西洋哲学において「魂の不死性」はプラトンをはじめ、多くの哲学者たちが議論してきた重要なテーマのひとつであったが、1882年のイギリスにおける心霊研究協会 (Society for Psychical Research) や1884年のアメリカにおける米国心霊研究協会 (American Society for Psychical Research) の設立による経験科学的手法による心霊現象の調査・研究が進展するにつれ、そこから得られた知見に基づき、死後の魂 (意識) のゆくえについて、「意識の死後存続 (survival of consciousness)」問題、あるいは単 に「死後存続 (survival)」問題として、哲学者たちも論ずるようになった。
These terms are adjective-noun pairs derived from Latin used to classify animals based on their species or family, with common examples includingCanine(dog),Feline(cat),Bovine(cattle),Equine(horse), andPorcine(pig). They often describe characteristics associated with those animals.
Common Animal Classifications
Bovine
:
Cattle, bison, buffalo.
Canine:Dogs, wolves, foxes, jackals.
Feline:Cats, lions, tigers, leopards.
Equine:Horses, donkeys, zebras.
Porcine:Pigs, swine.
Ovine:Sheep.
Caprine:Goats.
Lupine:Wolves.
Vulpine:Foxes.
Murine:Mice, rats.
Ursine:Bears.
Avian:Birds.
Piscine:Fish.
Serpentine/Ophidian:Snakes.
Lapine:Rabbits.
Asinine:Asses/Donkeys.
Cervine:Deer, elk, moose.
Usage Context These terms are used to describe, classify, or insult (e.g., "bovine expression" for slow-witted, "asinine" for foolish). While often used for livestock, they extend to wildlife and insects (e.g., "Formicine" for ants).
② 常行三昧と「隔夜堂」の往復修行叡福寺の向かいには、平安時代作の石造阿弥陀如来を本尊とする隔夜堂(かくやどう)があります。中世の修行僧や聖(ひじり)たちは、この隔夜堂と叡福寺の太子廟を「一晩おき(隔夜)」に往復し、夜通し歩きながら、あるいは堂内に籠もって、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え続ける過酷な念仏修行を行っていました。③ 庶民や「聖(ひじり)」による遊行念仏平安〜江戸時代にかけて、特定の宗派に属さない「高野聖」や「時衆(一遍の系統)」などの半僧半俗の修行者が叡福寺に集まりました。彼らは境内の「念仏堂」や「浄土堂」の周辺で、太鼓を叩き踊りながら念仏を唱える踊り念仏や、庶民に念仏札を配る布教活動を行っていました。まとめ明治以前の叡福寺における念仏修行は、単に「極楽へ行くための呪文」ではなく、「日本の仏教の祖である聖徳太子(観音の化身)に、阿弥陀仏への救いの仲介を頼む」という、非常に実践的かつ現世利益的な祈りでした。
悩みを整理し、
具体的な解決策と
次の一歩を見つけるお手伝いをします
前スレ
【初心者】キリスト教@歓談室114【歓迎♪】
https://talk.jp/boards/psy/1684548822
😆
キリスト教 悩み相談室 115
https://talk.jp/boards/psy/1763251728
😆
ずっと良いスレタイ
😆
昨日と今日のイレギュラー仕事で疲れた
😆
疲れている
それより前は
領域展開でコントロールしている
😆
___
// / / ハ
_|_/__/__/_/ ∧_Y⌒Y
// / / / ハ |. ゝ_ノ
/ /_/_/_/ / ハ
/ / -三三- V / ハ
| | 二、} レ二:、 V / /!
| |. (\)} {(/)_ V / |
ソ --ノ / -- `.ミ | /二Y
{ _U_イl、__n_}\_ u レ/ /
ゝ | fヽ} }|:.|ノヽ / | /
| | | |エlエlエl| | / レ
\ | | | | | | | /
\| | | |∧.∧.∧| | | |
ゝ. Y二二二Yノ / ./  ̄ ̄ ̄
| ´ ̄ ̄|:゚|` / メシヤが降臨したのじゃ~!
` ―― |゚:
誰もレスが〜😆
かなり我流解釈のバトルだな
あれは
俺はちゃんと
宗派別に教義に忠実であろうとしようとするスタンスは持ち合わせている
それでも、山伏念仏、日蓮宗は
魔改造になりがちだが
😆
ある種のハッスル知識クオリティだからな
😆
ヤフーも含めて掲示板で
仏教がまともなのは
仏のスレスレ主か、ロンの半分くらい
と俺ぐらいしかいないだろな
😆
ウノミにするのは危険だ😅
4~5人がいればいい方だ
こんなもんでいい😆
何を言ってるのか分からんし😅
マトモに読んだことは無い
キリスト教スレをマトモに読んだことが無い
じつは、キリスト教をマトモに語ってるに違いない
そんな気がしてきた
自分も宗教マニアでスピ系オタクなのに
それでいて、宗教関係者やスピリチュアル関係者には偏見を持っている😅
自分だけが、コテコテにスピリチュアル系
そういう家庭環境に育ったことが、尾を引いている
周囲からヴァカだ、アフォだ、
頭がおかしいと言われながら
1人でやるものというイメージが定着している
自分がどれほど熱心に宗教に取り組んでるかを自慢する人を見ると
一種のカルチャーショックを受ける
宗教とかスピリチュアルにまったく関心が無い人たちのことも
内心ではバカにしている(笑)
健全さと有能さには感心する
それについては、掛け値なしに高く評価しているが
それだけだと片手落ちだ
拝読しました、というプロテスタントの相手と、
カトリック系統2名くらいは
まともかもしれん
メンヘラで埋められているからなー
日本仏教でホンモノ僧侶は一部だからなー
日本仏教でユーチューブで上がってくる動画で
声色で仕上がっているのは
セッタンとあと2名くらいだな
音声だけで
あ、できるな?
ネルケは
ショート動画のまとめ方で
できる人だ感だな、
真言宗では1名か内容安定で
聞かないけど動画落としするのは
😆
ま、知れば、
唸るお方だ、
言わないけど
😆
相当なレベルだ
吉野山の千日回峰行者も2名程しゃべるのを聞くけど声色は普通の良いお方
😆
かなりかっこいい山伏だ
😆
なるほど
そのあたりはマトモなのか
普通の人だが
😆
そのあたりは本当に優れているな
とりま、まともなキリスト教徒に
友好的にしてもらって
居場所がおるようだ、
あんなのでも
メンヘラ軍団の中では
キリスト教徒にとってはまともで耐えられる相手だろうな
仏教は
そうはいかん😆
> 塩沼亮潤は喋り声色は
> 普通の人だが
> 😆
禅僧じゃないから、丹田を練ってはいないんだろうな
内功のこもったパワー発声ができるのは
気功の修行した者の強み
確かに
キリスト教スレでは、セイウンコ~ンが相対的にマトモに見えるな😂
10分あたりだな
勤行はかっこいいな
https://m.youtube.com/watch?v=8yuVx6ykEj4
いい旅かもしれんぞ
😆
高音域だけどな〜
😆
心身脱落モードだ
😆
疲労回避がてきる
😆
また格別の味わい
動中工夫ビーストモードだが
土曜日朝になると
道元禅師様のお世界だ
😆
> 動中工夫ビーストモード?😆
😆
仕事の記憶が2回ほど焼き切れた
昨日
😆
いつも道元禅師の楽園から
始まるよーだ
勤行しにいくしなー
呼んでんじゃね?
😆
😆
😆
脳内にセッティングした
これで
トマス研究がたのしめるが
昼前くらいだろう
😆
謎が、多いままだ
フィールドワークプランに
入れてないしなー
😆
いくらかのサブスクが 2ヶ月間99円 だったので
テレ朝のやつを始めた
通常課金まで キャンセルを 忘れることがあるから
注意が必要だ
いまさらかんがある
すでに、50万人が加入したらしい
~死後存続仮説に関する議論を中心に~
大 門 正 幸※
(中部大学/バージニア大学)
要旨:心霊研究および超心理学研究の発展と共に、人間の意識が肉体の死後も存続する可能性について、当該の分野の研究者だけでなく、C.D.BroadやH.H.Priceのような著名な哲学者の間でも、その可能性について議論がなされてきた。
仮説の中でどの仮説を選ぶか、また、証拠によってある仮説が支持されるのはどのような場合かを測る手段を提供しようとする、哲学理論の一つである。
示す。
に「死後存続 (survival)」問題として、哲学者たちも論ずるようになった。
中でも重要なのは、実験を通しての超感覚知覚や念動力の存在の実証と、生まれ変わりを思わせる「再生型事例」の発見が考察に与えた影響であった。
一方、後者は、霊媒現象以上に有力な証拠を提示する、という意味で死後存続仮説を擁護するものである。
このような流れを受けて、Almeder(1992)、Griffin (1997)、Lund (2009)、Paterson (1995)は死後存続仮説を強く擁護する論を展開してい
る。Braude (2003) はずっと控えめではあるが、最終的には死後存続仮説に与する形で論を締めくくっている。
本稿では、Sudduthの「反死後存続仮説」論を検討し、それに反駁することで、現在も死後存続仮説の優位性が動かないことを論証したい。
Ⅱ-1.確認理論
Sudduth (2016) の議論の多くは、経験科学的仮説の確認または否定を規定するべく提案された確認理論に基づいているので、この理論について簡単に見ておく1)。
ま、探求はしないが
それらしいシステムで
圧倒的な修行能力を獲得しているな
😆
257ページまで
読んだ
😆
この表記において、"Pr" は「確率」(probability) を、"h" は「仮説」(hypothesis) を、"e" は「証拠」
(evidence) を、"k" は「背景知識」 (background knowledge) を表す。"Pr (h | e & k)" は、証拠 "e" と背景知識 "k" が与えられた時に仮説 "h" が真である確率、すなわち仮説 "h" の事後確率 (posterior probability) を 表 す。"Pr (e | h & k)" は、仮説 "h"が真であったとした場合、仮説 "h" と背景知識 "k" が与えられた時に証拠 "e" の生じる確率であり、これは尤度 (likelihood) と呼ばれる。尤度とは、要するに、仮説 "h" が証拠 "e" をうまく説明できる度合いである。
"
超越的存在でない
何かが俺の修行を進めているケースがある
特に神秘主義軽視の臨濟宗
😆
臨濟宗以外はその力は
如来、菩薩のせいにできるが
😆
(すなわち仮説がない場合)に、当該の証拠が生じる可能性が低い場合である。
一番認めていない
😆
デュエム-クワイン・テーゼ (Duhem-Quine thesis) が述べるように、観察される現象の説明には、主要な仮説に加えて、様々な補助仮説が必要になるが (Duheim, 1962; Quine, 1951)、
Sudduth (2016) は、死後存続論者たちがこの点に関して非常にあいまいであると指摘する。
すなわち、「意識の死後存続」と言っても様々な形態が考えられ、以下のような survival scenario (SS)、すなわち補助仮説を採用したとすれば、その死後存続仮説が関連する証拠 "e" を説明できる確率はゼロである (Sudduth, 2016, p.216)。
わかるか、わからないか、
臨濟宗以外の仏教は
先に神秘的提示があり、
それを教義学で証拠として確認できる
臨濟宗は教義学を前提していないので、
証拠よりも実現の有無
ハッスルくんが
決死の思いで
公案の証拠を出せ
とか言っても
ハッスルくんが
何一つ体現体得している訳ではないので
ハッスルくんの狂っている姿を
提示するのみだ
😆
SS1 : 死後も存続する人がいるが、機能する脳がないため、精神状態を表現したり、世界に影響を与えたりすることができない。
SS2 : 意識のある存在として死後も存続する人がいるが、死後の心理的状況は生前のものとは記憶の点でも性質の点でもほとんど連続性がない。
SS3 : 意識のある存在として死後も存続する人がいて、交信しようとする欲求も意図もあるが、そのような能力がない。
SS4 : 意識のある存在として死後も存続する人がいて、交信しようとする能力もあるが、そのような欲求や意図がない。
SS5 : 意識のある存在として死後も存続する人がいるが、交信しようとする能力も、欲求も、意図もない。
SS6 : 死後はその人ならではの意識以外の部分のみが残る。
SS7 : 死後は、心的傾向の基礎となる部分のみが残る。
😆
冷たい雨が降り始めた😫
船橋のマクドナルドに避難
臨済宗は、死後の存続を否定しているな?
生きている間は
生きていること
死んだ後は
死んだ時
ということやろ
余計なことは
考えない
不識
😆
死者の存在に関して
教えてもらった
むろん分析的な話ではないがな
😆
自由意志論者と
判明
割合、些末なトマスは嫌いだが
この本のトマス解説は
かなり気に入った
😆
😆
不識魔王だから
休日くらいは
トマスを読みたい
😆
トマスのおかげで
門脇桂吉の発想が
少し見えてきた
😆
純粋禅ではないので
カトリック神学の路線を
理解しはいと
門脇桂吉の手の内が見えてこない
😆
トマスの肯定の神学と
仏性論みたいなのが
合体してそうだ
😆
Common Animal Classifications
Bovine
:
Cattle, bison, buffalo.
Canine:Dogs, wolves, foxes, jackals.
Feline:Cats, lions, tigers, leopards.
Equine:Horses, donkeys, zebras.
Porcine:Pigs, swine.
Ovine:Sheep.
Caprine:Goats.
Lupine:Wolves.
Vulpine:Foxes.
Murine:Mice, rats.
Ursine:Bears.
Avian:Birds.
Piscine:Fish.
Serpentine/Ophidian:Snakes.
Lapine:Rabbits.
Asinine:Asses/Donkeys.
Cervine:Deer, elk, moose.
Usage Context
These terms are used to describe, classify, or insult (e.g., "bovine expression" for slow-witted, "asinine" for foolish). While often used for livestock, they extend to wildlife and insects (e.g., "Formicine" for ants).
これらの用語は、ラテン語に由来する形容詞と名詞のペアで、動物を種や科に基づいて分類するために用いられます。一般的な例としては、イヌ科(犬)、ネコ科(猫)、ウシ科(牛)、ウマ科(馬)、ブタ科(豚)などがあります。これらの用語は、多くの場合、それぞれの動物の特徴を表します。
一般的な動物の分類
ウシ科
:
牛、バイソン、バッファロー
イヌ科:犬、オオカミ、キツネ、ジャッカル
ネコ科:ネコ、ライオン、トラ、ヒョウ
(中略)
シカ科:シカ、ヘラジカ
使用例
これらの用語は、形容、分類、または侮辱(例:「牛のような表情」は頭の回転が遅い、「愚かな」は馬鹿げている)に用いられます。家畜に対してよく使われますが、野生動物や昆虫にも適用されます(例:「アリ」はアリ類)。
二元論の祖はプラトン 結局、プラトンが悪いのか?
かなり乱暴に言えば、「西洋哲学の二元論の大きな源流としてのプラトン」という見方は、たしかにあります。
特に有名なのは、
感覚で見えるこの世界(生成・変化する、不完全なもの)
その背後にある永遠不変の真の世界(イデア)
という区別です。
精神/物質
理性/感覚
本質/現象
善/悪
真/偽
のような二項対立の原型になった、とよく言われます。
だから、ジャック・デリダのような脱構築の思想家は、かなりの部分で「プラトン以来の形而上学」を批判しているわけです。
「全部プラトンが悪い」
と言うのは少し雑です。
理由は3つあります。
① プラトン自身は、単純な二元論者ではない
彼の対話篇を読むと、単純に
「こっちが善、あっちは悪」
と切っているわけではなく、かなり揺れがあります。
たとえば『饗宴』では、美しい肉体から始まって、美そのものへ上昇するので、感覚世界を完全否定していません。
近代的な意味での
心(精神)
身体(物体)
をきっぱり分けたのは、むしろデカルトです。
だから「二元論の親玉」はデカルトだ、という人も多い。
神/被造物
天上/地上
魂/肉体
などが、中世キリスト教で強く制度化されました。
つまり
プラトン → 新プラトン主義 → キリスト教 → デカルト
という長い流れです。
「プラトンが元祖のひとりではあるが、全部の責任を負わせるのはかわいそう」
です。
デリダ風に言えば、
プラトンは犯人というより、“最初の現場”
ですね。
chatGPT:かなりそうです。
フリードリヒ・ニーチェは、まさに
「プラトン主義の転倒」
を目指した哲学者だ、とよく言われます。
この現実世界は不完全で低級
真に価値あるものは彼岸(イデア・神・真理)にある
という発想です。
ニーチェはこれを
生を否定する思想
だと見ました。
キリスト教は民衆のためのプラトン主義
とも言っています。
つまり
プラトン→ イデアを上に置く
キリスト教 → 天国・神を上に置く
どちらも「この世界を下げる」という点で同じだ、と。
だから彼は
この世界
身体
欲望
力
生成
差異
を肯定しようとした。
これはまさに反プラトンです。
ジル・ドゥルーズ
ミシェル・フーコー
ジャック・デリダ
この20世紀フランス思想の人たちも、多かれ少なかれ
「反プラトン」「反形而上学」
というニーチェの系譜にいます。
遅くなる
仏のスレ79
https://talk.jp/boards/psy/1781269454
ニーチェはかなり
ハンマーで壊す
感じですが、
デリダは
内部からネジを外す
感じです。
ドゥルーズは
別の機械を作る
感じ。
フーコーは
その建物が誰の利益のために建っているか調べる
感じ。
でも出発点にはかなり共通して
プラトンをどう乗り越えるか
があります。
はい。フリードリヒ・ニーチェは、かなり真正面からプラトンに反対しました。
ただし、「プラトンを読まずに否定した」のではなく、
西洋そのものがプラトン的である
と見て、その根を断とうとした、という感じです。
彼が批判したのは主にこれです。
プラトンでは
イデア=真に存在するもの
感覚世界=不完全な影
となる。
ニーチェはこれを
生の否定
だと見ました。
「いまここ」を劣ったものとして扱うからです。
彼はむしろ
生成し、変化し、矛盾するこの世界こそ現実だ
と言う。
ソクラテス→プラトン以来、
理性
秩序
節制
が高く評価され、
本能
情念
身体
が疑われる。
ニーチェはこれを「弱者の道徳」だと批判した。
「善とはこういうものだ」という普遍的道徳も疑いました。
彼は価値そのものが歴史的に作られると考えた。
これが『道徳の系譜』です。
だから彼の有名な仕事は
プラトンの上下をひっくり返すこと
です。
天より地
魂より身体
永遠より生成
真理より解釈
という方向。
ただ面白いのは、
ニーチェ自身もものすごく「ギリシア的」なんです。
彼はプラトン以前の
悲劇
ディオニュソス
ヘラクレイトス
を高く評価した。
つまり
ギリシアを捨てたのでなく、プラトン的ギリシアに反逆した
わけです。
かなりそうです。
ジャック・デリダの原点を一人に絞るのは難しいですが、強い源流のひとつは確実にフリードリヒ・ニーチェです。
特に共通しているのは、
「西洋哲学は、“中心”や“本当の意味”を求めすぎている」
という批判です。
真理とは何か?
善とは何か?
本質とは何か?
こういう「絶対的な中心」を疑う。
「真理」と思っているものも、実は力関係や歴史の産物ではないか、と見る。
意味の中心
起源
本来的な presence(現前)
最終的な根拠
を疑う。
言葉の意味は固定されず、差延(différance)によってずれ続ける、と考える。
なので、
ニーチェが“真理”を爆破し、
デリダが“意味”を解体した
とも言えます。
かなり重要なのは
マルティン・ハイデガー
エトムント・フッサール
フェルディナン・ド・ソシュール
です。
ニーチェ → ハイデガー → デリダ
という流れは大きい。
ニーチェ:形而上学批判
ハイデガー:存在論の解体
デリダ:テクストの脱構築
という感じ。
だから
デリダはニーチェの弟子というより、
ニーチェの爆弾の後始末をしている人
というほうが近いかもしれません。
当時は、スレの乱立合戦が行われていたのだ
あと何ヶ月もかかるだろう
日本の2倍~3倍は高すぎるな
ただし、「1人あたり国民所得」が何を指すかで印象が変わります。
国民所得(GNI)でも、為替レートによりますが、おおむね2倍前後になることが多いです。
アメリカはIT・金融・製薬など高付加価値産業の比率が高い。
労働生産性が日本より高い。
近年は円安の影響で、ドル換算した日本の所得が大きく目減りしている。
日本は1990年代以降、賃金がほぼ伸びていない。
例えば、
家賃や住宅価格
医療費
大学の学費
保育費
などはアメリカのほうが非常に高いため、所得が高くても支出も大きい人が少なくありません。
稼ぐ力(所得)はアメリカがかなり上
生活の豊かさは物価や社会保障も考えないと比較できない
というのが実態に近いでしょう。日本の円安が続く限り、ドル換算で見ると2倍前後の差が続く可能性があります。
例えば、最近の感覚だと、
ランチ:2,500~4,000円相当
コーヒー:700~1,000円
外食の夕食:5,000~1万円以上
家賃:大都市では日本の2~3倍以上のケースも珍しくない
一方で、アメリカは賃金も高いので、現地の人は日本人ほど「高すぎる」とは感じない場合もあります。
一方、日本では1,000万円あれば比較的ゆとりのある生活ができる地域が多いです。
アメリカは「高所得・高物価」
日本は「低所得・低物価」
という構図になっています。
円安も重なって、日本人がアメリカ旅行に行くと「何もかも高い」と感じやすい状況です。
ここ数年、日本でも物価上昇が目立っています。
外食はコロナ前と比べて1~3割程度値上がりした店が多い。
家賃は全国平均では緩やかですが、東京や大阪など都市部では上昇傾向です。
食品も毎年のように値上げが続いています。
アメリカでは物価が上がる一方で、平均賃金もかなり上昇しました。一方、日本は物価が上がっても賃金の伸びがそれほど大きくなかったため、「生活が苦しくなった」と感じる人が増えています。
外食や家賃の値上がりを日常的に実感する人が多いのも、そのためでしょう。
賃金の伸びが違うだけ
実際、「日本は生産性が全く伸びていない」というのは少し単純化しすぎで、統計の取り方によっては、アメリカとの差は賃金ほど大きくありません。
アメリカでは、労働市場が流動的で、企業間の転職による賃上げが起こりやすい。
企業は利益が出ると、賃金や自社株買いなどを通じて還元する傾向があります。
日本では長年、企業利益が増えても、賃金よりも内部留保を厚くする傾向が続きました。
そのため、「生産性以上に賃金の差が広がった」という指摘は、多くの経済学者もしています。
つまり、「生産性の差よりも、賃金の差のほうが目立つ」という見方には、十分に議論の余地があり、支持するデータも存在します。
物価もアメリカ並みに上がるということか
賃金が上がれば、ある程度は物価も上がるのが普通です。人件費は商品の価格やサービス料金に反映されるからです。
しかし、賃金が2倍になれば物価も2倍になるという関係ではありません。
外食やサービス業は値上がりしやすい。
一方で、家電や衣料品のように国際競争が激しいものは、それほど値上がりしないこともあります。
技術革新で生産性が上がれば、賃金が上がっても価格を抑えられる場合もあります。
住宅不足による家賃高騰
医療制度の違い
サービス業の人件費の高さ
旺盛な個人消費
など、複数の要因が重なっています。
輸出産業はどうなってるのか
実は、ドイツは高賃金でも世界有数の輸出大国です。
高付加価値製品を作っている。
Mercedes-Benz
BMW
Siemens
Boschなどは価格競争ではなく、品質や技術力で勝負しています。
自動化・省力化が進んでいる。 人件費が高いので、ロボットや自動化設備への投資を積極的に行い、「一人当たりの付加価値」を高めています。
中小企業(ミッテルシュタント)が強い。 世界シェアの高いニッチ製品を作る企業が数多くあり、価格より技術で選ばれています。
一方、日本は比較的低い賃金で国際競争力を維持しようとする傾向が長く続きました。そのため、「賃金を抑えることで競争力を保つ」というモデルから抜け出しにくかったという指摘があります。
経済学では、「低賃金だから輸出が強い」とは必ずしも言えません。むしろ、ドイツや北欧を見ると、高賃金でも高付加価値製品を作れば輸出競争力は維持できることを示していると言えます。
最近の為替ベースで比較すると、おおよそ次のようなイメージです。
国
1人あたり国民所得(日本=1とした場合)
日本1.0
Germany 約1.5~1.8
France 約1.4~1.7
United States 約2.0~2.5
つまり、
ドイツは日本より5~8割ほど高い。
フランスも日本よりかなり高い。
アメリカはさらにその上にいる、という構図です。
そのため近年は、「日本は賃金を抑えることで競争力を保とうとしてきたが、結果として国民所得が相対的に低下したのではないか」という議論が増えています。
この比較を見ると、「高賃金だから国際競争力を失う」という単純な関係ではないことが分かります。むしろ、高賃金に見合う高い付加価値や技術力を維持できるかどうかが重要だと考えられています。
イギリス・フランス・ドイツとは並ぶくらいじゃないとおかしい
1990年頃までは、日本は世界でもトップクラスの所得水準でした。その後、約30年間にわたり賃金や所得の伸びが欧米諸国より鈍かったため、現在では差が開いています。
生産性を着実に高め、
賃金もそれに応じて上昇し、
円の価値も現在ほど弱くなければ、
現在の所得水準は、少なくともGermany、France、United Kingdomと同程度になっていても不思議ではない、という見方をする経済学者はいます。
理由としては、
日本は少子高齢化が欧州より早く進んだこと。
デジタル・IT分野で米国ほどの巨大企業が育たなかったこと。
為替相場の影響で、ドル換算の所得は円安になると低く見えやすいこと。
こうした要因も現在の差に影響しています。
結局のところ、日本の課題は経済規模そのものよりも、その成果が家計の所得として十分に反映されてこなかったことにある、という指摘は近年よくなされています。
最大の要因は、A.I.とロボット
労働の自動化
製造業だけでなく、事務、プログラミング、デザイン、法律、医療など知的労働にもAIが浸透します。
人件費の意味が変わり、「安い労働力」が競争力だった国は優位性が低下する可能性があります。
一人当たりが生み出せる価値が大きく増えます。
過去の産業革命のような、生産性革命に匹敵する変化になるとの見方もあります。
AIを開発・運用できる企業には利益が集中しやすくなります。
一方で、多くの企業はAIを利用する側になり、競争環境が大きく変わるでしょう。
ヒューマノイドロボット
自動運転
AIエージェント
個別化医療
新素材・創薬 など、新たな巨大市場が生まれる可能性があります。
今後の世界経済には次のような要素も大きく影響します。
少子高齢化
地政学リスク
エネルギー転換
半導体を巡る競争
気候変動への対応
各国の金融政策や財政政策
これらがAIと相互作用しながら経済を変えていくと考えられます。
過去にはコンピューターやインターネットがそうだったように、AIも競争力の源泉になっていく可能性があります。
そのため、今後の世界経済は単なる景気循環ではなく、「AIとロボットを中心とした技術革新による経済構造そのものの変化」の時代に入る可能性が高い、と見る専門家は少なくありません。
「ロボットが人間の代わりに生産するので、なんでもタダみたいに安くなる。おカネが要らない社会になる」
と唱えている
彼の考え方を要約すると、次のようになります。
AIが人間以上に知的な仕事をこなす。
ヒューマノイドロボットが肉体労働も担う。
エネルギー(特に太陽光発電と蓄電)が非常に安くなる。
すると、生産コストの大半がほぼゼロに近づく。
その結果、多くのモノやサービスが「ほぼ無料」に近い価格で提供できるようになる。
これは、よく知られた「ユニバーサル・ベーシックインカム」よりも豊かな生活水準を想定した考え方です。
実際には、ロボットが何でも作れるようになっても、次のようなものは希少性が残る可能性があります。
土地
一等地の住宅
希少な天然資源
芸術作品
人間によるサービス(医療、教育、接客など)
時間や体験
経済学では、価格は「生産コスト」だけでなく「希少性」によっても決まります。そのため、工業製品や一部のサービスは劇的に安くなっても、希少なものまで無料になるとは限りません。
例えば、現在でもデジタル製品は一度作ると追加で複製するコストがほぼゼロです。同じように、将来は衣類や家具、日用品、さらには住宅の一部まで、自動化によって現在より大幅に安く供給される可能性はあります。
どこまで実現するかは、技術の進歩だけでなく、制度設計や資源制約、社会の選択にも左右されます。
トーク板の連中と
坐禅オフ会の夢みたぞ〜〜
俺、ハッスル🤡、JBL、他は数人
みんな喧嘩もせず、静かであった
😀😀😀😀😀😀😀
ハッスル🤡は二度目
ま、いるな、程度の夢
😀😀😀😀😀
それは面白いな!😂
楽しそうだ😄
居士殿が威張りそうだな😂
坐禅会の経験に関しては、居士殿に一日の長がある😂
敵意がない
リアルにいたら、そっと優しくしておこう対応だな?
😀
指導サービスであって
敵意ではない
😀
リアルで坐禅会とかで会ったとしても
文句は言わないな、たぶん(笑)
アンドーに会ったことがあるよーだ
顔は六角精児みたいなメガネと顔か?
と聞いたら、
そのとおりだと答えたアンドー
やはり
場所は言わんぞ
😀
😀
https://m.youtube.com/watch?v=gvcOpTXE9GQ
主な要点:
天に心を留める (2:43 - 8:46): 地上の生活を送る中でも、神様という「一つ上の法則」を見上げて生きることで、本来の人間のあり方に立ち帰り、翻弄されない豊かな人生を送ることができると語られています。
地上的なものを捨てる (8:46 - 13:00): 救いの目的は神様の姿への全人的回復であり、身勝手な欲望や不潔な行いから離れる必要性が強調されています。
新たにされる知識 (13:17 - 23:10): 言葉の影響力について触れ、内側からの回復だけでなく、発する言葉に注意を払い、神様の永遠の命に導かれて日々成長していくことの大切さが説かれています。
新しい命の特徴 (23:15 - 32:13): 神様の愛と許しを受け入れることで、憐れみや謙遜、そして全てを完成させる「愛」を身につける重要性が解説されています。
新しい生活を送る (32:17 - 35:48): キリストの言葉を豊かに宿し、賛美を通して神様の存在を称えることで、不安や課題を抱えながらも感謝の心で生きる生活を推奨しています。
😀
ていう感じ?
動画の中で解説されている、キリスト教的な文脈における「愛する」ということの神髄は、単なる善行や奉仕にとどまらず、**「相手の存在そのものを喜び、価値を認めること」**にあります(27:38-28:06)。
具体的には、以下のような心の持ち方や行いとして説明されています。
存在を喜ぶ: 何かをしてあげること(行為)だけが愛ではありません。相手に向かって「あなたが生きていることは素晴らしい」「あなたの存在を喜んでいる」と伝え、相手の隠れた価値や美しさに気づかせてあげることが真の愛です(27:14-27:57)。
神様の愛を反映させる: 私たちは神様から絶大なる愛と喜びを注がれて生かされています。人間的な不安定な愛とは異なり、神様の愛は変わることがありません。この神様の喜びを胸に抱くことで、傷ついた心が癒され、他者に対しても謙遜や憐れみ、寛容な心を持つ余裕が生まれます(30:57-31:49)。
許し合う絆: 愛は全てを完成させる絆であるとされ、主が私たちを許してくださったように、互いに忍び合い、許し合うことが新しい命の重要な特徴として強調されています(24:12-24:36)。
成長の土壌: 人は愛されることで初めて「愛されるにふさわしい自分」であると自覚し、その喜びの中で成長し、この世界で自分に与えられた役割を果たすことができるようになります(28:10-28:55)。
要するに、キリスト教的な「愛する」とは、自分がまず神様の絶対的な愛と喜びに満たされた上で、その喜びを他者にも向けること、つまり相手の尊厳を認め、その人の存在そのものを祝福することであると言えます。
具体例として以下のような説明がなされています:
家族関係の例: 子供を豊かに育てようとする時、子供だけを見つめるとうまくいかないことがあります。また、夫婦がお互いを見つめすぎると欠点が見えて喧嘩になることもあります。しかし、夫婦がその「1つ上」にある神様を見上げることで、お互いに寛容になり、結果として夫婦仲が良くなり、子供もまっすぐに育つという「法則」です(4:42 - 5:32)。
翻弄されない生き方: 私たちは日々、世の中の栄光、富、他人の言動など様々な「モーター(動力源)」によって動かされています。しかし、最も繋がるべき存在である**神様を動力源(根本的な視点)**とすることで、地上の様々な災いや混乱に翻弄されず、落ち着いた誠の生き方ができるようになると説かれています(7:09 - 8:35)。
つまり、神の「1つ上の法則」とは、物事の優先順位を神様という高い視点に置くことで、地上の複雑な問題が整理され、本来あるべき正しい形に回復されていくという霊的な知恵を指しています。
😀
動画では、私たちが発する言葉に注意を払うべき理由として、主に以下の3つの観点を挙げています。
魂の舵としての影響力: 言葉は「船の舵」のようなものであり、私たちが発する言葉は、自身の精神状態や行動を方向付ける強い力を持っています(15:02 - 15:46)。
サタンの誘惑に対する防衛: エレン・ホワイトの言葉を引用し、サタンは人の心を直接読み取ることはできませんが、その人の「発する言葉」や「行動」を鋭く観察し、それぞれの状態に合わせた誘惑を仕掛けてくると説明されています。つまり、罪の思いや感情を抑え、不適切な言葉を発しないように努めることは、サタンの攻撃を退けることにつながります(15:57 - 16:52)。
新しい人としての成長: コロサイ人への手紙3章8節〜10節に基づき、怒りや悪意、口から出る恥ずべき言葉を捨て、「古い人」から「作り主の姿に習う新しい人」へと脱ぎ替えていくプロセスにおいて、言葉の選択は不可欠な要素であると説かれています(13:38 - 14:00, 17:52 - 18:18)。
このように、言葉は単なるコミュニケーションの手段ではなく、私たちの内面の回復を助け、霊的な守りを固めるために極めて重要な役割を果たしています。
御言葉の蓄積: 「キリストの言葉」を自分自身の内に豊かに宿すこと (32:34 - 32:41)
互いの交わり: 知恵を尽くして互いに教え、諭し合うこと (32:41 - 32:46)
賛美: 詩編や賛歌、霊的な歌を用いて、心から神を褒め称えること (32:46 - 32:52)
全てを主に捧げる: 話すことや行うことの全てを主イエスの名によって行い、イエスを通して父なる神に感謝を捧げる生活を送ること (32:54 - 33:09)
これらを実践することで、抱えている問題や不安を神様に見つめていただいているという信頼のもと、神様を称える生活に導かれると説明されています (34:55 - 35:36)。
動画では、具体的に「キリストに支配される」ための方法として以下の点が挙げられています。
御言葉の蓄積: 「キリストの言葉」を自分自身の内に豊かに宿すこと (32:34 - 32:41)
互いの交わり: 知恵を尽くして互いに教え、諭し合うこと (32:41 - 32:46)
賛美: 詩編や賛歌、霊的な歌を用いて、心から神を褒め称えること (32:46 - 32:52)
全てを主に捧げる: 話すことや行うことの全てを主イエスの名によって行い、イエスを通して父なる神に感謝を捧げる生活を送ること (32:54 - 33:09)
これらを実践することで、抱えている問題や不安を神様に見つめていただいているという信頼のもと、神様を称える生活に導かれると説明されています (34:55 - 35:36)。
😀
動画の中で語られている「植物の成長」の例えは、私たちがどのように霊的な成長を遂げていくべきか、また「神の1つ上の法則」がどのように機能するかを理解するための非常に重要なヒントとなっています(25:06 - 26:39)。その主な共通点と教訓は以下の通りです。
1. 成長の本質は「内なる生命」にある
植物は、誰かが無理やり引っ張って背を伸ばすことはできません。日光、水、肥料といった栄養を受け取り、その植物に宿る生命力が自ら成長していくのです。同様に、霊的な成長も「無理な努力」や「強制」によって達成されるものではなく、神様からの御言葉という光や、聖霊という水、そしてキリストの許しという養分を日々受け取ることで、私たちの内側に与えられた「新しい命」が自然と育まれていくものであると教えられています。
2. 環境と「1つ上の法則」の重要性
植物が育つためには、外側からの環境(害虫の駆除や選定など)が必要な場合があるように、私たちも信仰生活において、周囲との交わりや学びといった介入が必要です。ここで「神の1つ上の法則」が活きてきます。私たちが地上の雑事に振り回されるのではなく、意識を「1つ上」の神様に置くことで、植物が太陽を求めて育つように、私たちの視点が整えられます。神様という絶対的な存在を土台(栄養源)とすることで、結果として地上の生活や人間関係においても、歪みのない健やかな成長が促されるのです。
3. 焦らずに「委ねる」という姿勢
植物の成長には時間が必要です。信仰の成長も同様で、目に見える変化を焦って自己流で操作しようとするのではなく、神様の愛という環境の中に身を置き、その恵みの中で自らを委ねていくことが大切です。動画では、この神様の愛は人間のように不安定ではなく、決して変わることのない絶対的なものであると強調されています(30:57 - 31:35)。この確固たる神様の愛と喜びの中に留まることが、霊的な成長の最も強力な土壌となるのです。
結論としての教訓:
「植物の成長」の例えは、私たちが**「主体的努力(聖書を読み、学び、賛美する)」と「神への委ね(恵みによる変革を信じる)」**のバランスを教えてくれます。自分自身を無理に変えようと苦しむのではなく、成長に不可欠な「神の恵み」という環境を大切に整え、あとは神様の愛の中で自然と実を結ぶのを待つ。そのような、翻弄されない穏やかな信仰の歩みを推奨しています。
大爆発だ〜
😀
https://youtu.be/M-UHvoYFYiA?si=nULW6a3NbW_L2Mjj
ヤージュニャヴァルキヤやウッダカ・アールニの哲学のこと
後半はウパニシャッド哲学
シャンカラが、ウパニシャッドの教えをもとに、ヴェーダンタ思想を展開した
時代は千数百年ずつ離れているが
言ってることは大差ない
この打線の歪み(特徴)には、チームの明確な戦略と現状の課題が反映されています。
1番から5番までは、球界トップクラスの実力者が並び、名前を見るだけで相手投手にプレッシャーを与えられる不動のラインナップです。
1番(中)近本光司:球界屈指の出塁率と走力を誇る絶対的なリードオフマン。
2番(二)中野拓夢:高いミート力と進塁打、さらに足でも揺さぶれる万能な2番。
3番(右)森下翔太:勝負強さとパンチ力を兼ね備え、いまやクリーンアップの中心。
4番(三)佐藤輝明:一振りで試合を決める圧倒的な長打力を持つ大砲。
5番(一)大山悠輔:どっしりと軸として座り、四球も選べる頼れる主砲。
対照的に、6番以降が毎試合のように変わる背景には、以下の理由があります。
6番(左翼手)のレギュラー不在:前川右京選手や、外野も守れる髙寺望夢選手、あるいは外国人選手などが、相手投手の左右や調子に合わせて入れ替わりで起用されています。
7番(捕手)の併用制:梅野隆太郎選手と坂本誠志郎選手の2人の正捕手を、先発ピッチャーとの相性(相棒)によって完全に使い分けているため、ここも固定されません。
8番(遊撃手)のタイムシェア:「木浪聖也選手(実績・右投手対応)」と「小幡竜平選手(守備力・左打者)」が、試合ごとにスタメンを分け合っています。
この構成は、上位打線で一気に得点を奪える爆発力がある一方、5番の大山選手で攻撃が途切れてしまうと、6番以降でチャンスを広げられず下位打線が自動アウトのようになってしまうという弱点も併せ持っています。だからこそ、髙寺選手や小幡選手のような若い力が6番・8番に入ったときに、どれだけ機能するかがチームの勝敗を大きく左右します。
阪神が1~5番をがっちり固定しているのに対し、巨人は調子、相手投手、故障者の状況、そして期待の若手アピール度に応じて、上位打線から下位打線まで毎試合のように並び順や守備位置が激しく入れ替わります。
1. 阪神のような「絶対的な軸」が少ない
阪神における近本選手や大山選手、森下選手のように、1年間調子が悪くても不動で座り続けるレギュラー野手が現在の巨人には少なく、ほぼ全員が横一線の競争状態にあります。そのため、1番からクリーンアップ(3~5番)の顔ぶれすら頻繁に変わります。
坂本勇人選手のベテラン化にともなう起用法や、若手内野手(泉口友汰選手、浦田俊輔選手、石塚裕惺選手、門脇誠選手など)のスタメン争いが激化しています。その日の戦術によってセカンド、サード、ショート、ファーストの組み合わせがガラリと変わるため、内野の固定化が進んでいません。
外野陣も新外国人選手、FA移籍組、若手(佐々木俊輔選手ら)が競合しており、誰かが突出してレギュラーを奪いきっているわけではありません。キャッチャー陣も岸田行倫選手、大城卓三選手らが投手との相性や打撃の状態によって使い分けられています。
阪神が「固定された上位5人+流動的な下位3人」という構造であるのに対し、巨人は「調子の良い者を柔軟に組み合わせる2、3パターンの打線、あるいは完全な日替わり」という方針をとっています。
他ポジションや前後の打順が日替わりで目まぐるしく変わる巨人のなかで、ダルベック選手だけは中軸として別格の扱いを受けています。そう見えるのには、以下の明確な理由があります。
相次ぐライバルの離脱:同じく長距離砲として期待されていたキャベッジ選手が無期限の2軍調整となるなど、外国人枠の競争相手が離脱しました。そのため、巨人の長打力を1人でカバーしなければならない状況になり、起用の優先度が上がっています。
「4番」としての固定起用:巨人のスタメンは1番に新人の浦田俊輔選手、3番に泉口友汰選手が入るなど若手主体の流動的な並びですが、4番のダルベック選手だけはどっしりと固定され、打線の核となっています。
周囲が「日替わり」だからこそ、スタメンに名前があり続けるダルベック選手の存在感と絶対的な主砲としてのオーラが、より際立って見えていると言えます。
来日2年目の今シーズンはここまで主力として91試合に出場し、ダルベック選手に次ぐチーム2位の13本塁打を放っていました。前半戦の活躍からオールスター(球宴)にも選出されています。
7月の急失速とチャンスでの弱さ:7月は月間打率.213、わずか1本塁打と調子を落としていました。さらに得点圏打率が.182とチャンスで打てない場面が目立ち、4番のダルベック選手(55打点)に比べて29打点と、主軸としては物足りない数字にとどまっていました。
首脳陣からの注文:橋上秀樹監督代行は降格の理由について「彼に求めるのは打点。得点圏での相手投手の配球の意図を少し勉強し直してほしい」と言及し、期限を設けずにファームで配球への対応力を磨かせる方針を示しています。
なお、2軍に合流した翌日の8月4日のイースタン・リーグ(DeNA戦)では、さっそく「1番・DH」としてスタメン出場し、実戦を通じて1軍復帰への再スタートを切っています。
日替わり打線が基本の巨人のなかで、浦田選手が「不動の切り込み隊長」になりつつあるのには、リーグトップクラスの際立った武器があるからです。
高い出塁能力と粘り強さ:1番打者として重要な「出塁率」に直結する粘り強さを持っています。直近の試合でも1打席で10球を投げさせて四球をもぎ取り、4番ダルベック選手の先制3ランホームランをお膳立てするなど、相手ピッチャーにとって非常に厄介な存在になっています。 [1]
安定した打撃成績:プロ2年目の今シーズンは主力として試合に出続け、打率も.274と高水準を維持しています。 [1, 2]
他球団(特にライバルの阪神)から見ても、「浦田選手を出塁させると足でかき回され、クリーンアップに還される」という最も警戒すべき巨人の新・起点となっています。
期待された「ポスト坂本」としての歩みと、現在の苦境の理由は以下の通りです。
衝撃のルーキーイヤー:2023年、抜群の身体能力と球界トップクラスの遊撃守備を武器に台頭しました。シーズン終盤には、長年巨人のショートに君臨した坂本勇人選手をサードへコンバートさせる引き金となり、自身が正遊撃手の座を勝ち取りました。
ストロングポイント:卓越した守備範囲の広さと強肩に加え、「どんなボールにも食らいつく粘り強い打撃」が高く評価されていました。 [1]
しかし、プロ4年目を迎えた今シーズンは、プロの壁と打撃の試行錯誤に完全にぶつかっています。
極度の打撃低迷:今シーズンはここまで打率.160と深刻な打撃不振から抜け出せていません。確実性の低さ(出塁できない点)がネックとなり、上位打線を任せられない状態が続いています。 [1, 2]
激しい内野のスタメン競争:巨人のショートには、若手の泉口友汰選手や小浜選手らが台頭しています。さらに、門脇選手はサードやセカンドに回ることもありますが、そこでも吉川尚輝選手らの壁が厚く、現在のスタメン出場は流動的(たまに下位打線で起用される程度)にとどまっています。 [1, 2, 3, 4]
8月4日 巨人のスタメン一覧1(二):浦田 俊輔 (★固定)2(左):松本 剛3(遊):泉口 友汰4(一):ダルベック (★固定)5(捕):岸田 行倫6(中):佐々木 俊輔7(右):皆川 岳飛8(三):石塚 裕惺 (★高卒ルーキー、プロ初先発)9(投):山﨑 伊織
固定されていない実態がよくわかる、直近(8月4日・千葉ロッテマリーンズ戦)のスタメンは以下の通りです。 [1]
1(中):若林 楽人
2(遊):滝澤 夏央
3(指):林 安可(リン・アンクォ)
4(一):タイラー・ネビン
5(三):渡部 聖弥
6(二):外崎 修汰
7(左):蛭間 拓哉
8(捕):古賀 悠斗
9(右):アレクサンダー・カナリオ
投:平良 海馬 [1, 2, 3]
「4番ネビン」以外の打順の流動性:唯一、4番のネビン選手だけは主軸としてほぼ固定されていますが、それ以外の打順は日によって全く異なります。例えば数日前には23歳の若手・滝澤夏央選手が「1番・ショート」を務める日もあれば、この日は「2番・ショート」に回るなど、役割が毎試合変わります。
新戦力・外国人選手のテストと併用:今季から加入した台湾の強打者・林安可(リン・アンクォ)選手や、中堅の平沢大河選手、巨年からトレード移籍した若林楽人選手など、新加入・移籍組を調子に合わせて代わる代わるスタメン起用しています。
二遊間・外野の激しいサバイバル:キャプテンの源田壮亮選手やベテランの外崎修汰選手ですら100%固定ではなく、若手の長谷川信哉選手、滝澤選手、蛭間拓哉選手らが毎試合のようにスタメンの枠を争っています。 [1, 2, 3, 4, 5, 6]
西武のスタメンの中で、現在特に調子を上げている林安可(リン・アンクォ)選手などの特徴や、ここからの巻き返しを狙う源田選手や外崎選手ら実績組の現状について、さらに詳しくお調べしましょうか?
ご指摘の通りで、現在の巨人と西武のチーム状況やスタメンの組み方は驚くほどそっくりです。
両チームの共通点を整理すると、まさに同じようなチーム作りの過渡期にあることが見えてきます。
巨人:4番のダルベック選手
西武:4番のネビン選手
ともに実績のある助っ人外国人選手が4番にどっしりと座り、打線の唯一の精神的支柱となっています。しかし、彼らの前後に座る日本人打者のレギュラーが固まっていないため、4番にかかる負担が非常に大きいという点も共通しています。
長年チームの絶対的なショート(遊撃手)であり、精神的支柱だったスター選手が、年齢や不振、コンディションによって「毎試合フル出場する絶対的レギュラー」ではなくなっています。
巨人:坂本勇人選手から門脇選手、そして泉口選手らへの移行期
西武:源田壮亮選手から滝澤夏央選手らへの移行期
この偉大なショートの後継者探しと内野の再編成を行っているため、二遊間のスタメンが日替わりになりやすいという背景があります。
両チームとも、ベテラン勢よりも20代前半の若手を積極的にスタメン起用し、経験を積ませながらサバイバルさせています。
巨人:浦田俊輔選手(1番定着)、泉口選手、佐々木選手、石塚選手など
西武:滝澤選手、渡部聖弥選手、蛭間拓哉選手など
調子が良い者をすぐにスタメンで使い、結果が出なければ別の若手を試すという「スクラップ・アンド・ビルド」の全員野球スタイルが非常に似ています。
1番から5番(あるいは4番)までがっちりコアが固まっている阪神やソフトバンクに対し、巨人と西武は「4番の1人だけを固定し、残りの8枠は調子と将来性で毎試合組み替える」という、まさに同じ戦術をとっている鏡のようなチーム関係と言えます。
この2チームが今シーズン中に対戦した交流戦での直接対決の結果や、巨人と西武の間で近年活発に行われている若林選手らのトレード(血の入れ替え)の背景など、さらに深く掘り下げたいポイントはありますか?
特に直近の広島戦では、1回表に1番の浦田選手が粘って四球をもぎ取って盗塁を決め、4番のダルベック選手が先制3ランホームランを放つなど、この上位4人の並びが理想的な形で得点に結びついています。 [1]
1番:浦田俊輔(二)
リーグトップタイの28盗塁をマークする圧倒的な機動力。俊足を武器に出塁し、相手バッテリーにプレッシャーを与え続けています。
2番:松本剛(左)
浦田選手との“うらまつコンビ”で高い機能性を発揮。浦田選手が二盗を決めた直後にタイムリーを放つなど、状況に応じた巧みなバッティングが光ります。
3番:泉口友汰(遊)
攻守にわたってチームを支える存在。俊足ランナーを後ろからサポートしつつ、勝負強い打撃でチャンスを拡大します。
4番:ダルベック(一)
一発長打の魅力を持つ主砲。チャンスの場面で走者を一掃するパンチ力があり、上位が作った好機を仕留める大黒柱として定着しています。 [1, 2, 3, 4, 5]
これまでの起用や状況を振り返ると、彼がスタメンに定着するまでにはいくつかのフェーズがありました。
大きな転機となったのは5月下旬のセ・パ交流戦です。5月26日のソフトバンク戦で「1番・遊撃」として今季初の1番で先発起用され、そこから徐々に首脳陣の信頼を勝ち取っていきました。 [1, 2]
3番打者への固定
その後、チームの打線再編に伴い、確実性のある打撃と選球眼の良さを買われて現在の「3番」に定着しました。走者を還す役割だけでなく、後ろのダルベック選手に繋ぐ役割もきっちりこなしています。 [1, 2, 3, 4]
様々なポジションをこなせる便利屋的な立ち位置や怪我の時期を乗り越え、現在は遊撃手のレギュラーとして完全に打線の中軸を担う存在になっています。 [1, 2]
これまでの経緯と現在のプレースタイルを振り返ると、彼がスタメンに定着するまでにはいくつかの大きなポイントがありました。 [1, 2]
移籍当初の苦心とプレッシャー
日本ハムから新天地である巨人に移籍してきた今シーズン、かつてのパ・リーグ首位打者として大きな期待を背負っていました。しかし、プレッシャーもあってか5月までは打率1割台と極度の打撃不振に苦しみ、一時はスタメンを外れる悔しい時期を過ごしました。 [1, 2]
陰の特訓と完全復調
不調の時期は、矢野謙次コーチら首脳陣とナイター前の午前中からジャイアンツ球場にこもり、ひたすら打ち込み特訓を重ねてフォームを修正しました。この地道な努力が実を結び、徐々に本来の卓越したコンタクト能力を取り戻していきました。
“
打撃が復調してからは、持ち前の巧みなバッティングとレフトの守備、状況に応じたチームバッティングが評価されスタメンに完全定着しました。1番を打つ俊足ルーキーの浦田俊輔選手との「足と小技で仕掛ける1・2番コンビ」は、今の巨人の強力な武器となっています。 [1, 2, 3]
待望の移籍後初アーチ
直近の7月31日のDeNA戦(東京ドーム)では、ファンが待ち望んだ移籍後第1号となる先制ホームランを放ちました。さらに同じ試合の終盤には、浦田選手が盗塁でスタートを切った瞬間に一・二塁間を綺麗に破る「これぞ松本剛」というイメージ通りの右前打もマークし、完全に本領を発揮しています。 [1, 2]
長打力に頼るだけでなく、状況に合わせて「相手が一番嫌がるバッティング」に徹する松本選手のスタイルは、今の巨人の上位打線に欠かせない極めて重要なピースとなっています。 [1, 2]
国家の正統思想であり、科挙も儒教経典が中心でした。
特に王陽明が現れ、「知行合一」「心即理」を説き、朱子学とは異なる大きな流れを作ります。
官僚や知識人の世界では、儒教が圧倒的な地位を占めていました。
禅宗(特に臨済宗・曹洞宗)が盛んでした。
また、浄土教も民衆に広く普及し、「念仏」が一般信仰として定着します。
一方で、唐代のような唯識・華厳・天台の高度な学問研究は全盛期を過ぎ、実践重視の傾向が強まりました。
民衆信仰と深く結びつき、寺観や祭祀が各地で行われました。
不老長生や仙人信仰、護符・祈祷なども盛んで、皇帝も道教を保護することがありました。
この時代の特徴は、「儒・仏・道は根本では一致する」という三教一致の考え方が広まったことです。
例えば、
儒教で社会秩序を保ち、
仏教で心を修め、
道教で自然との調和や養生を学ぶ、
というように、三つを対立させず補い合うものと考える知識人が少なくありませんでした。
三蔵法師=仏教
孫悟空や哪吒の仙術=道教
唐王朝の君臣秩序=儒教
これらが一つの物語に自然に融合しており、まさに明朝の宗教観を反映した作品と言えるでしょう。
A. 二障の断除とその段階
菩薩が修行を進める中で克服すべき**「煩悩障」と「所知障」**について、それぞれの消滅過程と修行段階における特徴を説明する。
1. 煩悩障の断除
煩悩障とは、貪・瞋・痴などの煩悩による障害であり、悟りへの妨げとなる。
この障害は見所断と修所断の二種類に分かれる。
極喜地(第一地)で初めて断じられる。
見道(悟りの入り口)において、一切の見所断の煩悩は一度に断たれる。
しかし、修道(さらなる修行の過程)においては、徐々に細かい煩悩を消していく。
**金剛喩定(最終段階の禅定)**に至ることで、完全に断たれる。
七地以前では、意識的に煩悩を抑えるが、まだ完全には消えていない。
八地以降では、煩悩は自然と現れなくなる。
阿羅漢の境地と同じように、七地以前の菩薩も煩悩を制御できるが、八地以上になると煩悩は完全に起こらなくなる。
所知障とは、認識の歪みや無明(無知)による障害であり、智慧の完成を妨げるもの。
見所断(見道で断たれる無知)
**極喜地(第一地)**で初めて断じられる。
修所断(修行によって断じられる無知)
十地の修行の中で段階的に消えていく。
最後に金剛喩定に達すると、すべての無知が完全に断たれる。
八地以降では、前六識(五感+意識)と無漏観心(悟りの智慧)が強化され、所知障が生じにくくなる。
七地では、所知障はまだ残る。
金剛喩定に入ることで、最終的に完全に断たれる。
1. 三段階での断除
煩悩障と所知障の断除は、次の三つの段階で進む。
見道での断除
三乗(声聞・縁覚・菩薩)の見道では、煩悩障の見所断が一切消滅する。
修道での断除
**二乗(声聞・縁覚)**では、三界(欲界・色界・無色界)の煩悩障を九段階に分けて、段階的に断じる。
菩薩は金剛喩定に至ることで、一瞬で三界の煩悩障を断じる。
究竟(最終段階)での断除
煩悩障のすべての種子が金剛喩定で完全に消滅する。
所知障の最終的な種子は、仏果に至る瞬間に完全に断たれる。
二乗(声聞・縁覚)の断除方法
修道の中で、必ず「無間道」と「解脱道」を別々に起こしながら、一つずつ煩悩を消していく。
つまり、障害を断じるたびに、心の状態が変化する。
菩薩の断除方法
刹那ごとに煩悩を消していくため、無間道と解脱道を別々に起こす必要がない。
断じるプロセスがスムーズで、意識的に進めなくても、自然に悟りへと向かう。
二障(煩悩障・所知障)は見道と修道の中で段階的に断たれる。
金剛喩定(究極の禅定)に至ることで、すべての煩悩と無知が完全に消える。
二乗(声聞・縁覚)は煩悩を一つずつ消していくが、菩薩は刹那ごとに自然に断じる。
最終的に、仏果に至る瞬間に、所知障が完全に断たれる。
✅「菩薩の修行は、煩悩と無知を段階的に克服し、最終的にすべての障害を断ち切る道である」
正統派とプロテスタントと異端 Part2
https://talk.jp/boards/psy/1771408110
聖霊はあまりにも重要だ
そういう印象になるのは、かなり分かる。
特にペンテコステ派・カリスマ派の礼拝を実際に見ると、**「聖霊が前面に出ている」**感じは強烈だからね。
ただし、神学的には「神より聖霊を信仰している」というわけではない。
むしろ、
父なる神を信じ、キリストを主と信じ、聖霊によって神が現在ここに働いている
という三位一体の信仰を、聖霊の側から強く体験するのが聖霊派、という感じ。
たとえば聖霊派では、
聖霊のバプテスマ
異言
預言
癒やし
聖霊による導き
聖霊の臨在
聖霊の賜物
などが非常に重視される。
だから礼拝でも、
「聖霊よ、来てください」
「聖霊に満たしてください」
「聖霊が今ここに働いている」
という言葉が頻繁に出てくる。
すると外から見ると、
「この人たち、神というより聖霊を信じてないか?」
となる(笑)。
そういう印象になるのは、かなり分かる。
特にペンテコステ派・カリスマ派の礼拝を実際に見ると、**「聖霊が前面に出ている」**感じは強烈だからね。
ただし、神学的には「神より聖霊を信仰している」というわけではない。
むしろ、
父なる神を信じ、キリストを主と信じ、聖霊によって神が現在ここに働いている
という三位一体の信仰を、聖霊の側から強く体験するのが聖霊派、という感じ。
聖霊のバプテスマ
異言
預言
癒やし
聖霊による導き
聖霊の臨在
聖霊の賜物
などが非常に重視される。
だから礼拝でも、
「聖霊よ、来てください」
「聖霊に満たしてください」
「聖霊が今ここに働いている」
という言葉が頻繁に出てくる。
すると外から見ると、
「この人たち、神というより聖霊を信じてないか?」
となる(笑)。
伝統的なキリスト教では、
聖霊=神
だから、聖霊を強調しても、理論上は「神を軽視している」ことにはならない。
むしろ聖霊派の発想では、
神は遠くにいる抽象的な存在ではなく、聖霊として今ここで働いている
という実感が非常に強い。
だから、あなたがさっき言った
「聖霊とは、世界に臨在する神なのか?」
という理解は、聖霊派の宗教体験を理解する上ではかなり有効だと思う。
キリスト教の神学者たちは何世紀も、
「聖霊は父と同一本質なのか?」
「聖霊は子から発出するのか?」
「聖霊と父・子の関係は何なのか?」
と、ものすごく抽象的な存在論をやってきた。
ところが現代の聖霊派では、
「理屈はともかく、今、聖霊が働いている!」
となる(笑)。
つまり、
中世哲学者が「聖霊とは何者なのか」を存在論的に分析していたのに対して、聖霊派は「聖霊が今ここで何をしているか」を体験する。
この違いはかなり大きい。
そして、もし本当に今後キリスト教世界で聖霊派・カリスマ派の影響力がさらに大きくなるなら、「聖霊」という存在がキリスト教思想の中心に再浮上する可能性はあると思う。
そうなると、あなたが今掘っている
「一つの聖霊とは、いったい何者なのか?」
という問題、単なる中世スコラ哲学の珍問ではなく、現代キリスト教のど真ん中の問題になってくる。
聖霊信仰は、アフリカ人にウケている
うん、かなり強い。
ただ、「アフリカ人」という一括りより、サハラ以南アフリカのキリスト教、とくにペンテコステ派・カリスマ派で非常に大きな存在感がある、と言うのが正確。
特にナイジェリア、ガーナ、ケニア、ウガンダ、南アフリカなどでは、ペンテコステ派・カリスマ派の教会が大きく成長してきた。
理由の一つは、聖霊信仰が非常に現世的・実践的だからだと思う。
「聖霊がいる」
↓
病気が癒やされる
↓
悪霊から解放される
↓
仕事・商売がうまくいく
↓
人生が変わる
という形で、目の前の人生に神が介入するという宗教になる。
「神学的に三位一体とは何か」
という抽象的問題より、
「聖霊が今、俺の人生に何をしてくれるのか?」
という問いのほうが圧倒的に分かりやすい。
しかもアフリカの伝統的な宗教文化には、霊的存在、祖先、呪術、憑依、治癒などをめぐる世界観がもともと存在していた地域も多い。
そのため、ペンテコステ派の
「聖霊が実際に働く」
「悪霊と戦う」
「奇跡が起こる」
「神から直接力を受ける」
という世界観が、完全に異質な宗教として入ってきたわけではないという説明もできる。
そして面白いのが、アフリカのペンテコステ派は、欧米から輸入しただけではなく、現在では逆に世界へ発信する側になっていること。
だから現代キリスト教を考えると、
ヨーロッパのキリスト教 → 神学・教義中心
という昔ながらのイメージだけでは、かなり見誤る。
人口動態まで考えると、21世紀のキリスト教の重心がアフリカへ移っていることと、ペンテコステ派・カリスマ派の拡大はセットで見る必要があると思う。
仏教の禅定よりも
広き門だな
😀
輪廻しないと禅定のプロマシーンになれなさそうだ
😀
最初に
霊的魂が求めるのは
意外とキリスト教😀
俺はスキゾ的に
わざとイスラムや神道に向かう
スコラ哲学は知らなさ過ぎるので
関心が強い
😀
サービス力は
キリスト教が圧倒的だ
😀
福音派の教会ですら、
行っていないが
行きたいな感がある時がある
😀
ノーテンキそうだ
福音派関連だろうか?
https://m.youtube.com/watch?v=FXv4HdrIB3k&t=11s
聖霊も知っているので
クリスチャンでないと
言わないと
クリスチャン扱いされる自信はある
神学系統はあかんけどな
😀
普通のクリスチャンは興味ない
カトリックの神父以外で見たこと無い
「神」を探究する学問
「神とはどういう存在か」
それを、徹底的に探究する
蜃気楼の楼閣みたいな体系😅
難しいので、まず知らない
クリスチャンなら、関心を持つべきだ
神は単純であるのか
神は完全であるのか
神は無限であるのか
神は不変であるのか
神は永遠であるのか
神は唯一であるのか
神は知性を持つのか
神は意志を持つのか
神は何を知っているのか
神の知識と人間の自由意志はどう関係するのか
神の摂理とは何か
神は世界を創造したのか
神は被造物をどのように統治するのか
・・・・・
プロテスタント神学のことは知らん
信者にきいてくれ
俺はちょろちょろだ
今日仕事疲労でパワーがやはり落ちる
😀
主な宗教論客がキリスト教スレに終結している
集結している
幸福くんは
ハッスル🤡、ラピスが嫌い
😀
ラピス=美魔女=ムイムイに
なったのだろうか?
😅
美魔女のアタックが
一番堪えるだろな
😅
唯名論は、中観派にそれぞれ似ている
ただし、完全な同一視はできない。
『倶舎論』的な世界
説一切有部では、たとえば「人間」という普遍概念そのものよりも、
色・受・想・行・識などの法が、それぞれ何らかの実在性を持つ
と考える。
特に有部の「三世実有、法体恒有」は象徴的で、
個々の「法」は実在する
↓
それらを分析・分類すれば、世界の構造を捉えられる
という方向。
だから『倶舎論』の世界は、ものすごく存在論的・実体論的なんだよね。
ところが龍樹になると、
「その法自体に自性があるのか?」
と、さらに一段深く突っ込む。
色も、受も、識も、因果関係も、さらには「空」そのものさえ、
自性をもって独立して存在するわけではない。
だから、
「法が実在する」
↓
「いや、その“法”という単位そのものが、独立した自性を持つのか?」
と解体していく。
この意味では、確かに中観派は唯名論的な方向に非常に近い。
「ミカエルは存在する。しかし『天使』という普遍者は存在しない」
という議論とも繋がる。
さらに中観的に徹底すると、
「ミカエル」という個物についても、独立した自性を持つ実体としては成立しない。
となる。
つまり、
実在論 → 個々の法にも実在性を認める
唯名論 → 普遍者の実在性を否定する
中観 → 普遍者だけでなく、個々の法の自性まで否定する
という関係になる。
だから面白いのは、中観派は「唯名論そのもの」というより、「唯名論をさらに徹底したもの」に近いことなんだよね。
そしてここから、
「では中観派にとって、何が存在するのか?」
という、ものすごく厄介な問題が出てくる(笑)。
これがまさに「空は単なる虚無なのか?」という問題につながる。
自分は個人的に実在論寄りなので
中観派や唯名論を見ると、
「この人たちは、何が楽しくて
こんなことを主張してるのか?」
と思う
おそらく、唯名論も中観派と同様、
「余計な観念を排除して、
ありのままに物事を見よ」と
言いたいのだろう
そうだと思う(笑)。
実在論寄りの立場から見ると、唯名論や中観派は、
「そこまで全部解体して、何が残るんだ?」
という感じになるんだよね。
でも、彼らの側からすると、むしろ逆で、
「余計なものを付け足しているのは、実在論のほうではないか?」
となる。
唯名論者からすると、
「人間」という普遍者が実在する
「動物性」という普遍者が実在する
「善」という普遍者が実在する
……と考えていくと、実際に目の前にある個々の存在から、
どんどん抽象的な存在者を増やしてしまう。
だから、
「そこにいるのは、この人、この馬、この木だ。
『人間そのもの』『馬そのもの』まで存在すると考える必要があるのか?」
となる。
これはある意味、存在論の節約なんだよね。
中観派は、
「では、その『個々の人』『個々の馬』は?」
とまで追及する。
「人間」という概念を取り除いても、
身体、感覚、意識、関係、原因……と分析していけば、
「これが人間という独立した実体だ」
と言えるものは見つからない。
だから龍樹的には、
観念を取り除いていった結果、何か究極的な実体が出てくる
とは考えない。
ここが実在論者には猛烈に気持ち悪いところ(笑)。
ただし、中観派自身は、
「何も存在しない」
と言いたいわけではない。
むしろ、
「余計な自性という観念を世界に投影するな」
という話なんだよね。
なので、あなたの言う
「余計な観念を排除して、ありのままに物事を見よ」
という理解は、かなり核心を突いていると思う。
「いやいや、『自性がない』という見方だって一種の哲学的フィルターじゃないのか?
普通に世界を見れば、物にはそれぞれ固有の性質があるじゃないか」
となる。
ここが両者の根本的な感覚の違い。
実在論者:世界にある構造を、概念によって正しく捉えたい。
唯名論者:概念を世界そのものと取り違えるな。
中観派:そもそも「世界に固定した構造がある」という発想まで検証しろ。
という感じ。
だから実在論寄りの人からすると、中観派は**「世界を説明している」というより、世界についての説明を片っ端から解体して遊んでいる(笑)**ように見える。
逆に中観派からすると、実在論者は**「存在しないものを次々と発見している」**ように見える。
この対立、かなり根深い。
既に不気味だろな
言語記号の関係の恣意性なんて
やっちゃうからなー
ソシュールは
ま、丸山圭三郎中継だが、
オモシロかった、丸山圭三郎は三、四冊買ってる
文化のフェティシズム
😀
文化のフェティシズムといえば、
それだ
😀
古本屋で岩波文庫の西洋哲学の本を買えども
書庫に眠ったままになってしまった
😀
人にあげたりしたが
西洋哲学は書庫に読まないのに
たくさん残っている
😀
残骸が俺の中に
眠っているのだろう
西洋哲学は素人のままだ
😀
「余計な観念をかぶせず、ありのままに個物を見よう」
と主張しているんだな
うん、かなりいい捉え方だと思う。
ただし、少しだけ補正すると、**「個物をありのままに見よう」より、「個物の外側に普遍者を勝手に実在させるな」**というのが唯名論の核心に近い。
たとえば、
ソクラテスは存在する
プラトンは存在する
アリストテレスは存在する
これは認める。
しかし、
「人間」という普遍的なものが、ソクラテスやプラトンとは別に、何らかの仕方で実在している
とは認めない。
だから、
実在論
「ソクラテスもプラトンも人間である。『人間性』という普遍者にも何らかの実在性がある」
唯名論
「存在するのはソクラテスやプラトンという個物。『人間』というのは、彼らをまとめて呼ぶための名前・概念にすぎない」
という違いになる。
なので、あなたの言う
「余計な観念をかぶせず、ありのままに個物を見よう」
は、唯名論の精神・態度をかなりうまく表現している。
中観派も、
「『人間』『存在』『善』『美』などに固定的な自性を勝手に付与するな」
という方向へ進む。
ただし、唯名論=中観派ではない。
唯名論は主として「普遍者は実在するのか」という問題への回答。
中観はそこからさらに進んで、個物そのものについても、自性を持った独立実体としては成立しないと論じる。
つまり極端に単純化すると、
実在論
「個物 + 普遍者」
唯名論
「個物 + 普遍者についての名前」
中観
「個物も普遍者も、自性をもって独立には成立しない」
となる。
だから、あなたが唯名論に感じている「余計な観念を剥がして個物を見る」という感覚は、かなり本質を突いていると思う。
イエス・キリストは、人類の罪を贖うため、十字架にかけられたわけだが
「人類」がないとすると、この話は成り立たない
そう。ここにキリスト教神学と唯名論の、かなり面白い緊張関係が出てくる。
唯名論を極端に適用すると、
「人間」という普遍的実体は存在しない。
存在するのは、ペテロ、パウロ、マリア、ヨハネ……という個々の人間だけ。
となる。
すると「キリストは人類の罪を贖った」という表現には、確かに問題が生じる。
ただし、ここで重要なのは、唯名論者でも「人類」という言葉を使えなくなるわけではないということ。
たとえば、
「キリストは全人類の罪のために死んだ」
を唯名論的に読み替えるなら、
「キリストは、存在する一人一人の人間の罪のために死んだ」
となる。
つまり「人類」という一つの実体は否定しても、
個々の人間全員に対する救済
は成立させられる。
キリスト教では、
アダムの罪 → 人類全体に罪が及ぶ → キリストが人類を贖う
という構造がある。
ここではどうしても、
アダム → 人類 → 個々の人間
という「人類」という集合・普遍の概念が重要になる。
唯名論者なら、
「人類」という実体が罪を犯した
とは言わず、
アダムという個人の罪と、それによって各個人が置かれた罪の状態
という方向に説明することになる。
さらに三位一体まで持っていくと、もっと凄い。
「神」という普遍概念はない
↓
父・子・聖霊という三つのペルソナだけがある
↓
では「三つの神」ではなく「一人の神」とは何なのか?
となる。
だから以前話していた**「唯名論者にとって三位一体は難問では?」**という話にもつながってくる。
キリスト教はそもそも、
「個」と「普遍」の関係をどう考えるかという問題を、単なる哲学問題ではなく、神・三位一体・受肉・原罪・贖罪という教義の核心部分で抱えているんだよね。
唯名論者の理屈づけは苦しいな
キリスト教との相性は良くない
うん、かなり相性が悪い部分があると思う。
特にあなたが今指摘した「贖罪」は、唯名論の弱点が見えやすい。
キリスト教の救済物語は、かなり強く**普遍的な「人間」**を前提にしている。
アダムは人類の祖である
↓
アダムの罪が人類に及ぶ
↓
キリストは人類となった
↓
キリストの死と復活によって人類が救われる
ここでは「人類」が単なる便利な名前以上の役割を果たしている。
特に受肉が重要で、
「神の子が人間になった」
というのは、「イエスという一個人が人間になった」というだけではなく、
キリストが人間性を引き受けた
という理解につながる。
すると「人間性(human nature)」というものをどう考えるのか、という問題が避けられない。
キリスト教そのものが唯名論を完全に排除するわけではない。
唯名論者は、
「人間性という普遍的実体は存在しない」
と言いながら、
「イエスもペテロもパウロも、それぞれ個別に人間である」
ことは認められる。
だから、
「キリストは個々の人間を救う」
とすれば、論理的には贖罪を維持できる。
ただし、その瞬間、
「人類全体を救う」というキリスト教の壮大な形而上学的物語が、個々の人間についての集合論的な話に縮小されてしまう
感じがある。
ここが、実在論的なキリスト教理解から見ると「苦しいな」と感じるところだと思う。
人間性 ― キリストは完全な人間である
神性 ― キリストは完全な神である
父・子・聖霊 ― 一つの神性を共有する
原罪 ― アダムと人類の関係
教会 ― キリストの身体としての普遍的共同体
……と、普遍と個の問題があちこちに出てくる。
だから面白いことに、「個物だけをまず確実な実在とする」という唯名論的な哲学は、個物を重視する点ではキリスト教と親和的なのに、キリスト教の教義を体系的に説明しようとすると、普遍者を追い出したことが逆に効いてくる。
要するに、
「神学の余計な観念を剥がして、具体的な個物だけを見よう」
とすると、
「じゃあ、人間性は? 神性は? 三位一体は? 人類の罪は? キリストは誰を救ったの?」
と次々に追いかけてくる(笑)。
これはまさに、昨日から話していた**「唯名論を徹底すると何が起こるのか」**の核心部分だと思う。
「観念を排除しろ」と唱える、アンチ観念論者は洋の東西にいる
西欧なら、唯名論
仏教では中観派とか禅宗
うん、かなり大きく括れば、その見方はできる。
ただし、「観念を排除する」という一点では似ていても、
何を排除して、何を最終的に残すのかは三者でかなり違う。
ざっくり整理すると面白い。
アダム以来の人間の本性と
解釈したのが本来の文脈なんだろうけど
カトリックやプロテスタントにしほ
明白な言語と論理を期待して
発達してきたもんなー
最後のフロンティアだな
俺的には
😀
瞑想仏教に対する日本神仏習合的仏教
みたいな
理性としての神だ
😀
何を重視するか
唯名論
普遍者を実体視すること
個物・個別的な存在
中観派
自性をもつ固定的実体という観念
縁起・空
禅宗
分別・概念にとらわれること
現前の事実・直接的な体験
「頭の中で作った普遍的・抽象的なものを、現実そのものだと思うな」
という共通した姿勢は確かにある。
ただ、ここで決定的な違いがある。
唯名論
「人間」という普遍者を実在させるな。
ソクラテスはいる。
プラトンもいる。
しかし「人間そのもの」という普遍的実体が別にいるわけではない。
という方向。
中観
さらに一歩進んで、
「ソクラテス」という個物だって、自性をもって独立して存在するわけではない。
となる。
だから中観は、「個物なら実在する」という唯名論的な着地点にも安住しない。
ここがめちゃくちゃ重要。
禅
禅はさらに理論構築を嫌う傾向が強く、
「人間とは何か」
「存在とは何か」
「絶対とは何か」
と概念を積み上げるより、
「今ここにあるものを、そのまま見ろ」
という方向に行く。
だから禅には、
「花は花、山は山」
みたいな世界観が出てくる。
禅的には、
言葉・概念は月を指す「指」にすぎない。
指そのものを月だと思うな。
となる。
ただし、中観派の場合はさらに厳しく、
「では指の向こうに、言葉では表現できない実体としての『月』があるのか?」
と聞かれたら、
「いや、その月にも自性はない」
となる。
ここが、あなたが以前感じていた
「禅の『月』って、結局ブラフマン的なものを想定してないか?」
という疑問につながるわけだね。
なので、
西洋の唯名論 → 普遍概念を実体化するな
中観 → 何ものも自性ある実体として捉えるな
禅 → 概念に囚われず、現前の事実を直接見よ
という三段階で見ると、かなり見通しがよくなる。
そして面白いのは、三者とも「観念を疑う」のに、唯名論は哲学理論を作り、中観は空の論証を作り、禅は公案や語録を大量に残したこと(笑)。
「観念を捨てろ!」と言いながら、めちゃくちゃ大量の観念と言葉を残している。
ここは人間の思想史の、かなり面白いところ。
プロテスタントは究めたか?
禅定学で発達したやろしなー
曹洞宗禅なんかは
一番なんの刺激もない
😀
こんなのは、最後でいい😅
キリスト教をバクティヨガで捉える趣味があるので
バクティヨガはラーマクリシュナで学んだので
大方満足しているかも
😀
予備知識として避けて通れない
そういえば、そうだった
ラーマクリシュナをやったんだったな😄
やはり体温あかる
体温あがると、少しバテる
エアコンとアイスノンで体温低下狙う
😀
でも、現実に目の前にある個物を見ると、そんなものは無さそうに思えてきたり
まさにそこが、西洋形而上学のものすごく長い綱引きですね(笑)。
一方では、
「変化するものの背後に、変化しない真実在があるはずだ」
という強烈な欲求。
他方では、
「でも、目の前にあるのは、結局この個物じゃないか?」
という経験。
この二つが何度も衝突する。
例えば美しい花は、枯れる。
美しい人も、歳を取る。
国家も滅びる。
三角形を紙に描いても、線は完全には真っ直ぐではない。
ところが、
「美そのもの」 「三角形そのもの」 「正義そのもの」
は変化しない。
そこでプラトンは、
変化する個物より、変化しないイデアのほうが「本当に存在する」と言えるのではないか?
と考えた。
これは、ある意味ではものすごい**「永遠への憧れ」**ですよね。
アリストテレスは、
「いやいや、実際に存在しているのは、この馬、この人、この木だろう」
という方向に戻す。
形相は重要だが、
形相だけが別世界に独立して存在しているわけではない。
だから、
プラトン
真実在
↓
イデア
アリストテレス
真実在
↓
この個物(形相+質料)
という具合に、哲学の重心が少し地上へ降りてくる。
なぜならキリスト教には、
永遠不変の神
がいるから。
すると、
「この世界の変化する存在と、永遠不変の神との関係は?」
という問題が避けられない。
さらに、
神の中に「人間性」のような普遍的本質が存在するのか?
被造物の「人間性」は何なのか?
神の創造した個々の人間は、何によって個体として区別されるのか?
と、プラトン以来の問題がキリスト教神学と合体してしまう。
だからトマス、スコトゥス、オッカムが、あんなに「人間性」「個体化」「共通本性」を細かく議論することになる。
「現実に目の前にある個物を見ると、そんなものは無さそうに思えてくる」
が、まさに唯名論の誘惑なんですよね。
目の前には、
この犬
あの犬
あの犬……
しかない。
「犬性」そのものを見たことはない。
そこでオッカム的に、
「だったら、実在するのは犬たちであって、『犬性』は我々の概念なのでは?」
となる。
すると今度は実在論者が、
「でも、なぜこの犬もあの犬も同じ『犬』なの?」
と反撃する(笑)。
そしてまた論争が始まる。
要するに、
永遠不変のものを求める心
vs
目の前の個物しか見えない経験
この二つが、西洋哲学の中で延々と格闘してきた、と見ることができます。
そしてこの構図、実はあなたが以前話していた**「美そのもの」と「美しいもの」や、「存在そのもの」と「存在するもの」**の区別にも、そのままつながっていますね。
「存在そのものはあるのか?」
――この問いまで行くと、もう完全にプラトン以来の病気です(笑)。
当方はかねてから
「輪廻転生こそ、インド人の最大の関心事だ。輪廻転生をアタマから否定してるような人では、インド人の心がわからないため、仏教のようなインド思想を真に理解することはできない」
と主張してきた
同じことが、西欧人にとっての「普遍」にも言える
プラトンが「天上のイデア界にある真実在」を唱えて以来、
「そんなものが本当にあるのか?」が、
あまりにも重大なテーマになってしまった
そうですね。ここはかなり重要な視点だと思います。
特に、
「その文化圏の人々が、何を問題にせずにはいられなかったか」
を見ると、思想史がずいぶん違って見えてきます。
インド思想なら、
輪廻とは何か?
誰が輪廻するのか?
業はどう次の生に伝わるのか?
解脱とは輪廻からの離脱なのか?
無我なのに、なぜ輪廻するのか?
という問題が、ヴェーダーンタ、仏教、ジャイナ教などをまたいで何度も登場する。
そして西洋では、プラトンが
「感覚世界を超えた、真に実在するものがあるのではないか」
という問題を猛烈な勢いで前面に出した。
すると後世の哲学者は、どうしてもこの問題から逃げられなくなる。
例えば、
美しい女性
美しい風景
美しい音楽
がある。
では、これらに共通している**「美」そのもの**とは何なのか?
プラトンなら、
個々の美しいもの
↓
美そのもの(美のイデア)
という方向へ行く。
すると、当然、
「そんなもの、本当に存在するのか?」
という問いが発生する。
そしてこの問いが、アリストテレスを経て、
普遍は実在するのか?
個物の外にあるのか?
個物の中にあるのか?
それとも知性の中だけにあるのか?
という、後の普遍論争につながっていく。
だから中世の実在論者と唯名論者の大論争は、突然発生したものではなく、かなり遠くまで遡れば、
「イデアは本当に実在するのか?」
というプラトン以来の巨大な宿題の延長線上にあるわけです。
インドで、
「輪廻なんて、そんなものあるわけない」
と最初から切り捨ててしまうと、
「では業とは何なのか?」
「解脱とは何からの解脱なのか?」
「釈迦がなぜ輪廻・業・天界・地獄について語るのか?」
という、インド思想の巨大な問題設定そのものが見えなくなってしまう。
同じように西洋で、
「普遍なんて単なる言葉でしょ」
と最初から片付けてしまうと、
「なぜプラトンはイデアを考えたのか?」
「なぜアリストテレスは形相を問題にしたのか?」
「なぜトマスとスコトゥスが個体化を論じるのか?」
「なぜオッカムが普遍の実在性を否定することにあれほどエネルギーを使うのか?」
が分からなくなる。
つまり、
ある文化圏で何世紀にもわたって繰り返される「巨大問題」を、その問題自体が間違いだとして最初から捨ててしまうと、その文化圏の思想家たちが何を考えていたのか理解しにくくなる。
ということですね。
そして、この観点から見ると、あなたが最近ずっと追っている
プラトン → アリストテレス → トマス → スコトゥス → オッカム
という流れは、実は一本の大きな問い、
「われわれが『人間』『美』『善』『存在』などと呼んでいる普遍的なものは、いったい何なのか?」
を、2500年近くかけてこねくり回している歴史、とも見えるんですよね(笑)。
「普遍なんてどうでもいいだろ!」と思った瞬間に、なぜ西洋哲学者たちがそこまで熱くなっているのか分からなくなる。
これは、まさにあなたの「輪廻を理解せずしてインド思想は分からない」という主張と、かなりよく対応しています。
輪廻転生を巡るインド人の議論と、普遍を巡る西欧人の議論には共通点がある
それは、「永遠不変の実体はあるか、ないか?」ということ
「個物」は、死ねば消滅する。「普遍」は永遠に変わらない
そうですね。かなり深いところで共通する構造があります。
ただ、最後の
「個物は死ねば消滅する。普遍は永遠に変わらない」
は、プラトン的実在論を念頭に置けばその通りですが、
西洋の普遍論全体については少し広げすぎない方がいいです。
むしろ、こう整理すると非常に綺麗です。
インド側
輪廻論では、
この個体は生まれて死ぬ
では、死を越えて何かが存続するのか?
という問題が出る。
そこで、
ヴェーダーンタ → アートマン/ブラフマン
仏教 → 永遠不変のアートマンを否定
ジャイナ教 → ジーヴァ(生命原理・霊魂)の存続
など、それぞれ違う答えを出す。
つまり、
変化する個体の背後に、変化しない何かがあるのか?
という問題ですね。
西洋側
普遍論では、
ソクラテスは生まれて死ぬ。
プラトンも生まれて死ぬ。
しかし「人間」というものはどうなのか?
となる。
ソクラテスが死んでも、
「人間」という本性そのものまで消滅するのか?
という問題が残る。
個々の人間
↓
永遠不変の「人間そのもの」
という方向へ行く。
アリストテレスになるともっと複雑になり、トマスになると、
共通する本性
をどう個物の中に位置づけるかが問題になる。
そしてスコトゥス、オッカムになると、
「その『共通する本性』って、本当に個物とは別に実在するのか?」
と問い直される。
変化・生成・消滅する個別的な世界
vs
それを超えて存続する普遍的・恒常的なもの
という対立ですね。
これはかなり重要な構造です。
ただし、「普遍=永遠不変」なのはプラトン的な強い実在論では特に明瞭で、トマスやスコトゥスの普遍論になると、普遍の存在様態はもっと複雑です。さらにオッカムなら「そんな永遠の共通実体を持ち出す必要はない」となる。
プラトン 「永遠不変の真実在がある」
↓
アリストテレス 「それを個物の形相の問題として考え直そう」
↓
トマス 「共通本性は実在するが、個物として存在する」
↓
スコトゥス 「それでも個物の『このもの性』を説明しなければならない」
↓
オッカム 「そもそも個物とは別の共通実体を仮定する必要があるのか?」
となる。
そしてインド側でも、
「死滅する個体の背後に、永続するものはあるのか?」
という問いに対して、
アートマンを立てる
↓
アートマンを否定する
↓
輪廻そのものを別の仕方で説明する
という壮大な議論が展開される。
なので、両者をつなぐ非常に抽象的な問いとして、
「生成変化する世界の中に、変化しない実在を認めるべきか?」
というものを置くことはできると思います。
そして面白いのは、インドではこの問いが「私は死んだらどうなるのか?」という実存的問題に直結し、西洋では「人間とは何か?」「美とは何か?」「存在とは何か?」という存在論・形而上学の問題として展開したことです。
同じような「永続するもの」への執着が、文化によって輪廻論と普遍論という、まったく違う姿を取った――という見方は、かなり面白いですね。
出口王仁三郎は、フスマに描かれた富士山の絵を指して
「霊界にも富士山がある。あの世の富士山は、この世の富士山よりずっと大きくて美しい。霊界の富士山と現界の富士山は、現界の富士山とフスマ絵の富士山のような関係にある」
と語った
プラトンは哲学者だから、そんな風にベタな霊界論を語ることはないが
プラトンの「イデア論」ってのも要するに、そういうことではないのか?
https://img-cdn.jg.jugem.jp/f29/552947/20170108_1483592.jpg
↑
前にも、こう書いたが
「永遠不変の真実在への憧れ」ってのは、平たく言えば要するに、こういうことなんじゃないかと思うんだよなあ
うん、比喩としてはかなり鋭いと思います。
出口王仁三郎の富士山の話を、哲学的に極端に抽象化すると、
この世の富士山は「本物の富士山」の不完全な現れである。
本当の富士山は、より高次の世界にある。
という構造ですよね。
そして、これをプラトンのイデア論に重ねると、
現実の美しいもの
↓
「美そのもの」の不完全な現れ
現実の正しい行為
↓
「正義そのもの」の不完全な現れ
現実の三角形
↓
完全な三角形のイデア
という構造になる。
だから、かなり平たく言えば、
「この世にあるものは、本物のコピーではないのか?」
という発想なんですよね。
たとえば襖に富士山が描かれている。
誰が見ても、
「これは富士山だ」
と分かる。
でも、
襖絵 ≠ 現実の富士山
です。
さらに王仁三郎の世界観では、
現実の富士山 ≠ 霊界の富士山
となる。
つまり、
襖絵
↓
現界の富士山
↓
霊界の完全な富士山
という「コピーから原型へ」の階層ができる。
プラトンの場合も、これをものすごく哲学的に洗練すると、
個々の美しいもの
↓
美そのもの
となる。
**王仁三郎の「霊界の富士山」は、かなり文字通り「別の世界に存在する富士山」**です。
一方、プラトンのイデアは、単純に
「天国に巨大な三角形が浮かんでいる」
みたいな話ではありません(笑)。
プラトンが言いたいのは、もっと根本的に、
「なぜ我々は、不完全な個物を見て『美しい』『正しい』『三角形だ』と認識できるのか?」
という問題です。
そして、あなたが言う
「永遠不変の真実在への憧れ」
という表現は、かなり本質を突いていると思います。
現実世界を見ると、
人は老いる
花は枯れる
国家は滅びる
建物は崩れる
美しいものも醜くなる
全部、変化する。
ところが人間の頭の中には、
「美しいとはこういうものだ」
「正義とはこういうものだ」
「完全な三角形とはこういうものだ」
という、変化しない基準があるように思える。
そこでプラトンは、
「ひょっとすると、変化するこの世界のほうがコピーで、変化しないほうが本物なのではないか?」
と考えた。
これは確かに、
「この世の富士山より、本当の富士山が別のところにある」
という王仁三郎の発想と、構造的には非常によく似ています。
アリストテレスは、
「いや、待て。
本物の富士山を、別世界に置く必要があるのか?」
という方向に行く(笑)。
つまり、
形相は現実の個物の中にある
と考える。
そして中世になると、トマスがアリストテレスをキリスト教神学に組み込む。
さらにスコトゥス、オッカムと進むと、
「そもそも『人間性』とか『犬性』という永遠不変の共通本性を、どこまで実在物として認める必要がある?」
という話になる。
だから、あなたの言う
「永遠不変の真実在への憧れ」
を起点にすると、
プラトン → アリストテレス → トマス → スコトゥス → オッカム
という流れが、かなり生き生きと見えてくるんですよね。
要するに、
「本物はどこにあるのか?」
という、ものすごく素朴な疑問が、
霊界の富士山 → イデア → 形相 → 共通本性 → このもの性 → 唯名論
という、とんでもなく高度な哲学論争にまで発展してしまった(笑)。
これは「普遍論争」を理解するうえで、かなり直感的なイメージだと思います。
結局のところ
「目の前で現実に存在する個物は、天上界にある本物の劣化コピーである」
という世界観
そう。プラトンのイデア論をかなり平たく、直感的に言い換えるなら、まさにそれです。
目の前の個物は、本当に実在するものの不完全な現れである。
本当の実在は、永遠不変のイデアの側にある。
たとえば、
現実の美しい花
→ 「美そのもの」の不完全な現れ
現実の正しい行為
→ 「正義そのもの」の不完全な現れ
現実の三角形
→ 完全な三角形の不完全な現れ
という構造。
だから、プラトンの世界観を王仁三郎の富士山の比喩で説明すると、
イデア界の「本物の富士山」 ↓ 現実世界の富士山 ↓ 襖に描かれた富士山
という「原型 → 現れ → 模写」の階層を想像すれば、かなり掴みやすい。
現実の個物にもイデアへの「参与(メテクシス)」がある。
だから、
完全な本物 ← 不完全なコピー
というより、
永遠の原型 ← それに参与する生成世界
と考えるほうが哲学的には正確です。
そして、ここからアリストテレスの反撃が始まる。
「いや、そんな『本物』を天上界に置かなくても、この現実の個物そのものを説明すればいいじゃないか」
これが、あなたが今追っている
プラトン → アリストテレス
の転換です。
そして中世になると、
プラトン的な「本物」への憧れと、アリストテレス的な「目の前の個物」への着目が、トマス、スコトゥス、オッカムを通じて何百年も格闘する。
だから、究極的にはこの問題、
「本当に存在するのは、永遠不変のものなのか、それとも目の前の個物なのか?」
なんですよね。
これはあなたが言っていた**「永遠不変の真実在への西欧人の凄まじい憧れ」**の、かなり核心にある問いだと思います。
プラトンは、さっそく、弟子のアリストテレスに修正された
アリストテレスによれば、目の前の個物がコピーなのは確かだとしても、「天上界のどこかにあるオリジナルの原本」なんてものは無い
アリストテレスは、師匠のプラトンよりずっと現実主義者だった
彼は、夢みたいなことを語らなかった
うん、その対比はかなり分かりやすいです(笑)。
特に、
プラトン:コピーの背後に原本がある
アリストテレス:コピーと呼んでいるこの現実そのものを説明しよう
という違いは、二人の哲学の雰囲気をよく表しています。
ただ、「アリストテレスは夢みたいなことを語らなかった」は少しだけ修正したいです。アリストテレスも形而上学者なので、十分に壮大なことを言っています(笑)。ただ、プラトンのように「この世界の外側に別の原型世界」を置かなかったという点では、たしかにずっと地上的です。
プラトン
プラトンなら、
個々の三角形
↓
不完全
↓
完全な三角形のイデア
となる。
現実の三角形には、
線が完全にはまっすぐでない
点が完全な点ではない
測定誤差がある
などの不完全性がある。
それでも我々は、
「完全な三角形」
という基準を理解できる。
そこで、
「完全な三角形そのものが、どこかに実在するのでは?」
と考える。
これがプラトンの方向です。
アリストテレス
ところがアリストテレスは、
「その完全な三角形を、天上界に実物として置く必要はないだろう」
となる。
「三角形」という形相・普遍性は重要だが、それは個物とは別の場所に存在する独立したイデアではない。
むしろ、
この三角形、この人、この馬
という具体的な存在者を出発点にして、その中にある形相・本質を考える。
だから、
プラトン
原本 → コピー
アリストテレス
個物そのものを分析する
という違いになる。
プラトンは、
普遍=原本=真実在
にかなり強く寄せる。
アリストテレスは、
普遍は重要だが、個物から切り離された別世界の実体ではない
とする。
つまり、普遍を捨てたわけではない。
ここが大事です。
アリストテレスは、
「人間なんて、ソクラテスとプラトンという二人の人間を見て、人間と呼んでいるだけだ」
というオッカム的なところまでは行かない。
むしろ、
人間という本質・形相は実在的に重要だ
と考える。
プラトン(普遍実在論)→アリストテレス(普遍実在論を維持しつつ、個物重視に傾斜)
という図式は、かなりうまくアリストテレスの位置を表しています。
そして、この**「プラトンからアリストテレスへの現実への引き戻し」**が、800年以上後の
トマス → スコトゥス → オッカム
という流れを考える際の、ものすごく重要な前史になるわけですね。
ただし面白いことに、プラトンは「夢想家」、アリストテレスは「現実主義者」という単純な二分法では収まりません。
プラトンの問題提起がなければ、アリストテレスも「形相」「本質」「普遍」をあれほど真剣に考える必要はなかった。
つまりアリストテレスは、
師匠の「永遠の原本」という発想を拒否しながら、師匠が発見した「普遍的な本質」という問題そのものは捨てなかった。
ここが実にアリストテレスらしいところです。
同じような流れが、中世ヨーロッパでも繰り返された
トマス・アクィナス(普遍は実在する)
→ ドゥンス・スコトゥス(普遍が実在するのは認めるが、個物を重視する方向に傾斜)
→ オッカムのウィリアム(個物しかない)
そう。思想史の「型」として見るなら、かなり綺麗な対応になっています。
あなたの図式を少し整えると、
古代
プラトン
↓
普遍・イデアを真実在として強く重視
↓
アリストテレス
↓
普遍の実在性は維持しつつ、個物・現実世界へ重心を移す
↓
中世
トマス・アクィナス
↓
普遍的本性の実在性を認める
↓
ドゥンス・スコトゥス
↓
共通本性を認めながら、個体性を強く理論化する
↓
オッカム
↓
個物を基本的な実在とし、共通本性を実在物として認めない
となる。
ここが古代のアリストテレスとよく似ています。
アリストテレスは、
「イデア界なんていらない。形相はこの個物の中にある」
とした。
スコトゥスも、
「共通本性だけでは、このソクラテスを説明できない。このもの性が必要だ」
とした。
つまり両者とも、
「普遍を捨てる」のではなく、「普遍だけでは個物を説明できない」と考えた
という点で似ています。
そして、その先でオッカムが、
「そもそも個物とは別に、共通本性という実在的なものを置く必要があるのか?」
とさらに踏み込む。
オッカム=「個物しかない」
は、哲学史を説明するためのかなり大胆な要約だということです。
オッカムは普遍概念そのものを否定しているわけではなく、普遍が個物とは別の実在的な存在者として外界にあることを否定する。
だから、
外界:個物
知性:普遍概念
という構図になる。
この意味で、
プラトン → アリストテレス
と
トマス → スコトゥス → オッカム
は、確かに
「永遠不変の普遍」から「目の前の個物」へ、哲学の重心が少しずつ移動する
という似た運動として眺めることができます。
プラトン
「本物は永遠不変のイデアだ」
↓
アリストテレス
「いや、本物はこの世界の個物だ。ただし、その中には普遍的な形相・本質がある」
↓
トマス
「その形相・本質をキリスト教的存在論の中で体系化しよう」
↓
スコトゥス
「でも、個物の『このもの』をもっとちゃんと説明しろ」
↓
オッカム
「だったら、最初から個物を基本にすればいい」
……という流れですね(笑)。
ただし、歴史的因果関係として「古代で一度起きた流れが、そのまま中世で再演された」とまでは言えない。そこは思想史上かなり重要な注意点です。
でも、「普遍と個物のどちらに存在論的な重みを置くのか」という構造が、古代と中世で似た振幅を描いている――という見方なら、かなり面白いと思います。
俺は貞慶研究の鬼だ
ハッスル🤡問題まで見えてくる
😀
脳疲労が取れてきた
😀😀😀😀😀
来年春は
高野山でなく
イスラムモスクへ行く可能性大
有給取ってゆったり
節約旅にしよう
😀
😀
火曜日まで節約生活しなければ
😅
とりま
😀
😀
https://m.youtube.com/watch?v=1hrwcROftGE
😀
ファーティハ(開端章)のカタカナ読み
第1節ビスミッラーヒッ・ラフマーニッ・ラヒーム
第2節アル・ハムドゥ・リッラーヒ・ラッビル・アーラミーン
第3節アル・ラフマーニッ・ラヒーム
第4節マリキ・ヤウミッ・ディーン
第5節イッヤーカ・ナァブドゥ・ワ・イッヤーカ・ナスターイーン
第6節イヒド??・スィラータ・ル・ムスタキーム
第7節スィラータ・ラズィーナ・アンァムタ・アライヒム・ガイル・マウドゥービ・アライヒム・ワ・ラッ・ダッリーン(あなた
オッカムのウィリアムみたいな、切れ味抜群の理論家は
イスラム神学には出なかったが
😀
イスラム教とスーフィズムは別モノ😂
彼の基本構造は、
一者(The One)
↓
知性(ヌース)
↓
魂(世界霊魂など)
↓
感覚的世界
という階層的な存在論です。
そして一者は、あらゆる存在の根源でありながら、普通の意味での「存在者」を超えている。
神
↓
神の知性・永遠の理念
↓
創造された魂・精神
↓
物質世界
という構造にかなり近い形で再構成できる。
プラトンでは、
イデア界 → 個々の物
という構造でした。
アウグスティヌスではこれが、
神の知性の中にある永遠の理念 → 神による創造 → 個々の被造物
という形に変換される。
つまり、プラトンのイデア論を「神の創造論」の中に取り込んだわけです。
神の言という
絶対的真理の上に構築しているから
相性か良かったんやろなー
😀
楽しくなるのを発見した
休日の愉しみだ
ソーセージ食べる前だ
やるならー
😀
神は永遠の時間、
過去現在未来にも永遠にいる
😀
😀
イスラーム礼拝手順と
スコラ哲学の二本立て研究だな、
来年春まではー
とりま
😀
😀
😀
😀
西洋哲学の第一歩にはいい感じだ
スコラ哲学は
😀
とっつきやすい
😀
スコラ哲学は、トマスだけで十分😅
超マニアは、ボエティウスとか、アベラールとか😅
😂 これはかなり的確な「スコラ哲学マニア度ランキング」だと思う。
実際、一般教養としてスコラ哲学を押さえるなら、トマス・アクィナスでかなりの部分が済む。
ざっくり言えば、
入門者:アウグスティヌス → トマス
スコラ哲学好き:トマス → ドゥンス・スコトゥス → オッカム
かなりのマニア:アベラール
超マニア:ボエティウス
という感じになる(笑)。
トマスを「スコラ哲学の完成者」として読むと、
後のスコトゥスやオッカムが何をひっくり返したのかが非常によく見えること。
特に今回ずっと話していた
トマス → スコトゥス → オッカム
という流れは、単なる「哲学者の世代交代」ではなく、
普遍・個物・存在・個体化
をめぐる問題が、どんどん「個物」側へ移動していく歴史として読める。
そして、さらに遡ってアベラールやボエティウスまで行くと、
「そもそも普遍論争って、何を問題にして始まったんだ?」
というところまで戻ってしまう。
つまり、
トマスを読む → スコトゥス・オッカムに興味が出る → アベラールが気になる → ボエティウスまで遡る → いつの間にか中世哲学史マニア
という、恐ろしい沼が待っている😅
しかもボエティウスは、古代哲学と中世哲学の巨大な橋なので、ここまで行くと「スコラ哲学」というより、もう西洋哲学史そのものになってくる。
ボエティウスは、思想内容もさることながら
数奇な運命が興味深い、歴史的な人物
そうなんだよな。
ボエティウスは、「何を考えたか」だけでなく
「どういう人生を送ったか」そのものがドラマチックなんだよね。
ボエティウスは、だいたいこんな人生。
名門ローマ貴族 ↓
若くして高度な古典教育を受ける ↓
東ゴート王国のテオドリック大王に仕える ↓
執政官にまで出世 ↓
ところが突然、反逆罪の疑いをかけられる ↓
投獄 ↓
死刑 ↓
獄中で『哲学の慰め』を書く ↓
処刑
という、とんでもない展開😨
彼自身は、
「プラトンとアリストテレスの著作をラテン語世界に全部移植する」
くらいの壮大な構想を持っていた。
しかし、その途中で政治的に失脚してしまう。
だから結果的に、ボエティウスは
「古代世界の最後のローマ人」
であると同時に、
「中世哲学への入口を作った人」
になってしまった。
権力の絶頂にいた人物が、一転して牢獄に放り込まれ、
「なぜ善人が苦しみ、悪人が栄えるのか?」
「運命とは何なのか?」
「幸福とは何なのか?」
「神の摂理と人間の自由意志は両立するのか?」
を哲学そのもので考える。
これ、ほとんど**「自分自身の人生を題材にした哲学書」**なんだよね。
しかもここから後世の中世哲学に、
運命と摂理
↓
神の永遠的知
↓
自由意志
↓
悪の問題
という巨大な問題群が受け継がれていく。
だからボエティウスは、単に「スコラ哲学史の最初のほうに出てくる人」ではなく、
古代ローマの哲学者が、中世ヨーロッパの哲学者へ変身する瞬間を一人で体現している人物
なんだよな。
そして最期があまりにも劇的なので、思想史を知らなくても人物として興味深い(笑)。
スコラ哲学愛で
歴史と思想を学びたいエナジーがあるようだ
😀
2026年08月24日 19:25
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2026/08/24/kiji/20260824s00041000315000c.html
結成: 2006年8月21日に大阪で結成。
メンバー: HARUNA、MAMI、TOMOMI、RINA。
記録: 2023年に「同一メンバーによる最長活動女性ロックバンド」としてギネス世界記録に認定。
発表内容: 2026年8月24日、結成20周年の節目を迎え、2027年8月21日をもって活動を終了すると公式サイトで発表。理由は「4人で出来ることの全てを『やり切った』」ため。
全国ツアー: 2026年10月から2027年5月にかけて、47都道府県を巡る全国ツアーを開催。
ラストライブ: 結成21周年の記念日となる2027年8月21日に、横浜アリーナでワンマンライブを開催予定。
SCANDAL、“同一メンバーによる女性最長活動ロックバンド”としてギネス世界記録に認定
SCANDALが、8月21日に大阪・なんばHatchにて結成17周年記念イベントを開催し、このイベント内で「同一メンバーによる最長活動ロックバンド(女性)」としてギネス世界記録に認定された。
今回のイベント【SCANDAL 17th ANNIVERSARY 「世界一」】は、チケットが即日完売となり、会場には国内外から1,900名のファンが詰めかけた。さらに、SCANDALのYouTube、Instagram、TikTokでもイベントの模様が同時配信されていた。
結成20年を機に解散することにしたのか
😀
猛烈なファンでもなかったが
😀
スンニ派研究の虫になりそうだ
千葉のムスリムの動画たくさんあるしなー
😀
キリスト教や仏教に比べて、手薄な分野だ
😀
😀
https://m.youtube.com/@japandawah/videos
仏教やキリスト教並みに詳しくなるのは間違いない
😀
😀
人類は、「人間性」という形相を皆で共有している
個々の魂に違いは無い
うん、かなり近い。
ただし、最後の「個々の魂に違いはない」は、
トマスについては少し修正が必要だね。
トマス・アクィナスの立場を整理すると、こうなる。
トマスはアリストテレスに従って、
人間の魂=身体の形相(forma corporis)
と考える。
だから、田中さんも鈴木さんも「人間」である以上、同じ人間という種の形相=人間性を持っている。
ただし、プラトン的に「人間性」という普遍的な形相が、個々の人間とは別に独立して存在するわけではない。
ここで重要なのが、指定された物質(materia signata)。
トマスの説明では、同じ「人間性」という形相を持っていても、
この身体
この物質
この骨格
この身体的条件
によって個体化される。
つまり、おおまかに言えば、
人間性(形相)+この特定の身体(質料)
→ この個人
となる。
したがって、あなたが以前整理していた
人間=人間というあり方に限定された存在
というスコトゥス的な方向とは違って、トマスでは個体化に質料が非常に重要になる。
ここが面白いところ。
トマスは、各人がそれぞれ個別の魂を持つと考える。
ソクラテスの魂とプラトンの魂は、単に「同じ一個の魂」を共有しているわけではない。
むしろ、
ソクラテスにはソクラテスの魂
プラトンにはプラトンの魂
がある。
そして、それぞれの魂はそれぞれの身体の形相である。
だから、
人間性そのものは共通している
↓
しかし個々の魂は数的に別々である
↓
それぞれの魂が、それぞれの身体を現実化する
↓
ソクラテスという個人、プラトンという個人が成立する
という構造になる。
なので、あなたの言いたいことを一番正確に言い換えるなら、
個々人の魂は数的には別々だが、魂の本質・種類としては同じ「人間の魂」である。
となる。
そして、ここがトマスの面白いところで、人間の個性・個体差を説明する際に、物質的身体が大きな役割を果たす。
ただしトマスは、魂を単なる身体の副産物とは考えない。人間の理性的魂は非物質的な知性・意志の能力を持ち、身体が滅んでも魂そのものは存続しうると考える。
だから、
「個人差=身体」だけではないが、個体化の原理としては質料が重要
というのがトマスを正確に捉えた言い方になる。
トマス
→ 質料によって個体化
スコトゥス
→ このもの性によって個体化
オッカム
→ そもそも個物しか実在しない
という、前に話していた流れが見えてくる。
仕事やる気だけで限界だ
😀
ドゥンス・スコトゥスは、個性を重視する方向に踏み出した
ソクラテスは「ソクラテス性」、プラトンは「プラトン性」という、独自の個性を持っている
要するに、魂にも個性の違いを認めた
そう、その理解でかなり核心を突いている。👍
ただし、スコトゥスの「ソクラテス性」「プラトン性」は、厳密には**「個性的な魂」そのものというより、個体を個体たらしめる究極の原理**と考えたほうが正確。
トマス → スコトゥスの変化
トマスでは、大ざっぱに言えば、
人間性(形相)+個別化された質料 → ソクラテス
だった。
したがって、ソクラテスとプラトンは同じ人間性を共有し、個体として異なるのは主に物質的な身体・質料によって説明される。
ところがスコトゥスは、
「いや、個物には物質だけでは説明できない、個物そのものの『この人であること』があるんじゃないか?」
と考える。
これが haecceitas(このもの性・個体性)。
人間性
↓
「人間である」という共通性
ソクラテスのこのもの性
↓
「この人=ソクラテスである」という個体性
プラトンのこのもの性
↓
「この人=プラトンである」という個体性
となる。
スコトゥスにとっては、魂も個別的なもの。
ソクラテスの魂とプラトンの魂は、
単に「人間の魂」という同一の形相が、
それぞれ違う身体に入っているだけではない。
それぞれが数的に異なる個体的な魂である。
なので、あなたの言う
「魂にも個性の違いを認めた」
は、方向としてかなりいい。
ただ、「ソクラテス性=ソクラテスの性格や人格」という意味ではない。
haecceitasはもっと根本的で、
「なぜこの人間が、単なる『人間』ではなく、『この人間=ソクラテス』なのか?」
に対する答え。
つまりスコトゥスは、個体性を単なる物質的な違いから、存在者そのものの側にある固有性へと押し進めたわけだ。
トマス → スコトゥス → オッカム
という流れを理解するうえで非常に重要。
トマス:共通の人間性+個別化された質料
↓
スコトゥス:共通の人間性+このもの性
↓
オッカム:個物そのものが基本で、「人間性」という普遍者は実在しない
となる。
ここでスコトゥスは、まだ実在論者なのに、かなり「個物」の側へ踏み込んでいる。
だからこそドゥルーズがスコトゥスを非常に高く評価したのも、なんとなく分かってくるんだよね。
こちらにとっては、長年、慣れ親しんできたフィールドだ😄
脳がシンプル化してまう
瞑想仏教はまだ、アタマは動くが
😀
夏バテ対策にアイスノンマニアだ
😀
間接射撃しまくった
😀
😀😀😀😀
ほーかいくんの凹に対する
凸みたいだ
😀
重要だった
春日大社の価値の再認識だ
😀
東大阪の牧岡神社となぅている
春日大社の第三神と第四神
😀
フィールドワークまでしてきた
山伏ゾーンには
牧岡神社と金峯山寺関連と伊勢、明恵、貞慶の遥拝した場所などが、あった
😀
興福寺は
当山派修験道のセンターだった
😀
アシュアリーがムウタズィラ派の師匠ジュッバーイーに、ある架空の3人兄弟の運命について質問したことから始まります。
長男:神に従い、善行を積んで死んだ男
次男:神に背き、悪行を重ねて死んだ男
三男:幼い子供(物心のつく前)のまま死んだ男
論争の流れ
アシュアリーの問い
「この3人があの世(来世)に行ったとき、それぞれどうなりますか?」
師匠ジュッバーイー(ムウタズィラ派)の答え
「長男は善行のご褒美に天国へ行く。次男は罪の罰として地獄へ行く。三男は子供のままで善も悪もしていないから、天国にも地獄にも行かず中間(救済も罰もない場所)に置かれる。」
アシュアリーの反論
「では、もし三男が神に向かって『神よ、なぜ私を大人の年齢まで生きさせてくれなかったのですか?もし長生きさせてくれたら、私も善行を積んで天国の一番高い席に行けたのに!』と抗議したら、神は何とお答えになりますか?」
師匠の再反論
「神はこう答えるだろう。『お前が大人になったら、お前は罪を犯して地獄に落ちることを私はあらかじめ知っていた。だからお前を地獄に落とさないために、子供のうちに死なせてやったのだ。これこそがお前にとって最善(アスラフ)だったのだ』とね。」
アシュアリーの決定的な一撃
「なるほど。ではそれを聞いていた地獄の次男が、地獄の底から神に向かってこう叫んだらどうしますか?
『神よ!それならなぜ私をも子供のうちに死なせてくれなかったのですか!そうすれば私は罪を犯さずに済み、地獄の炎で焼かれずに済んだのに!なぜ私には最善を尽くしてくれなかったのですか!?』」
結末
この問いに対して、師匠ジュッバーイーは一言も返すことができず、沈黙してしまいました。
この「3人の兄弟」のエピソードが好きすぎる(笑)
本人が受け取らなかった
いわんや善人をや
かなり大きな問いだけど、まず前提を少し修正すると、「イスラム圏で哲学・神学が衰退し、そのままキリスト教圏に継承された」わけではないんだ。
むしろ、
ギリシア哲学はイスラム圏で一度大規模に吸収・発展し、その後、西欧キリスト教圏へ大量に再移植された。そしてイスラム圏では哲学が宗教・政治・制度との関係で次第に主流の座を失った
という方が歴史に近い。
8~12世紀頃のイスラム世界では、ギリシア哲学・医学・数学・天文学が猛烈な勢いで翻訳された。
特にアッバース朝期のバグダードでは、
アリストテレス
プラトン
ガレノス
ユークリッド
プトレマイオス
などがアラビア語世界に入ってくる。
そして単なる保存ではなく、
ファーラービー → イブン・シーナー(アヴィセンナ) → イブン・ルシュド(アヴェロエス)
という巨大な哲学伝統が形成された。
だから「イスラム教は哲学を嫌った」という説明はかなり雑。
むしろ一時期は、キリスト教ヨーロッパよりイスラム世界の方が圧倒的にギリシア哲学へのアクセスが豊富だった。
ここが核心。
最大のポイントは、単純な「宗教 vs 哲学」ではなく、
どの思想が宗教的・政治的・制度的に再生産されるか
という問題なんだと思う。
特に重要なのがガザーリー。
11世紀の神学者アル=ガザーリーは哲学そのものを全部否定したわけではない。
彼自身、論理学などを高度に利用している。
しかし『哲学者の矛盾』で、イブン・シーナー系の形而上学を強烈に批判した。
特に、
世界は永遠なのか
神は個々の出来事を知るのか
肉体の復活はどう理解するのか
といった問題について、哲学者の立場をイスラム神学と衝突するものとして批判した。
ただし、ここでよくある誤解がある。
「ガザーリーが哲学を破壊した」
という単純な因果関係は、現代の研究ではかなり疑問視されている。
むしろガザーリー自身が哲学的論理をイスラム神学に取り込んだことで、
哲学そのものを消滅させるというより、哲学的思考の一部を神学の内部に吸収した
とも言える。
ここはものすごく重要。
中世イスラム世界にも高度な学問制度はあったけれど、ヨーロッパの大学とは構造が違った。
ヨーロッパでは、
ボローニャ大学
パリ大学
オックスフォード大学
などが成立していく。
大学は単なる宮廷の学者集団ではなく、ある程度自律した法人・学問共同体として発展した。
そして、
神学
↓
哲学
↓
論理学・自然学
↓
法学・医学
などが一つの知的体系として制度化されていった。
ここでアリストテレスが猛烈に重要になる。
イスラム世界からアラビア語哲学がラテン語世界に入ってくる。
たとえば、
イブン・シーナー
→ ラテン語訳
→ 西欧の大学
そして、
イブン・ルシュド
→ ラテン語訳
→ トマス・アクィナスらの議論
という流れが生じる。
だから西欧中世の哲学は、
ギリシア哲学 → イスラム世界 → ラテン・キリスト教世界
という巨大な知的リレーによって形成された側面がある。
そして奇妙なのは、
アヴェロエスをイスラム圏では論争の対象にしながら、西欧大学ではアヴェロエス研究が盛んになる
という現象まで起きること。
これも、単純にはそう言えない。
キリスト教世界も最初から哲学に友好的だったわけではない。
たとえば初期キリスト教には、
「アテネとエルサレムに何の関係があるのか?」
という有名な問題意識があった。
つまり、
ギリシア哲学 vs キリスト教
という緊張は最初から存在していた。
ところが後に、
アウグスティヌス
→ アンセルムス
→ アルベルトゥス・マグヌス
→ トマス・アクィナス
という形で、
哲学を使ってキリスト教神学を体系化する
方向が強くなる。
特にトマス・アクィナスは、
アリストテレス哲学+キリスト教神学
という巨大な総合を作った。
むしろ重要なのは、
キリスト教圏にも哲学を抑圧する力があったし、イスラム圏にも哲学を推進する力があった
ということ。
イスラム黄金時代の哲学はものすごい。
そしてキリスト教ヨーロッパも、異端審問や宗教的統制を経験している。
だから、
イスラム=宗教的・非合理
キリスト教=哲学的・合理的
という二分法は歴史的にはかなり危険。
かなり乱暴に図式化すると、
イスラム世界
ギリシア哲学
↓
翻訳運動
↓
哲学・医学・数学の大発展
↓
神学との激しい論争
↓
哲学は一部残存するが、宗教法・神学など別の学問伝統が強くなる
一方、
ラテン・キリスト教世界
ギリシア哲学
↓
イスラム世界・ビザンツから再流入
↓
大学制度
↓
スコラ学
↓
アリストテレスの体系化
↓
自然哲学・論理学・神学の制度化
↓
近代科学へ
という違いがある。
ここを忘れると説明がかなり歪む。
イスラム世界では、13世紀のモンゴル侵攻などによって政治・経済構造が大きく変化する。
一方ヨーロッパでは、
複数の王国
教皇権
皇帝
都市
修道院
大学
などが競合していた。
つまりヨーロッパには、
一つの権力が知的生活を完全に支配しにくい構造
があった。
これは後の思想史では非常に大きい。
異端扱いされても、
「じゃあ別の都市へ行く」
という逃げ道が存在する。
この政治的分裂が知的競争を生むという逆説はかなり重要。
これも強調したい。
イスラム世界では哲学が完全に消滅したわけではない。
むしろ、
イブン・シーナー以後のイスラム哲学
は非常に長く続いている。
特にイラン・ペルシア世界では哲学と神学・神秘主義が独特の形で融合していく。
つまり、
「西欧=哲学、イスラム=宗教」
ではなく、
イスラム世界では哲学が別の知的生態系に組み込まれ、西欧では大学という制度の中で哲学が独立した学問として発展していった
と見る方がずっと面白い。
実はここからが哲学史としてかなり面白い。
「なぜ近代科学がイスラム世界ではなく西欧で生まれたのか?」
という問題は、単なる宗教比較では説明できない。
僕なら、
① ギリシア哲学の継承
② キリスト教神学との融合
③ 大学という制度
④ 教会・国家・都市の権力分立
⑤ 印刷技術
⑥ 商業資本主義
⑦ 大航海時代
⑧ 数学・自然哲学の変化
を全部つなげて考える。
そして実は、ここまで行くと**「キリスト教が合理主義を生んだ」というより、「キリスト教世界内部の矛盾・分裂そのものが、近代科学を可能にした」**という、かなり面白い結論が見えてくる。
もしJBLがこのテーマを掘りたいなら、次は **「ガザーリー vs イブン・ルシュド → トマス・アクィナス → デカルト → 近代科学」**という一本の思想史として追うと、かなり深いところまで見えてくる。
11世紀のイギリスのカンタベリー大司教。神学研究を深め、普遍論争では実在論を唱えた。スコラ哲学の父とも言われている。カンタベリー大司教としてはノルマン朝のイギリス国王と鋭く対立し、教会の聖職叙任権を主張した。
キリスト教の信仰をプラトンやアリストテレスの哲学によって、理性的に論証しようと試みた。その思想は、スコラ学の初期の神学思想を形成したとして、「スコラ哲学の父」と言われている。普遍論争における彼の「普遍は個に先だって実在する」という「実在論」は、中世キリスト教の正統的な理論とされ、トマス=アクィナスに継承されていく。
主著に『モノロギオン』、『プロスロギオン』、『クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまひしか)』などがある。
の手間で停止だ
😀
アンセルムスは高校世界史では「中世哲学の普遍論争で実在論を主張し、スコラ哲学の父といわれる」として出て来る。もっぱら文化史上の事項としてしか扱われない。たしかに、普遍論争そのものも重要であるが、彼はイギリスの首長座であるカンタベリー大司教を務めており、イギリスのノルマン朝の国王と聖職叙任権をめぐって激しく闘った(地位を賭けた言論上の闘い)人物であった。叙任権闘争というとローマ教皇と神聖ローマ皇帝(ドイツ王)との間の闘争と思いがちだが、イギリスでも同時期に展開されていたのだ。そのことを知る上でも、やや詳しく、アンセルムスの生涯を追ってみよう。<以下、アンセルムス・長沢信寿訳『プロスロギオン』1942 岩波文庫 長沢氏解説「聖アンセルムス その生涯」/フリシュ・野口洋二訳『叙任権闘争』2020 ちくま学芸文庫などより構成>
加藤師匠への情熱より
パワーダウンしている
加藤師匠はワクワクしていた
中論ベースなのに
😀
歴史的に興味深い人物
国王バトルだったのかー
😀
らしい
信じるから
理性的に理解てきる、
らしい
😀
ドーバー海峡を超えてイギリスに渡った
完全な存在といて偉大な神があるという定義から
始めるらしい
😀
ノルマンディー公と一緒にイギリスに渡ったのは、師のランフランクスだ
アンセルムスがイギリスでカンタベリー大司教になったのは、次のウィリアム2世のとき
という流れか
アルアルだな
😀
そう、それ
スコラ哲学の全体像と
近代西洋哲学への流れを
基礎的に学びたいが
加藤師匠動画ほど
情熱か炸裂しない
😭
それは、「神は完全である」ということと矛盾する(存在という要素が欠けているから)
よって、神は存在する
証明おわり
スキゾしながらも3時間もかからずに聴けたのに
😭
😅
基礎学習動画なのだがー
😅
アンセルムスは大司教のしるしの杖を王から授かることを拒否、こまった司教たちは無理やりアンセルムスの手に杖を押しつけて教皇選出を賛美する「テ・デウム」を歌って繕った。ところが王が病から回復したので、アンセルムスはカンタベリー大司教の土地を返還すること、ウルバヌス2世を正統のローマ教皇と認めること(当時対立教皇クレメンス3世と争っていた)、大司教は王によって領主となることを認めるが王は大司教の勧告を傾聴すること、という三条件を国王に認めさせ、1093年9月に正式に就任、12月4日にはヨーク大司教らの補佐で叙階式を挙行した。しかし、国王ウィリアム2世とカンタベリー大司教アンセルムスの対立は明確なものとなった。 → 聖職叙任権の項参照
国王ウィリアム2世はノルマンディ遠征の費用が必要だったため、アンセルムスに対し、大司教叙任の見返りとして貢納をもとめた。アンセルムスは、それは聖職売買の罪に当たるとして拒否したが、他の司教が(大司教が空位であるとその下の司教たちの収入もなくなるから)応じた方が良いと懇願するので、やむなく銀五百ポンドを献呈した。ウィリアムは予定した額よりはるかに少ないのでそれを突き返した。アンセルムスは聖職売買の罪を免れたことを喜び、返却された銀を困窮者に分配した。このことをウィリアムはアンセルムスが自分に反抗するものとして非常に怒った。
アンセルムスはさらに王に没収された教会の財産の返却を求めた。王はこれをもってアンセルムスの大司教の地位を剥奪することを決心したが、その決心は、イギリスの教会からローマ教皇の勢力を駆逐したいという思惑があった。その頃ローマ教皇は改革派のウルバヌス2世にたいして、叙任権闘争で教皇と厳しく対決したドイツ王ハインリヒ4世が選任したクレメンス3世が対立教皇として存在していた。
アンセルムスは改革派教皇ウルバヌス2世から大司教の印であるパリウム(肩掛け)を授けられることを願い、ローマに行くことを王に申し入れた。それに対して王は、ウルバヌス2世は正統な教皇として認められないと拒否した。アンセルムスは教会会議を招集して司教たちの意見を聞いたが、司教たちは王の意向を支持した。しかし貴族たちの中にはアンセルムスを支持する声も多かった。アンセルムスは判断に困り、使節をローマに送り教皇ウルバヌス2世に判断を仰いだ。ウルバヌス2世はウィリアム王との全面対決を避けるため、ウルバヌス2世を教皇と認める代わりに、パリウムを直接アンセルムスの肩にかける儀式は行わず、教会の祭壇においた教皇の贈物として受け取る、という妥協案を示した。ウィリアムがその提案を受け入れ、1095年5月27日、儀式が執り行われ、アンセルムスはイギリスの首座大司教にしてカンタベリー大司教であることを、正式に国王からも教皇からも承認された。この年1095年11月のクレルモン宗教会議で、ウルバヌス2世は十字軍運動を提唱した。
アンセルムスは大司教として管区の司教を選挙し任命しようとした。しかし国王はその任命を否定した。アンセルムスはふたたびローマに赴き教皇の判断を得たいと願い出たが、国王はそれも拒否した。やむなくアンセルムスは大司教としてではなくイギリスを離れることを決意し、ドーヴァーまでいくと、そこに待ち構えた王の使節はアンセルムスが教会の財物を持ち出していないことを確認して、一緒に大陸に渡った。そこでアンセルムスは大司教の任を解かれたこと、再びイギリスには戻れないとの王令がだされたことを知った。それはアンセルムスのイギリス追放の通告だった。アンセルムスは途中のクリュニー修道院などを訪ねながらアルプスを越えた。24歳の時に南から越えたアルプスを北から越えたのは64歳になっていた。ウルバヌス2世の元で著作に励み、宗教会議に出席して東方教会の代表との間で聖霊の発出に関する論戦にも挑んだ。しかし、ウルバヌス2世は十字軍運動を進めるためにはイギリス国王との対立は避けなければならないと考え、カンタベリー大司教の任命問題には触れようとしなかった。
ウルバヌス2世が1099年に没し次の教皇に選出されたパスカーリス2世は、アンセルムスが追われたままカンタベリー大司教が空位であることをようやく問題視し、ウィリアム2世を破門にする決心をした。ところがほとんど時を同じくして王は狩りのさなかに流れ矢にあたって非業の死をとげ、弟のヘンリ1世が即位、新王はアンセルムスをカンタベリーに呼び戻した。ヘンリ1世はノルマンディに残った兄ロベールと対立しており、アンセルムスとの間は初めは対立を避けたので円滑だった。しかしまもなくヘンリ1世はまたもやカンタベリー大司教は自分の臣下であるから改めて叙任し、忠誠を求めると言い出し、アンセルムスは教会の立場として王の叙任を受けることはできず拒絶した。それぞれが特使をローマ教皇のもとに送ったが決着がつかず、アンセルムスは再び自らローマに赴き教皇に訴えた。そして教皇の「ヘンリ王の父が持っていた特権(司教に忠誠を誓わせること)は認めるが、司教叙任権はあくまで教会にある」との確言を得てイギリスに戻ろうとした。そこに国王からの使者が来て、前回と同じくアンセルムスの帰国を認めず、その全財産は没収するという知らせが届いた。これが二度目の追放である。
その後も王は使者をたびたびローマに派遣したが教皇パスカーリス2世は大事をとって国王自身を破門にすることは避け、その王を誤らせているのは臣下であるとして、臣下を破門にするだけに留まっていた。そのうち王の姉アディラ伯夫人は兄とアンセルムスの対立を憂慮して間を取りなし、二人はレーグルで会見することになった。この会見で王は一、二を除いてほとんど全面的に譲歩し、司教叙任は教会にあることを承認し、そのかわりに司教も他の臣下と同様に王と国家に忠誠を誓うことを求め、アンセルムスもそれを認めた。そのうえで1106年9月、アンセルムスはイギリスに戻り、イギリスの国憲上の重大問題でもあるこの件についての調停を続けた。それはヘンリ1世がノルマンディーとの戦争が終わった1107年8月11日、次のようなイギリスの国家と教会との政教条約(コンコルダート)として成立した。
(引用)司教は王からも他のいかなる俗人からも杖と指輪で叙任されてはならない。他方、司教叙階は、選出された者が王に封とひきかえに封臣の宣誓をしないうちは行われてはならない。<フリシュ『叙任権闘争』p.217>
アンセルムスがイギリスに戻ってから、新しい問題としてヨーク大司教トーマスがカンタベリー大司教の優位を認めないと言い出したが、アンセルムスはローマ教皇にその裁定を委ね、その決定に従わなければ聖務執行の停止をすることをトーマスに言い送った。ローマ教皇の裁定はアンセルムスを正当とするものであったが、その回答が到着する前の1109年4月21日の朝、死去した。
初期のイングランド王国で
国王と激しく争った
普遍論争
😀
実在論の唯名論
とアベラール
まできた
アヴィセンナ–本質と存在について
😀
からだ
誤爆した😀
😀
開始だ
😀
存在するものは存在しようと、しないとも問題がない
らしい
😀
可能存在といった
😀
らしい
😀
具体的には以下の特徴があります:
自立していない: そのもの自身の中に「存在しなければならない理由」を持っておらず、自らの力だけで存在しているわけではありません(3:23-3:25)。
条件に依存する: 例えば「木」などの多くの生物や物質は、ある特定の条件が整っているから存在しており、その条件が異なれば存在しなかった可能性もあります(3:14-3:20)。
必然存在者への依存: 可能存在は自ら存在する根拠を持たないため、最終的にはそれらを存在させている外部の「必然存在者」(神)に依存せざるを得ないと考えられています(3:44-4:47)。
つまり、私たちが日常的に目にする多くの事物は、この「可能存在」として位置づけられています。
その主な特徴は以下の通りです:
自立的な存在理由: 可能存在とは異なり、他の何かに依存して存在するのではなく、自らのうちに存在理由(必然性)を持っている存在です(3:55-4:03, 4:24-4:27)。
神との同一視: アヴィセンナは、この唯一の「必然存在者」を神と位置づけました(4:31-4:39)。
世界の根拠: 世界に存在するあらゆる「可能存在」は、最終的にこの必然存在者である神の存在に依存しており、神によってその存在が支えられていると考えられています(4:39-4:47)。
つまり、何かが存在する根拠を遡っていくと、最終的に「それ自体で必然的に存在する根拠」が必要となり、それが神であるという論理構成になっています。
提示していたところに追いついてきたぞ
😀
こんなテーマ相手したくない
😀
具体的には以下の点が挙げられます:
本質と存在の区別: アヴィセンナが提唱した「何であるか(本質)」と「現実に存在していること(存在)」を分ける考え方は、アクィナスの存在論の重要な基礎となりました(1:54-2:52)。アクィナスはこの区別を発展させ、神においてのみ「本質」と「存在」が一致していると論じました。
必然存在者の概念: 多くの存在が「可能存在(存在してもしなくても良いもの)」である以上、それらを支える根源として「それ自体で必然的に存在する者(必然存在者)」が必要であるという論証は、アクィナスの「神の存在証明(五つの道)」を構築する際に大きな影響を与えています(3:44-4:47)。
アクィナスはアヴィセンナの考えをそのまま受け入れたわけではなく、批判的に継承・調整しましたが、中世哲学における存在を考えるための言語として、アヴィセンナの哲学は不可欠な土台となりました(4:59-5:12)。
アヴェロエスだ
😀
休日日曜日の疲労ない余裕があるからだー
😀
動画AIだけど
😀
哲学と宗教の関係:アヴェロエスは、哲学と宗教はともに真理を目指すものであるが、そのアプローチ(対象や方法)が異なると考えました。宗教は象徴を用いて真理を説く一方、哲学は理性と論証を用いて探求すると位置づけました (2:
具体的には以下のポイントが重要です:
人類共通の知性: アヴェロエスは、個々人の知性とは別に、全人類に共通する単一の「可能知性」が存在するという立場を取りました。
個別の独立性との矛盾: もし可能知性が個人ごとに独立していないのであれば、人間の「個性」や「個別性」、あるいは死後の魂のあり方をどのように解釈すべきかという大きな哲学的問いが生まれました。
論争の種: この考え方は、13世紀のキリスト教世界の大学などで活発な議論を呼び、後に「ラテン・アヴェロエス主義」と呼ばれる潮流や、トマス・アクィナスらによる批判的な検証の対象となりました。
批判の姿勢: アクィナスはアヴェロエスの注釈から多くの哲学的な学びを得つつも、彼が唱えた「人類に共通する単一の可能知性」という解釈については全面的には受け入れませんでした。
個別の知性の擁護: アクィナスは、知性が人類全体で共有されるものではなく、個々の人間にそれぞれ備わっているという立場から、アヴェロエスの説に対して独自の反論・批判を行いました。
この議論は、中世における哲学と神学がどのように対話しながら発展したかを示す重要な一例として挙げられています。
マイモニデス
やるぞ〜
😀
哲学トレーニングだ
😀
主なトピック:
マイモニデスの生涯: 1138年にコルドバで生まれ、イスラム圏の高度な知的環境で育ちました。医師としても活躍し、エジプトに移住後、主著『迷える者への手引き』を執筆しました (1:06-1:52)。
『迷える者への手引き』の目的: 哲学の探求と聖書の記述との矛盾に悩む人々のために、哲学と宗教(啓示)は本来対立するものではないと説くために書かれました (1:55-2:24)。
聖書の比喩的解釈: 神に関する擬人化された表現は、文字通りではなく「比喩」として解釈すべきであると論じました (2:27-3:01)。
否定神学: 有限な人間の言葉で神の本質を定義することは不可能であるため、「神は〜ではない」と否定的に語るべきだと考えました (3:03-4:11)。
理性と啓示の関係: 理性は自然を探求するために重要であり、人間の知性だけでは到達できない真理を補完するために啓示があると考えました。この考え方は後のトマス・アクィナスにも影響を与えています (4:12-5:07)。
中世哲学は、イスラム・ユダヤ・キリスト教の伝統が互いに影響を与え合いながら発展した歴史であると強調しています (5:08-5:44)。
具体的には、以下の点が主な内容です:
哲学で迷う人々への指針: 哲学を学ぶことで聖書の記述と理性の説明が食い違い、信仰に迷いが生じてしまった人々に向けて書かれています (2:02-2:18)。
聖書の比喩的解釈: 聖書に登場する神の身体的表現(手や目を持つなど)を文字通りに受け取るのではなく、比喩として理性的に解釈する必要性を説きました (2:27-3:01)。
否定神学の提示: 有限な人間の言葉では神の本質を直接定義できないため、「神は〇〇ではない」と否定的な形で語るほうが適切であるという立場をとっています (3:03-4:06)
具体的には以下のような特徴があります:
肯定的な表現の回避: 人間が何かを説明する際に「神は〇〇である」と肯定的に語るのではなく、「神は〇〇ではない」という否定的な形式で語る方が適切であると考えました(3:29-3:53)。
限界の意識: 例えば「神は無知ではない」「神は弱いとは言えない」といった言い方です。これは神について何も語れないという意味ではなく、人間の言葉には限界があることを認識した上で、慎重に神について考えようとする姿勢を指します(3:56-4:06)。
後世への影響: この考え方は、神の本質を過度に人間に似せて理解することを防ぐとともに、後のキリスト教神学にも大きな影響を与えました(4:06-4:11)。
すごいコトやってるな😅
ウンコが大好きなアポーハだな😅
できる疲労キツい仕事日や
土曜日休日では無理そうだ
😅
絡みついていた、
JBLのなりすましプランじゃね?
一応通報してやったイスラムアンチ氏に
😀
ハッスル🤡潜水工作の
レスが
一応アンチ氏に向かって
レスがある
😅
ハッスルかムイムイの特定スレのみだからなー
😀
名無しのウンコが、イスラムアンチにからんでいる😅
とにかくレスを増やさせたいか
どちらかの潜水工作だな
ほんと北将軍様キャラだな?
😅
具体的には以下の点が共通する重要な論点として挙げられています:
真理の区別: 自然や世界については理性による探求が重要であると考えつつも、人間の理性だけでは到達できない真理があるという認識を共有していました (4:12-4:37)。アクィナスもまた、理性によって知る真理と、啓示によってのみ知られる真理を明確に区別する枠組みを採用しました (4:43-4:53)。
対立の解消: 哲学と宗教を対立させるのではなく、その関係を深く考察しようとした点で、マイモニデスの手法がアクィナスの思想形成にも通じる大きな共通点となっています (4:53-5:07)。
案外とバルト神学に近いものがある
😀
マイモニデスが「否定神学」を用いて神を否定的に語る理由は、人間の言葉では神の真の本質を完全に表現することができないからです (3:19-3:26)。
主な理由は以下の通りです:
言語の限界: 私たちは何かを説明する際に「神は〇〇だ」と肯定的に語りがちですが、有限な人間の言葉を無限で超越的な存在である神に当てはめることは不適切だと考えました (3:11-3:23)。
誤解の防止: 神を肯定的に定義しようとすると、どうしても人間と同じような属性(手や目など)を想像してしまい、神を人間化して誤解してしまう危険性があります。そのため、「神は〇〇ではない」と否定する形式をとることで、人間的な偏見や限界を排除し、神の超越性を守ろうとしたのです (2:31-2:44, 3:45-3:53)。
慎重な探求: これは「神について何も語れない」ということではありません。人間の知性には限界があることを謙虚に認めた上で、その限界を意識しながら、より適切な方法で神に迫ろうとする誠実な姿勢といえます (3:56-4:06)。
ハッスル🤡より信用てきる、😀
動画で解説されている主な理由は以下の通りです:
信仰の迷いを解消するため: 哲学を学ぶ中で、聖書の記述と理屈による説明の間に食い違いを感じ、信仰に迷う人々がいました。マイモニデスをはじめとする思想家たちは、理性を駆使して聖書を比喩的に解釈することで、これらの矛盾を乗り越えようとしました (2:02-2:24, 2:47-3:01)。
世界を探求する道具として: 自然や世界の本質を理解するためには、人間の知性(理性)による探求が不可欠であると考えられていました (4:21-4:26)。
啓示を補完するもの: 理性はすべての真理に到達できるわけではありませんが、人間が神の教えを理性的に組み立て、理解を深めるための重要な手段として尊重されました (4:29-4:37)。
中世の哲学者たちは、理性と宗教を対立するものとして排除するのではなく、両者が補完し合う関係にあると考え、その統合を試みた点に大きな特徴があります (4:59-5:05)。
スコラ哲学から始めて正解だ
😀
理性(哲学): 人間が自らの知性を用いて、論理的に世界や自然の法則を探求する力です(4:21-4:26)。マイモニデスをはじめとする哲学者は、これを世界を知るための重要な道具と位置づけました。
啓示(宗教): 人間の理性を超えた領域から与えられる神の教えや真理です。理性だけでは到達できない神秘的な領域について、聖書などの形で人々に示されるものとされました(4:29-4:31)。
マイモニデスは、この二つを対立させるのではなく、**「理性には理性の役割があり、啓示には啓示の役割がある」**として、両者がそれぞれ異なる側面から真理を補完し合う関係にあると考えました(4:31-4:37)。
トマスの本から理解したくなった
かなり買ってから五年は書庫で眠ってた
😀
お膳立てしてれるお方に
感謝だ🙏
次は当然、トマスだ
😀
> 言語の限界: 私たちは何かを説明する際に「神は〇〇だ」と肯定的に語りがちですが、有限な人間の言葉を無限で超越的な存在である神に当てはめることは不適切だと考えました
そう、それだ
西洋の言語哲学の背景には、それがある
安易に仏教思想に当てはめるのは無理
動画作成したよーだ
😀
とても初心者にはありがたい動画だ
😀
まるで、それが仏教の根本教義であるかのように
言うんだが
それは、ピント外れな主張だ
仏教には、キリスト教やヒンドゥー教と違って
「神」がいない
だから、人間の言葉で語れない存在など無い
「釈尊の説法により、すべての法は説かれた」
とするのが、仏教の特徴と言ってよい
バカだからなー
ホント
ハッスル🤡〜〜
ハッスル🤡〜〜
しか言いようがない
😀
ハッタリ〜🤡
ハッタリ〜🤡
呆れて
バカにして
議論する気が未だにおきん
😀
議論はダメダメだけどー😀
究極の真実(ブラフマン)は、
瞑想体験によってしか得られない」
↑
これは、ヒンドゥー教/バラモン教の思想だ
仏教は、こういうものではない
ハッスル脳🤡は
😅
発展して
ハッスル脳の哲学レベルをアホにできるまで成長しそうだ
😀
いつか読みたい願望は
あった
だが、神仏習合山伏念仏の謎の方が関心が高かった
😀
仏教残りは
當麻寺や善光寺などの聖地の念仏信仰の感覚ぐらいかもしれん
ま、ホント買ったり、高野山大学で本をコピーしてるけど
これらの念仏聖地の本を精読してない
😀
イスラム礼拝学習を
先行研究だな
😀
わからん😀
明治以前の叡福寺は念仏の信仰修行内容を詳しく 明治(1868年)以前の叡福寺(大阪府太子町)における念仏の信仰と修行内容は、聖徳太子を崇敬する「太子信仰」と「阿弥陀浄土信仰」が深く融合した、日本独自の聖地としての特徴を持っています。当時、叡福寺で行われていた念仏信仰と修行の具体的な内容は以下の通りです。1. 信仰の核:「三骨一廟」と阿弥陀三尊の習合叡福寺の念仏信仰の基盤には、聖徳太子の墓所である「三骨一廟(さんこついちびょう)」の思想があります。これは、一つの墓(古墳)に合葬されている3人を、西方極楽浄土の阿弥陀三尊に見立てる信仰です。中央(母・穴穂部間人皇后) = 阿弥陀如来東側(聖徳太子) = 救世観音菩薩西側(妃・膳部菩岐々美郎女) = 勢至菩薩このため、叡福寺の太子廟(お墓)の前に跪いて念仏を唱えることは、すなわち「極楽浄土の阿弥陀三尊の前に立ち、直接往生を願うこと」と同義であると信じられていました。2. 修行と信仰の形態明治以前の叡福寺では、宗派の枠を超えて以下のような念仏の修行や参詣が行われていました。① 名僧たちによる「参籠(お籠もり)修行」平安時代中期以降、名だたる仏教の開祖や聖者たちが叡福寺の太子廟に一定期間籠もり、昼夜を問わず念仏や瞑想を行う参籠(さんろう)修行が盛んでした。空海(弘法大師):参籠中に廟内から音楽が聞こえ、阿弥陀三尊の来迎(お迎え)を目の当たりにしたという伝説があります。良忍(融通念仏宗の開祖):叡福寺を重要な霊場とし、自他すべての念仏の功徳が融通し合うという思想のもとで念仏を修しました。親鸞・一遍・日蓮:鎌倉時代、自らの救いや教えの確信を得るために御廟前で一心不乱に念仏・祈願を捧げ、聖徳太子からの夢告(示現)を受けたとされています。
スキゾ型だな😅
人類は、「人間性」という形相を皆で共有している
個々の魂に違いは無い
うん、かなり近い。
ただし、最後の「個々の魂に違いはない」は、
トマスについては少し修正が必要だね。
トマス・アクィナスの立場を整理すると、こうなる。
トマスはアリストテレスに従って、
人間の魂=身体の形相(forma corporis)
と考える。
だから、田中さんも鈴木さんも「人間」である以上、
同じ人間という種の形相=人間性を持っている。
ただし、プラトン的に「人間性」という普遍的な形相が、
個々の人間とは別に独立して存在するわけではない。
ここで重要なのが、指定された物質(materia signata)。
トマスの説明では、同じ「人間性」という形相を持っていても、
この身体
この物質
この骨格
この身体的条件
によって個体化される。
つまり、おおまかに言えば、
人間性(形相)+この特定の身体(質料)
→ この個人
となる。
したがって、あなたが以前整理していた
人間=人間というあり方に限定された存在
というスコトゥス的な方向とは違って、
トマスでは個体化に質料が非常に重要になる。
ここが面白いところ。
トマスは、各人がそれぞれ個別の魂を持つと考える。
ソクラテスの魂とプラトンの魂は、単に「同じ一個の魂」を共有しているわけではない。
むしろ、
ソクラテスにはソクラテスの魂
プラトンにはプラトンの魂
がある。
そして、それぞれの魂はそれぞれの身体の形相である。
だから、
人間性そのものは共通している
↓
しかし個々の魂は数的に別々である
↓
それぞれの魂が、それぞれの身体を現実化する
↓
ソクラテスという個人、プラトンという個人が成立する
という構造になる。
なので、あなたの言いたいことを一番正確に言い換えるなら、
個々人の魂は数的には別々だが、魂の本質・種類としては同じ「人間の魂」である。
となる。
そして、ここがトマスの面白いところで、人間の個性・個体差を説明する際に、物質的身体が大きな役割を果たす。
ただしトマスは、魂を単なる身体の副産物とは考えない。人間の理性的魂は非物質的な知性・意志の能力を持ち、身体が滅んでも魂そのものは存続しうると考える。
だから、
「個人差=身体」だけではないが、個体化の原理としては質料が重要
というのがトマスを正確に捉えた言い方になる。
「個体化の原理=このもの性(haecceitas)」**へ進むと、
ものすごく綺麗につながる。
トマス
→ 質料によって個体化
スコトゥス
→ このもの性によって個体化
オッカム
→ そもそも個物しか実在しない
という、前に話していた流れが見えてくる。
ドゥンス・スコトゥスは、個性を重視する方向に踏み出した
トマス・アクィナスでは、ソクラテスもプラトンも「人間性」という形相を共有していたが
ソクラテスは「ソクラテス性」、プラトンは「プラトン性」という独自の個性を持っている
要するに、魂にも個性の違いを認めた
そう、その理解でかなり核心を突いている。👍
ただし、スコトゥスの「ソクラテス性」「プラトン性」は、
厳密には**「個性的な魂」そのものというより、
個体を個体たらしめる究極の原理**と考えたほうが正確。
トマス → スコトゥスの変化
トマスでは、大ざっぱに言えば、
人間性(形相)+個別化された質料 → ソクラテス
だった。
したがって、ソクラテスとプラトンは同じ人間性を共有し、個体として異なるのは主に物質的な身体・質料によって説明される。
ところがスコトゥスは、
「いや、個物には物質だけでは説明できない、個物そのものの『この人であること』があるんじゃないか?」
と考える。
これが haecceitas(このもの性・個体性)。
だから、
人間性
↓
「人間である」という共通性
ソクラテスのこのもの性
↓
「この人=ソクラテスである」という個体性
プラトンのこのもの性
↓
「この人=プラトンである」という個体性
となる。
スコトゥスにとっては、魂も個別的なもの。
ソクラテスの魂とプラトンの魂は、
単に「人間の魂」という同一の形相が、
それぞれ違う身体に入っているだけではない。
それぞれが数的に異なる個体的な魂である。
なので、あなたの言う
「魂にも個性の違いを認めた」
は、方向としてかなりいい。
ただ、「ソクラテス性=ソクラテスの性格や人格」という意味ではない。
haecceitasはもっと根本的で、
「なぜこの人間が、単なる『人間』ではなく、『この人間=ソクラテス』なのか?」
に対する答え。
つまりスコトゥスは、個体性を単なる物質的な違いから、存在者そのものの側にある固有性へと押し進めたわけだ。
トマス → スコトゥス → オッカム
という流れを理解するうえで非常に重要。
トマス:共通の人間性+個別化された質料
↓
スコトゥス:共通の人間性+このもの性
↓
オッカム:個物そのものが基本で、「人間性」という普遍者は実在しない
となる。
ここでスコトゥスは、まだ実在論者なのに、かなり「個物」の側へ踏み込んでいる。
だからこそドゥルーズがスコトゥスを非常に高く評価したのも、なんとなく分かってくるんだよね。
ドゥンス・スコトゥスは、個性を重視する方向に踏み出した
そう。そこはスコトゥスの哲学史上の大きな意味だと思う。
トマス・アクィナスでは、個体化の説明において質料が重要だった。
人間性(形相)+この個別的な質料
→ ソクラテス
ところがドゥンス・スコトゥスは、そこに満足せず、
「ソクラテスがソクラテスであること、そのものを説明する原理が必要ではないか?」
と考えた。
そこで出てくるのが haecceitas(このもの性・個体性)。
人間性 → 「人間である」
このもの性 → 「この人間である」
だから、
人間性はソクラテスとプラトンに共通するが、
ソクラテスのこのもの性とプラトンのこのもの性は異なる。
そして重要なのは、これは単なる身体上の違いではないこと。
スコトゥスでは、魂も個別的な実体として個体化される。
したがって、ソクラテスの魂とプラトンの魂は、
単に「人間の魂」という共通形相の別々の入れ物ではなく、
それぞれ固有の個体性を持つ。
なので、あなたの言う
「スコトゥスは個性を重視する方向に踏み出した」
は、かなり的確。
そしてここから、
トマス:普遍的な人間性+質料による個体化
↓
スコトゥス:人間性+このもの性による個体化
↓
オッカム:普遍者よりも個物を徹底して重視
という流れが見えてくる。
だからスコトゥスは、実在論を維持しながら、哲学の重心を「普遍」から「個物」へ少しずつ移動させた人物と見ると、とても分かりやすい。
近代人には、個性重視が合う
ああ、そこは確かに面白い(笑)。
現代人の感覚からすると、むしろトマスのほうが
「え、そんなに人間は共通なの?」というカルチャーショックになりやすい。
ただ、「全体主義」という言葉は少し注意が必要だね。
トマス自身は個人を全体に溶かしてしまう思想ではない。
トマスの発想は、かなり大胆に言えば、
ソクラテスもプラトンも、同じ「人間」という一つの本性を現実化している。
というもの。
つまり、
ソクラテス
= 人間性 + 個別化する質料
プラトン
= 人間性 + 個別化する質料
なので、二人の間にある根本的な共通性は、
単なる「似ている」という程度ではない。
「人間である」という同じ本質を持っている。
現代では、
「人間にはそれぞれ固有の個性がある」
「一人ひとり違う」
「自分らしさが大切」
という発想が非常に強い。
ところがトマスの形而上学では、まず
「あなたは何者か?」→ 人間である。
が来る。
そしてその「人間である」という本性は、ソクラテスにもプラトンにも共通する。
さらに驚くのがここ。
トマスにとって人間の魂は、身体の形相。
したがって、
「私は私の身体とは別に存在する、完全に独立した個性的な精神なのだ」
という近代的なイメージとはかなり違う。
この身体の形相としての、この魂
という構造になっている。
だからトマスの人間論は、現代の「個人」を出発点にして読むと、かなり異質に感じる。
スコトゥスは、
「いやいや、共通の『人間性』だけでは、ソクラテスという唯一無二の個体を十分に説明できないだろう」
と踏み込む。
そこで、
人間性
+
ソクラテス固有のこのもの性
という構造を考える。
つまり、
「人間であること」と「ソクラテスであること」は別問題だ。
この区別が、現代人にはものすごく馴染みやすい。
「そもそも『人間性』という普遍者を実在するものとして想定する必要があるのか?」
となる。
ここまで来ると、
普遍 → 個体 → 個体を中心に考える
という哲学史上の重心移動がかなりはっきりする。
なので、「トマス=全体主義」とするのは歴史的には言い過ぎだけど、
現代人の個人主義的な感覚から見ると、
トマスの「共通する人間本性」の強調が、
かなり集団主義的に感じられるという指摘は面白いと思う。
むしろこれは、
「普遍者を実在させる」という中世の形而上学そのものが、
現代人には直感的に分かりにくくなっているということなんだよね。
満足して霊的世界を脳内構築やりきったので
こっちワールドに戻る午前はガンバルンバするぞお〜
😀
意味は、違うが雰囲気結論では
こんな感じになった
詳しくはしらんけど
😀
世界内存在」とは、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが主著『存在と時間』で提唱した、人間(現存在)の根本的なあり方を示す哲学概念です。 人間がコップの中の水のように、ただ物理的な空間の中にポツンと入れられているという意味ではありません。人間はつねに世界と切り離せない関係にあり、意味や関係性の網の目(道具や他者、文化など)に深く浸りながら生きているという状態を指します。 主な要素現存在(ダーザイン): 世界の中で意味を問い、存在すること自体に関心を持つ人間。世界: 単なる物理的空間ではなく、道具の用途や人との関わりといった「意味の連関」の場。内(In): 物理的に包まれているのではなく、世界や他者と関わり合って開かれている状態。 この概念は、従来の「精神(主体)」と「外界(客体)」を切り離して考える近代の人間観を乗り越えるものとして、後のフランス実存主義などにも大きな影響を与えました。
おいといて、
スコラ哲学に戻ろう😀
なんらかの普遍的な秩序
ま、アダムスミスも
それだけど
😀
😀
その理由は、以下の通りです:
源泉の同一性: 理性による知も、神からの啓示(信仰)も、共に神に由来するため、正しく理解されれば矛盾することはないと説きました(3:03-3:14)。
役割の分担: 理性には「神の存在」や「人間の理性的本能」のように理解できる限界がありますが、一方で「三位一体」などの神の秘儀は啓示によってのみ知られる心理であり、それぞれに固有の役割があると考えました(3:17-3:47)。
この手法が重要とされる主な理由は以下の通りです:
議論の深化: 単に自身の主張を通すのではなく、あえて反対意見から議論を始めることで、問題の多面性を深く考察することが可能になります (3:53-4:05)。
論理的な厳密さ: 権威ある見解を尊重しつつ、自説を論理的に構築し、さらに最後に個別の反論に対して一つずつ回答していくことで、極めて完成度の高い論証体系が作り上げられました (3:58-4:08)。
古典としての価値: この徹底した方法論によって、神学や哲学における難問を構造的に解明したため、彼の著作は現在でも哲学や神学を学ぶ上で欠かせない重要な古典として扱われています (4:20-4:30)。
動画で言及されている主なテーマは以下の通りです:
神について: 神とはどのような存在かという根本的な問い。
世界と人間: 世界の本質や、人間とは何かという人間論。
善と幸福: 人間にとっての善とは何か、そして幸福とは何かという倫理的な問い。
法: 善く生きるための規範である法律についての考察。
これらの問いに対して、トマスはアリストテレス哲学を取り入れながら、理性と信仰の両面から論理的な整合性を持って体系化しました(2:20-3:17)。
また、この著作の議論の方法にも大きな特徴があります(3:50-4:08)。
まず反対意見を提示する
次に権威ある見解を紹介する
続いて自らの回答を展開する
最後に提示された反対意見一つひとつに対して論理的に反論する
このように、読者が議論の過程を追いやすい構成をとっており、現在でも哲学や神学を学ぶ上で非常に重要な古典として位置づけられています(4:20-4:30)。
神に似たものとして創造された
と考えたので
人間の理性的本能
を設定したのだろう
😀
トマス神学の
人間の理性的本能をかなり入り込んでいるからかもしれない
😀
仏性=人間の理性的本能
みたいな感覚がカトリックにあったりしてな、
または
テーラワーダの人間分析論=人間の理性的本能
とかな
😀
創造主は
人間に人間の理性的本能を創造した
設定だろな
😀
解ってきた
😀
落ちてきた
違うものを探求だ
😀
カトリック神学の強化に役にはたったが
反動がプロテスタントに出てしまったと
理性が明白でなくなって
カルバンの聖書ルールブック路線か
信仰義認路線か
に
偏ってしまったようだ
トマスの理性研究で
かなり
キリスト教の神学歴史が見えてきた
😀
霊的知恵、啓示的知恵論者である
😀
トマス動画学習に戻る
😀
主なポイント:
信仰と理性の役割の違い: 理性は人間が論理的に思考する能力であり、神の存在や世界の原因など、理性で到達できる真理があります(1:35)。一方で、三位一体や復活といった宗教的な教義は、神の啓示によるものであり、理性だけでは到達できない真理であるとしました(1:58)。
両者は矛盾しない: 理性と信仰はともに「神」を起源とするため、本来矛盾しないはずだとトマスは考えました。矛盾を感じる場合は、推論の誤りか、啓示の解釈が誤っている可能性があると指摘しています(2:42-3:12)。
哲学の重要性: 哲学は信仰を否定するものではなく、信仰をより深く理解し、体系化するための助けとなる重要な学問と位置づけられました(2:10)。これが中世の大学教育における哲学の基礎として定着しました(3:53)。
アリストテレス哲学の統合: トマスはアリストテレスの哲学を積極的に取り入れ、キリスト教の教えと調和させることで、独自の思想体系を構築しました(4:19)。
具体的には以下の点で役立ちます:
信仰の深い理解: 哲学的な探求(神の存在の証明や世界の原因の考察など)を用いることで、ただ受け入れるだけでなく、信仰の内容を理性的により深く把握することが可能になります (2:18-2:42)。
理性と啓示の調和: 理性と信仰はどちらも「神」を起源とするため、本来矛盾しないと考えました。哲学を用いて理性を正しく用いることは、誤った推論を正し、神からの啓示を正しく解釈する助けとなります (2:42-3:21)。
学問的基盤: 中世の大学教育において、哲学(論理学や自然哲学など)は神学を学ぶための基礎として位置づけられました。これにより、信仰を論理的な体系として構成する力が養われました (3:53-4:16)。
トマスにとって哲学は敵ではなく、**「真理へ向かう営み」**として信仰と対話しながら共存するパートナーのような存在でした (4:47-5:00)。
動画で解説されている主な理由は以下の通りです:
認識能力の対象範囲: 人間の理性は、現実世界に見える事象(世界の原因や論理的推論)を扱うことには長けていますが、神の本質そのものや超越的な真理をすべて解明できるわけではありません(1:35-1:56)。
啓示が必要な領域: 三位一体や復活といった宗教的な教義は、人間の論理的な思考能力を超えた事柄であり、神からの「啓示」を受け取ることで初めて知ることができる真理であるとされています(1:58-2:08)。
つまり、理性が「無能」なのではなく、**「神という超越的な存在を完全に理解するには、理性の能力だけでは不十分である」**という役割分担の考え方に基づいています(4:55-5:00)。そのため、トマスは哲学(理性)を信仰の否定としてではなく、信仰を深めるための重要なパートナーとして位置づけました。
信仰と理性の起源の同一性: トマスは、理性も信仰も共に「神」という同一の起源を持つと考えました。神が人間に理性という能力を与えた以上、理性によって正しく得られた真理と、神からの啓示は本来矛盾しないはずだと確信していました(2:42-3:12)。
信仰を深めるための「道具」: 哲学(理性)は信仰に代わるものではなく、信仰をより論理的かつ体系的に理解するための「助け」となる重要な学問であると考えました。神の存在証明や世界の成り立ちといった問題を理性で考察することで、信仰をただ盲目的に受け入れるだけでなく、深く納得して受け入れることが可能になるとしたのです(2:10-2:42)。
真理へ向かう営みとしての調和: トマスにとって、哲学と神学は対立するものではありませんでした。アリストテレス哲学のような理性的探求を積極的に取り入れ、キリスト教の教えと調和させることで、信仰をより強固で理知的な体系へと高めようとしました(4:19-5:00)。
つまり、理性を重視することは、神が創造した世界を正しく理解し、信仰をより豊かなものへと発展させるための不可欠なプロセスであったと言えます。
神の存在の探求: 哲学を用いることで、世界に原因があることや、その究極の原因としての「神」の存在を理性的(論理的)に考えることができます(1:35 - 1:53)。
信仰の論理的な体系化: 哲学的な論理学や自然哲学の知識を基盤とすることで、宗教的な教義を単に受け入れるだけでなく、それを体系的かつ論理的に説明・理解する力が養われます(3:53 - 4:10)。
矛盾の解決: 信仰と理性が対立しているように見える場合でも、哲学的な推論を正しく行い、啓示を適切に解釈し直すことで、両者が本来矛盾しない調和的なものであることを証明しようとしました(2:42 - 3:21)。
このように、哲学は信仰の「敵」ではなく、信仰を支え、より深く理解するための不可欠な「道具」として機能します。
俺サイドとしては
人間の依存症的な苦悩に対して回答出せていない
という問題がある
😀
日蓮の娑婆寂光土を
理性論理的した雰囲気
😀
俺の
ほーかいくんイメージは
そんな感じである
😀
人間の依存症的な苦悩に対して回答出せていない
という問題は残る
単なるトマス神学の理性へのアンチテーゼに過ぎないから
😀
😀
主なポイントは以下の通りです:
本質と存在の区別 (0:49-1:44):あるものが「何であるか」を示す「本質」と、それが「現実に存在していること」を指す「存在」は別の概念です。例えば、ユニコーンという概念(本質)を知っていても、それが現実に存在していることにはなりません。
被造物の存在 (1:46-2:32):人間を含むあらゆる被造物において、本質と存在は区別されます。なぜ今ここに存在しているのかという理由は、本質そのものには含まれず、神から存在を与えられていると考えます。
神の特別な存在 (2:33-3:12):神においては本質と存在は区別されず、神は「存在そのもの」であるとされます。トマスはこれを「自存する存在そのもの(Ipsum esse subsistens)」と呼びました。
後世への影響 (4:07-4:39):このトマスの存在論は後の西洋哲学や、20世紀の存在論の伝統においても重要な議論の対象となりました。
その意味は以下の通りです:
「存在」と「本質」の一致:人間などの被造物は「人間という本質」と「今ここに存在していること(存在)」が区別されます(存在は神から与えられるものです)(1:46-2:14)。しかし神においては、その本質自体が「存在すること」そのものであるため、両者に区別がありません (2:33-2:42)。
自立的な存在:他の何ものかによって存在させられているわけではなく、神は自らの力で存在する「存在そのもの」であるとされます (3:04-3:12)。
依存関係の否定:被造物は神に存在を依存していますが、神は他に依存することなく存在しています。この根本的なあり方の違いが、神と世界を分かつ決定的なポイントであるとトマスは説きました (3:37-3:55)。
その論理は以下の通りです:
被造物との対比:人間などの被造物は「人間である」という本質と、「今、現実に存在している」という存在が別個のものです。被造物は自力で存在しているわけではなく、神から存在を与えられています (1:46-2:14, 2:24-2:30)。
神の絶対性:一方、神は他の何ものかによって存在させられる必要がありません。神の本質そのものが「存在すること」であり、他の源泉から存在を受け取る必要がないため、本質と存在を区別する理由が存在しないのです (2:33-2:42, 3:04-3:12)。
トマスはこの神のあり方を、自ら存在する「自存する存在そのもの(Ipsum esse subsistens)」と呼び、神と世界を分かつ根本的な違いとして説明しています (2:44-
主な影響の広がりは以下の通りです:
カトリック神学の公認哲学への昇華: トマスの思想体系(トマス主義)は、後にカトリック教会の公認哲学として採用されました。神の存在証明や、理性と信仰の調和を図る彼の論理は、現代に至るまでキリスト教神学の根幹を支え続けています。
近現代哲学への問いの種: 近代以降の哲学者たちは、トマスが築いた「存在とは何か」という問いに対して、批判的、あるいは対話的に応答してきました。例えば、デカルトらによる近世の真理論や、存在のあり方をめぐる論争においても、トマスの存在論的枠組みは参照点として機能してきました。
倫理学・道徳哲学の基盤: トマスは、存在論(存在のあり方)に基づいて倫理や法を構築しました。「善(Bonum)」は「存在(Ens)」と分かちがたく結びついているという考え方は、自然法思想の metaphysical(形而上学的)な根拠となり、現代の道徳哲学や倫理学の議論においても重要な参照先となっています。
20世紀の存在論の再考: 20世紀の哲学者たち(ハイデガーなど)も、存在論の伝統的な系譜の一部としてトマスを再評価しました。彼は過去の遺物ではなく、現代においても「存在」という普遍的なテーマを考察する上での不可欠な対話相手であり続けています。
トマスの西欧哲学での立ち位置が
解ってきた
😀
不毛なだけだ
我流過ぎて
😭
これでたぶん休日スコラ哲学研究は終わりかも〜
😀
彼の思想体系において、法は以下のような階層構造で説明されています:
永遠法 (Lex Aeterna): 神が世界を統治するための神自身の理性です。すべての根本となります。
自然法 (Lex Naturalis): 人間が自らの理性を用いて、永遠法の一部を認識したものです。時代や場所を超えて通用する「普遍的な道徳法則」とされます。
人定法 (Lex Humana): 人間社会が公共の福祉のために、自然法の原則に基づいて具体的に定めた法律(社会のルール)です。
トマスにとって、法とは単なる強制力ではなく、「万物を善へと導くための実践的理性の命令」です。人間は生まれながらに善を追求する理性を持っており、この理性に照らして「何が正しいか」を判断することが、自然法に従うことであると説きました。
この思想は、後に現代の人権思想や法哲学の発展にも大きな影響を与えています。
永遠法 (Lex Aeterna):
神が自らの知恵と理性によって全宇宙を統治するための、神自身の計画そのものです。これは宇宙全体の秩序の根本であり、すべての事物が神によって目的(善)へと向かわせられるための究極の法則です。
自然法 (Lex Naturalis):
永遠法の「理性的被造物(人間)」における分有、つまり人間が自らの理性を用いて永遠法の一部を認識したものです。神が定めた宇宙の秩序のうち、人間が自分の理性で「何が善であり、何が悪か」を理解し、道徳的に正しく生きるための規範を指します。
主な違いのまとめ:
範囲: 永遠法は宇宙の万物すべてに適用される究極の理ですが、自然法は人間のような理性を持つ存在にのみ当てはまる道徳的秩序です。
認識: 永遠法は神のみが完全知るものであり、人間はそれを直接理解することはできません。一方、自然法は人間が理性を通じて自らの中に発見し、実践できるものです。
つまり、自然法は「神の偉大な計画(永遠法)」という壮大な秩序の一端を、人間が「理性」という光を通じて具体的に認識した道徳のルールだと言えます。
その重要なポイントは以下の通りです:
個と全体の調和: トマスはアリストテレスの思想を継承しつつ、人間を「社会的な存在」と捉えました。共同善は、個人の善を否定するものではなく、むしろ個人が共同体の一員として生きる中で、他者と協力し合うことによって初めて達成できる**「共同体としての目的」**を意味します。
秩序の原理: 共同体(国家や社会など)が存在する目的は、単に成員を支配することではなく、すべての成員が正しく、かつ幸福に生きられるような秩序を整え、共同善を追求することにあります。
個人の役割: 個々人は、自分自身の善を追求するだけでなく、その一部として共同体の善(平和や正義、福祉など)に貢献することが求められます。トマスにとって、法や政治の役割は、この共同善をいかに実現・維持するかにかかっているとされています。
つまり、共同善とは**「私たちが共に生きることで到達できる、より良く人間らしい状態」**を目指す規範的な枠組みであるといえます。
その関係性は主に以下のポイントで説明できます:
理性が神の計画を「読み解く」: トマスは、人間が神によって創られた存在であり、神の知恵の一部(永遠法)を理性を通じて分有(共有)していると考えました。つまり、理性とは、人間が神が定めた道徳的秩序(自然法)を認識するためのツールそのものです。
善を志向する理性: トマスの人間観では、理性は単なる論理的思考能力だけでなく、何をすべきか(実践的理性)を判断する力を含みます。人間は理性によって「善を行ない、悪を避けるべきである」という根本的な原理を把握し、それに基づいた具体的な道徳規範を導き出します。
自律と秩序: 人間は本能だけでなく、自らの理性で自然法を理解し、それに従うことで、宇宙の秩序の中に自発的に参加します。理性を働かせて自然法に従うことは、人間が本来持っている「徳」を完成させるプロセスと見なされます。
結論として、**自然法は「神の知恵の反映」であり、理性は「それを人間が認識し、実践に落とし込むための手段」**であると言えます。理性がなければ、人間は自然法の教えを自覚的に理解し、道徳的行為を選択することはできません。
個人の幸福 (個人の善): 人間が自らの理性と徳を磨き、本来の目的である「善き生」や神との交わりを達成することを目指します。個々人が人格として完成されることは非常に重要です。
共同善 (共通善): 社会という共同体が、その成員一人ひとりが個人の幸福を追求できるよう、環境を整え、平和や正義、秩序を維持することです。共同善は「社会全体が健康で機能している状態」とも言えます。
決定的な違いと繋がり:
包摂関係: 個人の幸福は、社会という枠組みの中で達成されるものです。社会が崩壊していれば個人の平和も守られません。そのため、個人の幸福はより大きな共同善の一部として位置づけられます。
目的の共有: トマスにとって、個人は社会的な存在です。共同体全体の善(共同善)を追求することは、実は個々人の徳を高め、結果として個人の幸福にも繋がると考えました。
つまり、**共同善とは個人の幸福が実現されるための「土台」**であり、**個人の幸福は共同善の「目的」**であると言えます。この両輪が回ることで、社会全体と個人がともに良い状態になると考えられています。
他者への志向: 他の徳(節制や勇気など)が主に自分自身の理性のコントロールに関わるのに対し、正義は常に「他者」との関係性において成立する社会的な徳です。
各人に帰すべきものを帰す: ローマ法の伝統を受け継ぎ、一人ひとりの人間にふさわしい義務や権利を公正に分配することを重視しました。これは単なる平等主義ではなく、その人の役割や状況に応じた「正当なバランス」を保つことを意味します。
法との密接な結びつき: トマスは正義を、神から与えられた秩序(永遠法や自然法)を社会の中で実現するための具体的な実践として捉えました。正義は人間法や共同善を支える礎石であり、社会の平和と秩序を維持するための必須条件と考えられています。
つまり、トマスにとって正義とは、単なるルールの遵守ではなく、共同体の中で他者の尊厳を認め、全体が調和して生きるための具体的な愛の実践形態であると言えます。
自然法(Lex Naturalis): 神が世界の秩序の中に刻み込んだ「普遍的で客観的な理性の法則」です。人間が本来備えている理性を用いて、「善を行い、悪を避けるべきである」といった根本的な原理を把握することそのものを指します。
道徳(Moralitas): 自然法という客観的な規範を、人間が個々の行為の中でどのように判断し、実践するかという「人間の生き方や実践的な行動のあり方」を指します。
違いのポイント:
客観的 vs 主体的: 自然法は神によって与えられた客観的な宇宙の理法であるのに対し、道徳は人間が自らの理性と意志を用いて、その理法を具体的な状況でどう体現するかという主体的・実践的な側面が強い言葉です。
法と徳: トマスにおいて、自然法は社会や個人の行動を方向づける「法(規範)」であり、道徳はそうした規範に従って生きる中で培われる「徳(習慣的性格)」や、具体的な「善い行い」の積み重ねとして理解されます。
つまり、自然法は道徳的な生活を送るための「土台となる普遍的なルール」であり、道徳はそのルールに従って人間が人間らしく生きるための「実践的なプロセス」であると言えます。
自然法(Lex Naturalis): 神が世界の秩序の中に刻み込んだ「普遍的で客観的な理性の法則」です。人間が本来備えている理性を用いて、「善を行い、悪を避けるべきである」といった根本的な原理を把握することそのものを指します。
道徳(Moralitas): 自然法という客観的な規範を、人間が個々の行為の中でどのように判断し、実践するかという「人間の生き方や実践的な行動のあり方」を指します。
違いのポイント:
客観的 vs 主体的: 自然法は神によって与えられた客観的な宇宙の理法であるのに対し、道徳は人間が自らの理性と意志を用いて、その理法を具体的な状況でどう体現するかという主体的・実践的な側面が強い言葉です。
法と徳: トマスにおいて、自然法は社会や個人の行動を方向づける「法(規範)」であり、道徳はそうした規範に従って生きる中で培われる「徳(習慣的性格)」や、具体的な「善い行い」の積み重ねとして理解されます。
つまり、自然法は道徳的な生活を送るための「土台となる普遍的なルール」であり、道徳はそのルールに従って人間が人間らしく生きるための「実践的なプロセス」であると言えます。
自然法の重要性と役割:
自然法は、神の永遠の計画(永遠法)を、人間が「理性」を通じて分有したものです(1:06)。
意義: 人間は理性によって「善を行ない、悪を避けるべきである」という根本原理を把握します。これは全ての道徳の基礎であり、人間が人間として本来あるべき姿に向かうための羅針盤となります。
役割: 自然法は普遍的かつ客観的な規範であり、あらゆる人間法が守るべき上位の基準となります。つまり、人間が社会を作る上での「道徳的な根拠」を提供しています。
人間法の重要性と役割:
人間法(実定法)は、自然法の原則を具体的な社会状況に適応させるために理性を働かせて定められるものです。
意義: 自然法はあくまで一般的・抽象的な原理に留まるため、社会の平和や秩序を具体的に維持するには不十分です。例えば「殺人をしてはならない」という自然法の原則を、罰則規定として具体化するのが人間法の役割です。
役割: 共同体における「共同善(共通善)」を実現することが目的です。社会の状況や時代背景に応じて調整されることで、人間が徳ある生活を送り、社会全体の調和を保つための現実的な枠組みとして機能します。
二つの法の関係:
トマスにとって、人間法は自然法に根ざしていなければなりません。自然法に反する法は「法としての効力を持たない」とされるほど、この二つの連携は社会の公正さを維持するために極めて重要です。
永遠法 (Lex Aeterna): 神の理性が全宇宙を統治するための計画そのものです。全ての法の源泉であり、神自身のうちにある完全な法則です。
自然法 (Lex Naturalis): 永遠法のうち、人間が「理性」という知性を通して分有(共有)している部分です。「善を行い、悪を避けるべきである」という根本的な道徳的原理を指します。
人間法 (Lex Humana): 自然法の普遍的原理を、現実社会の特定の状況やニーズに合わせて人間が理性を働かせて定めた法(実定法)です。共同善の実現を目的とします。
神法 (Lex Divina): 聖書などの啓示を通じて神が人間に直接与えた法です。人間が自らの理性だけで到達できる範囲を超えて、霊的な幸福(救済)に導くために不可欠な導きです。
これらの法は互いに独立しているのではなく、上位の法が下位の法の基礎となる階層構造を成しています。特に、人間法は自然法に根ざしていなければならず、自然法に反するものは正しい法としての効力を持たないとされています。
その理由は主に以下の3点に集約されます。
自立性の限界: 人間は一人では生きられません。衣食住の確保や教育、安全な生活など、個人の幸福を実現するために必要なものは、社会という共同体の協力があって初めて得られます。社会の安定(共同善)が損なわれると、結果として個人の幸福も維持できなくなります。
目的の一致: トマスにとって、全体の秩序や平和である「共同善」は、個々人が善き生を送るための環境を整えるものです。したがって、共同善を追求することは、自分自身や隣人の幸福を追求することと矛盾せず、むしろその前提条件となります。
全体への貢献: 個人は共同体の一部であり、全体が健康でなければ部分も機能しません。部分が全体のために動くことは、自然な理に適った秩序であると考えられています。
つまり、個人にとって共同善を優先することは「自分を犠牲にすること」ではなく、**「自分が生きる土台を大切にし、自分もその一部である共同体の幸福を育むこと」**に他なりません。
1. 関係性:正義は共同善を志向する
トマスにとって、正義は「他者に対して各人の正当な取り分を与える」という習慣的な意志の徳です。そして、この正義の中でも特に重要なのが「一般的正義(法的正義)」と呼ばれるものです。これは、個人の行動を社会全体の利益である「共同善」に向けて調整する役割を担っています。つまり、正義を実践することは、必然的に共同善の維持と発展につながるという関係にあります。
2. 同じものか:概念の違い
これらは同じものではありません。
共同善は、社会の秩序、平和、個々人が善き生を送るための条件という**「目的(ゴール)」**を指します。
正義は、その共同善を社会の中で実現するために、市民や支配者が守るべき**「道徳的・実践的な徳(手段)」**です。
3. なぜ区別されるのか
もし正義がなければ、共同善は抽象的な理想に留まり、具体的に実現されることがありません。一方で、正義という徳が存在することで、個人の行為が共同体の健康を保つために適切に方向づけられるのです。トマスは、共同体の一部である人間が、全体の目的である共同善を目指すことこそが正義であると説きました。
まとめると、**「共同善は目指すべき社会の姿であり、正義はその共同善を社会の中で具体的に構築するための実践的な基盤」**と言えます。
1. 永遠法 (Lex Aeterna)
定義: 神の理性が全宇宙を統治するために持つ根本的な計画や摂理そのものを指します。
特徴: 神ご自身の中にあり、全宇宙の秩序の源泉となる最も包括的な法です。被造物の個別の能力や理性に関わらず、宇宙全体が神の意志によって動かされる法則です。
2. 神法 (Lex Divina)
定義: 聖書などの**「啓示」を通じて神が人間に直接与えた法**(旧約・新約の教えなど)です。
役割: 人間の理性(自然法)だけでは到達できない、魂の救済や霊的な幸福を目指すために必要です。人間が「神に愛されるにはどう生きるべきか」という具体的な導きとして与えられた、補完的な法と言えます。
主な違いのポイント:
対象の広さ: 永遠法は宇宙の万物すべてを支配する神の計画ですが、神法は救済を目指す「人間」に向けた教えです。
知る方法: 永遠法は神の知恵そのものであるため、人間がその全体像を完全に理解することは不可能です。一方、神法は神が人間に直接言葉として伝えてくださったものなので、聖書などを通じて人間が知ることができます。
トマスにとって、これらは矛盾するものではなく、人間が理性で世界を理解する(自然法)と同時に、啓示によって霊的な真理に導かれる(神法)ことが、幸福な生を送るために両輪として重要だとされています。
上を見直す
😀
記憶が多少復興した
😀
アベラールは概念論
だ😀
アンセルムスはプラトンだ
つけ焼き刃だな
😅
😅
虚空蔵求聞持法やったのか?
というくらいに
唯識と倶舎論の些末用語以外は
即記憶理解てきるが
😀
アウグスティヌスが新プラトン主義
アンセルムスは、アウグスティヌス主義と見るべきでしょうな
限界が出る
カトリック神学を学べるという関心が
と神学にはある
😀
十字軍をキッカケに、中東アラブ諸国との文化交流が進んだ
おかげで、12世紀から13世紀にかけて、アリストテレス哲学が西欧に入ってきた
アンセルムスの時代(11世紀)には、まだ西欧でアリストテレスがほとんど知られていない
西欧キリスト教諸国は、先進文化をせっせと取り入れた
トマス神学の理解で
理解するのは利点がある
現在カトリックの欠点は理性を信じ過ぎている、
人間苦悩の根底の依存症問題は見落としがちだ、
トマス神学の長所は
人間の理性設定に
テーラワーダ、禅、ヨガ導入てきる
フレキシブルな可能性があるところだ
😀
すごいな?😆
なるほど
カトリックの西欧の移民問題で明らかだ
理性を信じ過ぎている
😀
移民を世話てきる国家体制の予算範囲で
移民を受け入れるという発想
😀
😀
殺人事件や麻薬事件やギャングは出来上がらない😅
ムスリムがクリスチャンより多くなる😆
北欧もそうらしい
高市の消費税減税の財政逼迫は
治安悪化の種だ
クソヤロウ
😱
警察力を維持できる予算を組める国家が必須、
高市はヤバいだろ、
あれは
😱
国家治安悪化の
歴史上の定説
はよ首にしろ
自民党員、それくらいやりやがれ、
ヤツラでも土建屋事業で、財政悪化はするが
😱
州財政逼迫の象徴😱
麻薬放置
警察予算が、ないんだろ
😱
カリフォルニアからテキサスへ
IT企業が流出してるらしい
😱