正法眼蔵

1.
ユーザー
slbmd
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
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2.
ユーザー
slbmd
すべてのものごとを仏道の立場である「正しくものを見る道」の上から見るとき、その一々は真にそのものごと自らのありのままを現成しているから、迷い、悟り、修行、生、死、諸仏と来生をありのままに見、明らめるのである。
総てのものごとを無我の立場、仏道で見るとき、迷いもなく悟りもなく、諸仏もなく来生もなく、生もなく死もない。
3.
ユーザー
slbmd
もともと仏道は、有るという立場にも、無いという立場をも超越し捉われないものであるから、生死を解脱したところに生死があり、迷悟を解脱したところに迷悟があり、解脱のあるなしを問題としないところに解脱があるのである。
4.
ユーザー
slbmd
仏道はものごとを自己の体験として把むところに現成する。
自己の外に、あれこれと識得して、ものごとの真実を明らかにしようとするのが迷いである。ものごとの真実は総て自己の体験として証せられる時、それが悟りである。
5.
ユーザー
slbmd
迷いを迷いと悟るのが諸仏であり、悟りに執するのは真に悟っていない人である。悟りの上に悟る人があり、迷いの上に迷う人もいる。悟った人が本当に悟った人であるならば、自分の悟っていることすら、自覚しない。しかしその人は、本当に悟った仏であり、悟りからも迷いからも自由な、解脱の人もあり、また迷いの中に迷いこむ人もある。
6.
ユーザー
slbmd
仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。自己を学ぶということは自己を忘れることである。自己を忘れるということは、無我になることである。
無我になると、体験の世界と一つになって他と対立しない解脱の自己を発することができる。このことは、自分の身心、他人の身心をも脱落することである。悟りのあとかたさえ残さないのである。そのことをいつまでも行い現わして行くのである。
7.
ユーザー
slbmd
人が始めて仏道(真理)を求めるとき、それを自己のそとに求めるから、遙かにそこから離れてしまっている。仏道がもともと自分のうちにあることを正しく理解され、体験されれば、すぐさま「仏の人」となる。
8.
ユーザー
slbmd
生といえば生になりきっていて、生が死に移り変わるといわないのが、仏道において定められた教えである。従ってその道理は、死と生との前後際断であるから、生とは何物からか生れたものでないから「不生」というのである。死といえば死になりきっていて、死が生に移り変わるといわないのが、仏道において定められた教えである。従ってそれを、何物かが死ぬということでないから不滅というのである。
9.
ユーザー
slbmd
生といえば一瞬々々において生になりきっており、死といえば一瞬々々において死になりきっている。
10.
ユーザー
slbmd
今の自分のいるところに気がつけば、おのずから修行ができて、真理が実現するのである。今の自分の行くべき道に気がつけば、おのずから修行ができて、真理が実現するのである。
なぜならば、真理を実現するための道や処は、大きなものでも小さなものでもなく、自分のものでも他人のものでもなく、いつどこにおいても実現されるものだからである。
11.
ユーザー
slbmd
仏道の修行をして悟りを得るということは、一つのことにあえばそのことを究め、一つの行いをなせばその行いを貫くことである。そこに仏道を実現する境地があり、仏道を実現する道がありながら、なかなか、そのことを悟ることができない。なぜならば、そのことを悟ることそのものが、仏道の究極を知ることにほかならないからである。
12.
ユーザー
slbmd
釈尊が言われている。「一切来生には、悉く仏性がある。仏の本質は常住で、変ることがない」
これは偉大な師、釈尊の力強い教えであると共に、凡ての諸仏、及び歴代の諸祖の根本精神である。この教えを学んで既に二千百九十年
まで)、正しい後継ぎは僅かに五十代、インドに二十八代、中国に二十三代の諸仏たちが、代々に亙ってこれを伝えて来たのである。諸方の諸祖たちも、共にこれを伝えて来たのである。
13.
ユーザー
slbmd
仏性は少しもまじりけのない全体であって、この世界には仏性以外の、何ものも無いのである。なぜならば、それが凡ての思慮分別を超えて、何ものとも対立しないからである。
14.
ユーザー
slbmd
仏性は本来あるものではない。それが時を超えているからである。仏性は、今ことさらに始まるものではない。それが塵一つも加えないからである。仏性は一っ一つあるものではない。それが普遍的なものだからである。仏性は始めを持たないものではない。何ものかが、ここに現前しているからである。仏性は、取立ててあるものではない。平常心が仏道だからである。このように、仏性が何ものとも対立するものでないことを知るべきである。このように仏性を理解するならば、仏性は何ものにも捉われず、なにものにもこだわることがないであろう。
15.
ユーザー
slbmd
仏とその仏性は一つである。そしてその仏性は万物に互っている。なぜならば、万物が仏性だからである。仏性はこなどなでもなく、固まってもいない。
それは凡ての対立を超えて現前しているのであるから、大きくもなく小さくもない。一度仏性と名づけるからには、仏と対立させてはならない。仏性そのものと対立させてもならない。
16.
ユーザー
slbmd
仏性は内にあるのでも外にあるのでもなく、古今を通じて現前しているのである。従って、たとえ今の凡夫の考えを認めるとしても、根も茎も葉も、みな共に一体なのであって、共に恐く仏性なのである。
17.
ユーザー
slbmd
「時節が至れば」ということは、すでに時節は至っている、そこになんの疑うべきことがあろうということである。たとえその時節について疑うことがあろうとも、やはりわれわれに仏性は到来しているのである。
18.
ユーザー
slbmd
「みなそれによって」とは、すべてが仏性によって成立すると体験すべきである。仏性によってすべてが成立することであると、全体的な体験と更に局部的
具体的に仏性を見るは職照、馬、又は仏子や杖、などの個別的な事物の一切が仏性の現前であることを体験しなくてはならない。
19.
ユーザー
dnrjm
お、やってるな
邪魔はしないよ
😆
20.
ユーザー
slbmd
「なるほど無仏性でありますが、なぜ「無」というのかというと、仏性は空ですからゆえに空というのです。」
21.
ユーザー
slbmd
「あらゆるものごとが移り変ることが仏性である。移り変らないものは善悪やすべてのものごとを分別する心の現成として自己を顕現するものである」
22.
ユーザー
vtmHZ
正法眼蔵は、その漢字4文字を知ってるだけで、
俺は宗教世界でレベル高い系のセレブなんだじょおー、
とゆー主張を出来る、特別なオーラを発する書物ではあるけれど、

でもだーれもその内容を読んだやつを見たことがないわ。

たとえば千冊ぐらい本を読んだことある人とかな…。
23.
ユーザー
vtmHZ
はなてばてにみてり
24.
ユーザー
B6QQX
誰じゃろ?
😆
25.
ユーザー
nmbCJ
正法眼蔵は、そのまま読んでも意味わからんってか
仏教知識をたくさん仕入れて解釈してようやっと、みたいな読みにくいものなんだが
禅僧の誰かが、「正法眼蔵は修行終えたあとに読むもの」って言ってたのが納得できる
26.
ユーザー
vtmHZ
千二百年前の中国唐の時代でも、空気があることはわかってるらしく、
風性と呼んでいるんだけど、ある僧が麻浴禅師に質問をして、

この世界は風性(空気)に満ちている(風性常住無處不周底)、
ということであるなら、べつにそれを説明する必要はないのでは?
と質問します。

すると麻浴は、お前はこの世界に空気が満ちていることの
意味をよくわかっていないようだな、といいます。

すると僧は、その風が巡ることの意味とはどのようなものですか? と聞くと、

麻浴が、ただその手にもっている扇であおぐと、
それを見た僧は礼拝します。

※※
現成公案の最後にある、なんでほとけを説明しなきゃあかんのか?
というわりかしナイスなたとえ話ですが。
27.
ユーザー
nmbCJ
「風性」は仏性のたとえで
もとから一切は仏性で常住なのになぜ修行してそれを証さなければならないのかと

もとから常住でもそれをあらわさないと、扇を使わないと風は起こらない
仏性、真理も修行してあらわさないと
「仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。」にならない

28.
ユーザー
B6QQX
そうか?
俺はある程度色々読んで役にたったぞ
😆
ま、時間を食ったが理解するのには
😆
29.
ユーザー
B6QQX
あ、怪しげなコメントしている人みたいだな
ムイムイ警戒必要かもなー
😆
30.
ユーザー
B6QQX
これは
準備しとるな?
😆
31.
ユーザー
vtmHZ
>>27
風性が仏性のたとえなのはわかってんだ。

黄金現成は、お釈迦さまの金色の像を呼び出すことで、

蘇酪を参熟は、天台智顗大師が法華玄義で説明してる、
牛乳が発酵してヨーグルトにかわる五段階のプロセスを、
経典群の五つの時代にあてはめた、五味のたとえなんだよね。
32.
ユーザー
VEQ0W
因果は真理であり現実でぁる。即ち仏性なのである。因果に順応しないのは、仏性の上に異質のものを重ねるにひとしい。だから、因果と共に自己を運んでゆく時に、仏性の功徳が現われ、従って、自己も救われ他のすべてのものごとを救いに至らせる。生において生に徹し、死において死にさまたげられず、現実に解脱して自由自在である。人間もここに徹し切れば、自他平等の生活に徹底して現実のいかなる障害にもさまたげられず自由自在な生活を実現する。もしこのようなことができれば、すぐれた者やおとった者の段階は問題ではない。たとえ一匹の戦であっても、このような境地に至れば、一切世界がことごとく、きよらかな国土となり、その様相は言葉に言い尽くすことができない。
33.
ユーザー
VEQ0W
自己が生とともにあれば生に束縛されず、自己が死とともにあれば死にさまたげられない。したがってそのためには、徒らに生に執着してはならない。みだりに死を恐れてはならない。すでにこの現実はそのまま仏性のあるがままのものである。したがってそれに心を動かしたり、それをきらったりするのは、異教徒のなすことである。
34.
ユーザー
VEQ0W
仏性がそのまま、ここに現前する現実なのである。仏性の現成そのまま、生の相であり、いきいきした働きなのである。現成公案とはこの当体をいうのである。それがこの上もない仏そのものである。この仏のおられるところが、ほかでもない吾々目前の現実の、ありのままの真実で美しいきよらかな仏の国土なのである。
35.
ユーザー
mWigR
「大にも仏性がありますか」
この問いの真意を明らかにすべきである。犬は大なのであって、それに仏性があるかないかを問うているのではない。その真意は、「修行をしないものにも仏性があるならば、なぜ真理を究めた人がさらに道を学ぶのであろうか」ということを尋ねているのである、この問題は多くの修行者達を誤らせた恨み深い問題であるが、しかしその中には、ある禅者が三十年かかって真実の弟子に会ったという故事にも似た、勝れた趣きがある。
超州が答えている。
「ない」
このことばには、学ぶべきところがある。仏性が自から唱える無も、このようなものであろう。犬が自ら唱える無も、このようなものであろう。傍の者達がいう無も、このようなものであろう。この無は、すべての対立を越えた無な
のである。
36.
ユーザー
mWigR
「一切衆生にはみな仏性があるのに、どうして、大にはないのですか」この真意は、一切衆生が仏性を持っていて、何ものとも対立しないならば、仏性とも対立しないであろう。それはどういうことですかと問うているのである。何もわざわざ、犬には仏性は無いといっているのではないのである。
趙州がこれに答えている。
「彼に迷いがあるからである」
このことばの真意は、「犬にあるのは迷いであり、迷いが犬にあるのであるが、大は何ものとも対立せず、仏性も何ものとも対立しない。迷いが大と対立しないのに、犬と仏性が対立するはずがない。従って、犬には仏性があるといっても、迷いがあるといっても、それは全く同じことである」という意味である。
37.
ユーザー
mWigR
「みみずは斬れると二つに別れて両方とも動きます。仏性はそのどちらにあ
るのでしょうか」
長沙が答えた。
「妄想してはならない」
「しかし、動くことをどう説明すればよいのですか」
「体が散り散りになっていないからだ」
38.
ユーザー
4x61K
>>33
ちゃうとおもうで
😆
39.
ユーザー
mWigR
仏性が生の時だけにあって、死の時にないと思うのは、学ぶことが少く、理解することが浅いからである。生の時も有仏性であり、そして無仏性である。死の時も有仏性であり、そして無仏性である。体が散り散りになることや、ならないことを論ずるならば、それらのことは、仏性が散り散りになったり、ならなかったりすることに外ならない。そうだとすれば、たとえ、散り散りの時も、有仏性であり、そして無仏性である。たとえ散り散りになっていないときも、有仏性であり、そして無仏性である。それを「仏性は動く動かないによって、存在したりしなかったりする。知覚するしないによって、心であったりなかったりする。知る知らないによって、仏性であったりなかったりする」というような誤った見解にこだわるのは、異教徒のすることである。
永く大しく、多くの愚か者達が、心を仏性とし、覚者として来たが、笑うべきである。
40.
ユーザー
mWigR
この上、仏性についていうならば、余り詳しくいうと却ってむずかしくなるのであるが、要をいえば、仏性は上、団際である。更にいうならば、仏性は鬼神の姿である。このように、あらゆるものが仏性なのである。
41.
ユーザー
mWigR
仏道は「正しい学道」である。仏道にいかなる不正な学道をもって来ても当てはまらない。仏道はただ一つの道である。
他の外道や邪教を交えようとしても、それは益々仏道と遠ざかり離れてゆくばかりである。
42.
ユーザー
mWigR
そもそも学道するに思量を運ばないで学ぶことはできないが、その思量は「不思量」即ち思量するものなき思量でなくてはならない。
43.
ユーザー
vqzX3
地獄餓鬼畜生修羅、人間天でなくても
どんなものでもこの「心」(仏心)から外れるものはないっていう

空海さんは『十住心論』で十段階にケダモノのような欲望衝動のありよう異生羝羊心から究極の秘密荘厳心までバラバラで違うようでありながらすべては「心」で等しいものって風になってる
44.
ユーザー
vqzX3
日蓮さんは、密教の曼陀羅が、地獄餓鬼畜生の悪道がそこにはぶかれてるのを見て
これは付け加えておかないとと
そうしてあの髭曼荼羅を描いたとか
45.
ユーザー
4x61K
なんとなく
ユニークなお方が、きてるな?
😆
46.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6Ud54
諸仏諸祖はかならず海印三昧を体験している。この海印三昧はただ静寂であるばかりでなく、真実の教えを説く時があり、体験の時があり、修行の時があり、そこには決まりが無い。その働きは自由自在である。

「これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり」

(出典:正法眼蔵(1231‐53)海印三昧)


https://zennooto.com/wp-content/uploads/2021/04/image119.jpg
47.
ユーザー
O7iTQ
トーシロー相手にハッスルハッスルなんだじょ〜🔥
https://gzo.ai/i/6Qs7x4i.jpg
48.
ユーザー
79olC
>>46
海印三昧は仏性と同一のものよ、
というか仏教業界は元のネタが一個しかありませんから…。

海印三昧 = 仏性 =
>>26風性 (現成公案)

みんな同じで、たった一つの概念を、
いろんな違う言葉で表現してるだけ。

※※
個人的には、海印三昧は、

伊豆の下田で、スキューバダイビング。

ごぼごぼごぼ…、かな。
49.
ユーザー
EMs7i
さて、心というは何か、それは何ら把えどこのないものである。現前の山河、大地、日月星尿、これみな心である、心の上の体験であるという時、もしこの眼前の山河、大地の体験が心であるなら、その意味はどうか、またどうして把え得るのか。
50.
ユーザー
lll7C
吾々はものごとを「ありのままに」在るものをあるがまま、如実に見るということは、ものごとを体験することである。体験することは、ものごとをあるがままに掴むこと、受け入れることである。「見るもの」と「見られるもの」の一加の働きである。一心というのは、この体験の働きをいうのである。
51.
ユーザー
lll7C
このようにあらゆるものごとは心である。山河大地、日月星辰といえば心の外のものである、だがこの山河大地が心であるということになると、もうそれは外のものではなくなる。山河大地は外のものでも、また心の中のものでもない。山河大地である心なのである。
52.
ユーザー
lll7C
それは他から来て心に現じたものか、また心から出て行くというべきか。体験はそれ自体の働きであり、行いである。外からのものでも内のものでもない。そしてまた来るものであり、去るものでもある。また外のもの内のものである。実に内外去来の自由なありのままの消息、即ち内外自在、去来無得のものごとである。
53.
ユーザー
lll7C
それであるから生きている時、心というものを増すであろうか、増さないであろうか、死という時に心に欠けるものがあるであろうか、ないであろうか。
これらのことについてよく考えてみるがよい。この生死の事実、その観察において、果してその真相はどうなのか、「生死とは何であるのか」、生死は心の外の問題か、内の問題なのか、よく考えてみなければならぬ問題である。
54.
ユーザー
lll7C
以上に述べたものごとの一切は「心」である、心の働きである、心の働きの一念、二念である。心の体験の相なのである。この一念二念が一山河大地、二山河大地である。
これらの山河大地は有無、大小、得不得、識不識、通不通、悟不悟の対立、差別の相を超越している「心」をそのままに学道するのを仏祖の家風としている。従って仏道の身心学道としているということを、決定信受すべきである。この決定、信受は心自らの働きであるから、大小・有無の相対を超えた絶対的のものの、唯倉受それのみである。今のこの家が真の家、体験の世界でなく概念にすぎないことを知り、家を捨てるこの学道は、相対的な時間、空間を超越せる真理の体験、仏道の実現にある。その故にこの学道の行いは無際限に行われるべきである。
55.
ユーザー
lll7C
学道は壁や瓦や磯が心である、ということを究めることである。
このことは、仏教では「世界は心である」といい「万有は心である」というけれど、それは実際の現実ではない抽象的な概念にすぎない、ここで学道する薔壁や瓦礫が心であるというのは現実であり、体験そのものである。
56.
ユーザー
r2hsh
人と世界は対立の観念でなく一如の体験である。依(客観)の知らないこと、かかわりのないことなのである。正(主観)
と依(客観)は「共出」である。両方から手をさし出して握手しているのである。人境一知である。
57.
ユーザー
r2hsh
平常心というのは、此の世界、他の世界とかを問題としない、平常心は平常の心である。たえず働いている心なのだ。故に昔日は此処から去り、今日は此処から来るのである。昔日とは平常心においての過去であり、今日とは此の平常心より来るものである。即ち平常心自らの現成である。平常心を無視しては昔も今日もない。過去現在未来の三時は体験の「今」の中にある。去ると言えば全宇宙が去り、来るといえば全宇宙が来る。そのものそのものの体験の外に、ものごとはあり得ない。これが平常心である。平常心はその心の中で自由に開閉する。それは万象の生滅自体の棚である。その相こそ、平常心の千戸万戸を同時に開閉する雄姿なのである。
58.
ユーザー
r2hsh
この千戸万戸を自由に開閉する働きは赤心平等の心である。しかもたえず働く心、平常の心である。すべてのものは生滅する。その相、そのことが平常心である。万有の平常心の生滅の相は家の門が開いたり、戸が閉まったりすることに等しいのである。
59.
ユーザー
oDcWP
今、此の世界、他の世界を「蓋天蓋地」というと、何だか突然出た「くしゃみ」の声のように、思いがけない言葉であるが、その語の内容意味においても、また心においても、ものごとにおいても、体験の世界においては、皆一味平等である。しかし「くしゃみ」の一声が心であることは判らない。刹那の生滅が判らないからである。即ち衆生の行動は刹那に生滅する。衆生の行動は生命の存する間の働きである。しかしそれは普通には判らない。これらのことは悟った人、仏でなければ判らない。
60.
ユーザー
oDcWP
身をもって学道するということは、心の学道よりも至難なことである。本当の学道は、身を投げ出して学ぶこと、学道の体験、体得にあるのである。この
身は学道の身であり、身は学道と一つである。身と学道と一如せしめたこの身が真実人体となるのである。そして、世界が自己の真実人体となるのである。
L
世界は自己と一体となり、世界も自己の真実人体であることを体験する。
61.
ユーザー
oDcWP
真実人体は刹那に生滅する一切のものごとが平常心より去り平常心より来る動きが真実人体なのである。即ち生死去来するのが真実人体なのである。生死は真理としての一つの現象である。生の中に死があり、死の中に生がある。生も死もお互いに転じ合うものでない、生は生きり、死は死きりの、生は生の絶対境、死は死の絶対境のものである。その現象は俱に妨げていない、独立の現象なのである。要するに生死の二つの現象は一如である。真理そのもの、仏道そのものの体験である。
62.
ユーザー
oDcWP
百丈大智禅師の「もし人間は本来が清浄身、解脱身である、即身是仏である」という語をそのままに受けとって、これが仏道であると解釈して何の修証も要せず仏になれると思っている者があるなら、それは、とんでもない邪見である、全く自然外道の説である。
63.
ユーザー
oDcWP
説法は他のためにするが実は自らに説法するのであるとも言える。本当の説法は自他を超越した自他一如の説法が本来なのである。「ために説法せず」である故に、説法とは学道ということである。
64.
ユーザー
MOXv3
生の中に死があり、死の中に生がある。生は生の位、死は死の位の独立無伴前後際断の故に、生は死を何等概念的にも具体的にも犯さない。
お互いに邪魔し異しない。このような生死は、ともに凡人の知るところではない。生とは棚の木の如く、死とは絶対不動の鉄漢の如く不動そのものである。死それ自体の全体、絶対不動の真理の金験である。柏の木は柏の木の全体、他の何ものにもおかされない体験、真理そのものである。学道の要旨はそこにあるのである。生は一つのものではなく、また死は二つのものでもない。
死が生に対立することはなく、生が死に対立することはない。生は生であり、生のままで死でもある。生死変化の体験は絶対不動の体験である。人生の人生としての体験なのである。
65.
ユーザー
MOXv3
代々の諸仏が、今なお一人の例外なく保護しつづけて、これを仏道の根本精神として正しく相い伝えて来たものは、即心是仏のみである。
ところが、印度の仏典中には、即心是仏のその話はなく、中国の禅者において、始めてそれが説かれたのである。それを、修行者、学者の多くは誤解して正しく研究せず、又実参実究しないから、彼等の多くは外道になり果てるのである。
66.
ユーザー
MOXv3
この即心是仏のことを聞いて、愚かものは「人々のまだ仏道を求める心なく、現在の迷妄の心のままを、仏であると考える」このように考えるのは、まだ正しい師に会ったことがないからである。
67.
ユーザー
1c8Q0
正しく即心是仏を提起して即心是仏を正伝してきて今日に至ったのである。いうところの正伝せる「心」というのは何なのかというと、一心が一切のものごとである。一切のものごとが一心である。
68.
ユーザー
1c8Q0
このようなものであるから、即心是仏は即是仏に捉われることがないのである。仏は仏に捉われないのである。従って即心是仏とは発心、修行、涅槃(悟り)、永遠の諸仏である。また、発心、修行、涅槃を体験していないものは、即心見仏ではない。たとえ一瞬の間の発心、修行、涅槃であっても即心是仏である。たとえごく微小なものの中においての発心、修行、涅槃であっても即心是仏である。たとえ僅かの心の発心、修行、涅槃であろうとも即心是仏である。たとえ握り半分の発心、修行、涅槃であっても即心是仏である。それを永遠の修行によって仏となるのは即心是仏ではないというのは、即心是仏を未だ見たことのない、まだ知らない、まだ学ばないからであり、即心是仏を解説し得る正しい師に相見たことのない者の言うことである。
ここにいう諸仏とは、釈迦卒尼仏のことであり、釈迦尼仏自らが即ち即心是仏である。過去、現在、未来の諸仏が仏になるということは何れも、必ず釈迦本尼仏となることである。これが即心是仏ということである。
69.
ユーザー
1c8Q0
あなた方は知るべきである。諸仏の仏道は悟りのために修行し、悟ることを目的としないのである。悟りを超越し解脱した境地の実現、即ち仏向上の道の行にある。この仏向上の道は、ただ「行仏」そのことにあるのみである。それは、真理そのものを仏とする者たちの、夢にもまだ見たことのないことである。
70.
ユーザー
1c8Q0
この行仏は、日日の修行者のすべてが仏の道(真理)にかなっているから、おのずから仏道が一切の時と処に現成するのである。従ってその「行仏」は仏の道となって現われ、教化となって現われるこのことが、すべての時、すべてのところ、すべての仏、すべての行いに及んでいる。
71.
ユーザー
1c8Q0
このような「行仏」でなければ、概念的な仏、真理に囚われることから未だ解脱ができず、仏の相や真理の姿を持った魔物の部類とされるのである。
仏に囚われるとは、悟りを、概念的な悟りであると知的に理解して、そのため知的な分別、理解に束縛されることとなる。一瞬一瞬の流動の体験なる時間が経って行くのを反省しないで解脱の時を見逃して徒らに迷っている。悟りをただ概念的に固定的に理解するならば、悟りもまたそのようなものとなってしまう。それは誤った見解であるといわなければならない。
72.
ユーザー
1c8Q0
考えて見れば、これは縄のないのに縛られているようなものである。いつまでも縛られていて、真理と一体となっておらず、徒らに形の上での仏という落し穴に落ちているのである。そうしたものたちは「仏というのは真理そのものである」という考えのみに限定してしまう考え、「真理を体験する仏」という考えのみに限定する病に落ちこんでしまうことを知らないのである。
73.
ユーザー
1c8Q0
産の寿命が、未だに連綿と続いているのではなく、仏の寿命が過去に遍在しているのでもない。ここにいう「永遠時」とは、一切の時が今ここに現われているということである。ここにいう「今なお」とは、今のこの時にその全生命があるということである。菩薩のもとの行いが、たとえ永久に続いているとしても、それは常に解脱の行いである。
74.
ユーザー
1c8Q0
ここで行仏成儀について唯一つ究めることがある。それは仏が自己であり、自己が仏であるということである。私はお前であり、お前は私であるということが明らかとなるのである。仏が仏として現成する。そのところに「我もまた
汝もそなえている」という行仏の威儀が現成するのである。一切諸仏の解脱の境地はそのようなものである。即ち一切諸仏は、黒意「自己」と一体のものである。一切のものごとは、体験の自己である。即ちすべての仏が自己であるということは唯だ真実の我を我が知ることである。
75.
ユーザー
1c8Q0
「自己と他と一加になっている自己である。その自己は、自己を解脱している。自らの行が吾もホ、汝もホ、と体験する時、一切のものごとと一切の身体、一切の行い、一切の仏がみな等しくなっている。この行い、この真理、この身体、この仏が、各々の自己そのものになりきっているのである。そのものになりきっているから、そのものを解脱しているのである。」
76.
ユーザー
1c8Q0
ここで行仏成儀について唯一つ究めることがある。それは仏が自己であり、自己が仏であるということである。私はお前であり、お前は私であるということが明らかとなるのである。仏が仏として現成する。そのところに「我もまた汝もそなえている」という行仏の成儀が現成するのである。一切諸仏の解脱の境地はそのようなものである。即ち一切諸仏は、星意「自己」と一体のものである。一切のものごとは、体験の自己である。即ちすべての仏が自己であるということは唯だ真実の我を我が知ることである。
77.
ユーザー
zO0bZ
吾もホ、汝もホた仏と体験すれば、ものごとも、諸身も、諸行も、諸仏もみな自己の中のものとなる。自己となる。従ってこのような境地では、行とか、法とか、仏とか、自己とかというその各々を「承当に異礙(解脱)あるのみ」である。夫々を確実に把え、承当<体験>すると、仏を体験すれば仏のみ、行を体験すれば行のみ、法を体験すれば法のみとなることになるのである。そのものになりきってしまうのである。各々がそれ自らになりきるのだから各々が解脱することである。仏が仏に異げられることである(里の意は、そのことになり切ること、解脱の意である)解脱とは無我になる、凡て他に随うことである。
78.
ユーザー
zO0bZ
この解脱の眼というのは、眼の働きから抜け出してしまうから、眼の働きがなくなってしまうので、一つのもの、一つの事も見えなくなってしまうのではないかと考えてはならない。眼の解脱とは、眼の本性が、本性のまま、眼の自己の本性の全体的な純粋な働きをするから、ものごとの真体を明歴々と把むことができる。又見られる方象も、見る眼がその一つ一つの中に投入されているから、万象の悉くが眼である。このことを「一々の法にも眼が入りこんでいる」「あの法の中にも眼が入りこんでいる」というのである。
79.
ユーザー
zO0bZ
さて、行に色々あるようだが、結局行は一つである。来るのも去るのも同じ門の出入である。このような「行」は自らの行であるのであるが、その自らの行は他に随って転ずるのである。その他なるもの、森羅万象は少しも蔵されていない。あるがままのもの、あるべき相、あるべき働きそのもののことである。この全世界のことである。眼礎としての全世界の眼である。眼は全世界に明々百草頭でその各々が眼として光っている。故に全世界の存在のすべて蔵れているものは一つもない。故に釈尊の密語(真理の語)密証(真の悟、体験)の「空」なるものを固定としているから錯りであり、また、「空」を空とすることは、現実を空とする意味の上に誤りを犯すことになる。
80.
ユーザー
zO0bZ
門を出ても、門の中にはいっても草で一ぱい。世界は草で、隙間なし、釈尊の密語、密証、密行、※附、即ち仏道の展開である。出るも草、入るも草、天地草の外に寸土なしでる。しかし門の出入を止めたら、草とは緑はなくなるが、でも現実は草の中にいるから絶縁ではない。草のない処はどこにもない。
草を忘れること、草に囚われないこと、草から脱落すれば、天地は無事のところとなる。門を出るとか、出ぬとかの話は不用のこととなる。
81.
ユーザー
zO0bZ
いま、行として把握(肯定)されるものは放行(否定)を含んだものである。現実に把捉しているものは「夢幻、空華」である。だれも「夢幻」や空華を本物として誤って把えるものはない。吾々の現実の一々の行動はみな夢幻であり、空華である。淡酒息、淡路がである。このことを体験することによって、この「行」の把握は旅行と一加であることを体験しなければならない。
82.
ユーザー
ydHDF
何故この文章で空回りしているのかが分からないのなら、それは分かっていないからなのだとは思いました。
83.
ユーザー
ydHDF
相手に分かるように、とは己れが分かった内のほんの一部を噛み砕いて伝わるようにする事。
84.
ユーザー
JYXrW
生を解脱することは、真理に合わせて解脱することである。死を解脱することも真理に合わせて死を解脱することである。
このような生死の解脱は、頭から尾まで、真理の働きが現われるのである。それはちょうど盤の上を玉が転び、球が廻るような自由な威である。このような仏の成儀の一部をして「あらしめている」ものは一切世界、天地である。一切の世界といっても既にこれが仏威儀の一部である。時々刻々生死の去来であり、現実世界である。このような現実世界に動きはたらいている仏の一部を一部たらしめているものである。実に行仏の威儀は汚機と考えられている塵も、清浄の蓮華もその仏の威儀の一部行仏の一部なのである。
85.
ユーザー
JYXrW
修行者の多くは、一切世界というのはこの人間の住んでいるといわれる婆婆世界の南騰部であると考え、またその世界の十四の洲であると考える。或いはまた、中国一国であると考え、日本一国であると考えているようである。また、一切の大地というのは仏教でいう「三千の大千世界」、全世界と考え、又それはちょうどわずかに、一洲、一県の狭いものと考えているものもある。ここにいう一切大地、一切世界という言葉の真の意はそんなものではない。その意味を実際に能く究めるには、何度も何度も思いめぐらしてただ広いということが「尽」ということだと決めてしまってはならない。「尽」ということは「恐く」の意味の外に「尽くす」という意味がある。ものことに徹す、そのものになり切る、把握することなのである。
86.
ユーザー
JYXrW
この真意を悟ることは、極めて大きなものは小さなものに等しく、極めて小さなものは大きなものに等しいという大小を超越した体験の世界に入って、仏を超え祖師を超えた行の立場を掴んだ行仏成機の現成にある。
行仏威儀そのままの境地は、大いなるものでもなく、小さなものでもなく、まことに疑わしいもののようであるが、それこそ超仏越祖の威儀即ち行仏の境地なのである。威儀としての行仏即ち行仏威儀の現成の時である。諸仏諸祖の説く、世界を「尽くす」威儀、大地を「尽くす」威儀ともに、いずれも不曾蔵(かって蔵さず)即ち真理そのものが世界であるということを学ぶべきである。
しかもそればかりではなく、あらゆる世界は不曾蔵そのままの相、働きが行仏という無量無辺中のものである。
87.
ユーザー
JYXrW
生は生をのみ単伝し、死は死のみを単伝する。即ち生は生の全体の働き、死は死の全体の働きとして単伝する。即ち生死一如の単伝である。心を修めて究め尽くすべきである。
88.
ユーザー
yU9Y0
人が仏になるというなら、それならば、成仏するということは何なのか、というと仏が成仏するのである。人は人である。仏は仏なのである。人が人になりきる時、それが、仏が仏になることなのである。
89.
ユーザー
yU9Y0
仏から仏に正しく伝えている大道は、断絶を超越し、すべての時をこえた永遠の教えである。このことはただ仏道においてのみ正しく伝えられている。仏道の外の者たちの知ることなく聞くことのない功徳である。
90.
ユーザー
yU9Y0
仏の体験の世界は分別や慮知を脱した世界であるから、行仏の成儀をうかがい見ようとするならば、天界や人間界のまなこによっては見ることはできない。天界や人間界の心では窺い知り得ない。仏眼によってのみ見、知ることができるのである。天上人間の分別心や情識をもって測量してはならない。行仏威儀は凡夫の迷いの心を脱した十聖三賢でもこれを知らないのである。理解してはいない。まして、人間界や、天上界における分別測量の及ぶところではない。人間の量(自方)が小さいように、思慮も少いのである。どうしてそのようなものたちが、道を行ずる仏成儀をはかり知ることができようか。
91.
ユーザー
Tah4i
ヤナギ

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