【キリスト】気が向いたら書き込む【三位一体の神】アーカイブ最終更新 2023/09/26 02:211.神も仏も名無しさんTRadN『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 (マタイ 22:37-38) 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。 わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 (ガラテヤ 5:19-24) だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 (ルカ 9:23) もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 (ヨハネの手紙第一 1:10) あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。 (マタイ 28:10)2023/08/08 23:51:141000すべて|最新の50件2.神も仏も名無しさんTRadN天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン2023/08/08 23:51:373.神も仏も名無しさんTRadNキリスト教における主の祈りとは何なのか?その価値をおさらいしとこうず。カテキズムより 2761 主の祈りは、全福音書の要約そのものになっています。 主は祈るようにと教えられたあとで、願いなさい。そうすれば与えられるといわれました。だから、それぞれの必要に応じて神に願うことができはしますが、やはり、つねに正式な主の祈りから始めるべきです。 この祈りこそあらゆる願いが集約された基本的な祈りだからです以上2023/08/08 23:51:544.神も仏も名無しさんTRadN天におられるわたしたちの父よ、 →全能なる崇高で偉大な父なる神への全幅の信頼の眼差しを向けて2023/08/08 23:52:075.神も仏も名無しさんTRadNみ名が聖とされますように。 →この地上の全ての人々の間で聖とされることを願う、具体的に周りにいる人のことを想起しながら2023/08/08 23:52:196.神も仏も名無しさんTRadNみ国が来ますように。 →キリストの再臨と神の国の到来。自分の日常の生活によりそれが近づくことを願う。具体的に自分の生きる世界を想起しながら2023/08/08 23:52:307.神も仏も名無しさんTRadNみこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 →キリストの望みと自分の望みの一致を願う、具体的に自分の望みとキリストの望みを思い出す2023/08/08 23:52:438.神も仏も名無しさんTRadNわたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。 →神への信頼と感謝の中で物質的、霊的な意味での命の糧を感謝と共に願う2023/08/08 23:52:569.神も仏も名無しさんTRadNわたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 →敵をゆるす努力なしでは自己の罪の許しを得られないことを心に響かせ、神の哀れみを求める。具体的に自分の罪と日常のゆるせない人を想起し赦す2023/08/08 23:53:0810.神も仏も名無しさんTRadNわたしたちを誘惑におちいらせず、 →識別と力の霊を嘆願し、警戒するための恵みや、最後まで忠実に耐え忍ぶことを切願する、具合的に自分が陥りやすい誘惑を想起しながら2023/08/08 23:53:2111.神も仏も名無しさん6TknY悪からお救いください。 →三位一体の神の勝利がこの世の支配者のサタンに対して現れること願う2023/08/08 23:53:3512.神も仏も名無しさん6TknYアーメン →どうかそのとおりに成りますように、と謙虚に控えめに委託の心をもって2023/08/08 23:53:4813.神も仏も名無しさん6TknY仕事が忙しくなりすぎて5chはご無沙汰だった2023/08/08 23:54:1014.神も仏も名無しさん6TknY久しぶりに戻ってきたらジェーンで書き込んだらtalkに書き込むことになっとるw2023/08/08 23:54:3815.神も仏も名無しさん6TknYでも書き込み速度はサクサクだ、連投規制もない普通にこっちのが快適2023/08/08 23:54:5916.神も仏も名無しさん6TknY癒しスレはテンプレなくなっとるし、なんなら昔書き込んでたのはほぼ俺だけ2023/08/08 23:55:2317.神も仏も名無しさん6TknYであるなら、新しいスレ立てて時々書き込むのがええとなるこれは必然だな2023/08/08 23:55:4818.神も仏も名無しさんTRadNいい人だけど繁栄の神学な毒麦とは別の場所で、かつ大本山もいない2023/08/08 23:56:1819.神も仏も名無しさんTRadNさらに快適だ2023/08/08 23:56:2820.神も仏も名無しさんTRadNただ、気をつけないといけないのは、快適なことは果たして善に資するのか、という点だ2023/08/08 23:56:5521.神も仏も名無しさんTRadN障害、障り、そういうものがあるから進歩がある2023/08/08 23:57:1622.神も仏も名無しさんTRadN障は成熟には欠かせない機能である2023/08/08 23:57:3423.神も仏も名無しさんTRadNただ、仕事しそがしくて時々しか書き込めないなら障りの機能ももはや不要だろう2023/08/08 23:58:2024.神も仏も名無しさんTRadN宗教的なことなんて普段は語れる場所はあまりない匿名掲示板はそういう時に相応しい場所だ2023/08/08 23:58:5425.神も仏も名無しさんTRadNそんな感じでひっそりやってゆこうスレ立てたばかりで連投だから勢いついてるだろうが秒で減速する2023/08/08 23:59:3126.神も仏も名無しさんpun6fなぜなら、目の前でもっと大事なことがあり、キリスト者としてそれに優先的に向き合う必要があるから2023/08/09 00:00:0027.神も仏も名無しさんpun6f昨今、昭和カルトは死滅して、陰謀論や民族主義、ポピュリズムなどがその代替をしている2023/08/09 00:06:2328.神も仏も名無しさんpun6f対話の道はなく、異なる宗教同士が異なるポジションから暴力で蹂躙を欲する2023/08/09 00:07:1029.神も仏も名無しさんpun6fこの背後にあるのは資本主義で、SNSを通じて閉鎖的なコミュニティをAIのレコメンドバイアスで、信者を猛烈な勢いで増やしている2023/08/09 00:08:2930.神も仏も名無しさんpun6fSNSは偏向したコミュニティ構築を金(広告)の力で合法的に作ることに適している2023/08/09 00:09:2731.神も仏も名無しさんpun6f宗教の経済化、宗教の政治化、これはカルトの通奏低音で、現代ではSNSで陰謀論の形でそれを成す2023/08/09 00:10:1832.神も仏も名無しさんpun6f賞味期限が切れて既に腐っている昭和カルトは相手しなくていいかれらはもう腐っており、時間の経過で土に還る相手すべきなのは、レコメンドの洗脳とそれを支える資本主義のシステムだ2023/08/09 00:11:3533.神も仏も名無しさんpun6fその新しいカルトによって壊れるのは民主主義今は資本主義が民主主義を攻撃し、全体主義的な資本主義が栄えている時代2023/08/09 00:12:3034.神も仏も名無しさんpun6fこの時代の中で、教皇はキリスト教の観点から様々なメッセージを送っているが、足元のスキャンダルや、相対的に力を失い弱体化したポジションから影響力を持っていないことは明らか2023/08/09 00:14:0635.神も仏も名無しさんpun6fキリスト教は尊いが、宗教自体は影響力を失ったそう言わざるを得ない2023/08/09 00:14:4736.神も仏も名無しさんpun6f頼みの綱は空気のようになったキリスト教すなわち、キリスト教的な倫理観2023/08/09 00:15:1537.神も仏も名無しさんpun6fそして、その倫理観に立脚した、様々な地上戦2023/08/09 00:15:3738.神も仏も名無しさんpun6fこのままいくと、現行システムのキリスト教が終わるのではないかという危惧宗教そのものが必要なくなるのではないかという危惧2023/08/09 00:16:1539.神も仏も名無しさんpun6fそういう帰路に立っているカルトも正統派もどちらも必要とされていない2023/08/09 00:16:4640.神も仏も名無しさんpun6fだから、昭和カルトも昭和正統派も相手にしてもしょうがないかれらの時代はとうの昔に終わっている2023/08/09 00:18:2741.神も仏も名無しさんpun6f山の上、もしくは部屋の中で引き篭もる時代はとうの昔に終わっている社会の中でシモーヌヴェイユのように生きる人間が求められている時代の空気2023/08/09 00:22:4642.神も仏も名無しさんpun6fそれすらも過去の話で、シモーヌヴェイユのような人間が大量生産されているのが今の空気その中で、現実社会と信仰のバランス感覚を持って皆が動いている2023/08/09 00:24:2343.神も仏も名無しさんpun6f宗教観点からだけの情報発信の時代は終わったみなが地上戦をしてるのを感じるそういう時代の空気、それぞれの持ち場でやるべきことをやっている2023/08/09 00:26:1844.神も仏も名無しさんpun6f自分も含めてそんな人が気が向いたら書き込むスレw2023/08/09 00:37:1945.◆JBLfMwCXhY4l3paおはよーございます☀️😃❗2023/08/09 08:36:4846.元コマンドー◆KBl5hH0VXMm3psnサティさん?2023/08/09 16:21:5847.神も仏も名無しさんNCON70293麦 ◆MUGITANx95Dj2022/10/16(日) 16:27:25.61ID:lt211dhX>>283∞ノノハ∞川^〇^ハレ???????ブォォォォなりきって煩悩を燃やし尽くすぞぉおおお???ファイヤ!ファイヤ!!悪霊オェー!!掛かり付けの精神科に行け!!wwwwww精神病棟から出てくんな!!キチガイ2023/08/09 19:15:5548.神も仏も名無しさんuBtgPベイダー和尚がサティ氏とおっしゃているがホントですか?😄2023/08/09 19:28:3949.神も仏も名無しさんuBtgPぽいなサティなら、よろ〜😄2023/08/09 19:30:2650.神も仏も名無しさんpun6f>>45おはよーございます🌙>>46せやで>>49よろー、ただ気が向いたら書き込むスタンスなので頻度は低めどすー2023/08/09 21:02:5851.神も仏も名無しさん4ldSGやった〜サティがきた〜退屈しねえ〜JBLスレでは、神の僕氏にジャブ入れてま😄2023/08/09 21:10:5852.神も仏も名無しさん4ldSG大本山の洪水にはウンザリ😄2023/08/09 21:11:2353.神も仏も名無しさん4ldSG神の僕がいるとサティ的にウザいので新スレという流れか😄2023/08/09 21:45:4554.神の僕aNPnTウザければ来ないまで。ばいばい。2023/08/10 01:25:1455.神も仏も名無しさん8yC4Vサティ、おはよ〜😄2023/08/10 11:04:2956.神も仏も名無しさん9F399おはよー👋2023/08/10 22:33:5757.神も仏も名無しさん9F399Rome Call for AI Ethics1.透明性(Transparency):AI技術は基本的に説明可能であること。2.包含(Inclusion):AI技術の発展が全人類の一人一人に恩恵があること。3.責任(Responsibility):AI開発、利用においては責任を持って遂行すること。4.公平性(Impartiality):偏見や差別に基づいたAI技術の開発や利用をしないこと。5.信頼性(Reliability):AI技術やサービスは信頼性があること。6.セキュリティとプライバシー担保(Security and privacy):AI技術はセキュリティに考慮して機能し、利用者のプライバシーに配慮すること。2023/08/10 22:43:1758.神も仏も名無しさん9F399バチカンが発表したAIのガイドの声明は資本主義と相性が非常に非常に悪い私利私欲、つまり自分だけ売上と利益を増やしたい、という競争原理にAIを使う限り、ガイドライン準拠は構造的に難しい2023/08/10 22:46:2759.神も仏も名無しさんPARPnサティ、おはよ〜仏教版では、ナルシズムバトルが発生していたが、やはり、ナルシズムバトルはシカーチンの勝利のよーである😫2023/08/11 06:22:4160.◆JBLfMwCXhYS4d4Oやはり、ナルシズムでは誰もシカに勝てないか~😫2023/08/11 06:46:2161.神も仏も名無しさんxIzhbかつてはボッタん、ムイムイはシカーチンと激しいデッドヒートを演じたこともあったが今や絶叫するのはシカーチン様、ただ一人😭2023/08/11 07:11:5962.仏◆fpp4jPwrKs287PNBUてすと2023/08/11 14:13:3363.◆OMANKOKAT.7PNBUてすと2023/08/11 14:14:3264.神も仏も名無しさん6VNVm>>59馬鹿の園は相変わらずみたいですなwナルシズム絶対王者やで😆2023/08/11 21:49:5065.神も仏も名無しさんos8Cg久しぶり世界征服目論むよーなナルシズムがシカーチン👽2023/08/11 22:05:1966.神も仏も名無しさん6VNVmきゅんきゅんする厨二観ですなー😆2023/08/11 23:02:0567.神も仏も名無しさんos8Cg今宵のシカーチン様は ナルシズムに独り上り詰めているよーだ👽2023/08/11 23:12:1468.◆OMANKOKAT.o5dXf【斎藤一人】ひとりさんが人生で初めてTV出演した貴重映像https://www.youtube.com/watch?v=6gkL5ytMLOc2023/09/01 12:59:1969.神も仏も名無しさんzNkTV最近は物語りの概念に少し興味がある演劇を見る時、初めは虚構だと認識しているが時間が経過すると、まるで現実のように物語りにのめり込み同化する2023/09/03 00:22:0270.神も仏も名無しさんzNkTV仏教ではこの物語りの外に出ることを教える物語りはまやかし哲学的には本質、存在を指し示す性質と、複数の存在がおりなす関係性でしかない2023/09/03 00:23:3971.神も仏も名無しさんzNkTV在るのは実存であり、実存は本質ではない我は我は在るただ在る、それしかない2023/09/03 00:24:1372.神も仏も名無しさんzNkTVその「在る」の在り方は、私は私は在る、とよく似てて、物語りが織りなす、仮初の「私」ではなく、ただ在る、である2023/09/03 00:25:3273.神も仏も名無しさんzNkTVこの「在る」は本質の「外」にあるその意味において無我であり、実存の意味において、私は私は在る、である2023/09/03 00:26:4974.神も仏も名無しさんzNkTV>>73の「私は私は在る」の前の「わたし」と後ろの「わたし」は意味が違う前のわたしは他者に適応しうる「わたし」であり、後の「わたし」は他者に適応し得ない<わたし>となるそう永井均は大昔から散々主張し続けており、それは正しい2023/09/03 00:28:4475.神も仏も名無しさんzNkTV仏教と独我論の関係の表層はこんなところだが、ではキリスト教ではどうなるのだろうか、とふと立ち止まる物語りの取り扱いがどうも違う前の「わたし」と後の<私>が違うように2023/09/03 00:30:5576.神も仏も名無しさんzNkTV本質と実存がイコールで結ばれてしまうように2023/09/03 00:31:2377.神も仏も名無しさんzNkTVものがたり、と一言で言っても「ものがたり」と<物語り>があるように思う「わたし」と<私>の違いと似た構造のように2023/09/03 00:32:1978.神も仏も名無しさんzNkTV創造は物語りだそして、時間を原理として内包するこの世の物語りの外にある2023/09/03 00:33:3579.神も仏も名無しさんzNkTV神の存在証明が内側の定義から超出してしまうように創造の物語りは内側の定義から超出してしまう2023/09/03 00:34:2480.神も仏も名無しさんzNkTVそのような物語の構造が<私>にも適応し得る予感が、可能態としてある2023/09/03 00:35:1781.神も仏も名無しさんzNkTVキリストはそれを「私の十字架」と呼んだ2023/09/03 00:35:3682.神も仏も名無しさんzNkTV創造の物語りを紡ぐキリストの十字架もあれば、創造の物語りを紡ぐ<私>の十字架もある2023/09/03 00:36:2283.神も仏も名無しさんzNkTV創造という凍りついた完全性の中の一つの点、十字架しかし、この今のおいて一挙に創造全てが成立している視座から見た時の一つの点2023/09/03 00:37:3984.神も仏も名無しさんzNkTV自己超越、超出の先にある<物語り>2023/09/03 00:38:1985.神も仏も名無しさんzNkTVこの<物語り>は積極的に同化するべき概念であり、「わたし」と同じ構造の意味での本質という意味での「物語り」は積極的にエポケーするべき概念2023/09/03 00:39:5986.神も仏も名無しさんzNkTVおなじ「ものがたり」という単語だが、本質と存在の差異を前にして、同様のことを語り得る構造なのではないか2023/09/03 00:40:5087.神も仏も名無しさんzNkTV時間と存在、その先にある物語り2023/09/03 00:41:0488.神も仏も名無しさんzNkTVキリスト教においては時間、存在、物語りは個において、一種の三位一体として機能している2023/09/03 00:41:5289.神も仏も名無しさんzNkTVキリスト教に欠けているのは<私>の<物語り>だ2023/09/03 00:42:4990.神も仏も名無しさんzNkTV天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。2023/09/03 00:44:4891.神も仏も名無しさんnUiZcサティの書き込みやろか?セイントウィキペディア〜〜😄セイント画像落とし大ブーム〜〜😄https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A92023/09/03 10:08:5492.神も仏も名無しさんnUiZcまだまだカトリックセイントには詳しくない、チラチラみたことは見たが〜😄2023/09/03 10:09:3593.神も仏も名無しさんzNkTVグノーシスとキリスト教の合流するところに新しく立ち現れたのがキリスト教神秘主義やね洗礼者ヨハネから始まり使徒ヨハネやアウグスティヌス、偽ディオニシウス、エックハルト、十字架のヨハネなどなど大道としてのキリスト教ではなく小道としてのキリスト教の系譜ですなまぁ、系譜というより個人、となるけど2023/09/03 12:24:4394.神も仏も名無しさんzNkTV<私>の<物語り>を成立させるためには、この世を成り立たせる<今>に中心化された過去と未来を十全に捉える必要性が必然的にある時間の内に在りながら時間の外にあらざるを得ない2023/09/03 12:28:0195.神も仏も名無しさんOcGwUセイント検索のせいで近所のカトリック教会堂を外から拝んできた😄2023/09/03 12:28:1096.神も仏も名無しさんzNkTV従って<物語り>という表記は、別の宗教的な「あの単語」でも差し支えない2023/09/03 12:28:4597.神も仏も名無しさんzNkTVおーいいすなー俺も行こうかな2023/09/03 12:29:1198.神も仏も名無しさんzNkTVあの概念は実存を前に、あってもなくてもいい、というのがこれまでの私のスタンスだったしかし、本質と存在と創造の観点から鑑みるとなくてはならない概念であるのでは、という予感が生まれた2023/09/03 12:31:5899.神も仏も名無しさんzNkTVキリストは受肉の前から存在し(過去)、贖罪と復活を示すことで、人類の完成形(未来)を、実存(今)として示した2023/09/03 12:33:04100.神も仏も名無しさんzNkTV人は受肉前と卒業後の表層を一般的に持つことは出来ない大道ではそれらは不必要だが、小道では創造を前に、確実に必要な事柄だろう2023/09/03 12:34:32101.神も仏も名無しさんOcGwU踏んだり蹴ったりの家族が病魔でバタバタ死んだり、当人が病魔に苦しみ早く天に召されるセイントのウィキペディアを見ながら〜救いは天国の暮らしか〜とま、希望〜😄2023/09/03 12:55:41102.神も仏も名無しさんOcGwUマチコやサロメなんか、大うそつきだ😫2023/09/03 12:56:19103.神も仏も名無しさんOcGwUウィキペディアのセイントの写真や絵を落とせるの知って、ダウンロード最近ブームやった😄2023/09/03 12:57:20104.神も仏も名無しさんOcGwU聖ジェンマ ガルガーニのウィキペディアの写真は迫力あるな〜2023/09/03 13:05:01105.神も仏も名無しさんOcGwUhttps://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTqsDDTrtyZ5o5m7JjGMCPy6Ds0GMnaRgsmNg&s2023/09/03 13:06:09106.神も仏も名無しさんOcGwUhttps://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTu-u7Jr7RnrGxn9fGpAUhqjciL6FoqeT1NEw&s2023/09/03 13:06:40107.神も仏も名無しさんzNkTV>>101キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのでしょうな2023/09/03 14:10:00108.神も仏も名無しさんOcGwU>>107セイントのウィキペディア検索で自分側の世界観以外の視点のりかい2023/09/03 14:31:59109.神も仏も名無しさんOcGwU視点の理解が増した😄2023/09/03 14:32:21110.神も仏も名無しさんOcGwUシカーチンは、とうとう、こっちで暴れている😫2023/09/03 18:06:35111.神も仏も名無しさんOcGwUしかし、マリア信仰は知らないことだらけだ、学習せんとな〜😄2023/09/03 18:29:00112.◆JBLfMwCXhY1evoGプロテスタントはマリア信仰しないもんな~2023/09/03 18:55:39113.神も仏も名無しさんOcGwUなかなかの罪悪志向への恐怖と罪悪防止お薬発想なのかも?と😳2023/09/03 19:02:00114.神も仏も名無しさんOcGwU仏教スレみたいな屁理屈でコネクリ対談で解決するよりも罪悪恐怖対応のほうが率直でタシになるかも😄2023/09/03 19:08:30115.神も仏も名無しさんOcGwUロザリオの祈りは人生は苦楽があるという祈りのよーだ😳2023/09/03 19:28:03116.神も仏も名無しさんzNkTV人は何かを乗り越えようとする時、今から見た過去を克服しようと欲する時、過去の自分という重力から脱するために、多くの努力やそれに付随する苦難を経験する2023/09/03 23:45:42117.神も仏も名無しさんzNkTV筋トレしたら筋繊維はキレるわけで、こんな当たり前のことは語るまでもないこの事実を無視して、何の努力なくリターンだけを求める人間については過去の遺物として滅びるに任せればいい2023/09/03 23:46:47118.神も仏も名無しさんzNkTVマリア崇敬は、自己超越を成し遂げた一人の個聖人への心のこもった尊敬と愛情、そして神との仲介の機能に関する希望で出来ている2023/09/03 23:48:27119.神も仏も名無しさんzNkTVそれらは大道を歩む人物の「甘え」、で出来ているのだろうと思う小道を歩むものはそういうのは克服されていることが前提となるので論点にはならない2023/09/03 23:51:27120.神も仏も名無しさんzNkTVキリスト教を考える時、創造の概念は欠かすことが出来ない仏教は個の救済にフォーカスが当たっているが、キリスト教は人類の救済にフォーカスがあたっている物語りなくして、キリスト教なし2023/09/03 23:54:17121.神も仏も名無しさんzNkTV人類の救済、創造の物語りは物語りであることから、<私>から立ち現れる位階を登ってゆく運動から見た時に、究極的にはつまづき石になり得るこの世の慣習という意味での物語りからは離れたほうがいいことは自明だし、キリストも口を酸っぱく語り続けているいっぽうで、その発言は、創造の物語りを所与のものとした地平からの指摘であるわけだから、真実の物語りとまやかしの物語があり、まやかしの物語りを捨てて、真実の物語りに入れ、という指摘とも言い得る2023/09/03 23:58:25122.神も仏も名無しさんpHxySこの、キリスト教の創造=物語りの地平ではないと意義を失ってしまう危うい立場は、キリスト教の大きな特徴のひとつだ個の救済だけで語り得ない点が、大乗の菩薩的なニュアンスがあるキリスト教は物語りで衆生の救済と、救済された状態を定義している創造の物語りを失うと、それらは無に帰す2023/09/04 00:01:33123.神も仏も名無しさんpHxySキリスト教の創造の物語りに連なる一人として、これをどう受け止めればいいのか仏教の本質と存在をどこまでも解体し、本質はまやかしで存在だけが真である、真すらも本質だからそれに猜疑をかけ続ける構造と比較した時に、足場の危うさを非常に内包しているのがキリスト教仏教の視点から鑑みると、キリスト教の創造の物語りはまやかしだ、と容易に捉え得る2023/09/04 00:04:28124.神も仏も名無しさんpHxySこの猜疑を脱するには実存的な創造の知覚がどうしても必要になる足場としての創造、その確信のための<私>の<創造の物語り>その物語りは「あれもあり得る、これもあり得る」のような並行世界の質感が一切排除された「これしかありえない」、剥き出しの物語り2023/09/04 00:07:31125.神も仏も名無しさんpHxyS過去と未来を包含した今における創造の物語りしかし、物語りである以上、それは本質に属するもの何個か次元を上昇させた物語りだったとしてもそれが物語りである以上本質に属し、実存の優位性は構造上変わらない2023/09/04 00:09:53126.神も仏も名無しさんpHxySしかし、物語りは構造上、キリスト教の本質の一つである2023/09/04 00:10:39127.神も仏も名無しさんpHxyS真理感覚として、キリスト教における物語りの優位性を確信しつつも、どこまでいっても実存の優位性に吸収されていってしまう構造を捉えた時に、今と私の実存の不可分の関係と同様の構造が物語りにおいても微かに生起してしまう2023/09/04 00:12:39128.神も仏も名無しさんpHxyS言語化できないが、積極的に離れるべき物語りではなく、積極的に同化すべき物語りの存在が気になってくる2023/09/04 00:13:20129.神も仏も名無しさんpHxySあれは一体何なのか?創造とは一体何なのか?それは存在とどのような関係を持っているのか?無我における縁起のまやかしといったいどう違うのか?2023/09/04 00:14:28130.神も仏も名無しさんpHxyS現時点で言えるのは、物語りは「存在=今」の前者の存在より、今の側と深い関係性があるように直感する存在より今のほうが優位性があるが、その優位性がある今のほうが物語りとの親和性、関係が深い2023/09/04 00:16:56131.神も仏も名無しさんpHxySこの地平に立つと、まだ正確に表象できないが、今=存在=物語り、といった分割できない三つの事柄の関係性を予感する2023/09/04 00:18:13132.神も仏も名無しさんpHxyS本質と存在の矛盾に橋をかける要素が物語りなのかもしれない2023/09/04 00:19:01133.神も仏も名無しさんpHxySあれでもこれでもない、「これしかない」物語りそんなものはあり得るのか?キリスト教の「創造」だけは、これしかない物語りとして受け入れられるこれは感情的な話ではなく、実存主義的な意味での物語りとしてこれしかない、と言い得るこれは一体何なのか?2023/09/04 00:20:47134.神も仏も名無しさんpHxyS存在と本質が分割できない地平を見つけない限り、この問いには答えられないように思う2023/09/04 00:28:41135.神も仏も名無しさんpHxySそんなものはあるのだろうか?これを見つけない限り、キリスト教の足場は不安定なままだ2023/09/04 00:30:45136.神も仏も名無しさんGWzl1哲学的表現は別として聖なる伝承の価値は重要だろな、そこからの生命力、哀しみのマリアの祈りシリーズをチラ読みした…相変わらずマリア信仰、謎が多いhttp://antiquesanastasia.com/religion/references/virgin_mary/index.html2023/09/04 10:14:00137.神も仏も名無しさんGWzl1正統派仏教サイドにいると、キリスト教全体の霊的な生命力に関してもうひとつハッキリしない😄精緻な空間把握のコンプがメインの主題の世界観に生きているからだ😄2023/09/04 10:15:45138.神も仏も名無しさんpRcvwロザリオの祈りついて検索中だ〜ほんと、それの霊的な土台イメージがたいへんや〜😄2023/09/04 11:03:23139.神も仏も名無しさんpRcvwロザリオの祈りの動機みたいなのをみると、ま、プロテスタントは喜怒哀楽の感情と霊的な関連がいかほどに枯渇しているかを〜神秘の黙想編集それぞれの神秘の内容は以下のとおりである[8][9]。〈喜びの神秘〉 1、お告げ(受胎告知) 2、エリザベト訪問 3、降誕 4、主の奉献 5、イエスが神殿で見いだされる(英語版)〈苦しみの神秘〉 1、ゲッセマネの苦しみ 2、キリストのむち打ち(英語版) 3、いばらの冠(英語版) 4、十字架を担うキリスト(英語版) 5、死去〈栄えの神秘〉 1、復活 2、昇天 3、聖霊降臨 4、マリアの被昇天 5、マリアが天と地の元后とされる〈光の神秘〉 1、キリストの洗礼 2、カナの婚礼 3、宣教のはじめ 4、主の変容 5、聖体の制定(最後の晩餐)曜日の振り分けは、月曜日・土曜日に「喜びの神秘」、火曜日・金曜日に「苦しみの神秘」、水曜日・日曜日に「栄えの神秘」、そして木曜日に「光の神秘」とされている。これらの神秘は、伝統的には「喜び」「苦しみ」「栄え」の3種類で、「ロザリオの十五玄義」とも呼ばれていたが、2002年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって新たに「光の神秘」が提唱されて付け加えられ、曜日も一部変更された[10][8][11]。なお、かつて日本のカトリック教会では、この神秘と黙想のことを「玄義」と呼び、「喜びの玄義」「第一玄義」…などのように呼んで唱えていたが、現在は「喜びの神秘」「第一の黙想」などというのが公式な呼び方となっている。これらの祈り方・黙想はカトリック教会によって提唱されているもので、教会でミサの前後などに一同で唱える場合はおおむね上記の内容に沿って祈ることが多いが、必ずしもその曜日のとおりに決められているわけではなく、私的な祈りなどにおいては祈り方はある程度自由であり、一環(五連)でなくとも短い時間で一連か二連だけ唱えたり、個別の意向で祈ることも可能である。また、一連の終わりに「ファティマの祈り」、一環の終わりに「サルヴェ・レジーナ」や「聖マリアの連願」などの祈りを付け加えることもある[12]。『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』には、付録部分に「ロザリオの結びの祈り」と「祈願」が掲載されている[13]。2023/09/04 11:08:24140.神も仏も名無しさんpRcvwセイントも霊的な存在と自分の喜怒哀楽の感情とのやり取りはあるだろうならな、やはり、プロテスタントはそういう方面が枯渇しとるな😄2023/09/04 11:10:20141.神も仏も名無しさんpRcvw自分の喜怒哀楽の感情の扱いに向き合う神父も少ない教会もあるだろうけどな〜だが個人的にロザリオを祈りのシステムがあるのは霊的と自分の喜怒哀楽の感情の交流の舞台は備えられている幸運はあるが、😄2023/09/04 11:15:55142.神も仏も名無しさんpRcvwキリスト教教徒の死後の感情のイマジネーションは考えてなかった〜プロテスタントサイドにいたからだな〜ロザリオの祈りあたりの黙想センスは哀しみのマリアの祈りなど、残された生者の喜怒哀楽、死者の喜怒哀楽、その辺の霊的なイマジネーションは考えてはいなかったな〜インマヌエル、主は共におられる、みたいな喜怒哀楽😄2023/09/04 11:21:04143.神も仏も名無しさんpRcvw仏教サイドにおれば、空間認識な世界観に満ちる志向性なので、全て、その方向性に昇華される。こっちサイドはアナログの、生々しい悲痛な嘆きのテーマには深く入りこまぬどこまでも空間認識の拡がりの中でそれらを昇華する働きだ〜😄2023/09/04 11:24:13144.神も仏も名無しさんpRcvwま、キリスト教教徒の墓参りはインマヌエル、主は共におられる、みたいな喜怒哀楽でゴーだな😄2023/09/04 11:25:26145.神も仏も名無しさんoh9aTプロテスタントの霊的枯渇を思い知らされるな〜マリア信仰の内容と黙想に、http://shelline-oblate.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8165.html2023/09/04 14:40:31146.神も仏も名無しさんpHxySカテキズムからマリアに言及してる箇所を引用するな参考にしてくださいまへ967 処女マリアは、御父のみ旨と、御子のあがないのわざを、聖霊の働きに全面的に賛同したことにより、教会にとって信仰と愛の模範です。このことにより、マリアは「教会の卓越してまったく独特な肢体」であり、教会の模範として仰ぐべき存在」、「範型」でさえあります。968 教会と全人類に対するマリアの役割には、これ以上のものもあります。彼女は「従順、信仰、希望、燃える愛をもって、人々に超自然的生命を回復するために、救い主キリストのみわざにまったく独特な方法で協力されました。このためマリアは恩恵の世界でわたしたちにとって母です」。969 「恩恵の計営におけるマリアの母としてのこの役割は、お告げに際してマリアが忠実に与え、そして十字架の下でためらうことなく堅持し続けた同意から始まって、選ばれた全てのものの永遠の完成に至るまでたえず続くものです。マリアは天に上げられた後もこの救いをもたらす務めを放棄することなく、かえって数々の取り次ぎをもって、永遠の救いのたまものをわたしたちに得させることを続けられます。…このために聖なる処女は、教会において、弁護者、扶助者、仲介者の称号をもって呼び求められています。2023/09/04 16:44:05147.神も仏も名無しさんpHxySキリスト教において生命の役割を果たすのは聖霊と言っても過言ではあるまいそして、教会とはまさにこの聖霊、生命に連なる機能を持ち、その教会の聖人における代表格がマリアとなるマリアがとりなしなどの仲介、天と地を結ぶ役割を担っているのは、教会の擬人化に他ならないとも表現し得る2023/09/04 16:46:17148.神も仏も名無しさんpHxyS仏教的な役割の捉え方をすると、マリアは菩薩の中の菩薩、みたいな表現になるだろうな2023/09/04 16:47:12149.神も仏も名無しさんpHxyS聖霊は菩薩的聖霊は本質において捉えることができるが、実存において捉えることが出来ないマリアは聖霊を実存として捉えることを可能にする機能、役割を持っている気がする2023/09/04 16:55:15150.神も仏も名無しさんoh9aTマリア信仰は失ったまま回復できないプロテスタントの喜怒哀楽、喜怒哀楽のマリアで、その要素を実はカバーしとるのは意外だった〜2023/09/04 17:24:15151.神も仏も名無しさんoh9aTマリア信業、の底力〜恐るべし〜😇2023/09/04 17:25:11152.神も仏も名無しさんoh9aTマリア信業から、イマジネーションの霊的深みを狙っていたとは新発想だ〜念仏聖と山伏の謎が解ける〜😄2023/09/04 17:28:31153.神も仏も名無しさんoh9aTマリア信業はシャバ的な観想だ〜、だから、聖職者上位に扱われないマリア信業マニアなシスターセイントを生産した〜悪く言えばイタコ〜す、すまん〜、😓2023/09/04 17:30:47154.神も仏も名無しさんCqzQp創造なきキリスト教はあり得るのか?成道以前の釈迦が菩薩で「なかった」ことなあり得ないのと似た構造なのではないか?これは、本質が「持続」していることに他ならない実存が持続しなくとも、本質の持続は絶対条件だ2023/09/05 01:01:04155.神も仏も名無しさんCqzQp創造なきキリスト教はあり得ない菩薩時代なき釈迦如来があり得ないようにこの時点でキリスト教も仏教も「物語り」を前提としている2023/09/05 01:02:57156.神も仏も名無しさんCqzQp創造が個の完成を目指す物語りであれば、仏陀も創造の物語りに吸収される釈迦の物語りは釈迦という<私>の創造を巡る<十字架の物語り>とキリスト教の概念上、ならざるを得ない2023/09/05 01:06:16157.神も仏も名無しさんCqzQpこの地平ではキリスト教と仏教の差異は神と被造物の物語りの違い、となる被造物の物語りは実存の本質の持続となるが、神の物語りは実存や本質、持続が被造物のそれとは異なり、全てを吸収してしまう2023/09/05 01:08:14158.神も仏も名無しさんCqzQp本質が持続するとは一体どういう意味を持つのか本質が持続しても実存はその持続の上で、コロコロ変わってゆく、などは考え得るしかし、その持続で蓄積されたさまざまな事柄が、特定の時間の点、つまり<今=私>において一挙に統合されることは確実だろう2023/09/05 01:20:00159.神も仏も名無しさんCqzQpジャータカの釈迦の過去の物語りが、その物語の特定の時間軸上の<今=私>の実存が、「釈迦ではなかった」としても、ジャータカの特定の過去の物語りを「思い出す」、その現在の<今=私=釈迦>にとって本質の持続として捉えられるのであれば、その過去の実存が釈迦であったか否か、は問題にはならない2023/09/05 01:22:39160.神も仏も名無しさんCqzQp問題になるのは本質の持続を実存である<今=私>が自分に中心化されたものとして「捉える」こと2023/09/05 01:23:32161.神も仏も名無しさんCqzQp「捉えられる」こと2023/09/05 01:23:58162.神も仏も名無しさんCqzQpジャータカの物語りには一種の意思、志向性が根底にあるそれは、「悟りを得るため、必要十分な豊かな経験を積む」といった大前提のコンテキストだ2023/09/05 01:26:08163.神も仏も名無しさんCqzQp悟りを得ることが正とされる価値観が所与のものとして組み込まれている2023/09/05 01:26:51164.神も仏も名無しさんCqzQpそれはあたかも、人類の完成が創造において所与のものとして組み込まれているように2023/09/05 01:27:21165.神も仏も名無しさんCqzQp苦(輪廻)からの解脱が一見目的のように見受けられるが菩薩レベルの存在は、豊かな経験を積むために積極的に苦の中に自ら入っていっているように見受けられる2023/09/05 01:28:35166.神も仏も名無しさんCqzQp苦からの解脱は悟りの方便であり、その実は「衆生を苦から救いたい」という釈迦の大欲が動機だろうこれもまた、創造の物語に吸収される2023/09/05 01:29:55167.神も仏も名無しさんCqzQpこれらが意味するところは、衆生の救済、その活動を通じて得る豊かな経験、そして「それが持続する先」にその成就がある、ということ個の完成にはその前提となる物語りが存在し、そのOSの上で<私の物語り>を展開する必要がある、ということ2023/09/05 01:32:58168.神も仏も名無しさんCqzQp物語りには全と個の二つのレイヤーがあり、個の物語りは本質の持続が求められる仏教はこの点を強調していないが、釈迦に倣うと解脱を目的とするのではなく、衆生の救済のために積極的に苦の中に入ってゆかなかればならないことになる2023/09/05 01:36:32169.神も仏も名無しさんCqzQp粛々と実務家的にやるべきことをクールに対処する、実存の無我の中で物語りを脱構築する姿勢は合理的だが、ただそれだとその前提にある物語りへの感性が育たない2023/09/05 01:39:41170.神も仏も名無しさんCqzQp仏教においては物語りに立脚していることを忘れさせてしまうぐらい、物語りは空気のように機能している2023/09/05 01:41:08171.神も仏も名無しさんCqzQp一方でキリスト教は物語りが強調されすぎるが故に、創造を個の完成において前に進める実務家的な態度に欠けている2023/09/05 01:42:31172.神も仏も名無しさんCqzQpいずせにせよ、本質の持続は物語りの成就のためには必要不可欠な条件であり、「個の完成」という概念が成立するためには、個の本質も同時に「持続しなければならない」ということになる2023/09/05 01:44:39173.神も仏も名無しさんCqzQpキリスト教において、<私の十字架=物語り>は、必要不可欠であり、その地平で実存と本質は、それぞれ個々の掛け合わせではなく、交わる形式の中でのみ、不可分なものでなければならない2023/09/05 01:47:51174.神も仏も名無しさんCqzQp交わる形式の中でのみ、物語りは実在する2023/09/05 01:49:16175.神も仏も名無しさん0RC60>>170>仏教においては物語りに立脚していることを忘れさせてしまうぐらい、物語りは空気のように機能している日本ではね、明治政府の強制的な宗教施策で山伏や念仏聖の系統が中心だったが失われた物語、ま、浄土宗系統と日蓮宗系統は実は、相当な霊的啓示の物語がある物語、の扱いテーマは土曜日から月曜日までマリア信仰を通して模索したテーマでよーわからん山伏と念仏聖という明治以降失われていった物語、盆踊りというのも実は念仏聖の物語である😄2023/09/05 07:14:50176.神も仏も名無しさん0RC60なんとなく、残るどの寺にもある仏教行事は神仏習合や山伏、念仏聖の物語が由来が大方😄2023/09/05 07:15:54177.神も仏も名無しさん0RC60日蓮は神仏習合と山伏と念仏聖の系譜から出てるがあのよーわからん仏教らしからぬ日蓮の主張は日蓮なりと哲学ではなく日蓮の霊的啓示による物語から日蓮の信仰は成立している、土曜日からのマリア信仰などの😄研究から見えてきた2023/09/05 07:18:43178.神も仏も名無しさん0RC60物語の影響が濃厚な日本仏教は葬式仏教と揶揄されるぐらいに仏教世界では特殊性がある、そこには明治以前の神仏習合、山伏、念仏聖の物語がある、近代化された鈴木大拙の日本的霊性は嘘っぱちである😄2023/09/05 07:20:50179.神も仏も名無しさんCqzQp大乗は物語り色が強くならざるを得ないだろうなただ禅宗からは物語り色が感じられない徹底的にプラクティカルな仏教だからだの推測する2023/09/05 09:46:18180.神も仏も名無しさんCqzQp過去にタイムスリップして、幼少期の自分を観察すると過程するこの時点で、「わたし」AとBが同一の世界に存在するわたしAはタイムスリップしたこの<私>わたしBは幼少期の「わたし」2023/09/05 09:50:23181.神も仏も名無しさんCqzQpわたしAもBも人生を年齢に応じて歩んでおり、その人生の長さに応じて固有の物語りを持つしかしその物語りはAのほうが長く生きているため、分量がより多い物語りAはBを包含している2023/09/05 09:51:58182.神も仏も名無しさんCqzQp実存するのはわたしAであり、わたしBは、端的にこのわたしで「ない」ことから、本質は過去のわたしと同一であるが、他者と変わらない過去のわたしと本質が同じ他者、となる2023/09/05 09:53:57183.神も仏も名無しさんCqzQpタイムスリップしたわたしAは過去を生きているのではなく、タイムスリップした過去の世界を<今>、<私>として生きている2023/09/05 09:54:54184.神も仏も名無しさん6tq3F>>179やはり哲学でコリコリになるよチベット密教ですら中論研究の山〜空海や天台チギは理論世界はあるよ〜日本人に仏教が定着したのは物語側面、日本霊異記とから始まってる、日本は平安中期以降は神仏習合と山伏、呪術的な念仏などの修験力を期待される上の方も庶民のほうも大乗の悟りの空間認識の体現よりも、チベット密教のほうが、それが残っている。日本仏教全体像でみると、やはり物語側面で発達してきた、創価の元になる日蓮個人崇拝もやはり、江戸期からブーム日蓮の物語神話だ明治以降は仏教学派はキリスト教や西欧哲学に対抗?と明治政府の介入により祖師著作研究が進む、修行悟り系統の仏教の祖師は江戸期中期まで秘伝の書、真言密教の曼陀羅ですら庶民が見れるようになったのは明治以降😄2023/09/05 09:55:07185.神も仏も名無しさんCqzQpわたしBはわたしAの過去の人生を経験しているわたしAはそれを観察し、次に何が起こるのか知っているそれを観察することで、未来においてわたしBにその経験がどんな意味を持つのか知っている2023/09/05 09:56:29186.神も仏も名無しさんCqzQpそればかりか、わたしAが改めてわたしBの経験を観察することで、新たにわたしBの特定の体験に「意味づけ」を行うことができた2023/09/05 09:57:20187.神も仏も名無しさん6tq3F弘法大師信仰なんかは学問エリート僧侶ではなく、神仏習合と山伏と念仏聖の階級の連中が日本全国区にした、これも物語。2023/09/05 09:58:06188.神も仏も名無しさんCqzQpこれらの思考実験が物語りと実存の関係において、物語りの唯一性を持つ根拠を持つか否かを思考せよ2023/09/05 09:59:10189.神も仏も名無しさん6tq3Fだから地方寺院と学問肌の仏教大学の学者との間には明治以降の理論肌と物語肌のギャップが現在も残る高野山では空海を伝承伝説を重んじる物語肌と空海著作至上主義の学者肌の僧侶との対立も表には出ないがあるらしい、当たり前といえばあたりまえだが😄2023/09/05 10:01:54190.神も仏も名無しさんCqzQp>>184理論は本質に属するから、それ自体は物語りとは関係ないかな一方で日蓮は日蓮という存在が衆生の救済を目的として一つの宗派を立てたわけだから、存在と時間が宗教の足場になっている従って、物語りが分かりやすく宗教観のベースになってるな2023/09/05 10:03:33191.神も仏も名無しさん6tq3Fま、日本にはドイツ、イギリス、アメリカのプロテスタント世界観が流入したから、明治以降の修行悟り系統の仏教各派は明治政府の教義統一要求の介入などで祖師の原典解釈に回帰した、2023/09/05 10:04:34192.神も仏も名無しさん6tq3F>>190マリア信業の信仰研究でだいたい解ってくるまで、山伏の日蔵の天神信仰の書物や當麻寺の中将姫の絵巻伝説や日蓮伝説空海伝説の理解ができていなかった😄2023/09/05 10:07:18193.神も仏も名無しさんCqzQp仏教において、物語りが忌むべき現象と捉えられているのは、輪廻からの解脱をゴールにするからだなわたしとは縁起により生まれる仮初のもので、その実体は「ない」本質に実体や実存を求めても「ない」わけだから、存在における本質はまやかしであり、無我そして輪廻とは、その本質が生を通じて変化するレイヤーと変化しないレイヤーがあり、変化しないレイヤーは生を超えた縁起となるその縁起が生を超えた物語りを作るわけで、そこから無我である実存において、「外に出る」ことができないと、解脱のスタートラインに立てない、となる徹底的に物語りを脱構築して、その外に出るのが仏教の基本的な考え方2023/09/05 10:08:22194.神も仏も名無しさん6tq3F>>190哲学的思惟は別としても聖書の創造のイメージ、物語は山伏の日蔵の天神信仰の書物や當麻寺の中将姫の絵巻伝説や日蓮伝説空海伝説の霊的な土台と同じ系譜だ、😄2023/09/05 10:08:27195.神も仏も名無しさんCqzQpだから座るにせよ、物語りの外に出る、煩悩から離れることが基本だし、苦は縁起で生まれるので、苦を生じさせる縁起を生じさせないことに重きを置く2023/09/05 10:10:21196.神も仏も名無しさん6tq3F>>193現在なら、学者肌の日本仏教研究者と南方仏教、チベットあたりは論理的やろね、中国は阿弥陀仏の物語の介入を受けている。😄2023/09/05 10:10:26197.神も仏も名無しさんCqzQp>>194神話は似た型を持ってますな2023/09/05 10:11:03198.神も仏も名無しさん6tq3F>>193明治以前の日本人の主流派の仏教の多数は、さほど、論理的ではなかったと思われる、近代化鈴木大拙は近代社会から見た日本的霊性やからな😄2023/09/05 10:12:26199.神も仏も名無しさんCqzQp一方でキリスト教は積極的に創造の物語りに参与することが推奨されるその代表格がキリストで「最後の時まで共にある」とまで語るこれは物語りへの徹底的なコミットメントの表明に他ならず、仏教と比較し、真逆の態度を志向している2023/09/05 10:12:33200.神も仏も名無しさんCqzQp>>198大拙は日本の霊性の基礎に禅をおいてますな2023/09/05 10:13:11201.神も仏も名無しさんCqzQpキリスト教における物語り、創造への積極的な関与、全てを創造の物語りに吸収させる姿勢の危うさを克服するためには、物語りとは何なのか、ということを理解する必要がある2023/09/05 10:14:12202.神も仏も名無しさん6tq3F>>197熊野信仰なんかは、蘇り、生まれ変わり、だし、熊野信仰の法華経信仰では自らの死を持って一切衆生、他者を救うとか、戦国時代のカトリック宣教師の報告には驚きを持っている、それぐらいに日本仏教は理論肌というよりも、😄2023/09/05 10:14:48203.神も仏も名無しさん6tq3F>>199當麻寺の中将姫の伝説はオモロイでっせ〜😄2023/09/05 10:18:16204.神も仏も名無しさん0RC60>>199このリンク先の時代以降、もはや日本仏教は物語性中心になっている、禅でも物語性から自由なのは少数派、高野山は、リンク先では空海の悟りの体現など遥か遠くの無関係、密教修行法はあれども、悟りてはなく物語だけが存在するhttp://ruriko.hanagumori.com/oujohden/00mokuji.html2023/09/05 10:35:13205.神も仏も名無しさん0RC60高野山は極楽浄土への導き手の弘法大師空海になりつつある現在では明治以降消えただろうけど😄2023/09/05 10:37:57206.◆JBLfMwCXhYGW40P神仏習合は、理屈じゃない霊感だ~😆2023/09/05 10:53:08207.神も仏も名無しさんA2da8そう、霊感ショックだ〜マリア信業のショックだ〜😄2023/09/05 10:56:00208.神も仏も名無しさんCqzQp宗教の全ては行であり、実学なわけだから霊感なのは、全ての宗教を対象とする解像度でその通りだねしかしそうなるとそれぞれの特徴が見えなくなるし掴めなくなるまた、そうなると仏教の物語りから離れてゆかざるを得ない仏教自体が内包する志向性と矛盾がおきて、それはもはや仏教ではなく、なんちゃって仏教のマインドフルネスでいーじゃん、となってしまう2023/09/05 11:12:12209.神も仏も名無しさんCqzQpまぁ、この辺は現代社会における宗教の存在意義が危うくなっている、というこれまた全般的な問題の一つなんだろうな2023/09/05 11:13:02210.神も仏も名無しさん0RC60>>208ま、中論熱心なチベットや唐代の中国は中論研究の山だから、空海の時代ぐらいまでは理論傾向が強いと思われる。2023/09/05 11:14:22211.神も仏も名無しさんCqzQp空海も大日如来を強調するし、仏教における神秘主義だから怪しいけど、悟りのために行を強調する、という実学スタンスではあるから理論重視と言えますな2023/09/05 11:17:05212.神も仏も名無しさんCqzQpチベット仏教はダライ・ラマ(生を超えた縁起)の物語りが中心にあるわけだから、その意味では物語りが足場になってますなこれまた、仏教の基本的な考え方から鑑みると矛盾がある2023/09/05 11:18:51213.神も仏も名無しさんCqzQp輪廻からの解脱がゴールなのに、なぜあなた(ダライ・ラマ)は解脱しないのか?衆生の救済の菩薩行なのは理解しているが、であるなら、キリスト教のように全ての信徒は苦からの解脱をゴールにするのではなく、衆生の救済をゴールとすべきなのではないか?2023/09/05 11:20:35214.神も仏も名無しさんCqzQpそれはつまり、積極的に物語りに関与する、同化する、ということにならざるを得ない2023/09/05 11:21:03215.神も仏も名無しさんCqzQp仏教の行を歩むと、苦からの解脱、輪廻からの解脱をゴールに初めはするが、行が進み、成熟すると菩薩行に入り、むしろ解脱を「意図的にしない」で、輪廻の中に留まり続け、衆生の救済をゴールに行を歩むようになるこれは、そもそもが根本に人類の救済史があり、その道を歩むということにほかならない従って、苦からの解脱は方便でしかない、となる仏教のキリスト教と違う無時間の性質は単なる方便でしかなく、キリスト教と同じように、物語り、始まりと終わりを、人類の単位で観じる足場があることを意味しやしないか2023/09/05 11:25:16216.神も仏も名無しさんCqzQpそして、人類の救済において必要なのは絶対者なぜなら、神と同格の存在が「複数」あれば、相対主義におちて、あれもこれもあり得る、となる人類の救済が「個の完成」ではなく「個の消滅」でも「あり得る」つまり、救済という概念、そして状態は、その複数の存在の「解釈」によって複数あり得る、ということに論理的になる2023/09/05 11:28:06217.神も仏も名無しさんCqzQp「この物語りしかない」の条件は、この世の開け、実存が「この私しかない」という構造に等しいそして、実存である世界で唯一、世界の開けである<私=今>の<物語り>しかない、とならないと、人類のOSとしての物語りは存在し得ない2023/09/05 11:30:18218.神も仏も名無しさんCqzQp従って、キリスト教が唯一神に中心化されるのは実存と本質の関係性と同様の関係を持ち、唯一神で「なければならない」という結論にならざるを得ない2023/09/05 11:31:34219.神も仏も名無しさんCqzQpこの構造は構造が内包する事態なので、仏教であろうが、どんな宗教であろうが、そうあらざるをえない、となる2023/09/05 11:32:20220.神も仏も名無しさんCqzQp実存は本質に先立ち、被造物(他者)に「意味のある物語り」は、「実存から発せられねばならない」2023/09/05 11:35:58221.神も仏も名無しさんCqzQp従って、物語りは実存に中心化されてなければならない物語りは常に個を帯びていなければならない2023/09/05 11:37:23222.神も仏も名無しさん0RC60>>216高野山往生に関する物語は、一神教まではいかなくととほとんど、外部の絶対者を期待している。空海あたりは、悟りは大日如来としても、如実知自心と自分の内面を中心にという想定がある、ま、それが悟りの修行系譜の仏教なのだが、現在の真言密教ですら、物語先行気味で悟りの修行仏教という意識が少ない、ま、悟りの修行法は僧侶になる選ばれし者しかできない、というシステムがチベット密教の在家派よりも悟りの意識を薄くなっており、実際の真言密教の修行は作法だけで悟りの体現を示してないのが現状らしい。😄2023/09/05 11:39:10223.神も仏も名無しさん0RC60土曜日から、マリア信極楽と山伏、念仏聖の模索しながら流れるハマった動画音楽〜末法的?😄https://m.youtube.com/watch?v=R2fFPNIBavE&list=WL&index=6&pp=gAQBiAQB2023/09/05 11:46:27224.神も仏も名無しさん0RC60山伏と念仏聖には外部の絶対者という物語が必須なのはマリア信業を調べながら行きついた〜悟りの空間認識の世界観では、やはり、山伏と念仏聖と神仏習合の世界観は理解が無理なくらいに断絶がある😄2023/09/05 11:48:24225.神も仏も名無しさん0RC60さ〜金曜日夜まで空間認識の世界観の住人の暮らしだ〜😄2023/09/05 12:10:45226.◆JBLfMwCXhYOCLFI山伏とマリア信仰同じシャーマニズムの世界だな😄2023/09/05 12:42:25227.神も仏も名無しさんCqzQp>>222まー、情報が溢れる時代では一時的に劣化するわな2023/09/05 13:32:53228.神も仏も名無しさんCqzQp>>188の続きわたしAとわたしBは経験した物語りの量が違うわたしAはわたしBが未来に経験する物語りを経験しているわたしAとわたしBの物語りはイコールで重なる部分があるその重なるわたしAとわたしBの物語りは同一の物語りと言い得るか?その物語りは「捉え方」が違うために、別の物語である、と言い得るか否か2023/09/05 13:38:12229.神も仏も名無しさんCqzQp物語りとは、本質を持った存在や事物が関係性を持つことで生まれる事柄が記述されたものその意味ではわたしAとわたしBに生じた一切は同様であるから、同様の物語りと言い得るしかし、わたしAにとってはわたしBの時間軸上で生じる過去の物語りであり、その後の経験を得る中で、わたしBの物語りは消失し、新しい物語として捉え直されている、変容されている、と言い得る過去は実在したと言い得るが、過去が今、実存する、とは言えないそれが可能なるには、わたしAの実存がわたしBの実存に移動しなければならない2023/09/05 13:45:01230.神も仏も名無しさんCqzQpわたしAから見た、わたしBの物語りは、わたしAの物語りに吸収されるが故、わたしAの実存において唯一でなければならない2023/09/05 13:48:33231.神も仏も名無しさんCqzQpでは次はタイムスリップではなく、並行世界トラベルのケースで考えてみるわたしAは並行世界にトラベルし、わたしAと全く同じ経験を積んでいるわたしaの世界で観察を行うとするわたしAとわたしaの違いは、未来の分岐がまだなされていないという点において、分岐の可能性を可能態として持つ意味において並行世界で並在していると仮定する2023/09/05 13:51:22232.神も仏も名無しさんCqzQpここでも実存の観点であればわたしAが世界の開けであり、わたしaは端的に私でないことから他者と変わらないでは、物語りはどうか?2023/09/05 13:52:17233.神も仏も名無しさんCqzQpまだ未来の分岐はおきていないのだから経験内容はまったく同じであるしかし、わたしAがわたしaの並行世界にトラベルした点、また、わたしaはわたしAがわたしaの世界にトラベルされた点のみ異なるこのトラベルした、された、という点を除外して鑑みた時に、物語りは唯一なのか、違うのか、という点はどうなるか2023/09/05 13:54:58234.神も仏も名無しさんCqzQpあ、世界に存在する位相の軸が「ズレた」も考慮にいれない論点がブレるから2023/09/05 13:55:50235.神も仏も名無しさんCqzQp物語りが全く同じなら、実存だけが違う、となる実存だけが違う、経験内容がまったく同じな物語りとなるから、これには違いはもはや存在しない、となるわたしAから見るとわたしAだけが実存であるが、物語りは今のところまったく同じである、となる2023/09/05 13:58:06236.神も仏も名無しさんCqzQp経験が全く同じことなんてあり得ないが、思考実験上では、物語りは実存に結び付けられた唯一のものではなく、本質が「今」において同様なら、同様の内容が複数あり得る、ということになるほんとうだろうか?2023/09/05 14:00:11237.イエス・キリスト◆Bcupf73v0.ohwYRAカップとBカップ、どっちがイイ?2023/09/05 14:03:35238.神も仏も名無しさんCqzQp>>236を検証するために別の思考実験をやってみる先ほどはわたしAと過去のわたしBの世界をタイムトラベルした思考実験だが、今度はタイムトラベルではなく、わたしAの実存がわたしBに移動したケースを考えるこのケースはタイムトラベルとは言えないなぜなら、実存だけがAからBに移動したのだから、実態としては、わたしAの実存が過去のわたしAの<今>となっただけだから、過去の今こ実存において、何も変わらない、となる実態はそうだが、実存は移動した、と言い得るケース2023/09/05 14:37:09239.神も仏も名無しさんCqzQpこのケースでも端的に同様である、と言い得るやはり、物語りの唯一性の基盤は実存よりも、<今>にある物語りは<今>に足場を持ち、<私>がなにであれ、<今>において等しい内容を持つなら、同様の物語りが複数あり得る、ということになる2023/09/05 14:42:49240.神も仏も名無しさんCqzQp物語りは<今>にしか生起しないが、<今>に同時に生起さえすれば、複数あり得る、ということになる2023/09/05 14:45:00241.神も仏も名無しさんCqzQpとなると<物語り>という表記は出来ない、となりますわな2023/09/05 14:46:18242.神も仏も名無しさんCqzQp物語りはコピーされ得る従って<私=今>と全く同じ「物語り」(人生)は存在し得る2023/09/05 14:49:13243.神も仏も名無しさん0RC60仕事のハード故にシンプルモードだ😄2023/09/05 19:16:16244.神も仏も名無しさんCqzQpややこしいことをダラダラ書いてすまんなキリスト教の創造の解像度を高めたいんだこのスレで書いてることは現状では取り留めなくて混乱させてややこしいからシンプルモードで休んでくださいませ2023/09/05 22:22:55245.神も仏も名無しさんCqzQp>>188への解答は、現時点では物語りと実存は、今と実存のほぼイコールで結ばれる関係と比較した場合、その繋がりは薄い一方で今と物語りの関係は実存と比較すると密接な関係にはあるが、唯一性を持つほどの関係にはないつまり、唯一の物語は存在し得ない2023/09/05 22:26:45246.神も仏も名無しさんA2nKv虫の知らせか、土曜日よーす見に行く〜人生の闇と光〜〜思い起こす、6月にご機嫌に修行が進んだせいか?ハマる〜音楽、のんコマーシャル時代にアタマにこびりついていたが聞くことがなかった〜https://m.youtube.com/watch?v=R2fFPNIBavE&list=WL&index=6&pp=gAQBiAQB2023/09/06 09:22:23247.神も仏も名無しさんQpzuD光と闇のリズムあるよな周期だから必ず闇の時期はやってくる😢2023/09/06 11:35:55248.神も仏も名無しさんQpzuD>>245の続き今と物語りの繋がりはどのようなものか?難しい問題だ…2023/09/06 11:36:48249.神も仏も名無しさん5yXtuそれなりに最悪の闇はあれども幸せな最後を送れた信仰者、混乱の最中に急死したクリスチャン色々だ🫤2023/09/06 11:37:58250.神も仏も名無しさんQpzuD神秘主義の行も闇夜を越えないと照明ないしな2023/09/06 11:40:23251.神も仏も名無しさん5yXtuあんまり分析探求する意識がないが死後の世界はいや、死者のみる世界には少し関心を、持っている、むろん知り合いの、また、クリスチャンとなるとまた難解〜神智学の元祖あたりは心霊好きだったんだろが、あーまで死後の世界を理論化する気はないが、😄2023/09/06 11:45:22252.神も仏も名無しさんhJh18死後の世界なー死ぬのはいつも他人ですな調べてみたら神智学も心霊主義と深い関係あるのな2023/09/08 12:45:55253.神も仏も名無しさんhJh18エージェントスミスはコピーされ過去の体験を引き継ぐことが出来る途中からは同じ経験を共有する複数コピーが現れるこれは実存として複数存在するが物語りは(唯一ではないが)一つ2023/09/08 12:49:20254.神も仏も名無しさんhJh18その複数コピーされたエージェントスミスの中の一体に変異があり、他のエージェントスミスのコピーがその変異体スミスに経験を「同期」しようとしてもそれを拒絶し、むしろ逆に変異体スミスが他のオリジナルとコピーエージェントスミスに同期をかけ、変異体スミスに盤面を塗り替えることができるとする2023/09/08 12:51:08255.神も仏も名無しさんhJh18この事態が可能になるのは、実存と物語りの接点から新しい別の未来、物語りが生まれることで生じる2023/09/08 12:52:07256.神も仏も名無しさんhJh18実存という意味においての「唯一」の物語りは存在しないが、実存と物語りが出会うところに(唯一ではないが)唯一性を纏った物語りは生起している2023/09/08 12:53:44257.神も仏も名無しさんhJh18実存と物語りの交点の「後(未来)」にそれが生起せざるを得ない構造の中に、原因と結果、今と未来の概念が含まれるが故、「実存=今」の中でも特に「今」と物語りの関係性が深い2023/09/08 12:56:02258.神も仏も名無しさんhJh18物語りは本質に分類されるしかし、その本質は「生成され続ける本質」であり、「今=実存」により、生成される点において、深い関係を持つ2023/09/08 12:57:25259.神も仏も名無しさんhJh18物語りに実体はなく、今=実存に実体があり、その実体の経験により生成する、という事実において物語りは唯一性を疑似的に纏っているしかし、エージェントスミスが複数存在するように、唯一の物語りは存在し得ない唯一なのは<今=私>でしかない2023/09/08 13:00:03260.神も仏も名無しさんhJh18キリスト教に話を戻す創造=物語りとは<神>が<今>において生成する常に途上のものである神が今、生成する人類の救済史、具体的には人類のキリスト化2023/09/08 13:03:15261.神も仏も名無しさんhJh18これら唯一性を帯びた物語りは物語りの構造からコピーでき、それを受け取った実存は今において新しい唯一性をその物語り=創造に与える2023/09/08 13:04:30262.神も仏も名無しさんhJh18私の十字架とはそういうものだ2023/09/08 13:04:43263.神も仏も名無しさんhJh18キリスト教のOSは創造であり、そのアーキテクトは三位一体の神純粋な創造への参画を実現の条件とは、<今>まで(過去)の創造における経験を純粋に保有していることその経験を<今=私>と交わらせ、新しい唯一の個の完成に寄与する物語りを紡ぐこと2023/09/08 13:07:28264.神も仏も名無しさんhJh18この前者の「過去の経験を純粋に保有すること」の条件は純粋な創造への参画の必須要件になるが故、キリスト教には欠けている概念がある、という結論にならざるを得ない2023/09/08 13:08:50265.神も仏も名無しさんhJh18キリスト教と実存の両面から鑑みた時の最終結論は釈迦におけるジャータカに見出せる2023/09/08 13:09:51266.神も仏も名無しさんhJh18これは主義やスタンスや推しなどとは一切関係ない必然的な帰結となる2023/09/08 13:10:46267.神も仏も名無しさんhJh18人はなぜ世界や他者と切り離されているのか?創造を前に進めるために他ならないんでもって、その切り離しの遠回りを経て愛により個でありつつ結合される必要があり、それも創造を前に進めるために他ならない2023/09/08 13:13:19268.神も仏も名無しさんhJh18ふと思ったことだけど、創造は終わっていない、のであれば、仏陀とキリストの物語り「も」終わっていない、となる2023/09/08 13:17:46269.神も仏も名無しさんhJh18仏陀もキリストも<今=私>において、物語りを生成し続けているだとすると、涅槃のような概念は大雑把であやふやで論理の道具として殆ど機能しない2023/09/08 13:19:02270.神も仏も名無しさんhJh18機能しない概念は単純に不必要だから、そのうち解体されるのかもしれない2023/09/08 13:19:54271.神も仏も名無しさんhJh18修行の側面「この人生」における純粋な創造への参画のためには、自身の人生を通じて経た経験(記憶)を純粋に保有していることが前提条件になるが故、メタ的に自分の人生の記憶像をありありと表象でき、直接的に引き出せることが出来なければならない2023/09/08 13:30:11272.神も仏も名無しさんhJh18この人生においてすら出来ない人は、誰もジャータカできないだろう2023/09/08 13:30:59273.神も仏も名無しさんDht1Kジャータカを成り立たせるための前提条件に、生を超えた同一の実存、がある2023/09/08 19:08:39274.神も仏も名無しさんDht1Kしかり、思考実験上で、ジャータカの物語りは同じ実存では「ない」、とした時に、仮にそうだったとしても、自身の過去生と認識してさえすれば何の問題もなく成立している2023/09/08 19:09:53275.神も仏も名無しさんDht1K実存として非連続的であったとしても、過去生としての表象があり、そこから経験を積み、成熟し、釈迦の人生でそれらを総括し、仏陀になる2023/09/08 19:11:12276.神も仏も名無しさんDht1Kジャータカの経験全てが他者の経験だったとしても、「それにより仏陀になる条件が揃っている」ことが重要となるやはり物語りと実存は物語の「生成」における役割以外では直接的な関連をもっていないのではないか?2023/09/08 19:15:04277.神も仏も名無しさん8cWkz>>276ま、死者から修行の奥義をもらったがな〜また、こっちの力量がないとマスターできない〜ま、なんやかんやと今年の6月のこの修行祭りのキリスト教絡みの土台が三つもあった😄2023/09/08 20:27:23278.神も仏も名無しさんBV92o流れに身を任せるターンもあるよなでも基本はマイペースを貫くのが結局はいい2023/09/09 02:19:15279.神も仏も名無しさんBV92o想いを語るのはこの口だし、道を歩くのはこの足だから、それ以外の道なんてないわな2023/09/09 02:20:11280.神も仏も名無しさんkRwlv>>276の続き仮にそうだったとしても、全ての過去、記憶が他者のものであったとしても、それを個の完成のための糧、という物語りのメインラインが変わらなければ、それはどこから来るのか?2023/09/10 22:52:43281.神も仏も名無しさんkRwlvそれはやはり神の実存からきているとしか言えないのではないか?2023/09/10 22:53:52282.神も仏も名無しさんkRwlv仮に全ての生命がアプリオリに完成を目指して生成、運動することが帰納法的に証明できたとしても、なぜそうなのか?という問いは残り続ける2023/09/10 22:54:44283.神も仏も名無しさんkRwlvこれより先に進むためには形而上の存在、実存において唯一である存在の物語りが必要不可欠である、となるのか本当なのか?2023/09/10 22:56:42284.神も仏も名無しさんkRwlvこの世の法則は争うことが出来ないしかし、実存において、その対価を支払う覚悟させあれば意思において争うことが出来るわけだから、アプリオリな法則や物語りが仮にあったとせよ、それにNOと言うことは原理上可能であり続ける2023/09/10 22:59:41285.神も仏も名無しさんkRwlvこれがおそらく悪の可能性に他ならない気がするが、問題なのは、その悪の選択ですら生成の物語りに吸収されてしまう、ということになるつまり、神の実存の物事から、被造物すべては逃れることはできない、となる2023/09/10 23:00:45286.神も仏も名無しさんkRwlvその意味においてこの世は運命論的に出来ているが、神ではなく、個人、私の実存において自由意志論者であり得る2023/09/10 23:02:19287.神も仏も名無しさんkRwlv生成は実存が今において現象と出会う時になされ、それは極めて個的な烙印を押されているその物語りはユニークではあるが、その行き着く先は誰とも変わらず、個の完成を志向する2023/09/10 23:04:06288.神も仏も名無しさんkRwlvこれは、悪においても、善においても同様となる悪が一見、個の感性とは真逆を志向すると言えたとしても、それは時間軸のメモリをどう取るか、という話にしかならず、結局は善における個の完成に吸収されてしまう2023/09/10 23:05:55289.神も仏も名無しさんkRwlv一つの結論にしか収束しない物語りそれ以外は存在し得ない物語り運命論ではあるが、その結末までの道は無限にある物語り2023/09/10 23:06:54290.神も仏も名無しさんkRwlvこの物語りは絶対であるように思う被造物はその物語の残飯である、ささやかな自由意志による選択しかありつけるものがないのか?2023/09/10 23:08:23291.神も仏も名無しさんkRwlv上述の意味では仏陀ですらその物語りに運命論的に縛られている自由意志による選択の結果であることは所与の上で、結局は「それしか選べない」となる2023/09/10 23:09:28292.神も仏も名無しさんkRwlv一見自由に見える自由意志は個の完成にレールの上で許される自由意志、とならざるを得ないその自由は限定付きの自由だ自由かつ運命論的な物語りこれが実態ではあるが、その実態を果たして自由と呼べるのだろうか?2023/09/10 23:11:45293.神も仏も名無しさんkRwlvこうして、悪の次の可能性が生まれ、その新たに生まれる悪も、次の時間軸上の中で個の完成に吸収されるこの運動は永遠に終わらない2023/09/10 23:13:03294.神も仏も名無しさんkRwlv従って、運命論的に、個の完成の物語りから善も悪も逃れることは出来ない2023/09/10 23:13:30295.神も仏も名無しさんkRwlvそこから逃れる悪の物語りも、より高次の絶対者の実存の物語りに吸収されてしまう永遠の個の完成の物語りに絡み取られる2023/09/10 23:14:16296.神も仏も名無しさんkRwlv被造物の一切は、生成、運動することを所与のものとして運命付けられている2023/09/10 23:16:41297.神も仏も名無しさんkRwlvこの運命から、仏陀もキリストも、三位一体の神も、逃れることができない2023/09/10 23:17:23298.神も仏も名無しさんkRwlvなぜなら、神がそう望んだから2023/09/10 23:17:40299.神も仏も名無しさんkRwlv神望む、故に我あり2023/09/10 23:18:05300.神も仏も名無しさんXiWrD実存において、最も強固な足場は実存と現象の交わりによる、生成、しかない2023/09/10 23:46:35301.神も仏も名無しさんXiWrD創造だけがこの人生のOSとなる2023/09/10 23:46:55302.神も仏も名無しさんXiWrD従って、あらゆる分野で、なぜ人は生きるか、の解として、成長するため、と語り続けられるその背後には創造の物語が所与のものとしてある2023/09/10 23:48:09303.神も仏も名無しさんXiWrD空気になったキリスト教空気にしてしまったライトな擬似宗教運動となると伝統宗教は生存のだためにら位相を変えざるを得ずその位相を何にするか、が問われている2023/09/10 23:50:47304.神も仏も名無しさんXiWrD大昔から常々感じているが、宗教が空気になり、実学の役目をその空気が果たす時は実学の難易度を変更せざるを得なくなるのは当然の結論難易度は必然的に高くなるなぜなら、空気が過去の大道の役割を果たしてしまっているから2023/09/10 23:52:18305.神も仏も名無しさんXiWrDカトリックの改革は、修道会を、どこまで大道に開くかその形式をどうプロデュース出来るか、にかかっているそのためには、組織の存続の原理から擬似的に作り出した禁忌の一部を解体せざるを得ないだろう2023/09/10 23:54:16306.神も仏も名無しさんXiWrDキリスト教の内部の論理から、キリスト教の論理が崩され得る点があるとするならば、一つしか思い浮かばないその一つを解禁する時に、キリスト教神秘主義者が知っている「あれ」が解禁されるしかないだろう2023/09/10 23:55:39307.神も仏も名無しさんKM7G3>>299の続きこの言説はある意味正しいが、その正しさは、物語の成就における正しさしかない望めば、実存者を生じさせることが出来る、という現象は一体どういう事態なのか?これだけが重要だ2023/09/11 00:38:52308.神も仏も名無しさんKM7G3私が科学の成果の全てを統合して、実存を生じさせたとするその実存は創造主よりも成熟して、創造主である私を殺したとするこういう相対主義や同一地平線上の二つの併存し得る存在の話と創造主である神と被造物である私の関係は決定的に異なる何において決定的に異なるのか?2023/09/11 00:43:05309.神も仏も名無しさんKM7G3こういう問い方は、神という概念に織り込まれている概念の話になるため、筋がいいとは言えないが、他の問い方を知らないし、そう問わざるを得ない2023/09/11 00:44:06310.神も仏も名無しさんKM7G3神はどこまで行っても唯一であり、実存であるしかし、その実存は被造物の実存を展開させる実存であり、同じ実存という単語を使ったとしても、実存の意味において等しく、本質の意味において異なる2023/09/11 00:45:40311.神も仏も名無しさんKM7G3従って、実存の意味で等しく、本質の意味においてある意味で等しい存在は、殺しあえるが、本質の意味において等しくない存在は、その本質の中身によって、殺し合えない2023/09/11 00:46:34312.神も仏も名無しさんKM7G3実存は端的な実存において決定的で自動的な結論を出すことが出来るが、本質における話は、実存のように「簡単」ではない2023/09/11 00:47:41313.神も仏も名無しさんKM7G3植物や昆虫の「実存」とはいったいどういう事態なのだろうか?それは語り得るものなのだろうか?それは語り得ないものだなぜなら、この端的な実存は他者に応用し得るし、さらにそれを応用して「ペット」にも応用し得るが、植物や昆虫になった途端に、困難になる2023/09/11 00:49:47314.神も仏も名無しさんKM7G3その困難さと神と私の実存の差異を語る困難さはどこか似ている2023/09/11 00:50:18315.神も仏も名無しさんKM7G3異なるのは「本質」だ2023/09/11 00:50:46316.神も仏も名無しさんKM7G3実存において本質は意味を持たないしかし、存在性において、実存は意味を持たないこんなことがなぜ成立し得るのか?2023/09/11 00:51:41317.神も仏も名無しさんKM7G3物語りは一般的に、人間(以上)にしか適応されない辛うじて動物に適応されるとしたら、その時は必ず人間のような動物、もしくは人間との関係を持った動物、のいずれかになるだろう2023/09/11 00:52:52318.神も仏も名無しさんKM7G3動物と植物は本質において異なり、本質において、植物より昆虫の方が人に似ている2023/09/11 00:53:35319.神も仏も名無しさんKM7G3植物より動物の方が2023/09/11 00:53:57320.神も仏も名無しさんKM7G3実存と本質において、本質は「まやかしでどうでもいいもの」と捉えられるケースが多いしかし、存在性においては、むしろ実存より本質の方が重要な概念になるこれがイデア論が本来主張してるもので、アリストテレスの存在論は、イデア論強調への実存主義的なアンチテーゼにしか過ぎない、となる2023/09/11 00:56:25321.神も仏も名無しさんKM7G3実存主義の遠回りを経て、イデア論がまさに重要である、という地平も実存主義者に開き得る2023/09/11 00:57:16322.神も仏も名無しさんKM7G3まさにこの点において、なんちゃって仏教徒の誤謬の根源があるように見受けられる本質において、それも、人間間の微細な差異における本質の差異において、なんちゃって仏教徒は無我を本質において軽視しすぎるが故に、自身の家畜と同じ本質に気付いていない2023/09/11 01:00:08323.神も仏も名無しさんKM7G3無我を唱える家畜存在性におきて家畜であり、実存において我々と等しいこれもまた、現実で起こっていること2023/09/11 01:01:08324.神も仏も名無しさんKM7G3宗教においては、まさに、この本質が「問われなければならない」2023/09/11 01:01:32325.神も仏も名無しさんKM7G3仏教は存在性の状態の梯子を定義し、存在性の差異、本質を微分しているキリスト教神秘主義も同様であるしかし、仏教はベースに物語りへの同化の禁忌を内部の論理上内在させ、本質における家畜を魔境において大量生産する論理も孕んでいる2023/09/11 01:04:27326.神も仏も名無しさんKM7G3なぜ、仏教徒が本質を忌み嫌うか?物語りから離れることを良しとするムードとそれを可能にする大雑把な概念から、としか言えない5chの仏教スレの住人の大半は家畜に該当する2023/09/11 01:06:30327.神も仏も名無しさんKM7G3彼らは個の完成を捨てた2023/09/11 01:06:56328.神も仏も名無しさんKM7G3アリストテレス主義者であるからこそ、キリスト者である私は、改めてイデア論と向き合わなければならない結局は本質、実存における本質あれかこれ、あれだけ、それだけ、そういうのではなく、実存における本質を希求しなければならない2023/09/11 01:09:10329.神も仏も名無しさんKM7G3それは物語りだ<私=今>が人生という現象と出会い、生成される個が記された物語りの、あくまでも、生成、だ神のOSにおける生成のアウトプットは本質しかないだからこそ、その本質「だけ」が重要である、と「言い得る」2023/09/11 01:11:21330.神も仏も名無しさんKM7G3人はそれを「成果主義」と語るジャータカのレンズの成果主義もまたあるだろうこれは時間軸における本質の話でもある2023/09/11 01:12:06331.神も仏も名無しさんKM7G3なぜ山上の隔離された空間での修行ではなく、山の下の俗世のこの世で社会の変革に、創造に寄与しなければならないのか?2023/09/11 01:15:33332.神も仏も名無しさんKM7G3それは、本質において階段を登れ、という意思そのものなのではないか?2023/09/11 01:16:02333.神も仏も名無しさんKM7G3山の上の隔離された場所では「存在の梯子は登れない」そういう音がキリストからも釈迦からも流れている2023/09/11 01:17:05334.神も仏も名無しさんKM7G3宗教は実存と本質を統合するその意味において、実学である2023/09/11 01:24:16335.神も仏も名無しさんKM7G3神は被造物と本質において異なり、従って、それが異なるが故、我々は「神を殺せない」2023/09/11 01:30:55336.神も仏も名無しさんKM7G3個の完成とは、本質をめぐる話でしかなく、実存は所与のものしてあるので、問題にならない宗教において、本質を軽視する一切は無視していい実存による本質の軽視の言葉を語ったとて、その実存の本質が家畜であることは変わらない従って家畜の実存を語っている、ということにしかならない2023/09/11 01:36:57337.神も仏も名無しさんKM7G3従って、語り得ることは、修行体系とその効果成果主義にしかならないそこにあえて付け加えるとしたら「個における」成果主義程度か2023/09/11 01:38:27338.神も仏も名無しさんKM7G3創造が所与のものとしてある限り、創造における成果主義は最重要視されざるを得ないこれを否定するなら、所与のものとしてある創造が否定されなければならないしかし、それはキリスト教も仏教もできないだろう2023/09/11 01:39:54339.神も仏も名無しさんKM7G3キリスト教と仏教の物語りそれらが個の完成しか求めていない違う軌跡を悪が紡いだとて、神の創造の物語りに吸収される2023/09/11 01:41:03340.神も仏も名無しさんKM7G3かくして、本質が重要である、ということにキリスト教は当たり前だが、仏教すらも、構造上なってしまう本質を批判する家畜は一掃されてしまった2023/09/11 01:42:11341.神も仏も名無しさんKM7G3その世界では家畜の居場所はないそれを山上という人がいればそうなのだろう従って、道を歩む誰しもが、菩薩道を歩まざるを得ない2023/09/11 01:43:13342.神も仏も名無しさんKM7G3従って、苦からの解脱は方便でしかない、となる苦からの解脱は実存と本質、両面から見てまやかしだ大乗しかない2023/09/11 01:44:08343.神も仏も名無しさんKM7G3私の実存において本質を私の実存の本質においては、慈悲をこれが仏教で、キリスト教は「私の実存の本質においては、愛を」となる2023/09/11 01:45:35344.神も仏も名無しさんKM7G3なぜなら、キリストは謙り、我々は兄弟姉妹と神の物差しにおいて変わらない本質を持つ小さな存在でしかないから2023/09/11 01:46:31345.神も仏も名無しさんKM7G3本質において、我々は遜る2023/09/11 01:46:55346.神も仏も名無しさんKM7G3神が実存において遜ったとしても我々も実存において遜っても「本質においても遜らなければならない」なぜなら、神は偉大であり、卓越した隣人も偉大だから2023/09/11 01:55:15347.神も仏も名無しさんKM7G3我々はキリストでも仏陀でもないそれにつきる2023/09/11 01:55:55348.神も仏も名無しさんQ7T14修行は本質に分類されるだからと言って、修行に「意味がない」という仏教徒はいまい2023/09/11 02:06:34349.神も仏も名無しさんQ7T14実存を間違って推し進めると、その先にはニヒリズムしか待ってないそれが5chの宗教スレの実態だ2023/09/11 02:07:58350.神も仏も名無しさんZHnspなんや、難しい方向性やの〜こっちも、まあ、難しい唯仏与仏見たいなワールドだから、どっちもどっちだがな😄2023/09/11 05:39:45351.神も仏も名無しさんZHnspあのレベルに修行仕込まれてモノにしだすと〜😄😄😄2023/09/11 05:40:35352.◆JBLfMwCXhY8uNsd>>348> > だからと言って、修行に「意味がない」という> > 仏教徒はいまいロンは、修行に意味がないと言ってた2023/09/11 06:21:40353.◆JBLfMwCXhY8uNsd>>350> なんや、難しい方向性やの~ ニーチェですな~2023/09/11 06:27:29354.神も仏も名無しさんKYN62道元なんかは本質なんてやると先尼外道とかいいそーだけどな〜😄2023/09/11 06:42:58355.神も仏も名無しさんKYN62天台華厳真言密教チベット密教あたりだと、なんらかの本質ぽいよーならしき雰囲気なるモノが〜あるよーな感はある😄2023/09/11 06:44:17356.神も仏も名無しさんuaj9C>>350すまんのw頭の中で概念を整理する時期なのか、独りよがりの書き方してるから余計わかりづらいわな2023/09/11 13:18:37357.神も仏も名無しさんuaj9C>>352十牛図の9ステップ目の返本還源を持って、8ステップは意味がないと語る典型的な実存主義迷子な状態ですな(^_^;) 2023/09/11 13:22:47358.神も仏も名無しさんuaj9C改めて、仏教の無我について無我とは「実存と本質は異なり、本質の中に実存を探してもどこにもない」といってるだけそれはその通り2023/09/11 13:36:37359.神も仏も名無しさんuaj9Cだが、本質の中に実存を求めてもそれがないから、本質に意味がない、とは当たり前にならないそれは、本質を実存と「誤解」してる人にだけ意味のある概念であり、無我を生きている、その状態を知っている人には取り立てて意味のある概念とは言えない2023/09/11 13:38:01360.神も仏も名無しさんuaj9C剥き出しの「在る」証明の必要がない公理としての在る自分を指し示す全ての状態、要素、属性、それら類のものと実存は何の関係もないしかし、実存「における」本質は「何も関係がない」からと言って例えば預流、一来、不還、阿羅漢のような存在性における状態、つまり本質に分類が意味を持たない、とはならない2023/09/11 13:43:08361.神も仏も名無しさんuaj9Cむしろ、その存在性の梯子を登る「ことだけ」に意味があるのが宗教だ2023/09/11 13:43:35362.神も仏も名無しさんuaj9Cこの本来の個の完成を目指すOSが、実存において本質は関係がない、という概念で否定されている2023/09/11 13:45:12363.神も仏も名無しさんuaj9C実存において本質は関係ない、という概念やその体験は、人間であれば誰でも経験しているものであり、取り立てて語るまでもないアプリオリな知識でしかないものそんな当たり前のことを持って、当たり前ではない、苦難を要する存在性の梯子を登る概念が否定されている2023/09/11 13:47:28364.神も仏も名無しさんuaj9C仮に仏教の特定の宗派がそんな人々を大量生産しているなら、そんな宗教は「いらない」と、必然的になるこんな当たり前のことすら、語らなければならないところに宗教の機能不全が現れている2023/09/11 13:50:23365.神も仏も名無しさんYXGFIサティは仕事するにしても地力が俺よりも遥かにあるから、色々哲学思惟する余裕があるのさ〜俺は若き頃派飽くなき哲学と社会分析の魔王の如くだったが、シャバの才能が低レベル、魔改造の果てにまーまー最低限の瞬時判断力のする仕事をなんとかやりこなす😄😄😄2023/09/11 13:57:31366.神も仏も名無しさんYXGFIサティは生まれもったシャバの仕事の地頭の能力高そうやもんな、オレがクリスチャンとして生きる場合、脳の回転を4段階落として、アタマの瞬時回転判断力のいらん仕事でやっとてきる程度やわ😄2023/09/11 14:14:06367.神も仏も名無しさんUe42W>>365どうかなーしゃばの仕事が大変すぎるからバランス取るために興味のあることについて考えるだけ、が実体ですけどねw2023/09/11 16:44:57368.神も仏も名無しさんUe42W>>366シャバの仕事で唯一といっていい工夫は同じ職種を根拠よく続けてるだけぐらいすよ職種の経験を積み上げられるようにしたら、あとあと楽できますからな得意なところでしか勝負しないというw2023/09/11 16:47:22369.神も仏も名無しさんUe42Wんで哲学は意味がない、と思われがちだが自分の思想体系を強固にするためには機能している世界をどう解釈するか、それにより世界の見え方は変わる世界の見え方が変われば創造の道を歩むこの体についている目が変わるし、この口から発せられる言葉も変わるし、歩み方も、創造の成果主義の成果も変わる自分の歩み方を変えたくて、変えたい理由がこの人生の不完全性に悩んでいるからで、余裕がないから考えざるを得ない、みたいな状況でもある2023/09/11 17:03:41370.神も仏も名無しさんJ6aB9>>369哲学の土台が違うんやろな〜今更に鹿は丸山圭三郎とか言ってるな〜ニヤニヤして見てる😄その辺20の頃精読してたのを今更?みたいに鹿のレスアタマワルイのに無理しちゃって〜と生暖かく、ツッコミいれずにオトナの対応😄2023/09/11 18:34:44371.神も仏も名無しさんJ6aB9鹿は、今更になって、そんな哲学志向をもったのね〜アタマワルイので、今更なのね〜みたいな〜😄2023/09/11 18:36:24372.神も仏も名無しさんJ6aB9>>369そうね休日で余裕あるしメンタル的テクノロジーも余裕出てきてるんで、先週の休日あたりから、熱心にキリスト教の世界観を模索しつつあった〜山伏と念仏聖者盧世界がメインだったけど〜やはり、先々週あたりから、カトリックの聖者のウィキペディアで調べて遊び出したんだけど、人間側の神の意志に沿う、人間の意志みたいなのがキリスト教にあるね〜みたいな、山伏や念仏聖者とは別の正統派教義仏教にはそういうモノがないのよ、外部空間認識の有無の差があるぐらいでインドの瞑想体系が宗教的に特殊なのやろね〜😄2023/09/11 18:41:30373.神も仏も名無しさんJ6aB9密教というシンボル的な人格仏から、リアルな人格的存在仏なのが日本仏教の山伏と阿弥陀仏の念仏の信仰、これらは特殊、チベット密教の人格仏ですら、やはり空間ゾーンに関与するシンボルではある、ただ、外部の救済する人格仏の要素が強まるのは日本仏教の山伏と阿弥陀仏の念仏と日蓮宗、これらは 空間におけるシンボルではなく、リアルな救済者としてあり、そこと葬式法事仏教は密接に関連がある。😄2023/09/11 19:01:38374.神も仏も名無しさんJ6aB9>>369やはり、最近の俺の直感は正しいかも〜超スローライフなイエス・キリスト😇2023/09/11 19:07:42375.神も仏も名無しさんJ6aB9スローライフ、遠回りな発想でないと、ヨブ記は成立しないとか、ヨナ記もある意味遠回りだ😄2023/09/11 19:09:18376.神も仏も名無しさんDyXYF>>370馬鹿の園は相変わらずですな〜上で一部の仏教徒を批判してるんだけど馬鹿の縁はまさにその代表ですな😆2023/09/11 19:10:10377.神も仏も名無しさんJ6aB9ま、ショートカット至上主義者過ぎて俺は、こーいうスローライフで遠回りの発想は理解できない立ち位置であった😄2023/09/11 19:10:36378.神も仏も名無しさんJ6aB9>>376ま、スローライフで遠回りするからこそ、哲学的思惟が必要なのかもね〜ホントショートカット信奉者過ぎてる俺は、ま、メンタル虚弱過ぎるのでエネルギーロス疲労を減らす工夫しか発想できなかったので😄2023/09/11 19:13:40379.神も仏も名無しさんDyXYF>>372わかる分かるキリスト教にはアリストテレス的な実存主義や個の原理が強烈に紛れ込んでるんすよね仏教はどこまでいっても「本質、この世の仕組みが記述が淡々と記述されている」みたいな客観性がある主観と客観みたいな分かりやすい二項対立に集約できる話ではないけど、その意味で科学的だ、と言われる所以だし、実存主義者から見ると決定的に欠けてるものがある、と思われる所以でもある2023/09/11 19:14:49380.神も仏も名無しさんJ6aB9スローライフで遠回りのアガキの美学が聖書とセイントの生かもしれん、と、最近、ウィキペディアのセイント検索しまくって、写真と絵画をダウンロードしまくってた、先々週と先週あたりの休日😄2023/09/11 19:15:59381.◆JBLfMwCXhY8uNsd確かに日本は神仏習合だけどキリスト教とギリシャ哲学も完全に混ざりあってるんだよな~2023/09/11 19:16:35382.神も仏も名無しさんDyXYF>>377そういうのが好きな人とそうでない人がいるって好き嫌いの話しですな必要な人はやればいいし、必要ない人はスルーしておけかと2023/09/11 19:17:11383.神も仏も名無しさんJ6aB9>>379鹿が今更関心を丸山圭三郎に持つのはそれ相応の筋はある、アタマワルイのだ理解できるかは不明、フェルディナンドソシュール言語記号の恣意性、この一言、相対性しかない、若い頃読んだなあ〜😄2023/09/11 19:19:04384.神も仏も名無しさんDyXYF栄光の身体(霊の体)が復活におけるシンボルである、みたいな概念は、キリスト教以前のグノーシス主義からは絶対に出てこない身体はどこまでいっても乗り物でしかなく、その実質は様々あるが、キリスト教では最も輝くものとして記述され、かつ強調されているこういうのは実存主義的な意味での個的原理の継続、みたいな概念が前提にないとそうならない2023/09/11 19:20:25385.神も仏も名無しさんJ6aB9>>382暑さの峠も越えたので、キリスト教模索に余裕が出つつある😄2023/09/11 19:20:41386.神も仏も名無しさんDyXYF>>383馬鹿の園は単語並べて解釈がいつも間違ってるから、どんな偉人の言葉をコピペしてても情報価値ゼロ😢なぜなら、「解釈が間違ってる」から😆2023/09/11 19:21:51387.神も仏も名無しさんDyXYF>>385聖人に目が行くのはええ事だと思いますわ創造の物語がキリスト教では最も重要ですが、だからこそ、私の十字架(聖人の物語り、人生)は創造を前に進める生成においてキモのキモ、となるので2023/09/11 19:23:41388.◆JBLfMwCXhY8uNsdそうだキリスト教の聖人シリーズ途中で終わっている2023/09/11 19:24:49389.◆JBLfMwCXhY8uNsdバカの園の相手なんかしてたせいだ😫2023/09/11 19:25:12390.神も仏も名無しさんJ6aB9>>382余りもの今年の暑さで休日ですら瞑想強化人間生活であった〜😄休日に瞑想解除すると過食になるし〜😄この過食傾向からの離脱を神の意志、という設定模索を楽しんでた😄2023/09/11 19:25:32391.神も仏も名無しさんDyXYF馬鹿の園は無視に限りますな😂2023/09/11 19:25:58392.神も仏も名無しさんJ6aB9俺は健全なのでイエス・キリストを瞑想で捉えようとはしない、瞑想強化しない脳、身体から見ないとイエス・キリストの世界は理解できないと想定はしてて、遊んでた😄2023/09/11 19:27:16393.神も仏も名無しさんJ6aB9ハッキリとは見えないが、神の意志という視点には注目はした😄2023/09/11 19:28:30394.神も仏も名無しさんDyXYF>>390神は偏在してますからな、そうやって語り合える感性は大事だと思いますわちなみに仏教の行で八正道以外で普段の生活を内省し、観察する行知ってますか?上で色々と考えてたんだけど、創造に資する生成のためには、自身の人生の内省が必要不可欠である、という結論になった八正道はまさにそういった効果があるけど、それ以外には何かあるはずだ、という直感をもちますた2023/09/11 19:30:59395.神も仏も名無しさんDyXYFキリスト教では観想はよくされますな瞑想というより、キリストの復活までを観想するのその先にスティグマの現象が現れるという2023/09/11 19:33:13396.神も仏も名無しさんDyXYF>>263に最も近い状態を仏陀が語っているコピペ元(知恵袋だけどw)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13216329898『王子。私が粗い食べ物を食べて体力をつけると、愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(考えること)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティとスッカ(喜悦と幸福)がある初禅に到達し、その感覚の中にいました。ヴィタッカとヴィチャーラが静まって、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの、心の内面を明るくするものである二禅に到達し、その感覚の中にいました。2023/09/11 19:43:29397.神も仏も名無しさんDyXYFピーティ(喜悦)が薄れることで、捨にいてサティと自覚があり、そして当然名身で幸福を味わい、聖人方が「この定にいる人は捨にいる人で、サティがあり幸福だ」と言う三禅に到達し、その感覚の中にいました。 幸福と苦を捨てることができ、過去のすべての喜びが薄れて、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、その感覚の中にいました。 2023/09/11 19:43:44398.神も仏も名無しさんDyXYF心が純潔清浄で明るく安定し、煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、このように動揺がない状態を維持できた時、私は心を宿命智に傾け、かつて暮らしたことがある蘊について思い出しました。一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、幾つもの壊劫から幾つもの成劫、幾つもの壊劫と幾つもの成業まで、その有にいた時はこういう名前で、こういう姓で、こういう身分で、こういう食べものがあり、このような幸福と苦を味わい、何歳で命が終わり、その有が終わるとこの有に生まれたと思い出しました。2023/09/11 19:44:02399.神も仏も名無しさんDyXYF私はかつて暮らした生の、このように状態と状況を幾つでも思い出すことができました。王子。これがその夜の初更に到達した一つ目のヴィッチャー(明)で、不注意がなく、罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人にふさわしく、闇が追放されて、光が生じました。2023/09/11 19:44:17400.神も仏も名無しさんDyXYF私は、心が純潔清浄で明るく安定し、煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、このように動揺がない状態を維持できた時、心を天眼智に傾けて普通の目より純潔な目になり、当然すべての生き物が死んで行き、生まれて来るのが見え、下品か上品か、身分が良いか悪いか、苦があるか幸福があるかが見えました。2023/09/11 19:44:31401.神も仏も名無しさんDyXYF「発展した方々。これらの生き物は不正な体、不正な言葉、不正な心があり、すべての聖人を非難することを言い、誤った見解で、誤った見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は揃って悪趣、悪の報いを受ける場所、地獄へ行きます。発展した方々。一方こちらの人たちは正しい体、正しい言葉、正しい心があり、聖人を非難せず、正しい見解であり、正しい見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は、当然揃って善趣、極楽界へ行きます」と、カンマで到達する生き物の群れが明らかに見えました。2023/09/11 19:44:49402.神も仏も名無しさんDyXYF人間の目を超えた純潔な天の目があったので、当然すべての生き物が死んで行き、生まれて来るのが見え、下品か上品か、身分が良いか悪いか、苦があるか幸福があるかが見え、カンマで到達する動物群がハッキリと見えました。王子。これが、不注意でなく罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人にふさわしく、その夜の中更に到達した二つ目のヴィッチャー(明)で、闇が追放されて光が生じました。2023/09/11 19:45:05403.神も仏も名無しさんDyXYF心が純潔清浄で明るく安定し、煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、このように動揺がない状態を維持できた時、私は心を漏尽智に傾け、「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道、これがすべての漏、これがすべての漏の原因、これがすべての漏の消滅、これがすべての漏の消滅に至る道」と、真実のままに明らかに知りました。2023/09/11 19:45:22404.神も仏も名無しさんDyXYFこのように知り、このように見えた時、心が欲漏、有漏、無有漏から脱し、心が素晴らしい脱出をすると「心が解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じ明が生じ、闇が追放されて光が生じ「生は終わった。梵行は終わった。しなければならない仕事は成功した。このようになる(解脱する)ためにしなければならない他の仕事はない」とハッキリと知りました。王子。これがその夜の中更に到達した三つ目のヴィッチャー(明)で、不注意でなく、罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人にふさわしく闇が追放されました』。2023/09/11 19:45:39405.神も仏も名無しさんDyXYFコピペ終わりここに書かれているのは全て本質においての話で、実存についての話ではないまた、存在性の梯子を登る話であり、本質は(無我だから)重要ではない、となんちゃって仏教徒が語る内容と真逆のことを言っている2023/09/11 19:47:17406.神も仏も名無しさんTbqSp>>321の続きワンピースにおけるルフィの実存とこの世界における尾田栄一郎の実存について2023/09/11 23:40:21407.神も仏も名無しさんTbqSp実存とは唯一の世界の開け、まったく端的な開けであるただ在るし、そのような在り方をしている他者は、実存にとっては内側から確かめようがない端的に実存だ2023/09/11 23:41:32408.神も仏も名無しさんTbqSpこの確かめようのなさは、哲学的ゾンビの思考実験を可能にし、その答えはやはり、哲学的ゾンビが、ゾンビなのか実存なのかは証明しようがない2023/09/11 23:43:05409.神も仏も名無しさんTbqSpつまり、仮に私が尾田栄一郎の実存を生きていると仮定した時に、私の書いたワンピースのルフィが実存を主張している場合、ルフィが実存「しない」ことは証明できない、となる2023/09/11 23:44:30410.神も仏も名無しさんTbqSpそれはつまり、他者が我のように実存していることを帰納法的に認め、贈り与えることでしか成立しないことと同じ意味で、ルフィに実存を贈り与えることも可能である、ということを意味するつまり、実存において私である尾田栄一郎と、私が書いたルフィは実存において等しい、となる2023/09/11 23:46:31411.神も仏も名無しさんTbqSpそれでは本質においてはどうだろう?尾田栄一郎は漫画家で世界的に大ヒットしている漫画の作者で、熊本県熊本市出身、血液型はO型、二児の父、油絵が趣味だった父親の影響で幼い頃から絵を描き始め、4歳の時に漫画家という職業の存在を知り「大人になっても働かなくていいんだ!」と思い漫画家を目指し始める、などの本質を持つ2023/09/11 23:48:53412.神も仏も名無しさんTbqSp一方でルフィはフーシャ村が生まれ故郷だが、詳しい生い立ちは不明。両親の存在は全く知らず、家族は祖父のガープ以外いないと思っていた。ルフィを海兵にすることを考えたガープにより夜のジャングルへ放り込まれたり、千尋の谷に突き落とされたり、風船をくくりつけられどこかの空へ飛ばされたりするなどの過酷な方法で育てられた(以下略)などの本質を持ち、加えて尾田栄一郎の漫画『ONE PIECE』に登場する架空の人物であり、同作品の主人公、などの本質を持つ2023/09/11 23:50:45413.神も仏も名無しさんTbqSp実存において等しく、本質において創造主と被造物の関係性を持つこれは神と被造物の関係に類似している2023/09/11 23:51:30414.神も仏も名無しさんTbqSp我々被造物、とりわけこの<私>は実存において神と等しく、本質においてこの人生が生成した本質を始まりから終わりまで所有するが、被造物という本質も「創造主に対して」持っている2023/09/11 23:52:58415.神も仏も名無しさんTbqSpよくある誤謬、例えば、「人間は神である」といった発想はしばしば、「実存において神と等しい」というアプリオリな事実を本質においても拡大解釈する時に起こる2023/09/11 23:54:06416.神も仏も名無しさんTbqSp人間が語り得る偉大さ、は全て描写できる内容を持ち、言語や認識により客観化、客体化されるが故、それらは全て本質に分類されるそして、偉大さは本質において「のみ」語り得ることで、実存においては神や隣人と「等しい」と類推されるのみで、それ以上でもそれ以下でもない単なる剥き出しの事実であり現実でしかない2023/09/11 23:56:44417.神も仏も名無しさんTbqSp善も悪も恩寵も罰も、全ては本質に属するもので、その意味では神と被造物の実存が等しいのと同様、悪魔と人間の実存も平等に等しいいいとも悪いとも、なんとも、全ての描写とも切り離されたところにある絶対が実存2023/09/11 23:59:02418.神も仏も名無しさん4jR4X実存は本質に先立つ、とか言われても「だから何なんだ?」と言っていい2023/09/12 00:00:33419.神も仏も名無しさん4jR4Xそれと同様のことが仏教徒が好きな無我にも言い得る2023/09/12 00:01:36420.神も仏も名無しさん4jR4X無我とは我がないという意味ではなく、我=本質と誤認している人に向けて、我≠本質と言っているだけに過ぎないそんな当たり前のどうでもいいことは脇において神と被造物の本質における差異そしてその差異を埋めるための方法論その先にある存在の状態が最も重要であることは言うまでもない2023/09/12 00:04:32421.神も仏も名無しさん4jR4X神話や宗教の時代が終わり、それらの物語りが社会的な機能を失う中にあって、目的を失った人々は途方に暮れる相対主義やニヒリズムが蔓延し、実存主義が影響力を持ち始めるが、実存主義である限り、当たり前のことを当たり前だね?と確認しあってるだけで結局は本質だよね?存在性の梯子を登るしかないんだよね?とならざるを得ない捨てたものをまた拾えばいいだけ、となる2023/09/12 00:07:51422.神も仏も名無しさん4jR4Xここで気になることがある宗教の物語りは捨てられた、なんてことは歴史上本当にあったのだろうか?確かに全体で見ると無神論者は増えているし、宗教の「大道の社会的な機能」は間違いなく弱体化はしているしかしそれらの人々は盲目的に素朴実在論者のように宗教の物語を受け入れていただけで、キリスト教では修道の道に入るものや仏教では出家の道を歩む求道者は今も昔も変わらずに存在し続けている2023/09/12 00:11:31423.神も仏も名無しさん4jR4X変わったのは「大衆」であるだけで、それ以外は結局は何も変わっていないのではないか?それをもって宗教が死んだ、みたいな言説は乱暴すぎないか?2023/09/12 00:12:30424.神も仏も名無しさん4jR4X存在の梯子を登る人達は変わらず登らない大衆も変わらず素朴実在論者たちは、素朴に信じる対象を宗教から別の何かにずらしただけで全体的に見ると何も変わっていない、と言えないか?2023/09/12 00:13:48425.神も仏も名無しさん4jR4X宗教は働く側と享受する側に分かれる働く側であり享受する側でもあるが、教える側、教わる側の構造で出来ているこの構造が変わらない限り、大衆は変わらない救われる側ではなく救う側へ少なくともそれを意思し歩む道に入っているか否か2023/09/12 00:25:30426.神も仏も名無しさん4jR4Xそれ次第で苦からの解脱や救われるための宗教、という側面はなくならない2023/09/12 00:26:11427.神も仏も名無しさん4jR4X結局は救う側の役割を受け入れるかどうかこれが大昔から大衆とごく限られた狭き門を潜る人達のキャズムで、それは存在性においても断絶されていると言い得る2023/09/12 00:27:48428.神も仏も名無しさんMBCzS衆生の救済の道と個の完成の物語はどのような関係にあるのだろうキリスト教ではそれらはイコールでキリストにおいて結ばれてしまう2023/09/12 00:49:07429.神も仏も名無しさんR2UKd神に本質において似る、ということが衆生の救済と個の完成に展開されるなら、神の本質が問われることになる2023/09/12 00:54:22430.神も仏も名無しさんziEUYジャータカに条件を加えたと仮定する仮にジャータカの物語の一つ(過去生)に、菩薩ではなく衆生の消滅を意思する生があったと仮定するジャータカ全体の中では菩薩道を歩んでいるから衆生の救済に支えているが、その物語りだけは衆生の消滅を生きたのだから、そうなると、存在性の梯子の概念、本質は、それだけが重要である、と本当にいい得るのか?2023/09/12 01:24:27431.神も仏も名無しさんziEUY例えば、何の連続性もなく、「たまたま菩薩として生まれ」そしてその次に「たまたま魔羅として生まれる」みたいな事態を想定した時に、魔羅として生まれた生は創造において間違っており、その一つ前の生は正しかった、ということになるのか?2023/09/12 01:29:37432.神も仏も名無しさんziEUY本質に連続性が法としてあったと仮定しても、実存と本質は何の関係もないのだから、そう言う事態は思考実験上想定し得るが故に、本質に足場を求めても、そこには何もない、といい得るのではないか?2023/09/12 01:31:01433.神も仏も名無しさんziEUY失敗は成功の母と言われるわけで、ジャータカスパンの時間軸で鑑みた時に、悪であることは「結果論的に」善に資すると言い得る時に、存在性の梯子はどれほどの意味を持つのか?意味がないのではないか?2023/09/12 01:34:23434.神も仏も名無しさんh8PmQ魔羅の生を生きた実存は端的に創造を前に悪い、悪である、としか言えないジャータカスパンで考える時に本質は何らかの形で持続して欲しいが、その持続が「ない」と仮定した時は、足場として効力を持つものは、<私=今>と現象が出会い生成されるもの、そしてその生成されるものが創造に資するか否か、でしか測れない、となる常に<私=今>の「生成」するものでしか創造を前には良しとされるか否かは判断できない、となる2023/09/12 01:40:11435.神も仏も名無しさんh8PmQこれは全ては一期一会で測られる、ということを意味し、実存も本質も、生成されるものでしか良し悪しが評価できない、となる2023/09/12 01:41:17436.神も仏も名無しさんh8PmQ創造を前にすると実存も本質も意味を持たず、全ては「新たに生成された本質」だけが意味を持つ、となる菩薩だろうと魔羅だろうと、そういう本質は意味を持たず、生成されるものしか意味を持たない2023/09/12 01:42:28437.神も仏も名無しさんh8PmQ新たに生成される本質しか意味を持たないということが創造を前にした時にの統合された実存と本質の姿なのだろうか?2023/09/12 01:45:29438.神も仏も名無しさんh8PmQこの世界観は完全に成果主義と言い得るのではないか?そうなると、ジャータカすらもはや必要とならず、カトリックの定義で十分だ、むしろ、それでいい、となってしまう2023/09/12 01:47:29439.神も仏も名無しさんh8PmQ放蕩息子が父の元に仮に帰還しなかったら、キリストが語る譬えになり得ただろうか?これも、成果主義としか言えないのではないか?2023/09/12 01:52:18440.神も仏も名無しさんh8PmQ放蕩息子の放蕩は、父の元への帰還があって、初めて肯定される父の元への帰還のない放蕩は単なる放蕩であって、その放蕩は父の元に帰還し、贈り物を与えられるまでは肯定されないしかし、放蕩はその結果に対して、どうしても必要なものだった、と言い得る2023/09/12 01:54:24441.神も仏も名無しさんKXn80色々模索しとんのね〜ま、同じ方向い行くと見せかけて別の方向へいく、みたいなのが〜なんか、宇宙世紀ガンダムに良くありがちな一筋縄ではいかないよーなーま、そっちの住人に帰る〜😄2023/09/12 06:56:31442.神も仏も名無しさんPrF5p一筋縄ではいきませんなーよくよく考えたら本質すら足場として不確かという結論になってしまった、、、2023/09/12 09:39:01443.神も仏も名無しさんPrF5p存在性において悪く、創造において良い、という事態が「結果論的に」「後出し的に」存在し得る2023/09/12 09:40:03444.神も仏も名無しさんPrF5pこの地平だと、「創造は常に正しい」という前提がある場合は、それは完成されるものであるわけだから、善も悪も創造に吸収されるわけだから、<今=私>において、全ては完成され、善いという結論になる2023/09/12 09:45:38445.神も仏も名無しさんPrF5p善も悪も、どんな存在性、それがたとえ畜生だったとしても、創造の前では善い2023/09/12 09:46:18446.神も仏も名無しさんPrF5pこの結論の前提には創造が「なければならない」創造がなければ全てが瓦解する2023/09/12 09:47:39447.神も仏も名無しさんKXn80暑さのピークを超えると眠さが出てくるんやな〜疲れてはいないが眠い😄2023/09/12 09:51:42448.神も仏も名無しさんPrF5pキリスト教の内部の論理の中で、一つに、神は全知であり、全ての世界は神の知の中で全ては可能態として存在し、実存がその可能態を現実態にする、神の可能態を神が意思により、実存を通して埋める、などと表現することが出来る2023/09/12 09:52:00449.神も仏も名無しさんPrF5p今日は暑いのか在宅なのと低血圧だからまだ気温が分からない、、、2023/09/12 09:52:44450.神も仏も名無しさんPrF5p>>448の続き放蕩息子の兄は存在性において放蕩息子より優っているしかし、放蕩息子の放蕩によって、可能態を埋める、現実化する「経験」によって、後出しで存在性において兄には得られないものを得て、存在性において兄に勝ってしまった2023/09/12 09:54:54451.神も仏も名無しさんKXn80火曜日にこんなに眠いのは久しぶりだ〜😄少し前まで朝は蒸し暑いかったから眠さのねの字も出なかったのに〜😄2023/09/12 09:56:45452.神も仏も名無しさんUTUeh暑いことは暑いが、すっかり秋だ😄2023/09/12 09:57:33453.神も仏も名無しさんUTUeh無気力というよりも眠い😄2023/09/12 09:59:04454.神も仏も名無しさんKXn80温度が上がってきたので眠さ解消〜過ごしやすいと眠くなるな〜😄2023/09/12 10:23:47455.神も仏も名無しさん6uxFQそういう日もありますな〜仕事モード40%ぐらいでゆるくやっていきましょう😆2023/09/12 12:07:09456.神も仏も名無しさんDE3RW>>450の続き創造を前にすると全てが「善い」となってしまったこれは悪であっても「善い」とならざるを得ないこれを受け入れるためには創造が絶対的であり、相対的になくなってしまう、みたいな事態が存在し得ない、とならない限り、極めて不安定な足場に立っていることを意味する創造は本質に分類されるなら、絶対はない今の所、絶対は実存においてしか存在し得ない、という足場に立つと、神の実存と、それが神の唯一の今が創造に触れることで、絶対である、ことが証明されなければならないが、そんなことは不可能なのではないか?2023/09/12 12:11:35457.神も仏も名無しさんKXn80>>455最新脳運用システムを発見した〜キタッ〜ー!!😄😄2023/09/12 12:12:09458.神も仏も名無しさんKXn80あの宗教と思えないクレイジーなシステムからの産物だ〜ヒラメクなあ〜最新脳運用システムバージョンがデタ〜😄2023/09/12 12:13:30459.神も仏も名無しさんDE3RW私の完成、その物語は、神の実存抜きに絶対であることはあり得るのか?2023/09/12 12:13:59460.神も仏も名無しさんDE3RWappleのMacも新しいOSがそろそろリリースされる😆2023/09/12 12:15:11461.神も仏も名無しさんKXn80正反、反正、強弱、弱強、まった〜く組み合わせが〜なかなか、ありがたや〜😄2023/09/12 12:15:54462.神も仏も名無しさんKXn80眠さからのヒョウタンから駒だ〜😄今日はいい一日だ〜これは😄2023/09/12 12:16:56463.神も仏も名無しさんamolsあなた無しにあなたを造った神はあなた無しにあなたを救わない2023/09/12 13:35:46464.神も仏も名無しさんamolsアウグスティヌスの言葉らしい創造を絶対にする、は原理上やはり不可能な気がするキリスト教の「神を信じるものは救われる」の「信じる」を出さざるを得ないのか?短絡的すぎる気がして粘りたいところではあるが、粘るにせよ糸口が見えない2023/09/12 13:37:24465.神も仏も名無しさんamols神は私の(創造への)協力なしに救わないこれは、信じることであり、その道を歩む努力でもある2023/09/12 13:38:19466.神も仏も名無しさんamols実存も本質も何でもない時(実際はとてつもなく意味があるけど)に、何でもあるのは創造を前にした生成で、その前提に物語りの受け入れがある時、その物語りが絶対であると信じることでしか、先に進めないのか?2023/09/12 13:40:18467.神も仏も名無しさんamols「信じない」ことが論理的に可能である時に、神は絶対であるはずだが、相対主義に落ち込むことになるそれでも創造が絶対なら、後付けで、結果論的に、創造は(遠回りをしたけど)絶対だった、という結論になる創造を信じた途端に創造「しかなくなる」のだから、仕方がない2023/09/12 13:42:01468.神も仏も名無しさんamolsこれは神の存在証明と全く同じ構造なのではないか、、、2023/09/12 13:42:25469.神も仏も名無しさんcaBU1永井均は実存と本質の関係を<私>という表記で表現する時、<私>には実存と本質が切り離されない形である、と語っていると理解している<私>から本質を抜いてしまうと< >だけになる今日、目が覚めると私が毒虫であったとしても、その<私>には毒虫である、という本質も含まれている<私>とは、並存している「私」たちの中で、なぜかこの<私>だけが世界の開けとして唯一特殊なあり方をしていることを表現する表記法2023/09/12 15:15:15470.神も仏も名無しさんcaBU1実存とは、本質を含みつつ唯一の世界の開けであるということで、その物語りが個の完成を志向していることを所与のものとして信じることが、創造に連なる、意識的に参与する、ということになる2023/09/12 15:17:25471.神も仏も名無しさんcaBU1「信じる」以外に、創造の物語を絶対的な確固たる足場とすることは出来ないのか?それを信じないと、本当に救われないのか?運命論的に信じることは不可避の事柄なのか?2023/09/12 15:19:12472.神も仏も名無しさんcaBU1<(神を信じる)私>しか、創造に意識的に参画できない、は本当なのか?2023/09/12 15:20:40473.神も仏も名無しさんcaBU1私の信じるなしに、神はあなたを救わないこれは、キリスト教が不寛容であると思われる大きな所以の一つだが、カトリックの公式見解では、良心の中で生きる人は例外とされる抜け道も用意されている2023/09/12 15:22:50474.神も仏も名無しさんmeheh先行的な恩寵があるにせよ、救いが「信じる者」にしか与えられない場合、神は恩寵を限定しているしかし、神がこの世界(の全て)を創造し、その創造が完成を意図、意思(計画)されたものであるならば、神の「外」など存在しない、となるこの世の全ては創造に吸収されるこれは、神を信じること、創造に協力することは、被造物にとっては「不可避」である、ということに他ならないつまり、被造物は創造に協力するよう運命付けられており、悪ですら、創造を前にすると、協力(善い)ことになり、創造の外に出ることは神を信じるものからすると、不可能となる2023/09/12 19:11:12475.神も仏も名無しさんmeheh神を信じないものも、<私=今>の時点で信じていないだけ、それは放蕩息子が放蕩している瞬間であるに過ぎず、神への帰還を意思しない放蕩「だけ」の人生で仮にあったとしても、それはジャータカの時間軸で捉えるといつかそれは創造の糧に結果論的になり得る、その意味における放蕩である、となる2023/09/12 19:13:23476.神も仏も名無しさんmeheh<私=今>において神を選ばなくてもいつか選ぶ、という解釈は、神が誰も持ち上げることが出来ない石を創造し、それを「創造した後」に、石を持ち上げることが何の矛盾も孕んでいないことと等しい神は、<神=今>において誰も持ち上げられない石を神は持ち上げることが出来る、という全能を発揮すればいいだけ、となる創造した時点で神が持ち上げられない石を創造したとしても、<神=今>により、その概念を吸収して上位の概念により持ち上げればいいだけ、となる2023/09/12 19:17:22477.神も仏も名無しさんmeheh結局は、神の全能に吸収されるように、結局は、神の創造、物語りに<今>により吸収されてしまう2023/09/12 19:18:03478.神も仏も名無しさんmehehこの神しかない世界で、神を選ばないことは運命論的な意味では「出来ない」となりやしないか?2023/09/12 19:18:33479.神も仏も名無しさんKXn80セイントの体験コースが一番手っ取り早いのでは?😄よーわからんけど😄2023/09/12 20:31:10480.神も仏も名無しさんCex1yキリスト教神秘主義は行体系が開示されていないから、やるなら他の神秘主義かなただ、行をこんつめではこの人生ではやらないかな他にやることがあるらしい2023/09/12 21:01:11481.神も仏も名無しさんKXn80カトリックでいう一応、ナントカ天使?の幻の現象をみたことがある😄2023/09/12 21:03:02482.神も仏も名無しさんKXn80鳩のよーな形をした光はナニ天使やろな〜?😄2023/09/12 21:04:07483.神も仏も名無しさんCex1yそうでつかカトリックならロヨラの霊操があるけど、個人的にアンチロヨラだからオススメはしないw2023/09/12 21:04:19484.神も仏も名無しさんCex1y鳩は聖霊の象徴だけどどうなんだろね2023/09/12 21:05:40485.神も仏も名無しさんKXn80普通のカトリックのミサに行った後で起きた、脱魂しそうになるのを抵抗してたら、天は開かないが、お家の蛍光灯が〜😄2023/09/12 21:05:58486.神も仏も名無しさんKXn80脱魂は俺のスピリットに反するので拒絶した😄2023/09/12 21:07:19487.神も仏も名無しさんKXn80ユダヤのメノラーの逆さまにした形で、蛍光灯から広がるって寝転がっている俺に降ってきた〜😄2023/09/12 21:08:44488.神も仏も名無しさんKXn802005年のクリスマス前の時期やった〜カトリックのミサに一度出た見たかった😄2023/09/12 21:10:09489.神も仏も名無しさんKXn802004年11月末に日本基督教団の教会行ったので2004年ではないと思う😄2023/09/12 21:11:41490.神も仏も名無しさんCex1y美しい景色ですな😆2023/09/12 21:13:52491.神も仏も名無しさんKXn80クリスチャンになりそうだったので、カトリックのミサはそれ以来行っていない、教会堂には平日入りやすいカトリック会堂があったので何度もいったけど〜😄2023/09/12 21:17:22492.神も仏も名無しさんKXn80平日カトリック会堂に入るとやはり、プロテスタントとは違う圧倒的なパワーがある、ま、プロテスタントでは、パワーというか好みではホーリネス系統とアッセンブリーぐらいは霊感が好みなのでパワフルには感じるけどな〜😄2023/09/12 21:18:57493.神も仏も名無しさんKXn80プロテスタントではメソジスト、ホーリネス系統、アッセンブリーぐらいか〜好みの霊感は😄2023/09/12 21:19:43494.神も仏も名無しさんKXn80やはり、そのころはチベット密教が俺を呼んでいた〜😄2023/09/12 21:21:23495.神も仏も名無しさんKXn80夜の9時を越えるとこの動画のリターンを繰り返す落としたのをパソコンで😄闇のテーマが潜んでいる映画らしい〜https://m.youtube.com/watch?v=R2fFPNIBavE&list=WL&index=39&pp=gAQBiAQB2023/09/12 21:24:09496.神も仏も名無しさんKXn80孤独か?愛か?みたいなテーマ曲だビミョーな暗さが潜んでいるハマるのが長い😄2023/09/12 21:25:35497.神も仏も名無しさんfqDyhいろんなものに興味あるんすねえぇことだ😎2023/09/12 22:05:24498.神も仏も名無しさんpzBXi>>478の続き仮にこの世界が神の創造で出来ており、その物語に吸収される運命にあったとしてもその世界の開闢である実存の世界にあって、ただ在るだけでなく、物語りを持つなら、それは本質に分類され、そしてその本質には目的も含まれており、その目的が神の創造なら、つまり個の完成なら、それは「信じられたもの」でなければならない創造が真であるか偽であるか、それは被造物には本当のところは分かりようがないが、本質が<私>において明日、その全てが別のものに変わったとしても、少なくとも<私>の本質において、その人生の目的が個の完成と信じるなら、それは<私>が唯一の世界の開闢であることから、<今>において唯一の物語りとなる<私>の本質において、信じる以外に道はない2023/09/12 22:46:11499.神も仏も名無しさんpzBXi残念ながら、創造は「万人にとっての強固な足場」とは原理的にならない信じるが故、<私>にとって強固な足場とはなり得るし、その足場は様々な生成される物語りを経てさらに強固になる過程もあるだろうしかし、それは<私>において言えるだけで、他者には適応出来ない信じるものしか創造は真ではないため、信じるものしか救われない仮に神の創造が真で、全ては創造に運命論的に吸収されることも真で、それはつまり他者にも適応し得ることだったとしても、確実に言えることは、創造は信じるものしか強固な足場とはなり得ない「あなた無しにあなたを造った神はあなた無しにあなたを救わない」2023/09/12 22:50:27500.神も仏も名無しさんpzBXiキリスト者は存在の解体の中で消えてなくなることと真逆を志向し、物語りと同化するそして哲学者や理論家のようにメタに仕組みを言語によって語ることより、愛において行動する指向性がある存在性の梯子があり、山の上で、森の中で、行動せず、語らず、梯子を登るより、創造を前に、愛において行動する指向性がある俗世的で政治としばしば癒着し、腐敗の温床になる側面もあるが、聖霊に満たされ、ダイナミックに世界に働きかける力がある2023/09/12 22:58:24501.神も仏も名無しさんvrfrZキリスト教は受肉の一回性を強調するキリストに対しても人に対してもファーストテイク的な緊張感で物語り(人生)と同化するただ、その人生は創造に参画する人生であり、創造に参画する意味において同化するそれは私の十字架という単語で語られている2023/09/12 23:52:53502.神も仏も名無しさんvrfrZこのキリスト教のスタンスと原始仏教のスタンスは異なるように見受けられる仏教側からしてみたら物語りとの同化はまさに幻想の世界に生きていることを意味するからでも、キリスト教は幻想の世界で創造には参画するわけだから何にも問題がないそれは、衆生を救うために、あえて輪廻する菩薩と同じ構造だと言える2023/09/12 23:55:09503.神も仏も名無しさんvrfrZ創造の原動力は「信仰」であることな言うまでもないが、もう一つの側面は愛と慈悲だ2023/09/12 23:58:31504.神も仏も名無しさんNWXMIこれらは本質に分類され、本質は運命論に絡め取られると言う意味で、不自由と言える一方で実存、<私=今>は世界の開闢であり、端的なその事実により、何にも強いられることがなく自由だこの実存と本質が出会うところに物語りが生成され、自由意思を持つ実存の運命、つまり私の十字架、または悲劇が再生される実存は本質に先立つため、その物語りは運命論的な悲劇、または喜劇かもしれないが、予定説と異なり、自由意志(の原理)によってなされる自由意志は実存と本質が交わるところで生じる生成の中で生起する2023/09/13 09:55:48505.神も仏も名無しさんNWXMI神は神に持ち上げられない石を創造することができ、また<今>において、それを無限に乗り越えることが出来る全能たる所以は実存と本質とそれが交わるところの生成にある2023/09/13 10:01:11506.神も仏も名無しさんNWXMI可能態と現実態の運動の中に創造がある実存において、時間が凍りついた世界の表現だと全ての瞬間は完成されている時間内の世界では<今>において本質は永遠に乗り越えられる人間の神の似姿の部分は霊であり、霊は<私=今>の原理を生じさせている人間は実存において神と悪魔と等しく、本質において異なる生成により、永遠に本質は乗り越えられ、キリストに似たものになる運動を永遠に続ける自由意志において2023/09/13 10:05:26507.神も仏も名無しさんNWXMI神という概念が内包する概念により、その似姿として創造された人間は、個の完成に向けて永遠に運動する創造を信じなくても、神という概念が世界に存在し、その定義された全知全能の概念により、全ての人類は個の完成に向けて永遠に運動する2023/09/13 10:11:56508.神も仏も名無しさんNWXMI神という概念がなぜか世界に存在する限り、そして人間が神の似姿として創造されたという概念を受け入れる限り、または、存在の梯子の概念があり、それが神と地続きで繋がっている概念を受け入れる限り、その全ての人間は個の完成の物語りから運命論的に逃れることが出来ない2023/09/13 10:14:32509.神も仏も名無しさんNWXMIニーチェはこの創造の要請により、目的を、神を擬似的に捨てた個を完成させるために、本質を乗り越えるために取り敢えずやってみた、放蕩したしかし、捨てることにより、より神の栄光を増したジャータカの時間軸で、ニーチェはより一層存在性の梯子を登った後の人は<今>において、目的を捨てたことを乗り越えなければならない神の概念はなぜか存在し、これからも存在する限り、目的を捨てることは思考実験上でしか出来ない2023/09/13 10:22:48510.神も仏も名無しさんNWXMI神の概念がある限り、完全の概念がある限り人間はそれから逃れることは運命論的に出来ない2023/09/13 10:23:35511.神も仏も名無しさんLYxhqこれで創造と物語りの唯一性については神と人の側面で一定整理できたからこのテーマは終わりにしとこう2023/09/13 17:17:15512.神も仏も名無しさんOHCx8次のテーマは愛にしよう今の自分が思考する限り、自分にとって何か新しいものを生成するようなものでなければならない実存と本質のフレームワークでそれを考察できるか否か<私>を「私」にする構造自体の中に深い愛が宿っているそれは自分に言語化できるものではないと思うが求めれば与えられるだろう愛との対峙なくして創造の理解なしそれは自明なことだからやらねばならぬが始まりの糸口が見えない2023/09/14 00:54:56513.神も仏も名無しさんOHCx8既に所有してるもので語ることは出来るが新しい地平から語り始めることはまだ出来ないな気が向いたら書こう発酵には時間がかかる2023/09/14 00:58:48514.神も仏も名無しさんsepqA仕事日は金曜日夜過ぎるまで余力無し、脳はシンプル化〜😄2023/09/14 10:18:29515.神も仏も名無しさんYd9oEシンプルなのが一番やで2023/09/14 13:54:04516.神も仏も名無しさんQQzk6<私>は先天的に私から世界が開けていることを受け入れているそして、他者に対しては、後天的に他者も<私>と同様の在り方をしているに違いない、と学ぶ他者に<<私>>を贈り与える2023/09/16 01:01:22517.神も仏も名無しさんQQzk6後天的に贈り与えるものに愛が先天的に内在していると直感している存在がアプリオリに肯定されている<私>から始まっているからだこれは、駆け引きや他者比較や勝ち負けの原理に入る前の状態で、自身が気付かないくらい、空気のように愛している状態と言い得る端的に存在は肯定されている2023/09/16 01:03:50518.神も仏も名無しさんQQzk6<私>の自身に対する存在の端的な肯定は、神の概念を踏まえると、創造に端を発するアウグスティヌスの愛の定義では、アガペーにあたる2023/09/16 01:05:13519.神も仏も名無しさんQQzk6<私>の神への愛はエロース、つまり享受すべき愛だが<私>から隣人に移る愛はアガペー、つまり「使用すべき愛」とされる2023/09/16 01:07:01520.神も仏も名無しさんQQzk6これは、端的に、<私>の世界の開闢である存在が、一切意識されないほど、無私の中の無私なほど、前提にされるぐらい肯定されることに起因するそして、世界の開闢であるからこそ知覚できないその愛、<私>の存在の端的な全肯定は、神に端を発し、それはアガペーと呼ばれる私は<私>における端的なアガペーを他者である<<私>>に贈り与える神のアガペーを隣人に「流す」2023/09/16 01:09:24521.神も仏も名無しさんQQzk6渋谷のスクランブル交差点で多くの人とすれ違う彼らに私のアガペーは使用されない美女がいたら、エロースは働くかもしれないアガペーを使用するには、<<私>>を贈り与えるには、条件がある2023/09/16 01:10:55522.神も仏も名無しさんQQzk6その条件は個人史だそんな大それたものでなくとも、豊かな本質の表象が必要である親子や兄弟、人生の物語を通じて、長い時間、変化を共にし、その変化を知覚する豊かな表象があるから、<<私>>を贈り与えるに足る条件を備えている2023/09/16 01:12:45523.神も仏も名無しさんQQzk6これは、人間だけでなく、しばしば愛玩動物にも適用される誰でも良いあれ、あの人、ではなく、特別な識別子(<<>>)をもったあれ、あの人2023/09/16 01:13:55524.神も仏も名無しさんQQzk6そこには<私>の観察の「記憶の集積」、つまり本質に分類されるものが絶対条件で必要であり、本質の集積により、逆向きに<私>の刻印を贈り与える2023/09/16 01:15:12525.神も仏も名無しさんQQzk6愛が送り与えられる条件、表記法として<<>>で括られる存在は、<私>の特定対象における本質の豊かさに起因する2023/09/16 01:18:36526.神も仏も名無しさんQQzk6本質(の豊かさ)は独在を<私>以外に適応する時、最も重要なパラメーターである2023/09/16 01:19:49527.神も仏も名無しさんQQzk6人の世界は<私>と同じように他者にも<<私>>が在る、という客観的な世界像からなりたつしかし、客観的な世界像が成り立つ時、他者における<<私>>は早晩、その性質を失っている私はスクランブル交差点を歩く時、客観的な世界像の中にはいるが、交差点を歩む人に<<私>>は認めていない2023/09/16 01:22:25528.神も仏も名無しさんQQzk6ここから、私の世界像をなりたたせるための<<私>>やそこから生まれる世界の客観性、持続性のレイヤーと親子や兄弟姉妹における<<私>>のレイヤーは異なることが分かる2023/09/16 01:23:47529.神も仏も名無しさんQQzk6あくまでも<<私>>を生起させる現象は、特定の個人を指している使用すべき愛は常に特定個人を対象になされるアガペーに満たされるまで、満たされている時、以外は2023/09/16 01:25:11530.神も仏も名無しさんQQzk6大事なことなので横道に一旦それて、創造における愛に対して決定的に重要なことを挟んでおく神は悪を、栄光を増すために使役することができる創造を前にすると、生成において、全てが「善」となるそれは、神が神が持ち上げられない石を創造しても、<今>において持ち上げられることと同様に、放蕩息子が、放蕩したからこそ、兄には得ることが出来ない贈り物を与えられたことと同様に全ての悪は創造を前にすると、善となる善も悪も、存在は、全て創造の時点から端的に「肯定」されている2023/09/16 01:32:54531.神も仏も名無しさんQQzk6創造を前にすると、すべては完成への途上であり、そこに善と悪は必要不可説であるだから全ての存在は存在する限り、掛け値なしで肯定されるどんな悪党も、どんな善人も、存在するだけで肯定されている存在の背後には、アガペーがある2023/09/16 01:34:29532.神も仏も名無しさんQQzk6これは、独在の現象の中に掛け値なしの肯定が内包されており掛け値なしの他者に対する肯定とは、アガペー、愛、慈悲であるその理由は創造を前にしているから、とキリスト教の内在的論理ではなる2023/09/16 01:36:50533.神も仏も名無しさんQQzk6この前提にたって、この前提の愛とはどんなものであるのか?をもう少し噛み砕く必要があるこの前提は一般論であり、<私>の人生における生成において、まだ何の意味も持ってない2023/09/16 01:38:17534.神も仏も名無しさんQQzk6ニーチェはツァラトゥストラで、<私>の端的な肯定を永遠に続く、同じ本質を持った同じストーリーに、同じ苦に、その物語りに、世界に、端的な肯定を行うことで、人の実存の苦しみを乗り越えようとした2023/09/16 01:45:33535.神も仏も名無しさんQQzk6これは、世界の、物語りの、地獄の、絶対的な肯定であり、端的に存在するものは全て肯定される、という境地の閃きを物語りで表現した2023/09/16 01:46:44536.神も仏も名無しさんQQzk6それは、創造への、個の完成への、悲劇への彼なりの回答であるが、全て共感しきれないのは、「創造と個の完成」の生成を欠いた概念だからだ2023/09/16 01:48:24537.神も仏も名無しさんQQzk6そもそも「乗り越えよう」という彼の姿勢の中に、既に生成が織り込まれており、永遠にリピートする現象とは違う論理から描かれている2023/09/16 01:49:18538.神も仏も名無しさんQQzk6思考実験の枠を出ず、その思考実験は始まりから矛盾を抱えている2023/09/16 01:49:56539.神も仏も名無しさんQQzk6彼のジャータカへの、この世界への全肯定の愛は、それが愛せないところに端を発している2023/09/16 01:51:08540.神も仏も名無しさんQQzk6神を捨てても捨てきれない、個の完成への意思の帰結だから当たり前とは言える2023/09/16 01:52:18541.神も仏も名無しさんQQzk6しかし、存在とその背後に通底する個の完成への愛は本物だと共感する2023/09/16 01:53:09542.神も仏も名無しさんQQzk6もう一歩歩みを進める時に、永劫回帰ではなく、どうしたら<私>は世界を全肯定できるのか、背後にある創造を一旦エポケーして、世界の全肯定はどのようにしたら可能になるのか、と問わなければならない永劫回帰の肯定ではなく、端的にどのように世界を掛け値なしで肯定するのか?2023/09/16 01:56:06543.神も仏も名無しさんQQzk6端的に在る<私>が掛け値なしの肯定で出来ていることは自明だが、それを世界側に適応することで生成される客観的な世界、そして、その客観的な世界の中で特別な識別子を持つ存在への掛け値なしの肯定この原理についてもう少しだけ解像度が上がらないと、愛で出来ている創造の解像度は上がらない2023/09/16 01:58:07544.神も仏も名無しさんQQzk6横道の話はここまで本筋に戻ろう2023/09/16 01:58:58545.神も仏も名無しさんv73XS>>529の続き<私>が特定他者に<<私>>を贈り与える時、何を贈り与えているのだろうか?2023/09/17 00:06:41546.神も仏も名無しさんv73XSそれは、自身では意識さえしていない端的に世界の開闢である<私>と同様の存在の在り方だ2023/09/17 00:07:59547.神も仏も名無しさんv73XS意識していないものを贈り与えているのだから、自分では何を贈り与えているのか気付くことはないそれが存在における掛け値なしの肯定であろうが、それに気付くことがない特定他者が「生きている時」は恨んでいたが、失った初めてその損失の大きさに気付く、なんてことはしばしば耳にする掛け値なしに存在を肯定していた対象を失ってしまったことの意味が喪失感として現れる2023/09/17 00:10:52548.神も仏も名無しさんv73XS無私の愛、といった言葉がある手垢にまみれている概念で、欺瞞や虚偽を感じさせる単語しかし、他者に<<私>>を贈り与える時、それは自然に意識されず、起こっているそれは、私の存在の端的な肯定がそのまま適応されるから何の努力も、何の無理も必要とされず、必要十分な表象さえ他者から得られると、自身が全く意識しないで<私>であるのと同じ構造で、他者に<<私>>が贈り与えられてしまう2023/09/17 00:17:14549.神も仏も名無しさんv73XS神のアガペーはこの<私>を成り立たせているその端的な事実により、何も意識されることなく、世界に広がる何も意識されないから誰もその事実に気付くことはないが、アガペーのやりとりは全ての人間が全く自然に、息を吸って吐くように行われている2023/09/17 00:18:52550.神も仏も名無しさんv73XSこれは驚くべき事実だ2023/09/17 00:19:05551.神も仏も名無しさんv73XSもう少し明確な表現を残しておくと<私>が「さとる」という特定人物の豊かな表象を得て、特別な識別子である<<さとる=私>>を贈り与える時、本質である人物のゆたかな表象を全肯定しているわけではないまた、その豊かな表象の主体である「さとる」の存在を全肯定しているわけでもない<<さとる=私>>が実存していることを全肯定している世界の開闢としての存在として、意識することなく、つまり、自分と同じ在り方をしていること、そのことだけを全肯定している2023/09/17 00:23:30552.神も仏も名無しさんv73XSここから気付くことは、神は創造の前に全ての存在を全肯定しているが、<私>はそうではなく、特定の人物「だけしか」肯定出来ない、ということ<< >>の表記法で括られる何かは、「贈り与えられなければならない」2023/09/17 00:25:48553.神も仏も名無しさんv73XS贈り与えがあって、「その経験から」客観的な世界が成立する本当なのだろうか?2023/09/17 00:26:43554.神も仏も名無しさんv73XS現象学の個的直感、本質直感、他我、こういうものは実存とその贈り与えの系とは違う気がする2023/09/17 00:44:30555.神も仏も名無しさんv73XS何が違うのか?2023/09/17 00:44:55556.神も仏も名無しさんv73XS客観的な世界は言語が作る言語とは世界像であり、かつ自己の考えや感情などを他者と共有する道具でもある二重の機能を持つ2023/09/17 01:10:56557.神も仏も名無しさんv73XS現象学は直感、つまり<私=今>にそのまま立ち現れるものから、世界の成り立ちを探究する道だが、その直感は結局は言語=世界像に結びつけられ、実存における直感的な現れの中の実存を消し去っているところに誤謬がある2023/09/17 01:14:21558.神も仏も名無しさんv73XS世界像や言語は、実存との断裂があり、それは橋をかけられる類のものではない2023/09/17 01:16:24559.神も仏も名無しさんv73XS実存と本質は構造的に直接的な関係性はない2023/09/17 01:17:40560.神も仏も名無しさんv73XS結局のところ、スクランブル交差点を歩く人々は<<私>>ではなく、スクランブル交差点という単語の中に織り込まれている一つの要素でしかない2023/09/17 01:19:52561.神も仏も名無しさんv73XS客観的な世界は言語であり、世界像であり、素朴に信じられているだけのもの以上の意味は引き出せそうもない2023/09/17 01:20:52562.神も仏も名無しさんv73XSその世界像は、その世界像を素朴に信じる「私」、という本質を備え、かつその本質を備えた人物がなぜか<私>である、という意味でのみ関係はあるが、<私>がスクランブル交差点という概念に織り込まれた全ての要素を受け入れてようが、ランブルボール交差点という概念を受け入れてようが、実存する<私>からしてみたらどちらでもいい明日起きたら毒虫になっていたとしても<私>にはなんら影響がないのと同じ話し2023/09/17 01:25:14563.神も仏も名無しさんv73XS愛や慈悲を考える時に、世界像や客観的な世界について考える必要はない世界像の中に、「人間」や「他者」や「さとるくん」という「愛の対象」があったとしても、それ自体は他の記号と変わらないその世界像の中に「さとるくん」と「げだつちゃん」の愛や慈悲の物語りがあったとしても同様あくまでも使用すべき愛は実存において、実存の贈り渡しにおいてのみ生起し、それ以外の一切は、すくなくとも、アガペーとは異なる次元にある2023/09/17 01:31:00564.神も仏も名無しさんv73XSなぜなら、この世において、使用すべき愛は、実存の端的な肯定以外に見出せないから2023/09/17 01:31:44565.神も仏も名無しさんv73XSアウグスティヌスは愛を・神への愛 ・自己への愛 ・隣人への愛 ・身体への愛 の4つの種類にわける そしてそれらを ・享受すべきもの ・使用すべきもの の2つの篩にかける そして「享受すべきもの」は神への愛だけであると結論づける 2023/09/17 01:34:28566.神も仏も名無しさんv73XS神への愛以外、つまり自己、隣人、身体への愛を「享受すべきもの」とすると欲に繋がる倫理的な意味で、あるべき姿としての定義2023/09/17 01:36:21567.神も仏も名無しさんv73XS人類はあくまでも神において秩序づけられており、愛の分類においても享受が「唯一」ゆるされる、その対象への愛自体が目的となるのは神への愛のみで、隣人への愛は使用すべきもの、つまり享楽の対象にはしてはしてはいけない、という論理2023/09/17 01:45:35568.神も仏も名無しさんv73XS自己と隣人と(自己と隣人の)身体は神の前にあって等しく、従って、自身を愛(使用)するように隣人を愛(使用)せよ、神のために、なぜなら神を愛(享受)しているから、となる2023/09/17 01:47:56569.神も仏も名無しさんv73XSこの神を前にした愛の秩序づけに、<私>の端的な肯定、の概念を混ぜてみる2023/09/17 01:48:56570.神も仏も名無しさんv73XS<私>という存在は、そういった在り方の主体として唯一無二であり、他に存在することはなぜかあり得ない創造を前にした時に、創造を目的とした時に、この<私>の在り方は神の創造の奇跡の一つであり、創造実現のための「手段」でもある2023/09/17 01:56:13571.神も仏も名無しさんv73XS<私>の目的は創造を前にした時に、キリストに似た者になること、個を完成させること、であるその意味で神への愛は享受すべきもの、(創造の)目的である2023/09/17 01:57:42572.神も仏も名無しさんv73XSそれをなりたたせる<私>は独在という単語で表される<私>であることは、端的な事実で、意識に上ることがないほど自明なことであるそれは、意識に上ることはないが、先天的な存在の全肯定であり、その全肯定はそういう存在として創造した神の愛(アガペー)に端を発する聖なるものだ2023/09/17 02:00:45573.神も仏も名無しさんv73XS<私>は自分の実存を意識せずに全肯定しているそして、この全肯定を全人類には向けられないがよく知った、時間を共にした、隣人に向けることが出来る2023/09/17 02:02:02574.神も仏も名無しさんv73XS<私>が世界の開闢であるのと同様に、さとるくんも<<私>>であるに違いない私はあなたの実存を全肯定するこういった作業が意識に登らず、何の労力もなしに、日常で行われている自身を愛するように隣人を愛している2023/09/17 02:04:06575.神も仏も名無しさんv73XS我々は神の前にあって平等で、実存にあって創造に参画している<私>がさとるくんに<<私>>を贈り与えることにより、神の前にあって<私>と<<さとるくん=私>>が平等で在ることを示す、神の栄光を増す2023/09/17 02:05:54576.神も仏も名無しさんv73XS<私>が手段であることと同様に、<<さとるくん=私>>は手段であるそして、それが可能になるのは実存の全肯定、アガペーにより、実現する2023/09/17 02:07:55577.神も仏も名無しさんv73XSアウグスティヌスは神は究極の目的であるから、究極の目的以外は、それに仕える手段となる神の手段として自己と隣人を捉えよ、という意味ではなく究極の目的以外は端的にその手段である、という意味で享受と使用を使っているが、神の概念が所与のものとしてあるので、それを取り払った場合はどうなるか2023/09/17 02:14:45578.神も仏も名無しさんv73XSこの目的と手段の構造はカントの倫理学の中で現れるカントなので神の概念は取り払われている2023/09/17 02:15:52579.神も仏も名無しさんU8mpnすまんね、仏教研究がおもろすぎて〜みやげ、リンク主から沢山学べた😄https://m.youtube.com/watch?v=vu9moDsx7aM2023/09/17 21:32:41580.神も仏も名無しさんU8mpn俺はキリスト教、スーフィズムをこの方向性でみるかも〜という衝撃を受けた😄2023/09/17 21:33:36581.神も仏も名無しさんv73XS仏教研究でつかそれはなによりだ〜😆2023/09/17 22:27:13582.神も仏も名無しさんv73XS>>578の続きカントは理性を理論理性と実践理性にわけ理論理性は目的ではなく、常に手段となる、と語るなぜなら、彼は理論理性は判断を下す力である悟性の働きで、それは因果関係で自然を捉えるものと語り、それは原因と結果の連続を捉えると等しく、それ自体に立脚していないからだ常に因果に、縁起に絡め取られる実存と本質の話で言うと、本質側に属するのが理論理性2023/09/17 22:32:30583.神も仏も名無しさんv73XS一方で実践理性は手段ではなく目的となる実践理性は理論理性が世界像、因果の法、つまり経験によらずに真であることに対し、経験に属するものであると語るさらに経験に属するものの中で、普遍的な道徳に沿っているものを「純粋」実践理性であると語る道徳云々は、欲望に満たされた意思は他者の自由を侵害するため、普遍的とは言えない道徳に満たされたそれは自己の自由を増し、さらに他者の自由を阻害しない、そういった道徳に満たされた実践理性は純粋実践理性と言い得る2023/09/17 23:18:38584.神も仏も名無しさんv73XS実践理性は自由に立脚している実践理性は道徳法を「自殺しない、偽りの約束をしない、自分の才能を伸ばす、他人に親切にする」の四つにまとめ、それを格率と呼んでいる2023/09/17 23:20:58585.神も仏も名無しさんv73XSその格率に沿って生きることが自己を尊重し、他者を尊重することになるこの自己の尊重と他者の尊重が矛盾しない中に倫理のあるべき姿、第一原因を見て、それが普遍的であることから、目的である、と語っている2023/09/17 23:22:53586.神も仏も名無しさんv73XSそして、格率によって生きることは「苦難が伴う」良い人は損をするそれが分かっていても格率に沿って生きるからこそ、人は自由であり得るし、それが人間が自由たる所以でもある2023/09/17 23:24:38587.神も仏も名無しさんv73XS自由であるが故、因果に絡め取られず、それ自体にそれ自体の目的があるからこそ個の尊厳、ならびにその尊重は目的であると語る目的は第一なので、それ以外の、そのための因果関係は手段となる実践理性は目的であり、理論理性は手段である実践理性は享受すべきもので、理論理性は使用すべきものである2023/09/17 23:26:28588.神も仏も名無しさんv73XS神を(ある程度)排除したカントの享受と使用は、目的に個の尊厳があり、それ以外の手段は格率に適合する意味で手段たり得る2023/09/17 23:27:25589.神も仏も名無しさんv73XSこの個の尊厳とは、キリスト教と永井均の独在と照合わせると、神が自分に似せて創造した=世界の開闢であるこの比類なき<私>=個の尊厳、となる2023/09/17 23:28:44590.神も仏も名無しさんv73XSそして、この<私>は前述の通り、他者に<<私>>を贈り与える性質を持つが故、格率と親和しており、日常の中でアガペーを贈り渡している全く意識せずに自然に2023/09/17 23:30:18591.神も仏も名無しさんv73XS創造において、人類が知覚し得るアガペー、愛は、この存在の端的な全肯定以上のものがあり得るのだろうか?2023/09/17 23:31:37592.神も仏も名無しさんv73XSこの世の一切は仮言命法的で、「◯◯であるなら、愛せ」とか、「◯◯ででないなら、愛さない」とか、そういった本質に根拠をおいた態度が常なのではないか2023/09/17 23:32:56593.神も仏も名無しさんv73XS実存の形式のように、「私はあなたを愛す、だからあなたは存在する」のような、存在そのものが愛によって成り立っている、全ての存在はイコールで愛に結び付けられるような在り方をしている愛はこの世に存在し得ない2023/09/17 23:34:19594.神も仏も名無しさんv73XSアウグスティヌスによって秩序付けられた愛も、カントによって定義された(義務)倫理学も、アガペーにより成り立っている前者は神において成り立つが、後者は実践的に神なしで成り立つ愛である2023/09/17 23:36:14595.神も仏も名無しさんv73XS愛により倫理が生まれていることは驚くべきことだが、そう捉えた途端に、そうだよね、という当たり前に腑に落ちることでもある2023/09/17 23:37:04596.神も仏も名無しさんv73XSそして、「私」は神から受け取ったアガペー=存在の全肯定を忘れ、放蕩し、それを先天的に他者に贈り与えていることも忘れているつまり、<私>を生きている人だけが、意識的に他者に<<私>>を贈り与えることができる2023/09/17 23:38:42597.神も仏も名無しさんv73XS私の十字架、という物語りは、<私>の十字架、という他者に<<私>>を贈り渡し、かつ創造を前に進める、という物語りである2023/09/17 23:40:18598.神も仏も名無しさんv73XSその物語りは実存において本質が全くの関係ないが、<今>における生成において、新たに作られる物語りの中でアガペーを隣人に贈り与え、<個>と<<個>>の完成を、共に歩む、という物語りであり、仮にそれが幻想(本質)だったとしても、実存においてそれだけがリアルである、という根拠において、誰にも何も言わせない2023/09/17 23:43:02599.神も仏も名無しさんv73XS誰も何も「言えない」という構造なのだから仕方がないなんちゃって仏教徒の無我のくだらない物語りがくだらない根拠はここにある2023/09/17 23:43:50600.神も仏も名無しさんv73XSそもそも、彼らは勝ち負けの世界で実存(無我)を語るしか出来ない、哀れで惨めな人々さらに解脱を目的としている人に対しては、その世界観こそが勝ち負けの世界から離れられていないことの証拠である、といっても意味が理解できないだろう2023/09/17 23:45:17601.神も仏も名無しさんv73XS生老病死、それ自体に何の意味もない単なる現象で、本質に分類されるそれが「苦」である、という価値観は仏陀が「衆生がそうであるから」語っているだけに過ぎず仏陀は森の中で一人で静かに解脱することも出来たが、あえてそうせず、語り得ない事柄を衆生に語る道を歩んだ2023/09/17 23:47:48602.神も仏も名無しさんv73XS仏陀に倣わない仏教徒だけだ、森の中の孤独の中で解脱を目指すそれが魔境を生むのは必然で、その理由は勝ち負けの世界でテクニックで行やその結果の体験を積むからだ2023/09/17 23:48:53603.神も仏も名無しさんv73XS正道と邪道の境目は、<私>から<<私>>に愛、慈悲で広がるから<私>の孤独の中で道を踏み外すか、となる2023/09/17 23:50:09604.神も仏も名無しさんv73XS大乗やキリスト教は「大道」、つまり衆生の救済を望むからそれぞれの宗教の本質において劣化せざるを得ない運命にあるが、だからといって、それが小乗、キリスト教神秘主義に「劣っている」とはならないこの「劣っている」という概念こそ、勝ち負けの修羅道から生まれる概念であり、この中で行を何十年、何百年、何千年と続けても、悟るとはないむしろ、その世界観の中で行を続け、放蕩することは、そこには何もないことを悟るためにある2023/09/17 23:52:50605.神も仏も名無しさんv73XSむしろ、修羅道や俗世の価値観で行を歩むと、世俗の価値観、勝ち負けを行により強化してしまうその強化により、とんでもない痛手を被り、俗世の奴隷であるより、天の父の奴隷で在ることの方がよっぽどマシだ、と父への帰還を意思するようになる2023/09/17 23:55:01606.神も仏も名無しさんv73XSこれを、放蕩も学びだ、という美談には私はもうしない放蕩は苦しい、辛い、痛い、いいことなんて何もないボロボロになり父への帰還すら意思できなくなる永遠の苦のループの中で永遠に止まり続けることになる2023/09/17 23:56:23607.神も仏も名無しさんv73XSこの状態を作ったのは「誰か?」は語る必要はない自分のせいでもあるし、人類のせいでもある2023/09/17 23:57:20608.神も仏も名無しさんv73XS自分のせいなんだから自分で父への帰還を意思しろ、といいたくなるし、いう人の気持ちもわかるが彼は<今>において足が「切断」されている歩きたくても歩けないそれが「自身のせいにせよ、人類のせいにせよ」、歩けないのが実存における事実であることは間違いない2023/09/17 23:58:53609.神も仏も名無しさんv73XSそうなると、「最後の時まで共にある」以外に何か出来ることがあるのだろうか?2023/09/17 23:59:25610.神も仏も名無しさんhQYhI創造は「神への愛、隣人への愛」がないと実現は不可能だ2023/09/18 00:00:04611.神も仏も名無しさんhQYhI正しい動機を持って、自分と隣人のために行動すること、し続けることそれだけでいいこの意味で、カトリックは「今のままでいい」2023/09/18 00:02:59612.神も仏も名無しさんhQYhIやはり、創造における愛については、こんなことぐらいしか書けなかった殆ど発見はなかったし、その事実からさらなる発酵が求められてる時間の力を使うしかありませんな😩2023/09/18 00:10:12613.神も仏も名無しさんhQYhIやはり、連続性、つまり行とその理解を深めないと、これ以上先には進めない2023/09/18 00:11:38614.神も仏も名無しさんrC63Xジャータカは仏陀に中心化されている仏陀の<私>があってこそ、意味を持つ放蕩息子が放蕩だけで終わる物語はあり得るそれは、放蕩息子の<私>において、辛く、悲しく、苦しい人生そのものであるはずだ2023/09/19 02:34:53615.神も仏も名無しさんrC63X永劫回帰のように、生老病死を肯定する必要がどこにあるのだろうそれは、キリスト教を、神秘主義を、個の完成を、所与のものとしている人物の発想そのものなのではないか?2023/09/19 02:36:38616.神も仏も名無しさんrC63Xカフカのように、生老病死を味わい、極めて個人的な態度で、それを生き切り、絶望し、絶望して、絶望する、そんな生き方は意味がないのか?2023/09/19 02:37:41617.神も仏も名無しさんrC63Xニーチェは弱く、カフカのように生きれなかったとある意味で言い得るそれは、弱さ、とニーチェ的にはなるのだろうが、相対的に、それはニーチェが弱かったからだ、とも言い得る2023/09/19 02:38:38618.神も仏も名無しさんrC63X連続性、グローアップストーリーの呪いこの束縛から自由になった物語りの価値こそがこの現実、世界、人生とも言い得る2023/09/19 02:39:51619.神も仏も名無しさんrC63X修行というジャンプ的な世界観から離れて、本当の剥き出しの実存の中で生きる<私>をどう扱えばいいのか?2023/09/19 02:40:46620.神も仏も名無しさんrC63X神の概念が先天的にあるこの人生の中で、それでも、それ抜きで、連続性の呪縛から逃れ、生の本質を輝かせる時、それは一体どういうものなのか?2023/09/19 02:42:18621.神も仏も名無しさんrC63Xこれらを掴むためには、連続性、という概念ともう少し仲良くなる必要があるとっかかりはないがその必要性がある2023/09/19 02:43:04622.神も仏も名無しさんrC63X放蕩息子には足がないそれが切り取られている2023/09/19 02:43:38623.神も仏も名無しさんrC63X足がないものは、どう歩けばいいのか?2023/09/19 02:44:56624.イエス・キリスト◆Bcupf73v0.zJFi9乙武 洋匡に 聞くが良い2023/09/19 08:41:02625.神も仏も名無しさんrC63X道に入っているものは個の完成を目的として歩む道に入るまでは放蕩するが、そもそも放蕩しているから道に入ることが出来ない2023/09/19 19:31:24626.神も仏も名無しさんrC63X歩かないと何も始まらない、とか言われてもその歩く気力がどうしても持てない、頭ではそれが正しいことは分かるが、出来ない、どうしようもない、そんな状態にある人々の方が大半である2023/09/19 19:32:40627.神も仏も名無しさんrC63X苦は完成の糧と言われても苦の中にある人にとってはそんな余裕はない、それどころではないそういう状態のまま、人生を全うする人の方が多いこの創造の道を歩くことが「不可能な状態」にある人達はどうしたらいいのか?2023/09/19 19:34:36628.神も仏も名無しさんrC63Xジャータカの時間軸で、「後からそれはこのためにあったのか」とコネクティングドッツしたとしても、「その時点では何も出来ない」状態2023/09/19 19:35:47629.神も仏も名無しさんrC63Xニートに規則正しい生活、適度な運動を勧めても、それどころではないし、それが出来ないこれは言葉通り不可能であるほどの困難さ、越えることが出来ない壁として立ち現れる性格を変えないと、捉え方を変えないと、と個の完成の物語り、右肩上がりの世界観を所与のものとする一般人から見ると「だからダメなんだよ」となるが、身体的、精神的なダメージを受けている側からしてみると、そうじゃない、無理なんだ、出来ないんだ、となる2023/09/19 19:38:50630.神も仏も名無しさんrC63X彼らが、私達が個の完成の物語りを前に、大なり小なり「出来ない」とぶつかる時、それは出来ない連続性の中にあるからだ人生をリセットして、全ての記憶をなくして、まっさらな状態でゼロからスタートすれば、もしかしたら出来るかもしれないでも、連続性の中にある限り、そこには人生が生み出した慣性の法則、傾向性に支配され、なつ身体的な出来なさ、社会的な出来なさ、の前で身動きがとれなくなるこの身動きの取れなさ、のほうが個の完成の物語りを歩んでいるもののストーリーよりリアリティがあるみんな、大なり小なりそうだから2023/09/19 19:42:15631.神も仏も名無しさんrC63Xその傾向性に支配された状態を打破するには強い意志の力とそれが生む行動が必要になるしかし、肝心の意思が働かない、それが不可能な状態なのだから、意思を働かせろ、個の完成への糧にしろ、と外野が何をいっても、意味がない意思が働かず、身体は動かず、でも頭ではわかっているので、自己嫌悪は増すばかり罪の意識はますばかりさらに何も出来ない状態になる2023/09/19 19:45:03632.神も仏も名無しさんrC63Xこの、誰にとっても「当たり前の状態」を所与のものとして受け入れるときに、どうしたらいいのか連続性の中にある我々としてその突破口はどこにあるのか?それは、「行ではない」ことは明らかだ2023/09/19 19:46:23633.神も仏も名無しさんrC63X連続性を前にした時に、キリスト教の場合のわかりやすい概念は召命を思い出す狭義の意味での召命は司祭などの教会における役割を使命として与えられた状態だが、広義には洗礼、堅信を経たものが与る使命キリスト教では世俗の経済活動でもその背後に召命があり、その内容は利他的で愛が前提にあることが多い召命前、召命後でわかりやすい節を作った場合、これは社会における利他的な行いへの意志を持つ前なのか、持った後なのか、などと類比できる仏教の場合は慈悲を知る前、知った後などで類比できるだろう2023/09/19 20:31:38634.神も仏も名無しさんrC63X我々は召命前の状態であるものが大半で、そこまでどう持ち上げられるか、が連続性を踏まえた時の初めの越えなければならないハードルとなる2023/09/19 20:33:06635.神も仏も名無しさんrC63Xそして、連続性を前にした時に、召命まで辿り着けないと「ダメ」なのか?辿り着かなくても仕方がないじゃないか?と問わなければならない皆が右肩上がりの物語りを歩めるわけじゃない2023/09/19 20:34:59636.神も仏も名無しさんrC63X絶望の中にある時、その絶望が希望に変容しないと死に至る病におかされていると言えるキェルケゴールは信仰の道に入るとそれが癒されると言うかもしれないが、そもそもその救済の道に入る意思すら生じさせることが出来ない状態が普通なのだから、絶望したらそれから逃れることは出来ない、となるそうした時に、絶望する人は創造を前にした時に単なる落伍者となってしまうのか城の外に締め出されてそれで終わり、となるのか2023/09/19 20:54:12637.神も仏も名無しさんrC63X絶望するものは、絶えず、<今>において、全ての事象を絶望に結びつける、あらたに、持続的に絶望し続ける希望の一切を<今>において絶望で塗り潰し、過去の全ての体験、経験、本質の一切を絶望において統合する2023/09/19 20:59:21638.神も仏も名無しさんrC63X希望がないので、向上やその状態から脱する一才の能動的な行動は期待できない時間が癒してくれるまで待つ、とならざるを得ないかもしれないが、その発想自体が個の完成、希望を志向するため、それらの一切は排除するなぜなら、絶望「だけ」に満たされた人生は容易に想定し得るし、実際にこの世界で常に生じ続けている確信を持つから2023/09/19 21:01:48639.神も仏も名無しさんrC63Xこういった人生を創造を前に、どう受け止めるか絶望とは希望の一切がない身動きがとれない状態非常に不自由かつ無力の中にある2023/09/19 21:06:55640.神も仏も名無しさんrC63X<私=今>において生成されるのは常に○○によって強いられる△△で、それらがどんどん積み上がってゆく絶望が絶望を強化し、希望の光がさす余地が一切なくなるところまで積み上がってゆく2023/09/19 21:09:05641.神も仏も名無しさんrC63X実存は本質に影響を受けないので、希望を持とうが絶望しようが関係ないただ在るしかし、本質の側が創造の物語りを拒否し、その真逆を志向したもので塗りつぶされ続ける2023/09/19 21:10:46642.神も仏も名無しさんrC63Xただ在ることはそれだけで尊いし、神の似姿として尊厳の根拠であるが、本質側がそれと真逆に向かう運動を行い続けるためら実存側を絶望で覆い潰してしまうそれにより、実存はより輝きを逆向きに放つ2023/09/19 21:12:28643.神も仏も名無しさんrC63Xこの状態は創造を前にした時に個の完成という希望とは「逆向き」を志向しているただ、個の尊厳を持つから故、それが可能であると言う意味で、創造には仕えている2023/09/19 21:15:42644.神も仏も名無しさんrC63X創造の枠内で逆向きに走っている実存が個の世界の開闢である以上、創造の枠外なんて存在しないが2023/09/19 21:17:57645.神も仏も名無しさんkXLgYこういう創造におけるバグ、エラーを回避するためには、リセットしてゼロ地点に戻す処理が必要不可欠ではあるが、そうなるとそれらが在ることを所与のものとした仕組みであることから、絶望が深くなる生を神は許容している、むしろ積極的にそれを前提としている、ということは想像に難くない2023/09/19 21:42:37646.神も仏も名無しさんkXLgY仮にそうだとした時に、神がそのように実存と世界を創造したなら、個の完成が、全ての実存において「正しく」、その逆の指向性が「間違い」とどう言う意味で言えるのか?また、どう言う意味でその考えは機能するのか?2023/09/19 21:45:21647.神も仏も名無しさんrC63X神は創造において被造物を神に似せて作ったからこそ、全ての実存は尊厳があり、掛け値なしで尊いその掛け値なしで尊い存在は自由意志を持ち、善を行うことも悪を行うことも出来るここでいう善悪の善は神の属性であり、その不在が量に応じて悪となる掛け値なしに尊い実存は、尊いママ、善も悪も行うことができる人類の傾向性から悪を行う実存が割合として圧倒的に多く、それは不完全を意味するという点により悪いが、その悪の結果が「結果的」に善を増すものになる、神は悪を使役し、栄光を増すことが出来る2023/09/19 21:56:58648.神も仏も名無しさんrC63X従って、普遍的な善悪の定義により、我々は善悪は語ることができるが、仮に悪の行為を前にしたときも、それが結果的に善いか悪いか、は判断することが出来ないなぜなら、被造物は不完全であり、全を見通すことは出来ないから2023/09/19 21:57:58649.神も仏も名無しさんrC63Xしかし、創造を前に進めることに帰依する者だけは、「自身においては善悪の判断」を許されるなぜなら、善を増すためには不断の努力が必要不可欠だから2023/09/19 21:58:59650.神も仏も名無しさんrC63Xしかし、隣人、<<私>>の物語りは行為としては悪だが、実存の存在において、永遠に持続する<<今>>において、善悪は判断することは出来ない2023/09/19 22:00:09651.神も仏も名無しさんrC63Xしてはいけない2023/09/19 22:00:33652.神も仏も名無しさんrC63Xにも関わらず、絶望するものに、個の完成の物語りを強いる態度は、個の尊厳の否定の観点から、悪と言い得る2023/09/19 22:01:23653.神も仏も名無しさんrC63Xそれはつまり、絶望している<<私>>を前にすると、当人がどうしようもなく絶望し、どうしようもなく希望を見出せない場合、存在の根底にある愛を知覚しているが故、共に悲しむことしか出来ない2023/09/19 22:04:07654.神も仏も名無しさんrC63X善と悪の二元論、他の存在との比較の修羅の道の外にいる人間は、普遍的な事柄はよく知っているが、それをみだりに個に適用しないあなたの行為は間違っているとは言えるが、あなたの存在が間違っているとは言わないし、行為が間違っていたとしても、その改善への意志が生じることが不可能なのであれば、それを語ることもないだろう2023/09/19 22:06:22655.神も仏も名無しさんrC63X人の物語りは世界の文節化で出来ており、欲がそこに混じると、自分だけが得をする、つまり勝ち負けの世界を形成するそしてそれが常識という名の世界(観)を作り出し、その物語りの枠内でしか生きられなくなる2023/09/19 22:07:53656.神も仏も名無しさんrC63Xその枠内、世界観のママ、行を行うと、それを行えば自動的に受け取るものがあるが故、悪い動機のまま特殊な経験を積み重ねることになる存在性は修羅道のママなので、結果的に魔境に堕ちる2023/09/19 22:09:11657.神も仏も名無しさんrC63X自分さえ良ければいい、自分だけ解脱すればいい、特別な体験をして自分だけ特別になりたいこう言う一切は邪道に誘う2023/09/19 22:10:09658.神も仏も名無しさんrC63X一方で根本に愛や慈悲があり、隣人に開かれており、利他的なものを動機に行を進めるとその先にキリストや菩薩が待っている2023/09/19 22:11:03659.神も仏も名無しさんrC63Xこの世は絶望を量産する仕組みになっている従って、絶望の中で人生が終わる人は今後も存在し続けるその中で利他的に生きるものは、創造の、個の尊厳の前にあり、共に在る、しか究極は出来ない2023/09/19 22:12:29660.神も仏も名無しさんrC63X世界の開闢としての<私>が、同じ尊厳を隣人に贈り渡し、<<私>>と共に在るしか究極的には出来ない2023/09/19 22:13:39661.神も仏も名無しさんrC63X存在の連続性の中で原因が結果を生み、外部要因からいつか個の完成の道に入るという希望はあるが2023/09/19 22:14:19662.神も仏も名無しさんrC63X絶望する側としてはそんなの永遠に訪れない、と<今>において本気で欲するそれがこの世で、理とも言える2023/09/19 22:15:12663.神も仏も名無しさんrC63X奇跡が起きて、よき隣人と出会って、などなど言いたくなるし、そう信じているがそうならなくても、それでも信じるのか、と問われたら、そう回答するしかない2023/09/19 22:16:05664.神も仏も名無しさんrC63X愛するしか出来ないが究極の答えになってしまうその行動として、最後の時まで共に在る2023/09/19 22:16:49665.神も仏も名無しさんrC63X創造を進めると、私の十字架を生きると私は少しづつキリストに似る階段を登り、いずれ利他的にしか生きれなくなりその時、隣人の苦しみは<私>の苦しみになる2023/09/19 22:18:17666.神も仏も名無しさんrC63X私の苦しみになっても実存の私秘性により、<<私>>の痛みは分かることがないしかし他者として共に在ることが出来、共にあることしか出来ない2023/09/19 22:19:34667.神も仏も名無しさんrC63X創造における永劫回帰は、世界への永劫回帰ではなく<<私>>がいる世界への永劫回帰となる2023/09/19 22:20:26668.神も仏も名無しさんrC63X解脱を望むものは、これこそが呪いであると語り得るしかし、解脱を望むものは、その教えを救うもの、仏陀の教えとして学んだだけで、解脱しないでそれを教えた仏陀の存在まで至っていない2023/09/19 22:21:43669.神も仏も名無しさんrC63X仏陀は解脱しないで解脱(衆生の救済)方法を教えた他の無名の聖人のように、愛における救済の具体的行為ではなく、方法論を広めたヨハネが神を語り、道を真っ直ぐ整え、その後でキリストが活動したように仏陀も語り、道を真っ直ぐ整え、その後で弥勒菩薩が遠い先の未来で活動する2023/09/19 22:24:36670.神も仏も名無しさんrC63Xこれらに通底するのは愛と慈悲であり創造はそれを原動力に駆動し、生成し続ける愛と慈悲を欠いた一切の全ては、それが存在の梯子を登ることに関係してればするほど、創造をマイナスに歩むプラスであろうがマイナスであろうが創造を前にした時に大きな価値で在ると言い得るが、普遍的な善悪の前で、それは邪道であり、強大で純粋な悪を未来に生むだろう、ということになる2023/09/19 22:27:32671.神も仏も名無しさんrC63Xそれでも正道にあるものは、最後の時まで共に在る、というスタンスを崩さない、ということになり存在の梯子を登れば登るほど、苦はますます巨大になる、と予感するだが、それによって神の栄光は益々輝くことになることも同時に知っている2023/09/19 22:29:04672.神も仏も名無しさんrC63Xもう一つこの世界は<私>の世界の開闢である、という端的な事実この物語りは、<私>が創造する物語りである、という事実他者である<<私>>もそうだろう、という「仮説」が事実だとしても、それでも、この世界は<私>から開闢され、その世界で<私>は創造主でもある2023/09/19 22:38:57673.神も仏も名無しさんrC63Xつまり、この<世界>は唯一無二のたった一つのものであり、その世界の「変化」に関与できるものは、この世界で唯一<私>である、ということになる2023/09/19 22:39:59674.神も仏も名無しさんrC63Xこの世界に動的に干渉できるものは<私>以外に存在し得ないのだからこそ、希望を持つことも出来るし、絶望することも出来る隣人がそれを脇見でみて、おまいの頭の中でな、と思うのは的を得ている的を得ているが、彼が理解していないのは、「おまいの頭の中でな」と語る人物はこの物語りの一人の登場人物にしか過ぎず、世界の開闢である<私>は違う次元に存在しており、それらの物語を、夢を、眺めている、という事実2023/09/19 22:43:28675.神も仏も名無しさんrC63Xそれを語る人物に<私>が<<私>>を仮に贈り与えたとしても、世界の開闢として開かれる<<私>>になることは構造的に出来ない仮にそれが出来たとしても、その体験は<私>における世界の開闢と変わらず、<<私>>のそれとは端的に違う、という結論にならざるを得ないから2023/09/19 22:44:56676.神も仏も名無しさんrC63Xつまり、利他の物語りとは、最後の時まで<<私>>と共に在る、そして、<私>の世界の開闢において、決定的な変化、影響力を行使出来るのは、究極的には<私>しかいない、と言える2023/09/19 22:46:13677.神も仏も名無しさんrC63X<私>は利他において<<私>>と共に永遠に生き、そして<<私>>が存在するこの開闢である<私>の世界において、共に在る、ことによって、唯一善い変化をもたらす2023/09/19 22:50:03678.神も仏も名無しさんrC63Xこの暫定的な結論を前に、自身の人生を振り返ると、反省することしかない2023/09/19 22:51:35679.神も仏も名無しさんrC63Xカントの義務倫理学から「義務」を排除して、あるべきものを、あるべきところに返すためには、実存の奇跡と、その贈り渡し、つまり愛と慈悲が欠けている2023/09/19 22:53:14680.神も仏も名無しさんrC63X<私>が端的に存在し、世界が端的に開闢しているこの事実は、隣人にも自動的に適応されるそして、その端的な意識されることがない事実の中に、神の存在を付与すると、アガペーや個の尊厳が後付けで足されるただ、それがなくとも、端的な実存の事実だけで、創造の現象は説明できる(はず)2023/09/19 22:55:58681.神も仏も名無しさんrC63X『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 (マタイ 22:37-38) 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。 わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 (ガラテヤ 5:19-24) だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 (ルカ 9:23) もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 (ヨハネの手紙第一 1:10) あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。 (マタイ 28:10)2023/09/19 22:56:39682.神も仏も名無しさんrC63Xなぜパワハラ、モラハラを我々はしばし行なってしまうのか?正しい人ですら。ここら辺の構造の解像度を少しだけ上げると、ただ共に在る、の価値がもう少し見えてくる気がした2023/09/19 23:22:15683.神も仏も名無しさんrC63X次のテーマは正論(パワハラ、モラハラ)についてにしよう2023/09/19 23:23:07684.神も仏も名無しさんmcymp「善い」変化のためには連続性は「なくてはならず」かつ、「善い」変化のためには連続性は「リセットされなければならない」2023/09/20 09:51:21685.神も仏も名無しさんmcympパワハラ、モラハラは前者の連続性の足場に立っているそして修羅道の中で、隣人を手段化している時に生じる現象だ2023/09/20 09:54:39686.神も仏も名無しさんmcympパワハラ、モラハラは立場が違うもの、取り分け特定の面において、その立場が上であるものからなされる、当人にとって「嫌がらせ」と受け取られる身体的、言語的な、個の尊厳に対する蹂躙行為をさす2023/09/20 12:15:06687.神も仏も名無しさんmcymp師匠と弟子、先輩と後輩、年長者と年少者、こういう高低の立場の違いの中で生じる2023/09/20 12:17:26688.神も仏も名無しさんmcymp個の成長、個の完成が無意識的に良しとする空気がある中で、それを適応すべきでない時に、その常識を適応すると、それは受け取る対象によってはパワハラ、モラハラに該当する2023/09/20 12:19:25689.神も仏も名無しさんSgCqSパワハラ、モラハラもそれなりに動機が見える許される範囲のもの、スルーできる選択があるものとスルーできない、即刻勤め先を辞める判断を早くすべきの環境があるモノホンのブラック企業ビッグモーターなんかは、そんな環境だったらしい〜2023/09/20 12:21:19690.神も仏も名無しさんmcymp与える側、受け取る側という立場の中で、さらに受け取る側が「受け取りたくない」と感じてしまえばそれはパワハラモラハラであることから、立場の差と、受け取る側の感情が、パワハラなのか、学びなのかを左右する2023/09/20 12:22:11691.神も仏も名無しさんSgCqSブラックでなくても、それらをスルーてきないメンタルのある人も存在する、カウンセリングが必要で考え方の変更を要求される家庭環境で育っている人とか2023/09/20 12:22:57692.神も仏も名無しさんSgCqS生活保護が困難な日本の問題でもあるだろう、メンタルヘルスの完備度合いが低いし、繊細なお方にとっては地獄な社会なのも確かである。2023/09/20 12:24:42693.神も仏も名無しさんmcymp>>689ビッグモーターは完全に社会的に抹殺されましたなー業界2位のネクステージも血祭りにあげられますな業界の闇だネット系だけ生き残る2023/09/20 12:25:31694.神も仏も名無しさんSgCqS>>690中間管理職は上役にプレッシャーかけられているのでその目的達成の為に無理難題なパワハラまがいのケースは発生する、🫤2023/09/20 12:26:16695.神も仏も名無しさんmcymp>>692そう、この社会は地獄でもあり、不条理が大手を振ってまかり通ってる2023/09/20 12:27:40696.神も仏も名無しさんSgCqSスルーしようとしても、スルーさせないのがモノホンのパワハラだろうね、スルー回避できるのはまだ平和である、がスルーてきないメンタル繊細な人は世に絶対に存在するのも事実。🫤2023/09/20 12:28:17697.神も仏も名無しさんmcympまぁ、パワハラの根本に「蹂躙」があり、世界を私色に染め上げたい、という衝動がありますからな2023/09/20 12:29:34698.神も仏も名無しさんmcymp>>690の続きこの立場の違いは宗教においては存在性の高低として現れる知識や経験を豊かに持つものと相対的にそれらをより所有していないものより多く所有しているものは、そうでないものに対して、差分の知識や体験を語る2023/09/20 12:55:14699.神も仏も名無しさんmcympこの語った内容がそれを受け入れる側に受け入れられたらパワハラではなく、拒否されたら、それを周期的に繰り返し、立場の違いからそれから逃げることが出来ない状況の時に、パワハラ、モラハラと受け取られる2023/09/20 12:57:17700.神も仏も名無しさんmcympどんな動機であれ、個の尊厳を持つ他者が望んでないものを一方的に強いる状況で与えることは(潜在的、顕在的両方の意味で)パワハラ、モラハラである2023/09/20 12:59:03701.神も仏も名無しさんmcymp仏陀やキリストは語る人に応じて、話す内容や切り口を変える個の尊厳の前に立ち、それを尊重した上で、彼らにとって意味のあることを語るため、それは話す対象に最適化されている2023/09/20 13:01:00702.神も仏も名無しさんmcympしかも、その最適化の度合いにおいて、一般のそれとは比較にならないレベルで行っている、という意味で反パワハラ、モラハラの偉大な教師であると言いうる2023/09/20 13:02:12703.神も仏も名無しさんmcympつまり、究極の<<私>>に中心化された個別最適は、パワハラ、モラハラの要素が含まれていない、という意味で究極の状態であろう2023/09/20 13:03:27704.神も仏も名無しさんmcymp仏陀に至っては語る対象の過去生まで見通して物語るある意味で当の本人よりも個別最適の視点を持っている2023/09/20 13:04:33705.神も仏も名無しさんmcympつまり仏陀は個の尊厳を究極的に尊重する時、話す対象の人生における連続性のみならず、生を超えた連続性に立脚し、その対象が本当に必要としていることを語ることが出来る2023/09/20 13:06:48706.神も仏も名無しさんmcymp個別最適を行うためには、パワハラモラハラから免れるためには連続性を捉えることが前提条件となる2023/09/20 13:10:09707.神も仏も名無しさんmcympつまり、話す対象の連続性を捉えられていない一切の説法はパワハラ、モラハラ足り得る2023/09/20 13:11:21708.神も仏も名無しさんmcympここで、普遍と個別、二つの概念が立ち上がる個の連続性を捉えた個別最適の話もあるが、それに影響を受けない普遍的な事柄も語り得るから普遍的な事柄を語ることはパワハラ、モラハラ足り得るのか2023/09/20 13:12:44709.神も仏も名無しさんmcymp状況によるパワハラモラハラの閾値は、特定対象がどう感じるか普遍的な真理をその特定対象の連続性無視して強いる場合はパワハラモラハラであり得るが不特定多数を意図して普遍を語る場合は特定対象を対象としていないため、そもそもパワハラモラハラは生じ得ない2023/09/20 13:16:03710.神も仏も名無しさんmcymp不特定対象を対象とした語りはパワハラモラハラとは一切関係ないが特定対象を対象とした語りは、その内容が普遍的なものであったとしても、パワハラモラハラであり得る2023/09/20 13:17:18711.神も仏も名無しさんmcympこのことから、パワハラモラハラであるかどうかは、その語られた内容には究極は「関係がない」となる2023/09/20 13:18:48712.神も仏も名無しさんmcymp仏陀は不特定多数に真理を「語り」不特定多数の中の特定多数が自由意志で「これは私のことだ」と受け取り特定多数を経由して間接的に衆生の救済に仕えた2023/09/20 13:23:22713.神も仏も名無しさんmcymp一方で、特定少数には、個別最適で必要なことを必要なだけ語り、個の変容にも間接的に仕えた2023/09/20 13:24:15714.神も仏も名無しさんmcymp前者は人類全般に影響を及ぼし得る範囲で後者は特定個人に影響を及ぼし得る範囲で2023/09/20 13:24:57715.神も仏も名無しさんmcympそして、その両者から抽出される真理や言葉は客体化され、誰でも使えるようになり、その使用を間違うことによって、真理によるパワハラモラハラが可能になる2023/09/20 13:26:02716.神も仏も名無しさんmcymp衆生の救済の概念を持って、人を殴ることができるハードカバーの聖書は鈍器にもなれる2023/09/20 13:26:34717.神も仏も名無しさんmcymp仏陀は「言って聞かせた」キリストは「やってみせた」そして両者とも「させてみせた」そしてその先にある経験は「ほめてくれる」2023/09/20 13:28:18718.神も仏も名無しさんmcympそして、それらを我々は他者の蹂躙に悪用し得る2023/09/20 13:29:17719.神も仏も名無しさんmcymp悪用する時の閾値は、連続性を捉え、相手に中心化できるか我欲を抑えて隣人のためだけに語ることが出来るか、となるつまり、利他的か利己的か2023/09/20 13:30:39720.神も仏も名無しさんmcympつまり、森の中で一人でひっそり解脱しないなら、確実に他者との関わり合いの中で生きているのだから、全ての起点には、利他、慈悲、愛がなければならない2023/09/20 13:32:07721.神も仏も名無しさんmcymp全ては他者の個別性の中で生起し、かつ他者は、<<私>>は世界の開闢であるのだから、<<私>>の世界を動的に変える権能は、存在全般は「持っていない」のだからどこまで<<私>>に<私>が近づけるのか、という幅感の中で、その<<私>>の本質を豊かに持っておらず、かつその<<私>>に中心化して語らないのであれば、潜在的にパワハラモラハラ足り得る2023/09/20 13:35:13722.神も仏も名無しさんmcympつまり、個は完全ではないから、他者との関わり合いは、つねに潜在的にパワハラモラハラであり得る、ということになる2023/09/20 13:35:48723.神も仏も名無しさんmcymp不特定多数ではなく、特定少数への関わりは全てパワハラモラハラ足り得る2023/09/20 13:36:34724.神も仏も名無しさんmcympであるなら、完全にパワハラモラハラから免れるためには、関わり自体を断たねばならぬ極端だが、論理的にそういうことになる2023/09/20 13:37:37725.神も仏も名無しさんmcympしかし、他者との関わりが断てたと仮定した時に、その状態は、パワハラモラハラを自分はしたくないからそうする場合、その行為は極めて利己的な理由であると言える2023/09/20 13:39:36726.神も仏も名無しさんmcympパワハラモラハラは免れても利己的パワハラモラハラであっても利己的2023/09/20 13:40:06727.神も仏も名無しさんmcympどちらも利己的から免れることが出来ない2023/09/20 13:40:22728.神も仏も名無しさんmcymp利他的であることは、パワハラモラハラのリスクを受け入れ、それでも関係性の中に在ろうという意志が根底にある2023/09/20 13:41:27729.神も仏も名無しさんmcympかつ、利他的であり、パワハラモラハラを避ける、を同時に叶えるためには、ただ共にあり、何も語らず、<<私>>を贈り与え続ける、といった態度が論理的には究極の姿なのだろう2023/09/20 13:42:37730.神も仏も名無しさんmcympその姿は、「あなたに(利己的な)一切を望まず、あなた自身が存在すること自体が奇跡でそれを全肯定する、といった身体的な表現となるだろう2023/09/20 13:43:46731.神も仏も名無しさんmcympこの、完全な愛の表現こそが、パワハラモラハラの反対側にある利他的な関わり方であるといい得る2023/09/20 13:44:35732.神も仏も名無しさんmcympつまり、相手に何かを望んだとたんに利己的な何かが混入するパワハラモラハラはそれが理想であれ、完璧主義であれ、世間一般の常識であれ、利己的に、素朴に、何かを望む時に潜在的に生じてしまう空気のように誰にも気付かれずにただ共に在るという状態が、教師、隣人としての人間の究極の姿なのかもしれまい2023/09/20 13:47:13733.神も仏も名無しさんmcymp隣人の開闢の世界に利己的に関与せず、ただ見て、口を開かず、相手から開かれる世界をただ見ている状態それは生命における愛や慈悲に満たされている状態に等しく特定の行の体験で観じるものでもある2023/09/20 13:49:29734.神も仏も名無しさんmcymp縦に<私>に深まっていく軸と横に<<私>>に深まっていく軸がある前者だけだと魔境に入る知恵はいらない、慈悲だけでいいと、言い得る根拠がここにある2023/09/20 13:51:00735.神も仏も名無しさんmcymp少なくとも大道では2023/09/20 13:51:18736.神も仏も名無しさんmcympにも関わらず、なぜ仏陀は口を開いたのかキリストはある意味では開いていない2023/09/20 13:57:18737.神も仏も名無しさんmcympなぜ仏陀は「急いで」キリストは「急がない」のか2023/09/20 13:58:36738.神も仏も名無しさんmcymp唯一のものは物語りは実存に付随する口と心から発せられる仏陀の唯一の物語りと普遍的な知識/行体系は世界で唯一である<<仏陀>>から発せられた2023/09/20 14:47:27739.神も仏も名無しさんmcymp彼の内面の世界は唯一の口を通じて外界に飛び出し、それを受け取った人間は、その人間の理解できる範囲の中で仏陀の世界に触れた2023/09/20 14:48:21740.神も仏も名無しさんmcymp口から出るものを受け取る耳と目は、他者の開闢の世界に触れる唯一の経路であるここでは受け取る側は、他者の開闢の世界に触れる、という状態にある2023/09/20 14:50:10741.神も仏も名無しさんmcymp一方で、仏陀は口で語らずに、他者から開闢される世界に働きかけ、個を具体的に救う、ということもあり得た前者との違いは、<私>の世界を<<私>>に伝える、ということに対して、<<私>>を「具体的、直接的に救う」という点が違う2023/09/20 14:51:58742.神も仏も名無しさんmcymp後者であってもいいのに、なぜ前者を選んだのか2023/09/20 14:52:19743.神も仏も名無しさんmcymp衆生とは、個の総体であり、現実的には、個の全てが救われないと衆生の救済が成就した状態ではないであるなら、語り、間接的に救済に関与することももちろんあり得るが、具体的に一人一人を直接的に救済することももちろんあり得る間接的な救済を取り、直接的な救済を取らなかった理由があるのは確実だ2023/09/20 15:00:36744.神も仏も名無しさんmcymp俗世の、欲の中にあるものが利己的な理由から語るのは理解できるしそれは当たり前の話だしかし、仏陀のような存在がなぜ語る、を選択したのかこれは考察するべき事柄だと直感するそれはひいては愛と慈悲について考えることに(ほぼ)等しい2023/09/20 17:27:39745.神も仏も名無しさんmcympちなみに、ここから卓越した宗教家の「語る」について語るが、キリスト教スレでそれをやらねばならぬ理由は創造において、その物語りに仏陀を含めることが普通に可能だからという点と、仏陀は被造物において、卓越した存在であることから、彼について考えることが、創造について考えることに繋がるから仏陀でなくとも他の存在でも構わないが、仏陀は宗教界のスーパースターであり、(私も含めて)多くの人が知っている、という意味で考察の対象として「便利」だから、という意味合い2023/09/20 17:33:42746.神も仏も名無しさんmcymp仏陀はもともと教えを説く気がなかったが、梵天に諭されて語ることを意思した説く気がなかった理由は、誰も理解できないだろう、という点と、それが流れに逆らうことだから、という理由からだ2023/09/20 17:51:09747.神も仏も名無しさんmcympこの理由は至極真っ当で理に適っているでも、梵天が諭して考えを変えた梵天が諭した理由は、このままでは人類が滅ぶからそして、わかる人は少数であっても存在し、教えを説かないと、彼らすら滅んでしまうから2023/09/20 17:53:02748.神も仏も名無しさんmcympしかし、説こうと考えを変えた上で、それでも衆生を悩ませることになるだろう、と根本の考えは変えていない2023/09/20 17:54:07749.神も仏も名無しさんmcymp多くを悩ませ、少数を救うために、そもそも語り始めた2023/09/20 17:54:35750.神も仏も名無しさんmcympこの時、いったい何が起こっているのだろう2023/09/20 17:56:47751.神も仏も名無しさんSgCqSキリスト教がらみの職業支援を知っているが、やはり、シャバとの付き合いなのでキリスト教的理想論は通じないようだ🫤2023/09/20 20:10:01752.神も仏も名無しさんSgCqS道元禅スタンスだと極めて分かり易い、伝え方に悩むからだとにかくの緻密なメンタルの完成を伝えなければならんので、ブッダは悩んだといえる、こっちの苦労しているアクロバットな発想はより内容難易度がマニアックになる😄シャバ世界のお付き合いのプロフェッショナルだかな〜神秘伝授を、この世におらん、その筋の超プロに大方結構教えてもらったべえ〜😄2023/09/20 20:15:17753.神も仏も名無しさんSgCqSキリスト教世界のシャバに生きる苦しみを支援すれ現場を横目にみながら、自分のステップアップの条件の3分の2をそろえた😄2023/09/20 20:17:13754.神も仏も名無しさんSgCqSあと、そうだ俺の選択している世界はスローライフという世界観ではないが、本来、仏教はスローライフだ世俗を無視していいほどのスローライフだキリスト教はもっとスローライフである、先週の休み月曜の発見であった〜ほぼ、その視点には確信を持ちつつある😄2023/09/20 22:20:56755.神も仏も名無しさんmcympキリスト教絡みでもあくまでも紹介だから結局は職場の価値観になりますわな😢2023/09/20 23:03:57756.神も仏も名無しさんmcymp宗教全般の世界観は時間のメモリが国家よりゆうだいだからスローライフなのは間違い無いわなただ、仏陀は自身の「(誰にも理解されないであろう)近道」を教えたそして、それが「流れに逆らう」ことを自覚していた2023/09/20 23:06:31757.神も仏も名無しさんmcymp流れとは、人類の滅亡だろうまた、自然が提供するものだけで自然にそうなる状態からの「逸脱」を教えたこれも流れに逆らうだろう2023/09/20 23:07:38758.神も仏も名無しさんmcympこの「語ることを意思した」動機がある時に、既に世の中には様々な宗教が存在した2023/09/20 23:08:12759.神も仏も名無しさんmcympこれが意味することは、少なくともインドにあって、ヒンドゥー教では人類が滅亡していた、ということを意味するそれらは釈迦の<今>にあって、「不十分=人類の滅亡を止められない」かった、ということだけは、残されているものを前提にした時に、事実なのだろう2023/09/20 23:10:34760.神も仏も名無しさんmcymp>>750の続き仏陀は語るつもりがなかったが、語ることを意思した背景には、人類の滅亡の阻止、があったことは間違いないただし、語ることにより、より衆生の救済において、より悩ませる事態になる、ことを知っていた仏陀の境地に立てば、滅びるは滅びるに任せればいい、余計な苦を衆生に与えることは、取るべき道ではない、仮に人類の滅亡を防げたとしてもということだったのだろう2023/09/20 23:13:23761.神も仏も名無しさんmcympこの考え方は説得力があるし、特定の立場に立てば、そういう結論の選択も普通にあり得るだろう2023/09/20 23:14:01762.神も仏も名無しさんmcymp悩むのは苦であるそれを増やすのは苦を増やす行為である2023/09/20 23:14:23763.神も仏も名無しさんmcymp「その代わり」特別な人を救うことが出来る結果として人類の滅亡も食い止めることができる2023/09/20 23:15:04764.神も仏も名無しさんmcymp仏陀が語ることを意思した時点でで残されている記述を踏まえると、どうしても、仏陀が語る意思は、小乗を志向しているとしか思えない2023/09/20 23:16:11765.神も仏も名無しさんmcymp解脱し得る特定の人物、ないしは潜在的なそういった層、つまり宗教エリートたちを対象にした<私>の智慧とそれを実現する実践(行)の唯一の口を介した開示だ2023/09/20 23:17:59766.神も仏も名無しさんmcympこの時に、仏陀は大衆と特別なもの達を天秤にかけざるを得ないそして、特別なもの達を選んで、大衆にはすまないが、いつか意味がわかるようになる、いつかあなたのためになる、といった心持ちで、特別な人たちと人類の滅亡阻止に舵をきっているはずだ2023/09/20 23:19:32767.神も仏も名無しさんmcymp特別な人たちは、大衆の予型として機能し、ジャータカの永遠の時間軸で捉える時に、特別な人達がいるからこそ、大衆は一時的に苦は増えるが、予型に連なることができる2023/09/20 23:21:00768.神も仏も名無しさんmcymp「父よ。もしできることなら、この杯を取り除いてください。」といった心持ちかもしれないが、それでも、苦を増やしてでも、特定少数を救い、それが結果的に人類の滅亡を救うことになる、ということに向き合い、語らないことを「辞めた」、のは残された記述から事実である、としか言えない2023/09/20 23:22:41769.神も仏も名無しさんmcymp彼は、初めは特定少数への教えから初めて、本懐である不特定多数の、しかし「耳のあるもの」への、時空を超えた物語りを語ったそして、それが仏教として大成した2023/09/20 23:24:39770.神も仏も名無しさんmcympそれは、時空を超えた<<私>>への物語りでありその対象となる<<私>>は「耳のあるもの」となる2023/09/20 23:25:24771.神も仏も名無しさんmcympかれは、普遍的な物語る、を通じて、時空を越える必要があった2023/09/20 23:25:54772.神も仏も名無しさんmcymp一方で、<今>における生成において、常に影響を直接行使できるのは、常に個、実存的なあり方をしている他者「だけ」となる2023/09/20 23:26:58773.神も仏も名無しさんmcymp彼は王となり、実存的なあり方をしている多くの個を救うことが出来たしかし、その限定性と人類における生老病死の永劫回帰を前に、その克服のできなさ、無力の中にあって、一人解脱を望む状態だった2023/09/20 23:28:58774.神も仏も名無しさんmcympであるにも関わらず、語ることによる希望にかけた彼が「語ることを断念した態度」から「語ることを、時空を超えた特定少数の救いに関与することで、人類の滅亡を阻止できること」を意思した、大転換の中で起きていたことは、まさに絶望が希望に変わったという表現の中に全てが織り込まれているのではないか2023/09/20 23:31:23775.神も仏も名無しさんmcymp語りとは、希望であり、その根幹には大悲「からの」慈悲があり、その慈悲の「成就」つまり、希望があるところに初めて、語り得ないもの、伝わらざるもの、構造的に伝えることが根本的に不可能なもの、それを乗り越える経路があるのではないか?という仮説が浮かび上がる2023/09/20 23:34:07776.神も仏も名無しさんmcymp全能に限りなく近い人間、その存在を持ってしても不可能だと絶望させる、構造的な乗り越えの不可能性を前に、それでもそれを超えて橋をかけるのは、ひとえに慈悲であり、その成就の希望、それしかないのではないか?2023/09/20 23:35:16777.神も仏も名無しさんmcymp仏陀は智慧と実践方法を教えたが、その教えは梵天によって開ける希望「前」のものだったに違いないそして、仏陀自身の大転換は、おそらく智慧と実践には分かりやすくは含まれていないしかし、仏陀が大転換をはたしたように、仏陀の<私>の智慧と実践を聞く耳のある他者が触れた時、仏陀のように大転換に繋がる原始仏教はそういう仕組みなんだろうと推測する2023/09/20 23:38:20778.神も仏も名無しさんmcympここまでで分かることは、森の中で解脱を一人目指す道は、存在性の階段を登るからこそ、「絶望せざるを得ない」ということ2023/09/20 23:39:04779.神も仏も名無しさんmcympそれを乗り越えるためには、絶望を希望に変える大転換が必要で、その鍵は<私>を<<私>>とする語り得ない世界の中で静かになされるしかない、ということ2023/09/20 23:40:03780.神も仏も名無しさんmcymp語り得ないことを語る、絶望を希望に変える、この一見不可能なことが、事実としてあり得て、実際に人類は「滅んでない」というこの<今>における跳躍の中に、愛と慈悲の神秘が隠されていることを直感する2023/09/20 23:41:37781.神も仏も名無しさんmcympしかし、仏陀においては特定少数に限定された跳躍は大乗により克服されるしかし、大乗が起こる前に、実は、仏陀の特定少数への跳躍は、キリストの特定多数の跳躍の軌跡が実現している2023/09/20 23:44:02782.神も仏も名無しさんmcymp奇跡が2023/09/20 23:44:21783.神も仏も名無しさんmcymp仏陀はなぜ語ったのか?それは、絶望を希望に変えるため、であり、その背景に慈悲があるもう少し言うと、そのための衆生を犠牲にしつつ、衆生を救済するための「偽悪」もある2023/09/20 23:45:40784.神も仏も名無しさんmcymp次に進んでもいいけど、もう少し粘着質に拘ったほうがいいことがある仏陀の絶望の中身と、希望の中身を持つ少し微分したほうがいい直感がある持つ少し粘着してみよう2023/09/20 23:47:49785.神も仏も名無しさんmcympあとは、時空を超えて物語る、という表現をしたが、この表現は具体的にどんな意味を持っているのかそれも、もう少し微分した方がいい時空を超えた特定少数への語り、とは一体どんなものか?2023/09/20 23:49:22786.神も仏も名無しさん3Fsjk耳と目、から語ると面白そうだ仏陀はあくまでも「ティーチング」の人キリストはあくまでも「神=完全」の人2023/09/21 00:19:00787.神も仏も名無しさん3Fsjkあと、耳に関することとしては祈りと繋がる伝わらないことを、それでも希望を持って語るのは不可能性を跳躍して乗り越える祈りだこの場合の対象は<<私>>になるが2023/09/21 00:22:51788.神も仏も名無しさん3Fsjk(構造的に)伝わらないことが、<<私>>に伝わりますようにとういう意味での対象だから、祈る対象は神にはなるが2023/09/21 00:24:13789.神も仏も名無しさんFYBPH夢を見た、家の近所の丘にチベット密教と高野山真言宗と共同運営する大学、大学の建物のフロアまでは自由に出入り自由〜フロアには俺に金を使わそうとする密教の本がたくさん〜んな金無いな〜と横目に〜前世はチベット密教やっとるから家の前に、こんなもん建つんやろな〜とか〜😄2023/09/21 06:55:37790.神も仏も名無しさん3Fsjkおぉ、最強な大学ですな…でも結局は金かw大学的なものはもう必要ないのかもしれませんな2023/09/21 18:40:22791.神も仏も名無しさん3Fsjk>>784の続き仏陀の一人解脱する絶望からの限られた人を救うことが人類の滅びからの救いに繋がる希望の大転換その絶望はどんな絶望だったのか立ち止まってレンズをあててみる2023/09/21 18:43:50792.神も仏も名無しさん3Fsjk仏陀が<私>の智慧を語らないことを意思した理由は誰にも理解されないと考えたからだ2023/09/21 18:44:44793.神も仏も名無しさん3Fsjkこの「誰にも理解されない」の結論に至った理由は仏陀ほどの高みにある人物からしてみたら、一般的なよく聞く理由とは違うはずだ2023/09/21 18:45:32794.神も仏も名無しさん3Fsjkその裏には構造的な「理解のされなさ」が潜んでいるに違いない考えすぎで一般的な内容、つまり難しすぎるからwとかかもしれないが、それだと元も子もないとにかく、なぜ「理解されない」と考えたのか、心理学や知識体系の中身の吟味を経由せずに、その構造を考えてみたい2023/09/21 18:47:03795.神も仏も名無しさん3Fsjk仏陀は自身だけが知っていることがあり、それを語っても他者には理解することが出来ないという確信があった確信がないなら語っているはずです、少なくともやってみて、その上で理解されなさを悟り諦める、というプロセスを経るだろう2023/09/21 23:13:54796.神も仏も名無しさん3Fsjk仏陀は理解されることへの希望は一切なく、理解されることに絶望をしているそして、それは試みる前に、そう確信していることから、仏陀は知っていることは、この世の常識と随分かけ離れたもの、形而上のものであることは確実だ2023/09/21 23:15:39797.神も仏も名無しさん3Fsjkまた、「語り方」の試行錯誤を経ることなく、理解されることを断念していることから、仏陀の知は表現の仕方どうこうで理解される類いのものではない、ということにもなるだろう2023/09/21 23:16:45798.神も仏も名無しさん3Fsjkここから仏陀の知は超越的なものであり、だからこそ、それは個人的な言語でしか表現し得ないもので、その表現を工夫しても、理解されることが不可能な事柄についての知を仏陀は所有していたことがわかるそうでないなら、断念する前に試行錯誤があるだろうし、仏陀ほどの卓越した人物がそれをやらないなら、それなりの理解されなさの原因や根拠があるだろう2023/09/21 23:19:44799.神も仏も名無しさん3Fsjk人が言葉で語る時、その言葉はこの世界の写像で出来ている超越的な事柄を語る時、それはこの世界の原理を超越しているが故、その描写に相応しい形式を供えていない従って、人が超越的な事柄を語る時、常に言葉により言葉を解体してゆく表現の力を借りて、比喩として匂わすことぐらいしか出来ない2023/09/21 23:22:27800.神も仏も名無しさん3Fsjk言葉でそもそも語ることが出来ないもの、かつ表現を工夫しても示すことが出来ないことを前提に、それでも語り、誤解や悩みを増やし、かつその行為は、流れ(自然)に逆らうことを志向する絶対的に伝えることが出来ない、という伝達不可能性を前に絶望している仏陀自身が「伝えることが出来ないあれ」が何かは分からないし、伝えることに希望を持った後に語った内容が「それを指している」かどうかも分からないもしかしたら「伝えることが出来ないあれ」は結局は、少なくとも直接的には語っていない可能性の方が高いなぜなら、仏陀ほどの存在が絶望するほど不可能だ、と知っていることなのだから2023/09/21 23:27:43801.神も仏も名無しさん3Fsjk少なくとも、仏陀が「よし、語ろう」と大転換を果たした背景には、「新しい目的」そして、「比較的理解されやすいものだけ」といった、目的と方法論の転換があるはずだ伝えることが不可能なことを、そのまま語っても、やはり伝えることは不可能なのだから、「伝える中身が変わった」に違いない2023/09/21 23:30:04802.神も仏も名無しさん3Fsjkまた、伝える「対象」と、その対象に伝える「意味、価値」の中身も変わったに違いない伝える中身を変える時に、「誰を対象にして」は必要不可欠だ梵天は「少数の分かる人」に触れている伝える中身は「少数の分かる人が分かりそうな内容」に変わったに違いない2023/09/21 23:33:13803.神も仏も名無しさん3Fsjkそして、その少数の人々に伝えることが「少数の救済」だけを目的にすると、そもそも王子になって特定多数の民を救った方がまだマシなわけだから、少数の救済は手段であり、その目的は先にある不特定多数の救済に繋がるから、となるだろう2023/09/21 23:34:43804.神も仏も名無しさん3Fsjk仏陀は特定少数の語り得ぬものの伝達を<今>においてなし、その特定少数に伝わった内容を時間を超えて語り継ぐことにより、未来の特定少数に伝わり続ける、特定少数が救われる仕組みに希望を見出したのではないか2023/09/21 23:38:48805.神も仏も名無しさん3Fsjkその意味では、不特定少数を永遠に救う方法論が絶望を希望に変えた大転換の中身なのではないか2023/09/21 23:39:56806.神も仏も名無しさん3Fsjkこういった事柄は水掛け論なので実証は出来ないが、じゃないと絶望が希望に変わる大転換の説明が出来ない2023/09/21 23:40:42807.神も仏も名無しさん3Fsjkまた、この大転換のキモは「救えるのは特定少数」である<今>における特定少数を救っても永劫に苦は回帰するから意味がない特定少数を救う方法論は永遠に機能したければならないという点だ2023/09/21 23:42:07808.神も仏も名無しさん3Fsjk永遠に機能しなければわざわざ仏陀は語る必要がなく、ただ、<今>において手の届く人々を黙って救えばいいだけ、となる2023/09/21 23:43:06809.神も仏も名無しさん3Fsjkつまり、仏陀は少数であれば救うことは可能で、その救いの機能を永続的に存在させることで、特定を不特定に変えることが出来たそれならできるぞ、少数ではあるが、不特定少数なら語る意味があるし、人類の滅びの阻止に機能する、となったのではないか2023/09/21 23:45:17810.神も仏も名無しさん3Fsjk愛は常に<<私>>を対象に贈り与えられる常に特定でなければならないしかし、不特定少数に智と実践を永続的に教え続けることができるなら、それはプチ仏陀(菩薩)の永続的な少数生産のシステムとなり、そのプチ菩薩を経由して、<<私>>に愛が、慈悲が送り続けられる機構が完成するその実現のためなら語る意義があるだろうまた、その実現性、仮説を吟味するために世界を眺めてみて、いけるという確信があったのだろう2023/09/21 23:49:10811.神も仏も名無しさん3Fsjk語り始めた理由は衆生の救済という愛や慈悲が動機だが、それはもともとあったのに語らなかったのは、衆生の救済は語ったとて不可能だ、という確信があったからだ梵天の説得のポイントは「少数」に的を絞ったところにあるに違いない2023/09/21 23:50:42812.神も仏も名無しさん3Fsjkそして、その少数に絞った時のポイントは、愛を贈り与える対象が常に特定少数であることから、衆生の救済は<私>が何を語ったとて、<私>だけでは構造的に不可能だが、特定少数だけは<<プチ仏陀>>になり得る、製造し得る、劣化版コピーを作り得る、ことに気付いて<<私>>を介して衆生を救済する方法論に目覚めたからなのだろう2023/09/21 23:53:11813.神も仏も名無しさん3Fsjk従って仏陀の教えは智と実践となる衆生を救済するものを作り続けるシステム、劣化版コピーの方法論だ2023/09/21 23:54:11814.神も仏も名無しさん3Fsjk「語る」とは<私>の特定他者への開示である<私>の世界に触れて、二つの開闢の世界が交わり、染まり、コピーされる仏陀のような存在が語る時、コピーを作ることに目的がある別の表現だと、仏陀に似た人を作る、ためにある2023/09/21 23:56:15815.神も仏も名無しさん3Fsjkそして仏陀は慈悲の本質を持ち、智と実践により、慈悲もコピーされる従って、慈悲をコピーしない一切の行は邪道に誘う2023/09/21 23:57:01816.神も仏も名無しさん3Fsjkキリストの場合はどうだろう論点先取だが、キリストのコピーのケースでは、不特定「多数」となる2023/09/21 23:58:14817.神も仏も名無しさんDRpK8ちなみに、キリスト教の話をする前に横道にそれると、上の話のベースには永井均さんや曹洞宗の藤田一照さん、テーラワーダの山下良道さんが対談されている仏教3.0を哲学する、を読んで考察の下地にしている2023/09/22 00:00:40818.神も仏も名無しさんDRpK8彼らの対談では仏教1.0、2.0を彼らなりに定義し、それを越える3.0の道を模索する、という話が為されている2023/09/22 00:01:53819.神も仏も名無しさんDRpK8仏教1.0は上の考察を踏まえると、まさに「不特定少数」を意図しているから、特定多数にとってはちんぷんかんぷんで、であるにも関わらず分かったつもりになって特定多数が仏教概念を使い語ってる、みたいな現状の状態を生んでしまっている2023/09/22 00:04:55820.神も仏も名無しさんDRpK8不特定多数が仏教に触れても仏陀の劣化版コピーになることは「不可能」だむしろ、悩みが増えるだけ、という仏陀がもともと危惧した状態になっている2023/09/22 00:05:37821.神も仏も名無しさんDRpK8それを乗り越えるのが2.0でテーラワーダやマインドフルネスが登場する場合によっては現世御利益のために仏教の行を応用するし、不特定多数の「実践」足り得る内容にバージョンアップしているが、こんどは1.0の真理に欠いている俗世化している2023/09/22 00:07:04822.神も仏も名無しさんDRpK8それを乗り越えるために1.0の真理と2.0の不特定多数のための実践の道をアウフヘーベンさせた道が3.0であり、その道を模索しているらしい2023/09/22 00:07:47823.神も仏も名無しさんDRpK8時代精神の声に耳をよく傾けている方達だからこその問題意識だと思うし、時代はそういうものを欲している2023/09/22 00:08:35824.神も仏も名無しさんDRpK8ただ、個人的には2.0に対して首を傾げたくなることがある不特定多数の実践に耐え得る内容なのはその通りだが、その実践は「何のための実践か?」という点自己実現のための実践なんて、それは早晩仏教テクニックの悪用でしかないじゃないか、と思ってしまう2023/09/22 00:10:06825.神も仏も名無しさんDRpK8あくまでも不特定多数に仏陀、ならびにキリストのコピーを作るための実践でないと、もともこもないそれは単に「別物」と言っていいのではないかと思う2023/09/22 00:11:00826.神も仏も名無しさんDRpK8キリスト教も彼らが言うような1.0、2.0、3.0の分類はし得ると考えるが、仏教と違うところは、少なくともカトリックは中央集権なので、カトリックがカトリックのまま、1.0、2.0、3.0に「変容しなければならない」という点だ2023/09/22 00:13:06827.神も仏も名無しさんDRpK8これは大きな違いで、難易度は格段にカトリックの方が高いしかし、中央集権であるからこそ、権威を権力を行使し、一気に全体を大転換させられ得る可能性があるが故に、「どんな人が教皇になるか」に全てがかかっている2023/09/22 00:14:41828.神も仏も名無しさんDRpK8ちなみに、仏教の大乗は、衆生の救済、特定多数の救済に重きをおいているが故、キリスト教に小乗より近いと分類されるが、それはその通りだが、上記の本質、つまり偉大な存在のコピーを作る、という点において、キリスト教と大きく異なる2023/09/22 00:17:17829.神も仏も名無しさんDRpK8キリスト教では、信徒の本懐はあくまでも、どこまでいってもキリストに似る、でありその外はない2023/09/22 00:17:48830.神も仏も名無しさんDRpK8念仏唱えたらすくっちゃる、みたいな世界観ではないキリストに似る、が信徒の本懐であり、その全てである不特定多数を対象として2023/09/22 00:18:30831.神も仏も名無しさんDRpK8その意味では、不特定「少数」である小乗のほうが、偉大な存在のコピー、という意味ではキリスト教に似ている、と言い得る似てる似てないは「何において」が常に問われなければならないが、小乗とキリスト教は「目的において」似ている一方で、大乗とキリスト教は「対象において」似ている2023/09/22 00:20:23832.神も仏も名無しさんDRpK8仏陀とキリストのコピーを作ることが「目的」なのが仏「教」とキリスト「教」であるそして仏陀とキリストの目的は衆生の救済であることは言うまでもないこの「教」と開祖の目的の違いは味わい深い2023/09/22 00:21:48833.神も仏も名無しさんDRpK8それは、常に宗教とは「手段」である、ということなのだろうと思うそして目的は実存側にあり、自由意志で<私>だけの目的を持たなければならない所以でもあり、だからこそ召命が決定的に大事である、とも言い得る2023/09/22 00:35:29834.神も仏も名無しさんDRpK8その意味でも、愛や慈悲を欠いた宗教テクニックは非常に危険だそれらを欠いているなら、確実に、やらないほうがいい2023/09/22 00:36:34835.神も仏も名無しさんkCWsVテーラワーダの スマナサーラに言わせるとテーラワーダは事実を確かめることらしい、スマナサーラは相当キリスト教を嫌っている🫤2023/09/22 23:06:31836.神も仏も名無しさんe6Q5Eそうですな、事実を確かめるその場合、スマサラーナがキリスト教を嫌ってる事実は確かめられましたか?2023/09/23 02:35:17837.神も仏も名無しさんe6Q5E全ての豊かなものは、内実にあるなんとなく、とか、そういうふうに思われているから、とかそういうところで止まると面白くない2023/09/23 02:38:27838.神も仏も名無しさんe6Q5E自分の全ての感覚で吟味し、自分の全ての感覚で物語を<今>において紡がないと、生きている意味はないだろう全ての偏見は無価値だ2023/09/23 02:39:21839.神も仏も名無しさんe6Q5Eちなみに、事実を本当に確かめられる地平に立っているなら、敵味方、肯定、否定の二元論を乗り越えるそういう俗世の物語を観じる人類に大悲を見て、全てが愛おしい生命そのものとなってるはずだから2023/09/23 02:42:42840.神も仏も名無しさんe6Q5Eにも関わらず修羅道の物語に持ち込む働きはなにか?となるなら、それこそが仏陀が語るまい、と思わせたそれだろう私を含む大半の人間はエゴイズムに囚われている2023/09/23 02:43:58841.神も仏も名無しさんe6Q5E大半の人は、断定的に何かを主張するが、その理由を聞くと驚くほど根拠を持っていないだれだれがこう言ってる、どこどこにこう書いてる、だからこうだ、と語るしかし、その断定の根拠のアウトプットの過程の至る所に主観が混じっていることに気付いていないかつ、その前提で十分に吟味されてもいないし、だから結局は腹落ちしてなく、だれだれがこう言ってるらどこどこにこう書いてある、だからこうなんだ、という話法に終始するそれは、素朴実在論と何も変わらない2023/09/23 02:53:08842.神も仏も名無しさんe6Q5Eそういう悩みは「ないほうがいい」つまり、必要ないなら「近づかない」それは実存における健康的な生き方、に関係するから意味がある少なくとも、素朴実在論者はそう生きた方がいい2023/09/23 02:54:25843.神も仏も名無しさんe6Q5E関係ないことには「近寄らない」これがよく生きるための知恵だ2023/09/23 02:56:20844.神も仏も名無しさんe6Q5E本当に必要なものは、向こうからやってくるだから、自身を愛し、必要なものを自分なりに知っているそれだけでよろし本当は嫌いなものに、自分から近付く必要はない2023/09/23 02:57:21845.神も仏も名無しさんe6Q5Eそれでも近付くときはシカーチンと同じ何かが働いている時だ、と認識すると分かりやすい2023/09/23 02:58:14846.神も仏も名無しさんe6Q5E劣等感を克服するために、自分のコピーで世界を塗りつぶしたくなる、恥に耐えられない時にしばしば人はそうなる2023/09/23 02:58:49847.神も仏も名無しさんe6Q5Eつまり、このスレは横ではなく、縦のためのスレってこと縦を匿名掲示板で行う意義は未熟が理由しかないそれでもその意図を理解してる人が大半だろうしそれに気付けない人に気付くようにも、あえて大袈裟なリアクションは心がける2023/09/23 03:03:41848.神も仏も名無しさんe6Q5E縦をかすかに横にも機能させる、ということをやってるだけで、このスレのスタンスは私的言語で行かせてもらう、ということでもありますなそこにほんの少しだけ客観性を付与する程度だ2023/09/23 03:04:40849.神も仏も名無しさんe6Q5E気が向いたら書き込む、というスレタイの主語は<私>となるここは、そういうスレだから、私しか書き込まないそれを意図したスレってことですな2023/09/23 03:06:00850.神も仏も名無しさん7arK5>>836スマナサーラは随分な言い方を当人の本でみたことがあります、ま、そもそも、大丈夫仏教に対して挑戦的な姿勢なのは割合強かった、スリランカ人なので容赦ないのかもしれん🫤2023/09/23 05:06:58851.神も仏も名無しさんjr5ed>>849おはよ〜マニアなチャンネル動画が上がってきていた〜 お〜いつ見るかわからんが動画落しはする〜https://m.youtube.com/@Nihona.Yeshiva2023/09/23 05:33:04852.神も仏も名無しさんjr5ed思い出した、スマナサーラは殺人や裁く神なんて、あえりない迷信みたいな大概な内容だったよーな記憶が〜🫤2023/09/23 05:34:52853.神も仏も名無しさんjr5edこのチャンネルの動画の一つで戦車=メルカバか〜イスラエルもシンプルな戦車名にしたもんやな〜日本語の自衛隊戦車に戦車、という名前をつけるま、日本は90式とつくか〜レオパルドとかではないか〜😄2023/09/23 05:37:35854.神も仏も名無しさん2sjAV>>849シカーチン祭りのチャンスなので、そちらの貴重なレスコピペ弾の無断使用をお許したく〜🙏2023/09/23 21:10:51855.神も仏も名無しさんoNNQA>>850彼が神という概念をどう捉えてたかは知りませんが、それがキリスト「教」を対象にしていたのかどうなのか、は吟味するべき事案やと思いますな2023/09/25 00:35:36856.神も仏も名無しさんoNNQA>>851勉強熱心ですなー🤩2023/09/25 00:36:15857.神も仏も名無しさんoNNQA>>852そういう意味なら、キリスト教や一神教における「大衆の偏見」が理由なんでしょうな2023/09/25 00:36:57858.神も仏も名無しさんoNNQA>>854コピペは自由にでいいけど、結局シカーチン的な人間は勝ち負けの世界に生きてるから、何言っても無理だと思うで全ては「シカーチンの勝ち負け」の世界に収束されるなんて、放蕩してるシカーチンにしか意味がなくてシカーチン以外の人間には何の意味もないからな2023/09/25 00:38:47859.神も仏も名無しさんoNNQA仏教はじめとした全ての宗教はまさに、その勝ち負けの世界、世俗の物語、「幻想」の、「外に出よう」、という智慧であり、実践だからな2023/09/25 00:39:51860.神も仏も名無しさんoNNQAつまり、エゴイズムの外に出ろ、ということエゴイズムに宗教を「使役する」、「仕わせる」、これが仏陀が裂けたかった、語らないことを意図した理由だろう2023/09/25 00:41:00861.神も仏も名無しさんoNNQAそして、それでも語ったのは、シカーチン的な人間「以外」の極少数の「耳のあるもの」が常にこの世の中に存在し、そのものに向けて語ろう、と意識したからだ2023/09/25 00:41:46862.神も仏も名無しさんoNNQA全部はいっぺんには救えない時間の力を使うしかないわな2023/09/25 00:42:19863.神も仏も名無しさんoNNQA>>816の続き仏陀の教えが永続的な特定少数(つまり不特定少数)を対象にしていることに「比較」し、キリストは常に「特定多数」を対象にするなぜなら、救いの対象が彼においては、神においては、人類だからだ2023/09/25 00:54:03864.神も仏も名無しさんoNNQA人類とは、神の似姿として創造され、常に、一人ひとりが世界の開闢であり、「特定」の構造から逃れることは出来ないそんな人類を創造した創造主である三位一体の神の、子なる神としての位格を持つキリストは、「特定」から、全能であるが故に逃れることは出来ない個の髪の数ですら知っている全知の存在として、キリスト教の内在的な論理を踏まえると、必ずそうなる「特定多数=人類」の救い、この奇跡を成就し、その創造は<私>において、実現され続けている2023/09/25 00:57:08865.神も仏も名無しさんoNNQA仏陀は本質の力を、つまり、理論理性の、因果関係の法を使って、永遠の特定少数(不特定少数)の救いを経由して、衆生を救済するキリストは実存の力を、つまり、実践理性の、実存を使って永遠の特定多数(不特定多数)の救いを直接的に行い救済する2023/09/25 00:59:49866.神も仏も名無しさんoNNQA耳のあるもの、耳のないもの、それらを同時に一挙に救う奇跡をキリストは行ったその方法論は「やってみせる」神が、受肉し、人類の、神の似姿として獣のように未熟な存在のままで、霊の原理により、どう完成に至るか2023/09/25 01:01:29867.神も仏も名無しさんoNNQA至ったか(過去形)それを「やってみせた」2023/09/25 01:01:50868.神も仏も名無しさんoNNQA可能態として「ティーチング」するわけでもなく現実態として「やってみせ」、それをやってみせるために原罪の贖いを、「自身である実存のために」、「やってみせ」、それをやってみせたからこそ、個の完成をオーディエンスである人類に向けて、兄弟姉妹に向けて、ライブした2023/09/25 01:04:13869.神も仏も名無しさんoNNQAもちろん、そのあとは、ブッダのように、聖霊の力を使い、<<プチキリスト>>をコピーする小道も整備したし、その俗世の、俗世すぎるほど劣化した「教会」も結果的に整備された2023/09/25 01:05:45870.神も仏も名無しさんoNNQAこの意味では「永遠の特定少数」への道も開いたという意味で仏教的でもあるが、本質的な「差異」は、「パフォーマンス」にある2023/09/25 01:06:44871.神も仏も名無しさんoNNQAそのパフォーマンスが歴史に記され、史実として人類にに刻み込まれ、「誰でもオーディエンス」になれる状況を作り、だからこそ、「知ってしまった」、つまり、知ったからこそ、「責任を生じさせた」ことに仏陀とキリストの差異の本質があるのではないか2023/09/25 01:08:22872.神も仏も名無しさんoNNQA残念ながら、仏陀は個として「究極」では「なかった」なぜなら、ジャータカの実存が、人生の果実、糧を得続けて、神「的」な存在に上昇する、存在性の「梯子を昇る」のと比較してキリストは神の実存が、存在性の「梯子を下る」ことで初めて、神と橋がかかった「物語り」を人類に提示することができたパフォーマンスすることができた、と言えるから2023/09/25 01:11:02873.神も仏も名無しさんoNNQA完全や完全性の概念を前に、仏陀とキリストが、それらの宗教的な内在的論理を所与のものとした時に、「どちらが完全なのか?」と問われれば、誰しもがキリストである、と「言わざるを得ない」だろう2023/09/25 01:12:21874.神も仏も名無しさんoNNQA「仏陀は特別だから」、「あの聖人は特別だから」とか、絶対的に「言えない」、単なる事実実存として神が人として生き、そして神に「昇る」、神としてありながら人として神に昇る奇跡を前にして、どんな言い訳も意味をなさない2023/09/25 01:13:59875.神も仏も名無しさんoNNQA<私>はこんなんだから無理、と言えるのは、<私>に中心化された本質がその理由だしかし、神であるキリストは、本質がどうであれ、取り敢えず、被造物はここまで完成され得る、という絶対的で不動の真理、被造物における完成形を「端的に示した」、「実存した」2023/09/25 01:15:53876.神も仏も名無しさんoNNQAこれは、仏陀が「なれる」を教えたことに比較して、キリストは「あれる」を示した「なれる」は「仮説」でしかないが、「あれる」は剥き出しの現実であるこの圧倒的なリアリティから、そのパフォーマンスから目を背けられる人はいないし、それを否定できる人はいないオリンピック選手は走るし、飛ぶし、打つし、そう存在しているそれを「知って」、否定できる人間は、いない2023/09/25 01:18:15877.神も仏も名無しさんoNNQAつまり、キリスト教とは、この個の完成を、「知ってもらう」だけで良し、という機能を持つマーケティングがキリスト教の本質的な機能の全てだつまり、「伝導」となる2023/09/25 01:19:23878.神も仏も名無しさんoNNQAそれを、「知ってしまった人」、は自動的に創造に否も応もなく、「取り込まれる」2023/09/25 01:20:34879.神も仏も名無しさんoNNQAこの「実存さえ知ってもらえたらいい」、「被造物なら誰でもいい」という態度こそ、「永遠の特定多数」を対象とするキリスト教の本懐であり、それを実現するエンジンは、「教え」ではなく、「実存」である、となる2023/09/25 01:22:02880.神も仏も名無しさんoNNQAしかし、キリストという実存を前にすれば、なぜ不特定多数の救済となるのか?その構造にもう少し粘着する必要がある仏陀は不特定少数なのに、なぜキリストは凡夫すらも対象と出来るのか?2023/09/25 01:28:05881.神も仏も名無しさんoNNQAもっと言うと、なぜキリストは凡夫すら、「キリストのコピーを作る」という物語り(創造)に巻き込むことが出来るのか?2023/09/25 01:29:00882.神も仏も名無しさんoNNQA他者としてのキリスト、ここにヒントがありそうだ2023/09/25 02:51:06883.神も仏も名無しさんerRszおはよ〜昨日は人のいないカトリック聖堂の空気を吸いにいった、なにかを霊的に期待したわけでもなく、仏教寺院のほうが模索はしてたけども😄2023/09/25 05:45:01884.神も仏も名無しさんerRszお題が、良さそうなウェスレー系統の教会礼拝動画を落として、見ぬままが多いが他の動画を落すついでに、ナザレン教団、桃谷教会の礼拝動画を見ているナウ、ま、ま、オモロイ😄2023/09/25 06:01:54885.神も仏も名無しさんHKuJn昨日のカトリック聖堂参りのせいか、家に読まない山程あるプロテスタント系統のキリスト教書籍を読む気になった久しぶりだな〜😄2023/09/25 10:11:40886.神も仏も名無しさんHKuJn聖書の背景の文献マニアのよーだ😄2023/09/25 10:13:53887.神も仏も名無しさんHKuJn暇人よりもマジメにギリシャ語聖書を読んだよーだ😄2023/09/25 10:14:47888.神も仏も名無しさんHKuJnエペソ書に関する、エペソにいるパウロの弟子とエペソの出来事を詳細に書いている〜人間パウロの苦難な出来事も背景とか詳細に、研究マニアだな、このお方は😄2023/09/25 10:17:26889.神も仏も名無しさんHKuJn天台浄土教阿弥陀仏を拝みながら往生要集を読んでいるとキリスト教に関するヒラメキがでてきたから、本を読む気になったよーだ😄2023/09/25 10:19:22890.神も仏も名無しさんHKuJn教会でいらなくなった本をもらったので関心がなかった、書庫にはいったままの本、テキトーに選んで読んで、ネット検索すると、こういう人らしい〜武士道の翻訳者 飯島正2023/09/25 10:22:36891.神も仏も名無しさんHKuJn新渡戸稲造の英語を再翻訳をした人のよーだ😄2023/09/25 10:24:21892.神も仏も名無しさんHKuJn飯島正久だった😄2023/09/25 10:24:40893.神も仏も名無しさんHKuJnこのギリシャ語聖書マニアぶりは、暇人が上辺で利用している可能性があるな〜これは〜暇人は邪悪だからな〜😭2023/09/25 10:42:44894.◆JBLfMwCXhYDAwJW暇人はギリシャ語もやってるんだったな~😫2023/09/25 12:20:18895.神も仏も名無しさんHKuJn飯島正久はギリシャ語聖書マニアらしい😄2023/09/25 12:23:43896.神も仏も名無しさんoNNQA聖書背景の文献マニア、すごそうですな(;゚д゚) …2023/09/25 13:42:17897.神も仏も名無しさんoNNQA暇人さんはギリシャ語の聖書マニアというより、ギリシャ語が趣味で聖書を題材に勉強してる感じでしたなw2023/09/25 13:43:19898.神も仏も名無しさんoNNQA>>882の続き実存と本質、本質は様々な側面から「部分を切り取る」ことができる智慧と慈悲から「智慧だけ」を切り取ることが可能であるが、智慧だけの仏陀が実存において不可能であるように、実存は包括的に無時間的にいっぺんに全体が全体として成立している2023/09/25 13:45:54899.神も仏も名無しさんoNNQAどこかの本で、スポーツの天才はシュッと、とかクイッと、とか擬音でのテクニックの説明が多い理由を、部分だけの説明だとそのほかの部分と連動しないので、全体として、全体の運動の中でも説明するために擬音を使う、みたいなことを書いていた2023/09/25 13:47:23900.神も仏も名無しさんoNNQA実存は特定の側面「だけ」を切り取ることを拒絶し、全体として、存在として、観衆に受け取らせる力がある2023/09/25 13:48:37901.神も仏も名無しさんoNNQAキリストが個の完成のためのテクニックを仏陀のように語り、その体系を精密に作れば作るほど、彼の三位一体の神かつ人である側面は弱体化していたことだろう2023/09/25 13:49:35902.神も仏も名無しさんoNNQAどう在るべきかそれを「実際に行うためにどれほどの労力や努力が必要なのか」は定かではないが、どう在るべきか、は全ての人においてアウトプットされ得る実存という形式は、学や耳を必ずしも必要としないあったほうがいいが、なくても目があれば知らせることができる口ではなく、目で、厳密には、目の代替としての耳で、聖書を通じて知覚できる2023/09/25 13:51:57903.神も仏も名無しさんoNNQAその知覚した神かつ人の姿は、他者(<<実存>>)として我々の前に現れる2023/09/25 13:53:06904.神も仏も名無しさんoNNQA抽象的な教えの出口(仏陀の口)として現れるのではなく剥き出しの実存、<<他者>>、その存在に中心化された生き様として立ち現れる2023/09/25 13:54:26905.神も仏も名無しさんoNNQAキリストの場合は、行為そのものが秘教的な意味を持つなぜなら、それが衆生の救済として直接的に現れるし行為そのものがあるべき個の完成を「表現」している2023/09/25 13:55:25906.神も仏も名無しさんoNNQAその行為の一切が衆生の救済の「ため」であり、行為の「意味」を持っている抽象的な智慧は必要なく、つまり理論理性は仏教ほど必要なく実践理性、つまり倫理観の教えに中心化されていることに特徴がある2023/09/25 13:57:05907.神も仏も名無しさんoNNQA目と心で学ぶ、それも一人ひとりのステージに応じてそれができるそれが可能であるのは、誰にも開かれた目によって、その伝達を行えるからだ2023/09/25 13:58:10908.神も仏も名無しさんoNNQA余分なところが一先なく、最もシンプルな形で真理を語るつまり真理が受肉して生きる姿を物語りの形式で見てもらうこの点にキリスト教の特徴がある2023/09/25 14:00:11909.神も仏も名無しさんoNNQA倫理と実存が不可分なほど同化してる様従って、存在が倫理として、他者の形において現れる修行というより、生き方、そういった形でキリストは真理を凡夫含めて広めてゆくそして真理の小道は聖霊と教会を通じて、準備が出来ている、耳のあるもの、だけを対象にも開かれる2023/09/25 14:45:53910.神も仏も名無しさんoNNQAキリストのコピー作りをスケールされるためにはとてつもなく時間のかかる回り道を取らざるを得ないが、確実に不特定多数への働きかけとして機能する側面があるそして、少数の耳のあるものは、召命を受けて、社会の変容にも働きかけるしかし、耳のあるものへの具体的な行、明確な存在性の梯子を昇る方法論は、仏教のそれと比較して明確ではないしかし、それをあえて明確化しないことにより、不特定多数の救い、キリストのコピーを作る、という目的に対して機能している2023/09/25 14:50:18911.神も仏も名無しさんoNNQA宗教玄人は神秘主義的な行体系の整備のされなさや、凡夫を対象に機能するキリスト教に物足りなさを感じるに違いない不特定少数を対象とした仏教が悟性の発達した欧米のインテリのウケが良いのもうなづけるしかし特定多数をキリストが対象とする限り、それは致し方ない、と言わざるを得ない2023/09/25 14:52:30912.神も仏も名無しさんHKuJn神の言の権威が低下したせいやろな〜天台浄土教の阿弥陀仏拝みながら絶対的権威が必要なのだ、と禅サイドにいるとこういう権威的価値から遠い😄2023/09/25 15:04:52913.神も仏も名無しさんoNNQA仏教はヴェーダへのカウンターだから仕方ないかもね智慧と行でキリストみたく教条主義のパリサイ派化してる当時の宗教家を横目に、限られた人に対して実践を教えたのでせうんで、その実践に素朴実在論的な思考停止はいらない、という態度だったのでせうまぁ、仏教の内在的論理としては、仏陀が語らなければ人類は滅びてたわけだから、当時のヴェーダではそれを阻止できなかった、ということになりますな2023/09/25 23:30:08914.神も仏も名無しさんoNNQAまぁ、その意味では秘教を耳のあるものにだけは開いた、一定の民主化を行なった、とは言えそうとは言え、大昔だから、それでも閉じてる、とは現代からは見えるかもしれないが2023/09/25 23:33:06915.神も仏も名無しさんoNNQAこのスレはそろそろ終わるから新しいテーマを立てるんじゃなくどうでもいい一言コメントでながそう2023/09/25 23:34:26916.神も仏も名無しさんoNNQAJBLさんから一言埋めの技を教えてもらってから投稿数は劇的に増えたし、SNSみたいなフロー型の使い方を5chではするようになったというより、出来るようになった2023/09/25 23:35:46917.神も仏も名無しさんoNNQAしかし、それだと一定まとまった情報を投稿しなくなったし、したくなくなった情報量がある時はコピペの時だけ、みたくなった2023/09/25 23:36:34918.神も仏も名無しさんoNNQAそれまでは5chはキリスト教に対してトンデモが正統、みたいな転倒した非常識が常識として罷り通ってたサロメやなるみさん、シャロンさん、などなど、まちこさんなどなど、とにかく皆が極端すぎる2023/09/25 23:38:28919.神も仏も名無しさんoNNQAだからカテキズムをベースに語るようにしてたけど、それはそれで書きたいことがかけなくなる別に教理のお勉強をさせたいわけじゃないし、単に常識と異なる発言が多過ぎで、クラクラするからその対策としてやってた程度2023/09/25 23:39:53920.神も仏も名無しさんHKuJn仏教では、俺と夕とJBLでなんとか〜リダン、麦、鹿、馬ぱーりーはそういえ転倒した系統😭2023/09/25 23:41:36921.神も仏も名無しさんoNNQAまた、誰かとやりとりしたとしても、興味を持ってる観点が違うし、そもそも自分の興味を持つポイントが特殊なので、5chでは5chの住民の枠内で、短いレスでやりとりしてたが、フロー型だから何も残らないことに気付いた2023/09/25 23:41:41922.神も仏も名無しさんoNNQA>>920りだんさんはよく知らんけど、鹿と麦は論外ですな修羅道の中にいながら、修羅道の道具として仏教つかうとか、まさにサロメそっくりだと思いまつ😢2023/09/25 23:42:58923.神も仏も名無しさんoNNQAこうして独り言でキリスト教において気になる点をtalkで書き溜めてみたら、思ったより得られることが大きいことに気付いたこれは、学習効果が高いし、自分の中でも新しい発見があった2023/09/25 23:44:09924.神も仏も名無しさんHKuJnリダンは幽体離脱ベース麦、鹿は西欧哲学混ぜ合わせ誤読ベース馬ぱーりーは新興宗教五井教祖崇拝者、😭2023/09/25 23:44:16925.神も仏も名無しさんoNNQA>>924幽体離脱でつか、スピ系なんかな鹿と麦は単なるバカなので相手するだけ無駄ですなwそれにしても、令和になっても新興宗教ハマってる人がいるとか、ほんとしょうがないですなただ自然消滅するから鹿と麦同様、スルーしとけばええと思われまつ2023/09/25 23:46:41926.神も仏も名無しさんoNNQAおもうに、自分も自分の悟性の上にたって、自由な思考を働かせることにストッパーをかけていたようだ教条も前提として大事だけど、その上で自分の悟性で思考することに人生における本質的な意味があるのはわかっているつもりだったけど、独り言を続けたことで、どこかでブレーキかけてたことに気付いた2023/09/25 23:49:22927.神も仏も名無しさんHKuJnま、鹿とリダンと馬ぱーりーが魔のトライアングルを作りますなあ〜最近はエサとなってるリダンに絞っている、鹿とウマぱーりー的にはリダンはマウンティングもしくは利用しやすい相手としての需要がある、ま、ある種の琴的なモチベーションと動き😭2023/09/25 23:49:58928.神も仏も名無しさんoNNQAそうかー、仏教スレも相変わらず大変みたいですね〜2023/09/25 23:50:36929.神も仏も名無しさんoNNQA今回の起点は「物語り」と「創造」軸に<私>と<<私>>のレンズでそれを捉えてみるで、やってみたけど、まだまだ解像度を高められることを発見できたむしろ、大体が雑に大雑把に思考をしているので、止まってもう少し詳しく吟味する努力が一切足りないが自分にとって必要な大枠の輪郭とその根拠は形作れたな2023/09/25 23:53:33930.神も仏も名無しさんoNNQAテーマを広げるも良し今までの思考にもう一段階スクリーニングをかけてノイズを排除した後に、吟味が足らないポイントを見つけてさらに粘るも良し2023/09/25 23:54:46931.神も仏も名無しさんoNNQAもう少し、新しい概念を自身に定着させるために結晶化の作業が必要なことは間違いない2023/09/25 23:55:31932.神も仏も名無しさんoNNQAとはいえ、この種の作業は一体何のためにあるのか?と書きながらしばしば自問自答した自分にとって意味のある行為であることは間違いないただ、なぜそれを匿名掲示板でやる意義があるのか、は自分でも???だった2023/09/25 23:57:55933.神も仏も名無しさんoNNQAnotionに書き溜めるほどのモチベーションはないなぜなら、書けば確実に整理したり、磨きたくなるからそれは重いまた、ブログに書く場合でも同様2023/09/25 23:59:27934.神も仏も名無しさんX7HiR5chノリのtalkでフロー型、便所の落書きくらいの軽さの中で、フロー型で履いて捨てるように書き、その中で過去の自分を他者と見立てて、<私>が<<私>>を観察する2023/09/26 00:00:59935.神も仏も名無しさんX7HiR形態をもっているようでもっていない文字の羅列の中に、可能性や新しいものを発見して、その先に何かあるかも、という予感と共に、取り敢えず書いてみる2023/09/26 00:02:10936.神も仏も名無しさんX7HiR思考の半物質化、と言うゆるい形態がどうも自分には合ってるらしいそのスタイルだと新しい発見がコンスタントにあるし、それは職業でもマネタイズのためでもなんでもないのでとにかく自分の興味関心のあるものの理解を深める効果だけを追い求める場合、どうやら機能することがわかった2023/09/26 00:04:03937.神も仏も名無しさんX7HiRtalkスレは1000レスで埋まるその大半を独り言で埋めるなんぞ病気じゃないのか?と思うが1行レスの技を覚えた身としてはどうってことない自分にとって意味のある内容で埋め尽くしたから、自分にとって(だけ)意味のあるスレの完成だ2023/09/26 00:06:19938.神も仏も名無しさんX7HiRなんて清々しい気分なんだろう語りかける人のことを考えなくていいことがこんなに自由な気分にさせるなんてこの感覚はジャズのコード進行ガン無視して即興するときの感覚に似ている聴衆がいない時に自宅でなんとなくやってる感覚2023/09/26 00:08:34939.神も仏も名無しさんX7HiR人はこの手の自由を幼少期に手放してそれっきりになってる人が多いのではないか決まった時間に、何の意味もない行為、例えばトイレに行って、A4用紙をちぎって流す、という実用的にも理論的にも全く無意味な行為を続けることの価値を忘れてやしないか2023/09/26 00:11:05940.神も仏も名無しさんX7HiRこのスレで行なっている行為は他者にとって無価値だが私にとってだけ意味のある行為を続ける黙々と続けるその行為を自動的に録画して、それを自分で見る2023/09/26 00:13:24941.神も仏も名無しさんX7HiRそれだけでは何かが足りなくて可能性という意味で他者が見れる場で一人の作業を黙々と行うそれは自慰を公開する性癖か何かじゃないか、とか自分でも思ったりするが、おそらくそれとは違う何かがあるから続いているようにも思う2023/09/26 00:17:51942.神も仏も名無しさんX7HiRおそらく可能態として何かを切望していて、その実現に(未来の自分を含めた)他者の眼差しが構造上ある、という状態に意味があるのかもしれまい、といいながら、単なる性癖かもしれない、分からない2023/09/26 00:19:12943.神も仏も名無しさんX7HiR残り58レス残ってるが、今日中に消費できるのかしら2023/09/26 00:22:39944.神も仏も名無しさんX7HiR最近、絶望名人カフカと希望名人ゲーテの名言集を、彼らが会話してるように対比している書籍を購入した、非常に味わい深い2023/09/26 00:27:21945.神も仏も名無しさんX7HiR残りのレスはこれらで埋めようそれにしても、なぜカフカの呟きの方が実存の真理を帯びているように感じてしまうのか、不思議だ2023/09/26 00:28:07946.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:希望は誰にでもある。何事においても、絶望するよりは、希望を持つ方がいい。先のことなど誰にもわからないのだからカフカ:ああ、希望はたっぷりありますを無限に多くの希望があります。---ただ、ぼくらのためには、ないんです。2023/09/26 00:29:50947.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:希望は、わたしたちが生きるのを助けてくれます。カフカ:朝の希望は、午後には埋葬されている。2023/09/26 00:30:55948.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:希望を失ってしまったときにこそ、良いことが待っているものだよ。カフカ:ぼくがどの方角に向きを変えても、真っ黒な波が打ち寄せてくる。2023/09/26 00:31:51949.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:なんでそう深刻に世間のことで思い悩みたがるのだ。陽気さと真っ直ぐな心があれば、最終的にはうまくいく。カフカ:すべてが素晴らしい。ただ、ぼくにとってだけはそうではない。それは正当なことだ。2023/09/26 00:33:10950.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:太陽が輝けば、ちりも輝く。カフカ:暗闇に戻らなければなりませんでしたり太陽に耐えられなかったのです。絶望を感じました。2023/09/26 00:34:08951.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:厚い雲、たちこめる霧、激しい雨の中から、希望はわれわれを救い出す。カフカ:救世主はやってくるだろうをもはや必要ではなくなったときに。2023/09/26 00:35:08952.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:人の感情で最も高貴なのは、希望です。運命がすべえを無に帰そうとしても、それでと生き続けようとする希望です。カフカ:ぼくは自分の状態に、果てしなく絶望している権利がある。2023/09/26 00:36:25953.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:大地にしっかりと立って。まわりを見渡すのだ。力のある者には、世界が語りかける。カフカ:ボクの足の下に、たしかな大地はありません。はっきりとはしないまま、ぼくはとても怖れていました。自分が地面からどれだけ浮き上がってしまっているのか、ぜんぜんわからなかったのです。2023/09/26 00:38:27954.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:晩に、わたしは千匹のハエをたたき殺した。それなのに早朝、一匹のハエに起こされた。カフカ:かわいそうなハエを、なぜそっおしておいてやらなきのですか!2023/09/26 00:39:39955.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:百万の読者を期待しないような人間は、一行も書くべきではないだろうね。カフカ:もっと大きいもので自分を試そうとするべきだ、と君は言う。たしかに、そうかもしれないりだが、大小で決まることでもないだろう。ぼくは、ぼくのねずみの穴の中でも自分を試せるはずだ。2023/09/26 00:41:27956.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテ:わたしはありのままの自分に満足していたし、自分を高貴な人間だと思っていたから、たとえ君主にされたとしてと、とくに不思議に思わなかっただろうカフカ:夕べの散歩の時、住来のどんなちょっとした騒音も、自分に向けられたどんな視線も、ショーケースの中のどんな写真も、すべてぼくより重要なものき思われた。2023/09/26 00:43:32957.神も仏も名無しさんX7HiR今日はここまでにしておこうちなみに、カフカはゲーテを大リスペクトしていたにも関わらず、ここまでの違い2023/09/26 00:44:38958.神も仏も名無しさんX7HiRというより、カフカはゲーテの言っていること、世界を十全に把握していただろうしかし、「その上で」誰よりも「小さく」あった2023/09/26 00:45:31959.神も仏も名無しさんX7HiRそれは、謙遜や卑下などとは無縁に思えるかれは、ただ単に、剥き出しの実存を、現実を、観じていただけであり2023/09/26 00:46:42960.神も仏も名無しさんX7HiR「知ったからには」そのまま語っただけだろう2023/09/26 00:47:08961.神も仏も名無しさんX7HiRゲーテはニーチェのようなイキりがまだ残っているプラトン的に正しいし、その通りだし、なんなら宗教やその流れのスピはまさにゲーテ的なものを好む2023/09/26 00:48:45962.神も仏も名無しさんX7HiRしかし、耳のあるもの、小乗、特定少数は、カフカのように生きざるを得ない、という側面があることもまた事実2023/09/26 00:49:34963.神も仏も名無しさんX7HiR成金の家に生まれて、容姿に恵まれ、能力的にも社会的な一定評価を受けているはずなのにあの態度世間の一切の評価はかれにとって意味をなさず、ただただ己と己が作る世界を観察し、理想と現実のギャップの只中で、その事実に絶望する、を通して生きる2023/09/26 00:51:38964.神も仏も名無しさんX7HiR彼に一般常識や非常識の宗教的な真理は何の意味もなさない全ては分かった上で己で判断するからその意味で、ゲーテは大昔の型で、カフカは比較的現代的、と言いうる時代精神が繋がっていて、その匂いが観じられるのはゲーテではなくカフカだ2023/09/26 00:53:14965.神も仏も名無しさんX7HiRその意味では全ての宗教の「常識」は古すぎるもはや、必要としない、されないレベルだ2023/09/26 00:53:55966.神も仏も名無しさんX7HiR彼のような人間にとって、所与のものとして豊かな神の恩寵を与えられていることを知っているからこそ、だからこそ絶望する知ったら責任が伴い、その責任に運命的に抗えないから、絶望するしかない絶望は権利であり、義務である知った人なら、そうなるだろう2023/09/26 00:56:46967.神も仏も名無しさんX7HiRカフカは極めて仏教的かつ、キリスト教的な人間だ2023/09/26 00:57:38968.神も仏も名無しさんX7HiRカフカは、己の十字架を背負うことなんて出来ないなぜなら、その重力に私はどうせ潰されるに決まってるなどと考えるだろうなぜなら、己の十字架の意味と自分の弱さを誰よりも知ってるからそして、だれよりも真摯にそれと向き合ってるからとなるに違いない2023/09/26 01:03:09969.神も仏も名無しさんX7HiR大体の人間が、自分を含めて適当すぎるじゃないと生きてゆけないから繊細な人も、その人より繊細な人も、その人より繊細な人もそれらよりもカフカは真摯で弱い2023/09/26 01:04:06970.神も仏も名無しさんX7HiR知ってしまったのだから仕方がない2023/09/26 01:04:18971.神も仏も名無しさんX7HiR不完全であることの、耐え難い身悶えその不完全が「この世の一切と比較しても」より劣っていることの耐え難い身悶え世界の開闢である<私>だけが権能とその権利を持つ、絶対的な定義そういった境地にはなかなか至れないが、この境地の中に幼少期の真理があることを直観する2023/09/26 01:20:50972.神も仏も名無しさんX7HiR真理というか、リアリティかこういうのは、自分を騙して自分を含めて大半の人が忘れている2023/09/26 01:22:34973.神も仏も名無しさんX7HiRジャータカの視界の広さ、ゲーテの引き出しの多さ、そういうものがあれば色んなことに対処できるだけど人は限定されているこの人生においても、ジャータカにおいても2023/09/26 01:28:43974.神も仏も名無しさんX7HiRその限定された視界の極の極は、<今>の瞬間はカフカ的であり、それは、そのまま、永遠であるのだから、肯定も否定もなく、絶望があれば、絶望がある2023/09/26 01:29:51975.神も仏も名無しさんX7HiRそれを「乗り越える」必要性は、いまここではなく、ただ味わえばいい、となる2023/09/26 01:30:22976.神も仏も名無しさんX7HiRそれを味わうことに善も悪もなく、ただ剥き出しの<今>があるだけ2023/09/26 01:30:59977.神も仏も名無しさんX7HiRキリスト教は人生の一回性を強調するその立場に立った時に、カフカは偉大であることは言うまでもないどうしてもジャータカ視点になってしまうが、そんなものが、まさに余計である、とならざるを得ない2023/09/26 01:32:02978.神も仏も名無しさんX7HiRあとの者は先になり、先の者はあとになるであろう(マタイ 20:16)2023/09/26 01:34:47979.神も仏も名無しさんX7HiRここでこの聖句を引用してしまう我々こそが、余計なものである、とならざるを得ない2023/09/26 01:35:15980.神も仏も名無しさんX7HiRそれを回避するためには、色々と知ってはいるが、結論や希望を見だりに、粗雑に出して、分かってないのに分かった気にならないようにそれよりむしろ、とにかく、この人生を誠実に苦しみながら、苦しむしかない、としかならないすな希望があってはいけない、とまで言うと言い過ぎだけど、耳のあるものなら、そうなってしまうしかないのではないか?2023/09/26 01:37:38981.神も仏も名無しさんX7HiRニーチェやゲーテのイキりはカフカに支えられているようにしか思えないむしろ、彼らこそがカフカ的であったのではないか、みたいなことを考えざるを得なくなる2023/09/26 01:39:10982.神も仏も名無しさんX7HiR仏陀の絶望も、絶望のままあり続けただろうし、キリストの絶望もそのままあり続けたのではないか?この杯は取り除くことはできないわけで2023/09/26 01:41:17983.神も仏も名無しさんX7HiRそして、それを乗り越えたかどうかなんて時間のメモリをどう取るかでしかなく、人性においてキリストが死んだら、人性において死んだ、となっても「おかしくはない」し、キリスト教カルトの中でキリストの死は敗北だ、みたいな曲解をする人達もいる2023/09/26 01:42:49984.神も仏も名無しさんX7HiRたまたま子なる神は復活まで描かれてるけど、そうでなかったら単なるだ敗北になる世俗の解釈だとそうなるでもそれは子なる神という他者の実存における同一性をどれぐらい広げるか、という話でしかなくカフカの文学が脚光をたまたま浴びたから、「彼の苦は贖われた」という美談の死後のサクセスストーリーに回収されたに過ぎない2023/09/26 01:45:17985.神も仏も名無しさんX7HiRカフカの人生は徹底的な弱さと醜さとどうしようもなさに打ちひしがれていたことは間違いない そういう世界の開闢だ2023/09/26 01:46:00986.神も仏も名無しさんX7HiRそんなものが「善い」わけがないでも「そうあらざるを得ない」そういうのがリアリティであり、ニーチェ的にイキってそれを乗り越える必要なんてそもそもないのではないか?イマココに生きるって、そうじゃなければ逆にダメなんじゃないか、と思ってしまう2023/09/26 01:47:24987.神も仏も名無しさんX7HiR結局は、カトリックの定義が正しい、に戻ってしまう真理(本質)としてではなく、実存として実存は本質に先立つ放蕩息子から放蕩を奪って何が残るのか?それが美談に回収されてしまう構造がなかったとしたら、放蕩息子が放蕩している時は他者と自己に糾弾されるのは当たり前の話でだったら放蕩する遠回りをそもそもなくしてくれ、と言いたくなる2023/09/26 02:05:05988.神も仏も名無しさんX7HiR必要であるなら、必要であるであるなら、それと同化し切って味わえばいい物語りと同化して何が悪いのか?むしろどうか仕切らないほうがジャータカ視点では「(効率が)悪い」のではないか?何れにせよ、人生の一回性は、最大限重視されるべきだつまり、実存は無限の価値があり、だからこそ、無限に価値がない2023/09/26 02:06:59989.神も仏も名無しさんX7HiRそれしかないなら、それを生きればいいそして、その価値が後で美談に回収されるとしてもそんなものは不要で、気にしない方がいい2023/09/26 02:08:14990.神も仏も名無しさんX7HiRだから重要なことは「気にしない生き方ができるか?」カフカやウィトゲンシュタインのように生きられるかそういうのが、個人的には一番気になってくる2023/09/26 02:09:15991.神も仏も名無しさんX7HiR今のところ、自分だけでは無理だだから、運命や隣人が常に手伝ってくれるその先にある幸福も知ってるが、それを分かっているところが邪魔でしょうがない2023/09/26 02:10:17992.神も仏も名無しさんX7HiRどの道幸福になる人生であることを知っていて目の前の苦難を味わい尽くせるわけがない力の抜きどころも、こなし方も知っていて器用に生きれる技もある2023/09/26 02:12:32993.神も仏も名無しさんX7HiR普通に考えたらムリゲームリゲーを運命の力で崩壊してもらっても困るそんな中でもギリギリのところの環境を提示してもらってるのも知ってる全ては与えられている2023/09/26 02:13:38994.神も仏も名無しさんX7HiR全てが与えられていることを知っていて絶望できるカフカのように一回性の人生を生ききっているとは到底思えないでも苦難が増えるのも困るいつもギリギリだけど、それでも苦は嫌なもの2023/09/26 02:15:03995.神も仏も名無しさんX7HiR一番よくないのは、雨が止むことを知ってることその匂いも分かることノーマルモードでいつまで生きるのか?そういうのは、おそらく自分もそうだし、全ての被造物に問われていること2023/09/26 02:16:12996.神も仏も名無しさんX7HiR幸福にしかならないことを分かっていて苦を生きることに何の意味があるのだろう初心者マークをとってある意味で事故するドライバーとどう違うのだろう2023/09/26 02:17:39997.神も仏も名無しさんX7HiR未来予測の精度が全ての世の中にあって自由になればなるほど分かるようになるその時に提示されるものは一体何なのか?2023/09/26 02:18:37998.神も仏も名無しさんX7HiR人類にどんな資質が新たに求められるのか?ずいぶん先に必要になることを、なぜ知っていて、準備しようとしてるのか?その先にある苦の重さをなぜ予感できるのか?2023/09/26 02:19:30999.神も仏も名無しさんX7HiR予測ばかりして、なぜ今を生きられないのか?私はどこを生きているのか?そういうやつを整理しなければならないのは被造物の宿命ですな2023/09/26 02:20:151000.神も仏も名無しさんX7HiR天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン2023/09/26 02:21:011001.Talk ★???このスレッドはコメントが1000件を超えました。新しいスレッドを立ててください。2023/09/26 02:21:011002.Talk ★???【プレミアムサービス無料期間延長!】プレミアムの無料期間を2025/3/31まで延長することになりました。広告除去や規制緩和など、ヘビーユーザーにとって欠かせない機能を無料でお楽しみいただけます。是非この機会にプレミアムサービスをお試しください!▼プレミアムサービスはこちらからhttps://talk.jp/premium2023/09/26 02:21:01
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+6331176.52024/11/21 23:31:38
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン
カテキズムより
2761 主の祈りは、全福音書の要約そのものになっています。
主は祈るようにと教えられたあとで、願いなさい。そうすれば与えられるといわれました。だから、それぞれの必要に応じて神に願うことができはしますが、やはり、つねに正式な主の祈りから始めるべきです。
この祈りこそあらゆる願いが集約された基本的な祈りだからです
以上
→全能なる崇高で偉大な父なる神への全幅の信頼の眼差しを向けて
→この地上の全ての人々の間で聖とされることを願う、具体的に周りにいる人のことを想起しながら
→キリストの再臨と神の国の到来。自分の日常の生活によりそれが近づくことを願う。具体的に自分の生きる世界を想起しながら
→キリストの望みと自分の望みの一致を願う、具体的に自分の望みとキリストの望みを思い出す
→神への信頼と感謝の中で物質的、霊的な意味での命の糧を感謝と共に願う
→敵をゆるす努力なしでは自己の罪の許しを得られないことを心に響かせ、神の哀れみを求める。具体的に自分の罪と日常のゆるせない人を想起し赦す
→識別と力の霊を嘆願し、警戒するための恵みや、最後まで忠実に耐え忍ぶことを切願する、具合的に自分が陥りやすい誘惑を想起しながら
→三位一体の神の勝利がこの世の支配者のサタンに対して現れること願う
→どうかそのとおりに成りますように、と謙虚に控えめに委託の心をもって
普通にこっちのが快適
これは必然だな
匿名掲示板はそういう時に相応しい場所だ
スレ立てたばかりで連投だから勢いついてるだろうが秒で減速する
かれらはもう腐っており、時間の経過で土に還る
相手すべきなのは、レコメンドの洗脳とそれを支える資本主義のシステムだ
今は資本主義が民主主義を攻撃し、全体主義的な資本主義が栄えている時代
そう言わざるを得ない
すなわち、キリスト教的な倫理観
宗教そのものが必要なくなるのではないかという危惧
カルトも正統派もどちらも必要とされていない
かれらの時代はとうの昔に終わっている
社会の中でシモーヌヴェイユのように生きる人間が求められている時代の空気
その中で、現実社会と信仰のバランス感覚を持って皆が動いている
みなが地上戦をしてるのを感じる
そういう時代の空気、それぞれの持ち場でやるべきことをやっている
2022/10/16(日) 16:27:25.61ID:lt211dhX
>>283
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ???????ブォォォォ
なりきって煩悩を燃やし尽くすぞぉおおお???ファイヤ!ファイヤ!!
悪霊オェー!!掛かり付けの精神科に行け!!wwwwww
精神病棟から出てくんな!!
キチガイ
サティ氏と
おっしゃているが
ホントですか?
😄
サティなら、
よろ〜
😄
おはよーございます🌙
>>46
せやで
>>49
よろー、ただ気が向いたら書き込むスタンスなので頻度は低めどすー
サティがきた〜
退屈しねえ〜
JBLスレでは、
神の僕氏に
ジャブ入れてま
😄
ウンザリ
😄
サティ的に
ウザいので
新スレという流れか
😄
ばいばい。
😄
1.透明性(Transparency):AI技術は基本的に説明可能であること。
2.包含(Inclusion):AI技術の発展が全人類の一人一人に恩恵があること。
3.責任(Responsibility):AI開発、利用においては責任を持って遂行すること。
4.公平性(Impartiality):偏見や差別に基づいたAI技術の開発や利用をしないこと。
5.信頼性(Reliability):AI技術やサービスは信頼性があること。
6.セキュリティとプライバシー担保(Security and privacy):AI技術はセキュリティに考慮して機能し、利用者のプライバシーに配慮すること。
私利私欲、つまり自分だけ売上と利益を増やしたい、という競争原理にAIを使う限り、ガイドライン準拠は構造的に難しい
仏教版では、
ナルシズムバトルが発生していたが、
やはり、ナルシズムバトルは
シカーチンの
勝利のよーである
😫
ボッタん、ムイムイは
シカーチンと激しいデッドヒートを演じたこともあったが
今や絶叫するのは
シカーチン様、
ただ一人
😭
馬鹿の園は相変わらずみたいですなw
ナルシズム絶対王者やで😆
世界征服目論むよーな
ナルシズムが
シカーチン
👽
ナルシズムに
独り上り詰めているよーだ
👽
https://www.youtube.com/watch?v=6gkL5ytMLOc
演劇を見る時、初めは虚構だと認識しているが
時間が経過すると、まるで現実のように物語りにのめり込み同化する
物語りはまやかし
哲学的には本質、存在を指し示す性質と、複数の存在がおりなす関係性でしかない
我は我は在る
ただ在る、それしかない
私は私は在る、とよく似てて、
物語りが織りなす、仮初の「私」ではなく、
ただ在る、である
その意味において無我であり、
実存の意味において、私は私は在る、である
前のわたしは他者に適応しうる「わたし」であり、後の「わたし」は他者に適応し得ない<わたし>となる
そう永井均は大昔から散々主張し続けており、それは正しい
ではキリスト教ではどうなるのだろうか、とふと立ち止まる
物語りの取り扱いがどうも違う
前の「わたし」と後の<私>が違うように
「ものがたり」と<物語り>があるように思う
「わたし」と<私>の違いと似た構造のように
そして、時間を原理として内包するこの世の物語りの外にある
創造の物語りは内側の定義から超出してしまう
創造の物語りを紡ぐ<私>の十字架もある
しかし、この今のおいて一挙に創造全てが成立している視座から見た時の一つの点
「わたし」と同じ構造の意味での本質という意味での「物語り」は積極的にエポケーするべき概念
時間、存在、物語り
は個において、一種の三位一体として機能している
<私>の<物語り>だ
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
セイントウィキペディア〜〜
😄
セイント画像落とし大ブーム〜〜
😄
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9
カトリックセイントには
詳しくない、チラチラみたことは
見たが〜
😄
洗礼者ヨハネから始まり使徒ヨハネやアウグスティヌス、偽ディオニシウス、エックハルト、十字架のヨハネなどなど大道としてのキリスト教ではなく小道としてのキリスト教の系譜ですな
まぁ、系譜というより個人、となるけど
時間の内に在りながら時間の外にあらざるを得ない
近所のカトリック教会堂を外から拝んできた
😄
俺も行こうかな
しかし、本質と存在と創造の観点から鑑みるとなくてはならない概念であるのでは、という予感が生まれた
大道ではそれらは不必要だが、小道では創造を前に、確実に必要な事柄だろう
家族が病魔でバタバタ死んだり、
当人が病魔に苦しみ早く天に召される
セイントの
ウィキペディアを見ながら〜
救いは天国の暮らしか〜
と
ま、希望〜
😄
サロメなんか、
大うそつきだ
😫
😄
迫力あるな〜
キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのでしょうな
セイントのウィキペディア検索で
自分側の世界観以外の
視点のりかい
増した
😄
とうとう、
こっちで暴れている
😫
知らないことだらけだ、
学習せんとな〜
😄
罪悪防止お薬発想なのかも?と
😳
解決するよりも
罪悪恐怖対応のほうが
率直でタシになるかも
😄
人生は苦楽があるという祈りのよーだ
😳
この事実を無視して、何の努力なくリターンだけを求める人間については過去の遺物として滅びるに任せればいい
聖人への心のこもった尊敬と愛情、そして神との仲介の機能に関する希望で出来ている
小道を歩むものはそういうのは克服されていることが前提となるので論点にはならない
仏教は個の救済にフォーカスが当たっているが、キリスト教は人類の救済にフォーカスがあたっている
物語りなくして、キリスト教なし
<私>から立ち現れる位階を登ってゆく運動から見た時に、究極的にはつまづき石になり得る
この世の慣習という意味での物語りからは離れたほうがいいことは自明だし、キリストも口を酸っぱく語り続けている
いっぽうで、その発言は、創造の物語りを所与のものとした地平からの指摘であるわけだから、
真実の物語りとまやかしの物語があり、まやかしの物語りを捨てて、真実の物語りに入れ、という指摘とも言い得る
個の救済だけで語り得ない点が、大乗の菩薩的なニュアンスがある
キリスト教は物語りで衆生の救済と、救済された状態を定義している
創造の物語りを失うと、それらは無に帰す
仏教の本質と存在をどこまでも解体し、本質はまやかしで存在だけが真である、真すらも本質だからそれに猜疑をかけ続ける構造と比較した時に、足場の危うさを非常に内包しているのがキリスト教
仏教の視点から鑑みると、キリスト教の創造の物語りはまやかしだ、と容易に捉え得る
足場としての創造、その確信のための<私>の<創造の物語り>
その物語りは「あれもあり得る、これもあり得る」のような並行世界の質感が一切排除された
「これしかありえない」、剥き出しの物語り
しかし、物語りである以上、それは本質に属するもの
何個か次元を上昇させた物語りだったとしても
それが物語りである以上本質に属し、実存の優位性は構造上変わらない
存在より今のほうが優位性があるが、その優位性がある今のほうが物語りとの親和性、関係が深い
そんなものはあり得るのか?
キリスト教の「創造」だけは、これしかない物語りとして受け入れられる
これは感情的な話ではなく、実存主義的な意味での物語りとしてこれしかない、と言い得る
これは一体何なのか?
これを見つけない限り、キリスト教の足場は不安定なままだ
聖なる伝承の価値は重要だろな、
そこからの生命力、
哀しみのマリアの祈りシリーズを
チラ読みした…
相変わらずマリア信仰、謎が多い
http://antiquesanastasia.com/religion/references/virgin_mary/index.html
キリスト教全体の霊的な生命力に関して
もうひとつハッキリしない
😄
精緻な空間把握のコンプがメインの主題の世界観に生きているからだ
😄
ほんと、
それの霊的な
土台
イメージが
たいへんや〜
😄
ま、プロテスタントは喜怒哀楽の感情と霊的な関連が
いかほどに枯渇しているかを〜
神秘の黙想
編集
それぞれの神秘の内容は以下のとおりである[8][9]。
〈喜びの神秘〉 1、お告げ(受胎告知) 2、エリザベト訪問 3、降誕 4、主の奉献 5、イエスが神殿で見いだされる(英語版)
〈苦しみの神秘〉 1、ゲッセマネの苦しみ 2、キリストのむち打ち(英語版) 3、いばらの冠(英語版) 4、十字架を担うキリスト(英語版) 5、死去
〈栄えの神秘〉 1、復活 2、昇天 3、聖霊降臨 4、マリアの被昇天 5、マリアが天と地の元后とされる
〈光の神秘〉 1、キリストの洗礼 2、カナの婚礼 3、宣教のはじめ 4、主の変容 5、聖体の制定(最後の晩餐)
曜日の振り分けは、月曜日・土曜日に「喜びの神秘」、火曜日・金曜日に「苦しみの神秘」、水曜日・日曜日に「栄えの神秘」、そして木曜日に「光の神秘」とされている。これらの神秘は、伝統的には「喜び」「苦しみ」「栄え」の3種類で、「ロザリオの十五玄義」とも呼ばれていたが、2002年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって新たに「光の神秘」が提唱されて付け加えられ、曜日も一部変更された[10][8][11]。なお、かつて日本のカトリック教会では、この神秘と黙想のことを「玄義」と呼び、「喜びの玄義」「第一玄義」…などのように呼んで唱えていたが、現在は「喜びの神秘」「第一の黙想」などというのが公式な呼び方となっている。
これらの祈り方・黙想はカトリック教会によって提唱されているもので、教会でミサの前後などに一同で唱える場合はおおむね上記の内容に沿って祈ることが多いが、必ずしもその曜日のとおりに決められているわけではなく、私的な祈りなどにおいては祈り方はある程度自由であり、一環(五連)でなくとも短い時間で一連か二連だけ唱えたり、個別の意向で祈ることも可能である。また、一連の終わりに「ファティマの祈り」、一環の終わりに「サルヴェ・レジーナ」や「聖マリアの連願」などの祈りを付け加えることもある[12]。『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』には、付録部分に「ロザリオの結びの祈り」と「祈願」が掲載されている[13]。
霊的な存在と
自分の喜怒哀楽の感情との
やり取りは
あるだろうならな、
やはり、プロテスタントは
そういう方面が
枯渇しとるな
😄
扱いに向き合う神父も
少ない教会もあるだろうけどな〜
だが
個人的にロザリオを祈りのシステムが
あるのは
霊的と自分の喜怒哀楽の感情の
交流の舞台は
備えられている幸運はあるが、
😄
死後の感情の
イマジネーションは
考えてなかった〜
プロテスタントサイドにいたからだな〜
ロザリオの祈りあたりの黙想センスは
哀しみのマリアの祈りなど、
残された生者の喜怒哀楽、
死者の喜怒哀楽、
その辺の霊的なイマジネーションは
考えてはいなかったな〜
インマヌエル、主は共におられる、
みたいな
喜怒哀楽
😄
空間認識な世界観に満ちる志向性なので、
全て、その方向性に昇華される。
こっちサイドはアナログの、生々しい悲痛な嘆きのテーマには深く入りこまぬ
どこまでも空間認識の拡がりの中で
それらを昇華する働きだ〜
😄
キリスト教教徒の墓参りは
インマヌエル、主は共におられる、
みたいな
喜怒哀楽
で
ゴーだな
😄
思い知らされるな〜
マリア信仰の内容と黙想に、
http://shelline-oblate.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8165.html
参考にしてくださいまへ
967 処女マリアは、御父のみ旨と、御子のあがないのわざを、聖霊の働きに全面的に賛同したことにより、教会にとって信仰と愛の模範です。
このことにより、マリアは「教会の卓越してまったく独特な肢体」であり、教会の模範として仰ぐべき存在」、「範型」でさえあります。
968 教会と全人類に対するマリアの役割には、これ以上のものもあります。彼女は「従順、信仰、希望、燃える愛をもって、人々に超自然的生命を回復するために、救い主キリストのみわざにまったく独特な方法で協力されました。このためマリアは恩恵の世界でわたしたちにとって母です」。
969 「恩恵の計営におけるマリアの母としてのこの役割は、お告げに際してマリアが忠実に与え、そして十字架の下でためらうことなく堅持し続けた同意から始まって、選ばれた全てのものの永遠の完成に至るまでたえず続くものです。
マリアは天に上げられた後もこの救いをもたらす務めを放棄することなく、かえって数々の取り次ぎをもって、永遠の救いのたまものをわたしたちに得させることを続けられます。…このために聖なる処女は、教会において、弁護者、扶助者、仲介者の称号をもって呼び求められています。
そして、教会とはまさにこの聖霊、生命に連なる機能を持ち、その教会の聖人における代表格がマリアとなる
マリアがとりなしなどの仲介、天と地を結ぶ役割を担っているのは、教会の擬人化に他ならないとも表現し得る
聖霊は本質において捉えることができるが、実存において捉えることが出来ない
マリアは聖霊を実存として捉えることを可能にする機能、役割を持っている気がする
失ったまま回復できないプロテスタントの喜怒哀楽、
喜怒哀楽のマリアで、
その要素を
実はカバーしとるのは
意外だった〜
恐るべし〜
😇
イマジネーションの霊的深みを
狙っていたとは
新発想だ〜
念仏聖と
山伏の謎が解ける〜
😄
シャバ的な観想だ〜、
だから、聖職者上位に扱われない
マリア信業マニアなシスターセイントを
生産した〜
悪く言えばイタコ〜
す、すまん〜、
😓
成道以前の釈迦が菩薩で「なかった」ことなあり得ないのと似た構造なのではないか?
これは、本質が「持続」していることに他ならない
実存が持続しなくとも、本質の持続は絶対条件だ
菩薩時代なき釈迦如来があり得ないように
この時点でキリスト教も仏教も「物語り」を前提としている
釈迦の物語りは釈迦という<私>の創造を巡る<十字架の物語り>とキリスト教の概念上、ならざるを得ない
被造物の物語りは実存の本質の持続となるが、
神の物語りは実存や本質、持続が被造物のそれとは異なり、全てを吸収してしまう
本質が持続しても実存はその持続の上で、コロコロ変わってゆく、などは考え得る
しかし、その持続で蓄積されたさまざまな事柄が、
特定の時間の点、つまり<今=私>において一挙に統合されることは確実だろう
ジャータカの特定の過去の物語りを「思い出す」、その現在の<今=私=釈迦>にとって本質の持続として捉えられるのであれば、
その過去の実存が釈迦であったか否か、は問題にはならない
それは、「悟りを得るため、必要十分な豊かな経験を積む」といった大前提のコンテキストだ
菩薩レベルの存在は、豊かな経験を積むために
積極的に苦の中に自ら入っていっているように見受けられる
「衆生を苦から救いたい」という釈迦の大欲が動機だろう
これもまた、創造の物語に吸収される
個の完成にはその前提となる物語りが存在し、そのOSの上で<私の物語り>を展開する必要がある、ということ
個の物語りは本質の持続が求められる
仏教はこの点を強調していないが、釈迦に倣うと解脱を目的とするのではなく、衆生の救済のために積極的に苦の中に入ってゆかなかればならないことになる
実存の無我の中で物語りを脱構築する姿勢は合理的だが、
ただそれだとその前提にある物語りへの感性が育たない
>仏教においては物語りに立脚していることを忘れさせてしまうぐらい、物語りは空気のように機能している
日本ではね、
明治政府の強制的な宗教施策で
山伏や念仏聖の系統が
中心だったが
失われた物語、
ま、浄土宗系統と日蓮宗系統は
実は、相当な霊的啓示の物語がある
物語、の扱いテーマは
土曜日から月曜日まで
マリア信仰を通して模索したテーマで
よーわからん山伏と念仏聖という
明治以降失われていった物語、
盆踊りというのも
実は念仏聖の物語である
😄
どの寺にもある
仏教行事は
神仏習合や
山伏、
念仏聖の
物語が由来が
大方
😄
神仏習合と山伏と念仏聖の系譜から出てるが
あのよーわからん
仏教らしからぬ日蓮の主張は
日蓮なりと哲学ではなく
日蓮の霊的啓示による物語から
日蓮の信仰は
成立している、
土曜日からのマリア信仰などの😄研究から見えてきた
日本仏教は
葬式仏教と揶揄されるぐらいに
仏教世界では
特殊性がある、
そこには
明治以前の
神仏習合、山伏、念仏聖の
物語がある、
近代化された鈴木大拙の
日本的霊性は
嘘っぱちである
😄
ただ禅宗からは物語り色が感じられない
徹底的にプラクティカルな仏教だからだの推測する
この時点で、「わたし」AとBが同一の世界に存在する
わたしAはタイムスリップしたこの<私>
わたしBは幼少期の「わたし」
しかしその物語りはAのほうが長く生きているため、分量がより多い
物語りAはBを包含している
過去のわたしと本質が同じ他者、となる
やはり哲学でコリコリになるよ
チベット密教ですら
中論研究の山〜
空海や天台チギは
理論世界はあるよ〜
日本人に仏教が定着したのは
物語側面、
日本霊異記とから
始まってる、
日本は平安中期以降は
神仏習合と山伏、呪術的な念仏などの修験力を
期待される
上の方も庶民のほうも
大乗の悟りの空間認識の体現よりも、
チベット密教のほうが、それが残っている。
日本仏教全体像でみると、
やはり物語側面で発達してきた、
創価の元になる日蓮個人崇拝もやはり、
江戸期からブーム日蓮の物語神話だ
明治以降は仏教学派は
キリスト教や西欧哲学に対抗?
と明治政府の介入により
祖師著作研究が進む、
修行悟り系統の仏教の祖師は
江戸期中期まで秘伝の書、
真言密教の曼陀羅ですら
庶民が見れるようになったのは
明治以降
😄
わたしAはそれを観察し、次に何が起こるのか知っている
それを観察することで、未来においてわたしBにその経験がどんな意味を持つのか知っている
学問エリート僧侶ではなく、
神仏習合と山伏と念仏聖の階級の連中が
日本全国区にした、
これも
物語。
地方寺院と
学問肌の仏教大学の学者との
間には
明治以降の理論肌と物語肌のギャップが
現在も残る
高野山では
空海を伝承伝説を重んじる物語肌と
空海著作至上主義の学者肌の
僧侶との対立も
表には出ないがあるらしい、
当たり前といえばあたりまえだが
😄
理論は本質に属するから、それ自体は物語りとは関係ないかな
一方で日蓮は日蓮という存在が衆生の救済を目的として一つの宗派を立てたわけだから、存在と時間が宗教の足場になっている
従って、物語りが分かりやすく宗教観のベースになってるな
ドイツ、イギリス、アメリカの
プロテスタント世界観が流入したから、
明治以降の
修行悟り系統の仏教各派は
明治政府の教義統一要求の介入などで
祖師の原典解釈に回帰した、
マリア信業の信仰研究で
だいたい解ってくるまで、
山伏の日蔵の天神信仰の書物や
當麻寺の中将姫の絵巻伝説や
日蓮伝説
空海伝説の
理解ができていなかった
😄
輪廻からの解脱をゴールにするからだな
わたしとは縁起により生まれる仮初のもので、その実体は「ない」
本質に実体や実存を求めても「ない」わけだから、存在における本質はまやかしであり、無我
そして輪廻とは、その本質が生を通じて変化するレイヤーと変化しないレイヤーがあり、変化しないレイヤーは生を超えた縁起となる
その縁起が生を超えた物語りを作るわけで、そこから無我である実存において、「外に出る」ことができないと、解脱のスタートラインに立てない、となる
徹底的に物語りを脱構築して、その外に出るのが仏教の基本的な考え方
哲学的思惟は別としても
聖書の
創造
のイメージ、物語は
山伏の日蔵の天神信仰の書物や
當麻寺の中将姫の絵巻伝説や
日蓮伝説
空海伝説の
霊的な土台と同じ系譜だ、
😄
現在なら、
学者肌の日本仏教研究者と
南方仏教、チベットあたりは
論理的やろね、
中国は阿弥陀仏の物語の介入を受けている。
😄
神話は似た型を持ってますな
明治以前の日本人の主流派の仏教の多数は、
さほど、論理的ではなかったと思われる、
近代化鈴木大拙は
近代社会から見た日本的霊性やからな
😄
その代表格がキリストで「最後の時まで共にある」とまで語る
これは物語りへの徹底的なコミットメントの表明に他ならず、仏教と比較し、真逆の態度を志向している
大拙は日本の霊性の基礎に禅をおいてますな
熊野信仰なんかは、
蘇り、生まれ変わり、
だし、
熊野信仰の法華経信仰では
自らの死を持って
一切衆生、他者を救うとか、
戦国時代のカトリック宣教師の報告には
驚きを持っている、
それぐらいに
日本仏教は理論肌というよりも、
😄
當麻寺の中将姫の伝説は
オモロイでっせ〜
😄
このリンク先の時代以降、
もはや日本仏教は物語性中心になっている
、禅でも物語性から自由なのは少数派、
高野山は、リンク先では
空海の悟りの体現など遥か遠くの無関係、密教修行法はあれども、悟りてはなく物語だけが存在する
http://ruriko.hanagumori.com/oujohden/00mokuji.html
極楽浄土への導き手の弘法大師空海になりつつある
現在では明治以降消えただろうけど
😄
霊感だ~😆
霊感ショックだ〜
マリア信業のショックだ〜
😄
しかしそうなるとそれぞれの特徴が見えなくなるし掴めなくなる
また、そうなると仏教の物語りから離れてゆかざるを得ない仏教自体が内包する志向性と矛盾がおきて、それはもはや仏教ではなく、なんちゃって仏教のマインドフルネスでいーじゃん、となってしまう
ま、中論熱心なチベットや
唐代の中国は中論研究の山だから、
空海の時代ぐらいまでは
理論傾向が強いと思われる。
これまた、仏教の基本的な考え方から鑑みると矛盾がある
衆生の救済の菩薩行なのは理解しているが、であるなら、キリスト教のように全ての信徒は苦からの解脱をゴールにするのではなく、衆生の救済をゴールとすべきなのではないか?
これは、そもそもが根本に人類の救済史があり、その道を歩むということにほかならない
従って、苦からの解脱は方便でしかない、となる
仏教のキリスト教と違う無時間の性質は単なる方便でしかなく、キリスト教と同じように、物語り、始まりと終わりを、人類の単位で観じる足場があることを意味しやしないか
なぜなら、神と同格の存在が「複数」あれば、相対主義におちて、あれもこれもあり得る、となる
人類の救済が「個の完成」ではなく「個の消滅」でも「あり得る」
つまり、救済という概念、そして状態は、その複数の存在の「解釈」によって複数あり得る、ということに論理的になる
そして、実存である世界で唯一、世界の開けである<私=今>の<物語り>しかない、とならないと、人類のOSとしての物語りは存在し得ない
物語りは常に個を帯びていなければならない
高野山往生に関する物語は、
一神教までは
いかなくとと
ほとんど、
外部の絶対者を期待している。
空海あたりは、
悟りは大日如来としても、
如実知自心と
自分の内面を中心に
という想定がある、
ま、それが
悟りの修行系譜の仏教なのだが、
現在の真言密教ですら、
物語先行気味で
悟りの修行仏教という意識が少ない、
ま、悟りの修行法は
僧侶になる選ばれし者しかできない、
というシステムが
チベット密教の在家派よりも
悟りの意識を薄くなっており、
実際の真言密教の修行は
作法だけで悟りの体現を示してない
のが
現状らしい。
😄
マリア信極楽と
山伏、念仏聖の
模索しながら流れる
ハマった動画音楽〜
末法的?
😄
https://m.youtube.com/watch?v=R2fFPNIBavE&list=WL&index=6&pp=gAQBiAQB
外部の絶対者という物語が必須なのは
マリア信業を調べながら
行きついた〜
悟りの空間認識の世界観では、
やはり、山伏と念仏聖と神仏習合の
世界観は
理解が無理なくらいに断絶がある
😄
金曜日夜まで
空間認識の世界観の
住人の暮らしだ〜
😄
同じシャーマニズムの世界だな😄
まー、情報が溢れる時代では一時的に劣化するわな
わたしAとわたしBは経験した物語りの量が違う
わたしAはわたしBが未来に経験する物語りを経験している
わたしAとわたしBの物語りはイコールで重なる部分がある
その重なるわたしAとわたしBの物語りは同一の物語りと言い得るか?
その物語りは「捉え方」が違うために、別の物語である、と言い得るか否か
その意味ではわたしAとわたしBに生じた一切は同様であるから、同様の物語りと言い得る
しかし、わたしAにとってはわたしBの時間軸上で生じる過去の物語りであり、その後の経験を得る中で、わたしBの物語りは消失し、新しい物語として捉え直されている、変容されている、と言い得る
過去は実在したと言い得るが、過去が今、実存する、とは言えない
それが可能なるには、わたしAの実存がわたしBの実存に移動しなければならない
わたしAは並行世界にトラベルし、わたしAと全く同じ経験を積んでいるわたしaの世界で観察を行うとする
わたしAとわたしaの違いは、未来の分岐がまだなされていないという点において、分岐の可能性を可能態として持つ意味において並行世界で並在していると仮定する
では、物語りはどうか?
しかし、わたしAがわたしaの並行世界にトラベルした点、
また、わたしaはわたしAがわたしaの世界にトラベルされた点のみ異なる
このトラベルした、された、という点を除外して鑑みた時に、物語りは唯一なのか、違うのか、という点はどうなるか
論点がブレるから
実存だけが違う、経験内容がまったく同じな物語りとなるから、これには違いはもはや存在しない、となる
わたしAから見るとわたしAだけが実存であるが、物語りは今のところまったく同じである、となる
ほんとうだろうか?
先ほどはわたしAと過去のわたしBの世界をタイムトラベルした思考実験だが、今度はタイムトラベルではなく、わたしAの実存がわたしBに移動したケースを考える
このケースはタイムトラベルとは言えない
なぜなら、実存だけがAからBに移動したのだから、
実態としては、わたしAの実存が過去のわたしAの<今>となっただけだから、過去の今こ実存において、何も変わらない、となる
実態はそうだが、実存は移動した、と言い得るケース
やはり、物語りの唯一性の基盤は実存よりも、<今>にある
物語りは<今>に足場を持ち、<私>がなにであれ、<今>において等しい内容を持つなら、同様の物語りが複数あり得る、ということになる
従って<私=今>と全く同じ「物語り」(人生)は存在し得る
シンプルモードだ
😄
キリスト教の創造の解像度を高めたいんだ
このスレで書いてることは現状では取り留めなくて混乱させてややこしいからシンプルモードで休んでくださいませ
一方で今と物語りの関係は実存と比較すると密接な関係にはあるが、唯一性を持つほどの関係にはない
つまり、唯一の物語は存在し得ない
土曜日よーす見に行く〜
人生の闇と光〜〜
思い起こす、
6月にご機嫌に修行が進んだせいか?
ハマる〜音楽、
のん
コマーシャル時代にアタマにこびりついていたが
聞くことがなかった〜
https://m.youtube.com/watch?v=R2fFPNIBavE&list=WL&index=6&pp=gAQBiAQB
周期だから必ず闇の時期はやってくる😢
今と物語りの繋がりはどのようなものか?
難しい問題だ…
混乱の最中に急死したクリスチャン
色々だ
🫤
死後の世界は
いや、死者のみる世界には
少し関心を、持っている、
むろん知り合いの、
また、クリスチャンとなると
また難解〜
神智学の元祖あたりは
心霊好きだったんだろが、
あーまで死後の世界を理論化する気はないが、
😄
死ぬのはいつも他人ですな
調べてみたら神智学も心霊主義と深い関係あるのな
途中からは同じ経験を共有する複数コピーが現れる
これは実存として複数存在するが物語りは(唯一ではないが)一つ
むしろ逆に変異体スミスが他のオリジナルとコピーエージェントスミスに同期をかけ、変異体スミスに盤面を塗り替えることができるとする
しかし、その本質は「生成され続ける本質」であり、「今=実存」により、生成される点において、深い関係を持つ
しかし、エージェントスミスが複数存在するように、唯一の物語りは存在し得ない
唯一なのは<今=私>でしかない
創造=物語りとは<神>が<今>において生成する常に途上のものである
神が今、生成する人類の救済史、具体的には人類のキリスト化
純粋な創造への参画を実現の条件とは、
<今>まで(過去)の創造における経験を純粋に保有していること
その経験を<今=私>と交わらせ、新しい唯一の個の完成に寄与する物語りを紡ぐこと
創造を前に進めるために他ならない
んでもって、その切り離しの遠回りを経て愛により個でありつつ結合される必要があり、それも創造を前に進めるために他ならない
創造は終わっていない、のであれば、
仏陀とキリストの物語り「も」終わっていない、となる
だとすると、涅槃のような概念は大雑把であやふやで論理の道具として殆ど機能しない
「この人生」における純粋な創造への参画のためには、自身の人生を通じて経た経験(記憶)を純粋に保有していること
が前提条件になるが故、メタ的に自分の人生の記憶像をありありと表象でき、直接的に引き出せることが出来なければならない
やはり物語りと実存は物語の「生成」における役割以外では直接的な関連をもっていないのではないか?
ま、死者から修行の奥義を
もらったがな〜
また、こっちの力量がないと
マスターできない〜
ま、なんやかんやと
今年の6月の
この修行祭りの
キリスト教絡みの土台が三つもあった
😄
でも基本はマイペースを貫くのが結局はいい
仮にそうだったとしても、
全ての過去、記憶が他者のものであったとしても、
それを個の完成のための糧、という物語りのメインラインが変わらなければ、それはどこから来るのか?
本当なのか?
しかし、実存において、その対価を支払う覚悟させあれば意思において争うことが出来るわけだから、アプリオリな法則や物語りが仮にあったとせよ、それにNOと言うことは原理上可能であり続ける
つまり、神の実存の物事から、被造物すべては逃れることはできない、となる
神ではなく、個人、私の実存において自由意志論者であり得る
それは極めて個的な烙印を押されている
その物語りはユニークではあるが、
その行き着く先は誰とも変わらず、
個の完成を志向する
悪が一見、個の感性とは真逆を志向すると言えたとしても、
それは時間軸のメモリをどう取るか、という話にしかならず、
結局は善における個の完成に吸収されてしまう
それ以外は存在し得ない物語り
運命論ではあるが、その結末までの道は無限にある物語り
被造物はその物語の残飯である、ささやかな自由意志による選択しかありつけるものがないのか?
自由意志による選択の結果であることは所与の上で、
結局は「それしか選べない」となる
個の完成にレールの上で許される自由意志、とならざるを得ない
その自由は限定付きの自由だ
自由かつ運命論的な物語り
これが実態ではあるが、その実態を果たして自由と呼べるのだろうか?
その新たに生まれる悪も、次の時間軸上の中で
個の完成に吸収される
この運動は永遠に終わらない
善も悪も逃れることは出来ない
永遠の個の完成の物語りに絡み取られる
所与のものとして運命付けられている
その背後には創造の物語が所与のものとしてある
空気にしてしまったライトな擬似宗教運動
となると伝統宗教は生存のだためにら位相を変えざるを得ず
その位相を何にするか、が問われている
宗教が空気になり、実学の役目をその空気が果たす時は
実学の難易度を変更せざるを得なくなるのは当然の結論
難易度は必然的に高くなる
なぜなら、空気が過去の大道の役割を果たしてしまっているから
その形式をどうプロデュース出来るか、にかかっている
そのためには、組織の存続の原理から擬似的に作り出した禁忌の一部を解体せざるを得ないだろう
その一つを解禁する時に、キリスト教神秘主義者が知っている「あれ」が解禁されるしかないだろう
この言説はある意味正しいが、
その正しさは、物語の成就における正しさしかない
望めば、実存者を生じさせることが出来る、という現象は一体どういう事態なのか?
これだけが重要だ
その実存は創造主よりも成熟して、創造主である私を殺したとする
こういう相対主義や同一地平線上の二つの併存し得る存在の話と創造主である神と被造物である私の関係は決定的に異なる
何において決定的に異なるのか?
しかし、その実存は被造物の実存を展開させる実存であり、
同じ実存という単語を使ったとしても、実存の意味において等しく、本質の意味において異なる
それは語り得るものなのだろうか?
それは語り得ないものだ
なぜなら、この端的な実存は他者に応用し得るし、
さらにそれを応用して「ペット」にも応用し得るが、
植物や昆虫になった途端に、困難になる
しかし、存在性において、実存は意味を持たない
こんなことがなぜ成立し得るのか?
辛うじて動物に適応されるとしたら、その時は必ず
人間のような動物、もしくは人間との関係を持った動物、
のいずれかになるだろう
本質において、植物より昆虫の方が人に似ている
しかし、存在性においては、むしろ実存より本質の方が重要な概念になる
これがイデア論が本来主張してるもので、アリストテレスの存在論は、イデア論強調への実存主義的なアンチテーゼにしか過ぎない、となる
本質において、それも、人間間の微細な差異における本質の差異において、なんちゃって仏教徒は無我を本質において軽視しすぎるが故に、自身の家畜と同じ本質に気付いていない
存在性におきて家畜であり、実存において我々と等しい
これもまた、現実で起こっていること
キリスト教神秘主義も同様である
しかし、仏教はベースに物語りへの同化の禁忌を内部の論理上内在させ、本質における家畜を魔境において大量生産する論理も孕んでいる
物語りから離れることを良しとするムードとそれを可能にする大雑把な概念から、としか言えない
5chの仏教スレの住人の大半は家畜に該当する
結局は本質、実存における本質
あれかこれ、あれだけ、それだけ、
そういうのではなく、実存における本質を希求しなければならない
<私=今>が人生という現象と出会い、生成される個が記された物語りの、あくまでも、生成、だ
神のOSにおける生成のアウトプットは本質しかない
だからこそ、その本質「だけ」が重要である、と「言い得る」
ジャータカのレンズの成果主義もまたあるだろう
これは時間軸における本質の話でもある
山の下の俗世のこの世で社会の変革に、創造に
寄与しなければならないのか?
そういう音がキリストからも釈迦からも流れている
その意味において、実学である
従って、それが異なるが故、
我々は「神を殺せない」
実存は所与のものしてあるので、問題にならない
宗教において、本質を軽視する一切は無視していい
実存による本質の軽視の言葉を語ったとて、
その実存の本質が家畜であることは変わらない
従って家畜の実存を語っている、ということにしかならない
成果主義にしかならない
そこにあえて付け加えるとしたら
「個における」成果主義程度か
創造における成果主義は最重要視されざるを得ない
これを否定するなら、所与のものとしてある創造が否定されなければならない
しかし、それはキリスト教も仏教もできないだろう
それらが個の完成しか求めていない
違う軌跡を悪が紡いだとて、神の創造の物語りに吸収される
キリスト教は当たり前だが、仏教すらも、構造上なってしまう
本質を批判する家畜は一掃されてしまった
それを山上という人がいればそうなのだろう
従って、道を歩む誰しもが、菩薩道を歩まざるを得ない
苦からの解脱は実存と本質、両面から見てまやかしだ
大乗しかない
私の実存の本質においては、慈悲を
これが仏教で、
キリスト教は「私の実存の本質においては、愛を」となる
我々は兄弟姉妹と神の物差しにおいて変わらない本質を持つ小さな存在でしかないから
我々も実存において遜っても
「本質においても遜らなければならない」
なぜなら、神は偉大であり、卓越した隣人も偉大だから
それにつきる
だからと言って、修行に「意味がない」という
仏教徒はいまい
その先にはニヒリズムしか待ってない
それが5chの宗教スレの実態だ
こっちも、まあ、難しい唯仏与仏見たいなワールドだから、
どっちもどっちだがな
😄
モノにしだすと〜
😄😄😄
>
> だからと言って、修行に「意味がない」という
>
> 仏教徒はいまい
ロンは、修行に意味がないと言ってた
> なんや、難しい方向性やの~
ニーチェですな~
本質なんてやると
先尼外道とか
いいそーだけどな〜
😄
なんらかの
本質ぽいよーな
らしき雰囲気なるモノが〜
あるよーな
感はある
😄
すまんのw
頭の中で概念を整理する時期なのか、独りよがりの書き方してるから余計わかりづらいわな
十牛図の9ステップ目の返本還源を持って、8ステップは意味がないと語る典型的な実存主義迷子な状態ですな(^_^;)
無我とは「実存と本質は異なり、本質の中に実存を探してもどこにもない」といってるだけ
それはその通り
から、本質に意味がない、とは当たり前にならない
それは、本質を実存と「誤解」してる人にだけ意味のある概念であり、無我を生きている、その状態を知っている人には取り立てて意味のある概念とは言えない
証明の必要がない公理としての在る
自分を指し示す全ての状態、要素、属性、それら類のものと実存は何の関係もない
しかし、実存「における」本質は「何も関係がない」からと言って例えば預流、一来、不還、阿羅漢のような存在性における状態、つまり本質に分類が意味を持たない、とはならない
そんな当たり前のことを持って、当たり前ではない、苦難を要する存在性の梯子を登る概念が否定されている
こんな当たり前のことすら、語らなければならないところに宗教の機能不全が現れている
仕事するにしても
地力が俺よりも
遥かにあるから、
色々哲学思惟する余裕があるのさ〜
俺は若き頃派飽くなき哲学と社会分析の魔王の如くだったが、
シャバの才能が低レベル、
魔改造の果てに
まーまー最低限の瞬時判断力のする仕事を
なんとかやりこなす
😄😄😄
シャバの仕事の地頭の能力高そうやもんな、
オレがクリスチャンとして生きる場合、
脳の回転を4段階落として、
アタマの瞬時回転判断力のいらん仕事で
やっとてきる程度やわ
😄
どうかなー
しゃばの仕事が大変すぎるからバランス取るために興味のあることについて考えるだけ、が実体ですけどねw
シャバの仕事で唯一といっていい工夫は同じ職種を根拠よく続けてるだけぐらいすよ
職種の経験を積み上げられるようにしたら、あとあと楽できますからな
得意なところでしか勝負しないというw
自分の思想体系を強固にするためには機能している
世界をどう解釈するか、それにより世界の見え方は変わる
世界の見え方が変われば創造の道を歩むこの体についている目が変わるし、この口から発せられる言葉も変わるし、歩み方も、創造の成果主義の成果も変わる
自分の歩み方を変えたくて、変えたい理由がこの人生の不完全性に悩んでいるからで、余裕がないから考えざるを得ない、みたいな状況でもある
哲学の土台が違うんやろな〜
今更に鹿は
丸山圭三郎とか言ってるな〜
ニヤニヤして見てる
😄
その辺20の頃精読してたのを
今更?
みたいに
鹿のレス
アタマワルイのに無理しちゃって〜
と
生暖かく、ツッコミいれずに
オトナの対応
😄
そんな哲学志向をもったのね〜
アタマワルイので、今更なのね〜
みたいな〜
😄
そうね
休日で余裕あるし
メンタル的テクノロジーも余裕出てきてるんで、
先週の休日あたりから、
熱心にキリスト教の世界観を模索しつつあった〜
山伏と念仏聖者盧世界がメインだったけど〜
やはり、先々週あたりから、
カトリックの聖者のウィキペディアで調べて遊び出したんだけど、
人間側の神の意志に沿う、人間の意志みたいなのが
キリスト教にあるね〜
みたいな、
山伏や念仏聖者とは別の
正統派教義仏教には
そういうモノがないのよ、
外部空間認識の有無の差があるぐらいで
インドの瞑想体系が宗教的に特殊なのやろね〜
😄
リアルな人格的存在仏なのが
日本仏教の山伏と阿弥陀仏の念仏の
信仰、
これらは特殊、
チベット密教の人格仏ですら、やはり空間ゾーンに関与するシンボルではある、
ただ、外部の救済する人格仏の要素が強まるのは
日本仏教の山伏と阿弥陀仏の念仏と
日蓮宗、
これらは 空間におけるシンボルではなく、
リアルな救済者としてあり、
そこと葬式法事仏教は
密接に関連がある。
😄
やはり、
最近の
俺の直感は
正しいかも〜
超スローライフな
イエス・キリスト
😇
発想でないと、
ヨブ記は成立しないとか、
ヨナ記もある意味遠回りだ
😄
馬鹿の園は相変わらずですな〜
上で一部の仏教徒を批判してるんだけど馬鹿の縁はまさにその代表ですな😆
俺は、
こーいうスローライフで遠回りの発想は
理解できない立ち位置であった
😄
ま、スローライフで遠回りするからこそ、哲学的思惟が
必要なのかもね〜
ホントショートカット信奉者過ぎてる
俺は、ま、メンタル虚弱過ぎるので
エネルギーロス疲労を減らす工夫しか
発想できなかったので
😄
わかる分かる
キリスト教にはアリストテレス的な実存主義や個の原理が強烈に紛れ込んでるんすよね
仏教はどこまでいっても「本質、この世の仕組みが記述が淡々と記述されている」みたいな客観性がある
主観と客観みたいな分かりやすい二項対立に集約できる話ではないけど、その意味で科学的だ、と言われる所以だし、実存主義者から見ると決定的に欠けてるものがある、と思われる所以でもある
アガキの美学が
聖書とセイントの生かもしれん、
と、
最近、ウィキペディアのセイント検索しまくって、
写真と絵画をダウンロードしまくってた、先々週と先週あたりの休日
😄
日本は神仏習合だけど
キリスト教とギリシャ哲学も完全に混ざりあってるんだよな~
そういうのが好きな人とそうでない人がいるって好き嫌いの話しですな
必要な人はやればいいし、必要ない人はスルーしておけかと
鹿が今更関心を
丸山圭三郎に持つのは
それ相応の筋はある、
アタマワルイのだ理解できるかは不明、
フェルディナンドソシュール
言語記号の恣意性、
この一言、
相対性しかない、
若い頃読んだなあ〜
😄
身体はどこまでいっても乗り物でしかなく、その実質は様々あるが、キリスト教では最も輝くものとして記述され、かつ強調されている
こういうのは実存主義的な意味での個的原理の継続、みたいな概念が前提にないとそうならない
暑さの峠も越えたので、
キリスト教模索に
余裕が出つつある
😄
馬鹿の園は単語並べて解釈がいつも間違ってるから、どんな偉人の言葉をコピペしてても情報価値ゼロ😢
なぜなら、「解釈が間違ってる」から😆
聖人に目が行くのはええ事だと思いますわ
創造の物語がキリスト教では最も重要ですが、
だからこそ、私の十字架(聖人の物語り、人生)は創造を前に進める生成においてキモのキモ、となるので
キリスト教の聖人シリーズ
途中で終わっている
余りもの今年の暑さで
休日ですら瞑想強化人間生活であった〜
😄
休日に瞑想解除すると過食になるし〜
😄
この過食傾向からの離脱を
神の意志、という設定模索を楽しんでた
😄
イエス・キリストを瞑想で捉えようとはしない、
瞑想強化しない脳、身体から
見ないとイエス・キリストの世界は理解できないと
想定はしてて、
遊んでた
😄
神の意志という視点には注目はした
😄
神は偏在してますからな、そうやって語り合える感性は大事だと思いますわ
ちなみに仏教の行で八正道以外で普段の生活を内省し、観察する行知ってますか?
上で色々と考えてたんだけど、創造に資する生成のためには、自身の人生の内省が必要不可欠である、という結論になった
八正道はまさにそういった効果があるけど、それ以外には何かあるはずだ、という直感をもちますた
瞑想というより、キリストの復活までを観想するのその先にスティグマの現象が現れるという
コピペ元(知恵袋だけどw)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13216329898
『王子。私が粗い食べ物を食べて体力をつけると、愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(考えること)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティとスッカ(喜悦と幸福)がある初禅に到達し、その感覚の中にいました。ヴィタッカとヴィチャーラが静まって、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの、心の内面を明るくするものである二禅に到達し、その感覚の中にいました。
一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、幾つもの壊劫から幾つもの成劫、幾つもの壊劫と幾つもの成業まで、その有にいた時はこういう名前で、こういう姓で、こういう身分で、こういう食べものがあり、このような幸福と苦を味わい、何歳で命が終わり、その有が終わるとこの有に生まれたと思い出しました。
ここに書かれているのは全て本質においての話で、実存についての話ではない
また、存在性の梯子を登る話であり、本質は(無我だから)重要ではない、となんちゃって仏教徒が語る内容と真逆のことを言っている
ワンピースにおけるルフィの実存とこの世界における尾田栄一郎の実存について
ただ在るし、そのような在り方をしている他者は、実存にとっては内側から確かめようがない
端的に実存だ
つまり、実存において私である尾田栄一郎と、私が書いたルフィは実存において等しい、となる
尾田栄一郎は漫画家で世界的に大ヒットしている漫画の作者で、熊本県熊本市出身、血液型はO型、二児の父、油絵が趣味だった父親の影響で幼い頃から絵を描き始め、4歳の時に漫画家という職業の存在を知り「大人になっても働かなくていいんだ!」と思い漫画家を目指し始める、
などの本質を持つ
加えて
尾田栄一郎の漫画『ONE PIECE』に登場する架空の人物であり、同作品の主人公、などの本質を持つ
これは神と被造物の関係に類似している
そして、偉大さは本質において「のみ」語り得ることで、実存においては神や隣人と「等しい」と類推されるのみで、それ以上でもそれ以下でもない
単なる剥き出しの事実であり現実でしかない
その意味では神と被造物の実存が等しいのと同様、
悪魔と人間の実存も平等に等しい
いいとも悪いとも、なんとも、全ての描写とも切り離されたところにある絶対が実存
「だから何なんだ?」と言っていい
我=本質と誤認している人に向けて、我≠本質と言っているだけに過ぎない
そんな当たり前のどうでもいいことは脇において
神と被造物の本質における差異
そしてその差異を埋めるための方法論
その先にある存在の状態
が最も重要であることは言うまでもない
相対主義やニヒリズムが蔓延し、実存主義が影響力を持ち始めるが、実存主義である限り、当たり前のことを当たり前だね?と確認しあってるだけで
結局は本質だよね?存在性の梯子を登るしかないんだよね?とならざるを得ない
捨てたものをまた拾えばいいだけ、となる
宗教の物語りは捨てられた、なんてことは歴史上本当にあったのだろうか?
確かに全体で見ると無神論者は増えているし、宗教の「大道の社会的な機能」は間違いなく弱体化はしている
しかしそれらの人々は盲目的に素朴実在論者のように宗教の物語を受け入れていただけで、キリスト教では修道の道に入るものや仏教では出家の道を歩む求道者は今も昔も変わらずに存在し続けている
それをもって宗教が死んだ、みたいな言説は乱暴すぎないか?
登らない大衆も変わらず
素朴実在論者たちは、素朴に信じる対象を宗教から別の何かにずらしただけで
全体的に見ると何も変わっていない、と言えないか?
働く側であり享受する側でもあるが、
教える側、教わる側の構造で出来ている
この構造が変わらない限り、大衆は変わらない
救われる側ではなく救う側へ
少なくともそれを意思し歩む道に入っているか否か
これが大昔から大衆とごく限られた狭き門を潜る人達のキャズムで、それは存在性においても断絶されていると言い得る
キリスト教ではそれらはイコールでキリストにおいて結ばれてしまう
仮にジャータカの物語の一つ(過去生)に、
菩薩ではなく衆生の消滅を意思する生があったと仮定する
ジャータカ全体の中では菩薩道を歩んでいるから衆生の救済に支えているが、その物語りだけは衆生の消滅を生きたのだから、
そうなると、存在性の梯子の概念、本質は、それだけが重要である、と本当にいい得るのか?
意味がないのではないか?
ジャータカスパンで考える時に本質は何らかの形で持続して欲しいが、その持続が「ない」と仮定した時は、
足場として効力を持つものは、<私=今>と現象が出会い生成されるもの、そしてその生成されるものが創造に資するか否か、でしか測れない、となる
常に<私=今>の「生成」するものでしか創造を前には良しとされるか否かは判断できない、となる
実存も本質も、生成されるものでしか良し悪しが評価できない、となる
菩薩だろうと魔羅だろうと、そういう本質は意味を持たず、生成されるものしか意味を持たない
創造を前にした時にの統合された実存と本質の姿なのだろうか?
そうなると、ジャータカすらもはや必要とならず、カトリックの定義で十分だ、むしろ、それでいい、となってしまう
これも、成果主義としか言えないのではないか?
父の元への帰還のない放蕩は単なる放蕩であって、その放蕩は父の元に帰還し、贈り物を与えられるまでは肯定されない
しかし、放蕩はその結果に対して、どうしても必要なものだった、と言い得る
ま、同じ方向い行くと見せかけて別の方向へいく、
みたいなのが〜
なんか、宇宙世紀ガンダムに
良くありがちな
一筋縄ではいかないよーなー
ま、そっちの住人に帰る〜
😄
よくよく考えたら本質すら足場として不確かという結論になってしまった、、、
創造がなければ全てが瓦解する
眠さが出てくるんやな〜
疲れてはいないが
眠い
😄
在宅なのと低血圧だからまだ気温が分からない、、、
放蕩息子の兄は存在性において放蕩息子より優っている
しかし、放蕩息子の放蕩によって、可能態を埋める、現実化する「経験」によって、後出しで存在性において兄には得られないものを得て、存在性において兄に勝ってしまった
こんなに眠いのは
久しぶりだ〜
😄
少し前まで
朝は蒸し暑いかったから
眠さの
ね
の字も
出なかったのに〜
😄
すっかり秋だ
😄
眠い
😄
眠さ解消〜
過ごしやすいと
眠くなるな〜
😄
仕事モード40%ぐらいでゆるくやっていきましょう😆
創造を前にすると全てが「善い」となってしまった
これは悪であっても「善い」とならざるを得ない
これを受け入れるためには創造が絶対的であり、相対的になくなってしまう、みたいな事態が存在し得ない、とならない限り、極めて不安定な足場に立っていることを意味する
創造は本質に分類されるなら、絶対はない
今の所、絶対は実存においてしか存在し得ない、という足場に立つと、
神の実存と、それが神の唯一の今が創造に触れることで、絶対である、ことが証明されなければならないが、そんなことは不可能なのではないか?
最新脳運用システムを発見した〜
キタッ〜ー!!
😄😄
産物だ〜
ヒラメクなあ〜
最新脳運用システムバージョンが
デタ〜
😄
強弱、弱強、
まった〜く
組み合わせが〜
なかなか、
ありがたや〜
😄
ヒョウタンから
駒だ〜
😄
今日は
いい一日だ〜
これは
😄
創造を絶対にする、は原理上やはり不可能な気がする
キリスト教の「神を信じるものは救われる」の「信じる」を出さざるを得ないのか?
短絡的すぎる気がして粘りたいところではあるが、粘るにせよ糸口が見えない
これは、信じることであり、その道を歩む努力でもある
その物語りが絶対であると信じることでしか、先に進めないのか?
それでも創造が絶対なら、後付けで、結果論的に、創造は(遠回りをしたけど)絶対だった、という結論になる
創造を信じた途端に創造「しかなくなる」のだから、仕方がない
<私>には実存と本質が切り離されない形である、と語っていると理解している
<私>から本質を抜いてしまうと< >だけになる
今日、目が覚めると私が毒虫であったとしても、その<私>には毒虫である、という本質も含まれている
<私>とは、並存している「私」たちの中で、なぜかこの<私>だけが世界の開けとして唯一特殊なあり方をしていることを表現する表記法
それを信じないと、本当に救われないのか?
運命論的に信じることは不可避の事柄なのか?
これは、キリスト教が不寛容であると思われる大きな所以の一つだが、カトリックの公式見解では、良心の中で生きる人は例外とされる抜け道も用意されている
しかし、神がこの世界(の全て)を創造し、その創造が完成を意図、意思(計画)されたものであるならば、神の「外」など存在しない、となる
この世の全ては創造に吸収される
これは、神を信じること、創造に協力することは、被造物にとっては「不可避」である、ということに他ならない
つまり、被造物は創造に協力するよう運命付けられており、悪ですら、創造を前にすると、協力(善い)ことになり、
創造の外に出ることは神を信じるものからすると、不可能となる
神への帰還を意思しない放蕩「だけ」の人生で仮にあったとしても、それはジャータカの時間軸で捉えるといつかそれは創造の糧に結果論的になり得る、その意味における放蕩である、となる
神が誰も持ち上げることが出来ない石を創造し、それを「創造した後」に、石を持ち上げることが何の矛盾も孕んでいないことと等しい
神は、<神=今>において誰も持ち上げられない石を神は持ち上げることが出来る、という全能を発揮すればいいだけ、となる
創造した時点で神が持ち上げられない石を創造したとしても、
<神=今>により、その概念を吸収して上位の概念により持ち上げればいいだけ、となる
結局は、神の創造、物語りに<今>により吸収されてしまう
一番手っ取り早いのでは?
😄
よーわからんけど
😄
ただ、行をこんつめではこの人生ではやらないかな
他にやることがあるらしい
一応、
ナントカ天使?の幻の現象をみたことがある
😄
ナニ天使やろな〜?
😄
カトリックならロヨラの霊操があるけど、個人的にアンチロヨラだからオススメはしないw
脱魂しそうになるのを抵抗してたら、
天は開かないが、
お家の蛍光灯が〜
😄
俺のスピリットに反するので
拒絶した
😄
蛍光灯から広がるって寝転がっている俺に降ってきた〜
😄
カトリックのミサに一度出た見たかった
😄
行ったので
2004年ではないと思う
😄
カトリックのミサは
それ以来行っていない、
教会堂には平日入りやすいカトリック会堂があったので何度もいったけど〜
😄
やはり、プロテスタントとは違う圧倒的なパワーがある、
ま、プロテスタントでは、パワーというか好みでは
ホーリネス系統とアッセンブリーぐらいは霊感が
好みなのでパワフルには感じるけどな〜
😄
メソジスト、ホーリネス系統、アッセンブリーぐらいか〜
好みの霊感は
😄
チベット密教が俺を呼んでいた〜
😄
この動画のリターンを繰り返す
落としたのをパソコンで
😄
闇のテーマが潜んでいる映画らしい〜
https://m.youtube.com/watch?v=R2fFPNIBavE&list=WL&index=39&pp=gAQBiAQB
愛か?
みたいなテーマ曲だ
ビミョーな暗さが潜んでいる
ハマるのが長い
😄
えぇことだ😎
仮にこの世界が神の創造で出来ており、その物語に吸収される運命にあったとしても
その世界の開闢である実存の世界にあって、ただ在るだけでなく、物語りを持つなら、それは本質に分類され、そしてその本質には目的も含まれており、その目的が神の創造なら、つまり個の完成なら、それは「信じられたもの」でなければならない
創造が真であるか偽であるか、それは被造物には本当のところは分かりようがないが、
本質が<私>において明日、その全てが別のものに変わったとしても、少なくとも<私>の本質において、その人生の目的が個の完成と信じるなら、それは<私>が唯一の世界の開闢であることから、<今>において唯一の物語りとなる
<私>の本質において、信じる以外に道はない
信じるが故、<私>にとって強固な足場とはなり得るし、その足場は様々な生成される物語りを経てさらに強固になる過程もあるだろう
しかし、それは<私>において言えるだけで、他者には適応出来ない
信じるものしか創造は真ではないため、信じるものしか救われない
仮に神の創造が真で、全ては創造に運命論的に吸収されることも真で、それはつまり他者にも適応し得ることだったとしても、確実に言えることは、創造は信じるものしか強固な足場とはなり得ない
「あなた無しにあなたを造った神はあなた無しにあなたを救わない」
そして哲学者や理論家のようにメタに仕組みを言語によって語ることより、愛において行動する指向性がある
存在性の梯子があり、山の上で、森の中で、行動せず、語らず、梯子を登るより、創造を前に、愛において行動する指向性がある
俗世的で政治としばしば癒着し、腐敗の温床になる側面もあるが、聖霊に満たされ、ダイナミックに世界に働きかける力がある
キリストに対しても人に対しても
ファーストテイク的な緊張感で物語り(人生)と同化する
ただ、その人生は創造に参画する人生であり、
創造に参画する意味において同化する
それは私の十字架という単語で語られている
仏教側からしてみたら物語りとの同化はまさに幻想の世界に生きていることを意味するから
でも、キリスト教は幻想の世界で創造には参画するわけだから何にも問題がない
それは、衆生を救うために、あえて輪廻する菩薩と同じ構造だと言える
もう一つの側面は愛と慈悲だ
一方で実存、<私=今>は世界の開闢であり、端的なその事実により、何にも強いられることがなく自由だ
この実存と本質が出会うところに物語りが生成され、自由意思を持つ実存の運命、つまり私の十字架、または悲劇が再生される
実存は本質に先立つため、その物語りは運命論的な悲劇、または喜劇かもしれないが、予定説と異なり、自由意志(の原理)によってなされる
自由意志は実存と本質が交わるところで生じる生成の中で生起する
全能たる所以は実存と本質とそれが交わるところの生成にある
実存において、時間が凍りついた世界の表現だと全ての瞬間は完成されている
時間内の世界では<今>において本質は永遠に乗り越えられる
人間の神の似姿の部分は霊であり、霊は<私=今>の原理を生じさせている
人間は実存において神と悪魔と等しく、本質において異なる
生成により、永遠に本質は乗り越えられ、キリストに似たものになる運動を永遠に続ける
自由意志において
その似姿として創造された人間は、
個の完成に向けて永遠に運動する
創造を信じなくても、神という概念が世界に存在し、
その定義された全知全能の概念により、
全ての人類は個の完成に向けて永遠に運動する
そして人間が神の似姿として創造されたという概念を受け入れる限り、
または、存在の梯子の概念があり、それが神と地続きで繋がっている概念を受け入れる限り、
その全ての人間は個の完成の物語りから運命論的に逃れることが出来ない
個を完成させるために、本質を乗り越えるために取り敢えずやってみた、放蕩した
しかし、捨てることにより、より神の栄光を増した
ジャータカの時間軸で、ニーチェはより一層存在性の梯子を登った
後の人は<今>において、目的を捨てたことを乗り越えなければならない
神の概念はなぜか存在し、これからも存在する限り、目的を捨てることは思考実験上でしか出来ない
人間はそれから逃れることは運命論的に出来ない
今の自分が思考する限り、自分にとって何か新しいものを生成するようなものでなければならない
実存と本質のフレームワークでそれを考察できるか否か
<私>を「私」にする構造自体の中に深い愛が宿っている
それは自分に言語化できるものではないと思うが
求めれば与えられるだろう
愛との対峙なくして創造の理解なし
それは自明なことだからやらねばならぬ
が始まりの糸口が見えない
新しい地平から語り始めることはまだ出来ないな
気が向いたら書こう
発酵には時間がかかる
金曜日夜過ぎるまで余力無し、
脳は
シンプル化〜
😄
そして、他者に対しては、後天的に他者も<私>と同様の在り方をしているに違いない、と学ぶ
他者に<<私>>を贈り与える
存在がアプリオリに肯定されている<私>から始まっているからだ
これは、駆け引きや他者比較や勝ち負けの原理に入る前の状態で、自身が気付かないくらい、空気のように愛している状態と言い得る
端的に存在は肯定されている
神の概念を踏まえると、創造に端を発する
アウグスティヌスの愛の定義では、アガペーにあたる
<私>から隣人に移る愛はアガペー、つまり「使用すべき愛」とされる
そして、世界の開闢であるからこそ知覚できないその愛、<私>の存在の端的な全肯定は、神に端を発し、それはアガペーと呼ばれる
私は<私>における端的なアガペーを他者である<<私>>に贈り与える
神のアガペーを隣人に「流す」
彼らに私のアガペーは使用されない
美女がいたら、エロースは働くかもしれない
アガペーを使用するには、<<私>>を贈り与えるには、条件がある
そんな大それたものでなくとも、豊かな本質の表象が必要である
親子や兄弟、人生の物語を通じて、長い時間、変化を共にし、その変化を知覚する
豊かな表象があるから、<<私>>を贈り与えるに足る条件を備えている
誰でも良いあれ、あの人、ではなく、特別な識別子(<<>>)をもったあれ、あの人
しかし、客観的な世界像が成り立つ時、他者における<<私>>は早晩、その性質を失っている
私はスクランブル交差点を歩く時、客観的な世界像の中にはいるが、交差点を歩む人に<<私>>は認めていない
親子や兄弟姉妹における<<私>>のレイヤーは異なることが分かる
使用すべき愛は常に特定個人を対象になされる
アガペーに満たされるまで、満たされている時、以外は
神は悪を、栄光を増すために使役することができる
創造を前にすると、生成において、全てが「善」となる
それは、神が神が持ち上げられない石を創造しても、<今>において持ち上げられることと同様に、
放蕩息子が、放蕩したからこそ、兄には得ることが出来ない贈り物を与えられたことと同様に
全ての悪は創造を前にすると、善となる
善も悪も、存在は、全て創造の時点から端的に「肯定」されている
だから全ての存在は存在する限り、掛け値なしで肯定される
どんな悪党も、どんな善人も、存在するだけで肯定されている
存在の背後には、アガペーがある
掛け値なしの他者に対する肯定とは、アガペー、愛、慈悲である
その理由は創造を前にしているから、とキリスト教の内在的論理ではなる
この前提は一般論であり、<私>の人生における生成において、まだ何の意味も持ってない
永劫回帰の肯定ではなく、端的にどのように世界を掛け値なしで肯定するのか?
この原理についてもう少しだけ解像度が上がらないと、愛で出来ている創造の解像度は上がらない
本筋に戻ろう
<私>が特定他者に<<私>>を贈り与える時、何を贈り与えているのだろうか?
それが存在における掛け値なしの肯定であろうが、それに気付くことがない
特定他者が「生きている時」は恨んでいたが、失った初めてその損失の大きさに気付く、なんてことはしばしば耳にする
掛け値なしに存在を肯定していた対象を失ってしまったことの意味が喪失感として現れる
手垢にまみれている概念で、欺瞞や虚偽を感じさせる単語
しかし、他者に<<私>>を贈り与える時、それは自然に意識されず、起こっている
それは、私の存在の端的な肯定がそのまま適応されるから
何の努力も、何の無理も必要とされず、必要十分な表象さえ他者から得られると、
自身が全く意識しないで<私>であるのと同じ構造で、他者に<<私>>が贈り与えられてしまう
何も意識されないから誰もその事実に気付くことはないが、アガペーのやりとりは全ての人間が全く自然に、息を吸って吐くように行われている
<私>が「さとる」という特定人物の豊かな表象を得て、
特別な識別子である<<さとる=私>>を贈り与える時、
本質である人物のゆたかな表象を全肯定しているわけではない
また、その豊かな表象の主体である「さとる」の存在を全肯定しているわけでもない
<<さとる=私>>が実存していることを全肯定している
世界の開闢としての存在として、意識することなく、
つまり、自分と同じ在り方をしていること、そのことだけを全肯定している
神は創造の前に全ての存在を全肯定しているが、
<私>はそうではなく、特定の人物「だけしか」肯定出来ない、ということ
<< >>の表記法で括られる何かは、「贈り与えられなければならない」
本当なのだろうか?
言語とは世界像であり、かつ自己の考えや感情などを他者と共有する道具でもある
二重の機能を持つ
それは橋をかけられる類のものではない
明日起きたら毒虫になっていたとしても<私>にはなんら影響がないのと同じ話し
世界像の中に、「人間」や「他者」や「さとるくん」という「愛の対象」があったとしても、それ自体は他の記号と変わらない
その世界像の中に「さとるくん」と「げだつちゃん」の愛や慈悲の物語りがあったとしても同様
あくまでも使用すべき愛は実存において、実存の贈り渡しにおいてのみ生起し、それ以外の一切は、すくなくとも、アガペーとは異なる次元にある
・神への愛
・自己への愛
・隣人への愛
・身体への愛
の4つの種類にわける
そしてそれらを
・享受すべきもの
・使用すべきもの
の2つの篩にかける
そして「享受すべきもの」は神への愛だけであると結論づける
倫理的な意味で、あるべき姿としての定義
愛の分類においても享受が「唯一」ゆるされる、
その対象への愛自体が目的となるのは神への愛のみで、
隣人への愛は使用すべきもの、つまり享楽の対象にはしてはしてはいけない、という論理
従って、自身を愛(使用)するように隣人を愛(使用)せよ、神のために、なぜなら神を愛(享受)しているから、
となる
創造を前にした時に、創造を目的とした時に、この<私>の在り方は神の創造の奇跡の一つであり、創造実現のための「手段」でもある
その意味で神への愛は享受すべきもの、(創造の)目的である
<私>であることは、端的な事実で、意識に上ることがないほど自明なことである
それは、意識に上ることはないが、先天的な存在の全肯定であり、その全肯定はそういう存在として創造した神の愛(アガペー)に端を発する聖なるものだ
そして、この全肯定を全人類には向けられないが
よく知った、時間を共にした、隣人に向けることが出来る
さとるくんも<<私>>であるに違いない
私はあなたの実存を全肯定する
こういった作業が意識に登らず、何の労力もなしに、日常で行われている
自身を愛するように隣人を愛している
<私>がさとるくんに<<私>>を贈り与えることにより、
神の前にあって<私>と<<さとるくん=私>>が平等で在ることを示す、神の栄光を増す
そして、それが可能になるのは実存の全肯定、アガペーにより、実現する
神の手段として自己と隣人を捉えよ、という意味ではなく
究極の目的以外は端的にその手段である、という意味で享受と使用を使っているが、
神の概念が所与のものとしてあるので、それを取り払った場合はどうなるか
カントなので神の概念は取り払われている
仏教研究がおもろすぎて〜
みやげ、
リンク主から
沢山学べた
😄
https://m.youtube.com/watch?v=vu9moDsx7aM
この方向性でみるかも〜
という
衝撃を
受けた
😄
それはなによりだ〜😆
カントは理性を理論理性と実践理性にわけ
理論理性は目的ではなく、常に手段となる、と語る
なぜなら、彼は理論理性は判断を下す力である悟性の働きで、それは因果関係で自然を捉えるものと語り、それは原因と結果の連続を捉えると等しく、それ自体に立脚していないからだ
常に因果に、縁起に絡め取られる
実存と本質の話で言うと、本質側に属するのが理論理性
実践理性は理論理性が世界像、因果の法、つまり経験によらずに真であることに対し、経験に属するものであると語る
さらに経験に属するものの中で、普遍的な道徳に沿っているものを「純粋」実践理性であると語る
道徳云々は、欲望に満たされた意思は他者の自由を侵害するため、普遍的とは言えない
道徳に満たされたそれは自己の自由を増し、さらに他者の自由を阻害しない、そういった道徳に満たされた実践理性は純粋実践理性と言い得る
実践理性は道徳法を「自殺しない、偽りの約束をしない、自分の才能を伸ばす、他人に親切にする」の四つにまとめ、それを格率と呼んでいる
この自己の尊重と他者の尊重が矛盾しない中に倫理のあるべき姿、第一原因を見て、
それが普遍的であることから、目的である、と語っている
良い人は損をする
それが分かっていても格率に沿って生きるからこそ、
人は自由であり得るし、それが人間が自由たる所以でもある
それ自体にそれ自体の目的があるからこそ
個の尊厳、ならびにその尊重は目的であると語る
目的は第一なので、それ以外の、そのための因果関係は手段となる
実践理性は目的であり、理論理性は手段である
実践理性は享受すべきもので、理論理性は使用すべきものである
目的に個の尊厳があり、それ以外の手段は格率に適合する意味で手段たり得る
神が自分に似せて創造した=世界の開闢であるこの比類なき<私>=個の尊厳、となる
全く意識せずに自然に
前者は神において成り立つが、後者は実践的に神なしで成り立つ愛である
つまり、<私>を生きている人だけが、意識的に他者に<<私>>を贈り与えることができる
<今>における生成において、新たに作られる物語りの中で
アガペーを隣人に贈り与え、<個>と<<個>>の完成を、共に歩む、という物語りであり、
仮にそれが幻想(本質)だったとしても、実存においてそれだけがリアルである、という根拠において、誰にも何も言わせない
なんちゃって仏教徒の無我のくだらない物語りがくだらない根拠はここにある
さらに解脱を目的としている人に対しては、その世界観こそが勝ち負けの世界から離れられていないことの証拠である、といっても意味が理解できないだろう
単なる現象で、本質に分類される
それが「苦」である、という価値観は
仏陀が「衆生がそうであるから」語っているだけに過ぎず
仏陀は森の中で一人で静かに解脱することも出来たが、
あえてそうせず、語り得ない事柄を衆生に語る道を歩んだ
それが魔境を生むのは必然で、その理由は勝ち負けの世界でテクニックで行やその結果の体験を積むからだ
だからといって、それが小乗、キリスト教神秘主義に「劣っている」とはならない
この「劣っている」という概念こそ、勝ち負けの修羅道から生まれる概念であり、この中で行を何十年、何百年、何千年と続けても、悟るとはない
むしろ、その世界観の中で行を続け、放蕩することは、そこには何もないことを悟るためにある
その強化により、とんでもない痛手を被り、俗世の奴隷であるより、天の父の奴隷で在ることの方がよっぽどマシだ、と父への帰還を意思するようになる
放蕩は苦しい、辛い、痛い、いいことなんて何もない
ボロボロになり父への帰還すら意思できなくなる
永遠の苦のループの中で永遠に止まり続けることになる
自分のせいでもあるし、人類のせいでもある
といいたくなるし、いう人の気持ちもわかるが
彼は<今>において足が「切断」されている
歩きたくても歩けない
それが「自身のせいにせよ、人類のせいにせよ」、歩けないのが実存における事実であることは間違いない
実現は不可能だ
それだけでいい
この意味で、カトリックは「今のままでいい」
殆ど発見はなかったし、その事実からさらなる発酵が求められてる
時間の力を使うしかありませんな😩
仏陀の<私>があってこそ、意味を持つ
放蕩息子が放蕩だけで終わる物語はあり得る
それは、放蕩息子の<私>において、辛く、悲しく、苦しい人生そのものであるはずだ
それは、キリスト教を、神秘主義を、個の完成を、所与のものとしている人物の発想そのものなのではないか?
とある意味で言い得る
それは、弱さ、とニーチェ的にはなるのだろうが、
相対的に、それはニーチェが弱かったからだ、とも言い得る
この束縛から自由になった物語りの価値こそがこの現実、世界、人生とも言い得る
本当の剥き出しの実存の中で生きる<私>をどう扱えばいいのか?
それでも、それ抜きで、連続性の呪縛から逃れ、
生の本質を輝かせる時、それは一体どういうものなのか?
とっかかりはないがその必要性がある
それが切り取られている
道に入るまでは放蕩するが、
そもそも放蕩しているから道に入ることが出来ない
その歩く気力がどうしても持てない、
頭ではそれが正しいことは分かるが、
出来ない、どうしようもない、
そんな状態にある人々の方が大半である
苦の中にある人にとってはそんな余裕はない、それどころではない
そういう状態のまま、人生を全うする人の方が多い
この創造の道を歩くことが「不可能な状態」にある人達はどうしたらいいのか?
これは言葉通り不可能であるほどの困難さ、越えることが出来ない壁として立ち現れる
性格を変えないと、捉え方を変えないと、と個の完成の物語り、右肩上がりの世界観を所与のものとする一般人から見ると
「だからダメなんだよ」となるが、身体的、精神的なダメージを受けている側からしてみると、そうじゃない、無理なんだ、出来ないんだ、となる
人生をリセットして、全ての記憶をなくして、まっさらな状態でゼロからスタートすれば、もしかしたら出来るかもしれない
でも、連続性の中にある限り、そこには人生が生み出した慣性の法則、傾向性に支配され、なつ身体的な出来なさ、社会的な出来なさ、の前で身動きがとれなくなる
この身動きの取れなさ、のほうが個の完成の物語りを歩んでいるもののストーリーよりリアリティがある
みんな、大なり小なりそうだから
しかし、肝心の意思が働かない、それが不可能な状態なのだから、意思を働かせろ、個の完成への糧にしろ、と外野が何をいっても、意味がない
意思が働かず、身体は動かず、でも頭ではわかっているので、自己嫌悪は増すばかり
罪の意識はますばかり
さらに何も出来ない状態になる
連続性の中にある我々としてその突破口はどこにあるのか?
それは、「行ではない」ことは明らかだ
狭義の意味での召命は司祭などの教会における役割を使命として与えられた状態だが、広義には洗礼、堅信を経たものが与る使命
キリスト教では世俗の経済活動でもその背後に召命があり、その内容は利他的で愛が前提にあることが多い
召命前、召命後でわかりやすい節を作った場合、
これは社会における利他的な行いへの意志を持つ前なのか、持った後なのか、などと類比できる
仏教の場合は慈悲を知る前、知った後などで類比できるだろう
そこまでどう持ち上げられるか、が連続性を踏まえた時の初めの越えなければならないハードルとなる
皆が右肩上がりの物語りを歩めるわけじゃない
キェルケゴールは信仰の道に入るとそれが癒されると言うかもしれないが、そもそもその救済の道に入る意思すら生じさせることが出来ない状態が普通なのだから、絶望したらそれから逃れることは出来ない、となる
そうした時に、絶望する人は創造を前にした時に単なる落伍者となってしまうのか
城の外に締め出されてそれで終わり、となるのか
希望の一切を<今>において絶望で塗り潰し、過去の全ての体験、経験、本質の一切を絶望において統合する
時間が癒してくれるまで待つ、とならざるを得ないかもしれないが、その発想自体が個の完成、希望を志向するため、それらの一切は排除する
なぜなら、絶望「だけ」に満たされた人生は容易に想定し得るし、実際にこの世界で常に生じ続けている確信を持つから
絶望とは希望の一切がない身動きがとれない状態
非常に不自由かつ無力の中にある
絶望が絶望を強化し、希望の光がさす余地が一切なくなるところまで積み上がってゆく
ただ在る
しかし、本質の側が創造の物語りを拒否し、その真逆を志向したもので塗りつぶされ続ける
それにより、実存はより輝きを逆向きに放つ
ただ、個の尊厳を持つから故、それが可能であると言う意味で、創造には仕えている
実存が個の世界の開闢である以上、創造の枠外なんて存在しないが
また、どう言う意味でその考えは機能するのか?
その掛け値なしで尊い存在は自由意志を持ち、善を行うことも悪を行うことも出来る
ここでいう善悪の善は神の属性であり、その不在が量に応じて悪となる
掛け値なしに尊い実存は、尊いママ、善も悪も行うことができる
人類の傾向性から悪を行う実存が割合として圧倒的に多く、それは不完全を意味するという点により悪いが、
その悪の結果が「結果的」に善を増すものになる、神は悪を使役し、栄光を増すことが出来る
なぜなら、被造物は不完全であり、全を見通すことは出来ないから
なぜなら、善を増すためには不断の努力が必要不可欠だから
あなたの行為は間違っているとは言えるが、あなたの存在が間違っているとは言わないし、
行為が間違っていたとしても、その改善への意志が生じることが不可能なのであれば、それを語ることもないだろう
そしてそれが常識という名の世界(観)を作り出し、その物語りの枠内でしか生きられなくなる
存在性は修羅道のママなので、結果的に魔境に堕ちる
こう言う一切は邪道に誘う
隣人に開かれており、利他的なものを動機に行を進めると
その先にキリストや菩薩が待っている
従って、絶望の中で人生が終わる人は今後も存在し続ける
その中で利他的に生きるものは、
創造の、個の尊厳の前にあり、共に在る、しか究極は出来ない
同じ尊厳を隣人に贈り渡し、
<<私>>と共に在る
しか究極的には出来ない
原因が結果を生み、
外部要因からいつか個の完成の道に入る
という希望はあるが
<今>において本気で欲する
それがこの世で、理とも言える
などなど言いたくなるし、そう信じているが
そうならなくても、それでも信じるのか、
と問われたら、そう回答するしかない
が究極の答えになってしまう
その行動として、最後の時まで共に在る
私は少しづつキリストに似る階段を登り、
いずれ利他的にしか生きれなくなり
その時、隣人の苦しみは<私>の苦しみになる
実存の私秘性により、<<私>>の痛みは分かることがない
しかし他者として共に在ることが出来、
共にあることしか出来ない
<<私>>がいる世界への永劫回帰となる
しかし、解脱を望むものは、その教えを
救うもの、仏陀の教えとして学んだだけで、
解脱しないでそれを教えた仏陀の存在まで至っていない
他の無名の聖人のように、愛における救済の具体的行為ではなく、方法論を広めた
ヨハネが神を語り、道を真っ直ぐ整え、その後でキリストが活動したように
仏陀も語り、道を真っ直ぐ整え、その後で弥勒菩薩が遠い先の未来で活動する
創造はそれを原動力に駆動し、生成し続ける
愛と慈悲を欠いた一切の全ては、それが存在の梯子を登ることに関係してればするほど、創造をマイナスに歩む
プラスであろうがマイナスであろうが創造を前にした時に大きな価値で在ると言い得るが、
普遍的な善悪の前で、それは邪道であり、強大で純粋な悪を未来に生むだろう、ということになる
存在の梯子を登れば登るほど、苦はますます巨大になる、と予感する
だが、それによって神の栄光は益々輝くことになることも同時に知っている
この世界は<私>の世界の開闢である、という端的な事実
この物語りは、<私>が創造する物語りである、という事実
他者である<<私>>もそうだろう、という「仮説」が事実だとしても、それでも、この世界は<私>から開闢され、その世界で<私>は創造主でもある
その世界の「変化」に関与できるものは、
この世界で唯一<私>である、ということになる
隣人がそれを脇見でみて、おまいの頭の中でな、と思うのは的を得ている
的を得ているが、彼が理解していないのは、
「おまいの頭の中でな」と語る人物はこの物語りの一人の登場人物にしか過ぎず、世界の開闢である<私>は違う次元に存在しており、それらの物語を、夢を、眺めている、という事実
世界の開闢として開かれる<<私>>になることは構造的に出来ない
仮にそれが出来たとしても、その体験は<私>における世界の開闢と変わらず、<<私>>のそれとは端的に違う、という結論にならざるを得ないから
そして、その端的な意識されることがない事実の中に、神の存在を付与すると、アガペーや個の尊厳が後付けで足される
ただ、それがなくとも、端的な実存の事実だけで、創造の現象は説明できる(はず)
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
正しい人ですら。
ここら辺の構造の解像度を少しだけ上げると、ただ共に在る、の価値がもう少し見えてくる気がした
かつ、「善い」変化のためには連続性は「リセットされなければならない」
そして修羅道の中で、隣人を手段化している時に生じる現象だ
それなりに動機が見える許される範囲のもの、スルーできる選択があるもの
と
スルーできない、即刻勤め先を
辞める判断を
早くすべきの環境があるモノホンのブラック企業
ビッグモーターなんかは、
そんな環境だったらしい〜
さらに受け取る側が「受け取りたくない」と感じてしまえば
それはパワハラモラハラであることから、
立場の差と、受け取る側の感情が、パワハラなのか、学びなのかを左右する
それらをスルーてきない
メンタルのある人も
存在する、
カウンセリングが必要で考え方の変更を要求される家庭環境で育っている人とか
メンタルヘルスの完備度合いが低いし、
繊細なお方にとっては地獄な社会なのも確かである。
ビッグモーターは完全に社会的に抹殺されましたなー
業界2位のネクステージも血祭りにあげられますな
業界の闇だ
ネット系だけ生き残る
中間管理職は
上役にプレッシャーかけられているので
その目的達成の為に無理難題なパワハラまがいのケースは発生する、
🫤
そう、この社会は地獄でもあり、不条理が大手を振ってまかり通ってる
スルーさせないのが
モノホンのパワハラだろうね、
スルー回避できるのは
まだ平和である、
が
スルーてきないメンタル繊細な人は世に絶対に存在するのも事実。
🫤
世界を私色に染め上げたい、という衝動がありますからな
この立場の違いは宗教においては存在性の高低として現れる
知識や経験を豊かに持つものと相対的にそれらをより所有していないもの
より多く所有しているものは、そうでないものに対して、差分の知識や体験を語る
個の尊厳の前に立ち、それを尊重した上で、彼らにとって意味のあることを語るため、それは話す対象に最適化されている
ある意味で当の本人よりも個別最適の視点を持っている
個の連続性を捉えた個別最適の話もあるが、
それに影響を受けない普遍的な事柄も語り得るから
普遍的な事柄を語ることはパワハラ、モラハラ足り得るのか
パワハラモラハラの閾値は、特定対象がどう感じるか
普遍的な真理をその特定対象の連続性無視して強いる場合はパワハラモラハラであり得るが
不特定多数を意図して普遍を語る場合は特定対象を対象としていないため、そもそもパワハラモラハラは生じ得ない
特定対象を対象とした語りは、その内容が普遍的なものであったとしても、パワハラモラハラであり得る
不特定多数の中の特定多数が自由意志で
「これは私のことだ」と受け取り
特定多数を経由して間接的に衆生の救済に仕えた
後者は特定個人に影響を及ぼし得る範囲で
ハードカバーの聖書は鈍器にもなれる
キリストは「やってみせた」
そして両者とも「させてみせた」
そしてその先にある経験は「ほめてくれる」
我欲を抑えて隣人のためだけに語ることが出来るか、となる
つまり、利他的か利己的か
確実に他者との関わり合いの中で生きているのだから、
全ての起点には、利他、慈悲、愛がなければならない
かつ他者は、<<私>>は世界の開闢であるのだから、
<<私>>の世界を動的に変える権能は、
存在全般は「持っていない」のだから
どこまで<<私>>に<私>が近づけるのか、
という幅感の中で、その<<私>>の本質を豊かに持っておらず、かつその<<私>>に中心化して語らないのであれば、潜在的にパワハラモラハラ足り得る
極端だが、論理的にそういうことになる
パワハラモラハラであっても利己的
パワハラモラハラはそれが理想であれ、完璧主義であれ、世間一般の常識であれ、利己的に、素朴に、何かを望む時に潜在的に生じてしまう
空気のように誰にも気付かれずにただ共に在るという状態が、教師、隣人としての人間の究極の姿なのかもしれまい
それは生命における愛や慈悲に満たされている状態に等しく
特定の行の体験で観じるものでもある
横に<<私>>に深まっていく軸がある
前者だけだと魔境に入る
知恵はいらない、慈悲だけでいい
と、言い得る根拠がここにある
キリストはある意味では開いていない
キリストは「急がない」のか
仏陀の唯一の物語りと普遍的な知識/行体系は世界で唯一である<<仏陀>>から発せられた
ここでは受け取る側は、他者の開闢の世界に触れる、という状態にある
前者との違いは、<私>の世界を<<私>>に伝える、ということに対して、<<私>>を「具体的、直接的に救う」という点が違う
であるなら、語り、間接的に救済に関与することももちろんあり得るが、具体的に一人一人を直接的に救済することももちろんあり得る
間接的な救済を取り、直接的な救済を取らなかった理由があるのは確実だ
しかし、仏陀のような存在がなぜ語る、を選択したのか
これは考察するべき事柄だと直感する
それはひいては愛と慈悲について考えることに(ほぼ)等しい
が、キリスト教スレでそれをやらねばならぬ理由は
創造において、その物語りに仏陀を含めることが普通に可能だから
という点と、仏陀は被造物において、卓越した存在であることから、彼について考えることが、創造について考えることに繋がるから
仏陀でなくとも他の存在でも構わないが、仏陀は宗教界のスーパースターであり、(私も含めて)多くの人が知っている、という意味で考察の対象として「便利」だから、という意味合い
説く気がなかった理由は、誰も理解できないだろう、という点と、それが流れに逆らうことだから、という理由からだ
でも、梵天が諭して考えを変えた
梵天が諭した理由は、このままでは人類が滅ぶから
そして、わかる人は少数であっても存在し、
教えを説かないと、彼らすら滅んでしまうから
やはり、シャバとの付き合いなので
キリスト教的理想論は
通じないようだ
🫤
極めて分かり易い、
伝え方に悩むからだ
とにかくの緻密なメンタルの完成を伝えなければならんので、
ブッダは悩んだといえる、
こっちの苦労している
アクロバットな発想は
より内容難易度がマニアックになる
😄
シャバ世界のお付き合いのプロフェッショナルだかな〜
神秘伝授を、この世におらん、その筋の超プロに大方結構教えてもらったべえ〜
😄
横目にみながら、
自分のステップアップの条件の3分の2を
そろえた
😄
そうだ
俺の選択している世界は
スローライフという世界観ではないが、
本来、仏教はスローライフだ
世俗を無視していいほどのスローライフだ
キリスト教は
もっとスローライフである、
先週の休み月曜の発見であった〜
ほぼ、その視点には確信を持ちつつある
😄
ただ、仏陀は自身の「(誰にも理解されないであろう)近道」を教えた
そして、それが「流れに逆らう」ことを自覚していた
また、自然が提供するものだけで自然にそうなる状態からの「逸脱」を教えた
これも流れに逆らうだろう
それらは釈迦の<今>にあって、「不十分=人類の滅亡を止められない」かった、ということだけは、残されているものを前提にした時に、事実なのだろう
仏陀は語るつもりがなかったが、語ることを意思した背景には、人類の滅亡の阻止、があったことは間違いない
ただし、語ることにより、より衆生の救済において、より悩ませる事態になる、ことを知っていた
仏陀の境地に立てば、滅びるは滅びるに任せればいい、余計な苦を衆生に与えることは、取るべき道ではない、仮に人類の滅亡を防げたとしても
ということだったのだろう
それを増やすのは苦を増やす行為である
結果として人類の滅亡も食い止めることができる
そして、特別なもの達を選んで、大衆にはすまないが、いつか意味がわかるようになる、いつかあなたのためになる、といった心持ちで、特別な人たちと人類の滅亡阻止に舵をきっているはずだ
ジャータカの永遠の時間軸で捉える時に、
特別な人達がいるからこそ、大衆は一時的に苦は増えるが、
予型に連なることができる
そして、それが仏教として大成した
その対象となる<<私>>は「耳のあるもの」となる
しかし、その限定性と人類における生老病死の永劫回帰を前に、その克服のできなさ、無力の中にあって、一人解脱を望む状態だった
彼が「語ることを断念した態度」から「語ることを、時空を超えた特定少数の救いに関与することで、人類の滅亡を阻止できること」を意思した、大転換の中で起きていたことは、
まさに絶望が希望に変わった
という表現の中に全てが織り込まれているのではないか
そして、仏陀自身の大転換は、おそらく智慧と実践には分かりやすくは含まれていない
しかし、仏陀が大転換をはたしたように、仏陀の<私>の智慧と実践を聞く耳のある他者が触れた時、仏陀のように大転換に繋がる
原始仏教はそういう仕組みなんだろうと推測する
しかし、大乗が起こる前に、実は、仏陀の特定少数への跳躍は、キリストの特定多数の跳躍の軌跡が実現している
それは、絶望を希望に変えるため、であり、その背景に慈悲がある
もう少し言うと、そのための衆生を犠牲にしつつ、衆生を救済するための「偽悪」もある
仏陀の絶望の中身と、希望の中身を持つ少し微分したほうがいい直感がある
持つ少し粘着してみよう
それも、もう少し微分した方がいい
時空を超えた特定少数への語り、とは一体どんなものか?
仏陀はあくまでも「ティーチング」の人
キリストはあくまでも「神=完全」の人
伝わらないことを、それでも希望を持って語るのは
不可能性を跳躍して乗り越える祈りだ
この場合の対象は<<私>>になるが
とういう意味での対象だから、祈る対象は神にはなるが
家の近所の丘に
チベット密教と高野山真言宗と共同運営する大学、大学の建物のフロアまでは自由に出入り自由〜
フロアには俺に金を使わそうとする
密教の本がたくさん〜
んな金無いな〜と
横目に〜
前世はチベット密教やっとるから
家の前に、
こんなもん建つんやろな〜
とか〜
😄
大学的なものはもう必要ないのかもしれませんな
仏陀の一人解脱する絶望からの限られた人を救うことが人類の滅びからの救いに繋がる希望の大転換
その絶望はどんな絶望だったのか
立ち止まってレンズをあててみる
誰にも理解されないと考えたからだ
仏陀ほどの高みにある人物からしてみたら、一般的なよく聞く理由とは違うはずだ
考えすぎで一般的な内容、つまり難しすぎるからwとかかもしれないが、それだと元も子もない
とにかく、なぜ「理解されない」と考えたのか、心理学や知識体系の中身の吟味を経由せずに、その構造を考えてみたい
確信がないなら語っているはずです、少なくともやってみて、その上で理解されなさを悟り諦める、というプロセスを経るだろう
そして、それは試みる前に、そう確信していることから、仏陀は知っていることは、この世の常識と随分かけ離れたもの、形而上のものであることは確実だ
そうでないなら、断念する前に試行錯誤があるだろうし、仏陀ほどの卓越した人物がそれをやらないなら、それなりの理解されなさの原因や根拠があるだろう
超越的な事柄を語る時、それはこの世界の原理を超越しているが故、その描写に相応しい形式を供えていない
従って、人が超越的な事柄を語る時、常に言葉により言葉を解体してゆく表現の力を借りて、比喩として匂わすことぐらいしか出来ない
絶対的に伝えることが出来ない、という伝達不可能性を前に絶望している
仏陀自身が「伝えることが出来ないあれ」が何かは分からないし、伝えることに希望を持った後に語った内容が「それを指している」かどうかも分からない
もしかしたら「伝えることが出来ないあれ」は結局は、少なくとも直接的には語っていない可能性の方が高い
なぜなら、仏陀ほどの存在が絶望するほど不可能だ、と知っていることなのだから
伝えることが不可能なことを、そのまま語っても、やはり伝えることは不可能なのだから、「伝える中身が変わった」に違いない
伝える中身を変える時に、「誰を対象にして」は必要不可欠だ
梵天は「少数の分かる人」に触れている
伝える中身は「少数の分かる人が分かりそうな内容」に変わったに違いない
じゃないと絶望が希望に変わる大転換の説明が出来ない
「救えるのは特定少数」である
<今>における特定少数を救っても永劫に苦は回帰するから意味がない
特定少数を救う方法論は永遠に機能したければならない
という点だ
ただ、<今>において手の届く人々を黙って救えばいいだけ、となる
それならできるぞ、少数ではあるが、不特定少数なら語る意味があるし、人類の滅びの阻止に機能する、となったのではないか
常に特定でなければならない
しかし、不特定少数に智と実践を永続的に教え続けることができるなら、それはプチ仏陀(菩薩)の永続的な少数生産のシステムとなり、
そのプチ菩薩を経由して、<<私>>に愛が、慈悲が送り続けられる機構が完成する
その実現のためなら語る意義があるだろう
また、その実現性、仮説を吟味するために世界を眺めてみて、いけるという確信があったのだろう
梵天の説得のポイントは「少数」に的を絞ったところにあるに違いない
愛を贈り与える対象が常に特定少数であることから、
衆生の救済は<私>が何を語ったとて、<私>だけでは構造的に不可能だが、
特定少数だけは<<プチ仏陀>>になり得る、製造し得る、劣化版コピーを作り得る、ことに気付いて
<<私>>を介して衆生を救済する方法論に目覚めたからなのだろう
衆生を救済するものを作り続けるシステム、劣化版コピーの方法論だ
<私>の世界に触れて、二つの開闢の世界が交わり、染まり、コピーされる
仏陀のような存在が語る時、コピーを作ることに目的がある
別の表現だと、仏陀に似た人を作る、ためにある
従って、慈悲をコピーしない一切の行は邪道に誘う
論点先取だが、キリストのコピーのケースでは、不特定「多数」となる
上の話のベースには永井均さんや曹洞宗の藤田一照さん、テーラワーダの山下良道さんが対談されている仏教3.0を哲学する、を読んで考察の下地にしている
むしろ、悩みが増えるだけ、という仏陀がもともと危惧した状態になっている
場合によっては現世御利益のために仏教の行を応用するし、不特定多数の「実践」足り得る内容にバージョンアップしているが、こんどは1.0の真理に欠いている
俗世化している
不特定多数の実践に耐え得る内容なのはその通りだが、その実践は「何のための実践か?」という点
自己実現のための実践なんて、それは早晩仏教テクニックの悪用でしかないじゃないか、と思ってしまう
それは単に「別物」と言っていいのではないかと思う
しかし、中央集権であるからこそ、権威を権力を行使し、一気に全体を大転換させられ得る可能性があるが故に、
「どんな人が教皇になるか」に全てがかかっている
キリストに似る、が信徒の本懐であり、その全てである
不特定多数を対象として
似てる似てないは「何において」が常に問われなければならないが、小乗とキリスト教は「目的において」似ている
一方で、大乗とキリスト教は「対象において」似ている
そして仏陀とキリストの目的は衆生の救済であることは言うまでもない
この「教」と開祖の目的の違いは味わい深い
そして目的は実存側にあり、自由意志で<私>だけの目的を持たなければならない所以でもあり、だからこそ召命が決定的に大事である、とも言い得る
それらを欠いているなら、確実に、やらないほうがいい
スマナサーラに言わせると
テーラワーダは
事実を確かめることらしい、
スマナサーラは
相当キリスト教を嫌っている
🫤
その場合、スマサラーナがキリスト教を嫌ってる事実は確かめられましたか?
なんとなく、とか、そういうふうに思われているから、
とかそういうところで止まると面白くない
全ての偏見は無価値だ
そういう俗世の物語を観じる人類に大悲を見て、全てが愛おしい生命そのものとなってるはずだから
私を含む大半の人間はエゴイズムに囚われている
だれだれがこう言ってる、どこどこにこう書いてる、だからこうだ、と語る
しかし、その断定の根拠のアウトプットの過程の至る所に主観が混じっていることに気付いていない
かつ、その前提で十分に吟味されてもいないし、だから結局は腹落ちしてなく、だれだれがこう言ってるらどこどこにこう書いてある、だからこうなんだ、という話法に終始する
それは、素朴実在論と何も変わらない
つまり、必要ないなら「近づかない」
それは実存における健康的な生き方、に関係するから意味がある
少なくとも、素朴実在論者はそう生きた方がいい
これがよく生きるための知恵だ
だから、自身を愛し、必要なものを自分なりに知っている
それだけでよろし
本当は嫌いなものに、自分から近付く必要はない
シカーチンと同じ何かが働いている時だ、と認識すると分かりやすい
縦を匿名掲示板で行う意義は未熟が理由しかない
それでもその意図を理解してる人が大半だろうし
それに気付けない人に気付くようにも、あえて大袈裟なリアクションは心がける
そこにほんの少しだけ客観性を付与する程度だ
ここは、そういうスレだから、私しか書き込まない
それを意図したスレってことですな
スマナサーラは随分な言い方を当人の本でみたことがあります、
ま、そもそも、大丈夫仏教に対して挑戦的な姿勢なのは割合強かった、
スリランカ人なので容赦ないのかもしれん
🫤
おはよ〜
マニアなチャンネル動画が上がってきていた〜
お〜
いつ見るかわからんが
動画落しはする〜
https://m.youtube.com/@Nihona.Yeshiva
スマナサーラは
殺人や裁く神なんて、
あえりない迷信みたいな
大概な内容だったよーな記憶が〜
🫤
戦車=メルカバ
か〜
イスラエルも
シンプルな戦車名にしたもんやな〜
日本語の
自衛隊戦車に
戦車、という名前をつける
ま、日本は90式とつくか〜
レオパルドとかではないか〜
😄
シカーチン祭りの
チャンスなので、
そちらの貴重なレスコピペ弾の
無断使用を
お許したく〜
🙏
彼が神という概念をどう捉えてたかは知りませんが、それがキリスト「教」を対象にしていたのかどうなのか、は吟味するべき事案やと思いますな
勉強熱心ですなー🤩
そういう意味なら、キリスト教や一神教における「大衆の偏見」が理由なんでしょうな
コピペは自由にでいいけど、結局シカーチン的な人間は勝ち負けの世界に生きてるから、何言っても無理だと思うで
全ては「シカーチンの勝ち負け」の世界に収束されるなんて、放蕩してるシカーチンにしか意味がなくてシカーチン以外の人間には何の意味もないからな
エゴイズムに宗教を「使役する」、「仕わせる」、これが仏陀が裂けたかった、語らないことを意図した理由だろう
時間の力を使うしかないわな
仏陀の教えが永続的な特定少数(つまり不特定少数)を対象にしていることに「比較」し、キリストは常に「特定多数」を対象にする
なぜなら、救いの対象が彼においては、神においては、人類だからだ
そんな人類を創造した創造主である三位一体の神の、子なる神としての位格を持つキリストは、「特定」から、全能であるが故に逃れることは出来ない
個の髪の数ですら知っている全知の存在として、キリスト教の内在的な論理を踏まえると、必ずそうなる
「特定多数=人類」の救い、この奇跡を成就し、その創造は<私>において、実現され続けている
キリストは実存の力を、つまり、実践理性の、実存を使って永遠の特定多数(不特定多数)の救いを直接的に行い救済する
その方法論は「やってみせる」
神が、受肉し、人類の、神の似姿として獣のように未熟な存在のままで、霊の原理により、どう完成に至るか
それを「やってみせた」
現実態として「やってみせ」、それをやってみせるために
原罪の贖いを、「自身である実存のために」、「やってみせ」、
それをやってみせたからこそ、個の完成をオーディエンスである人類に向けて、兄弟姉妹に向けて、ライブした
なぜなら、ジャータカの実存が、人生の果実、糧を得続けて、神「的」な存在に上昇する、存在性の「梯子を昇る」のと比較して
キリストは神の実存が、存在性の「梯子を下る」ことで初めて、神と橋がかかった「物語り」を人類に提示することができた
パフォーマンスすることができた、と言えるから
仏陀とキリストが、それらの宗教的な内在的論理を所与のものとした時に、「どちらが完全なのか?」と問われれば、誰しもがキリストである、と「言わざるを得ない」だろう
実存として神が人として生き、そして神に「昇る」、神としてありながら人として神に昇る奇跡を前にして、どんな言い訳も意味をなさない
しかし、神であるキリストは、本質がどうであれ、取り敢えず、被造物はここまで完成され得る、という絶対的で不動の真理、被造物における完成形を「端的に示した」、「実存した」
「なれる」は「仮説」でしかないが、「あれる」は剥き出しの現実である
この圧倒的なリアリティから、そのパフォーマンスから目を背けられる人はいないし、それを否定できる人はいない
オリンピック選手は走るし、飛ぶし、打つし、そう存在している
それを「知って」、否定できる人間は、いない
マーケティングがキリスト教の本質的な機能の全てだ
つまり、「伝導」となる
なぜ不特定多数の救済となるのか?
その構造にもう少し粘着する必要がある
仏陀は不特定少数なのに、なぜキリストは凡夫すらも対象と出来るのか?
昨日は
人のいないカトリック聖堂の空気を吸いにいった、
なにかを霊的に期待したわけでもなく、
仏教寺院のほうが模索はしてたけども
😄
他の動画を落すついでに、
ナザレン教団、桃谷教会の礼拝動画を見ているナウ、
ま、ま、オモロイ
😄
家に読まない山程あるプロテスタント系統のキリスト教書籍
を読む気になった
久しぶりだな〜
😄
😄
😄
エペソにいるパウロの弟子と
エペソの出来事を詳細に書いている〜
人間パウロの苦難な出来事も背景とか
詳細に、
研究マニアだな、このお方は
😄
往生要集を読んでいると
キリスト教に関するヒラメキがでてきたから、本を読む気になったよーだ
😄
ネット検索すると、
こういう人らしい〜
武士道の翻訳者 飯島正
😄
😄
暇人が上辺で
利用している可能性があるな〜
これは〜
暇人は邪悪だからな〜
😭
ギリシャ語聖書マニアらしい
😄
実存と本質、本質は様々な側面から「部分を切り取る」ことができる
智慧と慈悲から「智慧だけ」を切り取ることが可能であるが、
智慧だけの仏陀が実存において不可能であるように、
実存は包括的に無時間的にいっぺんに全体が全体として成立している
それを「実際に行うためにどれほどの労力や努力が必要なのか」は定かではないが、どう在るべきか、は全ての人においてアウトプットされ得る
実存という形式は、学や耳を必ずしも必要としない
あったほうがいいが、なくても目があれば知らせることができる
口ではなく、目で、厳密には、目の代替としての耳で、聖書を通じて知覚できる
他者(<<実存>>)として我々の前に現れる
剥き出しの実存、<<他者>>、その存在に中心化された
生き様として立ち現れる
なぜなら、それが衆生の救済として直接的に現れるし
行為そのものがあるべき個の完成を「表現」している
行為の「意味」を持っている
抽象的な智慧は必要なく、つまり理論理性は仏教ほど必要なく
実践理性、つまり倫理観の教えに中心化されていることに特徴がある
それが可能であるのは、誰にも開かれた目によって、その伝達を行えるからだ
最もシンプルな形で真理を語る
つまり真理が受肉して生きる姿を
物語りの形式で見てもらう
この点にキリスト教の特徴がある
従って、存在が倫理として、他者の形において現れる
修行というより、生き方、そういった形でキリストは真理を
凡夫含めて広めてゆく
そして真理の小道は聖霊と教会を通じて、準備が出来ている、耳のあるもの、だけを対象にも開かれる
そして、少数の耳のあるものは、召命を受けて、社会の変容にも働きかける
しかし、耳のあるものへの具体的な行、明確な存在性の梯子を昇る方法論は、仏教のそれと比較して明確ではない
しかし、それをあえて明確化しないことにより、不特定多数の救い、キリストのコピーを作る、という目的に対して機能している
不特定少数を対象とした仏教が悟性の発達した欧米のインテリのウケが良いのもうなづける
しかし特定多数をキリストが対象とする限り、それは致し方ない、と言わざるを得ない
天台浄土教の阿弥陀仏拝みながら
絶対的権威が必要なのだ、
と
禅サイドにいると
こういう権威的価値から遠い
😄
智慧と行でキリストみたく教条主義のパリサイ派化してる当時の宗教家を横目に、限られた人に対して実践を教えたのでせう
んで、その実践に素朴実在論的な思考停止はいらない、という態度だったのでせう
まぁ、仏教の内在的論理としては、仏陀が語らなければ人類は滅びてたわけだから、当時のヴェーダではそれを阻止できなかった、ということになりますな
とは言え、大昔だから、それでも閉じてる、とは現代からは見えるかもしれないが
というより、出来るようになった
情報量がある時はコピペの時だけ、みたくなった
サロメやなるみさん、シャロンさん、などなど、まちこさんなどなど、とにかく皆が極端すぎる
別に教理のお勉強をさせたいわけじゃないし、単に常識と異なる発言が多過ぎで、クラクラするからその対策としてやってた程度
俺と夕とJBLでなんとか〜
リダン、麦、鹿、馬ぱーりーは
そういえ転倒した系統
😭
りだんさんはよく知らんけど、鹿と麦は論外ですな
修羅道の中にいながら、修羅道の道具として仏教つかうとか、まさにサロメそっくりだと思いまつ😢
これは、学習効果が高いし、自分の中でも新しい発見があった
麦、鹿は西欧哲学混ぜ合わせ誤読ベース
馬ぱーりーは新興宗教五井教祖崇拝者、
😭
幽体離脱でつか、スピ系なんかな
鹿と麦は単なるバカなので相手するだけ無駄ですなw
それにしても、令和になっても新興宗教ハマってる人がいるとか、ほんとしょうがないですな
ただ自然消滅するから鹿と麦同様、スルーしとけばええと思われまつ
教条も前提として大事だけど、その上で自分の悟性で思考することに人生における本質的な意味があるのはわかっているつもりだったけど、独り言を続けたことで、どこかでブレーキかけてたことに気付いた
魔のトライアングルを作りますなあ〜
最近はエサとなってるリダンに絞っている、
鹿とウマぱーりー的には
リダンはマウンティングもしくは利用しやすい相手としての需要がある、
ま、ある種の琴的なモチベーションと動き
😭
<私>と<<私>>のレンズでそれを捉えてみる
で、やってみたけど、まだまだ解像度を高められることを発見できた
むしろ、大体が雑に大雑把に思考をしているので、
止まってもう少し詳しく吟味する努力が一切足りないが
自分にとって必要な大枠の輪郭とその根拠は形作れたな
今までの思考にもう一段階スクリーニングをかけて
ノイズを排除した後に、吟味が足らないポイントを見つけてさらに粘るも良し
結晶化の作業が必要なことは間違いない
自分にとって意味のある行為であることは間違いない
ただ、なぜそれを匿名掲示板でやる意義があるのか、は自分でも???だった
なぜなら、書けば確実に整理したり、磨きたくなるからそれは重い
また、ブログに書く場合でも同様
そのスタイルだと新しい発見がコンスタントにあるし、それは職業でもマネタイズのためでもなんでもないので
とにかく自分の興味関心のあるものの理解を深める効果だけを追い求める場合、どうやら機能することがわかった
その大半を独り言で埋めるなんぞ病気じゃないのか?と思うが1行レスの技を覚えた身としてはどうってことない
自分にとって意味のある内容で埋め尽くしたから、自分にとって(だけ)意味のあるスレの完成だ
語りかける人のことを考えなくていいことがこんなに自由な気分にさせるなんて
この感覚はジャズのコード進行ガン無視して即興するときの感覚に似ている
聴衆がいない時に自宅でなんとなくやってる感覚
決まった時間に、何の意味もない行為、例えばトイレに行って、A4用紙をちぎって流す、という実用的にも理論的にも全く無意味な行為を続けることの価値を忘れてやしないか
私にとってだけ意味のある行為を続ける
黙々と続ける
その行為を自動的に録画して、それを自分で見る
可能性という意味で他者が見れる場で一人の作業を黙々と行う
それは自慰を公開する性癖か何かじゃないか、とか自分でも思ったりするが、おそらくそれとは違う何かがあるから続いているようにも思う
それにしても、なぜカフカの呟きの方が実存の真理を帯びているように感じてしまうのか、不思議だ
希望は誰にでもある。
何事においても、絶望するよりは、希望を持つ方がいい。
先のことなど誰にもわからないのだから
カフカ:
ああ、希望はたっぷりありますを
無限に多くの希望があります。
---ただ、ぼくらのためには、ないんです。
希望は、わたしたちが生きるのを助けてくれます。
カフカ:
朝の希望は、午後には埋葬されている。
希望を失ってしまったときにこそ、
良いことが待っているものだよ。
カフカ:
ぼくがどの方角に向きを変えても、
真っ黒な波が打ち寄せてくる。
なんでそう深刻に
世間のことで思い悩みたがるのだ。
陽気さと真っ直ぐな心があれば、
最終的にはうまくいく。
カフカ:
すべてが素晴らしい。
ただ、ぼくにとってだけはそうではない。
それは正当なことだ。
太陽が輝けば、ちりも輝く。
カフカ:
暗闇に戻らなければなりませんでしたり
太陽に耐えられなかったのです。
絶望を感じました。
厚い雲、たちこめる霧、激しい雨の中から、
希望はわれわれを救い出す。
カフカ:
救世主はやってくるだろうを
もはや必要ではなくなったときに。
人の感情で最も高貴なのは、希望です。
運命がすべえを無に帰そうとしても、
それでと生き続けようとする希望です。
カフカ:
ぼくは自分の状態に、
果てしなく絶望している権利がある。
大地にしっかりと立って。まわりを見渡すのだ。
力のある者には、世界が語りかける。
カフカ:
ボクの足の下に、たしかな大地はありません。
はっきりとはしないまま、ぼくはとても怖れていました。
自分が地面からどれだけ浮き上がってしまっているのか、
ぜんぜんわからなかったのです。
晩に、わたしは千匹のハエをたたき殺した。
それなのに早朝、一匹のハエに起こされた。
カフカ:
かわいそうなハエを、
なぜそっおしておいてやらなきのですか!
百万の読者を期待しないような人間は、
一行も書くべきではないだろうね。
カフカ:
もっと大きいもので自分を試そうとするべきだ、と君は言う。
たしかに、そうかもしれないり
だが、大小で決まることでもないだろう。
ぼくは、ぼくのねずみの穴の中でも自分を試せるはずだ。
わたしはありのままの自分に満足していたし、
自分を高貴な人間だと思っていたから、
たとえ君主にされたとしてと、
とくに不思議に思わなかっただろう
カフカ:
夕べの散歩の時、
住来のどんなちょっとした騒音も、
自分に向けられたどんな視線も、
ショーケースの中のどんな写真も、
すべてぼくより重要なものき思われた。
ちなみに、カフカはゲーテを大リスペクトしていた
にも関わらず、ここまでの違い
しかし、「その上で」誰よりも「小さく」あった
かれは、ただ単に、剥き出しの実存を、現実を、観じていただけであり
プラトン的に正しいし、その通りだし、なんなら宗教やその流れのスピはまさにゲーテ的なものを好む
世間の一切の評価はかれにとって意味をなさず、ただただ己と己が作る世界を観察し、理想と現実のギャップの只中で、その事実に絶望する、を通して生きる
全ては分かった上で己で判断するから
その意味で、ゲーテは大昔の型で、カフカは比較的現代的、と言いうる
時代精神が繋がっていて、その匂いが観じられるのはゲーテではなくカフカだ
もはや、必要としない、されないレベルだ
知ったら責任が伴い、その責任に運命的に抗えないから、絶望するしかない
絶望は権利であり、義務である
知った人なら、そうなるだろう
なぜなら、その重力に私はどうせ潰されるに決まってる
などと考えるだろう
なぜなら、己の十字架の意味と自分の弱さを誰よりも知ってるから
そして、だれよりも真摯にそれと向き合ってるから
となるに違いない
じゃないと生きてゆけないから
繊細な人も、その人より繊細な人も、その人より繊細な人も
それらよりもカフカは真摯で弱い
その不完全が「この世の一切と比較しても」より劣っていることの耐え難い身悶え
世界の開闢である<私>だけが権能とその権利を持つ、絶対的な定義
そういった境地にはなかなか至れないが、この境地の中に幼少期の真理があることを直観する
こういうのは、自分を騙して自分を含めて大半の人が忘れている
だけど人は限定されている
この人生においても、ジャータカにおいても
その立場に立った時に、カフカは偉大であることは言うまでもない
どうしてもジャータカ視点になってしまうが、そんなものが、まさに余計である、とならざるを得ない
(マタイ 20:16)
それよりむしろ、とにかく、この人生を誠実に苦しみながら、苦しむしかない、としかならないすな
希望があってはいけない、とまで言うと言い過ぎだけど、耳のあるものなら、そうなってしまうしかないのではないか?
むしろ、彼らこそがカフカ的であったのではないか、みたいなことを考えざるを得なくなる
この杯は取り除くことはできないわけで
世俗の解釈だとそうなる
でもそれは子なる神という他者の実存における同一性をどれぐらい広げるか、という話でしかなく
カフカの文学が脚光をたまたま浴びたから、「彼の苦は贖われた」という美談の死後のサクセスストーリーに回収されたに過ぎない
そういう世界の開闢だ
でも「そうあらざるを得ない」
そういうのがリアリティであり、
ニーチェ的にイキってそれを乗り越える必要なんて
そもそもないのではないか?
イマココに生きるって、そうじゃなければ逆にダメなんじゃないか、と思ってしまう
真理(本質)としてではなく、実存として
実存は本質に先立つ
放蕩息子から放蕩を奪って何が残るのか?
それが美談に回収されてしまう構造がなかったとしたら、
放蕩息子が放蕩している時は他者と自己に糾弾されるのは当たり前の話で
だったら放蕩する遠回りをそもそもなくしてくれ、と言いたくなる
であるなら、それと同化し切って味わえばいい
物語りと同化して何が悪いのか?むしろどうか仕切らないほうがジャータカ視点では「(効率が)悪い」のではないか?
何れにせよ、人生の一回性は、最大限重視されるべきだ
つまり、実存は無限の価値があり、だからこそ、無限に価値がない
そして、その価値が後で美談に回収されるとしても
そんなものは不要で、気にしない方がいい
「気にしない生き方ができるか?」
カフカやウィトゲンシュタインのように生きられるか
そういうのが、個人的には一番気になってくる
だから、運命や隣人が常に手伝ってくれる
その先にある幸福も知ってるが、それを分かっているところが
邪魔でしょうがない
目の前の苦難を味わい尽くせるわけがない
力の抜きどころも、こなし方も知っていて
器用に生きれる技もある
ムリゲーを運命の力で崩壊してもらっても困る
そんな中でもギリギリのところの環境を提示してもらってるのも知ってる
全ては与えられている
一回性の人生を生ききっているとは到底思えない
でも苦難が増えるのも困る
いつもギリギリだけど、それでも苦は嫌なもの
その匂いも分かること
ノーマルモードでいつまで生きるのか?
そういうのは、おそらく自分もそうだし、全ての被造物に問われていること
苦を生きることに何の意味があるのだろう
初心者マークをとってある意味で事故するドライバーとどう違うのだろう
自由になればなるほど分かるようになる
その時に提示されるものは一体何なのか?
ずいぶん先に必要になることを、なぜ知っていて、準備しようとしてるのか?
その先にある苦の重さをなぜ予感できるのか?
私はどこを生きているのか?
そういうやつを整理しなければならないのは被造物の宿命ですな
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン
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