Camera Hack: Make A Mirrorless Camera Into A Digital View Camera
The first part of this article will explain some of the motivations for taking on such a project. I’ll begin by explaining how a view camera is made. If you want to see the hack and results, skip ahead to Part II. ...
嫌なら法定通り死ね
先週は満開のハスの花を撮りに行ったんだが暑かった。
黒い冠布は地獄だね。
貼り革も蛇腹も大丈夫だが、人間が弱くなった。
また冠布の外を黒にする馬鹿が現れた
赤黒じゃ無くてグレー黒や白黒の冠布でも同じ事をやるのか馬鹿を通り越してアフォか???
赤黒でも黒を内にした方が明らかに迷光の量が減ってピングラが明るく成るぞ
ああ実用や写真の出来を追及するの何かどうでも良い奴かwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まあ多少でどっちにしても真夏の大判の冠布の中は何秒と居られない世界だが
と言うかどうせ車か碌に歩きもしないんだから涼しい光源でニッコウキスゲはもう遅いか半高山植物の花でも大人しく撮ってたらどうだ
排ガスを大自然にぶちまけながらなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ちゃんとティルトを生かして撮ってるの???ちゃんとしょっちゅうアオってるのか?????wwwwwwwwwwwwwwww
素晴らしいコスパですね~~wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
仕舞いには逆アオリとか
大判と写真を舐めてるとしか思えない
リアルフォトを守らなければならない
その為には富士フィルムとコダック社から似非保守のネトウヨや自民支持者からの断然を宣言させねばならない
ああ恥って概念が良い意味で在ったらそんな犯罪者に成り下がって無いかwwwwwwwwwwwwwww
普通の知性と理性が欲しい人間なら自分の命を掛けてやるってもんだ
そういう常識からかけ離れてる悪い意味で恥の無い人間は今直ぐ自決すべしすべきだ
何度でも言う自決レベルの覆しようが無い大恥をちゃんと恥じて今直ぐ死ね
俺の情熱とそれ故の『正義』を舐めてるのかゴミ共よ
一応俺はその当初から民主党支持者だ
その話しに挿げ替えてでも良いから真剣に自他の人命と自他のお体の安全痛みを掛けて俺と戦えゴミクズ共
18時間 ・
プライバシー設定: 公開
代表就任後のコイツの言動を見て今回でやっと気が付いたよ俺も
俺の地元浜松では市内最底辺の私立女子高校が毎年ホテルを貸し切って
テーブルマナーを教える授業が恒例化していて地元TV局が毎年の風物の様に報じていた
つまり最底辺の自称日本人の女はやはり最底辺の自称日本人の土地成金に股を開くしか人生を逆転出来る可能性はミリ単位無いと
県と市と地元民放を挙げて毎年言い続けていた訳だそれと全く同じ匂いがする一応言って置くが食への冒涜に成らないなら二次裏住人にも言い訳をして置いた方が良いぞ
タダの環境負荷と殺傷力がたっぷりの化学汚染物質の権化
自力で金を稼ぐ能力才能は事実として全く無いネトウヨと似非保守と自民党員自民支持者と詐病虚言癖共
と表で大騒ぎすると良いwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
さあ早く!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
その時点で何も勝ち目が無かったと言うwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
知恵遅れ知的障害が同じ境遇とその金蔓目当てに死刑量刑を選ぶ正にゴミに集るゴミwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
早く医学者かそれが無理なら医師に成ってね医療従事者でもいいかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
何???成れない知能????即死刑じゃんその言動が出た我慢出来なかった時点でwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
憲法も国連憲章も想定外の知恵遅れ知的障害の集団だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
『自民・維新・民民・N党・参政は一切応募できません締め出します』
って事にすべき
創価公明と日本共産党が良くて何が自分が人間以下未満の存在だったか良く考えろ産廃生ゴミ以下未満のゴミクズ共
それでFacebookの友人知人にその人の出品している品物のURLを教えて皆で彼が作例として出している立派な写真作品を鑑賞したのである。
傍流写真同名でもそうであるがeBayのような画像の画質が充分ではない写真であっても我々は表現としてその基本的な形を認識することができるのだ。ここが非常に重要なポイントだね。
世の中がヘンテコリンなことになっていて写真展をやると言う事は写真を見せるのではなくその重要な目的が写真を見せることよりも社交のほうに重きが置かれているのはお笑いである。
ロバートフランクの写真展を見に行ってあるいはロバートキャパの写真展を見に行って写真家本人が会場に来からけしからんと言っているのと同じことである。
それとも1点ここに示す写真は確かに解像度などは低くてeBayの出品したカメラの作例として出しているのであるがこれだけで充分この出品者、と言うよりもこの写真家の視神経のクオリティーというのがちゃんとわかる。
ここで重要なのは傍流写真同盟もまさにそのムーブメントなのであるがオンラインで写真を表現すると言う事は100数十年前のニューヨークカメラクラブの時代には全く不可能なことであった。
表現者としての理解の初心者さんが傍流写真同名のようなグループを作ってしまうと、次の段階はペーパーに印刷した写真集の出版であるとか、どっかの会場でグループ展などと言う方向にすぐ行きたがるのであるがこれは間違っていると思う。
オンラインで写真を表現するなら、コストも時間も自由だし、実際に写真を並べる。写真展というのが面倒なのは写真を見に行くのではなくて社交辞令になってしまうからだ。それ故、このような写真の表現方法が今の時代には1番よろしいと思う。
において、 IT x アート & IT x スポーツ のビジネス
をやっていきたいと本気で思っておりますし、それは今の私の強み
でもあると思っています。
アートもスポーツも日本社会においては、教育コンテンツの一部と
みられており、ビジネスとして確立するのか難しい状況です。
しかし、これからは税金でアートもスポーツも支えることが難しい
ことは明らかですので、自立するためにもアートもスポーツも
ビジネス化をしていくことが求められています。私にとってビジネス
とはサステナブルに事業を継続するために必要な資金を寄付でなく、
事業によって生み出すことだと思っています。
これらの事業を運営する資金を得るために、IT活用が必要となって
きており、実際に今の画廊ビジネスにおいてもSNSによる集客やHP
での情報発信が重要な時代となってきています。
好きなことが仕事になることは、人生でとても幸せなことであり、死ぬ
まで社会に関わりつづけることが心の平穏と幸せに大きくかかわっている
と感じています。
自分をセルフブランディングしていくことは、自分という作品をどのように
仕上げていくかという事でもあり、これからもより自分を磨いていきたいと
思っています。
今では大観光地になっているソーホー地区であるが、当時はまだ人はあまり通っていないからんとした感じの環境だった。私が住んでいたロフトは元は人形工場であったと言う。要するに、あの当時のアメリカの軽工業というのがその主体が日本に移って、それから何十年か経過して、今度は中国のほうに移っていったと言う構造になる。
これはソーホー地区の私がいたところから、ストリートをちょっと下がったところにある不思議な空間であった。ちょっとした広場のようになっていて、その中心部に車の壊れたパーツが山積みされている。一瞬の車のパーツの墓場みたいなもので自然にそうなったのか、それともアーティストが作ったのかも。わからない不思議さというのが面白かった。その広上いたところから来た人分買って、カメラを構えたのがこの作品である。
真ん中にある小さな建築物等はマンハッタンのかなり初期の建物だと思う。そしてそのバックに壁面だけ見せているのが面白い建築物で、建物のそれぞれのフロアの土台を固定してある所が結構おしゃれな星のマークがついている
この建物の側面には、巨大なコカコーラの看板があった。ベレニスアボットが変貌するニューヨークと言うタイトルの写真集で1938年頃に撮影している。New York Cityの場合は、戦争にもやられていないから、やたら古い建築物が残っているのが面白い。
オンラインセールスで田中長徳ギャラリーと言うのをやっていて、この時代に撮影された8 × 10インチシリーズをセールスしているのであるが、このワンショットと言うのは、なかなか写真家としては好きなのだが、一般的には注目されない作品だと思っていた。それが割と最近北九州市のコレクターさんがこの作品を購入したのである。なかなかすごいなと思った。
これを企画したディレクターの人が、立石の神社の立石様の底に面した所がご自宅であって、色々と面白いところを教えてもらった。だから日本髪のビデオテープなのだけど、撮影の印象としては、代官山より立石の方がクラスが遥かに上である事は言うまでもない。
ビデオの冒頭部分でバルナックライカで立石の路地裏のワンチャンを撮影して、そのワンチャンに向かって写真ができたら送ってあげるからねと言っているのが面白いがこれは実話なのです。ウィーン時代にアパートの窓から顔出している。猫ちゃんを撮影して、それは8 × 10インチのプリントに伸ばして、実際にその猫ちゃんがいるアパートメントの外側に封筒に入れて、ガムテープで貼ってくるというのが私のボランティア活動だった。
それにならって、ライカイズムバルナックでも、実際にできたプリントをワンちゃんの家に届けているのである。
撮影したのが25年前のことであるから、その頃は呑ん兵衛横丁も健在で私がライカで撮影をしているとビデオ宮が後ろ向きで私と距離をとりながらバックで歩いて行く。そこで私がいきなりビール瓶が危ないと言うと、カメラマンさんが足を滑らして、ガラガラかっちゃんと言うところも本番では使っている。
これが呑ん兵衛横丁のスナック三枝と言う名前のお店の前で台本通りと言うわけではないが、そこにスナック三重のママがやってきたので、私がいきなりその人にインタビューするなどと言う三流ダイフォン作家には書けないと言う面白い展開もあった
コンビニや家電量販店で手に入るような商品の広告と、ピンポイントで相手を選ぶ広告です。
このメルマガはビジネス向けの内容ではないので詳しくは解説しませんが、結論を言うと、真似すべきはピンポイントで相手を選ぶ広告なんです。
「こんな人におススメです!」と特化した内容の広告を出して、それに反応した人が商品解説を見て「これはまさに自分のために作られた商品だ」と感じさせて購入させる、という流れを設計するのが、この広告の基本です。
当然、内容はやや偏ったものの方が効果的です。
「頭痛にも二日酔いにも筋肉痛にも効きます」という万能薬ではなくて、「とにかく頭痛を素早く抑えます。それ以外には効きません」という方が魅力的に見えるからです。
映画も同じで、いろいろな嗜好を持つ観客に満遍なく訴求する内容にするのではなくて、ピンポイントに偏った内容にする代わり、「その嗜好に合う人ならかなりの確率で満足する」という内容にすると、評価されて次に繋がるモチベーションが生まれるという状況になり得ます。
これは、作者本人はもちろん、協力者にとっても必要な状況ではないでしょうか?
この状況を作るためには、
・作者が情熱を十分に注げる内容であること
・一定数のマニアックな観客がいるジャンル
をよく考えて、ベストな組み合わせを探すことです。
映画ではオリジナリティが重視されると言いますが、実際に必要なのは「新しい組み合わせ」です。
「サメ映画」が好きで、同じような内容でも喜んで応援する観客にとっては、「江戸時代+サメ」という新しい組み合わせが魅力かもしれません。
私の「妄想映画リスト」の中には、「戦国時代+エイリアン」があります。
クライマックスでは、エイリアンを安土城の天守閣に誘いこんで城ごと焼き殺すというものです。
映画のベストワンは「ローマの休日」という人には見向きもされないとは思いますが、一部の熱心なマニアの観客には喜ばれると思いませんか?
せっかく作るなら、テレビでも映画館でも見かけない、個性的な作品を目指してはどうか、という提案です。
映画はわざと画質落としてるやろ
「どうすれば相手は欲しくなるか?」に
もっとフォーカスした方がいいですね。
経営者は、理屈派が多いので
つい必要性や機能性に
意識がいってしまいがちですが
大多数の人は感情派ですので
くれぐれも気をつけることを
お勧めします。
ぜんぜん役に立たないのに
機能がいいとも言えないのに
人生に悪影響なのかもしれないのに
売れているものを調べると
相手の感情を動かす
売り方が見えてきます。
LLMは、基本的には「次の単語を予測する」ことにより、一見知識があるように振る舞いますが、実際に内容を理解しているわけではなく、単に統計的に次の言葉を予測した結果、もっともらしい文章を作り出しているだけです。そのため、文章の要約や生成は得意ですが、数学の計算は不得意です。
「Q*」が何であるかは不明ですが、それにより人工知能が数学を「理解」し、「論理的にものを考える」ことが出来るようになったとすれば、それはAGI(汎用人工知能)への第一歩であり、人類全体への脅威になりかねず、それがSamの解雇へと繋がったとこの記事は指摘しているのです。
逆じゃないでしょうか?
ぼーっとする時間「も」大切なのではなく、ぼーっとする時間「こそ」大切なんだと思いますよ。
なにしろ、現代社会の一日の情報量は、江戸時代に生きる人々の1年分に匹敵すると言われており、我々の頭はそれを処理できるようには出来ていません。
ですので、情報と人付き合い(と食事)を制限したり、夕日を何時間も「ぼーっと」して見たりしないと、本人も気がつかない過度なストレスが積み重なりあって疲弊してしまいます。
ですので、意識的に「ぼーっと」する時間を日々必ず決めましょう。
僕は、音楽を聴いてサンセットを見て楽しむ時間を、日々のスケジュールに記載しています!
情報を受信して消費する側にいるだけの人にとっては、その情報源が増えただけなので「より便利になった」という印象しかないかもしれませんが、情報発信者にとってはインターネットの有無は雲泥の差です。
例えば、昔から趣味で小説を書く人は一定数いました。
私が高校生になったとき、仲良くなった同級生が映画マニア・小説マニアで、普段から脚本や小説を書いている事を知ったときの衝撃は今でも憶えています。
しかも、原稿用紙に手書きで書かれた物語はどれも面白く、普通に小説を読む感覚で楽しめるレベルだったので、アイデアだけでなく文章力も高かったのだろうと思います。
そんな、アマチュア作家は自分の作品をどうしていたかというと、もちろんコンテストに出品することもあるでしょうが、多くは死蔵させていたんです。
コンテストに出品しても受賞しなければ世には出ませんから、結果的にはやはり死蔵です。
マンガや映画なども同じです。
その業界で認められない限り、完成作品を目にするのは非常に狭い仲間内だけになります。
一つ勘違いしてはいけないことは、「商業的に認められないからレベルがとても低い」とは限らないということです。
もちろん、プロは膨大な経験をする中でさまざまな技術を向上させますから、皆、一定以上の技術レベルを持っています。
ただ、「商業的に認められない理由」は必ずしもレベルの低さとは限らないんです。
理由の一つは「需要の多さ」です。
その作品を商品にするためにはコストが掛かります。
価格は相場が決まっているので、「いくつ以上売れないと赤字になる」ということは最初から分かっているわけです。
例えば、マンガや小説を販売して黒字にするためには2万人に買ってもらう必要があるとします。
その作品のレベルが非常に高くて面白かったとしても、ジャンルが特殊だったりして、買ってくれるファンが200人しかいなければ、商業作品には出来ないわけです。
ただ、200人のファンには熱狂的に支持される可能性があります。
走ったり飛び跳ねたりするとは違う、溶岩がゆっくりと動き出すような、目を凝らさなければ
消えてしまうような動きから、命の強さや、流れる時間を感じるのだと思います。
石を彫っていると、生と死の循環や、また自分もその一部であることを感じることができます。
人と自然とのほどよい距離感を探りながら、微かな動きを表そうと石を触ります。
ただそれを繰り返しているだけなんです。
ただし、ひとつ前のご質問でお答え申し上げましたように、「一見離れているように見える」最先端の事象をふたつ以上「混ぜて別の価値を見出す」ことに何よりの興味を持っています。
美味しいコーヒーは、飲んで体に入れば生化学反応が起き、直後に脳が働いて体に影響を与えます。
しかし、多くのコーヒー関係者は品種や産地、プロセス、味などに興味を抱いても、生化学反応はまったく無関心です。
実に不思議な話しです。
一般的に競争相手が少ない業界を「ブルーオーシャン」などと呼んでいますが、それは見つけ出すものではなく、自分で作るものなんですよ!
冷蔵庫とトラックが混ざって「クール宅急便」が生まれたように、出来るだけかけ離れたものをリミックスする。
これがお求めの「取り組み」だと思いますね。
ちなみに、僕は長年のDJ経験を通じて、あらゆるものを「混ぜるセンスを体感的に磨いた」と自負しています。
是非、7年かけてリミックスの妙技を!
コスパと節約ばかり考えた
守りの姿勢でいますと
収入が増えませんので
気を付けたほうがいいですね。
むしろ、高い家賃の家に引っ越したり
高額講座にお金を払ってしまうほうが
稼がなきゃいけない理由ができるため
稼ぐことを考えるようになって
収入は増えていきます。
「いかにお金を使わないか」ではなく
「いかに多く稼いで、いかに多く使うか」
に考えを切り替えないと
本当にジリ貧になりますので
くれぐれも気を付けましょう。
別の方法として、直面した問題を独り言のようにSlackで呟くこともあります。問題を文章にするだけで答えが見えてくることもあるし、その書き込みを読んだ人からアドバイスをもらえることもあります。
The first part of this article will explain some of the motivations for taking on such a project. I’ll begin by explaining how a view camera is made. If you want to see the hack and results, skip ahead to Part II. ...
特にいい学校で学んだ人は
奴隷教育ではなく
支配者教育を受けていますので
日本人のように考えません。
稼いでお金を貯めるのは
まだ半分の折り返し地点であり
使ってはじめてゴールと
考えているのです。
お金というのは
あくまで道具であり
それを手に入れて使って
はじめて良い人生になると
考えているわけです。
そして、実際のところ
イギリス人は世界で一番
お金を使うのが上手く
人生を満喫している人多数です。
節約ばかり考えてきた場合には
もっと上手く使うことを
考えてみることをお勧めします。
日本人は「資産を増やしたい」とか
「資産を減らしたくない」と
考える人ばかりなのですが
この考えにより人生を謳歌できない人
だらけですね。
人生を最大限に満喫するためには
支配者イギリス人のように
「お金は使わなきゃ意味がない」
「貯めとくだけなのはバカ」と
考えるようにすることをお勧めします。
私の知り合いに劇団の芝居を書いて自らも演じている役者さんがいました。
親しくしているときは何度も芝居を見に行ったり、映画に出演してくれたお礼として公演の撮影をしていたんですが、物語の内容がなかなか面白かったんです。
後に、マニアでもない私のような観客が「面白かった」と思える小劇場の芝居はほんの一握りしか存在しないことを知るのですが、ともかくもその劇団の芝居はレベルの高いものだったようです。
特に伏線回収が見事で、役者さんたちの魅力も相まって「面白かった!」という印象が毎回残る舞台でした。
雑談の中で作家本人に「どうやって話を作るんですか?」と尋ねたことがあります。
どんでん返しから逆算して設計するのか、用意したエピソードを有機的に結びつける手法なのか、と思ったのですが、答えは、
「いや、何となく設定を決めて、キャラクターのやり取りを書いていくと、最後はうまいこと纏まるもんですよ」
というものでした。
本人は実際にそういう感覚で作っているのかもしれません。
そして、お気付きだとは思いますが、これは才能がある人のやり方であって、多くの人はこれを真似ても上手くいくわけがないんです。
「天才」に憧れを持ったり、エピソードを楽しむのは自由です。
私も大好きです。
でも、その通りに真似しちゃダメなんです。
また、ルーク・バージスの「欲望の見つけ方」は、暴力と宗教を専門とする人類学者ルネ・ジラールの「模倣の欲望」理論を体系化した一冊ですが、僕が人生を大きく変えたい方にオススメしているのは、環境を大きく変えることに他なりません。
ジラールが何度もいうように、人間は絶えず模倣するので環境の影響に贖えない生き物ですが、では、その環境とはなんでしょう?
それは、食事と物欲、そして人間関係だと考えます。
つまりは、食生活を大きく変え、モノを減らし、どこかに引っ越して人間関係を大きくリセットすれば、誰でも人生は変わるんですよ!
欲望の模倣的性質は、社会的学習を通じて成功をもたらすこともありますが、同時に暴力的エスカレーションの可能性もはらんでいる点に注意が必要です。
この暴力とは、非難と敵意を集団の一人に集中させ、そのメンバーを物理的もしくは社会的に抹殺することだと、ルネ・ジラールは言います。
これが、「スケープゴート・メカニズム」です。
おそらくご質問者は気がつかなくともなんらかの「スケープゴート・メカニズム」のなかにいるので、「人間関係の構築の方法について悩んで」いらっしゃるのではないでしょうか。
つまり、一度冷静になるためにも、環境を大きく変えることをオススメします。
まずは、食事の見直しと人生最大規模の大掃除を!
長年、自主映画を作ってきて、自分や知り合いの作品を見返すたびに感じるのは、「変化してしまうものを記録できた」という嬉しさです。
もちろん、映画であれば、普段見るテレビや映画作品とは一味違う切り口の作品に仕上げたい、という欲求はあります。
でも、仮に何の変哲もない「よくある作品」だったとしても、そこに映っている景色がもう今は変わってしまっているとか、若い頃の自分たちが写っているといったような「記録」の部分も重大な価値を持っている事を痛感します。
そしてその「記録」の部分の価値を感じるのは、関係者だけでなくインターネット経由で作品を見た、見知らぬ人だったりします。
とかく「創作者」を高尚に捉えたがる人は、作品の内容だけで勝負したがりますが、「鑑賞時間」という貴重なコストを払って見る人には、どんな内容であれ、出来る限りコストに見合った満足感を味わってもらえるように工夫する必要があります。
「ここが良かった」と喜ばれることで、発信した側の承認欲求も高まることを意識すると、関わる人同士で満足度の高い創作活動が続けられると思います。
スクリーンと蛇腹が凍ったので乾かすの大変でした(
Chat GPT4開始当初は大きな進化を感じましたが、例のお家騒動前後あたりから、明らかに表示や表現に以前よりキレがなくなりました。
現行のシステムを維持するためには、1日10億円以上かかると言われていましたから、こっそりコスト削減が行われたんでしょうね。
組織は確実に劣化していますので、行方を見守りたいところです。
さて、2020年代に入って、最初の三年間は驚くほど世界の変化がありました。
AIの一般化以外にもパンデミック、人類史上類を見たことがない金融緩和、BRICsやグローバルサウスの台頭など、4年前と明らかにルールが変わっています。
今週から2024年になりましたが、これから2030年までの7年間、世界はもっと大きく変わるでしょう。
目先の「ChatGPTの進化」に捉われることなく、世界を俯瞰的にみて、ルールの変更に気をつけるようにしてください。
日本の芸能界の問題ひとつみても、いままでの常識は明日からの非常識に一瞬で変わるのです。
その時に備え、常にご準備を(チャンスを見逃さず、モノにしてください!)。
それが、CG映像にはない魅力として、印象に残る理由だと思います。
ミニチュア工作を使うこと自体が大きな工夫ですが、その材料入手でもさらに工夫をしてみてはいかがですか?
私もこの辺でやめときます
ヤフオクメルカリでとびきりのレンズ(イコール高額モデルではなく、状態の良いレンズや相性の良いレンズ)を破格で入手できることもありますし、店頭のジャンクのレンズをちょこっとメンテするだけで使えるようになることもありますし、親戚の爺さんのお古をもらえることもありますし
中には「こういう撮り方は失敗映像に見えるから避けた方が良い」とされる撮り方を、おそらくわざと選択して「その法則はセンスがない人のものですよ。センスがあれば関係ないでしょ?」ということを見せつけているきらいがあります。
あなたが天才でない限りは、「なるほど、法則は無視しても良いんだ」と思って真似しないのが無難です。
もう一つの「参考にしてはいけない映画」は、構造的に「面白い理由」が解析できない作品です。
私も大好きな作品の中に、何度も見直して楽しんではいるものの、構造的にそれほど優れている気がしないものがあります。
「役者の魅力」「音楽」「映像」の魅力が飛びぬけているせいかな?とも思いますが、仮にそうだとすると、再現性は極めて低くなります。
鑑賞者として楽しむのに留めておいて「この映画を参考に同じ魅力を持つ作品を作ろう」と思わないことです。
創作者として注目すべきなのは、面白さが構造からきている作品です。
物語の構造は再現性があるからです。
もし、その構造自体が物語を面白く感じさせているとすれば、映画で言えば予算には関係なく、一定レベルの面白さを表現できると思っています。
まあ、結論からいうと、構造的に面白い作品はベタな映画です。
極論すればベタ映画企画が最強だと思います。
創作者は2つのタイプに分けられるといいます。
1つは「ベタ」を理解・応用して、多くの観客を楽しませるタイプ。
もう1つは、既成概念を根底から覆すような、全く新しい作品を模索する「超改革者」タイプ。
「創作者たるもの、超改革者を目指すべきだ。観客を喜ばせるようなベタな作品を作るのは、金で魂を売るような愚行だ」と一生懸命に主張する、クリエイター原理主義とも言えるような人たちがいて、彼らはとかく、商業的に成功した作品を貶しにかかりますが、一言で言ってそれは「妬み」です。
私は超改革者は全体の1%くらいは必要だとは思いますが、商業的成功を貶すメリットは0%だと思っています。
昔の映画、コミック、その他新聞の一コマ漫画とかで日本人はカメラをほぼ必ず?胸に下げている、という描写を思い出してしまいました。(ひどい描写では出っ歯で)
その頃の日本人は高性能なカメラを手に入れられてた、という比喩だけだったと思います。写真をシェアするつもりもなく(手段も無いですが)、アルバムに貼っていくのを楽しんでいただけだと思います。(家族や友人に見せる程度)
上に見られるような、「体験そのもの、よりもシェアすることを重視する」行動は、(良し悪しは別として)スマホというカメラ付き常時接続デバイスを得た人間の、自然な行動なのだと考えた方が良いのかも知れません。
人類の根源的な欲求の一つなのかも知れません。古くは壁画、絵画、そして写真、映画の発明と。
人類が探検をしたり、居住地を増やすために冒険をするのと同程度の根源的な本能な気がしています。しかも壁画と違い現在は世界中から簡単に称賛を得られるとしたら歯止めが効かないと思います。
このまま進化すると上手く演算(?)して纏めると人類史の良さげな記録になるかと思いますが。エクストリームな層はLikesを集めるために建設中のビルに登って落下してLikesを集めるという訳分からんことになっていると思います。それも人類史の一つとして記録には残ると思いますが。
そしてインスタネイティブの子供達が今後どうなるのか、気になっています。
一つだけはっきりと言えることは、スマホの存在が、人間の行動を変えてしまった、という事実です。暗闇の中で進化した魚が目で見る力を失ってしまったように、人類も、スマホ・インターネット・人工知能という便利な道具を得たが故に、何かを失いつつあるのかも知れません。
皆さんのおかげです。ありがとうございます。
ただ、人々がアートに感動したり、お金を出す場合には、その背後のストーリー(アーティストの人となり、など)も大切なので、その点では、人間には敵わないと思います。
現場を見る限り、人工知能が新たなアートの分野を切り開くのではなく、アートのコモディティ化を起こす可能性が高いと思います。これまでであれば、自分の(もしくは恋人の)肖像画を描いてもらうには莫大なお金がかかりましたが、今やオープンソースの人工知能を使えば、ほぼ無料で出来てしまいます。
結果として、富裕層のみが人間が作ったアートにお金を出し、それ以外の人は人工知能で作ったアートをほぼ無料で入手する、という二極化が起こるのだろうと予想できます。
要は、「需要」よりも「供給」の方が多いので、売れないんです。
演劇や小説の創作講座の現場の声でも、「自分で作りたい人は多いが、その人自身からして他人の作品を鑑賞する習慣がない」と聞きます。
「小説を書いてみたい」と講座に来た人に対して「どういう小説がお好きなんですか?」と聞くと、「小説はあんまり読んだことが無いんです」という、不思議な状況が実際に増えているそうなんです。
ですから、「品質の良いものを作っていれば、そのうち誰かの目に止まり、売れるようになる」という、「供給」が不足していた時代の成功パターンは全然、通用しないんです。
これはどの分野にも言えることでしょう。
アトラクションとして「見たこともない形式の映画」が楽しいのは確かですが、フォーマットそのものを変えることで効果を出そうとするのは「ちょっとずるいかな」という感覚があるんです。
例えるなら、文庫本。
厳密には微妙にサイズ違いがありますが、まあ、文庫本と言ったら各社、だいたい同じ体裁で売られていますよね。
そこに正方形の本を並べたら、確かに目立つし、場合によっては「読みやすい」という発見もあるかもしれませんが、奇をてらい過ぎだろうという気がします。
作品がつまらなければ「体裁より中身を良くしろよ」と思いますし、作品が面白ければ「余計なことをせず普通の体裁にすれば良かったのに」と思うでしょう。
スマホがインフラになり、誰もが気軽に写真を撮る時代になりました。写真が好きになって、そろそろカメラを買おうかなと思っている方も多いのではないでしょうか。いいカメラを買って、もっといい写真が撮りたい、と。
写真家のワタナベアニ氏が物語形式で展開する異色の新刊『カメラは、撮る人を写しているんだ。』から、「いいカメラ」と「いい写真」に因果関係はない、ということを説く一節を紹介します。「カズト」という写真の初心者が、「ロバート」という写真家とカメラを買いに行く場面です。
いいカメラを買えば、いい写真が撮れるのか
カメラ量販店・池袋西口『リトルカメラ』のカメラ売り場。
「カメラってたくさんあるなあ。ロバート、最初に買うカメラって、どういう基準で決めればいいんでしょう」
「カメラは写真を撮ることのほんの一部でしかない。適当に決めていいよ」
「適当って。そんな雑に言われても」
「ここに並んでいるどのカメラを買っても、趣味はもちろんプロフェッショナルとしての仕事までできるってことだ。最近のカメラの性能はエグいからな」
「本当ですか。プロ向けと初心者向けのカメラは別でしょう」
「そんなことはない。ママが運動会で使っているコマーシャルをするような機種だって、数年前のプロフェッショナル用のカメラと遜色ない、エグいスペックを持っている。使おうと思ったら十分に仕事で使える」
「じゃあどうしてこんなに高いのと安いのがあるんですか。この十万円のカメラと百万円のカメラで同じことができるとは思えないんですけど」
「だったら、いつも百円の鉛筆でデッサンしている人が千円の鉛筆に替えたら、急に絵はうまくなるか」
「ならないでしょうね。理屈で言えば」
「理屈じゃない。ロジックだ」
「ではなぜプロは百万円のほうを使うんですか」
「信頼性があること、特殊な撮影に対応していること。それくらいだろうな」
「ブランドではない。プロフェッショナルの仕事は『絶対に失敗しないこと』が前提だから、とにかく壊れにくくて頑丈なものを選ぶんだよ。かなりアホっぽい理由だろう」
「壊れにくい信頼ってことか」
「冗談ではなくてそれが一番大事なんだ。あとは特殊な撮影を求められたときに対応できる機能があったほうがいい。仕事で使う場合にはそれらが不可欠なんだけど、ママが子どもを撮るときには、使わない機能を省いた小型・軽量なカメラのほうがいいだろう。スペックというのは数値であらわれる性能の優劣ではなくて、使う人が実現したい目的で決まるんだ」
「たしかに仕事で『撮れませんでした』はありえないですよね」
「うん。商業的な撮影ではモデルや大勢のスタッフ、ロケーションの渡航費やホテル代、制作費をすべて合わせると数千万円かかることがある。それが『カメラが故障したので撮れませんでした』では大損害になってしまう」
「たしかに」
「だから私たちは同じカメラを必ず二台買うんだ」
「それは壊れたときの予備ですか」
「そう。もちろんほとんど壊れないから、私は過去に予備のカメラを使った経験はないけれど、それでもスペアのカメラは必ず持っていく。保険だからね」
「そのほうが安心できますね」
「保険と言えば、二台のカメラを同時に買うこともない。カメラの製造時期がズレていれば二台同時に同じ原因の故障が起きる可能性が低いからね。とにかくすべてのトラブルの原因を最少限にしておくことを心がける。それと、撮影したデータをなくしてしまうこともカメラの故障と同じで最悪だ」
「一度くらいと言うけど、そのたった一度で職業カメラマンとしての信頼は終わってしまうよ」
「それを回避するためには何をするんですか」
「撮った写真をメディアに残しておいて、その場でラップトップパソコンにコピーする。さらにポータブルのハードディスク二台にコピー。そうすると、最低でも四つの撮影データが手元に残る。特に外国にロケに行く場合などは、さらにそのどちらかひとつの外部ハードディスクを別のスタッフが持ち歩くようにするんだ。移動中に荷物が紛失したり盗難にあっても大丈夫なようにね」
「そんなことまでするんですね」
「カメラだけじゃない。レンズもだ。撮影で絶対に必要になるはずの焦点距離のレンズは複数持っていく」
「同じレンズを複数、ですか」
「違うよ。たとえば28mmや35mm、50mmなどはよく使うから、それらの単焦点レンズに加えて、ズームレンズの24-70mmなどを予備に持っていく。そうすればすべての単焦点レンズの焦点距離を複数のレンズでカバーできるだろう」
「そこまで念を入れるんですね」
「当然だ。カズトはカメラマンという仕事を知らずに憧れているんだ。写真そのものには素人もプロフェッショナルもないから、撮った一枚の価値は同じなんだけど、価値ある写真を毎日同じようなレベルで確実に量産できるかという部分に差がある」
「量産ってどういうことですか」
「『この写真はプロか素人、どちらが撮ったかわかりますか』と、たった一枚のプリントを見せられたら、たぶん誰にもわからないと思う」
「ソーシャルメディアで、ときどき素晴らしい写真を見かけることがある。趣味で撮っているおばちゃんの『山梨ブドウ狩り・バス旅行』のアルバムなんかでね。その一枚を権威のあるニューヨークのギャラリーあたりで三メートルくらいにプリントして額装して、仰々しく見せられたら、著名な写真家のものだと思い込んでしまうかもしれない」
「僕は絶対にわからないと思います」
「クレジットがついていない一枚の写真の良し悪しを厳密に判断できる批評家なんてほぼいないと思う。でも、それが十枚並んでいればカズトにだってわかるはずだ。上質なマグレを十回続けることは不可能だからね。逆に言えば、毎回完璧な写真が撮れるのがプロフェッショナルだ」
「なるほど。それが量産ってことですか」
「失敗しないこと、うまく撮ることは職人の能力としては当たり前で、それを満たした人たちが独特の表現を競っているのがプロフェッショナルだ」
「厳しい世界ですね」
「まあ、自分がそれを撮る意味があるかないか、だけなんだけど。いきなりプロを目指すより、写真は面白いと感じることのほうが大事だ」
「そう思えるといいんですけど」
「写真を勉強し始めると、雑誌に載っているアイドル写真みたいなポートレートを撮りはじめる人がいるんだ」
「はい」
「気持ちはよくわかる。でも、それはもう雑誌にプロが載せているから撮らなくていいんだよ。せっかく撮るんだとしたらカズトには『過去に一度も雑誌に載ったことがないような、自分にしか撮れない写真がある』と思って撮ってほしいんだ」
(以上、書籍『カメラは、撮る人を写しているんだ。』より一部抜粋)
【新刊のお知らせ】
『カメラは、撮る人を写しているんだ。』
ワタナベアニ・著
――この本に書いてあること――
・どんなカメラを買えばいいのか
・何を撮るか
・うまいのにダメな写真
・ヘタなのにいい写真
・「映える写真」はいい写真か
・写真のオリジナリティとは何か
・なぜ日本人は「ボケ」が好きなのか
・絶対に撮ってはいけないものは何か
・写真家は「撮る前」に何を考えているのか
・誰から学ぶべきなのか
・「写真」と「言葉」の関係
・「自分にしか撮れない写真」とは何か
・あなたはなぜ写真を撮るのか
「もしあなたがスマホで日々の写真を撮ることが楽しくなって、本格的なカメラでも買ってみようかな、という鼻息の荒いタイミングならベストなので、鼻息を穏やかにして読んでもらえるとうれしいです。」――ワタナベアニ
撮るたびに、あなたはあなたになっていく。
写真家が書いた、人生が変わる写真の撮り方。
そこで、「チェキ」です。
富士フィルムのインスタントカメラシリーズ「チェキ」は、デジタルカメラともフィルムカメラともスマートフォンとも違う味を持っており、なによりその場でプリントできて、その上にマジック等で書けることから、独特の面白さがあります。
僕も友人のお嬢さん(7歳)にプレゼントしたことがありまして、日々、撮りまくって「フィルム代が大変!」と嬉しそうに親が話していました。
一方、もう少し本物っぽいカメラがよろしいなら、基本的なカメラ性能が搭載され、オートも秀逸なSONY RX100シリーズがオススメです。
中古なら2万円台で購入可能で、ズーム機能もあって楽しめると思います。
かつて僕も使っていました(いまも所有しています)。
なによりカメラは機能も大事ですが、手に持って撮る気になるかどうかが一番大切です。
まずは、ご子息と共にカメラ屋廻りからはじめ、色々手にとってみましょう!(αシリーズが欲しい、とネダられたらお困りになるかもしれませんけど)。
あって、美術史というもの自体が世界の権力構造を知る上で大きな
意味があると思っています。そういう意味で、印象派という時代は
世界の権力がヨーロッパからアメリカに移る時の芸術という作品
を通して、歴史的な権力の移動を確認するものだと感じました。
当時のアメリカ人にとって旅行というものはヨーロッパにいくこと
だったそうです。パリのデュラン・リュエル画廊が印象派を
新興国のアメリカに紹介することで、富を得るとニューヨークにも
その支店をだし、アメリカにヨーロッパ文化を高い価格で普及させて
いったのだと理解しています。
そうした中で、世界中の芸術家をエコール・ド・パリという時代に
パリに集めて、勉強したのちに自国に戻り一人者になるということ
が行われました。今でもフランスは文化の力を国力と位置付けて
いる国だと思います。その大きな力の源泉が印象派という芸術活動
だったことは明らかなのだと感じました。
今回の印象派の展覧会では、メアリーカサットなどを含む多くのアメ
リカ人の印象派の作品も展示される中に、ウスター美術館の所蔵のもの
ではありませんでしたが、印象派に影響を受けた日本人の作家も併せて
紹介されておりました。
少し気になったのは、全体として会場に対して集めた作品の数が少ない
のかな??? と思いましたが、この展覧会から学ぶことは多く、
経済的に成功された方が地域への社会貢献として美術館を作る流れは
アメリカで盛んにおこなわれている活動で、日本にもその影響を受けた
経済人が出てきていることも喜ばしいことだと思いながら、この展覧会
を拝観させていただきました。
小池さんがコダックの120フィルムを使うボックスカメラで撮影した作品を四半世紀前に東京カメラクラブの例会で見せられてそれは8 × 10インチのプリントであったがハッセルブラッドで撮ったと言っても信用してしまうようなシャープネスなのである。
それでさらに感心したのはボックスカメラなのでフィルムが完全にまっすぐにはなっていなくて円弧状に撮影の時に設定されているらしくて空間が歪んで見えるのである。
、最近の最近のデジタルカメラに私が批判的なのは飛んでいる小鳥の目にフォーカスが合いますと言うので皆さんそれを高く評価しているのが変だと思う。
それよりも安いトイカメラで撮った空間の歪みを我々は認識する方が表現としては上のレベルなのではないかな。
「原理的には可能なのでしょうか?」という質問ですが、ニューラルネットの仕組みを考えれば、「原理的には不可能」とは言えません。
この分野の進歩において、ボトルネックとなるのは、「計算量」ですが、ハードウェアの進化(=より高度な計算が一つのGPUでできるようになる)とソフトウェアの進化(同じ計算能力で実現できる能力が上がる)という二つの進化が良い具合に噛み合っているので、少なくともここから数年は劇的な進歩が続くと考えて良いと思います。
いずれ近々みなさんにもお知らせ/ご案内できる日が来ると思います😌
商売柄“モノ”が好きで、その素材や造りをまず愛でちゃいます😊
そしてそれを作った人や時代を調べて想いを巡らせ、プロダクトのハードとソフトを堪能する。
それを今日のデジカメに取り付け、時代と時代を結び、1枚の写真として結実させる。これが自分にとっての楽しさの正体なのだと感じています。
なのでより多くの作り手やその作品と出会いたくて、次から次へとレンズを集めちゃいます😄
お金になるのは(仕事が多いのは)前者で、基本的にスマホの小さい画面で見ることを前提に、年々歪みがない超広角レンズが多用されるようになってきました。
この場合、シフトレンズの必要はなく「超広角レンズGM12-24mm」があれば十分だと思いますが、感じを掴むためにも一度レンタルなさるといいでしょう。
12mmに違和感をお感じになるかもしれません。
その場合は「GMの16-35mm F2.8 GM ll」がいいでしょう。
一方、しっかり建築写真を撮るならば、「ティルト・シフトレンズ」どころか、場合によってはより高解像度の中判カメラを求められることも多々あります。
フジのGFXシリーズのカメラと「GF110mmF5.6 T/S Macro」の組み合わせがまさにそれで、こちらも一度レンタルしてお使いになるとよろしいかと思います。
高解像度に驚くかもしれません。
また、一般的にはソニーαシリーズのカメラには変換アダプターを付けてキヤノンTS-Eレンズを使っているのをよく見かけます。
どちらにしろ、一度レンタルなさって徹底的に使い倒すといいでしょう。
今までに手にしたことがない機材を使うと、ご自身の撮りたい写真が変わるかもしれませんから(経験談より)。
私が戒めとして常々思い返す言葉に「眼高手低」があります。
技術がないのに理想だけ高いという負の状態を言います。
高望み自体を否定してしまうと向上がありませんから、スタートとして理想を掲げるのは良いんです。
それを現実化しようとしたときに、自分の実力の範囲内かちょっと頑張れば達成できるというレベルを見極めて挑戦することが大事です。
そういう私自身、いまだに製作途中で進行が頓挫してしまっている企画がいくつもあったりするのは、「頑張れば達成できるかも」という見積もりが甘く、高望みしてしまっているのが原因だったりします。
人には2種類あります。
ワークショップなどを開催すると分かるのですが、基本のやり方を提示して「ではやってみてください」と言われて、
・言われた通りにやる
・自分なりの工夫を加えて違うことをする
という人に分かれます。
そして、創作をしようという人はどちらかというと少数派で個性的な人が多いですから、人と違うことをやろうとしがちなんです。
もちろん、それが多様性を生んで楽しいという側面もあります。
ただ、技術を組み合わせた作業である以上、経験も無しに思ったとおりにやると、失敗したり完成しなかったりするんです。
ですから、まずはオリジナリティを追求したい欲望を抑えて、オーソドックスな形で「完成させる」という体験を繰り返すことが重要で、それがいずれ自分なりのオリジナリティのある作品が作れるようになる近道でもあるんです。
普段から新しいことを勉強してスキルを身に付ける人は、「一通りはまず指示通りにやってみる」ということが大切であることを知っているので、特に注意しなくても大抵、指示通りにやってくれます。
つまり集約的思考には、明晰さが必要。逆に拡散的思考には、クレイジーさが求められるということなのです。明晰であり、クレイジーであるという相反する思考をふたつ重ねることによって、「書く力」は強力なパワーとなるのです。
中心に、切り絵に焦点を当てながら焼く150点を紹介するものと
なっておりました。
特に、今回、見ごたえがあったのは、マティスが最晩年に建設に
取り組んだ、ヴァンスのロザリオ礼拝堂に着目し、建築から室内
装飾、祭服に至るまでマティスの芸術世界を紹介するものとなって
おります。会場内に、そのロザリオ礼拝堂の写しを作り、あたかも
現地にいるような気持ちにさせてもらいました。
会場では、現場の教会の鐘の音やミサの音楽なども静かに流れて
おり、臨場感あふれる展示となっておりました。
私が美術商になって30年の間に日本の美術館の企画力や交渉力は
大きく変化したと実感しています。30年まえは、日本はアジアの
辺境の地であり、お金はあったとしても内容の良いものは欧米の
美術館から貸し出されることは、なかなか難しかったのだと思います。
しかし、現代になり経済的には厳しくなった日本に対し内容の充実
した美術品が来るようになり、日本にいながらにしてレベルの高い
作品を拝見できるようになっています。
それというのも、日本の学芸員の方々の努力と、そのレベルの高い
交渉力と企画力によって、現地の学芸員の方も日本の文化度の高さ
を認めてくれるようになったのだと思っています。
1980年代はまだまだ日本はエコノミックアニマルと言われて
おりました。経済的には世界の中で沈み始めていると言われており
ますが、日本の文化度の高さは、かつての経済大国だった日本と比
べて、さらに評価は高まり、文化大国として世界に発信していく時期
がやっときはじめているのだと感じています。
防湿庫にカビ防止剤を入れて、定期的にオゾン&光触媒の空気清浄機の風を循環させています。
「こうしなければいけない」というルールはほとんど存在しません。
ですが、その自由さを楽しみながら作った作品は、よほどの才能がある作者でない限り、残念ながら他人にとって面白くない作品になってしまいがちです。
特に映像作品を「作る面白味」は、映像的な演出面に占める割合が大きいので、ついつい「映像」に凝ってしまうんです。
それ自体は良いんですが、現実問題として映像に凝っても「面白さ」が向上する度合いはとても少ないことを知っておく必要があります。
プロの作家であれば、白紙の状態から「面白い物語」を作る必要性もあります。
しかし、少なくとも私は、
・扱いたい題材
・思い浮かぶ場面
を形にしたい、というのが創作の動機です。
それを成り立たせるために、ストーリーを構成するという順番で考えます。
逆に言うと、その題材や場面を採用できないのであれば、仮にストーリーとしては面白くても、その作品を作る意味が無いんです。
多くのアマチュア作家はそういう傾向があると思います。
そこで陥りがちなのは、「それらのアイデアを視覚化して編集すれば素晴らしい作品に仕上がる」という妄想を抱いてしまうことです。
そういうラフな感覚で作れるのは、せいぜい予告編風のダイジェスト映像だけです。
ダイジェスト映像は、例えると「パズルのピースを組み合わせずに、何となく見栄え良く並べたイメージ」なんです。
・理解できない
・説得力がない
という印象を持たれてしまうと、それが積み重なった分、「つまらない作品」という感想に向かいます。
素晴らしい映像や演出があったとしても、この「つまらない」を覆すことはとても困難です。
でも、自由に作品を作ろうとすると、大抵のアマチュア作家は、映像や演出でカバーしようとします。
カバーできないのは
・演出力が足りないせい
・カメラの画質のせい
と勘違いしがちです。
どうして映像や演出に力を入れようとするかと言えば、単純にそれが楽で楽しいからでしょう。
映画は一流の作品だけが面白いとは限りません。
昔からレンタルビデオなどで二流・三流の映画の中に面白いものを探すマニアはたくさんいますし、実際、難点が多くても総合的に見て「面白い」と感じられるものはあります。
私は、凡才が作る映画も面白くなる可能性が充分あると思っています。
ただ、「面白い」という印象を持つためには、総合点で65点くらい必要だと思います。
70点の映画はかなりの良作です。
そして、私たちアマチュア作家が作る作品は通常、50点前後というのが私の印象です。
ここで大事なのは「総合点」の内訳です。
恐らく作り手が「面白い」と思った「場面」だけでは、観客は面白さをそれほど感じない筈なんです。
私が思うに、「面白さ」の大きな部分は、「あ!繋がった!」という感覚だと思います。
その感覚を表現するのに、パズルのピースという例えが合っていると思うんです。
最初のほうで、物語創作をする動機になるのは
・扱いたい題材
・思い浮かぶ場面
を形にしたいからだと言いました。
この2つが「やりたい事」です。
これを作品の中にうまく盛り込めるストーリーを作りたいわけです。
そのために「必要なこと」を辻褄合わせをしながら考える必要があります。
辻褄が合っていないと、あなたがやりたい場面が説得力なく唐突に登場することになって、つまらなさを感じさせてしまいます。
その場面が必然に見えるように、こじつけでもいいので、辻褄を合わせるようにしてください。
そうやって場面を考えていくと、概ね2割の「やりたい場面」を「繋げるための場面」が8割くらい必要なことが分かります。
その「繋げるための場面」をいかに自然に、出来ればそれはそれで魅力的に見せることが出来れば、アマチュア映画でも充分65点以上の作品になるはずです。
「やりたい場面」にエネルギーを注ぐためには、「繋げるための場面」は特に、いろいろなコストを抑えられるに越したことはありません。
ここは、ストック映像や、コストを抑えるための特撮映像を駆使することをおススメします。
しばらく前に、とある情報プラットフォームを運営している人から話を聞いたことがあります。その人いわく「情報リテラシーの高い人は、情報に対してそうかんたんにはお金を払わないんですよね」という。
「情報にすぐにお金を払ってくれるのは、情報リテラシーの低い人たちという傾向があるんですよ。これは情報プラットフォームを運営してきて、わたしが最も実感してきた知見です。……残念ながら」
「そういう情報リテラシーの低い人たちは、単純化した世界観を呈示されると、すぐにそれに飛びつく。複雑な世界観を示されても『なんだかこねくりまわして難しい言葉を並べてるだけで、自分にはまったく刺さらない。だから間違ってる』とそっぽを向いてしまうのです」
「複雑な世界観を受容できるのは、情報リテラシーの高い人たちだけです。でも情報リテラシーの高い人たちは、情報リテラシーが高いがゆえに有料の情報を非常にていねいに吟味する。有意義な情報にはもちろん対価を支払いますが、低リテラシーの人たちと比べると情報にかけるお金の総量は全体として少なくなるのです」
身も蓋もない話だとは思いましたが、SNS社会における情報市場の現実を突いた考察だとも感じました。たしかに高リテラシーの人たちがYouTubeのスパチャにホイホイとお金を払うとは思えませんし、情報商材やスピリチュアルや陰謀論があふれてて、そういうところにお布施をしているのがどういう層かをイメージすれば、この考察は納得できる部分はあると思います。
こういう話を聞くと、高リテラシーの人たちにも、低リテラシーの人たちにも、双方に刺さる論考を発信していくというのは実に困難な課題なんだろうなと深々と悩んでしまうところです。そもそも双方に刺さってる言論人って、いまの日本のメディア空間ではきわめて稀なのではないでしょうか。
撮影レンズは一応ルルブール・セクレタンの江戸時代のレンズなんですが、、、、。
「ありがとう」という言葉の代わりに音楽を送る、「あなたが好きです」という言葉の代わりに映像を送る、そんな行動が、ごく当たり前になる時代が到来しつつあるのです。
と言うのでバンシーにCTを渡しました.当時はレントゲンとかCTとかは大判のフィルムに
現像する時代でした.今は電子カルテで,検査画像はパソコン上で見るのが常識です.しかし
今思えば奇妙なのですが,W病院は電子カルテを導入していました.確かにバンシーは
「うちは全面電子カルテですよ,これからは何といっても電子の時代ですからねエ,わっははは」
と自慢していたのです.電子カルテを導入したのに,画像検査の結果はパソコンに取り込まれず,
昔ながらのフィルムに焼き付けしていたのです.どうもヘンですが,バンシーのやることは
一事が万事,すべてチグハグなのです.例えばW病院では館内のあちこちにパソコンが
設置されており,すべてインターネットに接続されていました.これはバンシーが
「いやー,うちはインターネット完備ですよ,院内どこのパソコンからでもインターネットに
アクセスできるんですよ,こんな病院はそうそうありませんよ,大学病院でもない限りね,
わっはっは」
と自慢していたシステムでした.しかしセキュリティ対策をロクに行っていないので,
どのパソコンもウイルスに感染しまくっているのでした.なので,どのパソコンも機微を
要する作業には使えないのでした.
バンシーはCTのフィルムを受け取り,
「ふうむ……なるほど……フフン……ほお……そうかあ……そう来たかあ……」
などともっともらしいことを独言で呟きながら,と言っても私に聞かせるくらいの音量で
呟きながら,フィルムを眺めていました.しかしフィルムは裏返しで,左右逆なのです.
左右逆のフィルムを眺めながら「そう来たかあ」とか宣うおじさん.これはどういう人なのでしょう.
大体,「そう来たかあ」とは何がどう来たというのでしょうか.バンシーは左右逆のフィルムを
こねくり回した挙句(実際,ただでさえ左右逆のフィルムを,さらに天地逆にして眺めたり
していたのです),真剣な顔つきで私に向かいました.標的を追い詰めたゴルゴ13の如く,
あるいは真犯人を指摘する明智小五郎(演・天知茂)の如く,眉間やほうれい線にしわが
寄っています.重厚な表情です.重大な発表をするに違いありません.そして満を持して
「こいつぁあ……」
「はあ」
「こいつぁあピロリですね」
と名診断を下したのです.
そのとき,私の全身から力が抜けそうになったことは告白せねばなりますまい.十二指腸潰瘍の
原因の多くはピロリ菌の感染です.
例えば、疑問文の形で言葉を思い浮かべると、脳は無意識にその答えを探そうとするそうです。
普段の生活の中でも、その答えのヒントになることを多く目に止めるようになるのはこの働きによるものです。
脳に得意な機能には「穴埋め」もあります。
穴埋め状態になった問題に対しては、これもほとんど無意識レベルで、正しく埋まる答えを探そうとするんです。
こういう思考の癖を利用しない手はありません。
物語創作はある意味、「辻褄合わせのゲーム」です。
私たちアマチュアが考えた物語は、具体的に形にしていくと、次々と「辻褄が合わない事」が出てきます。
そのたびに根本的な構造の変更を検討していては、いつまでたっても作品は完成しません。
ある程度形にしてからは、辻褄が合わない部分に対して、「辻褄が合わない理由は何かが抜けているからだ」という具合に「穴埋めの問題」として捉えます。
そうすると、「その穴に何を入れれば辻褄が合うのか?」という「問い」が明らかになるので、解決策が考えやすいんです。
それまでの場面は撮りやすいもので構成できますが、辻褄合わせのための映像は、いくつもの条件を兼ね備えた内容でなければいけなくなりがちです。
つまり、作り手にとっては「都合のいい映像」です。
ところが、そんな都合のいい映像はそうそう撮れるものではありません。
まず、実際に条件が合う撮影場所が見つからないものです。
そんな時は映像合成などを駆使した特撮映像の活用も選択肢に入れてください。
そうやって辻褄合わせの穴埋めを繰り返しながら修正を重ねることで、作品は完成に近付きます。
物語映像創作の基本は、もちろん
・あらすじを考え
・場面の詳細を作り込み
・具体的な映像を設計し
・撮影
・編集
という手順で進めますが、「具体的な映像設計」の部分をラフにすることで、映像創作は他にはない手軽さでストーリー作品を完成させられる側面も持っているんです。
まずは短期間で人に見せられる「映画」という形での作品を完成させてから、詳細を作り込んで小説化する、という、従来とは逆の順番での創作も有効だと思われます。
画像生成AIも基本的に言葉から生成されますので、文筆力のようなものが「AI時代に生き残る秘訣」だと思いますね。
それゆえ、長年KIndleなどで書籍を出し、言語化に磨きをかけることをオススメして参りました。
次の時代は、写真そのものがプロンプトになって、逆にAIが文章を書くんです。
おそらく数枚の写真に基づいて、AIが私小説を書いたり、音楽を作るようになるでしょう。
それが、大ビジュアルコミュニケーション時代に起きることです。
言語化の次は、写真を学びましょう!
なかなか思うようにならないのも写真の面白いところですよね👍
場合によっては「あーあ。ミニチュアだ」という感じで、場面の流れを損ねてしまう事もあるので、活用自体を躊躇することもあります。
言わば必要悪という側面もあるんです。
ところが、特撮の楽しさに気付いてしまうと、「この特撮、自分でもやってみたい」という動機から創作が始まることがあります。
シンプルに一瞬の映像だけ真似て作ってみることから始まると思います。
私も高校生の時、ハリーハウゼンという人のストップモーション映像が大好きで、コマ撮り用の恐竜模型を作って、8ミリフィルムのカメラで撮影して「動いた動いた」と喜んでいました。
今であれば、同じことをスマホのカメラで出来るので、より手軽に特撮体験ができます。
すると、この特撮映像をより楽しむために、前後にストーリーを付けて「作品」にしたくなってきます。
単体の特撮映像としてだけでなく、その映像が必然的な「場面」として登場するような設定を考えたくなるんです。
私は実は完全にこのタイプの作家で、「取り入れたい特撮場面」が先にあって、「なんとかそれらを有機的に結び付けられるようなストーリーを作れないか?」という順番で作品を考えます。
訴えたいテーマが先にある作家から見ると邪道もはなはだしいところでしょうが、結果的に「これをやりたかった」というやる気が詰まった作品には、人を引き付ける力が発生するような気がします。
エンタメの映像作品の本質は「楽しい!」ですから、大作映画を見て「この場面を自分ならどうやって再現できるかな?」と特撮手法を考えて、その映像を盛り込んだストーリー込みで、実際に作ってみる楽しさも味わってみてはいかがでしょうか?
カーボンファイバーのレーシングヨットと言うものがどのように存在するのかは知らないけれど、ノーブルさんの話によると、カーボン素材で5 × 4インチのプロ用カメラを作ったと言うのである。それでノーブルさんの話によると出たばかりのリコーのスケルトンのコンパクトカメラが欲しいと言うのだった。日本の滞在日数があまりないと言うお話なので、リコーカンパニーの知り合いの人を紹介して、そこから手に入れるような手はずをとったのである。
それで私のほうはギブアンドテイクの貿易と言うわけでもないが、当時正規輸入代理店だと1,000,000円はするカーボンインフィニティー5 × 4インチを手に入れた。その後安くなったのでもう1台手に入れた。
アメリカだと4 × 5インチであるが、ダイエー帝国だと5 × 4インチであると言う。その理由は未だにわからない。それでも古さんといろいろお付き合いがあったのだが、非常に立派なカーボンインフィニティのポスターを見て、私は間違いに気がついた。
それでカーボンファイバー+ステンレスと言う非常にゴージャスなカメラが登場したわけだが、残念ながらこのネームプレートと言うのはそこら辺の適当なメーカーに頼んで作ってもらったアルミニウムをのりで貼り付けるペラペラなのである。それが残念。
最もカメラのネームプレートがのりで貼ってあって、よくはがれると言うのは既にステータスにもなっていて、フランス製の非常に有名なムービーカメラ|流の場合であるが、このカメラはノリがいい加減なので高いカメラのネームプレートがすぐはがれるのである。だからネームプレートの剥がれた Bolieuは本物であると言うふうに認定することもできる。
どういう事かというと、作品を見る人、つまり観客は「完成品を一番喜ぶはずだ」と思い込んでいることです。
これは、古い職人気質と言えるかもしれません。
・お客さんにはきれいに仕上げた完成品だけを見せたい
・製作途中の状態を見て欲しくない
これを「古い」と言う根拠は「きれいに仕上げた完成品のありがたみ」が昔と今では全く違うからです。
ハッキリ言って、現代は「きれいに仕上げたもの」はありきたりで、何の売りにもなりません。
書き方や、パフォームの仕方はいろいろだと思うが、「ものごとの本質を、実用的観点や、良識や常識のためにここまでしか考えるべきでないという範囲を飛び越えて探求する」のが哲学だと僕は思っている。おそらく、僕はそんなふうに思っているのだろう。
そしてそのときには、抽象概念が導きとして使われるのだが、必ずしも抽象概念だらけにならなくてもいい。一個か二個、キーとなるものを使って、あとはカジュアルな言葉で展開することもできる。ただ、「通常はリミッターがかかるような範囲を超えて抽象的・構造的思考を展開する」というのは、 かつてそういう思考の冒険がどれほど行われてきたかの蓄積を知らないとできない。相当の読書量が背景になければできない。
かつ、これはあまり言うと読書好きの方々に残念な思いをさせるかもしれないが、少なくとも現代社会において、哲学的思考に必要な「限度超え」を独学で行うのはかなり難しいと思う。哲学書を読んでも、そこまで「超えてる」ことが書いてあるとは普通は読めない。「え、そこまでのことが書かれてると読むんですか」と思うような読みを口伝で教えてくれる人に教わる必要がある。そういう教育の連鎖があって、哲学的思考は継承されている。
哲学は難しい、わからない、何の役に立つのかとよく言われる。それは、生活人としてのリミットを超えることを考えるからで、そりゃそうなのである。そこまで考えないほうがいいようなことを考えるのが哲学で、それは両義的である。創造性の源泉にもなれば、生活にとって余計なものにもなる。
では、哲学と生活は、どのように結びつくのだろうか。僕はこんなふうに考えている。生活のなかにも、何らかのリミットに近づくような部分があって、それを考えざるをえないときに、あるいは、生活の様々な問題を「誇張的にリミットへと近づけて考えてみる」ようなときに、哲学的思考との接点が生まれるということになるだろう。
僕自身、正直に申し上げれば「豊かな人生」について一度も考えたことがありません。
逆に言えば、そのようなことを考えたことがないから「豊かな人生」だと言えるのかもしれませんし、もしかしたらそのようなものは見つけに行っても見つからないと、どこかで理解しているからなのかもしれません。
ただし、僕の日々は充足していますし、趣味に興じても損得関係なく今生でやるべきことを全うしています。
そう考えると、貴君が探し求めているのは「豊かな人生」ではなく、人生を賭けてやるべきことを見つけられていないからだと考えます。
米国の心理学者エイブラハム・マズローは、人間の動機づけに関する理論を「マズローの欲求階層説」としてまとめました。
彼は、人間の欲求を5つの階層に分類し、下位から順に生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求とクラス分けし、下位の欲求が満たされると次の高次の欲求が現れると主張しました。
作家のヴィクトル・フランクルは、「人生の意味は、自分自身で見出すべきものであり、他人から与えられるものではない」と述べています。
フランクルは、ナチスの強制収容所での経験を通じて、人生の意味を見出すことの重要性を説いた人物です。
おそらく貴君は自己実現の欲求を満たすことができずに迷子になってしまっているのでしょうが、マズローは自己実現に達した人々に見られる特徴として、「Being-love」という概念を提唱しました。
Being-loveは、無条件の愛、受容、理解を意味します。
つまり、「豊かな人生」とは、Being-love=無条件の愛、受容、理解であり、この過程で、強烈な幸福感、充実感、一体感を伴う「ピーク体験」が起こるとマズローは述べています。
僕自身、かつては「サーフィン」、今も「読書などで人一倍のめり込んでいる」と自負しますが、これらは楽しくあっても無条件の愛はありません。
そこで、もし本当にお困りなら、誰かに役立つことを考えてみてください。
今日の貴君が「周囲のご協力のおかげ」だと本気で思うなら、次はあなたが誰かを助けるタイミングです、無条件の愛、受容、理解を持って。
「与えることは受けることより幸いである」というのは聖書の言葉ですが、まさにこの精神こそが、豊かな人生につながると考えます。
もうお気づきだと思いますが、「豊かな人生」は、FIREかどうかとは関係ありません。
エネルギーの循環をテーマに制作しています。
そのせいか、絵によく現れる形は「円」です。巡り回って循環していく形です。
「円」が絵に出てくるのはどうしてもそうなってしまう、という感覚があります。
まったく違う絵を描こうとしているのに、どうしても「円」を描くように手が動いていきます。
物質すべてはエネルギーをもち、影響しあって存在しています。
魂の存在というものがあるとすれば
エネルギーがぐるぐる回って響き合って存在している、動きそのものではないでしょうか。
その響きを、魂の歌声を絵にしてみようと思い、取り組みました。
下地を施していない亜麻を用い、亜麻そのものの布地は現実空間を表し、
鑑賞する時、絵の世界と現実世界との境界を感じさせます。
滲んだ背景や、広がりをもつ色面は、空でも宇宙でもこの世でもない無形の
エネルギーの広がりを表し、その中で色とりどりに輝く魂の響きを描きました。(作家から)
^_^ NHK放送センターで番組の収録をしたこともあるが、渋谷駅からそこに行くまでがまた大変な苦労である。だからこの10年以上私は渋谷に足をつけた事は無いけれども、渋谷を見たいと言う気分は非常に強い。最後に渋谷を撮影したのが30年以上前で、この時は4 × 5インチの大型カメラでカラーフィルムで撮影したタイトル
渋谷嫌い
というのである。私などは渋谷で歩くとナーバスだから精神をめちゃめちゃにされそうである。それでサファリパークのライオンバスのようにバスの中から撮影をしていれば、周囲のライオン。バスには攻撃してこないから、これは私が編み出した便利な撮影テクニックなのだ。それで安全安心でバスの中から渋谷を歩いているライオン連中を撮影する。
早稲田からぐるりとを走って、渋谷を一蹴してまた早稲田に戻っておとぼけで、カレーライスとコーヒーなどというのがベスト。渋谷サファリラリー
なのかな、、、と思うことでした。哲学的な内容はもちろん、今の
現代社会に対する多くのメッセージを受け取りました。
行き過ぎた資本主義に対するメッセージや、戦争に対する反戦の作品
などもありましたが、私が個人的に一番印象深かったのは、志賀理江
子さんの、鹿猟師とのやりとりと写真の作品でした。食用の鹿を猟師
として捕えている方との問答がそのまま写真とともに並べられている
ものですが、その中でのメッセージは‘生きる’ということでした。
自然の動物には、鬱病患者などはおらず、最後の最後まで生きようと
することでした。
野生の鹿を捉えるためには、自分が野生の鹿だったらどのように行動
するのかをシミュレーションしているということ。そして、獲物を
捕えて、食べるという意味。食べるということは、命を頂くことで
あり、私達は‘肉’というものをスーパーできれいに並べられたもの
で残酷な部分を見えない形で食べているけれど、それはとても特別な
ことなのだとこの展示は教えてくれました。
自然との共生と言ってしまえば、それまでかもしれませんが、改めて
アーティストの目線から‘いま、ここに生きる’ことを教えてくれた
内容でした。
この展覧会のおかげで、改めて、今、この時代に恵まれた環境に生きて
いることを教わりました。
池袋クラシックカメラ博も世界の中古カメラ市に習って、入場順の抽選会やったり、整理券配れば良いのに~。エレベーター前で、ここは通路です~とか大声で怒鳴らなくて済みますよ。
結果として、哲学の訓練をすることになり、ジル・ドゥルーズが専門になった。そうして大学院の年月を過ごした後、30歳くらいに、あらためて芸術作品の批評を書くようになった。そのときには、批評とは何かという当初の問いは、ある程度解決していた。というか、解消されていた。
私たちの創作には資金が潤沢ではありません。
ロジャー・コーマンのモットーである「工夫して解決しろ」というメッセージと実践結果が、そのまま参考になると思うからです。
映画の需要が変化しながら増して、ドライブインシアターという形態が広まった当時の状況と、テレビ離れが進んで動画をスマホで視聴するという新しい視聴方法が激増している現代には共通点があるのではないかと思います。
スマホでの動画視聴は、年々、手軽になっています。
言い方を変えれば、動画コンテンツの消費ペースが早くなり、量産の必要性は高まっているということです。
もちろん、ストーリー映像としての映画を、YouTuberが毎日配信しているようなコンテンツに対抗するペースで生産することはできません。
でも、芸術作品としての映画ではなく、大衆娯楽としての映画は「見られてなんぼ」です。
従来のようなのんびりとした制作ペースではなく、出来る限りのハイペースで作品を量産することが大事になってくるのではないでしょうか?
ロジャー・コーマンの功績は、作品の量産によって、俳優やスタッフの卵たちに多くのチャンスを与えたことです。
私はスマホ映画(マイクロ映画)で、誰もが手軽にクリエイター側に入れることで、映画作りには、その関係者に対してさまざまな承認欲求を満たす機能があると考えています。
その中でスマホ映画(マイクロ映画)の特徴を考慮することは有効です。
大前提になるのは画面が小さいこと。
昔、テレビが登場したとき「画面が小さいから映像の撮り方そのものが変わる」と言われましたが、実際は当初言われたように「テレビは顔のアップばかりになる」という懸念は杞憂に終わり、むしろ今では映画館で見る映画もテレビ的な構図とカット割りになっています。
つまり、映像構成に差は必要なさそうです。
軍隊やブラック企業は
難しいでしょうから
海外移住したり、厳しい学校に
入ってみるといいでしょう。
また、子供を育てる場合も
何不自由なく育てるのではなく
もっとストレスをかけることを
お勧めします。
子供が慣れない環境に放り込んだり
やりたくないと言っていることを
無理やりやらせたりしましょう。
社会において、一番成功するのは
いいところのお坊ちゃまではなく
クソみたいな環境で育った人
だったりするのですが
これもストレス耐性が高いからですね。
を実家の両親の様子を子どもの頃から見ているせいか、心配りが
繊細です。雨の日には、絵描きのところに電話をしてはいけない
など、私には発想すらなかったことでした。用事があれば、仕事の
事ですから、すぐに電話をするものだと思っておりましたが、社長
から、雨の日は画家の先生たちは気持ちが落ち込んでいる事が多い
から電話をしないようにと注意された時には驚きました。
後で、こっそりと岡野先生に確認すると、やはり雨の日は気持ちが
沈むことが多いと返事があって驚いたものでした。
最近思うのは、だからこそ微妙な色合いや、絶妙な組み合わせの
フォルムを生み出すことができるのかな? ということです。
描いているときが何より幸せで、無心になって、気が付いたら作品
が出来上がっていたというのが、一番良い状態なのだという事です。
ですから、あまり電話などで仕事の邪魔はしたくないと思っています。
ある意味、スポーツや仕事でも通じるのかもしれませんが、無心で
集中力が高まっているときというのは、時間がたつのも忘れる感覚で
そういうときに、仕事でも何でも、良い結果がでるものかもしれない
と思います。
そういう時間をなるべく多く作れるように環境を整えることが、画商
の仕事なのだと思っています。
アルプスの森、エメラルド色の湖、雪に覆われた美しい峰々、そして草原にカウベルが鳴り響く土地。 より自然なペースで日々が過ぎていく中で、村娘のヒルダ、トラウデル、ハイジとその仲間たちは、静かな田舎暮らしを楽しんでいます。彼女たちは、民族衣装のディアンドルを嬉々として脱ぎ捨て、プレッツェルを頬張り、手つかずの牧草地を闊歩し、
レダーホーゼン姿(肩紐付きの皮ズボン)の農夫を誘惑し合いながら、 同時に土地の特性や魅力を紹介しています。
本書では、古風な土地の魅力と反抗的なエッジ、そして伝統的な男女の役割分担のずる賢い転覆を、 エレーン・ヴォン・アンワースらしく見事に融合させています。新鮮で挑発的なエロティシズムを炸裂させ、ウィットとユーモアに富み、 一方で誇り高き美しい地域に対する変わらぬ愛に彩られています。本書を通して、村娘たちの牧歌的な冒険に参加し、バイエルンを巡る魅惑の旅を経験できるでしょう。
具体的には、360度、どこからみてもそれらしく見える小道具を作ろうとしていたんです。
それによってリアリティーが増す面はもちろんあるんですが、実際に撮影してみると、小道具の登場時間はとても短いものなんです。
何週間も掛けて制作しても、画面に登場するのはほんの数秒だったりします。
私の場合、小道具を作っているのも私。監督も私です。
工作の苦労を実感しているので「せっかく時間を掛けて作ったのだから、もうちょっと多く登場させたい」と思ったら、それが出来てしまいます。
すると、工作物を必要以上にじっくりと観客に見せることになって、工作のアラが目立ったり、映像のテンポが悪くなったりします。
「せっかく作った小道具だから」という思い入れによってかえって作品の質を下げてしまうんです。
理想は、たっぷりこだわって作ったものをちらっとだけ効果的に見せることです。
でも、その「こだわり」にはコストが掛かりますから、そこにこだわった分、どこかに影響が出ます。
全体のバランスを考えない「こだわり」は、積もり積もって最悪の場合、作品を制作頓挫に追い込むんです。
これは、私自身が何度も体験しているので、「完成を最優先にしましょう」というのは声を大にして言いたい事です。
「創作で妥協してはいけない。時間を掛けてでもとことんこだわれ」
という無責任なアドバイスは聞かない方が良いと思います。
世界有数の音楽制作の都であるベルリンは、僕が20年近く愛用するAbleton LiveやDJアプリケーションのTraktorなどを作るネイティブインストゥルメンツなど、そうそうたる音楽制作企業が軒を連ねている街です。
音楽関連のコミュニティーも充実しており、もし可能でしたら、ベルリンにそれなりの時間を割かれることをオススメします。
年間10ヶ月近く暖房が必要な寒いのが嫌いな人(例えば僕)にとっては大変困った街ですが、夏のベルリンは最高です!
運河沿いで面白いパーティーが行われたり、夏ならではのイベントが盛りだくさん。
また、いただいたスケジュールの日程の読み方がいまひとつわからないのですが、バルセロナではこの時期「SONAR」が開催されています。
電子音楽と新しいアートが集まる世界最高の都市型フェスですので、ここも必ず訪れるようにしましょう。
どうか良い旅を!
どの趣味にも魅力があり、夢中になって没頭できる人は、趣味がない人に比べて明らかに日々感じる充実感が高い筈です。
この「充実感」は馬鹿にならない感覚で、これを持たずに生活していると代わりの疑似的な満足感を得るために「他人の批判」ばかりしがちになるんです。これは無為というほかありません。
要は「楽しめる趣味を持ちましょう」という話なんですが、私のように体力がない人間に向いている趣味の一つが「創作」で、その中でも「映像」は面白いよ、とオススメしているわけです。
ところが、同じ創作の趣味の中でも「映像」は
・お金が掛かりそう
・難しそう
と思われがちです。
お金が掛かるというイメージを持つ原因は、実際に映像づくりに大金が掛かった昔の状況から知識が更新されていないことから来ています。
実際は、作業するたびに消費するのはデータ容量と僅かな電気代だけなので、手持ちの道具だけで映像づくりを始める限り、最もお金が掛からない趣味とさえ言えます。
「難しそう」という点については分からなくもありません。
それは、「映像は修正しにくい」という性質から来ているかもしれません。
先日、全く無名の作家が書いた電子書籍の長編小説を読んで、思わぬ掘り出し物として楽しみました。
そうすると、自分でも小説を書いてみたくなる訳ですが、品質の良し悪しを抜きにすれば、見よう見まねで書き始めることが出来るんですね。
基本的にはこの記事と同じ「文字」で構成されているので、書き進めることができます。
そして、当然のように推敲を重ねていくことで、何となくサマになってくるのは想像できると思います。
繰り返しの推敲は絶対に必要で、一通り形にして初めて「ここは言葉足らずで良く分からないな」とか「言い回しがまどろっこしいから簡潔にしよう」とか改善ポイントも見えてくるわけです。
その、「あとから推敲できる」という安心感から、アイデアが繋がったら細かいことは後回しにして一気に文章を書き進めるということもできるわけです。
油絵なども同様です。
絵の具が乾きさえすれば後からいくらでも色を重ねられるので、ざっくりと形にした後、納得のいくまで修正を加えられます。
ところが「映像」における「推敲」は、編集段階の微調整しかできません。
つまり、撮影した映像のうち、使う部分の選択や順番の入れ替えは出来るものの、登場人物のキャラクターを変えたり、場面に登場する部屋の家具を変えたり、ということが、小説や油絵のように後から変えられないんです。
すると、当然、重要になってくるのは「撮影前の検討と準備」になります。
映画などは何年もかけて準備して、数週間で一気に撮影することがほとんどですから、撮影に入る前に作品は7割方完成している事になります。
そのため「下準備が重要」ということになるわけですが、趣味としてやるには、ここの作業が地味で重たいんです。
私自信は、この作業も映像創作の醍醐味と思ってますから根気よく続けられますが、「面白そうだから映画作ろうぜ」と仲間と盛り上がって、楽しいであろう撮影や編集を味わうための前工程が長すぎると、まずやる気は続きません。
本格的に映像づくりを楽しもうと思って、作り方を知ると「難しそう」と尻込みしてしまうのも無理はありません。
もはやプロか素人かではなく、人か人じゃないかの分かれ道に立つ分岐点も過ぎており、既に(人として)「プロとしてサバイブしていく方法」をお考えの時点でサバイブできないと失礼ながらに思います。
なにしろ、AIは素人でもプロでもないわけで、また「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」は、ビジネス的には完全に斜陽です。
経済や社会を俯瞰的に見ますと、この20年で消費者物価CPIは+85%になり、それを超えるのは3倍になった医療費、2倍になった教育費、等倍が食品と不動産で、逆に崩壊したのが「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」です。
つまり、「プロとしてサバイブしていく方法」は、「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」から離れ、いままでのノウハウを持って伸びてる業界にいち早く移るることにあると考えます。
業界ではなく、社会全体を見るようにしましょう。
そうしないと、埋没してしまいますからね。
その手本になった書は、作家が自分で山に入って木を伐り、炭焼き小屋で炭を作り、その炭の煤(すす)から作った墨を使って書かれた作品だとしましょう。
「書道を体験するには、まず山に行って良い炭になる木を選ぶところから始めましょう」と言ったらどうでしょう?
「手本の作家と同じ工程を全て体験したい」という人はまずいないと思います。
書道を体験したいあなたは、完成品を見て、その「最後の工程」を体験してみたいと思ったからです。
本来であれば炭を作るところから行う作業をショートカットするために、市販の墨汁を使うことは自然な選択です。
「それでは個性が出ない」とか「邪道だ」という意見は、もしかしたら正論かもしれませんが、書道を体験したいだけで、立派な書家になることが目的ではないあなたには全く説得力を持ちませんよね?
手本のようなユニークな「書」を書いてみたいだけなんですから。
仮に邪道だとしても、墨汁を使って自分なりに工夫した書を形にして、見よう見真似で作った印章を朱肉に付けて紙の隅に押印して、それらしくなった作品を鑑賞し合うのもとても楽しそうだと思いませんか?
有名でないレンズを発掘してみては?
では一体、何がカウンターだったのでしょうか?
それは、ほとんどの宗教が持っていた「神話」を否定したことにありました。
釈迦が生きていた頃のインド社会を支配していたのは、紀元前13世紀頃に成立したインドの民族宗教「バラモン教」ですが、釈迦が神の存在を否定して、バラモン教の言う「ブラフマン(梵)」を一蹴したんです。
バラモン教において「ブラフマン」は「宇宙の根本原理」であり「絶対的なもの」でしたが、世界にはそれ単体で存在し得るものはなく、すべては他との関係性によって存在しているという「縁起」を釈迦は多くの人に説きました。
「ブラフマン」も他ではありません。
この思想は画期的で、「彼の教えの本質や人々に伝えたかったこと」は生きる上で生じる苦の原因=「縁起」と自己中心性=「無明」に集約されると思います。
つまり、神は人を助けないと得々と説いたのです。
ところが後世の「大乗仏教」の時代になると、「神=如来」の概念を取り入れます。
釈迦自身が「仏陀」という神にされ、「観音」や「弥勒菩薩」と、複数の神様が生み出されました。
この辺り、つまり神話の有無が現在の仏教と「原始仏教」の大きの違いだと考えます。
それゆえ、仏教が生まれた神々の国インドでは、現在仏教徒がほとんどいない(人気がない)のです。
ただ、スマホのレンズは少し特殊な映り方をする、ということを知っておく必要があります。
レンズは大まかに分けると
・広角レンズ
・標準レンズ
・望遠レンズ
という種類に分けられます。
基準になるのは「標準レンズ」で、これは私たちが目で見ているイメージに一番近い映像を撮るものだと思ってください。
スマホのレンズは「広角レンズ」なんです。
視野が広いという事ですね。
これによって、友達とツーショットの写真を、自分で手を伸ばした状態で撮影できたりします。
標準レンズで同じ撮り方をしてもせいぜい二人の顔のアップしか撮れません。
視野が狭いからです。
集合写真などを撮る際も、標準レンズのカメラだと5メートル位離れないと全体が入らないのに、スマホだと2メートルくらいしか離れていないのに全員がカメラに収まったりします。
それだけ聞くととても便利なレンズと思われるでしょうが、欠点もあります。
集合写真を撮ると気付かれる通り、広角レンズの映像は歪むんです。
集合写真の中央に映る人は歪みが小さくてあまり気になりませんが、画面の端に映る人はかなり大きく歪んでいるはずです。
逆の言い方をすると、広角レンズは、本来は画面に入らない範囲の映像を、ギュッと歪めることで無理やり画面に納める特徴があるんです。
これをもっと極端にしたのが「魚眼レンズ」というものです。
「いやー、そうなんですけどね」みたいな人類との断絶は深まるばかりで、
理想的な展開です。
主にpdf読ませたりグラフ読ませたりいろんな方の著書読ませたり営業利益を
計算させたり損益分岐点を推測させたりしています。あとはNetflixで次に
見るべき韓国ドラマ。
ミュンヘンの美術学校で学んでいるということです。男前のキリコ
は、自画像を多く残しておりますが、それと合わせて3歳年下の
弟も演劇や絵画など幅広い活動をされている芸術家でお互いに影響
しあっているという事が作品から見て取れました。
またドイツの美術学校で学んだということから、ニーチェやショー
ペンハウエルなどから思想的に影響を受けています。キリコが
「刑而上芸術について」という書籍を出版されておりますが、日本語
で刑而上というと理解しづらいのですが、英語で metaphysicalと
いう言葉で 非物質的な という意味も持つ言葉であることを踏ま
えると、とても理解しやすくなりました。
ですので、キリコの作品を日本語でタイトルを読んで、解説を拝見
すると哲学的でわかりずらいのですが、英語でmetaphysicalな作品
であることと、ニーチェやショーペンハウアーの影響を受けている
ことを踏まえて作品と対峙することで、私にとって理解が深まり、
整理されました。
画家は自分の生活の経験が作品になる事も、絵画鑑賞の上で勉強に
なりました。キリコがよく、山の中に椅子や家具を置いた作品を描く
のは、イタリアで地震がくると、家具が危ないので家の外に出す
経験を子どものときにしているからだと知り、納得がいきました。
またキリコもエコール・ド・パリの洗礼を受けていて、1911年から
第一次世界大戦が始まる1915年までパリに住み、アンデパンダン展、
サロン・ドートンヌに出品しており、美術評論家ギヨーム・アポリネール
に注目されています。
改めて芸術家は生まれた時代と場所が大切で、影響力そのものが作品の評価
に繋がっていくのだと思います。
明らかに異質だけど、他にはない強いエネルギーがあれば、それは数年後に大きなトピックになると考えます。
それを探し出し、イチ早く皆さんにお伝えするため、いつも世界中をウロウロしてるのです。
つまり、数年後の世界が知りたければ、自ら世界中ウロウロすればいいんですよ!
そこにはインターネットには載ってない小さな次世代の芽が必ずあります。
「光を観る」と書いて観光です。
旅ほど新しい視点を得る機会は、他にはありません。
ちなみに、今週滞在した英国で感じたのは、ロンドン以外の都市は壊滅するだろうと言うことです。
既に英国第二の都市バーミンガムは財政破綻しました。
これはイギリスに限らず他国でも同様だと思われますが、首都及びそれなりの観光都市以外はひどい有様になるでしょうね。
日本も他ではありません。
どこかで何かを英断しなければならない時期が必ずやってきます。
ですが、おっしゃるように多くの人が実感するのは7~8年後のことかもしれません… .。
松本清張原作の人気小説「ゼロの焦点」を映画化する際も、クライマックスを改変することで結末をより印象的にしてテーマを引き立たせました。
それに感銘を受けた松本清張は、「どんどん改変して良いから『砂の器』も映画化してくれないか」と直接持ち掛けたと言います。
試行錯誤の結果、さまざまな効果的改変を加えて完成した「砂の器」は、試写を見た原作者に「この映画は小説を超えている」と大絶賛される傑作映画になりました。
私も面白くて何度も見ています。
興味ぶかいのは、ポスターにもなっている印象的な「親子の旅」の場面です。
ハンセン病のため迫害を受け、幼い息子と日本中を回らなければいけなかった過酷な旅、時に四季の風景に和んだり、という場面は、実は原作には全く無いと言いますから驚きです。
原作にあるのは「どんな旅だったのかは二人しか知らない」という一文だけなんです。
その他にも原作から改変した部分がことごとく圧倒的な効果を生んでいる印象です。
こういう名人の職人技を見せられると、「改変は悪で原作のまま映像化すべきだ」という意見とは真逆に、「改変による面白さをもっと見せて欲しい」とさえ思えます。
改変にも度合いがあって、作家の京極夏彦などは、映像化、コミック化などに対して「小説とは別物なのでどうぞご自由に」というスタンスです。
本人もその映画にちょっと出演していたりしますから、本当に別物として楽しんでいるのでしょう。
これが、原作と映像化作品の幸せな関係のような気がします
また、テーマが歪められない範囲で、制約に合わせた改変は許容する、という約束もあり得ます。
松岡圭祐は「催眠」という小説で、「催眠術というのは決して恐ろしいものではない」ということをテーマにしたのに、映画版では「催眠術は人も殺せる恐ろしいものだ」という真逆のホラー話にされてしまい、激怒したそうです。
作品で伝えたかったテーマ自体を捻じ曲げられてしまうというのは、キャラクターのイメージがどうこうとは別次元の、酷い改変の例ですね。
松岡圭祐は続編小説の「千里眼」は、抗議の意味で、あえて別の映画会社で映像化させています。
映像化において改変は決して「悪」ではないんです。
ことさらおかしな、それほど効果的とも思えないような改変をして、自分の作家性を出そうとする人もいますが、基本的には、原作の魅力を映像メディアに変換して発信するためには改変が必要なんです。
問題なのは「原作通り、改変せずに映像化しますよ」と出来もしない約束をしておきながら、その後の事情によってその約束を反故にすることです。
これはポジショントークになってしまいますが、趣味として「創作」は良いですよ、という話です。
もちろん、スポーツでもいいです。
ただ、私のように運動が苦手で体力もない場合、必ずしもスポーツが楽しめないんですね。
スポーツが得意な人のように爽快感や達成感を感じにくい。
それに対してインドア系・文化系の人は、創作が向いているかもしれません。
創作活動にもさまざまなものがあります。
ざっと挙げても、絵画系、文章系、工作系などが思いつきます。
それぞれに入門しやすい内容も用意されているでしょう。
そんな中でも私は「映像製作」が盲点になっていると思うのでお勧めしています。
映像製作という創作が他の創作と違うのは、「共同作業にも発展させられる」という点です。
普通は小説や絵画を複数人で手分けして作成したりはしませんよね?
それに対して、映像製作は一人でも出来るし、イベントとして仲間と一緒に一つの作品作りを楽しむことも出来るんです。
これは大きな特徴だと思います。
そして映像製作というと敷居が高いと勘違いされることが多いんですが、特にスマホが普及した現在、もしかしたら最も始めやすい趣味かもしれません。
創作関係の講座やワークショップを開くと「創作をしてみたい」という人が集まってきます。
そして、いろいろ質問が出ます。
例えば、映画を作ろうというようなワークショップの場合、一番多いのは
「どういう機材を使えばいいんですか?」
「カメラは何を使えばいいんですか?」
という質問です。
こちらの答えというのも
「とりあえず何でもいいです」
といつも決まっています。
映画を作るんだから、一眼レフを買ってその動画機能で撮らなきゃいけないなんてことはないし、家庭で眠っているハンディーカムがあればそれでも十分だし、スマホを使って始めるというのもいいんです。
とにかく何でもいいから始めてみて、そこから「こういう映像が撮りたいんだけれどもスマホじゃうまく撮れない。どうすればいいだろうか」という次の質問が来れば、いろいろとアドバイスはあるんですけれども、まだ何もやっていないのに、いろいろと疑問は湧くんでしょうね。
これはなぜかというのを考えると、失敗を極端に恐れている人が多いようです。
最短コースで創作物を完成させたいために、事前にあれこれ聞いて無駄なく行動したい。
これがどうも動機になっているようです。
ただ、実際問題として、初めて何かに取り組むときに全く失敗をせずにストレートに作業を完了させることは不可能なんですよ。
一回も転ばずにスキーが滑れるようになりたいと言っているのと同じなんですね。
スポーツとか創作はむしろ、失敗した方が理解が早いんです。
「こういうことやってはいけませんよ」
「こうした方がいいですよ」
といくらアドバイスしても、失敗したことが無いとピンと来ないはずなんです。
ですから、失敗は必要悪だと思って、無理に避けようとしないことが大事じゃないかなと思います。
また、失敗したくない事にも繋がりますが、「高望み」が無駄なんです。
もちろん作るからには良いものをつくりたいというのは、当たり前の感覚ですが、経験が浅いうちは高望みしてもあんまりいいことがないんです。
勉強熱心な人というのは、いろいろ本を読んだりとか調べたりして、事前にどんどん知識を貯めていきます。
すると、なんだか出来るような気になってしまいますが、実際はうまく出来ないんです。
失敗とセットで体験してやっと出来るようになるからです。
内容にもよりますが、パロディー作品は著作権をはじめとする権利を侵害してしまう可能性があります。
ただ、勘違いしなくていいことは、権利を侵害した映画を作っちゃいけないわけじゃないんです。
自分たちで練習として作って、それを自分たちが見ているだけであれば、別にこれは違反ではないんですね。
これをSNSなどで発信した瞬間に法律違反になるわけです。
例えば、非常に権利関係にうるさいディズニーのディズニーキャラクターを、自分できれいに絵に描いて、自分の部屋に飾っておく分には何も違反をしていないし、文句を言われる筋合いはないんです。
これを外に発表したり、販売したりすると、重大な法律違反になるということです。
だから、ベタドラマの内容にもよりますが、完成品はYouTubeやSNSにアップしたりとかせずに、自分たちのスマホの中だけで見る状態にした方が無難だとは思います。
ここは、料理とガストロノミーに特化した高等教育および研究機関で、料理に関する学士号、修士号、短期プログラムなど、多岐にわたる教育プログラムを提供して、日本から和食の講師として錚々たる料理人が講義を行っています。
特に新しい食材の発見や、既存の食材の新しい利用法の研究する「フードサイエンス」と、栄養に重きをおいた「健康的な食生活を促進するためのレシピやメニューの開発」は、とても素晴らしい!
入学するかどうか(できるかどうか)はさておいても、一度ご覧になったあと「国内の大手」に入るかどうか、お決めになればよろしいかと思います。
この時代、仕事もそうですが、学校もひとつの教育機関でお求めのすべてが賄えるとは限りません。
ぜひ一度、サンセバスチャンへ!
そうしないと、どこかで必ず「ネタが切れて」しまいます。
まずは、思いつきと手癖だけで作るのから脱却し、表現の歴史を理解して、作品の現在地を俯瞰的に見るようにしましょう。
そうすると、既存のアニメの見方も大きく変わります。
スタジオジブリの作品には、フランスの印象派の影響が感じられる風景描写が多く見られ、シュルレアリスムの影響は「天使のたまご」や「パプリカ」のような、夢と現実が交錯する作品にも見られます。
ちなみに、日本のアニメは浮世絵から多大な影響を受けています。
また、アニメは構図も重要ですが、それより光が重要なんです。
こちらはレンブラントからはじまって、カラバッジョなどの光と影を理解することが大切で、基本的にハリウッドのアニメーターも撮影監督も、このあたりの美術史を知らない人はいません。
それゆえ、世界一の撮影監督と言われるロジャー・ディーキンスが、「ウォーリー」「ヒックとドラゴン」などのアニメ映画のビジュアル・コンサルタントを務めたのです。
まずは美術史を学びましょう。
アルフレッド・ヒッチコック監督は電気系の技術者やデザイナーを経て監督になった経歴も関係しているのか、色々な技術を応用して作った特撮映像に理解があるというか、自分自身で手法を考案して採用することも多いんです。
有名な「めまいカット」の撮影法を考案しただけでなく、その手法で撮影する螺旋階段を、「ミニチュアを使って撮影すればいい」と撮影監督にアドバイスして、伝説的なショットを作ったことは有名です。
ヒッチコック映画は基本的にストーリーも面白いので、私はprime videoで古い作品を良く見ます。
そして、お決まりの「監督がちらっと映っている場面」を探すのはもちろん、自然に組み込まれた特撮映像を見つけては楽しんでいます。
しかもご質問にある2択に問題があります。
一般的に、新しい挑戦は「好奇心のままに失敗してもいいからチャレンジしよう!」などと暴挙と思われる考えは勢いだけの「ポジティブ病」と見なされ、また「最悪死ぬ可能性もあるし、今のままある程度現実的な範囲で背伸びとかせずに生きようよ」などと言う極めて「ネガティブ」な極論を考えながら始めるものではありません。
新しいプロジェクトでも行ったことがない旅路でも、綿密に計画を立て、幾度とない調査としっかり自分と向き合い取り組むことが鉄則中の鉄則です。
それでも「しっくりくる」事は永遠にありません。
なぜなら、100%確実な未来はひとつもないからです。
それでも計画をしっかり立てること。
本件に限らないと思いますが、貴君に足りないのは徹底的になにかを突き詰める集中力だと思われます。
そのために僕が長年お勧めしているのは、血糖値をフラットにすることだと幾度となく申し上げてきました(というか忘れてしまっている?)。
もしかし極端な食生活を送ってらっしゃいませんか?
どちらにしろ、集中力を高め、成功しても失敗しても何かに取り組まないと全員に平等である時間ばかりが過ぎ去ってしまいます。
まずは、食事の節制を徹底し、血糖値をフラットにしましょう。
お求めの「バランス」は、食からはじまります。
絵画も小説も基本的には作業が一人で完結します。
でも、映像制作という創作は、初めから最後まで一人で完結させられる場合もあれば、複数の人に手伝ってもらいながら作るというやり方もできます。
規模が少し大きくなってくると、主に撮影時に人の手が必要になるので、仲間を募ってチームで活動をすると言うことが一般的になってきます。
その時に「一人で完結させる」という癖が抜けていないと、ちょっとまずいことになります。
基本的に映画は製作者(プロデューサー)の意図に沿って作品を作るわけで、一番負担が大きい製作者が、一番大きい満足を得られることになります。
この満足感を体験してしまうと、私のようにこの活動がやめられなくなってしまうわけです。
合同で創作活動をする場合、手伝ってくれる人達は、製作者ほどの満足感は決して得られないんですね。
企画初期の段階から関わっていない場合は特に、作品に対する愛着がそれほどないからです。
私が反省を込めて思うことは、賛同者に製作者と同じような犠牲を強いることはしてはいけないということです。
子供の頃、テレビで洋画劇場の番組がいっぱいありましたから、機会があれば名作も観ていますが、B級映画も同列に楽しんでいたわけです。
映画ファンの中には「名作映画」を絶対視するような人たちがいて、私はちょっと揶揄を込めて「映画原理主義」と呼んだりしてます。
要は贅沢な撮り方をして「映画とはこうあるべきだ」と言うような一定の「型」を持っていて、大抵の場合はとてもお金と手間が掛かっている映画が多いです。
芸術的なレベルが非常に高くて、必ずしも商業的に優れていなかったとしても、素人目にも「これは歴史に残るような映画なんだろうな」ということは分かります。
そういう映画こそが映画であって、「観客が楽しめればいいじゃないか」というような作品を見下す人たちが一定数いるんです。
それに対して、私はあえて皮肉を込めて「邪道映画」というのを提唱して、「映画は邪道でいいじゃないか」「楽しければいいじゃないか」と言っているわけです。
映画原理主義の人は「撮影はこうあるべきだ」あるいは「演技はこうあるべきだ」という「型」にこだわり過ぎじゃないかな、という印象を私は持っています。
「型」というのは大事なんですけれども、それにこだわり過ぎると、ちょっと滑稽なことになります。
音楽のバンドとか演劇とかと同じような動機・モチベーションで映画作りをする人たちが一定数います。
私もその一人です。
趣味としてやっている前提ではあるんですが、これでお金を稼げたらそれに越したことはないと、これは誰でも思っている筈なんです。
ただ、ご存知のように、話はそんなに甘くはありません。
音楽の活動をしてライブハウスでライブをしたとしても、お金の流れは、店から出演料をもらうのではなくて、出演する側が発表の場を買っているということがほとんどです。
他の舞台系の活動も、出演している本人たちがお金を払うのが当たり前のようになっているのが現状です。
これは需要と供給の関係なので仕方ないんです。
話をインディーズ映画・DIY映画に絞ると、多くの作り手は「自分たちはお金のためにやってるわけじゃないから、別に売れなくていいんだ」という言い方をするんですね。
もちろんそうでしょう。
仕事は別にあって、「これは趣味だ」ということであれば、「お金のためじゃない」と言えますから。
でも、私は当事者として実感があるんですが、「お金のためじゃない」というのは、やっぱり言い訳なんですよね。
創作活動に協力してくれる人たちに、大抵の場合、報酬は支払うことができません。
映画を作るときの資金は、言い出しっぺであるプロデューサーの自分が全部出すのは当然ですが、協力者にも「無償で手伝ってくれないか」というのが大前提になっちゃってるんです。
本来であれば、大の大人が1日潰して付き合ってくれるわけですから、それなりのお礼は渡すべきなんです。
それを「趣味の活動だから、あなたも自分の趣味のように参加してくれませんか?」ということで、賛同してもらってるわけです。
これはとてもありがたいことなんですけれども、「お金のためじゃないから払えないんだよね」という言い訳に使っていたり、「これで儲けようとしているわけじゃないから、作品がつまんなくてもあんまり厳しい批評はしないでね」という言い訳にもしていると思います。
社長はDIC川村記念美術館に伺うのが、かなり久しぶりでしたので
しごく感動しておりました。レンブラントから、モネ、ピカソ、
ルノワール、シャガール、藤田から、キリコ、ブランクーシ、アル
プ、マグリッド、そして現代美術では、圧巻の7点のマークロスコ
の部屋では鳥肌が立ちました。
そこから、フランクステラ、エドワースケリー、ポロック、デビュ
ッフェ、ロイリキテンシュタイン、イヴクラインと美術史が一望
できる内容になっており、その収集作品の筋の良さには驚きます。
これだけの充実した内容のものを揃えるには、当時、かなりの数
の作品をご購入され、展示されていない作品もかなりの数があるの
ではないかと思われます。
美術品というのは、目利きも必要ですが人とのご縁が大切です。
値段が高くなる絵だけ購入しようとするのは、プロといえども、
不可能です。真摯に芸術と向き合い、美術品を購入するのにお金
は必要ですが、その心構えといいますか、かなりの覚悟がなけ
れば、あれだけの名品を絵描きも画商も、紹介することはないと
思います。
個人と会社ともに、借入金やローン、リースの類がひとつもなく、残ったスタッフに「迷惑をかけないように」しています。
念の為、コンピュータやスマートフォンのパスワードも何人かに公開してまして、30年前から僕の訃報記事を書いてくれる新聞記者を指名しており、周囲には亡骸は海へ散骨するよう頼んでいます。
昔と比べ危機察知能力は高まったと思いますが、性格上、いつ死んでもおかしくありませんからね。
何事にも一度ハマったらどこまでも突っ込んでいく性格は、なかなか治りません・・・。
それでもトラブルはつきものですから、カメラストラップは50センチ以下にして小脇に抱え、正面からカメラを持ってないように見える工夫など、最低限のリスクマネージメントはしております。
僕は三脚や照明を一切使いませんので、基本的にこれが全装備となり、機材バックなどを持ち運ぶ事もありません。
また、最近はMacを持っていくこともなく、写真の現像はiPadで行い、日々OKテイクをクラウドに保管するようにしてバックアップ体制もそれなりに整えています。
ちょっとリスクマネージメントと言うと変に聞こえるかもしれませんが、カメラもレンズもまたiPadも世界のどこでも買えるような機材を使っており、もし本当に盗難や故障などあったら、行った先で代替品を購入して仕事を完遂します。
機材は盗られても、画がなかったり、データを盗られたら大問題です。
こちらはお金では買えませんから。
何より、命あっての物種。
お気持ちはわかりますが、機材程度で済んで良かったと思いますよ。
命は買えませんが、機材はまた買えるのですから(しかも最新機種を)。
例えば、16mmフィルムで撮影していた時代はフィルム代と現像代で200万円掛かっていた作品。
同じ内容の作品でも8mmフィルムで撮れば20万円で済みますし、ビデオテープ撮影では1万円しか使いませんでした。
今では、撮影に消耗品は使いませんから、撮影機材さえ揃っていれば、撮影に掛かるのは0円とも言えます。
私が、「趣味の映画作りにお金は掛かりませんよ」というのはこのことです。
人件費をお金と考えたら、もちろん時間や個人の技術力に応じた人件費は膨大に掛かっていきます。
例えば、失敗なくレベルの高い撮影をしたい場合に、フリーランスのカメラマンを雇って撮ってもらうことは出来ます。
1日5万円だとして、10回の撮影で50万円。
役者も演技力がある人を使いたいという事で、雇うことももちろん可能です。
無名の役者であれば、1日2万円くらいで出演してくれるかもしれません。
人数が3人で、撮影回数が10回であれば、60万円。
同様に、専門スタッフも、映画撮影の教科書に書いてある通りに集めて、それぞれ人件費を払っていくとすると、ちょっと趣味の範疇には収まらない金額になっていきます。
そこまで考えて、「資金調達」に動き出す人がいます。
クラウドファンディングや、各種の助成金によって、資金を集めることは出来るかもしれません。
でも、私は映画製作の初心者が安易に他人から資金を集めることには反対なんです。
クラウドファンディングはともかく、助成金は他人の納めた税金ですからね。
そんなお金を使っ
★身分相応のスケールで創作を繰り返す
結論を言うと、フィルム代などの材料費が掛からない現在、製作費はゼロから始めましょう。
スタッフや出演者に適切な指示を出せない人が、プロを集めてもまったく使いこなすことはできません。
これは、「良いカメラさえ買えば、素晴らしい写真が撮れる」という勘違いと同様です。
とくにアマチュアの場合は、「しっかりと完成させられる」というレベルになるまで、実作業の経験が必須なんです。
ですから私は、少なくとも最初の5作くらいまでは、高い人件費が発生しない「仲間内」だけで映画製作をするべきだと思うんです。
まずは、役者もスタッフも未経験のアマチュアである友人だけで揃えて、普段遊びの延長で映画作りを始めることがオススメです。
当然、技術的には拙いものにしかなりませんが、それでもしっかりと計画して行動すれば、それなりの作品には仕上がります。
手持ちの機材を使うため、材料費はゼロ。
人件費もせいぜい付き合ってくれた仲間の食事代を出す程度で済むはずです。
その仲間すらいないのであれば、まずは一人で完成させられる作品を企画すべきです。
(そういう一人企画にも、別の魅力があります)
映画作りをしていくと、常に「次はこういう作品を作りたい」というアイデアも湧いてくるでしょうから、撮影規模や難易度も、身の丈にあったものから徐々にレベルアップさせたものにしていった方がいいでしょう。
活動継続が困難になる理由は、突き詰めて言えば、
・活動に伴うコスト
・活動から得られる満足
のバランスが崩れて、分かりやすく言うと「割に合わない行為」になってしまうことです。
商業映画を見れば一目瞭然で、「予算が集められなくて満足のいくものが作れない」という言い方をしますが、それはお金を出してくれない方が悪いのではなくて、「お金を回収できる作品を作れないから、投資として危険すぎてお金を出せない」というのが実情です。
それに対して「芸術をお金で計るな!」というのであれば、人がお金を出してくれない事に文句を言わず、自分自身の情熱だけで創作を続ければいいだけなんです。
趣味の創作活動はお金のためにやってるわけではありません。
でも、「お金」を単に「価値を測る道具」として考えれば、同じような問題があることは明らかです。
現代のように動画コンテンツが溢れかえっている時代では、映画のような作品を公開してもほとんど見てもらえません。
日本人は「製造」は好きでも「販売・宣伝」は嫌いな人がほとんどですから、「良い作品を作る」というところにエネルギーを注ごうとしますが、「作品をいかに多く見てもらえるか」という活動量が圧倒的に少ないと感じます。
それでは見てもらえるわけはないんですよね。
誰にも見てもらえない状態で創作を続けるのは、不可能ではありませんが、かなり厳しいです。
ある程度の承認欲求が満たされないと、自己満足も大きくはならないんですね。
クリエイティブな仕事を
早く出来るようになるのかというと
まず期限を決め、進行スケジュールを
細かく区切るといいです。
それから、頭の中にあるものだけを
出そうとするのではなく
情報を集めてきて再構築する
ようにするといいです。
このようにすると、気が乗らない日でも
作業に向かうようになりますし
外からも情報を集めるため
ネタ不足になりません。
クリエイティブな仕事というのは
計画性がないと本当に進みませんので
くれぐれも気をつけた方がいいですね。
今後、文章や動画を作る時には
このことを意識しながら
やってみることをお勧めします。
例え競争して勝てたとしても
時間と体力を無駄に消耗するからです。
私の考えでは
競争の厳しいマーケットに
参加するだけで損であり
競争の少ないマーケットに
参加することこそが賢い選択なのです。
そして、この考えがあるからこそ
そこまで努力せずに
10億円以上得られてきましたし
旅や恋愛を楽しむ
時間的余裕もあったのです。
そんなわけで、私はその時々で
競争の緩いことをやってきましたが
最近のSNSは努力家の参入が
増えすぎたので
そろそろSNS引退しようと思っています。
いつの時代も、どんなことでも
みんながやるようになると
競争が厳しくなり
お得でなくなるものです。
努力競争せずに生きるには
まだみんなが目をつけてないけど
リターンが大きいものを
探して取り組むべきですね。
山崎監督ならではの、グリーンバック撮影した映像と、CGを組み合わせた景色が生み出す世界観、戦後の焼け野原の映像などは絶望的な風景で、これをこんなにリアルに表現できるのは、現代の日本映画ならではのものだと思います。
軍艦の登場シーンも素晴らしいものでした。
昔の日本映画に出てくるミニチュアの戦艦なども、私は大好きではあるんですが、やはり水の表現が画面に加わってしまうと、ミニチュアはミニチュアであることがバレてしまうんです。
「よく出来たミニチュアだなあ」と感心はしますが、「ミニチュアと気付かなかった」とはなりません。
現代のリアルなCGで作られた軍艦シーンは、状況から考えてCGだと判断はしていますが、現実の映像として気持ちよく騙されながら見ることができます。
山崎監督は「駐車場さえあれば、どんな場面でも撮れる」と言われたりしますが、今回も何の変哲もない空間にグリーンバックをセットして、工夫して贅沢な映像を作っています。
ご存じのようにアメリカのアカデミー賞で、視覚効果の賞を取ったわけで、CGの技術、VFXの技術が凄いことは間違いないんですが、この映画の総合点を押し上げているのは、やっぱり外国の人にでも分かるような「ベタドラマ」の力だと思うんです。
「ジャンルもの」として特殊に認識されがちな怪獣映画にベタドラマの展開をそのまま取り入れて、最低限の面白さは担保し、特撮や映像の力で「プラスα」の魅力を加えた、というのが成功の要因だと思います。
「ゴジラ -1.0」の続編も決定したそうですが、
・視覚効果の部分で評価されたから、もっと凄い映像を入れよう
ということだけで勝負すると、恐らく今回のように一般の観客が「ああ面白かった」とはならないと思うんですね。
裏で技術的には凄いことをやっているにしても、やっぱり表に見える部分は、古典的な人間ドラマを外さずにきっちりと構築することが、逆説的ですが、特撮を初めとする映像を引き立たせるための条件だと思います。
Note Note Editions, 2024
(ヴィヴィアン・サッセン)
ヴィヴィアン・サッセン(1972-)は、オランダのアムステルダム出身。彼女の写真は、エロティックかつシュールで瞑想的。カメラやモデルのセッティングや演出に特徴があり、モデルはときにまるで彫刻のように体を不自然な格好に曲げたり、顔を隠したり、独自のメークが施されます。ファッション写真とパーソナル・プロジェクトの両分野で活躍し、いまではアイデンティティ、ジェンダー、身体、人種、ファッション、環境までの、さまざまなテーマや主題を探求する印象的でダイナミックなイメージで国際的な評価を得ています。
本書は、サッセンのビジュアル・ランゲージ(視覚言語)の誕生を紹介する本です。
ここでで紹介する写真はすべて、彼女が写真家としてのキャリアをスタートさせたばかりの1990年代半ばに撮影されたものです。自然発生的で個人的なアプローチを好むサッセンは、身の回りのものや環境を好んで被写体にします。
これらの写真には、彼女が早くから取り入れてきた演出、フレーミング、遠近法のセンスが反映されています。彼女は、このようなアプローチによって、私たちが親しみを感じているあらゆるものの根底にある奇妙で不穏な側面を具現化することができるのです。 当初、この作品は本の出版プロジェクトとして構想されました。その後、写真家とNote Note Editionとの出会いを経て、数年後に出版されることになりました。
ハードカバー : 80ページ、エディション1200、サイズ 21.4 x 3 x 26.6 cm、カラー図版41点を収録しています。