【初心者】キリスト教@歓談室114【歓迎♪】アーカイブ最終更新 2025/11/21 00:311.神も仏も名無しさんqtM78ifQ前スレ【初心者】キリスト教@歓談室113【歓迎♪】https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1680437159/l50出典 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/16845488222023/05/20 11:13:421000すべて|最新の50件953.◆JBLfMwCXhY1Vstc18. しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」19. バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。20. ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。21. しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。22. ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」23. けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよでなっていった。24. それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。25. すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。2025/11/20 14:47:34954.◆JBLfMwCXhY1Vstc使徒信条は、イエス様の十字架を「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と告白します。私たちはずっと「ポンテオ・ピラト」と言い続けています。深く考えもせず、毎度毎度のことと意識せずに口にしているかもしれません。しかし、よくよく考えてみると大変なことです。使徒信条は、紀元8世紀頃にまとめられましたが、その原型となる「古ローマ信条」というものが、2世紀後半には教会で用いられていたことが分かっています。その「古ローマ信条」にも「ポンティウス・ピラトゥスのもとで十字架につけられ」という一言があります。2025/11/20 14:53:11955.◆JBLfMwCXhY1Vstc紀元2世紀後半(170~190年頃)からこれまで1,800年以上、ピラトは汚名を着せられて来たのです。これからもずっとそうです。どうしてピラトだけが「悪者」のような扱いを受けるのでしょうか? イエス様を裁き、断罪したピラトが、その後、ずっとさばかれ、断罪され続けているようにも感じます。https://fukuichuoukirisutokyokai.amebaownd.com/posts/53871178/2025/11/20 14:53:23956.◆JBLfMwCXhYqpEen権力者か2025/11/20 18:53:16957.◆JBLfMwCXhYqpEenローマ帝国のポンティオ・ピラト総督か2025/11/20 18:53:49958.◆JBLfMwCXhYqpEen日本では、北京帝国の総領事が話題になっている2025/11/20 18:54:17959.神も仏も名無しさん1PKMEハッスル🤡静かだな?😆2025/11/20 19:07:03960.神も仏も名無しさん1PKME変なのが中論スレ埋めているな?😆2025/11/20 19:15:14961.◆JBLfMwCXhY00PS2神との契約2025/11/20 20:39:37962.◆JBLfMwCXhY00PS2神との契約を更新する2025/11/20 20:39:56963.◆JBLfMwCXhY00PS2アウグスティヌスは、神から与えられた自由意志は善にも悪にも向かう能力であり、悪の起源は人間の自由意志の濫用にあると説きました。このため、人間が善行をなすためには神の恩寵が不可欠であると主張しました。彼は、自由意志が正しい行いに使われるためには、神の助けが必要だとしました。2025/11/20 20:45:27964.◆JBLfMwCXhY00PS2自由意志の考え方善と悪の選択: 人間は神から善にも悪にも選択する自由を与えられているとしました。悪の原因: 悪は神が創造したものではなく、人間が自由意志を誤って用いた結果(罪)であるとしました。神の恩寵の必要性: 罪におちた人間は、自らの力だけでは善に立ち返ることができないため、神の恩寵(助け)が必要だとしました。自由意志と救い: 人間が善行をなすことができるのは、神の恩寵によって自由意志が正しい方向へ導かれるからだとしました。2025/11/20 20:46:47965.◆JBLfMwCXhY00PS2影響アウグスティヌスの自由意志論は、後の神学や哲学に大きな影響を与えました。特に、救いにおける個人の自由意志の役割をどのように位置づけるかについて、様々な解釈や論争を生みました。2025/11/20 20:47:02966.神も仏も名無しさん8PrUzカトリックは自由意志賛成派のような気がするカルバン主義の自由意志は無い派はアメリカではバブテストもはいるのでスタンダードだけど、キリスト教では多数派は本来、自由意志派のような気がする😆2025/11/20 21:18:47967.◆JBLfMwCXhYnFz5E聖アウグスティヌス以来の伝統2025/11/21 00:07:09968.◆JBLfMwCXhYnFz5Eカトリックは自由意志2025/11/21 00:07:28969.◆JBLfMwCXhYnFz5Eカルヴァンは予定説2025/11/21 00:08:14970.◆JBLfMwCXhYnFz5E決定論だ2025/11/21 00:08:40971.◆JBLfMwCXhYnFz5E人間は、いくつかある未来から選択できる2025/11/21 00:08:58972.◆JBLfMwCXhYnFz5Eアウグスティヌスは、御霊の働きなしには、律法も私たちの意志も、私たちを完全な悔い改めに導くことはできないとする、パウロの言葉を全面的に支持しました。2025/11/21 00:18:27973.◆JBLfMwCXhYnFz5Eアウグスティヌスは、壊れた秤でも市場で果物の重さを量ることができるように、私たちもある意味では自由意志を持っているが、神が私たちの見る目と聞く耳を回復してくださらない限り、神のものを正しく量ることはできないと論じました。2025/11/21 00:18:39974.◆JBLfMwCXhYnFz5Eそうであるとすれば、聖化の恵みも神の賜物です。私たちの功績ではありません。ペラギウス派の主張がもし正しいとすれば、福音は却下されるのです。2025/11/21 00:18:53975.◆JBLfMwCXhYnFz5E神への愛(カリタス)「カリタス」とは、神を無償に愛することを言います。アウグスティヌスは、人間にとって最も大切なことは、見返りを求めずに神を愛することであり、それによって幸福になれるのだと主張しました。2025/11/21 00:19:46976.◆JBLfMwCXhYnFz5E「神の国」と「地の国」アウグスティヌスは、私たちが生きている世界は、「神の国」を元に創造された「地の国」であると説明しました。そして、たとえ「地の国」が異民族によって滅ぼされたとしても、「神の国」では永遠の安らぎが得られると主張しました。具体的には「神の国」は教会のことを指しており、この理論は正統派のキリスト教を理論的に支えることになりました。2025/11/21 00:19:59977.◆JBLfMwCXhYnFz5E悪の問題アウグスティヌスは、「善である神が創造した世界に、なぜ悪が存在するのか」という問題に取り組みました。その問いに対して彼が出した結論は、「悪は実在せず、善からの逸脱である」というものでした。つまり、「悪」は本質をもつものではなく、善が欠けている状態にすぎないということです。2025/11/21 00:20:15978.◆JBLfMwCXhYnFz5E原罪アウグスティヌスは、アダムとイブの罪(原罪)が全人類に遺伝すると考えました。そして、この原罪から人間を救えるのは、キリストの犠牲だけであると主張しました。この考え方は、現代のキリスト教にも受け継がれています。2025/11/21 00:20:26979.◆JBLfMwCXhYnFz5E悪は存在しない2025/11/21 00:20:47980.◆JBLfMwCXhYnFz5Eそれは、善からの逸脱である2025/11/21 00:21:00981.◆JBLfMwCXhYnFz5E善しかない2025/11/21 00:22:44982.◆JBLfMwCXhYnFz5E悪はない2025/11/21 00:22:57983.◆JBLfMwCXhYnFz5E一見、悪に見えるものは2025/11/21 00:23:13984.◆JBLfMwCXhYnFz5E善からの逸脱にすぎない2025/11/21 00:23:24985.◆JBLfMwCXhYnFz5E闇はない2025/11/21 00:23:47986.◆JBLfMwCXhYnFz5E光が当たってないとこがあるだけ2025/11/21 00:23:59987.◆JBLfMwCXhYnFz5E善の欠如聖アウレリウス・アウグスティヌス(354年-430年)はローマ帝国時代のカトリック教会司教であった。彼が主張した「神の国」という考え方は、当時の正統派のキリスト教(カトリック)を支える精神的柱になった。それもあり、彼は今でもカトリック教会において「最大の教師」と呼ばれている。2025/11/21 00:24:56988.◆JBLfMwCXhYnFz5Eまた、アウグスティヌスは神学に哲学を持ち込んだ人でもあった。そもそも彼は若い頃、マニ教に傾倒するなど信仰に悩んでいたのだが、プラトンの哲学に出会ったことでキリスト教に回心した経験を持つ。さらにストア派(とくにキケロ)からの影響も受けていたという。2025/11/21 00:25:46989.◆JBLfMwCXhYnFz5E彼はキリスト教における倫理思想を構築する際に、新プラトン主義とストア派の思想を大いに利用した。アウグスティヌスにおいて神学と哲学の一部が統合されたことは、その後の西洋思想史を語る上で絶対に外せない重要な出来事である。2025/11/21 00:26:06990.◆JBLfMwCXhYnFz5E9902025/11/21 00:26:16991.◆JBLfMwCXhYnFz5E当時(今もだが)キリスト教は「神が作った世界になぜ悪が存在するのか」という問題を抱えていた。「悪」という性質がこの世に存在すると考えると・神はもともと「悪」という性質を持つ・神に制御できない「悪」が存在するなどの仮説が立てられるわけだが、教会にとって上記の解釈はどちらも都合が悪い。神は全知全能でなければいけない。「悪」という性質を持っていてはいけないし、制御できない「悪」があってはならない。アウグスティヌスはこの問題に対して「悪という実在は存在せず、悪だと見做されているものは全て善の欠如である」と主張した。2025/11/21 00:26:40992.◆JBLfMwCXhYnFz5E君のための「悪=善の欠如」神は世界を「善」でもって創造した。そして、世界はとても多様な性質を持っている。世界が神の「善」のみによって作られていると考えた場合、そこに濃淡がなければ世界の多様性はありえないだろう。だから世界における善には濃淡がある。その濃淡、つまり善が濃い部分と薄い部分を相対的に観察すると、私たちが「悪」と認識するような事物が認められる。だから「悪」という実在が端的に存在するのではない。私たちが「悪」だと思っているものは欠如した善なのである。多少詭弁にも思えるが、言っていることはもっともらしく聞こえる。2025/11/21 00:27:01993.◆JBLfMwCXhYnFz5E彼はまた原罪についても言及する。原罪とは、最初の人間であるアダムとイブが犯した罪(知恵の実を食べてしまった)のことだ。アウグスティヌスは、彼らの原罪は「罪を犯してしまう性質」として全人類に遺伝すると考えた。人間は生まれたその瞬間から「罪を犯してしまう性質」という根本的な罪を背負っている。そして、信仰によってしか原罪から救われる方法はないという。現代のキリスト教でも彼の現在に対する解釈が支持されている。2025/11/21 00:27:15994.◆JBLfMwCXhYnFz5E何かの「悪」があったとき、私たちは普通それを「悪という実在」だと認識する。それはすなわち、その「悪」を持つ人間を「悪という性質を纏った人間」だと解釈することでもある。だから対象を許せない。「悪」と「善」には超えがたい距離があるように思うから、「悪」はいつまでも穢れとして対象にこびりつく。しかし、その「悪」を「善の欠如」だと捉えたらどうだろうか。確かにその行為は「善の欠如」という意味で糾弾されるものではあるだろうが、「善の欠如」と「善」の間には地続きに道が繋がっている。後者の考え方のほうが、罪を犯してしまった主体の更生に対してより柔らかい認識を可能にするのではないだろうか。彼の思想は確かにキリスト教を擁護するものだった。信徒に向けて発せられた言葉であった。しかしその言葉は、キリスト教を信仰しない者にも響くのではないだろうか。2025/11/21 00:28:11995.◆JBLfMwCXhYnFz5Eなるほど2025/11/21 00:29:44996.◆JBLfMwCXhYnFz5E悪はない2025/11/21 00:29:57997.◆JBLfMwCXhYnFz5E善の欠如があるだけ2025/11/21 00:30:11998.◆JBLfMwCXhYnFz5E原罪は遺伝する2025/11/21 00:30:35999.◆JBLfMwCXhYnFz5E次スレキリスト教 悩み相談室 115https://talk.jp/boards/psy/17632517282025/11/21 00:30:591000.◆JBLfMwCXhYnFz5E10002025/11/21 00:31:231001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2025/11/21 00:31:231002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2026/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2025/11/21 00:31:23
【国際】トランプ「同盟国の多くは友達じゃない」凍りつく…高市総理は台湾有事発言で米に見捨てられたか? 撤回できず、前にも進めず「八方塞がり」ニュース速報+8192229.82025/12/05 20:34:20
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【初心者】キリスト教@歓談室113【歓迎♪】
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19. バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。
20. ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。
21. しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。
22. ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」
23. けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよでなっていった。
24. それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。
25. すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
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静かだな?
😆
このため、人間が善行をなすためには神の恩寵が不可欠であると主張しました。彼は、自由意志が正しい行いに使われるためには、神の助けが必要だとしました。
善と悪の選択: 人間は神から善にも悪にも選択する自由を与えられているとしました。
悪の原因: 悪は神が創造したものではなく、人間が自由意志を誤って用いた結果(罪)であるとしました。
神の恩寵の必要性: 罪におちた人間は、自らの力だけでは善に立ち返ることができないため、神の恩寵(助け)が必要だとしました。
自由意志と救い: 人間が善行をなすことができるのは、神の恩寵によって自由意志が正しい方向へ導かれるからだとしました。
アウグスティヌスの自由意志論は、後の神学や哲学に大きな影響を与えました。
特に、救いにおける個人の自由意志の役割をどのように位置づけるかについて、様々な解釈や論争を生みました。
カルバン主義の自由意志は無い派は
アメリカではバブテストもはいるのでスタンダードだけど、
キリスト教では
多数派は本来、自由意志派のような気がする
😆
「カリタス」とは、神を無償に愛することを言います。
アウグスティヌスは、人間にとって最も大切なことは、見返りを求めずに神を愛することであり、それによって幸福になれるのだと主張しました。
アウグスティヌスは、私たちが生きている世界は、「神の国」を元に創造された「地の国」であると説明しました。
そして、たとえ「地の国」が異民族によって滅ぼされたとしても、「神の国」では永遠の安らぎが得られると主張しました。
具体的には「神の国」は教会のことを指しており、この理論は正統派のキリスト教を理論的に支えることになりました。
アウグスティヌスは、「善である神が創造した世界に、なぜ悪が存在するのか」という問題に取り組みました。
その問いに対して彼が出した結論は、「悪は実在せず、善からの逸脱である」というものでした。
つまり、「悪」は本質をもつものではなく、善が欠けている状態にすぎないということです。
アウグスティヌスは、アダムとイブの罪(原罪)が全人類に遺伝すると考えました。
そして、この原罪から人間を救えるのは、キリストの犠牲だけであると主張しました。
この考え方は、現代のキリスト教にも受け継がれています。
聖アウレリウス・アウグスティヌス(354年-430年)はローマ帝国時代のカトリック教会司教であった。彼が主張した「神の国」という考え方は、当時の正統派のキリスト教(カトリック)を支える精神的柱になった。それもあり、彼は今でもカトリック教会において「最大の教師」と呼ばれている。
・神はもともと「悪」という性質を持つ
・神に制御できない「悪」が存在する
などの仮説が立てられるわけだが、教会にとって上記の解釈はどちらも都合が悪い。神は全知全能でなければいけない。「悪」という性質を持っていてはいけないし、制御できない「悪」があってはならない。
アウグスティヌスはこの問題に対して「悪という実在は存在せず、悪だと見做されているものは全て善の欠如である」と主張した。
神は世界を「善」でもって創造した。そして、世界はとても多様な性質を持っている。世界が神の「善」のみによって作られていると考えた場合、そこに濃淡がなければ世界の多様性はありえないだろう。だから世界における善には濃淡がある。その濃淡、つまり善が濃い部分と薄い部分を相対的に観察すると、私たちが「悪」と認識するような事物が認められる。だから「悪」という実在が端的に存在するのではない。私たちが「悪」だと思っているものは欠如した善なのである。
多少詭弁にも思えるが、言っていることはもっともらしく聞こえる。
しかし、その「悪」を「善の欠如」だと捉えたらどうだろうか。確かにその行為は「善の欠如」という意味で糾弾されるものではあるだろうが、「善の欠如」と「善」の間には地続きに道が繋がっている。後者の考え方のほうが、罪を犯してしまった主体の更生に対してより柔らかい認識を可能にするのではないだろうか。
彼の思想は確かにキリスト教を擁護するものだった。信徒に向けて発せられた言葉であった。しかしその言葉は、キリスト教を信仰しない者にも響くのではないだろうか。
キリスト教 悩み相談室 115
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