【社会】辺野古事故遺族がnoteに綴る無念の投稿 珊瑚礁を見たかった愛娘と異質すぎる研修旅行最終更新 2026/07/24 18:59335.名無しさんWXULa>>334続き「調査中だから」で、止まることへの違和感第三者委員会による調査が必要であることは、理解しています。事実関係や責任の所在を、利害関係のない立場から明らかにしてもらうことは大切です。私たちも、それを求めてきました。けれど、調査を受けているこの4か月の間、学校の中では何が起きているのでしょうか。調査に協力する過程で、資料を整理し、当時の判断をひとつひとつ振り返る中で、学校自身が「これは明らかに間違っていた」と気づいた点が、ひとつもないはずがありません。謝罪すべき点。すぐにでも改善すべき点。報道や私たちの発信と明らかに事実が異なり、訂正すべき点。そういうものが、学校自身にはもう見えているはずです。それなのに、それらが学校から公の場で語られることはありません。謝罪も、改善も、訂正も、すべてが「調査の後」へ先送りされているように見えます。考えてみてほしいのです。始業式で知華への黙祷を捧げることに、調査の結果は必要だったでしょうか。文部科学省が認定した問題について、在校生や保護者に自らの言葉で説明することに、第三者の報告書は必要でしょうか。目の前で同級生の命が失われた生徒たちに向き合うことと、調査の完了と、いったい何の関係があるのでしょうか。事実の認定と、人として向き合うことは、別の問題です。第三者の指摘なしに、責任を認めないのですか?自分たちが起こしたことなのに、第三者から報告や指摘を受けない限り、自分で責任を認めることも、変わることもできない。もしそうなのだとしたら、それは、組織として自浄作用がないことを、自ら示していることにならないでしょうか。同志社国際高校には今も、700人を超える生徒が通っています。これから先も、学校では大小さまざまな問題が起こるはずです。そのたびに、外部から指摘されるまでは振り返らない、謝らない、変えない。そういう学校に、生徒を安心して預けられるでしょうか。自分で気づき、自分で認め、自分で正す。それは、学校が生徒たちに教えているはずのことです。その沈黙は、私たちにはこう見えていますなぜ学校は語らないのか。自分たちが悪いと思っている点でも、先に認めてしまえば、第三者委員会がそこを問題としなかった場合に、負わなくてもよかった責任まで負うことになるかもしれない。逆に、自分たちが問題と思っていなかった点を委員会に指摘されれば、「自己認識が甘い」と批判されるかもしれない。だから、報告書が出るまでは、何も言わないほうが安全だ——。そういう計算が働いているように、少なくとも私たち遺族には、見えてしまっています。この4か月、調査中であることを理由に、学校自身による踏み込んだ発言や発信が公にされてこなかったという事実を前にして、そう見えても仕方ないのではと感じます。そして、もしその通りなのだとしたら、その沈黙は知華のためのものでも、生徒たちのためのものでもありません。組織を守るための沈黙です。もし違うのであれば、それを示す方法は、ひとつしかないと思います。報告書を待たずに、学校自身の言葉で語ることです。(続く)2026/07/18 22:35:11340コメント欄へ移動すべて|最新の50件
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「調査中だから」で、止まることへの違和感
第三者委員会による調査が必要であることは、理解しています。事実関係や責任の所在を、利害関係のない立場から明らかにしてもらうことは大切です。私たちも、それを求めてきました。
けれど、調査を受けているこの4か月の間、学校の中では何が起きているのでしょうか。
調査に協力する過程で、資料を整理し、当時の判断をひとつひとつ振り返る中で、学校自身が「これは明らかに間違っていた」と気づいた点が、ひとつもないはずがありません。謝罪すべき点。すぐにでも改善すべき点。報道や私たちの発信と明らかに事実が異なり、訂正すべき点。そういうものが、学校自身にはもう見えているはずです。
それなのに、それらが学校から公の場で語られることはありません。謝罪も、改善も、訂正も、すべてが「調査の後」へ先送りされているように見えます。
考えてみてほしいのです。
始業式で知華への黙祷を捧げることに、調査の結果は必要だったでしょうか。
文部科学省が認定した問題について、在校生や保護者に自らの言葉で説明することに、第三者の報告書は必要でしょうか。
目の前で同級生の命が失われた生徒たちに向き合うことと、調査の完了と、いったい何の関係があるのでしょうか。
事実の認定と、人として向き合うことは、別の問題です。
第三者の指摘なしに、責任を認めないのですか?
自分たちが起こしたことなのに、第三者から報告や指摘を受けない限り、自分で責任を認めることも、変わることもできない。
もしそうなのだとしたら、それは、組織として自浄作用がないことを、自ら示していることにならないでしょうか。
同志社国際高校には今も、700人を超える生徒が通っています。
これから先も、学校では大小さまざまな問題が起こるはずです。
そのたびに、外部から指摘されるまでは振り返らない、謝らない、変えない。そういう学校に、生徒を安心して預けられるでしょうか。
自分で気づき、自分で認め、自分で正す。
それは、学校が生徒たちに教えているはずのことです。
その沈黙は、私たちにはこう見えています
なぜ学校は語らないのか。
自分たちが悪いと思っている点でも、先に認めてしまえば、第三者委員会がそこを問題としなかった場合に、負わなくてもよかった責任まで負うことになるかもしれない。
逆に、自分たちが問題と思っていなかった点を委員会に指摘されれば、「自己認識が甘い」と批判されるかもしれない。
だから、報告書が出るまでは、何も言わないほうが安全だ——。
そういう計算が働いているように、少なくとも私たち遺族には、見えてしまっています。
この4か月、調査中であることを理由に、学校自身による踏み込んだ発言や発信が公にされてこなかったという事実を前にして、そう見えても仕方ないのではと感じます。
そして、もしその通りなのだとしたら、
その沈黙は知華のためのものでも、生徒たちのためのものでもありません。組織を守るための沈黙です。
もし違うのであれば、それを示す方法は、ひとつしかないと思います。
報告書を待たずに、学校自身の言葉で語ることです。
(続く)