邪馬台国を探していますアーカイブ最終更新 2023/07/24 16:421.名無しさん@涙目です。rXXOM倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月2023/07/10 22:02:23215すべて|最新の50件166.名無しさん@涙目です。xjkYAそして、天皇家を遡ってくと建前上その先祖は武漢とかその周辺に行きつくんちゃうかな思ってるかな。2023/07/19 19:48:31167.名無しさん@涙目です。0Nrj8江南からきた漁民ではなかったか❓2023/07/19 23:24:10168.名無しさん@涙目です。0ioJS大石大二郎の漫画みてたらだいたい想像できる2023/07/19 23:54:41169.名無しさん@涙目です。obs1tキーン印が出たところでいいんじゃね?2023/07/20 00:22:17170.名無しさん@涙目です。v3puPインカ帝王と古代エジプト王は日本人2023/07/20 00:58:29171.名無しさん@涙目です。hLaSyマジレスするとフィリピン2023/07/20 01:05:52172.名無しさん@涙目です。QOl3c日本列島に移り住む前は呉越の王族(農民の長)だったんじゃないか思ってるかな。2023/07/20 03:26:57173.名無しさん@涙目です。94uFY邪馬台国は推測の産物2023/07/20 03:43:05174.名無しさん@涙目です。gVoNa>>173中国の史書に書いてある2023/07/20 08:13:35175.名無しさん@涙目です。CkxF1朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して九州に上陸ここまでは畿内説も否定しないんじゃないかな?2023/07/20 08:16:34176.名無しさん@涙目です。gVoNa大半の畿内説は否定してないでもそこからまた九州離れて旅立っちゃうwなんで九州北部上陸して陸進みながらまた九州離れるんだっつのw2023/07/20 08:24:50177.名無しさん@涙目です。CkxF1邪馬台国は畿内にあったという結論を先に決めてるから解釈がおかしいんよな記述通りだと邪馬台国は太平洋の海の中にあることになるとかちょっとアホすぎるんよ2023/07/20 08:30:13178.名無しさん@涙目です。gVoNa>>1を見れば分かる通りその道程は不彌國までの里数行程と投馬國からの日数行程がある日数行程以降「何かおかしい」と考えるべき2023/07/20 08:33:44179.名無しさん@涙目です。CkxF1里数の部分に関しても、朝鮮から対馬対馬から壱岐壱岐から九州どこも同じく千里慣用的な表現だったんだろうってのが推測できる海を渡るのは大変だから千里くらいってレベルなんだろうな陸上移動に関してもすべてが百里単位測量したわけでもないだろうし、これまでの人々の経験からおおよそそのくらいって事だろうし人が1日歩く距離を百里として二日でたどり着けるなら二百里とか、そんな考え方だったのかもしれない2023/07/20 08:38:31180.名無しさん@涙目です。gVoNaこの「おかしさ」については「倭人は里を知らない、日数で測る」との記述を踏まえて1著者が間違えた、別の資料が混同してしまった2投馬国以降は魏の使者は行ってない、伝聞3日数行程は放射で読む、帯方郡→投馬国(對馬國)→邪馬台国の日数と読む4著者が偽った、政治的理由で倭を呉のすぐ東に置きたかったといった説がある2023/07/20 08:39:48181.名無しさん@涙目です。gVoNa>>179いや、そこの千里はだいたい距離合ってるのよ2023/07/20 08:41:30182.名無しさん@涙目です。CkxF1一日に人が歩ける距離がどのくらいかというのは、その歩く予定の道がどんなものかによって大きく違ってくるんよな今でも実際に田舎の道や山道を歩けば分かるけど舗装された道は歩きやすい山の中の獣道のようなものは歩きにくい藪漕ぎすれば1時間たっても数十メートルの場合もあるおせんころがし、大歩危小歩危などのように命がけの道もあるもっと具体的な例で言えば古代に川を渡る本格的な橋はほとんど無いし、あったとしても都市部やその近隣、重要な街道のみ土木技術が低いので平坦な道ではなくアップダウンも多いし、トンネルもない川を渡るなら上流まで迂回し山を越えるなら険しく舗装もされてない道とも言えないような道を歩く海岸線を歩くとしても、岩場だと容易ではなく、高巻きすることもある道路は直線とは限らない直線距離で1キロでも、迂回しないといけなくて3キロ歩くこともないわけではないこうやって考えると記述通りだと太平洋に出るという畿内説の主張が、あまりにも浅はかだという事が分かる2023/07/20 08:49:23183.名無しさん@涙目です。CkxF1>>181マツラ国から伊都国までの距離とはどこからどこまで?マツラ国は呼子だよ2023/07/20 08:51:08184.名無しさん@涙目です。gVoNaマツラは呼子かはわからないけど、やはり壱岐から一番近い東松浦半島と考えるのが自然やね2023/07/20 08:55:30185.名無しさん@涙目です。E3xoZ中国の小説にしか存在しない国アトランティスやムー並みの都市伝説2023/07/20 08:55:41186.名無しさん@涙目です。CkxF1>>184マツラから伊都国まで何里だった?2023/07/20 08:56:44187.名無しさん@涙目です。gVoNa>>186>>1に書いてあるけど五百、だいたい合ってない?2023/07/20 08:57:47188.名無しさん@涙目です。CkxF1>>187呼子からなら蓋然性が高いしかし、唐津をマツラ国と比定する場合はちょっと長すぎな感じで、現在主流なのがどうやら唐津2023/07/20 09:05:02189.名無しさん@涙目です。QOl3c魏志倭人伝の記述見る限り魏の役人が滞在した末廬国の村は当時すでに開発され整地されてたであろう唐津平野のわけない。十中八九漁村。2023/07/20 09:10:01190.名無しさん@涙目です。gVoNa歴史探求として正しくない態度だとは思うけど伊都国奴国がほぼ確定してる以上マツロ国の場所どうでもよくない?と言ってみる2023/07/20 10:33:52191.名無しさん@涙目です。CkxF1>>190唐津をマツラ国とすると記述通りの南東に伊都国が存在しないことになるで、それを根拠に畿内説は方角は正しくないというこじつけで畿内に向かわせようとし始めるんよ呼子は邪馬台国よりも前の時代から大陸への出発地だったんだから、確定しといていいと思うんよな2023/07/20 10:38:01192.名無しさん@涙目です。gVoNa方角や里数は、もうある程度でいいと思うんだけどなあ2023/07/20 11:15:31193.名無しさん@涙目です。CkxF1>>192そうある程度でいいんだよ東と記述されてるなら、大方の目安としての東であればよく、真東である必要はないんよな畿内説はそこら辺が理解できてない大雑把に、北東から南東の範囲であれば東でいいし東から南までの範囲内なら南東でいいんよな2023/07/20 11:19:58194.名無しさん@涙目です。0Vth0>>182どうやって屁理屈捏ねたら九州内に収まるか必死だな伝聞情報で、北九州から少なくとも水行二十日で投馬国、さらに水行十日陸行一月で邪馬台国なんだから、どう考えても九州島内は収まらないよ伝聞だからこそ、里数表記ができなかったのであり、北九州から日数でこのくらいかかるよと聞いた魏の使者がそのように報告したのだろうその距離が奈良が適当かどうかはともかく、九州からかなりの遠絶地になるのは間違いない2023/07/20 12:20:38195.名無しさん@涙目です。0Vth0九州内という結論ありきで考えるから、おかしくなるんだよな2023/07/20 12:21:49196.名無しさん@涙目です。gVoNa>>194なんで九州に上陸して進んだの?そもそも水行は河沿いも含める水沿いの移動だよ?水行行程をそのまま読むんなら内陸に進んで水行で河沿い移動だよ、そんな常識も知らないのか2023/07/20 12:28:02197.名無しさん@涙目です。eh6Ct>>194収まるわなお前、山の中の未舗装路を何日も歩くとしたら1日に何キロ歩けるつもり?2023/07/20 12:37:23198.名無しさん@涙目です。utANx古代中国では倭国は、もっと南方にあると思われていた。だから秦の始皇帝から、仙薬を求めて旅立った徐福は、上海より南の船山列島より出発した。後漢から金印を遣わしたとき、金印にの上の飾りの動物は、南方を礻ウミヘビ三国志の孫権が、倭に使いして援軍を得ようとしたのは、倭の位置をもっと南方だと信じていたから。魏志倭人伝で、邪馬台国の場所を書いてあるが、それだと北すぎるから、上奏するときに場所をぼかして、むりやり南に持っていったんだろ。魏志倭人伝に出てくる地名って、福岡天神で、どこ中学出身って聞いて出てくるようなローカル地名ばかり。北部九州しかありえんわ2023/07/20 12:44:03199.名無しさん@涙目です。gVoNa>>198俺もその説取ってるわ、遼東公孫氏のこともあって呉をけん制したかったんだろうでも史書にウソを書くわけにはいかない、だからどうとでも取れるように作為したつまり投馬國=対馬の誤記ということにした・(奴国・不彌國から)南至投馬國水行二十日、南至邪馬壹國、水行十日・陸行一月・帯方郡から対馬まで水行20日、対馬から邪馬台国まで水行10日、陸行1月これで道程はだいたい合うし、呉の近海に有るようにも読める2023/07/20 12:51:00200.名無しさん@涙目です。0Vth0>>198里数表記がある国までは北部九州なのは間違いないそこから邪馬台国は九州島内を遠く離れた遠絶地にあり魏の使者も直接は行っていない2023/07/20 12:52:35201.名無しさん@涙目です。gVoNaつまり邪馬台国は九州マツロ国上陸から奴国・不彌國を経由して陸行一月の所にある日田、もしくは山門・八女辺りかまあ大体の九州説で想定される場所と合致する2023/07/20 12:54:07202.名無しさん@涙目です。gVoNa>>200良く勘違いされてる間違いだけど使者は直接女王の所まで行ってるよ>太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王2023/07/20 12:59:36203.名無しさん@涙目です。QOl3c日本列島において魏の使者を1か月も歩かせること自体不可思議。高知、東海、信州といった歩かざる得んとこはしゃあないけど、それら以外の西日本ならせいぜい半月も歩けば着けるはずなのに、水行じゃなく陸行するその意味を考えなあかんのは一緒。2023/07/20 13:35:39204.名無しさん@涙目です。g0oTh卑弥呼様芸人のQ太郎見なくなったな2023/07/20 13:54:06205.5ちょんねるHeOEo日本書紀が嘘ばかり書くからこうなる2023/07/20 14:20:28206.名無しさん@涙目です。gVoNa>>205嘘は少ないぞ、ただ他の歴史書焚書して「昔の事だからよくわかんねーわ、中国史書じゃ神功皇后っぽい人を卑弥呼とかなんか書いてあるっぽいね」ってしらばっくれてるだけだぞ2023/07/20 14:59:51207.5ちょんねるHeOEoしらばっくれる必要性、考えたことある?2023/07/20 17:18:55208.名無しさん@涙目です。z02yi邪馬台国は末盧国から2000里にあり、九州西岸のどこかから150キロの場所で確定じゃないのか?2023/07/20 17:55:34209.名無しさん@涙目です。H2Y96パチもんが横行してた説が正しい気がしてきた2023/07/20 18:33:10210.名無しさん@涙目です。QOl3c白村江の戦いで九州北部勢力のバックともいえる百済が滅んだのいいことに、邪馬台国のこともうやむやにして九州北部勢力の弱体化狙った思ってるかな。九州北部が併合されたの比較的最近で、中央以外の大和政権の国々はそんな大昔の九州北部の歴史とか良く知らんやろし。2023/07/20 19:48:38211.名無しさん@涙目です。NWb0g邪馬台国が後のヤマト王権と別の政権なのはそうなんだけどいつ征服されたかは諸説あるね、4世紀だとは思うけど2023/07/22 11:00:00212.名無しさん@涙目です。ttZOn百済、新羅、高句麗は日本の属国2023/07/22 19:16:54213.名無しさん@涙目です。KDNTA漢字を発明したのは殷王朝殷王朝を作ったのは日本人2023/07/22 20:28:06214.名無しさん@涙目です。oxeBJ呉帝王「俺は日本人だ」2023/07/23 00:50:51215.名無しさん@涙目です。Io7Nd日本人「孫権は日本人だった!」2023/07/24 16:42:58
【超速報⚡】『攻殻機動隊』新作テレビアニメ制作決定💥2026年放送❗アニメーション制作はサイエンスSARUが担当❗特報映像&ティザービジュアルも解禁に🏃♀🏃♂🏃ニュー速(嫌儲)46290.12024/05/25 23:26:59
武漢とかその周辺に行きつくんちゃうかな思ってるかな。
中国の史書に書いてある
ここまでは畿内説も否定しないんじゃないかな?
でもそこからまた九州離れて旅立っちゃうw
なんで九州北部上陸して陸進みながらまた九州離れるんだっつのw
記述通りだと邪馬台国は太平洋の海の中にあることになるとか
ちょっとアホすぎるんよ
日数行程以降「何かおかしい」と考えるべき
朝鮮から対馬
対馬から壱岐
壱岐から九州
どこも同じく千里
慣用的な表現だったんだろうってのが推測できる
海を渡るのは大変だから千里くらいってレベルなんだろうな
陸上移動に関してもすべてが百里単位
測量したわけでもないだろうし、これまでの人々の経験からおおよそそのくらいって事だろうし
人が1日歩く距離を百里として
二日でたどり着けるなら二百里とか、そんな考え方だったのかもしれない
1著者が間違えた、別の資料が混同してしまった
2投馬国以降は魏の使者は行ってない、伝聞
3日数行程は放射で読む、帯方郡→投馬国(對馬國)→邪馬台国の日数と読む
4著者が偽った、政治的理由で倭を呉のすぐ東に置きたかった
といった説がある
いや、そこの千里はだいたい距離合ってるのよ
というのは、
その歩く予定の道がどんなものかによって大きく違ってくるんよな
今でも実際に田舎の道や山道を歩けば分かるけど
舗装された道は歩きやすい
山の中の獣道のようなものは歩きにくい
藪漕ぎすれば1時間たっても数十メートルの場合もある
おせんころがし、大歩危小歩危などのように命がけの道もある
もっと具体的な例で言えば
古代に川を渡る本格的な橋はほとんど無いし、あったとしても都市部やその近隣、重要な街道のみ
土木技術が低いので平坦な道ではなくアップダウンも多いし、トンネルもない
川を渡るなら上流まで迂回し
山を越えるなら険しく舗装もされてない道とも言えないような道を歩く
海岸線を歩くとしても、岩場だと容易ではなく、高巻きすることもある
道路は直線とは限らない
直線距離で1キロでも、迂回しないといけなくて3キロ歩くこともないわけではない
こうやって考えると
記述通りだと太平洋に出るという畿内説の主張が、あまりにも浅はかだという事が分かる
マツラ国から伊都国までの距離とはどこからどこまで?
マツラ国は呼子だよ
アトランティスやムー並みの都市伝説
マツラから伊都国まで何里だった?
>>1に書いてあるけど五百、だいたい合ってない?
呼子からなら蓋然性が高い
しかし、唐津をマツラ国と比定する場合はちょっと長すぎな感じ
で、現在主流なのがどうやら唐津
当時すでに開発され整地されてたであろう唐津平野のわけない。
十中八九漁村。
伊都国奴国がほぼ確定してる以上マツロ国の場所どうでもよくない?と言ってみる
唐津をマツラ国とすると
記述通りの南東に伊都国が存在しないことになる
で、それを根拠に畿内説は方角は正しくないというこじつけで畿内に向かわせようとし始めるんよ
呼子は邪馬台国よりも前の時代から大陸への出発地だったんだから、確定しといていいと思うんよな
そう
ある程度でいいんだよ
東と記述されてるなら、大方の目安としての東であればよく、真東である必要はないんよな
畿内説はそこら辺が理解できてない
大雑把に、北東から南東の範囲であれば東でいいし
東から南までの範囲内なら南東でいいんよな
どうやって屁理屈捏ねたら九州内に収まるか必死だな
伝聞情報で、北九州から少なくとも水行二十日で投馬国、さらに水行十日陸行一月で邪馬台国なんだから、どう考えても九州島内は収まらないよ
伝聞だからこそ、里数表記ができなかったのであり、北九州から日数でこのくらいかかるよと聞いた魏の使者がそのように報告したのだろう
その距離が奈良が適当かどうかはともかく、九州からかなりの遠絶地になるのは間違いない
なんで九州に上陸して進んだの?
そもそも水行は河沿いも含める水沿いの移動だよ?
水行行程をそのまま読むんなら
内陸に進んで水行で河沿い移動だよ、そんな常識も知らないのか
収まるわな
お前、山の中の未舗装路を何日も歩くとしたら1日に何キロ歩けるつもり?
だから秦の始皇帝から、仙薬を求めて旅立った徐福は、上海より南の船山列島より出発した。
後漢から金印を遣わしたとき、金印にの上の飾りの動物は、南方を礻ウミヘビ
三国志の孫権が、倭に使いして援軍を得ようとしたのは、倭の位置をもっと南方だと信じていたから。
魏志倭人伝で、邪馬台国の場所を書いてあるが、それだと北すぎるから、上奏するときに場所をぼかして、むりやり南に持っていったんだろ。
魏志倭人伝に出てくる地名って、福岡天神で、どこ中学出身って聞いて出てくるようなローカル地名ばかり。北部九州しかありえんわ
俺もその説取ってるわ、遼東公孫氏のこともあって呉をけん制したかったんだろう
でも史書にウソを書くわけにはいかない、だからどうとでも取れるように作為した
つまり投馬國=対馬の誤記ということにした
・(奴国・不彌國から)南至投馬國水行二十日、南至邪馬壹國、水行十日・陸行一月
・帯方郡から対馬まで水行20日、対馬から邪馬台国まで水行10日、陸行1月
これで道程はだいたい合うし、呉の近海に有るようにも読める
里数表記がある国までは北部九州なのは間違いない
そこから邪馬台国は九州島内を遠く離れた遠絶地にあり
魏の使者も直接は行っていない
日田、もしくは山門・八女辺りか
まあ大体の九州説で想定される場所と合致する
良く勘違いされてる間違いだけど使者は直接女王の所まで行ってるよ
>太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王
高知、東海、信州といった歩かざる得んとこはしゃあないけど、
それら以外の西日本ならせいぜい半月も歩けば着けるはずなのに、
水行じゃなく陸行するその意味を考えなあかんのは一緒。
嘘は少ないぞ、ただ他の歴史書焚書して
「昔の事だからよくわかんねーわ、中国史書じゃ神功皇后っぽい人を卑弥呼とかなんか書いてあるっぽいね」ってしらばっくれてるだけだぞ
邪馬台国のこともうやむやにして九州北部勢力の弱体化狙った思ってるかな。
九州北部が併合されたの比較的最近で、中央以外の大和政権の国々は
そんな大昔の九州北部の歴史とか良く知らんやろし。
いつ征服されたかは諸説あるね、4世紀だとは思うけど
殷王朝を作ったのは日本人