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399.
晃
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400.
晃
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アティーシャ(梵:Atīśa、蔵:a ti sha〈アティシャ〉、ベンガル語:অতীশ দীপঙ্কর、982年-1054年) は主にチベットで活躍したインド・ヴィクラマシーラ大学僧院長の仏教僧。本名は月蔵、法名は燃灯吉祥智(梵:Dīpaṃkaraśrījñāna、ディーパンカラ・シュリージュニャーナ、蔵:mar me mdzad ye shes)。サキャ派のコンチョ・ギェルポ、カギュ派のマルパと共にランダルマ王以降衰退していた中央チベット仏教の中興の祖の一人である。ジョウォ・ジェ(jo bo rje)とも呼ばれる。
わかりたい人のためのスレ
前スレ
仏教がわかりたい人のスレ vol.20
https://talk.jp/boards/psy/1696307491
1、初期仏教:お釈迦様の教え
2、倶舎論(部派仏教):仏教理論の体系化
3、中論(中観派):実体はないという空の思想
4、唯識論(唯識派):世界は認識のみと説く
5、如来蔵思想:誰でも成仏できる
(3から5までが、大乗仏教)
苦諦(くたい)
生きることは本質的に苦である(一切皆苦)。
生きるということは、苦を背負って日々を過ごすことだ。
どこかに心優しい神様がいて手をさしのべて
救済してくれるようなことは絶対にない。
集諦(じったい)
あらゆる出来事は必ず何らかの原因によって起こる。
苦の原因は煩悩である。
満足が得られないから、苦しくなっていく。
滅諦(めったい)
煩悩を消すことで苦が滅する。
この世で起こっているものはすべてうつろう(諸行無常)。
現実をありのままに受け入れ、その世界に耐えるべく、
自分の価値観・世界観を変えていく。
この世の一切の事物は自分のものではないと自覚する。
道諦(どうたい)
煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。
五蘊・十二処・十八界
(1)五蘊(ごうん)
・色 広く物質的なモノ全般
・受 感覚を通して感受する作用
・相 認識したモノを識別する作用
・行 行動などをおこす意志の作用
・識 経験に照らして認識する作用
五蘊仮和合・・・人間(ひいては世界)は、
五蘊を寄せ集めた仮の姿
→我として執着するような実体は無い
(2)十二処(じゅうにしょ)
・六根 眼耳鼻舌身意
・六境 色声香味触法
(3)十八界(じゅうはちかい)
・六識 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
六根・六境・六識で十八界
見る心(眼識)は、眼根によって、色境をとらえる。
聴く心(耳識)は、耳根によって、声境をとらえる。
・・・以下同様
世界はこれでデキている
多くの部派に分かれて、
仏教理論の体系化が進んだ
最も有力な「説一切有部」は、
「五位七十五法」を唱えた
⇒ 倶舎論
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」
よりだいぶ数が増えた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為、5は無為
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・物質でも精神でもないもの
14種類
5、無為・・・ 3種類
虚空、択滅、非択滅
さらに要素の数が増えた
深層意識の
阿頼耶識と末那識が加わって、
五位百法に増えた
物質世界など存在しない、
すべては心の中の現象であるとした
倶舎論の五位七十五法と比べて、
「心法(精神)を最初に持ってきて、
色法(物質)を後回しにした」
「眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に
加えて、深層意識の阿頼耶識・末那識
が登場した」
↑
この2つが大きな特徴
五位百法とは、
① 心王(表面意識と深層意識)
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。
② 心所(精神的な作用)
51種。
③色(物質的な作用)
眼・耳・鼻・舌・身の五根と、
色・声・香・味・触法の五対境、
および意識のみの対象である法処所摂色11種。
④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)
24種。
⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)
虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如
6種。
(これらの13宗が、さらに56派に分かれる)
1、奈良仏教
法相宗
律 宗
華厳宗
2、平安仏教
真言宗 空海 弘法大師 774-835
天台宗 最澄 伝教大師 767-822
3、法華系
日蓮宗 日蓮 立正大師 1222-1282
4、浄土系
浄土宗 源空 円光大師 1133-1212 法然
浄土真宗 親鸞 見真大師 1173-1262
融通念仏宗 良忍 聖應大師 1072-1132
時 宗 智真 証誠大師 1239-1289 一遍
5、禅宗系
臨済宗 栄西 千光法師 1141-1215
曹洞宗 道元 承陽大師 1200-1253
黄檗宗 隠元 真空大師 1592-1673
天台本覚思想
衆生は誰でも仏になれるということ、
あるいは、元から悟っているという
鎌倉-室町時代の日本の仏教界で流行した思想
衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を
具えている(本来、覚っている)が、
生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れ、
自分が仏と同じ存在であることがわからなく
なっていく・・・ということである
やがて、人間は誰もが悟っているのだから
修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、
凡夫は凡夫のままでよい、などという
急進的な解釈がされるようになった
もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする
釈迦の教説とは全く相反するものである
この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。
こうした理解によって初めて、『中論』の冒頭で掲げられる「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の意味も、難解とされる『中論』の内容も (そしてまた、それを継承しつつ成立した『善勇猛般若経』のような後期般若経典や、大乗仏教全体に広まった「無分別」の概念なども)、適切に理解できるようになる。
上記したように、二項対立する現象・概念は、相互に依存・限定し合うことで、支え合うことで、相対的に成立しているだけの、「幻影」のごときものに過ぎず、自立的なものではないので、そのどちらか一方を信じ込み、それに執着・傾斜してしまうと、必ず誤謬に陥ってしまうことになる。
そのことを示しつつ、上記の「八不」のごとき、(常見・断見のような)両極の偏った見解(二辺)のいずれか一方に陥らず、「中」(中道)の立場を獲得・護持することを賞揚するのが、『中論』及び中観派の本義である。
この「無自性(空)」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えた。
中村元は、中論は論争の書であるとし、その主要論敵は説一切有部であるとしている。中観派は、自己の反対派を自性論者や有自性論者と総称しているが、これらは事物や概念の自性すなわち自体や本質が実在すると主張する人々であり、中論はこれに対して無自性を主張した。中村によれば、説一切有部は有自性論者の代表であるという。
部派仏教の時代、釈迦の説いた縁起説が発展・変質し、その解説のための論書(アビダルマ)が様々に著されていくことになるが、当時の最大勢力であった説一切有部などでは、生成変化する事象の背後に、それを成立せしめるための諸要素として、変化・変質しない独自・固有の相を持った、イデアのごとき形而上的・独立的・自立的な基体・実体・性質・機能としての「法」(ダルマ, dharma)が、様々に想定され、説明されていくようになった(五位七十五法、三世実有・法体恒有)。こうした動きに対して、それが「常見」的執着・堕落に陥る危険性を危惧し、(『成実論』等にその思想が表されている経量部などと共に) 批判を加えたのが、ナーガールジュナである。
『中論』は論駁の書であり、説一切有部らが説く、様々な形而上的基体・実体・性質・機能である「法」(ダルマ, dharma)の自立性・独立性、すなわち「有自性」「法有」に対して、そうしたものを想定すると、矛盾に陥ることを帰謬的論法(プラサンガ)で以て1つ1つ示していき、「法」(ダルマ, dharma)なるものも自立的・独立的には成立しえず、相互依存的にしか成立し得ないこと、すなわち「無自性」「法空」を説く。
こうして、形而上的基体・実体・性質・機能としての「法」(ダルマ, dharma)すらも含む、ありとあらゆるものの徹底した相互依存性・相対性をとなえる、新たな独特の「縁起」観、そして、それに則る「中観」という発想が、成立することになる。
空思想と縁起
空思想は初期大乗仏教の『般若経』に説かれた思想である。これを紀元一五〇から二五〇年頃、南インドのバラモン階級の出身で、八宗の祖と呼ばれる竜樹(ナーガールジュナ)が体系づけた。竜樹が著した『中論』によると、この思想は部派仏教でいうところの、万物には霊魂のような不変の実体があるとする「有の思想」を否定する考えであった。
「空」とは、もろもろの事象は縁起によって成り立っていて、永久不変の実体がないということ。これは般若経典に説かれている考えで、中観派によって主張されている大乗仏教の根本真理といえる。
中村元著『龍樹』によれば、空は「縁起→無自性→空」の順序を経て成立するという。
竜樹は、『大智度論』によって般若経を解説し、「一切皆空」が諸法の実相であると論じた。竜樹によれば、釈尊の説いた「空」とは我々の認識作用を超えるもので、縁起と同じ意味だともいう。では、「縁起」とは何かというと、宇宙の一切の現象は因(直接的原因)と縁(間接的条件)の和合によって成立していることをいうのである。
言い換えれば、様々な原因と条件によって成立している実体のないものが、この世に存在する物質的現象である。つまり物質的現象というものは実体がないものである。この実体がないということが物質的現象なのであるということになる。般若経ではこの物質的現象を「色」といい、実体がないものを「空」と表現する。
「…色不異空 空不異色 色即是空 空即是色…」がこのことを表している。
大乗の空観を説明するものとして、『般若経』にある一文を次に掲げる。
「良家の青年よ、あなたは、一切の存在は空であり、形のないものであり、願い求めるべきではないものと理解して、“智慧の完成”をこそ求めるべきである。形あるものへの囚われ捨てること、存在への執われをすてることにより、そして生きとし生けるものたちが実在するという見解を離れた所に心を置くべきである」とある。
また『中論頌』には、およそ縁起したものを空であると説く。それは縁あって仮説される存在であり、それはまた中道であるともいう。いかなる存在も、縁起したものでないものはないから、それ故に空でない存在は有り得ない。もし世間のすべてのものが空でないとするならば、生ずることも、滅することもできないであろう。
やはり空の論理は難解である。
参考文献:『仏教語大事典』中村元編/東京書房 『岩波仏教事典』岩波書店
空思想は初期大乗仏教の『般若経』に説かれた思想である。
これを紀元2~3世紀頃、
龍樹(ナーガールジュナ)が体系づけた。
説一切有部(→倶舎論)は、
「万物には不変の実体がある」
という考え方だった
中観派は、それを否定する
「空の思想」だった
「空」とは、もろもろの事象は
縁起によって成り立っていて、
永久不変の実体がないということ。
これは般若経典に説かれている考えで、
中観派によって主張されている
大乗仏教の根本真理といえる。
物質的現象というものは
実体がないものである
この実体がないということが
物質的現象なのであるということになる。
般若経ではこの物質的現象を「色」といい、
実体がないものを「空」と表現する。
説一切有部(→倶舎論)は、
「万物には不変の実体がある」
という考え方だった
紀元2世紀~3世紀頃、
それに対する反論が登場した
中観派が唱える「空の思想」だ
「空」とは、もろもろの事象は
縁起によって成り立っていて、
永久不変の実体がないということ。
これは般若経典に説かれている考えで、
中観派によって主張されている
大乗仏教の根本真理といえる。
物質的現象というものは
実体がないものである
この実体がないということが
物質的現象なのであるということになる。
般若経ではこの物質的現象を「色」といい、
実体がないものを「空」と表現する。
説一切有部(→倶舎論)は、
「万物には不変の実体がある」
という考え方だった
万物は、
「五位七十五法」と呼ばれる
要素の寄せ集めでデキている
寄せ集めだから仮の姿であり、
実体はない
でも、寄せ集められた要素には
実体があり、永遠に存在するとした
紀元2世紀~3世紀頃、
それに対する反論が登場する
「永遠に存在するものなど、何もない。
それがお釈迦様の教えだったはずだ。
要素にだって、実体はない」
それが、中観派が唱える「空の思想」
「空」とは、もろもろの事象は
縁起によって成り立っていて、
永久不変の実体がないということ
これは般若経典に説かれている考えで、
大乗仏教の根本真理といえる
物質的現象というものは
実体がないものである
この実体がないということが
物質的現象なのである
般若経ではこの物質的現象を「色」といい、
実体がないものを「空」と表現する
佐倉哲ホームページだ、懐かしい
あとは殆ど析空で空を語っている。(
中村元先生自体が析空で「空」を解説されたから。
五位百法はテンプレから外すつもりだった(笑)
素晴らしい~😭
それも真理。
体空=実体から離れた真理(潜在意識)
潜在意識=阿頼耶識を対象として起こる縁起(相依性縁起)
法理、法門を覚っていくもの。
唯識論の五位百法
この2つを並べてみれば、
唯識論が倶舎論の
自然な発展形であることが
一目瞭然
やはり捨てがたい
一つも無い。
申し訳ありません。
デッオォーの神にお叱りを受けるまえに退散します。
😓
【宗教と科学】仏教が悟っていた宇宙の真理がヤバすぎた【仮想現実】
気宇壮大氏のサイトが盗用されたようじゃ
https://www.metafaith.net/news/copyright.html
本サイトが無断でYouTube動画にされていました
実は大分前から今後の具体的な予定と予告について詳しく書いていたのですが、
少し思うところがあって公開をためらっていました。
ご存じの方も居るかも知れませんが、本サイトのいくつかのページをコピペして
くっ付けたものがYouTube動画にされていました。
一応リンクを張っておきますが、内容だけでなく文章まで完全に同じなので
偶然であることはまずないでしょう。
https://youtu.be/97mH9kO82Jk?si=kYUhLlNGghhFtmt8
あ~、あの「物質世界は存在しない」って人?
そうデス。
で、彼のサイトに、下記のとおりコメントしてあげました。
「サイト内容の盗用も、仮想現実デス。
全てを阿弥陀如来にお任せしましょう。
南無阿弥陀仏」
あなたのアーラヤ識に、平等性の種子が薫習されますよ!
ほーかいくんには
関心がないのか?
😄
此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。
比縁性、このフレーズは、劇場版009にも出てきた、確か001が言っていた
印象深い
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
これを読んでいると、まるで大乗だ
今日は、早く目が覚めてしまった
みなさん、おはよう
さて、二度寝するか
おやすみなさい😊
懐かしい
見るもの、見られるもの
写すもの、写されるもの
我々は、見るもの、写されるものに翻弄されている
本当は、見るもの、写すものに視点を変える
https://www.youtube.com/watch?v=QP-RuX5jM-w
松本零士の原画ファンにはうける~
> JBLさん、鹿野園さんも如来蔵なんで、成仏するように祈ってやってください。
鹿野園ですら如来蔵に見えてきたら、本物だ
如来蔵とは、生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているということである。如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教えである(一切衆生、悉有仏性)。
この如来蔵あるいは仏性を所有することが、あらゆる生きものがいつかは仏になり救済されうる根拠であるとする。『勝鬘経』大乗の『大般涅槃経』『楞伽経』『大乗起信論』などに説かれる。
1、初期仏教:お釈迦様の教え
2、倶舎論(部派仏教):仏教理論の体系化
3、中論(中観派):もろもろの事象は
「縁起」によって成り立っていて、
永久不変の実体がないという「空」の思想
4、唯識論(唯識派):世界は認識のみと説く
5、如来蔵思想:生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているという思想。如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教え(一切衆生、悉有仏性)。
常不軽菩薩とは、『法華経』常不軽菩薩品第二十に登場する菩薩である。彼は人をみると「私はあなた方を尊敬して決して軽くみることはしない。あなた方はみな修行して仏陀となる人々だから」と言い、人々にはずかしめられ打たれると、その場を逃げ、離れた場所から再び同じ言葉を繰返したという。そこでこの名がある。
1、釈迦教団(→初期仏典)前7世紀?~:お釈迦様の教え
2、説一切有部(→倶舎論)前2世紀~:全宇宙を五つのカテゴリーと75の構成要素(五位七十五法)に分ける整然たる体系をつくり上げ、「我は実在しないが、我を構成する要素は永遠に実在する」と唱えた
3、中論(中観派)2世紀~:もろもろの事象は「縁起」によって成り立っている。永遠に実在するものなど七十五法は永遠に実在する」という説一切有部の主張に対して、「永遠に実在するものなど何もない」という「空」の思想を唱えた
4、唯識論(唯識派)4世紀~:世界は認識のみと説く。龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと唯識は考えます。六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を独自に加えます。末那識とは深層に働く自我執着心のこと。阿頼耶識のアラヤ(alaya)とは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用をいいます。
5、如来蔵思想:生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているという思想。如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教え(一切衆生、悉有仏性)。
1、釈迦教団(→初期仏典)前7世紀?~:仏教はここから始まった
2、説一切有部(→倶舎論)前2世紀~:全宇宙を五つのカテゴリーと75の構成要素(五位七十五法)に分ける整然たる体系をつくり上げ、「我には実体が無いが、我を構成する要素には実体が有る」と唱えた
3、中論(中観派)2世紀~:もろもろの事象は「縁起」によって成り立っている。「五位七十五法は永遠に存在する」とする説一切有部に対して、「一切は空である」、「永遠に存在するものなど何もない」という「空」の思想を唱えた
4、唯識論(唯識派)4世紀~:世界は認識のみと説く。「一切は空である」とする中観派に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在すると唱えた。六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を加えて八識とした
1、釈迦教団(→初期仏典)前7世紀?~:仏教はここから始まった
↓
2、説一切有部(→倶舎論)前2世紀~:全宇宙を五つのカテゴリーと75の構成要素(五位七十五法)に分ける整然たる体系をつくり上げ、「我には実体が無いが、我を構成する要素には実体が有る」と唱えた
↓
3、中観派(→中論)2世紀~:もろもろの事象は「縁起」によって成り立っている。「五位七十五法は永遠に存在する」とする説一切有部に対して、「一切は空である」、「永遠に存在するものなど何もない」という「空」の思想を唱えた
↓
4、唯識派(→唯識論)4世紀~:世界は認識のみと説く。「一切は空である」とする中観派に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在すると唱えた。六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を加えて八識とした
1、釈迦教団(→初期仏典)前7世紀?~:仏教はここから始まった
↓
2、説一切有部(→倶舎論)前2世紀~:「我には実体が無いが、我を構成する要素には実体が有る」と説き、全宇宙を五つのカテゴリーと75の構成要素(五位七十五法)に分ける整然たる体系をつくり上げた。
↓
3、中観派(→中論)2世紀~:もろもろの事象は「縁起」によって成り立っていると説く。「世界を構成する要素は永遠に存在する」とする説一切有部に対して、「一切は空である」、「永遠に存在するものなど何もない」という「空」の思想を唱えた
↓
4、唯識派(→唯識論)4世紀~:世界は認識のみと説く。「一切は空である」とする中観派に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在すると唱えた。六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を加えて八識とした
まあ、単純化しすぎではあるが、そこは仕方ない(笑)
😄
1、釈迦教団(→初期仏典)前7世紀?~:仏教はここから始まった
↓
2、説一切有部(→倶舎論)前2世紀~:「我には実体が無いが、我を構成する要素には実体が有る」と説き、全宇宙を五つのカテゴリーと75の構成要素(五位七十五法)に分ける整然たる体系をつくり上げた。
↓
3、中観派(→中論)2世紀~:もろもろの事象は「縁起」によって成り立っていると説く。「世界を構成する要素は永遠に存在する」とする説一切有部に対して、「一切は空である」、「永遠に存在するものなど何もない」という「空」の思想を唱えた
↓
4、唯識派(→唯識論)4世紀~:世界は認識のみと説く。「一切は空である」とする中観派に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在すると唱えた。六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を加えて八識とした
五蘊・十二処・十八界
(1)五蘊(ごうん)
・色 広く物質的なモノ全般
・受 感覚を通して感受する作用
・想 認識したモノを識別する作用
・行 行動などをおこす意志の作用
・識 経験に照らして認識する作用
五蘊仮和合・・・人間(ひいては世界)は、
五蘊を寄せ集めた仮の姿
→我として執着するような実体は無い
(2)十二処(じゅうにしょ)
・六根 眼耳鼻舌身意
・六境 色声香味触法
(3)十八界(じゅうはちかい)
・六識 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
六根・六境・六識で十八界
見る心(眼識)は、眼根によって、色境をとらえる。
聴く心(耳識)は、耳根によって、声境をとらえる。
・・・以下同様
世界はこれでデキている
「世界には実体がない。
自分が認識しているものが世界なのだ」
という、仏教の基本思想がここにある
多くの部派に分かれて、
仏教理論の体系化が進んだ
最も有力な「説一切有部」は、
「五位七十五法」を唱えた
⇒ 倶舎論
初期仏教の「五蘊・十二処・十八界」
よりだいぶ数が増えた
↓
(1)五位七十五法
法(ダルマ)=存在するものに2種類
・有為(うい)…煩悩で汚れたもの
・無為(むい)…煩悩で汚れてないもの
1~4は有為、5は無為
1、色・・・物質的現象 11種類
眼・耳・鼻・舌・身・
色・声・香・味・触・
無表色
2、心・・・心の本体 1種類
3、心所・・・心の作用 46種類
大地 常駐する心の動き
大善地 善の動き
大不善地 悪の動き
不定 どちらでもない心の動き
大煩悩地 根本的な煩悩
小煩悩地 付随する煩悩
4、心不相応行・・・物質でも精神でもないもの
14種類
5、無為・・・ 3種類
虚空、択滅、非択滅
さらに要素の数が増えた
深層意識の
阿頼耶識と末那識が加わって、
五位百法に増えた
物質世界など存在しない、
すべては心の中の現象であるとした
倶舎論の五位七十五法と比べて、
「心法(精神)を最初に持ってきて、
色法(物質)を後回しにした」
「眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に
加えて、深層意識の阿頼耶識・末那識
が登場した」
↑
この2つが大きな特徴
五位百法とは、
① 心王(表面意識と深層意識)
眼・耳・鼻・舌・身・意の
六識と、マナ識・アーラヤ識の8種。
② 心所(精神的な作用)
51種。
③色(物質的な作用)
眼・耳・鼻・舌・身の五根と、
色・声・香・味・触法の五対境、
および意識のみの対象である法処所摂色11種。
④ 心不相応法(物質でも精神でもないもの)
24種。
⑤無為法(はたらきを起こすことがないもの)
虚空・択滅・非択滅・不動滅・想受滅・真如
6種。
と並行して、「如来蔵思想」が興った
如来蔵思想
生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているという思想。
如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教え(一切衆生、悉有仏性)
東アジアに広がり、日本仏教の基盤となった
「仏教とは、こういうものだ」と、
日本では思われていた
天台本覚思想
衆生は誰でも仏になれるということ、
あるいは、元から悟っているという
鎌倉-室町時代の日本の仏教界で流行した思想
衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を
具えている(本来、覚っている)が、
生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れ、
自分が仏と同じ存在であることがわからなく
なっていく・・・ということである
やがて、人間は誰もが悟っているのだから
修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、
凡夫は凡夫のままでよい、などという
急進的な解釈がされるようになった
もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする
釈迦の教説とは全く相反するものである
(これらの13宗が、さらに56派に分かれる)
1、奈良仏教
法相宗
律 宗
華厳宗
2、平安仏教
真言宗 空海 弘法大師 774-835
天台宗 最澄 伝教大師 767-822
3、法華系
日蓮宗 日蓮 立正大師 1222-1282
4、浄土系
浄土宗 源空 円光大師 1133-1212 法然
浄土真宗 親鸞 見真大師 1173-1262
融通念仏宗 良忍 聖應大師 1072-1132
時 宗 智真 証誠大師 1239-1289 一遍
5、禅宗系
臨済宗 栄西 千光法師 1141-1215
曹洞宗 道元 承陽大師 1200-1253
黄檗宗 隠元 真空大師 1592-1673
釈尊の残された教えは、南は東南アジアの国々へ広まり、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わっていきます。多くの求法の僧により、数々の経典が伝えられましたが、その中でも『妙法蓮華経』(『法華経』)という経典に釈尊の「全ての人に悟りの世界を」という考え方がもっとも明確に述べられています。
この教えに注目し仏教全体の教義を体系付けたのが智顗(ちぎ)です。智顗(538年~597年)はその晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智顗を高祖と唱えるのはこのためです。
天台大師の教えを日本に伝え、比叡山を開いて教え弘めたのは
伝教大師最澄(さいちょう)です。その教えは…
第一全ての人は皆、仏の子供と宣言しました。(悉有仏性)
釈尊が悟りを開かれたから、悟りの世界が存在するのではありません。それはニュートンが林檎の落ちるのを見ようが見まいが引力が存在するのと同じことです。悟りへの道は明らかに存在するのです。そして悟りに至る種は生まれながらにして私たちの心に植付けられていると宣言しました。あとはこのことに気付き、その種をどのように育てるかということです。
第二悟りに至る方法を全ての人々に開放しました。
仏教には八万四千もの教えがあると言われていますが、それらは別々な悟りを得る教えではなく、全ては釈尊と同じ悟りに至る方法の一つでもあるのです。例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。
多くの開祖を輩出した天台宗が日本仏教の母山と言われるのも、また日本文化の根源と言われるのもこのことからです。
第三まず、自分自身が仏であることに目覚めましょう。
そのために天台宗ではお授戒を奨めています。戒を授かるということは我が身に仏さまをお迎えすることです。仏さまとともに生きる人を菩薩といい、その行いを菩薩行といいます。
第四一隅を照らしましょう。(一隅を照らす運動)
心に仏さまを頂いた人たちが手を繋ぎ合って暮らす社会はそのまま仏さまの世界です。一日も早くそんな世の中にしたいと天台宗では考え「一隅を照らす」運動を進めています。
まず自分自身を輝いた存在としましょう。その輝きが周りも照らします。一人一人が輝きあい、手をつなぐことができればすばらしい世界が生まれます。
華厳とのデッドヒートしてたかもな〜
ライバル関係なのだろうな〜
恐らくは〜
華厳は一部残して
一つは真言密教へ
一つは禅と融合して朝鮮へ、
たぶんな
😄
仏教は
人間関係と
カリスマの影響みたいなのを想定しとるやろな〜
カリスマゼロのお威張りワンワンみたいな論外もおるが
😫
『正法眼蔵』の真髄に迫ろうと選んだ天台教学
池田 魯參 名誉教授
大学院に入って『正法眼蔵』を研究するつもりでいたら、中国仏教研究の泰斗である鎌田茂雄先生がこうおっしゃるのです。
「大学院で勉強するには今までのような勉強ではだめだ。道元禅師が若いときに学んだ比叡山の学問をやらなければいけない。自分は華厳教学をやっているので、きみは天台教学をやりなさい」
仏教学者がいくら仏典読んでも悟れないのも出離の念がないから。
仏教学者はこの世に執着している。
四諦の『苦諦』でつまづいている。
執着=苦と証智していないから、執着する。
この世の事柄に楽しみを見いだしているうちは悟りは遠い。
チベットの聖者ミラレパは
『輪廻の苦しみを思うと身の毛もよだつ』と言ったそうです。
そこから出離の心がわいてくる。
お釈迦様もその通り。お釈迦様の弟子達も。
「止観」とは静まった心で世界を観察するという意味で、坐禅を説明する際に「調身、調息、調心」すなわち姿勢と呼吸、心を整えよと、必ず「天台止観」の定義が出てくるほど重要な書です。道元禅師が「只管打坐(しかんたざ)」を提唱するには、従来の止観の伝統からさらに飛躍する必要があったので、止観の系譜をたどることは大きな意味があります。
しかし、はじめの10年ぐらいは何もわかりませんでした。何がおもしろいのか、どこに重要な意味があるのか、皆目わからない。鎌田先生は「10年がんばりなさい」と励ましてくださり、敬愛する先生のおっしゃることだからと研究を続けるうち、本当に10年ぐらいしたらポツポツわかるようになってきました。そして、ひとつわかると「あ、これもそうだ、あれもそうだ」と網目のように広がっていく。これがまた、研究の醍醐味でもあるのです。
これと同じで、私たちは日常生活でさまざまなことを経験しますが、それはすべて自分の勉強や成長に繋がっていくんですね。
現在、取り組んでいるのは天台教学をベースにした道元禅師の『正法眼蔵』の研究や、總持寺の御開山瑩山(けいざん)禅師が説述された『伝光録』の研究です。
道元禅師も「坐禅の功徳は柔軟心(にゅうなんしん)であって、柔軟心が湧いてこないような坐禅はやめたほうがいい」と言っています。どんな状況下でも、どんな人と出会っても柔らかに対応できる心が大事だということです。
朝鮮では華厳宗がメインストリームになったな~
我々が輪廻で流した涙や飲んだ乳はは大海より多い。
聖者はこの世とあの世を捨て去る。
天台小止観やった、
ハイテンション不眠のケースの瞑想法、
だるい鬱系統のケースの瞑想法が
叙述されていた、
その頃は
一回40分は止観やってたな〜
2003年頃かな
😄
俺は、そっち志向最初は弱い趣向やった〜
最近は〜〜
😄
道元禅師も「坐禅の功徳は柔軟心(にゅうなんしん)であって、柔軟心が湧いてこないような坐禅はやめたほうがいい」と言っています。どんな状況下でも、どんな人と出会っても柔らかに対応できる心が大事だということです。
いう
ワンワン、
まったく
変化がなかったよーだ
ま、
ハッタリコスプレやならな〜
😫
静寂と虚空の
方向性から
生まれてくるよーだ
今年5月に入るまで、
静寂と虚空への
方向性が関心薄げ
であった
😄
ワンワン〜〜
😫
1000.
ユーザー
鹿野園◆00MWura8lSZF
いつ自殺するんだろうねwww
2023/10/09 08:28:37
MbXKk
シカチャマ~😂😂😂
と言って
これだ
🤢
敵意によって地獄に落ちたコーカーリヤを知ってる?
シカチャマ~😂😂😂
スッタニパータ、仏弟子の告白、尼僧の告白、ブッダ最後の旅などアップされてますよ。
青い背景の仏像が画面の朗読が良いです。
朗読者によっては心に入ってこないのもありますね。
わたしは長距離運転のときはラジオ代わりに聴いてます。
ホントは寝るときにも聴いた方がより潜在意識に入ると思います。
潜在意識に真理の言葉が根付いたら、自殺教唆とか出来なくなると思います。
静寂と虚空の
方向性から
生まれてくるよーだ
みたいなのが
仏教の共通なのだろな〜
なんちゃって臨済宗ワンワンでは
害悪しか
なさそうである
🤢
かなりリアリティがあって面白い。
尼僧の告白では、意地悪な夫から離れて出家した尼さんや
娘と同じ旦那を持つ苦しみから逃れて出家した尼さん
などなどの告白が生々しい。
仏弟子の告白では、死体に欲情してしまい自己嫌悪になり
出離の念がわいた仏弟子など
包み隠さない告白があって面白い。
さらに仏弟子の告白にはダンマパダにも説かれている教えもあり
復習にもなります。
🙏🙏🙏
どーでもええ〜
的な
超越のスタート地点が
まともな宗教の
スタート地点かもしれん
😄
天眼(未来世を見る神通)
漏尽(煩悩を見抜く神通)
宿命(過去世を見る神通)
この三つが三つの明智(三明)なんだね。
これが釈尊の解脱した直弟子の神通力として備わっていたと。
現代の似非解脱者を見抜くには、三明があるかどうかを調べるのが明解であると。
自殺しろ。
とか
いうのは
やはり、世俗から全く離れるスタートがないのだ
😫
男が目が美しいと尼さんを褒めてきたから
じゃあこの目をくれてやると、自ら自分の目をくり抜いて男に差し出したら
男は反省して謝ったと。
釈尊の弟子は我が身さえも執着してなかった。
こりゃみんな信者になってしまう。
シカチャマ~😂😂😂
早見沙織、日笠陽子、伊藤静、川澄綾子等
独断と偏見で
俺ガイル 場面集 / 鉄壁の雪ノ下 / 雪ノ下雪乃https://www.youtube.com/watch?v=V3XqFY0ncxQ
この毒舌で、早見沙織の声が好きになったw
禅僧ごっこに、仏教学者ごっこ😅
幼稚園のお遊戯だな😂
こんにちわ・
https://talk.jp/boards/psy/1696310082
😄
97、
何ものかを信ずることなく、
作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、
生死の絆を断ち、
(善悪をなすに)よしなく、
欲求を捨て去った人
___かれこそ実に最上の人である。
*ここでも出てくる
「何ものかを信ずることなく、」
私は、とりあえず、現代人だからね
娑婆を修行の場としている
仕事も修行である
一時は仕事は修行から離れようと思ったが
やめた
娑婆の轟音に飲まれないのも、また修行
どうでもいいとは、いい響きである
では、またね
磨いてできることもあるが、できないこともあるが、磨くしかないのだ
それらは、みな仏祖が受け継いできた家業なのだ
このフレーズも、どうでもいい好きなものの一つだ
私にとって、仏教とは陰でありながら、本業なのだろう
5ちゃんねるの会話はバトル形式で馴れ合いを禁じる。ググるシッタカ知障イヌヤマは、褒めてクレヨの哀願奴隷。相手を罵倒する悪口雑言の数々は外道イヌヤマへのリアル社会の絶対評価で、荒らしイヌヤマは問いに問いで返す脊髄反射の脳足りんで悟前(ごぜん)未悟(みご)、金魚ドジョウと救い難い。
病名:発達障害ASDの症状尊大のインチキキチガイ雀鬼イヌヤマが自供ス。『正直云って仏とは何かと問われても分かりません、公案が進んで無くよくわからないのです』 知障イヌ咬み談
ウソブクのよ透ってないのに、もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら初関を透る、じゃねーべ!
イヌ:悟りとか分からねーし、知らねーし、悟ってねーわ? ググるイヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求哀願奴隷也
悪霊イヌが鳴く:なんで 宗教板って まともなの俺だけなんだ?みんな間違ってばっか俺だけが正しい。みんな間違ってるのに何で正しい事を言ってる俺は否定ばっかりされるんだ?みんな俺のことを 凄いなと認めろよ。 俺は自分より優れた奴が ゆるせないんだよ(脅迫性人格障害の特徴)
ナント妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、茶菓(ちゃか)代ワンコインで、これが研究会出席虚勢のトマヌケ犬は誰からも疎まれる
独善イヌヤマは月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証。命取りの摂心に親子で100回参加と虚飾スル
新小岩の食業ドライバーイヌヤマとは法相宗(ほっそうしゅう)>奈良 興福寺(こうふくじ)前官長じっちゃんのお抱え運転手で食業ドライバーの門外漢だから、知ったかぶる以外に承認欲求を満たす事が無い。
多数者を演じ孤立してないと強弁し自作自演のおぞましい日々の無脊椎動物イヌヤマは成り済まし多重人格者で要治療
統失、薬中、精神病院2ヶ月入院、A型作業所:イヌヤマ軍曹麦屁魔女エロ和尚アカベイ偽和尚狗の大王野良は異名同一人物がAAキャラ変の極悪人
① 荒らしイヌ麦は無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。シッタカイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる
② 放置された固定観念イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘う。ワケワカメ糞邪鬼イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗
③ ;反撃はイヌの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。門前のヤセイヌにエサを投げ与えぬ事
④ ;臭い汚いコワイ気持ち悪いイヌヤマが枯死する迄、孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除
平等性智まであと3回生まれ変わればいけるぞーーー‼️
―真如所縁縁種子から無漏種子へ―
吉村 誠
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%8169/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81%2069%20-%20004%E5%90%89%E6%9D%91%20%E8%AA%A0%E3%80%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE%E3%81%AE%E7%A8%AE%E5%AD%90%E8%AA%AC%20%EF%BC%9A%20%E7%9C%9F%E5%A6%82%E6%89%80%E7%B8%81%E7%B8%81%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%8B%E3%82%89%E7%84%A1%E6%BC%8F%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%B8%E3%80%8D.pdf
●【種姓 差別】は
【二障 の 有無】による、とする『瑜伽論』の説が、
●【 種姓 差別 】は
【 本有 無漏 種子 】の【有無】による、という意味に、置き換えて解釈されている。
● すなわち、全く【無漏 種子】が無く、
【二障】の【種子】を
【永久に断ずる】ことの【でき無い】者は、
【非 涅槃 法】【無性 有情】である。
● ただ【二乗】の【無漏 種子】だけがあり、
【所知障】の【種子】を【永久に断ずる】ことができ無い者は、
【声聞 種姓】ないし【独覚 種姓】である。
●【仏】の【無漏 種子】があり【二障】の【種子】を、【永久に 断ずる】ことができる者は、
【如来 種姓】【菩薩 種姓】である。
● つまり【本有 無漏 種子】の【有無】によって、
【二障】の【可断・不可断】があるという。
● そして、『瑜伽 論』は、
【無漏 種子】が【微隠】で【知り難い】ため、
【二障】の【有無】によって【種姓差別】を説いているのである、
という解釈である。
● ここは【五姓 各別 説】の典拠の一つとされるところであるが、
それは瑜伽論の本文に【本有 無漏種子説】を読み込むかたちで作られているのである。
以上、『成唯識論』の【種子説】で議論の焦点となっているのは、
【合生 義】そのものというよりも、むしろ【無漏種子】、特に【 本有 無漏 種子 】の【存在論証】であるということが知られた。
● それでは、どうして?
【無漏種子】の存在は、それほど【強く主張】されなければ ならなかったのだろうか?
この問題を、解明する手がかりは、
『成唯識論』が【合生 義】で会通しなければならなかった、『摂大乗論』の【 聞 熏 習 説】や『瑜伽論』の【種姓差別説】の中にあるはずである。
「すべては空であるとしても、それは、我々は言語によって虚構的に
構成している世界の問題であり、そのような言語使用を離れた究極の体験は厳然
として存在する」と考えた。
「龍樹のように、すべてを空であるとし、あらゆる言語化を否定すれば、釈尊の
悟りという究極の体験すら否定し、無視する結果を招く。」と中観派を批判した。
皆さんは中観派を支持しますか、それとも、唯識派を支持しますか?
この「空」の理論の大成は龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。(なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち『中論(頌)』以外のほとんどは、近代仏教学では龍樹の真作か疑わしいと見られている。)
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。
さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、縁起によってすべての存在は無自性であり、それによって「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこれから「無自性空」とも呼ばれる。
しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に知覚するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
『大品般若経』の中に以上の内容が含まれているため、龍樹自身がこの経典編纂に携わっていたのではないかという説もある。
この説を、空である法の世界と、言語によって誤って概念的に認識した世界を、それぞれ真諦と俗諦という二つの真理があるとする。言葉では表現できない釈迦のさとりは真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。
さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。
言語化や概念化することが欠かせない
真諦は、言語にできない
中観派ほどはコダワっていない
https://hu.repo.nii.ac.jp/record/1149/files/004-83-07.pdf
『弁中辺論』
●ー此こに於いては二は都(ス)べて無しとは、
謂わく、即ち此の【虚妄 分別】に於いて、
永く【所取】と【能取】との【二性無き】なり。( 1四六四b )
ーここにおいて二はまったく無しというのは、この【 虚妄 分別 】において、
永久(無始無終)に【所取】と【能取】との二者が【絶えて無い】ということである。
●ー此中には唯だ【空のみ有り】とは、
謂わく、【 虚妄 分別 中 】には、
但だ、【所取】及び【能取】を【離し】たる≪【空性】≫のみ有るなり。
ーここには唯だ【空のみ有り】というのは、
【二取】が【絶えて無い】時
【虚妄分別中】には、但だ、
【所取】と【能取】とは【無縁】の、
【空性】のみが【有る】ということである
20世紀は言語哲学が全盛の時代だったため
過剰に言語哲学っぽく解釈するのが流行した
だが、中観派も唯識派も、言語哲学ではない
「そういう面もある」というにすぎない
ナーガールジュナや中観派(帰謬論証派)は、帰謬論証(背理法)に頼ったその態度や、「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)に象徴されるような、直感的に分かりづらく、一見矛盾・支離滅裂とすら感じられるような側面に焦点を当てれば、神秘主義・否定神学との近似性が見出される。
仏教学者中村元は、「縁起」「空」を中心とした中観派の思想を、欧州や中国など、同時代の他地域の思想と比較し、神秘主義の1つである新プラトン主義(ネオプラトニズム)、とりわけ偽ディオニシウス・アレオパギタらの「否定神学」(神秘神学)を、比較的近しいものとして挙げている。
●ー亦た全無にも非ず、
中に於いて少しく乱識の生ずること有るが故に。
●ーさりながら全無でもない。
乱識の範囲では生じているからである。
●【乱識】というのは、身心のある限りまぬかれ得ない【意識活動】のことである。
『弁中辺論』
●ー何んぞ【 此の性】の【全 無】なることを許さざる。
此れ【滅して】【解脱】を【得と許す】が故に。
若し此れに異ならば【繋縛】かも【解脱】も則ち応に皆な【無かる】べし。
是くの如ければ便ち【雑染】及び【清浄】を【発無】する【失を成さん】。
●ーではどうして【識】の【全 無】は許されないのか?。
【識の滅】から【解脱】が【得られる】と認められているからである。
もしそうでないならば、【煩悩の繋縛】もそれからの【解脱もない】ことになるはずである。
そうなれば、【雑染】から【清浄】へという【仏道】を【発無】する
【あやまちを犯す】ことになろう。
途中の議論が長すぎたが、虚妄分別の意味が明らかになったので、空性の問題に立ち返ろう。
はつ‐む【撥無】
?名? 払いのけて信用しないこと。否定し、しりぞけること。はちむ。はつぶ。
※正法眼蔵(1231‐53)深信因果「いたづらに撥無(はつむ)因果のあやまりあり」
はつ‐ぶ【撥無】
?名? =はつむ(撥無)
※色葉字類抄(1177‐81)「撥撫 ハツブ」
龍樹の中論解釈は
道元が一番成功しているかもね〜
たぶんね〜
😄
😄
一番得意としているかもな〜
😄
135.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
言語による教えは、俗諦
真諦は、言語にできない
2023/10/09 19:48:15
cVIwj
136.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
言語化、概念化にこだわるのが、中観派の特徴だ
釈迦牟尼仏の経典の解釈の一つということを
すっ飛ばしてる人が多い
経>>>論>>>釈、なのだが
古来からのこの価値観も今は忘れられている
🤢
🤢🤢🤢🤢
ほーかいくんスレで
何故やらない?
ここよりも対話が成り立つとは
思うのだか?
😟
仏教平均の視点では、
さらに
アキラーンは正宗信仰の法華経論に過ぎない
😟
このスレでも変な人に妨害されている人ほど正しい
変な人に変な人と言われてマトモ
…これに尽きる
釈迦牟尼仏は外道に大悪人と罵られて出世した
天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと
伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし
皆法華経のゆへなればはぢならず
愚人にほめられたるは第一のはぢなり(開目抄下)
同意😆
🤢
唯識論にいっていい?
中論マヂ無理ィ
キミはその固定観念が何か
理解できてるのか?人が言ってる内容が
わかってレスしているのか?
ただ名前欄しか見てないで
嫌いな人がレスしたら拒絶してるだけでは?
ワンパターンで
同じところを
クルクル回っている
サーキットアキラーン
🤢
私は経典を第一にしている このことからも
人の言ってる内容が分かってないで
ヤミクモに、レスしているように思われる
それはキミではないか
会話の内容は常に変化している
キミは人にレッテル張りをして
内容を読んでない
日蓮の法華経の経典論を第一にしているだけで
法華経を理解しているわけではない
🤢
結論ありきの
アキラーン、
クルクル回転するな〜
あっちへいけ〜
🤢
法華経を理解したら
第一に置くことは分かるはずだが
むしろ結論もないのにレスするなら
ロムってた方がいい
アキラーンの固定概念のワンマンライブは
いりません、お引き取りを
🤢
降臨っ!!
🫨🫨🫨🫨
でお〜の茶化し実況の方がいらん
🫠🫠🫠🫠
オンチ仏教ワンマンライブいりません
お帰りください
🤢
いつまでもキミみたいに
ここに張り付いているつもりはない
変なのが居座れば変なのしか居なくなる
コテについて語ってる時点でズレてる
あ!誰々がきた!誰々が書き込んだ!
ワンワンだ!アキラーンだ!
それしか読めてないんだなコイツw
それ以上の考察は無理
何が書いているか理解不能だから
深い会話は無理やん
あとキミと会話したいんじゃなくて
JBLとかと話そうと思って来たんだが
なんで、でお〜が仕切ってるんだ?
アキラーンは
自分の観念に引き込もって
自分の観念に合わせた考察を
押しつけて
回転しているだけ
自覚すらないし〜
🤢
ワンワン
🫨
その観念を説明してみ?
理解してるなら 理解もしないでよく言う
日蓮と正宗で仕込まれた
法華経解釈の観念。
🤢
ちゃんと読んでるのか?
というのは?どういうの?
具体的に
あと完璧に正宗教学と同化してるわけじゃないが
思っているのは日本では
少数派、
それを説得できると
アキラーンは
妄想回転している
🤢
正宗教学と同化してるわけじゃない
と言ってるんだが、思い込みのレッテルやん
土台が正宗教理なので、
普通のマジメな日本人仏教者からすると
一般人から見る幸福の科学みたいなもん
🤢
偏見だな
幸福の科学を土台にして
独自解釈しても、
幸福の科学の発想観念を継承している、
そんな感じをアキラーンにいつも感じる、
通じない教理を必死で広めようと妄想回転するアキラーン、
と
🤢
だからでお〜って可笑しいんだろうな
日本語も変だし
お前の禅天魔、真言亡国の
ほうが
偏見に見える
おまゆう
🤢
いや、俺の論じゃないが
日蓮大聖人の論
念仏無間、真言亡国、禅天魔
マメにレスするアキラーンは
偏見の固まりに見えて
とても気持ちワルイ
🤢
そうか 気持ち悪いのはキミの方だが
日蓮の法華経の解釈論を言っている
盲信しているのだろ?
アキラーンは
それが固定概念。
🤢
アキラーンは
🤢
それを受け入れないのもまた固定観念
人を排除して小乗仏教にふさわしい
立派に残るものではある 少なくとも
でお〜の駄レスよりタメになる
固定概念回転し始めた
ウザい
🤢
固定観念だろ 日本語やりなおせ
固定概念を押しつける
アキラーン、
ほんと
懲りないお方だ
🤢
…
日本語おかしいレス多いよな
会話のテンポが、変
🤢
意味不明で支離滅裂と批判したから根に持ってるのかもな
でも小学生より酷い文だったから仕方ないだろとは思う
🤢
そういう造語症な部分も気持ち悪い
オモロイ
😄
キミはスレ違い
でお~って誰も言わないが
日本語おかしいレス多いよな
ゼーッタイ!そうだそうだ!
😂
👽
やはり以前にでお~の渾身の長文を
意味不明で支離滅裂と批判したから根に持ってるのかもな
でも小学生より酷い文だったから仕方ないだろとは思う
まったくーそうだ!そうだ!
😆
仏教について語ろう
キミはスレ違い
激しく同意😆
素朴な疑問
釈迦牟尼仏の話をしよう それが宗教というものだ
日蓮正宗教理の固定観念に
凝り固まった押しつけ回転話リターンしたいだけやろ?
アキラーン
🤢
誰が、でお~のこと好きなん?
素朴な疑問
居ません!😆
👽
いや今の通説をいろいろ検討したいだけだが
今が末法なら現代の仏教界ほど間違ってる事になる
正確と思われがちだが
3日前の夕飯と30年前の夕飯なら3日前の方がまだ
思い出す可能性の方が高い
まして3000年前近くなると
もはやアイマイもいいところになる
日蓮の時代の方がまだ釈迦牟尼仏の時代に近い分
正確かもしれん
言い方誤魔化しても
やはり
日蓮正宗教理の固定観念に
凝り固まった押しつけ回転話リターンしたいだけやろ?
に変更無しの
アキラーン
🤢
ガチ坊さんや歴史上の著名な坊さんは
所謂小乗の悟りは済みでそっから
どう理論立てて在家を導くかって苦心してきたんだろう
まあ今の世襲の坊さんが阿羅漢かって言われれば違うんだろうけど
苦心した在家用の教えしかやれてなさそう
日蓮正宗教理の固定観念に
凝り固まった押しつけ回転話リターンの説明しかしてない
ウザい
🤢
それぞれが思うところの結論として
何かの宗旨を信奉してることは仕方ないんじゃないかな
それで日蓮だと拒絶する意味はなぜだ?
理解しないのか?
>日蓮正宗教理の固定観念に
凝り固まった押しつけ回転話リターン
🤢🤢🤢🤢🤢🤢🤢🤢
少なくとも中観派とか唯識派は
大乗こそ仏教というスタンスだったな
なぜかこのスレだと唯識派といいつつ
スッタニパータを併用したりする人もいるが
キミは日蓮が嫌いなのか?
法華経に無い
不動明王や愛染明王や
八幡大菩薩とかアマテラスを
ご本尊に
取り入れたりするクセに
過信し過ぎだろな
😄
凝り固まった押しつけ回転話リターンしか
しねえだろから、
あっちへいけ〜
🤢
宝塔品に云く
諸の大衆を接して皆虚空に在り
とあるが
>>234
法華経に無い
不動明王や愛染明王や
八幡大菩薩とかアマテラスを
ご本尊に
取り入れたりするクセに
過信し過ぎだろな
😄
一理あるな😭
でお〜もこのスレでは名乗ってないが
でお〜は居るのと同じだ
>>235
宝塔品に云く
諸の大衆を接して皆虚空に在り
とあるが
うーむ、一理あるな😃
こういう指摘で
過去、アキラーンは
スカトロ動画を連投した
アキラーンの黒歴史
😱
不浄観の実践だが、数息観と双璧をなす
言いながら、
真言の虚空蔵菩薩をやったり、
真言の不動明王と愛染明王をご本尊に取り入れたり、
日蓮は自己矛盾の塊である
😱
言わせない
真言亡国なのは、釈迦牟尼仏を
大日如来で押し倒すから
脇役を脇役として取り入れることは
何も問題ない
真言亡国を
言いながら、
真言の虚空蔵菩薩をやったり、
真言の不動明王と愛染明王をご本尊に取り入れたり、
日蓮は自己矛盾の塊である
😱
言われてみれば、うーむ😔
在家向けで求道者なら阿羅漢は済ましておけって思うで
凝り固まった押しつけ回転話リターンには飽き飽きだ〜
あっちへいけ〜
🤢
そうなのか☺️
それは小乗の方が上位だと考えるからか?
そういうスカトロ黒歴史のアキラーン日蓮正宗教理の固定観念に
凝り固まった押しつけ回転話リターンには飽き飽きだ~
あっちへいけ~
🤢
あっちって、どっちだー?😂
神社参拝を嫌がるこだわりがあり、
日興がそれを主張したからとか言いながら、
日蓮のご本尊は八幡大菩薩やアマテラスの神社関連を取り入れている
教理矛盾だ
😱
天上門の法門を知った方がいい
😄
神そのものは別に拒絶しないが
神は神社には居ないから参詣する意味がないというもの
アキラーン日蓮正宗教理の固定観念に
凝り固まった押しつけ回転話リターンには飽き飽きだ~
あっちへいけ~
神社には居ないから行く意味がないだけで
神そのものは受け入れている
お前の理解が誤解だらけだから
間違いを正してるだけだ
大乗が在家に寄り添ったものだからよ
お前ら、しっかり坐れや💢
凝り固まってる基礎にした
アキラーン
いらーん
🤢
寄り添ったら下位なのか?
おまえの日本語の方がポンコツだわ
さっそく、朝令暮改ワンワンか?
🤢
アキラーン
🤢
誰も下位とか言ってないでしょう
浄土真宗の坊さんが在家の教えのまま茶髪ロン毛できたら嫌だろ
キミの言い方からは“上座部”というニュアンスが
ぞんぶんに受け取れるけど
>>261
おまえの日本語の方がポンコツだわ
はげしく同意😆
何故その大乗の教えに辿り着いたのか?
をトレースして欲しいわな
そのまま在家用で満足せず
https://i.imgur.com/3btjAtF.jpeg
https://www.youtube.com/watch?v=2o4CspORfFQ
まんが日本昔ばなし2023 Vol 3385 - 2,08,37
https://www.youtube.com/watch?v=SeiYGJDwjg4
まんが日本昔ばなし2023 Vol 3384 - 2,08,00
https://www.youtube.com/watch?v=23_oWm0yzxY
声聞は仏の側近だった
自分の幸せを優先するエゴイストだった
違うだろうか
経典の通りに、魅力が溢れ出て
有り余る存在なら、だ
そういうことだろう
側近でいれる席も限られている…
椅子取りゲーム、だ
懲りねえな〜
🤢
毒を薬と思う…
固定観念クルクル無間回転
🤢
ある種の
依存症だろな
無間クルクルするのは
🤢
仏教徒って何を指すんだ?
在家ってことなら生死と苦だろ
それが在家の意見だったから大乗が流行ったってだけだろ
仏教徒とは、仏教を信仰し、お釈迦様が説いた教えを日々の生活の中で実践している人のことです。また、これは在家者、出家者を問いません。
初期仏教は、日本人にとって古くて新しい教えに感じる
https://i.imgur.com/hMebWmQ.jpeg
仏のファンだろ
声聞等
当時はな
今の在家は釈迦どうこうの前に
死後が気になるからだろ動機は
そのあとのこともお考えになられた
自灯明法灯明
私から見れば、順観逆観が織り交ざっているように思われる
竜樹は逆観を説かれた
觀因緣品第一 十六偈
1・1
1 不生にして亦た不滅、
2 不常にして亦た不断、
3 不一にして亦た不異、
4 不来にして亦た不出
1・2
5 能く是の因縁を説きて、
6 善く諸の戯論を滅したまえば、
7 我れは稽首として仏を礼す、
8 諸説中の第一なりと。
釈迦
13
走っても疾過ぎることなく、
また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」
と知って迷妄を離れた修行者は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
*諸説中の第一なりと。
わたしは、我れは稽首として仏を礼す、
おはよう
私はそうは、思わない
頷く
おはよ〜😄
それは
正解
😄
在家用に苦心して考えられた
即身成仏である
その考え、理論に辿り着くには声聞、縁覚は必須であることは明白
その教えを行えば
君や俺は小乗は端折れるってだけのこと
どちらが上とか下とかではないよな?
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
ひたすら唱えればいい
シンプルな教え
大方広仏華厳経
大方広仏華厳経
↑
これをひたすら唱えても、効果は同じなんじゃないかな?
南無妙法蓮華経をただ唱えるだけの
在家風情が他宗派をディスってるのは
滑稽でしかないのは理解頂けた?
誤解している
他宗派が先に法華経を誹謗してしまった…
コレも、誤解している…大乗仏教において
仏のストーカーだった声聞、縁覚が
許されたのも、法華経しかない
いや晃さん御本人に俺は言っている
先に、南を北だといい、西を東だと言う偉い人がいて
後から来た人が、南は南だと言い、西は西だと指摘すれば
その人は、偉い人をディスっている事になるだろうか?
日蓮もそういう迫害を受けた
用意された教義をただ信じてる人が
他宗派をディスるのが滑稽だって話よ
あなたの事です
キミも上座部の優位性を信じているのでは無いのかな
なぜ、自分だけ棚上げが許されるのか、分からない
何かを信じないと、宗教は、仏教はあり得ないのではないか
価値観の優先順位の対立が起きるのは
仕方ないことでは?
懐かしい
https://www.youtube.com/watch?v=gdNci7nkCZM
じゃあね
私にはそのようなことは無い
日蓮は日蓮
晃は晃
有為に置ければ、反骨精神旺盛な日蓮は凄いと思う
気概の人
日本仏教史の大巨人だな~😄
―真如所縁縁種子から無漏種子へ―
吉村 誠
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%8169/%E9%A7%92%E6%BE%A4%E5%A4%A7%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E9%83%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81%2069%20-%20004%E5%90%89%E6%9D%91%20%E8%AA%A0%E3%80%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE%E3%81%AE%E7%A8%AE%E5%AD%90%E8%AA%AC%20%EF%BC%9A%20%E7%9C%9F%E5%A6%82%E6%89%80%E7%B8%81%E7%B8%81%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%8B%E3%82%89%E7%84%A1%E6%BC%8F%E7%A8%AE%E5%AD%90%E3%81%B8%E3%80%8D.pdf
【二障の有無】による、とする『瑜伽論』の説が、
●【種姓差別】は
【本有無漏種子】の【有無】による、という意味に、置き換えて解釈されている。
● すなわち、全く【無漏種子】が無く、
【二障】の【種子】を【永久に断ずる】ことのでき無い者は、
【非涅槃法】①【無性有情】である。
● ただ、【二乗】の【無漏種子】だけがあり、
【所知障】の【種子】を【永久に断ずる】ことができ無い者は、
②【声聞種姓】ないし②【独覚種姓】である。
●【仏】の【無漏種子】があり、【二障】の【種子】を、【永久に断ずる】ことができる者は、
③【如来種姓】③【菩薩種姓】である。
● つまり【本有 無漏 種子】の【有無】によって、
【二障】の【可断・不可断】があるという。
● そして、『瑜伽論』は、
【無漏種子】が【微隠】で【知り難い】ため、
【二障】の【有無】によって【種姓差別】を説いているのである、
という解釈である。
● ここは【五姓各別説】の典拠の一つとされるところであるが、
それは【瑜伽論】の本文に【本有無漏種子説】を読み込むかたちで作られているのである。
以上、【成唯識論】の【種子説】で議論の焦点となっているのは、
【合生 義】そのものというよりも、むしろ【無漏 種子】特に
【本有 無漏 種子】の
【存在 論証】であるということが知られた。
● それでは、どうして?
【 無漏 種子 】の存在は、それほどに
【 強く 主張 】されなければ ならなかったのだろうか?
● この問題を、解明する手がかりは、
【成唯識論】が【合生 義】で会通しなければならなかった、【摂大乗論】の
【 聞 熏習 説】や【瑜伽論】の
【種姓 差別 説】の中にあるはずである。
https://i.imgur.com/oPZMebX.jpg
JBLさん、こんばんは♩♩♫♩♬
お釈迦さまと少数のお弟子さん以外に仏教の解脱者はいるの?
中国仏教界にいた?日本にいた?
解脱した人はいるだろうけど、
有名人にはあんまりいないでしょ
本当に解脱する人は、無名で埋もれた
人生を送るのでは
仏教じゃないけど
戯論とは、戯(たわむ)れの論と書くが、
要するに、どうでもいい
という曖昧なスタンスで論じることこそが
戯論である
戯論を離れるとは、どこまでも真面目に
真摯に、マジレスをすると言うこと
と結論を引っ込めることが、真面目だろうか?
この中途半端な姿勢こそが、戯論の中にいることになる
という中観派もなくはないが、コレも大真面目に
考察した結果の結論であるからして、戯論とは言い難い
論者の“本気度”にある
こうなると、どんな些細なネタでも
マジレスを尽くせば戯論にはもはやならない
つまらん
🤢
大活躍だ
😄
「戯論」はまたちょっと違う意味になるな
我は無い、ただ全体あるのみ
ところが、人間はモノに名前をつけて区別し、世界を分割している
だが、バレーボールのワールドカップでは、それは低身長を意味する
「身長がないのを動きでカバーする」という話になる
それは、欧米のチームの選手の身長が、もっと高いから
まさにアキラーンのレス
🤢
キリンと比べたら、背が低い
高い・低いなど、相対的なものなのだ
鹿野園は「仏教の研究機関」にいて、
周囲の専門家たちに対する劣等感に
さいなまれてきた
でも、匿名掲示板なら俺がトップ!
無双できるんじゃないかと考えた
そういうのが、相対的な比較に囚われた戯論
結果は言うまでもなく、
宗教板でさんざんバカにされ
見下されているのだが(笑)
中道から外れたら戯論、という
ソースはあるのか?
自分勝手な論なら、戯論というか
“己義”という分類になる
「戯論 中論」で検索
中論の反対は戯論
この2つは対義語
そもそも、中論の定義は何なのか
中論の定義が何もないなら、戯論の定義も定まらない
「バカげた話」という意味でも使われる
ただ、仏教哲学、とくに中観派では、
戯論は「相対的な価値観に囚われ、
中道から外れた見解」というような意味
そんなもの、まるで主観的な話だよな
価値を見出すか見出さないか なんて
高いと低い、きれいと汚い、賢いと愚か、良いと悪い
こういった相対的な比較に囚われ、
本来は切れ目なく一体である世界を
概念的に分割するのが「戯論」
そこから脱却したのが「中論」
それは、「有る」と「無い」
中論では“空”を解いたはずだ
その解釈だと世界は一体とあったか?
その議題のテーマによるのではなく
やはり論者の本気度によるものと思われる
一切の分離のない、一体の世界を観ること
それが大乗の極致
空の思想は、そのためにある
まあ確かに、「戯論」という言葉をそういう意味で使うなら、その通り
全てが、つまらない、という平等思想か
まあ、そうとも言える
スーパー平等思想
本気出して考えた結果
つまらないなら、それは空じたことになり
戯論を離れたことにはなるな
ふざけていつまでも面白がっていたら戯論
というのはある…
少し独裁者が過ぎないか?
いかようにも変わる
だから、龍樹は、つかみどころのない
煙に巻くような議論を“本気”で行うことで
戯論を黙らせることにしたのかもしれない…
どこにある?
「有るでもないし、無いでもない」
「永遠に続くわけでもないし、終わるわけでもない」
こんな具合に、常に「・・・ではない」という否定形で語るしかない
そこが、中論の弱点
「中論意外は全部戯論」は言いすぎ
そういう極端な見解こそ戯論
「戯論ではないもの。それが中論」
っていう感じかな
戯論と中論が二項対立としたのは>>344のキミだけど
訂正するのか
中論が戯論じゃないのは、龍樹が
“大真面目”に論じたからであり
ネタじゃなかったことに尽きる…
中論自体は、結構、支離滅裂で、仏教の究竟とは
言い難い やはり“論”である以上、“経典”に劣る
面白がったネタにしか見えない、ああいうのを戯論と呼ぶ
そこが、この手の話の微妙なところで
二項対立にハマったらダメなのだ(笑)
極端な見解から離れるのが中道なのに
中論という、別の極端な見解にハマったのでは本末転倒
「シカーチン」は「talk掲示板のプーチン」だと分かるが(笑)
しかし対立だろうが、2つの地点がないと
その中間をそもそも取れないのではないか?
コーラン的な、語感では?
クルアーンと、コーランか
そうなのだ
「有るでもないし、無いでもない」
「汚くもないし、キレイでもない」
こんな具合に、「・・・でもなければ、~~~でもない」という否定形でしか語れない
それ自体で成り立たないのが、中道の欠点
余計なものを淘汰する、という意味では
役割はあるのかもしれない 般若心経も淘汰が目的というし
龍樹の空思想も般若心経から来てる
説一切有部に対立する学派の人
「・・・は無い、~~~も無い」と、
説一切有部の仏教理論では「世界の構成要素」
とされるモノををひとつひとつ挙げては、
いちいち否定
ボロクソに否定する内容
仏説じゃないのか…
創作なのか
観音菩薩の説法だったような
「眼耳舌身意は無い、色声香味触法は無い、無明は無い、苦集滅道は無い・・・」
と、ひとつひとつ挙げては、バッサバサと否定
説一切有部はもちろん、初期仏教すら否定する内容
「初期仏教や説一切有部に対してアンチのスタンスの人が書いたものだ」
ということに、ここ数年ほどで気づいた
🤢
「眼耳舌身意は有る、色声香味触法は有る、無明は有る・・・」
というのが、説一切有部のスタンス
これらは永遠に存在するバーツであり、世界を構成する要素
古代インドでは、その考え方が主流だった
「鼻」が抜けとったわ😫
「一切は有る」と説く部が主流派だった
故にアキラーンのスタンスは
問題がある
😄
スマナサーラは
その系譜だろう
生滅智は
余裕だ〜
ヨルカ〜
😄
ま〜やれる
😄
🐸
170 鹿野園◆00MWura8lSZF 2023/10/10(火) 20:57:16.48 ID:xJS0B
部外者のスレでは何時ものように支離滅裂な解釈してはドヤ顔で吹聴している訳ですが、今回は「戯論」について取り沙汰してるので少し解説をしてみましょう。
先ず確認しておきたいのは「分別」はvikalpa(ヴィカルパ)の漢訳であり、また「戯論」は、prapanca(プラパンチャ)の漢訳であるということです。
梶山先生はそこを「思惟」と「ことばの虚構」と説明され、
ーーーーーーーー
そして、ヴィカルパ(分別)が、プラパンチャ(戯論)よりおこる、というのは、
人間の思惟は、実在とは無関係な『虚構』にすぎないことばに基づいている、ということである。
判断というのは、少なくとも、二個の名辞を必要とする(サンスクリットの命題においては繋辞は多くの場合省略される)。
判断は言語の多元性にもとづき、思惟はことばの『虚構』より生起すると、ナーガルージュナが考えたのはきわめて当然のことである。
(仏教の思想3 空の論理<中観>)
ーーーーーーーーーー
と解説されております。
173 鹿野園◆00MWura8lSZF 2023/10/10(火) 21:07:11.28 ID:xJS0B
部外者スレでは「中道から外れたのが戯論」などどドヤ顔して吹聴してるようですがw
まぁ、所詮は部外者、仏教とは無関係なので好きなように言わせて置くとしましょう。
我々正統派の宗教者はそれをもネタにして、教義の正しい理解と受容、そしてその実践をするのが眼目ですからね。
そして更に瑜伽行唯識学派では、その思惟(分別)やことばの虚構(戯論)の源泉を阿頼耶識に蔵される言語種子と説いた訳なんです。
それについてはまた別の機会に考察することと致しましょう。
😟
🤢
道元の即心是佛
山河大地心は、山河大地のみである
出だしは、名称+心が付き、そのあとは名称だけである
こころが有り、ほとけが有り、こころが無く、ほとけが無く、では、なにが有る?無いが有る、それが地獄。
>というか般若心経って観音菩薩の説法だったような
'di skad bdag gis thos pa dus gcig na/ bcom ldan 'das rgyal po'i khab na bya rgod phung po'i ri la/
dge slong gi dge 'dun chen po dang / byang chub sems dpa'i dge 'dun chen po dang
thabs cig tu bzhugs te/ de'i tshe bcom ldan 'das zab mo snang ba zhes bya ba'i chos kyi rnam
grangs kyi ting nge 'dzin la snyoms par zhugs so/ /yang de'i tshe byang chub sems
dpa' sems dpa' chen po 'phags pa spyan ras gzigs dbang phyug shes rab kyi pha rol tu
phyin pa zab mo spyod pa nyid la rnam par lta zhing / phung po lnga po de dag la
yang rang bzhin gyis stong par rnam par lta'o/ /de nas sangs rgyas kyi mthus/ tshe
dang ldan pa shA ri'i bus byang chub sems dpa' sems dpa' chen po 'phags pa spyan ras
gzigs dbang phyug la 'di skad ces smras so/ /rigs kyi bu'am/ rigs kyi bu mo gang la la
shes rab kyi pha rol tu phyin pa zab mo spyod pa spyad par 'dod pa des ji ltar bslab
par bya/ de skad ces smras pa dang / byang chub sems dpa' sems dpa' chen po 'phags
pa spyan ras gzigs dbang phyug gis tshe dang ldan pa sha ra dwa ti'i bu la 'di skad ces
smras so/ /shA ri'i bu rigs kyi bu'am/ rigs kyi bu mo gang la la shes rab kyi pha rol tu
phyin pa zab mo spyod pa spyad par 'dod pa des 'di ltar rnam par blta bar bya ste/
phung po lnga po de dag kyang rang bzhin gyis stong par rnam par yang dag par rjes
su blta'o/ /gzugs stong pa'o/ /stong pa nyid gzugs so/ /gzugs las stong pa nyid gzhan
ma yin/ stong pa nyid las kyang gzugs gzhan ma yin no/ /de bzhin du tshor ba dang /
'du shes dang / 'du byed dang / rnam par shes pa rnams stong pa'o/ /shA ri'i bu de lta
bas na chos thams cad stong pa nyid de/ mtshan nyid med pa/ ma skyes pa/ ma 'gags
pa/ dri ma med pa/ dri ma dang bral ba med pa/ bri ba med pa/ gang ba med pa'o/ /
shA ri'i bu de lta bas na stong pa nyid la gzugs med/ tshor ba med/ 'du shes med/ 'du
byed rnams med/ rnam par shes pa med/ mig med/ rna ba med/ sna med/ lce med/ lus
med/ yid med/ gzugs med/ sgra med/ dri med/ ro med/ reg bya med/ chos med do/
/mig gi khams med pa nas yid kyi khams med yid kyi rnam par shes pa'i khams kyi bar du yang med do/
/ma rig pa med/ ma rig pa zad pa med pa nas rga shi med/ rga shi zad pa'i bar du
yang med do/ /sdug bsngal ba dang / kun 'byung ba dang / 'gog pa dang / lam med/ ye
shes med/ thob pa med/ ma thob pa yang med do/ /shA ri'i bu de lta bas na byang
chub sems dpa' rnams thob pa med pa'i phyir/ shes rab kyi pha rol tu phyin pa la brten
cing gnas te/ sems la sgrib pa med pas skrag pa med de/ phyin ci log las shin tu 'das
nas mya ngan las 'das pa'i mthar phyin to/ /dus gsum du rnam par bzhugs pa'i sangs
rgyas thams cad kyang / shes rab kyi pha rol tu phyin pa la brten nas/ bla na med pa
yang dag par rdzogs pa'i byang chub tu mngon par rdzogs par sangs rgyas so/ /de lta
bas na shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i sngags/ rig pa chen po'i sngags/ bla na med
pa'i sngags/ mi mnyam pa dang mnyam pa'i sngags/ sdug bsngal thams cad rab tu zhi
bar byed pa'i sngags/ mi rdzun pas na bden par shes par bya ste/ shes rab kyi pha rol
tu phyin pa'i sngags smras pa/ tad+ya thA/ ga te ga te pA ra ga te/ pA ra saM ga te/
bo d+hi swA hA/
shA ri'i bu byang chub sems dpa' sems dpa' chen pos de ltar shes rab
kyi pha rol tu phyin pa zab mo la bslab par bya'o/ /de nas bcom ldan 'das ting nge
'dzin de las bzhengs te/ byang chub sems dpa' sems dpa' chen po 'phags pa spyan ras
gzigs dbang phyug la legs so zhes bya ba byin nas/ legs so legs so/ /rigs kyi bu de de
bzhin no/ /rigs kyi bu de de bzhin te/ ji ltar khyod kyis bstan pa de bzhin du shes rab
kyi pha rol tu phyin pa zab mo la spyad par bya ste/ de bzhin gshegs pa rnams kyang
rjes su yi rang ngo/ /bcom ldan 'das kyis de skad ces bka' stsal nas/ tshe dang ldan pa
sha ra dwa ti'i bu dang / byang chub sems dpa' sems dpa' chen po 'phags pa spyan ras
gzigs dbang phyug dang /
thams cad dang ldan pa'i 'khor de dang / lha dang / mi dang / lha ma yin dang / dri zar
bcas pa'i 'jig rten yi rangs te/ bcom ldan 'das kyis gsungs pa la mngon par bstod do/
/bcom ldan 'das ma shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i snying po zhes bya ba theg pa
chen po'i mdo rdzogs so/
だから、それを分かりやすく解説したんだっつ~の😅
こっちは鹿野園と違って、下記のような話の意味が理解できてるので
↓
> どーするの?JBL氏
>
> 170 鹿野園◆00MWura8lSZF 2023/10/10(火) 20:57:16.48 ID:xJS0B
>
> 部外者のスレでは何時ものように支離滅裂な解釈してはドヤ顔で吹聴している訳ですが、今回は「戯論」について取り沙汰してるので少し解説をしてみましょう。
>
> 先ず確認しておきたいのは「分別」はvikalpa(ヴィカルパ)の漢訳であり、また「戯論」は、prapanca(プラパンチャ)の漢訳であるということです。
>
> 梶山先生はそこを「思惟」と「ことばの虚構」と説明され、
> ーーーーーーーー
>
> そして、ヴィカルパ(分別)が、プラパンチャ(戯論)よりおこる、というのは、
>
> 人間の思惟は、実在とは無関係な『虚構』にすぎないことばに基づいている、ということである。
>
> 判断というのは、少なくとも、二個の名辞を必要とする(サンスクリットの命題においては繋辞は多くの場合省略される)。
>
> 判断は言語の多元性にもとづき、思惟はことばの『虚構』より生起すると、ナーガルージュナが考えたのはきわめて当然のことである。
> (仏教の思想3 空の論理<中観>)
> ーーーーーーーーーー
>
> と解説されております。
仏教哲学に詳しくない人が見れば、「よく知ってるみたいだな?」と思うのも無理はないのだが
見る人が見れば、「あれ? 意外と意味がワカッてないんだな」と思う場面が多い
仏教哲学に限らず、知ったかぶりの人の話というのは、マニアから見ると、そんなもんだ
「どれだけワカッているか?」は、マニアにはヒシヒシと伝わってくる
最近は少し理解度が上がってきたが、半年前は本当に話にならないレベルだった
今でも、根本的なところが解っていないが
体質的に合うか合わないかってのがある
鹿野園は、唯識論が本当は好きではない
知識をひけらかすために唯識をやっている
本気度があまりにも低い
当方がその主旨を分かりやすく解説すると
「んなわけねえだろ」みたいな調子でカミついてくる
だが、対話してるうちに、鹿野園もだんだん分かってくる(笑)
その繰り返しだ
十界(じっかい)
「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。十界の法理を学ぶことによって、境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針を得ることができます。
「十界」それぞれの名を挙げれば、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。
このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」といいます。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したものです。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯です。
法華経以外の経典では、十界は、それぞれ固定化された生命の境涯としてとらえられていました。
しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界のうち仏界を除く地獄界から菩薩界までの九界の衆生に仏界が具わっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯が具わることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命に具わる10種の境涯であることを示したのです。したがって、今、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも、十界がすべて具わっており、縁によって次に他の界の境涯をも現せることが明らかになります。このように十界の各界が互いに十界を具えていることを十界互具といいます。
生命に十界がすべて具わっているということは、たとえ今の自分が地獄の苦しみの境涯であっても、仏界の大歓喜の境涯へと変革できるということです。このように、法華経に基づく十界論は、自身の生命の境涯をダイナミックに変革できることを示す原理となります。
それでは、十界のそれぞれの境涯について述べます。まず、私たちの生命に具わる六道について、大聖人は「観心本尊抄」で次のように述べられています。
「しばしば他面を見るに、ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平らかに、ある時は貪り現じ、ある時は癡か現じ、ある時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり」(御書新版127㌻・御書全集241㌻)
この御文に基づき、六道の一つ一つについて述べていきます。
地獄は、もともとは「地下の牢獄」という意味で、経典には八熱地獄、八寒地獄など数多くの地獄が説かれています。
地獄界は、苦しみに縛られた最低の境涯です。「地」は最も底を意味し、「獄」は拘束され、縛られた不自由さを表します。
「地獄おそるべし、炎をもって家とす」(御書新版2063㌻・御書全集1439㌻)といわれるように、地獄界とは、自身を取り巻く世界全体を、炎のように自身に苦しみを与える世界と感じる境涯といえます。
また、大聖人は、「観心本尊抄」で「瞋るは地獄」と仰せです。「瞋り」とは、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。苦の世界に囚われ、どうすることもできない生命のうめきが瞋りです。
いわば「生きていること自体が苦しい」、「何を見ても不幸に感じる」境涯が地獄界です。
餓鬼界とは、欲望が満たされずに苦しむ境涯です。
古代インドにおける餓鬼のもともとの意味は「死者」のことです。死者が常に飢えて食物を欲しているとされていたことから、とどまるところを知らぬ激しい欲望の火に、身も心も焼かれている生命状態を餓鬼界と表現します。
大聖人は「貪るは餓鬼」、また「餓鬼悲しむべし、飢渇にうえて子を食らう」(御書新版2063㌻・御書全集1439㌻)と仰せです。飢えて子まで食べるというような貪り、すなわち際限のない欲望にふりまわされ、そのために心が自由にならず、苦しみを生じる境涯のことです。
もちろん、欲望そのものには善悪の両面があります。人間は、食欲などの欲望がないと生きていけないことも事実です。また、欲望が人間を進歩、向上させるエネルギーとなる場合もあります。しかし、欲望を創造的な方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむのが餓鬼界です。
畜生という言葉は、もともとは獣や鳥などの動物を指します。畜生界の特徴は、目先の利害にとらわれ、理性が働かない「愚かさ」です。
大聖人は「癡かは畜生」と説かれています。因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯です。
また「畜生の心は、弱きをおどし、強きをおそる」(御書新版1285㌻・御書全集957㌻)、「畜生は残害(=傷つけ殺すこと)とて互いに殺しあう」(御書新版2063㌻・御書全集1439㌻)と仰せのように、畜生界の生命は、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害する弱肉強食の生存競争に終始していく境涯です。目先のことしか見えず、未来を思考できない愚かさの故に、結局は、自己を破滅させ、苦しむのです。
*畜生という表現は、古代インドの表現を踏襲したものです。動物であっても例えば盲導犬のように人を助けることを使命として生きる例もあります。また逆に人間であっても、戦争のように他の動物よりも残酷な行為をする場合もあります。
地獄界・餓鬼界・畜生界の三つは、いずれも苦悩の境涯なので「三悪道」といいます。
修羅とは、もともとは阿修羅といい、争いを好む古代インドの神の名です。
自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっているのが修羅界の特徴です。
他人と自分を比べて、自分が優れて他人が劣っていると思う場合は、慢心を起こして他を軽んじます。そして、他者の方が優れていると思う場合でも、他者を尊敬する心を起こすことができません。また、本当に自分よりも強いものと出会ったときには、卑屈になって諂うものです。
自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちています。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるのも修羅界の特徴です。
ゆえに、大聖人は「諂曲なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは自身の本音を隠して相手に迎合していくことです。「諂」は「へつらう、あざむく」という意味で、「曲」は「道理を曲げて従う」ということです。
修羅界は、貪瞋癡の三毒(貪り、瞋り、癡かという三つの根本的な煩悩)にふりまわされる地獄・餓鬼・畜生の三悪道と異なり、自分の意思で行動を決めている分だけ、三悪道を超えているといえます。
しかし、根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいいます。
人界、天界、六道から四聖へ
人界(にんかい)
人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。大聖人は「平らかなるは人」と仰せです。
この人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確に働いていることです。
大聖人は「賢きを人と云い、はかなきを畜という」(御書新版1597㌻・御書全集1174㌻)と言われています。善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。
この人間らしい境涯も、決して努力なしに持続できるものではありません。実際に、悪縁が多い世間にあって、人間が「人間らしく生きる」ことは難しいものです。それは、絶え間なく向上しようとする自分の努力がなければ不可能です。いわば人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえます。
また人界の生命は「聖道正器」といわれ、仏道(聖道)を成ずることができる器であるとされています。
人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面、修行に励むことによって仏法の覚りの境涯である四聖への道を進むことができる可能性を持っているのです。
天界の天とは、もともと古代インドにおいては、地上の人間を超えた力を持つ神々のこと、また、それらが住む世界という意味です。古代インドでは、今世で善い行いをした者は来世に天に生まれると考えられていました。
仏法では、天界を生命の境涯の一つとして位置づけています。努力の結果、欲望が満たされた時に感じる喜びの境涯です。大聖人は「喜ぶは天」と仰せです。
欲望といっても、睡眠欲や食欲などの本能的欲望、新しい車や家が欲しいというような物質的欲望、社会で地位や名誉を得たいという社会的欲望、未知の世界を知ったり、新たな芸術を創造したいというような精神的欲望などがあります。それらの欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界です。
しかし、天界の喜びは永続的なものではありません。時の経過とともに薄らぎ、消えてしまいます。ですから天界は、目指すべき真実の幸福境涯とはいえないのです。
以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています。
欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わえますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。
環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです。
これに対して、その六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。そして仏道修行によって得られる覚りの境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。
声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界
声聞界(しょうもんかい)、縁覚界(えんがくかい)
声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。
声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。
これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯です。独覚ともいいます。
二乗の部分的な覚りとは「無常」を覚ることです。無常とは万物が時間とともに変化・生滅することをいいます。自分と世界を客観視し、世間すなわち現実世界にあるものは、すべて縁によって生じ時とともに変化・消滅するという真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていくのが、二乗の境涯です。
私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。
ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り。あに人界に二乗界無からんや」(御書新版127㌻・御書全集241㌻)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。
二乗の境涯を目指す人々は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます。
二乗が得た覚りは、仏の覚りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。しかし、二乗はその低い覚りに安住し、仏の真実の覚りを求めようとしません。師匠である仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちはそこまで到達できるとは考えず、自らの低い覚りにとどまってしまうのです。
また、二乗は自らの覚りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。
菩薩とは、仏の覚りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味です。二乗が仏を師匠としていても、自分たちは仏の境涯には至れないとしていたのに対し、菩薩は、師匠である仏の境涯に到達しようと目指していきます。
また、仏の教えを人々に伝え広めて人々を救済しようとします。
すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
現実の世間のなかで、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他共の幸福を願うのが菩薩の心です。
二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い覚りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯です。
この菩薩界の境涯の根本は「慈悲」です。大聖人は、「観心本尊抄」で「無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」(御書新版127㌻・御書全集241㌻)と仰せです。他人を顧みることのない悪人ですら自分の妻子を慈愛するように、生命には本来、他者を慈しむ心が具わっています。この慈悲の心を万人に向け、生き方の根本にすえるのが菩薩界です。
仏界は、仏が体現した尊極の境涯です。
仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法に目覚めた人のことです。具体的にはインドで生まれた釈尊(釈迦仏)などです。また、さまざまな経典に阿弥陀仏などの種々の仏が説かれていますが、これは仏の境涯の素晴らしさを一面から譬喩的に示した架空の仏です。
日蓮大聖人は、末法の一切衆生を救うために、一個の人間として御自身の生命に仏界という尊極な境涯を現し、一切衆生の成仏の道を確立された末法の御本仏です。
仏界とは、自身の生命の根源が妙法であると覚知することによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯です。この境涯を開いた仏は、無上の慈悲と智慧を体現し、その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続けます。
仏界は、私たちの生命に本来、具わっています。ただ、それを悩み多き現実生活の中で現すことは難しいので、大聖人は人々が仏界の生命を現していくための方途として御本尊を顕されました。
仏界の生命と信心との深い関係について大聖人は、「観心本尊抄」で「末代の凡夫、出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足するが故なり」(御書新版127㌻・御書全集241㌻)と言われています。法華経は万人が成仏できることを説く教えですが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界が具わっているからです。
六道の上に「声聞界」と「縁覚界」の二乗がある
ここは、小乗仏教で悟った人がいく世界
「声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界」の四聖がある
その方が、確実に向いている
日蓮教学ってただの天台教学のパクリでは?
学ぶ意味はまったくないぞーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日蓮教学」とは思っていなかったであろう
「天台教学」として教えていたはずだ
↑
これが、日蓮教学の基本書
おはよー
シカーチンと議論やらない理由は、
シカーチンに威張らせながら
そんなヤツに情報知識を与えたくない、
そういう無駄なエネルギー使いたくない、
というのがある
😄
> だから、それを分かりやすく解説したんだっつ~の😅
「中道から外れたのが戯論」なの?。。w
173 鹿野園◆00MWura8lSZF 2023/10/10(火) 21:07:11.28 ID:xJS0B
部外者スレでは「中道から外れたのが戯論」などどドヤ顔して吹聴してるようですがw
まぁ、所詮は部外者、仏教とは無関係なので好きなように言わせて置くとしましょう。
我々正統派の宗教者はそれをもネタにして、教義の正しい理解と受容、そしてその実践をするのが眼目ですからね。
そして更に瑜伽行唯識学派では、その思惟(分別)やことばの虚構(戯論)の源泉を阿頼耶識に蔵される言語種子と説いた訳なんです。
それについてはまた別の機会に考察することと致しましょう。
🤢🤢🤢🤢🤢🤢🤢
ワンワン
まつり?
😱
バカ「バカが釣れた~」
*これだと唯識と相性が悪いかもしれないな
五姓各別
声聞の悟りのたねだけを持つ「声聞定姓じょうしょう」
縁覚(独覚)の悟りのたねだけを持つ「独覚定姓」
菩薩のさとりのたねだけを持つ「菩薩定姓」
これら2つ以上のたねを持ち、どの悟りを開くか分からない
「不定ふじょう定姓」
悟りのたねを持たず、どんな悟りも開けない「無性有情」
の5つです。
これでは、どうやっても助からない人があるため、
法相宗の徳一と、
すべての人が仏のさとりをえられると教える
天台宗の最澄が論争したりしています。
>
> *これだと唯識と相性が悪いかもしれないな
>
こういうのが、「天台本覚思想」なんですな~😅
それが日本の仏教
そこに気づけばいいだけなんだ
常不軽菩薩の精神だ
それが大事なんだそうな
率直な感想
ただ、道元が法華経信者だということで、読み直している😁
現代語訳「法華経意味わかんねえぇぇぇぇ!!!!!!」
みたいに言われてるのを見たことがあるね
>中道から外れたのが戯論なの?
と。
誰がその前に私のレスを転載してXを煽ったのかは存じませんけど、それに対して逃げに走った彼に対して、なかなかのツッコミですね。
それに対しての彼からの反論はなしw
まぁ、所詮は部外者の戯言ですからね。
朝イチから成りすましくんに大恥をかかされて気の毒に。
血圧が上がって目が血走って、卒倒してるのかも知れませんね。
自業自得。
ワザとではありませんので、悪しからず🙇
195.
ユーザー
栖雲◆dqam8SqGUPdm
この度コテ名を鹿野園から栖雲(せいうん)に変えました。
新しい公案に進んだ事や部外者との訣別も絡めてそうしました。
またどうせ嫌がらせで成りすましが出てくるでしょうけど、このトリップが無いのは基本的に偽者と考えて下さい。
2023/10/11 07:29:35
2J3Hi
きたいしよー
😄
心が迷えば法華経の主旨に転じられ、心を悟れば法華経の主旨を転じる。
法華経を読む事を久しくしても、自己を明らめなければ、正義に対する敵に成ってしまう。
正義を無意識的に意識する事は正しい。
(いつまでも)正義を意識的に意識する事は誤りである。
意識の有無を共に計らなければ、白い牛の牛車を長く御する事に成ってしまう。
*すべては、現成公案です
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
道元は、禅がと言う前に、法華信者です
道元は「信者」ではないと思いますよ
信仰ではなく、実証された仏法の視点から法華経を語ってる
> 195.
> ユーザー
> 栖雲◆dqam8SqGUPdm
> この度コテ名を鹿野園から栖雲(せいうん)に変えました。
バカが改名した
長文レスしなくても一言で済みますよ
道元「法華経意味不明」
いや、好きだったですよ
「道元は死ぬ前日に法華経の如来神力品を静かに唱えていた」
ただし、道元は弟子に法華経もいいが、華厳経も読めと進めています
正法眼蔵はいろんなお経の内容が散りばめられていますね
法華経一辺倒言うことでもありません
悉有仏性もその一つです
視点が違います
通常、悉く仏性が有るを道元は悉有が仏性と読み変えています
この辺かな
仏性は、動くか動かないかによってあったりなかったりし、認識があるかないかによって精神げあったりなっかったりし、知覚があるかないによって仏性であったりなかったりすると間違って執着するのは、外道〔の見解〕である。
はるか昔から、〔迷いの世界の〕愚かな人々は、多く、感覚・意識を起こす心(識神)を仏性と見なし、本来の〔真実の〕人間そのものと見なすのは、まったく人を笑わせるものだ。
「結局は天台教学」と言うのであれば、実証していくしかない
これは、難問だぞ
道元の正法眼蔵もそうだが、これを理解するために一生をついやす人もいますからね
釈迦にもどれ、つねにルネサンスだと思っている
諸説中の第一なりと。
😄
w
お呼びしよー
🤢
信仰するのは「私」、
信仰する対象である「なにものか」と「私」がここでは別々のものになる
「信仰」がある限りは、対象を認める「私」が残り続ける
おはよう
現成公案を書き込みししようと思ったが、やめたわ
その時節ではないw
そうだね
うまいことを言いますね
発心がないと始まらないのも事実
そうか?それって十四誹謗では
懲りねえな〜
🤢
日蓮は法華経を広めるので、迫害された
創価学会は勝手に他人の家に上がり込んで、仏壇を壊す
日蓮がそんなことしたか?
世間ずれしたクレイジーだし、
そこの基礎から始めたのは
もはや、何をレスしたいか?
リターンしたいか
は明白だ
🤢
極端だが、折伏の一つの形だと思う
ウンザリだ〜
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
仏教は、出世間だ
リターンしかやらねえから
アキラーンは
イラン〜
🤢🤢🤢🤢🤢🤢
怨嫉だな
この様に迫害されないと
ほんとの法華経じゃないらしい
敵が反論ができなくなるかららしい
今までの固定観念を覆すのだから、あたりはつよくなるだろう
常不軽菩薩もそうだ
一心不乱に説いた
それだけのこと
迫害に合っても迫害することではない
自分から迫害してどうする
信仰で迫害するというのであれば、私が残っている
出世間が聞いてあきれる
敵対する者と戦う時
それが迫害かそうじゃないか?の基準はなんだろうか
やはり大義によると思うが
アキラーン
懲りねえな〜
🤢
同じパターンのレスしか出来ないなら
ワンパターンだし黙ってた方がいいよ
キミはつまらない
それを繰り返して、自分の中で増強して
自分で勝手に気持ち悪くなっている
止まらない〜
🤢
🤢
その意味不明の造語が、固定観念だろがw
アキラーンとは、どうせこうだ
という決めつけが固定観念そのもの
いつものことだが〜
🤢
コレしか言えないのか?会話にならん
関心ある人は
このスレにいないことに
気づかない
アキラーン
🤢
じゃあ触れないでくれる?
会話が
そもそも成り立つのか?
ユーチューブでは
日蓮正宗系統が
一番会話が成り立たないとか、
新興宗教研究のチャンネルであったな〜
🤢
アキラーンは不毛、という妄信が
でお〜にもある 固定観念は、でお〜の方だったな
シッシッ
🤢
それが、固定観念
アキラーン
🤢
会話したら論破されるもんな
たまには明晰な指摘を
みたいが
アキラーンは
シカーチン並みに
指摘能力が低い
🤢
シカーチンクルクルパターンは
ほぼ同じだ
🤢
アキラーン アキラーン アキラーン
もうええて
個人に対する批評は、スレ違い
その時点で、小乗になるのではないか?
南無妙法蓮華経(-ノ-)/Ωチーン
アキラーンの信仰を
そのまま信じるか
信じないかで
終わるレベル
🤢
ご教義を
信じるか
信じないか?
不毛プレイリターン
🤢
誰でも仏になれる
鎌田茂雄氏によれば、法華経は穏やかなお経とのこと
ただ、当時のインドの背景を見ると、いきなり誰でも仏になれると率直に言えない面もんあった
だから、龍女を付けたしたと言う説もある
庶民にとっては、うれしいお経ですね
ただ、その根幹は、空思想裏付けらた諸法実相
その実相を勘違いしないでくださいね
道元はこのように言っている
〔迷いの世界の〕愚かな人々は、多く、感覚・意識を起こす心(識神)を仏性と見なし、本来の〔真実の〕人間そのものと見なすのは、まったく人を笑わせるものだ。
この辺は勘違いしがちです
さらに、道元はこのように言います
法華が転じて法華となす
法華が、法華となる
私から言わせれば、唯佛与佛です
仏にしかわかりません😁
以上
今日は面白かったです
相手の方が勝手に立ち去るのです
耳をかさない人もいたでしょう
でも、そのなかでも常不軽菩薩は誰でも仏性があるんですよと
一心不乱に説いた
晃さんの場合は折伏させようとする意図が大きい
自分は正しいとね
正とは相対をはなれた正である
小乗が大乗がと言っている時点で、正からかけ離れている
一乗を掲げた法華経は釈迦を踏襲している
つねにルネサンス😁
みんなは見れるのかな?
514 名前:ここ壊れてます[] 投稿日:
えっ、ホントですか
私です
514.
ユーザー
夕
法華経は究極の平等思想であるからね
誰でも仏になれる
鎌田茂雄氏によれば、法華経は穏やかなお経とのこと
ただ、当時のインドの背景を見ると、いきなり誰でも仏になれると率直に言えない面もんあった
だから、龍女を付けたしたと言う説もある
庶民にとっては、うれしいお経ですね
ただ、その根幹は、空思想裏付けらた諸法実相
その実相を勘違いしないでくださいね
道元はこのように言っている
〔迷いの世界の〕愚かな人々は、多く、感覚・意識を起こす心(識神)を仏性と見なし、本来の〔真実の〕人間そのものと見なすのは、まったく人を笑わせるものだ。
この辺は勘違いしがちです
さらに、道元はこのように言います
法華が転じて法華となす
法華が、法華となる
私から言わせれば、唯佛与佛です
仏にしかわかりません😁
以上
今日は面白かったです
私のは壊れていません
お久しぶり
>>法華経は究極の平等思想であるからね
>>誰でも仏になれる
創価学会員以外も仏になれる?
>創価学会員以外も仏になれる?
関係ありません
法華経の一文字を読んでもなれます
なおさら、瞑想をするれば、その功徳ははかりしれません
てっ、確か書いてあったな
*読む、聞くの縁あって
「法華経の一文字」とは、「如」の一文字のこと?
http://www.james.3zoku.com/pundarika/pundarika01.html
如是我聞 わたしはこのように聞いた。
あるとき釈尊はマガダ国の首都王舎城おうしゃじょうの郊外の 霊鷲山りょうじゅせんに居て、千二百人の僧たちと一緒だった。
またあとでね
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
無門関第三十則 即心即仏
無門関第三十三則 非心非仏
馬祖禅師は即心即仏とも非心非仏とも説かれていますけど表裏一体の空だと思います
無自性
馬祖禅師は平常心是道も説かれていますよね
>出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
実相
tattrasya lakṣaṇam、तत्त्रस्य लक्षणम् (skt.)
実相の「実」とは虚妄に対していわれる。すなわち真実の意味である。相は無相の義であるといわれる。「実相」とは真実が無相であるということをあらわす。
「無相」とは、人間の言葉をはなれ、心でおしはかることのできないことをいう。したがって「実相」とは、真実が無相であり、それが萬物の本来の相であることを意味する。
ところで、実相を萬物の本体などといって、現象の背後に現象生起の源としての何か実在的なものと考えるようなことがあるが、それは誤りであり、実相はけっして実在的実体ではない。実相とはすべてのもののありのままのすがたをいうのである。無相こそ萬有のありのままの姿であるということを説くのが実相である。
この意味で、この「実相」を法性、真如、如実などとよぶ。
法性とは、サンスクリット語の「ダルマター」(dharmatā)であり、法そのもの、法としてあらわれている萬物の本性の意味である。
真如とは、「タタァター」(tathatā)であり、真実であり如常であること、「ありのままの状態」をいう。
如実とは「ブフータ・タタァター」(bhūta-tathatā)であり、存在のありのままのすがたをいう。
この実相こそが仏陀のさとりの内容そのものであるというので、これを一実、一如、一相、無相、法身、法性、法位、涅槃、無為、真諦、真性、実諦、実際などという。このように仏陀によって自覚された萬有の実相は、種々の経典やいろいろの教学によっていろいろと説かれている。たとえば、小乗仏教では我空の涅槃を実相といい、大乗仏教では我空法空の涅槃を実相といったりする。『法華経 』では実相、『華厳経 』では法界、『楞伽経 』では如来蔵、『涅槃経 』では仏性などといわれる。
>>401
> だから、それを分かりやすく解説したんだっつ~の😅
「中道から外れたのが戯論」なの?。。w
ーーーーー
これって、もしかして、あの人?
。。の人、ロのつく人ですか?
草は棄嫌におふるのみなり。
道元
実に深い言葉です、不平等の末那の在り様を著していて、
このような在りようがー
↓
華は愛惜にちり、草も愛惜におふる。
に変わって、更にー
万象に愛惜あり、となった後に、
↓
万象はただ、ただ、美しく愛おしいー
このように、釈尊の涅槃直前の心境へと変化するのではないでしょうか。
新聞配達かな?
熟女キャバクラの呼び込みボーイです
〔迷いの世界の〕愚かな人々は、多く、感覚・意識を起こす心(識神)を仏性と見なし、本来の〔真実の〕人間そのものと見なすのは、まったく人を笑わせるものだ。
道元の心身脱落があっての言葉か?
🤢
🤢
229 法介◆T3azX0Hk1U 2023/10/11(水) 19:39:09.18 ID:1O8nE
おまえと麦と夕の三人は
もー
相手にしてやらん
≫529
熟女キャバクラの呼び込みボーイです
冗談ですよね?
う~~ん
熟女専門AVの監督だったかな?
う~ん・・・😅
体調が悪く代わりのゲルク派の寺のトップがツォンカパについての動画が二本上がっていた、
とりま落とす
😄
>>325
メーダサーナンダ先生
聖者は言いました。「神様は遍在ですが私たちには見えません。それは私たちが必要な手順を踏んでいないからです。もし神を見たければ、やるべき手順があります。その手順とは霊的実践です。手順は三つの部分からなります。一つ目は、神に集中するという実践。二つ目はこの世に対する執着の放棄。三つ目は、心と感覚のコントロールです。もしこの三つの実践をすれば、神を見ます」
神を悟るという強い衝動と決意を持っていない限り、神を悟る方法を知っていても、悟ることはできません。この熱望と決意こそが必要なことなのです。私たちに足りないのは、この渇望と決意です。私たちは悟るための方法を知っているけれども、渇望と決意が欠けているのです。
その通りですね。
暗躍しとるな〜
👽
解脱者から 神を悟るという鉄の意志を教えて頂くのが良いんじゃない?
瞑想の先生の居場所を探し求める努力も必要ですよね
解脱者に学びたい人たちが集まるので
無名のままで終わる人は少ないと思います
悟る為の方法を知っていた中国人仏教徒っているのかな
達磨大師は解脱者なのかな
老若男女いっぱいいるぞ
アルバイトの女の子は可愛いな
男の子もいるぞ、今度大学院に行くとか言っていた
若い人は仕事を憶えるのが早いな
おばちゃんたちもいっばいるぞ
女性には逆らいません😁
楽しい
キャラクバかw
新聞配達は無理
身心脱落 脱落身心
相対をそのまま受け取ってしまった人たちの事だと思うけど
道元は言う
相対を飛び出しているところに、生と滅があり、迷いとさとりがあり、衆生と諸仏がある
この三者は誰と誰と誰なのか。
調べているね
脱帽でございます😊
相と言うのは非相ゆえに実相と名付ける
これはこれとして、
道元のこの本の解説者がいうには、
「ありのままにある。そのありようが、真実そのものの現れである」という、
いわゆる「諸法実相」を説示したものと言える
また、各巻は「諸法が仏法ある時、以下略」この要文を次第に理解していただけると思うと書かれている
つまり、子の要文を理解するために各巻があるのだと思います
私も嫌われたもんだな
嫌われてなんぼ😁
花に草か
そのままじゃない、
法華経を読み返しますので、後で、返事します
ごめんなさい
> これとそれとあれ。 この三者は誰と誰と誰なのか。
己事究明
こじきゅうめい
『興禅大燈国師遺誡』
野外に綿?し、一把茅底、折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事を究明する底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。
空思想裏付けらた諸法実相
これに対しての問かな、
それとも、さらなる説明を麦ちゃんが説明してくれているのかな
ありがたい
一番最後だからね
また六祖が出てくる
面白そうだ
まぁ、転がついているから、即でもいいような気もするが、
即は転じるという意味もある
法華即法華
即心是佛風にいえば
法華心とは法華
また楽しからずや
∞ノノハ∞
川^〇^ハレおはよう
ちょっと確認したかっただけですwww
ありがとう♪
ずいぶん嫌われたな?
達磨大師は解脱者でしょ、さすがに
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ竹を割った様な性格だからwww
気分屋さんには合わないとか?www(≧m≦)プハー
聖ウンコは是正する能力がない、
思想的にウンコ迷路
🤢
やはりAVの監督業か
スーパーかドラッグストアのバイト?
ミロクかよ
コロナかと思った!
もともと、スピリチュアル系なので
法華経現代語訳 三枝充悳
この本は、漢文に沿っているね
途中で、やめたが、漢文と照らし合わせながら、pcに打ち込んでいた
まだ、再開する
そういえば、エロ和尚に一文字と言ったっけ、もしかしたら「一詩」かもしれない
あやふやで、ごめんなさい
今のところ、3位じゃ。
精進しなされ
誤字脱字の達人ランキング
1位 でおー
2位 法介
3位 夕
w
勘違い
分かればいいんだよ
気にしない気にしない😁
熟女ハーレムの職場が気になってしょうがないのだが?
女性を怒らしたいかん😁
テレビを見ない
受信料ははらっているけど
マツコ・デラックス
興味がない
有為の精神世界じゃないのか
有為法、夢の如し
読めば読むほどに
法華経は、法華経を読んだら、言語的理解をするでなく、
目前に、法華経に書いてある、法華経の世界が、見えてくるように、読めたらいいように思う、
まえでおさんがリンクしてくれた
現代語訳は妄想が捗ったな
眉間から光を放射する釈尊とか?
それより
弥勒菩薩の文殊菩薩に対する
期待のハードルの上がり方がうけた
てか途中までしか読んでないまま
リンク分からなくなったから
でおさん貼り直してくれないかなあ
😆
> オカルトとかスピリチュアルとか
> 有為の精神世界じゃないのか
もとはスピリチュアル系だったが
長いこと離れている
日頃から体外離脱して鍛えてるんだな?
法華経リンクは
土曜日までおあづけ
😄
なんでよw
そうそう
でも離脱中はなかなか菩薩に会えないね
不可
😄😄😄😄😄😄😄
一方的にボコリ切るパワーだけがある
😄😄😄😄😄😄
ボコられる
聖ウンコなのら〜
😄
聖ウンココールしとるのら〜
😄
まともなら、
ハッタリ、ホラフキの皆様への謝罪懺悔だろっ!!
🤢🤢🤢
287.
ユーザー
栖雲◆dqam8SqGUPdm
拈弄って云って、例えば古人がお釈迦様や達磨さんを対象にして「余計な事をしやがって」とか話された語録を我々は耳目にする訳です。
それはそれで、初見される方には新鮮で痛快で、如何にも禅という感じがするのは分かりますけどね。
恥ずかしながら私にもそんな時期がありました。
しかし、それを口真似して二番煎じするのは恥ずかしい事ですし、何よりもそうした事を殊更に吹聴するのは野狐禅といって、師僧や先達から窘められると思うんです。
若気の至りとはいえ、今思い出すと冷汗三斗の思いです😓
2023/10/12
それらしく
虚栄を張る
聖ウンコだ〜
🤢🤢🤢
と
と思った
😄
懺悔、反省のない仏教なんて
ありえんっ!
😫
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)[2]
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
—大正新脩大蔵経, 大方廣佛華嚴經 卷第四十 (般若) [3]
我れ昔より造る所の諸の悪業は、
(われむかしよりつくるところのもろもろのあくごうは)
皆な無始の頓・瞋・痴に由る、
(みなむしの とん・じん・ち による)
身・口・意従り生ずる所なり、
(しん・く・い よりしょうずるところなり)
一切、我れ今皆な懺悔したてまつる。
(いっさい、われいまみなさんげしたてまつる)
【現代語訳】
私が、過去に行ったあやまちは、全て始めもわからない深い貪り、怒り、愚かさ(三毒)によります。それは、身体の行い、口の行い、心の行い(三業)から生まれ起きたものです。全てを、私は今、仏様に照らされて悔い改めます。
その わたしは 他と比べての 他の存在が有っての わたし。
わたしが無い時、わたしは 誰なのか。
> 私は無いことを土台にしたもの の考え方はしない、 常に私が思うことを土台にして考えよえとするどこまでも。 間違っていようと 常に私が理由であり、私が動機であり土台とする事が私の正しさ 』
正しいは、常に悪である、を準備する事によって存在する。
法華経をメモしていた
第16章 如来寿量品
55 多くの善男子よ、
56 この中間において、わたくしは燃燈仏などのことを説いたし、
57 またそれらがニルヴァーナに入ったともいってきたのである。
58 このようなことはみな、教化の方法をもって分別して説いたのである。
59 多くの善男子よ、
60 もしもある生あるものがわたくしのところにやってきた場合には、
61 わたくしは仏眼をもって、その信〔と精進、念、定、慧〕などの素質がするどいか、にぶいかを観察して、
62 ふさわしいように、それらを済度すべきところに応じて、
63 ところどころにおいて、みずから、異なった名前であらわれて、法の年数の大小を説き、
64 またその姿を示して、まさにニルヴァーナに入る(入滅する)であろうといい、
65 また種々の教化の方法をもって、精微で奥深い教えを説いて、
66 よく生あるものたちに、歓喜の心をおこさてきたのである。
67 多くの善男子よ、
68 如来は多くの生あるものたちが、卑小な法を願っており、福徳が薄く、穢れが重いものを見た場合には、
69 これらの人々のために、わたくしは若いとき出家して、最高の完全なさとりを得たととくのである。
70 しかしながら、実際には、わたくしは仏と成ってからこれまで、久遠であることは、上述のごとくである。
71 ただ教化の方法として、生あるものたちを教化して、
72 仏道に入らせんがために、このような説をなしたのである。
ナンバーは、私が勝手につけた
*久遠の釈迦
人間釈迦は
69 これらの人々のために、わたくしは若いとき出家して、最高の完全なさとりを得たととくのである。
しかし、実際は久遠の釈迦である
58 このようなことはみな、教化の方法をもって分別して説いたのである。
74 如来が述べる経典は、
75 みな生あるものたちを済度し解脱させんがためである。
76 仏はあるいは自己の身体を説き、
77 あるいは他の身体を説き、
78 あるいは自己の身体を示し、
79 あるいは他の身体を示し、
80 あるいは自己のことがらを示し、
81 あるいは他のことがらを示すけれども、
82 それぞれに説く多くの語ることがらは、みな真実であって、虚妄(いつわり)ではない。
諸法実相の説明であるがごとく
83 それはなぜかといえば、
84 如来はありのままに三界(欲界・色界・無色界の全世界)のありかたを知見しているからである。
85 すなわち、如来は三界に生まれたり死んだり、もしくは退いたり、出てきたりすることあることなく、
86 また世にあるとか、なくなって消滅するということもなく、
87 真実でもなく
88 虚妄でもなく、
89 そのとおりでもないし、
90 それとは異なっているのでもないことを知見し、
91 三界に住んでいるもの(=凡夫)が三界を見るようではない。
92 このようなことがらを、
93 如来は明らかに見ていて、誤ることがない。
95 種々の性質、
96 種々の欲望、
97 種々の行、
98 種々の思いや
99 分別があるので、それゆえに、
100 多くの善の素質を生ぜしめようと欲して、
101 いくつかのいわれや
102 たとえやことばをもって、
103 種々に法を説くのである。
104 如来は、如来としてなすべきことがらを、未だかつてしばらくもやめたことはない。
105 このように、わたくしは仏と成ってからこれまで、非常に大いに久遠である。
106 寿命は無量・無数の劫という非常に長い時間を経過しており、常にこの世にとどまっていて、滅することはない。
123 『ビクよ、必ず知らなければならない、
124 多くの仏がこの世に出現するのに出遭い得るとということはむずかしい』と説くのである。
125 それはなぜかといえば、
126 多くの福徳の薄いひとは、無量・百千万憶の劫という非常に長い時間を経過しても、
127 あるいは仏を見るものがあり、
128 あるいは仏を見ないものもあるからである。
129 このことから、わたくしはつぎのようにいうのである。
130 『多くのビクたちよ、
131 如来は見ることを得るということがむずかしい』と。
132 この生あるものたちは、このようなことばを聞いて、
133 必ずやまさに仏にあいがたいのだという思いをなし、
134 心に恋慕を懐き、
135 仏にあうことをぜひにと渇仰して、そこで善の素質をうえるであろう。
136 この故に、如来は、真実は滅しないのではあるけれども、しかも滅度する、というのである
134 心に恋慕を懐き、
135 仏にあうことをぜひにと渇仰して、そこで善の素質をうえるであろう。
136 この故に、如来は、真実は滅しないのではあるけれども、しかも滅度する、というのである
*135 仏にあうことをぜひにと渇仰して、そこで善の素質をうえるであろう。
信仰とこういうことなのでしょうね
実際は
136 この故に、如来は、真実は滅しないのではあるけれども、しかも滅度する、というのである
後にする、ごめん
さすが、熟女泣かせの名男優!
前戯が長すぎ!
すまん
おぅ😁
原始仏典にも
『懺(ざん)が鋤棒(すきぼう)である』
とあるように過去の悪業を反省することが悟りに必要な条件であります。
ひさしぶり〜
😄
そっちほど
仕事は過酷ではないが
アタマの回転低いのに
アタマの回転を上げねばならん仕事で〜
ま、仕事量増やしたら仕事辞めるな〜
😄
増えずすむポジションにいるので
助かる〜
😄
このマルチは馬さん確定
芙蓉のコピペだらけなので、アボン↓ (;^ω^)アセ
ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
https://www.youtube.com/watch?v=WBwJPOzTwyQ
不耕起 基礎知識
https://www.youtube.com/watch?v=tpM295hjEQc&list=RDCMUCOOGZ3VxgQIiAhHPqZVHwSA&start_radio=1&rv=tpM295hjEQc&t=20
でおー尊者は頭いいから頭使う仕事向いてるんじゃないですか?
わたしは馬鹿だから肉体労働ばかりです。
シカチャマ~😂😂😂
> 福岡正信 自然農法実践家 - 52,42
岡田茂吉と違って、この人は本物
無我の境地。
ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
真に自由自在な人生とは、無我の境地を保持した人生である。
無我の境地。
ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
無礙(むげ)。悟(さと)り。
自由は真の自由に非(あら)ず。
真に自由自在な人生とは、敢(あ)えて無我の境地を保持した人生である。
無我の境地。
ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
仏道とは迷いの世界から悟(さと)りの世界へ至(いた)る道なり。
西洋思想に毒されること勿(なか)れ。
自由は真の自由に非(あら)ず。
真に自由自在な人生とは、敢(あ)えて無我の境地を保持した人生である。
苦悩は自我から生まれる。
無我の境地。ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
これは在る、。は 即 無い。
坐禅も無ければ、くすりも無い。
無い無い。
無い無い だらけ。
それでもあなたは生きている~🎵
https://youtu.be/6OlPR_EDPjE?si=O37K9Z6Lnz06T9Lf
シカチャマ~😂😂😂
諸行無常(しょぎょうむじょう)、
諸法無我(しょほうむが)。
世に固定不変なる存在は無い。一切の存在は縁起によって生じた現象である。一切は実体を持たない空(くう)である。
無礙(むげ)は仏道の完成なり。
仏道とは迷いの世界から悟(さと)りの世界へ至(いた)る道なり。
西洋思想に毒されること勿(なか)れ。
自由は真の自由に非(あら)ず。
真に自由自在な人生とは、敢(あ)えて無我の境地を保持した人生である。
苦悩は自我から生まれる。
無我の境地。ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
諸行無常(しょぎょうむじょう)、
諸法無我(しょほうむが)。
世に固定不変なる存在は無い。一切の存在は縁起によって生じた現象である。一切は実体を持たない空(くう)である。
無礙(むげ)は仏道の完成なり。
仏道とは迷いの世界から悟(さと)りの世界へ至(いた)る道なり。
西洋思想に毒されること勿(なか)れ。
自由は真の自由に非(あら)ず。
真に自由自在な人生とは、敢(あ)えて無我の境地を保持した人生である。
苦悩は自我から生まれる。
無我の境地。ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
久しぶりに〜
行ってきた〜😄
お昼ご飯いただいて
少し快楽、
前と
お昼ご飯頂いた場所が
違う〜
なんだ、食事中の、僅かな快楽は?
と
横を向くと
弘法大師の掛け軸があった
😄
先代からの付き合いある寺だ
先代も不思議なお方だが、
😄
脳内で
まとまってきた〜
やはり
絶対的な聖なる往生世界だ〜
😄
真に自由自在な人生とは、敢(あ)えて無我の境地を保持した人生である。
苦悩は自我から生まれる。
無我の境地。ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
https://i.imgur.com/doJHPTN.jpg
自由は真の自由に非(あら)ず。
真に自由自在な人生とは、敢(あ)えて無我の境地を保持した人生である。
苦悩は自我から生まれる。
無我の境地。ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
https://i.imgur.com/R4SEzUc.jpg
自由は真の自由に非(あら)ず。
真に自由自在な人生とは、敢(あ)えて無我の境地を保持した人生である。
苦悩は自我から生まれる。
無我の境地。ただひたすら坐禅する。
漢方薬、柴胡桂枝乾姜湯(さいこけいしかんきょうとう)は一生ものである。
https://i.imgur.com/R4SEzUc.jpg
インボイス制度は平等を重視する制度です。
インボイス制度導入前の税制が公平です。
どちらが正しいかは、各個人の思想(イデオロギー)に依(よ)ります。
私は中立派です。どちらが正しいかは断言しない立場です。
平等と公平は異なります。
インボイス制度は平等を重視する制度です。
インボイス制度導入前の税制が公平です。
どちらが正しいかは、各個人の思想(イデオロギー)に依(よ)ります。
私は中立派です。どちらが正しいかは断言しない立場です。
聖ウンコ様への
サービスしといた〜
😄
3本落としている
400メガバイトあると
重いな〜
😄
😄
ひたすら勤行だ、
最初に落とした動画を垂れ流している〜
😄
どこかのスレで、でおーとやりあった日々
でおーが書き込んでいたな
あのころが一番面白かった
話題作りで、いろいろやっているが、
結局ところ、名称には興味がない
即、転、只にしか興味がない
昔からそうだが、これを言わんとするためなんだかんだ書き込んでいる
即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!
(行った、行った、向こうの岸に行った。向こうの岸に完全に至った。悟りよ、幸いあれ!)
と。
じゃんじゃん😊
法華心転法華
法華心即法華
法華心只法華
こんなもんでしょ😁
如来を見る
如来そのものである
いろいろとあった
いつのまにかTalkになっているし、5チャンネル金返せ
みみっちい、夕であるw
どうするかな🤔
仏教系が活発なのはtalkだからtalkでよいのではないでしょうか?
Talkは現状広告がないから、見やすいよね
pcでのブラウザが見やすい
涼しくなったから
参りやすい
😄
軒下を壊しているので、廃棄の材木がある
これをクリーンポートに持って行くために細かく切断している
捨てるのは好きだが、疲れた😔
さて、再開
東大寺開山 良弁僧正1250年御遠忌法要 - 東大寺
15日
行きましたか
すいきだよな😊
人は目は正面についているからな
脳に与える影響も他の動物とは違う
位置というは大事なのかもしれない
立体的位置の確認、目で追えないものは、体を動かす
立体という感覚、結構人にしかないのかもね
眼が正面についているということと、脳の大きさが
行ってきた〜
昨日、真言密教寺院で坊主の法要の手伝い少しして
伝授された内容世界観を
曹洞宗寺院に合わせて
仏印をキメてきた〜
むろん、正統派道元禅のスタイルではなく、
密教テイストがある曹洞宗宗門主流派の
雰囲気で
😄
東大寺華厳系統はマタタビ快楽過ぎて
関心薄い
三井寺、華厳、チベットは
快楽が
濃く好み過ぎるので〜
昨日の真言密教寺院での本尊からのサービスは、
あれは
5月の有名坊主の墓参り修行ならの鍛え上げへの
対抗伝授やったな〜
ほぼ内容が自然の草木香りネタ
😄
真言密教は加持の他力があるのだけと
禅は加持サービス無いからね〜
自己鍛え上げオンリーやしな〜
😄
呼吸のコントロールで楽になるだろな〜
たまには
細く長く吸う吐く、
吸う吐くの間にゃや心持ち止める、
これで
案外疲労がたまらない
😄
こういう世界観で
真言密教魔改造とか〜
遊ぶ
😄
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦は直売所で初めて見たローゼルを買ってジャム作っています♪
まな板までピンク色になったwww
直売所のおばさん素手で苞を外して見せてくれたけど
チュクチュク小さい刺が刺さった😰
でも➰出来るのが楽しみ♪😌
彩かなピンク色♪
それからトンボの目が凄かった記憶ですwww
662 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
663 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
664 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
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675 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
676 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
シカチャマ~😂😂😂
なんでタさんもあぼ〜んなん
─┼─ / / _ , .. - .....
┼┐─┼─ /| \ | / _________----- ̄ ̄ /、):.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ
││ │ | イ 。 ‐‐‐‐‐‐‐───‐ /.:.::/::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:..i
/ | \  ̄ ̄──___ /.:.:.::ト;::::::::.:.::.:.:.:.;':.:.:.:.:}>
/ / | \ l:;:i:.:.l、ノ;;:::.::::::.::::::::.::.:./::.:ヽ
/ / │ \ 川:.::|ゝ-'';;::;''"';:;::_:ノ ´!::.:.:l
/ / | __ .. - ─ ナ!:lヽ  ̄ `ヽ l::.:.:!
/ / │ __ --‐‐ ´ _リ ノ,,.:' } !::.:!
/ ./ / _ -'ー-'/:: '、 l:i.:l
/ ノ._ノ´ヽ _ -‐ ´ / .. : : : : . ヽ 〃ノ
_ -"´ }. / / _..=_.ニ,~_ヽ、 ヽ
__ -‐ ´ / / ///::.::.::.::.::`:..、ヽ、 ヽ
__.. -‐ ´ ̄ ヽ / ..∠ノ /, '/::.::.::.::.::.; -‐  ̄` 、_ヽ、l
__ -‐ ´ ヽ /ー "´ { /::.::.::.::.:/ ヽヽ}
l. / ヽ|::.:::::::::/ | /
l/ {::::::::::/ l´
/ |、:_::/ /
/ l / /
/ V /、
真言密教坊主の縁は
3人はいるが
最近の付き合い多い坊主は
二人とも独身だな〜
一人は
もうお亡くなりになり、
後継者は50代で独身だから、
それを貫くか有無は知らんけど、
😄
炎天下じゃないから、まぁ楽と言えば楽
朝昼抜いてやったら、午後6時なってしまった
なんか食べよ
植物はくわしくないんだけど、
ジャムだけじゃないんですね
ローゼルの塩漬けなんて言うのもあるんですね
ローゼルの塩漬けが「花梅」と呼ばれ、作り方は梅干しとほぼ同じである
どういう味がするんだろう
さて、何を食べよう
私に反応するとは
アポーンも反応
まだ、競馬やっているのか
主体性が見当たらない。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか。
つまりは自己に問い返す。事が、皆無だからね。読むのもつらい。
他人を担ぎ、盲従市その尻馬に乗り、自己にと非還す事が無い。
坐禅と言って、そこに意味合いを求め、結果を願っても、お坐りには、お坐り以上のことは、何も無いのだ。
坐禅とは、瞑想する、と言う事。静かにする、と言う事。それ自体の行為に、意味は無い。無意味である。
天上天下湯が独尊
てんじょうてんげゆいがどくそん
これとそれを それぞれから見渡し、見えるものと見えないもの、がある。その両者を分けてみない。
分けないは、分別しない、である。
1は 1と 1
いちは いちと いち
1と 1は 1
いちと いちは いち
これはFe 。 哲学である。
真理(さとり)は、一如いちにょ と分別しない。
1を固定させない。
1と 1 は、イクオルではない。
あなたと わたしは、違う。
1は 1 では 無い。
異なる1と 1は、 2ではない。
この事を、而二不二、不二而二 ににふに ふにに と言う。
つまりは一如。
如とは、助辞を付けて 如来 と言い、仏を言う。
> なんでタさんもあぼ~んなん!? 』
主体性が見当たらない。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか。
つまりは自己に問い返す。事が、皆無だからね。読むのもつらい。
他人を担ぎ、盲従し、その尻馬に乗り、自己に問い返す事が無い。
坐禅と言って、そこに意味合いを求め、結果を願っても、お坐りには、お坐り以上のことは、何も無いのだ。
坐禅とは、瞑想する、と言う事。 静かにする、と言う事。それ自体の行為に、意味は無い。無意味である。
天上天下唯我独尊
てんじょうてんげゆいがどくそん
これとそれ。見えるものと見えないもの、がある。その両者を分けない。分けないは、分別しない、である。
1は 1と 1
いちは いちと いち
1と 1は 1
いちと いちは いち
これはFe 。 哲学である。
真理(さとり)は、一如いちにょ。分別しない である。
1を固定させない。
1と 1 は、イクオルではない。1と1は異なる。
あなたと わたしは、違う。
1は 1 では 無い。
異なる1と 1は、 2ではない。
この事を、而二不二、不二而二 ににふに ふにに と言う。
つまりは一如。
如とは、助辞、来を付けて 如来 と言い、仏を言う。
シカチャマ~😂😂😂
俺はあぼ〜んされてねえのな
差がいまいち分からん
法華経が、小乗が大乗が、と言っているんだが
キミは知らないのだろうな…
諸仏世に出でたもうには 唯此の一事のみ実なり
余の二は則ち眞に非ず 終に小乗を以って
衆生を済度したまわず 仏は自ら大乗に住したまえり(妙法蓮華経方便品第二)
≫主体性が見当たらない。
逆だよ、タさんは一本筋が通っていて、ブレが無いだろ。
誰かを選ぶと言うことだからね…
選民思想は、小乗
湧いてきたらしい
🤢🤢🤢
色々計算しだしたな〜
😫
プレミアム商法に
打ってでたよーだ
😫
川^〇^ハレ本物のぽったんは競馬予想表をコピペしてましたねwww
駄洒落をよく言う可愛いおじいちゃんでした♪
布教というか、仏教の意味の確認に来てるだけ
規制しにくるな〜、
トーク金儲け狙いだしたな〜
😫
でお〜くんも、なれば?
チベット仏教ゲルク派 宗学研究室
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
現在のチベット仏教には、四つの主要な宗派があります。それらの中で最大の勢力がゲルク派で、僧侶の人数では大多数を占めています。開宗の時期からみると、最も新しく成立した宗派です。ゲルクとは、直訳すれば、「善の流儀」という意味です。
ゲルク派の宗祖は、ツォンカパ大師ロサン・タクパ(1357-1419)です。ツォンカパ大師の教えの特色を知るには、その時代背景を考慮する必要があります。
ツォンカパ大師は、そうした時代に生まれたのです。チベット仏教史上に於けるツォンカパ大師の果たした役割りは、しばしば「戒律復興」という形で紹介されています。それは正しいですけれど、ツォンカパ大師の数多くの事績の一面にすぎません。前述のような経緯でチベットへもたらされた顕教・密教の総合体系は、インド仏教の様々な伝統の成果を積み上げたもので、内容は巾広く多岐にわたり、しかも極めて深遠な教えを数多く含んでいます。およそ世界中のあらゆる宗教や思想哲学の中で、最も洗練された高度なものだといえるかもしれません。それらを比較的短期間で集中的に受容し、ようやく文献的な整理が進展した時期に、ツォンカパ大師は、インド伝来の顕教・密教の総合体系を内容面から徹底的に吟味し、明確な形で整理・再構成したのです。これこそ、ツォンカパ大師の事績として、最も重要なポイントだといえるでしょう。
その他で特に重要な著作は、「入中論」の解説を通じて仏教哲学を詳細に論じた『中観密意解明』と、「グヒヤサマージャ」聖者流究竟次第の奥義を説き明かした『五次第明灯』です。ゲルク派の伝統教学では、この二書こそが、顕教と密教の究極的な教えと位置づけられます。ツォンカパ大師の顕密の様々な著作は、十八巻の全集にまとめられています。
修行者個人の実践としては、この三大本尊の行法こそが至高のものです。しかし、社会的な意味あいを考慮に入れると、「カーラチャクラ(時輪)」の役割りも重要になります。ダライ・ラマ十四世法王は、世界平和の祈りを込め、各地で「カーラチャクラ」の大灌頂を厳修しています。
大乗には、基本的に何も差別をしない、という特徴があるが
無差別といっても全てを平等に尊重する姿勢だけじゃなく
全てをゴミのように平等に扱う姿勢もある…
主に、空を根幹にした般若心経等の大乗理念が、後者
諸法実相を根幹にした法華経の大乗理念が、前者と考える
その教えの位が、いよいよ高くなる
全てをゴミを見下すように、平等に扱うには
教主は超人化、偉人化しなければならない
しかし真実の教えに近くなるほど
その教えの位が低くなる
法華経の仏は最も親しみやすいはずだ
ツマラナイと評価する者の、マウント思想に他ならない
マウントするからには、とても高いところから
一切の物事を批評してることになる
空を説く人は、偉人ではないと都合が悪い…
🤢
🤢
普通、世界タイトルとか取って
チャンピオンを名乗るんだが
仏は、仏と名乗ってチャンピオンだと自称した…
🤢
> >>692
> 俺はあぼ~んされてねえのなぁ? 差がいまいち分からーん。 』
これは毎度毎度の説明になり、周知のことと思いますが、(*´з`)コソッ・・・・・実はわたしは池に面していて、忙しい煩瑣む、カラーマン色男、役者絵から抜け出て来たような眉目秀麗、容姿端麗、学術優等な他人ではない、単に芽が悪い漢(おとこ)なので、レスポンスを読むと言うのは、わたしにとっては試練なのです。
そこで、何ッ充年もお聞きしている人の書き込みは、読むのに一苦労が必要なのです。
土p奈多のカキコも全部読みたいのですが、不可能と言う事が有ります。
その点のご理解を賜りますよう、臥して (*・人・*) オ・ネ・ガ・イ♪申し亜gへタテマツリマス。
アボンご希望のリクエストをいただいたものと理解しました。
囲碁、将棋、アボン。
お?何かあぼ〜んされたぞ
これで俺も一人前か?
イヌヤマ、麦ちゃん、偽軍曹、 統失、 夕さん、 離檀
インドの三国時代だ
「天下の3分の2は魏」
と言われるほど魏が圧倒的で
他の2国は魏に抵抗するという構図だったが
インドの三国時代は、三国の勢力が拮抗
もっと面白い時代
アティーシャは言う。朝、新しい一日、新しい始まりだということを覚えていなさい。そしてあなたのハートの奥深くでこう決断しなさい。
「今日、私はこの機会を無駄にしない。もうたくさんだ! 今日、私は気づいている、今日、私は油断なくあり、今日、私はできる限りのエネルギーをひとつの目的、瞑想へと捧げる。私はあらゆる行為のなかで瞑想する。私はあらゆる行動、日常的な行動を行うが、今日は新しい質と一緒に、気づきの質をそれらにもたらす」
Osho,The Book of Wisdom, #17 より抜粋
疲労回復の瞑想――軟蘇の法と甘露降浄法
「疲れたなぁ」と感じたときに、その疲労を癒すための瞑想法が、日本禅とチベット密教で創造され、ながらく伝承されてきた。日本禅の秘法は「軟蘇(なんそ)の法」といい、チベット密教の秘法は「甘露降浄法(かんろこうじょうほう)」という。
前者の「軟酥」とは、本来はバターのような乳製品のことだが、この場合は、柔らかくて温度を上げると溶けるという性質をもつものというくらいの意味である。一方、後者の「甘露」は、本来は天から降ってくる甘い露のことだが、この秘法の場合、その正体は後述のようにみだりに口外できない代物である。ともあれ「甘露降浄法」とは、甘い露が頭頂から降ってきて全身を洗い清めてくれるという意味になる。ということで、「軟酥」と「甘露」には、よく似た働きが期待されてきたといっていい。
「軟蘇の法」は、江戸時代に活躍した臨済禅の超大物、白隠慧鶴(はくいんえかく/1686~1769)が禅病に苦しんでいたとき、それを癒すために実践したことで知られる。
禅病の正体については諸説ある。今でいう精神障害であることは確かだが、その内実はさまざまなことが言われている。神経症という説もあれば、うつ病という説もある。統合失調症(精神分裂病)という説もある。なかには、これらが全部、同時に発症したとみなす見解もある。いずれにせよ、禅の厳しい修行が心身に尋常ならざる緊張状態を長期間にわたってもたらした結果、発症した点は疑いようがない。
坐禅をしている自分の頭のうえに、鶏卵大の美味しく、見た目も美しい軟酥がのっているとイメージする。軟酥が体温で暖められて少しずつ溶け、頭のなかにしみ込んでくる。すると、頭のなか全体に、軟酥の香りや味がしみ込み、色もきれいになっていく。やがて軟酥は下降して、両腕・両乳・胸郭・肺臓・肝臓・腸・胃・背骨にも、その香りや味がしみ込み、色もきれいになっていく。
こうするうちに、心身のなかのあちこちに凝りかたまっていた病巣が、軟酥が下降していくに連れて溶け出し、下へ下へと流れ去っていく。そのとき、水が流れるような音がしてくる。この水はけっして冷たくなく、暖かいとイメージする。この水の流れは胴体全体を循環し、下に降って両脚に至る。すると、両脚はジワッと暖かくなる。両脚からさらに降った水の流れは、足の裏で止まるとイメージする。流れ降った水の流れは、目には見えない透明な風呂桶にお湯が溜まっていくように、下半身の周囲を満たす。まるで、温泉に入っているような感じがしてくる。冷え切っていた全身が暖められて、とても良い気分になる。そうイメージしながら、この境地を楽しむ――。
以上のような「軟酥の法」を、毎日毎日、実践する。そうしているうちに、いつしか心身の病は癒されていく……。
頭の上に、高級バターが乗っているイメージ
それが、溶けて全身に染み渡っていくのか
エロティックな「甘露降浄法」
一方、「甘露降浄法」も、厳しい修行に倦み疲れた密教僧が、その疲労や倦怠感を癒すために実践されてきた。もし「甘露降浄法」と「軟酥の法」に違いがあるとすれば、それは甘露降浄法のほうがずっとエロティックな瞑想法だという点だ。なぜなら、「軟酥の法」では、自分の頭に、美味しそうな食べ物がのっていると瞑想するのに対して、「甘露降浄法」では、自分の頭の上に、抱きあった男女のホトケがのっていると瞑想するからだ。したがってしたたり落ちてくる「甘露」の正体は、男女の体液が混じり合ってできた愛液にほかならない。なにしろ性器から流れ出てくるのだから、ちょうど人肌くらいの温度だ。どうやらややぬるめの温泉の湯を、頭からかぶっているような感じになるらしい。
以上のように瞑想することで、疲れはきれいさっぱりぬぐい去られ、心身に新たな力がみなぎってくると説かれている。「軟酥の法」や「甘露降浄法」が現代人に効くか否か、保証の限りではない。しかし「ものは試し」というように、試みても損はないかもしれない。
正木 晃
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。
「甘露降浄法」では、頭上から愛液が降りてくる
一方、「甘露降浄法」も、厳しい修行に
倦み疲れた密教僧が、その疲労や倦怠感を
癒すために実践されてきた。
もし「甘露降浄法」と「軟酥の法」に
違いがあるとすれば、それは甘露降浄法の
ほうがずっとエロティックな瞑想法だという点だ。
なぜなら、「軟酥の法」では、自分の頭に、
美味しそうな食べ物がのっていると瞑想する
のに対して、「甘露降浄法」では、
自分の頭の上に、抱きあった
男女のホトケがのっていると瞑想するからだ。
したがってしたたり落ちてくる「甘露」の正体は、
男女の体液が混じり合ってできた愛液にほかならない。
なにしろ性器から流れ出てくるのだから、
ちょうど人肌くらいの温度だ。
どうやらややぬるめの温泉の湯を、
頭からかぶっているような感じになるらしい。
頭の上にいやらしい男女の交わりがお互いの体液を垂らしなんて言う卑猥なイメージですが…。
私のオススメはスイーツ男子にも女子にもイメージしやすい「メルトバター瞑想法」です。
https://stat.ameba.jp/user_images/20220603/18/totomiyu---2010/68/f3/j/o0680036015127569870.jpg?caw=800
休日てはないが
天台浄土教の
ヒラメキが舞い降りた〜
聖なる人格仏の拡がりみたいな感じか〜
ま、日蓮も、それだな
😄
チベット密教も含む
大方の正統派仏教の禅定を
さらに一気にドミノ倒しに
捕まえられた〜
😄
😄
極めてはいないと、
何も日蓮を理解できんよ…
方便品がどうのこのって、
方便を語っているんだろう
「多くの仏が到達した、はなはだ深く、際限がない。その智慧の門は、理解しがたく、一切の声聞も辟支仏も、到底知ることのできないところである。なぜかと言えば、仏はかつて百千万億という数えられないほど多数の仏に親しみ近づいて、尽(ことごと)く多くの仏の数えられない量の仏道の修行を実践した。その修行には勇ましく激しく努力精進して、その名前は広く聞こえていた。枯れはまことに奥深い未だかつてない法をすべて成しとげたしかも人々にはその時機にふさわしいように説いて数えるので、その意図するところはなかなか理解することが難しいのである。
*こうもいう
舎利弗よ、時世が堕落して乱れたときには、生あるものは汚辟支仏れが重く、ものおしみをして貪り、嫉妬深く、多くの不善根を成し遂げているがゆえに、多くの仏は教化の方法の力を貰い手、ただひとりつの仏の乗り物があるだけなのに、それを分別して三つの乗りものを説かれた。
舎利弗よ、もしもわたしの弟子の中で、自ら聖者である、辟支仏であると称しているもののなかで、多くの仏・如来は、実は菩薩だけを教化したもうのだということを聞かず、知らないならば、これは仏の弟子ではないし、聖者でもないし、辟支仏でもない。
*ここは。金剛般若経とも重なる
金剛般若経は一乗とは語ってないが
以上
生あるものは汚辟支仏れが重く
は、
生あるものは汚れが重く
多くの仏は教化の方法の力を貰い手、
は、
多くの仏は教化の方法の力をもらいて、
です
三乗のうち、二乗は小乗だからね
真意を捕えていないですよ
金剛般若経
9・d
須菩提よ、
意に於いていかに。
阿羅漢は、能くこの念いを作して、
われ、阿羅漢道を得たりとするや、いなや。
須菩提言う、
いなり、世尊よ。
何を以ての故に。
実に、法として、阿羅漢と名づくるもの、有ること無ければなり。
世尊よ、
もし阿羅漢にして、この念いを作して、
われ、阿羅漢道を得たりとせば、
即ち、我人衆生寿者に著(じゃく)せらる。
9・e
世尊よ。
仏は、われを、無諍(むじょう)三昧を得たる人の中にて最も第一と為す。
これ第一の離欲の阿羅漢なりと説かれたども、
われは、この念いを作さず、
われはこれ、離欲の阿羅漢なりと。
世尊よ。
われ、若し、この念いを作して、われ、阿羅漢道を得たりとせば、
世尊は、則、須菩提はこれ、阿蘭那の行を楽しむ者なり、
須菩提の、実には所行無きを以てして、
しかも須菩提はこれ阿蘭那の行を楽しむと名づくとは説きたまわざりしならん。
*釈迦はそんな風には説かないということです
そんな風に、とは何だろう?
誤解を誤解だと素直に認めることも大事
自分は何々だとは言わない
捉われているのは、晃さんだろう
小乗がって
ご苦労やな〜
鋼鉄アキラーンに
サービスするとは
😄
私は菩薩だって言ったら、本末顛倒😁
得阿耨多羅三藐三菩提と宣言した事は矛盾するが…
これは仏ではなくて
須菩提が言ってる解釈ではないかな?
おはよう
凄いな、正宗系の捉われ方は、😁
私は、じゃない
その教えが、小乗か大乗か?の話をしている
>>774間違えた、
おはよう
凄いな、正宗系の捉われ方は、😁
天台密教真言密教天台本覚思想から出てきた日蓮に
さらに本覚思想を加速したので
ああいう言い回しに固執しなければ
信仰てきない
😫
その人に合わせて、方便で説いたんだろう
だが、本当は一乗だと
アキラーンは
継承はしてる
さらにアキラーンは
自分が仏教の頂点と有頂天しているのてで
もはやダメでしょ〜な〜
😫
では、一乗とは、何だと思いますか
方便とは、何だと思いますか
と解釈してるのなら、間違いだよ
一乗と方便は、別
最初から結論ありき〜
😫
それが
アキラーン
🤢
僕がただ筋を通してるだけやん
日蓮の映画をみているかぎりにおいでは、
伝教大師に戻す的なことをいっているが、
天台真言密教本覚思想の影響があったんですね
この辺は、日蓮の後付けなんじゃないですか
仏の慈悲について、出だしはかたっていたような
是だと、日蓮は歓喜していた。何の経文だろう
受け答えが出来ない人は、ノイズでしかない
いやいや 映画は映画だよw
手塚治虫のブッダで仏教学んだ気になるようなもんだよそれ
それ仏教じゃなくて、手塚治虫教やん、みたいなやつ
正宗に染まってないから
僕は、正宗でも異端視されてますよ
そのまま鵜呑みにしてるわけじゃない
自分で考えて、自分で結論を出している
一応は、なぞっているだろう
中央公論の日蓮は読破した、読破しただけ
昔だけどね
道元は、挫折した😁
日蓮は伝教より上の自覚はあった
戻すとは無いな
上も下もないと思います
それは上に失礼だし下の傲慢につながると思います
その自覚とやらの証明はできますか
迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし(種種御振舞御書)
🤢
法難の数がな
きこえよ‐がし(聞(こ)えよがし)
法難法難というが、自分から法難を作り出しているように見えるがね
蒙古襲来は、幕府側も対処している
別に神風だけではない
誤読だなぁ…こんな調子なのか…
戻そう、とは違う事は理解して頂きたい
誤読はしてないぞ
法華経だけを広めたのは、日蓮である
これは確かである
超えていけ、だと、また意味合いが違う
小乗批判につながらないだろう
伝教すらも越えていけ、という励ましであり
伝教時代に戻ろう、とは、映画の勘違いと認めて頂きたい…
そういうのは仕方ない事だけど
日蓮が先駆けとなった、門下のものに言った言葉だということは理解した
天台、伝教をも超えていけ
小乗にまさり、か、
小乗批判かどうかが、いつから論点になったんだろうか
これは私が間違っていた、謝る
こえよかしではなく、こへよかしね
偉い👏
古くて新しい教え
ナンミョー百万遍唱えよー!
南無妙法蓮華経!
(^^)ノ
俺はもうそれ妄想ってなってるから無理だなあ
妄想をガチで顕現すれば真だよ
信じるものは救われるのさ
時々阿修羅辺りまで降りてきますが、
そう言えば、阿修羅って【不飲酒】ともいうんだってね、
極楽浄土を顕現しておけばスムーズ
死後その境地というわけやな
真言密教寺院で
ゲットした感覚は
真言密教用語では
これらしい〜
大日経疏では、阿字を万法の根源と解釈する。密教では、本来、不生の体、根本実在を肯定するから、自己の万象も悉く根本法身である大日如来の顕現に外ならないとの見解に立つ。即ち不生とは色心本有の意で、空というも相すがたとしては悉くが具備している不空の義であることを明かすのが「阿字本不生」である。「近
サンスクリット語の五十音の最初である「阿([悉曇:a])」は何物からも生み出されることのない、本来的に真理そのものであるとする教え。真言密教の代表的な教説の一つ。真言密教ではあらゆる存在とことば(音声と文字)とが不可分であると説き、阿字には法身大日如来が象徴的に顕現していて、阿字を法身そのものと見る一方、森羅万象のすべてが大日如来の顕現と捉えていることから、阿字は万物の本源に位置付けられる。
_| ̄|○arigatoー
_| ̄|○arigatoーgozaimasu-
10.観無量寿経(その①)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17875290.html
え?救われないの??
なったよーだ
😭
よーこそ〜
😫😫😫😫😫😫
いや、言いたいのはそれだけだから
転識されたことない
崩壊くん〜
😭😭😭😭
信じないかは
あなた次第です
それ即身成仏の話しでしょ?
ここ限定〜
😄
信じませんっ!
😄
転生の話?
どうなんだろ
末法は
マイナー仏教です
日本だけですね、
メジャーになったのは
リダン、ここだよ〜
ここ〜
😄
分からん分からん
わかるように言って
リアクションできないのだから〜
リダンは〜
まったく〜
😫
原始仏教をマジメにやってたら、
末法なんて〜
ということになる、
その理解力がないから、
リダンは〜
😫
ジコチューリタンは
😫
でもそれじゃ浄土真宗のひと馬鹿みたいじゃね?
日蓮も極楽浄土も
似たようなもん〜
専修だから
😫
だから日蓮さんは忠告されてます。
シカーチンや
崩壊くんみたいに
脳内理解ではなく、
リアルに解ってます
日蓮、極楽浄土を
😄
それが脳内理解のみ
😫
でおーは日蓮さんが浄土思想を論破なさたことをご存知ない?
いんじゃね?
悟り=解脱ではないんでしょ
脳内理解だけ
😞
本流は
リダンに無縁な
精密な自己分析。
😞
明白に
如実知自心と
述べた
😄
天台小止観では、
自分の心の動きを見つめた
😄
自分の心の動きを
精密に把握し、
南方仏教では
ヴィパッサナー瞑想で
自分が何を想い何をしているか
実況中継の修行をする
😄
それを
如実知見
という。
😄
仏教の正統派の本流である
😄
寝ろ
屁理屈崩壊〜
😫
んなもん基本じゃないの
真言密教寺院で法事の準備手伝い少しで
キメたのは、「法然具足薩般若」
こっちか〜
こっちやな〜
😄
「法然具足薩般若」を意訳(私見)すると、「ありのままに、佛菩薩の智慧が過不足なく十分に備わっている。(=ありのままの大日如来)」である。弘法大師空海の論法を著作にみると、多くが最初に結論を明確に述べ、そのあとに論拠を記載していくパターンである。『即身成仏義』の二頌八句は全句が重要であるが、即身の偈の第一句「六大無礙常瑜伽」と成仏の偈の第一句である「法然具足薩般若」は特に重要だと思う。対句とさえ思える。
仮に対句として見た場合、「ありのままの大日如来(成仏)」=「六大無礙常瑜伽(体)」となる。
なら、末法に反応しないのは?
なんもリダンは理解してないだけ
😫
スマナサーラなら
末法をボロカスに言うだろな
😄
日曜は〜
😄
以上五個の証文により「法然」とは諸法自然のことであり、「具足」とは成就、無欠少の意味であると説く。
次に「薩般若」を説く。「薩般若」は梵字であり、一切智智と訳す。「智」の意味は、「決断簡択」であり、これは根本煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑)を断ち切るには三学(戒・定・慧)の内の慧、つまり智慧によらないと断ち切れないの意味での智である。これは『具舎論』に説かれている。「一切」は五智三十七智から刹塵に及ぶまでの仏の智慧があることを説いている。
寝れるのは50日後だな、
と
禅定内容が
恐らくはポジティブマッチだ
😄
真言密教坊主に次にあったら、
また自慢したろ〜
😄
だから、
お前なんかに
禅に関しては
徹底スルー
😫😫😫😫😫
俺からすりゃでおさんがまだまだ
そういうのから離れなさいが
分かっとらんのう
でおさんのが正しいか
ま、
お人好しなジーや
サティと遊んでもらえ
😫
そんなことより
悲しみ教祖に絡まれてるぞ
でおさん
仏にお任せしている
それ元嫁に言ったら
違う周りになんとかしてもらったんやと言われハッとした
やはり人事をつくして天命をまたねばならん
え?じゃあ何の話し?
そうよな
倶舎論に書いてあったわ
もう片方は戎でどうこうするんだったな
これやりきれば解脱は可能
んで念仏唱えりゃいいんよな
JBLさんが、自力ばかしだっていうからさ
自力で何としようとは思わなくなった
他力なら極楽浄土の話しでいいじゃない
日蓮さんはあかんいうてるけど
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13107748553
ヤフー知恵袋におもしろいこたえがありましたよ
自分で何とかするというのは、娑婆世界の話だそうだ
自力でやってるつもりでも
分水嶺や重要なところで降りてくるものね
これも他力だな
895 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
896 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
897 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
898 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
899 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
900 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
901 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
902 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
903 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
904 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
905 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
906 名前:あぼ~ん[NGName:夕] 投稿日:あぼ~ん
907 名前:あぼ~ん[NGName:リダン</b>◆iKlPp4IWRY<b>] 投稿日:あぼ~ん
>>902
JBLさんが、自力ばかしだっていうからさ
≫自力で何としようとは思わなくなった
自力(有為)でしか最初はでいないよ、
念仏だって、最初はヨーシ!ってやっていて、永らくやってから、
よーは、念仏が薫習されて、ある時、阿頼耶識から念仏が種子因縁として流れ出てきて、
唱えていないはずなのに、知らずに心の底から念仏が聞こえて来たりするようになる、
それがお任せ、
「私が成し遂げた」と考えたら「仏教」ではないです。
>>
オレは正当な導師から許されて印可を得てるんだじょー!
仏教知識もオレは誰よりも上なんだじょ!
お前よりオレは上なんだ! お前は負けてオレは勝ってるんだじょ わすれるなじょ!
理窟って漢字もあるんだ初めて知った へ~。
理屈と悟りとあると、私は悟りの方を見て言ってるんですよ。
誰それがどうだ 誰それはこう言ってたと要らんのですよそんなこと。
こっちでしょ これ こっち見ようね 自分の考えばかりにならないで。
その道通ってもたどり着きませんよ なん回生まれ変わろうが。
私だけがそう言ってるんじゃないの知ってるでしょ。古仏と呼ばれる方々も口をそろえてるの知ってるでしょ。
こっちここ 誰もいないところ 他の一切のものを差し挟められないくらい
これだけがあるんでしょ。 たかがそれに気づいたか気づいてないかだけの差でしかないでしょ。
どうでもいい 要らん事だ。
左手とは、右手が有ってこそ。
> 鏡をみるとどっちが右手でどっちが左手か?
左右が無い。
切り落とされてないから痛くないな。
誤字、脱字、誤変換、を訂正
> オラッチが オマイの 左手を 斬り落とした。痛いのは どっちの手か。 』
オラッチが オマイの 左手を 斬り落とした。 失くしたのは 左右のどっちの手か。
> 左右が無くても鏡に映ってる手と称されるものはあるね。 切り落とされてないから痛くないな。 』
鏡が 無い時、左手は どっちの手か。
さて、寝る。
> 鏡がない時は左手だね。 さて、寝る。 』
ごめんね、禅の人出は無かったようだね。(^o^)ノ < おやすみー
どうでもいい
お前のことなど知らん
以前の仕事の夢を見ていた
工期がない
何をやるんだろうと、探し回る己
夢とは不思議なもんだ
己と思ってしまう
己ですよ
夢に呑まれたときは真でしょ
ただ過去生(現世)の常識を思いだすとたちまち夢があせていく
これが夢だと気づいたまま夢にいれる
物質世界、輪廻も同じなんですよ
あるのでそれをオフ(坐禅など)がいりますが
確かに
夢の中ではそれなりに必死
目が覚めると無意味
全て阿頼耶識の現れと気がつくのが
輪廻の囚われから解脱ってやつでしょうな
逆に今の縁起が尊いとなりましたが
特に猫、自然、他の共有
>夢に呑まれたときは真でしょ
そうなのか
>ただ過去生(現世)の常識を思いだすとたちまち夢があせていく
これが夢だと気づいたまま夢にいれる
*これが夢だと気づいたまま夢にいれる
面白い言い回しをする
そういう感覚はないな
過去を見、未来を見、今を見
そんなものはどこにもない
気が付いた時はづれている
夢の如し
明晰夢って言って科学的にも検証を行われてるんじゃないかな
夢の話の中の話でしたか、勘違いしました
小さいころ、怖い夢をみたとき、強制的に結末を良い方向に持って行こうとした
小さいころは特に分かるんですよ
夢は子供には大冒険ですな
は非常にわかります
どうでも良いことって、よくよく吟味してみると実はすげえ奇跡の連続の縁起の末なんですよね
夕向けに
日曜の出来事を
言語化できた
😄
ジャストミートだ
日曜は〜
😄
以上五個の証文により「法然」とは諸法自然のことであり、「具足」とは成就、無欠少の意味であると説く。
次に「薩般若」を説く。「薩般若」は梵字であり、一切智智と訳す。「智」の意味は、「決断簡択」であり、これは根本煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑)を断ち切るには三学(戒・定・慧)の内の慧、つまり智慧によらないと断ち切れないの意味での智である。これは『具舎論』に説かれている。「一切」は五智三十七智から刹塵に及ぶまでの仏の智慧があることを説いている。
そうですね
仏とは、欠点がない
道元禅師が宋国で
師匠に出会う前に
一人の高齢僧侶が
必死にきのこを干す仕事をしていて
問答した内容があるが、
そういう真言密教の日常の表現を
神秘主義的な言い回しのよーだ
本尊から伝授してもらった〜
こちらの禅修行に
対抗してのよーだ
😄
川^〇^ハレ道元さんは椎茸干しは雲水にやってもらえばイイじゃなぁ~い
典座のお坊さんは自分でやらなくてどうすんのって動中の工夫♪
でおーたんファイナルアンサー
をちぎった香りで
😄
樒(しきみ)と仏教の関わり
今でも、真言宗では樒を仏事に用いています。 冬でも緑の葉を保ち香りの良い樒は、真言宗だけでなく他の仏教の宗派でも、仏壇に供える仏花など、仏事で用いられています。 現代でも、日蓮正宗や創価学会では仏壇や墓には生花ではなく樒をお供えします。
ノドの奥の上部(鼻の奥といった方がいいかもしれない)が腫れ上がる症状
ここは神経系やリンパ系が集中するところなので、全身に影響を及ぼす
絶大だ、
あれには
膨大な情報がある
😄
行くべきところは内科ではなく、耳鼻咽喉科
鼻で生きてるな~😄
嗅覚で生きてる人もいるんだな😄
川^〇^ハレJBLたん鬼の撹乱?www
冗談ですwww
季節の変り目って体調悪くなったりしますよね
麦も昨日一昨日鼻水出てた
一時は喉の薬塗り過ぎて
俺は、そこが弱い
慢性だな
ビックス飴、常になめる、
😄
去年も、9月はこうだった
この話ばかりしてた(笑)
今年は夏が長かったから、10月になった
キリスト教、仏教、イスラム教あたりは
全て嗅覚、
ヒンズー教施設だけは未探査だが、
ヨガの書から強烈な嗅覚が動くから、
恐らくは〜
禅は嗅覚は全てではない、
こちらの洞察力が試される
😄
自分は聴覚が発達しているな~😄
音楽とか語学とか
個人的に得意なものは、耳から入るものばかり
朝起きれば
大方調子悪いので
中途覚醒でも
歯を磨く、そしてビックス飴一個なめるすると
軽くはなる、
😄
川^〇^ハレ蜂蜜って純粋って表示されていても紛い物が多いみたいだけど
それなりの蜂蜜店の本物の蜂蜜は殺菌作用や栄養素があって
古代エジプトでも重宝されていたり
傷なんかの薬として使われていたみたいですよね
風邪の引き始めに蜂蜜舐めると割りとイイ感じです
また、花粉症に効くと聞きます
横からすいません😊
大乗も含めて
だから、夏が好き
中国の仏教は、儒教や道教が入りすぎ
>中国の仏教は、儒教や道教が入りすぎ
鳩摩羅什が逆に老荘にはまったのじゃないかと、憶測する
妙なんて字を使うし
∞ノノハ∞
川^〇^ハレマヌカハニーは最強みたいですけど
結構なお値段なので
麦は蜂蜜ですwww
プロポリスも免疫力を高めたり抗菌抗炎作用があって凄くイイみたいですけど
以前プロポリス入り蜂蜜買ったらマズー(+д+)でしたwww
川^〇^ハレ
>出来れば、地元の蜂密
身土不二って聞いた事あります
蜂蜜って花粉症にもイイんですね♪
∞ノノハ∞
川^〇^ハレそうかももwww
>>947
去年も、9月はこうだった
この話ばかりしてた(笑)
今年は夏が長かったから、10月になった
子供の頃におれも毎年喉を腫らして高熱だしてたわ、
鼻にパイプ入れて喉奥消毒するやつで予防しないの?
確か、売ってたでしょ、
たぶん、喉奥に腫れる菌が住み着いていて、完全に消毒できてないんだと思う、
おれは10年前から、MSM(ミラクル・ソリューション・ミネラル)を使っている、
亜塩素酸ナトリウムとクエン酸を反応させて、二酸化塩素水溶液を作る、そして薄めて消毒薬として、飲用として、身体内部に巣くう細菌、ウイルスを駆除するんだわ、
食中毒の腹痛なんか、これ飲むと10分くらいで完全に回復するよ、もう万能薬だ、
これは、アフリカ諸国で使われているもの、水消毒やマラリア等に有効です、
沖縄の業者から買うんだけどね、
なるほど!
それが良さそうだ😄
https://www.google.com/search?q=%E3%83%8D%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC+%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E7%94%A8&client=ms-android-samsung-ss&sca_esv=574726742&source=android-home&sxsrf=AM9HkKlVcz1cGcODzVfMNzGAMnKZyUkMNw%3A1697697899314&source=hp&ei=a9AwZZ6KEfzl2roPw8qPgAY&oq=%E3%83%8D%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC&gs_lp=EhFtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1ocCIS44ON44OW44Op44Kk44K244O8KgIIAjIFEAAYgAQyCxAAGIAEGLEDGIMBMgUQABiABDIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgUQABiABDIFEAAYgAQyBRAAGIAESIlCUOIQWIYzcAF4AJABAJgBpQOgAfwKqgEHMC42LjQtMbgBAcgBAPgBAagCD8ICBxAjGOoCGCfCAgoQIxiKBRjqAhgnwgIEECMYJ8ICBxAjGIoFGCfCAg0QABgEGIAEGLEDGIMBwgIHEAAYBBiABMICChAAGAQYgAQYsQPCAggQABiABBixAw&sclient=mobile-gws-wiz-hp
MSMは【ジム・ハンブル】という博士が最初にアフリカで使い始めたようだ、
MMS (Miracle Mineral Solution) とは?
https://www.mms12.jp/
これが沖縄の販売サイト
ミラクル・ミネラルの発見
1996年 ガイアナ (Guyana)で、当時64歳の「ジム・ハンブル」(Jim Humble) が、
飲料水の浄水用の「安定化酸素」(stabilized oxygen) をガイアナのジャングルで用いたことから話が始まります。
https://www.mms12.jp/index.php?FrontPage
ミラクルミネラルソリューション
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
MMSは、HIV、マラリア、肝炎ウイルス、H1N1型インフルエンザウイルス、風邪、自閉症、ニキビ、がんやその他諸々に対する治療薬となるという虚偽の宣伝がなされている。
これは、アメリカ合衆国環境保護庁によって禁止されてわいるが、
しかし、虚偽ではないです、
実際にインフルエンザ、風邪、食中毒、その他(傷の治りが早いし綺麗に治る)を、
おれは何回もなおしています、
濃いまま飲むバカは居ません!適度な濃度で飲用します、
おれは手指にできて毎年夏には水疱で苦しんでいたが、手指は原液を使用して、ヘルペスを完治させた、
今では全く出現しません!
故に世界的に、当局によって圧力がかかっている、
日本でも二酸化塩素商品の販売差し止めあったでしょ、
樒は 単に 樒と 呼ばない。御お を付けて、 御樒 おしきみ、と呼ぶ。になう者は 尊敬し、丁寧 である。 ・・・・・・(´ε ` )ボソッ
国費留学僧、道元が長居府場旅の湊に着いたとき、一場で老僧が乾燥したシイタケを買い求めていた。
支配階級出身で、要所?゜時より習熟していた中国語で、いぶかって訪ねる。あなた自身でそのような買い物に出かけてこなくてmの、誰か他の若い修行僧に任せたら、どうですか。
老僧が、答える。お若いの、お若いのう。ワシやタカがやらなきゃ、誰が?ダダダッ(((((/ ̄ 3 ̄)/チュー形相の飯を作るというんじゃい。佛が佛ん三なる修行をワシやタカ、トンビが、縁の下の土の中の石っころが、支えてやっと、修行上全体が動き出すんだよ、分かったか、お若いの、お若いのう。
道元はその場にへたり込んだ。中國の禅の輝きに打ち飲まされた。
以後、書?゜着、おまんまは押し頂いてから、他b寝るようになった、土佐高地、
誤字、脱字、誤変換、を訂正
国費留学僧、道元が長い長い船旅の果てにやっと湊に着いたとき、市場で老僧が食感が肉の代用品としては最適の干しシイタケをあれやこれやと一心不乱に吟味しながら流れ出る汗をぬぐおうともせ熱心に買い求めていた。
支配階級出身で、幼少時より習熟し、読み書き会話に不自由するみずから事が無い中国語で、いぶかって尋ねる。
修行者に尊敬される老僧であるあなた自身でそのような買い物に出かけてこなくても、誰か他の若い修行僧に任せたら、どうですか。
老僧が、答える。お若いの、お若いのう。
ワシやタカがやらなきゃ、誰が仏である修行僧が仏であると気付く修行のメシを作るというんじゃい。佛が佛ん三なる修行をワシやタカ、トンビが、縁の下の土の中の石っころが、支えてやっと、修行道場全体が動き出すんだよ、分かったか、お若いの、お若いのう。
道元はへなへなとその場にへたり込んだ。
中國の禅の輝きに打ちすえられたのだ。
以後、将棋、おまんまを居たdファクト期はし両手で高くおしいただいてから、やっと食べるようになったとさ、高知。
更に 誤字、脱字、誤変換、を訂正
おいおい、兄ちゃんよぉ~(  ̄Д ̄)ノ(゜∇゜|| )ヾひぃぃぃ
国費留学僧、道元が長い長い船旅の果てにやっと湊に着いたとき、市場で老僧が食感が肉の代用品としては最適の干しシイタケをあれやこれやと一心不乱に吟味しながら流れ出る汗をぬぐおうともせ熱心に買い求めていた。
支配階級出身で、幼少時より習熟し、読み書き会話に不自由するみずから事が無い中国語で、いぶかって尋ねる。
修行者に尊敬される老僧であるあなた自身でそのような買い物に出かけてこなくても、誰か他の若い修行僧に任せたら、どうですか。
老僧が、答える。お若いの、お若いのう。
ワシやタカがやらなきゃ、誰が仏である修行僧が仏であると気付く修行のメシを作るというんじゃい。佛が佛ん三なる修行をワシやタカ、トンビが、縁の下の土の中の石っころが、支えてやっと、修行道場全体が動き出すんだよ、分かったか、お若いの、お若いのう。
道元はへなへなとその場にへたり込んだ。
中國の禅の輝きに打ちすえられたのだ。
以後、将棋、おまんまをいただく時は、両手で頭上に高くおしいただいてから、やっと、食べるようになったとさ高知。
アイツに聞いたって、仏教用語を偉そうに並べるだけで、何も分かんないだろ(笑)
慣れてる人にとっては、
専門用語で言ってもらった方が早い
別に、やらなくてもいいんだよ?
それを知らなきゃ、仏教が分からないなんてことはない
その方向に行きすぎる気がする
・・・まあ、当方もその元凶ではあるが(笑)
そういうテーマでやってみたい
アルボムッレ・スマナサーラ長老
きょうは仏教、とくに私たちが日頃言っているテーラワーダ仏教そのものについて改めてお話したいと思います。テーラワーダ、日本語で上座仏教、別称として原始仏教と言いますが、これはあくまでも他の仏教の宗派とはっきり分けるためにそう呼んでいることはもちろんですが、上座仏教の人々は釈迦尊の教えを忠実に守って実践していくことに誇りを持っています。と言うのも仏教はこれまで二千年以上の長い年月のあいだにいろいろな人々の解釈の違いやら発展的な方向転換等によって、お釈迦さまの説かれた教えとは趣を異にしたかたちとなって現在に至っています。お釈迦さまが説かれた本来の教えをそのままに実践したいとする人々が現れるのは当然の成り行きで、原始仏教と呼ばれているのはそうした意味からです。
このように上座仏教はお釈迦さまの教えから決して逸それることなく、ましてや新しい経本を作ったりすることもなく、ただ一心にお釈迦さまの教えを忠実に守っていくということに自分の全責任を置いて学んでいくというところが、他の宗派と大きく区別されるところだと思います。
中国・チベット・朝鮮半島や日本には、お釈迦様の死後数百年経って成立した北伝の仏教、いわゆる大乗仏教が伝えられました。
一方、スリランカ・タイ・ミャンマーなどの出家教団によって継承された南伝の仏教をテーラワーダ仏教といいます。テーラワーダ仏教は、他に初期仏教・上座仏教・上座部仏教・根本仏教・原始仏教などとも呼ばれています。
「テーラワーダ」とは、パーリ語(古代インドの言語)で「長老の(thera)教え(vāda)」を意味します。お釈迦様の時代から完全に近い形で残されたパーリ語経典に基づいて、多くの比丘(出家僧)と在家信者たちの努力により、約2560年間の長きにわたって実践され、受け継がれてきたお釈迦様の根本の教えがテーラワーダ仏教なのです。
日本など大乗仏教の諸国では、お釈迦様の初期経典に説かれたヴィパッサナーなどの実践方法が伝わってきませんでした。そのために思弁哲学の学問仏教、あるいは現世利益信仰や儀式儀礼の呪術的宗教になってしまった面もあります。
テーラワーダ仏教は、いわゆる「小乗」とも「大乗」とも無縁です。お釈迦様の説かれた教えとその実践方法の一つ一つを、当時のまま、今日まで伝えてきた純粋な体系なのです。
お釈迦様が説かれた本来の仏教は、儀式儀礼ではなく、いつの時代でも、生きている私たち人間の心に直接働きかける、実践的で役に立つ教えです。ヴィパッサナーや慈悲の瞑想といった、お釈迦様の教えられた実践法は、宗派の違いや宗教の枠を超えて、誰にでも実践できる幸福の道であるといえるでしょう。
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