老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】最終更新 2026/01/10 17:391.名無CCDさん@画素いっぱいLeV7k2vw0思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっているFacebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16451023192022/02/17 21:51:59305コメント欄へ移動すべて|最新の50件256.名無CCDさん@画素いっぱいHYVx0ワロタ2025/09/15 02:55:38257.名無CCDさん@画素いっぱいmfpD6https://i.imgur.com/PO4YLcE.jpeg2025/09/15 11:58:42258.名無CCDさん@画素いっぱい0dTfZウォーカーエバンスのブラックコンタックスウォーカーエバンスはストレートフォトグラフィーの巨匠であって、自分の使うカメラにはこだわらないと言う先入観があった。ところが全くそうではなくて、我々と同じカメラ好きなカメラ人類であることがわかったのは、数年前にライカオークションに出品された手塗りのコンタックスである。1936年に自分でペイントしたもののようで、それは有名なニューヨークの地下鉄シリーズの人物のスナップショットに使われた。彼の日記を見ていると、自分でコンタックスをブラックにペイントしたと言う下りは無いけれども、撮影で9フィートと10フィートにピントを合わせるのに苦労したと言う件は、まさしくマンハッタンのメトロを撮影しているときの向かいの座席に座っている人の撮影距離なのである。ウォーカーエヴァンスのハンドメイドのブラックコンタックスは既にペイントが全部剥がれ落ちてしまっている。今の時代ならこういうちゃんとしたりペイントもあるからそういうのを大写真家に使ってもらいたかった。2025/09/18 07:41:43259.名無CCDさん@画素いっぱいZNm9r尊敬する写真家の高梨さんがいつも使っていた。腕時計がオメガのスピードマスターである。それで最初はオメガに憧れたのだが、そのうちにロレックスのブームが来たので、私はそちらのほうに乗り換えた。GMTである。2025/09/19 08:57:11260.名無CCDさん@画素いっぱいeOJWAフェルメールと一緒に暮らす日本では10年にいっぺんぐらいフェルメールが商売にやってくるのが私には不愉快である。20年位前だと思うけれど、大手の出版社の偉い人が大阪までフェルメールを見に行ったときの話がすごい。飛行機で大阪まで行って慌てて会場に駆け込んだら人の頭しか見えなかったと言う自慢話なのである。モナリザを見るのに何時間待ったとか、パンダを見るのに何時間待ったと言うような苦労の地盤話は話している方は自慢なのであろうが、効いている方はすごいストレスになる。フェルメールの仕事を訪ねて、ヨーロッパの南の方から北のほうまで美術館を取材で巡ったことがあったが、これは面白い体験だった。1番近くで見られる。フェルメールと言えば、私の場合はウィンディー長く暮らしていたから、ウィンド美術館のフェルメールの木の絵画が1番身近である。フェルメールの木の粥川中心のギャラリーからちょっと外れた。狭い部屋にあるので、ツーリストの人はまず気がつかない。それでふかふかのベンチがあるから、win暮らしの時は今日は暇でやることがないから、フェルメールでも見に行くかと言うことになって、1日中フェルメールの前にいるのは退屈だから、せいぜい2時間ぐらいなものである。言い換えれば、フェルメールは私の所有物である。年間のミュージアムのパスを持っているから、行きたい時に行ってフェルメールを自分の目で鑑賞すると言うのはなかなかヨーロッパは文化的である。日本のフェルメールは何しろ金儲けの商売で来るわけだからね。。2025/09/20 16:53:35261.名無CCDさん@画素いっぱいWg5tZ東ベルリンを撮影した隠しカメラアメリカシカゴの映画、撮影機メーカー、ベル&ハウエルは、世界で最も有名なメーカーの1つであった。日本のテレビジョン放送が初期の頃はそこで使われたSpring Day手巻きで取る小型軽量なベル&ハウエルのフェルモと言う16ミリ撮影機が報道関係で最も使われていたのである。2025/09/22 01:37:50263.名無CCDさん@画素いっぱいJbdbLプラハの大きな手ビロード革命が終わってから、プラハの街の路面電車はラッピング広告がほとんどになってしまった。ところがそれから15年ぐらい経過すると、路面電車のラッピング広告が減少してきた。2025/09/25 09:22:16264.名無CCDさん@画素いっぱいEzIsPワイン、酒場のランタンに惹かれる、私ウィーンと言う街はやはりワインの街だと思う。英文綴りで真ん中の文字を入れ替えるとウィーンもワインも同じ文字の構成になるから、そこら辺を面白がっている私である。2025/09/26 04:42:26265.名無CCDさん@画素いっぱいc1wCJ月の裏側みたいな感じのライカファインダーが付いていない。ライカと言うものが大昔から一定の需要があったものと見える。顕微鏡撮影とかそういう科学的デバイスで使うときにはレンジファインダーは入らないわけだ。2025/09/28 03:42:43266.名無CCDさん@画素いっぱい7TQht谷口雅がFacebookをやっていると言うので、アクセスして友達申請をした。それで友達になるのには何ヶ月もかかった。谷口のフォローしている人の数、は100数十人であるから、少数精鋭主義なのである。しかも誰が友人であるかと言うことを明確にしていないのは、ちょっと秘密主義で私などは批判しているのである。そんな狭い人間関係だなどと批判する人はいるはずもない。2025/10/03 10:08:45267.名無CCDさん@画素いっぱいikgr9瓶フレックスがロープロファイル戦後になって、フランスのエクレールから登場したドキュメンタリー撮影に特化した16ミリと35ミリのフォーマットが瞬時に切り替えられるマルチフォーマットのユニバーサルな撮影機がこのカメラであった。2025/10/07 06:25:10268.名無CCDさん@画素いっぱいZznN7菊正宗の看板佃島に暮らし始めた。1990年頃であるが、行きつけの飲み屋というのがあって、かなり大きなお店であったが、清澄通りに面した東側にあった。その店で私が惹かれたのはこれと同じ巨大な看板なのである。2025/10/09 06:43:32269.名無CCDさん@画素いっぱいbksd2キエフカメラで慎重にピントを合わすウィーンに暮らし始めて直後の事だから私が26で家人が28位のときの話。カメラ屋さんで半信半疑で買ってきた。ソ連製のコンタックスが実際にはかなり使えるカメラであると言うことをした直後のことである。2025/10/10 06:47:04270.名無CCDさん@画素いっぱいq9CnKブラックロードにカスタムメイドのケース鵠沼のブレッソンと言う人は、私のフォトコンテストに応募して結構いい成績を上げた人である。鵠沼に住んでいて、スナップがうまいので、鵠沼のブレッソンと命名した。2025/10/11 06:11:40271.名無CCDさん@画素いっぱいq9CnKこういう現代建築が大嫌い最近の現代建築で嫌いなのが、これは私が世界中の建築を見てきた。反動からそのように感じるのはわかっているが、柱がまっすぐしてないとか、垂直が破壊されているのが大嫌い。2025/10/11 12:56:52272.名無CCDさん@画素いっぱいVJLNFiPhoneを持っている人と持っていない人ウィーンのいつも歩いている通りの小さな劇場の脇に立っている女性の銅像である。どういう功績で銅像になったのかは知らないけど、本人にとっては迷惑なことであろう。2025/10/13 09:04:57273.名無CCDさん@画素いっぱいmyOTIオペルの広告が、存在感を増す理由ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。2025/10/17 09:44:29274.名無CCDさん@画素いっぱいmyOTIオペルの広告が、存在感を増す理由ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。2025/10/17 09:44:40275.名無CCDさん@画素いっぱいHEgvk銀座ミキモトのラッピングビル東京を本格的に撮影を開始したのは、1968年だから大学の3年生だった。日大闘争変わっていくか歴代の写真可愛く見え呆れているものだったので、私は日大以外のところの尊敬する写真家のところに行って写真を見てもらったりしたのである。これが私にとってはその後のチャンスにつながったのであった。2025/10/20 07:38:44276.名無CCDさん@画素いっぱいumZU4宝物のコンポートグラスウィーンに到着して友人に教えてもらった古道具屋さんというのがすごかった。ウィーンの中心部にあるアンティークのお店がそこに買い出しに来るのである。友人に教えてもらったのは、単純な理由でお年寄りがなくなるとそれまで使っていた。なかなか価値のあるものが丸ごとどっさりそのお店に出るからだと言う。Makofskiと言う名前のお店だったな。2025/10/25 12:21:03277.名無CCDさん@画素いっぱいHDnYcベトナムで最も有名な歴史遺産ディエンビエンフーベトナムと言う国は、長年にわたってフランスに占領されていたが、1950年代のディエンビエンフーの戦いで、徹底的にフランスに対してベトナムが有利になった。2025/10/31 10:44:07278.名無CCDさん@画素いっぱいhNKt61967年だったかな?東京カテドラルでの吉田茂の葬儀吉田茂は好きでも嫌いでもないが、吉田健一は大好きである。吉田茂は会った事はないが、内田100件が多い。そのお宅にお邪魔してかしこまっている写真が残っている。2025/11/02 10:09:50279.名無CCDさん@画素いっぱいYgcMkウィリアムクラインのユニコンS3ウィリアムクラインが写真集東京のために来日たのが1957年で朝日カメラに小さなマッチバック大の記事と小さな写真が出ていた。奥さんと一緒に日本庭園を歩いているところで、私には完全な外人さんに見えた。ウィリアムクラインが首から下げていたのがこのカメラである。それから何十年後かにプラハで会って、数日間一緒に行動していろいろな話を聞いた。彼が最も対応している。レンズは28ミリなのである。21ミリでもないし、35ミリでもないと言うところに興味がある。2025/11/05 09:34:41280.名無CCDさん@画素いっぱいQIIBgガラクタ屋さんが毎日更新している。ブログに注目ガラクタや2代目さんのブログが面白いので毎日見ている。ガラクタ屋さんがブログを始めたときに、私がサジェスチョンして、ブログは毎日続けるのがベストですよと言った。それで2代目さんは毎日ブログを新しくしている。それで私にとってこれはガラクタ屋さんの在庫情報みたいなつもりでいるから面白い。カメラが登場するとそれが売り物だと思って問い合わせて、まだ売れ残っていると走って買いに行ったりするのである。キャノンフレックスと言うカメラは、初期の一眼レフの良いところを凝縮したような好きなカメラだ。それで最近びっくりしたのは、そのキャノンフレックスにカメラフォルダーと言うものが存在していることを初めて知った。同じ時期にニコンでは、カメラホルダーと言うものを一切作っていないが、キャノンと言うメーカーは、会社の内部にカメラフォルダーフェチの人がいたものと思われる。それで今までガラクタ屋さんで、複数のレンジファインダー用のカメラホルダーを手に入れた。実際に使うわけではなくて、そのつやつやした非常に上質な仕上げとさらにそれが入っている。レザーケースが非常に高級なのである。ものとして所有していたいと言う気分にさせられる。それで昨日のことであるが、キャノンフレックスにカメラホルダーが作られていたと言うことを初めてこの画像で知ったのである。キャノンフレックスは結構持っているのであるが、レンジファインダーにはカメラホルダーがあると思っていて、一眼レフにもあると言うことを知らなかった。キャノンフレックスのアクセサリーで、やはり非常に登場頻度が低いのが交換式の垂直ループである。これはネットオークションで1度しか見たことがないが、カメラホルダーは1度も見たことがない。それで慌てて2代目さんにもし売り物でまだあるのなら欲しいと言ったら、すぐ返事が来て、それはお客さんカメラであると言う。10年以上前銀座の松屋デパートなどで、中古カメラ市のときに私の本のサイン会があった。そこで来るお客さんは私の本にサインをもらうと言うよりも、彼らの持っているカメラを私に見せて、そこで批評をもらいたいのである。それが私もわかっているから、お客さんの持ってきたカメラを真面目に批判したり持ち上げたりした。私は最近はサイン会をやらないから、2代目さんが、それと同じ役割を社会的に果たしていると言うことになる。2025/11/07 16:00:41281.名無CCDさん@画素いっぱいhZDX7アエロフロートのグラスで、ウォッカをいっぱいまだクレムリンに赤旗が翻っていた時代の話だが、成田からイリューシン62でモスクワに向かう飛行機のエコノミークラスの最初の7列は、シートピッチがちょっと広いのである。これには理由があって、共産党の党員のためのエコノミークラスであったと。2025/11/09 15:50:02282.名無CCDさん@画素いっぱいVujEg多摩川住宅で漫画家のつげさんに会うウィーンから戻ってきて、しばらくの間多摩川沿いの多摩川住宅に住んでいた。ウィーンにいた時は目の前がドナウ運河であったから、何か水野側に関係があると言うので、我ながら納得していたのである。2025/11/11 08:18:54283.名無CCDさん@画素いっぱいVDs0z何故わざわざ中古カメラ市のイベントで、こんな人のサインやトークショーに嬉々として足を運んだのだろうか。今となっては甚だ謎だ。2025/11/15 10:23:38284.名無CCDさん@画素いっぱいJwYRdブラックライトで照らすとフローライトが光るFacebook友達から教えてもらいました。私が50年以上使っているソ連製のレンズジュピター50ミリですが、これが蛍石で作られているので、ブラックライトを当てるとこのように光るのです。プラハのカメラ屋さんで500円で買ったレンズに高価なフローライトが使われていると言うのはびっくりですが、私はレンズの素材には興味を持っていません。半世紀以上前にペンタックスとかキャノンが300ミリクラスのレンズでフローライトが入っていると言う謳い文句でやったら、高いレンズを売り出したことがあります。フローライトが入っていると言うのは、単に販売する方で付加価値がつくと言うことのようです。でも、ブラックライトを当ててレンズが光ると言うのは、レンズ遊びとしては結構楽しいことです。2025/11/16 08:45:57285.名無CCDさん@画素いっぱいHDOM3そんなある日、知人の Ogashin君が、「これライカだよ」と古びたカメラを自慢げに見せてくれました。初めて見るライカ(バルナックタイプ)で機種など全く分かりませんでしたが、完動品とのこと。どんなに古いライカでも修理が可能だと聞くと、さすがドイツ物、日本物みたいな使い捨てカメラとは訳が違うと妙に感心し、忘れかけていたカメラへの情熱が蘇って来るのを感じました。まさしく金属カメラの感触で、これこそ本物のカメラだ!そう思うと居ても立っても居られなくなりました……。何でもいいから安いものをと、早速買ったのがライカIIIcでした。小遣いの範囲内で買えてしまいましたが、後から聞いた話ですと、昔、IIIcを売ってそのお金で名古屋のど真中にあった店(ちなみにカメラ店)を買った人がいたそうです。ライカとはそういう神話的なカメラなのですね。2025/11/16 23:48:31286.名無CCDさん@画素いっぱい2GEsOベストアルパを探すスイスの時計工業の部品メーカーピニオンが1947年に発売したアルパカメラはトータルで50,000台弱が製造された。1970年代の生産終了までに、すべてのモデルデコ万代弱と言うのだから非常に少ないボリュームである。3つのスタイルのジェネレーションに分かれるが、その2番目の世代のデザインがアルネアに代表される、斜め45度から覗けるプリズムのついたこのシリーズである。私は変わり者なので、こういうプロ写真家が誰も使っていないようなカメラで雑誌の連載をやったりしていたが、非常に使いやすいカメラである。最もこれは私がこのカメラに慣れているだけの話で、一般的には全く使いにくいモデルだと思う。この時代のアルパカメラの褒め言葉として、スイス国鉄の電気機関車のようなと言うのがいつもの形容詞である。実際私初めてスイスを訪問した。1973年には、こんなスタイルの電気機関車がスイスで走っていたのだ。2025/11/24 09:53:03287.名無CCDさん@画素いっぱいJZgW3ウォーカーエバンス1939アメリカの農業保全局の仕事ウォーカーエバンスのメインの仕事と言うと最初にハバナからスタートしてハバナの撮影を依頼した人間はハバナを政治的に弾圧すると言う目的が背後にあったらしいが写真と言うものはそーゆー政治的なプロパガンダ以外のところで後の時代に残ると言うことを証明したわけである。2025/12/06 13:14:22288.名無CCDさん@画素いっぱいsZmJzベストなカメラはどっちだ?リンホフカメラは1970年に使い始めて3年間使い続けたから、暗闇でも操作できる。一方のスピードグラフィックは40歳の時にミシガン州を旅行していたのだが、ミシガン州の北のほうにある。783で40ドルで買った。それでこのカメラの良さを最初に理解したのである。2025/12/08 14:54:42289.名無CCDさん@画素いっぱいKK2ADウォーカーエバンスの作品の中で、おそらく最も有名な1枚天才荒木は1976年にヨーロッパを巡回する写真展で参加してもらったから、私の最初の彼との面識は1976と言うことになる。私が29歳で彼は7歳年上のはずだから、36歳であった。2025/12/10 09:07:26290.名無CCDさん@画素いっぱいfGw6Bポラロイドがウォーカーエバンスの生活のレベルを高めた。ウォーカーエバンスは晩年にかけてポラロイドSX 72であった。それまでの彼の写真の理論とは全く異なる写真表現の方法に可能性を感じた。写真家はSX 70で膨大な撮影をした。3000枚の作品が残っている。その新しい写真表現と言うのは、写真家個人の視点を超えて写真家と、その周囲のコミュニケーションのやりとりそのものが新しい写真であると言う方向。ポラロイド写真は1点ものであって、エディションがないから、15年ほど前にギャラリーバウハウスの展示でも、1点しかないと言うので、展示した作品が奪い合いになったことあり。2025/12/13 21:33:27291.名無CCDさん@画素いっぱいFhznQwin 1973走る少女1970年代にウィーンを撮影したモノクロネガと言うのは2000本ぐらいあるから膨大な数なのであるが、その中で記憶に残る少年もしくは少女が走っていると言うショットは実にこれ1つだけなのである。2025/12/14 07:31:27292.名無CCDさん@画素いっぱいAal8Hイタリアのガリレオが作った。馬鹿な双眼鏡。イタリアのガリレオと言う会社はなかなかいい線で作っているので、長年尊敬しているのであるが、20年位前に手に入れたこの双眼鏡を見て、その価値がいっきょに落ちてしまった。2025/12/16 08:44:14293.名無CCDさん@画素いっぱいML3ye13番の2階建てバスの窓から見た光景今はもう存在しないが、1970年代にはウィーンの13番のバス路線で2階建てのバスというのが走っていて、その2階の1番前の席からの眺めがエキセントリックでスリリングなので、私も地元の小学生と、その石を競走で取ったりしたものであった。2025/12/20 01:12:40294.名無CCDさん@画素いっぱいieb6Eウォーカーエバンスマンハッタンアッパーイーストサイド1938写真家として本格的な活動を開始したウォーカーエバンスが1930年代後半に住んでいたのがマンハッタンのアッパーイーストサイドである。2025/12/20 15:00:02295.名無CCDさん@画素いっぱいvWOd4ウォーカーエバンスが撮影したロバートフランクの家のストーブ知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。2025/12/22 11:33:10296.名無CCDさん@画素いっぱいYozsnウォーカーエバンスが撮影したロバートフランクの家のストーブ知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。2025/12/23 17:10:59297.名無CCDさん@画素いっぱい0BlE4ウォーカーエバンス。1930年代の自動車修理工場がすごいウォーカーエバンスがアメリカ農業保全局の仕事で1930年代の終わりに幅広くdeepサウスを旅行したときのワンショット。2025/12/24 00:56:14298.名無CCDさん@画素いっぱいI9vCvアパートメントの非常に危険な作業ウィーンに暮らした8年間はアパートメントの2階に住んでいた。すぐ目の前がドナウ運河だった2025/12/26 02:07:31299.名無CCDさん@画素いっぱいgDbwR裸の天使20251226Josef Sudek生誕百年記念の写真展のカタログから2025/12/27 09:04:04300.名無CCDさん@画素いっぱいVo2jcカメラ操作の楽しみはハンドグリップにある。物心ついた10歳の頃からカメラのハンドグリップの研究をしている。60年近くハンドグリップを勉強していて、最近わかった事は画面の右に写っている。ロードカメラのハンドグリップがベストの太さであると言う事。左に見えるキャノンのハンドグリップは一般的なサイズであるが、細すぎて撮影にはストレスがかかる。2025/12/30 06:47:16301.名無CCDさん@画素いっぱいnwU77佃島の朝 あけましておめでとうございます古美術を扱うお店のオーナーが言っていたが、商売をするには日当たりの良い方向のお店ではダメであると言う。素人が考えても当然のことで商品が日に焼けてしまうから、だめな事は間違いないと思う。2026/01/01 08:21:49302.名無CCDさん@画素いっぱいqsYPb1973年のカメラと2026年のカメラ1973年頃に単なる思いつきで、ウィーンのアパートメントの床の上に使っている。カメラを全部並べて撮影したのがこれである。今見ると上のアパートの床はなかなか作りがよろしいな。2026/01/03 09:39:54303.名無CCDさん@画素いっぱいywsDt飛行船の宣伝効果は、ゼロであると断言できる理由ツェッペリン飛行船の発祥の地である南ドイツのフリードリヒスハーフェンに取材に行ったことがある。2026/01/08 13:22:02304.名無CCDさん@画素いっぱいCKyARフェルナンドペソアと私のリスボンリスボンでフェルナンドペソに最初に出会ったのは、1980年の秋だった。フェルナンドペソはなんて知らなかったけど、少しはポルトガル語を勉強しようと思って、中心部のエレベーターのすぐ隣にある用紙屋さんで、リスボンガイドブックの英語とポルトガル語が大役になっているのを買った。それがペソアのガイドブックであった。一生の間に数少ない出版をした介護最初のパブリックな出版物がデスウォン案内であったと言うのは皮肉である。自分の文学の手初めにリスボンのガイドブックを書いたとなると天才だと思うけど、実際にはごく普通の同期でヨーロッパのどこにあるのか外国には知られていないリスボンと言う小さな街を外国に紹介するためだった。フェルナンド・ペソアは、幼少の頃に、南アフリカのダーバンで暮らしていたから、英語のネイティブスピーカーでもある。ペースの長い長い小説のイントロダクションで、彼自身の自己紹介をするときに、リスボンの裏町の小さなレストランの2階で、毎晩黙って食事をとっている。目立たない男と言うのは、彼自身として登場する。私がいつも宿泊していた小さなホテルはフェルナンドが眺望をつけていた。仕事場の近くだったから、1種の思い込みで偉大な文学者はここで食事をしていたのではないかと言う思い込みでディナーを楽しんだ。その店は今までも存在する。2026/01/09 08:39:34305.名無CCDさん@画素いっぱいZAsws「明日から3連休だぁ」と思いながらあったかい所でお酒をちょこっと飲んで寝て朝6時頃起きて「今日は起きなくていいんだぁ」と二度寝してあったかい布団でゴロゴロして「あー、そろそろ起きたい!」と思ってぐーんと背伸びして起きる。体調が良い。あー幸せ。2026/01/10 17:39:39
【世論調査・高市内閣高支持率】羽鳥慎一モーニングショーの石原良純&玉川徹氏が困惑 「何なんだろうか? どういうことで高支持率が出ているのか、わかんない」ニュース速報+3961854.22026/01/12 16:37:23
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている
Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている
ウォーカーエバンスはストレートフォトグラフィーの巨匠であって、自分の使うカメラにはこだわらないと言う先入観があった。
ところが全くそうではなくて、我々と同じカメラ好きなカメラ人類であることがわかったのは、数年前にライカオークションに出品された手塗りのコンタックスである。
1936年に自分でペイントしたもののようで、それは有名なニューヨークの地下鉄シリーズの人物のスナップショットに使われた。
彼の日記を見ていると、自分でコンタックスをブラックにペイントしたと言う下りは無いけれども、撮影で9フィートと10フィートにピントを合わせるのに苦労したと言う件は、まさしくマンハッタンのメトロを撮影しているときの向かいの座席に座っている人の撮影距離なのである。
ウォーカーエヴァンスのハンドメイドのブラックコンタックスは既にペイントが全部剥がれ落ちてしまっている。今の時代ならこういうちゃんとしたりペイントもあるからそういうのを大写真家に使ってもらいたかった。
日本では10年にいっぺんぐらいフェルメールが商売にやってくるのが私には不愉快である。
20年位前だと思うけれど、大手の出版社の偉い人が大阪までフェルメールを見に行ったときの話がすごい。飛行機で大阪まで行って慌てて会場に駆け込んだら人の頭しか見えなかったと言う自慢話なのである。
モナリザを見るのに何時間待ったとか、パンダを見るのに何時間待ったと言うような苦労の地盤話は話している方は自慢なのであろうが、効いている方はすごいストレスになる。
フェルメールの仕事を訪ねて、ヨーロッパの南の方から北のほうまで美術館を取材で巡ったことがあったが、これは面白い体験だった。1番近くで見られる。フェルメールと言えば、私の場合はウィンディー長く暮らしていたから、ウィンド美術館のフェルメールの木の絵画が1番身近である。
フェルメールの木の粥川中心のギャラリーからちょっと外れた。狭い部屋にあるので、ツーリストの人はまず気がつかない。それでふかふかのベンチがあるから、win暮らしの時は今日は暇でやることがないから、フェルメールでも見に行くかと言うことになって、1日中フェルメールの前にいるのは退屈だから、せいぜい2時間ぐらいなものである。
言い換えれば、フェルメールは私の所有物である。年間のミュージアムのパスを持っているから、行きたい時に行ってフェルメールを自分の目で鑑賞すると言うのはなかなかヨーロッパは文化的である。日本のフェルメールは何しろ金儲けの商売で来るわけだからね。。
アメリカシカゴの映画、撮影機メーカー、ベル&ハウエルは、世界で最も有名なメーカーの1つであった。日本のテレビジョン放送が初期の頃はそこで使われたSpring Day手巻きで取る小型軽量なベル&ハウエルのフェルモと言う16ミリ撮影機が報道関係で最も使われていたのである。
ビロード革命が終わってから、プラハの街の路面電車はラッピング広告がほとんどになってしまった。ところがそれから15年ぐらい経過すると、路面電車のラッピング広告が減少してきた。
ウィーンと言う街はやはりワインの街だと思う。英文綴りで真ん中の文字を入れ替えるとウィーンもワインも同じ文字の構成になるから、そこら辺を面白がっている私である。
ファインダーが付いていない。ライカと言うものが大昔から一定の需要があったものと見える。顕微鏡撮影とかそういう科学的デバイスで使うときにはレンジファインダーは入らないわけだ。
戦後になって、フランスのエクレールから登場したドキュメンタリー撮影に特化した16ミリと35ミリのフォーマットが瞬時に切り替えられるマルチフォーマットのユニバーサルな撮影機がこのカメラであった。
佃島に暮らし始めた。1990年頃であるが、行きつけの飲み屋というのがあって、かなり大きなお店であったが、清澄通りに面した東側にあった。その店で私が惹かれたのはこれと同じ巨大な看板なのである。
ウィーンに暮らし始めて直後の事だから私が26で家人が28位のときの話。カメラ屋さんで半信半疑で買ってきた。ソ連製のコンタックスが実際にはかなり使えるカメラであると言うことをした直後のことである。
鵠沼のブレッソンと言う人は、私のフォトコンテストに応募して結構いい成績を上げた人である。鵠沼に住んでいて、スナップがうまいので、鵠沼のブレッソンと命名した。
最近の現代建築で嫌いなのが、これは私が世界中の建築を見てきた。反動からそのように感じるのはわかっているが、柱がまっすぐしてないとか、垂直が破壊されているのが大嫌い。
ウィーンのいつも歩いている通りの小さな劇場の脇に立っている女性の銅像である。どういう功績で銅像になったのかは知らないけど、本人にとっては迷惑なことであろう。
ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。
ウィーンの北部にあるハイリゲンシュタットと言う村は、ベートーベンの衣装で有名であるが、私が暮らしていた50年前は赤い電車の北の終点であった。要するに、完全なカントリーなのである。
東京を本格的に撮影を開始したのは、1968年だから大学の3年生だった。日大闘争変わっていくか歴代の写真可愛く見え呆れているものだったので、私は日大以外のところの尊敬する写真家のところに行って写真を見てもらったりしたのである。これが私にとってはその後のチャンスにつながったのであった。
ウィーンに到着して友人に教えてもらった古道具屋さんというのがすごかった。ウィーンの中心部にあるアンティークのお店がそこに買い出しに来るのである。友人に教えてもらったのは、単純な理由でお年寄りがなくなるとそれまで使っていた。なかなか価値のあるものが丸ごとどっさりそのお店に出るからだと言う。
Makofskiと言う名前のお店だったな。
ベトナムと言う国は、長年にわたってフランスに占領されていたが、1950年代のディエンビエンフーの戦いで、徹底的にフランスに対してベトナムが有利になった。
吉田茂は好きでも嫌いでもないが、吉田健一は大好きである。吉田茂は会った事はないが、内田100件が多い。そのお宅にお邪魔してかしこまっている写真が残っている。
ウィリアムクラインが写真集東京のために来日たのが1957年で朝日カメラに小さなマッチバック大の記事と小さな写真が出ていた。
奥さんと一緒に日本庭園を歩いているところで、私には完全な外人さんに見えた。
ウィリアムクラインが首から下げていたのがこのカメラである。それから何十年後かにプラハで会って、数日間一緒に行動していろいろな話を聞いた。彼が最も対応している。レンズは28ミリなのである。21ミリでもないし、35ミリでもないと言うところに興味がある。
ガラクタや2代目さんのブログが面白いので毎日見ている。
ガラクタ屋さんがブログを始めたときに、私がサジェスチョンして、ブログは毎日続けるのがベストですよと言った。
それで2代目さんは毎日ブログを新しくしている。それで私にとってこれはガラクタ屋さんの在庫情報みたいなつもりでいるから面白い。カメラが登場するとそれが売り物だと思って問い合わせて、まだ売れ残っていると走って買いに行ったりするのである。
キャノンフレックスと言うカメラは、初期の一眼レフの良いところを凝縮したような好きなカメラだ。それで最近びっくりしたのは、そのキャノンフレックスにカメラフォルダーと言うものが存在していることを初めて知った。
同じ時期にニコンでは、カメラホルダーと言うものを一切作っていないが、キャノンと言うメーカーは、会社の内部にカメラフォルダーフェチの人がいたものと思われる。
それで今までガラクタ屋さんで、複数のレンジファインダー用のカメラホルダーを手に入れた。実際に使うわけではなくて、そのつやつやした非常に上質な仕上げとさらにそれが入っている。レザーケースが非常に高級なのである。ものとして所有していたいと言う気分にさせられる。
それで昨日のことであるが、キャノンフレックスにカメラホルダーが作られていたと言うことを初めてこの画像で知ったのである。キャノンフレックスは結構持っているのであるが、レンジファインダーにはカメラホルダーがあると思っていて、一眼レフにもあると言うことを知らなかった。
キャノンフレックスのアクセサリーで、やはり非常に登場頻度が低いのが交換式の垂直ループである。これはネットオークションで1度しか見たことがないが、カメラホルダーは1度も見たことがない。
それで慌てて2代目さんにもし売り物でまだあるのなら欲しいと言ったら、すぐ返事が来て、それはお客さんカメラであると言う。
10年以上前銀座の松屋デパートなどで、中古カメラ市のときに私の本のサイン会があった。そこで来るお客さんは私の本にサインをもらうと言うよりも、彼らの持っているカメラを私に見せて、そこで批評をもらいたいのである。それが私もわかっているから、お客さんの持ってきたカメラを真面目に批判したり持ち上げたりした。
私は最近はサイン会をやらないから、2代目さんが、それと同じ役割を社会的に果たしていると言うことになる。
まだクレムリンに赤旗が翻っていた時代の話だが、成田からイリューシン62でモスクワに向かう飛行機のエコノミークラスの最初の7列は、シートピッチがちょっと広いのである。これには理由があって、共産党の党員のためのエコノミークラスであったと。
ウィーンから戻ってきて、しばらくの間多摩川沿いの多摩川住宅に住んでいた。ウィーンにいた時は目の前がドナウ運河であったから、何か水野側に関係があると言うので、我ながら納得していたのである。
Facebook友達から教えてもらいました。私が50年以上使っているソ連製のレンズジュピター50ミリですが、これが蛍石で作られているので、ブラックライトを当てるとこのように光るのです。
プラハのカメラ屋さんで500円で買ったレンズに高価なフローライトが使われていると言うのはびっくりですが、私はレンズの素材には興味を持っていません。
半世紀以上前にペンタックスとかキャノンが300ミリクラスのレンズでフローライトが入っていると言う謳い文句でやったら、高いレンズを売り出したことがあります。
フローライトが入っていると言うのは、単に販売する方で付加価値がつくと言うことのようです。
でも、ブラックライトを当ててレンズが光ると言うのは、レンズ遊びとしては結構楽しいことです。
スイスの時計工業の部品メーカーピニオンが1947年に発売したアルパカメラはトータルで50,000台弱が製造された。
1970年代の生産終了までに、すべてのモデルデコ万代弱と言うのだから非常に少ないボリュームである。
3つのスタイルのジェネレーションに分かれるが、その2番目の世代のデザインがアルネアに代表される、斜め45度から覗けるプリズムのついたこのシリーズである。
私は変わり者なので、こういうプロ写真家が誰も使っていないようなカメラで雑誌の連載をやったりしていたが、非常に使いやすいカメラである。最もこれは私がこのカメラに慣れているだけの話で、一般的には全く使いにくいモデルだと思う。
この時代のアルパカメラの褒め言葉として、スイス国鉄の電気機関車のようなと言うのがいつもの形容詞である。
実際私初めてスイスを訪問した。1973年には、こんなスタイルの電気機関車がスイスで走っていたのだ。
ウォーカーエバンスのメインの仕事と言うと最初にハバナからスタートしてハバナの撮影を依頼した人間はハバナを政治的に弾圧すると言う目的が背後にあったらしいが写真と言うものはそーゆー政治的なプロパガンダ以外のところで後の時代に残ると言うことを証明したわけである。
リンホフカメラは1970年に使い始めて3年間使い続けたから、暗闇でも操作できる。一方のスピードグラフィックは40歳の時にミシガン州を旅行していたのだが、ミシガン州の北のほうにある。783で40ドルで買った。それでこのカメラの良さを最初に理解したのである。
天才荒木は1976年にヨーロッパを巡回する写真展で参加してもらったから、私の最初の彼との面識は1976と言うことになる。私が29歳で彼は7歳年上のはずだから、36歳であった。
ウォーカーエバンスは晩年にかけてポラロイドSX 72であった。
それまでの彼の写真の理論とは全く異なる写真表現の方法に可能性を感じた。写真家はSX 70で膨大な撮影をした。3000枚の作品が残っている。
その新しい写真表現と言うのは、写真家個人の視点を超えて写真家と、その周囲のコミュニケーションのやりとりそのものが新しい写真であると言う方向。
ポラロイド写真は1点ものであって、エディションがないから、15年ほど前にギャラリーバウハウスの展示でも、1点しかないと言うので、展示した作品が奪い合いになったことあり。
1970年代にウィーンを撮影したモノクロネガと言うのは2000本ぐらいあるから膨大な数なのであるが、その中で記憶に残る少年もしくは少女が走っていると言うショットは実にこれ1つだけなのである。
イタリアのガリレオと言う会社はなかなかいい線で作っているので、長年尊敬しているのであるが、20年位前に手に入れたこの双眼鏡を見て、その価値がいっきょに落ちてしまった。
今はもう存在しないが、1970年代にはウィーンの13番のバス路線で2階建てのバスというのが走っていて、その2階の1番前の席からの眺めがエキセントリックでスリリングなので、私も地元の小学生と、その石を競走で取ったりしたものであった。
写真家として本格的な活動を開始したウォーカーエバンスが1930年代後半に住んでいたのがマンハッタンのアッパーイーストサイドである。
知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。
知らない時はカントリーのキッチンにあるすごい古いストーブだと思っていた。キャプションを読むとウォーカーエバンスが撮影したノバスコシアのロバートフランクの家のストーブであると言うので、さらにびっくりした。
ウォーカーエバンスがアメリカ農業保全局の仕事で1930年代の終わりに幅広くdeepサウスを旅行したときのワンショット。
ウィーンに暮らした8年間はアパートメントの2階に住んでいた。すぐ目の前がドナウ運河だった
Josef Sudek生誕百年記念の写真展のカタログから
物心ついた10歳の頃からカメラのハンドグリップの研究をしている。
60年近くハンドグリップを勉強していて、最近わかった事は画面の右に写っている。ロードカメラのハンドグリップがベストの太さであると言う事。
左に見えるキャノンのハンドグリップは一般的なサイズであるが、細すぎて撮影にはストレスがかかる。
古美術を扱うお店のオーナーが言っていたが、商売をするには日当たりの良い方向のお店ではダメであると言う。素人が考えても当然のことで商品が日に焼けてしまうから、だめな事は間違いないと思う。
1973年頃に単なる思いつきで、ウィーンのアパートメントの床の上に使っている。カメラを全部並べて撮影したのがこれである。今見ると上のアパートの床はなかなか作りがよろしいな。
ツェッペリン飛行船の発祥の地である南ドイツのフリードリヒスハーフェンに取材に行ったことがある。
リスボンでフェルナンドペソに最初に出会ったのは、1980年の秋だった。
フェルナンドペソはなんて知らなかったけど、少しはポルトガル語を勉強しようと思って、中心部のエレベーターのすぐ隣にある用紙屋さんで、リスボンガイドブックの英語とポルトガル語が大役になっているのを買った。
それがペソアのガイドブックであった。一生の間に数少ない出版をした介護最初のパブリックな出版物がデスウォン案内であったと言うのは皮肉である。
自分の文学の手初めにリスボンのガイドブックを書いたとなると天才だと思うけど、実際にはごく普通の同期でヨーロッパのどこにあるのか外国には知られていないリスボンと言う小さな街を外国に紹介するためだった。
フェルナンド・ペソアは、幼少の頃に、南アフリカのダーバンで暮らしていたから、英語のネイティブスピーカーでもある。
ペースの長い長い小説のイントロダクションで、彼自身の自己紹介をするときに、リスボンの裏町の小さなレストランの2階で、毎晩黙って食事をとっている。目立たない男と言うのは、彼自身として登場する。
私がいつも宿泊していた小さなホテルはフェルナンドが眺望をつけていた。仕事場の近くだったから、1種の思い込みで偉大な文学者はここで食事をしていたのではないかと言う思い込みでディナーを楽しんだ。その店は今までも存在する。
あったかい所でお酒をちょこっと飲んで
寝て
朝6時頃起きて
「今日は起きなくていいんだぁ」と二度寝して
あったかい布団でゴロゴロして
「あー、そろそろ起きたい!」と思って
ぐーんと背伸びして起きる。
体調が良い。
あー幸せ。