Talk 大判カメラ スレッド最終更新 2024/11/16 17:181.名無しさん脚StZex真面目にやれよ産廃以下未満のネトウヨ・保守と自民党員自民支持者と詐病虚言癖共嫌なら法定通り死ね2023/08/05 17:53:49140コメント欄へ移動すべて|最新の50件91.目のつけ所が名無しさんPO7kxプロフェッショナルカメラ展示会が池袋のサンシャイン60でやっていた頃の話である。会場はやはり日本の人が多いから、ファーイーストのマーケットであるということがわかるが、長年私がやった事。昨日の取材では我々同様人はごくわずかである。そうなると日本人以外の人と話をすると言うことになって、偶然会った人が、ノーブルさんと言う人で、イギリスでカーボン製のレーシングヨットを作っている会社の社長さんだった。カーボンファイバーのレーシングヨットと言うものがどのように存在するのかは知らないけれど、ノーブルさんの話によると、カーボン素材で5 × 4インチのプロ用カメラを作ったと言うのである。それでノーブルさんの話によると出たばかりのリコーのスケルトンのコンパクトカメラが欲しいと言うのだった。日本の滞在日数があまりないと言うお話なので、リコーカンパニーの知り合いの人を紹介して、そこから手に入れるような手はずをとったのである。それで私のほうはギブアンドテイクの貿易と言うわけでもないが、当時正規輸入代理店だと1,000,000円はするカーボンインフィニティー5 × 4インチを手に入れた。その後安くなったのでもう1台手に入れた。アメリカだと4 × 5インチであるが、ダイエー帝国だと5 × 4インチであると言う。その理由は未だにわからない。それでも古さんといろいろお付き合いがあったのだが、非常に立派なカーボンインフィニティのポスターを見て、私は間違いに気がついた。2024/04/16 08:13:5292.目のつけ所が名無しさんPO7kxカメラのムーブメントはよーフリーと言うことになっているが、実際にはこれは間違えてyoはフリーにならないのである。製品化してしまったポスターにもそのように書かれているから別に文句を言う筋合いは無いし、これはフィールドカメラであるからスタジオでそれほど厳密なムーブメントを要求するものでもない。実際に私がこのカメラを使ってyoフリーでないので困ったと言う事は1度もない。それでカーボンファイバー+ステンレスと言う非常にゴージャスなカメラが登場したわけだが、残念ながらこのネームプレートと言うのはそこら辺の適当なメーカーに頼んで作ってもらったアルミニウムをのりで貼り付けるペラペラなのである。それが残念。最もカメラのネームプレートがのりで貼ってあって、よくはがれると言うのは既にステータスにもなっていて、フランス製の非常に有名なムービーカメラ|流の場合であるが、このカメラはノリがいい加減なので高いカメラのネームプレートがすぐはがれるのである。だからネームプレートの剥がれた Bolieuは本物であると言うふうに認定することもできる。2024/04/16 08:14:1393.目のつけ所が名無しさんMvrlL趣味にせよ仕事にせよ、創作に携わる人は需要と供給の関係を勘違いしがちなものです。どういう事かというと、作品を見る人、つまり観客は「完成品を一番喜ぶはずだ」と思い込んでいることです。これは、古い職人気質と言えるかもしれません。・お客さんにはきれいに仕上げた完成品だけを見せたい・製作途中の状態を見て欲しくないこれを「古い」と言う根拠は「きれいに仕上げた完成品のありがたみ」が昔と今では全く違うからです。ハッキリ言って、現代は「きれいに仕上げたもの」はありきたりで、何の売りにもなりません。2024/04/20 17:11:1694.目のつけ所が名無しさん55TEzそれで結局、哲学とは何なのか。書き方や、パフォームの仕方はいろいろだと思うが、「ものごとの本質を、実用的観点や、良識や常識のためにここまでしか考えるべきでないという範囲を飛び越えて探求する」のが哲学だと僕は思っている。おそらく、僕はそんなふうに思っているのだろう。そしてそのときには、抽象概念が導きとして使われるのだが、必ずしも抽象概念だらけにならなくてもいい。一個か二個、キーとなるものを使って、あとはカジュアルな言葉で展開することもできる。ただ、「通常はリミッターがかかるような範囲を超えて抽象的・構造的思考を展開する」というのは、 かつてそういう思考の冒険がどれほど行われてきたかの蓄積を知らないとできない。相当の読書量が背景になければできない。かつ、これはあまり言うと読書好きの方々に残念な思いをさせるかもしれないが、少なくとも現代社会において、哲学的思考に必要な「限度超え」を独学で行うのはかなり難しいと思う。哲学書を読んでも、そこまで「超えてる」ことが書いてあるとは普通は読めない。「え、そこまでのことが書かれてると読むんですか」と思うような読みを口伝で教えてくれる人に教わる必要がある。そういう教育の連鎖があって、哲学的思考は継承されている。哲学は難しい、わからない、何の役に立つのかとよく言われる。それは、生活人としてのリミットを超えることを考えるからで、そりゃそうなのである。そこまで考えないほうがいいようなことを考えるのが哲学で、それは両義的である。創造性の源泉にもなれば、生活にとって余計なものにもなる。では、哲学と生活は、どのように結びつくのだろうか。僕はこんなふうに考えている。生活のなかにも、何らかのリミットに近づくような部分があって、それを考えざるをえないときに、あるいは、生活の様々な問題を「誇張的にリミットへと近づけて考えてみる」ようなときに、哲学的思考との接点が生まれるということになるだろう。2024/04/25 20:06:0995.目のつけ所が名無しさんOad0kいいね2024/05/01 13:43:3796.目のつけ所が名無しさんfEeKiそれ、「やるべきことが見つからない病」ですね。僕自身、正直に申し上げれば「豊かな人生」について一度も考えたことがありません。逆に言えば、そのようなことを考えたことがないから「豊かな人生」だと言えるのかもしれませんし、もしかしたらそのようなものは見つけに行っても見つからないと、どこかで理解しているからなのかもしれません。ただし、僕の日々は充足していますし、趣味に興じても損得関係なく今生でやるべきことを全うしています。そう考えると、貴君が探し求めているのは「豊かな人生」ではなく、人生を賭けてやるべきことを見つけられていないからだと考えます。米国の心理学者エイブラハム・マズローは、人間の動機づけに関する理論を「マズローの欲求階層説」としてまとめました。彼は、人間の欲求を5つの階層に分類し、下位から順に生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求とクラス分けし、下位の欲求が満たされると次の高次の欲求が現れると主張しました。作家のヴィクトル・フランクルは、「人生の意味は、自分自身で見出すべきものであり、他人から与えられるものではない」と述べています。フランクルは、ナチスの強制収容所での経験を通じて、人生の意味を見出すことの重要性を説いた人物です。おそらく貴君は自己実現の欲求を満たすことができずに迷子になってしまっているのでしょうが、マズローは自己実現に達した人々に見られる特徴として、「Being-love」という概念を提唱しました。Being-loveは、無条件の愛、受容、理解を意味します。つまり、「豊かな人生」とは、Being-love=無条件の愛、受容、理解であり、この過程で、強烈な幸福感、充実感、一体感を伴う「ピーク体験」が起こるとマズローは述べています。僕自身、かつては「サーフィン」、今も「読書などで人一倍のめり込んでいる」と自負しますが、これらは楽しくあっても無条件の愛はありません。そこで、もし本当にお困りなら、誰かに役立つことを考えてみてください。今日の貴君が「周囲のご協力のおかげ」だと本気で思うなら、次はあなたが誰かを助けるタイミングです、無条件の愛、受容、理解を持って。「与えることは受けることより幸いである」というのは聖書の言葉ですが、まさにこの精神こそが、豊かな人生につながると考えます。もうお気づきだと思いますが、「豊かな人生」は、FIREかどうかとは関係ありません。2024/05/03 16:46:4397.目のつけ所が名無しさんeIWhM「魂の歌声」シリーズの絵画を中心に展示します。 エネルギーの循環をテーマに制作しています。 そのせいか、絵によく現れる形は「円」です。巡り回って循環していく形です。 「円」が絵に出てくるのはどうしてもそうなってしまう、という感覚があります。 まったく違う絵を描こうとしているのに、どうしても「円」を描くように手が動いていきます。 物質すべてはエネルギーをもち、影響しあって存在しています。 魂の存在というものがあるとすれば エネルギーがぐるぐる回って響き合って存在している、動きそのものではないでしょうか。 その響きを、魂の歌声を絵にしてみようと思い、取り組みました。 下地を施していない亜麻を用い、亜麻そのものの布地は現実空間を表し、 鑑賞する時、絵の世界と現実世界との境界を感じさせます。 滲んだ背景や、広がりをもつ色面は、空でも宇宙でもこの世でもない無形の エネルギーの広がりを表し、その中で色とりどりに輝く魂の響きを描きました。(作家から)2024/05/04 10:10:3298.目のつけ所が名無しさんogpss渋谷の周辺とか渋谷の先に住んでいる人にとって新しくなった渋谷駅と言うのは全体の構造がわからないと言うからかなり評判が悪い。私などは渋谷はベースではない人間なのでそれよりさらにわからない。半世紀以上前に渋谷にカメラ屋さんがあったころいくことがあったがあのカメラ屋さんがなくなって50年以上が経過している。最後に渋谷と関わったのは土井カメラにギャラリーがあって、ニューヨークから戻ってきた翌年に育って、写真をやったのだから、もう大昔の話である^_^ NHK放送センターで番組の収録をしたこともあるが、渋谷駅からそこに行くまでがまた大変な苦労である。だからこの10年以上私は渋谷に足をつけた事は無いけれども、渋谷を見たいと言う気分は非常に強い。最後に渋谷を撮影したのが30年以上前で、この時は4 × 5インチの大型カメラでカラーフィルムで撮影したタイトル渋谷嫌いというのである。私などは渋谷で歩くとナーバスだから精神をめちゃめちゃにされそうである。それでサファリパークのライオンバスのようにバスの中から撮影をしていれば、周囲のライオン。バスには攻撃してこないから、これは私が編み出した便利な撮影テクニックなのだ。それで安全安心でバスの中から渋谷を歩いているライオン連中を撮影する。早稲田からぐるりとを走って、渋谷を一蹴してまた早稲田に戻っておとぼけで、カレーライスとコーヒーなどというのがベスト。渋谷サファリラリー2024/05/08 08:42:2799.目のつけ所が名無しさんJELw3今回の展示で感じたのは、アーティストというより社会活動家の方なのかな、、、と思うことでした。哲学的な内容はもちろん、今の現代社会に対する多くのメッセージを受け取りました。行き過ぎた資本主義に対するメッセージや、戦争に対する反戦の作品などもありましたが、私が個人的に一番印象深かったのは、志賀理江子さんの、鹿猟師とのやりとりと写真の作品でした。食用の鹿を猟師として捕えている方との問答がそのまま写真とともに並べられているものですが、その中でのメッセージは‘生きる’ということでした。自然の動物には、鬱病患者などはおらず、最後の最後まで生きようとすることでした。野生の鹿を捉えるためには、自分が野生の鹿だったらどのように行動するのかをシミュレーションしているということ。そして、獲物を捕えて、食べるという意味。食べるということは、命を頂くことであり、私達は‘肉’というものをスーパーできれいに並べられたもので残酷な部分を見えない形で食べているけれど、それはとても特別なことなのだとこの展示は教えてくれました。自然との共生と言ってしまえば、それまでかもしれませんが、改めてアーティストの目線から‘いま、ここに生きる’ことを教えてくれた内容でした。この展覧会のおかげで、改めて、今、この時代に恵まれた環境に生きていることを教わりました。2024/05/11 10:21:39100.目のつけ所が名無しさんPUYfAもう10日以上も撮ってないな。今日は池袋クラシックカメラ博、1時間くらいで終えて、撮影に出かけましょう!なので今日のMNGは無しです~🤣池袋クラシックカメラ博も世界の中古カメラ市に習って、入場順の抽選会やったり、整理券配れば良いのに~。エレベーター前で、ここは通路です~とか大声で怒鳴らなくて済みますよ。2024/05/16 12:55:38101.目のつけ所が名無しさんiBE6c最近、昔書いた授業のレポートを読み返していたのだが、大学3年くらいまで僕は、批評とは何かを考えようとしていた。批評について原理的に考えること、それを「メタ批評論」と呼んでいた。そのレポートは力がこもったものだったが、当時はどの先生も放任主義だったので、それを研究に育てていくサポートは得られなかった。結果として、哲学の訓練をすることになり、ジル・ドゥルーズが専門になった。そうして大学院の年月を過ごした後、30歳くらいに、あらためて芸術作品の批評を書くようになった。そのときには、批評とは何かという当初の問いは、ある程度解決していた。というか、解消されていた。2024/05/17 06:47:33102.目のつけ所が名無しさんNewRw私は学生時代から趣味の自主映画作りを始めて、いろいろな映画人のエピソードを楽しんできましたが、私たちが最も参考にすべきはロジャー・コーマンのエピソードではないかと思っています。私たちの創作には資金が潤沢ではありません。ロジャー・コーマンのモットーである「工夫して解決しろ」というメッセージと実践結果が、そのまま参考になると思うからです。映画の需要が変化しながら増して、ドライブインシアターという形態が広まった当時の状況と、テレビ離れが進んで動画をスマホで視聴するという新しい視聴方法が激増している現代には共通点があるのではないかと思います。スマホでの動画視聴は、年々、手軽になっています。言い方を変えれば、動画コンテンツの消費ペースが早くなり、量産の必要性は高まっているということです。もちろん、ストーリー映像としての映画を、YouTuberが毎日配信しているようなコンテンツに対抗するペースで生産することはできません。でも、芸術作品としての映画ではなく、大衆娯楽としての映画は「見られてなんぼ」です。従来のようなのんびりとした制作ペースではなく、出来る限りのハイペースで作品を量産することが大事になってくるのではないでしょうか?ロジャー・コーマンの功績は、作品の量産によって、俳優やスタッフの卵たちに多くのチャンスを与えたことです。私はスマホ映画(マイクロ映画)で、誰もが手軽にクリエイター側に入れることで、映画作りには、その関係者に対してさまざまな承認欲求を満たす機能があると考えています。その中でスマホ映画(マイクロ映画)の特徴を考慮することは有効です。大前提になるのは画面が小さいこと。昔、テレビが登場したとき「画面が小さいから映像の撮り方そのものが変わる」と言われましたが、実際は当初言われたように「テレビは顔のアップばかりになる」という懸念は杞憂に終わり、むしろ今では映画館で見る映画もテレビ的な構図とカット割りになっています。つまり、映像構成に差は必要なさそうです。2024/05/18 09:09:29103.目のつけ所が名無しさんq9ZjGさすがに今から軍隊やブラック企業は難しいでしょうから海外移住したり、厳しい学校に入ってみるといいでしょう。また、子供を育てる場合も何不自由なく育てるのではなくもっとストレスをかけることをお勧めします。子供が慣れない環境に放り込んだりやりたくないと言っていることを無理やりやらせたりしましょう。社会において、一番成功するのはいいところのお坊ちゃまではなくクソみたいな環境で育った人だったりするのですがこれもストレス耐性が高いからですね。2024/05/24 19:59:04104.目のつけ所が名無しさんR6XTjそこへいくと、社長などは生まれた時から絵描きさんとのやりとりを実家の両親の様子を子どもの頃から見ているせいか、心配りが繊細です。雨の日には、絵描きのところに電話をしてはいけないなど、私には発想すらなかったことでした。用事があれば、仕事の事ですから、すぐに電話をするものだと思っておりましたが、社長から、雨の日は画家の先生たちは気持ちが落ち込んでいる事が多いから電話をしないようにと注意された時には驚きました。後で、こっそりと岡野先生に確認すると、やはり雨の日は気持ちが沈むことが多いと返事があって驚いたものでした。最近思うのは、だからこそ微妙な色合いや、絶妙な組み合わせのフォルムを生み出すことができるのかな? ということです。描いているときが何より幸せで、無心になって、気が付いたら作品が出来上がっていたというのが、一番良い状態なのだという事です。ですから、あまり電話などで仕事の邪魔はしたくないと思っています。ある意味、スポーツや仕事でも通じるのかもしれませんが、無心で集中力が高まっているときというのは、時間がたつのも忘れる感覚でそういうときに、仕事でも何でも、良い結果がでるものかもしれないと思います。そういう時間をなるべく多く作れるように環境を整えることが、画商の仕事なのだと思っています。2024/05/25 11:19:19105.目のつけ所が名無しさん4GKiPファッションやポートレートで知られる女性写真家エレーン・ヴォン・アンワース(1954-)。彼女は、幼少期に過ごした故郷を再訪し、起伏に富んだ野原、古くからの伝統、深く神秘的な森に囲まれ、楽しみと冒険に出かけるゴージャスな女の子たちを撮影しました。 タイトル「Heimat」は、ドイツ語で 「ふるさと」や「生まれ故郷」のことです。アルプスの森、エメラルド色の湖、雪に覆われた美しい峰々、そして草原にカウベルが鳴り響く土地。 より自然なペースで日々が過ぎていく中で、村娘のヒルダ、トラウデル、ハイジとその仲間たちは、静かな田舎暮らしを楽しんでいます。彼女たちは、民族衣装のディアンドルを嬉々として脱ぎ捨て、プレッツェルを頬張り、手つかずの牧草地を闊歩し、レダーホーゼン姿(肩紐付きの皮ズボン)の農夫を誘惑し合いながら、 同時に土地の特性や魅力を紹介しています。本書では、古風な土地の魅力と反抗的なエッジ、そして伝統的な男女の役割分担のずる賢い転覆を、 エレーン・ヴォン・アンワースらしく見事に融合させています。新鮮で挑発的なエロティシズムを炸裂させ、ウィットとユーモアに富み、 一方で誇り高き美しい地域に対する変わらぬ愛に彩られています。本書を通して、村娘たちの牧歌的な冒険に参加し、バイエルンを巡る魅惑の旅を経験できるでしょう。2024/06/02 10:22:10106.目のつけ所が名無しさんQNW7H私は映画作りを趣味で始めた当初、小道具の工作にとても凝っていました。具体的には、360度、どこからみてもそれらしく見える小道具を作ろうとしていたんです。それによってリアリティーが増す面はもちろんあるんですが、実際に撮影してみると、小道具の登場時間はとても短いものなんです。何週間も掛けて制作しても、画面に登場するのはほんの数秒だったりします。私の場合、小道具を作っているのも私。監督も私です。工作の苦労を実感しているので「せっかく時間を掛けて作ったのだから、もうちょっと多く登場させたい」と思ったら、それが出来てしまいます。すると、工作物を必要以上にじっくりと観客に見せることになって、工作のアラが目立ったり、映像のテンポが悪くなったりします。「せっかく作った小道具だから」という思い入れによってかえって作品の質を下げてしまうんです。理想は、たっぷりこだわって作ったものをちらっとだけ効果的に見せることです。でも、その「こだわり」にはコストが掛かりますから、そこにこだわった分、どこかに影響が出ます。全体のバランスを考えない「こだわり」は、積もり積もって最悪の場合、作品を制作頓挫に追い込むんです。これは、私自身が何度も体験しているので、「完成を最優先にしましょう」というのは声を大にして言いたい事です。「創作で妥協してはいけない。時間を掛けてでもとことんこだわれ」という無責任なアドバイスは聞かない方が良いと思います。2024/06/08 08:50:32107.目のつけ所が名無しさんti1Enこの時期なら、ベルリンへ是非!世界有数の音楽制作の都であるベルリンは、僕が20年近く愛用するAbleton LiveやDJアプリケーションのTraktorなどを作るネイティブインストゥルメンツなど、そうそうたる音楽制作企業が軒を連ねている街です。音楽関連のコミュニティーも充実しており、もし可能でしたら、ベルリンにそれなりの時間を割かれることをオススメします。年間10ヶ月近く暖房が必要な寒いのが嫌いな人(例えば僕)にとっては大変困った街ですが、夏のベルリンは最高です!運河沿いで面白いパーティーが行われたり、夏ならではのイベントが盛りだくさん。また、いただいたスケジュールの日程の読み方がいまひとつわからないのですが、バルセロナではこの時期「SONAR」が開催されています。電子音楽と新しいアートが集まる世界最高の都市型フェスですので、ここも必ず訪れるようにしましょう。どうか良い旅を!2024/06/14 23:16:31108.目のつけ所が名無しさんoqFQ5趣味としての創作活動はさまざまあります。どの趣味にも魅力があり、夢中になって没頭できる人は、趣味がない人に比べて明らかに日々感じる充実感が高い筈です。この「充実感」は馬鹿にならない感覚で、これを持たずに生活していると代わりの疑似的な満足感を得るために「他人の批判」ばかりしがちになるんです。これは無為というほかありません。要は「楽しめる趣味を持ちましょう」という話なんですが、私のように体力がない人間に向いている趣味の一つが「創作」で、その中でも「映像」は面白いよ、とオススメしているわけです。ところが、同じ創作の趣味の中でも「映像」は・お金が掛かりそう・難しそうと思われがちです。お金が掛かるというイメージを持つ原因は、実際に映像づくりに大金が掛かった昔の状況から知識が更新されていないことから来ています。実際は、作業するたびに消費するのはデータ容量と僅かな電気代だけなので、手持ちの道具だけで映像づくりを始める限り、最もお金が掛からない趣味とさえ言えます。「難しそう」という点については分からなくもありません。それは、「映像は修正しにくい」という性質から来ているかもしれません。2024/06/15 08:25:38109.目のつけ所が名無しさんoqFQ5例えば、小説。先日、全く無名の作家が書いた電子書籍の長編小説を読んで、思わぬ掘り出し物として楽しみました。そうすると、自分でも小説を書いてみたくなる訳ですが、品質の良し悪しを抜きにすれば、見よう見まねで書き始めることが出来るんですね。基本的にはこの記事と同じ「文字」で構成されているので、書き進めることができます。そして、当然のように推敲を重ねていくことで、何となくサマになってくるのは想像できると思います。繰り返しの推敲は絶対に必要で、一通り形にして初めて「ここは言葉足らずで良く分からないな」とか「言い回しがまどろっこしいから簡潔にしよう」とか改善ポイントも見えてくるわけです。その、「あとから推敲できる」という安心感から、アイデアが繋がったら細かいことは後回しにして一気に文章を書き進めるということもできるわけです。油絵なども同様です。絵の具が乾きさえすれば後からいくらでも色を重ねられるので、ざっくりと形にした後、納得のいくまで修正を加えられます。ところが「映像」における「推敲」は、編集段階の微調整しかできません。つまり、撮影した映像のうち、使う部分の選択や順番の入れ替えは出来るものの、登場人物のキャラクターを変えたり、場面に登場する部屋の家具を変えたり、ということが、小説や油絵のように後から変えられないんです。すると、当然、重要になってくるのは「撮影前の検討と準備」になります。映画などは何年もかけて準備して、数週間で一気に撮影することがほとんどですから、撮影に入る前に作品は7割方完成している事になります。そのため「下準備が重要」ということになるわけですが、趣味としてやるには、ここの作業が地味で重たいんです。私自信は、この作業も映像創作の醍醐味と思ってますから根気よく続けられますが、「面白そうだから映画作ろうぜ」と仲間と盛り上がって、楽しいであろう撮影や編集を味わうための前工程が長すぎると、まずやる気は続きません。本格的に映像づくりを楽しもうと思って、作り方を知ると「難しそう」と尻込みしてしまうのも無理はありません。2024/06/15 08:26:21110.目のつけ所が名無しさん2MFg6現在の「世界の動向」や「この先10年のエンタメ界の展望」は、「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)のAI化」じゃないでしょうか。もはやプロか素人かではなく、人か人じゃないかの分かれ道に立つ分岐点も過ぎており、既に(人として)「プロとしてサバイブしていく方法」をお考えの時点でサバイブできないと失礼ながらに思います。なにしろ、AIは素人でもプロでもないわけで、また「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」は、ビジネス的には完全に斜陽です。経済や社会を俯瞰的に見ますと、この20年で消費者物価CPIは+85%になり、それを超えるのは3倍になった医療費、2倍になった教育費、等倍が食品と不動産で、逆に崩壊したのが「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」です。つまり、「プロとしてサバイブしていく方法」は、「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」から離れ、いままでのノウハウを持って伸びてる業界にいち早く移るることにあると考えます。業界ではなく、社会全体を見るようにしましょう。そうしないと、埋没してしまいますからね。2024/06/21 18:42:40111.目のつけ所が名無しさんmPuZn例えばあなたが額縁に入ったユニークな「書」を見て、「自分も書いてみたい」「書道を体験してみたい」と思ったとします。その手本になった書は、作家が自分で山に入って木を伐り、炭焼き小屋で炭を作り、その炭の煤(すす)から作った墨を使って書かれた作品だとしましょう。「書道を体験するには、まず山に行って良い炭になる木を選ぶところから始めましょう」と言ったらどうでしょう?「手本の作家と同じ工程を全て体験したい」という人はまずいないと思います。書道を体験したいあなたは、完成品を見て、その「最後の工程」を体験してみたいと思ったからです。本来であれば炭を作るところから行う作業をショートカットするために、市販の墨汁を使うことは自然な選択です。「それでは個性が出ない」とか「邪道だ」という意見は、もしかしたら正論かもしれませんが、書道を体験したいだけで、立派な書家になることが目的ではないあなたには全く説得力を持ちませんよね?手本のようなユニークな「書」を書いてみたいだけなんですから。仮に邪道だとしても、墨汁を使って自分なりに工夫した書を形にして、見よう見真似で作った印章を朱肉に付けて紙の隅に押印して、それらしくなった作品を鑑賞し合うのもとても楽しそうだと思いませんか?2024/06/22 08:22:50112.目のつけ所が名無しさんI3i83まあ、既に有名なレンズは、それなりに良い訳です!その上で入手が困難に‼️有名でないレンズを発掘してみては?2024/06/28 10:24:16113.目のつけ所が名無しさんCmZzl当時の仏教はバラモン教に対するカウンターカルチャーでした。では一体、何がカウンターだったのでしょうか?それは、ほとんどの宗教が持っていた「神話」を否定したことにありました。釈迦が生きていた頃のインド社会を支配していたのは、紀元前13世紀頃に成立したインドの民族宗教「バラモン教」ですが、釈迦が神の存在を否定して、バラモン教の言う「ブラフマン(梵)」を一蹴したんです。バラモン教において「ブラフマン」は「宇宙の根本原理」であり「絶対的なもの」でしたが、世界にはそれ単体で存在し得るものはなく、すべては他との関係性によって存在しているという「縁起」を釈迦は多くの人に説きました。「ブラフマン」も他ではありません。この思想は画期的で、「彼の教えの本質や人々に伝えたかったこと」は生きる上で生じる苦の原因=「縁起」と自己中心性=「無明」に集約されると思います。つまり、神は人を助けないと得々と説いたのです。ところが後世の「大乗仏教」の時代になると、「神=如来」の概念を取り入れます。釈迦自身が「仏陀」という神にされ、「観音」や「弥勒菩薩」と、複数の神様が生み出されました。この辺り、つまり神話の有無が現在の仏教と「原始仏教」の大きの違いだと考えます。それゆえ、仏教が生まれた神々の国インドでは、現在仏教徒がほとんどいない(人気がない)のです。2024/06/29 06:52:12114.目のつけ所が名無しさんygJGY「とにかく手軽」という最大のメリットから、私は映画作りのスタートにスマホのカメラを使う事をお勧めします。ただ、スマホのレンズは少し特殊な映り方をする、ということを知っておく必要があります。レンズは大まかに分けると・広角レンズ・標準レンズ・望遠レンズという種類に分けられます。基準になるのは「標準レンズ」で、これは私たちが目で見ているイメージに一番近い映像を撮るものだと思ってください。スマホのレンズは「広角レンズ」なんです。視野が広いという事ですね。これによって、友達とツーショットの写真を、自分で手を伸ばした状態で撮影できたりします。標準レンズで同じ撮り方をしてもせいぜい二人の顔のアップしか撮れません。視野が狭いからです。集合写真などを撮る際も、標準レンズのカメラだと5メートル位離れないと全体が入らないのに、スマホだと2メートルくらいしか離れていないのに全員がカメラに収まったりします。それだけ聞くととても便利なレンズと思われるでしょうが、欠点もあります。集合写真を撮ると気付かれる通り、広角レンズの映像は歪むんです。集合写真の中央に映る人は歪みが小さくてあまり気になりませんが、画面の端に映る人はかなり大きく歪んでいるはずです。逆の言い方をすると、広角レンズは、本来は画面に入らない範囲の映像を、ギュッと歪めることで無理やり画面に納める特徴があるんです。これをもっと極端にしたのが「魚眼レンズ」というものです。2024/07/06 09:07:41115.目のつけ所が名無しさんR8rOBGPT4o使い倒してて、とうとうヒトと会話するのが億劫になりました。「いやー、そうなんですけどね」みたいな人類との断絶は深まるばかりで、理想的な展開です。主にpdf読ませたりグラフ読ませたりいろんな方の著書読ませたり営業利益を計算させたり損益分岐点を推測させたりしています。あとはNetflixで次に見るべき韓国ドラマ。2024/07/12 13:49:37116.目のつけ所が名無しさんSHFe8まずは、ギリシャ生まれでイタリア人でありながら、ドイツの ミュンヘンの美術学校で学んでいるということです。男前のキリコ は、自画像を多く残しておりますが、それと合わせて3歳年下の 弟も演劇や絵画など幅広い活動をされている芸術家でお互いに影響 しあっているという事が作品から見て取れました。 またドイツの美術学校で学んだということから、ニーチェやショー ペンハウエルなどから思想的に影響を受けています。キリコが 「刑而上芸術について」という書籍を出版されておりますが、日本語 で刑而上というと理解しづらいのですが、英語で metaphysicalと いう言葉で 非物質的な という意味も持つ言葉であることを踏ま えると、とても理解しやすくなりました。 ですので、キリコの作品を日本語でタイトルを読んで、解説を拝見 すると哲学的でわかりずらいのですが、英語でmetaphysicalな作品 であることと、ニーチェやショーペンハウアーの影響を受けている ことを踏まえて作品と対峙することで、私にとって理解が深まり、整理されました。画家は自分の生活の経験が作品になる事も、絵画鑑賞の上で勉強になりました。キリコがよく、山の中に椅子や家具を置いた作品を描くのは、イタリアで地震がくると、家具が危ないので家の外に出す経験を子どものときにしているからだと知り、納得がいきました。またキリコもエコール・ド・パリの洗礼を受けていて、1911年から第一次世界大戦が始まる1915年までパリに住み、アンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品しており、美術評論家ギヨーム・アポリネールに注目されています。改めて芸術家は生まれた時代と場所が大切で、影響力そのものが作品の評価に繋がっていくのだと思います。2024/07/13 09:12:50117.目のつけ所が名無しさんZYFpb特別僕にすごい能力があるわけではなく、定期的にいろいろ場所を回っているので、その定点観測から小さな差異を見つけているに過ぎません。明らかに異質だけど、他にはない強いエネルギーがあれば、それは数年後に大きなトピックになると考えます。それを探し出し、イチ早く皆さんにお伝えするため、いつも世界中をウロウロしてるのです。つまり、数年後の世界が知りたければ、自ら世界中ウロウロすればいいんですよ!そこにはインターネットには載ってない小さな次世代の芽が必ずあります。「光を観る」と書いて観光です。旅ほど新しい視点を得る機会は、他にはありません。ちなみに、今週滞在した英国で感じたのは、ロンドン以外の都市は壊滅するだろうと言うことです。既に英国第二の都市バーミンガムは財政破綻しました。これはイギリスに限らず他国でも同様だと思われますが、首都及びそれなりの観光都市以外はひどい有様になるでしょうね。日本も他ではありません。どこかで何かを英断しなければならない時期が必ずやってきます。ですが、おっしゃるように多くの人が実感するのは7~8年後のことかもしれません… .。2024/07/26 16:28:35118.目のつけ所が名無しさんw4rk5映画脚本家・橋本忍という人は、原作を元に脚本化を依頼される際、「私は変えますよ」と先に宣言してから請けていたそうです。松本清張原作の人気小説「ゼロの焦点」を映画化する際も、クライマックスを改変することで結末をより印象的にしてテーマを引き立たせました。それに感銘を受けた松本清張は、「どんどん改変して良いから『砂の器』も映画化してくれないか」と直接持ち掛けたと言います。試行錯誤の結果、さまざまな効果的改変を加えて完成した「砂の器」は、試写を見た原作者に「この映画は小説を超えている」と大絶賛される傑作映画になりました。私も面白くて何度も見ています。興味ぶかいのは、ポスターにもなっている印象的な「親子の旅」の場面です。ハンセン病のため迫害を受け、幼い息子と日本中を回らなければいけなかった過酷な旅、時に四季の風景に和んだり、という場面は、実は原作には全く無いと言いますから驚きです。原作にあるのは「どんな旅だったのかは二人しか知らない」という一文だけなんです。その他にも原作から改変した部分がことごとく圧倒的な効果を生んでいる印象です。こういう名人の職人技を見せられると、「改変は悪で原作のまま映像化すべきだ」という意見とは真逆に、「改変による面白さをもっと見せて欲しい」とさえ思えます。2024/07/27 09:27:48119.目のつけ所が名無しさんw4rk5重要なのは、改変について同意された作品を使うことです。改変にも度合いがあって、作家の京極夏彦などは、映像化、コミック化などに対して「小説とは別物なのでどうぞご自由に」というスタンスです。本人もその映画にちょっと出演していたりしますから、本当に別物として楽しんでいるのでしょう。これが、原作と映像化作品の幸せな関係のような気がしますまた、テーマが歪められない範囲で、制約に合わせた改変は許容する、という約束もあり得ます。松岡圭祐は「催眠」という小説で、「催眠術というのは決して恐ろしいものではない」ということをテーマにしたのに、映画版では「催眠術は人も殺せる恐ろしいものだ」という真逆のホラー話にされてしまい、激怒したそうです。作品で伝えたかったテーマ自体を捻じ曲げられてしまうというのは、キャラクターのイメージがどうこうとは別次元の、酷い改変の例ですね。松岡圭祐は続編小説の「千里眼」は、抗議の意味で、あえて別の映画会社で映像化させています。映像化において改変は決して「悪」ではないんです。ことさらおかしな、それほど効果的とも思えないような改変をして、自分の作家性を出そうとする人もいますが、基本的には、原作の魅力を映像メディアに変換して発信するためには改変が必要なんです。問題なのは「原作通り、改変せずに映像化しますよ」と出来もしない約束をしておきながら、その後の事情によってその約束を反故にすることです。2024/07/27 09:31:09120.目のつけ所が名無しさんJnQ4r映像製作:一人でも始められて仲間とも楽しめる珍しい創作これはポジショントークになってしまいますが、趣味として「創作」は良いですよ、という話です。もちろん、スポーツでもいいです。ただ、私のように運動が苦手で体力もない場合、必ずしもスポーツが楽しめないんですね。スポーツが得意な人のように爽快感や達成感を感じにくい。それに対してインドア系・文化系の人は、創作が向いているかもしれません。創作活動にもさまざまなものがあります。ざっと挙げても、絵画系、文章系、工作系などが思いつきます。それぞれに入門しやすい内容も用意されているでしょう。そんな中でも私は「映像製作」が盲点になっていると思うのでお勧めしています。映像製作という創作が他の創作と違うのは、「共同作業にも発展させられる」という点です。普通は小説や絵画を複数人で手分けして作成したりはしませんよね?それに対して、映像製作は一人でも出来るし、イベントとして仲間と一緒に一つの作品作りを楽しむことも出来るんです。これは大きな特徴だと思います。そして映像製作というと敷居が高いと勘違いされることが多いんですが、特にスマホが普及した現在、もしかしたら最も始めやすい趣味かもしれません。2024/08/03 08:58:21121.目のつけ所が名無しさんERMO4「どうせ作るなら」という高望みが時間を食いつぶす創作関係の講座やワークショップを開くと「創作をしてみたい」という人が集まってきます。そして、いろいろ質問が出ます。例えば、映画を作ろうというようなワークショップの場合、一番多いのは「どういう機材を使えばいいんですか?」「カメラは何を使えばいいんですか?」という質問です。こちらの答えというのも「とりあえず何でもいいです」といつも決まっています。映画を作るんだから、一眼レフを買ってその動画機能で撮らなきゃいけないなんてことはないし、家庭で眠っているハンディーカムがあればそれでも十分だし、スマホを使って始めるというのもいいんです。とにかく何でもいいから始めてみて、そこから「こういう映像が撮りたいんだけれどもスマホじゃうまく撮れない。どうすればいいだろうか」という次の質問が来れば、いろいろとアドバイスはあるんですけれども、まだ何もやっていないのに、いろいろと疑問は湧くんでしょうね。これはなぜかというのを考えると、失敗を極端に恐れている人が多いようです。最短コースで創作物を完成させたいために、事前にあれこれ聞いて無駄なく行動したい。これがどうも動機になっているようです。ただ、実際問題として、初めて何かに取り組むときに全く失敗をせずにストレートに作業を完了させることは不可能なんですよ。一回も転ばずにスキーが滑れるようになりたいと言っているのと同じなんですね。スポーツとか創作はむしろ、失敗した方が理解が早いんです。「こういうことやってはいけませんよ」「こうした方がいいですよ」といくらアドバイスしても、失敗したことが無いとピンと来ないはずなんです。ですから、失敗は必要悪だと思って、無理に避けようとしないことが大事じゃないかなと思います。また、失敗したくない事にも繋がりますが、「高望み」が無駄なんです。もちろん作るからには良いものをつくりたいというのは、当たり前の感覚ですが、経験が浅いうちは高望みしてもあんまりいいことがないんです。勉強熱心な人というのは、いろいろ本を読んだりとか調べたりして、事前にどんどん知識を貯めていきます。すると、なんだか出来るような気になってしまいますが、実際はうまく出来ないんです。失敗とセットで体験してやっと出来るようになるからです。2024/08/10 10:06:00122.目のつけ所が名無しさんERMO4注意しなければいけないことが一つあるとすれば、権利の問題です。内容にもよりますが、パロディー作品は著作権をはじめとする権利を侵害してしまう可能性があります。ただ、勘違いしなくていいことは、権利を侵害した映画を作っちゃいけないわけじゃないんです。自分たちで練習として作って、それを自分たちが見ているだけであれば、別にこれは違反ではないんですね。これをSNSなどで発信した瞬間に法律違反になるわけです。例えば、非常に権利関係にうるさいディズニーのディズニーキャラクターを、自分できれいに絵に描いて、自分の部屋に飾っておく分には何も違反をしていないし、文句を言われる筋合いはないんです。これを外に発表したり、販売したりすると、重大な法律違反になるということです。だから、ベタドラマの内容にもよりますが、完成品はYouTubeやSNSにアップしたりとかせずに、自分たちのスマホの中だけで見る状態にした方が無難だとは思います。2024/08/10 10:13:09123.目のつけ所が名無しさんPMYRbもし本気で「分子料理」を学びたいなら、サンセバスチャンのバスク・クリナリーセンター(Basque Culinary Center、略称BCC)だと思います。ここは、料理とガストロノミーに特化した高等教育および研究機関で、料理に関する学士号、修士号、短期プログラムなど、多岐にわたる教育プログラムを提供して、日本から和食の講師として錚々たる料理人が講義を行っています。特に新しい食材の発見や、既存の食材の新しい利用法の研究する「フードサイエンス」と、栄養に重きをおいた「健康的な食生活を促進するためのレシピやメニューの開発」は、とても素晴らしい!入学するかどうか(できるかどうか)はさておいても、一度ご覧になったあと「国内の大手」に入るかどうか、お決めになればよろしいかと思います。この時代、仕事もそうですが、学校もひとつの教育機関でお求めのすべてが賄えるとは限りません。ぜひ一度、サンセバスチャンへ!2024/08/16 13:15:08124.目のつけ所が名無しさんMo6V6MADムービーは、既存の音声・ゲーム・画像・動画・アニメーションなどを個人が編集・合成し再構成したものですが、合法非合法問わず、表現のためには美術史を学ぶ必要があり、特に野獣派以降の近代美術史が重要です。そうしないと、どこかで必ず「ネタが切れて」しまいます。まずは、思いつきと手癖だけで作るのから脱却し、表現の歴史を理解して、作品の現在地を俯瞰的に見るようにしましょう。そうすると、既存のアニメの見方も大きく変わります。スタジオジブリの作品には、フランスの印象派の影響が感じられる風景描写が多く見られ、シュルレアリスムの影響は「天使のたまご」や「パプリカ」のような、夢と現実が交錯する作品にも見られます。ちなみに、日本のアニメは浮世絵から多大な影響を受けています。また、アニメは構図も重要ですが、それより光が重要なんです。こちらはレンブラントからはじまって、カラバッジョなどの光と影を理解することが大切で、基本的にハリウッドのアニメーターも撮影監督も、このあたりの美術史を知らない人はいません。それゆえ、世界一の撮影監督と言われるロジャー・ディーキンスが、「ウォーリー」「ヒックとドラゴン」などのアニメ映画のビジュアル・コンサルタントを務めたのです。まずは美術史を学びましょう。2024/08/16 16:47:18125.目のつけ所が名無しさん4zXaqまず間違いなく色々な特撮映像を活用しているのが、ヒッチコック映画です。アルフレッド・ヒッチコック監督は電気系の技術者やデザイナーを経て監督になった経歴も関係しているのか、色々な技術を応用して作った特撮映像に理解があるというか、自分自身で手法を考案して採用することも多いんです。有名な「めまいカット」の撮影法を考案しただけでなく、その手法で撮影する螺旋階段を、「ミニチュアを使って撮影すればいい」と撮影監督にアドバイスして、伝説的なショットを作ったことは有名です。ヒッチコック映画は基本的にストーリーも面白いので、私はprime videoで古い作品を良く見ます。そして、お決まりの「監督がちらっと映っている場面」を探すのはもちろん、自然に組み込まれた特撮映像を見つけては楽しんでいます。2024/08/17 08:42:03126.目のつけ所が名無しさんsFedx結論的で申し訳ございませんが「しっくり来る」のを持っていたら、歳ばっか取ってしまい、いつもたっても何もできないままですよ!しかもご質問にある2択に問題があります。一般的に、新しい挑戦は「好奇心のままに失敗してもいいからチャレンジしよう!」などと暴挙と思われる考えは勢いだけの「ポジティブ病」と見なされ、また「最悪死ぬ可能性もあるし、今のままある程度現実的な範囲で背伸びとかせずに生きようよ」などと言う極めて「ネガティブ」な極論を考えながら始めるものではありません。新しいプロジェクトでも行ったことがない旅路でも、綿密に計画を立て、幾度とない調査としっかり自分と向き合い取り組むことが鉄則中の鉄則です。それでも「しっくりくる」事は永遠にありません。なぜなら、100%確実な未来はひとつもないからです。それでも計画をしっかり立てること。本件に限らないと思いますが、貴君に足りないのは徹底的になにかを突き詰める集中力だと思われます。そのために僕が長年お勧めしているのは、血糖値をフラットにすることだと幾度となく申し上げてきました(というか忘れてしまっている?)。もしかし極端な食生活を送ってらっしゃいませんか?どちらにしろ、集中力を高め、成功しても失敗しても何かに取り組まないと全員に平等である時間ばかりが過ぎ去ってしまいます。まずは、食事の節制を徹底し、血糖値をフラットにしましょう。お求めの「バランス」は、食からはじまります。2024/08/23 16:39:27127.目のつけ所が名無しさんh5njS創作活動というのは多くの場合、一人で行うものです。絵画も小説も基本的には作業が一人で完結します。でも、映像制作という創作は、初めから最後まで一人で完結させられる場合もあれば、複数の人に手伝ってもらいながら作るというやり方もできます。規模が少し大きくなってくると、主に撮影時に人の手が必要になるので、仲間を募ってチームで活動をすると言うことが一般的になってきます。その時に「一人で完結させる」という癖が抜けていないと、ちょっとまずいことになります。基本的に映画は製作者(プロデューサー)の意図に沿って作品を作るわけで、一番負担が大きい製作者が、一番大きい満足を得られることになります。この満足感を体験してしまうと、私のようにこの活動がやめられなくなってしまうわけです。合同で創作活動をする場合、手伝ってくれる人達は、製作者ほどの満足感は決して得られないんですね。企画初期の段階から関わっていない場合は特に、作品に対する愛着がそれほどないからです。私が反省を込めて思うことは、賛同者に製作者と同じような犠牲を強いることはしてはいけないということです。2024/08/24 08:42:17128.目のつけ所が名無しさん7DlyC私はそれほど高尚な映画ファンではなくて、世に言う「名作映画」を映画館で全部観たと言うようなタイプではありません。子供の頃、テレビで洋画劇場の番組がいっぱいありましたから、機会があれば名作も観ていますが、B級映画も同列に楽しんでいたわけです。映画ファンの中には「名作映画」を絶対視するような人たちがいて、私はちょっと揶揄を込めて「映画原理主義」と呼んだりしてます。要は贅沢な撮り方をして「映画とはこうあるべきだ」と言うような一定の「型」を持っていて、大抵の場合はとてもお金と手間が掛かっている映画が多いです。芸術的なレベルが非常に高くて、必ずしも商業的に優れていなかったとしても、素人目にも「これは歴史に残るような映画なんだろうな」ということは分かります。そういう映画こそが映画であって、「観客が楽しめればいいじゃないか」というような作品を見下す人たちが一定数いるんです。それに対して、私はあえて皮肉を込めて「邪道映画」というのを提唱して、「映画は邪道でいいじゃないか」「楽しければいいじゃないか」と言っているわけです。映画原理主義の人は「撮影はこうあるべきだ」あるいは「演技はこうあるべきだ」という「型」にこだわり過ぎじゃないかな、という印象を私は持っています。「型」というのは大事なんですけれども、それにこだわり過ぎると、ちょっと滑稽なことになります。2024/09/01 09:21:47129.目のつけ所が名無しさん4gAH5インディーズ映画・自主制作映画は昔から存在していて、特に学生映画など、創作意欲が高い若者を中心に自分たちの思想で映画を作る活動は昔からされていました。音楽のバンドとか演劇とかと同じような動機・モチベーションで映画作りをする人たちが一定数います。私もその一人です。趣味としてやっている前提ではあるんですが、これでお金を稼げたらそれに越したことはないと、これは誰でも思っている筈なんです。ただ、ご存知のように、話はそんなに甘くはありません。音楽の活動をしてライブハウスでライブをしたとしても、お金の流れは、店から出演料をもらうのではなくて、出演する側が発表の場を買っているということがほとんどです。他の舞台系の活動も、出演している本人たちがお金を払うのが当たり前のようになっているのが現状です。これは需要と供給の関係なので仕方ないんです。話をインディーズ映画・DIY映画に絞ると、多くの作り手は「自分たちはお金のためにやってるわけじゃないから、別に売れなくていいんだ」という言い方をするんですね。もちろんそうでしょう。仕事は別にあって、「これは趣味だ」ということであれば、「お金のためじゃない」と言えますから。でも、私は当事者として実感があるんですが、「お金のためじゃない」というのは、やっぱり言い訳なんですよね。創作活動に協力してくれる人たちに、大抵の場合、報酬は支払うことができません。映画を作るときの資金は、言い出しっぺであるプロデューサーの自分が全部出すのは当然ですが、協力者にも「無償で手伝ってくれないか」というのが大前提になっちゃってるんです。本来であれば、大の大人が1日潰して付き合ってくれるわけですから、それなりのお礼は渡すべきなんです。それを「趣味の活動だから、あなたも自分の趣味のように参加してくれませんか?」ということで、賛同してもらってるわけです。これはとてもありがたいことなんですけれども、「お金のためじゃないから払えないんだよね」という言い訳に使っていたり、「これで儲けようとしているわけじゃないから、作品がつまんなくてもあんまり厳しい批評はしないでね」という言い訳にもしていると思います。2024/09/07 08:54:53130.目のつけ所が名無しさんW3HaW今回の展示はコレクション展ということですから常設展示です。 社長はDIC川村記念美術館に伺うのが、かなり久しぶりでしたので しごく感動しておりました。レンブラントから、モネ、ピカソ、 ルノワール、シャガール、藤田から、キリコ、ブランクーシ、アル プ、マグリッド、そして現代美術では、圧巻の7点のマークロスコ の部屋では鳥肌が立ちました。 そこから、フランクステラ、エドワースケリー、ポロック、デビュッフェ、ロイリキテンシュタイン、イヴクラインと美術史が一望できる内容になっており、その収集作品の筋の良さには驚きます。これだけの充実した内容のものを揃えるには、当時、かなりの数の作品をご購入され、展示されていない作品もかなりの数があるのではないかと思われます。 美術品というのは、目利きも必要ですが人とのご縁が大切です。 値段が高くなる絵だけ購入しようとするのは、プロといえども、 不可能です。真摯に芸術と向き合い、美術品を購入するのにお金 は必要ですが、その心構えといいますか、かなりの覚悟がなけ れば、あれだけの名品を絵描きも画商も、紹介することはないと 思います。2024/09/14 15:19:54131.目のつけ所が名無しさんmlLoL僕は今日死んでもいいように生きているつもりで、格段「終活」について考えたことがありません、というか、ずっと「終活」モードなのかもしれません。個人と会社ともに、借入金やローン、リースの類がひとつもなく、残ったスタッフに「迷惑をかけないように」しています。念の為、コンピュータやスマートフォンのパスワードも何人かに公開してまして、30年前から僕の訃報記事を書いてくれる新聞記者を指名しており、周囲には亡骸は海へ散骨するよう頼んでいます。昔と比べ危機察知能力は高まったと思いますが、性格上、いつ死んでもおかしくありませんからね。何事にも一度ハマったらどこまでも突っ込んでいく性格は、なかなか治りません・・・。2024/09/21 17:42:02132.目のつけ所が名無しさんfPm9d大きな撮影の際には「撮影保険」などに入っておりますが、普段のちょっとした海外ロケは、一般的な海外旅行保険の中で賄うようにしています。それでもトラブルはつきものですから、カメラストラップは50センチ以下にして小脇に抱え、正面からカメラを持ってないように見える工夫など、最低限のリスクマネージメントはしております。僕は三脚や照明を一切使いませんので、基本的にこれが全装備となり、機材バックなどを持ち運ぶ事もありません。また、最近はMacを持っていくこともなく、写真の現像はiPadで行い、日々OKテイクをクラウドに保管するようにしてバックアップ体制もそれなりに整えています。ちょっとリスクマネージメントと言うと変に聞こえるかもしれませんが、カメラもレンズもまたiPadも世界のどこでも買えるような機材を使っており、もし本当に盗難や故障などあったら、行った先で代替品を購入して仕事を完遂します。機材は盗られても、画がなかったり、データを盗られたら大問題です。こちらはお金では買えませんから。何より、命あっての物種。お気持ちはわかりますが、機材程度で済んで良かったと思いますよ。命は買えませんが、機材はまた買えるのですから(しかも最新機種を)。2024/09/27 16:26:26133.目のつけ所が名無しさんbHo00映画作りにおける「材料費」は時代と共に激減しています。例えば、16mmフィルムで撮影していた時代はフィルム代と現像代で200万円掛かっていた作品。同じ内容の作品でも8mmフィルムで撮れば20万円で済みますし、ビデオテープ撮影では1万円しか使いませんでした。今では、撮影に消耗品は使いませんから、撮影機材さえ揃っていれば、撮影に掛かるのは0円とも言えます。私が、「趣味の映画作りにお金は掛かりませんよ」というのはこのことです。人件費をお金と考えたら、もちろん時間や個人の技術力に応じた人件費は膨大に掛かっていきます。例えば、失敗なくレベルの高い撮影をしたい場合に、フリーランスのカメラマンを雇って撮ってもらうことは出来ます。1日5万円だとして、10回の撮影で50万円。役者も演技力がある人を使いたいという事で、雇うことももちろん可能です。無名の役者であれば、1日2万円くらいで出演してくれるかもしれません。人数が3人で、撮影回数が10回であれば、60万円。同様に、専門スタッフも、映画撮影の教科書に書いてある通りに集めて、それぞれ人件費を払っていくとすると、ちょっと趣味の範疇には収まらない金額になっていきます。そこまで考えて、「資金調達」に動き出す人がいます。クラウドファンディングや、各種の助成金によって、資金を集めることは出来るかもしれません。でも、私は映画製作の初心者が安易に他人から資金を集めることには反対なんです。クラウドファンディングはともかく、助成金は他人の納めた税金ですからね。そんなお金を使っ2024/10/05 11:39:32134.目のつけ所が名無しさんbHo00て責任を取れるのか?という話です。★身分相応のスケールで創作を繰り返す結論を言うと、フィルム代などの材料費が掛からない現在、製作費はゼロから始めましょう。スタッフや出演者に適切な指示を出せない人が、プロを集めてもまったく使いこなすことはできません。これは、「良いカメラさえ買えば、素晴らしい写真が撮れる」という勘違いと同様です。とくにアマチュアの場合は、「しっかりと完成させられる」というレベルになるまで、実作業の経験が必須なんです。ですから私は、少なくとも最初の5作くらいまでは、高い人件費が発生しない「仲間内」だけで映画製作をするべきだと思うんです。まずは、役者もスタッフも未経験のアマチュアである友人だけで揃えて、普段遊びの延長で映画作りを始めることがオススメです。当然、技術的には拙いものにしかなりませんが、それでもしっかりと計画して行動すれば、それなりの作品には仕上がります。手持ちの機材を使うため、材料費はゼロ。人件費もせいぜい付き合ってくれた仲間の食事代を出す程度で済むはずです。その仲間すらいないのであれば、まずは一人で完成させられる作品を企画すべきです。(そういう一人企画にも、別の魅力があります)映画作りをしていくと、常に「次はこういう作品を作りたい」というアイデアも湧いてくるでしょうから、撮影規模や難易度も、身の丈にあったものから徐々にレベルアップさせたものにしていった方がいいでしょう。2024/10/05 11:40:47135.目のつけ所が名無しさんCMncg映画をはじめとする創作活動は、本格的に継続しようとするとなかなか難しい面があります。活動継続が困難になる理由は、突き詰めて言えば、・活動に伴うコスト・活動から得られる満足のバランスが崩れて、分かりやすく言うと「割に合わない行為」になってしまうことです。商業映画を見れば一目瞭然で、「予算が集められなくて満足のいくものが作れない」という言い方をしますが、それはお金を出してくれない方が悪いのではなくて、「お金を回収できる作品を作れないから、投資として危険すぎてお金を出せない」というのが実情です。それに対して「芸術をお金で計るな!」というのであれば、人がお金を出してくれない事に文句を言わず、自分自身の情熱だけで創作を続ければいいだけなんです。趣味の創作活動はお金のためにやってるわけではありません。でも、「お金」を単に「価値を測る道具」として考えれば、同じような問題があることは明らかです。現代のように動画コンテンツが溢れかえっている時代では、映画のような作品を公開してもほとんど見てもらえません。日本人は「製造」は好きでも「販売・宣伝」は嫌いな人がほとんどですから、「良い作品を作る」というところにエネルギーを注ごうとしますが、「作品をいかに多く見てもらえるか」という活動量が圧倒的に少ないと感じます。それでは見てもらえるわけはないんですよね。誰にも見てもらえない状態で創作を続けるのは、不可能ではありませんが、かなり厳しいです。ある程度の承認欲求が満たされないと、自己満足も大きくはならないんですね。2024/10/12 15:59:35136.目のつけ所が名無しさんzqiJp疲れは人によって様々であり、その時々の見極めと対処が大切です。 普段からケトン体質=4ミリモル以上にしておけば、「エクストリームスポーツをやった時にくたくたになって」しまっても、糖質を取らずC8オイルなど良質な脂質をしっかりとれば、疲れは大幅に軽減できると経験上理解しています。 また、副腎疲労に陥った際には、アシュワガンダや良質なビタミンCサプリメントをしっかり摂取すると、疲れが大幅に軽減できます。 つまり、その時々の疲れの本質を見極めなければ、カバーできないのです。 それでもどうしようもない、と思ったら迷わず点滴です。 高濃度ビタミンCやマイヤーズカクテル、アリナミンFに幹細胞上清液などを、都度筋反射テストによって選んで凌いでます。 この数年は、長い渡航の前には必ず点滴を施すようになりました、「疲れる前に」。 ご年齢的にも、迷わず点滴を!2024/10/18 17:23:29137.目のつけ所が名無しさんMlefAでは、どうすればクリエイティブな仕事を早く出来るようになるのかというとまず期限を決め、進行スケジュールを細かく区切るといいです。それから、頭の中にあるものだけを出そうとするのではなく情報を集めてきて再構築するようにするといいです。このようにすると、気が乗らない日でも作業に向かうようになりますし外からも情報を集めるためネタ不足になりません。クリエイティブな仕事というのは計画性がないと本当に進みませんのでくれぐれも気をつけた方がいいですね。今後、文章や動画を作る時にはこのことを意識しながらやってみることをお勧めします。2024/10/27 19:25:20138.目のつけ所が名無しさんtECGOなぜ私が努力競争しないのかというと例え競争して勝てたとしても時間と体力を無駄に消耗するからです。私の考えでは競争の厳しいマーケットに参加するだけで損であり競争の少ないマーケットに参加することこそが賢い選択なのです。そして、この考えがあるからこそそこまで努力せずに10億円以上得られてきましたし旅や恋愛を楽しむ時間的余裕もあったのです。そんなわけで、私はその時々で競争の緩いことをやってきましたが最近のSNSは努力家の参入が増えすぎたのでそろそろSNS引退しようと思っています。いつの時代も、どんなことでもみんながやるようになると競争が厳しくなりお得でなくなるものです。努力競争せずに生きるにはまだみんなが目をつけてないけどリターンが大きいものを探して取り組むべきですね。2024/11/02 13:27:41139.目のつけ所が名無しさんZR6QT「ゴジラ -1.0」はもちろん、怪獣以外の美術も素晴らしい出来だと思います。山崎監督ならではの、グリーンバック撮影した映像と、CGを組み合わせた景色が生み出す世界観、戦後の焼け野原の映像などは絶望的な風景で、これをこんなにリアルに表現できるのは、現代の日本映画ならではのものだと思います。軍艦の登場シーンも素晴らしいものでした。昔の日本映画に出てくるミニチュアの戦艦なども、私は大好きではあるんですが、やはり水の表現が画面に加わってしまうと、ミニチュアはミニチュアであることがバレてしまうんです。「よく出来たミニチュアだなあ」と感心はしますが、「ミニチュアと気付かなかった」とはなりません。現代のリアルなCGで作られた軍艦シーンは、状況から考えてCGだと判断はしていますが、現実の映像として気持ちよく騙されながら見ることができます。山崎監督は「駐車場さえあれば、どんな場面でも撮れる」と言われたりしますが、今回も何の変哲もない空間にグリーンバックをセットして、工夫して贅沢な映像を作っています。ご存じのようにアメリカのアカデミー賞で、視覚効果の賞を取ったわけで、CGの技術、VFXの技術が凄いことは間違いないんですが、この映画の総合点を押し上げているのは、やっぱり外国の人にでも分かるような「ベタドラマ」の力だと思うんです。「ジャンルもの」として特殊に認識されがちな怪獣映画にベタドラマの展開をそのまま取り入れて、最低限の面白さは担保し、特撮や映像の力で「プラスα」の魅力を加えた、というのが成功の要因だと思います。「ゴジラ -1.0」の続編も決定したそうですが、・視覚効果の部分で評価されたから、もっと凄い映像を入れようということだけで勝負すると、恐らく今回のように一般の観客が「ああ面白かった」とはならないと思うんですね。裏で技術的には凄いことをやっているにしても、やっぱり表に見える部分は、古典的な人間ドラマを外さずにきっちりと構築することが、逆説的ですが、特撮を初めとする映像を引き立たせるための条件だと思います。2024/11/09 15:15:30140.目のつけ所が名無しさんuM7lp・「FOLIO」 Note Note Editions, 2024(ヴィヴィアン・サッセン)ヴィヴィアン・サッセン(1972-)は、オランダのアムステルダム出身。彼女の写真は、エロティックかつシュールで瞑想的。カメラやモデルのセッティングや演出に特徴があり、モデルはときにまるで彫刻のように体を不自然な格好に曲げたり、顔を隠したり、独自のメークが施されます。ファッション写真とパーソナル・プロジェクトの両分野で活躍し、いまではアイデンティティ、ジェンダー、身体、人種、ファッション、環境までの、さまざまなテーマや主題を探求する印象的でダイナミックなイメージで国際的な評価を得ています。本書は、サッセンのビジュアル・ランゲージ(視覚言語)の誕生を紹介する本です。ここでで紹介する写真はすべて、彼女が写真家としてのキャリアをスタートさせたばかりの1990年代半ばに撮影されたものです。自然発生的で個人的なアプローチを好むサッセンは、身の回りのものや環境を好んで被写体にします。これらの写真には、彼女が早くから取り入れてきた演出、フレーミング、遠近法のセンスが反映されています。彼女は、このようなアプローチによって、私たちが親しみを感じているあらゆるものの根底にある奇妙で不穏な側面を具現化することができるのです。 当初、この作品は本の出版プロジェクトとして構想されました。その後、写真家とNote Note Editionとの出会いを経て、数年後に出版されることになりました。ハードカバー : 80ページ、エディション1200、サイズ 21.4 x 3 x 26.6 cm、カラー図版41点を収録しています。2024/11/16 17:18:44
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+6101355.62024/11/21 21:29:08
嫌なら法定通り死ね
カーボンファイバーのレーシングヨットと言うものがどのように存在するのかは知らないけれど、ノーブルさんの話によると、カーボン素材で5 × 4インチのプロ用カメラを作ったと言うのである。それでノーブルさんの話によると出たばかりのリコーのスケルトンのコンパクトカメラが欲しいと言うのだった。日本の滞在日数があまりないと言うお話なので、リコーカンパニーの知り合いの人を紹介して、そこから手に入れるような手はずをとったのである。
それで私のほうはギブアンドテイクの貿易と言うわけでもないが、当時正規輸入代理店だと1,000,000円はするカーボンインフィニティー5 × 4インチを手に入れた。その後安くなったのでもう1台手に入れた。
アメリカだと4 × 5インチであるが、ダイエー帝国だと5 × 4インチであると言う。その理由は未だにわからない。それでも古さんといろいろお付き合いがあったのだが、非常に立派なカーボンインフィニティのポスターを見て、私は間違いに気がついた。
それでカーボンファイバー+ステンレスと言う非常にゴージャスなカメラが登場したわけだが、残念ながらこのネームプレートと言うのはそこら辺の適当なメーカーに頼んで作ってもらったアルミニウムをのりで貼り付けるペラペラなのである。それが残念。
最もカメラのネームプレートがのりで貼ってあって、よくはがれると言うのは既にステータスにもなっていて、フランス製の非常に有名なムービーカメラ|流の場合であるが、このカメラはノリがいい加減なので高いカメラのネームプレートがすぐはがれるのである。だからネームプレートの剥がれた Bolieuは本物であると言うふうに認定することもできる。
どういう事かというと、作品を見る人、つまり観客は「完成品を一番喜ぶはずだ」と思い込んでいることです。
これは、古い職人気質と言えるかもしれません。
・お客さんにはきれいに仕上げた完成品だけを見せたい
・製作途中の状態を見て欲しくない
これを「古い」と言う根拠は「きれいに仕上げた完成品のありがたみ」が昔と今では全く違うからです。
ハッキリ言って、現代は「きれいに仕上げたもの」はありきたりで、何の売りにもなりません。
書き方や、パフォームの仕方はいろいろだと思うが、「ものごとの本質を、実用的観点や、良識や常識のためにここまでしか考えるべきでないという範囲を飛び越えて探求する」のが哲学だと僕は思っている。おそらく、僕はそんなふうに思っているのだろう。
そしてそのときには、抽象概念が導きとして使われるのだが、必ずしも抽象概念だらけにならなくてもいい。一個か二個、キーとなるものを使って、あとはカジュアルな言葉で展開することもできる。ただ、「通常はリミッターがかかるような範囲を超えて抽象的・構造的思考を展開する」というのは、 かつてそういう思考の冒険がどれほど行われてきたかの蓄積を知らないとできない。相当の読書量が背景になければできない。
かつ、これはあまり言うと読書好きの方々に残念な思いをさせるかもしれないが、少なくとも現代社会において、哲学的思考に必要な「限度超え」を独学で行うのはかなり難しいと思う。哲学書を読んでも、そこまで「超えてる」ことが書いてあるとは普通は読めない。「え、そこまでのことが書かれてると読むんですか」と思うような読みを口伝で教えてくれる人に教わる必要がある。そういう教育の連鎖があって、哲学的思考は継承されている。
哲学は難しい、わからない、何の役に立つのかとよく言われる。それは、生活人としてのリミットを超えることを考えるからで、そりゃそうなのである。そこまで考えないほうがいいようなことを考えるのが哲学で、それは両義的である。創造性の源泉にもなれば、生活にとって余計なものにもなる。
では、哲学と生活は、どのように結びつくのだろうか。僕はこんなふうに考えている。生活のなかにも、何らかのリミットに近づくような部分があって、それを考えざるをえないときに、あるいは、生活の様々な問題を「誇張的にリミットへと近づけて考えてみる」ようなときに、哲学的思考との接点が生まれるということになるだろう。
僕自身、正直に申し上げれば「豊かな人生」について一度も考えたことがありません。
逆に言えば、そのようなことを考えたことがないから「豊かな人生」だと言えるのかもしれませんし、もしかしたらそのようなものは見つけに行っても見つからないと、どこかで理解しているからなのかもしれません。
ただし、僕の日々は充足していますし、趣味に興じても損得関係なく今生でやるべきことを全うしています。
そう考えると、貴君が探し求めているのは「豊かな人生」ではなく、人生を賭けてやるべきことを見つけられていないからだと考えます。
米国の心理学者エイブラハム・マズローは、人間の動機づけに関する理論を「マズローの欲求階層説」としてまとめました。
彼は、人間の欲求を5つの階層に分類し、下位から順に生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求とクラス分けし、下位の欲求が満たされると次の高次の欲求が現れると主張しました。
作家のヴィクトル・フランクルは、「人生の意味は、自分自身で見出すべきものであり、他人から与えられるものではない」と述べています。
フランクルは、ナチスの強制収容所での経験を通じて、人生の意味を見出すことの重要性を説いた人物です。
おそらく貴君は自己実現の欲求を満たすことができずに迷子になってしまっているのでしょうが、マズローは自己実現に達した人々に見られる特徴として、「Being-love」という概念を提唱しました。
Being-loveは、無条件の愛、受容、理解を意味します。
つまり、「豊かな人生」とは、Being-love=無条件の愛、受容、理解であり、この過程で、強烈な幸福感、充実感、一体感を伴う「ピーク体験」が起こるとマズローは述べています。
僕自身、かつては「サーフィン」、今も「読書などで人一倍のめり込んでいる」と自負しますが、これらは楽しくあっても無条件の愛はありません。
そこで、もし本当にお困りなら、誰かに役立つことを考えてみてください。
今日の貴君が「周囲のご協力のおかげ」だと本気で思うなら、次はあなたが誰かを助けるタイミングです、無条件の愛、受容、理解を持って。
「与えることは受けることより幸いである」というのは聖書の言葉ですが、まさにこの精神こそが、豊かな人生につながると考えます。
もうお気づきだと思いますが、「豊かな人生」は、FIREかどうかとは関係ありません。
エネルギーの循環をテーマに制作しています。
そのせいか、絵によく現れる形は「円」です。巡り回って循環していく形です。
「円」が絵に出てくるのはどうしてもそうなってしまう、という感覚があります。
まったく違う絵を描こうとしているのに、どうしても「円」を描くように手が動いていきます。
物質すべてはエネルギーをもち、影響しあって存在しています。
魂の存在というものがあるとすれば
エネルギーがぐるぐる回って響き合って存在している、動きそのものではないでしょうか。
その響きを、魂の歌声を絵にしてみようと思い、取り組みました。
下地を施していない亜麻を用い、亜麻そのものの布地は現実空間を表し、
鑑賞する時、絵の世界と現実世界との境界を感じさせます。
滲んだ背景や、広がりをもつ色面は、空でも宇宙でもこの世でもない無形の
エネルギーの広がりを表し、その中で色とりどりに輝く魂の響きを描きました。(作家から)
^_^ NHK放送センターで番組の収録をしたこともあるが、渋谷駅からそこに行くまでがまた大変な苦労である。だからこの10年以上私は渋谷に足をつけた事は無いけれども、渋谷を見たいと言う気分は非常に強い。最後に渋谷を撮影したのが30年以上前で、この時は4 × 5インチの大型カメラでカラーフィルムで撮影したタイトル
渋谷嫌い
というのである。私などは渋谷で歩くとナーバスだから精神をめちゃめちゃにされそうである。それでサファリパークのライオンバスのようにバスの中から撮影をしていれば、周囲のライオン。バスには攻撃してこないから、これは私が編み出した便利な撮影テクニックなのだ。それで安全安心でバスの中から渋谷を歩いているライオン連中を撮影する。
早稲田からぐるりとを走って、渋谷を一蹴してまた早稲田に戻っておとぼけで、カレーライスとコーヒーなどというのがベスト。渋谷サファリラリー
なのかな、、、と思うことでした。哲学的な内容はもちろん、今の
現代社会に対する多くのメッセージを受け取りました。
行き過ぎた資本主義に対するメッセージや、戦争に対する反戦の作品
などもありましたが、私が個人的に一番印象深かったのは、志賀理江
子さんの、鹿猟師とのやりとりと写真の作品でした。食用の鹿を猟師
として捕えている方との問答がそのまま写真とともに並べられている
ものですが、その中でのメッセージは‘生きる’ということでした。
自然の動物には、鬱病患者などはおらず、最後の最後まで生きようと
することでした。
野生の鹿を捉えるためには、自分が野生の鹿だったらどのように行動
するのかをシミュレーションしているということ。そして、獲物を
捕えて、食べるという意味。食べるということは、命を頂くことで
あり、私達は‘肉’というものをスーパーできれいに並べられたもの
で残酷な部分を見えない形で食べているけれど、それはとても特別な
ことなのだとこの展示は教えてくれました。
自然との共生と言ってしまえば、それまでかもしれませんが、改めて
アーティストの目線から‘いま、ここに生きる’ことを教えてくれた
内容でした。
この展覧会のおかげで、改めて、今、この時代に恵まれた環境に生きて
いることを教わりました。
池袋クラシックカメラ博も世界の中古カメラ市に習って、入場順の抽選会やったり、整理券配れば良いのに~。エレベーター前で、ここは通路です~とか大声で怒鳴らなくて済みますよ。
結果として、哲学の訓練をすることになり、ジル・ドゥルーズが専門になった。そうして大学院の年月を過ごした後、30歳くらいに、あらためて芸術作品の批評を書くようになった。そのときには、批評とは何かという当初の問いは、ある程度解決していた。というか、解消されていた。
私たちの創作には資金が潤沢ではありません。
ロジャー・コーマンのモットーである「工夫して解決しろ」というメッセージと実践結果が、そのまま参考になると思うからです。
映画の需要が変化しながら増して、ドライブインシアターという形態が広まった当時の状況と、テレビ離れが進んで動画をスマホで視聴するという新しい視聴方法が激増している現代には共通点があるのではないかと思います。
スマホでの動画視聴は、年々、手軽になっています。
言い方を変えれば、動画コンテンツの消費ペースが早くなり、量産の必要性は高まっているということです。
もちろん、ストーリー映像としての映画を、YouTuberが毎日配信しているようなコンテンツに対抗するペースで生産することはできません。
でも、芸術作品としての映画ではなく、大衆娯楽としての映画は「見られてなんぼ」です。
従来のようなのんびりとした制作ペースではなく、出来る限りのハイペースで作品を量産することが大事になってくるのではないでしょうか?
ロジャー・コーマンの功績は、作品の量産によって、俳優やスタッフの卵たちに多くのチャンスを与えたことです。
私はスマホ映画(マイクロ映画)で、誰もが手軽にクリエイター側に入れることで、映画作りには、その関係者に対してさまざまな承認欲求を満たす機能があると考えています。
その中でスマホ映画(マイクロ映画)の特徴を考慮することは有効です。
大前提になるのは画面が小さいこと。
昔、テレビが登場したとき「画面が小さいから映像の撮り方そのものが変わる」と言われましたが、実際は当初言われたように「テレビは顔のアップばかりになる」という懸念は杞憂に終わり、むしろ今では映画館で見る映画もテレビ的な構図とカット割りになっています。
つまり、映像構成に差は必要なさそうです。
軍隊やブラック企業は
難しいでしょうから
海外移住したり、厳しい学校に
入ってみるといいでしょう。
また、子供を育てる場合も
何不自由なく育てるのではなく
もっとストレスをかけることを
お勧めします。
子供が慣れない環境に放り込んだり
やりたくないと言っていることを
無理やりやらせたりしましょう。
社会において、一番成功するのは
いいところのお坊ちゃまではなく
クソみたいな環境で育った人
だったりするのですが
これもストレス耐性が高いからですね。
を実家の両親の様子を子どもの頃から見ているせいか、心配りが
繊細です。雨の日には、絵描きのところに電話をしてはいけない
など、私には発想すらなかったことでした。用事があれば、仕事の
事ですから、すぐに電話をするものだと思っておりましたが、社長
から、雨の日は画家の先生たちは気持ちが落ち込んでいる事が多い
から電話をしないようにと注意された時には驚きました。
後で、こっそりと岡野先生に確認すると、やはり雨の日は気持ちが
沈むことが多いと返事があって驚いたものでした。
最近思うのは、だからこそ微妙な色合いや、絶妙な組み合わせの
フォルムを生み出すことができるのかな? ということです。
描いているときが何より幸せで、無心になって、気が付いたら作品
が出来上がっていたというのが、一番良い状態なのだという事です。
ですから、あまり電話などで仕事の邪魔はしたくないと思っています。
ある意味、スポーツや仕事でも通じるのかもしれませんが、無心で
集中力が高まっているときというのは、時間がたつのも忘れる感覚で
そういうときに、仕事でも何でも、良い結果がでるものかもしれない
と思います。
そういう時間をなるべく多く作れるように環境を整えることが、画商
の仕事なのだと思っています。
アルプスの森、エメラルド色の湖、雪に覆われた美しい峰々、そして草原にカウベルが鳴り響く土地。 より自然なペースで日々が過ぎていく中で、村娘のヒルダ、トラウデル、ハイジとその仲間たちは、静かな田舎暮らしを楽しんでいます。彼女たちは、民族衣装のディアンドルを嬉々として脱ぎ捨て、プレッツェルを頬張り、手つかずの牧草地を闊歩し、
レダーホーゼン姿(肩紐付きの皮ズボン)の農夫を誘惑し合いながら、 同時に土地の特性や魅力を紹介しています。
本書では、古風な土地の魅力と反抗的なエッジ、そして伝統的な男女の役割分担のずる賢い転覆を、 エレーン・ヴォン・アンワースらしく見事に融合させています。新鮮で挑発的なエロティシズムを炸裂させ、ウィットとユーモアに富み、 一方で誇り高き美しい地域に対する変わらぬ愛に彩られています。本書を通して、村娘たちの牧歌的な冒険に参加し、バイエルンを巡る魅惑の旅を経験できるでしょう。
具体的には、360度、どこからみてもそれらしく見える小道具を作ろうとしていたんです。
それによってリアリティーが増す面はもちろんあるんですが、実際に撮影してみると、小道具の登場時間はとても短いものなんです。
何週間も掛けて制作しても、画面に登場するのはほんの数秒だったりします。
私の場合、小道具を作っているのも私。監督も私です。
工作の苦労を実感しているので「せっかく時間を掛けて作ったのだから、もうちょっと多く登場させたい」と思ったら、それが出来てしまいます。
すると、工作物を必要以上にじっくりと観客に見せることになって、工作のアラが目立ったり、映像のテンポが悪くなったりします。
「せっかく作った小道具だから」という思い入れによってかえって作品の質を下げてしまうんです。
理想は、たっぷりこだわって作ったものをちらっとだけ効果的に見せることです。
でも、その「こだわり」にはコストが掛かりますから、そこにこだわった分、どこかに影響が出ます。
全体のバランスを考えない「こだわり」は、積もり積もって最悪の場合、作品を制作頓挫に追い込むんです。
これは、私自身が何度も体験しているので、「完成を最優先にしましょう」というのは声を大にして言いたい事です。
「創作で妥協してはいけない。時間を掛けてでもとことんこだわれ」
という無責任なアドバイスは聞かない方が良いと思います。
世界有数の音楽制作の都であるベルリンは、僕が20年近く愛用するAbleton LiveやDJアプリケーションのTraktorなどを作るネイティブインストゥルメンツなど、そうそうたる音楽制作企業が軒を連ねている街です。
音楽関連のコミュニティーも充実しており、もし可能でしたら、ベルリンにそれなりの時間を割かれることをオススメします。
年間10ヶ月近く暖房が必要な寒いのが嫌いな人(例えば僕)にとっては大変困った街ですが、夏のベルリンは最高です!
運河沿いで面白いパーティーが行われたり、夏ならではのイベントが盛りだくさん。
また、いただいたスケジュールの日程の読み方がいまひとつわからないのですが、バルセロナではこの時期「SONAR」が開催されています。
電子音楽と新しいアートが集まる世界最高の都市型フェスですので、ここも必ず訪れるようにしましょう。
どうか良い旅を!
どの趣味にも魅力があり、夢中になって没頭できる人は、趣味がない人に比べて明らかに日々感じる充実感が高い筈です。
この「充実感」は馬鹿にならない感覚で、これを持たずに生活していると代わりの疑似的な満足感を得るために「他人の批判」ばかりしがちになるんです。これは無為というほかありません。
要は「楽しめる趣味を持ちましょう」という話なんですが、私のように体力がない人間に向いている趣味の一つが「創作」で、その中でも「映像」は面白いよ、とオススメしているわけです。
ところが、同じ創作の趣味の中でも「映像」は
・お金が掛かりそう
・難しそう
と思われがちです。
お金が掛かるというイメージを持つ原因は、実際に映像づくりに大金が掛かった昔の状況から知識が更新されていないことから来ています。
実際は、作業するたびに消費するのはデータ容量と僅かな電気代だけなので、手持ちの道具だけで映像づくりを始める限り、最もお金が掛からない趣味とさえ言えます。
「難しそう」という点については分からなくもありません。
それは、「映像は修正しにくい」という性質から来ているかもしれません。
先日、全く無名の作家が書いた電子書籍の長編小説を読んで、思わぬ掘り出し物として楽しみました。
そうすると、自分でも小説を書いてみたくなる訳ですが、品質の良し悪しを抜きにすれば、見よう見まねで書き始めることが出来るんですね。
基本的にはこの記事と同じ「文字」で構成されているので、書き進めることができます。
そして、当然のように推敲を重ねていくことで、何となくサマになってくるのは想像できると思います。
繰り返しの推敲は絶対に必要で、一通り形にして初めて「ここは言葉足らずで良く分からないな」とか「言い回しがまどろっこしいから簡潔にしよう」とか改善ポイントも見えてくるわけです。
その、「あとから推敲できる」という安心感から、アイデアが繋がったら細かいことは後回しにして一気に文章を書き進めるということもできるわけです。
油絵なども同様です。
絵の具が乾きさえすれば後からいくらでも色を重ねられるので、ざっくりと形にした後、納得のいくまで修正を加えられます。
ところが「映像」における「推敲」は、編集段階の微調整しかできません。
つまり、撮影した映像のうち、使う部分の選択や順番の入れ替えは出来るものの、登場人物のキャラクターを変えたり、場面に登場する部屋の家具を変えたり、ということが、小説や油絵のように後から変えられないんです。
すると、当然、重要になってくるのは「撮影前の検討と準備」になります。
映画などは何年もかけて準備して、数週間で一気に撮影することがほとんどですから、撮影に入る前に作品は7割方完成している事になります。
そのため「下準備が重要」ということになるわけですが、趣味としてやるには、ここの作業が地味で重たいんです。
私自信は、この作業も映像創作の醍醐味と思ってますから根気よく続けられますが、「面白そうだから映画作ろうぜ」と仲間と盛り上がって、楽しいであろう撮影や編集を味わうための前工程が長すぎると、まずやる気は続きません。
本格的に映像づくりを楽しもうと思って、作り方を知ると「難しそう」と尻込みしてしまうのも無理はありません。
もはやプロか素人かではなく、人か人じゃないかの分かれ道に立つ分岐点も過ぎており、既に(人として)「プロとしてサバイブしていく方法」をお考えの時点でサバイブできないと失礼ながらに思います。
なにしろ、AIは素人でもプロでもないわけで、また「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」は、ビジネス的には完全に斜陽です。
経済や社会を俯瞰的に見ますと、この20年で消費者物価CPIは+85%になり、それを超えるのは3倍になった医療費、2倍になった教育費、等倍が食品と不動産で、逆に崩壊したのが「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」です。
つまり、「プロとしてサバイブしていく方法」は、「エンタメ界(映画、舞台、テレビなど)」から離れ、いままでのノウハウを持って伸びてる業界にいち早く移るることにあると考えます。
業界ではなく、社会全体を見るようにしましょう。
そうしないと、埋没してしまいますからね。
その手本になった書は、作家が自分で山に入って木を伐り、炭焼き小屋で炭を作り、その炭の煤(すす)から作った墨を使って書かれた作品だとしましょう。
「書道を体験するには、まず山に行って良い炭になる木を選ぶところから始めましょう」と言ったらどうでしょう?
「手本の作家と同じ工程を全て体験したい」という人はまずいないと思います。
書道を体験したいあなたは、完成品を見て、その「最後の工程」を体験してみたいと思ったからです。
本来であれば炭を作るところから行う作業をショートカットするために、市販の墨汁を使うことは自然な選択です。
「それでは個性が出ない」とか「邪道だ」という意見は、もしかしたら正論かもしれませんが、書道を体験したいだけで、立派な書家になることが目的ではないあなたには全く説得力を持ちませんよね?
手本のようなユニークな「書」を書いてみたいだけなんですから。
仮に邪道だとしても、墨汁を使って自分なりに工夫した書を形にして、見よう見真似で作った印章を朱肉に付けて紙の隅に押印して、それらしくなった作品を鑑賞し合うのもとても楽しそうだと思いませんか?
有名でないレンズを発掘してみては?
では一体、何がカウンターだったのでしょうか?
それは、ほとんどの宗教が持っていた「神話」を否定したことにありました。
釈迦が生きていた頃のインド社会を支配していたのは、紀元前13世紀頃に成立したインドの民族宗教「バラモン教」ですが、釈迦が神の存在を否定して、バラモン教の言う「ブラフマン(梵)」を一蹴したんです。
バラモン教において「ブラフマン」は「宇宙の根本原理」であり「絶対的なもの」でしたが、世界にはそれ単体で存在し得るものはなく、すべては他との関係性によって存在しているという「縁起」を釈迦は多くの人に説きました。
「ブラフマン」も他ではありません。
この思想は画期的で、「彼の教えの本質や人々に伝えたかったこと」は生きる上で生じる苦の原因=「縁起」と自己中心性=「無明」に集約されると思います。
つまり、神は人を助けないと得々と説いたのです。
ところが後世の「大乗仏教」の時代になると、「神=如来」の概念を取り入れます。
釈迦自身が「仏陀」という神にされ、「観音」や「弥勒菩薩」と、複数の神様が生み出されました。
この辺り、つまり神話の有無が現在の仏教と「原始仏教」の大きの違いだと考えます。
それゆえ、仏教が生まれた神々の国インドでは、現在仏教徒がほとんどいない(人気がない)のです。
ただ、スマホのレンズは少し特殊な映り方をする、ということを知っておく必要があります。
レンズは大まかに分けると
・広角レンズ
・標準レンズ
・望遠レンズ
という種類に分けられます。
基準になるのは「標準レンズ」で、これは私たちが目で見ているイメージに一番近い映像を撮るものだと思ってください。
スマホのレンズは「広角レンズ」なんです。
視野が広いという事ですね。
これによって、友達とツーショットの写真を、自分で手を伸ばした状態で撮影できたりします。
標準レンズで同じ撮り方をしてもせいぜい二人の顔のアップしか撮れません。
視野が狭いからです。
集合写真などを撮る際も、標準レンズのカメラだと5メートル位離れないと全体が入らないのに、スマホだと2メートルくらいしか離れていないのに全員がカメラに収まったりします。
それだけ聞くととても便利なレンズと思われるでしょうが、欠点もあります。
集合写真を撮ると気付かれる通り、広角レンズの映像は歪むんです。
集合写真の中央に映る人は歪みが小さくてあまり気になりませんが、画面の端に映る人はかなり大きく歪んでいるはずです。
逆の言い方をすると、広角レンズは、本来は画面に入らない範囲の映像を、ギュッと歪めることで無理やり画面に納める特徴があるんです。
これをもっと極端にしたのが「魚眼レンズ」というものです。
「いやー、そうなんですけどね」みたいな人類との断絶は深まるばかりで、
理想的な展開です。
主にpdf読ませたりグラフ読ませたりいろんな方の著書読ませたり営業利益を
計算させたり損益分岐点を推測させたりしています。あとはNetflixで次に
見るべき韓国ドラマ。
ミュンヘンの美術学校で学んでいるということです。男前のキリコ
は、自画像を多く残しておりますが、それと合わせて3歳年下の
弟も演劇や絵画など幅広い活動をされている芸術家でお互いに影響
しあっているという事が作品から見て取れました。
またドイツの美術学校で学んだということから、ニーチェやショー
ペンハウエルなどから思想的に影響を受けています。キリコが
「刑而上芸術について」という書籍を出版されておりますが、日本語
で刑而上というと理解しづらいのですが、英語で metaphysicalと
いう言葉で 非物質的な という意味も持つ言葉であることを踏ま
えると、とても理解しやすくなりました。
ですので、キリコの作品を日本語でタイトルを読んで、解説を拝見
すると哲学的でわかりずらいのですが、英語でmetaphysicalな作品
であることと、ニーチェやショーペンハウアーの影響を受けている
ことを踏まえて作品と対峙することで、私にとって理解が深まり、
整理されました。
画家は自分の生活の経験が作品になる事も、絵画鑑賞の上で勉強に
なりました。キリコがよく、山の中に椅子や家具を置いた作品を描く
のは、イタリアで地震がくると、家具が危ないので家の外に出す
経験を子どものときにしているからだと知り、納得がいきました。
またキリコもエコール・ド・パリの洗礼を受けていて、1911年から
第一次世界大戦が始まる1915年までパリに住み、アンデパンダン展、
サロン・ドートンヌに出品しており、美術評論家ギヨーム・アポリネール
に注目されています。
改めて芸術家は生まれた時代と場所が大切で、影響力そのものが作品の評価
に繋がっていくのだと思います。
明らかに異質だけど、他にはない強いエネルギーがあれば、それは数年後に大きなトピックになると考えます。
それを探し出し、イチ早く皆さんにお伝えするため、いつも世界中をウロウロしてるのです。
つまり、数年後の世界が知りたければ、自ら世界中ウロウロすればいいんですよ!
そこにはインターネットには載ってない小さな次世代の芽が必ずあります。
「光を観る」と書いて観光です。
旅ほど新しい視点を得る機会は、他にはありません。
ちなみに、今週滞在した英国で感じたのは、ロンドン以外の都市は壊滅するだろうと言うことです。
既に英国第二の都市バーミンガムは財政破綻しました。
これはイギリスに限らず他国でも同様だと思われますが、首都及びそれなりの観光都市以外はひどい有様になるでしょうね。
日本も他ではありません。
どこかで何かを英断しなければならない時期が必ずやってきます。
ですが、おっしゃるように多くの人が実感するのは7~8年後のことかもしれません… .。
松本清張原作の人気小説「ゼロの焦点」を映画化する際も、クライマックスを改変することで結末をより印象的にしてテーマを引き立たせました。
それに感銘を受けた松本清張は、「どんどん改変して良いから『砂の器』も映画化してくれないか」と直接持ち掛けたと言います。
試行錯誤の結果、さまざまな効果的改変を加えて完成した「砂の器」は、試写を見た原作者に「この映画は小説を超えている」と大絶賛される傑作映画になりました。
私も面白くて何度も見ています。
興味ぶかいのは、ポスターにもなっている印象的な「親子の旅」の場面です。
ハンセン病のため迫害を受け、幼い息子と日本中を回らなければいけなかった過酷な旅、時に四季の風景に和んだり、という場面は、実は原作には全く無いと言いますから驚きです。
原作にあるのは「どんな旅だったのかは二人しか知らない」という一文だけなんです。
その他にも原作から改変した部分がことごとく圧倒的な効果を生んでいる印象です。
こういう名人の職人技を見せられると、「改変は悪で原作のまま映像化すべきだ」という意見とは真逆に、「改変による面白さをもっと見せて欲しい」とさえ思えます。
改変にも度合いがあって、作家の京極夏彦などは、映像化、コミック化などに対して「小説とは別物なのでどうぞご自由に」というスタンスです。
本人もその映画にちょっと出演していたりしますから、本当に別物として楽しんでいるのでしょう。
これが、原作と映像化作品の幸せな関係のような気がします
また、テーマが歪められない範囲で、制約に合わせた改変は許容する、という約束もあり得ます。
松岡圭祐は「催眠」という小説で、「催眠術というのは決して恐ろしいものではない」ということをテーマにしたのに、映画版では「催眠術は人も殺せる恐ろしいものだ」という真逆のホラー話にされてしまい、激怒したそうです。
作品で伝えたかったテーマ自体を捻じ曲げられてしまうというのは、キャラクターのイメージがどうこうとは別次元の、酷い改変の例ですね。
松岡圭祐は続編小説の「千里眼」は、抗議の意味で、あえて別の映画会社で映像化させています。
映像化において改変は決して「悪」ではないんです。
ことさらおかしな、それほど効果的とも思えないような改変をして、自分の作家性を出そうとする人もいますが、基本的には、原作の魅力を映像メディアに変換して発信するためには改変が必要なんです。
問題なのは「原作通り、改変せずに映像化しますよ」と出来もしない約束をしておきながら、その後の事情によってその約束を反故にすることです。
これはポジショントークになってしまいますが、趣味として「創作」は良いですよ、という話です。
もちろん、スポーツでもいいです。
ただ、私のように運動が苦手で体力もない場合、必ずしもスポーツが楽しめないんですね。
スポーツが得意な人のように爽快感や達成感を感じにくい。
それに対してインドア系・文化系の人は、創作が向いているかもしれません。
創作活動にもさまざまなものがあります。
ざっと挙げても、絵画系、文章系、工作系などが思いつきます。
それぞれに入門しやすい内容も用意されているでしょう。
そんな中でも私は「映像製作」が盲点になっていると思うのでお勧めしています。
映像製作という創作が他の創作と違うのは、「共同作業にも発展させられる」という点です。
普通は小説や絵画を複数人で手分けして作成したりはしませんよね?
それに対して、映像製作は一人でも出来るし、イベントとして仲間と一緒に一つの作品作りを楽しむことも出来るんです。
これは大きな特徴だと思います。
そして映像製作というと敷居が高いと勘違いされることが多いんですが、特にスマホが普及した現在、もしかしたら最も始めやすい趣味かもしれません。
創作関係の講座やワークショップを開くと「創作をしてみたい」という人が集まってきます。
そして、いろいろ質問が出ます。
例えば、映画を作ろうというようなワークショップの場合、一番多いのは
「どういう機材を使えばいいんですか?」
「カメラは何を使えばいいんですか?」
という質問です。
こちらの答えというのも
「とりあえず何でもいいです」
といつも決まっています。
映画を作るんだから、一眼レフを買ってその動画機能で撮らなきゃいけないなんてことはないし、家庭で眠っているハンディーカムがあればそれでも十分だし、スマホを使って始めるというのもいいんです。
とにかく何でもいいから始めてみて、そこから「こういう映像が撮りたいんだけれどもスマホじゃうまく撮れない。どうすればいいだろうか」という次の質問が来れば、いろいろとアドバイスはあるんですけれども、まだ何もやっていないのに、いろいろと疑問は湧くんでしょうね。
これはなぜかというのを考えると、失敗を極端に恐れている人が多いようです。
最短コースで創作物を完成させたいために、事前にあれこれ聞いて無駄なく行動したい。
これがどうも動機になっているようです。
ただ、実際問題として、初めて何かに取り組むときに全く失敗をせずにストレートに作業を完了させることは不可能なんですよ。
一回も転ばずにスキーが滑れるようになりたいと言っているのと同じなんですね。
スポーツとか創作はむしろ、失敗した方が理解が早いんです。
「こういうことやってはいけませんよ」
「こうした方がいいですよ」
といくらアドバイスしても、失敗したことが無いとピンと来ないはずなんです。
ですから、失敗は必要悪だと思って、無理に避けようとしないことが大事じゃないかなと思います。
また、失敗したくない事にも繋がりますが、「高望み」が無駄なんです。
もちろん作るからには良いものをつくりたいというのは、当たり前の感覚ですが、経験が浅いうちは高望みしてもあんまりいいことがないんです。
勉強熱心な人というのは、いろいろ本を読んだりとか調べたりして、事前にどんどん知識を貯めていきます。
すると、なんだか出来るような気になってしまいますが、実際はうまく出来ないんです。
失敗とセットで体験してやっと出来るようになるからです。
内容にもよりますが、パロディー作品は著作権をはじめとする権利を侵害してしまう可能性があります。
ただ、勘違いしなくていいことは、権利を侵害した映画を作っちゃいけないわけじゃないんです。
自分たちで練習として作って、それを自分たちが見ているだけであれば、別にこれは違反ではないんですね。
これをSNSなどで発信した瞬間に法律違反になるわけです。
例えば、非常に権利関係にうるさいディズニーのディズニーキャラクターを、自分できれいに絵に描いて、自分の部屋に飾っておく分には何も違反をしていないし、文句を言われる筋合いはないんです。
これを外に発表したり、販売したりすると、重大な法律違反になるということです。
だから、ベタドラマの内容にもよりますが、完成品はYouTubeやSNSにアップしたりとかせずに、自分たちのスマホの中だけで見る状態にした方が無難だとは思います。
ここは、料理とガストロノミーに特化した高等教育および研究機関で、料理に関する学士号、修士号、短期プログラムなど、多岐にわたる教育プログラムを提供して、日本から和食の講師として錚々たる料理人が講義を行っています。
特に新しい食材の発見や、既存の食材の新しい利用法の研究する「フードサイエンス」と、栄養に重きをおいた「健康的な食生活を促進するためのレシピやメニューの開発」は、とても素晴らしい!
入学するかどうか(できるかどうか)はさておいても、一度ご覧になったあと「国内の大手」に入るかどうか、お決めになればよろしいかと思います。
この時代、仕事もそうですが、学校もひとつの教育機関でお求めのすべてが賄えるとは限りません。
ぜひ一度、サンセバスチャンへ!
そうしないと、どこかで必ず「ネタが切れて」しまいます。
まずは、思いつきと手癖だけで作るのから脱却し、表現の歴史を理解して、作品の現在地を俯瞰的に見るようにしましょう。
そうすると、既存のアニメの見方も大きく変わります。
スタジオジブリの作品には、フランスの印象派の影響が感じられる風景描写が多く見られ、シュルレアリスムの影響は「天使のたまご」や「パプリカ」のような、夢と現実が交錯する作品にも見られます。
ちなみに、日本のアニメは浮世絵から多大な影響を受けています。
また、アニメは構図も重要ですが、それより光が重要なんです。
こちらはレンブラントからはじまって、カラバッジョなどの光と影を理解することが大切で、基本的にハリウッドのアニメーターも撮影監督も、このあたりの美術史を知らない人はいません。
それゆえ、世界一の撮影監督と言われるロジャー・ディーキンスが、「ウォーリー」「ヒックとドラゴン」などのアニメ映画のビジュアル・コンサルタントを務めたのです。
まずは美術史を学びましょう。
アルフレッド・ヒッチコック監督は電気系の技術者やデザイナーを経て監督になった経歴も関係しているのか、色々な技術を応用して作った特撮映像に理解があるというか、自分自身で手法を考案して採用することも多いんです。
有名な「めまいカット」の撮影法を考案しただけでなく、その手法で撮影する螺旋階段を、「ミニチュアを使って撮影すればいい」と撮影監督にアドバイスして、伝説的なショットを作ったことは有名です。
ヒッチコック映画は基本的にストーリーも面白いので、私はprime videoで古い作品を良く見ます。
そして、お決まりの「監督がちらっと映っている場面」を探すのはもちろん、自然に組み込まれた特撮映像を見つけては楽しんでいます。
しかもご質問にある2択に問題があります。
一般的に、新しい挑戦は「好奇心のままに失敗してもいいからチャレンジしよう!」などと暴挙と思われる考えは勢いだけの「ポジティブ病」と見なされ、また「最悪死ぬ可能性もあるし、今のままある程度現実的な範囲で背伸びとかせずに生きようよ」などと言う極めて「ネガティブ」な極論を考えながら始めるものではありません。
新しいプロジェクトでも行ったことがない旅路でも、綿密に計画を立て、幾度とない調査としっかり自分と向き合い取り組むことが鉄則中の鉄則です。
それでも「しっくりくる」事は永遠にありません。
なぜなら、100%確実な未来はひとつもないからです。
それでも計画をしっかり立てること。
本件に限らないと思いますが、貴君に足りないのは徹底的になにかを突き詰める集中力だと思われます。
そのために僕が長年お勧めしているのは、血糖値をフラットにすることだと幾度となく申し上げてきました(というか忘れてしまっている?)。
もしかし極端な食生活を送ってらっしゃいませんか?
どちらにしろ、集中力を高め、成功しても失敗しても何かに取り組まないと全員に平等である時間ばかりが過ぎ去ってしまいます。
まずは、食事の節制を徹底し、血糖値をフラットにしましょう。
お求めの「バランス」は、食からはじまります。
絵画も小説も基本的には作業が一人で完結します。
でも、映像制作という創作は、初めから最後まで一人で完結させられる場合もあれば、複数の人に手伝ってもらいながら作るというやり方もできます。
規模が少し大きくなってくると、主に撮影時に人の手が必要になるので、仲間を募ってチームで活動をすると言うことが一般的になってきます。
その時に「一人で完結させる」という癖が抜けていないと、ちょっとまずいことになります。
基本的に映画は製作者(プロデューサー)の意図に沿って作品を作るわけで、一番負担が大きい製作者が、一番大きい満足を得られることになります。
この満足感を体験してしまうと、私のようにこの活動がやめられなくなってしまうわけです。
合同で創作活動をする場合、手伝ってくれる人達は、製作者ほどの満足感は決して得られないんですね。
企画初期の段階から関わっていない場合は特に、作品に対する愛着がそれほどないからです。
私が反省を込めて思うことは、賛同者に製作者と同じような犠牲を強いることはしてはいけないということです。
子供の頃、テレビで洋画劇場の番組がいっぱいありましたから、機会があれば名作も観ていますが、B級映画も同列に楽しんでいたわけです。
映画ファンの中には「名作映画」を絶対視するような人たちがいて、私はちょっと揶揄を込めて「映画原理主義」と呼んだりしてます。
要は贅沢な撮り方をして「映画とはこうあるべきだ」と言うような一定の「型」を持っていて、大抵の場合はとてもお金と手間が掛かっている映画が多いです。
芸術的なレベルが非常に高くて、必ずしも商業的に優れていなかったとしても、素人目にも「これは歴史に残るような映画なんだろうな」ということは分かります。
そういう映画こそが映画であって、「観客が楽しめればいいじゃないか」というような作品を見下す人たちが一定数いるんです。
それに対して、私はあえて皮肉を込めて「邪道映画」というのを提唱して、「映画は邪道でいいじゃないか」「楽しければいいじゃないか」と言っているわけです。
映画原理主義の人は「撮影はこうあるべきだ」あるいは「演技はこうあるべきだ」という「型」にこだわり過ぎじゃないかな、という印象を私は持っています。
「型」というのは大事なんですけれども、それにこだわり過ぎると、ちょっと滑稽なことになります。
音楽のバンドとか演劇とかと同じような動機・モチベーションで映画作りをする人たちが一定数います。
私もその一人です。
趣味としてやっている前提ではあるんですが、これでお金を稼げたらそれに越したことはないと、これは誰でも思っている筈なんです。
ただ、ご存知のように、話はそんなに甘くはありません。
音楽の活動をしてライブハウスでライブをしたとしても、お金の流れは、店から出演料をもらうのではなくて、出演する側が発表の場を買っているということがほとんどです。
他の舞台系の活動も、出演している本人たちがお金を払うのが当たり前のようになっているのが現状です。
これは需要と供給の関係なので仕方ないんです。
話をインディーズ映画・DIY映画に絞ると、多くの作り手は「自分たちはお金のためにやってるわけじゃないから、別に売れなくていいんだ」という言い方をするんですね。
もちろんそうでしょう。
仕事は別にあって、「これは趣味だ」ということであれば、「お金のためじゃない」と言えますから。
でも、私は当事者として実感があるんですが、「お金のためじゃない」というのは、やっぱり言い訳なんですよね。
創作活動に協力してくれる人たちに、大抵の場合、報酬は支払うことができません。
映画を作るときの資金は、言い出しっぺであるプロデューサーの自分が全部出すのは当然ですが、協力者にも「無償で手伝ってくれないか」というのが大前提になっちゃってるんです。
本来であれば、大の大人が1日潰して付き合ってくれるわけですから、それなりのお礼は渡すべきなんです。
それを「趣味の活動だから、あなたも自分の趣味のように参加してくれませんか?」ということで、賛同してもらってるわけです。
これはとてもありがたいことなんですけれども、「お金のためじゃないから払えないんだよね」という言い訳に使っていたり、「これで儲けようとしているわけじゃないから、作品がつまんなくてもあんまり厳しい批評はしないでね」という言い訳にもしていると思います。
社長はDIC川村記念美術館に伺うのが、かなり久しぶりでしたので
しごく感動しておりました。レンブラントから、モネ、ピカソ、
ルノワール、シャガール、藤田から、キリコ、ブランクーシ、アル
プ、マグリッド、そして現代美術では、圧巻の7点のマークロスコ
の部屋では鳥肌が立ちました。
そこから、フランクステラ、エドワースケリー、ポロック、デビュ
ッフェ、ロイリキテンシュタイン、イヴクラインと美術史が一望
できる内容になっており、その収集作品の筋の良さには驚きます。
これだけの充実した内容のものを揃えるには、当時、かなりの数
の作品をご購入され、展示されていない作品もかなりの数があるの
ではないかと思われます。
美術品というのは、目利きも必要ですが人とのご縁が大切です。
値段が高くなる絵だけ購入しようとするのは、プロといえども、
不可能です。真摯に芸術と向き合い、美術品を購入するのにお金
は必要ですが、その心構えといいますか、かなりの覚悟がなけ
れば、あれだけの名品を絵描きも画商も、紹介することはないと
思います。
個人と会社ともに、借入金やローン、リースの類がひとつもなく、残ったスタッフに「迷惑をかけないように」しています。
念の為、コンピュータやスマートフォンのパスワードも何人かに公開してまして、30年前から僕の訃報記事を書いてくれる新聞記者を指名しており、周囲には亡骸は海へ散骨するよう頼んでいます。
昔と比べ危機察知能力は高まったと思いますが、性格上、いつ死んでもおかしくありませんからね。
何事にも一度ハマったらどこまでも突っ込んでいく性格は、なかなか治りません・・・。
それでもトラブルはつきものですから、カメラストラップは50センチ以下にして小脇に抱え、正面からカメラを持ってないように見える工夫など、最低限のリスクマネージメントはしております。
僕は三脚や照明を一切使いませんので、基本的にこれが全装備となり、機材バックなどを持ち運ぶ事もありません。
また、最近はMacを持っていくこともなく、写真の現像はiPadで行い、日々OKテイクをクラウドに保管するようにしてバックアップ体制もそれなりに整えています。
ちょっとリスクマネージメントと言うと変に聞こえるかもしれませんが、カメラもレンズもまたiPadも世界のどこでも買えるような機材を使っており、もし本当に盗難や故障などあったら、行った先で代替品を購入して仕事を完遂します。
機材は盗られても、画がなかったり、データを盗られたら大問題です。
こちらはお金では買えませんから。
何より、命あっての物種。
お気持ちはわかりますが、機材程度で済んで良かったと思いますよ。
命は買えませんが、機材はまた買えるのですから(しかも最新機種を)。
例えば、16mmフィルムで撮影していた時代はフィルム代と現像代で200万円掛かっていた作品。
同じ内容の作品でも8mmフィルムで撮れば20万円で済みますし、ビデオテープ撮影では1万円しか使いませんでした。
今では、撮影に消耗品は使いませんから、撮影機材さえ揃っていれば、撮影に掛かるのは0円とも言えます。
私が、「趣味の映画作りにお金は掛かりませんよ」というのはこのことです。
人件費をお金と考えたら、もちろん時間や個人の技術力に応じた人件費は膨大に掛かっていきます。
例えば、失敗なくレベルの高い撮影をしたい場合に、フリーランスのカメラマンを雇って撮ってもらうことは出来ます。
1日5万円だとして、10回の撮影で50万円。
役者も演技力がある人を使いたいという事で、雇うことももちろん可能です。
無名の役者であれば、1日2万円くらいで出演してくれるかもしれません。
人数が3人で、撮影回数が10回であれば、60万円。
同様に、専門スタッフも、映画撮影の教科書に書いてある通りに集めて、それぞれ人件費を払っていくとすると、ちょっと趣味の範疇には収まらない金額になっていきます。
そこまで考えて、「資金調達」に動き出す人がいます。
クラウドファンディングや、各種の助成金によって、資金を集めることは出来るかもしれません。
でも、私は映画製作の初心者が安易に他人から資金を集めることには反対なんです。
クラウドファンディングはともかく、助成金は他人の納めた税金ですからね。
そんなお金を使っ
★身分相応のスケールで創作を繰り返す
結論を言うと、フィルム代などの材料費が掛からない現在、製作費はゼロから始めましょう。
スタッフや出演者に適切な指示を出せない人が、プロを集めてもまったく使いこなすことはできません。
これは、「良いカメラさえ買えば、素晴らしい写真が撮れる」という勘違いと同様です。
とくにアマチュアの場合は、「しっかりと完成させられる」というレベルになるまで、実作業の経験が必須なんです。
ですから私は、少なくとも最初の5作くらいまでは、高い人件費が発生しない「仲間内」だけで映画製作をするべきだと思うんです。
まずは、役者もスタッフも未経験のアマチュアである友人だけで揃えて、普段遊びの延長で映画作りを始めることがオススメです。
当然、技術的には拙いものにしかなりませんが、それでもしっかりと計画して行動すれば、それなりの作品には仕上がります。
手持ちの機材を使うため、材料費はゼロ。
人件費もせいぜい付き合ってくれた仲間の食事代を出す程度で済むはずです。
その仲間すらいないのであれば、まずは一人で完成させられる作品を企画すべきです。
(そういう一人企画にも、別の魅力があります)
映画作りをしていくと、常に「次はこういう作品を作りたい」というアイデアも湧いてくるでしょうから、撮影規模や難易度も、身の丈にあったものから徐々にレベルアップさせたものにしていった方がいいでしょう。
活動継続が困難になる理由は、突き詰めて言えば、
・活動に伴うコスト
・活動から得られる満足
のバランスが崩れて、分かりやすく言うと「割に合わない行為」になってしまうことです。
商業映画を見れば一目瞭然で、「予算が集められなくて満足のいくものが作れない」という言い方をしますが、それはお金を出してくれない方が悪いのではなくて、「お金を回収できる作品を作れないから、投資として危険すぎてお金を出せない」というのが実情です。
それに対して「芸術をお金で計るな!」というのであれば、人がお金を出してくれない事に文句を言わず、自分自身の情熱だけで創作を続ければいいだけなんです。
趣味の創作活動はお金のためにやってるわけではありません。
でも、「お金」を単に「価値を測る道具」として考えれば、同じような問題があることは明らかです。
現代のように動画コンテンツが溢れかえっている時代では、映画のような作品を公開してもほとんど見てもらえません。
日本人は「製造」は好きでも「販売・宣伝」は嫌いな人がほとんどですから、「良い作品を作る」というところにエネルギーを注ごうとしますが、「作品をいかに多く見てもらえるか」という活動量が圧倒的に少ないと感じます。
それでは見てもらえるわけはないんですよね。
誰にも見てもらえない状態で創作を続けるのは、不可能ではありませんが、かなり厳しいです。
ある程度の承認欲求が満たされないと、自己満足も大きくはならないんですね。
クリエイティブな仕事を
早く出来るようになるのかというと
まず期限を決め、進行スケジュールを
細かく区切るといいです。
それから、頭の中にあるものだけを
出そうとするのではなく
情報を集めてきて再構築する
ようにするといいです。
このようにすると、気が乗らない日でも
作業に向かうようになりますし
外からも情報を集めるため
ネタ不足になりません。
クリエイティブな仕事というのは
計画性がないと本当に進みませんので
くれぐれも気をつけた方がいいですね。
今後、文章や動画を作る時には
このことを意識しながら
やってみることをお勧めします。
例え競争して勝てたとしても
時間と体力を無駄に消耗するからです。
私の考えでは
競争の厳しいマーケットに
参加するだけで損であり
競争の少ないマーケットに
参加することこそが賢い選択なのです。
そして、この考えがあるからこそ
そこまで努力せずに
10億円以上得られてきましたし
旅や恋愛を楽しむ
時間的余裕もあったのです。
そんなわけで、私はその時々で
競争の緩いことをやってきましたが
最近のSNSは努力家の参入が
増えすぎたので
そろそろSNS引退しようと思っています。
いつの時代も、どんなことでも
みんながやるようになると
競争が厳しくなり
お得でなくなるものです。
努力競争せずに生きるには
まだみんなが目をつけてないけど
リターンが大きいものを
探して取り組むべきですね。
山崎監督ならではの、グリーンバック撮影した映像と、CGを組み合わせた景色が生み出す世界観、戦後の焼け野原の映像などは絶望的な風景で、これをこんなにリアルに表現できるのは、現代の日本映画ならではのものだと思います。
軍艦の登場シーンも素晴らしいものでした。
昔の日本映画に出てくるミニチュアの戦艦なども、私は大好きではあるんですが、やはり水の表現が画面に加わってしまうと、ミニチュアはミニチュアであることがバレてしまうんです。
「よく出来たミニチュアだなあ」と感心はしますが、「ミニチュアと気付かなかった」とはなりません。
現代のリアルなCGで作られた軍艦シーンは、状況から考えてCGだと判断はしていますが、現実の映像として気持ちよく騙されながら見ることができます。
山崎監督は「駐車場さえあれば、どんな場面でも撮れる」と言われたりしますが、今回も何の変哲もない空間にグリーンバックをセットして、工夫して贅沢な映像を作っています。
ご存じのようにアメリカのアカデミー賞で、視覚効果の賞を取ったわけで、CGの技術、VFXの技術が凄いことは間違いないんですが、この映画の総合点を押し上げているのは、やっぱり外国の人にでも分かるような「ベタドラマ」の力だと思うんです。
「ジャンルもの」として特殊に認識されがちな怪獣映画にベタドラマの展開をそのまま取り入れて、最低限の面白さは担保し、特撮や映像の力で「プラスα」の魅力を加えた、というのが成功の要因だと思います。
「ゴジラ -1.0」の続編も決定したそうですが、
・視覚効果の部分で評価されたから、もっと凄い映像を入れよう
ということだけで勝負すると、恐らく今回のように一般の観客が「ああ面白かった」とはならないと思うんですね。
裏で技術的には凄いことをやっているにしても、やっぱり表に見える部分は、古典的な人間ドラマを外さずにきっちりと構築することが、逆説的ですが、特撮を初めとする映像を引き立たせるための条件だと思います。
Note Note Editions, 2024
(ヴィヴィアン・サッセン)
ヴィヴィアン・サッセン(1972-)は、オランダのアムステルダム出身。彼女の写真は、エロティックかつシュールで瞑想的。カメラやモデルのセッティングや演出に特徴があり、モデルはときにまるで彫刻のように体を不自然な格好に曲げたり、顔を隠したり、独自のメークが施されます。ファッション写真とパーソナル・プロジェクトの両分野で活躍し、いまではアイデンティティ、ジェンダー、身体、人種、ファッション、環境までの、さまざまなテーマや主題を探求する印象的でダイナミックなイメージで国際的な評価を得ています。
本書は、サッセンのビジュアル・ランゲージ(視覚言語)の誕生を紹介する本です。
ここでで紹介する写真はすべて、彼女が写真家としてのキャリアをスタートさせたばかりの1990年代半ばに撮影されたものです。自然発生的で個人的なアプローチを好むサッセンは、身の回りのものや環境を好んで被写体にします。
これらの写真には、彼女が早くから取り入れてきた演出、フレーミング、遠近法のセンスが反映されています。彼女は、このようなアプローチによって、私たちが親しみを感じているあらゆるものの根底にある奇妙で不穏な側面を具現化することができるのです。 当初、この作品は本の出版プロジェクトとして構想されました。その後、写真家とNote Note Editionとの出会いを経て、数年後に出版されることになりました。
ハードカバー : 80ページ、エディション1200、サイズ 21.4 x 3 x 26.6 cm、カラー図版41点を収録しています。