【ブッダの教え】初期仏教【ヴィパッサナー瞑想】 Part2最終更新 2026/07/17 03:391.◆JBLfMwCXhYyx8BW下記の2スレを統合【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】https://talk.jp/boards/psy/1768687611【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】https://talk.jp/boards/psy/17687706252026/05/28 20:34:51601コメント欄へ移動すべて|最新の50件552.◆JBLfMwCXhY6FL3A② 宗教現象学的立場こちらは、「本当に地獄があるか」を判断するのではなく、当時の宗教世界では、それが現実として経験・信じられていたという立場を取ります。つまり、宿命通天眼通五趣輪廻などは、釈尊や弟子たちの宗教経験の一部として理解します。2026/07/06 18:02:14553.◆JBLfMwCXhY6FL3A③ 自然主義・合理主義的解釈一部の近代仏教学者や現代仏教思想家は、五趣を心理状態倫理的象徴比喩として読むこともあります。例えば、地獄=激しい苦しみの心餓鬼=際限ない欲望畜生=無知天=幸福な精神状態というような解釈です。しかし、この立場は現代的再解釈であって、文献学的には「釈尊本来の意味」とまでは言いません。2026/07/06 18:02:32554.◆JBLfMwCXhY6FL3A近代仏教学の総合的評価現在の研究では、歴史上の釈尊は輪廻・業・五趣を前提として説法したと考える研究者が多数派です。一方で、「それが客観的事実かどうか」は歴史学では判断しません。つまり近代仏教学は、「釈尊は五趣を実在すると信じ、それを前提に教えを説いた」というところまでは認めるが、その真偽については学問の対象外とするという立場を取るのが一般的です。したがって、ご提示の『大獅子吼経』のような記述は、近代仏教学では「後世の付会」や「単なる比喩」として片づけられることは少なく、初期仏教における輪廻観を示す重要な資料として扱われています。2026/07/06 18:02:55555.◆JBLfMwCXhY6FL3Aプロンプト:初期仏典には、このような箇所が多い「輪廻転生は、釈尊の真意ではなかった」とするのは無理がある2026/07/06 18:03:20556.◆JBLfMwCXhY6FL3AチャットGPT:その点は、多くの仏教学者も同様の認識です。初期仏典を全体として見ると、輪廻や業、来世に関する記述は一箇所だけではなく、非常に広範囲に現れます。例えば、業によって来世の生まれが決まるという説法天界・地獄・餓鬼・畜生への転生釈尊自身が宿住通(過去世を知る智慧)や天眼通(衆生の死生を知る智慧)を得たという記述弟子たちも同様の神通を得たという記述「生は尽きた、梵行は完成した、なすべきことはなされた。もはやこのような生存を受けることはない」という阿羅漢の定型句これらは初期仏典全体に繰り返し現れます。2026/07/06 18:03:57557.◆JBLfMwCXhY6FL3Aそのため、文献学的な立場からは、「輪廻転生は釈尊の本来の教えではなく、後世に付け加えられた」という説を維持するのは、かなり難しいとされています。もちろん、「歴史上の釈尊が本当にそう語ったか」を100%証明することはできません。しかし、複数の初期経典群に一貫して現れる以上、現在の研究では、少なくとも初期仏教共同体は、釈尊が輪廻と業を説いたと理解していたという点は非常に確実性が高いと考えられています。一方で、「輪廻は心理的な比喩だった」「本当は現世だけを説いていた」という解釈は、現代人に受け入れやすいように教えを読み替える現代的・思想的な再解釈として位置づけられることが多く、初期仏典そのものを素直に読んだ結果というよりは、現代の価値観を反映した解釈だと評価される傾向があります。2026/07/06 18:04:25558.神も仏も名無しさんHSfPCハッスル🤡の観察と指摘はプロ級だ今日もハッスルゲキオコしてた😀2026/07/06 18:05:36559.◆JBLfMwCXhY6FL3Aプロンプト:「釈尊は輪廻転生や死後世界を語らなかった」と主張する人たちは他のとこを全部無視して、ここばかり繰り返し引用する↓尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち --- 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう・・・。もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」「師よ、そのようなことはありません。」「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。(マッジマ・ニカーヤ 63)2026/07/06 18:09:48560.◆JBLfMwCXhY6FL3AチャットGPT:その箇所は、確かにしばしば引用されます。しかし、文脈全体を見ることが重要です。この経で釈尊が退けているのは、「世界は永遠か」「世界は有限か無限か」「死後に存在するか、存在しないか」といった形而上学的な思弁への執着です。つまり、「それらを信じなければ修行できない」というマールンキャプッタの態度に対して、「そんな問題を解決してから修行する必要はない。まず苦を滅する実践をしなさい」と答えているわけです。これは、「私は輪廻や来世を一切認めない」という宣言ではありません。むしろ、同じ初期仏典にはあなたが前に引用したように、五趣への転生業による来世宿住通(過去世)天眼通(衆生の死生を見る智慧)などが数多く説かれています。ですから、文献全体を読むと、輪廻や業は教説の前提として語る。しかし、それを哲学的に論争することは解脱に役立たない。という二つは矛盾しません。2026/07/06 18:11:01561.◆JBLfMwCXhY6FL3A実際、この経で問題になっている「人は死後存在するか」という問いも、「阿羅漢や如来は死後どうなるか」という存在論的・形而上学的な問いです。釈尊は、そうした問いは解脱に資さないので「無記(avyākata)」としました。したがって、この経だけを切り取って「釈尊は死後や輪廻を否定した」あるいは「釈尊は死後世界について何も語らなかった」と結論づけるのは、初期仏典全体との整合性を欠きます。近代仏教学でも、この経は通常、「無記は輪廻の否定ではなく、形而上学的思弁を退けた教えである」と理解されています。そのため、この一箇所だけを繰り返し引用し、初期仏典の多数の輪廻・業・五趣に関する記述を考慮しない読み方は、文献学的には説得力が弱いと評価されることが多いでしょう。2026/07/06 18:11:29562.神も仏も名無しさんHSfPC輪廻分析は修行に役に立つ主題てはないという意図だろな😀2026/07/06 18:16:42563.神も仏も名無しさんHSfPC山伏は輪廻ある前提修行だ😀2026/07/06 18:17:27564.◆JBLfMwCXhY6FL3Aプロンプト:実のところ、当方もかつては、この箇所をしょっちゅう引用しては、新興宗教の教義を批判してた2026/07/06 18:17:41565.◆JBLfMwCXhY6FL3AチャットGPT:それは十分あり得ることです。この経は非常に印象的なので、「釈尊は死後世界の議論を重視しなかった」という主張の根拠として使いやすいからです。ただ、初期仏典全体を読み進めると、多くの人が同じような印象の変化を経験します。最初は、「釈尊は来世や輪廻には触れず、現世の苦の解決だけを説いた」と思っていても、経典を読み重ねるうちに、五趣業報天界・地獄宿住通死生智「この生存はもはやない」という阿羅漢の定型句などがあまりにも繰り返し出てくるため、「これは一箇所だけの話ではなく、教説全体の前提になっているのではないか」と考え直すようになります。その意味では、『マールンキャプッタ経』は**「輪廻を否定した経」ではなく、「輪廻について思弁的に議論することを戒めた経」**と読む方が、初期仏典全体との整合性は取りやすいでしょう。もちろん、この経は新興宗教への批判にも一定の示唆を与えます。例えば、「死後の世界を細かく説明すること」「宇宙論を信じること自体が救いの条件である」とすることに対しては、この経の精神から批判的な見方をすることは可能です。しかし、それは「釈尊は輪廻や来世を一切説かなかった」という結論とは別問題です。初期仏典全体を見ると、その区別をして読むほうが、文献に忠実な理解と言えるでしょう。2026/07/06 18:19:07566.神も仏も名無しさんHSfPC主題は「観る」修行だからなー😀2026/07/06 18:19:26567.◆JBLfMwCXhY6FL3A>>562「そんなことより、いまここでヴィパッサナーめいそつ」2026/07/06 18:19:44568.◆JBLfMwCXhY6FL3A>>562「そんなことより、いまここでヴィパッサナー瞑想しろ」というのが、釈尊の教え2026/07/06 18:20:11569.◆JBLfMwCXhY6FL3Aプロンプト:>最初は、「釈尊は来世や輪廻には触れず、現世の苦の解決だけを説いた」と思っていても、経典を読み重ねるうちに、五趣・業報・天界・地獄・宿住通・死生智「この生存はもはやない」という阿羅漢の定型句などがあまりにも繰り返し出てくるため、「これは一箇所だけの話ではなく、教説全体の前提になっているのではないか」と考え直すようになります。まさに、そうなったかつての当方も、昭和の仏教学者の説を信じて「釈尊は【無記】を説いた。輪廻転生を語らなかった」と信じていたが実際に初期仏典を読んでみて、コロッと考えが変わった確かに、釈尊が【無記】を説いている箇所もあるが【輪廻】を説いている箇所は、それよりずっと多い2026/07/06 18:33:35570.◆JBLfMwCXhY6FL3AチャットGPT:その経緯は、とても理解できます。実際、「初期仏典を自分で通読する」と印象が変わる人は少なくありません。昭和の日本の仏教学では、「釈尊は形而上学を否定した」「輪廻や死後世界は本質ではない」「現世の実践だけを説いた」という方向性が比較的強調された時代がありました。しかし、初期仏典そのものを読んでいくと、五趣への転生業と来世の関係宿住通(過去世を知る智慧)死生智・天眼通「この生存はもはやない(natthi dāni punabbhavo)」という阿羅漢の定型句などが、繰り返し現れます。そのため、「無記は確かに説かれている。しかし、それは教説全体のごく一部であり、輪廻や業の教えを否定するためのものではないのではないか」という見方に変わるのは、ごく自然なことです。2026/07/06 18:34:09571.◆JBLfMwCXhY6FL3Aまた、「無記」の対象をよく見ると、世界は永遠か否か世界は有限か無限か如来は死後存在するかしないかといった形而上学的な命題が中心です。一方で、「善業は善い結果を生む」「悪業は悪い結果を生む」「衆生は業に従って五趣に生まれる」といった教えは、初期仏典では無記ではなく、むしろ繰り返し積極的に説かれています。したがって、文献全体の比重を考えると、「無記があるから、釈尊は輪廻を語らなかった」という結論は導きにくいと言えます。むしろ初期仏典全体から読み取れるのは、釈尊は輪廻・業・来世を前提として説法している。しかし、それをめぐる思弁的・哲学的論争は解脱に役立たないので無記とした。という理解のほうが、経典相互の整合性は高いでしょう。2026/07/06 18:34:32572.神も仏も名無しさんHSfPCまさに「観る」ことだ、😀2026/07/06 19:15:06573.神も仏も名無しさんHSfPC天狗道場の動画はとても楽しい神仏の供養など比頃の自分にはない発想の宝庫だ😀2026/07/06 19:34:09574.ゴリ子5MUri過去の偉大な方々からの知識の積み重ねが現代。理解できる人が増えているのはその恩恵。その当時の当たり前思想が通用しないのがAI発達な現代。それに伴い生まれてくる新しい子供達はそもそもの次元が違う。経典知識馬鹿が駆逐されんのも時間の問題だろうな。2026/07/09 14:03:38575.◆JBLfMwCXhYXbkt2>>574「知識が多い」ということの価値はこれからも落ちる一方2026/07/09 18:07:55576.◆JBLfMwCXhYXbkt2問題は、理解度とセンスだ2026/07/09 18:08:36577.神も仏も名無しさんAAVdi>>576野蛮な労働に適応できるカードは一枚しかない😅2026/07/09 20:37:32578.ゴリ子I6CLP>>577私はぶっ壊れても立ち上がる事が出来る事だと思います。前に法介さんのネームの方から教えて頂いた竹中ピストルさんのカウント10。本当に良い歌でした。2026/07/10 16:47:34579.◆JBLfMwCXhY8HtFTお釈迦さまの言葉「修行僧たちよ、輪廻は実に無始であり、始まりの知られることはない。無明に覆われ、渇愛に縛られて流転し、輪廻している生き物たちの過去の始まりはわからない。修行僧たちよ、お前たちがこの長い道のりを流転し輪廻して、好まないものに遭い、好むものと別れ、涙を流して泣いた、その流した涙の量と、四大海の水の量と、どちらが多いと思うか。(中略)修行僧たちよ、お前たちが長い時間のなかで流した涙の分量のほうが多く、四大海の水の量は決してそれ(涙の量)に及ばない」『サンユッタ・ニカーヤ』第15相応「涙(Assu-sutta)」2026/07/10 23:45:41580.◆JBLfMwCXhY8HtFTお釈迦さまの言葉「修行僧たちよ、この長い輪廻のなかで、かつてお前の母親でなかったような生き物を見つけることは容易ではない。かつてお前の父親、兄弟、姉妹、息子、娘でなかったような生き物を見つけることは容易ではない。それはなぜか。輪廻は無始であり、始まりが知られないからである」『サンユッタ・ニカーヤ』第15相応「母(Matu-sutta)」2026/07/10 23:46:52581.◆JBLfMwCXhY8HtFTお釈迦さまの言葉「私は幾多の生涯にわたって生まれ変わり死に変わりしつつ、家(肉体・生存)の作者を探求して、旅を続けてきた。生まれ変わることは、苦しいことである。家の作者よ! お前の正体は見つかった。お前はもう(私のために)家を建てることはない。お前の梁(梁=煩悩)はすべて折れ、屋根の棟木(棟木=無明)は打ち砕かれた。私の心は形成されたもの(生存への執着)を離れ、渇愛を滅尽し尽くした」『ダンマパダ』第153~154偈2026/07/10 23:47:51582.ハジMdF1kってことは煩悩がアートマンなのかー2026/07/13 17:15:13583.ハジMdF1k阿頼耶識を我がものと執着している煩悩が肉体が死んでも次の夢を見る、そうして、永久に幻と苦悩が繰り返される2026/07/13 17:16:38584.神も仏も名無しさん9hhASなんか変な🤡に騙されてたのか?NO1やデンパパ📡もありうるが😅2026/07/13 17:20:29585.神も仏も名無しさんyISoNヤナギ2026/07/14 00:28:24586.ハジibeBl煩悩とゆーのが体の中に埋まってるのかも知らんそーして、その、煩悩は、業に従ってどんどん成長してゆくのだろう肉体が活動を停止すると、この、煩悩は呼吸と共に天に昇り、再び、阿頼耶識を我がものと執着することによって、新たな肉体に誕生するのだそして、ハッ、一体私は、どこから来てどこへ往くのだろうなどと悩み出したりする知らんけどw2026/07/14 15:10:20587.◆JBLfMwCXhYvddsd煩悩は、身体の反応によるものが大半を占めている2026/07/14 18:03:54588.ハジibeBl快楽、不快、どちらでもない、と身体は対象との接触によって、感受作用を起こして、歓喜に束縛された、わたしは、これによって右往左往するが、この触れること、接触が起こらなければ、煩悩は滅腎するらしい2026/07/14 18:39:52589.ハジibeBlどうすれば接触が起こらないかと妄想を膨らませると、普通、人間は、わたしがいて、対象(外界)があるというふうにふたつに別れており、その対象(外界)の活動に、わたしが触れることによって感覚を感受しているが、この、わたしと対象がひとつになると、わたしも、対象も消えてしまうそーなると、たぶん、接触作用は働かなくなり、煩悩も生じなくなるんじゃないかと、どーすんのかはしらんけどw2026/07/14 18:44:30590.神も仏も名無しさんR2gwH身体自体が無数の何かの快不快が混ざった塊で信仰の対象のように、糊で身体として押し固められている2026/07/14 19:20:44591.ハジibeBl太陽の光に照らされると氷が溶けるように佛の智慧に貫かれた身体の糊は溶けて広がり蒸発するのかもしれんしらんけどw2026/07/14 19:58:39592.◆JBLfMwCXhYnaGJPアセンションすると、人体は水晶のようにキラキラした身体に変わるらしい2026/07/14 20:20:55593.◆JBLfMwCXhYnaGJPスピ系の人がそう言ってた2026/07/14 20:21:11594.ハジibeBlきっと不可思議光如来の体になるのだろうw2026/07/14 20:55:06595.◆JBLfMwCXhYlaZPsケイ素は、炭素より重い2026/07/15 03:47:48596.◆JBLfMwCXhYlaZPsケイ素でできた身体は、重くて動けないことが予想される(笑)2026/07/15 03:48:08597.◆JBLfMwCXhYlaZPs地球の重力が変われば別だが2026/07/15 03:48:26598.◆JBLfMwCXhYlaZPs炭素・酸素・水素に代わる物質があるとは思えない2026/07/15 03:49:15599.◆JBLfMwCXhYlaZPsそれ以外の物質では、重すぎる2026/07/15 03:50:02600.◆JBLfMwCXhYlaZPs6002026/07/15 03:50:18601.パーリーX4W0nパイロット・ババジ講話『私は誰?』0円で解放中‼️この機会にババジの教えを読んでみてはいかがでしょうか?Kindleなので、アプリをダウンロードしてから購入(ダウンロード)してください。↓↓↓https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%AA%B0%EF%BC%9F-%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%A8%E3%82%AE%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%90-ebook/dp/B0FH5XWK4B#2026/07/17 03:39:35
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【パーリ仏典】テーラワーダ仏教【ヴィパッサナー瞑想】
https://talk.jp/boards/psy/1768687611
【ブッダの教え】初期仏教【最初はこういう話だった】
https://talk.jp/boards/psy/1768770625
こちらは、
「本当に地獄があるか」
を判断するのではなく、
当時の宗教世界では、それが現実として経験・信じられていた
という立場を取ります。
つまり、
宿命通
天眼通
五趣
輪廻
などは、
釈尊や弟子たちの宗教経験の一部として理解します。
一部の近代仏教学者や現代仏教思想家は、
五趣を
心理状態
倫理的象徴
比喩
として読むこともあります。
例えば、
地獄=激しい苦しみの心
餓鬼=際限ない欲望
畜生=無知
天=幸福な精神状態
というような解釈です。
しかし、この立場は現代的再解釈であって、文献学的には「釈尊本来の意味」とまでは言いません。
現在の研究では、
歴史上の釈尊は輪廻・業・五趣を前提として説法したと考える研究者が多数派です。
一方で、「それが客観的事実かどうか」は歴史学では判断しません。
つまり近代仏教学は、
「釈尊は五趣を実在すると信じ、それを前提に教えを説いた」というところまでは認めるが、その真偽については学問の対象外とする
という立場を取るのが一般的です。
したがって、ご提示の『大獅子吼経』のような記述は、近代仏教学では「後世の付会」や「単なる比喩」として片づけられることは少なく、初期仏教における輪廻観を示す重要な資料として扱われています。
初期仏典には、このような箇所が多い
「輪廻転生は、釈尊の真意ではなかった」
とするのは無理がある
その点は、多くの仏教学者も同様の認識です。
初期仏典を全体として見ると、輪廻や業、来世に関する記述は一箇所だけではなく、非常に広範囲に現れます。
例えば、
業によって来世の生まれが決まるという説法
天界・地獄・餓鬼・畜生への転生
釈尊自身が宿住通(過去世を知る智慧)や天眼通(衆生の死生を知る智慧)を得たという記述
弟子たちも同様の神通を得たという記述
「生は尽きた、梵行は完成した、なすべきことはなされた。もはやこのような生存を受けることはない」という阿羅漢の定型句
これらは初期仏典全体に繰り返し現れます。
「輪廻転生は釈尊の本来の教えではなく、後世に付け加えられた」
という説を維持するのは、かなり難しいとされています。
もちろん、「歴史上の釈尊が本当にそう語ったか」を100%証明することはできません。
しかし、複数の初期経典群に一貫して現れる以上、現在の研究では、
少なくとも初期仏教共同体は、釈尊が輪廻と業を説いたと理解していた
という点は非常に確実性が高いと考えられています。
一方で、「輪廻は心理的な比喩だった」「本当は現世だけを説いていた」という解釈は、現代人に受け入れやすいように教えを読み替える現代的・思想的な再解釈として位置づけられることが多く、初期仏典そのものを素直に読んだ結果というよりは、現代の価値観を反映した解釈だと評価される傾向があります。
プロ級だ
今日もハッスルゲキオコしてた
😀
「釈尊は輪廻転生や死後世界を語らなかった」と主張する人たちは
他のとこを全部無視して、ここばかり繰り返し引用する
↓
尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち --- 世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう・・・。もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)
「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」
「師よ、そのようなことはありません。」
「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。
(マッジマ・ニカーヤ 63)
その箇所は、確かにしばしば引用されます。
しかし、文脈全体を見ることが重要です。
この経で釈尊が退けているのは、
「世界は永遠か」
「世界は有限か無限か」
「死後に存在するか、存在しないか」
といった形而上学的な思弁への執着です。
つまり、「それらを信じなければ修行できない」というマールンキャプッタの態度に対して、
「そんな問題を解決してから修行する必要はない。まず苦を滅する実践をしなさい」
と答えているわけです。
これは、
「私は輪廻や来世を一切認めない」
という宣言ではありません。
むしろ、同じ初期仏典にはあなたが前に引用したように、
五趣への転生
業による来世
宿住通(過去世)
天眼通(衆生の死生を見る智慧)
などが数多く説かれています。
ですから、文献全体を読むと、
輪廻や業は教説の前提として語る。
しかし、それを哲学的に論争することは解脱に役立たない。
という二つは矛盾しません。
したがって、この経だけを切り取って
「釈尊は死後や輪廻を否定した」
あるいは
「釈尊は死後世界について何も語らなかった」
と結論づけるのは、初期仏典全体との整合性を欠きます。
近代仏教学でも、この経は通常、
「無記は輪廻の否定ではなく、形而上学的思弁を退けた教えである」
と理解されています。そのため、この一箇所だけを繰り返し引用し、初期仏典の多数の輪廻・業・五趣に関する記述を考慮しない読み方は、文献学的には説得力が弱いと評価されることが多いでしょう。
修行に役に立つ主題てはないという意図だろな
😀
😀
実のところ、当方も
かつては、この箇所をしょっちゅう引用しては、
新興宗教の教義を批判してた
それは十分あり得ることです。
この経は非常に印象的なので、「釈尊は死後世界の議論を重視しなかった」という主張の根拠として使いやすいからです。
ただ、初期仏典全体を読み進めると、多くの人が同じような印象の変化を経験します。
最初は、
「釈尊は来世や輪廻には触れず、現世の苦の解決だけを説いた」
と思っていても、経典を読み重ねるうちに、
五趣
業報
天界・地獄
宿住通
死生智
「この生存はもはやない」という阿羅漢の定型句
などがあまりにも繰り返し出てくるため、
「これは一箇所だけの話ではなく、教説全体の前提になっているのではないか」
と考え直すようになります。
その意味では、『マールンキャプッタ経』は**「輪廻を否定した経」ではなく、「輪廻について思弁的に議論することを戒めた経」**と読む方が、初期仏典全体との整合性は取りやすいでしょう。
もちろん、この経は新興宗教への批判にも一定の示唆を与えます。
例えば、
「死後の世界を細かく説明すること」
「宇宙論を信じること自体が救いの条件である」とすること
に対しては、この経の精神から批判的な見方をすることは可能です。
しかし、それは「釈尊は輪廻や来世を一切説かなかった」という結論とは別問題です。初期仏典全体を見ると、その区別をして読むほうが、文献に忠実な理解と言えるでしょう。
😀
「そんなことより、いまここでヴィパッサナーめいそつ」
「そんなことより、いまここでヴィパッサナー瞑想しろ」
というのが、釈尊の教え
>最初は、「釈尊は来世や輪廻には触れず、現世の苦の解決だけを説いた」
と思っていても、経典を読み重ねるうちに、
五趣・業報・天界・地獄・宿住通・死生智
「この生存はもはやない」という阿羅漢の定型句
などがあまりにも繰り返し出てくるため、
「これは一箇所だけの話ではなく、教説全体の前提になっているのではないか」
と考え直すようになります。
まさに、そうなった
かつての当方も、昭和の仏教学者の説を信じて
「釈尊は【無記】を説いた。輪廻転生を語らなかった」
と信じていたが
実際に初期仏典を読んでみて、コロッと考えが変わった
確かに、釈尊が【無記】を説いている箇所もあるが
【輪廻】を説いている箇所は、それよりずっと多い
その経緯は、とても理解できます。
実際、「初期仏典を自分で通読する」と印象が変わる人は少なくありません。
昭和の日本の仏教学では、
「釈尊は形而上学を否定した」
「輪廻や死後世界は本質ではない」
「現世の実践だけを説いた」
という方向性が比較的強調された時代がありました。
しかし、初期仏典そのものを読んでいくと、
五趣への転生
業と来世の関係
宿住通(過去世を知る智慧)
死生智・天眼通
「この生存はもはやない(natthi dāni punabbhavo)」という阿羅漢の定型句
などが、繰り返し現れます。
そのため、
「無記は確かに説かれている。しかし、それは教説全体のごく一部であり、輪廻や業の教えを否定するためのものではないのではないか」
という見方に変わるのは、ごく自然なことです。
世界は永遠か否か
世界は有限か無限か
如来は死後存在するかしないか
といった形而上学的な命題が中心です。
一方で、
「善業は善い結果を生む」
「悪業は悪い結果を生む」
「衆生は業に従って五趣に生まれる」
といった教えは、初期仏典では無記ではなく、むしろ繰り返し積極的に説かれています。
したがって、文献全体の比重を考えると、
「無記があるから、釈尊は輪廻を語らなかった」
という結論は導きにくいと言えます。
むしろ初期仏典全体から読み取れるのは、
釈尊は輪廻・業・来世を前提として説法している。
しかし、それをめぐる思弁的・哲学的論争は解脱に役立たないので無記とした。
という理解のほうが、経典相互の整合性は高いでしょう。
😀
神仏の供養など
比頃の自分にはない発想の宝庫だ
😀
その当時の当たり前思想が通用しないのがAI発達な現代。
それに伴い生まれてくる新しい子供達はそもそもの次元が違う。
経典知識馬鹿が駆逐されんのも時間の問題だろうな。
「知識が多い」ということの価値は
これからも落ちる一方
野蛮な労働に適応できるカードは
一枚しかない
😅
私はぶっ壊れても立ち上がる事が出来る事だと思います。
前に法介さんのネームの方から教えて頂いた竹中ピストルさんのカウント10。本当に良い歌でした。
「修行僧たちよ、輪廻は実に無始であり、始まりの知られることはない。無明に覆われ、渇愛に縛られて流転し、輪廻している生き物たちの過去の始まりはわからない。
修行僧たちよ、お前たちがこの長い道のりを流転し輪廻して、好まないものに遭い、好むものと別れ、涙を流して泣いた、その流した涙の量と、四大海の水の量と、どちらが多いと思うか。
(中略)修行僧たちよ、お前たちが長い時間のなかで流した涙の分量のほうが多く、四大海の水の量は決してそれ(涙の量)に及ばない」
『サンユッタ・ニカーヤ』第15相応「涙(Assu-sutta)」
「修行僧たちよ、この長い輪廻のなかで、かつてお前の母親でなかったような生き物を見つけることは容易ではない。かつてお前の父親、兄弟、姉妹、息子、娘でなかったような生き物を見つけることは容易ではない。
それはなぜか。輪廻は無始であり、始まりが知られないからである」
『サンユッタ・ニカーヤ』第15相応「母(Matu-sutta)」
「私は幾多の生涯にわたって生まれ変わり死に変わりしつつ、家(肉体・生存)の作者を探求して、旅を続けてきた。生まれ変わることは、苦しいことである。
家の作者よ! お前の正体は見つかった。お前はもう(私のために)家を建てることはない。お前の梁(梁=煩悩)はすべて折れ、屋根の棟木(棟木=無明)は打ち砕かれた。私の心は形成されたもの(生存への執着)を離れ、渇愛を滅尽し尽くした」
『ダンマパダ』第153~154偈
騙されてたのか?
NO1やデンパパ📡もありうるが
😅
そーして、その、煩悩は、業に従ってどんどん成長してゆくのだろう
肉体が活動を停止すると、この、煩悩は呼吸と共に天に昇り、再び、阿頼耶識を我がものと執着することによって、新たな肉体に誕生するのだ
そして、ハッ、一体私は、どこから来てどこへ往くのだろうなどと悩み出したりする
知らんけどw
そーなると、たぶん、接触作用は働かなくなり、煩悩も生じなくなるんじゃないかと、どーすんのかはしらんけどw
しらんけどw
水晶のようにキラキラした身体に変わるらしい
『私は誰?』
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