正法眼蔵最終更新 2025/12/03 22:531.カムイ◆4zzhWyZTeatmslbmd仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。2025/11/13 16:14:5491コメント欄へ移動すべて|最新の50件42.カムイ◆4zzhWyZTeatmmWigRそもそも学道するに思量を運ばないで学ぶことはできないが、その思量は「不思量」即ち思量するものなき思量でなくてはならない。2025/11/14 07:45:1443.神も仏も名無しさんvqzX3地獄餓鬼畜生修羅、人間天でなくてもどんなものでもこの「心」(仏心)から外れるものはないっていう空海さんは『十住心論』で十段階にケダモノのような欲望衝動のありよう異生羝羊心から究極の秘密荘厳心までバラバラで違うようでありながらすべては「心」で等しいものって風になってる2025/11/14 09:35:3744.神も仏も名無しさんvqzX3日蓮さんは、密教の曼陀羅が、地獄餓鬼畜生の悪道がそこにはぶかれてるのを見てこれは付け加えておかないととそうしてあの髭曼荼羅を描いたとか2025/11/14 09:37:3545.神も仏も名無しさん4x61Kなんとなくユニークなお方が、きてるな?😆2025/11/14 10:02:1446.◆JBLfMwCXhY6Ud54諸仏諸祖はかならず海印三昧を体験している。この海印三昧はただ静寂であるばかりでなく、真実の教えを説く時があり、体験の時があり、修行の時があり、そこには決まりが無い。その働きは自由自在である。「これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり」(出典:正法眼蔵(1231‐53)海印三昧)https://zennooto.com/wp-content/uploads/2021/04/image119.jpg2025/11/15 15:43:3747.神も仏も名無しさんO7iTQトーシロー相手にハッスルハッスルなんだじょ〜🔥https://gzo.ai/i/6Qs7x4i.jpg2025/11/15 16:37:1948.神も仏も名無しさん79olC>>46海印三昧は仏性と同一のものよ、というか仏教業界は元のネタが一個しかありませんから…。海印三昧 = 仏性 = >>26風性 (現成公案)みんな同じで、たった一つの概念を、いろんな違う言葉で表現してるだけ。※※個人的には、海印三昧は、伊豆の下田で、スキューバダイビング。ごぼごぼごぼ…、かな。2025/11/15 19:09:0849.カムイ◆4zzhWyZTeatmEMs7iさて、心というは何か、それは何ら把えどこのないものである。現前の山河、大地、日月星尿、これみな心である、心の上の体験であるという時、もしこの眼前の山河、大地の体験が心であるなら、その意味はどうか、またどうして把え得るのか。2025/11/16 13:16:3750.カムイ◆4zzhWyZTeatmlll7C吾々はものごとを「ありのままに」在るものをあるがまま、如実に見るということは、ものごとを体験することである。体験することは、ものごとをあるがままに掴むこと、受け入れることである。「見るもの」と「見られるもの」の一加の働きである。一心というのは、この体験の働きをいうのである。2025/11/16 17:13:4051.カムイ◆4zzhWyZTeatmlll7Cこのようにあらゆるものごとは心である。山河大地、日月星辰といえば心の外のものである、だがこの山河大地が心であるということになると、もうそれは外のものではなくなる。山河大地は外のものでも、また心の中のものでもない。山河大地である心なのである。2025/11/16 17:14:4852.カムイ◆4zzhWyZTeatmlll7Cそれは他から来て心に現じたものか、また心から出て行くというべきか。体験はそれ自体の働きであり、行いである。外からのものでも内のものでもない。そしてまた来るものであり、去るものでもある。また外のもの内のものである。実に内外去来の自由なありのままの消息、即ち内外自在、去来無得のものごとである。2025/11/16 17:17:2153.カムイ◆4zzhWyZTeatmlll7Cそれであるから生きている時、心というものを増すであろうか、増さないであろうか、死という時に心に欠けるものがあるであろうか、ないであろうか。これらのことについてよく考えてみるがよい。この生死の事実、その観察において、果してその真相はどうなのか、「生死とは何であるのか」、生死は心の外の問題か、内の問題なのか、よく考えてみなければならぬ問題である。2025/11/16 17:19:3054.カムイ◆4zzhWyZTeatmlll7C以上に述べたものごとの一切は「心」である、心の働きである、心の働きの一念、二念である。心の体験の相なのである。この一念二念が一山河大地、二山河大地である。これらの山河大地は有無、大小、得不得、識不識、通不通、悟不悟の対立、差別の相を超越している「心」をそのままに学道するのを仏祖の家風としている。従って仏道の身心学道としているということを、決定信受すべきである。この決定、信受は心自らの働きであるから、大小・有無の相対を超えた絶対的のものの、唯倉受それのみである。今のこの家が真の家、体験の世界でなく概念にすぎないことを知り、家を捨てるこの学道は、相対的な時間、空間を超越せる真理の体験、仏道の実現にある。その故にこの学道の行いは無際限に行われるべきである。2025/11/16 17:24:4155.カムイ◆4zzhWyZTeatmlll7C学道は壁や瓦や磯が心である、ということを究めることである。このことは、仏教では「世界は心である」といい「万有は心である」というけれど、それは実際の現実ではない抽象的な概念にすぎない、ここで学道する薔壁や瓦礫が心であるというのは現実であり、体験そのものである。2025/11/16 17:28:2056.カムイ◆4zzhWyZTeatmr2hsh人と世界は対立の観念でなく一如の体験である。依(客観)の知らないこと、かかわりのないことなのである。正(主観)と依(客観)は「共出」である。両方から手をさし出して握手しているのである。人境一知である。2025/11/16 19:57:2057.カムイ◆4zzhWyZTeatmr2hsh平常心というのは、此の世界、他の世界とかを問題としない、平常心は平常の心である。たえず働いている心なのだ。故に昔日は此処から去り、今日は此処から来るのである。昔日とは平常心においての過去であり、今日とは此の平常心より来るものである。即ち平常心自らの現成である。平常心を無視しては昔も今日もない。過去現在未来の三時は体験の「今」の中にある。去ると言えば全宇宙が去り、来るといえば全宇宙が来る。そのものそのものの体験の外に、ものごとはあり得ない。これが平常心である。平常心はその心の中で自由に開閉する。それは万象の生滅自体の棚である。その相こそ、平常心の千戸万戸を同時に開閉する雄姿なのである。2025/11/16 22:43:1858.カムイ◆4zzhWyZTeatmr2hshこの千戸万戸を自由に開閉する働きは赤心平等の心である。しかもたえず働く心、平常の心である。すべてのものは生滅する。その相、そのことが平常心である。万有の平常心の生滅の相は家の門が開いたり、戸が閉まったりすることに等しいのである。2025/11/16 22:44:4359.カムイ◆4zzhWyZTeatmoDcWP今、此の世界、他の世界を「蓋天蓋地」というと、何だか突然出た「くしゃみ」の声のように、思いがけない言葉であるが、その語の内容意味においても、また心においても、ものごとにおいても、体験の世界においては、皆一味平等である。しかし「くしゃみ」の一声が心であることは判らない。刹那の生滅が判らないからである。即ち衆生の行動は刹那に生滅する。衆生の行動は生命の存する間の働きである。しかしそれは普通には判らない。これらのことは悟った人、仏でなければ判らない。2025/11/17 06:18:2560.カムイ◆4zzhWyZTeatmoDcWP身をもって学道するということは、心の学道よりも至難なことである。本当の学道は、身を投げ出して学ぶこと、学道の体験、体得にあるのである。この身は学道の身であり、身は学道と一つである。身と学道と一如せしめたこの身が真実人体となるのである。そして、世界が自己の真実人体となるのである。L世界は自己と一体となり、世界も自己の真実人体であることを体験する。2025/11/17 06:20:4061.カムイ◆4zzhWyZTeatmoDcWP真実人体は刹那に生滅する一切のものごとが平常心より去り平常心より来る動きが真実人体なのである。即ち生死去来するのが真実人体なのである。生死は真理としての一つの現象である。生の中に死があり、死の中に生がある。生も死もお互いに転じ合うものでない、生は生きり、死は死きりの、生は生の絶対境、死は死の絶対境のものである。その現象は俱に妨げていない、独立の現象なのである。要するに生死の二つの現象は一如である。真理そのもの、仏道そのものの体験である。2025/11/17 06:23:1762.カムイ◆4zzhWyZTeatmoDcWP百丈大智禅師の「もし人間は本来が清浄身、解脱身である、即身是仏である」という語をそのままに受けとって、これが仏道であると解釈して何の修証も要せず仏になれると思っている者があるなら、それは、とんでもない邪見である、全く自然外道の説である。2025/11/17 06:25:5463.カムイ◆4zzhWyZTeatmoDcWP説法は他のためにするが実は自らに説法するのであるとも言える。本当の説法は自他を超越した自他一如の説法が本来なのである。「ために説法せず」である故に、説法とは学道ということである。2025/11/17 06:28:4064.カムイ◆4zzhWyZTeatmMOXv3生の中に死があり、死の中に生がある。生は生の位、死は死の位の独立無伴前後際断の故に、生は死を何等概念的にも具体的にも犯さない。お互いに邪魔し異しない。このような生死は、ともに凡人の知るところではない。生とは棚の木の如く、死とは絶対不動の鉄漢の如く不動そのものである。死それ自体の全体、絶対不動の真理の金験である。柏の木は柏の木の全体、他の何ものにもおかされない体験、真理そのものである。学道の要旨はそこにあるのである。生は一つのものではなく、また死は二つのものでもない。死が生に対立することはなく、生が死に対立することはない。生は生であり、生のままで死でもある。生死変化の体験は絶対不動の体験である。人生の人生としての体験なのである。2025/11/17 06:51:1065.カムイ◆4zzhWyZTeatmMOXv3代々の諸仏が、今なお一人の例外なく保護しつづけて、これを仏道の根本精神として正しく相い伝えて来たものは、即心是仏のみである。ところが、印度の仏典中には、即心是仏のその話はなく、中国の禅者において、始めてそれが説かれたのである。それを、修行者、学者の多くは誤解して正しく研究せず、又実参実究しないから、彼等の多くは外道になり果てるのである。2025/11/17 06:56:0866.カムイ◆4zzhWyZTeatmMOXv3この即心是仏のことを聞いて、愚かものは「人々のまだ仏道を求める心なく、現在の迷妄の心のままを、仏であると考える」このように考えるのは、まだ正しい師に会ったことがないからである。2025/11/17 06:57:2667.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0正しく即心是仏を提起して即心是仏を正伝してきて今日に至ったのである。いうところの正伝せる「心」というのは何なのかというと、一心が一切のものごとである。一切のものごとが一心である。2025/11/17 07:08:2168.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0このようなものであるから、即心是仏は即是仏に捉われることがないのである。仏は仏に捉われないのである。従って即心是仏とは発心、修行、涅槃(悟り)、永遠の諸仏である。また、発心、修行、涅槃を体験していないものは、即心見仏ではない。たとえ一瞬の間の発心、修行、涅槃であっても即心是仏である。たとえごく微小なものの中においての発心、修行、涅槃であっても即心是仏である。たとえ僅かの心の発心、修行、涅槃であろうとも即心是仏である。たとえ握り半分の発心、修行、涅槃であっても即心是仏である。それを永遠の修行によって仏となるのは即心是仏ではないというのは、即心是仏を未だ見たことのない、まだ知らない、まだ学ばないからであり、即心是仏を解説し得る正しい師に相見たことのない者の言うことである。ここにいう諸仏とは、釈迦卒尼仏のことであり、釈迦尼仏自らが即ち即心是仏である。過去、現在、未来の諸仏が仏になるということは何れも、必ず釈迦本尼仏となることである。これが即心是仏ということである。2025/11/17 07:15:0869.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0あなた方は知るべきである。諸仏の仏道は悟りのために修行し、悟ることを目的としないのである。悟りを超越し解脱した境地の実現、即ち仏向上の道の行にある。この仏向上の道は、ただ「行仏」そのことにあるのみである。それは、真理そのものを仏とする者たちの、夢にもまだ見たことのないことである。2025/11/17 07:17:5370.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0この行仏は、日日の修行者のすべてが仏の道(真理)にかなっているから、おのずから仏道が一切の時と処に現成するのである。従ってその「行仏」は仏の道となって現われ、教化となって現われるこのことが、すべての時、すべてのところ、すべての仏、すべての行いに及んでいる。2025/11/17 07:19:3371.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0このような「行仏」でなければ、概念的な仏、真理に囚われることから未だ解脱ができず、仏の相や真理の姿を持った魔物の部類とされるのである。仏に囚われるとは、悟りを、概念的な悟りであると知的に理解して、そのため知的な分別、理解に束縛されることとなる。一瞬一瞬の流動の体験なる時間が経って行くのを反省しないで解脱の時を見逃して徒らに迷っている。悟りをただ概念的に固定的に理解するならば、悟りもまたそのようなものとなってしまう。それは誤った見解であるといわなければならない。2025/11/17 07:20:4672.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0考えて見れば、これは縄のないのに縛られているようなものである。いつまでも縛られていて、真理と一体となっておらず、徒らに形の上での仏という落し穴に落ちているのである。そうしたものたちは「仏というのは真理そのものである」という考えのみに限定してしまう考え、「真理を体験する仏」という考えのみに限定する病に落ちこんでしまうことを知らないのである。2025/11/17 07:22:4073.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0産の寿命が、未だに連綿と続いているのではなく、仏の寿命が過去に遍在しているのでもない。ここにいう「永遠時」とは、一切の時が今ここに現われているということである。ここにいう「今なお」とは、今のこの時にその全生命があるということである。菩薩のもとの行いが、たとえ永久に続いているとしても、それは常に解脱の行いである。2025/11/17 07:25:3974.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0ここで行仏成儀について唯一つ究めることがある。それは仏が自己であり、自己が仏であるということである。私はお前であり、お前は私であるということが明らかとなるのである。仏が仏として現成する。そのところに「我もまた汝もそなえている」という行仏の威儀が現成するのである。一切諸仏の解脱の境地はそのようなものである。即ち一切諸仏は、黒意「自己」と一体のものである。一切のものごとは、体験の自己である。即ちすべての仏が自己であるということは唯だ真実の我を我が知ることである。2025/11/17 07:33:0875.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0「自己と他と一加になっている自己である。その自己は、自己を解脱している。自らの行が吾もホ、汝もホ、と体験する時、一切のものごとと一切の身体、一切の行い、一切の仏がみな等しくなっている。この行い、この真理、この身体、この仏が、各々の自己そのものになりきっているのである。そのものになりきっているから、そのものを解脱しているのである。」2025/11/17 07:34:5076.カムイ◆4zzhWyZTeatm1c8Q0ここで行仏成儀について唯一つ究めることがある。それは仏が自己であり、自己が仏であるということである。私はお前であり、お前は私であるということが明らかとなるのである。仏が仏として現成する。そのところに「我もまた汝もそなえている」という行仏の成儀が現成するのである。一切諸仏の解脱の境地はそのようなものである。即ち一切諸仏は、星意「自己」と一体のものである。一切のものごとは、体験の自己である。即ちすべての仏が自己であるということは唯だ真実の我を我が知ることである。2025/11/17 07:39:0377.カムイ◆4zzhWyZTeatmzO0bZ吾もホ、汝もホた仏と体験すれば、ものごとも、諸身も、諸行も、諸仏もみな自己の中のものとなる。自己となる。従ってこのような境地では、行とか、法とか、仏とか、自己とかというその各々を「承当に異礙(解脱)あるのみ」である。夫々を確実に把え、承当<体験>すると、仏を体験すれば仏のみ、行を体験すれば行のみ、法を体験すれば法のみとなることになるのである。そのものになりきってしまうのである。各々がそれ自らになりきるのだから各々が解脱することである。仏が仏に異げられることである(里の意は、そのことになり切ること、解脱の意である)解脱とは無我になる、凡て他に随うことである。2025/11/17 18:55:1678.カムイ◆4zzhWyZTeatmzO0bZこの解脱の眼というのは、眼の働きから抜け出してしまうから、眼の働きがなくなってしまうので、一つのもの、一つの事も見えなくなってしまうのではないかと考えてはならない。眼の解脱とは、眼の本性が、本性のまま、眼の自己の本性の全体的な純粋な働きをするから、ものごとの真体を明歴々と把むことができる。又見られる方象も、見る眼がその一つ一つの中に投入されているから、万象の悉くが眼である。このことを「一々の法にも眼が入りこんでいる」「あの法の中にも眼が入りこんでいる」というのである。2025/11/17 18:59:0679.カムイ◆4zzhWyZTeatmzO0bZさて、行に色々あるようだが、結局行は一つである。来るのも去るのも同じ門の出入である。このような「行」は自らの行であるのであるが、その自らの行は他に随って転ずるのである。その他なるもの、森羅万象は少しも蔵されていない。あるがままのもの、あるべき相、あるべき働きそのもののことである。この全世界のことである。眼礎としての全世界の眼である。眼は全世界に明々百草頭でその各々が眼として光っている。故に全世界の存在のすべて蔵れているものは一つもない。故に釈尊の密語(真理の語)密証(真の悟、体験)の「空」なるものを固定としているから錯りであり、また、「空」を空とすることは、現実を空とする意味の上に誤りを犯すことになる。2025/11/17 19:03:0380.カムイ◆4zzhWyZTeatmzO0bZ門を出ても、門の中にはいっても草で一ぱい。世界は草で、隙間なし、釈尊の密語、密証、密行、※附、即ち仏道の展開である。出るも草、入るも草、天地草の外に寸土なしでる。しかし門の出入を止めたら、草とは緑はなくなるが、でも現実は草の中にいるから絶縁ではない。草のない処はどこにもない。草を忘れること、草に囚われないこと、草から脱落すれば、天地は無事のところとなる。門を出るとか、出ぬとかの話は不用のこととなる。2025/11/17 19:09:4481.カムイ◆4zzhWyZTeatmzO0bZいま、行として把握(肯定)されるものは放行(否定)を含んだものである。現実に把捉しているものは「夢幻、空華」である。だれも「夢幻」や空華を本物として誤って把えるものはない。吾々の現実の一々の行動はみな夢幻であり、空華である。淡酒息、淡路がである。このことを体験することによって、この「行」の把握は旅行と一加であることを体験しなければならない。2025/11/17 19:11:0182.nanananaydHDF何故この文章で空回りしているのかが分からないのなら、それは分かっていないからなのだとは思いました。2025/11/17 22:31:5083.nanananaydHDF相手に分かるように、とは己れが分かった内のほんの一部を噛み砕いて伝わるようにする事。2025/11/17 22:34:1984.カムイ◆4zzhWyZTeatmJYXrW生を解脱することは、真理に合わせて解脱することである。死を解脱することも真理に合わせて死を解脱することである。このような生死の解脱は、頭から尾まで、真理の働きが現われるのである。それはちょうど盤の上を玉が転び、球が廻るような自由な威である。このような仏の成儀の一部をして「あらしめている」ものは一切世界、天地である。一切の世界といっても既にこれが仏威儀の一部である。時々刻々生死の去来であり、現実世界である。このような現実世界に動きはたらいている仏の一部を一部たらしめているものである。実に行仏の威儀は汚機と考えられている塵も、清浄の蓮華もその仏の威儀の一部行仏の一部なのである。2025/11/17 23:41:0385.カムイ◆4zzhWyZTeatmJYXrW修行者の多くは、一切世界というのはこの人間の住んでいるといわれる婆婆世界の南騰部であると考え、またその世界の十四の洲であると考える。或いはまた、中国一国であると考え、日本一国であると考えているようである。また、一切の大地というのは仏教でいう「三千の大千世界」、全世界と考え、又それはちょうどわずかに、一洲、一県の狭いものと考えているものもある。ここにいう一切大地、一切世界という言葉の真の意はそんなものではない。その意味を実際に能く究めるには、何度も何度も思いめぐらしてただ広いということが「尽」ということだと決めてしまってはならない。「尽」ということは「恐く」の意味の外に「尽くす」という意味がある。ものことに徹す、そのものになり切る、把握することなのである。2025/11/17 23:43:4286.カムイ◆4zzhWyZTeatmJYXrWこの真意を悟ることは、極めて大きなものは小さなものに等しく、極めて小さなものは大きなものに等しいという大小を超越した体験の世界に入って、仏を超え祖師を超えた行の立場を掴んだ行仏成機の現成にある。行仏威儀そのままの境地は、大いなるものでもなく、小さなものでもなく、まことに疑わしいもののようであるが、それこそ超仏越祖の威儀即ち行仏の境地なのである。威儀としての行仏即ち行仏威儀の現成の時である。諸仏諸祖の説く、世界を「尽くす」威儀、大地を「尽くす」威儀ともに、いずれも不曾蔵(かって蔵さず)即ち真理そのものが世界であるということを学ぶべきである。しかもそればかりではなく、あらゆる世界は不曾蔵そのままの相、働きが行仏という無量無辺中のものである。2025/11/17 23:46:0687.カムイ◆4zzhWyZTeatmJYXrW生は生をのみ単伝し、死は死のみを単伝する。即ち生は生の全体の働き、死は死の全体の働きとして単伝する。即ち生死一如の単伝である。心を修めて究め尽くすべきである。2025/11/17 23:49:4088.カムイ◆4zzhWyZTeatmyU9Y0人が仏になるというなら、それならば、成仏するということは何なのか、というと仏が成仏するのである。人は人である。仏は仏なのである。人が人になりきる時、それが、仏が仏になることなのである。2025/11/22 13:16:5989.カムイ◆4zzhWyZTeatmyU9Y0仏から仏に正しく伝えている大道は、断絶を超越し、すべての時をこえた永遠の教えである。このことはただ仏道においてのみ正しく伝えられている。仏道の外の者たちの知ることなく聞くことのない功徳である。2025/11/22 13:19:5390.カムイ◆4zzhWyZTeatmyU9Y0仏の体験の世界は分別や慮知を脱した世界であるから、行仏の成儀をうかがい見ようとするならば、天界や人間界のまなこによっては見ることはできない。天界や人間界の心では窺い知り得ない。仏眼によってのみ見、知ることができるのである。天上人間の分別心や情識をもって測量してはならない。行仏威儀は凡夫の迷いの心を脱した十聖三賢でもこれを知らないのである。理解してはいない。まして、人間界や、天上界における分別測量の及ぶところではない。人間の量(自方)が小さいように、思慮も少いのである。どうしてそのようなものたちが、道を行ずる仏成儀をはかり知ることができようか。2025/11/22 13:23:5791.神も仏も名無しさんTah4iヤナギ2025/12/03 22:53:46
【国際】トランプ「同盟国の多くは友達じゃない」凍りつく…高市総理は台湾有事発言で米に見捨てられたか? 撤回できず、前にも進めず「八方塞がり」ニュース速報+8502217.52025/12/05 20:59:44
【高市自民】ネット大荒れ「はあ?」「子育てに罰金」「高市支持やめる!」 高校生の扶養控除縮小検討の報道に騒然「意味分からん」「ほーら増税始まった」「涙出る」「子育て支援は嘘」 公明離脱で再燃ニュース速報+4918482025/12/05 20:59:22
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
どんなものでもこの「心」(仏心)から外れるものはないっていう
空海さんは『十住心論』で十段階にケダモノのような欲望衝動のありよう異生羝羊心から究極の秘密荘厳心までバラバラで違うようでありながらすべては「心」で等しいものって風になってる
これは付け加えておかないとと
そうしてあの髭曼荼羅を描いたとか
ユニークなお方が、きてるな?
😆
「これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり」
(出典:正法眼蔵(1231‐53)海印三昧)
https://zennooto.com/wp-content/uploads/2021/04/image119.jpg
https://gzo.ai/i/6Qs7x4i.jpg
海印三昧は仏性と同一のものよ、
というか仏教業界は元のネタが一個しかありませんから…。
海印三昧 = 仏性 = >>26風性 (現成公案)
みんな同じで、たった一つの概念を、
いろんな違う言葉で表現してるだけ。
※※
個人的には、海印三昧は、
伊豆の下田で、スキューバダイビング。
ごぼごぼごぼ…、かな。
これらのことについてよく考えてみるがよい。この生死の事実、その観察において、果してその真相はどうなのか、「生死とは何であるのか」、生死は心の外の問題か、内の問題なのか、よく考えてみなければならぬ問題である。
これらの山河大地は有無、大小、得不得、識不識、通不通、悟不悟の対立、差別の相を超越している「心」をそのままに学道するのを仏祖の家風としている。従って仏道の身心学道としているということを、決定信受すべきである。この決定、信受は心自らの働きであるから、大小・有無の相対を超えた絶対的のものの、唯倉受それのみである。今のこの家が真の家、体験の世界でなく概念にすぎないことを知り、家を捨てるこの学道は、相対的な時間、空間を超越せる真理の体験、仏道の実現にある。その故にこの学道の行いは無際限に行われるべきである。
このことは、仏教では「世界は心である」といい「万有は心である」というけれど、それは実際の現実ではない抽象的な概念にすぎない、ここで学道する薔壁や瓦礫が心であるというのは現実であり、体験そのものである。
と依(客観)は「共出」である。両方から手をさし出して握手しているのである。人境一知である。
身は学道の身であり、身は学道と一つである。身と学道と一如せしめたこの身が真実人体となるのである。そして、世界が自己の真実人体となるのである。
L
世界は自己と一体となり、世界も自己の真実人体であることを体験する。
お互いに邪魔し異しない。このような生死は、ともに凡人の知るところではない。生とは棚の木の如く、死とは絶対不動の鉄漢の如く不動そのものである。死それ自体の全体、絶対不動の真理の金験である。柏の木は柏の木の全体、他の何ものにもおかされない体験、真理そのものである。学道の要旨はそこにあるのである。生は一つのものではなく、また死は二つのものでもない。
死が生に対立することはなく、生が死に対立することはない。生は生であり、生のままで死でもある。生死変化の体験は絶対不動の体験である。人生の人生としての体験なのである。
ところが、印度の仏典中には、即心是仏のその話はなく、中国の禅者において、始めてそれが説かれたのである。それを、修行者、学者の多くは誤解して正しく研究せず、又実参実究しないから、彼等の多くは外道になり果てるのである。
ここにいう諸仏とは、釈迦卒尼仏のことであり、釈迦尼仏自らが即ち即心是仏である。過去、現在、未来の諸仏が仏になるということは何れも、必ず釈迦本尼仏となることである。これが即心是仏ということである。
仏に囚われるとは、悟りを、概念的な悟りであると知的に理解して、そのため知的な分別、理解に束縛されることとなる。一瞬一瞬の流動の体験なる時間が経って行くのを反省しないで解脱の時を見逃して徒らに迷っている。悟りをただ概念的に固定的に理解するならば、悟りもまたそのようなものとなってしまう。それは誤った見解であるといわなければならない。
汝もそなえている」という行仏の威儀が現成するのである。一切諸仏の解脱の境地はそのようなものである。即ち一切諸仏は、黒意「自己」と一体のものである。一切のものごとは、体験の自己である。即ちすべての仏が自己であるということは唯だ真実の我を我が知ることである。
草を忘れること、草に囚われないこと、草から脱落すれば、天地は無事のところとなる。門を出るとか、出ぬとかの話は不用のこととなる。
このような生死の解脱は、頭から尾まで、真理の働きが現われるのである。それはちょうど盤の上を玉が転び、球が廻るような自由な威である。このような仏の成儀の一部をして「あらしめている」ものは一切世界、天地である。一切の世界といっても既にこれが仏威儀の一部である。時々刻々生死の去来であり、現実世界である。このような現実世界に動きはたらいている仏の一部を一部たらしめているものである。実に行仏の威儀は汚機と考えられている塵も、清浄の蓮華もその仏の威儀の一部行仏の一部なのである。
行仏威儀そのままの境地は、大いなるものでもなく、小さなものでもなく、まことに疑わしいもののようであるが、それこそ超仏越祖の威儀即ち行仏の境地なのである。威儀としての行仏即ち行仏威儀の現成の時である。諸仏諸祖の説く、世界を「尽くす」威儀、大地を「尽くす」威儀ともに、いずれも不曾蔵(かって蔵さず)即ち真理そのものが世界であるということを学ぶべきである。
しかもそればかりではなく、あらゆる世界は不曾蔵そのままの相、働きが行仏という無量無辺中のものである。