「禅友に贈る書」著者の町野久義氏の「発心禅堂」は実在するか?最終更新 2026/08/12 18:001.神も仏も名無しさんvfhPG情報提供頼みます。2026/04/18 17:42:41971コメント欄へ移動すべて|最新の50件922.神も仏も名無しさんjQ8qeAI使いすぎると、IQが下がるらしいぞ。。w2026/08/11 23:31:37923.神も仏も名無しさんjQ8qehttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1326734021/上のスレ、見れる?2026/08/11 23:32:39924.神も仏も名無しさんjQ8qeAIに投資判断聞いて、その通りにしたことあったけど、完全に合ってる、ということではなかったな。。2026/08/11 23:34:08925.神も仏も名無しさんjQ8qe理解というのは、言葉じゃないからな。。言葉を超えた直感が理解でしょう。。悟りも同じだ。。2026/08/11 23:35:17926.神も仏も名無しさんjQ8qe言葉を覚えて、わかった気になる、という人は、本当に理解する、ということはないんだよ。。正解、答えを言葉として覚えればいい、と思っている人は、何も理解できない、ということになる。。2026/08/11 23:36:42927.神も仏も名無しさんjQ8qe例えば、不二とか、本来面目、とかも、実感しないと、意味がないんだよね。。2026/08/11 23:37:25928.神も仏も名無しさんjQ8qeあと、AIは、ネット上の文章しか読んでないからな。。義衍師の法だって、本買って読む、ということが必要だと思う。。ネット上の文だけじゃね、わからんと思う。。大雑把かつ、テキトーなまとめだけだな、AIにできるのは。。2026/08/11 23:40:27929.夕av8Qr私は逆の事を思うんだ。言葉に意味があると思うから、言霊になったりする。言葉に意味はない。言葉は“経験の影”であって、経験そのものではない。2026/08/11 23:44:54930.夕av8Qr>あと、AIは、ネット上の文章しか読んでないからな。。義衍師の法だって、本買って読む、ということが必要だと思う。。ネット上の文だけじゃね、わからんと思う。。大雑把かつ、テキトーなまとめだけだな、AIにできるのは。。日進月歩だね。2026/08/11 23:48:52931.夕iAuPYあなたが変わればaiも変わる。自分が変わればaiも変わる。2026/08/12 00:00:05932.神も仏も名無しさんzeSxvぜんぜん知らないことを教えてもらう、にはいいかもだけどね、AI。。だけど、何か一つのことを深く知る、には、本読まないとダメ、というのが基本でしょう。。だから、労力がほぼゼロ、な分、得られるものも、少ない、ということですよ。。時間と頭使わないと、深い理解みたいなのは、得られないと思う。。2026/08/12 00:01:28933.夕iAuPY>>922これ以上下がらないから大丈夫<(`^´)>2026/08/12 00:02:58934.夕iAuPY>>932使いこなしていないなw2026/08/12 00:05:03935.夕iAuPY言語を通して主観が変わるのではなくて、主観を通して、言語が変わるからaiもかわるといったほうがいい。いや言語と主観の相乗効果ということかもしれない2026/08/12 00:20:00936.夕iAuPY漢文の翻訳に使っているけどなw2026/08/12 00:22:08937.神も仏も名無しさんzeSxv本来面目でも、現成公案でも、現前だからな~。。それが、問題なんだよね。。坐禅和讃には、寂滅現前、という言葉があるけど、それに拘ると、逆に迷うのだと思う。。2026/08/12 00:34:25938.神も仏も名無しさんzeSxv義衍老師でも、内虚にして、外事あるのみなり、とか言ってるからな。。そうすると、結局、妄想を除いて、真実に至る、になってしまう。。で、かつ、迷悟が分かれるよね。。だから、やっぱりそうじゃないよ、ということも、もう一方で知らないと、誤るのでしょうね。。2026/08/12 00:36:16939.神も仏も名無しさんzeSxv迷悟ないんてない、とか、別じゃない、ということが、わからないと、勘違いした、おれ悟ったマンばかり量産してしまうことになりはしないだろうか?wそこは、気を付けなきゃならんところだと思う。。2026/08/12 00:37:54940.神も仏も名無しさんzeSxvだから、やはり、初参の人には、あるがままの自己、とか、今の自己、が、はじめから正解です、と教えないとダメなんでしょうね。。そうじゃないと、勘違いしてしまう。。即心是仏の馬祖禅、を踏まえてないと、ダメでしょうね。。2026/08/12 00:40:34941.夕iAuPY言葉なんて後付けさ2026/08/12 00:40:34942.神も仏も名無しさんzeSxv悟りの体験は、寂滅現前、以外に無いよ。。あるいは、自己を忘じて、以外にない。。だけど、それが悟りじゃないというか、大悟は、迷いをも包摂している、迷悟の区別を超えている、ということを知らないと、一枚悟り、を抜けられないんでしょうね。。2026/08/12 00:42:43943.神も仏も名無しさんzeSxv我と大地有情と同時成道しないと、ホントの解決にはならない。。おれ以外迷っている、と思うのであれば、それは、あなたが迷っているんです。。w2026/08/12 00:44:02944.夕iAuPY悟る迷いも主観の話さ。その主観から我というものが抜け落ちたら同時成道だろう2026/08/12 00:53:38945.夕iAuPY昔ヘルニア一歩手前ということで、結跏趺坐を長時間すると。背骨と肩甲骨の間がものすごく痛くなるので坐禅を控えていたが。この頃の腰が調子よくなってきたので再度挑戦でもしようかなと思ってね。座布を買うことにしたw 遅ればせながら、坐る。理屈をこねる間があったら坐れってなw。 でも発心寺にいた人をしているが、雪の日の乞食は大変そうだ。多分私だったら日帰りするだろうw2026/08/12 01:02:24946.夕iAuPYでも発心寺にいた人をしているが、雪の日の乞食は大変そうだ。多分私だったら日帰りするだろうw 文章を整えるw発心寺にいた人の話を聞くと、雪の日の乞食は本当に大変そうだ。もし私だったら、たぶん日帰りしてしまうだろうw2026/08/12 01:05:30947.夕iAuPY仏教とは、苦を根本から解決するための道であり、その実践が坐禅であり、安楽の法門である。2026/08/12 01:11:53948.神も仏も名無しさんzeSxv理屈じゃなくて、法の話なんだよ。。法というのは、絶対的なもの、法則、みたいなものだから逆らえないし、はみ出したら、しっぺ返しを食らう。。誤ったら、道から外れてしまう。。だから、大事なものなんだよ。。ちゃんと明らめなければならない。。2026/08/12 01:23:30949.夕iAuPY我々は道元禅だからさ。修証一等でいいと思うけどね。道元は坐禅が安楽の法門と言った。当時の中国では、過去の公案や教理を研究して悟りを得ようとする「待悟の禅」が主流で、坐禅も悟りへの手段として行われていました。道元はこれを否定し、悟りは日常の行住坐臥にあり、特別な手段として坐禅を行う必要はないと説きましたこれもあるが、釈迦の苦という観点から言ったら、修証一等と見てもいいんじゃないかなとも思う。2026/08/12 01:33:01950.夕iAuPY>>948法とは何か、相対に捉われないところ。相対とはあぅだこうだであり。妄想と大して違わないw2026/08/12 01:43:49951.夕iAuPY法も捨てろってなるけどね。筏の例え2026/08/12 01:45:09952.夕iAuPY相を取らざれば2026/08/12 01:57:19953.夕iAuPY相対とは何か、言葉だな。絶対に導くもの。2026/08/12 02:01:47954.夕iAuPYこの辺の言い回しは老子がうまい。道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名万物之母。故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其傲。此両者、同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。道とすべきは、常の道にあらず。名づけうる名は、常の名にあらず。名なきは天地のはじめ、名あるは万物の母。ゆえに、常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてそのあらわれを観る。この両者は同じところより出でて、名のみ異なる。ともにこれを玄といい、玄のまた玄、もろもろの妙の門なり現代語訳語ることのできる「道」は、本当の道ではない。名づけることのできる「名」は、本当の名ではない。名のない状態は天地の始まりであり、名のある状態は万物が生まれる母である。だから、欲を離れていれば、その道の深い妙(本質)が見え、欲をもっていれば、万物の姿(現象)が見える。この二つは同じ源から出ているが、呼び名が違うだけだ。これを「玄」と呼ぶ。玄のさらに玄、あらゆる妙(真理)へ通じる門である。2026/08/12 02:12:52955.夕iAuPY絶対は語れない。語ればもう相対になる。だから“示すだけ”になる。2026/08/12 03:19:14956.夕iAuPY今を語れるか「今」は語れない。語った瞬間に“過去になった今”を語っているだけ。だから示すしかない。2026/08/12 03:20:52957.夕iAuPY未来は語れるか未来は推測として語れるじゃないか。未来は“推測としてなら語れる”。でも“未来そのもの”は語れない。2026/08/12 03:26:57958.夕iAuPY過去は過去は語れる。ただし語れるのは“過去そのもの”ではなく、あなたの記憶・解釈・構造化された過去だけ。つまり、語れるのは過去の影であって、過去の光源ではない。2026/08/12 03:28:57959.夕iAuPY言葉は事実を指すが、事実を含まない。指示であるはずの言葉が、事実そのもののように振る舞う。この“言霊化”が、苦の始まりである。2026/08/12 03:39:38960.神も仏も名無しさんzeSxv正師に教わらないなら、やらない方がいい。。なぜなら、必ず、誤るから、勘違いするだけだから。。ということはよく言われるけれど、正師に教わっても、理解しない人は、何にも理解しないので、そういう人は、はじめから、おまえはやらない方がいい、ということなんだよ。。w2026/08/12 08:59:32961.神も仏も名無しさんzeSxv法を理解するために、師に教わるんですよ。。だから、師に教わっても、法を理解しないなら、教わってないのと同じ。。wで、そういう人は、どんなに坐っても何にもならないばかりか、オカシクなって終わりです。。2026/08/12 09:00:37962.神も仏も名無しさんzeSxvだから、法を理解しなくてもいい、というのは、大きな間違い。。もちろん、師が、生きて、近くにいれば何とかなる。。だけど、悟り終わる前に、理解する前に死んでしまったり、会えなくなったりすると、まずい、でしょうね。。2026/08/12 09:02:52963.神も仏も名無しさんzeSxv法と言っても、存在そのものとしての法、は一つしかない。。だから、そういう意味で、カムイが言うように、悟った人は、みな同じものを見る、というのは、正しい。。2026/08/12 09:05:53964.神も仏も名無しさんzeSxvだけど、悟りは一つかと言ったら、ちがう気がするよ。。道元禅師だって、悟上得悟とか、迷を大悟する、とか、あるいは、悟りなどない、とか、いろんなこと言ってる。。ということはいろんな悟りがある、とも言えるんだよ。。2026/08/12 09:07:15965.神も仏も名無しさんzeSxv現成公案す、というのが、メインなんでしょうけど、それだけじゃないんだよ。。だから、小さな悟りで、自己満足しない方がいい。。2026/08/12 09:10:31966.神も仏も名無しさんzeSxv自他不二、物と一つになる、忘我、現成公案、本来面目、無分別智、これらは全部一つのことです。。だけど、他にもあるからな。。他にはない、と思い込まない方がいいでしょうね。。2026/08/12 09:15:37967.神も仏も名無しさんzeSxv法に関しても、メインは、存在そのもの、物自体、みたいなものでいいでしょう。。だけど、そもそもが、三法印とか、四法印で、複数あるわけだから、これも一つだとは思いこまない方がいいでしょうね。法門無量、だから、いっぱいある、くらいに思っておいた方がいいでしょう。。2026/08/12 09:19:00968.神も仏も名無しさんzeSxv自他不二、物と一つになる、忘我、現成公案、本来面目、無分別智、ということと、即心是仏、とか、平常心是道ということは、だいぶ違う。。で、どっちが大きいか、で言ったら、後者なんですよ。。後者の方が、迷悟、清濁を包摂した、あるいは、超越した、大悟です。。そういう風に整理すると、悟上得悟、ということの意味も、はっきりするのではないだろうか?2026/08/12 09:25:02969.神も仏も名無しさんzeSxvもちろん、自他不二、になって、無分別智を得るから、即心是仏、がわかる、あるがまま、そのまま、を受容、受用できるようになる、ということではあるんだけど、なぜか、そうならない人もいるんだよね。。物と一つになっただけの人、というか、不二になったのに、無分別智が生じない、という不発というか、不十分な悟り、というのもある気がするね。。そうなると、結局、悟ったはずが、うまくいかない、また、問題が生じる、とかになるんだと思います。。2026/08/12 09:54:33970.神も仏も名無しさんUqWFD変なのか増えてきているので特にデンパパ📡セイジン周辺ロンを見るとほっとする😀2026/08/12 15:07:03971.◆JBLfMwCXhYatmfB抜群の安定感😅2026/08/12 18:00:14
上のスレ、見れる?
言葉を超えた直感が理解でしょう。。
悟りも同じだ。。
正解、答えを言葉として覚えればいい、と思っている人は、何も理解できない、ということになる。。
義衍師の法だって、本買って読む、ということが必要だと思う。。
ネット上の文だけじゃね、わからんと思う。。
大雑把かつ、テキトーなまとめだけだな、AIにできるのは。。
言葉は“経験の影”であって、
経験そのものではない。
義衍師の法だって、本買って読む、ということが必要だと思う。。
ネット上の文だけじゃね、わからんと思う。。
大雑把かつ、テキトーなまとめだけだな、AIにできるのは。。
日進月歩だね。
だけど、何か一つのことを深く知る、には、本読まないとダメ、というのが基本でしょう。。
だから、労力がほぼゼロ、な分、得られるものも、少ない、ということですよ。。
時間と頭使わないと、深い理解みたいなのは、得られないと思う。。
これ以上下がらないから大丈夫<(`^´)>
使いこなしていないなw
それが、問題なんだよね。。
坐禅和讃には、寂滅現前、という言葉があるけど、それに拘ると、逆に迷うのだと思う。。
そうすると、結局、妄想を除いて、真実に至る、になってしまう。。
で、かつ、迷悟が分かれるよね。。
だから、やっぱりそうじゃないよ、ということも、もう一方で知らないと、誤るのでしょうね。。
そこは、気を付けなきゃならんところだと思う。。
そうじゃないと、勘違いしてしまう。。
即心是仏の馬祖禅、を踏まえてないと、ダメでしょうね。。
あるいは、自己を忘じて、以外にない。。
だけど、それが悟りじゃないというか、大悟は、迷いをも包摂している、迷悟の区別を超えている、
ということを知らないと、一枚悟り、を抜けられないんでしょうね。。
おれ以外迷っている、と思うのであれば、それは、あなたが迷っているんです。。w
発心寺にいた人の話を聞くと、雪の日の乞食は本当に大変そうだ。
もし私だったら、たぶん日帰りしてしまうだろうw
その実践が坐禅であり、安楽の法門である。
法というのは、絶対的なもの、法則、みたいなものだから逆らえないし、はみ出したら、
しっぺ返しを食らう。。誤ったら、道から外れてしまう。。
だから、大事なものなんだよ。。
ちゃんと明らめなければならない。。
道元は坐禅が安楽の法門と言った。
当時の中国では、過去の公案や教理を研究して悟りを得ようとする「待悟の禅」が主流で、坐禅も悟りへの手段として行われていました。道元はこれを否定し、悟りは日常の行住坐臥にあり、特別な手段として坐禅を行う必要はないと説きました
これもあるが、
釈迦の苦という観点から言ったら、修証一等と見てもいいんじゃないかなとも思う。
法とは何か、相対に捉われないところ。相対とはあぅだこうだであり。妄想と大して違わないw
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名万物之母。故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其傲。此両者、同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。
道とすべきは、常の道にあらず。
名づけうる名は、常の名にあらず。
名なきは天地のはじめ、
名あるは万物の母。
ゆえに、常に無欲にしてその妙を観、
常に有欲にしてそのあらわれを観る。
この両者は同じところより出でて、名のみ異なる。
ともにこれを玄といい、
玄のまた玄、
もろもろの妙の門なり
現代語訳
語ることのできる「道」は、本当の道ではない。
名づけることのできる「名」は、本当の名ではない。
名のない状態は天地の始まりであり、
名のある状態は万物が生まれる母である。
だから、欲を離れていれば、その道の深い妙(本質)が見え、
欲をもっていれば、万物の姿(現象)が見える。
この二つは同じ源から出ているが、呼び名が違うだけだ。
これを「玄」と呼ぶ。
玄のさらに玄、
あらゆる妙(真理)へ通じる門である。
語ればもう相対になる。
だから“示すだけ”になる。
「今」は語れない。
語った瞬間に“過去になった今”を語っているだけ。
だから示すしかない。
未来は推測として語れるじゃないか。
未来は“推測としてなら語れる”。
でも“未来そのもの”は語れない。
過去は語れる。
ただし語れるのは“過去そのもの”ではなく、
あなたの記憶・解釈・構造化された過去だけ。
つまり、語れるのは過去の影であって、過去の光源ではない。
指示であるはずの言葉が、事実そのもののように振る舞う。
この“言霊化”が、苦の始まりである。
なぜなら、必ず、誤るから、勘違いするだけだから。。
ということはよく言われるけれど、正師に教わっても、理解しない人は、何にも理解しないので、
そういう人は、はじめから、おまえはやらない方がいい、ということなんだよ。。w
だから、師に教わっても、法を理解しないなら、教わってないのと同じ。。w
で、そういう人は、どんなに坐っても何にもならないばかりか、オカシクなって終わりです。。
もちろん、師が、生きて、近くにいれば何とかなる。。
だけど、悟り終わる前に、理解する前に死んでしまったり、会えなくなったりすると、
まずい、でしょうね。。
だから、そういう意味で、カムイが言うように、悟った人は、みな同じものを見る、というのは、
正しい。。
道元禅師だって、悟上得悟とか、迷を大悟する、とか、あるいは、悟りなどない、とか、
いろんなこと言ってる。。
ということはいろんな悟りがある、とも言えるんだよ。。
だから、小さな悟りで、自己満足しない方がいい。。
だけど、他にもあるからな。。
他にはない、と思い込まない方がいいでしょうね。。
だけど、そもそもが、三法印とか、四法印で、複数あるわけだから、これも一つだとは思いこまない方がいいでしょうね。
法門無量、だから、いっぱいある、くらいに思っておいた方がいいでしょう。。
で、どっちが大きいか、で言ったら、後者なんですよ。。
後者の方が、迷悟、清濁を包摂した、あるいは、超越した、大悟です。。
そういう風に整理すると、悟上得悟、ということの意味も、はっきりするのではないだろうか?
あるがまま、そのまま、を受容、受用できるようになる、ということではあるんだけど、
なぜか、そうならない人もいるんだよね。。
物と一つになっただけの人、というか、不二になったのに、無分別智が生じない、
という不発というか、不十分な悟り、というのもある気がするね。。
そうなると、結局、悟ったはずが、うまくいかない、また、問題が生じる、とかになるんだと思います。。
特にデンパパ📡セイジン周辺
ロンを見るとほっとする
😀