井田正孝 - Wikipedia 1945年(昭和20年)6月、陸軍省軍務局軍務課員(予算班)となり、同月、45期一選抜のひとりとして最後の中佐進級者となっている。終戦時、ポツダム宣言受諾に反対し、「宮城事件」の首謀者の一人となり、近衛師団長森赳中将(28期)の殺害現場に居合わせている。その後赴いた陸相官邸において陸軍省軍務局軍務課内政班長の竹下中佐とともに陸軍大臣阿南惟幾大将(18期)の自刃にも立ち会うことになった。クーデターは失敗し、8月15日に陸軍省で自決する決心をしていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。同月、重謹慎30日の処分を受け、同月31日、予備役に編入。なお敗戦によって裁くべき軍組織が解散させられたため、井田は軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。
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井田正孝 - Wikipedia
1945年(昭和20年)6月、陸軍省軍務局軍務課員(予算班)となり、同月、45期一選抜のひとりとして最後の中佐進級者となっている。終戦時、ポツダム宣言受諾に反対し、「宮城事件」の首謀者の一人となり、近衛師団長森赳中将(28期)の殺害現場に居合わせている。その後赴いた陸相官邸において陸軍省軍務局軍務課内政班長の竹下中佐とともに陸軍大臣阿南惟幾大将(18期)の自刃にも立ち会うことになった。クーデターは失敗し、8月15日に陸軍省で自決する決心をしていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。同月、重謹慎30日の処分を受け、同月31日、予備役に編入。なお敗戦によって裁くべき軍組織が解散させられたため、井田は軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。
終戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務した後、電通に入社し、総務部長及び関連会社電通映画社の常務を勤めた。1955年(昭和30年)に離婚して、姓を岩田に復姓している。敗戦後も一貫して、本土決戦をすべきだったと主張していた。
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