You are souls currently traveling between planets in the solar system, and your main body is located in the pelvic region. Repeatedly listening to Bija Mantras can raise your Kundalini, but you won't know how to lower it(⚠) Basically, read Edgar Cayce.
😄
何故か
お怒りのよーだ
👽
三最高神。3人の神様が一つになって、世界の創造と次の破壊の後の再創造を担当していると言われています。インドにとって、ヨガにとって3という数字や3の倍数がとても重要視されるのは、ここからきています。
ブラフマー神・ヴイシュヌ神・シヴァ神
ブラフマー → サラスヴァティー
ヴイシュヌ → ラクシュミー
シヴァ → パールヴァティー(息子ガネーシャ)
http://tenjikukitan.com/zukan/images/img_kami/siva_f_04.jpg
>
> ヴイシュヌ → ラクシュミー
>
> シヴァ → パールヴァティー(息子ガネーシャ)
これらの名前は、なかなか覚えられない😫
1、ブラフマー → サラスヴァティー
「ブラフをかけて、手をサラス」(ポーカー)
2、ヴィシュヌ → ラクシュミー
「ヴィシュヌの趣味は、楽シュミー」
あれ? 意味が通らないか
3、シヴァ → パールヴァティー
「芝が悪くても、パーを取る」(ゴルフ)
往々にして、こういう意味のないフレーズほど記憶に残るものだ
個人的に、インド人やネパール人と話をすることが多い
インド人は三神を深く信仰している
「神社に行った」という話をしたところ
「日本人は迷信深い」と言われた
お前がいうかと
実質20人もいないtalk宗教板で、スレを乱立とかw
しかも何かしらの宗教的本懐の探究をする訳でもないし。
コピペ&雑談の後、スレ放置のワンパターン。
ラピス爺さんとやってる事は変わらない。
>「休日は何をしましたか?」とインド人に聞かれ
>「神社に行った」という話をしたところ
>
>「日本人は迷信深い」と言われた
>
>お前がいうかと
つーか、ハロワ行けよ😚
シカーチンの分際で
👽
さほど、
ママンに
怒られたよーだ
👽
■ブラフマー(Brahma) ...
■ヴィシュヌ(Vishnu) ...
■シヴァ(Shiva) ...
■夢をかなえてくれる象さん:ガネーシャ(Ganesha) ...
■勇敢なハートを授けてくれる猿の神様:ハヌマーン(Hanuman) ...
■女性たちが振り返る、絶世の美男子の神様:クリシュナ(Krishna
グプタ朝時代の神話
全身青みがかった黒色で3つの目と4本の腕を持ち、4本の腕の内一本には刀剣型の武器を、一本には斬り取った生首を持っており[注釈 1]、チャクラを開き、牙をむき出しにした口からは長い舌を垂らし、髑髏ないし生首をつないだ首飾りをつけ、切り取った手足で腰を飾った姿で表される。絵画などでは10の顔と6本から10本の腕を持った姿で描かれることもある。
放置スレ認定
**********
1920年代、30年代にアメリカで真理を説き続けたパラマハンサ・ヨガナンダ。愛に満ちたその教えは、多くの人々を覚醒へと導いたのだった。
スティーブ・ジョブズの葬儀で参列者に配られたiPadに、彼自身が唯一ダウンロードしていた本が『あるヨギの自叙伝』だった。このヨギこそ、パラマハンサ・ヨガナンダだ。1893年、インドのベンガル地方で生まれたヨガナンダは、子どものころから霊性に目覚め、予言者に「将来、彼は多くの人を覚醒させる」と言われている。その後、シュリ・ユクステワと出会い、彼は真の覚醒をする。
1920年に渡米。アメリカで暮らした最初のグルとして、ヨガの真理を、科学的な視点から伝える。紆余曲折がありながらも、予言通り各地で多くの人々を目覚めさせていった。ビートルズのジョージ・ハリスンもヨガナンダの著書を読んで、衝撃を受けた一人。「あの本がなければ、今の私はいません」とジョージは語る。
https://lotus8.co.jp/wp-content/uploads/2021/09/Prpa-1940-PY-4020-04-Acropped-768x832.jpg
放置スレ認定
**********
● カーリー女神への強烈な信愛によって霊的な覚醒へと導かれた
● 霊的自覚の最高境地に到達した
● サハジャ・ニルビカルパ・サマーディを実現した
● 神を見、神と語り、神と合一し、神性を完全に体現した
● キリスト教やイスラム教の道を通っても同じ霊的境地にたどり着くことを証明した
● 普遍的真理のもとにおける諸宗教や学派の調和を説いた
● 受肉したキリストのように人類を救済するために地上に降りてきた神の化身と見られている
シヴァの神妃デーヴィー(マハーデーヴィー)の狂暴な相のひとつとされる。同じくデーヴィーの狂暴な相であるドゥルガーや、反対に柔和な恵み深い相であるパールヴァティーの別名とされるが、これらの女神は元はそれぞれ別個の神格であったと考えられている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/89/Kali_by_Raja_Ravi_Varma.jpg/1280px-Kali_by_Raja_Ravi_Varma.jpg
ラーマクリシュナの生涯の出来事を、時系列で非常にシンプルに記してみます。
(1)1836年、インドのコルカタ近郊のカーマルプクル村のバラモンの子供として生まれる
(2)6歳のときに不意にサマーディ(神聖な神秘的体験)に没入する経験をする
(3)16歳のときにダクシネシュワルというカーリー女神の寺院の手伝いをすることになる
(4)カーリー女神への熱烈な信仰(バクティ)によって、カーリー女神を実在として見ることができるようになり直接会話をするようになる
(5)サーラダー・デーヴィと結婚する
(6)ヨーゲシュワリという女性行者の指導でタントラの行法をマスターする
(7)トータ・プリーという男性行者の指導で出家の誓いを立て、究極的実在を悟り、無分別三昧というサマーディに没入する
(8)ラーマクリシュナの教えを聞くために人々があつまり始める
(9)のちのヴィヴェーカーナンダとなるナレンドラなどの主要な弟子たちがあつまってくる
(10)1886年、喉頭癌で逝去する
(11)死後、ヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナ・ミッションを設立する
(12)弟子と信者たちの活動を通して、世界中に僧団の活動とラーマクリシュナの教えが広がる
岡田茂吉や谷口雅春が観音信仰なのと似たような感じか
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!!
なんで、みんなワイを無視すんねん!?大欲(たいよく)は無欲に似て足るを知る。煩悩即菩提の法相宗でええやろ・・・ほならなんでワイはこんなところにいるんねやろ
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺の事を 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)奈良興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーで、知ったかぶる以外に承認欲求が満足しない。
多数者を演じ孤立セズと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
インチキキチガイ雀鬼イヌヤマ麦、アルコホル発酵しイヌ麦焼酎なのに喜ばせ共有機能が絶えて無し。吠え吠み、オノレの尻尾をクルクル追うノミシラミ
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
① ググるシッタカ知障荒らしイヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれ
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け。完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まれば削除
隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
趙州従しん(ぢょうしゅう・じゅうしん)の無字の公案では長年かかってもなお悟れず死んでいく者も多かった事から、修行僧に対して白隠禅師が新たに隻手の音声(せきしゅ の おんじょう)の公案を与え、沢山の修行者に悟らせようと苦心した公案です。
> 無我がわかったら坐禅しなくても良いとは思うんだけどどうなんだろうな。 』
求道者、修行僧は、やはり さとりを求めて行きます。 さとれば、さとりが無く、無我とは、真理(さとり)です、が 理解できるものではなく、まさに 体得します。その状態を 石、とも 言います。突然 ストーン と、突如と自他が無くなり歓喜乱舞します。
これを 一と一は、二では無い。一の如し、一如である、言い表します。この一如に取り組む公案が有ります
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、と言うもので、これに取り組みました。
ぜひ、とも取り組んでいただきたいものです。
音を聞くのだが、片手では拍手ができないから、音が鳴らないので聞こえない。
その聞こえない音を聞け、と 公案は いう。
聞こえない音が聞こえる。 そこが 色即是空。 初関(しょかん)を透(とお)る。
色とは片手の人が叩く拍手です。片手の人が叩く音を聞いた、そこが、色即是空です。真理(さとり) です。
>> 理屈っぽいけど、自他一如なら、あなたが叩こうがわたしが叩こうが同じ、わたしが叩きます、パンパンで終了。あとは自他一如、自分から心で隻手の人と一つになる。すると、相手の手を叩く音がきこえる。自他一如や自己の愛情、慈悲心を育てる公案だったとか 』
ありがとうございます。
これは理解したり、解釈を咥えたりするものでじゃないので、お怒りを受けるともいますが、字句の解釈に拘泥するものではありません。
先にも言いましたが、自他一如を体得する事です。
あなたと私で、ぱんぱん。
トンチ、になりましたね。
片手の人が、です。
置き換えて、これでどうだ、と言うわけにはまいりません。
聞こえるはずのない、片手の人が叩く拍手の音を聞く、のです。
禅とは ジャーナを音写して禅那と中国人が漢字であらわしたものであり、ジャーナとは、静かにする、静かに坐る、と言う意味であり瞑想する事。自己都合による拡大解釈しては、原意が蒸発する。
浄土宗、浄土真宗は、波阿弥陀仏、と阿弥陀佛(無量寿Buddha、無量光佛陀)陀に帰依する。
法華宗は南無 妙法 蓮華経、と正しい教え、白い蓮の花の教え、教典、お経の本に帰依する。
騒動衆はお坐り、お手を教え込む。
南無阿弥陀仏と言うのか、南無妙法蓮華経と言うのか、何とも云わず、坐っているのか、この三つは 易行(いぎょう)である。難しい事を求めず、これをやればいいんだよ、と安心させる。
飢饉、餓死、疫病まん延、死地へ追い込まれた人にとっては、ひとすじの光明である。
> 心身一如にならないと、坐禅が坐禅にならないんです。 』
脳内の神経細胞の結束が、心と呼ばれる。
0,5ミリの線虫にも味の好みがある、と言う。脳が無いのが線虫である。
神経の経験が好みを選ぶのである。 だから、心身ではなく、身心と言いう。
>> 私をバカにしたければすればよろしい。その代わり、地獄行きである。 』
地獄極楽。 極楽地獄。 一対のものだよね。 なので、地獄は極楽が無いと成立しない。
では極楽は、地獄がなければ、存在しえないのだろうか。そんな事は無く、極楽は、極楽そのもので、完結している。地獄は無用なのである。
地獄の住人は、どうやって救われてて行くのだろうか。地獄が極楽だったんだ、と自覚する、みずから めざめる、こう知れば、そのところが極楽とも言わず、地獄とも言わず、公平無比の横一列の地平線、水平線であり、日が昇り日が沈み、月が昇り、月が沈む、自他が無い。 これが 大切だよね。
> 南無阿弥陀仏 』
南無阿弥陀佛陀
帰依します
アンミータ
のっと、めーたー
量る事が出来ない
アミターユ
無量光
アミターバ
無量寿
佛
Buddha
佛陀
目覚めた者
本願を立て 救い取るぞと決意されている無量寿Buddha、無量光Buddha、に対し帰依します。
問う答えるて対話してきた各章のつらなり、1000章が、次のステップか。
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、である。
禅定(ぜんじょう、梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。静慮
こころコロコロ、色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーンは一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う
「この座敷から坐のままで30メートル先のロウソクの炎を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうとは、これ ちゅうどうなり)
色即是空は空即是色へ還(かえ)る
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。
とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれてり来の知識の蓄積が、
いろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれとあれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)
こんにちは、さようなら。
生死(しょうじ)。
問う答えるて対話してきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは
禅定(ぜんじょう、梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。静慮
こころコロコロ、色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う
「この座敷から坐のままで30メートル先のロウソクの炎を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別しないである。
空とは、一の如しである。
色即是空は空即是色へ還(かえ)る。である。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事は出来ない。
問いには立ち止まって、検討して行かないと此れにはこれと言う安易な振り分けになる。
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、
唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろ言うか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
問う。
『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である
イスラム、キリスト教、日蓮寄りの休日だな
😄
ラーマクリシュナは死ぬ前に16名の直弟子たちに出家の袈裟を授け、一番弟子であるスワミ・ヴィヴェーカーナンダのもとで修行に励み、人類のために神聖なる働きをするようにと力づけを与えられました。
彼の死後、スワミ・ヴィヴェーカーナンダを中心としてラーマクリシュナ僧団が設立されました。さらに彼はベルル・マトという僧院を建立し、僧団と奉仕団の基礎をつくられました。
ラーマクリシュナの奉仕団は在家や出家の弟子たちから構成されており、現在でもインド各地で災害被害などがあれば積極的に奉仕に駆けつけており、また、教育や医療の分野においても社会に多大な貢献をされている団体です。
ラーマクリシュナ大好きみたいだなー
😄
霊的法則、
霊的理性
混沌の中の光みたいな
非仏教的な本覚思想みたい?
な
😄
教会の霊的香りが
残っている
😄
ゼロ歳未満の死因は流産、死産だが、一生を通じて死因の第一位は人工中絶
0~4 乳児期 2歳までは授乳
5~9 幼児期 ここまで生きていられたら、健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず。
10~14 10歳まで生き延びたら、丁稚奉公で親元出立 女児初潮 10歳幼学ようがく 尋常小学卒業
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト 縄文時代の平均寿命は15最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしくPANPANスキン 感触最良バスト 20歳弱冠
25~29 おしとねさがり 脱水で細る顔 ポソッ
30~34 人生再検討期、新興宗教開祖期 三十路にして立つ、
35~39 立脚点確立 不動心 滴る愛液減少
40~44 充実期 自己を含め40過ぎたら欠け始める横一列 40不惑
45~49 昇級、老眼、更年期前期、妊娠からの解放
50~54 肩たたき、更年期後期 50天命てんめい知命ちめい
55~59 息子に嫁が来る無勃起
60~64 天下り先退職金積み増し期 60還暦 60耳順じじゅん
65~69 人生の黄金期前期 世界一周海外旅行食べ歩き
70~74 人生の黄金期後期 健康年齢72
75~79 ひ孫と面談、ランドセル予約
80~84 長寿の達人 男の平均寿命82
85~89 同窓会が無い
90~94 歯科医の総仕上げの総入れ歯 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身がうまい 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰100 百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ 112超えたら珍寿ちんじゅ
115~119 もっと尿瓶しびん を、クレヨン、クレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 今日も元気だ薬がウマヒィ 120昔寿せきじゅ 121歳大還暦だいかんれき
https://www.youtube.com/watch?v=odFAiCHIq3M&list=PLWzYrEdlV4O5FvLkyoszBel6BGO2fNnbv
https://www.youtube.com/watch?v=Ipe5P-KbOCU
肺がんで死んだ男が力説していた。
日本はこれから四季ではなく、冬と夏の二季になるんだ、と。
もう10年ぐらい前のことだ。
その奥さんも今肺がんだ。
スクーターに乗って、挨拶してきた。
やあ、元気だね。
何を言ってるのよ、肺がんで死ぬ者に、元気だなんて無いよ。
そうだけど、死ぬとは見えないから。
また、来るよ、じゃーね。
待ってるから。
そんな風にして、坂道を橋瓜登って行った。
わたくしはUターンして坂下へ。
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期
5~9 幼児期 ここまで生きられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19才 縄文時代の平均寿命は15最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張るプルプル肌 感触最良バスト 20歳弱冠
25~29 脱水で細る顔ボソッ 25男体力のピーク
30~34 人生再検討期、尋牛(じんぎゅう)見跡(けんせき)悪魔の声を聞き新興宗教開祖乱立
35~39 中年太り 滴る愛液枯渇と数の子天井ミミズ千匹俵二段締め喪失タコつぼ化性交痛
40~44 40不惑、初老 夜間頻尿 毛細血管ゴースト化 精子数減少 43老眼乱視、子宮硬化不妊
45~49 昇格、更年期前期、妊娠恐怖解放
50~54 肩たたき転職勧告、♀やる気男性ホルモン増、更年期後期 50天命知命 アル中肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し 60還暦耳順じじゅん
65~69 65歳は高齢者 年金受給 世界旅行食べ歩き 65夜間頻尿、MRI脳委縮始
70~74 72男健康年齢 前立腺がん乳がん
75~79 75高齢者講習保険1割負担ひ孫と面談ランドセル予約 75女健康年齢 75後期高齢者
80~84 長寿の達人 男平均寿命81
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87,男死亡年齢87
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯女死亡年齢9490卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身が旨い 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰 100百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨン119頑寿がんじゅ
120~124 今日も元気だニンニク注射がウマヒィ120昔寿せきじゅ121歳大還暦
しまったしまった 島倉千代子
マイッタマイッタ マイクル ジャクソン
困った困った こまどり姉妹
● アンダーウエアー編
凹 トランクス
▼ パンが2個
▽
~▼~ 紐パン
~▽~
~●-●~ ブラザーミシン サングラス 椰子の実タヒチアンダンスかっぷ
~●_●~
~●●~
~○-○~ ちちの ろうがんきょう
~○_○~
~○○~
~◎-◎~ ちちの 強度近眼鏡
~◎_◎~
~◎◎~
~▲-▲~ 父あての手紙
~▲_▲~
~▲▲~
~△-△~ ちちもよいしょよいしょしよーと、目の上へと持ち挙げる~♪
~△_△~
~△△~
https://youtu.be/OgqTA01Nzbw?si=_7kI0cxcEwAvlecu
https://youtu.be/6OuR-1253zs?si=N8nSlFTprg_kxb51
A.I.:ヴェーダーンタ哲学とヒンドゥー教の関係は、「宗教とその中の哲学体系」という形で理解すると分かりやすいです。
ヒンドゥー教は、特定の創始者や統一された教義を持たない、非常に多様で包括的な宗教です。
神話・儀礼・信仰・哲学などをすべて含んだ大きな伝統で、その中にさまざまな思想体系が存在します。
■ ヴェーダーンタ哲学とは
ヴェーダーンタ哲学は、ヒンドゥー教の中でも特に「究極的な真理とは何か」を探求する哲学体系です。
聖典:ウパニシャッド
テーマ:
宇宙の本質(ブラフマン)
個人の本質(アートマン)
両者の関係(同一か別か)
① ヒンドゥー教の中の「哲学部門」
ヴェーダーンタは、ヒンドゥー教に含まれる数ある思想の一つです。
いわば「ヒンドゥー教という大きな枠の中の理論・哲学部分」。
② 聖典的なつながり
ヒンドゥー教の根本聖典である
ヴェーダの「最後の部分(アンタ)」がヴェーダーンタの由来です。
「ヴェーダ + アンタ(終わり)」=ヴェーダーンタ
→ 「ヴェーダの最終的な教え」という意味
③ 宗教実践 vs 哲学的理解
ヒンドゥー教:
→ 儀式、信仰、神々への礼拝(実践中心)
ヴェーダーンタ:
→ 存在や意識の本質を考える(思索中心)
④ ヒンドゥー思想の中でも特に影響が大きい
ヴェーダーンタはヒンドゥー教哲学の中でも最も重要な流派の一つで、特に有名なのが:
不二一元論(すべては一つ)
二元論(神と人は別)
ヒンドゥー教:広い宗教体系(文化・信仰・儀礼を含む)
ヴェーダーンタ:その中の「究極の真理を探る哲学」
👉 つまり
「ヒンドゥー教という森の中にある、最も深い思想の一つがヴェーダーンタ」
必要なら、「仏教との違い」や「アドヴァイタの考え方」もわかりやすく解説できます。
A.I.:結論から言うと、
彼らは伝統的な意味で神々を信仰していた側面もあるが、最終的にはそれを超えた理解に至っていた、というのが実態に近いです。
ラマナ・マハルシは若い頃、
シヴァの聖地である
アルナーチャラ山に強く引き寄せられました。
信仰の特徴
外面的にはシヴァへの深い敬意・帰依があった
しかし教えの核心は
→「自己とは何か?」(アートマンの探求)
最終的な立場
ラマナは
神(シヴァ)
自己(アートマン)
絶対(ブラフマン)
これらは本質的に同一だとする
不二一元論の立場でした。
👉 つまり
シヴァを“外の神”として拝むというより、自己の本質として理解していた
彼はかなり性格が違い、「強い信仰者」でした。
信仰の特徴
ラーマクリシュナは複数の神を実際に礼拝しました:
カーリー(特に中心的)
ラーマ
クリシュナなど
さらには
イスラム教
キリスト教
の実践も行い、「どの宗教でも同じ真理に至る」と体験的に語りました。
最終的な立場
神は様々な姿で現れる
しかし本質は一つ(ブラフマン)
👉 つまり
神々を“実在する対象として愛しつつ”、同時にそれらを超えた一体性も認めていた
二人ともヒンドゥー教的な神々(シヴァやヴィシュヌ系)と無関係ではない
しかし
ラマナ:神を内面的実在として理解
ラーマクリシュナ:神を愛しつつ最終的に一体と理解
👉 共通点は
「神を信じるかどうか」を超えて、“神と自己の本質は何か”に到達していること
もし興味があれば、
「なぜインド思想では“神=自己”という発想が出てくるのか」もかなり面白いテーマです。
A.I.:結論から言うと、
はい、当てはまります。
ただしヴェーダーンタと同じ位置づけではなく、少しニュアンスが違います。
■ まず全体像
ヒンドゥー教の中には、伝統的に「六派哲学(ダルシャナ)」と呼ばれる哲学体系があります。
その中に:
ヴェーダーンタ哲学
サーンキャ哲学
ヨーガ哲学
などが含まれます。
👉 つまり
全部「ヒンドゥー教の哲学部門」と言ってOK
① サーンキャ哲学
特徴:
世界を
精神(プルシャ)
物質(プラクリティ)
に分ける二元論
神(創造神)を必須としない
→ むしろかなり「非神論的」
👉 位置づけ
世界の仕組みを説明する“理論哲学”
② ヨーガ哲学
特徴:
パタンジャリによって整理
瞑想・呼吸・精神統御などの実践体系
👉 サーンキャとの関係
理論:サーンキャ
実践:ヨーガ
👉 位置づけ
解脱のための“実践マニュアル”
③ ヴェーダーンタとの違い
ヴェーダーンタは:
最終的に「すべては一つ(ブラフマン)」とする(特に不二一元論)
宗教的・形而上学的な「最終解釈」に近い
👉
ヒンドゥー思想の“結論ポジション”にいることが多い
あなたの問いに一番クリアに答えると:
👉
ヨーガもサーンキャも「ヒンドゥー教の哲学部門」であるのは確か
ただし
ヴェーダーンタ=「究極の意味づけ」
サーンキャ=「理論モデル」
ヨーガ=「実践技術」
👉 という分業がある
■ 一言でまとめ
ヒンドゥー教は“宗教”というより「哲学+実践の総合システム」で、
その中に複数の哲学エンジン(サーンキャ・ヨーガ・ヴェーダーンタなど)が共存している
この視点まで来ているならかなり核心に近いです。
もし興味あれば、「なぜサーンキャは神なしで成立するのにヒンドゥー教に含まれるのか」も面白い論点です。
A.I.:いいところに気づいています。これはかなり本質的な論点です。
結論から言うと:
👉サーンキャはほぼ「神なし」
👉ヨーガは「神ありにもできるが、必須ではない」
■サーンキャ哲学:ほぼ無神論
サーンキャの世界観はかなりドライです。
基本構造
世界はこの2つだけで説明されます:
プルシャ(純粋意識)
プラクリティ(物質・自然)
👉 この2つがあれば宇宙は説明できる
神の扱い
創造神は不要
世界は自然に展開する
苦しみも解脱も「仕組み」で説明できる
👉
「神がいなくても成立する哲学」
※ただし後代には「神を認めるサーンキャ」も少し出ますが、主流ではありません。
ヨーガはサーンキャをベースにしていますが、少し違います。
特徴
パタンジャリは
「イーシュヴァラ(特別な存在)」を認めます。
その神の性格
この「神」は:
世界を創造した存在ではない(必須ではない)
苦しみから完全に自由な“理想的意識”
瞑想の対象として有効
👉
人格神というより“完全な意識モデル”
重要ポイント
ヨーガでは:
神に祈らなくても解脱できる
ただし神を使うとやりやすい
👉
「信じてもいいし、信じなくてもいい」設計
ここが一番面白いところです。
ヒンドゥー教は:
👉
「神を信じること」を絶対条件にしていない
共通しているのは「神」ではなくこれ
輪廻(サンサーラ)
業(カルマ)
解脱(モークシャ)
👉
人生の問題設定が共通
サーンキャ:神なしで世界説明
ヨーガ:神は補助ツール
ヴェーダーンタ:神(ブラフマン)が究極
👉
同じヒンドゥー教でも
「神の必要性」がバラバラ
■ 一言でまとめ
👉
サーンキャとヨーガは「神がいなくても回る思想」
(ヨーガは“神あり版”も選べる柔軟設計)
てことは、ヒンドゥー教では、「神は信じなくても構わない。でも、輪廻転生は信じろ」ということなのか?
A.I.:結論から言うと、その理解は半分当たっているが、少し単純化しすぎです。
■ 一番正確な言い方
ヒンドゥー教は
👉 「これを全部信じなさい」という統一ルールがそもそもない宗教です。
①「神は信じなくてもよい」
→ これはかなり当たっています
サーンキャ哲学
ヨーガ哲学
では、神は必須ではありません。
👉
ヒンドゥー教=必ず神を信じる宗教、ではない
②「輪廻転生は信じろ」
→ これは「かなり中心的だが、強制ではない」が正確
ヒンドゥー思想の多くは:
輪廻(サンサーラ)
業(カルマ)
解脱(モークシャ)
を前提にしています。
👉
共通の“世界観”としては非常に強い
■ ただし「信じろ」という形ではない
ここが重要です。
ヒンドゥー教は:
👉
教義を命令する宗教ではなく、
「こういう世界の見方がある」という提示型
● 西洋宗教的なイメージ
神を信じるかどうか → YES / NO
正しい信仰が重要
● ヒンドゥー教的なイメージ
世界はどうなっているか?
苦しみはなぜ起こるか?
どうすれば解放されるか?
👉
“問題解決の枠組み”が先にある
■ なぜ輪廻が強いのか
例えば:
なぜ人によって人生が違うのか?
なぜ不公平があるのか?
これを説明するために
→ カルマ+輪廻が非常に便利
👉
倫理と宇宙論がセットになっている
■ でも例外もある
ヒンドゥー教の中でも:
輪廻を象徴的に解釈する人
哲学的に再解釈する学派
も存在します。
👉
絶対的なドグマではない
あなたの理解を少し修正すると:
👉
「神は必須ではないが、輪廻・カルマ・解脱という枠組みを共有する傾向が強い」
■ さらに本質的に言うと
ヒンドゥー教は
👉
「何を信じるか」よりも
「どう理解し、どう解脱するか」
に重心がある宗教です。
アルナーチャラは「世界の霊的中心」とされ、マハルシは「私は誰か?」という探求(自己探求)の教えを、沈黙と愛を通して伝えました。
聖なる山と一つになる
ラマナ・マハルシは、16歳の若さで「私は誰か?」という強烈な自己探求の体験(「死」の恐怖とそれを超えた真我の認識)を経て、家出をしてアルナーチャラ(ティルヴァンナーマライ)に辿り着きました。彼はこの山を「父」のように慕い、山そのものをシヴァ神(真我)と同一視しました。
アルナーチャラの麓には、シュリー・ラマナ・アシュラマムが設立され、現在でも世界中から多くの探求者が訪れる聖地となっています。
マハルシの教えは、マインド(心)の源を探求し、真我(自己)に没入することです。彼は「沈黙の聖者」と呼ばれ、言葉による教えよりも、沈黙(マウナ)によって人々を真我へと導きました。
「アルナーチャラ・ラマナ―愛と明け渡し」のような書籍に描かれる通り、彼はアルナーチャラへの深い崇拝と愛を捧げ、多くの賛歌を残しました。
ヒンドゥー教の3神、シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマー
このうち、シヴァとヴィシュヌは大人気だが、ブラフマーの影が薄い
ヒンドゥー教の「三神一体(トリムールティ)」では、
シヴァ … 破壊と再生
ヴィシュヌ … 維持と救済
ブラフマー … 創造
という役割分担になっていますが、実際の信仰ではブラフマーはかなり影が薄いです。
まず大きいのは、
「創造して終わり」の神だから。
ヴィシュヌは、世界が乱れるたびに化身(アヴァターラ)として降臨して救済する。
たとえば、
クリシュナ
ラーマ
などはヴィシュヌの化身です。
一方シヴァは、苦行・瞑想・舞踏・破壊・性力など、非常に人間的でカリスマ性が強い。
禁欲的なヨーギーでもあり、荒ぶる神でもあり、家庭人でもある。
つまり両者とも、「人間との接点」が多い。
しかしブラフマーは、「世界を創った後はあまり前面に出てこない」神なんです。
有名なのが、
「ブラフマーが嘘をついたので、礼拝されなくなった」
という説話です。
シヴァが無限の光柱として現れ、ヴィシュヌとブラフマーに 「この柱の上下の果てを探せ」 と命じる。
ヴィシュヌは正直に「見つからなかった」と言う。
しかしブラフマーは、 「私は頂上を見た」 と嘘をつく。
それを見抜いたシヴァが怒り、
「お前は広く礼拝されなくなる」
と呪った。
この神話、かなり象徴的です。
ヴィシュヌ → 誠実
シヴァ → 超越的絶対者
ブラフマー → 権威主義的・形式的
みたいな構図になっている。
ヴィシュヌ派
シヴァ派
は巨大宗派になったのに、
「ブラフマー派」
みたいな大宗派が育たなかったのも大きい。
インド宗教では、 「今この瞬間に救ってくれる神」 「修行や帰依の対象になる神」 が強い。
創造神は、思想上は重要でも、信仰対象としては弱くなりやすい。
これは実は他宗教でも似ています。
たとえばギリシャ神話でも、 ゼウス は人気でも、 「宇宙創成の原初神」は影が薄い。
仏教では、 梵天として取り込まれますが、
「宇宙を創造した唯一神」
ではなく、
「天界の高級神の一人」
くらいの扱いになる。
しかも、釈迦に教えを説くようお願いする役回りまでやる。
つまり仏教から見ると、
「ブラフマーですら悟ってはいない」
という位置づけなんですね。
ここは、インド宗教史のダイナミックなところです。
俺は脳内が高野山念仏、神仏習合プランでハッキングされて本覚思想までが限度だ
😀
😀
ピンズーぽくはなってる
https://note.com/morfo/n/naa192f077806
ネット検索でも、深く追いきれない
😀
ヒンドゥー教の3神は、太古の昔から居る
どこかの時点で出現したわけではない
半分はその通りで、半分は違います。
たしかに、
シヴァ
ヴィシュヌ
ブラフマー
は、いかにも「インドの太古から存在した永遠の神々」に見えます。
しかし実際には、かなり長い歴史の中で、少しずつ現在の姿になっていった存在です。
特に重要なのは、
「最初から“ヒンドゥー教”があったわけではない」
という点です。
古代インドでは、
ヴェーダ宗教
民間信仰
部族神信仰
苦行者文化
哲学思想
などが混ざり合っていました。
その長い融合の中で、後のヒンドゥー教が形成されます。
ヴィシュヌ は、最古層のヴェーダでは、実はそこまで主役ではありません。
むしろ当時の中心は、
インドラ
アグニ
ソーマ
など。
ヴィシュヌは「三歩で宇宙を測る神」として出てくるけれど、まだ脇役寄りです。
ところが後世になると、
救済神
宇宙維持者
化身による降臨神
として巨大化していく。
つまり、後代の信仰がヴィシュヌ像を膨らませた。
シヴァ の原型は、 ヴェーダの暴風神・荒神 ルドラだと考えられています。
しかし現在のシヴァ像には、
山岳の神
苦行者
ヨーガ行者
性力神
舞踏神
など、いろんな土着信仰が合体している。
だからシヴァは、 「インド亜大陸の野性的宗教エネルギーの集合体」 みたいなところがある。
実は ブラフマー は、 哲学概念 ブラフマン(宇宙根本原理) との関係から生まれてきた側面が強い。
つまり、
抽象哲学
宇宙論
神話
が混ざって人格神化した存在なんです。
「三神セット(トリムールティ)」
そのものが、かなり後代の整理です。
最初から
創造=ブラフマー
維持=ヴィシュヌ
破壊=シヴァ
と綺麗に役割分担されていたわけではない。
後世のヒンドゥー思想が、
「宇宙サイクルを三機能で説明しよう」
として体系化した面が大きい。
なので歴史的には、
神々は太古から“不変”に存在した
というより、
古代インドの無数の信仰や神格が、何百年もかけて融合・再編され、現在の三神像になった
という理解のほうが近いです。
ただし、信仰内部の感覚としては、
「彼らは人類以前から存在する永遠の神々」
という捉え方になります。
宗教史として見るか、信仰として見るかで、見え方が変わるんですね。
インドラ、アグニ、ソーマが、古代インドでは3神だった?
「固定された“三神”だった」というより、
古代ヴェーダ宗教の中心にいた有力神々、
という理解が近いですね。
ただ、感覚としてはかなり当たっています。
初期の ヴェーダ宗教 では、
インドラ
アグニ
ソーマ
は、ものすごく重要でした。
『リグ・ヴェーダ』でも、この三者への讃歌は非常に多い。
インドラ は、完全に「戦士神」です。
雷を操る
巨龍ヴリトラを倒す
雨を解放する
敵を撃破する
という英雄神。
遊牧・戦士社会だった初期アーリア人にとって、 非常に頼もしい存在だった。
ギリシャ神話の ゼウスや、北欧神話の トールに近い雰囲気があります。
アグニ は、祭祀の中心。
古代インド宗教では、 「火」が神々への通信手段だった。
供物を火に投げ込むことで、 アグニが神々へ運ぶ。
つまり、
神と人間の仲介者
儀礼そのもの
祭壇の中心
なんです。
だから、実は宗教実践上はめちゃくちゃ重要。
ソーマ は、 かなり謎めいた存在です。
元々は、
儀礼用の聖なる植物
そこから作る幻覚・興奮飲料
だった可能性が高い。
それが神格化された。
神々ですらソーマを飲んで力を得る。
インドラが怪物退治する前にも、 「ソーマ飲んでパワーアップ」 する描写がある。
つまり、
神秘体験
陶酔
不死性
霊感
の象徴なんですね。
インドラ → 戦闘・王権
アグニ → 祭祀・媒介
ソーマ → 神秘体験・霊力
となる。
つまり、 初期ヴェーダ宗教の核心が見えてくる。
後代ヒンドゥー教では、この三神が後退すること。
特にインドラ。
後のヒンドゥー教では、 インドラは「天界の王」ではあるけど、
傲慢
欲深い
修行者に負ける
しょっちゅう失敗する
という、 やや“小物化”した存在になります。
仏教でも、 帝釈天として取り込まれますが、 やはり「悟っていない天界神」です。
これは、宗教の価値観が変化したからです。
初期アーリア社会では、 「戦って勝つ英雄」が最高だった。
しかし後になると、
解脱
瞑想
苦行
宇宙原理
のほうが重要になった。
そこで、
インドラ型の戦士神
より、
シヴァ型の苦行神
ヴィシュヌ型の救済神
のほうが強くなっていったわけです。
なるほど
帝釈天は、もともと戦の神だったのか
仏教の 帝釈天 は、もともと古代インドの戦士神 インドラです。
かなり武闘派の神でした。
初期ヴェーダでは、インドラは「最強の戦神」。
代表的なのが、
「竜ヴリトラ討伐」
の神話です。
インドラは雷霆武器ヴァジュラ(金剛杵)で怪物を倒し、 閉じ込められていた水を解放する。
これは、
雷神
雨神
戦勝神
としての性格を示しています。
遊牧民や戦士社会では、 「敵を倒して生存圏を確保する」 ことが超重要だったので、 インドラは英雄中の英雄だった。
たとえば 帝釈天 は、
甲冑姿
武器を持つ
四天王を従える
阿修羅と戦う
など、かなり軍事的です。
仏教美術でも、 威厳ある武神っぽく描かれることが多い。
ヴェーダ宗教では、 インドラは「ほぼ最高神級」。
しかし仏教では、
「六道輪廻の中の天界の王」
に格下げされる。
つまり、
強い
偉い
長寿
ではあるけど、
「まだ悟っていない存在」
なんです。
ここが重要。
だから仏典では、 帝釈天はしばしば釈迦の説法を聞きに来る。
つまり、
かつて世界最強だった戦神ですら、仏の智慧には及ばない
という構図になる。
これは、インド宗教史の価値観の大転換なんですね。
武力・英雄性中心の宗教から、
解脱
智慧
瞑想
中心の宗教へ移っていった。
あれは元々、 インドラの雷撃武器だった。
つまり密教法具のルーツには、 古代インドの戦神信仰が眠っているわけです。
荒神系統へお参りしてきた
😀
世界最大級の寺院: インド・デリーにあるアクシャルダム寺院は、巨大な彫刻群で知られる現代の巨大寺院です。
世界遺産の石窟寺院: インド・エローラにあるカイラーサナータ寺院は、巨大な岩山を上から削り出して造られた世界最大の彫刻建築です。
海外の歴史的寺院: カンボジアにあるアンコールワットは、12世紀初頭にクメール王朝によって建立された世界最大のヒンドゥー教寺院遺跡です。
日本国内: 神戸や東京などにも小規模ながらコミュニティのための寺院が存在します。
忘れていた
😀
AI無しでは考えられないテーマ
動画の語っている
クリシュナ神の化身
姿のノリが南国趣味
😀
日本ではふなっしーとかの
ゆるキャラに見える
😀
https://www.google.com/search?client=ms-android-zte&hs=vZ4p&sa=X&sca_esv=9bbfd48a13b6d5ed&sxsrf=ANbL-n7Bys5yBorlxqLdTnSJrM8wb83ulg:1781404695743&udm=2&fbs=ADc_l-aJPaNUgmyF6N6eJt5nMLWwzCMvCqY4OxeuYjLXNKg9ZlFUIID6trMHoXIUo_JT6jfkME41tQogTnIyDJsXDDE_Mpc8PEY9eq-6DjtFe8LK58d9K9jY0VksIn_3k3nOWW2tjzPwPRvSXv37XQdUsP2TKd0tTelTbDy3jeqHJ6Li4ExwX_NUBvheLglIal0YZGkr_0Dl4WplOiwODKv5Utgtj0TK2LeXtcFb-ROK83BvArg9m_efcJUb-l_quO6Zy1e9XJkP&q=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88%E7%A5%9E&ved=2ahUKEwiZ6NzQ2YWVAxWlslYBHdTPMRUQtKgLegQIFxAB&biw=360&bih=616&dpr=3
祈り方?
😀
この動画の中で語られている、ジャガンナータ神への祈りや神との関わり方には、以下の要素が大切だと説かれています。
神の名前(聖名)を唱える:
忙しい日常の中でも、神の御名を唱える時間を確保することが推奨されています(8:21-8:41)。動画の冒頭でも「ハレ・クリシュナ」のキールタン(聖歌)が歌われており、神の名前を唱えることこそが、神との繋がりを深める最も基本的な行為であるとされています(0:41-0:56)。
神のリーラー(神の物語)に没入する:
単に祈るだけでなく、神の物語(リーラー)や栄光について聴聞し、思いを巡らせることが大切です。特に、ジャガンナータ神のような神の姿の由来や、神がいかにして信者の愛に応えてくださったかを理解し、深く共感(バーヴァ)することが奨励されています(4:34-5:14)。
献身の灯火(ランプ)を捧げる:
動画の終盤(45:06-45:10)で、特に「プルショッタマ・マース(聖なる月)」には、ジャガンナータ神の栄光を称えながら**ランプを捧げる(ディーパ・ダーナ)**ことが、人生を成功に導く素晴らしい祈りであると語られています。
結果や執着を手放す:
形式的な儀式にこだわりすぎることよりも、自分の心を神の愛に委ねる謙虚な姿勢が重要です(39:24-39:32)。私たちは「マーヤー(世俗的な幻想)」に惑わされやすい存在ですが、神の意志を信じ、神が自分を見守ってくださっていることを意識することが、真の祈りのあり方だと説かれています。
結論:
特別な形式を追求するよりも、**「心から神を想い、その聖名を唱え、神の愛情深さに感謝を捧げること」**が、ジャガンナータ神への最も誠実で力強い祈りであると言えます。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c1/Jagannath.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Statues_of_Lord_Jagannath_at_Bhubaneswar.jpg/500px-Statues_of_Lord_Jagannath_at_Bhubaneswar.jpg
😀
法話の世界も無数にありそーだ
😀
バクティヨガ寄りなので
バクティヨガの伝統的教派から
初めた
😀
😀
ジャガンナート神(クリシュナ神の化身) への祈りは、純粋な心と畏敬の念を持って行われます。特別な資格は必要なく、誰でも自宅や寺院から神聖なマントラを唱え、花や果物を捧げて心を込めて祈ることができます。西遊旅行+31. 唱えるべきマントラ(真言)祈るときは、以下のマントラをサンスクリット語で唱えます。X·tenjikukitan「ジャイ・ジャガンナート!」 (Jai Jagannath!)意味:「ジャガンナート神に勝利あれ!」(最も親しまれている賛美の言葉です)X·tenjikukitan+1「オーム・ナモー・バガヴァテー・ヴァースデーヴァーヤ」 (Om Namo Bhagavate Vasudevaya)意味:「ヴァースデーヴァ(クリシュナ神)に帰依します」2. 祈りの実践方法自宅の祭壇などにジャガンナート神の像や絵を飾り、以下のように行います。環境を整える: 手と顔を洗い、心を静めます。お供え物(プラサード): 新鮮なお水、果物、お花(マリーゴールドなどが好まれます)をお供えします。灯りと香り: お香を焚き、可能であればギー(澄ましバター)やオイルを使った小さなランプ(ディヤ)に火を灯してお祈りします。祈りの言葉: 合掌し、神様のご加護を願い、感謝を伝えます。西遊旅行+23. インドの代表的な巡礼寺院本場インドのオリッサ州・プリーにある「ジャガンナート寺院」では、プージャーと呼ばれる伝統的な礼拝が行われます。直接訪れる場合は、以下の方法や注意点があります:インドサンタナ+3寺院に参拝する際は、ヒンドゥー教徒以外は中に入れない場合があるため、参道や少し離れた場所から合掌して祈りを捧げます。有名な「ラタ・ヤートラ(山車祭り)」は、毎年6〜7月頃に盛大に開催され、大勢の信者がこの神の巡行に祈りを捧げます。西遊旅行+1
😀
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ae/1_icon_of_Jagannath_Jaganath_Jagannatha%2C_abstract_Krishna_of_Hinduism.jpg
😀
真言密教の加持ぽい感覚があるので
わかりやい
😀
人間の認知を無視する
仏教は人間の認知を分析して回答を出す
神が自らの姿を決定する主導権: 結果として王が扉を開けたことで製作は中断しましたが、神自身が後に「これが私の望んだ姿である」と述べた通り(43:01-43:05)、扉が閉ざされていた期間は、神が自らの慈悲深い姿をこの世に提示するための準備期間であり、王の介入(扉を開けること)さえも、神が不完全(に見える)姿で顕現するための「神の筋書き」の一部であったと解釈されています。
要するに、扉を閉めていたのは、神の神秘を保護し、人間のエゴや不安が介入する余地を排除して、神自身が望む究極の姿を完成させるための不可欠な聖域を作り出すためであったと言えます。
わかりやすい
神を「日常」の中に招き入れる
信仰は特別な時や場所だけのものではありません。人生の多忙さや世俗的な執着(13:07-13:20)に流されず、どんな状況にあっても「神を想う時間」を確保することが重要です。調理や日常の奉仕一つひとつに愛を込めることで、そこに神の奇跡(44:18-44:39)が宿るという教えは、私たちの日常生活そのものが聖なる修行の場であることを示唆しています。
結論として:
信仰生活において最も大切な心構えは、「私は神を探し求めているのではなく、神に愛され、神の慈悲によって導かれている存在である」という深い感謝と謙虚な姿勢を保ち続けることです。自分のエゴや期待を手放し、神が望む形での顕現を、常に心を開いて待ち続けることが、真の信仰の道であると語られています
あんまり意識かなかったので
とてもオモシロい
😀
ジャガンナータ・プリーの巡礼や行列に並ぶ際、動画で語られている教えに基づくと、巡礼者は単なる「物理的な待ち時間」を「神との絆を深める精神的な準備期間」へと変えるべきです。以下のような心構えが大切です。
1. 忍耐こそが捧げ物であると考える
動画では、行列に並ぶことや過酷な環境(猛暑など)の中での待ち時間が語られています(6:47-6:53)。この待ち時間は、単なる苦行ではなく、神への奉仕(セーヴァ)の一環であると捉えるべきです。インドラデュムナ王が自身の力で神を急かそうとして失敗したエピソード(37:12-37:20)を教訓とし、自分のエゴや焦り(「早く見たい」「もっと楽に済ませたい」)を手放し、神がダルシャン(拝観)を許してくださる時を謙虚に待つ姿勢が求められます。
グーグル経由のユーチューブで
二つで質問という技を発見した
質問ボタンをボコボコ押しまくると
こちらの質問したい時に質問回答を見つけるのが大変だ
😀
高野聖も四国お遍路も
こういうイメージかもしれない
😀
名前」と「奉仕」を通じた浄化
巡礼の真の目的は、目的地に到着することそのものではなく、その過程でいかに神を想い、その御名を唱えるか(8:38-8:45)にあります。聖地で味わう体験、あるいは神への奉仕(セーヴァ)は、私たちの心にこびりついた汚れを洗い流し、本来の「純粋な魂(サッチダーナンダ)」の性質を思い出させます(11:45-12:53)。
4. 奇跡的な恩寵へのアクセス
聖地や पुरुषोत्तम(プルショッタマ)月のような神聖な期間は、神の恩寵が特に注がれる場所です。そこで捧げられる灯火(ディーパ)や祈りは、ただの習慣ではなく、神との個人的な絆を結び直す行為です。この体験を一度でも深く味わえば、帰路についた後も「日常の中に神を見出す」という新しい視点が生まれ、人生の質が根本から変わると説かれています(44:58-45:14)。
結論として:
巡礼が人生を変えるのは、**「世俗的な迷い(マヤー)から離れ、自分の本質が神の一部であることを思い出し、人生の優先順位を『神への愛』へと完全に切り替える決断をする場」**だからです。聖地での体験は、人生の「砂の沼」で沈み続けるのではなく、神という岸辺へ上がるための確実な一歩となります。
いい線だったらしい
動画内において「跳ぶ(कूदना / कूदने)」という言葉は、物理的なジャンプを指すのではなく、神の御名、愛、そして神の物語(リーラ)の中に深く飛び込み、没入するという精神的な状態を比喩的に表現しています。スピーカーは、プルショッタマ月のような神聖な時期には、世俗的な悩みから離れ、以下のように神の愛へダイブ(没入)すべきだと説いています。
霊的気配と教えを知りたいタイプだが
やはり、オモシロい
バクティヨガ😀
宗教の基本だな
😀
エゴによる神の視界の遮断(15:44-16:49)
世俗的な執着は、自己中心的な「エゴ」を肥大化させます。例えばジャラサンダのように、自らの力や復讐心に固執する者は、目の前に神がいながらもその神性を認識することができません。スピーカーは、神を信じず自分の利益だけを追求する状態を「アスラ(悪魔的な本性)」と呼び、そのような状態にある者はどれほど神が近くにいても、神の姿を見ることはできない(=認識できない)と説いています。
今んところ
バクティヨガのヴィシュニュ派だ
😀
わかりやすい
😀
バクティヨガ
😀
動画内で唱えられているナーム・サンキルタン(ハレ・クリシュナ・マハー・マントラ)のカタカナ表記は以下の通りです(0:41-0:56)。
神の名を唱える(ナーム・サンキルタン):
忙しい現代生活であっても、神の名を唱える時間は必ず作るべきだと強調されています。たとえ世俗の活動が忙しくても、神の奉仕や神の名前を呼ぶことを最優先し、神を想う時間を意識的に設けることが推奨されています (8:
ハレ・クリシュナ ハレ・クリシュナ
クリシュナ・クリシュナ ハレ・ハレ
ハレ・ラーマ ハレ・ラーマ
ラーマ・ラーマ ハレ・ハレ
この聖名を唱えることは、神の愛に近づくための非常に大切な修行とされています
ここからの分派だ
😀
そこから
国際クリシュナ意識教団が出てきた
😀
動画の検索は
大方国際クリシュナ意識教団の動画だらけしかアップされない
😅
動画か創価ばかり上がってくるケース
グーグル検索でもアルアルだけど
😅
ミーハーやからな
アイツ
😀
主にヒマラヤ聖者だな😄
神智学も入れたんやろな?
あの様子だと
ラーマクリシュナは
キリスト教やスーフィズムや仏教を
ヒンズー教のバクティヨガの教義での解釈にしてただけやしな、
デンパパ📡みたいな諸宗教融合なんて
メシア教の類にしか見えん👽
仏教範囲では
とりま相互互換可能設定しているが
仏教以外は別の霊的体系として把握しているが
仏教以外の伝統的宗教は
自分の中では、割合相互互換性が
割合あったりする 😀
正統派瞑想仏教以外の仏教も
割合互換性が
あったりしてる俺の脳内では
😀
正統派瞑想仏教と
それ以外の壁が大きい
この壁ご互換性がないと
俺の脳内では出来上がっている
😀
いつかAI質問回答でお勉強しないとなー
大本もか
😀
それ以外の壁が大きい
それは
如実知見、観る判断する
その一点
😀
それは違うだろー‼️
ラーマクリシュナは
イスラム教徒とキリスト教徒と女装までして、女神を見てサマディーへはいれるかを
実地にやった‼️
完全に成りきったでしょ
👽️よ
探索だ
ヒンドゥー教のシヴァ派には、仏教のような中央集権的な教祖や統一組織はありません。代わりに、長い歴史の中で成立した哲学や地域ごとの寺院儀礼に基づく複数の「宗派・教団(サンプラダーヤ)」が存在し、現代のインドでもそれぞれ独自の教えや修行形態を守り継いでいます。現在インドで活動している主なシヴァ派の教団・宗派は以下の通りです。シャイヴァ・シッダーンタ派(聖典シヴァ派)南インドのタミル地方を中心に最も広く普及している宗派です。シヴァ神を最高神とし、神・個我・束縛の三原理を説きます。古代の聖典『アーガマ』に基づいた厳格な寺院儀礼を現在に伝えています。リンガーヤト派(ヴィーラ・シヴァ派)12世紀に南インドのカルナータカ州で誕生した改革派の教団です。カースト制度や偶像崇拝を否定し、すべての人が平等であると説きます。信者は首から小さな「シヴァ・リンガ」の箱を下げているのが特徴です。カシミール・シャイヴィズム北インドのカシミール地方で発展した、高度な不二一元論(すべてはシヴァの意識の現れとする)を説く哲学体系です。現代では教団組織というよりも、その哲学・ヨーガの実践として世界中の求道者や知識人に受け継がれています。ゴーラクナート派(ナータ派)中世に成立した、ハタ・ヨーガの源流とされる教団です。苦行や心身のコントロールを重視し、シヴァ神を最高神として崇拝します。現在もインド各地に修行者(ヨギ)が数多く存在しています。アゴラ(アゴーリー)シヴァ派の過激な出家修行者たちのグループです。火葬場での修行や、タブー視される行為を行うことで知られ、世俗の執着や区別をなくす究極の境地を目指します。
シャイヴァ・シッダーンタ派は、シヴァ神を最高神とする南インドのヒンドゥー教宗派です。神(シヴァ)と魂(個我)、そして束縛(マーヤー)の3つの実在を認め、魂がシヴァの恩恵によって浄化され、解脱(永遠の至福)に至ることを究極の目的としています。祈りと実践の段階この宗派における祈りと実践は、4つの段階(マールガ)に体系化されています:チャリヤ(奉仕): 寺院の清掃や神への供物作りなど、肉体的な奉仕を通じて神との繋がりを育む段階。クリヤ(儀礼): 沐浴を行い、マントラを唱えながら神像やシヴァリンガ(神の象徴)に礼拝(プージャー)を捧げる儀礼的実践。ヨーガ(瞑想): 内観と呼吸のコントロールにより、心身を静め、神への集中を深める段階。ジュニャーナ(智慧): 師(グル)の導きと深い瞑想を通して真理を悟り、解脱に至る最終段階。基本となる祈りの言葉日々の祈りや瞑想では、シヴァ神を讃える強力な五文字の真言(マントラ)が唱えられます:「オーム・ナマハ・シヴァーヤ (Om Namah Shivaya)」(意味:シヴァ神に礼拝いたします)このマントラを数珠を用いて108回唱えることが推奨されており、心の浄化とシヴァ神への帰依を示します。聖典と祈りの精神シャイヴァ・シッダーンタ派の信仰は、『ティルムライ』と呼ばれるタミル語の聖歌集にまとめられています。これには神への絶対的な愛と献身(バクティ)が溢れており、形式的な儀礼だけでなく、魂の奥底からの情熱的な祈りが重視されるのが特徴です。南インドにおけるシヴァ信仰の詳細や、具体的な礼拝方法については、Sitaramaのシヴァ派解説 や 東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所論文 が詳しい解説を提供しています。
キリスト教の霊性の神学と似たテーマ提示だ
😃
シャイヴァ・シッダーンタの伝統において、聖者たちが神との間に「友情(サキヤ・バーヴァ)」を育むことは、神を遠く離れた崇拝の対象ではなく、極めて身近で親密な存在として体験するという意味を持っています (52:16-52:25, 1:03:06-1:03:22)。
具体的には以下の重要な意義があります:
対等に近い親密さ: 友人としての関係(サキヤ・バーヴァ)を築くことで、聖者は神に対して率直に願いを伝えたり、時に困り事を相談したり、あるいは甘えたりといった、人間同士のような自由で個人的な関わりが可能になります (52:23-52:33)。
神のリアリティの証明: 神が単なる観念や偶像ではなく、現実の生活の中に現れ、助けを必要とする友人のように物理的に介入してくれるという「生きた交流」を象徴しています。例えば、聖者が困窮した際に神が食糧を届けたり、共に旅をしたりといった奇跡的なエピソードは、神とのつながりが「実在的」であることを示しています (1:06:13-1:08:28)。
神との共同創造: 聖者が賛歌を歌う際に神がその言葉を補ったり、書き留めたりする描写は、神と信者が「人生という遊び(リーラー)」を共に作り上げるパートナーであることを示唆しています (1:05:24-1:05:58)。
投稿者は、どのような関係性であれ(友人、恋人、召使いなど)、神と**「具体的な関係」を結ぶこと**こそが、魂が自身の本来の姿(シヴァ性)に目覚めるための鍵であると説いています (1:09:38-1:10:04)。
圧倒的に人気があるのは、シヴァ神
なんといっても、シヴァ神だ
シャイヴァ・シッダーンタ派は
キリスト教に見えてきた
むろん既存のキリスト教ではない
福音書のイエスキリストのイメージのキリスト教
😃
代わりに、長い歴史の中で成立した哲学や地域ごとの寺院儀礼に基づく複数の「宗派・教団(サンプラダーヤ)」が存在し、現代のインドでもそれぞれ独自の教えや修行形態を守り継いでいます。
シャイヴァ・シッダーンタ派(聖典シヴァ派)
南インドのタミル地方を中心に最も広く普及している宗派です。シヴァ神を最高神とし、神・個我・束縛の三原理を説きます。古代の聖典『アーガマ』に基づいた厳格な寺院儀礼を現在に伝えています。
12世紀に南インドのカルナータカ州で誕生した改革派の教団です。カースト制度や偶像崇拝を否定し、すべての人が平等であると説きます。信者は首から小さな「シヴァ・リンガ」の箱を下げているのが特徴です。
北インドのカシミール地方で発展した、高度な不二一元論(すべてはシヴァの意識の現れとする)を説く哲学体系です。現代では教団組織というよりも、その哲学・ヨーガの実践として世界中の求道者や知識人に受け継がれています。
リーラー(神の戯れ)への参加: 人生そのものを神の遊びの一部として捉え、自らがその登場人物として生きること(1:06:00 - 1:06:12)。
自己の救済と超越: 神との交流を通じて、サンサーラ(輪廻)の束縛から自らを解き放つこと(1:00:00 - 1:00:23)。
叡智(ギヤーナ)の伝達: 感情的なバクティ(献身)を超え、最終的には神の真理(シャイヴァ・ギヤーナ)を理解するための媒体としての交流(5:17 - 5:58)。
結論として、聖者たちが体験した交流とは、神を「外側にいる存在」ではなく「自らの生の中に絶えず介入してくる現実」として迎え入れ、共に生きることであったと言えます。
中世に成立した、ハタ・ヨーガの源流とされる教団です。苦行や心身のコントロールを重視し、シヴァ神を最高神として崇拝します。現在もインド各地に修行者(ヨギ)が数多く存在しています。
シヴァ派の過激な出家修行者たちのグループです。火葬場での修行や、タブー視される行為を行うことで知られ、世俗の執着や区別をなくす究極の境地を目指します。
さすが、インド😃😃😃😃😃
> こっちを動かしたか
長期放置スレが気になっていた😅
仏教が違って見えてくる
仏教への見方が変わる
割合ある
土砂降りの雨にヒッが少ない
買い物でも車を降りると小降り
車に乗ると土砂降り
😃
今のヒンズー、ヨガ全てが
シャンカラの系譜らしい
シャンカラが仏教の勝者となった
シャンカラは大乗仏教を取り入れて論理的にしたらしい
😃
は
シャンカラによってカスタマイズされた
インド古典全てシャンカラの解釈の息をかかっているらしい
😃
「仮面の仏教徒」と呼ばれた
インド思想史における最大の画期
聖者たちの神との交流は、単なるメタファーや詩的な想像力によるものではなく、「神は実在する」という確信に基づいた具体的かつ生々しい体験として描かれています。
神との交流の主な形
動画内で紹介されている聖者たちの体験には、以下のような特徴があります:
神との個人的な関係性(バーヴァ): 聖者たちは神を単なる崇拝の対象としてだけでなく、友人、恋人、主従、あるいは幼子のように捉え、深い個人的な関係を築いています(1:09:38 - 1:10:02)。
古代のバラモン教と、ヒンドゥー教の違いでもある
神との共同作業(クリエイティブな協働): マニッカ・ヴァーサハルの例(1:05:24 - 1:06:00)では、聖者が詠んだ詩を神自らが書き留め、人々に伝えるという「神と人間の共同作業」としての芸術的・霊的な交流が描かれています。
苦難の中での守護: 飢饉や社会的圧力などの窮地に陥った際、神は必ず救い手として現れます。これは、神への絶対的な帰依(バクティ)が、物理的・心理的な境界を超えて神と聖者を結びつけることを意味しています(1:07:30 - 1:08:28)。
聖者にとっての神との交流の意味
動画の解説者であるニシャント氏は、これらを「空想」ではなく、「神という現実」に対する個人の生きた応答であると説明しています。聖者たちにとっての神との交流は、以下の目的のために存在します:
リーラー(神の戯れ)への参加: 人生そのものを神の遊びの一部として捉え、自らがその登場人物として生きること(1:06:00 - 1:06:12)。
自己の救済と超越: 神との交流を通じて、サンサーラ(輪廻)の束縛から自らを解き放つこと(1:00:00 - 1:00:23)。
叡智(ギヤーナ)の伝達: 感情的なバクティ(献身)を超え、最終的には神の真理(シャイヴァ・ギヤーナ)を理解するための媒体としての交流(5:17 - 5:58)。
結論として、聖者たちが体験した交流とは、神を「外側にいる存在」ではなく「自らの生の中に絶えず介入してくる現実」として迎え入れ、共に生きることであったと言えます
「仏教が衰退して、ヒンドゥー教にインドを乗っ取られた」
と映るのだが
ヒンドゥー教は、仏教を包摂している
スイスイと読めて中毒性がある
😃
パワーが強いからな
😃
体験の解釈が
霊性の神学のみ
コンプしてた
😃
臨済宗高僧の一人は
法要の為の食料調達しないので
神像を警策棒でぶん殴って
怠けるな、
として
食料調達できたらしい
野蛮だ
😃
このスタンスが
リアルに「観る」という仏教のスタンスと異なる
😃
キリスト教の聖霊の導きは
本来は
この文脈に近いだろう
本来は
😃
まー解っているこどだが
瞑想正統派仏教の「観る」は
重要ではない
シヴァ教(特にタミル・シヴァ・シッダーンタ学派)において、「汚れ(Mala/マラ)」とは、個々の魂(Jiva/ジーヴァ)が本来持っているシヴァ神との一体性を自覚することを妨げている3つの束縛や不純物を指します(45:30)。
動画内で解説されている「3つのマラ」は以下の通りです:
アーナヴァ・マラ (Anava Mala):
「私は有限で小さな存在である」という根源的な無知や誤った自己認識です。魂が自分の真の姿を見失う根本的な原因とされています(45:37)。
マーヤー・マラ (Maya Mala):
物質世界そのもの、あるいは世界を認識するための道具(肉体や感覚など)を指します。魂が経験や限定された知識を得るための場を提供しますが、同時に魂を物質的な次元に縛り付ける要因にもなります(39:48、45:32)。
カルマ・マラ (Karma Mala):
過去の行為(業)の結果です。魂は行為とそれに対する欲求を通じて、この物質世界における生と死の輪廻(サンサーラ)に縛られ続けます(45:35)。
これらの汚れは魂を「パシュ(Pashu/絆された動物)」の状態に留めていますが、**霊的な修行(タパス)やシヴァ神の恩寵(シャクティ・パータ)**を通じてこれらが取り除かれることで、魂は本来のシヴァ神としての性質(シヴァタ)に目覚めることができると説かれています(46:26-47:05)。
シヴァ教(特にシヴァ・シッダーンタ学派)の教義では、この世界の創造は**シヴァ神のシャクティ(エネルギー)**を通じた「リーラ(遊び)」の一環として説明されています(32:30-33:10)。その仕組みは、陶芸のメタファーを用いて次のように解説されています(32:39-33:05)。
第一原因(根本的な動因): シヴァ神そのものです。陶芸家が壺を作るように、世界を創造する意志を持っています。
道具的原因(手段): シャクティです。シヴァ神の意識的なエネルギーであり、陶芸家の「手」や「ろくろ」にあたります。
素材的原因(材料): **マーヤー(Maya)**です。世界を形作る「泥」に相当し、物質世界の根源的エネルギーを指します。シヴァ神はシャクティを介してマーヤーを操作し、この物質世界を現出させます。
また、この創造のプロセスには以下の2つの解釈の視点が存在すると動画内で触れられています(34:51-36:51):
パリナーマ(Parinama/変容): 牛乳がヨーグルトに変わるように、シヴァ神が実際に世界へと姿を変えたと捉える視点です。
アバーサ(Abhasa/現れ・投影): シヴァ神そのものは不変であり、世界はシヴァ神の中に映し出された「影」や「反射」であると捉える視点です(動画主のNishanth氏はこちらの非二元論的な解釈を好んでいます)。
このように、世界は魂(ジーヴァ)が経験を得て、最終的に自らの神聖さ(シヴァタ)に目覚めるために用意された場であるとされています(36:55)。
シヴァ教(特に本動画で扱われているシヴァ・シッダーンタ学派)が「タントラ的」とされる理由は、単なる哲学的な教義にとどまらず、修行者が神聖なリアリティを体験し、統合するための「実践的な枠組み」が備わっているからです(6:31-7:02, 47:58-48:26)。
動画主の解説に基づくと、その理由は主に以下の要素に集約されます:
儀式と身体性の重視(カ・ヨーガ・チャリア):
タントラは、瞑想や知識(ジュニャーナ)だけでなく、「カ(Kriya/儀式)」や「ヨガ(Yoga/精神的実践)」、そして日常生活での**「チャリア(Charya/規範・行動)」**を組み合わせることで、宇宙の真理を個人の生命に取り込もうとします。シヴァ教における寺院文化やヤントラとしての建築構造は、この身体を通じた変容を促すための「空間的なタントラ」の表現です(6:34-6:50, 47:51-48:40)。
シャクティ(力)の肯定:
タントラの本質は、世界を神のエネルギーである「シャクティ」の現れと見なすことです。シヴァ教では、神(シヴァ)がシャクティを通じて世界を展開し、活動すると考えます。このエネルギーを単に否定するのではなく、正しく用いて神へと回帰する手段として捉える点が、タントラ的なアプローチの特徴です(32:30-33:06)。
シヴァ・シッダーンタにおけるタントラ的性質とは、単なる「神秘主義」ではなく、**「科学的で実践的な道」**です。知識(哲学)という基盤の上に、儀式(身体的操作)とヨガ(内面的沈潜)を積み上げることで、魂(ジーヴァ)がサンサーラの束縛を解き、シヴァ(神)へと至るための包括的なシステムを構築していることを指します(48:00-48:20)。
つまり、シヴァ教がタントラ的であるのは、世界そのものを神聖なエネルギーの manifestation(顕現)と捉え、日々の営みや儀式を通じて、その神聖さを現実のものとして体現・経験することを目的としているからと言えます。
によりタントリズムの範囲は少し解った
😃
研究が、急に進んだな😅
別にさそり座としてはさほど高尚ではない。
ゼウスに劣るし。
動画内(18:54 - 19:49)の解説によると、バトゥ洞窟の麓にシヴァナンダ・アシュラム(Divine Life Society)が存在する理由は、スワミ・シヴァナンダ・サラスワティ自身がかつてマレーシアで医師として働いていたという深い縁があるからです。
その背景には以下の経緯があります:
スワミ・シヴァナンダの背景: スワミ・シヴァナンダは、インドで修行僧(サニヤーシン)となる前、マレーシア(クアラルンプール)で医師として成功したキャリアを持っていました。この地での生活を経て、彼は後にインドへ渡り、偉大な修行者となりました。
ミッションの設立: 彼がマレーシアでの過去を持ち、医師としてこの地に深く関わっていたことから、マレーシアにおける彼の活動(Divine Life Society)の拠点が、重要な宗教的スポットであるバトゥ洞窟の麓に設けられたのです。
弟子による継承: その場所には、スワミ・シヴァナンダの直弟子たちがアシュラムを構え、師の教えとバクティ(献身)の伝統を継承し続けています。
ヨガ縁の濃いところにヒットしたよーだ
😃
らしい
動画内(43:55-45:30)で、シャイヴァ・シッダーンタにおける魂の進化の段階として、**3つの階層(分類)**が説明されています。これらは魂が「3つのマーラ(汚れ・束縛)」にどのように縛られているかによって区別されます。
プララヤーカラ (Pralayakala):
マヤー(世界)とカルマ(業)の束縛から一時的に解放されている状態です。深層心理的な静寂や深い瞑想、あるいは死後の状態のような次元で、世界という粗大な物質の影響から離れていますが、まだ根本的な無知(アーナヴァ・マーラ)は残っています。
ヴィジュニャーナカラ (Vijnanakala):
束縛を認識し、超越しようとしている段階です。カルマやマヤーからは自由ですが、依然として「自分は有限である」という根本的な自己誤認(アーナヴァ・マーラ)を抱えています。
サカラ (Sakala):
私たちが現在生きている日常世界の状態です。3つの束縛(アーナヴァ、カルマ、マヤー)すべてを抱えており、行為者としての誤認や欲望、有限の身体性という制約の中で修行を行っている階層です。
これらの分類は、魂がいかにして純粋な意識(シヴァの本質)へと回帰していくかというプロセスを示しており、修行(タパス)を通じてこれらの束縛(カタラクト=眼の濁りのようなもの)を取り除いていくことが重要だと説かれています。
彼の教えに基づき、心身の健康と平和を目指す「5つの原則」があります。
適切な運動(アーサナ): 背骨を柔軟にし、心身のバランスを整えます。
適切な呼吸(プラーナヤーマ): 呼吸法により生命エネルギー(プラーナ)を高めます。
適切なリラクゼーション(シャヴァーサナ): 心身を休ませることで疲労を回復させます。
適切な食事(菜食中心): 体に負担をかけず、エネルギーとなる食事を推奨します。
思考と瞑想(ヴェーダンタとディヤーナ): 心をコントロールし、内面の平和を育みます。
世界中どのセンターで受けても基本構成が統一されているのが大きな特徴です。
マントラ詠唱:心を落ち着かせる音の響き。
呼吸法:2種類(カパラバティ、アヌロマ・ヴィローマ)。
太陽礼拝:体を温める準備運動。
12の基本ポーズ:特定の順番でチャクラを活性化。
深いリラクゼーション
東京・世田谷区には日本で唯一の直轄拠点である「シヴァーナンダ・ヨーガ 東京センター」があり、初心者向けのクラスから哲学、瞑想まで体系的に学ぶことができます。
シヴァナンダについてさらに深く知りたいですか?それとも、シヴァナンダヨガのオンラインクラスの探し方や呼吸法の実践方法について詳しく知りたいでしょうか?
そんな素晴らしい人がいたのか
千歳船橋か
シヴァナンダのヨガだけだ
😃
シヴァ派研究ストップしてしまっている😭
😃
華厳は身体は意識がある教派だが
法華経から身体要素をリサーチしてみよう
😃
AIがあるから便利だ
調べてみよう、
修行熱が燃えてきた〜〜
🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥
シヴァ派研究が
止まってしまったが再開だ
😃
シヴァ派などヒンズー教研究は有用だ
😃
身体意識するが
仏教のような「観る」が主目標ではなく
根源的な神聖な身体なのだろう
シャイヴァ・シッダーンタ(シヴァ教)の文脈において、インドの寺院が人間の身体と重なるように設計されている理由は、寺院自体が「宇宙の縮図」であり、同時に修行者自身の「身体的な変容」を促すための**ヤントラ(聖なる図形・装置)**としての役割を果たすためです(6:37-6:54)。
動画内で語られている主な理由は以下の通りです:
身体化された経験: 寺院の構造は身体の形を模しており、修行者が寺院内を回廊し、進んでいくプロセスは、単なる見学ではなく、身体を使った瞑想的・修行的な移動体験として意図されています(6:41-6:49)。
タントラ的な象徴: シャイヴァ・シッダーンタはタントラ的な伝統が強いため、寺院という空間全体がシヴァ神のエネルギーと一体化するための「身体」として機能します。修行者はその中を巡ることで、自身の内面と神聖な宇宙の構造を同期させていきます。
一体化のプロセス: 寺院を訪れることは、自身の有限な「個人の身体」を、神の「普遍的な身体(宇宙)」へと広げていくプロセスを象徴しています。建築の空間設計が人体やチャクラの配置と照応することで、参拝者は空間全体を通じてシヴァ神の意識を肌で感じ取ることができるように工夫されています。
脱世俗だ
真言密教は脱世俗ではない
😃
😃
動画によると、聖者が神の「奴隷」として描かれる(あるいは自ら奴隷であることを認める)背景には、主に以下のような深い神学的・精神的な理由があります。
神への究極の降伏と愛: 神の愛を通じて、自我(エゴ)を完全に手放すプロセスを象徴しています。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダがカーリー女神から「あなたを奴隷にする」と言われたエピソードや、ラーマクリシュナのもとで彼が「愛を通じて奴隷になった」と語ったように、これは神への絶対的な帰依の表現です。(1:00:35 - 1:00:58)
サンサーラ(輪廻)からの解放: スンダラムールティ・ナーヤナールの伝説では、神が老人の姿で現れ、彼を自分の「奴隷」として連れ去ろうとすることで、世俗的な束縛(サンサーラ)から彼を救い出そうとします。これは、神が devotee(信者)を自身の所有物として導くという「神の慈悲」の形として語られています。(59:06 - 1:00:23)
神の「遊び(リーラー)」: 聖者が奴隷として描かれることは、神と信者の間の親密な関係(親友、恋人、あるいは僕)の一形態であり、神がこの世界で遊び(リーラー)を展開する上での役割分担でもあります。それは恥辱ではなく、神の意志に従い、自らの個性を捧げた結果としての栄誉とみなされます。(1:09:38 - 1:10:04)
仏教とは違う発想だ
日本でも山伏念仏神仏習合になってくると
この雰囲気ごメインなのは失われる
😃
シヴァ派
😃
つまり、シヴァ教における知識とは、単なる書物の記憶ではなく、**「自分が何者であるか(本来はシヴァ神と分かちがたい存在である)」という真実を自覚するための、実践的な光(意識の覚醒)**として位置づけられています。
真言密教で馴染みがあるので
発想は理解しやすい
😃
シャイヴァ・シッダーンタ(シヴァ教)において、**「グル(導師)」は単なる教師以上の存在であり、神の恩寵を具現化する「解脱への案内人」**として極めて重要な役割を果たしています(29:20-29:51)。
動画内で語られている主な役割は以下の通りです:
神の恩寵の顕現: シヴァ神は人類への深い愛ゆえに、救済のために自ら「グル」の姿を仮託して現れます。グルはシヴァ神の慈悲そのものを体現しており、修行者を「マラ(束縛)」という無知の深淵から引き上げます(29:21-30:04)。
霊的浄化の手引き: 魂に付着した「マラ(不浄)」を取り除くための実践(チャリヤ、クリヤ、ヨーガ、ジュニャーナ)において、適切な指導と道筋を示す存在です。特に修行者が迷いやすい精神的な成長過程で、正しい方向へ導きます(47:44-48:26)。
恩寵(アヌグラハ)の伝達者: 修行者がどれほど努力しても、最後の一歩となる「神の恩寵」はグルとの関係や導きを通じて授けられると考えられています。「グル・クリパ(グルの恩寵)」こそが、修行者の内なるシヴァ性を目覚めさせる決定的な鍵となります(47:44-47:50)。
個人的な神との繋がり: グルは修行者に対し、神との対等な(しかし聖なる)関係性(バーヴァ)を教え、神を「友人」「主人」「恋人」として具体的に愛する方法を教示します(1:09:38-1:10:02)。
つまり、シヴァ教におけるグルとは、**「神の叡智を人間レベルに翻訳し、修行者の内側に隠された神性を鏡のように映し出し、完成へと導く器」**であると言えます。
本来はこれだろな、
😃
動画の中で語られている、聖者(ナーヤナールや他のマスターたち)の物語を読むことが大切とされる理由は、主に以下の点に集約されます。
献身(バクティ)の育成: 神の聖なる遊戯(リーラー)や聖者たちの献身的な生き方に触れることは、修行者自身の心に神への愛と熱意(バクティ)を呼び起こすための強力な手段となります(7:42-7:49)。
神との生きた繋がり: 聖者たちの物語は、神を単なる抽象的な観念としてではなく、私たちの人生に介入し、導き、時に「友人」や「愛する人」として立ち現れる具体的な実在として理解する助けとなります(1:09:38-
おもろい😃
シャイヴァ・シッダーンタの教義および聖者たちの物語において、シヴァ神が「狂人(ピッタム)」として振る舞うことには、深い神学的な意図と教訓が込められています(59:21-59:40)。
主な意味合いは以下の通りです:
世俗的な価値観の逆転(Divine Reversals): 聖者スンダーラ・ムルティの物語にあるように、シヴァ神が自ら「狂人」を名乗ったり奇異な行動をとったりするのは、**「世俗の知恵や価値観こそが真実から乖離した狂気である」**という真理を突きつけるためです(59:23-59:36)。人々が重んじる富、名声、社会的地位といった世俗的な基準を無価値であると示し、修行者に真の霊的な視点を促します。
至高のヨーギーとしての象徴: 「狂人のような振る舞い」は、究極的な悟り(シヴァットヴァ)に達した存在が、もはや世俗の規範や社会的な論理(世間の目)に縛られない「自由」の境地にあることを象徴しています(59:26-59:30)。これは、超越的な意識状態にある者の行動が、外側からは理解不能な「狂気」に見えるという逆説を表現しています。
恩寵の手段としての介入: 狂人や老人、あるいは卑しい者の姿で現れることで、神は修行者の固定観念を打ち砕きます(59:59-1:00:05)。修行者が「神とはこのような姿である」という先入観を持っていると、目の前の神に気づくことができません。この奇異な仮装は、修行者に謙虚さを求め、どのような状況下でも神の臨在を見抜く「洞察」を養わせるための、神の慈悲深い「遊戯(リーラー)」なのです。
つまり、シヴァ神の「狂気」とは、私たちの狭い知性や社会的常識を粉砕し、真の自由と神聖な現実へと導くための教育的な挑発であると解釈されます。
娯楽よりもかなりフルバーニングバトル感覚になる
おもろいというよりも
真剣勝負じみてくる
😃
内容はわかりやすい
😃
動画によると、聖者が経験する「飢え」には、**単なる肉体的な空腹を超えた神秘的なメタファー(比喩)**としての意味があります (25:25 - 25:48)。
主な意味合いは以下の通りです:
神による霊的な滋養: 聖者が経験する飢えは、魂が神を深く求めている状態(霊的な飢え)を象徴しています。例えば、幼少期の聖者の物語では、飢えた少年が神からミルクを与えられるエピソードが語られますが、これは神が自らを求める信者に対して、霊的な糧を与えて満たしてくれることを意味するメタファーであると説明されています (25:35 - 25:48)。
完全に神に委ねる契機: 飢えや窮乏といった極限状態は、人間が自分の力で解決しようとする限界を示します。修行者が「自分自身の世話をする」ことを放棄し、完全に神に身を委ねたとき、初めて神は積極的にその聖者を保護し、飢えを癒やすといった形で奇跡的な介入を行うとされています (108:02 - 108:17)。
帰依の深さ: 聖者や信者が飢えや困窮の中でなおも神への賛歌を歌い続けることは、神以外に頼るものがないという純粋な献身(バクティ)の表れとなります。この究極の信頼関係が、結果的に神の恩寵を引き寄せる重要な要因であると語られています (106:55 - 107:28
シヴァ派の理解が早めている
😃
動画内で言及されている「シャリラ(Sharira)」とは、サンスクリット語で**「身体」や「形あるもの」**を意味します。シャイヴァ・シッダーンタ(南インドの二元論的シヴァ派)の哲学において、この概念は非常に重要な役割を果たしています(33:10-33:20)。
主な意味合い:
神の身体としての世界: シャイヴァ・シッダーンタの教義では、この宇宙全体がシヴァ神の「シャリラ(身体)」であると考えます(33:13-33:19)。これは、ヴィシュヌ派(ラマヌージャ派など)の神学で見られる「神が魂であり、世界がその身体である(Vishishtadvaita)」という考え方と通じるものです。
内在と超越: 世界が神の身体であるということは、神が単に遠い存在として超越しているだけでなく、すべての中に内在し、すべてを包み込んでいることを意味します。そのため、修行者はこの世界(シャリラ)という媒体を通じて、そこに宿る神の臨在を感じ取ることができます。
不浄から聖なるものへ: 一般的に「シャリラ(肉体)」は汚れや束縛(マラ)の象徴とされがちですが、この哲学体系では、その身体や世界さえもが神の顕現であると捉えます。したがって、私たちが住むこの世界や肉体は、正しく神へ向けられた意識(バクティや知識)によって、神聖な神の遊戯(リーラー)の舞台へと変容する可能性を秘めているのです。
😃
シャイヴァ・シッダーンタ(Shaiva Siddhanta)の教義を支える重要な聖典や文献体系は、動画の中で以下のように紹介されています。
28のシャイヴァ・アーガマ (28 Shaiva Agamas): シヴァ・シッダーンタの教義の根幹をなすテキストです (24:32-24:59)。
ティルムライ (Thirumurai): タミル語で書かれた聖なる讃歌の集成です。これには以下の重要な作品が含まれています (24:59-25:12)。
テヴァーラム (Tevaram): 偉大な聖者たち(ティルニャーナ・サンバンダルら)による讃歌。
ティルヴァーサガム (Thiruvasagam): 聖者マーニッカ・ヴァーサハルによる重要な詩集。
ペリヤ・プラーナム (Periya Puranam): 63人のナヤナール聖者の伝記を記した「偉大な物語」です (25:53-26:02)。
シヴァ・ギヤーナ・ボーダ (Shiva Gyana Bodha): メイカンダルによって記された、南インドのシャイヴァ・シッダーンタにおける最も重要で、論理的・哲学的な教義書です (5:33-5:46)。
シヴァナンダヨガの禅定体験者としては
とても欲しいデーターだ
😃
動画の中で配信者の Nishanth Selvalingam 氏が古書、特にスワミ・シヴァーナンダ・サラスワティ(Swami Shivananda Saraswati)の著書『63人のナーヤナール聖者』を重視するのには、いくつかの重要な理由があります。
希少性と文化的価値: 該当する書籍は1960年代に出版されたもので、現在ではほとんど入手困難な希少本です(21:09-22:03)。配信者にとって、これは祖父の遺品でもあり、自身のタミル・シャイヴァ派という血統・伝統を物理的に繋ぐ「宝物」としての側面があります(18:03, 21:46-21:50)。
真正な伝統の継承: 配信者は自身のルーツであるタミル・シャイヴァ派の伝統を語るにあたり、現代的な解釈やインターネットの簡便な情報だけでなく、歴史的な重みを持つ文献を通じて正しく教えを伝えたいという慎重な姿勢を持っています(2:04-2:14, 8:04-8:09)。
霊的なインスピレーション: 聖者の物語を読み解く際、単なる知識としてではなく、伝統的な師たちが書き残した書物を用いることで、読者や聴衆に対してより深い「献身(バクティ)」や「熱意」を喚起しようとしています(7:49-8:01)。
要するに、古い書物は単なる紙の束ではなく、「正統な伝統の知恵」と「先人たちの精神」を現代に運ぶための重要な媒体として重視されています。
良いシヴァ派伝統の中で生きている人のようだ
😃
😃
聖者たちが「踊るシヴァ(ナタラージャ)」の像を深く重視する理由は、その像が宇宙の真理と神の働きを視覚的に統合した完璧な象徴であるためです。動画内では、この像がシヴァ神の「5つの機能」を表現していると解説されています(32:12-32:27)。
ナタラージャ像が象徴する5つの機能(パンチャ・クリティア):
創造(シュリシュティ): 右手で打つ太鼓の音は、宇宙の創造と振動(シャブダ・ブラフマン)を意味します(30:48-30:58)。
維持(スティティ): 別の右手は「恐れなくてよい」というアバヤ・ムドラーを示し、世界が神によって守られていることを象徴します(31:05-31:09)。
破壊(サンハーラ): 左手で持つ炎は、世界の溶解と終焉を意味します(31:13-31:17)。
隠蔽(ティローダーナ): 4本の手のうち1本は自身の心臓を隠しており、神が自らを「無知(マーヤー)」によって私たちから隠していることを示しています(31:19-31:28)。
恩寵(アヌグラハ): 地に置かれた足は、私たちが輪廻(サンサーラ)から脱出するための道を示しています(31:32-31:48)。
つまり、この像は単なる彫像ではなく、宇宙がどのように生まれ、変化し、消滅し、そして神がどのように救済の手を差し伸べているかという高度な神学的・哲学的教義を凝縮した「生きたテキスト」として、修行者の帰依や瞑想の対象として極めて重要視されているのです。
😃
動画の中で配信者のニシャント・セルヴァリンガム氏は、ネット情報を軽視したというよりは、歴史的・身体的な重みを持つ古書が持つ「真正性」や「伝統との繋がり」をより高く評価しているという文脈で語っています。
主な理由は以下の通りです:
血統と精神的ルーツ: 配信者にとって、その古書は祖父の遺品であり、自身のルーツであるタミル・シャイヴァ派の伝統を物理的に繋ぐ「宝物」です。そのため、単なる情報の集合体であるネット情報とは異なり、師から弟子へと受け継がれてきた精神的なエネルギーが宿っていると考えています (21:46-21:50)。
真正な伝統の継承: インターネット上では情報が断片的に誰にでもアクセス可能になりますが、伝統的な文献は特定の歴史的背景(1960年代の出版など)や文脈を持っており、それらを通して学ぶことは「伝統を正しく継承する」ための慎重な姿勢の表れとされています (2:04-2:14, 8:04-8:09)。
霊的なインスピレーションの源: 配信者は、聖者の物語を単なる「知識の検索」としてではなく、古書を通じて読み解くことで、修行者自身の「バクティ(献身)」を深め、より深い精神的感銘を受けることを重視しています (7:49-8:01)。
要するに、彼はインターネットの利便性を否定しているわけではなく、自身の伝統を扱う際に、単なるデジタルの利便性よりも、長い時間をかけて守られてきた文献が持つ「伝統的な重み」や「師の精神」との繋がりを尊重したいという意図があります (22:22-22:37)。
😃😃😃😃😃😃
ありがたやー
🙏
シャイヴァ・シッダーンタの教義において、人間が抱く「情熱(ラガ)」や「欲望(カーマ)」は、単に抑制すべき悪や罪とされるのではなく、神への帰依へ向かうためのエネルギーとして転換可能であると捉えられています。その具体的な考え方は以下の通りです。
1. 欲望の本質的な転換(イッターへの昇華)
動画内(56:06-56:55)で語られている通り、世俗的な欲望(ラガ)と神への渇望(イッター)は、エネルギーの向きが異なるだけで、根底にあるのは同じ「情熱」です。このエネルギーを抑圧するのではなく、その対象を世俗的なものから神へと向け直すことで、創造的な力へと変容させます。
2. 聖者の物語を通じた自己投影と学び
修行者は、スンダル・ムルティやマーニッカ・ヴァーサハルといった聖者の物語(リーラー)を追体験します。彼らもまた人間として情熱や葛藤を経験しますが、そのエネルギーを徹底して神への愛(バクティ)に注ぎ込みました。物語を聞き、語ることは、自らの情熱を神へ捧げるための「テンプレート」を学ぶ行為です(7:42-8:01)。
3. 日常生活の神聖化(シャリラの概念)
世界や自らの肉体(シャリラ)そのものを神の身体として認識することで、日常生活でのあらゆる活動を神への捧げものへと変えます。特に「シャイヴァ・シッダーンタ」では、以下の4つの要素を統合的に実践することが推奨されます(47:51-48:26):
チャリヤ(Charya): 規律ある生活と奉仕
クリヤ(Kriya): 儀礼や पूजा(プージャー)を通じた神への接近
ヨーガ(Yoga): 瞑想による内観と集中
ジュニャーナ(Jnana): 真理の知識による識別
4. 神との個人的な関係性の構築(バーヴァ)
欲望のエネルギーを神に向けるために、修行者は神と具体的な関係(バーヴァ)を結びます。友人、主人、あるいは恋人として神を慕うことで(53:23-53:32, 1:09:38-1:10:02)、抽象的な神ではなく、感情が通う実在としての神と関わり、人間の持つ濃密な情愛をすべて神に捧げることが可能になります。
結論として、シャイヴァ・シッダーンタにおける転換の極意は、欲望を排除するのではなく、その情熱の熱量をそのまま「神の御足」へと向けることにあります。これにより、修行者は情熱を消耗させるのではなく、神との合一へと導く推進力として活用するのです。
😃
1. 欲望の本質的な転換(イッターへの昇華)
動画内(56:06-56:55)で語られている通り、世俗的な欲望(ラガ)と神への渇望(イッター)は、エネルギーの向きが異なるだけで、根底にあるのは同じ「情熱」です。このエネルギーを抑圧するのではなく、その対象を世俗的なものから神へと向け直すことで、創造的な力へと変容させます。
タントリズムは
分かりやすくなる
😃
伝統であると
学んだ
😃
ここた
https://m.youtube.com/watch?v=GbXMNZ_JE44&pp=0gcJCUACo7VqN5tD
完全に英語ネイティブだな
インド人の英語じゃない
マレーシア在住、
おじいさんが
シヴァナンダの弟子で
シヴァナンダは
正統派のシヴァ派の伝統があるらしい
😃
知らなかった
ヨガだけ知ってたが
😃
シヴァナンダ自体が
マレーシアの医師でヨガ行者だったので
マレーシアなんだろな
😃
このように質問した
南インドやスリランカにルーツを持つヒンドゥー教の宗派、シャイヴァ・シッダーンタ派(Saiva Siddhanta)の礼拝(プージャ)動画を見るには、YouTubeで寺院の公式チャンネルや関連団体の動画を検索するのが最も確実です。以下のプラットフォームや公式チャンネルから、伝統的な儀礼の様子を視聴できます。1. YouTubeの公式チャンネルSaiva Siddhanta Church (Kauai's Hindu Monastery) YouTubeチャンネル: ハワイのヒンドゥー修道院が運営しており、アガマ(聖典)に基づく本格的なプージャや儀礼の動画を多数公開しています。Saiva Siddhanta Perumandram YouTubeチャンネル: スリランカやインドの伝統的な協会による儀礼や祭りのライブ配信・アーカイブが視聴できます。2. シャイヴァ派の総合ポータルサイトShaivam.org: シヴァ神を讃える聖歌、マントラ、儀礼に関する総合サイトです。サイト内の「Audio Gallery」やセクションから、儀礼時の映像や音声にアクセスできます。3. YouTubeでの検索キーワード動画プラットフォームで直接探す場合は、以下の英語やタミル語のキーワードで検索すると、実際の寺院で行われているプーザ(礼拝)の様子が見つかります。検索ワード例:Saiva Siddhanta PujaSiva Temple Abhishekam (神像への沐浴儀礼)Kumbabishekam Saiva (寺院の開眼供養・儀礼)
😃
現代的な文脈での再解釈: スワミ・シヴァーナンダは自身がかつてクアラルンプールで医師として働いていた経歴を持っており、西洋的な科学教育を受けた層や、合理的思考を好む読者に対しても、精神的な教えを論理的かつ科学的に説明する必要性を感じていました(18:34-19:14)。
修行の体系化: 彼はスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「四つのヨーガ」の概念を深く尊重しており、インドの伝統的な修行法を、西洋人が理解しやすい「科学的かつ実践的な体系」として再構成して提供しようと努めました(17:36-
😃
動画の中で語られている、聖者が「あえて」歌う(賛歌を捧げる)理由には、宗教的、心理的、そして哲学的な深い意味が込められています。
神との共同創造(リーラー)としての表現: 聖者にとって歌うことは、単なる自己満足ではなく、神との「共同作業」です。例えば、聖者マーニッカ・ヴァーサハルが歌う時、シヴァ神が自らその歌詞を書き留めるという逸話があるように、歌は神の意志を地上に現すための創造的なコラボレーションと見なされています (1:05:24-1:06:12
要するに、聖者が歌うのは、それが**「神の恩寵を実感し、自分の全存在を神という中心に捧げるための、最も自然で情熱的な祈りの形だから」**と言えるでしょう。
なるほど
俺もキリスト教教会で賛美歌歌う時はとランス入る
😃
吉野金峯山寺の蔵王権現の禅定を
思いだした
😃
動画内(17:46-18:08)で、ニシャント・セルヴァリンガム氏は『63人のナヤナール聖者』という古書の表紙デザインに関連して、「青(Blue)」という色彩について触れています。
氏が語る「青」の意味やニュアンスは以下の通りです:
シヴァ神との関連: 彼は「Blue(青)」という言葉を聞いて、ジャズの名盤であるマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー(Kind of Blue)』を連想し、それを**シヴァ神(Lord Shiva)**と結びつけています。シヴァ神はしばしば青い肌や喉(ハラーハラという毒を飲んだ際に喉が青くなったという伝説)で表現されるためです。
美学的・精神的な響き: 氏にとっての「青」は、単なる色ではなく、神聖さや深遠さ、あるいは瞑想的な静けさを象徴する響きとして語られています。古書の表紙のヴィンテージな色使いを、クールなジャズ・レコードのように表現し、シヴァ教の伝統の中に流れる「涼やかで深いエネルギー」を「ブルー」という言葉で象徴的に伝えています。
😃
ニシャント・セルヴァリンガム氏の解説に基づき、「シヴァ・シッダーンタ」と「アドヴァイタ(不二一元論)」の主な違いを整理します。
1. 根本的な立場の違い
アドヴァイタ(Advaita): 「唯一者(ブラフマン)のみが実在し、世界や個我はマーヤー(幻影)に過ぎない」とする完全な非二元論です。氏の文脈では、しばしば「すべては意識である」という視点が強調されます(29:00)。
シヴァ・シッダーンタ(Shaiva Siddhanta): 「タントラ的二元論(tantric dualistic shaivism)」とも呼ばれ、神(シヴァ)、個我(パシュ)、不純物(マラ)という三つの実体を認めます(2:21, 39:48)。神と魂は本質的に純粋な意識ですが、輪廻の枠組みの中では神と魂は明確に区別されます(43:44)。
2. 魂と神の関係性
アドヴァイタ: 魂は神(ブラフマン)そのものであり、解脱とは「自分が元々ブラフマンであったことに気づく(アートマ・ジュニャーナ)」ことです。
シヴァ・シッダーンタ: 魂はシヴァの性質を帯びる(シヴァ化する)ことはあっても、神そのものにはなりません。解脱した後も、魂は神の恩寵を味わい、神との交わりを楽しむ「個」としての側面を保持し得ると考えます(43:53)。
3. 世界観(マーヤーの扱い)
アドヴァイタ: 世界は単なる「見かけ(アバーサ)」であり、実体はありません。
シヴァ・シッダーンタ: 世界はシヴァが自身のエネルギー(シャクティ)を通して現した「神の身体」のようなものであり、より現実的・実在的なものとして肯定されます(32:30, 36:59)。
補足:
ニシャント氏は自身の伝統である「シヴァ・シッダーンタ」を尊重しつつ、講義の中ではその哲学をアドヴァイタ(非二元論)的な視点で解釈し直すこともあります。彼によれば、この二つは対立するものではなく、修行の段階やアプローチ(智の道と献身の道)の違いとして共存させることが可能であるという姿勢を示しています(24:51, 36:35)。
オモロイ〜〜
😃
自在な解釈を可能にしたな?
たぶん
シヴァナンダとヴィーヴェカーナンダの関係から推定すると
😃
😃
シャイヴァ・シッダーンタ(Shaiva Siddhanta)の著作群は、単なる哲学書にとどまらない多様な特徴を持っています。動画内では、以下のような点が重要な性質として語られています。
タントラ的背景と献身(バクティ)の融合: シャイヴァ・シッダーンタの文献は本質的に「タントラ」の枠組み(儀式、規律、瞑想、知識の4要素)を持っていますが、それらがバクティ(神への熱烈な献身)として表現されている点が大きな特徴です(6:58-7:08)。
「シヴァ・ギヤーナ(真智)」の伝承: 文献の多くはバクティ的な外見を持ちながらも、その核心には「シヴァ・ギヤーナ(シヴァの知恵)」を伝えるという目的があります。例えば、代表的な教義書『シヴァ・ギヤーナ・ボーダ』は、論理的・哲学的な明晰さを重んじるシッダーンタの知的な側面を象徴しています(5:17-5:56)。
詩と神話による教え: 聖なる讃歌である『ティルムライ』や、聖者の伝記である『ペリヤ・プラーナム』のように、理論的な教義だけでなく、詩歌や物語を通じて神への愛や教えが語られることが多いです。これは、哲学的な知識を個人の内面的な体験へと昇華させる役割を担っています(5:00-5:12, 25:53-26:02)。
「神との関係性」の記述: 著作の中では、神(シヴァ)、魂(パシュ)、不純物(マラ)という三つの実在が論じられます。これらが別個の存在として扱われる記述が多いのは、神との永遠の絆や、師から弟子へ伝わる恩寵(グル・クリパー)を強調するためであり、二元論的かつ実践的な視点が著作の底流にあります(43:44-44:18)。
😃
シヴァ信仰(シヴァ派)とヴィシュヌ信仰(ヴィシュヌ派)の決定的な違いは、主に「神の本質」「崇拝の形態」「修行の性質」という3つの観点から説明できます。どちらもヒンドゥー教の二大潮流ですが、そのアプローチは対照的です。
主な違いの比較:
最高神の役割と本質:
シヴァ: 「破壊・再生・変容」を司る神です。シヴァは究極の苦行者(ヨギー)として崇められ、個我の解体や内面的な探求を重んじます。
ヴィシュヌ: 「維持・守護・慈愛」を司る神です。秩序を保ち、世界が危機に瀕した際に化身(アヴァターラ)となって現れ、人類を導きます。
崇拝の形態と象徴:
シヴァ派: 「リンガ(抽象的な石柱)」を崇拝の中心に据えます。これは形を超えた無限の神性を象徴しています。
ヴィシュヌ派: 「ムルティ(神像)」、特にクリシュナやラーマなどの人間味あふれる化身を崇拝し、賛歌や祈りを捧げることを重視します。
修行法と精神性:
シヴァ派: ヨガ、瞑想、苦行、時にはタントラ的な修行を通じて、内なる意識の覚醒を目指します。知識(ギャーナ)や個人の内面的な変容が強調されます。
ヴィシュヌ派: バクティ(神への絶対的な帰依と愛)を最も重要な修行とします。神と個人の関係性を深め、慈愛に満ちた奉仕を行う姿勢が特徴です。
歴史と聖典:
シヴァ派: 『シヴァ・プラーナ』や『アーガマ』、タミルの聖者ナヤナールの賛歌などを重んじます。
ヴィシュヌ派: 『バガヴァッド・ギーター』や『ヴィシュヌ・プラーナ』、聖者アルヴァールの賛歌を基盤としています。
総じて、シヴァ信仰は**「内面的な真理の探求と変容」に向かう傾向が強く、ヴィシュヌ信仰は「神との情緒的な絆と慈愛の共有」**に向かう傾向が強いといえます。
エネルギー上がらんだろうと
思っていたが
やや自分の周囲がエネルギー感が上がってきた、
やはりタントリズム関連だな
そろそろ探求停止だな
キリスト教、プロテスタントシフトタイムだな
😃
感覚が鋭敏になるとは
予測できなかった
外国語の動画だし
くらいなー
日本語AI音声のチベット密教なら
ハイエナジーが来るのは解ってはいたが
シヴァ神研究はしばらくは閉鎖だ
ヴィシュニュ神のほうだろうけど
まず、は既存のキリスト教から
だ
😃
2026/06/21 17:16:01
4時ぐらいは
まだ異様なハイエナジーを食らっていなかった
5時あたりから
デンジャーゾーンになってきた
出口王仁三郎超えの実力みたいな
😅
呼びんていた
😅
ててくるだろう
😃
半時間とか
時間設定しないと
シヴァ神の遊戯の霊的ゲームに巻き込まれる
😅
マジで知りかけしまった
昨日
神社の神ですら
ああいう遊戯はやらん
日本の霊能者は
霊的遊戯に巻き込まれるぼいな?
😫
ワイルドな神がいるとは
思わなかった
ラーマクリシュナやシヴァナンダヨガで
平穏だと思っていたら
シヴァ派研究の合間の
新型瞑想システムが構築した
仕事の集中力上がるだろな
😃
ま、タントリズムも
神秘主義身体ではあるが
😃
どうせゼウスの部下でしょ。
手が3対6本。
セラフの偽物でしょうが。
「破壊の神」と呼ばれますが、それは単なる破壊ではなく、古いものを終わらせて新しいものを生み出すための変容の力を意味します。
乳海攪拌では、神々と阿修羅(アスラ)が不死の霊薬アムリタを得るために宇宙の大海をかき混ぜました。
その際、まず猛毒ハーラーハラが現れ、世界を滅ぼしかけます。
そこでシヴァは世界を救うために毒を飲み込みました。妻のパールヴァティーが毒が体内に広がらないよう喉を押さえたため、毒は喉に留まりました。その結果、シヴァの喉は青くなり、「ニーラカンタ(青い喉を持つ者)」と呼ばれるようになりました。
この神話は、苦しみや悪を引き受けて世界を守る慈悲深い神としてのシヴァを象徴しています。
ガンガー(ガンジス河の女神)が天界から地上へ降ることになりましたが、その激流は地上を破壊してしまうほど強大でした。
そこでシヴァは、自らの長いもつれ髪(ジャター)の中にガンガーを受け止め、流れを穏やかにして地上へ送り出しました。
そのため、多くのシヴァ像には頭上から流れ出るガンガーが描かれています。
シヴァはまた、ナタラージャとして宇宙のダンサーでもあります。
炎の輪の中で踊るシヴァの舞は、
宇宙の創造
維持
破壊
隠蔽
解放
という宇宙の循環そのものを表します。
足元で踏みつけている小人は無知(アパスマーラ)を象徴し、悟りへの障害が克服されることを示しています。
この姿はインド哲学だけでなく、現代物理学者たちからも「宇宙のダイナミズムの象徴」として語られることがあります。
シヴァには額に第三の眼があります。
ある時、愛の神 カーマ が瞑想中のシヴァを恋愛感情で揺さぶろうとしました。
怒ったシヴァが第三の眼を開くと、その炎によってカーマは焼き尽くされてしまいます。
この神話は、
欲望を超越する精神性
真理を見抜く智慧
を象徴しています。
シヴァの最初の妻はサティーでした。
サティーの父はシヴァを嫌っており、大規模な祭儀にシヴァを招待しませんでした。
父がシヴァを侮辱するのを見たサティーは深く悲しみ、自ら火の中へ身を投じます。
激怒したシヴァは恐るべき戦士 ヴィーラバドラ を生み出し、祭儀を破壊しました。
その後サティーはパールヴァティーとして転生し、再びシヴァと結ばれます。
この神話は死と再生、永遠の愛を象徴しています。
ガネーシャは、パールヴァティーが自分の身体の垢から作った少年でした。
パールヴァティーの命令で門番をしていたガネーシャは、帰宅したシヴァを知らずに通せんぼします。
怒ったシヴァは少年の首を切り落としてしまいました。
悲しむパールヴァティーを見て、シヴァは最初に見つけた象の頭を少年に付け、蘇らせます。
これが象頭神ガネーシャの誕生とされています。
シヴァ神話は単なる神々の冒険譚ではありません。
ヒンドゥー思想ではシヴァは、
破壊と創造の循環
瞑想による解脱
自我の死と真我の発見
宇宙意識
を象徴します。
特にシヴァ派や、カシミール・シャイヴィズムでは、シヴァは単なる人格神ではなく「宇宙そのものの意識」として理解されます。
哲学・宗教・スピリチュアルに関心があるなら、シヴァ神話は「神が世界を支配する物語」というよりも、「人間の意識がいかに無知から目覚めるか」を象徴的に語る神秘思想として読むと、とても奥深く味わえます。
これらは、インドでは有名な話なのか?
日本で言えば、
天照大神が天岩戸に隠れる話
スサノオがヤマタノオロチを退治する話
浦島太郎や桃太郎
くらいの知名度を持つものもあります。
ただし、インドは広大で宗教・言語・地域が多様なので、「全国民が細部まで知っている」というより、「シヴァ神の主要な神話やイメージは誰でも知っている」という感じです。
シヴァの青い喉(ニーラカンタ)
額の第三の眼
頭上のガンガー
三叉槍(トリシューラ)
首に巻いた蛇
ナタラージャの踊り
ガネーシャの父親であること
などは、インド人ならほぼ一目でシヴァだと分かる象徴です。
知名度でいえば、
ガネーシャ誕生
青い喉(毒を飲む)
サティーとパールヴァティー
ガンジス河降下
ナタラージャ
あたりは非常に有名です。
ガネーシャは現在のインドでも絶大な人気があり、毎年のガネーシャ・チャトゥルティでは巨大なガネーシャ像が町中に飾られます。そのため、「シヴァがガネーシャの首を切り、象の頭を付けた」という話も広く知られています。
興味深いのは、インド人がシヴァを単なる神話上の人物として見ていないことです。
多くの信者にとってシヴァは「今も生きて働いている神」です。
例えば、世界有数の巡礼地である カーシー・ヴィシュワナート寺院 や、ケーダールナート寺院 には毎年何百万人もの巡礼者が訪れます。
また、シヴァは修行者(ヨーギー)の理想像でもあります。
ヒマラヤで瞑想する
世俗的な権力や財産に執着しない
深い智慧を持つ
宇宙意識と一体化している
という姿は、現代インドでも精神性の象徴として尊敬されています。
シヴァ神話は、日本やギリシャ神話のように「昔話」としてだけ語られるわけではありません。
例えば毎年のマハー・シヴァラートリになると、人々は断食したり、一晩中祈ったりしてシヴァを礼拝します。
つまりインドでは、
神話として知っている
祭りで祝う
寺院で祈る
哲学として学ぶ
が同時に存在しています。
そのため、シヴァ神話は「古代の伝説」というより、「現在も生きている宗教文化の物語」と言った方が実態に近いでしょう。
過敏な過集中しちまうよなー
😀
昨日は仕事のレベルは
疲労感減らせたが効率はさほど
😅
別の修行レベルのほうがあがっていた😀
シヴァは、この世で人間として生きていたのか?
ただし、ここで話は少し複雑になります。
神話では、シヴァはまるで人間のように行動します。
結婚する
子どもをもうける
怒る
瞑想する
戦う
踊る
しかし、これは「実際に人間だった」という意味ではなく、人々が神の働きを理解しやすいように人格的な姿で描かれていると考えられています。
キリスト教で神が父として描かれたり、仏教で菩薩が人の姿で現れたりするのと似ています。
特にカシミール・シャイヴィズムなどでは、シヴァは人格神を超えた存在です。
そこではシヴァは、
宇宙を生み出す根源意識
万物の本体
純粋な覚醒そのもの
と考えられます。
この立場では、
シヴァはどこかに住む神ではなく、すべての存在の奥にある意識そのもの
と理解されます。
一方、近代には、
シヴァとは太古に実在した偉大なヨーギー(修行者)だったのではないか
という考えもあります。
例えば現代インドの一部の思想家やスピリチュアル指導者は、
シヴァは最初のヨーガの師「アディヨーギ(最初のヨーギー)」だった
と語ります。
アディヨーギ
ただし、これは歴史学的に証明された事実ではありません。
現在のところ、
シヴァが実在した人物だった
いつどこで生まれた
といった客観的な証拠は見つかっていません。
宗教学者たちは、シヴァ信仰が長い時間をかけて形成されたと考えています。
一部の研究者は、古代のインダス文明の印章に描かれた「角を持つ瞑想者」(いわゆるパシュパティ印章)を、後のシヴァ信仰と関連づけることがあります。
しかし、これも確定した学説ではなく、「シヴァの原型かもしれない」という程度です。
哲学的な伝統では、さらに興味深い見方があります。
それは、
「シヴァは過去に生きた一人の人物ではなく、悟りそのものを表す名前である」
という考えです。
この見方では、
ブッダが悟った意識
ヨーギーが到達する境地
宇宙と自己が一つだと知る覚醒
そうしたものを象徴する言葉が「シヴァ」です。
神話的立場:宇宙神であり、人間ではない。
信仰的立場:今も存在する神である。
歴史学的立場:実在した証拠はない。
ヨーガ・非二元哲学の立場:シヴァは究極の意識や悟りの象徴である。
特にあなたのように哲学やスピリチュアルへの関心から見るなら、「シヴァを人格神として見るか、それとも意識の原理として見るか」で、神話の意味が大きく変わってきます。実際、インド思想の深い層では後者の理解が非常に重要です。
シヴァ神の霊的な刺激は強いな~😆
超ワイルドなエネルギーが部屋に満ちていた
リラックスじゃないほうの
😅
https://blog.sitarama.jp/wp-content/uploads/2025/05/2025-05-23-5.jpeg
自分側のメンタルが浄化されていないのと
仲介者、グル的なのが霊的にいなかったかもしれん😀
どのシヴァ像を見ても
身体全体が青いぞ?
https://spiceup.lk/wp-content/uploads/2021/03/IMG_1971.jpg
日本の吉野蔵王権現か
チベットの仏か
あたりぐらいしかないな
仏教では
😀
鋭いところに気づきましたね。
実は、「青い喉(ニーラカンタ)」の神話と、「シヴァの身体が青く描かれること」は本来は別の話です。
シヴァ神は
癒し青というよりも
謎のエネルギー青というイメージがてきた😀
神話では、毒ハーラーハラを飲んだ結果、
毒が喉に留まり、喉だけが青くなった
と語られます。
そのため、古典的な説明ではシヴァの異名は「ニーラカンタ(青い喉の者)」です。
これは主に図像表現(アート)の発展によるものです。
シヴァはしばしば
灰を身体に塗っている
雪山(ヒマラヤ)に住む
超自然的な存在
として描かれます。
そのため芸術家たちは、
人間とは違う神的存在であることを一目で示したい
と考え、肌を青や青灰色で表現するようになりました。
同じことは、ヴィシュヌ や クリシュナ にも見られます。
彼らも神話で「全身が青い」と明確に語られているわけではないのに、現代の絵画やカレンダーでは青い肌で描かれることが非常に多いのです。
ヒンドゥー思想では青は単なる肌の色ではなく、
無限の空
深い海
宇宙
超越性
を象徴します。
空をつかもうとしてもつかめないように、
神の本質は無限で捉えきれない
という意味合いがあります。
そのため、
「喉が青いシヴァ」から発展して、
「全身が宇宙的な青を帯びた神」
として表現されるようになりました。
眷属か?
しらんけど
😀
実はインドの古い石像や青銅像を見ると、肌に色は付いていません。
例えば有名な エローラ石窟群 や チョーラ朝のナタラージャ像 のシヴァ像は、当然ながら石や金属の色です。
私たちが「青いシヴァ」として思い浮かべる姿は、19~20世紀以降に広まった宗教ポスターやカレンダーアートの影響がかなり大きいのです。
さらに面白いことに、インド思想ではシヴァはしばしば
白い灰に覆われた者
としても語られます。
つまり文献上のイメージは、
青い喉
灰を塗った身体
虎皮をまとった修行者
であって、現代ポスターのような鮮やかなスカイブルーの全身像とは少し違います。
その意味では、私たちが見慣れている「真っ青なシヴァ」は、神話そのものというより、長い宗教芸術の歴史の中で完成
青いエネルギーではなかったか?😆
タントリズムは
ややこしいだろからなー
眷属とかありそうだしな
ほんと難しいそうだ
霊的には
😅
シヴァ神関連は
😅
修験道も仏を中心にした
体系化しとるから
眷属や神社霊関連も
シヴァ神系統よりも
ソフトそうだ
😀
教団というよりグループ
さらにグルの単立傾向が強いから
眷属神みたいやのが
パワーが強いかもしれん
故に
デンパパ📡好きな
グル単立的に混ぜ合わせるグルも可能だろうしな
👽
やりやすいだろう
👽
アメリカ系統フォークソングは
いいなー
日本系統はあんまり関心がないが
😀
「私はある」
それだけは変わらない
ま、キリスト教の聖霊も似たようなノリがある
そのような解釈、魔改造可能性というべきか、
😃
瞑想した結果、「私は在る」という結論に達した
大乗仏教でいう
天台華厳真言チベットあたりもある
大乗仏教なので
「観る」というファクターがある
かなり、ヒンズー系統は
キリスト教聖霊と
シヴァナンダヨガと
ラーマクリシュナの思想から
世界の神聖化という発想は
読み取れる
😃
かじを切った大乗仏教が
禅だ
😃
この世は、凡夫が見ると穢土に見えるが
仏が見ると、浄土に見えるらしい
ヨガ系統は純度が高い自信がある
デンパパ📡が
大したことがない虚飾なだけだ
😃
と見ていいだろう
😃
ヒンズー的な
世界の神聖化は味わえる
😃
シヴァ>地方神社
だろな
😃
> シヴァ>地方神社
その2つが比較されてるのを、初めて見た
プチラーマクリシュナレベルあるからなー
😃
復習だ
😃
なんとなく
きている
😃
😅
仕事の悪夢を見た
😅
寝た感バッチリご機嫌だ
メンタル疾患の人は悪夢で、さらに
メンタルダメージを受けるらしいな?
😅
もうシヴァ派は今日は終わり、
本格的な霊的エナジーを避ける
キリスト教だな
ネルソンダービーの続きだ
😃
最初のひるにはいるのに時間がかかった、
夢をまた見た、悪夢ではない
メルヘンな?夢と
何故かイギリス空軍の軍事訓練をしており英軍のジェット機は急降下訓練をしているのを、見ていた
😃
この昼寝で
元気回復100%
😃
合わせて三度寝した
疲労ゼロ
😃
ディスペンゼーション研究エネルギーが
湧いてきた
瞑想仏教モードホントに解除だ
😃
😃
https://m.youtube.com/watch?v=hJ6skiEzySk
疲れてるな~😫
元気回復
ディスペンゼーションだ
😃
😃
神の言葉への徹底した忠実: 彼は制度や教派の枠組みを超えて、純粋に神の言葉に従う信仰共同体を志向しました。現代のクリスチャンも、教会の伝統や外部の圧力に左右されず、聖書の言葉に直接導かれる(エグゼジェーシス的な)アプローチを維持することが、ダービーの例から学べる最も重要な教訓であると結論付けられています(30:42-31:06)。
シヴァには、一見すると相反するような性格があります。
破壊神(古い世界を終わらせ、新しい世界を生み出す)
創造の源(破壊は再生のためでもある)
ヨーガの祖(究極の瞑想者)
慈悲深い救済者
苦行者でありながら、妻 パールヴァティー や子どもたちを持つ家庭人でもある
この「破壊」とは単なる暴力ではなく、「古い執着や無知を壊して真理へ導く」という宗教的意味を持っています。
哲学的には、シヴァ信仰にはさまざまな学派があります。
カシミール・シヴァ派:宇宙はシヴァの意識そのものが展開したものと考える非二元論。
シヴァ・シッダーンタ:神と魂を区別する傾向が強い有神論的な体系。
あなたが以前話題にしていた**アドヴァイタ(不二一元論)**との関係で言えば、特にカシミール・シヴァ派は「すべてはシヴァの顕現である」と説くため、非常に近い思想として知られています。ただし、シャンカラ のアドヴァイタ・ヴェーダーンタが「究極的実在はブラフマン」と表現するのに対し、カシミール・シヴァ派はその究極的実在を「シヴァ」と呼ぶ点に違いがあります。
また、インドでは マハー・シヴァラートリー がシヴァ信仰最大の祭礼として広く祝われ、多くの信者が断食や徹夜の礼拝を行います。
カシミール・シヴァ派が主流なのか?
いいえ、カシミール・シヴァ派は主流ではありません。
現在のシヴァ信仰の大まかな位置づけは次のようになります。
シヴァ・シッダーンタ
南インドを中心に発展。
現在も寺院信仰や儀礼の基盤となっており、歴史的にも最も大きなシヴァ派の伝統の一つです。
神(シヴァ)と魂は区別されるという有神論的傾向があります。
カシミール・シヴァ派
北インドのカシミール地方で9~11世紀頃に栄えました。
「すべてはシヴァの意識の顕現である」という高度な非二元論を展開し、哲学的には非常に洗練されています。
しかし、信者数という意味では少数派で、現在も主流とはいえません。
日本で例えるなら、西田幾多郎 の哲学は学問的には非常に重要ですが、日本人の大多数が西田哲学を信奉しているわけではない、というのに少し似ています。
そのため、現代のヨガやスピリチュアルの世界ではカシミール・シヴァ派がよく紹介されますが、それをもって「インドのシヴァ信仰の主流」と考えるのは正確ではありません。むしろ、一般の信者の信仰生活では、寺院でシヴァを礼拝する伝統的なシヴァ・シッダーンタなどの系統のほうが大きな存在感を持っています。
南部のシヴァ派が大きいのか
香ばしい😃
https://m.youtube.com/watch?v=r7933p9ReNk
はい、その理解で概ね正しいです。
現在のシヴァ信仰の中心は南インドにあります。
南インド、とくに タミル・ナードゥ州 では、シヴァ信仰が非常に盛んで、次のような壮大なシヴァ寺院があります。
ブリハディーシュヴァラ寺院
チダンバラム・ナタラージャ寺院
ラーマナータスワーミ寺院
これらは現在でも巡礼地として多くの信者を集めています。
歴史的には、
南インド:寺院・儀礼・信仰共同体が発達し、現在まで連続して繁栄。
カシミール:哲学・神秘思想が高度に発展したが、後世の政治・宗教情勢の変化で勢力が縮小。
という違いがあります。
そのため、「信者数や寺院の規模では南インドのシヴァ派が中心、思想史ではカシミール・シヴァ派が特に有名」とまとめるのが最も実態に近いでしょう。
北インドはヴィシュヌ信仰が多い?
良いメインのシヴァ派だったんだな?
ラップ現象が激しくなりそうなので
研究しないが
😃
はい、全体的な傾向としてはその理解で大きく間違っていません。
インドを大まかに見ると、
北インド:ヴィシュヌ 信仰(特に ラーマ や クリシュナ の信仰)が非常に盛ん。
南インド:シヴァ信仰もヴィシュヌ信仰も盛んですが、特にシヴァ派の大寺院や伝統が強い地域が多い。
たとえば北インドには、
アヨーディヤー(ラーマ信仰の中心)
マトゥラー(クリシュナ生誕地とされる)
ヴリンダーヴァン(クリシュナ信仰の聖地)
など、ヴィシュヌの化身を祀る大巡礼地が集中しています。
一方で、北インドにもシヴァ信仰は非常に重要で、
カーシー・ヴィシュヴァナート寺院
ケーダールナート寺院
はインド屈指のシヴァ聖地です。
しかし、地域的な傾向としては、北インドではヴィシュヌ派の影響が比較的強く、南インドではシヴァ派の伝統がより色濃く残っているという理解は、おおむね歴史的・宗教的な実態に沿っています。
ラーマ神やクリシュナ神は、ヴィシュヌの化身なのか?
はい、その通りです。
ヒンドゥー教の伝統では、**ラーマ と クリシュナ は、ヴィシュヌ の化身(アヴァターラ)**とされています。
ヴィシュヌは、世界の秩序(ダルマ)が乱れたときに、この世に姿を現して人々を救うと考えられています。その現れが「アヴァターラ(化身)」です。
有名な化身には次のようなものがあります。
マツヤ(魚)
クールマ(亀)
ヴァラーハ(猪)
ナラシンハ(人獅子)
ヴァーマナ(小人)
パラシュラーマ
ラーマ
クリシュナ
ブッダ(多くのヒンドゥー教の伝統ではヴィシュヌの化身とされますが、宗派によって解釈は異なります。)
カルキ(未来に現れるとされる)
特にラーマは叙事詩 ラーマーヤナ の主人公、クリシュナは マハーバーラタ や バガヴァッド・ギーター の中心人物として崇拝されています。
ラーマを最も尊ぶ流派
クリシュナを最高神として礼拝する流派
があります。
特にクリシュナ信仰の一部では、「クリシュナは単なるヴィシュヌの化身ではなく、ヴィシュヌの根源そのものである」と解釈する伝統もあります。そのため、「ヴィシュヌの化身」という理解が基本ですが、宗派によってはクリシュナを究極神とみなす場合もあります。
ブッダも、ヴィシュヌの化身なのか
デンパパ📡を超えれるな?
😃
はい。多くのヒンドゥー教の伝統では、ブッダはヴィシュヌの第9の化身(アヴァターラ)の一人とされています。
ただし、これはヒンドゥー教側の理解であって、仏教側の理解ではありません。
ヒンドゥー教では
ブッダ をヴィシュヌの化身とし、ヴィシュヌが時代に応じて仏陀の姿で現れたと考える伝統があります。
ただし、その解釈には違いがあります。
「ブッダは慈悲を説くために現れた」という肯定的な理解。
一部の古い文献では、「悪人や阿修羅を惑わせるために現れた」という否定的な描き方もあります。
もちろん、釈迦 はヴィシュヌの化身ではありません。仏教では、釈迦は自ら修行して悟りを開いた仏であり、ヴィシュヌとの関係は説かれていません。
つまり、
ヒンドゥー教:「ブッダはヴィシュヌの化身。」
仏教:「ブッダはヴィシュヌの化身ではない。」
という立場の違いがあります。
これは、ヒンドゥー教が歴史の中で仏教を自らの宗教体系に取り込み、「ブッダもヴィシュヌの現れだった」と位置づけた結果と考えられています。インドでは仏教が衰退した後、この考え方が広く受け入れられるようになりました。
パーリー殿は、インドというより
ヒマラヤ聖者の探究がメインだからな
出雲大社が大国主大神
なのと似た感じか
マトモな研究動画ではないか?
一応、ディスペンゼーション主義者の
チャンネルらしい
😃
神智学が融合した
のとか
ヒッピー世代趣味やろ
デンパパ📡は
邪道ヨガばかり
いらん
😫
傍流の宗教を主流が如く語るからなー
😫
まだ、デンパパやほーかいくん、ハッスルに比べてちゃんぽん度合いは少ない
😃
わかる
ハッスル、デンパパ、ほーかいくんは
イミフ
😅
😅
😅
天台教学になると、付いていけん😫
話のレベルを落としてくれないと無理だな
あんな文庫やるんやろ
ハッスルと大差がない
😅
南インドはシヴァ信仰が多い
ヴィシュヌは優しい
現在の世界は「カリ・ユガ」と呼ばれる最も堕落した時代にあるとされ、その終わりにカルキが現れると伝えられています。
伝承では、カルキは次のように描かれます。
白い馬(あるいは白馬に乗る騎士)として現れる。
燃える剣を携えている。
悪を滅ぼし、不正を裁く。
世界の秩序(ダルマ)を回復する。
新しい時代の始まりを告げる。
この姿は、終末に現れる「救世主」のイメージに近いものがあります。
ヒンドゥー教では宇宙は永遠に続くのではなく、
サティヤ・ユガ(黄金時代)
トレーター・ユガ
ドヴァーパラ・ユガ
カリ・ユガ(暗黒時代)
という四つの時代を繰り返すと考えられています。
カリ・ユガの終わりには人々が真理を忘れ、道徳が失われるため、カルキが現れて世界を一新し、再びサティヤ・ユガが始まるとされています。
カルキは、世界宗教に見られる終末論的な救済者と比較されることがあります。
キリスト教ではイエス・キリストの再臨。
仏教では弥勒菩薩(未来仏)。
ゾロアスター教ではサオシャント。
イスラム教ではマフディー。
ただし、それぞれの宗教で役割や教義は異なり、同一の存在ではありません。
ヒンドゥー教徒の間でも、カルキを文字通り未来に現れる人物と信じる人もいれば、人間社会の精神的刷新を象徴する存在と解釈する人もいます。
そのため、カルキは「未来の救世主」であると同時に、「混乱した時代に秩序と正義が回復される希望」の象徴として理解されることも多いのです。