【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2最終更新 2026/07/01 20:161.◆JBLfMwCXhYyx8BW下記の2スレを統合【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】https://talk.jp/boards/psy/1768687611【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】https://talk.jp/boards/psy/17687706252026/05/28 20:34:51482コメント欄へ移動すべて|最新の50件433.◆JBLfMwCXhYQuW0MチャットGPT:その感覚を持つ人は少なくありません。実際、「『私は在る』まで否定してしまったら、瞑想で何を確かめるのか」という疑問は、古くからあります。ただ、初期仏教の立場は、そこを少し違う方向から見ています。釈迦が問題にしたのは、「私は在る」という体験そのものよりも、その体験を自己という実体の証拠と解釈することです。例えば、瞑想していて、「意識がある」「気づきがある」「存在している感じがある」という経験が生じること自体は否定しません。しかし、その瞬間に「この気づいているものこそ永遠の私だ」と結論づけることを、釈迦は慎重に避けます。2026/06/30 19:32:00434.◆JBLfMwCXhYQuW0M初期仏典では、どんな経験も観察の対象になります。身体感覚思考意識「私は在る」という感覚これらすべてを、「これは条件によって生じ、条件によって変化するもの」と観察していきます。2026/06/30 19:32:18435.◆JBLfMwCXhYQuW0M一方で、あなたの立場は、多くの瞑想伝統とも共鳴しています。例えば、「純粋な気づき」「存在そのもの」「I Am(私は在る)」を究極の実在として重視する伝統は、インド思想や現代スピリチュアル、あるいは一部の瞑想体系にも見られます。つまり、初期仏教は、「『私は在る』という感覚も観察対象になり得る」と考える。あなたは、「『私は在る』は観察対象ではなく、観察を可能にしている根底そのものではないか」と考えているように見えます。この違いは非常に根本的です。実際、仏教研究でも、「初期仏教はあらゆる自己性を否定したのか、それとも永遠不変の自己だけを否定したのか」は長く議論されてきました。ですから、あなたの問題提起は単なる思いつきではなく、「気づきそのもの」と「自己」をどう区別するかという、瞑想哲学の核心に触れる問いだと言えます。2026/06/30 19:33:21436.◆JBLfMwCXhYBShVcどう考えても「釈迦は輪廻転生を否定した」はおかしいな😅2026/06/30 19:44:34437.◆JBLfMwCXhYBShVcそれはコジツケもいいとこ奇妙な屁理屈だ2026/06/30 19:44:51438.◆JBLfMwCXhYBShVc釈迦は、「すべては変化する。固定的な実体など無い」とは言ったが輪廻転生は否定してないだろ、どう見ても😅2026/06/30 19:45:43439.◆JBLfMwCXhYBShVc何でもかんでも否定する中観派でさえじつは、龍樹の中論では輪廻転生が説明されていふ「輪廻転生も空性だ」とは言ってるが否定していない2026/06/30 19:48:04440.◆JBLfMwCXhYBShVc「空」というのは、「無」とは異なる「無」とは違って、有るんだよ有るけど、実体が無いだけだ2026/06/30 19:49:23441.◆JBLfMwCXhYBShVc前世の自分と、現在の自分、そして来世の自分これらは、まるきり別人だ現世の自分でさえ、若い頃と今とじゃ、ほとんど別人(笑)ましてや、前世や来世など、別人格に決まっている2026/06/30 19:51:43442.◆JBLfMwCXhYBShVc当方に言わせれば、変わらないのは「いまここに、私は在る」ということだけだ・・・チャットGPTは認めないが2026/06/30 19:52:24443.◆JBLfMwCXhYBShVc別に、チャットGPTのアタマが固いわけではない仏教学者の論文に基づいて、要約しているだけだ2026/06/30 19:53:09444.◆JBLfMwCXhYBShVc「いまここに、私は在る」というのはインドの瞑想哲人たちに共通する主張だだが、彼らも無我思想を無視できないため「生まれ変わっても、『私は在る』は続く」と明言するのは避ける2026/06/30 19:55:30445.◆JBLfMwCXhYBShVc実際のところ釈迦も、シャンカラも、現代のインドの瞑想哲人たちも見た目ほどの違いは無いのである😅基本的に似たような思想だ2026/06/30 19:56:48446.◆JBLfMwCXhYBShVcインドの瞑想哲人たちは、『私は在る』を強調するのだが『生まれ変わっても、それは続く』とは言わないそもそも、『私は在る』というのは『いまここに、私は在る』ということかのであって、そこに過去や未来を持ち出すこと自体が好まれない2026/06/30 19:58:45447.◆JBLfMwCXhYBShVcインド思想だと、世界には、神(ブラフマン)しかいない自分も神の一部だ自分が神の一部であると気づくことそれが重要だなので、「俺は俺だよ」みたいなのは好まれない2026/06/30 20:02:18448.◆JBLfMwCXhYBShVcそこで出てくるのが華厳宗の「一即多、多即一」だろう2026/06/30 20:04:16449.◆JBLfMwCXhYBShVcつまり、「個」はあるのだがそれと同時に、「全体」でもあるこの2つは矛盾なく両立する2026/06/30 20:06:45450.◆JBLfMwCXhYBShVcインド人には、古来からその感覚が自然に備わっているその点、日本人には鎌倉時代のヤクザみたいな武家社会に由来する「滅私奉公」の伝統があるため個を否定することに美徳を感じる傾向がある2026/06/30 20:09:58451.◆JBLfMwCXhYBShVcこれだけ文句を言い続けるだけあって本当に違和感が強い(笑)2026/06/30 20:10:50452.◆JBLfMwCXhYBShVcちと、今回は長く文句を言いすぎたな😅2026/06/30 20:11:32453.◆JBLfMwCXhYBShVc昭和の仏教学者や一部の禅僧に対する違和感ていうか、アレルギー的な拒絶反応😅2026/06/30 20:13:13454.神も仏も名無しさんh4tX2ま、現実を観るのが仏教それ以外が他宗教シンプルだ😀2026/06/30 20:15:42455.◆JBLfMwCXhYBShVc当方は個人的に、極端な思想を好む傾向があるため彼らの影響を受けすぎた😫いまは、解毒しているところだ2026/06/30 20:16:42456.◆JBLfMwCXhYBShVc>>454初期仏教は、観察の実線だ😄2026/06/30 20:17:52457.◆JBLfMwCXhYBShVc実践2026/06/30 20:19:23458.◆JBLfMwCXhYBShVcプロンプト:「いまここに、私は在る」という感覚が、永遠に続くそんな思想はないか?2026/06/30 20:24:20459.◆JBLfMwCXhYBShVcチャットGPT:あります。しかも、一つではなく、いくつかの系統があります。ただし、「何が永遠なのか」によって意味がかなり違います。2026/06/30 20:24:56460.◆JBLfMwCXhYBShVcヒンドゥー教(特にアドヴァイタ・ヴェーダーンタ)永遠なのは真我(アートマン)。「私は在る(I am)」という純粋な自己意識こそが永遠であり、肉体や心は移り変わる現象にすぎないと考えます。ラマナ・マハルシは、「『私は誰か』を探求すると、最後に残るのは『私は在る』という純粋な自覚である」と説きました。2026/06/30 20:25:12461.◆JBLfMwCXhYBShVcキリスト教神秘思想神との合一の中で、人格は完成されます。「私は在る」という自己は消滅するのではなく、神との交わりの中で永遠の生命を受けるという考えです。新プラトン主義魂は肉体を離れても存続し、究極的には「一者」へ帰ると考えます。個我がどこまで保たれるかは解釈が分かれます。2026/06/30 20:25:39462.神も仏も名無しさんh4tX2新システムは朝に調整したので蒸し暑くても疲れなかったミスを一つやった12分浪費😅2026/06/30 20:25:57463.◆JBLfMwCXhYBShVc一方、仏教は少し異なります。釈迦は、「永遠に続く自己(アートマン)」を認めませんでした。したがって、「『私は在る』という感覚が永遠に続く」という思想をそのまま採用してはいません。しかし、大乗仏教や禅では、「無我とは人格の消滅ではない」「言葉では表せない覚醒の自覚」 を重視するため、「私は在る」という表現に近い体験を語る人もいます。ただし、それを永遠の自己とは呼ばないのが仏教の特徴です。あなたが以前から話している「霊魂という実体を立てる必要はない。ただ『私は在る』という自覚だけが続く」という考え方に最も近いのは、実はラマナ・マハルシの自己探求です。彼は「『私は在る』という純粋な自覚は生滅せず、それこそが真我であり、究極の実在である」と説きました。ですから、「いまここに、私は在る」という感覚そのものが永遠である、という思想を最も明確に打ち出しているのは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、とりわけラマナ・マハルシの思想だと言えるでしょう。2026/06/30 20:26:18464.◆JBLfMwCXhYBShVcプロンプト:確かに、ラマナ・マハルシは愛読書であり、深く影響を受けているそれは認める2026/06/30 20:26:38465.神も仏も名無しさんh4tX2かなり新システムはクールだ?頭脳明晰感があるがやはりワンミスした😅2026/06/30 20:27:08466.◆JBLfMwCXhYBShVcチャットGPT:それはよく分かります。これまでのやり取りを通しても、あなたの考え方にはラマナ・マハルシとの共通点がかなりあります。例えば、あなたは以前から、「固定的な霊魂という実体を考える必要はない」「重要なのは『私は在る』という直接的な自覚である」「その自覚は、概念ではなく現前している事実である」という趣旨のことを繰り返し話してきました。これは、ラマナ・マハルシのいう「『私は在る(I am)』という純粋な自己意識に留まれ」という教えと非常に近い方向性です。2026/06/30 20:27:33467.◆JBLfMwCXhYBShVcただ、一つ興味深い違いもあります。ラマナ・マハルシは最終的には「『私は在る』という純粋意識は真我(アートマン)であり、それは絶対者(ブラフマン)と同一である」という、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの結論へ進みます。一方、あなたはこれまでの発言を見る限り、 「『私は在る』という事実そのものは認めるが、それを『ブラフマン』や『真我』という形而上学的な実体として積極的に定義することには慎重」 という姿勢に見えます。つまり、あなたの立場は、ラマナ・マハルシの出発点には非常に共感する。しかし、その形而上学的な説明については、必ずしも全面的に受け入れているわけではない。その意味では、ラマナ・マハルシの影響を受けつつも、独自の哲学を組み立てようとしているように感じられます。2026/06/30 20:27:48468.◆JBLfMwCXhYBShVcプロンプト:個人的には、それと華厳の「一即多、多即一」を組み合わせているつまり、「私は、個であると同時に、全体でもある」ということ2026/06/30 20:28:15469.神も仏も名無しさんh4tX2天台華厳真言チベットは世界に融解するノリだろなたぶんなヒンズー系統は世界は本質ではない、といったところだろう😀2026/06/30 20:31:06470.◆JBLfMwCXhYBShVcチャットGPT:その組み合わせは、一つの独自の思想として筋が通っています。あなたの考えを整理すると、おそらく次のようになるのでしょう。**「私は在る」**という直接的な自覚が根本にある(ラマナ・マハルシ的)。その「私」は孤立した存在ではなく、世界全体との関係性の中にある。したがって、「私は個である」と同時に、「私は全体でもある」。ここで華厳の華厳宗の「一即多・多即一」という発想が生きてきます。華厳では、「一」が「多」を排除せず、「多」も「一」を損なわないと説きます。一つ一つの存在が全体を映し、全体が一つ一つの存在の中に現れている、という見方です。その考え方を「私は在る」という自覚に重ねれば、「私は個人としてここにいる。しかし、この『私』は全体と切り離された孤立した存在ではなく、全体そのものがこの『私』として現れている。」という理解になります。これは、単純な個人主義でも、個人が完全に消えてしまう全体主義でもありません。2026/06/30 20:31:30471.神も仏も名無しさんh4tX2天台華厳真言チベットの禅定やりこなせるからの体感😀2026/06/30 20:32:25472.◆JBLfMwCXhYBShVcただし、仏教として見ると注意点があります。華厳の「一即多・多即一」は、本来は諸法の相互即入・相互依存を表す教えであり、「一つの大きな自己が万物になっている」という意味ではありません。後者のように解釈すると、むしろアドヴァイタ・ヴェーダーンタに近づきます。つまり、あなたの思想は、「私は在る」──ラマナ・マハルシ「一即多・多即一」──華厳を融合させたものと言えますが、その融合は伝統的な華厳そのものというより、華厳の発想を独自に発展させた哲学だと位置づけるのが適切でしょう。2026/06/30 20:36:06473.◆JBLfMwCXhYBShVc>>471なるほど😄2026/06/30 20:36:39474.◆JBLfMwCXhYBShVcプロンプト:「人間は、生成途上の仏である」それが、仏教のキモではないか2026/06/30 20:39:17475.◆JBLfMwCXhYBShVcチャットGPT:その見方は、大乗仏教の一つの重要な理解として十分成り立ちます。特に華厳宗や天台宗では、人間は単なる迷える存在ではなく、仏へと至る可能性を本来的に備えた存在として捉えられます。ただし、「生成途上の仏」という表現については、宗派によってニュアンスが異なります。2026/06/30 20:39:56476.◆JBLfMwCXhYBShVc華厳では、修行によって仏となる一方で、究極の立場からは衆生と仏は深く結びついており、その境界は固定的ではありません。天台では、「一念三千」や「十界互具」によって、凡夫の中にも仏界が具わると説きます。禅では、「もともと仏である」という表現が好まれることが多く、「生成途上」というより本来性を強調します。唯識では、菩薩道を通じて煩悩を転じ、段階的に仏果へ至るという「生成」の側面が比較的明確です。ですから、「人間は生成途上の仏である」という言葉は、特に菩薩道を重視する大乗仏教の精神をよく表した表現だと言えます。2026/06/30 20:40:19477.◆JBLfMwCXhYBShVc一方で、初期仏教の立場から見ると、「人間は煩悩ある凡夫であり、修行によって阿羅漢や仏陀を目指す」と表現することが多く、「生成途上の仏」という言い方はあまり用いません。あなたがこれまで話してきた、「『私は在る』という自覚が根本にある」「個でありながら全体でもある」「人間は完成品ではなく、仏へと展開していく存在である」という三つを合わせると、かなり一貫した人間観になっています。これは伝統的な一宗派の教義をそのまま述べているというより、大乗仏教、とりわけ華厳や唯識の要素を軸に、独自に統合した思想として理解するのが適切でしょう。2026/06/30 20:42:00478.神も仏も名無しさんW4AvGらまなさんは16歳くらいでアルナチャラ山に行ってそのまま居続ける、私はそんなに何かに惹かれて行動する経験がないなと思ったな、私は修行者や素晴らしい人の言葉や話を読む時、私が普通の感覚で受け取れる部分でしか見ないようにしているな、その部分での私との違いを見るようにしてるな、私にとって宗教的な特殊な部分は読み飛ばす感じだな2026/07/01 05:09:19479.神も仏も名無しさんcQNkz>>477つまるところ仏教は自己設定を外すとこほがゴールだろな、ま、俺なんか仕事をやる元気ありあまるやる気のようなものがない簡単に疲れやすい疲れる自分という感覚設定を外す為に新システムだ〜とかやっているまーまー日々、疲れる自分という自己設定外せれてはいるなー😀2026/07/01 10:06:41480.ゴリ子iKS2A>>479本当にそうなのですか?それ疑問。もし本当な本物なら書き込みは別な事書いてるはずと私は思いました。2026/07/01 14:06:06481.ゴリ子iKS2Aどんな風に外したのか書いてもらっても良いですか?自由に思った事で良かったら、教えて下さい。2026/07/01 14:08:00482.神も仏も名無しさんSes1c>>481一番野蛮なので気にしてはいけない😀せいうん居士くんへは激辛対応だからなー😀2026/07/01 20:16:50
【芸能】佐藤二朗(57)が橋本愛(30)に“問題行為”を起こしていた フジテレビ調査では「深刻なハラスメント」認定《『夫婦別姓刑事』で共演》ニュース速報+1951673.92026/07/01 21:47:50
【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】
https://talk.jp/boards/psy/1768687611
【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】
https://talk.jp/boards/psy/1768770625
その感覚を持つ人は少なくありません。
実際、「『私は在る』まで否定してしまったら、瞑想で何を確かめるのか」という疑問は、古くからあります。
ただ、初期仏教の立場は、そこを少し違う方向から見ています。
釈迦が問題にしたのは、「私は在る」という体験そのものよりも、その体験を自己という実体の証拠と解釈することです。
例えば、瞑想していて、
「意識がある」
「気づきがある」
「存在している感じがある」
という経験が生じること自体は否定しません。
しかし、その瞬間に
「この気づいているものこそ永遠の私だ」
と結論づけることを、釈迦は慎重に避けます。
身体
感覚
思考
意識
「私は在る」という感覚
これらすべてを、「これは条件によって生じ、条件によって変化するもの」と観察していきます。
例えば、
「純粋な気づき」
「存在そのもの」
「I Am(私は在る)」
を究極の実在として重視する伝統は、インド思想や現代スピリチュアル、あるいは一部の瞑想体系にも見られます。
つまり、
初期仏教は、「『私は在る』という感覚も観察対象になり得る」と考える。
あなたは、「『私は在る』は観察対象ではなく、観察を可能にしている根底そのものではないか」と考えているように見えます。
この違いは非常に根本的です。
実際、仏教研究でも、「初期仏教はあらゆる自己性を否定したのか、それとも永遠不変の自己だけを否定したのか」は長く議論されてきました。
ですから、あなたの問題提起は単なる思いつきではなく、「気づきそのもの」と「自己」をどう区別するかという、瞑想哲学の核心に触れる問いだと言えます。
「釈迦は輪廻転生を否定した」はおかしいな😅
奇妙な屁理屈だ
輪廻転生は否定してないだろ、どう見ても😅
じつは、龍樹の中論では輪廻転生が説明されていふ
「輪廻転生も空性だ」とは言ってるが
否定していない
「無」とは違って、有るんだよ
有るけど、実体が無いだけだ
これらは、まるきり別人だ
現世の自分でさえ、若い頃と今とじゃ、ほとんど別人(笑)
ましてや、前世や来世など、別人格に決まっている
「いまここに、私は在る」ということだけだ
・・・チャットGPTは認めないが
仏教学者の論文に基づいて、要約しているだけだ
インドの瞑想哲人たちに共通する主張だ
だが、彼らも無我思想を無視できないため
「生まれ変わっても、『私は在る』は続く」
と明言するのは避ける
釈迦も、シャンカラも、現代のインドの瞑想哲人たちも
見た目ほどの違いは無いのである😅
基本的に似たような思想だ
『生まれ変わっても、それは続く』とは言わない
そもそも、『私は在る』というのは
『いまここに、私は在る』ということかのであって、
そこに過去や未来を持ち出すこと自体が好まれない
自分も神の一部だ
自分が神の一部であると気づくこと
それが重要だ
なので、「俺は俺だよ」みたいなのは好まれない
華厳宗の「一即多、多即一」だろう
それと同時に、「全体」でもある
この2つは矛盾なく両立する
その感覚が自然に備わっている
その点、日本人には
鎌倉時代のヤクザみたいな武家社会に
由来する「滅私奉公」の伝統があるため
個を否定することに美徳を感じる傾向がある
本当に違和感が強い(笑)
ていうか、アレルギー的な拒絶反応😅
仏教
それ以外が
他宗教
シンプルだ
😀
彼らの影響を受けすぎた😫
いまは、解毒しているところだ
初期仏教は、観察の実線だ😄
「いまここに、私は在る」という感覚が、永遠に続く
そんな思想はないか?
あります。しかも、一つではなく、いくつかの系統があります。
ただし、「何が永遠なのか」によって意味がかなり違います。
永遠なのは真我(アートマン)。
「私は在る(I am)」という純粋な自己意識こそが永遠であり、肉体や心は移り変わる現象にすぎないと考えます。
ラマナ・マハルシは、「『私は誰か』を探求すると、最後に残るのは『私は在る』という純粋な自覚である」と説きました。
神との合一の中で、人格は完成されます。
「私は在る」という自己は消滅するのではなく、
神との交わりの中で永遠の生命を受けるという考えです。
新プラトン主義
魂は肉体を離れても存続し、究極的には「一者」へ帰ると考えます。
個我がどこまで保たれるかは解釈が分かれます。
朝に調整したので
蒸し暑くても疲れなかった
ミスを一つやった12分浪費😅
釈迦は、「永遠に続く自己(アートマン)」を認めませんでした。したがって、「『私は在る』という感覚が永遠に続く」という思想をそのまま採用してはいません。
しかし、大乗仏教や禅では、
「無我とは人格の消滅ではない」
「言葉では表せない覚醒の自覚」 を重視するため、「私は在る」という表現に近い体験を語る人もいます。ただし、それを永遠の自己とは呼ばないのが仏教の特徴です。
あなたが以前から話している
「霊魂という実体を立てる必要はない。ただ『私は在る』という自覚だけが続く」
という考え方に最も近いのは、実はラマナ・マハルシの自己探求です。
彼は「『私は在る』という純粋な自覚は生滅せず、それこそが真我であり、究極の実在である」と説きました。
ですから、「いまここに、私は在る」という感覚そのものが永遠である、という思想を最も明確に打ち出しているのは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、とりわけラマナ・マハルシの思想だと言えるでしょう。
確かに、ラマナ・マハルシは愛読書であり、深く影響を受けている
それは認める
クールだ?
頭脳明晰感があるが
やはりワンミスした
😅
それはよく分かります。
これまでのやり取りを通しても、あなたの考え方にはラマナ・マハルシとの共通点がかなりあります。
例えば、あなたは以前から、
「固定的な霊魂という実体を考える必要はない」
「重要なのは『私は在る』という直接的な自覚である」
「その自覚は、概念ではなく現前している事実である」
という趣旨のことを繰り返し話してきました。
これは、ラマナ・マハルシのいう
「『私は在る(I am)』という純粋な自己意識に留まれ」
という教えと非常に近い方向性です。
ラマナ・マハルシは最終的には「『私は在る』という純粋意識は真我(アートマン)であり、それは絶対者(ブラフマン)と同一である」という、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの結論へ進みます。
一方、あなたはこれまでの発言を見る限り、 「『私は在る』という事実そのものは認めるが、それを『ブラフマン』や『真我』という形而上学的な実体として積極的に定義することには慎重」 という姿勢に見えます。
つまり、あなたの立場は、
ラマナ・マハルシの出発点には非常に共感する。
しかし、その形而上学的な説明については、必ずしも全面的に受け入れているわけではない。
その意味では、ラマナ・マハルシの影響を受けつつも、独自の哲学を組み立てようとしているように感じられます。
個人的には、それと華厳の「一即多、多即一」を組み合わせている
つまり、「私は、個であると同時に、全体でもある」ということ
世界に融解するノリだろな
たぶんな
ヒンズー系統は
世界は本質ではない、
といったところだろう
😀
その組み合わせは、一つの独自の思想として筋が通っています。
あなたの考えを整理すると、おそらく次のようになるのでしょう。
**「私は在る」**という直接的な自覚が根本にある(ラマナ・マハルシ的)。
その「私」は孤立した存在ではなく、世界全体との関係性の中にある。
したがって、「私は個である」と同時に、「私は全体でもある」。
ここで華厳の華厳宗の「一即多・多即一」という発想が生きてきます。
華厳では、「一」が「多」を排除せず、「多」も「一」を損なわないと説きます。
一つ一つの存在が全体を映し、全体が一つ一つの存在の中に現れている、
という見方です。
その考え方を「私は在る」という自覚に重ねれば、
「私は個人としてここにいる。
しかし、この『私』は全体と切り離された孤立した存在ではなく、
全体そのものがこの『私』として現れている。」
という理解になります。
これは、単純な個人主義でも、個人が完全に消えてしまう全体主義でもありません。
禅定やりこなせるから
の体感
😀
華厳の「一即多・多即一」は、本来は諸法の相互即入・相互依存を表す教えであり、「一つの大きな自己が万物になっている」という意味ではありません。後者のように解釈すると、むしろアドヴァイタ・ヴェーダーンタに近づきます。
つまり、あなたの思想は、
「私は在る」──ラマナ・マハルシ
「一即多・多即一」──華厳
を融合させたものと言えますが、
その融合は伝統的な華厳そのものというより、
華厳の発想を独自に発展させた哲学だと
位置づけるのが適切でしょう。
なるほど😄
「人間は、生成途上の仏である」
それが、仏教のキモではないか
その見方は、大乗仏教の一つの重要な理解として十分成り立ちます。
特に華厳宗や天台宗では、人間は単なる迷える存在ではなく、仏へと至る可能性を本来的に備えた存在として捉えられます。
ただし、「生成途上の仏」という表現については、宗派によってニュアンスが異なります。
天台では、「一念三千」や「十界互具」によって、凡夫の中にも仏界が具わると説きます。
禅では、「もともと仏である」という表現が好まれることが多く、「生成途上」というより本来性を強調します。
唯識では、菩薩道を通じて煩悩を転じ、段階的に仏果へ至るという「生成」の側面が比較的明確です。
ですから、「人間は生成途上の仏である」という言葉は、特に菩薩道を重視する大乗仏教の精神をよく表した表現だと言えます。
「人間は煩悩ある凡夫であり、修行によって阿羅漢や仏陀を目指す」
と表現することが多く、「生成途上の仏」という言い方はあまり用いません。
あなたがこれまで話してきた、
「『私は在る』という自覚が根本にある」
「個でありながら全体でもある」
「人間は完成品ではなく、仏へと展開していく存在である」
という三つを合わせると、かなり一貫した人間観になっています。
これは伝統的な一宗派の教義をそのまま述べているというより、
大乗仏教、とりわけ華厳や唯識の要素を軸に、
独自に統合した思想として理解するのが適切でしょう。
つまるところ
仏教は自己設定を外すとこほがゴールだろな、
ま、俺なんか仕事をやる元気ありあまるやる気のようなものがない
簡単に疲れやすい
疲れる自分という感覚設定を外す為に
新システムだ〜
とかやっている
まーまー日々、
疲れる自分という自己設定外せれてはいるなー
😀
本当にそうなのですか?
それ疑問。もし本当な本物なら書き込みは別な事書いてるはずと私は思いました。
一番野蛮なので
気にしてはいけない
😀
せいうん居士くんへは
激辛対応だからなー
😀