とはいえミスチルのこの「関係」はあくまでも男女間に限られていたのに対し、2000年代になると今度は「地元」という関係性が歌に持ち込まれるようになってきます。これは三浦展さんがベストセラーとなった2005年の著書「下流社会」で、ジモティー的な価値観を解説した時期と呼応しています。そしてこのジモティ的な仲間感覚が訴えられるようになったのが、20000年代に人気となったKICK THE CAN CREWのようなヒップホップ。それまでのヒップホップが都会を舞台にしていたの対し、これ以降は地域や地元をテーマとした楽曲が増えていくのです。
「夢は地元を出てひとりで叶えるものから、地元に残り続けて仲間たちと叶えるものへと変化した。それがB'zとKICK THE CAN CREWの世界観の決定的な違いである」(同書)
最近話題の開示請求の記事でも見よか?
https://mtg60.com/archives/sekiyuta-kyusi.html
遠い思い出
タイトルは「盆栽-モダン・ジャパノロジー」。
この本の制作により、「今後の可能性」を世に問うだけでなく、「盆栽家の高齢化と後継者不足の問題」も多くの方々に認識いただけると考えます。
ちなみに、かつて日本在住時に「南国盆栽」にハマっていた時期がありまして、高精細動画で撮影していたことがありました。
その結果、沖縄の離島に土地まで所有して、愛でていた時期があります。
もし、次に盆栽にハマったら、鹿沼土から作るかもしれません。
僕の場合、「国内外問わず発信・伝えていく」以前にブレーキが必要なんです。
あっという間に「沼」にハマりますゆえ。
価格.com新製品ニュース(編集部)
ケンエレファントは、コニカミノルタよりライセンスを得て企画・製造した「コニカミノルタ ミニチュアコレクション」を発表。カプセルトイとブラインドBOXの2タイプを用意し、10月下旬より発売する。
コニカミノルタから、1975年~1992年の間に発売されたカメラ3機を、150周年を迎える記念すべき2023年にミニチュアフィギュア化。ラインアップとして、「KONICA C35 EF / Sakuracolor400 フィルム」「MINOLTA α-7000」「撮りっきりコニカMiNi / ネガフィルムセット」「撮りっきりコニカMiNi / ミニフォトアルバム」の4種類を用意する。
■「KONICA C35 EF / Sakuracolor400 フィルム」
1975年に発売されたフラッシュ内蔵コンパクトカメラ「C-35 EF」のミニチュアフィギュア。「C-35 EF」は通称「ピッカリコニカ」と呼ばれていたという。
また、付属の「Sakuracolor400 フィルム」をカメラにセットできるギミックを搭載している。
「C-35 EF」の本体サイズは4.6(幅)×2.8(高さ)×1.9(奥行)cm。「Sakuracolor400 フィルム」のサイズは0.9(幅)×1.6(高さ)cm。
■「MINOLTA α-7000」
1985年発売された世界初の実用的オートフォーカス一眼レフカメラ「α-7000」のミニチュアフィギュア。その後の一眼レフカメラの流れを一気に変えたという。ギミックとして、レンズの着脱に対応している。
本体サイズは5(幅)×3.4(高さ)×4(奥行)cm。
■「撮りっきりコニカMiNi / ネガフィルムセット」「撮りっきりコニカMiNi / ミニフォトアルバム」
1992年発売されたコニカ初のレンズ付きフィルム。パッと目を引く青いカバー部分は紙で製作し、カメラのフィギュアにかぶせるようにして組み立てているほか、のぞき窓部分は反対側までくり抜き、クリア素材をはめ込んでいるという。
また、ネガフィルムとミニフォトアルバムが付属する2種類を用意する。
「撮りっきりコニカMiNi」の本体サイズは3.9(幅)×2.2(高さ)×1.1(奥行)cm。紙袋のサイズは6(幅)×2.6(高さ)cm。ネガ(シートの状態)のサイズは5.4(幅)×4(高さ)cm。ネガを入れる袋のサイズは5.5(幅)×4.5(高さ)cm。ミニフォトアルバムのサイズは3.7(幅)×5(高さ)cm。
Ektar 100
買ったばかりで色々と掴めない状態です。とりあえずフィルム1本目
もうこれ一本あればオールドレンズ欲は満たされるんじゃないかってぐらい素晴らしいです😊
最近ジェットダイスケさんがこれに似たレンズとしてFUJINON 55mm f1.8を神レンズとして取り上げていらっしゃいました。
それ観て早速買っちゃったので、近々試してご報告しますね😊
「兄ちゃん、それええオールドレンズやろ?ワシも昔、使こてたわー!」とか言われました。
これって、そりゃMINOLTA時代のレンズやけど、まだAFなのにオールドレンズと言われると寂しく思いました(笑)
4月になれば彼女は
ってのをやるみたいです。
ニコンFMかFMと、ペンタックスSPっぽいカメラ、フイルム、現像風景が映ってました。
フイルム人気が出ないかな~?
何で佐藤健はトプコンREスーパーを使ってくれなかったんだろう?(笑)
2011年の東京公園って言う映画で、三浦春馬がコンタックス 167MTを使ってたw
Photo Rumors / by PR admin / January 28, 2024 at 08:31AM
Leo has detected a Product Launch in this article
Rayqual announced two new Deckel lens adapters (DKL mount) for Nikon Z/Leica L cameras:
Rayqual DKL-NZ for Nikon Z mount
Rayqual DKL-LA for Leica L mount
Rayqual adapters are sold at Amazon and B&H Photo.
The post Rayqual announced two new Deckel lens adapters for Nikon Z/Leica L appeared first on Photo Rumors.
達川清は、友達ではない。最初に知ったのは、大学3年か、4年、ファッション誌流行通信の前身にあたるモノクロの“流行通信”。学生の分際で、日芸の達川清と細谷秀樹がすでに活躍していた。てっきり一つ上の先輩だと思っていた。猛烈に嫉妬した。写真自体は覚えていない。
僕は、1972年カメラ毎日「アルバム」に採用されたが、その時はすでに、篠山紀信さんのアシスタントになっていた。修行時代だ。そんな時、細谷秀樹と達川清は、ファッションカメラマンとして特に活躍が目立っていた。
まだあの時代、グラビアよりファッション写真にパワーがあった。グラビア写真は篠山紀信の独断専売のようなものだったからだ。若いカメラマンの多くは、ファッション写真を目指していた。
僕は75年に独立してフリーとなった。篠山さんのところにいた3年8ケ月で、僕の写真観は解体した。当初は2年でフリーになるつもりだった。オイルショックや、セカンドアシスタントだった宮口君が外国人と結婚していたのだが、子供ができて、主夫業に専念することになり、アシスタントを急遽やめ、僕は1年フリーになるのが伸びた。26歳、まわりはどんどんプロになり活躍しているので、あせりがあった。
やめてすぐにいくつかの仕事があった。
ただ、それまでのまるでタレントのような猛烈なスケジュールで4年近く働いていたので、いっぺんにひまとなり、篠山さんのやり方は僕には通用しないことが分かった。
売り込みはまだしていなかった。
持っている作品は、スナップ写真は、売り込みに行くような写真はなかった。
写真はプロフェッショナル時代で、スナップ写真、人物もたくさん写っていたが、そういう写真は仕事用ではなかった。褒めてくれる編集者もいたが、たいていは、これまでの仕事の写真を求められた。フリーになったばかりのカメラマンに仕事の写真を見せろとは、頭がおかしいと思った。
コマーシャルフォトで日本のファッションカメラマンの大特集号が発売された。
同世代のカメラマンも、皆載っていた。沢渡さんのアシスタント(篠山さんと沢渡さんは六本木スタジオの上の同じ3階にあり、暗室と助手部屋は共有だった)の僕よりもひとつ若い杉原拓広が先にフリーになり特別号に掲載されていた。僕は猛烈に嫉妬した。
よろしくお願いします。❤️😎🔦✌️👀
運動や貧困問題のドキュメンタリー・フォトジャーナリズムの仕事で知られ
ています。 農業安全保障局プログラムのために撮影した、1940年代の貧しい
アメリカ人の象徴的な写真や、『ライフ』誌のためのフォトエッセイなど、
多くの写真シリーズを手がけるとともに、 映画『Shaft』、『Shaft's
Big Score』、半自伝的映画『The Learning Tree』を監督しています。
彼が撮影した、政府職員エラ・ワトソンのポートレート『アメリカン・ゴシック』
は、20世紀で最も有名な写真の1枚です。 1942年、二人はパークスが
ワシントンDCの農業安全保障局でローゼンワルド・フェローシップを受けた
ときに出会っています。 彼は有名人でも芸能人でもなく、母親であり労働者
である黒人女性の日常生活のさまざまなシーンを撮影します。
パークスは、この代表作でゆったりとした作業着をピンで留めた、仕事中の
ワトソン夫人のイメージを、 アメリカ国旗、労働道具とともに撮影。
見る側に家族を養うという彼女の役割の必要性と過酷さとの提示に成功しています。
本作は写真家と被写体との広範な共同作業の一環として制作され、それは首都の
階層化した人種的、職業的、経済的なヒエラルキーの中での一人の女性を位置
づけるドキュメントに仕上がっています。 またパークスのパーソナルな視点
による、人種隔離されたワシントンD.C.で暮らす現実を視覚的に見つめ直した
作品でもあります。
パークスはワトソンとの共同作業を通して、仕事のルーチンワークから家族の
食事や教会の礼拝まで、 彼女の日常的な活動に焦点を当てることで黒人生活の
親密なポートレート写真作品を作り上げます。 またワトソンという驚くほど
多次元的な人物のパーソナリティーを浮かび上がらせています。
本書は、ゴードン・パークスとエラ・ワトソンの極めて重要な一連の写真の
包括的な概観を提供するものです。 未発表を含む50点以上の画像と追加
アーカイブ資料が紹介されています。
頼りになるのはあなただけ。❤️😎✌️👌
一眼レフボディと交換レンズを接点で結び電気信号の通信でオートフォーカス(以下:AF)を行うシステムは、キヤノンの場合1985年発売の「キヤノンT80」(以下:T80)から始まった。電気接点を備えるFDマウントを採用し、標準単焦点、標準ズーム、望遠ズームの3本の専用レンズ(ACレンズと呼ばれる)が用意されていた。それまでも同社にはレンズ単体でAFを可能とする「FD 35-70mm F4 AF」(1981年発売)が市販モデルとして存在したが、T80は同社AFシステムカメラへのある意味ブレイクスルーとなったモデルと述べてよい。
「キヤノンT80」と3本のACレンズ群。カメラに装着しているのは単焦点標準レンズの「AC 50mm F1.8」、その右は標準ズームの「AC 35-70mm F3.5-4.5」、後ろは望遠ズーム「AC 75-200mm F4.5」となる。レンズ先端飾りリング内の赤いリングがACレンズの目印
ただし、ここで"ある意味"と称したのには訳がある。現在の状況を見ても明確であるように、このシステムが同社AFカメラのメインストリームとはならなかったからだ。すでに多くの読者の方はご存知だと思うが、そこにはT80発売に先駆ける2ヶ月前に登場した「ミノルタα-7000」(以下:α-7000)の存在があまりにも大きかったからである。
AF方式は、T80の場合測距に時間のかかるコントラスト方式を採用したのに対し、α-7000では測距の速い位相差方式を採用。その違いは決して小さくなく、先行して発売されたα-7000は、後発のT80を凌駕していたのだ。それは、キヤノンの開発陣は合焦精度を上げることにあまりにも注力しすぎてしまい、合焦スピードのことを忘れてしまったかのように思えるほどである。マウントも旧態然としたFDとは異なり、ミノルタはそれに合わせてまったく新しい規格としたことも当時としては先進的であった。
中央メディアではあまり取りあげられない地方の若者の実態や価値観を描きだした好著なのですが、特に面白いのが1980年代から2010年代にかけて、音楽を題材として若者たちがどう変容したかを解き明かした章。「Jポップを通して見る若者の変容」と題されています。
たとえば1980年代は、BOOWYに見られるように「大人社会への反発」という基調だったと説明されます。社会や退屈な日常に反発することが自分らしさであり、その自分らしさは「愛する女性からの承認=母性による承認によって安定的」になるものだったといいます。これは1960~70年代の「反権力」の流れが、80年代にはまだ有効だったということなのでしょう。
1990年代に入ると、こうした「反権力」の残滓は消えて行きます。その背景には、さまざまな規制緩和が進んで「地方のボス」などの権力が相対的に衰え、そもそも反抗する相手の「おとなの社会」がなくなってきたということがありました。大規模小売店舗法(大店法)が改正され、大型スーパーやショッピングモールの出店が可能になり、駅前商店街が衰退して、商店街振興組合などの「地方の小ボス」の権力も衰えました。農村からの人口流出も加速し、農協の力も同じように衰えました。もう少し後になりますが、2001年の小泉純一郎首相による郵政改革は、
地方権力の最後のひとつだった特定郵便局長会の力も終わらせます。
同書では90年代の代表的なアーティストとしてB'zをとりあげ、B'zが追求したテーマは「社会に反発することによる自分らしさの獲得が困難になった世界で、いかに生き抜くか」ということだったと指摘しています。そして生き抜くために必要なのは反権力や反発ではなく、「努力」であるという姿勢。
さらに1990年代の「生き抜く」時代には、80年代のような「女性=母性による承認」も乏しくなります。1986年に男女雇用機会均等法が施行され、90年代には女性が社会進出するようになったからです。愛もなく、仲間もおらず、将来の見通しもない。それが90年代の地方の若者の空気でした。
とはいえミスチルのこの「関係」はあくまでも男女間に限られていたのに対し、2000年代になると今度は「地元」という関係性が歌に持ち込まれるようになってきます。これは三浦展さんがベストセラーとなった2005年の著書「下流社会」で、ジモティー的な価値観を解説した時期と呼応しています。そしてこのジモティ的な仲間感覚が訴えられるようになったのが、20000年代に人気となったKICK THE CAN CREWのようなヒップホップ。それまでのヒップホップが都会を舞台にしていたの対し、これ以降は地域や地元をテーマとした楽曲が増えていくのです。
「夢は地元を出てひとりで叶えるものから、地元に残り続けて仲間たちと叶えるものへと変化した。それがB'zとKICK THE CAN CREWの世界観の決定的な違いである」(同書)
「地元」はかつては地方の小ボスたちが支配する大人の世界だったのが、地方権力の消滅によって、若者たちのものになったということが背景にあったのでしょう。その若者たちが、共同体が喪われた時代に「新たな共同体」として仲間や地元に新しい価値を見いだし始める。これは2010根年代に都会でシェアハウスが広がり、友人たちと「ともに暮らす」ことを求めはじめたことと呼応していると言えそうです。
ここまで書籍「地方にこもる若者たち」を紹介してきました。ざっくりとまとめると、1980年代までは反権力と女性=母性からの承認というのが基本的なトーン。これが90年代に入ると、女性の社会進出で女性からの承認が得られなくなる。そこで「自分ひとりで生きて行くしかない」という背水の陣を敷くのか、それともミスチル的に「女性に感謝するところからはじめよ」とフラットな男女関係を構築しようとしていくのか。そして2000年代に入ると、男女関係だけでなく、性を問わずに「仲間とともに生きていこう」
というヒップホップ的な価値観へと移行していく。
「1980年代~1990年代は、男性の家庭進出はほとんど進んでおらず、仕事を持つ既婚女性たちは家事を全面的に背負って時間をやりくりしなければならなかった。2000年頃に爆発したデパ地下ブームは、都心で働く既婚女性たちが、自宅近くのスーパーは閉店時間に間に合わないから、とデパ地下で食材や総菜を買うようになっていたことがベースにある」
これが2000年代、特に2010年代以降ぐらいになってくると、男性も料理をするのが当たり前になってきます。思い出してみると2010年ごろは「(夫が)家事を手伝う」というような文章がまだ散見されていて、これに女性たちが強く反発するというシーンがSNSなどでもよく見られました。「家事を手伝うじゃないでしょ!家事を分担するんでしょ!」と。
この2010年代というのは、今になって振り返ってみると生活文化にとってはターニングポイントになった時期だとわたしは考えています。2008年にリーマンショックがあり、2011年には東日本大震災。その前の2000年代は投資ブームがあり、勝間和代さんの著書「無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法」(2007年)がベストセラーになりました。バブル崩壊後の不況を経て、もう一度「成功」を夢みられるようになり、多くの人が外貨預金やFX投資などに血道を上げて、高級レストランに足を運んだりしていました。
しかしリーマンショックは投資熱を一気に零度にまで冷え込ませ、さらに3年後の震災が「どんなに高級車を買って大邸宅を手に入れたって、災害が起きればすべて押し流されるんだ」という厭世観さえも生みました。震災当時は「地震が起きたからといって日本社会は何も変わらない」などと言われたりしていましたが、あれから13年が経ってみると、実際には日本社会は震災を機に大きく変わったということを実感します。
その変化とは、生活文化の変化です。高級な美食、高級車、高級リゾートのようなハイブローな文化への憧れは薄れ、逆に「家族とゆったりと暮らす」「仲間たちと楽しく飲む」といったコージー(居心地の良い)文化が台頭してきたのです。2015年ごろからブームになったクラフトビールはその象徴だったと言えるでしょう。さらにこのころ登場した「ていねいな暮らし」という言葉も、この新しい都市文化と呼応しています。発酵食をつくったり、縫い物をして衣類を補修しながら着続けたり、といったスタイルです。
いやはや、正直、なかなかつらいものがある。僕の青春期に、そのような「リベラル化」がさらに進むことは夢だった。なお、今では言葉の響きが変わってしまったが、旧来的な社会秩序なり家父長制なりからのポストモダン的解放こそが、かつては「リベラルになること」として言われていた。
コピーライトに対し、コピーレフトという茶化した左派的言い方がある。ある働き手が生産性を上げるというのは、どこかの大資本にピンハネが蓄積されることを意味するわけだが、それをいっそう駆動するための手法がある意味で、左派的なシェアの思想であるというのは、以前から、現代的欺瞞としてすでに問題になっているわけだ。シェアリングエコノミーのようなもの、それが口当たりの良い理念として語られるときに、それは別段、より「皆の富」が増えることを目指しているわけではなく、結局のところどこかしらに富を集中させるために、まあ、左派的なものが利用される形になっているわけだ。
富をより分散させる方向に進むのが人類史なのかというと、どうも違うらしいと思われる——などと悲観的なことを言うと、それだけで嫌がられるかもしれないけれども、どうやら人間は結局、蓄積するし、ヒエラルキーを作ろうとするし、それぞれが自発的かつ遊動的に関わり合うような社会観より(それは非常に面倒なことなので)、大きな長いものに巻かれる形で労働するほうがラクなのだろう。そしてある時間を過ぎたら解放されて、「小人閑居して不善を為す」式に、プライベートの時間に切り替わる。結局、そういう分割が一般化している。
高校生になって本格的な思春期になるとクロームよりもブラックニコンのほうがかっこいいと言う認識になった。つまり色気づいたわけである。
高校は1クラス50人で8クラスがあったから1学年で400人。その中でニコンエフ厨を持っている高校生はどこかの建築会社の社長の息子と、大田区の天ぷら屋さんの息子とそれと私であったが私だけクローム仕上げなのは面白くない。
磯村と言う天ぷら屋さんの息子にニコンのサービスセンターを紹介してもらった。当時のニコンは日本橋の布団屋さんのビルの上にあった。それでトップカバーとボトムと全部クロームからブラックにしてもらった。その値段が7000円だったからかなりの出費である。
日本デザインセンターに入ったときに1年先輩のアシスタントがヘンテコリンなやつなのであるがびっくりしたのは彼は自分のブラックニコンカメラにヤスリをかけて偽貫禄を作っていたのである。やれやれうざっ
皆さんこんにちは。ライターのガンダーラ井上です。唐突ですが、映画の小道具でカメラが出てくるとドキッとしてしまい、俳優さんではなくカメラを凝視してしまったという経験はありませんか? 本連載『映画の中の、あのカメラ』は、タイトルどおり古今東西の映画の中に登場した“気になるカメラ”を毎回1機種取り上げ、掘り下げていくという企画です。
ダイナミックな水中撮影が盛り込まれたスパイ映画
007シリーズは、おそらく世界中の人が知っているスパイ映画シリーズ。英国諜報機関のエージェント007が容赦ない殺戮や魅力的な女性への狼藉を繰り返すことの是非論はさておき、世界の名所や海、山、空から宇宙空間まで、我々庶民が憧れる未知のロケ地はもとより、ボンドカーをはじめとする魅惑的な小道具が登場するのも見どころのひとつです。
テレンス・ヤング監督のシリーズ第4作『サンダーボール作戦』(1965)は、007シリーズとして初めて水中アクションを取り入れたことで観客の度肝を抜いた作品。主役はご存じショーン・コネリーです。
『サンダーボール作戦』のニコノス I型
原子爆弾を搭載したNATO空軍のヴァルカン爆撃機が訓練中に消息を断ち、犯罪組織スペクターは奪った原爆と引き換えに1億ポンド相当のダイヤモンドを要求(ひどいやつらだ)。そこで英国秘密情報部は原爆を奪還すべく『サンダーボール作戦』を発令(すごい名前だ)。