【海印三昧】華厳教学 【事事無礙法界】 2最終更新 2026/09/06 07:581.◆JBLfMwCXhY0PXpy万物は、相互依存のネットワークの中で存在するこの世界のすべては、毘盧遮那仏の顕現した姿である【一即一切】 華厳宗 【一切即一】https://talk.jp/boards/psy/17753930042026/04/26 14:54:08783コメント欄へ移動すべて|最新の50件734.神も仏も名無しさんibF1wホー漫談と愉快な仲間たちスレと化したな?😀2026/08/28 06:14:58735.夕SsITN>>732そう意味あいじゃないよ。法華経を素直に読めば、文底読みは「読める」けれど「本文の構造ではない」天台は、智顗は「全仏典を統合する巨大体系」を構築し、その中心に法華経を据えた 天台が法華経を選んだのではない。法華経が天台を可能にした。 ともいえる。智顗は全経典を読み込み、巨大な統合哲学を構築した。その統合構造が、法華経を必然的に頂点へ押し上げた。同時に、法華経の構造が天台という統合体系を可能にした。よって両者は“相互必然”であり、どちらが原因・結果とは言えない。まぁ、こんな感じかな。それほど興味がないけどねw2026/08/28 06:37:14736.神も仏も名無しさんibF1wやっておしまいっ‼️😀2026/08/28 06:40:34737.◆JBLfMwCXhYaNHMc華厳経と華厳宗の関係だな天台宗ではなく、「法華宗」でも良かった2026/08/28 08:02:05738.◆JBLfMwCXhYaNHMc華厳宗は、華厳経を進行する宗派だが教義面では「大乗起信論」の影響が大きい2026/08/28 08:03:02739.◆JBLfMwCXhYaNHMc天台宗は、法華経を信仰する宗派だが教義面では、「中論」の影響が大きい2026/08/28 08:03:31740.◆JBLfMwCXhYaNHMc天台宗は密教化して法華経より大日経を重視するようになったが2026/08/28 08:04:03741.神も仏も名無しさんOq4r7AIに質問してみた😀明治以前の比叡山延暦寺における法華大会(ほっけだいえ)・広学竪義(こうがくりゅうぎ)は、平安時代中期(967年、天台座主・良源が開始)に起源を持つ、天台宗で最高峰かつ随一とされる古儀の法会および僧侶の最終段階の試験(論義)です。明治以前の特徴と歴史起源と目的: 慈恵大師(良源)が始めたもので、天台宗の僧侶が『法華経』や天台の教えを深く正しく理解しているか、幅広く学べているかを判定する重要な試験でした。構成: 高僧(探題)から法華経の教えを請う「法華十講」と、夜を徹して行われる口頭試問である「広学竪義」から成ります。朝廷との関わり: 平安時代以降、朝廷や皇室とも深い関係を持ち、1216年(建保4年)からは勅会(天皇の勅命による法会)としても位置づけられました。開催頻度: 本来は年忌や一定の年数ごと(近年では4年または5年に1度など)に、国家安泰や教学伝持のために厳修されてきました。2026/08/28 08:42:20742.神も仏も名無しさんRuNfB>>729認識の対象を「過去」とするのは理屈からでもおかしくはないんじゃないか対象としてとらえられ「知られたもの」はもう過ぎ去った「今」だからと2026/08/28 10:25:59743.神も仏も名無しさんBR9Wl>>742天台は輪廻と過去生の因縁があるんだろう俺の異様な無駄な特殊能力は過去生かもな😀2026/08/28 10:29:55744.夕UJBMK法華経は灯明仏と同じ“法が自らを照らす構造”を持つため、深淵すぎて人間には理解できない。そのため多宝如来と十方諸仏が認証し、ブッダの悟りを梵天が後押しした構造を再演している。過去仏とは、永遠の今の外側にある“残骸”であり、実体としては成立していない。しかし語りは有為でしかできないため、法華経はこの残骸をあえて物語に登場させ、深淵な法を理解させるための補助装置として使っている。これいうと怒られそうだな。2026/08/28 15:50:59745.ハジgiooN永遠のBuddha2026/08/28 16:45:40746.神も仏も名無しさんRuNfB「宝鏡に臨んで形影相見るがごとし汝是れ渠にあらず、渠まさに是れ汝」「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」2026/08/28 18:17:56747.神も仏も名無しさんX56hs>>746土曜日勤行して味わってくるさー😀2026/08/28 19:46:55748.夕AsgGK法華経は般若の系譜。過去不可得、未来不可得、現在不可得。2026/08/28 20:25:39749.夕AsgGK自己を忘れる=主体不可得万法に証せられる=客体不可得身心脱落=区別不可得黙2026/08/28 20:30:53750.夕9nhoP釈迦=示す者多宝=証す者並座=教えの普遍性道元出来たのなら、こういう手もある。修証一等ってね2026/08/29 03:36:30751.夕9nhoP誰だか知らないけど、私の過去を対象外にするに対して、過去は対象>認識の対象を「過去」とするのは理屈からでもおかしくはないんじゃないか対象としてとらえられ「知られたもの」はもう過ぎ去った「今」だからと更にこう来た「宝鏡に臨んで形影相見るがごとし汝是れ渠にあらず、渠まさに是れ汝」「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」すごいね。この返しができるのは、ここで何人いるだろうか。2026/08/29 03:43:25752.夕9nhoPここは華厳経学だった。失礼(^^)/2026/08/29 04:20:28753.ハジnReiX酔ってて笑うわw2026/08/29 08:52:17754.神も仏も名無しさんIeK3N酒乱の気があるのかーなるほど〜😱2026/08/29 09:16:23755.◆JBLfMwCXhYfd7O1>>751> すごいね。この返しができるのは、ここで何人いるだろうか。ロン殿はいつも、そんな感じだが?2026/08/29 09:26:32756.◆JBLfMwCXhYfd7O11人はいるってことだな?😅2026/08/29 09:40:51757.夕Ix5SU>>756書いた本人がいるからねw見るもの見られるもの。まぁこの延長線で言えば、誰だかが分かるw時間で話していたのを認識の拡張をしてきたwまぁ時間も認識論のうちと言えばそうだろう。※別枠で永遠性ということを考えていた。時間論は夢の側で立ち上がり、認識論は夢が立ち上がる瞬間の仕組みであり、存在論は只の側で立ち上がる。この三者は「只→夢→時間」の順で立ち上がり、その反復が我々の永遠性となる。これおかしいと思うか。2026/08/29 12:29:46758.夕Ix5SU存在論=只の側で立ち上がる存在論は「何があるか」ではなく、“ただ立ち上がる”という事実そのもの。あなたの言う「只」はまさに存在論の側。無時間無意味無差別無構造無生死存在は「ある」というより、ただ立ち上がる(勝義)。※ただとは私は勝義側であると思う。aiは只を勝義であり存在論だという。2026/08/29 12:35:33759.神も仏も名無しさんwxDFI夕も変な方向にいってるなー😮2026/08/29 12:41:58760.夕Ef2qA>>759919.ユーザー◆JBLfMwCXhYfd7O1(65/146)このため、欧米では輪廻転生思想がかなり広がっているがイスラム教圏では関心を持たれていない2026/08/29 08:22:18Good920.ユーザー◆JBLfMwCXhYfd7O1(66/146)その代わり、イスラム教では「死後の世界」が明確に打ち出されている※死後の世界にシフトしたw2026/08/29 13:03:02761.夕Ef2qA仏教の存在論の核心1. 実体としての存在を否定する(無我・空)仏教は、存在を「固定的な実体」としては認めません。諸法無我:あらゆる存在に固定的な自我はない空(śūnyatā):存在は独立した実体を持たず、縁起によってのみ成立するつまり、存在は「ある」とも「ない」とも言い切れない。存在は“縁起的に現れる現象”であって、実体ではない。2026/08/29 13:17:37762.夕Ef2qA●存在論的には“只”=実体を否定し、縁起の一点を示す限定詞●認識論的には“只”=認識の対象を一つに絞る操作(非二・不可得の補助)●修行論的には“只”=混じりけのない純粋実践(只管)2026/08/29 13:20:15763.夕Ef2qA只を勝義的に見たらどうなるか勝義的「只」の要点勝義諦では「只」は排他(○○だけ)ではない。差別が消えた“非二の一点性”を指す。空・非二・不可得の構造の中でのみ成立する。言語的限定ではなく、概念が剥がれ落ちた後に残る“ただ”という純粋性。2026/08/29 13:24:36764.ハジnReiX夕の頭ちゃんが諦めたらええだけやw2026/08/29 13:24:47765.夕Ef2qA>>764人のことは気にするなw 法灯明、、自灯明2026/08/29 13:28:28766.ハジnReiX人ではないぞ、己だ2026/08/29 13:28:48767.夕Ef2qA>>766なんだ自分の事を言っているのか。失礼しました。2026/08/29 13:29:32768.ハジnReiXそうだ夕、おまえの頭が消えればよいわかったな2026/08/29 13:34:57769.夕Ef2qAさて、話を戻すか2026/08/29 13:43:36770.ハジnReiX12年もたっても、この、体たらくw2026/08/29 13:47:11771.夕Ef2qA体たらくwよくわかっているじゃない。2026/08/29 13:55:26772.夕Ef2qAハジも暇人だなwじゃあね。こう見えても忙しいのだよw2026/08/29 13:57:40773.◆JBLfMwCXhYBHaOR臨済宗大本山 円覚寺2023.12.03今日の言葉今まさに華厳 – 『華厳という見方』 –玄侑宗久先生から『華厳という見方』という本を送っていただいていました。10月にケイオス出版というところから出されたものです。拝読してとても分りやすく華厳の世界を説いてくださっていると感動しました。管長日記で紹介しようと思いながら、遅くなってしまいました。仏教の中でも、実に華厳の教えというのは素晴らしいものです。ただその華厳を学ぶには、『華厳経』というお経が大部の経典で読むのがたいへんですし、華厳の教学というのは実に難解なのであります。華厳を勉強し直そうと思ってただいま毎月湯島の麟祥院で竹村牧男先生に『華厳五教章』を講義してもらって拝聴していますが、なかなか理解が難しいのです。分りやすい華厳の本があるといいなと思っていたところでした。そんなときに玄侑先生が、送ってくださったのでした。この本は二〇二〇年から二〇二三年六月まで、華厳について四回講演されたものをもとにして書き下ろされたものです。もとが講演なされたものですので、とても読みやすく分りやすいのです。華厳という言葉についても解説がありますので、引用させてもらいます。2026/09/06 07:03:48774.◆JBLfMwCXhYBHaOR「みんな雑で序列はない」という小見出しがついています。「『華厳経』の「華厳」という言葉は、「雑華厳飾」が短縮されたものです。「雑華」は「雑」な「華」。「厳飾」は「厳しい」に「飾る」。「厳」には「かざる」という意味があります。雑華が世界を飾っている、ということです。しかしそうすると、「雑華」って何なのか。普通に考えますと、「雑」という言葉にはあまり良い意味は感じないでしょう。反対語は「純」とか「整」でしょうか。そんな言葉が浮かぶのではないかと思うのですが、実はそういうことではないのです。この「雑華」という世界観では、みんなが雑なのです。生命科学者の中村桂子先生がおっしゃっていますが、遺伝子の研究が進んできてわかったのは、みんな欠陥だらけだったということです。遺伝子をよく調べてみると、実は誰も彼も欠陥だらけで、欠陥のない人なんていなかった。だから、みんな雑という見方もできます。」と解説してくださっています。華厳という見方の一番目は序列のない世界を説いているというのです。2026/09/06 07:05:06775.◆JBLfMwCXhYBHaOR二つ目はすべては心が作り出したものだということを説いていて、三つ目は、縁起という考え方を細かく分析し、深く見つめているということだと書かれています。円覚寺も仏光国師が開創された当初は、本尊は毘盧遮那仏であり、華厳の教えをもとに作られているのです。しかしながら、どういうわけかご本尊は宝冠釈迦如来と呼ばれるようになってゆきました。毘盧遮那仏とは華厳の仏さまです。どんな仏様なのかを玉城康四郎先生の『スタディーズ 華厳』(春秋社)から引用してみます。「世界としての毘盧遮那仏」「…その毘盧遮那仏は、われわれが今生きている宇宙世界そのものです。現に生きている世界だから、見渡してみるとわれわれは宇宙を見ているのですが、われわれの目に見えるものは建物とか皆さまの姿とか、広々とした東京とか、せいぜい大空とか、そういうものしか目に映らないのですね。ところが毘盧遮那仏は宇宙そのものですから、目に入ってこないのです。だからわれわれが今生きているということは、自分は意識しないけれども、実は毘盧遮那仏のまっただなかに生きているのです。このことが基本になって華厳経が展開していくので、どうかその点によくご留意願いたいと思います。2026/09/06 07:06:52776.◆JBLfMwCXhYBHaORもう一度言うと、今われわれは生きていて、やがては生命がなくなって死んでいくけれども、死んでも何もなくなるのではなくて、また次の世界に生まれ変わって新しい生命が展開するのですから、とにかく生きていても死んでいても眠っていても目がさめていても、われわれ自体が毘盧遮那仏のまっただなかに今呼吸し続けている。それが基本です。」と説かれています。華厳の説く縁起について玉城先生は、「無限の重なり合い」として、「縁起というのは、もとはプラティートヤ・サムットパーダという言葉です。プラティというのほ「それぞれに」という意味もあるし「~に対して」という意味もあります。イティヤというのはイ、「行く」という動詞の絶対詞です。「行く」というのはすべての行動を代表しているから「働く」、絶対詞になって「働いて」という意味です。サムというのは「共に」、ウトパーダは「生じていること」です。プラティを仮に「それぞれに」の意味にとってみると、「それぞれが働いて共に生じていること」、これが縁起ということのもともとの意味になります。たとえば私ども一人一人が家庭で、あるいは仕事場で、仕事を終えて、私どもそれぞれがここにやってきて、つまり働いて、今ここにこういう会合がともに生じている。これはいくら私一人がしゃべっても生じない。皆さんがいくら集まってきても生じない。それに私と皆さんだけではなくて、電灯も働いている。あかりをちゃんと照らしている。それからこの建物自体が働いて、われわれに活用させてくれていますね。」と分りやすく解説してくださっています。2026/09/06 07:07:39777.◆JBLfMwCXhYBHaOR玄侑先生は、この『華厳という見方』の「はじめに」で、「折しもウクライナではロシアによる侵攻が開始され、日本でも防衛三文書が閣議決定された。国際情勢は一気に焦臭くなってきたのである。思えばブッダが生きた時代のインドも、戦禍の連続だった。「仏の顔も三度まで」とは、隣国であるコーサラ国に故国・釈迦国が攻められようとするのを、ブッダが三度までは身を挺して防いだことに由来する。ちなみに四度目はブッダも止めに入らず、釈迦国はブッダの存命中に滅亡する。そのように歴史的に振り返れば、ブッダの悟りは戦禍を背景にしたとびきりの安寧と思えてくる。ブッダの悟りの情景を、人々の理解をアテにせず描いたのが『華厳経』であってみれば、これこそ今の日本、いや世界に紹介すべきうるわしい花や果実ではないだろうか。」と説かれています。今まさに学ぶべき「華厳」です。玄侑先生の新著『華厳という見方』をお薦めします。横田南嶺2026/09/06 07:08:39778.◆JBLfMwCXhYBHaORこれは、華厳の分かりやすい解説で貴重だ2026/09/06 07:09:02779.◆JBLfMwCXhYBHaORよく思うのだが、横田南嶺の書く文章はどうも誤字脱字が多い2026/09/06 07:09:29780.◆JBLfMwCXhYBHaOR学者っぽいイメージだが文系秀才ではなさそうだ2026/09/06 07:09:52781.◆JBLfMwCXhYBHaORここでコピペした文章でも何箇所か誤字を訂正した(笑)2026/09/06 07:10:41782.神も仏も名無しさん1sJOHボンクラは臨済宗に関してだけであって仏教教学や華厳や道元禅や盤珪禅に関しては信用できる😀2026/09/06 07:53:59783.神も仏も名無しさん1sJOHインド中国瞑想系統仏教にはリサーチ不熱心だ禅定ゲットしてるからいいやー扱いし過ぎている説法したい気すら起きない😀2026/09/06 07:58:35
【皇室】「ゆくゆくは愛子に天皇になってほしい」 上皇さまが抱えておられる「お心残り」とは 「お気持ちが現在、変わったとは考えられません」ニュース速報+23711612026/09/09 16:40:33
この世界のすべては、毘盧遮那仏の顕現した姿である
【一即一切】 華厳宗 【一切即一】
https://talk.jp/boards/psy/1775393004
😀
そう意味あいじゃないよ。
法華経を素直に読めば、
文底読みは「読める」けれど「本文の構造ではない」
天台は、
智顗は「全仏典を統合する巨大体系」を構築し、その中心に法華経を据えた 天台が法華経を選んだのではない。法華経が天台を可能にした。 ともいえる。
智顗は全経典を読み込み、巨大な統合哲学を構築した。
その統合構造が、法華経を必然的に頂点へ押し上げた。
同時に、法華経の構造が天台という統合体系を可能にした。
よって両者は“相互必然”であり、どちらが原因・結果とは言えない。
まぁ、こんな感じかな。それほど興味がないけどねw
😀
天台宗ではなく、「法華宗」でも良かった
教義面では「大乗起信論」の影響が大きい
教義面では、「中論」の影響が大きい
法華経より大日経を重視するようになったが
😀
明治以前の比叡山延暦寺における法華大会(ほっけだいえ)・広学竪義(こうがくりゅうぎ)は、平安時代中期(967年、天台座主・良源が開始)に起源を持つ、天台宗で最高峰かつ随一とされる古儀の法会および僧侶の最終段階の試験(論義)です。明治以前の特徴と歴史起源と目的: 慈恵大師(良源)が始めたもので、天台宗の僧侶が『法華経』や天台の教えを深く正しく理解しているか、幅広く学べているかを判定する重要な試験でした。構成: 高僧(探題)から法華経の教えを請う「法華十講」と、夜を徹して行われる口頭試問である「広学竪義」から成ります。朝廷との関わり: 平安時代以降、朝廷や皇室とも深い関係を持ち、1216年(建保4年)からは勅会(天皇の勅命による法会)としても位置づけられました。開催頻度: 本来は年忌や一定の年数ごと(近年では4年または5年に1度など)に、国家安泰や教学伝持のために厳修されてきました。
認識の対象を「過去」とするのは理屈からでもおかしくはないんじゃないか
対象としてとらえられ「知られたもの」は
もう過ぎ去った「今」だからと
天台は輪廻と
過去生の因縁があるんだろう
俺の異様な無駄な特殊能力は
過去生かもな
😀
深淵すぎて人間には理解できない。
そのため多宝如来と十方諸仏が認証し、
ブッダの悟りを梵天が後押しした構造を再演している。
過去仏とは、永遠の今の外側にある“残骸”であり、
実体としては成立していない。
しかし語りは有為でしかできないため、
法華経はこの残骸をあえて物語に登場させ、
深淵な法を理解させるための補助装置として使っている。
これいうと怒られそうだな。
汝是れ渠にあらず、渠まさに是れ汝」
「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
土曜日勤行して味わってくるさー
😀
万法に証せられる=客体不可得
身心脱落=区別不可得
黙
多宝=証す者
並座=教えの普遍性
道元出来たのなら、こういう手もある。修証一等ってね
>認識の対象を「過去」とするのは理屈からでもおかしくはないんじゃないか
対象としてとらえられ「知られたもの」は
もう過ぎ去った「今」だからと
更にこう来た
「宝鏡に臨んで形影相見るがごとし
汝是れ渠にあらず、渠まさに是れ汝」
「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
すごいね。この返しができるのは、ここで何人いるだろうか。
なるほど〜
😱
> すごいね。この返しができるのは、ここで何人いるだろうか。
ロン殿はいつも、そんな感じだが?
書いた本人がいるからねw
見るもの見られるもの。まぁこの延長線で言えば、誰だかが分かるw
時間で話していたのを認識の拡張をしてきたw
まぁ時間も認識論のうちと言えばそうだろう。
※別枠で永遠性ということを考えていた。
時間論は夢の側で立ち上がり、
認識論は夢が立ち上がる瞬間の仕組みであり、
存在論は只の側で立ち上がる。
この三者は「只→夢→時間」の順で立ち上がり、
その反復が我々の永遠性となる。
これおかしいと思うか。
存在論は「何があるか」ではなく、
“ただ立ち上がる”という事実そのもの。
あなたの言う「只」はまさに存在論の側。
無時間
無意味
無差別
無構造
無生死
存在は「ある」というより、
ただ立ち上がる(勝義)。
※ただとは私は勝義側であると思う。aiは只を勝義であり存在論だという。
😮
919.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
fd7O1(65/146)
このため、欧米では輪廻転生思想がかなり広がっているが
イスラム教圏では関心を持たれていない
2026/08/29 08:22:18
Good
920.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
fd7O1(66/146)
その代わり、イスラム教では
「死後の世界」が明確に打ち出されている
※死後の世界にシフトしたw
1. 実体としての存在を否定する(無我・空)
仏教は、存在を「固定的な実体」としては認めません。
諸法無我:あらゆる存在に固定的な自我はない
空(śūnyatā):存在は独立した実体を持たず、縁起によってのみ成立する
つまり、存在は「ある」とも「ない」とも言い切れない。
存在は“縁起的に現れる現象”であって、実体ではない。
“只”=実体を否定し、縁起の一点を示す限定詞
●認識論的には
“只”=認識の対象を一つに絞る操作(非二・不可得の補助)
●修行論的には
“只”=混じりけのない純粋実践(只管)
勝義的「只」の要点
勝義諦では「只」は排他(○○だけ)ではない。
差別が消えた“非二の一点性”を指す。
空・非二・不可得の構造の中でのみ成立する。
言語的限定ではなく、
概念が剥がれ落ちた後に残る“ただ”という純粋性。
人のことは気にするなw 法灯明、、自灯明
なんだ自分の事を言っているのか。失礼しました。
わかったな
2023.12.03
今日の言葉
今まさに華厳 – 『華厳という見方』 –
玄侑宗久先生から『華厳という見方』という本を送っていただいていました。
10月にケイオス出版というところから出されたものです。
拝読してとても分りやすく華厳の世界を説いてくださっていると感動しました。
管長日記で紹介しようと思いながら、遅くなってしまいました。
仏教の中でも、実に華厳の教えというのは素晴らしいものです。
ただその華厳を学ぶには、『華厳経』というお経が大部の経典で読むのがたいへんですし、華厳の教学というのは実に難解なのであります。
華厳を勉強し直そうと思ってただいま毎月湯島の麟祥院で竹村牧男先生に『華厳五教章』を講義してもらって拝聴していますが、なかなか理解が難しいのです。
分りやすい華厳の本があるといいなと思っていたところでした。
そんなときに玄侑先生が、送ってくださったのでした。
この本は二〇二〇年から二〇二三年六月まで、華厳について四回講演されたものをもとにして書き下ろされたものです。
もとが講演なされたものですので、とても読みやすく分りやすいのです。
華厳という言葉についても解説がありますので、引用させてもらいます。
「『華厳経』の「華厳」という言葉は、「雑華厳飾」が短縮されたものです。「雑華」は「雑」な「華」。
「厳飾」は「厳しい」に「飾る」。
「厳」には「かざる」という意味があります。
雑華が世界を飾っている、ということです。
しかしそうすると、「雑華」って何なのか。
普通に考えますと、「雑」という言葉にはあまり良い意味は感じないでしょう。
反対語は「純」とか「整」でしょうか。
そんな言葉が浮かぶのではないかと思うのですが、実はそういうことではないのです。
この「雑華」という世界観では、みんなが雑なのです。
生命科学者の中村桂子先生がおっしゃっていますが、遺伝子の研究が進んできてわかったのは、みんな欠陥だらけだったということです。
遺伝子をよく調べてみると、実は誰も彼も欠陥だらけで、欠陥のない人なんていなかった。
だから、みんな雑という見方もできます。」
と解説してくださっています。
華厳という見方の一番目は序列のない世界を説いているというのです。
円覚寺も仏光国師が開創された当初は、本尊は毘盧遮那仏であり、華厳の教えをもとに作られているのです。
しかしながら、どういうわけかご本尊は宝冠釈迦如来と呼ばれるようになってゆきました。
毘盧遮那仏とは華厳の仏さまです。
どんな仏様なのかを玉城康四郎先生の『スタディーズ 華厳』(春秋社)から引用してみます。
「世界としての毘盧遮那仏」
「…その毘盧遮那仏は、われわれが今生きている宇宙世界そのものです。
現に生きている世界だから、見渡してみるとわれわれは宇宙を見ているのですが、われわれの目に見えるものは建物とか皆さまの姿とか、広々とした東京とか、せいぜい大空とか、そういうものしか目に映らないのですね。
ところが毘盧遮那仏は宇宙そのものですから、目に入ってこないのです。
だからわれわれが今生きているということは、自分は意識しないけれども、実は毘盧遮那仏のまっただなかに生きているのです。
このことが基本になって華厳経が展開していくので、どうかその点によくご留意願いたいと思います。
と説かれています。
華厳の説く縁起について玉城先生は、
「無限の重なり合い」として、
「縁起というのは、もとはプラティートヤ・サムットパーダという言葉です。
プラティというのほ「それぞれに」という意味もあるし「~に対して」という意味もあります。
イティヤというのはイ、「行く」という動詞の絶対詞です。
「行く」というのはすべての行動を代表しているから「働く」、絶対詞になって「働いて」という意味です。
サムというのは「共に」、ウトパーダは「生じていること」です。
プラティを仮に「それぞれに」の意味にとってみると、「それぞれが働いて共に生じていること」、これが縁起ということのもともとの意味になります。
たとえば私ども一人一人が家庭で、あるいは仕事場で、仕事を終えて、私どもそれぞれがここにやってきて、つまり働いて、今ここにこういう会合がともに生じている。
これはいくら私一人がしゃべっても生じない。
皆さんがいくら集まってきても生じない。
それに私と皆さんだけではなくて、電灯も働いている。
あかりをちゃんと照らしている。それからこの建物自体が働いて、われわれに活用させてくれていますね。」
と分りやすく解説してくださっています。
「折しもウクライナではロシアによる侵攻が開始され、日本でも防衛三文書が閣議決定された。
国際情勢は一気に焦臭くなってきたのである。
思えばブッダが生きた時代のインドも、戦禍の連続だった。
「仏の顔も三度まで」とは、隣国であるコーサラ国に故国・釈迦国が攻められようとするのを、ブッダが三度までは身を挺して防いだことに由来する。ちなみに四度目はブッダも止めに入らず、釈迦国はブッダの存命中に滅亡する。
そのように歴史的に振り返れば、ブッダの悟りは戦禍を背景にしたとびきりの安寧と思えてくる。
ブッダの悟りの情景を、人々の理解をアテにせず描いたのが『華厳経』であってみれば、これこそ今の日本、いや世界に紹介すべきうるわしい花や果実ではないだろうか。」
と説かれています。
今まさに学ぶべき「華厳」です。
玄侑先生の新著『華厳という見方』をお薦めします。
横田南嶺
どうも誤字脱字が多い
文系秀才ではなさそうだ
何箇所か誤字を訂正した(笑)
仏教教学や華厳や道元禅や盤珪禅に関しては信用できる
😀
リサーチ不熱心だ
禅定ゲットしてるから
いいやー扱いし過ぎている
説法したい気すら起きない
😀