邪馬台国を探していますアーカイブ最終更新 2023/07/24 16:421.名無しさん@涙目です。rXXOM倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月2023/07/10 22:02:23215すべて|最新の50件2.名無しさん@涙目です。gUl2v行程的に畿内説は無いな2023/07/11 00:07:593.名無しさん@涙目です。QICqG十中八九九州北部。2023/07/11 14:44:064.名無しさん@涙目です。WkYe4末路国から150キロ程の場所が邪馬台国でしょうね2023/07/11 15:05:245.名無しさん@涙目です。CFAqa畿内説の奴らに無駄に煽られて腹が立ったなぁ2023/07/11 15:14:096.名無しさん@涙目です。WkYe42世紀の卑弥呼共立時の纒向は未開地なので、纒向で卑弥呼が共立されたというのは大嘘ですな、畿内説は嘘の研究をする学問だという事です。2023/07/11 15:17:267.名無しさん@涙目です。QICqG日本の国体の基みたいなもんが形成された頃の遺跡だと思うので、みょうちくりんな話に惑わされず、日本の歴史をちゃんと解明していって欲しいかな。2023/07/11 15:22:428.名無しさん@涙目です。WkYe4畿内説の論理だと崇神朝が邪馬台国になってしまって日本の歴史が無茶苦茶になりますね2023/07/11 15:24:429.名無しさん@涙目です。kP4q9テスト2023/07/11 15:29:1910.名無しさん@涙目です。8ARWg5chのスレタイを使うのもなんなんで立てました邪馬台国を探しています https://talk.jp/boards/news/16889941432023/07/11 15:30:0211.名無しさん@涙目です。lDTk5ジャマダイ王国?全滅だー!2023/07/11 15:31:5912.名無しさん@涙目です。dnhkb邪馬台国はシマタイ国でしょうね2023/07/11 15:33:4213.名無しさん@涙目です。kP4q9邪馬台国の名称の国は我が国にはありません。2023/07/11 15:33:5314.名無しさん@涙目です。QICqG朝鮮南部の小国からの遣使のこと記すのに、魏のこと記さないのは不自然すぎ。2023/07/11 15:34:0515.名無しさん@涙目です。QICqG結論:3世紀後半の大和政権の交流範囲は朝鮮南部まで。2023/07/11 15:38:2716.名無しさん@涙目です。kP4q9邪馬壹はシリアマイと発音する。女王蜂のように尻が甘かったと考えられる。2023/07/11 15:39:2017.名無しさん@涙目です。dnhkb『纏向型前方後円墳の築造時期は4世紀代』東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授 石井 好https://zenyamaren.net/wp-content/uploads/2020/04/yamaren20-205.pdf2023/07/11 15:54:2318.名無しさん@涙目です。dnhkbおっ、これがアップできるは自由度がアップしたな2023/07/11 15:57:0719.名無しさん@涙目です。QICqGどれどれ。https://vthonda.web.fc2.com/Ancient/1c5k5.png2023/07/11 16:05:1020.名無しさん@涙目です。QICqGおっ、これはいい。2023/07/11 16:06:5121.名無しさん@涙目です。QICqG逆に、掲示板のドロー機能無いんか。2023/07/11 16:08:1522.名無しさん@涙目です。dnhkbfc2も今まで弾かれてたしな、こっちの方が使えるね2023/07/11 16:09:0323.名無しさん@涙目です。QICqG画面リフレッシュすると、一番上までスクロールされた状態になるんやけど、何とかならんのかな?2023/07/11 16:17:1924.名無しさん@涙目です。QICqG新着コメントをクリックすればいいんかな?2023/07/11 16:18:0525.名無しさん@涙目です。3hQas九州の方が色々自然だと思う畿内説は皇族以外が日本を支配してた時代があった事が許せないからって無理矢理取ってつけた説だよね2023/07/11 16:18:2726.名無しさん@涙目です。QICqG「新着コメント」クリックで、問題なさそう。2023/07/11 16:19:2227.名無しさん@涙目です。QICqG九州説でも、日本列島で大和政権以上の勢力誇った国なんてないと思うけどな。2023/07/11 16:20:4328.名無しさん@涙目です。QICqGアラブ諸国みたいに九州北部連合みたいな同民族国家による緩いつながりがあってその総力となれば古墳時代初期は大和政権以上だったんかもしれんけど。2023/07/11 16:29:0829.名無しさん@涙目です。kYqe0邪馬台国か2023/07/11 16:29:4130.名無しさん@涙目です。AIYsYそのまま読めば鹿児島~沖縄~台湾にあることになり九州北部でも畿内でもない多すぎる戸数とかなんらかの意図をもって書かれたのが魏志倭人伝2023/07/11 16:35:1731.名無しさん@涙目です。m0s2Pてst2023/07/11 17:01:1032.名無しさん@涙目です。sJ91E今に見ていろハニワ原人全滅だァー!2023/07/11 17:22:0533.名無しさん@涙目です。DtaTf各地域の利権あり絶対に近畿か九州だと派閥ルールあるが、最近阿波のような気がする文献や考古学の見解で神話の物語は阿波周辺2023/07/11 17:34:0934.名無しさん@涙目です。3dipr>>33阿波は日本書紀の編纂者のメンバーに忌部氏がいるからある程度創作も出来たと思うよ2023/07/11 17:57:3535.名無しさん@涙目です。3dipr箸墓が卑弥呼の墓という詐欺に騙されている人がいる2023/07/11 18:06:3436.名無しさん@涙目です。02oem>>35あのデカさは誰の墓なんやろ❓2023/07/11 18:32:0937.名無しさん@涙目です。jQ05P江戸時代に古墳の修陵をやったので少し変わりました2023/07/11 18:48:5838.名無しさん@涙目です。5wgz0>>1知ってる。チャイナの大昔の小西洋之みたいなのが書いた第一級行政文書に出てくる村でしょ。2023/07/11 19:00:0739.名無しさん@涙目です。GTDcL>>36ヤマト王権の祖で物部氏とか公孫氏とか?ワンチャンで大物主。2023/07/11 19:18:2140.名無しさん@涙目です。qJ426博多っ子としては九州説が本当なら良いなぁってレベルで、なら邪馬台国の跡地が人気観光地になるか?と言われると微妙だと思う。結局、観光地なんて例えば北陸の金沢みたいに歴史が浅く文化レベルが低くても、ハリボテ復元城下町の方がニワカ層にウケるのが現実だからな。2023/07/11 22:11:4541.名無しさん@涙目です。bp8jG何かと9州のほうが都合がよい2023/07/11 22:14:2443.名無しさん@涙目です。xP0Dr>>40福井辺りはある意味日本より歴史古いだろうから、記録無くとも石川県も侮ったらあかんように思うけどな。2023/07/12 05:30:3344.名無しさん@涙目です。cysgP>>7なら古墳発掘調査やればいいだけなんだが真実は都合悪いらしい2023/07/12 05:50:2445.名無しさん@涙目です。Pfv6c>>43古代の福井や石川の歴史なんてせいぜい貝塚レベルだよw同じ日本でも古墳や遺跡から次々と出土品が出てくる九州と文化レベルは違い過ぎる。2023/07/12 06:02:3646.名無しさん@涙目です。VPbKD九州北部の太宰府に邪馬台国の施設が明確に存在するとされているんだけど、いろんな学者さんが太宰府近辺をボーリングしても何も出てこないorz2023/07/12 07:39:5847.名無しさん@涙目です。mhzdQ大和国を馬鹿にした呼び方が邪馬台国だろ邪とか卑とか完全に中華の仕業2023/07/12 07:44:1848.名無しさん@涙目です。jku0n>>2邪馬台国まで水行十日陸行一月って書いてあるんだから九州内に収まるわけないだろ史書をちゃんと読め2023/07/12 07:46:1849.名無しさん@涙目です。DZTZQ>>46誰が明確に存在するって言ってるんだよwwwアホなふりしてツッコミ待ち?2023/07/12 07:54:2050.名無しさん@涙目です。Vs1f8舗装された道路があるわけでなし日数だけなら普通に九州はありうるよ水行では雨風潮待ちでロスが発生するし陸行では前を行く人の背中が草に隠れて見えないし余裕で時間がかかりすぎるそれより南と書いてあるのに東に行くのは流石に無理じゃね2023/07/12 07:56:2851.名無しさん@涙目です。uTs0X距離は明確に1万2千里と書かれているので九州で収まる2023/07/12 08:12:2852.名無しさん@涙目です。Sb6Ce>>48それなんよ2023/07/12 09:13:5353.名無しさん@涙目です。xP0Dr>>44持ち主が消極的なだけなんやろ。自分家の墓掘り返いしたいとか申しであっても、僕も躊躇する思うかな。2023/07/12 10:13:1854.名無しさん@涙目です。xP0Dr>>48伊都国から長崎辺りまで水行十日、長崎辺りから邪馬台国まで陸行1か月。長崎(・佐賀)以外の九州北部で特に問題なさそうかな。2023/07/12 10:17:2155.名無しさん@涙目です。riOSi>>39公孫淵の子孫?2023/07/12 12:16:4156.名無しさん@涙目です。8QdVT畿内派は「邪馬台国=国内最大勢力だった」という思い込みから始まって、屁理屈を後付してるようにしか見えん魏志倭人伝の記述を都合よく捻じ曲げ、無視して無理やり畿内に設定した挙げ句、「桃の種が出たから邪馬台国だ!」とか正気か?2023/07/12 12:24:3157.名無しさん@涙目です。uTs0X>>55前方後円墳は公孫氏滅亡後から作られているので可能性はあると思うhttps://i.imgur.com/wrqsslp.jpg2023/07/12 13:05:4258.名無しさん@涙目です。PNFDpこれが前方後円墳の鋳型ですか2023/07/12 14:27:5559.名無しさん@涙目です。uTs0X炉とあるので香炉か香炉の蓋だったかもしれませんね2023/07/12 14:51:1060.名無しさん@涙目です。PNFDp江戸時代の修陵https://i.imgur.com/EBL7Qz2.jpg 左 修陵前 右 修陵後2023/07/12 15:05:4461.名無しさん@涙目です。OqeX5>>60それが仮に本物だとしても円墳では無いね、画像の出所は?2023/07/12 15:37:3862.名無しさん@涙目です。ZIeDy>>60江戸時代くらいやったら形いじったて何処かに載ってるんちゃうかな2023/07/12 16:04:0163.名無しさん@涙目です。WNgK4>>48それって嘘の可能性あるよね遠方の国も服従しているってするために盛った可能性は?2023/07/12 17:10:5764.名無しさん@涙目です。zDGYd全滅だ!2023/07/12 17:14:0265.名無しさん@涙目です。iYwkh古火山噴火研究から古事記の記述や神武東征の謎を解く2023/07/12 17:21:1766.名無しさん@涙目です。EZKHl邪馬台国は 訓読みで「やまとのくに」なんだから九州にあるわけないやまとのくにと読ませると中国から金印もらった政権の連続体になるから頑なに「やまたい」となぞの読み方をさせているそのくせ、日本を古代の通り「やまと」と読ませず、「ニッポン」と中国語読みさせるさらなる謎2023/07/12 17:26:5767.名無しさん@涙目です。cZ8at>>66山門や山戸は九州にもありますよ2023/07/12 17:31:3568.名無しさん@涙目です。NYEoxバズーカシュート!2023/07/12 17:33:4469.名無しさん@涙目です。xP0Dr>>60文字読めんから、何を意味する絵なんかよくわからんかな。2023/07/12 17:54:5770.名無しさん@涙目です。W074W>>63書いている他人が盛る必要ないやろ2023/07/12 17:56:3071.名無しさん@涙目です。bZGWH>>67それ言っちゃ全国津々浦々にヤマトという地名はある。2023/07/12 18:32:2872.名無しさん@涙目です。5KQP3>>71そう、地名をもって邪馬台国を論ずるのはナンセンスだと思うよ。そもそも邪馬台をGoogle翻訳するとシーマタイに聴こえるからね2023/07/12 18:43:1773.名無しさん@涙目です。Oww1w>>63嘘なのは水行十日陸行一月じゃなくて帯方郡から一万二千里ってところなこれは完全に洛陽から大月氏国との距離を合わせている三国志では基本長里で書かれてるのに魏志倭人伝は九州北部までの旅程を短里で読むと辻褄が合うのかも、一万二千里という距離の嘘を短里で読むと辻褄が合うようにしておくことで言い訳ができるようにしたんだろうそして、伊都国以降突然距離の記述が日数になるのは、九州から遠絶地のため魏の使者が邪馬台国まで行っておらず伝聞になっているから官の名前の雰囲気が変わるのも同じ理由2023/07/12 20:05:4074.名無しさん@涙目です。fRglGイオンで売ってた2023/07/12 20:06:0975.名無しさん@涙目です。gNNvv大陸からの玄関口九州北部〜内陸に暮らしてた集落そこの酋長を国王だと勘違いしたんだろ質素に暮らしてた集落だからたいそうなものは出ないし次の世代の国王から歴史ごと隠滅されてる狩猟原住民から文化人になる過渡期大陸と比べて武器も文化も遅れてた原住民は大陸人に神だの天皇だの国王だの唆されて交配されて人種占領されたのかもな2023/07/12 20:30:5676.名無しさん@涙目です。f0vqT邪馬台国の人には体中に刺青があることからヤクザの先祖なんだろう。という事は邪馬台国は山口組のある神戸に拠点があって畿内説が正しいという事なんやな。2023/07/12 20:50:4777.名無しさん@涙目です。5KQP3>>76当時の海人族の入れ墨は溺死した時の為の認識番号だよ2023/07/12 21:02:1978.名無しさん@涙目です。xP0Drサメに襲われ難いとか言う話じゃなかったっけ?海洋系縄文人の事なんじゃね?2023/07/12 21:19:5979.名無しさん@涙目です。I9xDl>今使譯所通三十國30国もあったんなら王は卑弥呼だけじゃないじゃん2023/07/12 21:21:2380.名無しさん@涙目です。oJemG邪馬台国 やまたいこく台与 とよ2023/07/12 21:23:0581.名無しさん@涙目です。xP0Dr昔はイヨって言ってるやつの方が多かったような気もするけど。2023/07/12 21:27:0182.名無しさん@涙目です。GdtZg北部九州を襲う線状降水帯が弥生時代にもあったとしたら、山間部は土砂災害、平野部は壊滅状態になるそれで遷都したのだろう2023/07/12 21:50:1583.名無しさん@涙目です。A3fIR邪馬台国は大陸側で流行った架空の国。ジパングのようなもの。2023/07/12 22:05:0584.名無しさん@涙目です。5KQP3>>78溺死した時には人相が変わるから顔で識別できないのよ、古代人の知恵かな。宗像族と安曇族でも入れ墨の場所が違うらしい2023/07/12 22:06:3185.名無しさん@涙目です。fhZhS卑弥呼を写したと思われる写真発掘される。https://i.imgur.com/yONPgYT.jpg2023/07/12 22:07:1986.名無しさん@涙目です。5KQP3個人的には芦田愛菜ちゃんがいいな2023/07/12 23:12:4187.名無しさん@涙目です。mzzsa>>81まだ16だから2023/07/13 00:10:1988.名無しさん@涙目です。ehNlLムーに書いてるのが正しい(´・ω・`)2023/07/13 02:39:0689.名無しさん@涙目です。kEJUi>>87そういや、四国って太古においては伊予の何とかとか呼ばれてたはずやけど、最近は阿波がやたら出張ってきてるみたいやね。2023/07/13 07:37:4490.名無しさん@涙目です。mzzsa>>89イヨもトヨも該当する国名があるから悩ましいよな2023/07/13 08:20:0691.名無しさん@涙目です。kEJUi書き込めん?2023/07/13 09:01:5092.名無しさん@涙目です。dzxb9>>75そうやと思う支那人が上陸して最初の集落が邪馬台国やっただけ2023/07/13 09:04:4293.名無しさん@涙目です。dzxb9>>84顔にまで刺青を入れるのは魚を追い込みやすいから支那江南地方の風習 下戸も2023/07/13 09:07:2594.名無しさん@涙目です。R5LSY>>72台与はトヨって読むのに邪馬台国がヤマトじゃないのはなんで?2023/07/13 09:56:2995.名無しさん@涙目です。A9Yhq似顔絵無いと探せないな。2023/07/13 10:12:4996.名無しさん@涙目です。nzhO6水行何里とかいうのがキモじゃないかな。それが海でも川でも水行だし。あと当時の距離で何里が今考えてるのとだいぶ違うとか。2023/07/13 10:54:4097.名無しさん@涙目です。sUMj2https://youtu.be/mhf9qR6fwUchttps://youtu.be/ukMxeDE1pJg中国と台湾の学者は九州説2023/07/13 11:31:4898.名無しさん@涙目です。qFaEb>>92そんなんあるわけないだろ魏志倭人伝を読めば、たまたま上陸した集落の酋長を国王と勘違いして、そのまま報告したのではないことは明白だろ2023/07/13 12:20:4299.名無しさん@涙目です。zAVtb卑弥呼ちゃんってかわいいの?2023/07/13 13:02:01100.名無しさん@涙目です。smWzG男を惑わすくらいの美人だったのだろう2023/07/13 14:55:32101.名無しさん@涙目です。8QrqOかつて宇佐神宮には黄金の神宝が3つあったとされているがこの中の一つが卑弥呼の金印の可能性があるのではないだろうか?http://www.nan-nan.jp/lib/bungo002a1.pdf2023/07/13 15:24:31102.名無しさん@涙目です。zBpLc唐津に来ています2023/07/14 05:39:48103.名無しさん@涙目です。lJ4W7一番最初に書いてある帯方郡南東近畿ではないよな2023/07/14 06:29:00104.名無しさん@涙目です。zP8TC>>102呼子のイカは食べましたか?2023/07/14 12:18:59105.名無しさん@涙目です。X7TEN話変わるけど、末廬国は呼子から海岸沿いに西に延びる国で、唐津平野はちゃうんちゃうかな思うかな。2023/07/14 12:37:40106.5ちょんねるrNoC3まず日本書紀、古事記は韓国人が書いた偽書これが理解出来ないと話がおかしくなる2023/07/14 13:10:35107.名無しさん@涙目です。sVD0t>>85ナイスですねー2023/07/14 16:01:32108.名無しさん@涙目です。noiLI>>13ヤマト国でしょつまり奈良県2023/07/14 22:32:03109.名無しさん@涙目です。uzgZn鏡が出たんだから日田市だろ2023/07/16 00:32:42110.名無しさん@涙目です。8KvA8日田は北や南西から攻められたとき用の一時避難場所的な所かもな。2023/07/16 08:06:16111.5ちょんねるe90R7久大線沿線は厳しいかな鉄道も寸断される水害地域だしその両サイドの海に近いところだろう2023/07/16 16:07:37112.名無しさん@涙目です。uzgZn山国川が氾濫したように度重なる九州北部豪雨にウンザリして近畿の方に移ったのではないかな2023/07/16 17:46:24113.名無しさん@涙目です。NyBTP>>112奈良盆地まで行かなくても山国川から少し離れた台地(薦神社付近や八面山の麓等)に住めば洪水の被害は避ける事が出来るよ2023/07/16 18:59:03114.5ちょんねるl9gKZただ、耶馬溪だと魏へ何度も行きにくい伊都も遠い2023/07/16 20:28:20115.名無しさん@涙目です。NyBTP>>114耶馬溪は隠れ家には良い場所かもね、磐井も耶馬溪まで逃げたという伝説もあるしね2023/07/16 20:47:53116.名無しさん@涙目です。lF2AA何年か前にトンデモ本読んだぞそもそもあれは日本列島の事じゃないって感じなんだったか朝鮮半島だか遼寧省だか要は大陸や半島の話、それなりに説得力あったぞそもそも論があるから2023/07/16 20:56:27117.名無しさん@涙目です。uzgZn邪馬台国は筑後川流域付近にあって卑弥呼は筑後川上流の日田市に住んでいたのではないかな?日田市は山国川の上流付近でもあるしそして投馬国は宇佐神宮付近一帯にあったのではないかな?2023/07/16 21:51:00118.名無しさん@涙目です。7857P>>117日田は天然の要塞なので女王が居城するのは相応しいかも、日田が邪馬台国なら北の宇佐中津が投馬国となりますね。2023/07/16 22:43:40119.名無しさん@涙目です。vlg44アニメタルのBurn!の前奏から鋼鉄ジーグに繋げるのは天才すぎるhttps://youtu.be/nkQA4xUXs142023/07/16 22:55:17120.名無しさん@涙目です。fAnFy銅鐸と邪馬台国関係ないのに。2023/07/18 11:25:54121.名無しさん@涙目です。fAnFy考えてみれば、関の西と東に分かれた2大銅鐸文化圏の勢力争いは日本版グレートゲームと言って過言じゃないんかもな。2023/07/18 11:33:06122.名無しさん@涙目です。hB1fr邪馬台国=大和朝廷で九州から近畿に東遷したでいいじゃん2023/07/18 14:35:06123.名無しさん@涙目です。fAnFy移動中の食料どうやって調達すんの?1週間とかで着く道程ちゃうで。2023/07/18 15:49:24124.名無しさん@涙目です。wrQYC>>48九州に収まるじゃん2023/07/18 16:03:56125.名無しさん@涙目です。wrQYC>>60なんで修復したのにデカい木を植えるんだよ全然違う別の古墳の絵じゃねぇの?2023/07/18 16:05:52126.名無しさん@涙目です。wrQYC>>66山戸とか山門なのかもしれないな2023/07/18 16:06:30127.名無しさん@涙目です。wrQYC>>94ヤマトと読んだとしても山門の可能性もあるという事だよ2023/07/18 16:07:40128.5ちょんねるxlamKヤマトのカタカナ表記はハングルが関係しているから2023/07/18 16:35:13129.名無しさん@涙目です。w5iVE中津の松尾神社、ここも興味深いねhttps://i.imgur.com/LCKT3Ic.jpg2023/07/18 18:14:20130.5ちょんねる3IqYS雰囲気はあるけど魏と逆向きだからなあ2023/07/18 20:48:27131.名無しさん@涙目です。Nr2Yy>>1邪魔すんなよ2023/07/18 20:49:13132.名無しさん@涙目です。w5iVE>>130魏と逆とは?2023/07/18 20:58:56133.5ちょんねる3IqYS>>132邪馬台国から見て魏は西方向中津は東方向に海2023/07/18 21:45:14134.名無しさん@涙目です。1ofRF>>133女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種だから女王国の要件は満たしていると思うが2023/07/18 22:24:07135.名無しさん@涙目です。ZARpq中津は末盧国から2千里(150キロ)の場所でもありますね2023/07/18 23:18:54136.名無しさん@涙目です。gxsuh日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」2023/07/19 00:28:12137.名無しさん@涙目です。sB1WF邪馬台国の場所は福岡県の大和町でほぼ確実と考えている。魏志倭人伝に出てくる他の国の投馬国や狗奴国のうち、狗奴国は今の宮崎県の日向、つまりヤマト朝廷の全身だった宮崎県の豪族のことだろう。卑弥呼が存在した紀元後230年~240年頃は九州にいくつも国が別れていたと考えられる。卑弥呼の墓は当時の前方後円古墳ではなくて直径70mの円形古墳だったと魏志倭人伝では書かれている。つまり、この頃から強大になり始めて近畿地方に攻め込んだ日向族(後の天皇家)とは墓の形が違うよって、邪馬台国は当時は倭国の中では強国ではあったが、内乱が続いて、近畿地方をゲットした天皇家に攻められて滅亡したと考えるのが筋だろう。投馬国というのは分からないが距離的には熊本あたりだろう2023/07/19 00:58:07138.名無しさん@涙目です。xjkYA3世紀の近畿に攻め込むって、どんだけ兵連れてくつもりなんやら。兵站とか考えてんのかな?それとも巨大銅鐸が自然にできたとでも思ってるのか・・・2023/07/19 09:27:21139.5ちょんねるKtdmVなんで奈良や伊勢が1800年後も新幹線通ってないかわかるか?人が住むには不便すぎるからだよ2023/07/19 13:22:11140.名無しさん@涙目です。as9iS意味不明な新幹線理論まで登場したぞ2023/07/19 15:14:04141.名無しさん@涙目です。0evak>>94そもそも台与じゃなく壱与が正しいし2023/07/19 15:43:02142.名無しさん@涙目です。0evak>>66ヤマタイは漢音読み日本の漢音は概ね中国中古音、隋唐時代の読み邪馬台国時代、つまり三国時代は上古音で読みが違うヤマト?どっから来たの?その読みは2023/07/19 15:49:27143.名無しさん@涙目です。0evak>>126そもそも語源的には山戸(山・ヤマと入り口の意のト)が正しい言うまでも無く大和=ヤマトは当て字だし2023/07/19 15:57:03144.名無しさん@涙目です。xjkYA伊勢・奈良・和歌山・徳島。いわくつきの土地柄の連続やしな・・・2023/07/19 17:21:28145.名無しさん@涙目です。xjkYA京都に首都ある状態なら、新幹線通ってたかもな。2023/07/19 17:23:01146.名無しさん@涙目です。K7NKG>>143「大和」という文字を「ヤマト」とは、普通は読まないもんな2023/07/19 17:23:11147.名無しさん@涙目です。xjkYA普通、「オオヤマト」やもんな。2023/07/19 17:26:29148.名無しさん@涙目です。K7NKG>>147普通は「ダイワ」しかない2023/07/19 17:28:29149.名無しさん@涙目です。0evak大和は変字で元は大倭大倭は漢音でタイワ、呉音でダイワ訓でオオヤマト、言うまでも無く訓はヤマトを後付けた読みやね2023/07/19 17:32:03150.名無しさん@涙目です。7EyMB日本書紀の時代ですらヤマトを、野麻登、椰麼等、夜麻苔みたいに表記してるわけで言ってみれば暴走族構文みたいなもの「よろしく」を「夜露死苦」にしたのと同じ大和をヤマトと読むのは「光宙」を「ピカチュウ」と読ませるようなものでちょっと違うんよな2023/07/19 17:36:00151.名無しさん@涙目です。7EyMB陸奥を「ムツ」と読ませるのも大概だよな2023/07/19 17:38:58152.名無しさん@涙目です。xjkYA磐井の乱で実質上「和」を併合し、それ以前から従えてた雰囲気出すため、「大和」という言葉を歴史書に記してたんかもな。2023/07/19 17:39:54153.名無しさん@涙目です。xjkYA纏向遺跡から神代文字でも出てくりゃ決定的になるんかもな。2023/07/19 17:42:37154.名無しさん@涙目です。0evak>>153神代文字の多くは偽作とされている2023/07/19 17:45:31155.名無しさん@涙目です。xjkYA>>154稗田阿礼が読んだのは漢字以外で描かれてた大和政権の歴史書だろうから、古墳時代に神代文字と呼ばれていいようなもんが存在してたはず思うかな。案外カタカナみたいなもんだったんかもしれんが。2023/07/19 17:49:23156.名無しさん@涙目です。0evak>>155大和政権は漢字を古事記編纂の数百年前に、恐らくは仏教と同時期か以前に受容しているその時の呉音は漢音より前、五王時代に江南から直接取り入れた説や百済経由説がある神代文字が漢字受容、五王以前である可能性は著しく低いただ、焚書が行わて人目を避けるために使用された文字ではあるかもしれない2023/07/19 17:56:06157.名無しさん@涙目です。xjkYA>>156天皇家が本来使うべき文字が漢字だと気づいたのに対し、古墳時代は出雲族の文字使ってたんで焚書した可能性考えてるかな。2023/07/19 17:59:06158.名無しさん@涙目です。0evakなるほど、それは面白いかもしれない2023/07/19 18:01:21159.名無しさん@涙目です。xjkYAただ、今は上海辺りも簡体字使ってるらしいから複雑な心境かもしれんんが。2023/07/19 18:14:06160.名無しさん@涙目です。xjkYA秦の始皇帝が中華統一のため南部の文字を標準にしたんだろう推測するけど、北京辺りは元々はもっと簡単な文字使ってたんかな推測するから繁体字に何の未練もないんかな推測するかな。出雲族の文字はそれに近かったという推測かな。2023/07/19 18:17:24161.名無しさん@涙目です。0evak始皇帝が文字にしたのは西方かな、ナンタラタイカンボってとこから奇抜な呉楚文字が出てる、一応漢字らしいが2023/07/19 19:07:22162.名無しさん@涙目です。xjkYA呉楚を南部扱いして書いたかな。華北は戦闘民族で戦に強いが、華南の方が文化レベルが発達してて、文字などはそっちに合わせてった可能性高いじゃないかな推測してるかな。2023/07/19 19:12:33163.名無しさん@涙目です。xjkYA呉楚を ⇒ 呉楚等を2023/07/19 19:13:33164.名無しさん@涙目です。0evak呉楚は南部そのものかな秦が西方紀元かな思い出したけど馬王堆漢墓の馬王堆帛書は呉蘇じゃなく前漢の篆書・隷書だったわ2023/07/19 19:27:16165.名無しさん@涙目です。xjkYA>>162 に書いた理由から、僕は戦国時代楚系文字が隷書の基本になってるとかいう説を支持してるかな。2023/07/19 19:43:32166.名無しさん@涙目です。xjkYAそして、天皇家を遡ってくと建前上その先祖は武漢とかその周辺に行きつくんちゃうかな思ってるかな。2023/07/19 19:48:31167.名無しさん@涙目です。0Nrj8江南からきた漁民ではなかったか❓2023/07/19 23:24:10168.名無しさん@涙目です。0ioJS大石大二郎の漫画みてたらだいたい想像できる2023/07/19 23:54:41169.名無しさん@涙目です。obs1tキーン印が出たところでいいんじゃね?2023/07/20 00:22:17170.名無しさん@涙目です。v3puPインカ帝王と古代エジプト王は日本人2023/07/20 00:58:29171.名無しさん@涙目です。hLaSyマジレスするとフィリピン2023/07/20 01:05:52172.名無しさん@涙目です。QOl3c日本列島に移り住む前は呉越の王族(農民の長)だったんじゃないか思ってるかな。2023/07/20 03:26:57173.名無しさん@涙目です。94uFY邪馬台国は推測の産物2023/07/20 03:43:05174.名無しさん@涙目です。gVoNa>>173中国の史書に書いてある2023/07/20 08:13:35175.名無しさん@涙目です。CkxF1朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して九州に上陸ここまでは畿内説も否定しないんじゃないかな?2023/07/20 08:16:34176.名無しさん@涙目です。gVoNa大半の畿内説は否定してないでもそこからまた九州離れて旅立っちゃうwなんで九州北部上陸して陸進みながらまた九州離れるんだっつのw2023/07/20 08:24:50177.名無しさん@涙目です。CkxF1邪馬台国は畿内にあったという結論を先に決めてるから解釈がおかしいんよな記述通りだと邪馬台国は太平洋の海の中にあることになるとかちょっとアホすぎるんよ2023/07/20 08:30:13178.名無しさん@涙目です。gVoNa>>1を見れば分かる通りその道程は不彌國までの里数行程と投馬國からの日数行程がある日数行程以降「何かおかしい」と考えるべき2023/07/20 08:33:44179.名無しさん@涙目です。CkxF1里数の部分に関しても、朝鮮から対馬対馬から壱岐壱岐から九州どこも同じく千里慣用的な表現だったんだろうってのが推測できる海を渡るのは大変だから千里くらいってレベルなんだろうな陸上移動に関してもすべてが百里単位測量したわけでもないだろうし、これまでの人々の経験からおおよそそのくらいって事だろうし人が1日歩く距離を百里として二日でたどり着けるなら二百里とか、そんな考え方だったのかもしれない2023/07/20 08:38:31180.名無しさん@涙目です。gVoNaこの「おかしさ」については「倭人は里を知らない、日数で測る」との記述を踏まえて1著者が間違えた、別の資料が混同してしまった2投馬国以降は魏の使者は行ってない、伝聞3日数行程は放射で読む、帯方郡→投馬国(對馬國)→邪馬台国の日数と読む4著者が偽った、政治的理由で倭を呉のすぐ東に置きたかったといった説がある2023/07/20 08:39:48181.名無しさん@涙目です。gVoNa>>179いや、そこの千里はだいたい距離合ってるのよ2023/07/20 08:41:30182.名無しさん@涙目です。CkxF1一日に人が歩ける距離がどのくらいかというのは、その歩く予定の道がどんなものかによって大きく違ってくるんよな今でも実際に田舎の道や山道を歩けば分かるけど舗装された道は歩きやすい山の中の獣道のようなものは歩きにくい藪漕ぎすれば1時間たっても数十メートルの場合もあるおせんころがし、大歩危小歩危などのように命がけの道もあるもっと具体的な例で言えば古代に川を渡る本格的な橋はほとんど無いし、あったとしても都市部やその近隣、重要な街道のみ土木技術が低いので平坦な道ではなくアップダウンも多いし、トンネルもない川を渡るなら上流まで迂回し山を越えるなら険しく舗装もされてない道とも言えないような道を歩く海岸線を歩くとしても、岩場だと容易ではなく、高巻きすることもある道路は直線とは限らない直線距離で1キロでも、迂回しないといけなくて3キロ歩くこともないわけではないこうやって考えると記述通りだと太平洋に出るという畿内説の主張が、あまりにも浅はかだという事が分かる2023/07/20 08:49:23183.名無しさん@涙目です。CkxF1>>181マツラ国から伊都国までの距離とはどこからどこまで?マツラ国は呼子だよ2023/07/20 08:51:08184.名無しさん@涙目です。gVoNaマツラは呼子かはわからないけど、やはり壱岐から一番近い東松浦半島と考えるのが自然やね2023/07/20 08:55:30185.名無しさん@涙目です。E3xoZ中国の小説にしか存在しない国アトランティスやムー並みの都市伝説2023/07/20 08:55:41186.名無しさん@涙目です。CkxF1>>184マツラから伊都国まで何里だった?2023/07/20 08:56:44187.名無しさん@涙目です。gVoNa>>186>>1に書いてあるけど五百、だいたい合ってない?2023/07/20 08:57:47188.名無しさん@涙目です。CkxF1>>187呼子からなら蓋然性が高いしかし、唐津をマツラ国と比定する場合はちょっと長すぎな感じで、現在主流なのがどうやら唐津2023/07/20 09:05:02189.名無しさん@涙目です。QOl3c魏志倭人伝の記述見る限り魏の役人が滞在した末廬国の村は当時すでに開発され整地されてたであろう唐津平野のわけない。十中八九漁村。2023/07/20 09:10:01190.名無しさん@涙目です。gVoNa歴史探求として正しくない態度だとは思うけど伊都国奴国がほぼ確定してる以上マツロ国の場所どうでもよくない?と言ってみる2023/07/20 10:33:52191.名無しさん@涙目です。CkxF1>>190唐津をマツラ国とすると記述通りの南東に伊都国が存在しないことになるで、それを根拠に畿内説は方角は正しくないというこじつけで畿内に向かわせようとし始めるんよ呼子は邪馬台国よりも前の時代から大陸への出発地だったんだから、確定しといていいと思うんよな2023/07/20 10:38:01192.名無しさん@涙目です。gVoNa方角や里数は、もうある程度でいいと思うんだけどなあ2023/07/20 11:15:31193.名無しさん@涙目です。CkxF1>>192そうある程度でいいんだよ東と記述されてるなら、大方の目安としての東であればよく、真東である必要はないんよな畿内説はそこら辺が理解できてない大雑把に、北東から南東の範囲であれば東でいいし東から南までの範囲内なら南東でいいんよな2023/07/20 11:19:58194.名無しさん@涙目です。0Vth0>>182どうやって屁理屈捏ねたら九州内に収まるか必死だな伝聞情報で、北九州から少なくとも水行二十日で投馬国、さらに水行十日陸行一月で邪馬台国なんだから、どう考えても九州島内は収まらないよ伝聞だからこそ、里数表記ができなかったのであり、北九州から日数でこのくらいかかるよと聞いた魏の使者がそのように報告したのだろうその距離が奈良が適当かどうかはともかく、九州からかなりの遠絶地になるのは間違いない2023/07/20 12:20:38195.名無しさん@涙目です。0Vth0九州内という結論ありきで考えるから、おかしくなるんだよな2023/07/20 12:21:49196.名無しさん@涙目です。gVoNa>>194なんで九州に上陸して進んだの?そもそも水行は河沿いも含める水沿いの移動だよ?水行行程をそのまま読むんなら内陸に進んで水行で河沿い移動だよ、そんな常識も知らないのか2023/07/20 12:28:02197.名無しさん@涙目です。eh6Ct>>194収まるわなお前、山の中の未舗装路を何日も歩くとしたら1日に何キロ歩けるつもり?2023/07/20 12:37:23198.名無しさん@涙目です。utANx古代中国では倭国は、もっと南方にあると思われていた。だから秦の始皇帝から、仙薬を求めて旅立った徐福は、上海より南の船山列島より出発した。後漢から金印を遣わしたとき、金印にの上の飾りの動物は、南方を礻ウミヘビ三国志の孫権が、倭に使いして援軍を得ようとしたのは、倭の位置をもっと南方だと信じていたから。魏志倭人伝で、邪馬台国の場所を書いてあるが、それだと北すぎるから、上奏するときに場所をぼかして、むりやり南に持っていったんだろ。魏志倭人伝に出てくる地名って、福岡天神で、どこ中学出身って聞いて出てくるようなローカル地名ばかり。北部九州しかありえんわ2023/07/20 12:44:03199.名無しさん@涙目です。gVoNa>>198俺もその説取ってるわ、遼東公孫氏のこともあって呉をけん制したかったんだろうでも史書にウソを書くわけにはいかない、だからどうとでも取れるように作為したつまり投馬國=対馬の誤記ということにした・(奴国・不彌國から)南至投馬國水行二十日、南至邪馬壹國、水行十日・陸行一月・帯方郡から対馬まで水行20日、対馬から邪馬台国まで水行10日、陸行1月これで道程はだいたい合うし、呉の近海に有るようにも読める2023/07/20 12:51:00200.名無しさん@涙目です。0Vth0>>198里数表記がある国までは北部九州なのは間違いないそこから邪馬台国は九州島内を遠く離れた遠絶地にあり魏の使者も直接は行っていない2023/07/20 12:52:35201.名無しさん@涙目です。gVoNaつまり邪馬台国は九州マツロ国上陸から奴国・不彌國を経由して陸行一月の所にある日田、もしくは山門・八女辺りかまあ大体の九州説で想定される場所と合致する2023/07/20 12:54:07202.名無しさん@涙目です。gVoNa>>200良く勘違いされてる間違いだけど使者は直接女王の所まで行ってるよ>太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王2023/07/20 12:59:36203.名無しさん@涙目です。QOl3c日本列島において魏の使者を1か月も歩かせること自体不可思議。高知、東海、信州といった歩かざる得んとこはしゃあないけど、それら以外の西日本ならせいぜい半月も歩けば着けるはずなのに、水行じゃなく陸行するその意味を考えなあかんのは一緒。2023/07/20 13:35:39204.名無しさん@涙目です。g0oTh卑弥呼様芸人のQ太郎見なくなったな2023/07/20 13:54:06205.5ちょんねるHeOEo日本書紀が嘘ばかり書くからこうなる2023/07/20 14:20:28206.名無しさん@涙目です。gVoNa>>205嘘は少ないぞ、ただ他の歴史書焚書して「昔の事だからよくわかんねーわ、中国史書じゃ神功皇后っぽい人を卑弥呼とかなんか書いてあるっぽいね」ってしらばっくれてるだけだぞ2023/07/20 14:59:51207.5ちょんねるHeOEoしらばっくれる必要性、考えたことある?2023/07/20 17:18:55208.名無しさん@涙目です。z02yi邪馬台国は末盧国から2000里にあり、九州西岸のどこかから150キロの場所で確定じゃないのか?2023/07/20 17:55:34209.名無しさん@涙目です。H2Y96パチもんが横行してた説が正しい気がしてきた2023/07/20 18:33:10210.名無しさん@涙目です。QOl3c白村江の戦いで九州北部勢力のバックともいえる百済が滅んだのいいことに、邪馬台国のこともうやむやにして九州北部勢力の弱体化狙った思ってるかな。九州北部が併合されたの比較的最近で、中央以外の大和政権の国々はそんな大昔の九州北部の歴史とか良く知らんやろし。2023/07/20 19:48:38211.名無しさん@涙目です。NWb0g邪馬台国が後のヤマト王権と別の政権なのはそうなんだけどいつ征服されたかは諸説あるね、4世紀だとは思うけど2023/07/22 11:00:00212.名無しさん@涙目です。ttZOn百済、新羅、高句麗は日本の属国2023/07/22 19:16:54213.名無しさん@涙目です。KDNTA漢字を発明したのは殷王朝殷王朝を作ったのは日本人2023/07/22 20:28:06214.名無しさん@涙目です。oxeBJ呉帝王「俺は日本人だ」2023/07/23 00:50:51215.名無しさん@涙目です。Io7Nd日本人「孫権は日本人だった!」2023/07/24 16:42:58
【図星】日本人、アメリカから名指しで批判されたのがよほど悔しかったのか、バイデンの発言が間違ってるみたいな記事を書いてしまうwwwwいや、実際日本は外国人ヘイトしまくりじゃんかニュー速(嫌儲)35153.22024/05/06 03:31:34
みょうちくりんな話に惑わされず、
日本の歴史をちゃんと解明していって欲しいかな。
邪馬台国を探しています
https://talk.jp/boards/news/1688994143
女王蜂のように尻が甘かったと考えられる。
東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授 石井 好
https://zenyamaren.net/wp-content/uploads/2020/04/yamaren20-205.pdf
https://vthonda.web.fc2.com/Ancient/1c5k5.png
何とかならんのかな?
畿内説は皇族以外が日本を支配してた時代があった事が許せないからって無理矢理取ってつけた説だよね
その総力となれば古墳時代初期は大和政権以上だったんかもしれんけど。
九州北部でも畿内でもない
多すぎる戸数とかなんらかの意図をもって書かれたのが魏志倭人伝
絶対に近畿か九州だと派閥ルールあるが、最近阿波のような気がする
文献や考古学の見解で神話の物語は阿波周辺
阿波は日本書紀の編纂者のメンバーに忌部氏がいるからある程度創作も出来たと思うよ
あのデカさは誰の墓なんやろ❓
知ってる。チャイナの大昔の小西洋之みたいなのが書いた第一級行政文書に出てくる村でしょ。
ヤマト王権の祖で物部氏とか公孫氏とか?ワンチャンで大物主。
結局、観光地なんて例えば北陸の金沢みたいに歴史が浅く文化レベルが低くても、ハリボテ復元城下町の方がニワカ層にウケるのが現実だからな。
福井辺りはある意味日本より歴史古いだろうから、
記録無くとも石川県も侮ったらあかんように思うけどな。
なら古墳発掘調査やればいいだけなんだが
真実は都合悪いらしい
古代の福井や石川の歴史なんてせいぜい貝塚レベルだよw
同じ日本でも古墳や遺跡から次々と出土品が出てくる九州と文化レベルは違い過ぎる。
いろんな学者さんが太宰府近辺をボーリングしても何も出てこないorz
邪とか卑とか完全に中華の仕業
邪馬台国まで水行十日陸行一月って書いてあるんだから九州内に収まるわけないだろ
史書をちゃんと読め
誰が明確に存在するって言ってるんだよwww
アホなふりしてツッコミ待ち?
水行では雨風潮待ちでロスが発生するし陸行では前を行く人の背中が草に隠れて見えないし余裕で時間がかかりすぎる
それより南と書いてあるのに東に行くのは流石に無理じゃね
それなんよ
持ち主が消極的なだけなんやろ。
自分家の墓掘り返いしたいとか申しであっても、僕も躊躇する思うかな。
伊都国から長崎辺りまで水行十日、長崎辺りから邪馬台国まで陸行1か月。
長崎(・佐賀)以外の九州北部で特に問題なさそうかな。
公孫淵の子孫?
魏志倭人伝の記述を都合よく捻じ曲げ、無視して無理やり畿内に設定した挙げ句、
「桃の種が出たから邪馬台国だ!」とか正気か?
前方後円墳は公孫氏滅亡後から作られているので可能性はあると思う
https://i.imgur.com/wrqsslp.jpg
https://i.imgur.com/EBL7Qz2.jpg
左 修陵前 右 修陵後
それが仮に本物だとしても円墳では無いね、画像の出所は?
江戸時代くらいやったら形いじったて何処かに載ってるんちゃうかな
それって嘘の可能性あるよね
遠方の国も服従しているってするために盛った可能性は?
やまとのくにと読ませると中国から金印もらった政権の連続体になるから頑なに「やまたい」となぞの読み方をさせている
そのくせ、日本を古代の通り「やまと」と読ませず、「ニッポン」と中国語読みさせるさらなる謎
山門や山戸は九州にもありますよ
文字読めんから、何を意味する絵なんかよくわからんかな。
書いている他人が盛る必要ないやろ
それ言っちゃ全国津々浦々にヤマトという地名はある。
そう、地名をもって邪馬台国を論ずるのはナンセンスだと思うよ。そもそも邪馬台をGoogle翻訳するとシーマタイに聴こえるからね
嘘なのは水行十日陸行一月じゃなくて帯方郡から一万二千里ってところな
これは完全に洛陽から大月氏国との距離を合わせている
三国志では基本長里で書かれてるのに魏志倭人伝は九州北部までの旅程を短里で読むと辻褄が合うのかも、一万二千里という距離の嘘を短里で読むと辻褄が合うようにしておくことで言い訳ができるようにしたんだろう
そして、伊都国以降突然距離の記述が日数になるのは、九州から遠絶地のため魏の使者が邪馬台国まで行っておらず伝聞になっているから
官の名前の雰囲気が変わるのも同じ理由
九州北部〜内陸に暮らしてた集落
そこの酋長を国王だと勘違いしたんだろ
質素に暮らしてた集落だから
たいそうなものは出ないし
次の世代の国王から歴史ごと隠滅されてる
狩猟原住民から文化人になる過渡期
大陸と比べて武器も文化も遅れてた原住民は
大陸人に神だの天皇だの国王だの唆されて
交配されて人種占領されたのかもな
畿内説が正しいという事なんやな。
当時の海人族の入れ墨は溺死した時の為の認識番号だよ
海洋系縄文人の事なんじゃね?
30国もあったんなら王は卑弥呼だけじゃないじゃん
台与 とよ
それで遷都したのだろう
溺死した時には人相が変わるから顔で識別できないのよ、古代人の知恵かな。宗像族と安曇族でも入れ墨の場所が違うらしい
https://i.imgur.com/yONPgYT.jpg
まだ16だから
そういや、四国って太古においては伊予の何とかとか呼ばれてたはずやけど、
最近は阿波がやたら出張ってきてるみたいやね。
イヨもトヨも該当する国名があるから悩ましいよな
そうやと思う
支那人が上陸して最初の集落が邪馬台国やっただけ
顔にまで刺青を入れるのは魚を追い込みやすいから
支那江南地方の風習 下戸も
台与はトヨって読むのに邪馬台国がヤマトじゃないのはなんで?
https://youtu.be/ukMxeDE1pJg
中国と台湾の学者は九州説
そんなんあるわけないだろ
魏志倭人伝を読めば、たまたま上陸した集落の酋長を国王と勘違いして、そのまま報告したのではないことは明白だろ
http://www.nan-nan.jp/lib/bungo002a1.pdf
帯方郡南東
近畿ではないよな
呼子のイカは食べましたか?
唐津平野はちゃうんちゃうかな思うかな。
これが理解出来ないと話がおかしくなる
ナイスですねー
ヤマト国でしょ
つまり奈良県
日田市だろ
鉄道も寸断される水害地域だし
その両サイドの海に近いところだろう
度重なる九州北部豪雨にウンザリして
近畿の方に移ったのではないかな
奈良盆地まで行かなくても山国川から少し離れた台地(薦神社付近や八面山の麓等)に住めば洪水の被害は避ける事が出来るよ
伊都も遠い
耶馬溪は隠れ家には良い場所かもね、磐井も耶馬溪まで逃げたという伝説もあるしね
そもそもあれは日本列島の事じゃないって感じ
なんだったか朝鮮半島だか遼寧省だか
要は大陸や半島の話、それなりに説得力あったぞ
そもそも論があるから
卑弥呼は筑後川上流の
日田市に住んでいたのではないかな?
日田市は山国川の上流付近でもあるし
そして投馬国は宇佐神宮付近一帯に
あったのではないかな?
日田は天然の要塞なので女王が居城するのは相応しいかも、日田が邪馬台国なら北の宇佐中津が投馬国となりますね。
https://youtu.be/nkQA4xUXs14
日本版グレートゲームと言って過言じゃないんかもな。
1週間とかで着く道程ちゃうで。
九州に収まるじゃん
なんで修復したのにデカい木を植えるんだよ
全然違う別の古墳の絵じゃねぇの?
山戸とか山門なのかもしれないな
ヤマトと読んだとしても
山門の可能性もあるという事だよ
https://i.imgur.com/LCKT3Ic.jpg
邪魔すんなよ
魏と逆とは?
邪馬台国から見て魏は西方向
中津は東方向に海
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
だから女王国の要件は満たしていると思うが
今の宮崎県の日向、つまりヤマト朝廷の全身だった宮崎県の豪族のことだろう。
卑弥呼が存在した紀元後230年~240年頃は九州にいくつも国が別れていたと考えられる。卑弥呼の墓は当時の前方後円古墳ではなくて
直径70mの円形古墳だったと魏志倭人伝では書かれている。つまり、この頃から強大になり始めて近畿地方に攻め込んだ日向族(後の天皇家)とは墓の形が違う
よって、邪馬台国は当時は倭国の中では強国ではあったが、内乱が続いて、近畿地方をゲットした天皇家に攻められて滅亡したと考えるのが筋だろう。投馬国というのは分からないが
距離的には熊本あたりだろう
兵站とか考えてんのかな?
それとも巨大銅鐸が自然にできたとでも思ってるのか・・・
人が住むには不便すぎるからだよ
そもそも台与じゃなく壱与が正しいし
ヤマタイは漢音読み
日本の漢音は概ね中国中古音、隋唐時代の読み
邪馬台国時代、つまり三国時代は上古音で読みが違う
ヤマト?どっから来たの?その読みは
そもそも語源的には山戸(山・ヤマと入り口の意のト)が正しい
言うまでも無く大和=ヤマトは当て字だし
いわくつきの土地柄の連続やしな・・・
「大和」という文字を「ヤマト」とは、普通は読まないもんな
普通は「ダイワ」しかない
大倭は漢音でタイワ、呉音でダイワ
訓でオオヤマト、言うまでも無く訓はヤマトを後付けた読みやね
みたいに表記してるわけで
言ってみれば暴走族構文みたいなもの
「よろしく」を「夜露死苦」にしたのと同じ
大和をヤマトと読むのは「光宙」を「ピカチュウ」と読ませるようなもので
ちょっと違うんよな
「大和」という言葉を歴史書に記してたんかもな。
神代文字の多くは偽作とされている
稗田阿礼が読んだのは漢字以外で描かれてた大和政権の歴史書だろうから、
古墳時代に神代文字と呼ばれていいようなもんが存在してたはず思うかな。
案外カタカナみたいなもんだったんかもしれんが。
大和政権は漢字を古事記編纂の数百年前に、恐らくは仏教と同時期か以前に受容している
その時の呉音は漢音より前、五王時代に江南から直接取り入れた説や百済経由説がある
神代文字が漢字受容、五王以前である可能性は著しく低い
ただ、焚書が行わて人目を避けるために使用された文字ではあるかもしれない
天皇家が本来使うべき文字が漢字だと気づいたのに対し、
古墳時代は出雲族の文字使ってたんで焚書した可能性考えてるかな。
北京辺りは元々はもっと簡単な文字使ってたんかな推測するから
繁体字に何の未練もないんかな推測するかな。
出雲族の文字はそれに近かったという推測かな。
ナンタラタイカンボってとこから奇抜な呉楚文字が出てる、一応漢字らしいが
華北は戦闘民族で戦に強いが、華南の方が文化レベルが発達してて、
文字などはそっちに合わせてった可能性高いじゃないかな推測してるかな。
秦が西方紀元かな
思い出したけど馬王堆漢墓の馬王堆帛書は呉蘇じゃなく前漢の篆書・隷書だったわ
僕は戦国時代楚系文字が隷書の基本になってるとかいう説を支持してるかな。
武漢とかその周辺に行きつくんちゃうかな思ってるかな。
中国の史書に書いてある
ここまでは畿内説も否定しないんじゃないかな?
でもそこからまた九州離れて旅立っちゃうw
なんで九州北部上陸して陸進みながらまた九州離れるんだっつのw
記述通りだと邪馬台国は太平洋の海の中にあることになるとか
ちょっとアホすぎるんよ
日数行程以降「何かおかしい」と考えるべき
朝鮮から対馬
対馬から壱岐
壱岐から九州
どこも同じく千里
慣用的な表現だったんだろうってのが推測できる
海を渡るのは大変だから千里くらいってレベルなんだろうな
陸上移動に関してもすべてが百里単位
測量したわけでもないだろうし、これまでの人々の経験からおおよそそのくらいって事だろうし
人が1日歩く距離を百里として
二日でたどり着けるなら二百里とか、そんな考え方だったのかもしれない
1著者が間違えた、別の資料が混同してしまった
2投馬国以降は魏の使者は行ってない、伝聞
3日数行程は放射で読む、帯方郡→投馬国(對馬國)→邪馬台国の日数と読む
4著者が偽った、政治的理由で倭を呉のすぐ東に置きたかった
といった説がある
いや、そこの千里はだいたい距離合ってるのよ
というのは、
その歩く予定の道がどんなものかによって大きく違ってくるんよな
今でも実際に田舎の道や山道を歩けば分かるけど
舗装された道は歩きやすい
山の中の獣道のようなものは歩きにくい
藪漕ぎすれば1時間たっても数十メートルの場合もある
おせんころがし、大歩危小歩危などのように命がけの道もある
もっと具体的な例で言えば
古代に川を渡る本格的な橋はほとんど無いし、あったとしても都市部やその近隣、重要な街道のみ
土木技術が低いので平坦な道ではなくアップダウンも多いし、トンネルもない
川を渡るなら上流まで迂回し
山を越えるなら険しく舗装もされてない道とも言えないような道を歩く
海岸線を歩くとしても、岩場だと容易ではなく、高巻きすることもある
道路は直線とは限らない
直線距離で1キロでも、迂回しないといけなくて3キロ歩くこともないわけではない
こうやって考えると
記述通りだと太平洋に出るという畿内説の主張が、あまりにも浅はかだという事が分かる
マツラ国から伊都国までの距離とはどこからどこまで?
マツラ国は呼子だよ
アトランティスやムー並みの都市伝説
マツラから伊都国まで何里だった?
>>1に書いてあるけど五百、だいたい合ってない?
呼子からなら蓋然性が高い
しかし、唐津をマツラ国と比定する場合はちょっと長すぎな感じ
で、現在主流なのがどうやら唐津
当時すでに開発され整地されてたであろう唐津平野のわけない。
十中八九漁村。
伊都国奴国がほぼ確定してる以上マツロ国の場所どうでもよくない?と言ってみる
唐津をマツラ国とすると
記述通りの南東に伊都国が存在しないことになる
で、それを根拠に畿内説は方角は正しくないというこじつけで畿内に向かわせようとし始めるんよ
呼子は邪馬台国よりも前の時代から大陸への出発地だったんだから、確定しといていいと思うんよな
そう
ある程度でいいんだよ
東と記述されてるなら、大方の目安としての東であればよく、真東である必要はないんよな
畿内説はそこら辺が理解できてない
大雑把に、北東から南東の範囲であれば東でいいし
東から南までの範囲内なら南東でいいんよな
どうやって屁理屈捏ねたら九州内に収まるか必死だな
伝聞情報で、北九州から少なくとも水行二十日で投馬国、さらに水行十日陸行一月で邪馬台国なんだから、どう考えても九州島内は収まらないよ
伝聞だからこそ、里数表記ができなかったのであり、北九州から日数でこのくらいかかるよと聞いた魏の使者がそのように報告したのだろう
その距離が奈良が適当かどうかはともかく、九州からかなりの遠絶地になるのは間違いない
なんで九州に上陸して進んだの?
そもそも水行は河沿いも含める水沿いの移動だよ?
水行行程をそのまま読むんなら
内陸に進んで水行で河沿い移動だよ、そんな常識も知らないのか
収まるわな
お前、山の中の未舗装路を何日も歩くとしたら1日に何キロ歩けるつもり?
だから秦の始皇帝から、仙薬を求めて旅立った徐福は、上海より南の船山列島より出発した。
後漢から金印を遣わしたとき、金印にの上の飾りの動物は、南方を礻ウミヘビ
三国志の孫権が、倭に使いして援軍を得ようとしたのは、倭の位置をもっと南方だと信じていたから。
魏志倭人伝で、邪馬台国の場所を書いてあるが、それだと北すぎるから、上奏するときに場所をぼかして、むりやり南に持っていったんだろ。
魏志倭人伝に出てくる地名って、福岡天神で、どこ中学出身って聞いて出てくるようなローカル地名ばかり。北部九州しかありえんわ
俺もその説取ってるわ、遼東公孫氏のこともあって呉をけん制したかったんだろう
でも史書にウソを書くわけにはいかない、だからどうとでも取れるように作為した
つまり投馬國=対馬の誤記ということにした
・(奴国・不彌國から)南至投馬國水行二十日、南至邪馬壹國、水行十日・陸行一月
・帯方郡から対馬まで水行20日、対馬から邪馬台国まで水行10日、陸行1月
これで道程はだいたい合うし、呉の近海に有るようにも読める
里数表記がある国までは北部九州なのは間違いない
そこから邪馬台国は九州島内を遠く離れた遠絶地にあり
魏の使者も直接は行っていない
日田、もしくは山門・八女辺りか
まあ大体の九州説で想定される場所と合致する
良く勘違いされてる間違いだけど使者は直接女王の所まで行ってるよ
>太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王
高知、東海、信州といった歩かざる得んとこはしゃあないけど、
それら以外の西日本ならせいぜい半月も歩けば着けるはずなのに、
水行じゃなく陸行するその意味を考えなあかんのは一緒。
嘘は少ないぞ、ただ他の歴史書焚書して
「昔の事だからよくわかんねーわ、中国史書じゃ神功皇后っぽい人を卑弥呼とかなんか書いてあるっぽいね」ってしらばっくれてるだけだぞ
邪馬台国のこともうやむやにして九州北部勢力の弱体化狙った思ってるかな。
九州北部が併合されたの比較的最近で、中央以外の大和政権の国々は
そんな大昔の九州北部の歴史とか良く知らんやろし。
いつ征服されたかは諸説あるね、4世紀だとは思うけど
殷王朝を作ったのは日本人