【ラマナ・マハルシ】インドの宗教哲人【ラーマクリシュナ】最終更新 2025/12/31 18:211.◆JBLfMwCXhYBbiwH哲学と宗教の本場インドの教えを学ぼう2023/07/16 15:33:29381コメント欄へ移動すべて|最新の50件332.◆JBLfMwCXhYMjpkx仏教の場合は、どうしても「無我なのに、何が輪廻転生しているのか?」という、古くて新しい難題がつきまとうだから、途方もなくややこしい説明になってしまう2025/11/22 16:08:51333.◆JBLfMwCXhYMjpkx3332025/11/22 16:09:14334.◆JBLfMwCXhYMjpkxこれが、サーンキャ哲学だとシンプルだ「真我」を認めさえすれば、話は簡単だ😂2025/11/22 16:09:51335.◆JBLfMwCXhYMjpkxキリスト教とイスラム教の関係に似ているキリスト教は、「父と子と聖霊はひとつ」という三位一体の教義のおかげで、難解になった「イエス・キリストは神なのか、人なのか?」なんて問題で、何百年も流血沙汰を伴う大論争が続いたイスラム教はこれを他山の石として、「アッラーの他に神は無し。ムハンマドはその使徒である」というシンプルな教義に決めた2025/11/22 16:14:04336.◆JBLfMwCXhYMjpkxそれと同じでヨーガ哲学は、仏教哲学をずっとシンプルなものにしている2025/11/22 16:14:31337.◆JBLfMwCXhYMjpkx問題は、「真我」を認めるかどうかだ😅2025/11/22 16:15:07338.登り棒◆0mnwMe9WsAmGfFt>>337現象世界が現れるのに認識は必要。それゆえプルシャというものは常に付きまとう。過去を振り返るにも振り返った過去を認識するものが現れる。でも仏教は縁起の理を説く。今の現象が成立するには過去等の成り立ちも含めて全てが破綻なく成立したからこそ現れている。その成り立ちには認識がなかった時間帯すら含まれて整合し現れている。プルシャも常にあるわけではなく実体はない。まぁこの説明の仕方だと唯識の認識とぶつかるんだけどそこはもろに中論と唯識の対立内容と被る。2025/11/22 18:51:15339.◆JBLfMwCXhYbVVXm確かにプルシャだ、真我だといっても無我と真っ向から対立するようなものではない似たような話だ2025/11/22 19:26:17340.◆JBLfMwCXhYbVVXm日本では、仏教アゲ・ヒンドゥー教サゲする人が多いが彼らが言うほどの違いは無い(笑)2025/11/22 19:27:39341.◆JBLfMwCXhYx343n⤴️2025/12/03 05:36:27342.◆JBLfMwCXhYx343ntoggle navigationsearch buttonホームニュース特集連載動画深めようヨガ哲学プルシャとプラクリティの関係で学ぶ、生まれた意味ヨガを練習していると、自分のことを客観的に見ているもう一人の自分の存在を感じることがあるかもしれません。もしかしたら、それがヨガで探している本当の自分の可能性があります。自分の本質に近づくと、物質世界への執着が少しずつ弱まります。すると、そもそも何のために生まれて何のために生きているのかを見失うことがあるかもしれません。今回は、ヨガの練習で見つける、自分の本質と物質的な自分の関係を『ヨガ・スートラ』の教えを元に見ていきましょう。2025/12/03 05:43:45343.◆JBLfMwCXhYx343n物質的な世界を作る3つの性質『ヨガ・スートラ』では自分の本質のことをプルシャ(真我)と呼びます。それは、姿形のない霊魂のようなものです。プルシャは何も行動をすることがなく、物質世界で起きていることを映画を見るように眺めています。私たちが見ている世界は全てプラクリティと呼ばれる物質原理が開展して生まれたもので、プラクリティを理解することが、世界で起きているあらゆる現象を理解することに繋がります。2025/12/03 05:44:31344.◆JBLfMwCXhYx343nまずは、『ヨガ・スートラ』に書かれたプラクリティ(物質根本原理)について見ていきましょう。見られるものとは、照明、活動、鈍重の性向をあわせそなえ、物質元素と知覚、運動の器官とから成るものであって、真我の経験と解脱とをその目的としている。佐保田鶴治, 1983, 『ヨーガ根本経典 ヨガ・スートラ』2章18節, 平河出版社, p. 952025/12/03 05:45:08345.◆JBLfMwCXhYadHmQヨガ哲学では、この世界の全ては3つのグナ(性質)が原理となって作られたと説かれています。この3つのグナとは、サットバ(純質)・ラジャス(激質)、タマス(鈍質)のこと。これらを理解して生活の中の“選択”に活かすことで、自分自身の性質を整えることができます。世界を作り出す3つのグナの特性についてご説明します。2025/12/04 11:30:44346.◆JBLfMwCXhYadHmQ3つのグナとは?世界が作られた仕組みヨガの哲学部分を担ったサーンキャ哲学では、世界はプルシャとプラクリティの出会いによって作られたと説かれます。プルシャ:私たちの本質部分、霊魂、真我です。傍観すること以外に何も行動を起こさない純粋な存在です。プラクリティ:物質全ての原理です。私たちがこの世にあると認識できるものは全てプラクリティが根源となって生まれました。2025/12/04 11:31:11347.◆JBLfMwCXhYadHmQプラクリティとプルシャは共に無始であると知られるべきだ。それらの変異と要素は、プラクリティから作られた。(バガヴァッド・ギーター13章19節)プラクリティによって全ての原因と結果を作るものだと言われる。プルシャは様々な苦痛と快楽を受け取る要因である。(バガヴァッド・ギーター13章20節)物質的な要因のプラクリティと、そこから生じた感覚を受け取るプルシャの両方で世界は成り立っています。2025/12/04 11:31:31348.◆JBLfMwCXhYadHmQプラクリティは3つのグナ(性質)で構成されています世界を成立させる、プラクリティとプルシャのうち、プラクリティが、先にも述べた3つのグナで構成されているのです。それぞれの性質は下記のとおり。サットバ:汚れないもの、軽い、照らし輝く、調和、軽い、幸福、知識ラジャス:激しい動き、激情、渇愛、執着、行為、躁状態、貪欲タマス:濁っている、思い込み、怠慢、怠惰、睡眠、怠慢、迷想、無活動プラクリティがプルシャと出会って活動を始めて、最初に優勢になったのはサットバです。サットバは限りなく純粋な状態。つまり、プルシャに近い状態です。その後、活動的なラジャスが活発に動くことにより、タマスも活動を始めて様々な性質をもった存在が生まれました。私たちはサットバが優勢になると上昇し、ラジャスが強くなると中間に留まり、タマスが優勢になると下降します。私たちは純粋なプルシャ(幸福)に近づくために、自分自身のサットバ性を上げなくてはいけません。2025/12/04 11:32:24349.◆JBLfMwCXhYadHmQグナを意識して日常に活かす世の中のあらゆるものは、3つのグナで構成されています。できるだけサットバ性が多く、タマスが低いものを自身に取り入れることによって、自分自身の意識を高い次元(本来あるべきプルシャに近い状態)にもっていくことができます。食品のグナ例えば、食べ物を選ぶ時にもそれぞれの性質を考えるようにしましょう。サットバ性の食べ物新鮮なもの、軽いもの、調理したばかりのもの、長時間調理していないもの。例)新鮮な野菜、果物、豆、ミルク、シンプルな調理のもの、消化しやすいものラジャス性の食べ物刺激の強いもの、辛味、苦み、酸味などがあるもの。例)辛味スパイスの多い料理、コーヒーなどのカフェイン飲料タマス性の食べ物一度調理したあと時間が経って温め直したもの、古くて新鮮でないもの、加工し過ぎたもの。例)インスタント食品、保存料の入ったもの、前日に調理した料理、お酒、カフェイン飲料(一度活発になった後、タマス性が上がる)、砂糖の多く含まれたものライフスタイルによっては常に新鮮な野菜ばかり食べられないこともあるでしょう。しかし、できるだけ良くないものを減らす努力は難しくありません。お酒を飲まないと寝れない、コーヒーを飲まないと集中できない……。このような習慣を変えるだけでも効果がとても大きいです。2025/12/04 11:33:20350.◆JBLfMwCXhYadHmQ自分の思考の状態を観察してみましょう自分の思考の状態がどのグナに当てはまっているかを観察することも、とても役に立ちます。すぐにサットバ性の思考に変更することは難しいですが、現状を理解することで冷静になり、対処法が分かるようになります。それぞれのグナの心理状態サットバ穏やか、安定、長く続く幸福感、寛大、温かい愛、集中力ラジャス感情的、渇愛、執着、切迫感、短期の極端な楽しみ、貪欲、集中力がなく落ち着きがないタマス怠け、やる気のなさ、眠気、思い込み、妄想、答え出ない悩み自身の心の状態を観察すると、どのグナが優勢になっているかを観察することができます。タマスの状態はヨガの練習や生活全体で心地良く生きることの妨げになってしまいます。ヨガの障害として以前紹介した心の状態はタマスの状態と言えます。自分の心の状態を自覚して、サットバ性を上げることができると良いですね。2025/12/04 11:33:49351.◆JBLfMwCXhYadHmQあらゆる選択の判断基準に活用しましょう普段の生活で自分が触れるもの、行うこと、口にするもの、言葉などをできるだけサットバ性の高いものにしましょう。場所も重要です。自然の中にいるだけで心が洗われる感覚になるのも、場所のサットバ性の影響を受けているからです。自宅が綺麗に整っているのかもとても大切です。汚れている部屋、物の散乱している部屋は精神状態にも良くない影響を与えます。気持ちが沈んでいる時に、自宅を掃除して自分のいる環境のサットバ性を高めると、気持ちも整うかもしれません。何を行うのかも大切ですし、汚い言葉を使わないことも大切。全てのエネルギーは繋がっていることを認識して、自分自身の周りをサットバ性の高い状態に保つようにしましょう。サットバ性が上がると本当の自分を感じやすいヨガの目的とは、本来の自分の姿であるプルシャに出会うことです。自身のサットバ性を上げると、自身の本質を見ることができます。2025/12/04 11:34:07352.◆JBLfMwCXhYadHmQプルシャは池の底の地面の部分のようなものです。本来の自分の姿である“プルシャ”は池の底の地面の部分のようなもの池が汚れて濁っていると底は見えません。それはタマス(鈍質)が上がっている状態です。池の水に動きがあり波紋が立っていても底は見えません。それはラジャス(激質)の上がっている状態です。サットバの状態である澄んだ水、それ自体が底ではありませんが、サットバな状態である水を通し、底を見ることができます。私たちは身体を通して行動し、あらゆる対象を見ます。プラクリティによって作り出された身体は本来のプルシャとなることはできませんが、自分自身の純粋さを高めていくことで自身の本質を見ることができます。2025/12/04 11:34:38353.◆JBLfMwCXhYadHmQ3グナが活動を止める時ヨガの実践により、実践者が真我(プルシャ)に到達することができると3つのグナは活動を停止します。カイバルヤ(孤立)とは、3グナがプルシャのために行う目的が叶い没し去ることである。もしくは、プルシャが本来の状態に安住することである。(ヨガスートラ4章34節)3つのグナ、つまりプラクリティの全ての活動は、プルシャのための活動です。ヨガの実践によって、私たちが本来のプルシャの状態に到達することが叶うとプラクリティは活動の目的を果たします。本来プルシャとプラクリティは別々に存在し、安住していました。活動を止めた先には、プルシャの本来の姿である永遠の平穏さ、至高の状態に戻ります。それがヨガの最終的な到達点です。2025/12/04 11:34:52354.◆JBLfMwCXhYadHmQ生活に活かせる3グナの考え方3グナは、あらゆる物質、事柄の性質を考えるために、とても分かりやすいコンセプトです。自分が心地いいと思える状態は、できるだけサットバ性の高いものを選択することで叶います。世の中の「好き」という感情は様々な種類があります。タマス性のものは痛みを伴う快楽、ラジャス性のものは劇的で瞬間的な快楽、この2つは、一時的な楽しみの後、苦痛に繋がってしまいがちです。長く幸福が続くサットバ性の喜びを選ぶことで、人生が安定して幸せなものに近づいていきます。2025/12/04 11:35:03355.◆JBLfMwCXhYadHmQなるほど2025/12/04 13:30:38356.◆JBLfMwCXhYadHmQプルシャとプラクリティの二元論2025/12/04 13:30:52357.◆JBLfMwCXhYadHmQプラクリティは3つの性質に分かれる2025/12/04 13:31:05358.◆JBLfMwCXhYadHmQサットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)だ2025/12/04 13:31:52359.◆JBLfMwCXhYODNIm激質フード刺激の強いもの、辛味、苦み、酸味などがあるもの。例)辛味スパイスの多い料理、コーヒーなどのカフェイン飲料2025/12/06 06:34:27360.◆JBLfMwCXhYODNImこんなのばかり食べてると、セイウン様みたいな人になる😫2025/12/06 06:34:51361.◆JBLfMwCXhYLNFXa「私は在る」とあなたが知るとき、世界は存在する。あなたは自分は一個の肉体であるという思考を忘れ、ただ名前も形もない「私は在る」という知識だけにならなければならない。真我に対する愛、それは「私は在る」という意識だが、これを真実の愛だと理解した者たちは自分自身が愛となる。この「私は在る」にはどんなメッセージもなかった。この状態に関して、私は多くを語ることができない。なぜなら、言葉で表現できる余地がないからだ。「私は在る」という知識は個人的なものではなく、宇宙的なものなのだ。「私は在る」という概念を身につけると、あらゆる概念に巻き込まれる。この「私は在る」という概念が去ると、私は存在していたとか、こういった経験をしたという記憶は何も残らない。ニサルガダッタ・マハラジ2025/12/31 03:40:48362.◆JBLfMwCXhYWMEWC「梵我一如」はウパニシャッド哲学の根幹で、宇宙の原理「梵(ブラフマン)」と個人の本質「我(アートマン)」は同一であるという思想で、解脱を目指します。「不二一元論」はそれをさらに強調し、「真理はただ一つ、二つとない」と説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタの核心概念で、唯一の実在(ブラフマン)以外に真の現実はなく、個(アートマン)も現象世界もブラフマンの現れとする、より徹底した非二元論です。梵我一如が「(梵と我は)同じである」という関係性を示すのに対し、不二一元論は「(二つとない唯一の真理が)ブラフマンそのものである」という絶対的な同一性・非二元性を主張します。2025/12/31 16:57:49363.◆JBLfMwCXhYWMEWC梵我一如(ぼんがいちにょ)意味: 宇宙の根本原理である「梵(ブラフマン)」と、個人の本質である「我(アートマン)」は、本質的に同じものであるという思想。出典: ウパニシャッド哲学(ヴェーダーンタ哲学の源流)の中心的な教え。目的: この同一性を自覚することで、輪廻転生からの解脱(モークシャ)を目指す。核心: 「Tat Tvam Asi(タット・トゥワム・アシ)」(汝はそなり)という言葉に集約される。2025/12/31 16:58:13364.◆JBLfMwCXhYWMEWC不二一元論(ふつうげんろん)意味: 「二つではない、ただ一つの真理」という意味で、ブラフマン(絶対者)のみが真実であり、それ以外のすべて(個、現象)は幻想(マーヤー)であるとする徹底した一元論。提唱者: ヴェーダーンタ学派の哲学者シャンカラが体系化。関係性: 梵我一如の思想をさらに推し進め、「真理は二つとない」と断言することで、梵我一如の「同一性」をより絶対的な「唯一性」として強調。核心: 「二元的な区別は超えられ、すべてはブラフマンという唯一の実在に帰一する」という非二元性(アドヴァイタ)の思想。2025/12/31 16:58:36365.◆JBLfMwCXhYWMEWC違いのまとめ梵我一如: 「梵」と「我」は「同じ」という関係性・同一性に着目。不二一元論: 「二つではない(=唯一である)」という絶対的な「非二元性」を主張し、ブラフマン以外に実体はないとする。関係: 不二一元論は、梵我一如の教えを基礎に、より厳密な「一元性」を打ち立てたものと言えます。2025/12/31 16:58:51366.◆JBLfMwCXhYWMEWC>>364不ニ一元論 (ふにいちげんろん)2025/12/31 16:59:20367.◆JBLfMwCXhYWMEWCインド哲学はヴェーダ聖典が絶対的に正しい、という前提を元に構築されたものです。聖典が首尾一貫していればよいのですが、中身を見てみれば矛盾のオンパレードでした。哲学者たちはそれになんとか整合性をつけようとがんばって、様々な哲学を打ち出します。その際に、特に問題になったものが、流出論と自己論でした。2025/12/31 17:03:44368.◆JBLfMwCXhYWMEWC流出論インドで最初に哲学を打ち出したのは、ウッダーラカ・アールニ(ヤージュニャヴァルキヤの師匠)です。彼はインド最古の哲学者と呼ばれ、彼の哲学は流出論的一元論の「有の哲学」と呼ばれます。簡単に言うと、世界すべてのものは1つの真実在である「有」から流出したとされるという哲学です。彼の言葉である「汝はそれ(有)である(Tat Tvam Asi)」はインド思想に大きな影響を及ぼしました。そして彼の哲学はヒンドゥー教へと受け継がれ、ヴェーダーンタ学派では、「最高ブラフマン(梵)=最高自己(我)=最高神」とする典型的な梵我一如の流出論的一元論として、理論を構築していきました。2025/12/31 17:04:09369.◆JBLfMwCXhYWMEWCしかし、これには大きな問題がつきまといました。それは、世界は「善/悪」「浄/不浄」など相容れないものが、どうして一元である「有」から生じるのか、という問題です。つまり、一元から二元、多元が生じるのは矛盾しているということです。そして、いつ・どうして流出が始まったのかが不明でした。2025/12/31 17:04:34370.◆JBLfMwCXhYWMEWC自己論そしてウッダーラカ・アールニの後、ヤージュニャヴァルキヤが世界に関与しない自己ということを打ち出します。「有の哲学」では、世界を生み出す真実在は世界に遍満している世界内存在でした。しかし、ヤージュニャヴァルキヤはこれまで見たように、真実在(自己)は世界の外に存在するとしたのです。真実在が世界内と世界外に両方あるこの状況。哲学者たちはこの整合性をとるの苦心しました。2025/12/31 17:06:00371.◆JBLfMwCXhYWMEWC二元論:サーンキヤ哲学そこで名乗りを挙げたのがサーンキヤ学派が打ち出した哲学です。彼らは、「一元論で考えるからダメなのであって、二元論で考えちゃえば話は早い」としました。この哲学は、自己と根本原質の二元論をとります。2025/12/31 17:06:47372.◆JBLfMwCXhYWMEWCこの哲学の二元論は西洋の心身二元論ではなく、「精神原理(自己)/物質原理(心-物)」の二元論です。心は物質原理の方に含まれます。例えて言うなら、脳という物質が思考や感情、判断など心の作用を司るというようなものです。サーンキヤ学派は、世界の外にいる自己が、世界の原因である根本原質と結びつくことによって、世界の流出が起きるとしました。その時、世界は3種類の性質原理によって成り立っていて、それらの混合比率で、多様な世界を表すとしました。つまり、サーンキヤ哲学は一元論を捨てることによって、流出論と自己論を両立したのです。2025/12/31 17:07:19373.◆JBLfMwCXhYWMEWC一元論:アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)もともと、流出論的一元論はインドの最も歴史のある正統派のヴェーダーンタ学派が提唱していました。しかし、当時インド哲学界では、二元論のサーンキヤ学派や、自己も世界も存在しないとする仏教哲学が最盛期を迎えていました。インドの歴史でヴェーダ聖典の正当性を謳ってきたヴェーダーンタ学派は、これまでは権威のはずであった聖典が、逆に自らの哲学を縛る重荷になっていました。そんな中、彗星の如く現れたのがインド最高の哲学者と評されるシャンカラでした。彼の哲学は「不二一元論」と呼ばれて、再び一元論を復活させたのです。(現代においても最も勢力を持っている学派です)2025/12/31 17:08:38374.◆JBLfMwCXhYWMEWC不二一元論不二一元論はアドヴァイタ(非二元)とも言われます。「不二」とは、二つ目のものがないという意味です。シャンカラによれば、世界内の現象世界は幻影(マーヤー)であり、本当の意味では「自己=ブラフマン(梵)」一つのものしか存在しない、といいます。図のように、世界を幻影とすることで、これまでの流出論的世界観を「無明」の産物と一刀両断し、徹底的な自己=ブラフマン一元論をとりました。2025/12/31 17:08:52375.◆JBLfMwCXhYWMEWC彼の教説の骨子は、仏教とサーンキヤ学派から借用してきた理論が多く見られます。仏教からは真俗二諦論や、現象世界を否定する論理などを、サーンキヤ学派からは、世界外の自己と現象世界における自我を峻別する理論を用いました。仏教とサーンキヤ学派の理論を上手く縫い合わせることによって、シャンカラは「世界幻影論=不二一元論」を完成させました。つまり、これまでのヴェーダーンタ学派がいう流出論的一元論の、「世界流出論」を幻影とすることによって、自己は世界外にあるという伝統的な一元論をまもったのです。これにより、聖典の中で矛盾があった記述もシャンカラが見事に捌き、初めて聖典の一貫した解説がなされるようになりました。2025/12/31 17:09:12376.◆JBLfMwCXhYWMEWC補足シャンカラの哲学はあまりにも仏教と類似していたので、仲間からは「仮面の仏教徒」と揶揄されることがあったそうです。彼は仏教が否定したヒンドゥー教の「自己=アートマン(ブラフマン)」を、仏教の論理を用いながら肯定するという、一発逆転の離れ業をやってのけたのです。2025/12/31 17:09:30377.神も仏も名無しさんoYMHGジャンカラの無明は根本原理を知らないという設定神の遊戯=世の幻という設定仏教の無明は自己の心の洞察力か欠くということそこが違う😆2025/12/31 17:35:28378.神も仏も名無しさんoYMHGシヴァナンダヨガを結構にサマーデイ?😆キメられるので違いはわかる😆2025/12/31 17:36:08379.神も仏も名無しさんBut7kコーランをネットで読むぞ😆2025/12/31 18:18:24380.◆JBLfMwCXhYNBzncこれからは、コーランか~😆2025/12/31 18:20:45381.神も仏も名無しさんBut7k確かにイスラームと既存のキリスト教は道徳、善悪二元論はあるな霊的道徳とかいうイメージで既存のキリスト教やイスラームを読解しようとはしているな?😆2025/12/31 18:21:08
小林よしのり「反日・反天皇の統一教会に洗脳された自民党などクソくらえ!戦争主義の高市内閣は支持できない。男系男子にこだわるカルト内閣の支持者は売国奴。中道改革連合を支持した方がいいに決まっている」ニュース速報+223722.52026/01/17 02:44:56
インドの教えを学ぼう
「無我なのに、何が輪廻転生しているのか?」
という、古くて新しい難題がつきまとう
だから、途方もなくややこしい説明になってしまう
「真我」を認めさえすれば、話は簡単だ😂
キリスト教は、「父と子と聖霊はひとつ」という三位一体の教義のおかげで、難解になった
「イエス・キリストは神なのか、人なのか?」なんて問題で、何百年も流血沙汰を伴う大論争が続いた
イスラム教はこれを他山の石として、「アッラーの他に神は無し。ムハンマドはその使徒である」というシンプルな教義に決めた
ヨーガ哲学は、仏教哲学をずっとシンプルなものにしている
現象世界が現れるのに認識は必要。それゆえプルシャというものは常に付きまとう。
過去を振り返るにも振り返った過去を認識するものが現れる。
でも仏教は縁起の理を説く。今の現象が成立するには過去等の成り立ちも含めて全てが破綻なく成立したからこそ現れている。
その成り立ちには認識がなかった時間帯すら含まれて整合し現れている。
プルシャも常にあるわけではなく実体はない。
まぁこの説明の仕方だと唯識の認識とぶつかるんだけどそこはもろに中論と唯識の対立内容と被る。
プルシャだ、真我だといっても
無我と真っ向から対立するようなものではない
似たような話だ
彼らが言うほどの違いは無い(笑)

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深めようヨガ哲学
プルシャとプラクリティの関係で学ぶ、生まれた意味
ヨガを練習していると、自分のことを客観的に見ているもう一人の自分の存在を感じることがあるかもしれません。もしかしたら、それがヨガで探している本当の自分の可能性があります。
自分の本質に近づくと、物質世界への執着が少しずつ弱まります。すると、そもそも何のために生まれて何のために生きているのかを見失うことがあるかもしれません。
今回は、ヨガの練習で見つける、自分の本質と物質的な自分の関係を『ヨガ・スートラ』の教えを元に見ていきましょう。
『ヨガ・スートラ』では自分の本質のことをプルシャ(真我)と呼びます。それは、姿形のない霊魂のようなものです。プルシャは何も行動をすることがなく、物質世界で起きていることを映画を見るように眺めています。
私たちが見ている世界は全てプラクリティと呼ばれる物質原理が開展して生まれたもので、プラクリティを理解することが、世界で起きているあらゆる現象を理解することに繋がります。
見られるものとは、照明、活動、鈍重の性向をあわせそなえ、物質元素と知覚、運動の器官とから成るものであって、真我の経験と解脱とをその目的としている。
佐保田鶴治, 1983, 『ヨーガ根本経典 ヨガ・スートラ』2章18節, 平河出版社, p. 95
ヨガの哲学部分を担ったサーンキャ哲学では、世界はプルシャとプラクリティの出会いによって作られたと説かれます。
プルシャ:私たちの本質部分、霊魂、真我です。傍観すること以外に何も行動を起こさない純粋な存在です。
プラクリティ:物質全ての原理です。私たちがこの世にあると認識できるものは全てプラクリティが根源となって生まれました。
プラクリティによって全ての原因と結果を作るものだと言われる。プルシャは様々な苦痛と快楽を受け取る要因である。(バガヴァッド・ギーター13章20節)
物質的な要因のプラクリティと、そこから生じた感覚を受け取るプルシャの両方で世界は成り立っています。
世界を成立させる、プラクリティとプルシャのうち、プラクリティが、先にも述べた3つのグナで構成されているのです。それぞれの性質は下記のとおり。
サットバ:汚れないもの、軽い、照らし輝く、調和、軽い、幸福、知識
ラジャス:激しい動き、激情、渇愛、執着、行為、躁状態、貪欲
タマス:濁っている、思い込み、怠慢、怠惰、睡眠、怠慢、迷想、無活動
プラクリティがプルシャと出会って活動を始めて、最初に優勢になったのはサットバです。サットバは限りなく純粋な状態。つまり、プルシャに近い状態です。その後、活動的なラジャスが活発に動くことにより、タマスも活動を始めて様々な性質をもった存在が生まれました。
私たちはサットバが優勢になると上昇し、ラジャスが強くなると中間に留まり、タマスが優勢になると下降します。私たちは純粋なプルシャ(幸福)に近づくために、自分自身のサットバ性を上げなくてはいけません。
世の中のあらゆるものは、3つのグナで構成されています。できるだけサットバ性が多く、タマスが低いものを自身に取り入れることによって、自分自身の意識を高い次元(本来あるべきプルシャに近い状態)にもっていくことができます。
食品のグナ
例えば、食べ物を選ぶ時にもそれぞれの性質を考えるようにしましょう。
サットバ性の食べ物
新鮮なもの、軽いもの、調理したばかりのもの、長時間調理していないもの。
例)新鮮な野菜、果物、豆、ミルク、シンプルな調理のもの、消化しやすいもの
ラジャス性の食べ物
刺激の強いもの、辛味、苦み、酸味などがあるもの。
例)辛味スパイスの多い料理、コーヒーなどのカフェイン飲料
タマス性の食べ物
一度調理したあと時間が経って温め直したもの、古くて新鮮でないもの、加工し過ぎたもの。
例)インスタント食品、保存料の入ったもの、前日に調理した料理、お酒、カフェイン飲料(一度活発になった後、タマス性が上がる)、砂糖の多く含まれたもの
ライフスタイルによっては常に新鮮な野菜ばかり食べられないこともあるでしょう。しかし、できるだけ良くないものを減らす努力は難しくありません。
お酒を飲まないと寝れない、コーヒーを飲まないと集中できない……。このような習慣を変えるだけでも効果がとても大きいです。
自分の思考の状態がどのグナに当てはまっているかを観察することも、とても役に立ちます。すぐにサットバ性の思考に変更することは難しいですが、現状を理解することで冷静になり、対処法が分かるようになります。
それぞれのグナの心理状態
サットバ
穏やか、安定、長く続く幸福感、寛大、温かい愛、集中力
ラジャス
感情的、渇愛、執着、切迫感、短期の極端な楽しみ、貪欲、集中力がなく落ち着きがない
タマス
怠け、やる気のなさ、眠気、思い込み、妄想、答え出ない悩み
自身の心の状態を観察すると、どのグナが優勢になっているかを観察することができます。タマスの状態はヨガの練習や生活全体で心地良く生きることの妨げになってしまいます。ヨガの障害として以前紹介した心の状態はタマスの状態と言えます。
自分の心の状態を自覚して、サットバ性を上げることができると良いですね。
普段の生活で自分が触れるもの、行うこと、口にするもの、言葉などをできるだけサットバ性の高いものにしましょう。
場所も重要です。自然の中にいるだけで心が洗われる感覚になるのも、場所のサットバ性の影響を受けているからです。自宅が綺麗に整っているのかもとても大切です。汚れている部屋、物の散乱している部屋は精神状態にも良くない影響を与えます。気持ちが沈んでいる時に、自宅を掃除して自分のいる環境のサットバ性を高めると、気持ちも整うかもしれません。
何を行うのかも大切ですし、汚い言葉を使わないことも大切。全てのエネルギーは繋がっていることを認識して、自分自身の周りをサットバ性の高い状態に保つようにしましょう。
サットバ性が上がると本当の自分を感じやすい
ヨガの目的とは、本来の自分の姿であるプルシャに出会うことです。自身のサットバ性を上げると、自身の本質を見ることができます。
本来の自分の姿である“プルシャ”は池の底の地面の部分のようなもの
池が汚れて濁っていると底は見えません。それはタマス(鈍質)が上がっている状態です。池の水に動きがあり波紋が立っていても底は見えません。それはラジャス(激質)の上がっている状態です。サットバの状態である澄んだ水、それ自体が底ではありませんが、サットバな状態である水を通し、底を見ることができます。
私たちは身体を通して行動し、あらゆる対象を見ます。プラクリティによって作り出された身体は本来のプルシャとなることはできませんが、自分自身の純粋さを高めていくことで自身の本質を見ることができます。
ヨガの実践により、実践者が真我(プルシャ)に到達することができると3つのグナは活動を停止します。
カイバルヤ(孤立)とは、3グナがプルシャのために行う目的が叶い没し去ることである。もしくは、プルシャが本来の状態に安住することである。(ヨガスートラ4章34節)
3つのグナ、つまりプラクリティの全ての活動は、プルシャのための活動です。ヨガの実践によって、私たちが本来のプルシャの状態に到達することが叶うとプラクリティは活動の目的を果たします。本来プルシャとプラクリティは別々に存在し、安住していました。活動を止めた先には、プルシャの本来の姿である永遠の平穏さ、至高の状態に戻ります。それがヨガの最終的な到達点です。
3グナは、あらゆる物質、事柄の性質を考えるために、とても分かりやすいコンセプトです。自分が心地いいと思える状態は、できるだけサットバ性の高いものを選択することで叶います。世の中の「好き」という感情は様々な種類があります。タマス性のものは痛みを伴う快楽、ラジャス性のものは劇的で瞬間的な快楽、この2つは、一時的な楽しみの後、苦痛に繋がってしまいがちです。長く幸福が続くサットバ性の喜びを選ぶことで、人生が安定して幸せなものに近づいていきます。
刺激の強いもの、辛味、苦み、酸味などがあるもの。
例)辛味スパイスの多い料理、コーヒーなどのカフェイン飲料
あなたは自分は一個の肉体であるという思考を忘れ、ただ名前も形もない「私は在る」という知識だけにならなければならない。
真我に対する愛、それは「私は在る」という意識だが、これを真実の愛だと理解した者たちは自分自身が愛となる。
この「私は在る」にはどんなメッセージもなかった。この状態に関して、私は多くを語ることができない。なぜなら、言葉で表現できる余地がないからだ。
「私は在る」という知識は個人的なものではなく、宇宙的なものなのだ。
「私は在る」という概念を身につけると、あらゆる概念に巻き込まれる。この「私は在る」という概念が去ると、私は存在していたとか、こういった経験をしたという記憶は何も残らない。
ニサルガダッタ・マハラジ
「不二一元論」はそれをさらに強調し、「真理はただ一つ、二つとない」と説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタの核心概念で、唯一の実在(ブラフマン)以外に真の現実はなく、個(アートマン)も現象世界もブラフマンの現れとする、より徹底した非二元論です。
梵我一如が「(梵と我は)同じである」という関係性を示すのに対し、不二一元論は「(二つとない唯一の真理が)ブラフマンそのものである」という絶対的な同一性・非二元性を主張します。
意味: 宇宙の根本原理である「梵(ブラフマン)」と、個人の本質である「我(アートマン)」は、本質的に同じものであるという思想。
出典: ウパニシャッド哲学(ヴェーダーンタ哲学の源流)の中心的な教え。
目的: この同一性を自覚することで、輪廻転生からの解脱(モークシャ)を目指す。
核心: 「Tat Tvam Asi(タット・トゥワム・アシ)」(汝はそなり)という言葉に集約される。
意味: 「二つではない、ただ一つの真理」という意味で、ブラフマン(絶対者)のみが真実であり、それ以外のすべて(個、現象)は幻想(マーヤー)であるとする徹底した一元論。
提唱者: ヴェーダーンタ学派の哲学者シャンカラが体系化。
関係性: 梵我一如の思想をさらに推し進め、「真理は二つとない」と断言することで、梵我一如の「同一性」をより絶対的な「唯一性」として強調。
核心: 「二元的な区別は超えられ、すべてはブラフマンという唯一の実在に帰一する」という非二元性(アドヴァイタ)の思想。
梵我一如: 「梵」と「我」は「同じ」という関係性・同一性に着目。
不二一元論: 「二つではない(=唯一である)」という絶対的な「非二元性」を主張し、ブラフマン以外に実体はないとする。
関係: 不二一元論は、梵我一如の教えを基礎に、より厳密な「一元性」を打ち立てたものと言えます。
不ニ一元論 (ふにいちげんろん)
聖典が首尾一貫していればよいのですが、中身を見てみれば矛盾のオンパレードでした。
哲学者たちはそれになんとか整合性をつけようとがんばって、様々な哲学を打ち出します。
その際に、特に問題になったものが、流出論と自己論でした。
インドで最初に哲学を打ち出したのは、ウッダーラカ・アールニ(ヤージュニャヴァルキヤの師匠)です。
彼はインド最古の哲学者と呼ばれ、彼の哲学は流出論的一元論の「有の哲学」と呼ばれます。
簡単に言うと、世界すべてのものは1つの真実在である「有」から流出したとされるという哲学です。
彼の言葉である「汝はそれ(有)である(Tat Tvam Asi)」はインド思想に大きな影響を及ぼしました。
そして彼の哲学はヒンドゥー教へと受け継がれ、ヴェーダーンタ学派では、「最高ブラフマン(梵)=最高自己(我)=最高神」とする典型的な梵我一如の流出論的一元論として、理論を構築していきました。
それは、世界は「善/悪」「浄/不浄」など相容れないものが、どうして一元である「有」から生じるのか、という問題です。
つまり、一元から二元、多元が生じるのは矛盾しているということです。
そして、いつ・どうして流出が始まったのかが不明でした。
そしてウッダーラカ・アールニの後、ヤージュニャヴァルキヤが世界に関与しない自己ということを打ち出します。
「有の哲学」では、世界を生み出す真実在は世界に遍満している世界内存在でした。
しかし、ヤージュニャヴァルキヤはこれまで見たように、真実在(自己)は世界の外に存在するとしたのです。
真実在が世界内と世界外に両方あるこの状況。
哲学者たちはこの整合性をとるの苦心しました。
そこで名乗りを挙げたのがサーンキヤ学派が打ち出した哲学です。
彼らは、「一元論で考えるからダメなのであって、二元論で考えちゃえば話は早い」としました。
この哲学は、自己と根本原質の二元論をとります。
心は物質原理の方に含まれます。
例えて言うなら、脳という物質が思考や感情、判断など心の作用を司るというようなものです。
サーンキヤ学派は、世界の外にいる自己が、世界の原因である根本原質と結びつくことによって、世界の流出が起きるとしました。
その時、世界は3種類の性質原理によって成り立っていて、それらの混合比率で、多様な世界を表すとしました。
つまり、サーンキヤ哲学は一元論を捨てることによって、流出論と自己論を両立したのです。
もともと、流出論的一元論はインドの最も歴史のある正統派のヴェーダーンタ学派が提唱していました。
しかし、当時インド哲学界では、二元論のサーンキヤ学派や、自己も世界も存在しないとする仏教哲学が最盛期を迎えていました。
インドの歴史でヴェーダ聖典の正当性を謳ってきたヴェーダーンタ学派は、これまでは権威のはずであった聖典が、逆に自らの哲学を縛る重荷になっていました。
そんな中、彗星の如く現れたのがインド最高の哲学者と評されるシャンカラでした。
彼の哲学は「不二一元論」と呼ばれて、再び一元論を復活させたのです。(現代においても最も勢力を持っている学派です)
不二一元論はアドヴァイタ(非二元)とも言われます。
「不二」とは、二つ目のものがないという意味です。
シャンカラによれば、世界内の現象世界は幻影(マーヤー)であり、本当の意味では「自己=ブラフマン(梵)」一つのものしか存在しない、といいます。
図のように、世界を幻影とすることで、これまでの流出論的世界観を「無明」の産物と一刀両断し、徹底的な自己=ブラフマン一元論をとりました。
仏教からは真俗二諦論や、現象世界を否定する論理などを、
サーンキヤ学派からは、世界外の自己と現象世界における自我を峻別する理論を用いました。
仏教とサーンキヤ学派の理論を上手く縫い合わせることによって、シャンカラは「世界幻影論=不二一元論」を完成させました。
つまり、これまでのヴェーダーンタ学派がいう流出論的一元論の、「世界流出論」を幻影とすることによって、自己は世界外にあるという伝統的な一元論をまもったのです。
これにより、聖典の中で矛盾があった記述もシャンカラが見事に捌き、初めて聖典の一貫した解説がなされるようになりました。
シャンカラの哲学はあまりにも仏教と類似していたので、仲間からは「仮面の仏教徒」と揶揄されることがあったそうです。
彼は仏教が否定したヒンドゥー教の「自己=アートマン(ブラフマン)」を、仏教の論理を用いながら肯定するという、一発逆転の離れ業をやってのけたのです。
という設定
神の遊戯=世の幻という設定
仏教の無明は自己の心の洞察力か欠くということ
そこが違う
😆
結構にサマーデイ?😆
キメられるので
違いはわかる
😆
😆
イスラームと
既存のキリスト教は
道徳、善悪二元論はあるな
霊的道徳とかいうイメージで
既存のキリスト教やイスラームを読解しようとはしているな?
😆