ワッチョイテストスレslipアーカイブ最終更新 2025/01/03 17:471.鹿野園#Buddhist-Rinzai50-r8j-VB-tJQugowJワッチョイのテスト2024/08/22 21:37:315すべて|最新の50件2.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-r8j-VB-tJQugowJテスト2024/08/22 21:37:523.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-r8j-VB-tJQugowJあちらは、ワッチョイ出来ないけど、こっちは出来るんだ。こりゃ便利だわ。2024/08/22 21:58:484.栖雲居士◆dqam8SqGUPdm50-niJ-YX-tJQu7b4b択滅無為真加を見ることが目的であるが、ではどのようにすれば真如を見ることができるのか。それは、心のなかにあるさまざまな汚れすなわち雑染(煩悩)を無漏の智慧の働きである簡択の力によって滅し、煩悩からの束縛をまったく離れたときに真如を見ることができる。このように真如は簡択の力によって順悩が滅することを通して得られるから、その意味で真如を択滅無為という。したがって択滅とは詳しくは「択力によって得られた滅」(択力所得滅)といわれる。雑染とは本文でも釈されているように順悩のことであるが、また総じていえばあらゆる有漏法をさす。真理をおおう汚れである漏を有する存在が自己存在である。ところで、汚れを洗い去るには清らかな水が必要であるように心のなかの有漏の汚れを取り除くためには清らかな無漏の智慧でもって有漏なるものを滅してゆかねばならない。その無漏の智慧のことを別名、簡択(pratisariktya)とよぶ。簡択とは簡び択るという意味で、何が功徳となり、何が損失となるかを正しく決定的に観察する智慧の力をいう。<究竟シテ証会スル>の証会とは本文で<証会ト云ハヨク明ニシルナリ>と注釈するように、塵一つない明浄な心で真如そのものを徹底的に最終的に明らかに知ること、見ることである。真如は心の本性である。それをおおうやヴェールをどの程度とり除くかによって真如の現われ方にも差違がある。心のなかからありとあらゆるヴェールを除去するとき、真如の満月はその全貌を心のなかに現わす。そのヴェールのおおいを解くのが無漏の簡択力である。また智慧の簡択力によって(真如を得る)ということがないにしても、真如そのものはもとより清浄である。あるいは、(現象的存在である有為法が生ずる)縁が欠けるとき、おのずから不生の真理(すなわち真如)が現われる。これら(一つはもとより清浄なる真如ともう一つは縁が欠けるところに現われる真如との二つを)非択滅無為と名づける。縁が欠けるとは、(有為法という)物を生ずる縁が欠けて、おのずから生じてこないことをいう。2024/12/29 13:03:205.神も仏も名無しさんws-0t9-Xq-XJB5tjoQセンシティブな内容が含まれている可能性のあるコメントです。表示するには、ログイン後に設定から変更してください。2025/01/03 17:47:29
小林よしのり「反日・反天皇の統一教会に洗脳された自民党などクソくらえ!戦争主義の高市内閣は支持できない。男系男子にこだわるカルト内閣の支持者は売国奴。中道改革連合を支持した方がいいに決まっている」ニュース速報+190953.42026/01/17 00:11:00
こりゃ便利だわ。
真加を見ることが目的であるが、ではどのようにすれば真如を見ることができるのか。
それは、心のなかにあるさまざまな汚れすなわち雑染(煩悩)を無漏の智慧の働きである簡択の力によって滅し、煩悩からの束縛をまったく離れたときに真如を見ることができる。
このように真如は簡択の力によって順悩が滅することを通して得られるから、その意味で真如を択滅無為という。
したがって択滅とは詳しくは「択力によって得られた滅」(択力所得滅)といわれる。
雑染とは本文でも釈されているように順悩のことであるが、また総じていえばあらゆる有漏法をさす。
真理をおおう汚れである漏を有する存在が自己存在である。
ところで、汚れを洗い去るには清らかな水が必要であるように心のなかの有漏の汚れを取り除くためには清らかな無漏の智慧でもって有漏なるものを滅してゆかねばならない。
その無漏の智慧のことを別名、簡択(pratisariktya)とよぶ。
簡択とは簡び択るという意味で、何が功徳となり、何が損失となるかを正しく決定的に観察する智慧の力をいう。<究竟シテ証会スル>の証会とは本文で<証会ト云ハヨク明ニシルナリ>と注釈するように、塵一つない明浄な心で真如そのものを徹底的に最終的に明らかに知ること、見ることである。
真如は心の本性である。
それをおおうやヴェールをどの程度とり除くかによって真如の現われ方にも差違がある。
心のなかからありとあらゆるヴェールを除去するとき、真如の満月はその全貌を心のなかに現わす。
そのヴェールのおおいを解くのが無漏の簡択力である。
また智慧の簡択力によって(真如を得る)ということがないにしても、真如そのものはもとより清浄である。
あるいは、(現象的存在である有為法が生ずる)縁が欠けるとき、おのずから不生の真理(すなわち真如)が現われる。
これら(一つはもとより清浄なる真如ともう一つは縁が欠けるところに現われる真如との二つを)非択滅無為と名づける。
縁が欠けるとは、(有為法という)物を生ずる縁が欠けて、おのずから生じてこないことをいう。
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