パーリーの今期周回のまとめ最終更新 2025/01/14 16:221.名無しさんJsEVdわたくしパーリーの今世における経験と智慧来世に向けての準備をツラツラと書くスレです備忘録ではありますが質問は受け付けます2024/10/08 18:23:32620コメント欄へ移動すべて|最新の50件571.パ◆GyEhhmlxmzjrB4Bj0まあ初期佛教には、九次第禅定という次第行程が示めされているけどねこれの、初禅定から第二禅定へが一つの難関ではあるが道元禅師のお示しの身心脱落が釈尊が入滅にあたって入禅定された第四禅定であるて~言うことを、誰も指摘しないけどねそうなんですよ、これは2024/12/16 17:44:32572.パ◆GyEhhmlxmzjrB4Bj0比叡山延暦寺では、大乗の修業の、お堂をグルグル回るやつを行ってたように記憶している睡眠は一日4時間、それも坐禅の状態で寝るとか2024/12/16 17:50:45573.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70520.html☝五蘊の四つの変化の色相ってどういう事だか解るかな三乗の智慧(三諦)を覚る事で導きだされる三身即一の仏の智慧なんだけども。それを如実知見と言うんだと、わたしは思っております。2024/12/17 01:31:25574.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7成唯識論で説くところの、四縁によるところの4段階の意識の変化ではないでしょうか。2024/12/17 01:35:33575.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7声聞の意識縁覚の意識菩薩の意識仏の意識2024/12/17 01:37:55576.法介◆T3azX0Hk1UDXCk7声聞の意識(析空)縁覚の意識(体空)菩薩の意識(法空)仏の意識(非空)2024/12/17 01:41:19577.法介◆T3azX0Hk1U0OpYI三転法輪の初転法輪(蔵教=此縁性縁起)で声聞衆は、前五識が成所作智へ識転します。五蘊の四っつの変化の相がこれにあたります。順観の色即是空です。(客観=実在=有門)時間軸の中で起こる客観(客体)の此縁性縁起。2024/12/17 08:49:45578.法介◆T3azX0Hk1U0OpYI以下は、興味がある方はご自分でお考え下さい。2024/12/17 08:51:10579.法介◆T3azX0Hk1U0OpYI色々と忙しい状況なもんで。2024/12/17 08:52:06580.登り棒◆0mnwMe9WsAvyLs7>>579お久しぶり。忙しい時は無理せず。落ち着いたらまたゆっくりと語りましょう2024/12/18 12:53:15581.法介◆T3azX0Hk1UnDqABhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q103082330302024/12/19 02:35:24582.登り棒◆0mnwMe9WsA96h7u>>581こーゆーのはちと参加しにくいなぁ。やはり色々とあったみたいですね。生活がガラッと変わってしまった感じなのかな?今は色々と考える時期なのかもしれません。2024/12/19 19:57:26583.パ◆GyEhhmlxmzjrYWYGA人間じゃなくて仏だとか気付くのが成仏らしいねzen坊主の中では2024/12/19 21:03:35584.登り棒◆0mnwMe9WsA96h7u>>583馬さんの言ってる純無垢の識を体験するとこーなるのかのぅ?確かにそれは変化の影響受けない静寂な状態だから無為みたいな感じだけども、私にゃそれは変化の影響の外にいるような感じで影響受けないだけで、変化の中にいて変化の影響を受けない状態じゃないのよねぇ。それが馬さんの言ってるのと同じかわからんけどもリダンの話をきくに。んでそれ自体が無為だったとしてもそこに留まるのは有為だから変化する。戻っちゃう。だからそれは継続的な解決で、変化の中にいながら変化の影響を受けない、因果の超越が永続的な解決と考えてるからアプローチが違う。そうなると留まる必要さえなくなってロンぽく言うなら元のままで良くなる。まぁ心の在りようはまるで別物だけど。でもその変化の影響を受けない状態は結構大事でそうじゃないと変化をありのままに見ることが難しい2024/12/19 21:29:40585.神も仏も名無しさんKhvIB9世紀唐の時代、保福というわりと洒落がきいたお坊さんがいて、あるとき、保福和尚は若い僧を呼んで「手をだしてみな」といい、その僧が手を突き出すと、その手のひらに土のカタマリをのせて、それを縁側まで持って行って庭に投げてこい、と指示します。僧は言われたとおり、縁側から庭にむかってその土くれを投げて、また保福の元に戻ってきて、「投げました」といいますが、その様子を観察していた保福は、おまえは今、絶好のチャンスをのがしたな…。2024/12/21 14:26:31586.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi>>584その中間に在るのが真如でしょ有為と無為は同参するって有為の裏に無為が無為の表に有為がみたく日常の中で、有為→有為→有為って連続してて意図せずに突如として有為→無為→無為 ってなるそうすると有為と無為が出会う中間地点がふわりと現れるようなね2024/12/21 15:51:56587.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqiサンスクリット原典約(発音+翻訳)https://m.youtube.com/watch?v=-O455rfL1Vk2024/12/21 15:53:02588.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi27-a gate gate paragate para- sangate bodhih svaha.27-b ガテー, ガテー, パーラ ガテー, パーラ サン ガテー, ボーディ スヴァーハー.ーーー27-c(1)行き着いた(と思っても実際は到達できず),(2)(再び)行き着いた(と思っても実際は到達できず),(3)(幾度も同じ試みをした挙句にようやく)彼岸に行き着いた(と思っても長くは留まれず俗世に戻り),(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.ーーー(これがまさに、叡智の超越的境地に至る神髄である.) 悟りよ、幸いあれ!27-d 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶28-a iti prajna- paramita-hrdayam samaptam.28-b イティ プラジュニャー パーラミター フリダヤム サマープタム.28-cここで 叡智の超越的境地が 完結した.28-d (該当する漢訳なし)2024/12/21 16:05:05589.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi(3)(幾度も同じ試みをした挙句にようやく)彼岸に行き着いた(と思っても長くは留まれず俗世に戻り),≪と思っても長くは留まれず俗世に戻り≫ここが第四禅定の処(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.≪彼岸に完全に行き着いた.≫これ‼️ジュニャーナヨーガで言うと(3)はニルビカルパサマディーで(4)がサハジャサマディーです2024/12/21 16:06:02590.パ◆GyEhhmlxmzjrABOqi(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.≫そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついにここ、大事これが、完全に再現性のある第四禅定の処毎日でも同じ禅定の境地へ、意図して入禅定可能である処です一回こっきりで、もう一度、身心脱落に入禅定出来ないはこれはまだ(3)の前の(2)です(4)では、入禅定の必要がなくなっていて、身心脱落へは、移行しようと思うだけで、瞬時にその意識に至ります此岸に彼岸が同時に在る状態だから、そこに断絶が無いわけですね2024/12/21 16:06:33591.パ◆GyEhhmlxmzjrqjOy2◯日没時の詩「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるときそのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」◯真夜中の詩「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるときそのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」◯夜明けの詩「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」『ウダーナ』2024/12/22 18:22:58592.パ◆GyEhhmlxmzjriRHkv本山博先生の入神時坐像https://i.imgur.com/w8kVaV3.jpeg2024/12/26 17:25:08593.パ◆GyEhhmlxmzjr5b0I7「わが作るところにも非ず、また余人のところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも法界常在なり。如来はこの法を自ら自覚し、等正覚を成じ諸の衆生のために分別し演説し、開発顕示するのみなり。」『雑阿含経』2024/12/27 21:50:27594.パ◆GyEhhmlxmzjr5b0I7「無門曰く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以って隨処に主と作り、縁に遇うて宗に即すべし。」どこにあってもそれそのもの(主となる、一法そのものである)何をしても何が起こってもそれそのもの(宗に即す、一心そのもである)2024/12/27 22:06:12595.パ◆GyEhhmlxmzjroMdrJウダーナヴァルガ 第26章「ニルバーナ」21)不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。22)生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、――それは喜ぶに足りない。23)それは出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。24)そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。25)来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――それが苦しみの終滅であると説かれる。26)水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。27)そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。28)さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。29)これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。2024/12/28 19:53:46596.パ◆GyEhhmlxmzjrEQeZDhttps://ameblo.jp/morfo/entry-11122770199.html2024/12/29 18:22:28597.パ◆GyEhhmlxmzjrFEypY白隠慧鶴の公案体系https://morfo1.seesaa.net/article/2020-07-02.html<見性体験>白隠は、「見性」を得る体験について、次のように書いています。「純一無雑、打成一片の真理現前して…真正大疑現前底の時節と申すことに侍り」(遠羅天釜)「私去十分、胸間時々熱悶して、忽然として話頭に和して身心ともに打失す。是嶮崖に撤する底の時節という。豁然として歎息し来れば、水を飲んで冷暖自知する底の大歓喜あらん。これを往生と名づけ、見性という」(遠羅天釜続集)「参禅は疑団の凝結を以て至要とす。…胸中一点の情念なくして、ただ一箇の「無」の字のみあり。…是を大撤妙悟、カ地一下の時節(「カ」はくにがまえに「カ」)という」(遠羅天釜続集)「「無」の字を参究して、大疑現前し、大死一番して大歓喜を得る底は、数限りなく是れあり」(遠羅天釜続集)つまり、公案を胸に抱いて坐禅を続けると、やがて我がなくなり、その解けない公案そのものと一体化します。この状態を白隠は、「打成一片」とか、「疑団(の凝結)」、「大疑現前底の時節」と表現します。そして、ある瞬間に「大歓喜」と共に「見性」が得られます。白隠の場合、寺の鐘が鳴った瞬間に悟りました。つまり、三昧の状態が何らかのきっかけで破れて自覚を持った瞬間に、「見性」を得られるのです。白隠は、「見性」を、「往生」とか、「大撤妙悟」、「カ地一下の時節」と表現します。「カ地一下の時節」というのは、思わず一声を発する機会といった意味です。正受老人は、これを「正念の決定」と呼びます。ですが、ここに留まらずに行う「悟後の修行」を重視し、それを「正念の相続」と表現しました。2024/12/29 20:09:43598.神も仏も名無しさんXOsag白隠はただのハッタリ屋で、わかってないトーシロの人な判定ですが、そもそも公案 = 問題集、というのが致命的なかん違いで、中国禅話はほぼ九割ていどが、模範解答集に過ぎないんだけどね。ただの答えに過ぎない禅話を、問題と思い込んでさらに考えつづける時間の無駄ですな…。2024/12/29 21:37:42599.神も仏も名無しさんT2CJ0自己が公案なんであって、自己の他に問題があるわけではない。。自己とは別に公案という問題があると思っていたら、どんなにやっても無駄、というのはあるね。。2024/12/30 06:44:09600.神も仏も名無しさんT2CJ0自己に参ずる、自己という問題を解決したい、から始まらないと、やっても何にもならないのが公案禅。。自分が公案を解く、ではなくて、自己が公案そのものになる、ことの方が大事。。そうじゃないのに、わかった気になるとか、透ってしまう、というのは本当はおかしい。。公案が解ける=自己が解決する、でなければ、意味がない。。2024/12/30 06:46:38601.神も仏も名無しさんT2CJ0>白隠は、「見性」を、「往生」とか、「大撤妙悟」、「カ地一下の時節」と表現します。「カ地一下の時節」というのは、思わず一声を発する機会といった意味です。>正受老人は、これを「正念の決定」と呼びます。ですが、ここに留まらずに行う「悟後の修行」を重視し、それを「正念の相続」と表現しました。であれば、正念相続とは、悟りを維持する、悟りに安住する、ということであって、無心を維持するとか、ではないよね。。悟りがわからない人は、無心とか無我の状態が悟りだと思い込んでいる。。それは実は違う。。悟りとは、自己が解決したこと、というか、自己及び他者が問題にならないということ、ですね。。だから、無心とか無我である必要はない。。決定的な解決が悟りであるのだから、自己の状態が問題になるはずがないんです。。2024/12/30 06:52:42602.神も仏も名無しさんT2CJ0有心とか有我というのは、心とか自分があると思っている状態のことです。。心が有る、のが有心ではない、心が無い、ということがわからない状態が有心です。。有我とは、自我がある状態ではない、自分があると思い込んでいる状態、勘違いしている状態が、有我なんです。。だから、無我、無心とは、そのような状態があるということではなく、我も心も、無い、ということを明らめてある、脱落してある、ということなんです。。2024/12/30 06:55:47603.神も仏も名無しさんT2CJ0註>>601でいった、無心、無我とは、わかっていない人が勘違いして想定している、無心、無我、の意味で書きました。。>>602は、正しい意味での、無我、無心の説明です。。2024/12/30 06:58:38604.パ◆GyEhhmlxmzjrkfuX3ロンはここに書いてたのかw来年もよろしくな‼️良いお年をお迎えくださいm(_ _)m2024/12/31 21:53:22605.パ◆GyEhhmlxmzjrTxObj619 栖雲居士◆dqam8SqGUPdm sage 2025/01/02(木) 08:14:14.23 ID:jxyEr【今日の一言アドバイス】> これは言語で縁起するわけではなく、さらにその前の段階で、五感のセンサーから入った情報を、脳のデータベースのイメージ情報と照合してはじめて認識になるんよ。> だからそのデータの擦り合わせを止めなあかんわけで、名前を付けるのは、その後のプロセスじゃないんかな。法相宗の考えでは、あらゆる種子は名言種子(等流習気)と云われております。その中でも善や悪に色づけられた種子を「業種子(異熟習気)」というのですが、これらは認識には常に言語が密接している事への考察に由来するようであります。また、名言種子は現象世界の一切を生じる種子であり、業種子は現世には干渉しないで未来を決定する種子とされております。つまり、阿頼耶識中の種子は全て名言種子ということになります。そして名言種子には「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。まぁ、前者は比量や非量に後者は現量に対応するのでありましょう。また、十二支縁起の名色もそこに関わってくるのでありましょう。『成唯識論述記』では、「表義名言種子」を「(心・心所の)外」、「顕境名言種子」を「(心・心所の)内」にあると考えているようです。ところで種子には善・悪・無記の性質があるのに、何故、阿頼耶識は「無記」の性質なのでしょうか?これには、無記の種子は再生力が弱いので、善悪の性質を帯びた業種子の力(増上縁)を得て、来世に阿頼耶識を生ずると考えられております。すなわち「善因楽果・悪因苦果」へ由来するのです。2025/01/02 08:40:25606.パ◆GyEhhmlxmzjrTxObjそして名言種子には「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。【表義名言種子】=≪左脳言葉に依っての対象認識顕境名言種子=言葉に依らない対象認識2025/01/02 08:45:36607.パ◆GyEhhmlxmzjrTxObjそして名言種子には「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。表義名言種子=≪左脳の言語・音声記憶≫ 言葉に依っての対象認識【顕境名言種子】=言葉に依らない対象認識2025/01/02 08:48:22608.パ◆GyEhhmlxmzjrTxObjそして名言種子には「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。◯【表義名言種子】≪ 左脳の言語・音声記憶 ≫言葉に依っての対象認識●【顕境名言種子】≪ 右脳の映像(フォト)記憶 ≫言葉に依らない対象認識2025/01/02 08:51:13609.登り棒◆0mnwMe9WsAXwDcl以前分離脳を題材に話した意図なのだけども、左手でコップを取れ、と指示するとその人は左手でコップを取るが左脳が扱ってない左手なのでそれが分からないため指示通りにコップを取るが、相手に伝えるための言語では分からないと答える。問題なのは言語として理解していないのに相手の言葉の指示に従ってコップをとるということ。つまり、言語を音として聴いて経験からそれに対応した行動が取れているという部分。勿論右脳も言語として理解している可能性は否定出来ないけども。まぁ複雑な指示は無理だと思うけども無意識下でも簡単な言語なら音で理解する。何かあるたびに言語化すると固定化されて五感と言語の混じった認識が行われるので偏った視点になり、固定観念を生む。そうではなくて言語化はせずに全体を把握し、相手に伝えるために最後に言語化する。2025/01/03 14:33:38610.登り棒◆0mnwMe9WsAXwDclつまり日常生活では観察が大事だが、この観察は眺めているだけで言語化するのではなく、見たままの情報を入れるだけなんだよ。観察で湧き上がってくるのが思考だと思ってる人達はまだ言語を挟まずに観察する事が出来ないわけだ。これは瞑想の時だけではない。というよりは瞑想の時も意識がなくなるのではなく、むしろ意識は覚醒していく。つまり絶対無ではない。絶対無は意識がなくなるというより覚醒しつつも何も捉えない状態のが近いと思う。2025/01/03 14:52:23611.パ◆GyEhhmlxmzjrfT8Sv>>780おれが思うにって言うか、体験的に表すなら、分別に自性本心が同参するんだよ 表 分別→分別→分別→以下同文↑↓ + + + + 自在に裏 自性→自性→自性→以下同文つまり、同時ってこと、だから無我であっても、表の我と裏の自性を瞬時に往き来可能の状態にある分別から瞬間的に無分別に移ることが可能ってことだから、日常での注意力が不要な時は無心になるので、真如に自然に入るようにもなるって感じでしょ2025/01/03 15:21:28612.パ◆GyEhhmlxmzjrfT8Sv◯右脳・左脳だけで考えるとちょっと違う人間には下層脳の、辺縁系の脳があって、それらは深層記憶と一時的記憶と感情情動などの、言語による分別以外の働きをしていて右脳はそれらの脳と密接に連携されているですから、分別心、自我心、妄想分別心、本性本心と複数の部分が連携されて、私たちの心は動いているのだと言えます◯そして人間は、この左脳の分別機能と、右脳のイメージ機能と、辺縁系の記憶と情動記憶とが同時に連携されて覚醒されると【存在・意識・至福】の体験が生じる、と2025/01/03 15:33:08613.パ◆GyEhhmlxmzjr72e6h>>789 表 分別→分別→分別→以下同文↑↓ + + + + 自在に裏 自性→自性→自性→以下同文●ここに、付け加えると、その中間点に壁があるそれがマナ識の妄想分別、これがサンカーラの、行の衝動を言語に翻訳して、妄想してくる 表 分別→分別→分別→以下同文 ↓ + + + +マナ識の壁ー◯ーー◯ーーマナ識の壁 + + + + 裏 自性→自性→自性→以下同文このマナ識の壁が無いのが、大悟後のモデルであってマナ識の壁が有るのが、大悟前のモデルこの図式の、◯部分が坐禅・瞑想や何らかの縁起によって、もたらされる【無心】の一時的状態でこの時、マナ識の妄想分別が、一時的に停止、止滅されていて、自性が分別に影響を与えているこの時、【自性+意思】のベクトルが外界に向いていて、環境と自己同一化されていると、世界を観じ、自性に向き直ると【本心】と成る●全ての瞑想・坐禅の修練は最初、この壁の一時的停止を目指し、やがてそれは、壁そのものを、任意の意思によって、任意の時間の間【無化】することが可能になっていくそして、遂には、壁は完全に無化され、永続的に透明な門である【無門】とされるのだと理解する2025/01/03 18:02:55614.法介◆T3azX0Hk1UlGSlRhttps://zawazawa.jp/e82kr5mrk6brk2am/topic/92025/01/08 04:49:37615.パ◆GyEhhmlxmzjrIOuvkwikiark無漏むろ●有漏うろ【煩悩】に対する語。【煩悩】に【全く汚されていない清浄な状態】をいう。うろ 有漏(無漏)●漏は(梵)アースラヴァasrava の訳。【漏泄】の意味で、【煩悩】のこと。【煩悩がある】ことを【有漏】といい、【煩悩が無い】ことを【無漏】という。有漏はまた有染(うぜん)、有染汚(うぜんま)、有諍(うじょう)ともいわれる。染も染汚も諍も煩悩のことである。また誤った見解を生ずる拠り所であるから【見処】ともいう。有部では、【煩悩を随増する】(即ち煩悩と随順し、煩悩を増長する)ものを【有漏法】とし、そうでないものを【無漏法】とする。即ち、四諦の中で【迷いの因と果】とである、【苦集二諦】の諸法は【有漏法】であり、【覚りの果と因】である【滅道二諦】の諸法は【無漏法】である。有漏の肉体を有漏身、有漏の境界(迷いの世界)を有漏路ともいい、【無漏清浄の仏身】を【無漏身】【無漏清浄の境界】(さとりの世界)を【無漏路】という。多くの世俗の法を対象として起こる智慧を有漏智といい、四諦の理を証見する見道以後の聖者の智慧を無漏智という。2025/01/08 21:35:51616.パ◆GyEhhmlxmzjrIOuvk●また【見道】に【至るまで】の【凡夫が起こす善】を【有漏善】といい、◯【見道に入ってから】の【聖者が起こす】【煩悩の汚れのない善】を【無漏善】という。●有漏智によって行う世俗の行為を有漏行、有漏智によって修める六行観を有漏道といい、◯無漏智によって修める四諦の観行をなどを無漏行、無漏道という。●有漏道によって煩悩を断つのを有漏断、◯無漏道によって煩悩を断つのを無漏断という。●有漏道は、人間・天上などの五趣の有漏果を招くから有漏因ともいわれ◯無漏行は涅槃のさとりである無漏果を得るから無漏因といわれる。●凡夫が六行観を修めて住する四禅・四無色定・四無量心定などの禅定を【有漏定】【有漏禅】といい、◯聖者が【無漏智を発得する禅定】を【無漏定】と【無漏禅】という。無漏定は無漏の九地(未至定・中間定・四根本定・下三無色定)において起こされる。●法相宗では【仏果の浄識】を【無漏識】といい、【仏果に至る以前の識】を【有漏識】という。ただし≪第六識・第七識≫は【初地入見道】において【一分転識得智】して【無漏智】となるとし、●≪前五識と第八識≫とは【仏果に至って】はじめて【無漏識】となるとする。【無漏のさとり】を【本来寂然たる面】を≪無漏無為≫といいそれが【作用し起動する面】を≪無漏有為≫とする。(仏教学辞典)インクルード:新纂浄土宗大辞典から2025/01/08 21:36:06617.パ◆GyEhhmlxmzjrIOuvk(30)此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく2025/01/08 21:36:28618.パ◆GyEhhmlxmzjrv18li●心は貧欲によって、膿患によって、愚痴によって常に染せられ汚されている。心が悩むゆえにわれわれは悩み、心が清浄になったときわれわれも清浄になりうる。この『雑阿合経』の教えは、努力次第で心を清浄になし得ることを述べている。●しかし、次のパlリ『増支部経典』は本来「心は【極光浄】」であることを明瞭に説いている。◯比丘衆よ、この【心は極光浄】なり、而して其は、【客の随煩悩に雑染】せられたり。(『南伝大蔵経』第十七・増支部・一四頁)◯比丘衆よ、此の心は【極光浄】なり、而して其は【客の随煩悩より解脱】せり有聞の聖弟子は如実に是を解す、故に有聞の聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。(『南伝大蔵経』第十七・増支部・一五頁)2025/01/09 10:51:15619.パ◆GyEhhmlxmzjrbCvEm無字の公案 和訳【趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」】「禅の実践的探究には、まず禅の祖師方によって設けられた関門を透過せねばならない。絶妙の悟りに至るには普通の心意識情といわれるものを完全に滅してしまわなければならない。もしそのような関門を透った体験もなく、普通の意識を滅した経験もなしに、禅を「ああだこうだ」と評判するとすれば、その人たちはいわば藪や草むらに住み着く幽霊のようなものである。さて言ってみるがよい。この関門とはいったいどんなものであろうか。ほかでもない本則でいわれた趙州の「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称するのである。もし人あってこの関門を透ることができれば、その人は親しく趙州におめにかかることができるばかりでなく、達磨をはじめとする歴代の祖師たちと、手と手をとって歩き、たがいの眉毛が結びあわさって祖師たちの見たその眼ですべてを見ることができるし、同じ耳ですべてを聞くことができる。それこそまことにすばらしく快いことではないか。さあみなのもの、この関門を透過しようではないか。それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、この「無とは何であろう」ということに集中してみるがよい。日夜この問題をとって工夫してみるがよい。しかしながらこの「無」をたんに老荘の説く「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。一度このようにしてこの「無」を問題にしはじめると、ちょうど熱い鉄丸を呑み込んでしまって吐くこともできず、呑み込むこともできないようなもので、このようにして今まで学んできた役に立たない才覚や、まちがった悟り等、それらをすっかり洗い落としてしまうがよい。そのように長く持続して時機が熟すると、自然に「外と内」(意識と対象)との隔たりがとれ、完全に合一の状態に入る。その体験は、ちょうど唖が夢見たことを人に語れぬごとくに、自分自身にははっきりしているが、他人にはどのようにも語れない。ーーー2025/01/14 16:16:22620.パ◆GyEhhmlxmzjrbCvEm無字の公案 和訳【趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」】◯そのように長く持続して時機が熟すると● 自然に【外と内】(意識と対象)との 隔たりがとれ 自然に【外と内】(意識と対象)との 隔たりがとれ 自然に【外と内】(意識と対象)との 隔たりがとれ● 完全に合一の状態に入る!! 完全に合一の状態に入る!! 完全に合一の状態に入る!!◯その体験は、ちょうど唖が夢見たことを人に語れぬごとくに、◯自分自身にははっきりしているが、● 他人にはどのようにも語れない。 他人にはどのようにも語れない。 他人にはどのようにも語れない。2025/01/14 16:22:14
【フジテレビ〝CM差し止めドミノ〟で開局以来、最大危機! 】 現役フジテレビ局員 「とんでもないことになった、1か月足らずで会社を取り巻く環境が激変した、局員の表情は暗く、転職活動を開始した若手もいる」ニュース速報+203943.32025/01/19 04:25:08
今世における経験と智慧
来世に向けての準備を
ツラツラと書くスレです
備忘録ではありますが
質問は受け付けます
初期佛教には、九次第禅定という次第行程が示めされているけどね
これの、初禅定から第二禅定へが一つの難関ではあるが
道元禅師のお示しの身心脱落が
釈尊が入滅にあたって入禅定された第四禅定である
て~言うことを、誰も指摘しないけどね
そうなんですよ、これは
睡眠は一日4時間、それも坐禅の状態で寝るとか
☝五蘊の四つの変化の色相って
どういう事だか解るかな
三乗の智慧(三諦)を覚る事で導きだされる三身即一の仏の智慧なんだけども。
それを如実知見と言うんだと、わたしは思っております。
四縁によるところの
4段階の意識の変化ではないでしょうか。
縁覚の意識
菩薩の意識
仏の意識
縁覚の意識(体空)
菩薩の意識(法空)
仏の意識(非空)
五蘊の四っつの変化の相がこれにあたります。
順観の色即是空です。(客観=実在=有門)
時間軸の中で起こる客観(客体)の此縁性縁起。
お久しぶり。忙しい時は無理せず。
落ち着いたらまたゆっくりと語りましょう
こーゆーのはちと参加しにくいなぁ。
やはり色々とあったみたいですね。生活がガラッと変わってしまった感じなのかな?
今は色々と考える時期なのかもしれません。
zen坊主の中では
馬さんの言ってる純無垢の識を体験するとこーなるのかのぅ?
確かにそれは変化の影響受けない静寂な状態だから無為みたいな感じだけども、私にゃそれは変化の影響の外にいるような感じで影響受けないだけで、変化の中にいて変化の影響を受けない状態じゃないのよねぇ。
それが馬さんの言ってるのと同じかわからんけどもリダンの話をきくに。
んでそれ自体が無為だったとしてもそこに留まるのは有為だから変化する。戻っちゃう。
だからそれは継続的な解決で、変化の中にいながら変化の影響を受けない、因果の超越が永続的な解決と考えてるからアプローチが違う。
そうなると留まる必要さえなくなってロンぽく言うなら元のままで良くなる。まぁ心の在りようはまるで別物だけど。
でもその変化の影響を受けない状態は結構大事でそうじゃないと変化をありのままに見ることが難しい
あるとき、保福和尚は若い僧を呼んで「手をだしてみな」といい、
その僧が手を突き出すと、その手のひらに土のカタマリをのせて、
それを縁側まで持って行って庭に投げてこい、と指示します。
僧は言われたとおり、縁側から庭にむかってその土くれを投げて、
また保福の元に戻ってきて、「投げました」といいますが、
その様子を観察していた保福は、
おまえは今、絶好のチャンスをのがしたな…。
その中間に在るのが真如でしょ
有為と無為は同参するって
有為の裏に無為が
無為の表に有為が
みたく
日常の中で、有為→有為→有為って連続してて
意図せずに突如として
有為→無為→無為 ってなる
そうすると
有為と無為が出会う中間地点がふわりと現れるようなね
https://m.youtube.com/watch?v=-O455rfL1Vk
27-b ガテー, ガテー, パーラ ガテー, パーラ サン ガテー, ボーディ スヴァーハー.
ーーー
27-c
(1)行き着いた(と思っても実際は到達できず),
(2)(再び)行き着いた(と思っても実際は到達できず),
(3)(幾度も同じ試みをした挙句にようやく)彼岸に行き着いた(と思っても長くは留まれず俗世に戻り),
(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.
ーーー
(これがまさに、叡智の超越的境地に至る神髄である.)
悟りよ、幸いあれ!
27-d 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
28-a iti prajna- paramita-hrdayam samaptam.
28-b イティ プラジュニャー パーラミター フリダヤム サマープタム.
28-c
ここで 叡智の超越的境地が 完結した.
28-d (該当する漢訳なし)
≪と思っても長くは留まれず俗世に戻り≫
ここが第四禅定の処
(4)(そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに)彼岸に完全に行き着いた.
≪彼岸に完全に行き着いた.≫
これ‼️
ジュニャーナヨーガで言うと
(3)はニルビカルパサマディーで
(4)がサハジャサマディーです
彼岸に完全に行き着いた.
≫そしてさらに幾度も幾度も同じ試みを重ねることでついに
ここ、大事
これが、完全に再現性のある第四禅定の処
毎日でも同じ禅定の境地へ、意図して入禅定可能である処です
一回こっきりで、もう一度、身心脱落に入禅定出来ないは
これはまだ(3)の前の(2)です
(4)では、入禅定の必要がなくなっていて、身心脱落へは、移行しようと思うだけで、瞬時にその意識に至ります
此岸に彼岸が同時に在る状態だから、そこに断絶が無いわけですね
「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき
そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。
それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
◯真夜中の詩
「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき
そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。
それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
◯夜明けの詩
「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき
彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。
あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」
『ウダーナ』
https://i.imgur.com/w8kVaV3.jpeg
如来の世に出ずるも出てざるも法界常在なり。
如来はこの法を自ら自覚し、等正覚を成じ
諸の衆生のために分別し演説し、開発顕示するのみなり。」
『雑阿含経』
どこにあってもそれそのもの(主となる、一法そのものである)
何をしても何が起こってもそれそのもの(宗に即す、一心そのもである)
21)不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。
22)生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、――それは喜ぶに足りない。
23)それは出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
24)そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
25)来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――それが苦しみの終滅であると説かれる。
26)水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
27)そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
28)さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
29)これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。
https://morfo1.seesaa.net/article/2020-07-02.html
<見性体験>
白隠は、「見性」を得る体験について、次のように書いています。
「純一無雑、打成一片の真理現前して…真正大疑現前底の時節と申すことに侍り」(遠羅天釜)
「私去十分、胸間時々熱悶して、忽然として話頭に和して身心ともに打失す。是嶮崖に撤する底の時節という。豁然として歎息し来れば、水を飲んで冷暖自知する底の大歓喜あらん。これを往生と名づけ、見性という」(遠羅天釜続集)
「参禅は疑団の凝結を以て至要とす。…胸中一点の情念なくして、ただ一箇の「無」の字のみあり。…是を大撤妙悟、カ地一下の時節(「カ」はくにがまえに「カ」)という」(遠羅天釜続集)
「「無」の字を参究して、大疑現前し、大死一番して大歓喜を得る底は、数限りなく是れあり」(遠羅天釜続集)
つまり、公案を胸に抱いて坐禅を続けると、やがて我がなくなり、その解けない公案そのものと一体化します。
この状態を白隠は、「打成一片」とか、「疑団(の凝結)」、「大疑現前底の時節」と表現します。
そして、ある瞬間に「大歓喜」と共に「見性」が得られます。
白隠の場合、寺の鐘が鳴った瞬間に悟りました。
つまり、三昧の状態が何らかのきっかけで破れて自覚を持った瞬間に、「見性」を得られるのです。
白隠は、「見性」を、「往生」とか、「大撤妙悟」、「カ地一下の時節」と表現します。
「カ地一下の時節」というのは、思わず一声を発する機会といった意味です。
正受老人は、これを「正念の決定」と呼びます。
ですが、ここに留まらずに行う「悟後の修行」を重視し、それを「正念の相続」と表現しました。
そもそも公案 = 問題集、というのが致命的なかん違いで、
中国禅話はほぼ九割ていどが、模範解答集に過ぎないんだけどね。
ただの答えに過ぎない禅話を、問題と思い込んでさらに
考えつづける時間の無駄ですな…。
自己とは別に公案という問題があると思っていたら、どんなにやっても無駄、というのはあるね。。
自分が公案を解く、ではなくて、自己が公案そのものになる、ことの方が大事。。
そうじゃないのに、わかった気になるとか、透ってしまう、というのは本当はおかしい。。
公案が解ける=自己が解決する、でなければ、意味がない。。
「カ地一下の時節」というのは、思わず一声を発する機会といった意味です。
>正受老人は、これを「正念の決定」と呼びます。
ですが、ここに留まらずに行う「悟後の修行」を重視し、それを「正念の相続」と表現しました。
であれば、正念相続とは、悟りを維持する、悟りに安住する、ということであって、無心を維持するとか、ではないよね。。
悟りがわからない人は、無心とか無我の状態が悟りだと思い込んでいる。。
それは実は違う。。
悟りとは、自己が解決したこと、というか、自己及び他者が問題にならないということ、ですね。。
だから、無心とか無我である必要はない。。
決定的な解決が悟りであるのだから、自己の状態が問題になるはずがないんです。。
心が有る、のが有心ではない、心が無い、ということがわからない状態が有心です。。
有我とは、自我がある状態ではない、自分があると思い込んでいる状態、勘違いしている状態が、有我なんです。。
だから、無我、無心とは、そのような状態があるということではなく、我も心も、無い、ということを明らめてある、脱落してある、ということなんです。。
>>601でいった、無心、無我とは、わかっていない人が勘違いして想定している、無心、無我、の意味で書きました。。
>>602は、正しい意味での、無我、無心の説明です。。
来年もよろしくな‼️
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m
【今日の一言アドバイス】
> これは言語で縁起するわけではなく、さらにその前の段階で、五感のセンサーから入った情報を、脳のデータベースのイメージ情報と照合してはじめて認識になるんよ。
> だからそのデータの擦り合わせを止めなあかんわけで、名前を付けるのは、その後のプロセスじゃないんかな。
法相宗の考えでは、あらゆる種子は名言種子(等流習気)と云われております。
その中でも善や悪に色づけられた種子を「業種子(異熟習気)」というのですが、これらは認識には常に言語が密接している事への考察に由来するようであります。
また、名言種子は現象世界の一切を生じる種子であり、業種子は現世には干渉しないで未来を決定する種子とされております。
つまり、阿頼耶識中の種子は全て名言種子ということになります。
そして名言種子には「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。
まぁ、前者は比量や非量に後者は現量に対応するのでありましょう。
また、十二支縁起の名色もそこに関わってくるのでありましょう。
『成唯識論述記』では、「表義名言種子」を「(心・心所の)外」、「顕境名言種子」を「(心・心所の)内」にあると考えているようです。
ところで種子には善・悪・無記の性質があるのに、何故、阿頼耶識は「無記」の性質なのでしょうか?
これには、無記の種子は再生力が弱いので、善悪の性質を帯びた業種子の力(増上縁)を得て、来世に阿頼耶識を生ずると考えられております。
すなわち「善因楽果・悪因苦果」へ由来するのです。
「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。
【表義名言種子】=≪左脳
言葉に依っての対象認識
顕境名言種子=言葉に依らない対象認識
「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。
表義名言種子=≪左脳の言語・音声記憶≫
言葉に依っての対象認識
【顕境名言種子】=言葉に依らない対象認識
「表義名言種子」「顕境名言種子」があり、前者は「言葉に依っての対象認識」「言葉に依らない対象認識」に種子だそうです。
◯【表義名言種子】
≪ 左脳の言語・音声記憶 ≫
言葉に依っての対象認識
●【顕境名言種子】
≪ 右脳の映像(フォト)記憶 ≫
言葉に依らない対象認識
問題なのは言語として理解していないのに相手の言葉の指示に従ってコップをとるということ。
つまり、言語を音として聴いて経験からそれに対応した行動が取れているという部分。
勿論右脳も言語として理解している可能性は否定出来ないけども。
まぁ複雑な指示は無理だと思うけども無意識下でも簡単な言語なら音で理解する。
何かあるたびに言語化すると固定化されて五感と言語の混じった認識が行われるので偏った視点になり、固定観念を生む。
そうではなくて言語化はせずに全体を把握し、相手に伝えるために最後に言語化する。
これは瞑想の時だけではない。というよりは瞑想の時も意識がなくなるのではなく、むしろ意識は覚醒していく。つまり絶対無ではない。絶対無は意識がなくなるというより覚醒しつつも何も捉えない状態のが近いと思う。
おれが思うにって言うか、体験的に表すなら、分別に自性本心が同参するんだよ
表 分別→分別→分別→以下同文
↑↓ + + + + 自在に
裏 自性→自性→自性→以下同文
つまり、同時ってこと、だから無我であっても、表の我と裏の自性を瞬時に往き来可能の状態にある
分別から瞬間的に無分別に移ることが可能ってこと
だから、日常での注意力が不要な時は無心になるので、真如に自然に入るようにもなる
って感じでしょ
人間には下層脳の、辺縁系の脳があって、それらは深層記憶と一時的記憶と感情情動などの、言語による分別以外の働きをしていて
右脳はそれらの脳と密接に連携されている
ですから、分別心、自我心、妄想分別心、本性本心と
複数の部分が連携されて、私たちの心は動いているのだと言えます
◯そして
人間は、この左脳の分別機能と、右脳のイメージ機能と、辺縁系の記憶と情動記憶とが
同時に連携されて覚醒されると
【存在・意識・至福】の体験が生じる、と
表 分別→分別→分別→以下同文
↑↓ + + + + 自在に
裏 自性→自性→自性→以下同文
●ここに、付け加えると、その中間点に壁がある
それがマナ識の妄想分別、これがサンカーラの、行の衝動を言語に翻訳して、妄想してくる
表 分別→分別→分別→以下同文
↓ + + + +
マナ識の壁ー◯ーー◯ーーマナ識の壁
+ + + +
裏 自性→自性→自性→以下同文
このマナ識の壁が無いのが、大悟後のモデルであって
マナ識の壁が有るのが、大悟前のモデル
この図式の、◯部分が坐禅・瞑想や何らかの縁起によって、もたらされる【無心】の一時的状態で
この時、マナ識の妄想分別が、一時的に停止、止滅されていて、自性が分別に影響を与えている
この時、【自性+意思】のベクトルが外界に向いていて、環境と自己同一化されていると、世界を観じ、自性に向き直ると【本心】と成る
●全ての瞑想・坐禅の修練は最初、この壁の一時的停止を目指し、やがてそれは、壁そのものを、任意の意思によって、任意の時間の間【無化】することが可能になっていく
そして、遂には、壁は完全に無化され、永続的に透明な門である【無門】とされるのだと理解する
無漏
むろ
●有漏うろ【煩悩】に対する語。
【煩悩】に【全く汚されていない清浄な状態】をいう。
うろ 有漏(無漏)
●漏は(梵)アースラヴァasrava の訳。
【漏泄】の意味で、【煩悩】のこと。
【煩悩がある】ことを【有漏】といい、
【煩悩が無い】ことを【無漏】という。
有漏はまた有染(うぜん)、有染汚(うぜんま)、有諍(うじょう)ともいわれる。
染も染汚も諍も煩悩のことである。
また誤った見解を生ずる拠り所であるから【見処】ともいう。
有部では、【煩悩を随増する】(即ち煩悩と随順し、煩悩を増長する)ものを【有漏法】とし、
そうでないものを【無漏法】とする。
即ち、四諦の中で【迷いの因と果】とである、【苦集二諦】の諸法は【有漏法】であり、
【覚りの果と因】である【滅道二諦】の諸法は【無漏法】である。
有漏の肉体を有漏身、有漏の境界(迷いの世界)を有漏路ともいい、
【無漏清浄の仏身】を【無漏身】
【無漏清浄の境界】(さとりの世界)を
【無漏路】という。
多くの世俗の法を対象として起こる智慧を有漏智といい、四諦の理を証見する見道以後の聖者の智慧を無漏智という。
【凡夫が起こす善】を【有漏善】といい、
◯【見道に入ってから】の【聖者が起こす】【煩悩の汚れのない善】を【無漏善】という。
●有漏智によって行う世俗の行為を有漏行、有漏智によって修める六行観を有漏道といい、
◯無漏智によって修める四諦の観行をなどを無漏行、無漏道という。
●有漏道によって煩悩を断つのを有漏断、
◯無漏道によって煩悩を断つのを無漏断という。
●有漏道は、人間・天上などの五趣の有漏果を招くから有漏因ともいわれ
◯無漏行は涅槃のさとりである無漏果を得るから無漏因といわれる。
●凡夫が六行観を修めて住する四禅・四無色定・四無量心定などの禅定を【有漏定】【有漏禅】といい、
◯聖者が【無漏智を発得する禅定】を【無漏定】と【無漏禅】という。
無漏定は無漏の九地(未至定・中間定・四根本定・下三無色定)において起こされる。
●法相宗では
【仏果の浄識】を【無漏識】といい、
【仏果に至る以前の識】を【有漏識】という。
ただし
≪第六識・第七識≫は【初地入見道】において【一分転識得智】して【無漏智】となるとし、
●≪前五識と第八識≫とは【仏果に至って】はじめて【無漏識】となるとする。
【無漏のさとり】を【本来寂然たる面】を≪無漏無為≫といい
それが【作用し起動する面】を
≪無漏有為≫とする。
(仏教学辞典)
インクルード:新纂浄土宗大辞典から
此は即ち無漏界なり 不思議なり善なり常なり
安楽なり解脱身なり 大牟尼なるを法と名づく
心が悩むゆえにわれわれは悩み、心が清浄になったときわれわれも清浄になりうる。
この『雑阿合経』の教えは、努力次第で心を清浄になし得ることを述べている。
●しかし、次のパlリ『増支部経典』は本来「心は【極光浄】」であることを明瞭に説いている。
◯比丘衆よ、この【心は極光浄】なり、而して其は、【客の随煩悩に雑染】せられたり。
(『南伝大蔵経』第十七・増支部・一四頁)
◯比丘衆よ、此の心は【極光浄】なり、而して其は【客の随煩悩より解脱】せり
有聞の聖弟子は如実に是を解す、故に有聞の聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。
聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。
聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。
聖弟子は【心を修す】と我は言ふ。
(『南伝大蔵経』第十七・増支部・一五頁)
【趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」】
「禅の実践的探究には、まず禅の祖師方によって設けられた関門を透過せねばならない。
絶妙の悟りに至るには普通の心意識情といわれるものを完全に滅してしまわなければならない。
もしそのような関門を透った体験もなく、普通の意識を滅した経験もなしに、禅を「ああだこうだ」と評判するとすれば、その人たちはいわば藪や草むらに住み着く幽霊のようなものである。
さて言ってみるがよい。この関門とはいったいどんなものであろうか。
ほかでもない本則でいわれた趙州の「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称するのである。
もし人あってこの関門を透ることができれば、その人は親しく趙州におめにかかることができるばかりでなく、達磨をはじめとする歴代の祖師たちと、手と手をとって歩き、たがいの眉毛が結びあわさって祖師たちの見たその眼ですべてを見ることができるし、同じ耳ですべてを聞くことができる。
それこそまことにすばらしく快いことではないか。
さあみなのもの、この関門を透過しようではないか。
それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、この「無とは何であろう」ということに集中してみるがよい。
日夜この問題をとって工夫してみるがよい。
しかしながらこの「無」をたんに老荘の説く「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。
一度このようにしてこの「無」を問題にしはじめると、ちょうど熱い鉄丸を呑み込んでしまって吐くこともできず、呑み込むこともできないようなもので、このようにして今まで学んできた役に立たない才覚や、まちがった悟り等、それらをすっかり洗い落としてしまうがよい。
そのように長く持続して時機が熟すると、自然に「外と内」(意識と対象)との隔たりがとれ、完全に合一の状態に入る。
その体験は、ちょうど唖が夢見たことを人に語れぬごとくに、自分自身にははっきりしているが、他人にはどのようにも語れない。
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【趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」】
◯そのように長く持続して時機が熟すると
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自然に【外と内】(意識と対象)との
隔たりがとれ
自然に【外と内】(意識と対象)との
隔たりがとれ
自然に【外と内】(意識と対象)との
隔たりがとれ
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完全に合一の状態に入る!!
完全に合一の状態に入る!!
完全に合一の状態に入る!!
◯その体験は、ちょうど唖が夢見たことを人に語れぬごとくに、
◯自分自身にははっきりしているが、
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他人にはどのようにも語れない。
他人にはどのようにも語れない。
他人にはどのようにも語れない。