【チェック】邪馬台国は甘木にあった!数学者の半沢氏が中国古代数理科学で解析 福岡県朝倉市で講演会【アウト】最終更新 2025/04/01 12:571.名無しさん@涙目です。EiI9aコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼公益社団法人甘木朝倉法人会(福岡県朝倉市)は16日、金沢大元准教授の半沢英一氏を講師に、中国古代数理科学の視点から魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地についての講演会を朝倉地域生涯学習センター(同市)で開いた。邪馬台国が甘木にあったとする説に来場者120人が耳を傾けた。 数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。 本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/2025/02/23 15:01:36238コメント欄へ移動すべて|最新の50件189.名無しさん@涙目です。zhnDG(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼大和族という説明のつかないハプロ学問ではないイデオロギー2025/03/19 02:16:30190.名無しさん@涙目です。gr2NS(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>187大和族という言葉は一般に使われているよ学術用語でもある。君のためにわざわざサイトを示したりしないが、ググってごらん。いくらでも出てくる。大和族という言葉は、出雲族と対置する形で使われることが多いな。大和にいたから大和族、出雲にいたから出雲族だ。これに吉備族が加わってもいいはずだが、吉備の豪族は五世紀になってから大王の臣になってから記紀に現れる。それで吉備氏族と呼ばれる。それ以前は吉備諸族とよばれることが多い。尾張氏族もそう。2025/03/19 07:49:50191.名無しさん@涙目です。1JGhiコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼> AIによる概要> 投馬国(とうまこく)は、愛媛県の今治市にあたる国で、邪馬台国を構成する国々の一つでした。?> 【解説】> 投馬国は、邪馬台国を構成する30余りの国々の一つで、愛媛県の今治市にあたります。?> 「とうま」はアイヌ語で二つの半島という意味で、今治の手前には二つの半島があります。?投馬国が愛媛なら邪馬台国は畿内だなw2025/03/19 09:17:23192.名無しさん@涙目です。gr2NS(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼アイヌ人が日本に入ってきたのは鎌倉時代だよな2025/03/19 10:40:301193.名無しさん@涙目です。ygLI4コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>192地理認識と歴史認識がグダグダ過ぎて頭がクラクラするw2025/03/19 11:05:56194.名無しさん@涙目です。WQ6WE(1/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼何言ってもムダ皆の心の中にあるってよく分かる決裂2025/03/19 12:09:07195.名無しさん@涙目です。aSnRTコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼九州説はない 学者も言ってる2025/03/19 12:34:36196.名無しさん@涙目です。1EAvRコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>8だまれ2025/03/19 12:57:23197.名無しさん@涙目です。JiA0pコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼車も電車も飛行機もない移動困難な時代にわざわざ畿内なんかに作るわけないじゃん2025/03/19 13:31:56198.名無しさん@涙目です。WQ6WE(2/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼そもそも時代が進んで開拓、安定しないと畿内なんか危険極まりない2025/03/19 13:46:38199.名無しさん@涙目です。M4Bl9コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼畿内説が有力2025/03/19 13:47:10200.名無しさん@涙目です。p7BA7コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>2畿内説根拠 「歴史の教科書に載るような巨大国家なのだから、一番史跡の多い畿内に決まっている!!」邪馬台国が巨大国家だとだれが言った? 田舎の豪族国家が、たまたま中国の歴史に載っただけの話だぞ。2025/03/19 13:47:34201.名無しさん@涙目です。WQ6WE(3/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼そう言う事畿内言う奴は狂った時代錯誤の皇国史観2025/03/19 13:48:39202.名無しさん@涙目です。WQ6WE(4/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼古代日本列島の中心とかを言ってるのではなく、大陸の記述の対象は誰で、どこかコレを、とにかく、畿内が、畿内が、天皇が、天皇が大君から天皇の連続性すらワカランのにマジでウザい2025/03/19 13:52:09203.名無しさん@涙目です。WQ6WE(5/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼どう見てもどう考えても大和政権との不連続性と違和感しか感じない2025/03/19 13:55:04204.名無しさん@涙目です。WQ6WE(6/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼O2a2b1が大量に入ってる畿内、大和政権の連中に大陸との記述に齟齬なんか生まれるワケねぇだろ2025/03/19 14:29:02205.名無しさん@涙目です。g1PJJコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼邪馬台国は畿内にあった説が有力2025/03/19 17:27:49206.名無しさん@涙目です。B9SegコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼ラピュタもムーもアトランティスも畿内にあったもんな2025/03/20 03:49:33207.名無しさん@涙目です。VPRgkコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>120 つづく遠賀川河口地域には千軒ほどの民家があり、大きな湊があって物資が集散し、交易に従事する人々が多くいた。のちの時代の北前船のように、日本海沿岸を航路にして、北方の物資を九州、さらに朝鮮にまで運んで交易していた可能性がある。主要な商品としては昆布があったかも知れない。弥生時代の遺跡からはアワビの殻も多数出土しているから、干しアワビもあったろうし、干しナマコもあっただろう。干しアワビは朝鮮への主要な輸出品であったかも知れない。そこにいたのが何族なのかは分からないが、北九州の島嶼部にいた安曇族は海産物を商っていた種族だったような気がする。漁民集団であり商人でもあった。遠賀式土器というのが福井県小浜の遺跡から出土している。青森県からも出土しているが、これは越前や但馬の方から流れていったものかも知れない。土器が出土したのは弥生時代前期の遺跡からだから、遠賀と越前(裏日本の日本海沿岸)は古くから交流があったようである。https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A02/A021.htm物資を畿内に運ぶには、鯖街道が一番早く、そうだとすると、鯖街道の起点である小浜に上陸してのちの京都出町柳(鴨川と桂川の合流点)から水運で大阪あるいは奈良方面へ向かうのが最良のコースということになる。小浜から琵琶湖西岸の高島へ出れば東海方面につながる。信長は琵琶湖の水運を利用して安土から二日で京都へ出ていた。もちろん琵琶湖からの水運で奈良方面へはすぐである。2025/03/21 04:44:52208.名無しさん@涙目です。JyaSO(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼もう権力や勢力の二重構造や三重構造でいいよそして、ムーもアトランティスも殷も夏王朝も全部日本人でタイム・リープも出来たし、宇宙基地でもあった2025/03/21 05:05:41209.名無しさん@涙目です。3P3gzコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼邪馬台国は畿内にあった説が有力2025/03/21 10:53:45210.名無しさん@涙目です。JyaSO(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼ラピュタもムーもアトランティスも畿内にあった説が有力だいたい畿内にある2025/03/21 12:39:522211.名無しさん@涙目です。W79zHコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>210それは言い過ぎだが邪馬台国は畿内にあった2025/03/21 13:03:43212.名無しさん@涙目です。bIa8NコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>120 続き遠賀川河口のところでは触れなかったが、古代の湊は川湊だけではない。「潟湖(せきこ)」というのがあったのである。「潟湖(せきこ)」というのは、砂山で海と隔てられた湖である。その水は入り江のような汽水ではなく、ほぼ完全な海水。また、そういう湖で波もないので、周囲に塩田なども作られた。今は砂山はほとんど見られない。その原因は、第一に、川に護岸工事がされて水路のようになってしまっているためである。昔は大雨が降ると川岸の砂が海に運ばれて海岸に滞留した。これで海岸が埋まり、人々はおおいに困らされた。河口があれば砂が流れ込むというものではなく、泥ばかりを運ぶ川もあったが、大河はたいがい砂を運び込んだ。次に、昔は砂の用途がほとんどなかった。今は砂は建築材料として使用され、海底の砂まで使われるほどである。戦前に「砂山」という童謡があった。海砂などは戦前は工事に使われることもなく、大風がふくと海浜の村々は砂に埋もれて生活に支障を来すほどだった。安部公房の「砂の女」という小説を想起するとよい。https://www.kyotoside.jp/entry/20170215/潟湖(せきこ)とはこういうものである。潟湖(せきこ)は日本海岸に多く、しかも西日本に多い。西日本の中でも中国地方、それも出雲から北陸敦賀までの間に多い。この潟湖(せきこ)の位置に着目すべきである。2025/03/22 07:23:00213.名無しさん@涙目です。Xcf7d(1/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼気がするあったようであるでブチ壊しラピュタもムーもアトランティスもあったような気がする2025/03/23 03:29:05214.名無しさん@涙目です。Xcf7d(2/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼水深の問題(大型船に適さない)物流の規模の問題(広域交易の中心だったかは不明)陸上輸送との接続性(主要な交易ルートと直結していたか)環境変化の影響(長期間安定した港だったか)2025/03/23 03:32:31215.名無しさん@涙目です。C9LW2コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼畿内なんかに作ったら西側全部占領されまくるやんwww2025/03/23 10:12:351216.名無しさん@涙目です。Xcf7d(3/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼マジでその通り畿内は統一国家が成立してはじめて可能な立地戦国時代を見てもな普通なら九州か四国にするだが、畿内と言っておけば良い日本は曲学阿世の徒が跋扈する極度に腐敗した状況だから文科省や東大、京大をはじめ正しいことを言うべきではない2025/03/23 10:36:26217.名無しさん@涙目です。5CzQLコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼>>215でも機内にあったのは事実だし九州なんかにあったらすぐに乗っ取られるだろw2025/03/23 10:45:15218.名無しさん@涙目です。Xcf7d(4/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼機内上映かな?機内説は斬新2025/03/23 10:47:13219.名無しさん@涙目です。Xcf7d(5/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼機内で移動してたのかそれはなかなか難攻だわ乗っ取られ辛い説得力がある新たな説が出てきた2025/03/23 10:48:41220.名無しさん@涙目です。Xcf7d(6/6)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼ラピュタやムー、アトランティスとの関係も現実味を帯びてきたな機内説が有力存在を立証出来れば完璧だわ飛翔だけじゃなくて時間移動も可能かもな2025/03/23 10:51:24221.名無しさん@涙目です。ExAnz(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼昔は、海に面して防波堤を築いて湊を作る工業力はない。だからどうしたかというと、まずは河口から河を遡った広い芦原みたいなところに湊を作った。それが川湊だった。江戸時代でも基本的にそうだった。(ただし、両側から谷が迫って自然の湊みたいになっている入り江がある。そういうところを湊として使うところもあった。佐渡島に現在も二か所ほどある)。川湊に近いが、別のものとして裏日本の西側に多い潟湖(せきこ)。天然の潟湖をそのまま湊として使うのである。潟湖は河口に砂がたまって海との間をせき止めることにより出来る湖ないし沼である。(小さな川が何本も流れこんでいることが多いので、概念的には湖といった方がいいかも知れない)。川の河口は底が浅くなる傾向がある。海の抵抗で水流が衰えるからである。流れが遅くなると砂が溜まる。溜まってもいずれ嵐のときなどに激流となり海のかなたへと流れていってしまうのが普通である。しかし、海流と砂の量でそうはならない場合がある。日本海は対馬海流の流れが速く、とくに山陰では直接に海岸線を洗っている。壱岐・対馬あたりで対馬暖流の本流と分かれた支流が、出雲から丹後半島あたりに打ち寄せてくるのである。https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.htmlさらに対馬暖流本流は、韓国東岸沖で日本列島に向きを変える。これは北から流れ下るリマン海流に押されることから起きる。向きを変えた対馬暖流は秋田から青森の海岸を激しく洗う。男鹿半島から竜飛岬までの範囲に直接ぶつかってくる感じである。男鹿半島の付け根には琵琶湖に次ぐ大きさの八郎潟があった。昔は八郎潟は海で、そこから先は陸地はなかった。しかし、北側から米代川、南側から雄物川が流れ込み、砂を運んで砂洲ができた。それが遠く沖に浮かんでいた寒風山にまで達して半島となったのである。男鹿半島は寒風山の下以外、全部砂でできた半島なのである。今は男鹿半島は八郎潟とは離れているが、干拓前は男鹿半島の五倍ぐらいの大きさがあり、砂洲で半島と繋がっていた。男鹿半島は、紐か糸のような細い砂洲で右上が陸地にくっついているだけだったのである。http://yama.world.coocan.jp/b18hachirogata.html2025/03/24 06:11:21222.名無しさん@涙目です。ExAnz(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼八郎潟は、もともとが海であり、川の河口の部分が広がったものではないので潟湖とは言わない。海跡湖という。しかし、砂で海との間がせき止められて出来たというところは潟湖と同様である。なお、男鹿半島の南側の海岸には湖が多い。これは、この下がもともと海底火山で、噴火した跡である。マール湖といって潟湖ではない。男鹿には弥生時代の遺跡がきわめて多い。32もの遺跡が発掘されている。弥生時代中期のものが多く、これらは新潟の同時代の遺跡との間に関連性が見いだせるらしい。越後から稲作集団が渡ってきたらしい。file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20250323_kodaigakukiyo_17_15.pdfなお、砂でできた半島というと能登半島が思い出される。能登半島も北側の部分は岩礁や泥、礫(れき)だったのかも知れないが、先端に近づくにつれて砂の層が多くなり、先端部分は砂ばかりなのだろう。砂洲は海抜100メートルにも達するものがあり、それらが砂の台地を作る。長年の間に、上の方は砂が固く締まるのだそうである。しかし、大雨が降れば地下水が浸透してくる低い部分は、砂が固まるということがない。砂のままの状態なので、地震がくれば脆いのだということである。おそらく、砂洲の上の方には草が生え、イネ科雑草等が根や地下茎をびっしりと張り巡らす。それらが砂を抱きこんで保水性のある層ができる。すると木も生える。落ち葉も増えて数メートルもの腐葉土層ができ、たいていの雨ならそこで水分を吸収して土中に浸み込むことはなくなる。水分の浸透がほぼ止まり、たまに浸透してきたときは有機物が混入してくる。これによって砂の層は粘りを増して固まっていくのである。この違いが能登では出ている。丘のようになっている土地の高いところでは地盤が強く、家が傾かない。しかし、低い場所だと家が傾く。なお、地下水があれば液状化するというものではない。もともとの湿地や低地でもほぼ関係ない。そういう場所でも液状化は起こらないのが普通である。傾斜が問題らしい。土中の層が傾斜しているかどうか。傾斜地に土を盛って平にしたような土地が一番危ないという。https://www.youtube.com/watch?v=1oM1PxKoKHk2025/03/24 06:11:42223.名無しさん@涙目です。7kwN1コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼機内説が有力ビュンビュン飛んでた2025/03/24 12:14:05224.名無しさん@涙目です。amImOコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼九州説はない2025/03/24 12:23:55225.名無しさん@涙目です。tXMzoコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼上の液状化について若干補足したい。砂山は、丘陵のようにうねうねと数キロも続くことがある。こういうところに町や集落を作る場合、上の稜線の部分(断面の三角の頂点)の部分を道にする。尖ってままでは道にならないから平らに削る。すると砂山は、上が平らになってカマボコ型の土地になる。道路の両脇(沿道)に家を建てようとすると、道端から脇は下に下っていくわけだから、ほぼ全面盛土が必要になる。斜めになったところに盛り土をして平らな土地を作る。カマボコの脇のところに家を建てるにはどうするかを考えればよい。能登半島の先端部の町や村は、まさにこうして作られている。元々の地盤が傾斜しており、かつ砂地であるとどうなるか。斜めになった砂の層の上に盛り土をすることになる。これが上記の「傾斜地に土を盛って平にしたような土地」に該当するのである。そしてこれが一番危ないと研究者は言う。言ったのことが起きているのだ。そういえば、北海道胆振東部地震(平成30年)では、元傾斜地の造成地で被害が起きた。震源地は勇払郡厚真町あたり。苫小牧や千歳から30キロぐらい東方の町である。ここでは大規模な土砂崩れが起きて37人が亡くなった。山々が広範囲に崩れ、ふもとにある家々を埋めた。この光景を覚えておられる人は多いだろう。山崩れの原因は火山灰の堆積層にあるという。https://www.aeroasahi.co.jp/news/201/しかし被害は離れた場所でも起きた。札幌市で被害が発生したのである。札幌市清田区里塚地区の新興住宅地だった。もともとは谷だったところを埋め立てた土地だったという。そこで液状化が起き、広範囲に道路が陥没し、住宅が傾いた。https://www.fnn.jp/articles/-/38406液状化は、地盤が元湿地や砂地(海岸近く)だから起きるというものではない。元々の地盤が斜めだったことが一番大きな原因なのである。2025/03/26 08:13:15226.名無しさん@涙目です。oaYYNコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼機内は飛翔も時間移動もサイズの変更も可能だからなすべての伝承はだいたい機内でFAどうとでもなる2025/03/26 08:36:55227.名無しさん@涙目です。KzfIo(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼潟湖→砂丘・砂山→能登地震の話に脱線してしまった。ここまで来たら、ついでに能登半島西側の内灘の被害について触れたい。内灘町では、液状化により大きな被害を受けた。https://www.youtube.com/watch?v=1oM1PxKoKHk内灘は金沢市郊外とでもいうような町である。金沢は無事だったのは周知の通り。なぜここだけ被害が大きかったかといえば、もともと砂山ばかりの土地だったからである。内灘には米軍の射爆場があった。今でも跡地がある。射爆場にするほど広大な砂地があったということである。なお、射爆場跡は今は樹木が生い茂っているが、本来は鳥取砂丘のような砂ばかりの世界だった。だが河川工事がなされて砂が流れてこないとか、日本海全体の砂の量が少なくなった等の理由で砂が溜らなくなり、草地になり木が生え、さらに腐葉土層ができという経過を経て森林化している。内灘には海岸から離れた沖の方に長大な砂洲があった。長さ数キロにわたる砂洲で、もちろん砂が盛り上がっており、砂洲であるとともに砂丘でもある。冬など雪に覆われると氷山のようだった。この砂洲によって内海と外海に分けられていた。いつの頃からか、内海を内灘、外海を外灘(ないしただの灘)と呼ぶようになった。灘はふつう船の通行の難所を言うが、単に船の通行路を言う場合もあり、ここでは後者だろう。砂洲で外洋から隔てられているため、波は穏やかで、かつ海は浅く、貝類や海草が大量に採れた。一人乗りの小舟で沖まで出て漁労をするのも容易だった。だから縄文時代の遺跡が数多くある。弥生時代も古墳時代も多くの人が住み、遺跡も多い。弥生時代のものは、内灘砂丘遺跡群と呼ばれる。内灘砂丘に点在する弥生時代各期の遺跡の総称であり、代表的な砂丘遺跡として知られている。2025/03/28 20:33:45228.名無しさん@涙目です。KzfIo(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼内灘砂丘遺跡群の中に河北遺跡がある。河北潟は(かほくがた)は、内灘町や金沢市・かほく市などにまたがる潟湖である。この湖の周囲にある遺跡をまとめて河北遺跡という。河北遺跡から発見された弥生時代の銅鐸は、わが国の最北辺で見つかった銅鐸として有名である。これまでに日本で発掘された銅鐸のうち、もっとも北で出土した銅鐸なのである。銅鐸祭祀圏にいた稲作集団がここまでやってきたということになる。この資料は面白い。https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/67/kahokuMAP.pdf江戸時代まで日本オオカミがいたようである。砂丘には人が住まないところが多く、草むらがあったり茂みになった部分もある。そういうところに住んでいたのだろう。人口がかなりありながら、自然も豊かであった様子がうかがえる。稲作集団がどこから来たのかは分からないが、日本海沿岸の種族であることは間違いなかろう。越(こし)の国のとっつきである越前から来た可能性が大きいと思う。何故なら、越の国の中でも、銅鐸が出土するのは越前だけだからである。(ただし、内灘で出たのは上記のとおり。加賀、越中、越後では出ていない)。そして、その集団は、ここに潟湖があったからこそやってきたのである。移住地を探すため船で海に乗り出しても、簡単には陸に近づいたり上陸したりできるわけではない。家族や生活物資を積んだ大き目の船ならなおさらである。この点、潟湖というのは、船の係留地としても上陸地点としても、さらに当座の生活地としても理想的である。日本海側における弥生人の移動を考えるにあたっては、天然の港湾(河口の芦原など)だけでなく、潟湖にももっと着目すべきであると思う。2025/03/28 20:34:22229.名無しさん@涙目です。Dn80d(1/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼日本列島でどこに潟湖が多いかというと、北海道である。潟湖の代表はサロマ湖で、全国の潟湖のうちで最大のものである。サロマ湖の周囲は砂洲や砂丘ばかりであったので、海の底も砂ばかりでまっ平。しかも海水と真水が混ざりあい、プランクトンが豊富である。貝の育成に適している。それでホタテ貝の養殖が始まったのである。本州・四国・九州でどこが多いかというと本州である。四国・九州には少ない。本州でも瀬戸内は少ない。太平洋側と日本海側で潟湖が多いのはどちらかというと、太平洋側である。しかし、太平洋側では潟湖は天然の港湾としてはあまり機能しなかった。これは、太平洋側は潮流(黒潮)の流れが強く、古代の船では航海が難しかったからである。黒潮の速さは平均秒速2メートルで、和歌山県串本沖では6メートルに達することがあり、最大では9メートルに達することがある。一秒に9メートルといったらほとんど激流である。もし黒潮に流されれば南鳥島からカムチャッカの方まで流されてしまう。昔の船は沿岸部を目視しながら航海する沿岸航法だから黒潮に呑まれる心配はなかったと考える人もいるだろう。しかし夜までに次の湊にたどり着けるとは限らない。風向きなどの具合で日が暮れてしまえばそれまでである。その夜が闇夜か曇りで月が見えなければもう終わり。真っ暗な海を漂い、朝になれば自分が今どこにいるか分からなくなるということが珍しくなかった。2025/03/29 06:31:29230.名無しさん@涙目です。Dn80d(2/2)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼これに対し、対馬暖流は、黒潮に比べると、その流れは弱い。対馬暖流は黒潮の分かれ(支流)である。沖縄の北で分かれて東シナ海東部に流れ込む。そうであっても、黒潮本流に比べて流量で約1/10、流速で約1/4の弱い流れである。流れの深度も120メートルほどと浅い。そのため、黒潮のように連続した流路を形成することは稀で、流路はたえず変動している。日本海は冬は荒れるが、それ以外の季節は非常に穏やかで、航海しやすい海であるといえる。だから古代人は小さな船で簡単に日本海に乗り出したのである。またそれ故に、潟湖が天然の良港として機能する余地が大きいのである。https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html>>210 に>潟湖(せきこ)は日本海岸に多く、しかも西日本に多い。>西日本の中でも中国地方、それも出雲から北陸敦賀までの間に多い。と書いた。上記からお分かりだろうが、正しくない。正しくないというか誤解を招く表現である。潟湖は北海道や本州の太平洋岸に多いのである。しかし、古代史の関係でいうと、この地域はあまり取り上げる必要がない。古代の日本は大陸との交流を通じて発展してきたのである。そして物資や人の流れは日本海沿岸地域で盛んであった。これに次いで盛んだったのが瀬戸内海沿岸だろうが、瀬戸内海には潟湖はほとんどない。古代史を論ずる上では、西日本日本海側の潟湖がどうしても中心になる。この観点からやや大げさに書いてしまった。訂正しておく。2025/03/29 06:32:47231.名無しさん@涙目です。HjIVDコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼機内でFA飛翔し、サイズを変え、時間移動も可能まさに神話2025/03/29 08:57:23232.名無しさん@涙目です。VhHXxコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼九州説はない2025/03/29 12:06:38233.名無しさん@涙目です。tunH0(1/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼瀬戸内海の潮流は、潮の満干が原因である。そして干潮・満潮は、月の引力による海面の上下運動(潮汐現象)が原因であることは知られている。ただ、月と地球の位置関係だけでなく、地形や海の深さなども関係するのは勿論である。しかし、月の引力により引き起こされる現象であるから、一日のうち起きる時間や回数が決まっている。この点、黒潮や親潮などの海流が、地球の自転や偏西風、海水の温度差などにより生じた海水の運動であるのと異なる。こうした海流は一定の流路を流れ続ける。海の中の川というべきものである。https://www.uzunomichi.jp/attraction-of-naruto-whirlpools/【瀬戸内海の潮流の特徴】1.狭い海峡や瀬戸が多い地形のため、潮の干満に応じて数ノットの潮流を生じる?2.渦潮が見られるほど潮流の速い海峡が各所に点在する?3.潮の流れは時間帯で流れる方向が変わる?4.潮の流れは場所によっても異なり、岸ベタでは中央部とは逆の流れがあったり、まったく 流れていなかったりすることもある?。5.潮の干満差が大きいことも特徴の一つで、干潮時と満潮時の差が2m~4mほどにもなる場所もある。?2025/04/01 05:55:11234.名無しさん@涙目です。tunH0(2/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼瀬戸内海の潮流の速度は、激しいときでも秒速5メートルほどという。さほど速くないと思われるかも知れないが、瀬戸(両側から陸地が迫った小さな海峡)でこれだけの流れに巻き込まれればかなり危険である。潮流の方向が一定でなく、ある場所では潮がぶつかって渦を巻いているようなところさえある。流れの速さや強さでは黒潮が上だが、瀬戸内海には別の難しさがあった。しかし、一方で黒潮と違い、知識と経験で何とか対応できる面がある。なるほど潮は激しく流れたり、流れが逆になったりもする。しかし、全く流れが無くなる時間も長い。こうした規則性を掴んでしまえば別に恐れることもない。地元の人間なら、潮の流れをうまく利用することすらできるわけである。例えば、明石の人が淡路島の西海岸に行こうとする場合、明石海峡から鳴門方面に潮が流れているときに船を出せば、たちまちに目的地に着くことができる。その逆だとえらいことになるが、知識さえあれば問題にならない。瀬戸内海は地形が複雑なため、こうした潮の知識を瀬戸内全般について持つことは不可能である。地元の人間が、それぞれ自分の利用している海域の潮の流れを知っているだけで、他の場所に行けば全く通用しない。ましてや、瀬戸内海以外の場所から来た人間が瀬戸内海を無事に通過するというのはきわめて困難なことだった。だからだろうが、水先案内人のいる島があったということである。古くからこうした職業があっということは、潮流や地形に関する専門的知識がなければ瀬戸内海を縦断する航行は難しかったということの証左でもある。2025/04/01 05:55:54235.名無しさん@涙目です。tunH0(3/3)コメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼勿論、九州~大阪(難波津)間を航行する船がなかったというわけではない。飛鳥から平安時代にかけ防人の制度があった。筑紫や対馬に送られる防人は、国司の役人が引率して難波津に集合するように命じられた。難波津から船で筑紫まで送られたのである。また、飛鳥時代に百済や新羅の使いは、自分たちの船で難波津まで来ていた。遣唐使船も難波津から出港した。しかし一方で、奈良平安時代の外国船は、九州までしか来なかった。外交使節は大宰府で応接した。貿易は博多で行われるのが一般であり、外国貿易は大宰府が管理していた。平安の終わり頃、平清盛は入宋貿易を大々的に営んだが、状況は同じだった。宋船が来るのは博多までであった。清盛は、広島湾の東側に「音戸の瀬戸」という水路を開削し、さらに大和田の泊(今の神戸港)の風よけのために人工島(経が島)を築いた。これによって始めて宋船が神戸まで来ることができるようになったのである。歴史的に見ると、瀬戸内海海上交通の整備は律令国家体制が整って以降のことである。それも当然ながら陸上交通の整備が先であった。まずは七道の制定や宿駅の整備がなされたのである。(最初に七道の制度が制定されたのは飛鳥浄御原令で689年)。瀬戸内海の官用の港が定められ、官の宿舎などが整備されたのは八世紀に入ってからである。具体的には難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館である。これらの浦は万葉故地になっている。歌に詠まれ、万葉集に採録されて名前が残っている土地ということである。具体的に場所を特定できないものも多い。※官用の港湾といっても天然自然のままの港だっただろう。浜に官舎が建てられ、役人が置かれただけである。しかも、役人といっても地元の船乗りの親玉のような者に舎人という身分を与えただけのものだった。律令の時代に瀬戸内海の港湾が整備されたという記録はない。最初の記録は平安後期の平清盛による工事である。※備後の国の水調の郡の長井の浦に船泊りする夜に作る歌海原を八十島隠り来ぬれども 奈良の都は忘れかねつも帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな2025/04/01 05:56:32236.名無しさん@涙目です。xv4snコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼つまり、投馬国は出雲ということやね。2025/04/01 06:26:03237.名無しさん@涙目です。CGc6UコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼機内説で終わった話今もどこかで飛んでる2025/04/01 09:37:47238.名無しさん@涙目です。LDmGYコメントのURLをコピーこの ID を非表示コメントを通報コメントの削除依頼九州説はない2025/04/01 12:57:23
数学者で専門は解析学の半沢氏は「魏が邪馬台国に使者を派遣したとされる西暦240年代は、約430メートルだった1里が、度量衡変更で約80メートルに短縮されていた」と主張。「倭人伝に書かれている方向や距離、対馬や壱岐の大きさも現実とほぼ符合し、非常に厳密に記述されていることが分かる」と評価した。使者一行には古代中国数理科学書である「周髀算経(しゅうひさんけい)」や「九章算術」に精通した学者が同行し、正確な測量をしていた可能性にも言及した。
本土上陸地点は通説の唐津市(佐賀県)付近ではなく、博多湾沿岸と比定。「そこから記述通りに行けば、邪馬台国は甘木中心部(朝倉市)になる」と結論づけた。
半沢氏は「距離は空想だとか、方向を間違ったなどとして結論を導き出す従来の手法よりも自然だと思う」と話した。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1318123/
学問ではない
イデオロギー
大和族という言葉は一般に使われているよ
学術用語でもある。
君のためにわざわざサイトを示したりしないが、ググってごらん。
いくらでも出てくる。
大和族という言葉は、出雲族と対置する形で使われることが多いな。
大和にいたから大和族、出雲にいたから出雲族だ。
これに吉備族が加わってもいいはずだが、吉備の豪族は五世紀になってから
大王の臣になってから記紀に現れる。それで吉備氏族と呼ばれる。
それ以前は吉備諸族とよばれることが多い。
尾張氏族もそう。
> 投馬国(とうまこく)は、愛媛県の今治市にあたる国で、邪馬台国を構成する国々の一つでした。?
> 【解説】
> 投馬国は、邪馬台国を構成する30余りの国々の一つで、愛媛県の今治市にあたります。?
> 「とうま」はアイヌ語で二つの半島という意味で、今治の手前には二つの半島があります。?
投馬国が愛媛なら邪馬台国は畿内だなw
地理認識と歴史認識がグダグダ過ぎて頭がクラクラするw
皆の心の中にあるってよく分かる決裂
だまれ
わざわざ畿内なんかに作るわけないじゃん
畿内説根拠 「歴史の教科書に載るような巨大国家なのだから、一番史跡の多い畿内に決まっている!!」
邪馬台国が巨大国家だとだれが言った? 田舎の豪族国家が、たまたま中国の歴史に載っただけの話だぞ。
畿内言う奴は狂った時代錯誤の皇国史観
コレを、とにかく、畿内が、畿内が、天皇が、天皇が
大君から天皇の連続性すらワカランのに
マジでウザい
遠賀川河口地域には千軒ほどの民家があり、大きな湊があって物資が集散し、交易に従事する人々が
多くいた。のちの時代の北前船のように、日本海沿岸を航路にして、北方の物資を九州、さらに朝鮮にまで
運んで交易していた可能性がある。
主要な商品としては昆布があったかも知れない。
弥生時代の遺跡からはアワビの殻も多数出土しているから、干しアワビもあったろうし、干しナマコもあった
だろう。干しアワビは朝鮮への主要な輸出品であったかも知れない。
そこにいたのが何族なのかは分からないが、北九州の島嶼部にいた安曇族は海産物を商っていた種族だった
ような気がする。漁民集団であり商人でもあった。
遠賀式土器というのが福井県小浜の遺跡から出土している。
青森県からも出土しているが、これは越前や但馬の方から流れていったものかも知れない。
土器が出土したのは弥生時代前期の遺跡からだから、遠賀と越前(裏日本の日本海沿岸)は古くから
交流があったようである。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A02/A021.htm
物資を畿内に運ぶには、鯖街道が一番早く、そうだとすると、鯖街道の起点である小浜に上陸して
のちの京都出町柳(鴨川と桂川の合流点)から水運で大阪あるいは奈良方面へ向かうのが最良のコースという
ことになる。
小浜から琵琶湖西岸の高島へ出れば東海方面につながる。
信長は琵琶湖の水運を利用して安土から二日で京都へ出ていた。
もちろん琵琶湖からの水運で奈良方面へはすぐである。
そして、ムーもアトランティスも殷も夏王朝も全部日本人で
タイム・リープも出来たし、宇宙基地でもあった
だいたい畿内にある
それは言い過ぎだが
邪馬台国は畿内にあった
遠賀川河口のところでは触れなかったが、古代の湊は川湊だけではない。
「潟湖(せきこ)」というのがあったのである。
「潟湖(せきこ)」というのは、砂山で海と隔てられた湖である。
その水は入り江のような汽水ではなく、ほぼ完全な海水。
また、そういう湖で波もないので、周囲に塩田なども作られた。
今は砂山はほとんど見られない。
その原因は、第一に、川に護岸工事がされて水路のようになってしまっているためである。
昔は大雨が降ると川岸の砂が海に運ばれて海岸に滞留した。
これで海岸が埋まり、人々はおおいに困らされた。
河口があれば砂が流れ込むというものではなく、泥ばかりを運ぶ川もあったが、大河は
たいがい砂を運び込んだ。
次に、昔は砂の用途がほとんどなかった。
今は砂は建築材料として使用され、海底の砂まで使われるほどである。
戦前に「砂山」という童謡があった。
海砂などは戦前は工事に使われることもなく、大風がふくと海浜の村々は砂に埋もれて
生活に支障を来すほどだった。
安部公房の「砂の女」という小説を想起するとよい。
https://www.kyotoside.jp/entry/20170215/
潟湖(せきこ)とはこういうものである。
潟湖(せきこ)は日本海岸に多く、しかも西日本に多い。
西日本の中でも中国地方、それも出雲から北陸敦賀までの間に多い。
この潟湖(せきこ)の位置に着目すべきである。
あったようである
でブチ壊し
ラピュタもムーもアトランティスもあったような気がする
物流の規模の問題(広域交易の中心だったかは不明)
陸上輸送との接続性(主要な交易ルートと直結していたか)
環境変化の影響(長期間安定した港だったか)
畿内は統一国家が成立して
はじめて可能な立地
戦国時代を見てもな
普通なら九州か四国にする
だが、畿内と言っておけば良い
日本は曲学阿世の徒が跋扈する
極度に腐敗した状況だから
文科省や東大、京大をはじめ
正しいことを言うべきではない
でも機内にあったのは事実だし
九州なんかにあったらすぐに乗っ取られるだろw
機内説は斬新
それはなかなか難攻だわ
乗っ取られ辛い
説得力がある
新たな説が出てきた
機内説が有力
存在を立証出来れば完璧だわ
飛翔だけじゃなくて時間移動も可能かもな
広い芦原みたいなところに湊を作った。それが川湊だった。江戸時代でも基本的にそうだった。
(ただし、両側から谷が迫って自然の湊みたいになっている入り江がある。そういうところを湊として使うところも
あった。佐渡島に現在も二か所ほどある)。
川湊に近いが、別のものとして裏日本の西側に多い潟湖(せきこ)。
天然の潟湖をそのまま湊として使うのである。
潟湖は河口に砂がたまって海との間をせき止めることにより出来る湖ないし沼である。
(小さな川が何本も流れこんでいることが多いので、概念的には湖といった方がいいかも知れない)。
川の河口は底が浅くなる傾向がある。海の抵抗で水流が衰えるからである。
流れが遅くなると砂が溜まる。
溜まってもいずれ嵐のときなどに激流となり海のかなたへと流れていってしまうのが普通である。
しかし、海流と砂の量でそうはならない場合がある。
日本海は対馬海流の流れが速く、とくに山陰では直接に海岸線を洗っている。
壱岐・対馬あたりで対馬暖流の本流と分かれた支流が、出雲から丹後半島あたりに打ち寄せてくるのである。
https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html
さらに対馬暖流本流は、韓国東岸沖で日本列島に向きを変える。
これは北から流れ下るリマン海流に押されることから起きる。
向きを変えた対馬暖流は秋田から青森の海岸を激しく洗う。
男鹿半島から竜飛岬までの範囲に直接ぶつかってくる感じである。
男鹿半島の付け根には琵琶湖に次ぐ大きさの八郎潟があった。
昔は八郎潟は海で、そこから先は陸地はなかった。
しかし、北側から米代川、南側から雄物川が流れ込み、砂を運んで砂洲ができた。
それが遠く沖に浮かんでいた寒風山にまで達して半島となったのである。
男鹿半島は寒風山の下以外、全部砂でできた半島なのである。
今は男鹿半島は八郎潟とは離れているが、干拓前は男鹿半島の五倍ぐらいの大きさがあり、砂洲で半島と
繋がっていた。男鹿半島は、紐か糸のような細い砂洲で右上が陸地にくっついているだけだったのである。
http://yama.world.coocan.jp/b18hachirogata.html
海跡湖という。しかし、砂で海との間がせき止められて出来たというところは潟湖と同様である。
なお、男鹿半島の南側の海岸には湖が多い。
これは、この下がもともと海底火山で、噴火した跡である。マール湖といって潟湖ではない。
男鹿には弥生時代の遺跡がきわめて多い。32もの遺跡が発掘されている。
弥生時代中期のものが多く、これらは新潟の同時代の遺跡との間に関連性が見いだせるらしい。
越後から稲作集団が渡ってきたらしい。
file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20250323_kodaigakukiyo_17_15.pdf
なお、砂でできた半島というと能登半島が思い出される。
能登半島も北側の部分は岩礁や泥、礫(れき)だったのかも知れないが、先端に近づくにつれて砂の層が多くなり、
先端部分は砂ばかりなのだろう。
砂洲は海抜100メートルにも達するものがあり、それらが砂の台地を作る。
長年の間に、上の方は砂が固く締まるのだそうである。しかし、大雨が降れば地下水が浸透してくる低い部分は、
砂が固まるということがない。砂のままの状態なので、地震がくれば脆いのだということである。
おそらく、砂洲の上の方には草が生え、イネ科雑草等が根や地下茎をびっしりと張り巡らす。
それらが砂を抱きこんで保水性のある層ができる。すると木も生える。落ち葉も増えて数メートルもの腐葉土層が
でき、たいていの雨ならそこで水分を吸収して土中に浸み込むことはなくなる。
水分の浸透がほぼ止まり、たまに浸透してきたときは有機物が混入してくる。これによって砂の層は粘りを増して
固まっていくのである。
この違いが能登では出ている。丘のようになっている土地の高いところでは地盤が強く、家が傾かない。
しかし、低い場所だと家が傾く。
なお、地下水があれば液状化するというものではない。
もともとの湿地や低地でもほぼ関係ない。そういう場所でも液状化は起こらないのが普通である。
傾斜が問題らしい。土中の層が傾斜しているかどうか。
傾斜地に土を盛って平にしたような土地が一番危ないという。
https://www.youtube.com/watch?v=1oM1PxKoKHk
ビュンビュン飛んでた
砂山は、丘陵のようにうねうねと数キロも続くことがある。
こういうところに町や集落を作る場合、上の稜線の部分(断面の三角の頂点)の部分を道にする。
尖ってままでは道にならないから平らに削る。
すると砂山は、上が平らになってカマボコ型の土地になる。
道路の両脇(沿道)に家を建てようとすると、道端から脇は下に下っていくわけだから、ほぼ全面
盛土が必要になる。
斜めになったところに盛り土をして平らな土地を作る。
カマボコの脇のところに家を建てるにはどうするかを考えればよい。
能登半島の先端部の町や村は、まさにこうして作られている。
元々の地盤が傾斜しており、かつ砂地であるとどうなるか。
斜めになった砂の層の上に盛り土をすることになる。
これが上記の「傾斜地に土を盛って平にしたような土地」に該当するのである。
そしてこれが一番危ないと研究者は言う。
言ったのことが起きているのだ。
そういえば、北海道胆振東部地震(平成30年)では、元傾斜地の造成地で被害が起きた。
震源地は勇払郡厚真町あたり。苫小牧や千歳から30キロぐらい東方の町である。
ここでは大規模な土砂崩れが起きて37人が亡くなった。
山々が広範囲に崩れ、ふもとにある家々を埋めた。
この光景を覚えておられる人は多いだろう。
山崩れの原因は火山灰の堆積層にあるという。
https://www.aeroasahi.co.jp/news/201/
しかし被害は離れた場所でも起きた。
札幌市で被害が発生したのである。札幌市清田区里塚地区の新興住宅地だった。
もともとは谷だったところを埋め立てた土地だったという。
そこで液状化が起き、広範囲に道路が陥没し、住宅が傾いた。
https://www.fnn.jp/articles/-/38406
液状化は、地盤が元湿地や砂地(海岸近く)だから起きるというものではない。
元々の地盤が斜めだったことが一番大きな原因なのである。
すべての伝承はだいたい機内でFA
どうとでもなる
ここまで来たら、ついでに能登半島西側の内灘の被害について触れたい。
内灘町では、液状化により大きな被害を受けた。
https://www.youtube.com/watch?v=1oM1PxKoKHk
内灘は金沢市郊外とでもいうような町である。金沢は無事だったのは周知の通り。
なぜここだけ被害が大きかったかといえば、もともと砂山ばかりの土地だったからである。
内灘には米軍の射爆場があった。今でも跡地がある。
射爆場にするほど広大な砂地があったということである。
なお、射爆場跡は今は樹木が生い茂っているが、本来は鳥取砂丘のような砂ばかりの世界だった。
だが河川工事がなされて砂が流れてこないとか、日本海全体の砂の量が少なくなった等の理由で
砂が溜らなくなり、草地になり木が生え、さらに腐葉土層ができという経過を経て森林化している。
内灘には海岸から離れた沖の方に長大な砂洲があった。
長さ数キロにわたる砂洲で、もちろん砂が盛り上がっており、砂洲であるとともに砂丘でもある。
冬など雪に覆われると氷山のようだった。
この砂洲によって内海と外海に分けられていた。
いつの頃からか、内海を内灘、外海を外灘(ないしただの灘)と呼ぶようになった。
灘はふつう船の通行の難所を言うが、単に船の通行路を言う場合もあり、ここでは後者だろう。
砂洲で外洋から隔てられているため、波は穏やかで、かつ海は浅く、貝類や海草が大量に採れた。
一人乗りの小舟で沖まで出て漁労をするのも容易だった。
だから縄文時代の遺跡が数多くある。
弥生時代も古墳時代も多くの人が住み、遺跡も多い。
弥生時代のものは、内灘砂丘遺跡群と呼ばれる。
内灘砂丘に点在する弥生時代各期の遺跡の総称であり、代表的な砂丘遺跡として知られている。
河北潟は(かほくがた)は、内灘町や金沢市・かほく市などにまたがる潟湖である。
この湖の周囲にある遺跡をまとめて河北遺跡という。
河北遺跡から発見された弥生時代の銅鐸は、わが国の最北辺で見つかった銅鐸として有名である。
これまでに日本で発掘された銅鐸のうち、もっとも北で出土した銅鐸なのである。
銅鐸祭祀圏にいた稲作集団がここまでやってきたということになる。
この資料は面白い。
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/67/kahokuMAP.pdf
江戸時代まで日本オオカミがいたようである。
砂丘には人が住まないところが多く、草むらがあったり茂みになった部分もある。
そういうところに住んでいたのだろう。
人口がかなりありながら、自然も豊かであった様子がうかがえる。
稲作集団がどこから来たのかは分からないが、日本海沿岸の種族であることは間違いなかろう。
越(こし)の国のとっつきである越前から来た可能性が大きいと思う。
何故なら、越の国の中でも、銅鐸が出土するのは越前だけだからである。
(ただし、内灘で出たのは上記のとおり。加賀、越中、越後では出ていない)。
そして、その集団は、ここに潟湖があったからこそやってきたのである。
移住地を探すため船で海に乗り出しても、簡単には陸に近づいたり上陸したりできるわけではない。
家族や生活物資を積んだ大き目の船ならなおさらである。
この点、潟湖というのは、船の係留地としても上陸地点としても、さらに当座の生活地としても
理想的である。日本海側における弥生人の移動を考えるにあたっては、天然の港湾(河口の芦原など)
だけでなく、潟湖にももっと着目すべきであると思う。
潟湖の代表はサロマ湖で、全国の潟湖のうちで最大のものである。
サロマ湖の周囲は砂洲や砂丘ばかりであったので、海の底も砂ばかりでまっ平。
しかも海水と真水が混ざりあい、プランクトンが豊富である。
貝の育成に適している。それでホタテ貝の養殖が始まったのである。
本州・四国・九州でどこが多いかというと本州である。
四国・九州には少ない。本州でも瀬戸内は少ない。
太平洋側と日本海側で潟湖が多いのはどちらかというと、太平洋側である。
しかし、太平洋側では潟湖は天然の港湾としてはあまり機能しなかった。
これは、太平洋側は潮流(黒潮)の流れが強く、古代の船では航海が難しかったからである。
黒潮の速さは平均秒速2メートルで、和歌山県串本沖では6メートルに達することがあり、最大では
9メートルに達することがある。一秒に9メートルといったらほとんど激流である。
もし黒潮に流されれば南鳥島からカムチャッカの方まで流されてしまう。
昔の船は沿岸部を目視しながら航海する沿岸航法だから黒潮に呑まれる心配はなかったと
考える人もいるだろう。しかし夜までに次の湊にたどり着けるとは限らない。
風向きなどの具合で日が暮れてしまえばそれまでである。
その夜が闇夜か曇りで月が見えなければもう終わり。
真っ暗な海を漂い、朝になれば自分が今どこにいるか分からなくなるということが珍しくなかった。
対馬暖流は黒潮の分かれ(支流)である。沖縄の北で分かれて東シナ海東部に流れ込む。
そうであっても、黒潮本流に比べて流量で約1/10、流速で約1/4の弱い流れである。
流れの深度も120メートルほどと浅い。
そのため、黒潮のように連続した流路を形成することは稀で、流路はたえず変動している。
日本海は冬は荒れるが、それ以外の季節は非常に穏やかで、航海しやすい海であるといえる。
だから古代人は小さな船で簡単に日本海に乗り出したのである。
またそれ故に、潟湖が天然の良港として機能する余地が大きいのである。
https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN8/sv/teach/kaisyo/stream4.html
>>210 に
>潟湖(せきこ)は日本海岸に多く、しかも西日本に多い。
>西日本の中でも中国地方、それも出雲から北陸敦賀までの間に多い。
と書いた。上記からお分かりだろうが、正しくない。
正しくないというか誤解を招く表現である。
潟湖は北海道や本州の太平洋岸に多いのである。
しかし、古代史の関係でいうと、この地域はあまり取り上げる必要がない。
古代の日本は大陸との交流を通じて発展してきたのである。
そして物資や人の流れは日本海沿岸地域で盛んであった。
これに次いで盛んだったのが瀬戸内海沿岸だろうが、瀬戸内海には潟湖は
ほとんどない。
古代史を論ずる上では、西日本日本海側の潟湖がどうしても中心になる。
この観点からやや大げさに書いてしまった。訂正しておく。
飛翔し、サイズを変え、時間移動も可能
まさに神話
瀬戸内海の潮流は、潮の満干が原因である。
そして干潮・満潮は、月の引力による海面の上下運動(潮汐現象)が原因であることは知られている。
ただ、月と地球の位置関係だけでなく、地形や海の深さなども関係するのは勿論である。
しかし、月の引力により引き起こされる現象であるから、一日のうち起きる時間や回数が決まっている。
この点、黒潮や親潮などの海流が、地球の自転や偏西風、海水の温度差などにより生じた海水の運動で
あるのと異なる。こうした海流は一定の流路を流れ続ける。海の中の川というべきものである。
https://www.uzunomichi.jp/attraction-of-naruto-whirlpools/
【瀬戸内海の潮流の特徴】
1.狭い海峡や瀬戸が多い地形のため、潮の干満に応じて数ノットの潮流を生じる?
2.渦潮が見られるほど潮流の速い海峡が各所に点在する?
3.潮の流れは時間帯で流れる方向が変わる?
4.潮の流れは場所によっても異なり、岸ベタでは中央部とは逆の流れがあったり、まったく
流れていなかったりすることもある?。
5.潮の干満差が大きいことも特徴の一つで、干潮時と満潮時の差が2m~4mほどにもなる場所もある。?
さほど速くないと思われるかも知れないが、瀬戸(両側から陸地が迫った小さな海峡)でこれだけの
流れに巻き込まれればかなり危険である。
潮流の方向が一定でなく、ある場所では潮がぶつかって渦を巻いているようなところさえある。
流れの速さや強さでは黒潮が上だが、瀬戸内海には別の難しさがあった。
しかし、一方で黒潮と違い、知識と経験で何とか対応できる面がある。
なるほど潮は激しく流れたり、流れが逆になったりもする。しかし、全く流れが無くなる時間も長い。
こうした規則性を掴んでしまえば別に恐れることもない。
地元の人間なら、潮の流れをうまく利用することすらできるわけである。
例えば、明石の人が淡路島の西海岸に行こうとする場合、明石海峡から鳴門方面に潮が流れているときに
船を出せば、たちまちに目的地に着くことができる。
その逆だとえらいことになるが、知識さえあれば問題にならない。
瀬戸内海は地形が複雑なため、こうした潮の知識を瀬戸内全般について持つことは不可能である。
地元の人間が、それぞれ自分の利用している海域の潮の流れを知っているだけで、他の場所に行けば
全く通用しない。ましてや、瀬戸内海以外の場所から来た人間が瀬戸内海を無事に通過するというのは
きわめて困難なことだった。だからだろうが、水先案内人のいる島があったということである。
古くからこうした職業があっということは、潮流や地形に関する専門的知識がなければ瀬戸内海を縦断する
航行は難しかったということの証左でもある。
飛鳥から平安時代にかけ防人の制度があった。筑紫や対馬に送られる防人は、国司の役人が引率して難波津に
集合するように命じられた。難波津から船で筑紫まで送られたのである。
また、飛鳥時代に百済や新羅の使いは、自分たちの船で難波津まで来ていた。
遣唐使船も難波津から出港した。
しかし一方で、奈良平安時代の外国船は、九州までしか来なかった。外交使節は大宰府で応接した。
貿易は博多で行われるのが一般であり、外国貿易は大宰府が管理していた。
平安の終わり頃、平清盛は入宋貿易を大々的に営んだが、状況は同じだった。宋船が来るのは博多までであった。
清盛は、広島湾の東側に「音戸の瀬戸」という水路を開削し、さらに大和田の泊(今の神戸港)の風よけの
ために人工島(経が島)を築いた。これによって始めて宋船が神戸まで来ることができるようになったのである。
歴史的に見ると、瀬戸内海海上交通の整備は律令国家体制が整って以降のことである。
それも当然ながら陸上交通の整備が先であった。まずは七道の制定や宿駅の整備がなされたのである。
(最初に七道の制度が制定されたのは飛鳥浄御原令で689年)。
瀬戸内海の官用の港が定められ、官の宿舎などが整備されたのは八世紀に入ってからである。
具体的には難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、
大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館である。
これらの浦は万葉故地になっている。歌に詠まれ、万葉集に採録されて名前が残っている土地ということである。
具体的に場所を特定できないものも多い。※
官用の港湾といっても天然自然のままの港だっただろう。浜に官舎が建てられ、役人が置かれただけである。
しかも、役人といっても地元の船乗りの親玉のような者に舎人という身分を与えただけのものだった。
律令の時代に瀬戸内海の港湾が整備されたという記録はない。最初の記録は平安後期の平清盛による工事である。
※備後の国の水調の郡の長井の浦に船泊りする夜に作る歌
海原を八十島隠り来ぬれども 奈良の都は忘れかねつも
帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな
今もどこかで飛んでる