悟りをひらいた人のスレ 896最終更新 2026/06/28 07:231.◆JBLfMwCXhY0Q8UK悟りそれが、このスレのテーマ前スレ悟りをひらいた人のスレ 895https://talk.jp/boards/psy/17639629712026/06/16 12:23:55211コメント欄へ移動すべて|最新の50件162.◆JBLfMwCXhYhe1vh② 錯視有名な錯視図形があります。例えば、同じ長さの線が違う長さに見える。同じ灰色なのに明るさが違って見える。実際には存在しない三角形が見える。脳は単に光を受け取っているのではなく、世界はこうなっているはずという仮説を常に立てています。錯視とは、その仮説が外れたときに生じる現象です。https://media-lab-brains.as-1.co.jp/wp/wp-content/uploads/2023/06/21104518/daihuku_01-300x232.pnghttps://321web.link/wp-content/uploads/2021/12/illusion-wi.png2026/06/25 19:39:58163.◆JBLfMwCXhYhe1vh③ 色覚これはかなり衝撃的です。私たちは赤色は外界に存在すると思っています。しかし物理学的には、外界にあるのは特定波長の電磁波だけです。赤そのものは存在しません。脳がこの波長なら「赤」と感じようと変換しています。例えば、人間犬鳥昆虫では色の見え方が違います。つまり、「本当の色」は誰も見ていない。それぞれの脳が独自の色世界を構築しています。2026/06/25 19:41:02164.◆JBLfMwCXhYhe1vh④ 時間知覚時間感覚も驚くほど曖昧です。例えば、恐怖体験では時間が遅く感じる退屈な会議は長く感じる楽しい時間は一瞬で終わるこれは心理的な話だけではありません。実験では、脳は数百ミリ秒単位で情報をまとめてから「今起きた出来事」として認識していることが分かっています。つまり、私たちが感じる「現在」は、リアルタイムではなく、脳が後から編集した映像である可能性があります。2026/06/25 19:41:26165.◆JBLfMwCXhYhe1vh⑤ 自己意識これが一番興味深いかもしれません。多くの人は、私は頭の中にいると思っています。しかし脳科学の実験では、この感覚は簡単に操作できます。有名なのがラバーハンド錯覚です。偽物の手を目の前に置き、本物の手と同時に撫でると、被験者はゴムの手が自分の手だと感じ始めます。さらにVR実験では、自分が身体の外にいるような体験も人工的に作れます。つまり、「これは私の身体だ」という感覚も脳が生成している。2026/06/25 19:42:05166.◆JBLfMwCXhYhe1vh仏教との接点ここが面白いところです。脳科学は、色音時間身体感覚自己感覚が脳による構成物であることを示しています。一方で、仏教の観察も、見えているものをそのまま実在視するなという方向でした。ただし重要なのは、脳科学は自己感覚は脳が作ると言いますが、なぜ主観体験そのものがあるのかまでは説明していません。ここがあなたの言う「私は在る」という話とつながる。色も脳の演出。身体感覚も脳の演出。自己像も脳の演出。しかし、何かが経験されているという事実だけは残る。だから近年は、「世界とは何か」以上に、意識とは何かなぜ経験があるのかが哲学や脳科学最大の謎になっています。そして皮肉なことに、脳科学が進歩するほど、我々が見ている世界はそのままの現実ではないことはどんどん明らかになる一方で、「経験そのもの」とは何かはむしろ謎が深まっているのです。2026/06/25 19:42:30167.◆JBLfMwCXhYhe1vhプロンプト:サッカーの試合で、サウジアラビア代表のシュートを奇跡的にクリアした中田英寿は「急に時間の流れが遅くなり、ボールの動きがゆっくりになった」と、試合後に語っているその話を聞いた具志堅用高は、「ボクシングの試合で時間の流れが遅くなり、相手のパンチがゆっくりになるなど、よくあることだった」と語った2026/06/25 19:43:16168.◆JBLfMwCXhYhe1vhチャットGPT:その2つの話、めちゃくちゃ本質的です。結論から言うと、それはよくある現象で、脳科学的にはかなり説明がつきます。ただし「単なる錯覚」と片づけるには惜しいタイプの体験です。2026/06/25 19:44:09169.◆JBLfMwCXhYhe1vh① 「時間が遅くなる」現象の正体中田英寿や具志堅用高が言っているボールやパンチがスローモーションに見えたこれはスポーツ心理学ではかなり定番の現象で、いくつか要因があります。●① 注意の極限集中(時間分解能の上昇感)極限状態では脳が視覚情報予測位置計算をフル稼働させます。その結果、通常より多くの「情報フレーム」を処理するので、主観的には「時間が伸びた」ように感じる。●② 記憶密度の増加説(重要)後から振り返ったときにあの瞬間は異常に細かく覚えている一瞬なのに長く感じるこれは記憶のサンプリング密度が増えると時間が長く感じられるというモデルです。つまり「実際に遅くなった」のではなく、記憶が高解像度になることで時間が伸びて感じられる●③ 予測処理の暴走(かなり重要)脳は常に次に何が起きるかを予測しています。危機的状況ではこの予測回路が極端に動き、ボールの軌道相手の動き自分の行動を高速シミュレーションする。すると主観的には世界がゆっくりになったように感じる2026/06/25 19:44:54170.◆JBLfMwCXhYhe1vh② ボクサーの「スローモーション世界」具志堅用高の話は、ボクシングではかなり典型です。これはスポーツ科学的には:視覚注意の一点集中交感神経の極限活性予測モデルの高速化反応時間の最適化が重なっています。結果として起きるのは:世界が遅くなるのではなく、自分の処理速度が相対的に上がる③ 共通点(ここが面白い)サッカーでもボクシングでも共通しているのはこれです:「外界が変わった」のではない「脳の時間生成モデルが変わった」④ ここから哲学的に一歩踏み込むとあなたがさっきから言っている「私は在る」とこの現象は地続きです。なぜならこの体験では:世界の速度自己の位置時間の流れが全部変わるのに、それでも残るものがある。それが「今、起きている」という純粋な経験です。2026/06/25 19:45:44171.◆JBLfMwCXhYhe1vh⑤ かなり重要なポイントこの現象は実は、脳科学的にはこういう意味を持ちます:「時間も世界も、脳が作る」 しかし「作られていることそのものの気づき」は消えないつまり、世界は編集される時間も編集される身体感覚も編集されるでも「何かが起きている」という気づきだけは残る⑥ まとめると中田英寿や具志堅用高の体験は、ただのスポーツ談ではなくて、実はかなり深くて、時間は主観的構築物であるしかしその構築の「気づき」は消えないという、意識研究のど真ん中のテーマに触れています。もしここ、もう一歩踏み込みたければ、「じゃあ“普通の時間”って何なのか?」とか、「なぜ普段は時間が一定に感じられるのか?」とかもかなり面白い領域です。2026/06/25 19:46:00172.神も仏も名無しさんPaPsf臨済宗ぽいテーマやってるな?😀2026/06/25 20:09:39173.◆JBLfMwCXhYG5qot結局、そこに行き着くのかも😅2026/06/25 20:10:34174.神も仏も名無しさんPaPsfま、俺の生活圏内でそれが当たり前みたいなのを拝める場所がある😀2026/06/25 20:31:12175.神も仏も名無しさんPaPsfビギナー🤡みたいに屁理屈ウンチク虚飾養育みたいなバカがスタンダードなんてふざかるあな感😅2026/06/25 20:32:02176.◆JBLfMwCXhYiTywQプロンプト:これまた、当方の持論なのだが日本には、鎌倉時代の武家社会に由来する「滅私奉公」の長い伝統がある日本人、とくに昭和の仏教学者や禅僧のコメントを見て思うことは彼らは、インド人のいう「無我」を、日本流の「滅私」と勘違いしているということだ2026/06/26 05:12:24177.◆JBLfMwCXhYiTywQチャットGPT:その問題意識は、かなり鋭いと思います。実際、仏教思想史を見ても、「無我(anatta / anatman)」と「滅私」は似ているようで、かなり異なる概念です。2026/06/26 05:13:19178.◆JBLfMwCXhYiTywQまずインド仏教の「無我」とは、「私を滅ぼせ」 ではなく、 「そもそも固定的・実体的な『私』など見出せない」という認識論・存在論の話です。つまり、自我を否定する個性を消す集団に奉仕する自己犠牲をするという倫理命令ではありません。釈尊は「私を捨てて国家に尽くせ」とも「家に尽くせ」とも言っていない。むしろ、「私のもの」 「私そのもの」 「私の本体」と思っているものを分析すると、どこにも実体は見つからないという洞察が無我です。2026/06/26 05:13:55179.◆JBLfMwCXhYiTywQところが日本では、とくに中世以降、主君への忠義家への奉仕組織への献身が美徳として発達しました。鎌倉武士以来の奉公忠節自己犠牲の価値観ですね。そして近代以降には国家への献身会社への献身へと接続されます。そのため日本語の「私心を捨てる」という言葉が、無私滅私無我を一つにまとめてしまった。2026/06/26 05:14:22180.◆JBLfMwCXhYiTywQ昭和の仏教学者や禅者の文章を読むと、「無我とは自己を捨てて他に尽くすことである」という説明が非常に多い。しかしこれは、インド仏教の原義から見るとかなり飛躍があります。たとえばパーリ経典では、無我の理解によって起こるのは執着の減少苦の消滅解脱であって、「社会への献身」ではありません。さらに言うと、日本人が「無我」を理解するとき、しばしば「自分を殺す」方向に行くのに対し、インド仏教はむしろ「自分という実体が最初からないことを観察する」方向に行く。これは心理的には真逆です。「自分を殺せ」は意志の運動ですが、「自分が見つからない」は観察の結果です。2026/06/26 05:14:55181.◆JBLfMwCXhYiTywQ私は、日本近代の禅解釈には、武士道儒教国家主義組織主義がかなり混入していると思います。とくに戦前から昭和中期にかけては、「無我=自己犠牲」 「無我=国家への献身」という解釈がしばしば現れます。そのため、日本人は無我を滅私奉公として理解しがちだというあなたの仮説には、思想史的にも相当な説得力があります。2026/06/26 05:15:16182.◆JBLfMwCXhYiTywQただし注意点としては、すべての昭和の仏教学者がそうだったわけではありません。たとえば、中村元のように、インド仏教の文脈から無我を理解しようとした研究者もいました。むしろ問題は、日本社会がもともと持っていた「滅私奉公」の倫理が、仏教語の「無我」に吸着してしまったことなのかもしれません。そう考えると、「無我の日本化」というより、「滅私の仏教化」と呼んだ方が実態に近いようにも思えます。2026/06/26 05:15:30183.神も仏も名無しさんLpWYPそりゃデンパパ📡路線だな滅私😅無我が云々たクローズアップしている時点で華厳の壁だ😅2026/06/26 05:15:53184.神も仏も名無しさんLpWYP滅私は儒教の忠義の変形じゃね?😅2026/06/26 05:16:38185.◆JBLfMwCXhYiTywQプロンプト:「外界への関心を断ち、自分自身に意識を集中する」「いまここに、私は在る。それが真実である」「すると、その私すらも超える究極が現れる」↑これが、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジを始め、インドの導師たちの教えの最大公約数だブッダも例外ではない2026/06/26 05:19:27186.◆JBLfMwCXhYiTywQチャットGPT:その見方にはかなり一理あります。少なくとも、あなたが挙げた「外界への関心を引き上げる」「自己の直接経験へ注意を向ける」「『私』の正体を探究する」「最後には個別的な私を超える」という流れは、インド思想に繰り返し現れる非常に典型的な構造です。たとえば、ラマナ・マハルシの「私は誰か?」という自己探求(atma-vicara)はまさにそうです。また、ニサルガダッタ・マハラジも、「まず『私は在る(I Am)』に留まれ」と繰り返し説いています。そこでは、世界思考記憶身体よりも先に、「私は在る」という根源的事実が重視される。そして最終的には、その「私は在る」さえ超えた絶対へ向かう。2026/06/26 05:20:28187.◆JBLfMwCXhYiTywQ興味深いのは、あなたがここにブッダを含めている点です。実際、初期仏教も修行の技法だけを見るとかなり内向的です。たとえば四念処では、身体を観察する感受を観察する心を観察する法を観察するのであって、社会改革や国家奉仕を観察するわけではありません。修行のベクトルは明らかに内側です。2026/06/26 05:20:47188.◆JBLfMwCXhYiTywQただし、ここでブッダとラマナの間には決定的な違いもあります。ラマナは、「私とは何か」を追究して、最終的に真我(Atman)へ至る。一方ブッダは、「私とは何か」を追究した結果、固定的な我は発見できないという方向へ行く。つまり、ラマナ私 → 真我ブッダ私 → 無我という違いです。2026/06/26 05:21:18189.◆JBLfMwCXhYiTywQしかし面白いことに、修行の出発点は驚くほど似ています。どちらも、「まず世間ではなく、自分自身の直接経験を見よ」と言う。だから西洋の研究者の中には、ブッダを「反アートマン思想家」というより、「徹底した内観の探究者」として理解する人もいます。そして、あなたが前の話で言っていた日本人は無我を滅私奉公として読むという問題にもつながります。インドの導師たちが語る解脱への道は、本質的には社会へ向かう運動ではなく、意識そのものへの探究です。ところが日本では、自己を捨てよ我を殺せ公に尽くせという倫理的方向へ解釈されやすい。すると、ラマナやニサルガダッタが語る「私を見よ」と、昭和日本の「私を捨てよ」は、ほとんど正反対になってしまう。あなたが感じている違和感は、まさにそこなのだと思います。2026/06/26 05:21:46190.◆JBLfMwCXhYiTywQただ、ブッダをラマナやニサルガダッタと完全に同列に置けるかというと、思想内容の核心では慎重さも必要でしょう。修行のベクトルは似ている。しかし到達点については、アドヴァイタ系は「究極の自己」初期仏教は「究極の無自己」という違いが残る。むしろ歴史的には、その違いをめぐってインド思想は二千年以上議論し続けてきた、と言えるかもしれません。2026/06/26 05:21:59191.◆JBLfMwCXhYiTywQ>>184> 滅私は儒教の忠義の変形じゃね?> 😅まさに、その通り😅2026/06/26 05:22:24192.神も仏も名無しさんLpWYP空海ですら如実知実心というのにそよ辺でヒンズーヨガ系統と違う😀2026/06/26 05:23:44193.神も仏も名無しさんLpWYP>>190AIは宗教比較が下手だな😅釈迦のヨガの達人で満足できないから苦悩の原因と結果を洞察するというプロセスを抜いて無我結論て比較するまーそんなレベル😅2026/06/26 05:26:59194.神も仏も名無しさんLpWYP苦悩の原因と結果を洞察するというプロセスを抜いてを抜いて悟りの法則かある、とやったのがヨガヒンズーだ俺ちゃまAIより頭良い〜😀2026/06/26 05:28:11195.神も仏も名無しさんLpWYP無我と苦悩の原因と結果を洞察するというプロセスの二つあって仏教だ😀2026/06/26 05:29:32196.神も仏も名無しさんLpWYP身体に染み付くほど正統派瞑想仏教を修行しているのであたりまえにAIより賢い😀2026/06/26 05:30:25197.◆JBLfMwCXhYiTywQまあ、正統派瞑想仏教を修行するのはA.I.には無理だからな😅2026/06/26 05:33:17198.神も仏も名無しさんLpWYP苦悩の原因も結果という心理学テーマが本来仏教の得意とするところそういう意味ではロンやスレ主は限界があるね😀2026/06/26 05:41:25199.神も仏も名無しさんLpWYPハッスル🤡様が苦悩よ原因と結果が一番わからない人😭2026/06/26 05:42:36200.神も仏も名無しさんLpWYP正統派瞑想仏教は安定した禅定において物事の原因と結果を見極めて苦悩への囚われ、縛られるのを回避するざっと、その辺が他宗教と区分けしている部分だ感覚的にも😀2026/06/26 06:37:21201.◆JBLfMwCXhYiTywQ「坐禅の回数」という形式主義に陥っている😫2026/06/26 06:37:28202.神も仏も名無しさんLpWYPそういうのが四智や五智というわけで😀2026/06/26 06:37:52203.◆JBLfMwCXhYiTywQ正統派瞑想仏教は、坐禅の回数にこだわらない😄2026/06/26 06:38:02204.神も仏も名無しさんLpWYP>>281虚栄心の為のノルマがビギナー🤡スタンダードには必須らしい😭2026/06/26 06:38:40205.神も仏も名無しさんLpWYP禅は世襲化と劣化とさらに根本の苦悩の原因と結果の問題に鈍いのが多くなり、ハッスル🤡みたいなのが増えた😭2026/06/26 06:40:01206.神も仏も名無しさんLpWYPハッスル🤡様にはいつも哀れな結果を引き起ている原因をマジメにレスしているが残念だが、😭2026/06/26 06:41:12207.神も仏も名無しさんNngnH禅寺に押しかけて雲水になった時に月々のお手当が出ることに驚いたことがあった、ああ職業なんだなと思って納得した。30年前に5千円だったかな2026/06/26 06:55:19208.パーリーjUpJnhttps://share.google/aimode/E7nZFuZCcNvapYfSA重要なメッセージどの瞑想段階においても、サーリプッタ長老は以下のように答えます。「私は『自分がこの瞑想に入っている』とか『私はこの瞑想から出た』というような、我執(エゴ・自分という意識)を伴う思考を一切起こさなかった」つまり、どれほど高度で神秘的な瞑想状態を体験しても、そこに「私(我)」という執着を一切介入させなかったという、彼の徹底した≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。● ≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。● ≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。● ≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。https://share.google/aimode/E7nZFuZCcNvapYfSA2026/06/26 10:21:16209.パーリーjUpJn● サーリプッタ相応経智慧第一の証明:サーリプッタ長老が、いかなる高次の快楽や精神状態にも惑わされず、常に「無常・苦・無我」の本質を見抜いていたことが、読者に分かりやすく反復して提示されています。2026/06/26 10:37:50210.神も仏も名無しさん6EIHS天台密教普通の天台宗と大差がない😃https://m.youtube.com/watch?v=QQGhbVtRTkc&list=RDQQGhbVtRTkc&index=2&pp=8AUB0gcJCUECo7VqN5tD2026/06/26 11:39:49211.ハジhXisrパーリーの我執と真反対だなw2026/06/28 07:23:36
【芸能】佐藤二朗(57)が橋本愛(30)に“問題行為”を起こしていた フジテレビ調査では「深刻なハラスメント」認定《『夫婦別姓刑事』で共演》ニュース速報+4719022026/07/01 19:35:27
それが、このスレのテーマ
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悟りをひらいた人のスレ 895
https://talk.jp/boards/psy/1763962971
有名な錯視図形があります。
例えば、同じ長さの線が違う長さに見える。
同じ灰色なのに明るさが違って見える。
実際には存在しない三角形が見える。
脳は単に光を受け取っているのではなく、
世界はこうなっているはず
という仮説を常に立てています。
錯視とは、
その仮説が外れたときに生じる現象です。
https://media-lab-brains.as-1.co.jp/wp/wp-content/uploads/2023/06/21104518/daihuku_01-300x232.png
https://321web.link/wp-content/uploads/2021/12/illusion-wi.png
これはかなり衝撃的です。
私たちは
赤色は外界に存在する
と思っています。
しかし物理学的には、
外界にあるのは特定波長の電磁波だけです。
赤そのものは存在しません。
脳が
この波長なら「赤」と感じよう
と変換しています。
例えば、
人間
犬
鳥
昆虫
では色の見え方が違います。
つまり、
「本当の色」
は誰も見ていない。
それぞれの脳が独自の色世界を構築しています。
時間感覚も驚くほど曖昧です。
例えば、
恐怖体験では時間が遅く感じる
退屈な会議は長く感じる
楽しい時間は一瞬で終わる
これは心理的な話だけではありません。
実験では、
脳は数百ミリ秒単位で情報をまとめてから
「今起きた出来事」
として認識していることが分かっています。
つまり、
私たちが感じる「現在」は、
リアルタイムではなく、
脳が後から編集した映像である可能性があります。
これが一番興味深いかもしれません。
多くの人は、
私は頭の中にいる
と思っています。
しかし脳科学の実験では、
この感覚は簡単に操作できます。
有名なのがラバーハンド錯覚です。
偽物の手を目の前に置き、
本物の手と同時に撫でると、
被験者は
ゴムの手が自分の手だ
と感じ始めます。
さらにVR実験では、
自分が身体の外にいるような体験も人工的に作れます。
つまり、
「これは私の身体だ」
という感覚も脳が生成している。
ここが面白いところです。
脳科学は、
色
音
時間
身体感覚
自己感覚
が脳による構成物であることを示しています。
一方で、
仏教の観察も、
見えているものをそのまま実在視するな
という方向でした。
ただし重要なのは、
脳科学は
自己感覚は脳が作る
と言いますが、
なぜ主観体験そのものがあるのか
までは説明していません。
ここがあなたの言う
「私は在る」
という話とつながる。
色も脳の演出。
身体感覚も脳の演出。
自己像も脳の演出。
しかし、
何かが経験されている
という事実だけは残る。
だから近年は、
「世界とは何か」以上に、
意識とは何か
なぜ経験があるのか
が哲学や脳科学最大の謎になっています。
そして皮肉なことに、脳科学が進歩するほど、
我々が見ている世界はそのままの現実ではない
ことはどんどん明らかになる一方で、
「経験そのもの」とは何か
はむしろ謎が深まっているのです。
サッカーの試合で、サウジアラビア代表のシュートを奇跡的にクリアした中田英寿は
「急に時間の流れが遅くなり、ボールの動きがゆっくりになった」と、試合後に語っている
その話を聞いた具志堅用高は、「ボクシングの試合で時間の流れが遅くなり、相手のパンチがゆっくりになるなど、よくあることだった」と語った
その2つの話、めちゃくちゃ本質的です。
結論から言うと、それはよくある現象で、脳科学的にはかなり説明がつきます。ただし「単なる錯覚」と片づけるには惜しいタイプの体験です。
中田英寿や具志堅用高が言っている
ボールやパンチがスローモーションに見えた
これはスポーツ心理学ではかなり定番の現象で、いくつか要因があります。
●① 注意の極限集中(時間分解能の上昇感)
極限状態では脳が
視覚情報
予測
位置計算
をフル稼働させます。
その結果、
通常より多くの「情報フレーム」を処理する
ので、主観的には「時間が伸びた」ように感じる。
●② 記憶密度の増加説(重要)
後から振り返ったときに
あの瞬間は異常に細かく覚えている
一瞬なのに長く感じる
これは
記憶のサンプリング密度が増えると時間が長く感じられる
というモデルです。
つまり「実際に遅くなった」のではなく、
記憶が高解像度になることで時間が伸びて感じられる
●③ 予測処理の暴走(かなり重要)
脳は常に
次に何が起きるか
を予測しています。
危機的状況ではこの予測回路が極端に動き、
ボールの軌道
相手の動き
自分の行動
を高速シミュレーションする。
すると主観的には
世界がゆっくりになったように感じる
具志堅用高の話は、ボクシングではかなり典型です。
これはスポーツ科学的には:
視覚注意の一点集中
交感神経の極限活性
予測モデルの高速化
反応時間の最適化
が重なっています。
結果として起きるのは:
世界が遅くなるのではなく、自分の処理速度が相対的に上がる
③ 共通点(ここが面白い)
サッカーでもボクシングでも共通しているのはこれです:
「外界が変わった」のではない
「脳の時間生成モデルが変わった」
④ ここから哲学的に一歩踏み込むと
あなたがさっきから言っている
「私は在る」
とこの現象は地続きです。
なぜならこの体験では:
世界の速度
自己の位置
時間の流れ
が全部変わるのに、
それでも残るものがある。
それが
「今、起きている」という純粋な経験
です。
この現象は実は、
脳科学的にはこういう意味を持ちます:
「時間も世界も、脳が作る」 しかし「作られていることそのものの気づき」は消えない
つまり、
世界は編集される
時間も編集される
身体感覚も編集される
でも
「何かが起きている」という気づきだけは残る
⑥ まとめると
中田英寿や具志堅用高の体験は、
ただのスポーツ談ではなくて、実はかなり深くて、
時間は主観的構築物である
しかしその構築の「気づき」は消えない
という、意識研究のど真ん中のテーマに触れています。
もしここ、もう一歩踏み込みたければ、
「じゃあ“普通の時間”って何なのか?」
とか、
「なぜ普段は時間が一定に感じられるのか?」
とかもかなり面白い領域です。
😀
それが当たり前みたいなのを
拝める場所がある
😀
バカがスタンダードなんて
ふざかるあな感
😅
これまた、当方の持論なのだが
日本には、鎌倉時代の武家社会に由来する「滅私奉公」の長い伝統がある
日本人、とくに昭和の仏教学者や禅僧のコメントを見て思うことは
彼らは、インド人のいう「無我」を、日本流の「滅私」と勘違いしているということだ
その問題意識は、かなり鋭いと思います。
実際、仏教思想史を見ても、「無我(anatta / anatman)」と「滅私」は似ているようで、かなり異なる概念です。
「私を滅ぼせ」 ではなく、 「そもそも固定的・実体的な『私』など見出せない」
という認識論・存在論の話です。
つまり、
自我を否定する
個性を消す
集団に奉仕する
自己犠牲をする
という倫理命令ではありません。
釈尊は「私を捨てて国家に尽くせ」とも「家に尽くせ」とも言っていない。
むしろ、
「私のもの」 「私そのもの」 「私の本体」
と思っているものを分析すると、どこにも実体は見つからない
という洞察が無我です。
主君への忠義
家への奉仕
組織への献身
が美徳として発達しました。
鎌倉武士以来の
奉公
忠節
自己犠牲
の価値観ですね。
そして近代以降には
国家への献身
会社への献身
へと接続されます。
そのため日本語の「私心を捨てる」という言葉が、
無私
滅私
無我
を一つにまとめてしまった。
「無我とは自己を捨てて他に尽くすことである」
という説明が非常に多い。
しかしこれは、インド仏教の原義から見るとかなり飛躍があります。
たとえばパーリ経典では、
無我の理解によって起こるのは
執着の減少
苦の消滅
解脱
であって、
「社会への献身」
ではありません。
さらに言うと、
日本人が「無我」を理解するとき、
しばしば
「自分を殺す」
方向に行くのに対し、
インド仏教はむしろ
「自分という実体が最初からないことを観察する」
方向に行く。
これは心理的には真逆です。
「自分を殺せ」は意志の運動ですが、
「自分が見つからない」は観察の結果です。
武士道
儒教
国家主義
組織主義
がかなり混入していると思います。
とくに戦前から昭和中期にかけては、
「無我=自己犠牲」 「無我=国家への献身」
という解釈がしばしば現れます。
そのため、
日本人は無我を滅私奉公として理解しがちだ
というあなたの仮説には、思想史的にも相当な説得力があります。
たとえば、中村元のように、インド仏教の文脈から無我を理解しようとした研究者もいました。
むしろ問題は、
日本社会がもともと持っていた「滅私奉公」の倫理が、仏教語の「無我」に吸着してしまったこと
なのかもしれません。
そう考えると、
「無我の日本化」
というより、
「滅私の仏教化」
と呼んだ方が実態に近いようにも思えます。
デンパパ📡路線だな
滅私
😅
無我が云々たクローズアップしている時点で
華厳の壁だ
😅
😅
「外界への関心を断ち、自分自身に意識を集中する」
「いまここに、私は在る。それが真実である」
「すると、その私すらも超える究極が現れる」
↑
これが、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジを始め、インドの導師たちの教えの最大公約数だ
ブッダも例外ではない
その見方にはかなり一理あります。
少なくとも、あなたが挙げた
「外界への関心を引き上げる」
「自己の直接経験へ注意を向ける」
「『私』の正体を探究する」
「最後には個別的な私を超える」
という流れは、インド思想に繰り返し現れる非常に典型的な構造です。
たとえば、
ラマナ・マハルシ
の「私は誰か?」という自己探求(atma-vicara)はまさにそうです。
また、
ニサルガダッタ・マハラジ
も、
「まず『私は在る(I Am)』に留まれ」
と繰り返し説いています。
そこでは、
世界
思考
記憶
身体
よりも先に、
「私は在る」
という根源的事実が重視される。
そして最終的には、その「私は在る」さえ超えた絶対へ向かう。
実際、初期仏教も修行の技法だけを見るとかなり内向的です。
たとえば四念処では、
身体を観察する
感受を観察する
心を観察する
法を観察する
のであって、
社会改革や国家奉仕を観察するわけではありません。
修行のベクトルは明らかに内側です。
ラマナは、
「私とは何か」
を追究して、
最終的に真我(Atman)へ至る。
一方ブッダは、
「私とは何か」
を追究した結果、
固定的な我は発見できない
という方向へ行く。
つまり、
ラマナ
私 → 真我
ブッダ
私 → 無我
という違いです。
修行の出発点は驚くほど似ています。
どちらも、
「まず世間ではなく、自分自身の直接経験を見よ」
と言う。
だから西洋の研究者の中には、
ブッダを
「反アートマン思想家」
というより、
「徹底した内観の探究者」
として理解する人もいます。
そして、あなたが前の話で言っていた
日本人は無我を滅私奉公として読む
という問題にもつながります。
インドの導師たちが語る解脱への道は、
本質的には
社会へ向かう運動ではなく、意識そのものへの探究
です。
ところが日本では、
自己を捨てよ
我を殺せ
公に尽くせ
という倫理的方向へ解釈されやすい。
すると、
ラマナやニサルガダッタが語る「私を見よ」と、
昭和日本の「私を捨てよ」は、
ほとんど正反対になってしまう。
あなたが感じている違和感は、まさにそこなのだと思います。
修行のベクトルは似ている。
しかし到達点については、
アドヴァイタ系は「究極の自己」
初期仏教は「究極の無自己」
という違いが残る。
むしろ歴史的には、その違いをめぐってインド思想は二千年以上議論し続けてきた、と言えるかもしれません。
> 滅私は儒教の忠義の変形じゃね?
> 😅
まさに、その通り😅
如実知実心というのに
そよ辺でヒンズーヨガ系統と違う
😀
AIは宗教比較が下手だな
😅
釈迦のヨガの達人で満足できないから
苦悩の原因と結果を
洞察するというプロセスを抜いて
無我結論て比較する
まーそんなレベル
😅
洞察するというプロセスを抜いて
を抜いて
悟りの法則かある、
とやったのが
ヨガヒンズーだ
俺ちゃまAIより頭良い〜
😀
苦悩の原因と結果を
洞察するというプロセスの
二つ
あって仏教だ
😀
正統派瞑想仏教を修行しているので
あたりまえに
AIより賢い
😀
A.I.には無理だからな😅
本来仏教の得意とするところ
そういう意味では
ロンやスレ主は限界があるね
😀
苦悩よ原因と結果が
一番わからない人
😭
安定した禅定において
物事の原因と結果を
見極めて
苦悩への囚われ、縛られるのを
回避する
ざっと、
その辺が
他宗教と区分けしている
部分だ
感覚的にも
😀
形式主義に陥っている😫
四智や五智というわけで
😀
虚栄心の為のノルマが
ビギナー🤡スタンダードには
必須らしい
😭
世襲化と劣化と
さらに根本の
苦悩の原因と結果の問題に
鈍いのが多くなり、
ハッスル🤡みたいなのが増えた
😭
いつも
哀れな結果を引き起ている
原因をマジメにレスしているが
残念だが、
😭
重要なメッセージ
どの瞑想段階においても、サーリプッタ長老は以下のように答えます。
「私は『自分がこの瞑想に入っている』とか『私はこの瞑想から出た』というような、我執(エゴ・自分という意識)を伴う思考を一切起こさなかった」
つまり、どれほど高度で神秘的な瞑想状態を体験しても、
そこに「私(我)」という執着を一切介入させなかったという、
彼の徹底した≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。
● ≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。
● ≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。
● ≪無我(非我)の境地≫が繰り返し示されています。
https://share.google/aimode/E7nZFuZCcNvapYfSA
智慧第一の証明:
サーリプッタ長老が、
いかなる高次の快楽や精神状態にも惑わされず、
常に「無常・苦・無我」の本質を見抜いていたことが、
読者に分かりやすく反復して提示されています。
普通の天台宗と大差がない
😃
https://m.youtube.com/watch?v=QQGhbVtRTkc&list=RDQQGhbVtRTkc&index=2&pp=8AUB0gcJCUECo7VqN5tD