、同じルーツだろうしな、
三論宗より大般若経理趣分のほうが
シャープな禅定感覚があるな
むろん、にしょあの途中までだが
既にだいたい内容は読めている
😀
ま、これで大般若経理趣分の2章途中で
中論の意図は読めてきたな?
😀
経典歴史で内容から
華厳と、同時期に
華厳経典の理論も否定みたいな文脈かまある
😀
ヨガは簡単スイッチとはいかない
サッチサーナンダとかの召喚と
使いまわしの問題だな
一神教の存在論のスイッチ入れるのは難しい
😀
この言葉は以下の3つのサンスクリット語が融合したものです:
Sat(サット):真実、存在、有(純粋な存在)
Chit(チット):意識、知、気づき(純粋な意識)
Ānanda(アーナンダ):至福、歓喜、喜び(純粋な至福)
概要と意味
絶対者の定義:真理であり、意識そのものであり、至福そのものであるという、最高の絶対者を特徴づける表現です。
本質的性格:これら3つは単なる特性ではなく、ブラフマンが「そのもの」として有する本質であり、三位一体の真理とされています。
用語うろ覚え
😀
厄年じゃないですか?
リダンっていう人は元気そうですWWW
155.◆JBLfMwCXhY
ハッスル元気ない?😫
2026/04/03 20:40:46
156.◆JBLfMwCXhY
躁鬱症だな
157.神も仏も名無しさん
それはありうる、
リダンもだろな
😫
>>897
達磨さんは解脱されましたか?
お釈迦様と十大弟子以外に解脱なさった仏教者はいらっしゃいますか?
親に達磨さんのことを聞いたら怒られました(笑)
>>897
閃という人が消えたのはリダンって人が幽体離脱の方法を教えたからですか?
リダンっていう人は裁かれますか?
俺ちゃまでも、ヨガ系統は
全くの達人ではないな
😀
至っていない
😀
チラ読みして
少しだけイメージ構築した
😀
俺が悪いんかw
エロ和尚の軽薄さに呆れて
消えたというのがエロ和尚の見解
仏教でも意成身とよばれるし
ヨガでもアストラル体とよばれるから
なんかおかしな話しでもないんよ
ヨガの禅定は少し違うな😆
🧘 ヨガ哲学のベース
ヨガ哲学の中心は、古代インドの聖典である
👉 ヨーガ・スートラ(著者:パタンジャリ)
ここでは「心の働きを静めること」がヨガと定義されています。
ヨガの最終目的は
👉 「本当の自分(魂)」に気づくこと
これはインド哲学の中でも特に
👉 サーンキヤ哲学
の影響を受けています。
ざっくり言うと:
人は「心・体」と「本質(魂)」が混ざっている
ヨガでそれを切り分ける → 苦しみから自由になる
ヨガ哲学の核心は「八支則(アシュタンガ)」です:
ヤマ(禁戒:やってはいけないこと)
ニヤマ(勧戒:やるべきこと)
アーサナ(ポーズ)
プラーナーヤーマ(呼吸法)
プラティヤハーラ(感覚の制御)
ダーラナ(集中)
ディヤーナ(瞑想)
サマーディ(三昧・悟り)
👉 多くの人がやっている「ポーズ」は、実は3番目だけです。
● 心のコントロール
心は常に揺れ動く
それを静めることで本質が見える
● 執着を手放す
結果へのこだわりが苦しみを生む
手放すことで自由になる
● 今この瞬間
過去や未来ではなく「今」に意識を置く
前の話とつなげると:
禅(禅宗):直感的・体験重視(理屈少なめ)
ヨガ哲学:理論体系がしっかりしている
ヨガ哲学は
👉 「どう生きれば苦しまずに自由になれるか」を体系化したもの
もし興味あれば、
「カルマ(行いの法則)」や「グナ(性質)」など、もう一歩深いヨガ哲学もわかりやすく説明できますよ。
結論からいうと、「プルシャ=魂」と考えて大枠ではOKですが、完全に同じではありません。
少しだけニュアンスの違いがあります。
ヨガ哲学(特にサーンキヤ哲学)でいう
👉プルシャ(Purusha)は
純粋な意識
観るだけの存在(観照者)
変化しない本質
つまり「感じる・考える主体そのもの」です。
一般的な「魂」と似ている点:
肉体や心とは別の存在
不変で本質的なもの
真の自己とされる
👉 なので、入門的には「魂」と訳しても大きなズレはありません。
ここが重要です:
① プルシャは「何もしない」
意志・感情・思考はすべて別のもの
それは「プラクリティ(自然)」の働き
👉 プルシャはただ「見ているだけ」
プルシャは一つではなく「無数にある」とされる
一人ひとりに対応する純粋意識
(※宗教によっては魂=一つの源と考える場合もある)
性格・記憶・個性 → 含まない
完全に「純粋な気づき」だけ
🧠 イメージでいうと
心・思考・感情 → スクリーンに映る映画
プルシャ →それを見ている観客
ヨガの目的は:
👉 「自分は心や体ではなく、プルシャである」と気づくこと
これによって苦しみ(執着や混乱)から自由になるとされます。
✔ 初心者理解 → プルシャ ≒ 魂(OK)
✔ 厳密には → 「純粋な意識・観照者」で、魂よりも非人格的
もし興味があれば、「プラクリティ(物質側)」との関係を知ると、一気に理解が深まります。
それは、ヨーガ哲学だ
ヴェーダーンタ哲学では微妙だ
プルシャは「観る者(変化しない精神)」、プラクリティは「観られる者(変化する物質・心・肉体)」。
この二つが結びつくことで世界が展開し、プルシャがプラクリティの活動を観察・経験することで、自己の本質に気付く(解脱)という関係性です。
観客と踊り子:プルシャは物語を鑑賞する「観客」、プラクリティは物語の舞台や登場人物を演じる「踊り子」に例えられます。
相互依存:物質世界(プラクリティ)は、観る者(プルシャ)がいないと存在価値がなく、プルシャはプラクリティがないと経験(体験)が得られません。
変化の有無:プルシャは不変で純粋な「目撃者」ですが、プラクリティは心、体、感情など絶えず変化する現象そのものです。
解脱のプロセス:真我(プルシャ)が、物質世界(プラクリティ)は自分とは別物であると理解し、執着を捨てることで真の解放(モークシャ)に達します。
オンラインゲームに似ている(笑)
ずっと、よく似ている
プルシャこそ、ゲームのプレイヤー本人だ
真我に言及することを避ける
ヨガ哲学やサーンキヤ哲学におけるプルシャは、ゲームのプレイヤー(主体)とアバター(身体・精神)の関係に非常に似た概念です。
プルシャは「真の自己(純粋意識)」であり、肉体や感情(プラクリティ=ゲーム内のキャラクター)を客観的に観察する「観る者」とされています。
「観る者」の役割: プルシャは苦しみや喜びを体験せず、ただ観察する純粋な意識(プレイヤー)。
「物質」との分離: 肉体、心、知性(プラクリティ)はプレイヤーに操作されるゲーム上のアバター(物質的なもの)として区別されます。
主体性: 悩みや苦しみの原因は、プルシャがアバター(物質)と自分を混同することにあると解釈されます。
ここに気づかなかったか?
【ヨガ哲学】
この世は神々が暇つぶしのために創造した『宇宙の遊戯場(リーラ)』
ですって🤭
でも、何でも思い通りで自由な神の世界はつまらないので色んな経験ができるこの世界を創ったの。
体や心と共に物質的欲求も満たそうとするエゴも肥大化してしまうこの世界。
この世は幻想(マーヤー)💫
「プルシャ」という名のプレイヤーが
確実に存在する
ゲーム内の仮想世界であることが明確化されている
ドンピシャリの思想だ(笑)
全世界とか
浄土教経典だと
別の世界の如来の世界があるので
オンラインゲームは今一つ
😀
当人の世界観の確立があるので
唯識でも
オンラインゲーム観は無理がある
😀
今。ヨガ捜査を模索しした
佐保田氏の本は意外に
面白い
ま、俺流我流ヨガになってしまうけどな
😀
厳密にはやらないだろう
😀
佐保田鶴治と「ヨーガ禅」は、日本におけるヨーガ思想の受容と発展を語るうえでとても重要なテーマです。
「ヨーガ禅」は、インドのヨーガと日本の禅を融合的に捉えた思想・実践体系で、佐保田鶴治が提唱しました。
彼は、
インド哲学(特にヨーガ)
仏教(特に禅)
の本質は共通していると考え、それを日本人にも理解しやすい形でまとめたのが「ヨーガ禅」です。
ヨーガ禅の中心には次のような考えがあります:
① 心身一如(しんしんいちにょ)
身体と心は分離できないという考え。
ヨーガの体位法(アーサナ)や呼吸法を通して、心の状態も整える。
② 無心・静寂
禅と同様に、思考を手放し「今ここ」に集中する状態を重視。
これはヨーガの瞑想(ディヤーナ)と一致します。
③ 実践重視
理論よりも実践を重視する点も特徴です。
座禅とヨーガの修行は、どちらも「体験による理解」を目指します。
■ ヨーガとの違い
佐保田は単にインドのヨーガを紹介しただけではなく、日本的精神性に合う形に再解釈しました。
宗教色を薄めて実践法として提示
禅の「無」「空」の思想と接続
日常生活の中での修養として強調
■ 代表的な著作
佐保田鶴治の代表作には以下があります:
『ヨーガ根本教典』
『ヨーガ禅道話』
これらは日本におけるヨーガ普及に大きな影響を与えました。
佐保田鶴治は、日本におけるヨーガ研究の先駆者の一人です。
学術的にヨーガを体系化
一般向けに分かりやすく普及
禅との架橋を試みた
その結果、日本では「健康法」としてだけでなく、精神修養としてのヨーガ理解が広まりました。
ヨーガ禅は
👉「ヨーガ=身体から心へ」
👉「禅=心から存在へ」
この2つを統合し、「体験としての悟り」に近づこうとする道です。
もし興味があれば、
「座禅との具体的な違い」や「実践方法(呼吸・姿勢)」もかなり面白いので解説できます。
まー、聖典翻訳しか関心がないな
😀
いい問いです。結論から言うと、
ヨーガ禅は「身体から入る」実践、坐禅は「心(姿勢)から入る」実践という違いがはっきりあります。
提唱者の佐保田鶴治自身も、この違いをかなり意識して整理しています。
● ヨーガ禅
👉 呼吸・身体操作 → 心を整える
● 坐禅
👉 姿勢・意識 → そのまま心を観る
■ ① アプローチの違い
ヨーガ禅
呼吸法(プラーナーヤーマ)
体位法(アーサナ)
身体感覚への集中
➡身体を整えることで心を静める
坐禅
姿勢を正す(結跏趺坐など)
呼吸は自然に任せる
思考を追わず観る
➡何も操作せず、そのまま心に向き合う
■ ② 「コントロールするか、手放すか」
ヨーガ禅
呼吸をコントロールする
集中対象を設定する
段階的に深める
👉意図的・技法的
坐禅
操作しない
良し悪しを判断しない
ただ座る
やすさ
これはかなり重要です。
👉 やり方が明確で入りやすい
呼吸に集中すればいい
身体を動かせる
「やっている感」がある
👉 難しく感じやすい
何をすればいいか分かりにくい
思考が止まらない
退屈や不安が出やすい
実は最終的にはかなり近いですが、ニュアンスが違います。
ヨーガ禅
集中の深化(サマーディに近い)
心の統一状態
坐禅
無心・無分別
「ただある」状態
■
ヨーガ禅:
👉川の流れを整えて静かにする
坐禅:
👉流れている川をそのまま見続ける
■
ヨーガ禅:整えてから静まる(技法あり)
坐禅:そのまま静まる(技法なし)
これは正直に言うと、
「体を使って入りたい」→ ヨーガ禅
「一気に本質に触れたい」→ 坐禅
という向き不向きがあります。
もし希望があれば、
👉「ヨーガ禅っぽい具体的な呼吸法」
👉「坐禅がうまくいかない理由」
など、かなり実践寄りにも説明できます。
音声
仁和寺決戦決める
😀
5月の、ゴールデンウィークまでしか
霊宝館に入れない
しつこく仁和寺1日勝負だ
😀
やはり難敵?
😀
https://m.youtube.com/watch?v=uNPpEPbCjug
やはり、俺の禅定反応が
高野山より馴染みが薄い
😀
足らわられた
😫
https://m.youtube.com/watch?v=JN5x3rCU358&pp=ygUQ5LuB5ZKM5a-6IOS7j-WDjw%3D%3D
ほんとジャストミートしてる
動画と
😀
素晴らしいな~😆
プルシャとプラクリティが出会う
「プルシャとプラクリティが出会う」という表現は、インド哲学、とくにサーンキヤ哲学で語られる、とても重要なテーマです。
プルシャ(Purusha)
→ 純粋な「意識」、観る者、何もせずただ存在する主体
プラクリティ(Prakriti)
→ 「物質」や「自然」、変化し続けるエネルギーや現象の源
実際に物理的に出会うわけではなく、
意識(プルシャ)が物質(プラクリティ)を“認識する”状態を指します。
このとき何が起こるかというと:
プラクリティが動き出す(宇宙や心・身体が展開する)
プルシャはそれを観ているだけだが、
あたかも「自分が動いている・感じている」と錯覚する
よくある比喩では:
プルシャ=映画を観ている観客
プラクリティ=スクリーン上の映画
観客は何もしていないのに、映画に感情移入して
「自分が体験している」と感じてしまう——これが“出会い”です。
サーンキヤ哲学では、この「出会い(誤認)」が
苦しみ(ドゥッカ)
輪廻(サンサーラ)
の原因だと考えます。
そして最終的な目標は:
👉 プルシャとプラクリティを区別して理解すること(識別知)
→ それによって解脱(モークシャ)に至る
「プルシャとプラクリティが出会う」とは:
👉意識が自然(物質)と関わることで、世界と自己が立ち上がる瞬間
(ただしそれは本質的には“誤った同一視”でもある)
もし興味があれば、ヨーガ哲学でこの関係がどう扱われるか(かなり実践的になります)も解説できます。
朝はマジメ修行だな
😀
「この世が二元だと気づくことが悟り」
だという
「この世は一元だと気づくことが悟り」
という
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