① 真如を作意することが、真如を観ることにならないこともある。 すなわち、分別に包摂される作意によって真知を作意する場合、通達しない限り、真如の相のみを観ることになり、真如そのものを観ることにならない。 また通達したとしても、その通達の後に、言葉によって設定された真如を作意するのである。 ② 真如を観るようになったとき、真如を作意しないこともある。 すなわち、真如に通達するとき、勝義として、相がないことを作意する(=相を作意しない)。 ③ 真如を観ながら、同じ真如を作意することもある。 通達後、言葉によって設定されたのではない真如を継続的に作意するのである。 ④ 真知を観ず、真如を作意しないこともある。 すなわち、道理に適合しない作意によって、相を作意する。
1.sage進行でお願いします。
2.荒らしは完全スルーで。
3.体験談や雑談はお断り。
4.質問等には基本的に応じません。
5.コテハン・トリ付き必須。
6.発言には何故そうなのか根拠の明示を。
7.その他、スレ主の指示にはご協力を。
*仏教辞典(出版社不問)等は必携です。
(増支部経典 アングラッタ・ニカーヤ164.7−9)
「隻手」
両掌相拍って声あり、隻手になんの声かある。
「無字」
趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に環って仏性有りや也た無しや」州云く、「無」。
https://youtu.be/VYyPDwT1c2c
04:20〜07:20
「無字」
同上
https://youtu.be/smVrUhVaQa4?si=Zfg4V0nYPNI9M4I6
26:24〜31:15
「大力量人」
松源和尚云く、「大力量の人、甚に因ってか脚を抬げ起こさざる」。
又云く、「口を開くこと舌頭上に在らざる」。
「無字」
同上
「隻手雑則」
隻手の音声を表で聞いたか、裏で聞いたか。
全ての事物(vastu)は言語表現し得ない(『瑜伽師地論「真実義品」』)。
事物を捉える心のはたらき〜「分別(vikalpa)」
4つに分類できる真実(tattva)
世間極成真実(世間で承認された真実)
道理極成真実(通りによって承認された真実)
煩悩障浄智所行真実(煩悩という障害からの浄化のための知の活動領域としての真実)
所知障浄智所行真実(認識対象に対する障害からの浄化のための知の活動領域としての真実)
有 〜 言語表象(prajn̄apti)の語を自性として定立されたもの。
増益(有) 〜 存在しないもの(言語表現によって成り立つ存在)を実在として誤認している状態
損減(無) 〜 実在(言語表現し得ない本質を持ちながら、言語表現の基体となっている事物)を非存在として否定すること。
訂正
有 〜 言語表象(prajñapti)の語を自性として定立されたもの。
自性分別
差別分別(価値判断的、属性の付加)
総執分別(部分の集まりを一つのものとして捉える分別)
我分別(私は〜である)
我所分別(私には〜がある)
愛分別(好ましい)
非愛分別(好ましくない)
彼倶相違分別(好きでも嫌いでもない)
色等の名称を持つ事物
有見身、我慢
三毒(貪・瞋・癡)
その分別は四種の如実知(ありのままの理解)を欠いているために起こる。
さらにまたこの誤った分別から汚れが起こり、汚れから輪廻の流転が起こり、輪廻の流転から輪廻に随伴する生老病死などの苦が起こる。
②事物に関わる考察 (事尋思)
③本質の言語表象に関わる考察(自性仮立尋思)
④属性の言語表象に関わる考察(差別仮立尋思)
①名称に関わる考察に基づく如実知(名尋思所引如実知)
②事物に関わる考察 に基づく如実知(事尋思所引如実知)
③本質の言語表象に関わる考察に基づく如実知(自性仮立尋思所引如実知)
④属性の言語表象に関わる考察に基づく如実知(差別仮立尋思所引如実知)
名(nāman) 〜 日常的言語の活動領域
分別(vikalpa) 〜 相を活動領域
真如(tathatā) 〜 正知の活動領域
正智(samyagjñāna) 〜 真如を活動領域
相(nimitta) ←世俗帯 ・ 勝義諦→ 真如(tathatā)
観=直観
②真如を観るようになったとき、真如を作意しないこともある。すなわち、真如に通達するとき、勝義として、相がないことを作意する(=相を作意しな
い)。
③真如を観ながら、同じ真如を作意することもある。通達後、言葉によって設定されたのではない真如を継続的に作意するのである。
④真知を観ず、真如を作意しないこともある。すなわち、道理に適合しない作意によって、相を作意する。
真如を作意することが、真如を観ることにならないこともある。
すなわち、分別に包摂される作意によって真知を作意する場合、通達しない限り、真如の相のみを観ることになり、真如そのものを観ることにならない。
また通達したとしても、その通達の後に、言葉によって設定された真如を作意するのである。
②
真如を観るようになったとき、真如を作意しないこともある。
すなわち、真如に通達するとき、勝義として、相がないことを作意する(=相を作意しない)。
③
真如を観ながら、同じ真如を作意することもある。
通達後、言葉によって設定されたのではない真如を継続的に作意するのである。
④
真知を観ず、真如を作意しないこともある。
すなわち、道理に適合しない作意によって、相を作意する。
④ →(通達=見性)→ 質的変化①→②→③
観
②相を知覚しても、真如を知覚したことにはならない
③真如を知覚することによって清浄になるが、相を知覚しても清浄とはならない。
①先行する分別によって生じた相
②相によって生じ、周知のものとして成立した相
②影像相
①遍計所執のもの(parikalpita)は、勝解によって現れたものなのだが、本性として存在するものではない
先にみたように修道論の立場では、真如を作意するとき、初めは概念としての真如である「真如の相」を作意し、次第に真如そのものの直観へ向かって行く。
真如の相を作意している段階では、結局は相を対象としているので、作意は分別を伴っている。
修行者が真如に「通達」する段階に達したとき、真如の相ではなく、真如そのものを見ているので、もはや分別ははたらかない。
しかし、分別がはたらかなくなるなら、分別を原因としている本性相は生じなくなるはずである。
本性相は世間の人々に共通して認知されている対象だが、修行者が真知に通達したとき、世間の人々と共有されている本性相も消えてなくなってしまうのであろうか。
言い換えると、一人の修行者の内的体験である真如への通達は、修行をしていない世間一般の人々が経験している世界も消失させてしまうのであろうか。
「摂決択分」はこの問題について、次のように答えている。
さもないと、他者の分別は無意味になるであろう。
それ(他者の分別によって把捉される事物)が滅しないとしても、清浄を本質とする見は清浄になると認められるべきである。
それは例えば、多くのヨーガ行者たちが、一つの事物に集中した智恵により、多様に勝解するとき、多様な見が得られるということと同様である。
🤢
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運営も今更復帰する訳ないし。
自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗(ふちゅうとう)戒となす。
自性霊妙、無着(むじゃく)の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲(ふいんよく)戒となす。
自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語(ふもうご)戒となす。
自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒(ふおんじゅ)戒となす。
自性霊妙、無過患(むかかん)の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)戒となす。
自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他(ふじさんきた)戒となす。
自性霊妙、真如遍法界(しんにょへんほっかい)に於いて、一相の慳執(けんしつ)を生ぜざるを名づけて不慳貪(ふけんどん)戒となす。
自性霊妙、無我の法中(ほっちゅう)に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝(ふしんしんふじゅざんしゃ)戒となす。
自性霊妙、一切法中に於いて、生仏(しょうぶつ。衆生と仏)の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝(ふぼうさんぼう)戒となす。
(達磨大師相承一心戒文)
「一切の業障海は 皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え。衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」
という言葉があります。
主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。
直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである。
見る主観もなければ見らるる客観もない。
あたかも我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。
これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考えは、我々がこの実在の真景を離れて反省し、思惟するによって起こってくるので、この時我々はすでに真実在を離れているのである。
(西田幾多郎)
先ず意識の野というのをそれと考えることができる。
何物かを意識するには、意識の野に映さなければならぬ。
而して映された意識現象と映す意識の野とは区別せられなければならぬ。
意識現象の連続其者の外に、意識の野という如きものはないともいい得るであろう。
しかし時々刻々に移り行く意識現象に対して、移らざる意識の野というものがなければならぬ。
これによって意識現象が互に相関係し相連結するのである。
あるいはそれを我という一つの点の如きものとも考 え得るであろう。
しかし我々が意識の内外というものを区別する時、私の意識現象は私の意識の範囲内にあるも のでなければならぬ。
かかる意味においての私は、私の意識現象を内に包むものでなければならぬ。右の如く意識の立場から出立して我々は意識の野というものを認めることができる。
それは上に云った如き「永遠の今」の自己限定といふ如きものでなければならない。
併し私の永遠の今の限定といふのは唯、現在が現在自身を限定することを意味するのである。移り行く時と永遠とは現在に於て相触れて居るのである、否、現在が現在自身を限定するといふこ の現在を離れて、永遠といふものがあるのではない、現在が現在自身を限定すると考へられる所に真の永遠の意味があるのである。
併し無が無自身を限定する所に、現在が現在自身を限定する真の永遠の今の限定の意味があるのである。
現在の底は絶対の無でなければならぬ、 現在の底に現在を限定する何物かがあるならば、現在が現在自身を限定するといふ意味はなくなる、従つて真の 現在といふものがなくなると共に真の時といふものがなくならねばならない、真の時と考へられるものは絶対に無なるものの自己限定でなければならない。
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今も変わらぬ 阿呆去来 だろwww
(大乗起信論を読む 竹村牧男 P73 )
>(悟ったといっても、それは一時的なはたらきにすぎない。)
>(正法眼蔵 大悟 より)
>この「一時的なはたらき」であることの気づきが、先の、自分という枠組みが消え去った「脱落」という状態において認識されることが、「身心脱落」だったということができるであろう。
>(構築された仏教思想 道元 仏であるがゆえに坐す 石井 清純 より)
一方、空性という見解をもつ人々については、成就不能の人々と呼んだのである。
(『中論頌』一三・八)
「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。
空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。
もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。
そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができずに、一切世界からはじき出されることになるのである。
したがって、仏教においては、「空」を持ちだして、反対する人々と争うことはない。ここは重要である。
「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。
空は、けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。
>(正法眼蔵 仏教)
私は「悟り」とか「目ざめ」(bodha)という言葉に、極めて非宗教的なひびきを感じる。
「悟りなどない」と言ったのが道元禅師ではなかったか。
もしも「悟り」があるとすれば、その対象として「理法」は必ず存在する。
そして「理法」が存在するならば、すでに「個物」はその存在が認められており、「個物」は絶対化されるに至る。
これを「実在論」と呼ばずして、何と呼べばよいのだろう。
私は仏教が宗教であることを信じて疑わない。しかもなお、原始仏典といわれるものに、「悟り」と訳されうるような様々の言葉が頻出するのを好ましくは思っていない。仏教がいつまでも「悟り」の宗教とみなされるなら、それは仏教に寄生してしまった非宗教性、つまり仏教が荷わされている業なのだ。
(松本史朗)
少し前には、そのリアリティと人間との本来相を、道元の「生死すなわち仏の御いのち」とこころ得るといふところに認め、それを「如来」のこころのリアリゼーション(現成即会得げんじょうそくえとく)と解し、そしてそのことによって自己があくまで自己自身に「なる」といふことが、無我からの性起としての自己の「自然」であると語った。
併し、同じことは、例へば絶対他力の法門に依る清沢満之の有名な言葉、「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、此の眼前の境遇に落在せるもの、即ち是れなり」にも現れてゐる。
そしてその言葉は、更に遡れば、親鸞の「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしきとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」とか、「念仏は無碍の一道なり」とかいふやうな言葉にもつながるであらう。(同前、288頁)
そのことは、空が単に有のそとに、有とは別なるものとして立てられるのではなく、むしろ有と一つに、有と自己同一をなすものとして、自覚されるといふ意味である。
有即無とか、色即是空とかいはれるとき、先ず一方に有なるもの、他方に無なるものを考へて、それを結びつけたといふことではない。有即無といふことは、むしろ「即」に立って、「即」から有をも有として、無をも無として見るといふことである。
勿論、我々は通常、有を単に有だけと見る立場、有に囚とらはれた立場に立っている。
従ってその立場が破れ否定されれば、そこに虚無が現れてくる。
そしてその虚無の立場は再び、無を単に無だけとして見る立場であり、無に囚はれた立場である。
即ち、更に否定さるべき立場である。
そしてさういふ二重の囚はれを脱した全き無執着の立場として、「空」が現れてくるのである。
(『西谷啓治著作集』第10巻、創文社)
構成要素のみが生起し続ける。これが真理であり、正見である」
(清浄道論 Visuddhi Magga)
ところが空思想では、この属性もなくなってしまう。属性もなくなって、空だというわけです。じゃあ、虚無になるかというと、そうではなくて、蘇るんです。
ただし、ことばによって、すなわち名づけられるものとして蘇るだけで、実在として蘇るわけではないんです。ことばの世界としてあるというだけなんです。アメリカに行って、わたしはこの実在論の方の哲学を研究したんです。前に勉強した「中論」はいわばこの対極にあったわけです。こうして対極にあるものをみながら、インドの哲学を実体と属性という観点からみようと考えたんです。
(立川武蔵氏へのインタビュー記事)
そのために設定されたのが第二理法界の世界である。
理とは事に対することばであり、理体とか理性といわれるものである。
この理体を現象界に対しての本体界のように理解することは、仏教を正しく認識したものとはいえない。
すでに述べたように、それはどこまでも現実界に対する理想界の根拠としての理体であって、そういうものが真実に存在しているのではない。
理体を実在化しようとする思惟の傾向が中国の仏教においてはたしかに存在し、そのような思惟傾向にもとづいて仏教を理解しようとしたところに、仏教の中国的変容が認められるのであるが、本来の仏教を理解するのには、この点を十分に注意しなくてはならない。
鎌田 華厳
汝等諸人此の山中に来つて道の為に頭を聚む
衣食の為にする事なかれ
肩有つて着ずと云ふ事なく
口有つて食はずと云ふこと無し
只須らく十二時中無理會の處に向つて
究め来り究め去るべし
光陰箭の如し謹んで雑用心すること莫れ
看取せよ看取せよ
老僧行脚の後或は寺門繁興佛閣経巻
金銀を鏤め多衆閙熱
或は誦経諷呪 長座不臥 一食卯斎 六時行道
直饒 恁麼にし去ると雖も
佛祖不傳の妙道を以て
胸間に掛在せずんば忽ち因果を撥無し
眞風地に墜つ、皆是れ邪魔の種族なり
老僧 世を去る事久しくとも
兒孫と称する事を許さじ
或は一人有り野外に綿絶し一把茅底
折脚鐺内に 野菜根を煮て喫して日を過すとも
専一に己事を究明する底は
老僧と日々相見 報恩底の人なり
誰か敢て軽忽せんや
勉旃勉旃
(井筒 俊彦 意識と本質-精神的東洋を索めてより)
そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。
(井筒俊彦 意識と本質-精神的東洋を索めて)
その空は相対的な仮説である。
これが実に中道である。
(龍樹 「中論」)
空であると説くべきではない。
空ではないとも同様である。
その両者であるとも、その両者でもないとも( 説くべきではない。
それは仮の名称のために説かれる。
(龍樹 「中論」)
諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」)
(中略)その二分に依って我 ・法を施設す 。
(成唯識論)
私たちの認識はまず 、 「阿頼耶識が種子として保持する過去 」というフィルタ ーを通して行なわれるといえるでしょう 。
(多川峻映 唯識とはなにか)
触 (心を認識対象に接触させる )
作意 (心を起動させる )
受 (認識対象を 、苦または楽 、あるいは 、そのどちらでもないと受けとめる )
想 (受けとめたものを自己の枠組みにあてはめる )
思 (認識対象に具体的にはたらきかける )
自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗戒となす。
自性霊妙、無着の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲戒となす。
自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語戒となす。
自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒戒となす。
自性霊妙、無過患の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪戒となす。
自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他戒となす。
自性霊妙、真如遍法界に於いて、一相の慳執を生ぜざるを名づけて不慳貪戒となす。
自性霊妙、無我の法中に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝戒となす。
自性霊妙、一切法中に於いて、生仏の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝戒となす。
「何者か是れ禅師の定恵等学?」
和上曰く
「其の定と言うは体の不可得なるなり。其の恵と言うは能く不可得なる体の湛然常寂にして、恒沙の用有るを見るなり、故に定恵等学と言う」
「ただ無念をさえ得れば即ち是れ解なり」
「不作意即ち是れ無念」
(神会語録)
心本(も)と無相。
言うと所の相とは、並(すべ)て是れ妄心なり。
何者(いかなるもの)か是れ妄心?
所(すべ)て意をして作(な)して心を住め、空を取り浄を取るより、
乃至(ひい)ては心を起こして菩提涅槃を証せんと求むるまで、
並(すべ)て虚妄に属す。
担(た)だ意を作すことさえ莫(な)ければ、心には自(おの)ずから物無し、即ち物心なし。
かく自性は空寂にして、空寂の体上に、自(もとよ)り本智あり、知を謂いて以って照用と為す。
(神会語録)
それなのに、妄りに智者・愚人の相を見る、これを愚人と言うのだ。
それ故、智者・愚人の相を見ないのを、真実の智者というのだ。
世間一般の愚かな人と違って、才智弁説があるのを智者と言うのは、世俗の沙汰である。
この故に、本来具えているはずの大智を会得した人は、「おれは智者だ」と慢心を起こさない。
そのわけは、本来の大智に行き当たってしまえば、智とか愚とかの差別の相を見ないからだ。
おれは智者だと思っていても、智者のふりをしないというのではない。
(夢中問答集)
教と禅と、煩悩の苦を断つ法の説き方は、誰のために用うべきものなのか。
けれども、迷いの病苦がたちまちに発って、種々身もだえする苦痛が生ずる。
仏がこれを憐れんで大医王として、種々の性質・楽欲に随って、さまざまの教えを説かれた。
仏法の教えは種々の差別があるけれども、その趣旨をつきつめれば、それはただ衆生の迷・悟、凡・聖を分別する病苦をなおして、本来具わった安穏の悟りの境地に到達させんがためである。
種々の迷妄を断つ教法のあり方を衆生に教えようというためではない。
誰でも、迷いの妄想という病苦がとりのけられてしまえば、生死の変化が輪廻するのも見ず、凡聖迷悟の差別もなくなる。これこそ、因縁の働きを断ち、煩悩の苦を脱れた人といってよい。
これを大悟の人と名づける。
(夢中問答集)
二つには観察相義禅、これは小乗および三賢位の菩薩が、教えの義理を観察し思惟する分際である。
三つには攀縁如実禅、これは地上の菩薩が、非有・非空の実相が中道であるとの真理に安住して、身・口・意の動作をかりない妙行である。
四つには、如来清浄禅、これは如来の境地に入って、みずから覚った聖智が現われた相である。
(夢中問答集)
智門云く、『蚌、明月を含む』
僧云く、『如何なるか是れ般若の用』
智門云く、『兎子懐胎す』
一片の虚凝、謂情を絶す
人天これより空生を見る
蚌玄兎を含む深々の意
曽て禅家に与えて戦争せしむ
答う、何人(主体)なるものが有るなら、道を修しなければなりません。
しかし、もし何人なるものが無ければ、もう道を修するに及ばぬのです。
何人というのは、つまり我のことです。
もし我がなければ、あらゆる物に逢うて是非を生ずることはありません。
是を是とするのは、我が自分でそれを是とするのであって、物そのものは是でないし、非を非とするのは、我が自分でそれを非とするのであって、物そのものは非ではないのです云々
(二入四行論)
それは、微細な妄念の動きを遠離しているのであり、そうした心の内面を見とどけることができてこそ、心はつねに安住するのであり、これを絶対の目ざめと名づける
(大乗起信論)
謂わく言説の極、言に因りて言を遣るなり。
此の真如の体は遣るべき有ること無し、一切の法は悉く皆な真なるを以っての故に。
亦た立つべき無し、一切の法はみな同じく如なるを以ってが故に。
当に知るべし。一切の法は説くべからず念ずべからざるが故に名づけて真如となす。
(大乗起信論)
答えて曰く、若し一切の法は説くとは雖も能説と可説と有ること無く、念ずと雖も亦た能念と可念と無を知る、是を随順と名づく。
若し念を離るるを名づけて得入となす。
(大乗起信論)
随順・・・知的に深く了解する事。
得入・・・実際に悟りをひらくこと。
(龍樹 「中論」)
実に(主観・客観の)二つのものが無であることと、(その)無が有であることとが空(性)の相である。
有ということでもなく、また無ということでもない。
別である、あるいは同一である、という相ではない。
(世親 中辺分別論)
けだし隻手の声とはいかなることぞとならば、即今両手打ち合わせて打つ時は丁々として声あり、唯だ隻手を挙ぐる時は音もなく香もなし。
これ耳を以て聞くべきにあらず、思慮分別を交えず、見聞覚知を離れて単々に行住坐臥の上において透間もなく参究して行き侍れば、
理尽き詞極まる処において忽然として生死の業根を抜翻し、無明の窟宅を劈破し、鳳、金網を離れ、鶴、籠を抛つ底の安堵を得。
この時に当たりて何時しか心意識情の根盤を撃砕し、流転常没の幻境を撥転し、三身四智の宝聚を運び出し、六通三明の神境を超越す。
1.虚空無為 ~ 法性の無為、真如無為、識変の無為・・・心の中に相分として描き出されたものに過ぎない。
2.択滅無為 ~ 無漏の智慧のはたらき(簡択)により煩悩が滅されたところ
3.非択滅無為 ~ 本来清浄の真如、縁闕(欠)所顕の真如
4.不動無為 ~ 不苦不楽の受(三受~苦受・楽受・不苦不楽受)、動揺しない心の心を「不動」とし、第四禅定にては不苦不楽の受のみが残る。
5.相受滅無為 ~ 滅尽定にて現れる真如。
真如 ~ 無垢真如・有垢真如、依言真如・離言真如
見道の無漏種子 ~ 妙観察智・平等性智
修道の無漏種子 ~ 妙観察智・平等性智
佛位の無漏種子 ~ 四智全て(+成所作智、大円鏡智)
見道において妙観察智・平等性智の二智が起こり、分別起の二障を断じて二空所顕の真如を見る。
第六識が尋と伺によって諸法を観察し、その結果意識が妙観察智に変化する。
その結果、二空と見る妙観察智の影響が末那識に及び、末那識が平等性智に転識する。
尋~言葉に発せず心の中で言葉の表現を探すこと。考える事。
伺~心の中で推察すること。
例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。
実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。
これは「錯覚論法(argument from illusion)」といわれる。
そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。
直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。
しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。
例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。
「私」という主体などは反省的に見出された概念、論理的構成物であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。
また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。
私とは私の世界である。
5.631
思考し表象する主体は、存在しない。
5.632
主体は世界に属するのでなく、それは世界の限界である。
5.64
ここにおいて、独我論は徹底的に遂行されると、純粋な実在論と一致するということを見て取れることができる。
独我論の私というものは、広がりを持たない点へと収縮し、その私と対応する実在がそのまま残る。
思いが全くこもらない知覚(知覚的立ち現れ)はありえない(悟性的要素を全く排除した直観の多様などありえない)。
しかし、たとえ思いがいかに濃密にこもっていようとも、机を「見る」こと「触れる」ことと、見も触れもしないでただ(心に、頭に)「思う」こととの分別は子供にも見誤ることのない歴然たるものである。
ただ全く純粋な知覚的立ち現れとは、感覚与件と同様考えることのできぬものであり、すべての知覚は思いのこもった知覚である、このことを忘れてはならない。いかなる知覚も思いをこめての知覚なのである。
大森荘蔵
竹村牧男 入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)
1.○○が眼に入った瞬間(=卒爾心)
↓
2.意識に移動 → あれは何?(=尋求心)
↑
3.阿頼耶識・末那識の種子(能縁)から情報提供(花)
↓
4.これは花だ!(=決定心)
5.綺麗な(汚い)花だ(=染浄心)
卒爾心・尋求心・決定心=無記
上記は弾指頃(だんじきょう)、一瞬でなされる
1.花=相分 眼識=見分
2.眼識=見分 意識=相分(所縁縁)
外境の器物
↓
五根・五識
↓
(卒爾心)
↓
第六識
(尋求心) →
阿頼耶識・種子
(決定心) ←
↓
末那識
↓
(染浄心)
↓
阿頼耶識
基本的視座
認識態 ~ 認識できるもの → 実在する
非認識態 ~ 認識できないもの → 実在しない
有部の見解
眼・耳・鼻・舌・身等、知覚の対象を実在とし、意識(思惟)の対象も実在とするのが有部の考え。
~過去や未来について思惟出来るということは、認識体であるから実在する。
有部の誤謬
過去や未来についての認識とは記憶や推理の問題であり、実在するとは限らない。
メモ
ここでの思惟は言語に等しい。
直観(前五識)だけを事実の世界として認め、思惟の世界は人間の構想(虚構)としてのみ認める。
有部
思惟の世界を本体と看做し、事実の世界を現象と考える。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/42/2/42_2_820/_pdf/-char/ja0160スジャータ大山垢版|大砲2019/02/28(木) 16:33:59.95ID:krPuLeW83法相唯識思想における生と老と死
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/1/43_1_277/_pdf/-char/ja
「麻三斤」は、「仏」とは何かを説明した語ではない、あらゆる思考と判断を拒絶する絶待の一語として、我々に突きつけられたものなのだ、と。
表顕
至上命題的に正面切った立言
捨遣
一切の価値範囲の措定を認めず究極なるもの・絶対なるものの定立を拒否
反措定
(一般にある観念や言明に対立した反対の観念や言明。哲学で、事実を表わす命題や肯定命題に対立しておかれるもう一つの命題。たとえばカントで「世界は有限である」という命題に対しておかれた「世界は無限である」という命題のたぐい。アンチテーゼ。
「もし仏を極則として据えたならば、仏はたちまち仏魔という魔に一変する」
いかにもそれは、常識的な絶対至上主義や安易な究極志向に対する百八十度の転換ではあるが、誤解してならないのは、捨遣されたその「乾屎橛」が反転して(或は、そのままで)清浄法身の光明を発することにはならないということ、つまり荘子の言ったような「道は屎溺に在り」的な方向へ直ちに転回するのではないということである。
……同様に雲門においても、希求すべき対象として仏(または釈迦身)を絶対化してはならぬことを教えるために乾屎橛を反措定したのであって、それを反転して仏と同定せよと示唆しているのではない。
……屎橛はまさに屎橛そのものであって、これが一転して金色の光を放つべき契機を孕むというのでは全然ない。
臨済が言ったように、もし仏を極則として据えたならば、仏はたちまち〈仏魔〉という魔に一変する。こうなれば、その魔がみずから一転して仏に化することはあり得ない。
それがあり得るのは、おのれを軸として仏を転位させ得た人の場合だけであろう。
(同書より)
(かれらには念慮が語句であり、語句は念慮を突破する──思考が言語となり、その言語がひるがえって思考を超越する──ということが、まるで分かっておらぬのだ(「透脱」は向こう側へつきぬけること)。
(『正法眼蔵』 山水経)
いかにもそれは、常識的な絶対至上主義や安易な究極志向に対する百八十度の転換ではあるが、誤解してならないのは、捨遣されたその「乾屎橛」が反転して(或は、そのままで)清浄法身の光明を発することにはならないということ、つまり荘子の言ったような「道は屎溺に在り」的な方向へ直ちに転回するのではないということである。
……同様に雲門においても、希求すべき対象として仏(または釈迦身)を絶対化してはならぬことを教えるために乾屎橛を反措定したのであって、それを反転して仏と同定せよと示唆しているのではない。
……屎橛はまさに屎橛そのものであって、これが一転して金色の光を放つべき契機を孕むというのでは全然ない。
臨済が言ったように、もし仏を極則として据えたならば、仏はたちまち〈仏魔〉という魔に一変する。
こうなれば、その魔がみずから一転して仏に化することはあり得ない。
それがあり得るのは、おのれを軸として仏を転位させ得た人の場合だけであろう。
思考作業
🧟
統失キチガイのでおーは無視して只粛々と削除依頼するだけ😟
『婆沙論』 に説かれる定中における言語について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/55/1/55_1_390/_pdf/-char/ja
説一切有部における定中の言語に対する考え方の 変遷について
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/13277/KJ00005090286.pdf
自性分別(じしょうふんべつ、知覚作用に相当する。自性とは物それ自体の独自の本性のこと)
計度分別(けたくふんべつ、対象について分別心をもって区別をたて推量する心のはたらき。計度とは推理忖度する心のはたらきのこと。なお、説一切有部の『阿毘達磨大毘婆沙論』においては、計度分別は禅定に入っていない意識と相応する有分別なものであるため、無分別である五識の後に生起すると説かれている)
随念分別(ずいねんふんべつ、過去のことを心に明記する記憶作用があり、随念とは過去を追想し思い出す心のはたらきのこと。なお、『阿毘達磨大毘婆沙論』においては推度分別)
があり、分別の支分とされる。
説一切有部の『阿毘達磨倶舎論』によれば、自性分別は五位七十五法のうち心所法、不定法のひとつである尋(じん)、および伺(し)であると定義されている。
三科、十八界のうちの五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の5つ)には自性分別、即ち尋、伺はあるが、計度分別および随念分別にはないため、五識を無分別(むふんべつ)と呼ぶ(なお、説一切有部で五識が無分別であるとの記述があるのは、『阿毘達磨大毘婆沙論』が最初である。また、南伝上座部では、五識は尋、伺を持たないと説いている))。
つまり、五識による認識は、自性分別という極めて微弱な分別の働きを有し、それゆえに「分別がない」と理解されている。
このような阿毘達磨倶舎論の自性分別は、陳那(ディグナーガ)、清弁(バーヴィヴェーカ)によって、直接知覚(五識)による分別として理解された。
なお、意識(上述の五識に意識を加えて六識という。)は、自性分別、計度分別、随念分別の3分別すべてを有しているので有分別(うふんべつ)という(なお、『阿毘達磨大毘婆沙論』においては、禅定に入っていない意識は無分別であり、入っているものは有分別としている)。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/13277/KJ00005090286.pdf
『婆沙論』 に説かれる定中における言語について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/55/1/55_1_390/_pdf/-char/ja
説一切有部における定中の言語に対する考え方の変遷について
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/13277/KJ00005090286.pdf
瑜伽行派における自性分別と無分別智
を
呼んで対話しろ〜〜〜〜
🧟🧟🧟🧟
般若とは、智慧といへる義なり。
このはんにゃの智慧とは、凡夫の思へる分別才覚ありて、小ざかしきをいふにあらず。
この分別才覚は、世間の智慧なれば、小智にて大智にあらずして、世智弁聡とて、佛道に入ることをしらず。
さるによって、小智は菩提のさまたげといへるも此の意をもっていふなり。
眞實般若の智といふは、妄想分別をはなれて、大虚空の如くなるをいふなり。
三世の諸佛、その外もろもろの智識たちも、皆この智慧をもって、無上菩提をさとりたまふなり。
(『一休禅師法語』より)
520:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/06/28(金) 10:26:17.45 ID:qdbZQ6w4
はち‐なん【八難】
仏を見ず、法を聞くのに妨げとなる八つの境界。 地獄・餓鬼・畜生・長寿天・辺地・盲聾瘖瘂 (もうろういんあ) ・世智弁聡 (せちべんそう) ・仏前仏後。
523:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2024/06/28(金) 10:54:14.22 ID:qdbZQ6w4
四字熟語 世智弁聡
読み方 せちべんそう
意味 世の中のことを詳しく知っていること。
世の中のことを詳しく知っているために、先入観などから、仏法のありのままを受け入れることができないことをいう。
(『四字熟語辞典』より)
🧟
https://i.imgur.com/SEiUPdB.png
仏教の思想 7 無の探求<中国禅> (角川文庫ソフィア 112)
4
https://i.imgur.com/SEiUPdB.png
梅原 猛 他1名
仏教の思想 7 無の探求<中国禅> (角川文庫ソフィア 112)
4
しとけ〜
ジャイアン〜
🧟
>世俗諦と勝義諦とである。
>これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
>ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
>勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
>(『中論』)
タイムだなー
🧟
キリスト者の中心には罪人がいる
どやる〜
ガンバルンバ〜〜
🧟🧟🧟🧟🧟
>(無我にして唯、諸蘊のみなり。 煩惱と業との所爲なり。)
>由中有相續 入胎如燈焔
>(中有の相續するに由りて、胎に入ること燈焔の如し。)
>如引次第増 相續由惑業
>(引くが如くに、次第に増し、相續して惑と業に由りて、)
>更趣於餘世 故有輪無初
>(更に餘世に趣く。故に有の輪は初め無し)
(以上偈、以下中略)
>蘊刹那滅於輪轉無能。
>(蘊は刹那に滅し、轉ずることに於いて能無し。)
>數習煩惱業所爲故。
>(數習する煩惱と業との所爲の故に、)
>令中有蘊相續画像入胎。
>(中有の蘊を相續して胎に入らしむ。)
>譬如燈焔雖刹那滅而能相續轉至餘方。
>(譬へば、燈焔の刹那に滅すると雖も、而も、能く相續して、餘方に轉じ至るが如し。)
>諸蘊亦然。名轉無失。
>(諸蘊も亦た然り。轉と名くるも失無し。)
>故雖無我而由惑業諸蘊相續入胎義成。
>(故に、無我なりと雖も、而も、惑と業に由りて、諸蘊は相續して胎に入るを義成す。)
>(『阿毘達磨倶舍論』本論第三世間及世界 十二節無我と中有と輪廻)
ですから、これは古くからある考え方なのです。
つまり、信仰は霊的なものであって、実践するものではない。
こころの強さであって、生き方ではない、とする考え方です。
この異端によると、忠誠心や信仰への誠実さは、生きる上での振る舞いや共同体をつくること、体の象徴とは無関係だというのです。
この考え方の誘惑は強いものです。
というのも、疑う余地のない真理を、独自の方法で解釈しているからです。
けれども、信仰は食事規定や社会的習慣などへと決して引き下げられないものです。
信仰とはもっと別のものなのです。
問題は、この真理をグノーシス主義は先鋭化させ、キリスト者の信仰の現実主義を無効にしてしまうことです。
なぜなら、キリスト者の信仰は現実主義的なものだからです。
キリスト者の信仰は、単に信条を唱えるだけではありません。
信条について考え、理解し、信条を実践するものです。
手を使って働くことに他なりません。
一方で、このグノーシス主義の提案は、「振りをする」ことです。
重要とされるのは、霊的なことに関心があることで、そうであれば、好きなことを何でもできるというのです。
これはキリスト教的ではありません。
これはグノーシス派の最初の異端で、現在、多くのスピリチュアルセンターでとても流行っています。
これは、共同体を生きる中で、神の目に見えるしるしを示し、体を使うことを通して示されるこころの逸脱に抵抗する人々のあかしを無効にしてしまいます。
わたしたちの社会や文化の多くの流行りの中で、信仰の実践は否定的に扱われています。
時々などは文化的皮肉や、ひそかに疎外されたりしています。
キリストの時代にもすでに存在していた、このようなグノーシス主義にとって、信仰の実践は、役に立たないもの、外部からの害悪とさえ見なされ、古臭い残骸、見かけ倒しの迷信と見なされます。
要するに、高齢者のためのものなのです。
この見境のない非難の、若い世代に対する影響は甚大です。
もちろん、信仰の実践が、魂のこもらない外的な動きになり得る――これは逆の意味で、別の危険といえます――けれども、それ自体はまったくそのようなことはないと分かっています。
信仰にふさわしい誠実さを取り戻すという、とても重要な任務は、まさにわたしたち高齢者に託されています。
エレアザルのあかしが示すように、最後まで信仰に一貫性を持たせるよう託されています。
信仰の実践は、弱さの象徴ではありません。
違います。
むしろ、わたしたちの強さの象徴です。
わたしたちはもう若者ではありません。
主の道を歩み出したとき、わたしたちはふざけ回ったりしていませんでした。
教皇フランシスコ、2022年5月4日一般謁見演説 8.エレアザル、信仰の一貫性と誠実さの遺産
あがってきたか?
🧟
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
具足妙相尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去
雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲體戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩焔
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
爾時持地菩薩即従座起 前白佛言世尊若有衆生
聞是観世音菩薩品 自在之業普門示現神通力者
当知是人功徳不少 佛説是普門品時衆中
八萬四千衆生 皆発無等等
阿耨多羅三藐三菩提心
がんはってるな
🧟
🧟
曽我量深における「法蔵菩薩」感得の意義―曽我量深没後50年②
真宗大谷派教学研究所所員 武田未来雄氏
論2020年6月30日 13時18分
たけだ・みきお氏=1970年、京都府生まれ。大谷大文学部(真宗学科)卒、同大学院博士課程(真宗学専攻)修了、博士(文学)。愛知新城大谷大准教授を経て、現職。専門は真宗学。主な論文に「親鸞における時の問題―近代真宗教学の一様相―」など。
近代の真宗教学者である曽我量深はどのように親鸞の思想を解明したのであろうか。また、その思想は、現代を生きる我々にとってどのような可能性をもたらすものであろうか。
■清沢満之の課題継承
曽我の思想形成に決定的な影響を与えたのは、清沢満之の「精神主義」であり、曽我の長年に及ぶ真宗教学者としての営為は清沢によって出発点を与えられた。
清沢が生きた明治近代とは、それまでの江戸幕藩体制によって歩んできた真宗教団がその根底から問われる時代であった。そのような時代状況にあっても、なおそれまでの旧体制のままであろうとする真宗教団を憂いた清沢は、教団の教学の刷新を目指すべく、宗門改革運動を起こす。
しかし、この運動は挫折する。政治運動の力によって、制度やシステムを変えても、そこに出てくる「人」が変わらなければ宗門は変わらない。清沢の課題は、社会的な制度の改革よりも宗門人の一人一人の信仰的自覚の覚醒を待つことであった。
以後、清沢は、自己の信念の確立を課題とすると共に、東京で精神主義運動を展開し、苦悩する時代青年などに対して、世を生きるための信念の立脚地を提示した。清沢は、絶筆「我が信念」を著し、自らの身を以て如来を信じる意義について示したのである。
それは単なる論理的な証明ではなく、自らの身命を賭して証した、如来を信じる信念の告白であった。清沢は近代日本において如来を信ずるあり方を示したのである。
曽我が清沢から継承した課題は、このような自己自身を通して如来による救済の実在を証明することであった。
曽我は30代から50代ごろにかけて、雑誌『精神界』をはじめとする様々な書誌に次々と論攷を発表した。それらの論攷から、曽我はあくまでも自己自身の上で如来救済の実在を究明しようとしていたことが知れる。
それは清沢の課題の継承でもある。その思索は、如来のみならず、往相・還相の二種回向、念仏、信心、浄土といった真宗教学の重大な術語について、単なる学術的定義ではなく、どこまでも自己を通しながら、それらの言葉が現実を生きる者にとってどのような意義があるのかを明らかにしようとする歩みであった。
■「如来は我なり」の感得ー法蔵菩薩の意義解明
こうして曽我の自己の生きる現実の生を通しながらの考察は、遂に「如来は我なり」の一句の感得にいたる。曽我は、1913年7月、雑誌『精神界』において論文「地上の救主ー法蔵菩薩出現の意義ー」を発表する。その論文は、前年7月上旬に「如来は我なり」の一句を感得し、続いて8月下旬に「如来我となりて我を救い給う」、そして10月頃に「如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり」と気づいたことの、自己の感得体験からはじまる(『曽我量深選集第2巻』408ページ)。
曽我は、如来を遠く西方十万億仏土に在すものとして、憧憬や祈願の対象として見るのではなく、如来の救済が現在の自己の上の事実となることを考究したのである。この考察の跡は、曽我の随想集である「暴風駛雨」においても見ることができる(『曽我量深選集第4巻』340~353ページ)。
ここでは、誤解を避けるために、「如来は我なり」と言いつつも、「我は畢竟我にして、如来に非ず」とも言う。そして、「如来は我なり」を正しく認識し、ここにはどのような意義があるのかを明らかにするために、「真宗教義の三大綱目」が発表された。
第1は「我は我なり」で、それは人間はどこまでも迷いの存在であり、如来に成れないことの自覚を表す。第2は「如来は我なり」で、それは自己に迷いの自覚を生じさせる真主観として如来が我となることを表す。そして第3は「(されど)我は如来に非ず」で、それは「我は如来である」との邪執を破邪することを表す。そして再び第1の「我は我なり」にもどり、この三綱は循環して尽きる所がないと言う。
つまり、「如来は我なり」と聞くと、凡夫が如来に成ったかのようにごう慢に聞こえたり、あるいはそう思ってしまう自己が居る。そのために第3である「我は我にして、如来に非ず」とおさえられる。そこで、第1の「我は(如来ではなく)我なり」との自覚になるのだが、この自覚には二重の意味がある。
すなわち単に自分が凡夫であると自覚するのみではなく、如来が我となって生じる自覚なのである。このようにしてこの三大綱目は永久に繰りかえし、深まっていく歩みとなるのである。
では、どうして凡夫が凡夫との自覚に如来が我となる必要があるのであろうか。そこで、この如来が我となって我に自覚をうながす真主観となることが、実は「法蔵菩薩降誕」の意義であると曽我は明らかにしたのである。
曽我は前偈論文「地上の救主」で、法蔵菩薩は歴史上の人として出現したのではなく、直接に我々人間の心想中に誕生するという。それは救済を求める所の自我の真主観として、あるいは如来を念ずる所の帰命の信念の主体として誕生すると言うのである。
つまりそれは、我々凡夫が利害打算的であり、真実に自己が煩悩具足と頷いたり、あるいは純粋に如来に帰命する心は起きないことを表すのである。
だから親鸞は「『帰命』は本願召喚の勅命なり」(東本願寺出版『真宗聖典』177ページ)と言ったり、信心の獲得は「如来選択の願心より発起す」(同上210ページ)と言っているのである。曽我の法蔵菩薩論は、その親鸞の教学的意義を、生活の中で実践しつつ、我ならざる主体が我と成ることであると感得されたのである。、
伝統的に真宗では、法話などで帰命の心は、親が子を呼ぶ、親の呼び声であると言われていた。しかし曽我は、ただ一方的に上から如来が衆生を呼ぶのではなく、呼ばれる側の、子心の立場を体験して至心信楽の本願を発されたという。それが如来の人間化、法蔵菩薩降誕の意義である。我々の衆生の苦悩や我執を体験して、その中から発されたのが本願なのである。
曽我は法蔵菩薩という主体概念を明らかにすることによって、煩悩具足の凡夫の自覚や、如来への帰命が、自己にも起こり得ることを明らかにしたのであった。
■信心の智慧ー闇へ闇への自覚
曽我が大切にしようとしたことは、如来の智慧によってどこまでも自己の現実相が知らされることである。教えの聴聞を通して、罪業の自己が知らされることは、同時に仏智によって照らされることでもある。如来の智慧海が無底であるように、我々の罪業もはかり知れぬほど底が深い。救済の自覚は停滞するものではない。真宗の三大綱目の第3があるように「如来は我なり」のところで止まってはならないのである。
信心の智慧によってどこまでも我執存在であることを知らされることは、我々にとって受け容れがたい事実であり、つらいことである。しかし、この苦悩の闇こそが、法蔵菩薩発願の精神に同感し、共感する機縁となる。そこに本願救済の感動がある。それによって、ただ一方的に清浄なる上位から呼ぶのではなく、救済を求め叫ぶ側の方、苦悩の闇のどん底にあって、我々と共に歩もうとする法蔵菩薩像が究明されたのである。
だから曽我の明らかにする自覚道には終わりや完成がない。どこまでも闇に向かっていき、その苦悩する生活の現場において一切衆生を平等に救おうとする本願の精神を見いだしていくのである。
曽我の法蔵菩薩論は、現在を生きる自分にとって如来の救済が成り立つのかを真剣に問うたものである。それは伝統されてきたものをただ受け容れるだけでは済まされなかった、明治近代の課題があったからである。
現代は、人間の自由主体、個の尊厳性を確保すると同時に、どこまでも自我の欲望を果たそうとする自我中心思想を超えていく課題がある。真実の主体を解明する曽我の法蔵菩薩論は、現代における真宗の信心の可能性を示唆するものがあるのではないだろうか。
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『予言がはずれるとき』『ニコライの日記』から『大義』『深い河』まで。
豪華著者陣が名著の核心を読み解きながら、心理学やノンフィクション、政治学、文学といった「多角的な視点」で宗教をとらえる。
新たな取材を加え議論を分かりやすく整理した決定版。
釈徹宗、最相葉月、片山杜秀、中島 岳志って、なかなかのメンツですなぁ。
即、アマポチ(Kindleで¥1,100.-)しました。
なかなか良い事が分かり易く書いてあります。
けど、まぁ、中味が良いから、こんなものかな。
🧟
良かった。
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たとえば「私は悲しい」と言いたいのであれば、ヒンディー語の与格では「私に悲しみがやってきてとどまっている」という言い方になります。「私はあなたを愛している」も同じで、「あなたへの愛が私にやってきてとどまっている」と言うのです。
(『100分de宗教論」』 「深い川」 中島岳志 より)
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それぞれの宗教における絶対者が単に有的であれば、諸宗教はけっして両立しえない。また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。
従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。
しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。相互否認に終わる鳴りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。けっして有限性の自覚に存するのではない。
人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。しかしそうではないのである。そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。
しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。
(『宗教哲学入門』量 義治より)
それぞれの宗教における絶対者が単に有的であれば、諸宗教はけっして両立しえない。また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。
従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。
しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。けっして有限性の自覚に存するのではない。
人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。しかしそうではないのである。そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。
しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。
(『宗教哲学入門』量 義治より)
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「そうかもしれません。しかしぼくが……変ったのじゃなく、手品師の神に変えさせられたのでしょう」
「ねえ、その神という言葉やめてくれない。いらいらするし実感がないの。わたくしには実体がないんですもの。大学の時から外人神父たちの使うあの神という言葉に縁遠かったの」
「すみません。その言葉が嫌なら、他の名に変えてもいいんです。トマトでもいい、玉ねぎでもいい」
「じゃ、あなたにとって、玉ねぎって何。昔はよく自分にもわからない、と言っていたけど。神は存在するのかと誰かがあなたにきいた時」
「すみません。正直、あの頃は、よくわからなかった。でも今はぼくなりにわかっています」
「言って」
「神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊りなんです」
「なお気持わるいわ、真面目な顔をして愛なんて恥ずかしい言葉を使われると。働きって何よ」
「だって玉ねぎはある場所で棄てられたぼくをいつの間にか別の場所で生かしてくれました」
「そんなこと」と美津子はせせら笑った。「別に玉ねぎの力じゃないわ。あなたの気持が自分をそう仕向けたんじゃないの」
「いいえ、ちがいます。あれはぼくの意志など越えて玉ねぎが働いてくれたんです」
この時だけは大津は断乎とした口調になり、それまでそらせていた眼を美津子に向けた。彼は彼女が知っていたどこか弱気の、善良だけがただ一つの取柄だった男とは違っていた。
これに対し今日、危機神学、ニヒリズム、実存主義が出て来ているのは、単に一時的なものではなく、無神論的な近世が必然的に経験しなければならぬものなのである。
危機神学等は近世の否定の方向でありつつ、しかも無神論的なものを否定し切ることも出来ずにいる。
この矛盾の解決は、一方無神論を承認しつつ、他方人間性をも否定する方向でなければならぬ。
ゆえに今後の宗教は無神律的a-theonomischでありつつ、人間否定的でなければならぬ。
かかる方向は多少どこかにみられるかもしれない。
単に人間に止まりえぬが、しかも有神論では行けない。
ゆえに無神論的な宗教がなければならぬ。
さらに掘り下げれば、そもそも人間性というものは本来無神論的にしてしかも人間否定的なものではないか。
そこからして現代にそれが現われて来ていると言えよう。
すなわち人間否定の時と神否定の時である。
(『無神論』 久松真一 より)
🧟
国体の構造では、超越的な天皇のもと、国民は一般化され、平等化される。
国民の間に格差や断絶は存在せず、一つの渦に溶け込んでいく。疎外や苦悩は存在しない。
すべては大御心に導かれ、一元化される。濁りなき透明な共同体が現前する。
彼らは国体に随順することによって、煩悶を超克しようとした。
三井甲之や倉田百三が大正期から昭和初期にかけて超国家主義化していったのは、国体に包摂されることで自己が救済され、国民が救済されると考えたからだった。
(『親鸞と日本主義』中島岳志 より)
ガンバルンバしとるなー
🧟
勿論、その内容について知る由もないのですが、私は格差の拡大と分裂、信仰の喪失を危惧しています。
🧟
尤もそうした生き方が出来るのも
>よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。
>悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せに は、「兎毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
>(『歎異抄』より)
なのかも知れませんが。
勿論、「善因善果、悪因悪果」ではなくて「善因楽果、悪因苦果」なのは有難い事で為せる善はなすものだって思うのです。
実際、新約聖書はイエスを繰り返して「神の子」と呼んでおり、それどころか「神」と明言している箇所もある。
しかし、だからといって「人間である」という述語を否定してしまったら、イエスが人間の身代わりとして罪を背負って死んだという贖罪信仰が成り立たなくなってしまう。
それどころか、人間でなかったのなら死ぬこともなかったはずである。
しかし、新約聖書にははっきりとイエスの十字架刑と死が証言されている。
もちろん復活も証言されているが、復活が本当の復活であるためには、それに先立つ死も、本当の死でなければならないのである。
神なればこそ、人間を救うことができる。
実際、新約聖書はイエスを繰り返して「神の子」と呼んでおり、それどころか「神」と明言している箇所もある。
しかし、だからといって「人間である」という述語を否定してしまったら、イエスが人間の身代わりとして罪を背負って死んだという贖罪信仰が成り立たなくなってしまう。
それどころか、人間でなかったのなら死ぬこともなかったはずである。
しかし、新約聖書にははっきりとイエスの十字架刑と死が証言されている。
もちろん復活も証言されているが、復活が本当の復活であるためには、それに先立つ死も、本当の死でなければならないのである。
『グノーシス 古代キリスト教の異端思想』 大貫 隆
⼿執錫杖 當願衆⽣
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
以清浄⼼ 供養三寳
發清浄⼼ 供養三寳
願清浄⼼ 供養三寳
當願衆⽣ 作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣
法界囲繞 供養三寳 値遇諸佛 速證菩提
當願衆⽣ 眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳
當願衆⽣ 檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
當願衆⽣ ⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲
懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信 慳貪者布施
瞋恚者慈悲 愚痴者智慧 驕慢者恭敬 放逸者攝⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣ ⼗⽅⼀切
邪魔外道 魍魎⿁神 毒獣毒⿓ 毒蟲之類
聞錫杖聲 摧伏毒害 發菩提⼼ 具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣ ⼗⽅⼀切
地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處 受苦衆⽣ 聞錫杖聲
速得解脱 惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
過去諸佛 執持錫杖 已成佛
現在諸佛 執持錫杖 現成佛
未来諸佛 執持錫杖 當成佛
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
南無恭敬供養 三尊界會 恭敬供養
顕密聖教 哀愍攝受 護持弟⼦
九条錫杖
⼿執錫杖 當願衆⽣
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
以清浄⼼ 供養三寳
發清浄⼼ 供養三寳
願清浄⼼ 供養三寳
當願衆⽣
作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣ 法界囲繞
供養三寳 値遇諸佛 速證菩提
當願衆⽣
眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳
當願衆⽣
檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲
懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信
慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧
驕慢者恭敬 放逸者攝⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神 毒獣毒⿓ 毒蟲之類 聞錫杖聲 摧伏毒害 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處
受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱
惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
過去諸佛 執持錫杖 已成佛
現在諸佛 執持錫杖 現成佛
未来諸佛 執持錫杖 當成佛
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
南無恭敬供養 三尊界會
恭敬供養 顕密聖教
哀愍攝受 護持弟⼦
⼿執錫杖 當願衆⽣
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
以清浄⼼ 供養三寳
發清浄⼼ 供養三寳
願清浄⼼ 供養三寳
當願衆⽣
作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣ 法界囲繞
供養三寳 値遇諸佛 速證菩提
當願衆⽣
眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳
當願衆⽣
檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲
懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信
慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧
驕慢者恭敬 放逸者攝⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神 毒獣毒⿓
毒蟲之類 聞錫杖聲 摧伏毒害 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處
受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱
惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
過去諸佛 執持錫杖 已成佛
現在諸佛 執持錫杖 現成佛
未来諸佛 執持錫杖 當成佛
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
南無恭敬供養 三尊界會
恭敬供養 顕密聖教
哀愍攝受 護持弟⼦
勿論、そうで無い事を願うけど。
改心・懺悔とかはしておいた方が良いよ。
⼿執錫杖 當願衆⽣
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
説⼤施會 ⽰如實道 供養三寳
以清浄⼼ 供養三寳
發清浄⼼ 供養三寳
願清浄⼼ 供養三寳
當願衆⽣
作天⼈師 虚空満願 度苦衆⽣
法界囲繞 供養三寳 値遇諸佛
速證菩提
當願衆⽣
眞諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
俗諦修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼀乗修習 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
恭敬供養 佛法法寳 僧寳⼀體三寳
當願衆⽣
檀波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
⼫羅波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
羼提波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
毗梨耶波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
禪那波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
般若波羅蜜 ⼤慈⼤悲 ⼀切衆⽣
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 無量衆⽣ 聞錫杖聲
懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信
慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧
驕慢者恭敬 放逸者攝⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 邪魔外道 魍魎⿁神
毒獣毒⿓ 毒蟲之類 聞錫杖聲
摧伏毒害 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
當願衆⽣
⼗⽅⼀切 地獄餓⿁畜⽣ ⼋難之處
受苦衆⽣ 聞錫杖聲 速得解脱
惑癡⼆障 百⼋煩悩 發菩提⼼
具修萬⾏ 速證菩提
過去諸佛 執持錫杖 已成佛
現在諸佛 執持錫杖 現成佛
未来諸佛 執持錫杖 當成佛
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
故我稽⾸ 執持錫杖 供養三寳
南無恭敬供養 三尊界會
恭敬供養 顕密聖教
哀愍攝受 護持弟⼦
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
俺縛日羅目乞灑穆
👉👉👉
(オンバザラモクシャボク)
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
彼まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
イザヤ53:3-5
ぼくは日本人であるために彼等から興味をひかれ、時々、キブツに遊びにいくこともありますし、イスラム教徒の家庭にもよばれました。
彼等のなかにぼくは玉ねぎを見つけます。
それなのになぜ彼等が他の宗教の徒を軽蔑したり、心ひそかに優越感を感じねばならぬのでしょう。
ぼくは玉ねぎの存在をユダヤ教の人にもイスラムの人にも感じるのです。玉ねぎはどこにもいるのです。
(『深い河』 遠藤周作 より)
(『宗教多元主義』 ジョン・ヒック より)
ヒックも「神」という言葉を用いていません。
それは大津が「玉ねぎ」というのと同じ理由です。
ここでヒックは究極的実在者と呼ぶべきものは、一様には表われない。
それぞれの時代、文化に呼応した姿で顕現する。
当然、人間の応答も一様ではない。
しかし、その異なる姿をした究極的実在者も一つの淵源から生まれたものではないか、というのです
。「宗教多元主義」はどの宗教も同じだから何でもいい、という考え方ではありません。 力点は「一なるもの」の方にあります。 そして、先のヒックの言葉で重要なのは、「一なるもの」が多様な姿で顕現するという概念ではなく「自我中心から実在中心への人間存在の変革」を説いている点です。
()
世界宗教と称されるものは三つもある。
これらの宗教は今後も世界的、歴史的に展開しつづけるであろう。
これらの宗教の宗教哲学的平和共存はいかにして可能であろうか。
各宗教が排他的に自己を絶対化するならば、非難の応酬は避けられない。
相互の対論は必要である。
しかし、相互否認に走ってはならない。
相互承認に進まなければならない。
各宗教は自己の真理性を主張してやまない。
ふつうはこれによって自己絶対化と他者否定が起こる。
それは自己絶対化が単に有的であるからである。
そうであれば、他者否定は不可避的となる。
対立・対論は必要なのである。
必要というより、必然的なのである。
これがなければ、真理性の放棄に等しい。
互いの間にきびしい対立が存しながら、相互承認が成り立ちうるためには、有的であると同時に無的でなければならないであろう。
単に有的であれば、ただ対立があるだけであり、また、単に無的であれば、ただ融和があるだけである。
真理と真理とは対立しつつ融和するものである。
また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。
従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。
しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。
相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。
けっして有限性の自覚に存するのではない。
人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。
しかしそうではないのである。
そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。
各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。
しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。
すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。
また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。
しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫) 量 義治 )
他日、君来って如し我を問わば、魚行、酒肆、又た淫坊。
一休さんの禅は難しい。
(『仏教の思想6_無限の世界観<華厳>』鎌田茂雄 より)
そのために設定されたのが第二理法界の世界である。
理とは事に対することばであり、理体とか理性といわれるものである。
この理体を現象界に対しての本体界のように理解することは、仏教を正しく認識したものとはいえない。
すでに述べたように、それはどこまでも現実界に対する理想界の根拠としての理体であって、そういうものが真実に存在しているのではない。
理体を実在化しようとする思惟の傾向が中国の仏教においてはたしかに存在し、そのような思惟傾向にもとづいて仏教を理解しようとしたところに、仏教の中国的変容が認められるのであるが、本来の仏教を理解するのには、この点を十分に注意しなくてはならない。
(『仏教の思想6_無限の世界観<華厳>』鎌田茂雄 より)
この絶対観は、したがってまた、きわめて思弁的、観念的なものとなり、抽象的なものとなり、単なる分内在的な神秘主義、汎神論となり、無媒介な同一性におちいり、抽象的二元論となる。
ここでも、第一の立場と逆な方向からではあるが、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、相対的現実のみということになる。
しかも第一の立場より悪いことは、思弁の中に現実存在の相対性を忘却してしまうか、あるいは、抽象的絶対性をそのまま現実に適用し、事実存在としての現実は矛盾と濁悪にみちた相対的存在であるにかかわらず、それをそのまま肯定し、否定を見失って、さては現実に退落することである。
日本の天台本覚思想が爛熟していくにつれ、この傾向が顕著となった
いま、天台智顗の絶対に関する論理を一般化してみると、
(1)相対を相対として否定し、それに対して絶対を立てること。
(2)相対が相対そのままで絶対化されること。
(3) 相対を相対として否定しながら、しかも、それを続する絶対。
の三種に分けることができょう。
第一は、相対的、有限的存在にたいして、それを超越する無限者を絶対と見、相対にたいする絶対、時間にたいする永遠を立てるところの二論である。
ここでは、両者は全く異質的、隔絶的関係にある。
強調されるものは、ただ神の超越・絶対であり、人間は、あくまで相対者としてとどまり、絶対の神と断絶し、救いがない。それは神の啓示を待つか、神にたいする絶望か、反逆しかない。単なる超越的な一神論におちいるか、イデー(理念)の観想のみにとどまり、対立の止場は生まれない。
このような超越・絶対は、そのかぎり、あくまで相対に対立するものとしてて、真の絶対たりえず、かえって一の相対に堕するものであり、永遠は、常に時間に対立するものとして、永遠たりえず、一の時間に堕するものである。
すなわち、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、ただ、相対的矛盾対立のみである。
第二は、第一の絶対と相対との論理的矛盾を克服し、両者を具体的統一にもたらさんとするものである。
これは、相対にたいして絶対を立て、相対の外に絶対を見ようとするものではなく、相対の当処そのものにおいて、絶対を見ようとするものである。すなわち、第一のごとく、相対に対立し、相対の外に漁対を立てるのでなく、時間に対立し、時間の外に永遠を立てるのではない。
第一が天台智顎のいう相待妙であり、この第二が絶妙にあたると、一応、考えられる。
「絶還って絶ならず。事に即して真、乃ち是れ絶待」(『法華玄義』巻第二上)と説かれてもくるところである。永遠についていえば、只今の瞬間に永遠を感じとることである。
日本の天台本覚思想において強調された久遠即今日や、現代よく使われる「永遠の今」ということばは、それをいいあらわしたものといえよう。
ところで、この立場がおし進められると、相対そのものを滅却し、相対を絶対化し、矛盾を解消し、単なる内在と化し、存在するものはただ絶対だけ、絶対的なありかたのみとする危険性をはらむにいたる。
この絶対観は、したがってまた、きわめて思弁的、観念的なものとなり、抽象的なものとなり、単なる分内在的な神秘主義、汎神論となり、無媒介な同一性におちいり、抽象的二元論となる。
ここでも、第一の立場と逆な方向からではあるが、絶対は単なる抽象的イデーにとどまって、実際にあるものは、相対的現実のみということになる。
しかも第一の立場より悪いことは、思弁の中に現実存在の相対性を忘却してしまうか、あるいは、抽象的絶対性をそのまま現実に適用し、事実存在としての現実は矛盾と濁悪にみちた相対的存在であるにかかわらず、それをそのまま肯定し、否定を見失って、さては現実に退落することである。
日本の天台本覚思想が爛熟していくにつれ、この傾向が顕著となった
(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
(中略)為といふは、すなはち六十二見、九十五種の邪道これなり。
(『教行証文類』「信巻」)
(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
(中略)偽といふは、すなはち六十二見、九十五種の邪道これなり。
(『教行証文類』「信巻」)
論語読みの論語知らず
スタートです〜
🧟🧟🧟
https://i.imgur.com/fRmABEo.jpeg
https://i.imgur.com/WLGD8TK.jpeg
ヘーゲル哲学こそ哲学によるキリスト教の霊性と理性を総合する試みであったが、続く解体の時代を迎えることによって、文化総合の試みはことごとく失敗に帰した。
そこには信仰の世俗化によってキリスト教の衰退が何よりも問題であって、ヨーロッパ史を通してキリスト教が実践してきた貧困者や病人に対する重要な福祉のわざも、やがて近代国家に譲り渡されたことによって、キリスト教は個人の領域に押し込められるという世俗化の一途を辿ることになった。
金子晴勇
「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。
これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。
しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の(盤琲)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。
ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。
師匠は「それではた<桁空観>だ」と言いました。
次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。
天地ひた一枚の燈火です。
もう消すのさぬのという分別の入り込む余地はありません。
師匠はかに微笑しました。
「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。
これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。
しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の場」(盤珪)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。
ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。
師匠は「それではた<桁空観>だ」と言いました。
次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。
天地ひた一枚の燈火です。
もう消すのさぬのという分別の入り込む余地はありません。
師匠はかに微笑しました。
「千里向こうの灯火を消してみよ」という公案があります。
これは、主観(自己)と客観(燈火)とが二つに分かれたところで見るかぎり、不可能事です。
しかし、主客未分(西田寸心)の「不生の場」(盤珪)に立てば、こんなことくらい朝飯前です。
ぷっと吹いて、「はい、消しました」と言った修行者がいました。
師匠は「それではた<析空観>だ」と言いました。
次の入室で、その修行者は、坐ったまま両掌を頭上に合わせて、みずから一大燈明になりきって、「メメラ、メラメラ」と燃えてみせました。
天地ひた一枚の燈火です。
もう消すだの消さぬだのという分別の入り込む余地はありません。
師匠は静かに微笑しました。
>この絶をも又絶するは空門に約して絶を明かすなり
>(『法華玄義』天台智顗 より)
>三界〔の衆生〕は、生まれることなく、死ぬこともなく、消滅することもなく、生ずることもなく、生存領域の循環(輪廻)を繰り返すこともなく、涅槃することもなく、真実でもなく、虚妄でもなく、あるのでもなく、ないのでもなく、このようであるのでもなく、別のようであるのでもなく、虚偽でもなく、真理でもない。
>如来は、愚かな凡人たちが見るような見方で三界を見ることはないのだ。
>如来は、三界を明らかに見るものであり、見誤ることはないのだ。
>(『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』 植木雅俊より 如来寿量品)
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(『仏教の思想 5 絶対の真理<天台> 』角川ソフィア文庫 より)
イチローや太郎や花子は、生まれたとき「イチロー」「太郎」「花子」と名づけられ、その名でよばれます。けれども、その三人を含む全人類がひとしく「人間」という普通名詞でよばれるのはどうしてでしょう。全人類を一人ひとり「人間」と命名していくなど、不可能です。
この問題は中世のキリスト教徒にとって、信仰の根拠に関わる大問題でした。アダムとイブの原罪が全人類におよぶのは、全員が「人間」という同じ名でよばれるからです。しかし、「人間」という言葉は、どうして普遍的に、つまり全人類にあてはまるのでしょう。
この問題を巡って三つの立場が登場し、それは普遍論争とよばれました。
ひとつは、だれもが人間とよばれるのに必要な性質を備えており、「人間」という本質・概念は、すべての人間のなかに現実に内在するという立場です。「普遍は個物のなか」にあるというアンセルムスらのこの立場は「概念実在論」とよばれました。
二つ目は、わたしたちが「ニンゲン」という名前を現に各人にあてはめているにすぎない、とするロスケリヌスらの立場です。「普遍は個物のあと」にくるというこの立場は「唯名論」とよばれます。
三つ目は、神がアダムを作ったとき、神の頭のなかには「自分の似姿」という「人間」についてのプランがあり、だから「人間」は全人類にあてはまるという、アベラールの立場です。「普遍は個物の前」にあったというこの立場は「概念論」とよばれます。
大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる
「神」とはどんな存在なのでしょう。そもそも存在するのでしょうか。この二つの難問をトマス・アクィナスは一気に解決します。
トマスは「本質」と「存在」の区別に注目しました。富士山は「日本一高い山」という本質をもち、現に存在します。ペガサスは「翼ある馬」という本質をもちますが、どこにも存在しません。
ところで、神については、その本質を規定することが許されません。「神は完全な存在だ」と言うのも、本当はいけないのです。そう言ってしまうと、神が不完全になる自由が奪われてしまいます。三船敏郎について「男のなかの男」という謳い文句ができると、もうオネエっぽくできなくなってしまいますが、それと同じです。
実は、『旧約聖書』で神は「在りて在るもの」、つまり、ひとえに存在することだけをその本質とする存在とされていました。神の本質と存在は区別されません。存在することが本質なら、神は必ず存在することになります。上の二つの問題は一度に解決できました。
存在する、という以上の規定はないので、逆に、神はなんにでもなれる自由があります。なにをやっても自由で制約はありません。神がつくる世界にも制約はなく、人間にも制約はなく自由です。
かりに神がいても人間は自由だというこの帰結は、神学的決定論に対する強力な反論です。
神という現実離れした仮説でも、それについて徹底的に考えたとき、人間の在り方についての思わぬ逆転に結びつきます。これも哲学的思考の醍醐味です。
https://i.imgur.com/0myTLL3.jpeg
トマス・アクィナス
https://i.imgur.com/ZxdmG2G.jpeg
>>249
そうじゃなくて、IDがそのままだって指摘だよ。
これでキリスト教スレの荒らしがブラフマンさんではなくてロンだって事が確定されたって事。
ご愁傷様です🪦
チーーーン🙏