老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】最終更新 2024/11/07 08:121.名無CCDさん@画素いっぱいLeV7k2vw0思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっているFacebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16451023192022/02/17 21:51:59184コメント欄へ移動すべて|最新の50件135.名無CCDさん@画素いっぱいgpuXE今日のランドマークの日である中で、私が1番好きなお店と言うのは金網屋さんなのである。ところが、これは非常にレアなご職業らしくて、私は東京の街動いている割には、3つしか知らないのだ。それでそこら中にあって、目について好みの分かれるのは不動産屋さんなのである。JR板橋駅の踏み切りの脇にある。この店は大昔から非常に気にいっている。このお店の斜め向かいにあった結構本格的な中華料理の気にいっていたのだが、そこは15年位前から開いていない。この不動産屋さんの魅力は角部屋になっていると言うことだ。その細い路地を入っていくと、飲み屋がたくさんあって、突き当たりにあった。飲み屋を大昔に私が朝日新聞社の連載でたまたま撮影した。そしたらその飲み屋のオーナーが朝日新聞に連絡を下さって、記念にプリントを欲しいというのである。それで私は自分で撮影した。その写真のプリントを作って自分で持っていって飲み屋さんに届けたら非常に喜ばれた。お店の名前は既に忘れてしまったし、そのお店も今は既に存在しない。何かアザラシとかラッコとかそういう動物の名前であったような気がする。それでこの不動産屋さんなのであるが、角地にあると言う。その立地条件が1970年代にウィーンでドラマのロケをしたときに、全体のストーリーの中で有名な役割を持つ喫茶店と言うのを探していて、小さな喫茶店と言う名前の喫茶店が、ウィーンの旧市街にあるのだが、そこで撮影をした。その小さな喫茶店と言うのも、これと同じように角地に立っているのである。その喫茶店を登場させたサスペンスドラマは、ボンバーとパガニーニと言うやつで、これはYouTubeで今でも無料で見ることができる。不動産屋さんとヨーロッパの喫茶店の雰囲気の共通点を認めているのは、おそらく私ぐらいなものだと思う。日本の場合は残念ながらスタバばっかりだから、お店の個性も何もありはしない。2024/05/29 03:43:09136.名無CCDさん@画素いっぱいF4Lffhttps://oyanozasshi.jp/?wbraid=ClUKCAjwpNuyBhALEkUAd4Ea-RYl2ya8JjYymN50oPtxQlxuJ67zIZERfDj87C8noL9OBMk55uEdEh-T15x4KJXe8Q_6luHjSBXvkDDBR2XFRmIaAscn2024/05/30 18:09:55137.名無CCDさん@画素いっぱいTkLewそこら辺の端を取ると言うのはいかにもカメラメーカーが喜びそうな初心者のモチーフのように思うかもしれないが、実はお花をとるというのは写真家にとってはかなり重要な人生のテーマなのである。ロバートフランクが英国のテレビ番組に出たとき、彼はニューヨークのアグレッシブな自分で撮影した風景とパリでバラの花を持って歩こうとこの1枚の作品と並べて語っている。つまりニューヨークは醜いけれどもパリは素晴らしいというのである。これを普通の価値観の通りに理解してしまうと、かなりの方向違いな場所に行ってしまうのであるが、ロバートフランクがパリにお花の写真を撮りに行ったと言う事は、彼の写真家の人生の中での自分の美学を決定するための1種の総決算、一か八かの旅ではあったのだ。ロバートフランクの非常にクラシックなパリをテーマにした。お花の写真の中で、私が忘れられないのは縦画面で無骨なトランクが半分開いていて、その中にバラの花が無造作に10本近く置かれている写真である。花屋さんとも見えないし、インスタレーションとも思えないし、実にフランクならではの作品なのである。この作品は、私が1970年代にウィーンの路面電車で1本のバラの花を手にしたおじさんが眠りこけていると言うショットである。電車の中ではっとこのシーンに気がついて、もちろん1枚しか撮影していない。象徴主義的と言うのでもないだ。それでも人類一般と彼らが抱いているお花に対するRE-ILLUSIONとでも言えるものが浮上していると言うふうに考えられるのである。お花はそれが綺麗だから取るとか言うものではなくて、極めて意味深長に人生を具体化したものであると言うことになるのかな?2024/06/01 08:13:51138.名無CCDさん@画素いっぱいHYeWz80年代にニューヨーク近代美術館で写真を研究していた頃は、やはりワールドトレードセンターが風景の中心になっていたのだった。滞在中にソーホー地区のロフトに住んでいたので、自分の楽しみといえば、午後遅くなるとFire Escapeにテーブルと椅子を持ち出してそこでいっぱいやることだった。ただし、Fire Escape出祐川祐祐であるから、下の通行人にものを落とさないように最大の注意を払った。いっぱいやりながら同時に思いついて、その当時はまだ新しいメディアだったビデオカメラを長時間撮影した。つまりマンハッタンの暮れ、なずむ時間の午後5時ごろから6時間ビデオを回し続けると、午後11時の夜になるわけである。^_^観察していて面白かったのはワールドトレードセンターはマンハッタンで1番最後に暗くなる建物なのである。それが2001年6月11日にあのようなことになってしまった。私はパナソニックの新しいデジタルカメラの広告の撮影でドイツのバイエルンにいたのであるが、大変なショックであった。私のカタログの撮影予定では、バイエルンの次にはフランクフルトに行く予定であったけれども、ヨーロッパが攻撃されるとすれば、次は間違いなくフランクフルトであろうとスタッフと協議して、急遽撮影の予定を切り替えて、かつての東西ドイツの国旗大当たりの街巡りにしたのであった。このショットはデアドルフ8 × 10インチカメラ。360ミリ2024/06/07 06:46:25139.名無CCDさん@画素いっぱいdl93o10年近く前に帯状疱疹をやって左手が痛くて大変苦労した。スーパーの買い物で荷物は持ってないし拍手もできないと言う状況なのである。自然に治ったのであるが、それからしばらくして何かの衣料品のメーカーらしいけど、そこから電話でインタビューがあった。結構長いインタビューで、私がヨーロッパで取材していると言うような話をいろいろしたのである。狭い写真業界だと田中長徳はこういう風|の人間であるということを知っているわけであるが、狭い世間だとそういう事は全くわからない。それで普通の人がイメージしている国際的に活躍しているカメラマンあるいは写真家と言うのはこういうイメージであるらしい。印刷物が送られてきて大笑いした。20年以上前正岡子規をテーマにしたドラマというのがあってテレビドラマであるが、私はそういうのは見ないけど正岡子規であると言うのでちょっと見たのである。これがまた正岡子規と全くイメージの外れた。いわゆるイケメンなのでびっくりして途中で見るのをやめたりしたのである。この逆のイメージもあるわけで、私は堀口大学の愛読者であるが、何かかっこいい男性を予想していたら、老人になってからの堀口大学の写真を見て非常に驚いたのである。どう見てもケチな呉服屋の親父さんである。このような一般的なイメージが膨らんでくるのと、実物の間に大変なギャップが生じると言うのは、ごく普通の世間の常識と言うことなのであろう。2024/06/10 04:52:39140.名無CCDさん@画素いっぱいRO3b81973年から1980年間で暮らした。Winのアパートメントは今にして思い出してみると非常に貴重な体験である。当時はできてから100年以上経ったアパートメントであると自慢をしていたが、今ではそれから40数年が経過しているから。結果として、歴史的な建造物物になってしまった。当時のウィーンの不動産屋さんのシステムと言うのは、社会問題になるほどいい加減なもので、インチキ不動産屋でアドレスをもらってそこに行ってみるとベッドレンタルする部屋はありませんと言うのが普通のやり方で、これは私が外国人であるからそうなったのではなくて、ウィーンに暮らしている友人の写真家に頼んで一緒に回ったのに、このザマなのである。ドナウ運河沿いのこのアパートメントは知り合いからその存在をきかされてオーナーに電話して交渉したのだが、ここでまたびっくりしたのはそのオーナーは大学でラテン語は修復したけれども、英語はやってないから意思疎通ができないと言っている。向こうで言っているのである。実際に会話に使わないラテン語を教わったというのが、さすがヨーロッパ文化圏だと思う。それでこのドナウ運河の小鳥の春夏秋冬を暮らしてきたのである。もとよりシンプルライフであるから天井の高さは4メーターあったけど、そこには空気が入っているだけで室内に置いたり展示するものは何もない?の壊れたベッドと数台のカメラがあるのみなのである。古道具屋で買ってきた旧式のブラウン管のテレビはもちろんものくろ使用であった。その日、空に展示された唯一の私の家の部屋の舞台は、現在日本写真家展示会のポスターとその隣にあるのが私が制作していたドローイングなのである。2024/06/11 07:31:09141.名無CCDさん@画素いっぱいsaSZCブラックロードで有名な岡谷光学の双眼鏡である。そのブラックペイントの仕上げが良いので気にいっている。旅行中によく双眼鏡を使うのには理由があって名所旧跡を見るときに必要なのではない。空港の待合時間をチェックするときに座った位置からモニターをチェックできると言うのがメインの目的である。もう一つの理由はカメラ屋さんのプライスタグをチェックすることにある。だから理想的に言えば1メートル位近くまでピントの合うやつがベストなのだが小型双眼鏡でそういうのはないから、以前はカールツアイスの物キラーを首から下げていた。^_^通常2部屋から観察する時は8 × 30が1番見やすい。この倍率と対物レンズの大きさは陸軍専用と決められている。それに対して海軍の方がちょっと倍率が低い7倍なのに対してレンズ合計は50ミリある。ただしレンズ合計30ミリと50ミリでは50ミリのほうは船に乗せたままで使えるが30ミリのほうは陸軍部隊が使うのであるからそれなりに持ち歩くには楽である。書類の記載もここに示すのはレンズ合計が15ミリで6倍と言う奴である。小型軽量だから便利なのであるが8 × 35を見た後にこちらの小さい方を見るとやはり細かいところは醜くなる。でもそれ以上に携帯生と言うことを考えるとこちらの方が便利と言ういずれにしても双眼鏡のサイズと使いやすさと言うのはちゃんとした方程式があると言うことなのだ。2024/06/14 07:54:21142.名無CCDさん@画素いっぱい5xmml^_^中平さんと吉村くんを写真家になる前から初対面で知っていると言う。私は実に不思議な存在であると自分で感心するのである。中平さんの場合は、東松さんの事務所で会った事はずいぶんあちこちに紹介したけれど、これが1966年の夏の事だった。中平さんはまだ雑誌の編集者であって、そのように紹介されたのである。吉村君の場合は、1980年の夏の話であって、私がザルツブルグカレッジインターナショナルフォトワークショップで教えていた時に、MITの学生さんのワークショップのグループに入ってきたのだ。他に日大の写真学科の女子が2名いたな。ところが、私のいい加減な英語はMITの学生さんには通じるけれども、吉村くんたちには通じないということが判明して、急遽英語と日本語の複式学級になったのも懐かしい。20年位前になるけど、吉村くんが自由が丘にギャラリーで個展を開催しているときに言ったら、吉村くんの話では毎日中平さんが決まった時間にやってくるのです。もうすぐお見えになると思いますよ。^_^それで中平さんは、吉村君の予言通りにやってきて、写真家の中平琢磨ですと自己紹介をするのである。毎日そのような自己紹介をするのだと吉村君は言っていた。その時中平さんが持っていたキャノンの一眼レフ200ミリが付いているのを見せてもらって、そのファインダーは6割以上腐食して画像が見えないのである。本物の写真家はこういうカメラを使わなければダメだとその時強く印象付けられたのであった。2024/06/18 09:16:13143.名無CCDさん@画素いっぱいivzq8塾長さんが長徳氏に会っても宜しいとおっしゃってます2024/06/21 03:52:35144.名無CCDさん@画素いっぱいx21fE友人から教わって人気アニメの紙兎ロペを見た。好きな漫画ではないと言うよりも、もともと私は漫画は見ないのである。葛飾あたりのウサギの高校生がいて、その先輩が理想であって、高校生は上下関係に厳しいのか歳上のリースの方がタメ口を聞いたりするのが印象が悪かった。しかし、面白いと思ったのは、その漫画の葛飾区あたりの果物屋さんというのが、紙兎ロペの実家なのであるが、その実際のお店と言うのは、豊島区雑司が谷にあって、そのお店のことを私はよく知っているのである。ドラマの撮影などにも使われている。典型的な八百屋さんの店構えであると言うふうにも聞いた。そして紙兎ロペではそこが果物屋さんになっている。私の友人でも実家が果物屋さんだったところがあって、そのお店の屋号がフルーツパレットなのである。いかにもありそうな名前だね。それで八百屋さんの現役時代、栃木家さんの時に私は買い物はしたことないけれども、そこがラーメン屋さんになってからは何度か行ったことがある。いわゆる町のラーメン屋さんではなくて、デザイナーズブランドのラーメン屋さんでラーメンはいっぱい1000円位して高い。しかし、昼間からコップ酒がいっぱい飲めるというのが非常に良かった。2024/06/21 08:48:24145.名無CCDさん@画素いっぱいsB9fMネットオークションではいろいろお世話になっているが、写真の撮り方でかなり見え方が違うのでちゃんとした写真を撮るためにはその撮影テクニックが非常に重要なのである。20年ぐらいネットオークションを見ていて数多く登場した。出版物ではなかった。出品の中でいまだに忘れられないのはタイムマシンを出品したい人がいたことだ。こういう空想上のネットオークションの冗談と言うものは今では存在できないようになってしまうから、大昔は楽しい時代であった。だから、タイムマシンが出た時は、入札者のほうも心得たもので、220ボルトにも通用しますかとか、60歳来る地域でもタイムマシンは動きますかなどといろいろ渋い質問があったものである。それでこれは非常にレアなトップコール。35ミリのファインダーのネットオークションでの紹介である。ご覧になるとお分かりになるようにファインダーの向きが前後逆なのである。しかしこれを叱ることができなくて、ライカのファインダーの90ミリとか135ミリならファインダーの直系の太い方が雪何分になると言うわけだから決して間違いではない。しかしこれは広角レンズ用のファインダーだから、前後が逆になると言うわけだ。このファインダーで私が感心するのは、レアなファインダーにもかかわらず、非常にちゃんと使い込まれてファインダー本体に磨きがかかっていることだ。これだけ使うと言う事は20年位スナップショットをやった位ではこのようにはなりません。2024/06/23 05:27:43146.名無CCDさん@画素いっぱいg4iCm20世紀の最も偉大な写真芸術運動写真分離派のメンバーの1人である、ポールストランドを発見したのはアルフレッドスティグリッツである。彼の代表作はいろいろあるけれど初期の作品で1番有名なのは、アメリカ中そこらにある白い木製のフェンスを正面から撮った作品である。白いフェンスと言うのはアメリカの原風景だね。白いフェンスと言うのはどうもアメリカに独特なもののようで緑の芝生があって一戸建ての家があって道路と区別しているそのために白いフェンスが作られている。ヨーロッパではよほどのカントリーに行かない限り集合住宅であるからこのような白いフェンスを見る事は無い。白いフェンスで私が1番思い出すのは古い友人の東京カメラクラブ会長の田村が19歳の時に撮影した横浜の米軍基地の白いフェンスである。私が非常に記憶している2つの風景としての白いフェンスの作品と言うのはつまりポールストランドと古い友人の田村の2つの作品と言うわけだ。古い友人田村はニコンS3にニッコール2.8センチをつけてしかも赤外線フィルムでアメリカ軍のフェンスを撮影しているのだ。その白い柵の永遠性というのが何かすごい感じで好きな作品なのである。2024/06/25 14:04:51147.名無CCDさん@画素いっぱいiVbbx渋谷駅周辺は怖いから、何年分が忠犬。ハチ公の銅像が外人さんにもすごい人気だそうで、ビックイベントがあるときは、中堅ハチ公を守るためにガードLINEができたりするらしい。^_^結婚して何十年かだった時に家人から聞いたのであるが、家人の父親は東京帝国大学農学部出身であって、そこのプロフェッサーが忠犬ハチ公の買い越しであったそうだ。こういう歴史的な事実が身近にあったりすると非常にびっくりするのだが、もう一つは私が愛読している。フランス文学者の堀口大学も、家人の親戚にあたるそうである。世の中、油断も隙もないと言うのはこういうことだ。それで忠犬ハチ公のビザに関してはよく知られているらしいが、ベルギー政府観光局で取材でベルギーに行った時に、編集者から頼まれて、フランダースの犬の舞台になった場所に行ったのであるが、驚いたことに。これは日本だけで夢であって、島のベルギーではほとんど知られていない中堅ハチ公物語なのである。もちろんこういう例は外にあって、2型がどこだか忘れたけども、中けんたま公の銅像と言うのもあったな。わんわんそれでこのショットを見て、私が非常に驚いたのは忠犬。ハチ公が亡くなったときのその時の写真で周りに関係者や学生さんが集まって追悼していると言う写真があったのだ。もちろん当時から有名なワンチャンだからそういう事はあったに違いないが、それが凄いと思うのは、現代のIT技術で着色化されているのである。^_^最近のブームとしては、IT技術でモノクロから色がついているのを皆さん感激しているようであるが、私は逆の考えである。こういうのは不自然であって、例えばカラー写真でも色を抜いた方が歴史的事実として強烈な印象を与えるというのが私の考え方である。2024/06/27 06:56:17148.名無CCDさん@画素いっぱいlyiEl10年位前のことになるのだが、プラハからスイスに時計の見本市の取材に行った。行き先はバーゼルである。バーゼルはフランス語圏ではなくて、ドイツ語圏であるから街を歩いていても言葉はわかるから気が楽である。^_^それで仕事を終えて、チューリヒからプラハ行きの飛行機に搭乗した。プラハの飛行場はプラハ市内の西之保にあるのだが、そこにアプローチするために、飛行機は手前から旋回してプラハの東の端からアプローチしていくのである。そのプラハの東の端というのは、私がいつも移動している。プラハの地下鉄の東の終点にあるのだ。飛行機が行動を落として、地下鉄の終点にある広場を見ると、ちょうどカーニバルの直前なので、移動の遊園地がメリーゴーラウンドを組み立てているのが飛行機の窓から見えた。ヨーロッパは巨大な街であっても、そこにディズニーランドみたいなものはないから、祝祭日になると、旧市街の広場などを利用して臨時に遊園地ができて、これが子供も大人も大変なエンターテイメントになるのである。チューリヒを出てプラハに着陸する。飛行機のファイナルアプローチで遊園地を組み立てていると言う情報を知ったので、空港に着いてプラハのアトリエに戻って荷物をおくとすぐ私はいつものメトロに乗ってメトロの東の終点まで来て撮影した。1連の画像がこれなのである。^_^ヨーロッパはどこでもそうだが、復活祭の春の到来まで、街の風景はモノクロームで非常に殺風景である。それが復活祭の到来で、花が咲いて、光と色が戻ってくると言う感じだ。2024/07/06 08:23:10149.名無CCDさん@画素いっぱいK5k2I1970年代赤い市街電車の終点がのんびりWinに暮らし始めた頃に、基本的な交通機関は今も変わっていないのであるが、ストリートを走る。路面電車があって、赤と白に塗り分けられたバスがある。そして東京の山手線みたいな感じで、街をぐるりと1周するような形の赤いボギー車があった。これが好きだった直訳すると、街の前者と言う言い方なのだけど、そういう日本語は存在しないから市街電車と言うことにしておく。この赤い路面電車は、ウィーンの中心部をほぼ三角型に取り囲んでいて、そのしっぽのほうは西に伸びていて、ウィーンの西のカントリーサイドにまで達している。その終点の駅がこのパノラマ写真で撮影したショットである。win人の楽しみと言うのは、そういう町外れのその先の丘というか、ウィーンの森の斜面にあるワイン酒場に行くことなのである。私もずいぶん行きました。そこら辺の路上の犬がどれだけのんびりしているかというのを私は犬がリラックスできる尺度と言うので世界中観察しているが、犬が1番リラックスできるのはポルトガルである。それから大分クラスは落ちるけれど、50年前のwinも、なかなかワンチャンのリラックス度ではレベルが高かった。^_^それでこのように市街電車の終点に立ち食いのソーセージ屋さんがあったりするのは別にびっくりしないけれども、右側のエントランスから太ったおじさんの後ろ姿が見えると思うけれども、その先には路面電車の駅の内部の終点なのにガーデンというのがあるのである。要するに、win人の楽しみとしての強外にワインを飲みに行くと言う。その図式が駅の構内ですすら既に構築つかされていると言うところがすごいと思う。このことは撮影して50年経ってたった今気がついたことなのである。2024/07/09 11:24:49150.名無CCDさん@画素いっぱいyFglk世の中1通の高級時計のしっぽを追っかけ回したりしたのであるが、ジュネーブサロンとかバーゼルの春の時計のフェスティバルなどにも言って納得したことがある。それはすなわち時計などというものは人生には必要がない。だから時計が欲しくなるのだと言うことであった。それでロレックスから始まって、各種高級ブランドに手を出して、バーチャロンコンスタンティンのプレスコンファレンスまで行ったあたりでようやく目が覚めたのである。ここら辺のウォッチが私の好きなものだが、やはり最高にオシャレなのはタイメックスではないかと思う。30年位前にそのことに気がついて、その当時のタイメックスを手に入れて、その値段の安さにもびっくりしたのであるが、最大の問題点は3年から5年位でバッテリーがアウトになるので、そのたびごとに交換が必要なことだ。^_^左にある時計とか右にある時計は機械式であるからバッテリーがなくても問題ない。思うに現在の世界と言うのは私がこの文章を吹き込んでいるiPhoneにしてもそうだが、電池がなくなるとこの世界はても足も出なくて動かなくなってしまうのである。左側にあるのはチェコスロバキアの軍隊が公式に使用していた0マニアなのであるが、東ヨーロッパの時代にはスイスの時計を買う事は非常にお金のかかることであった。さらにチェコ共和国には優秀なプリマと言う名前の時計があるそれでチェコの政府は、自分の国で作った時計を軍用時計に制定したと言うのは、ブランド主義に騙されない真面目な態度であると思う。2024/07/12 00:30:06151.名無CCDさん@画素いっぱいiVkE1ウィーンのフィルムミュージアムで、ジョナスめかすのレトロスペクティブをまとめてみたのが1973年の秋のことだった。オーストリアフィルムミュージアムの10周年の記念行事だった。その時オーストリアの放送局のインタビューを受けたのである。当時はまだビデオカメラではなくて、フランスの16ミリ撮影機エクレールを回転させて、テープレコーダーで私の声を収録した。話の内容は、要するにジョナスめかすなんて日本だと雑誌に登場するだけで実際の映画を見ることができないから、この企画が素晴らしいと言うことを英語で話したのである。それにドイツ語の文字の翻訳がついてゴールデンタイムに登場したものだから、私はいちどに有名人になってしまった。それからちょうど重言年後にニューヨークに暮らしていて、明日は東京に帰ると言う。11月の週末に私はキャナルストリートで本物のめかすに偶然あったのである。これには感動しましたね。月が変わって12月になって原美術館でジョナスめかすの大きな映画界が開催されたときに、数百人の人々が集まっていた中で、会場に入場したジョナスめかすは、まっすぐ私のほうに歩いてきて、私と握手をしたのだから、主催者としては面白くないよな。でも、映画監督としては、先月マンハッタンの自分の家の近くで、偶然話しかけてきた日本人だからよく記憶していたと言うのがその理由であろう。そのオープニングレセプションの時に、私はジョナスめかすの口から数年前に母はなくなりましたと言う言葉を聞いたのである。これは重い言葉だったな。リトアニアのカントリーサイドにまだ社会主義国のソ連の時代にめかすは28年ぶりに里帰りをしているのである。その時の撮影した画像がこれお母さんである。東ヨーロッパの夫人はある。一定の年代より下上になるとみんな頬被りをすると言うのが愛らしい。カチューシャ人形みたいなものだ。ウィーンのお知り合いの老婦人もそうであって、まさに、こういうカチューシャ、人形的な風貌なのである。ジョナスめかすが昇天してから直後のこと。私の古い友人の野々宮がめかすが出身の場所リトアニアのカントリーサイドを実際に取材に行ったのはなかなか見上げた精神だったと思う。2024/07/16 08:43:16152.名無CCDさん@画素いっぱいsncTd1973年にウィーンの映画ミュージアムが創立10周年と言うことで、それを見に行ったら、地元の放送局からインタビューを受けたので、ジョナスめかすは私の大脳の中でより重要なポジションを占めることになった。そして、その10年後に、マンハッタンの路上で、尊敬する映画館時に、偶然会うことができたのも、不思議な縁と言うべきであった。それで自分も自分の映画を取ろうと言うことに思いついて、ロシアから亡命してきた大学教授と偶然蚤の市で出会って、彼から2台のソ連製の16ミリ映画撮影機を手に入れたのである。ジョナスめかすが彼の映画制作活動ですごく苦労したことが彼の映画日記に書かれている。会心の撮影をしたのだが、現像代がないので、撮影済のフィルムは全部部屋に積み上げてあるというのが気にいった。私の場合はプラハに行った時に、安い東ドイツ製のフィルムを買ってきて、現像するのは当時の東ベルリンの友人に送って光で現像してもらってそれを送り返してもらったのである。当時の鉄の壁の東ヨーロッパとしては誠に不思議なことであって、彼らは印刷物に対してのアレルギーはあるが、それ以外のメディアに対してのアレルギーはほとんどなかったと言うことなのである。ソ連製の16ミリ撮影機はコストパフォーマンスに優れたミラーシャッター式のなかなか優れたカメラであった。後に西側世界で結構売れたのだが、その時はカメラの特集マウントをペンタックスマウントに変えて販売している。スーパー16に改造したものもあった。2024/07/18 05:38:58153.名無CCDさん@画素いっぱいarFv5友人関係が歌を歌ったりギターを弾いたりするのでうらやましいと思うけれども、坂崎さんとか荻さんはそういう人々であって、私だって中学と高校の時はブラスバンドでトランペットを吹いていたと言う話をすると皆さんびっくりする。それでギターも少しやっていたのであるが、これは行動を抑えるのがめんどくさいのですぐにやめてしまって。そのかわりカメラでノーファインダーで東京を撮影するような方向に行ってしまった。中学生の頃は、私が入学したときにブラスバンドの楽器が全部入ったので、それでクラスメイトが全員ブラバンの退院になったのである。といっても、中学生のブラスバンドでその当時でたかが知れたものであるから、怒りを上げてとか文京第7中学校の校歌を演奏すると言う位が関の山であった。それでも3年間練習をすると、卒業式のときには我々同級生の卒業式を送り出す位のレベルまでテクニックが発展したのは何でも練習すればそれなりの結果が出ると言うことなのだ。それで高校生活も中学生活の名残でブラスバンド部に入ってトランペットを吹いていた。トランペットよりもコルネットの方が楽器としてはちょっと面白いと言うことに気がついたのもこの頃である。1964年と言う年は東京オリンピックの年であって、その時のファンファーレというのが人気だったが、見よう見まねで似たような演奏をトランペットでやったので、クラスメイトの女子になかなかモテたのだ。ライカでスナップするのは全然モテないけど、楽器と言うのはそういうエンターテイメント性があると言うことに気がついた。それでも面白いもので、中学と高校の時にちょっと触っただけのトランペットのバルブの押し方と言うのは体が覚えていて、今でも曲を聞いたりすると無意識に右手の3本指が動いた。と言うのは、これはそれなりの効果があったというべきであろう。2024/07/26 08:31:56154.名無CCDさん@画素いっぱいieT7Y1960年代まではソ連製のカメラと言うのは非常に差別されていた。これは西側の帝国主義者のカメラ同盟が意図的にソ連製のカメラを締めていたのだと考えることができる。ソ連製のカメラで人気が高いのはスプリングモーターを内蔵した。35ミリレンジファインダーモデルで1957年のブリュッセルのエキスポでグランプリを取ったカメラである。ここら辺が実はよくわからないことであって、ブリスベンのグランプリで、どのような背景でグランプリが取れたのかということは未だに明らかになっていない。さらにその数年前だと思うけど、スプリングモータードライブのカメラ以前にそれよりもさらに作りのよろしいレニングラードと言うカメラのアウトフィットが発表されていた。私などはその当時カメラ雑誌のニュースで見ただけである。実際にそのカメラを見たのは、発表の時から何十年も経過した後で、フォトキナの会場でソ連カメラの好きな人がいて、その人が持っているのを見せてもらったのが唯一の機械であった。とにかく珍しいカメラなので、こちらも興奮していたが、後で冷静に考えてみると、私が使っていたスプリングモータードライブ付きのレニングラードと、そのオリジナルになるはずの最初のレニングラードカメラの巻き上げがどのようになっていたのかということを全くチェックし忘れていたのである。これは残念なことだ。それでこのオリジナルのレニングラードカメラは時々世界的なレベルのオークションに登場するのであるが、肝心の巻き上げのシステムの写真がなかったりするので、いまだにこのユニークなカメラはどのようにフィルムを巻き上げるのかわからないでいる。まぁカメラと言うのはそのように謎めいている。ところがそれなりの魅力でもあるのだが。2024/07/28 01:01:41155.名無CCDさん@画素いっぱいGB40O左右逆のA型ライカってフェイクなんですか?2024/07/28 21:25:02156.名無CCDさん@画素いっぱいFm0Rl33台だけ作られたのだけどだからレアカメラと言うわけではない寺岡と言うのはハカリで有名だが1950年代終わりにその技術を利用してモータードライブスプリングカメラを制作していた。日本カメラから出した私のカメラ本3冊の1番最初のセクションでこのカメラ大戸寺スーパーのことを紹介している。これにはコレクターの好む頭脳レンズブランドがついている。しかしこのスプリングカメラはあまり成功しなくてトータルで製造開始から終わりまで4000台弱が作られただけであった。それならばコレクターの間で高い値段がつくかと思うとほとんど相手にされていないから私の周囲にこのカメラが集結すると言うことになる。レンズ固定式カメラだからレンズの製造番号で台数が特定できる。このブラック仕上げのボディーは警察用に作られたもので製造番号からすると617001でスタートして最後の番号が617033である。つまり30ちょっと作られただけ。だから値段が高いと言うことではない。これだけ数が少ないとその存在を知っている人もいないのだ。カメラの値段のことを言うわけではないが1番滑稽なのは例えば私が最初に手に入れたライカM2のブラックペイントは当時110,000円で中古を買った。それから40年後に2500ドルでアメリカから買って安いと思っていたが今では末端価格が10,000,000円位するらしい。ライカM2のブラックペイントは3000台弱の製造台数である。その100分の1の製造台数のこのカメラが大変なプライスになるかというとそうではないと言うところがクラシックカメラコレクションの面白さだ。2024/08/01 20:07:24157.名無CCDさん@画素いっぱいrxYb4マンハッタンではずいぶんいろいろな劇場のファサードを見て暮らしたのであるが、ユニオンスクエアから東に行ったこの劇場のファサードというのが最も見事であったと思う。私が見ている慣れ親しんだオペラハウスと言うのはパリであれ、ミラノであれウィーンであれ、普通のクラシックな建築物のファサードであるから、こういうような派手派手なイラストレーションがモザイクになっていると言うのはちょっと想定外なのである。それでこういうファサードの建物がモダンであるのかと自分に質問してみれば、実はそうではなくて、ギリシャローマ時代の遺跡として残されている床にちりばめられたモザイクがそのままモダンナ劇場のファサードになったと言う感じなのである。クラシックモダンの典型的な劇場のファサードと言うべきであろう。そしてこのモザイクで描かれたワクワクするようなレビューの感じと言うのは、実際の劇場では起こり得ない夢の世界をここに象徴化していると言うところがむなしいのであるが、それが理想と現実のギャップを、最初から劇場がファサードに合意的に示していると言うことを考えれば、責任感のある劇場のファサードのエントランスと言うこともできる。この私が好きだった劇場もとっくの昔に取り壊されて今では普通の住居ビルになってしまった。2024/08/12 11:20:38158.名無CCDさん@画素いっぱいpa0Oj銀座7丁目か8丁目の表通りに黒沢と言うタイプライターの専門店があったことを今でもよく記憶している。私の大学生時代の頃はまだ存在したと思う。真実はどうかわからないが、そこの黒沢さんがカメラが好きでSawa Kuroと言うペンネームでたくさんのカメラボを出していて、それが我々学生時代の愛読書であった。カメラとムービーカメラと写真のテクニックで10冊以上のシリーズになっていたと思う。それでこのイラストは、黒澤タイプライターのエントランスにかかっていたと記憶する。あるいはヨーロッパでこういう場所があったのかとも思うが、どうも銀座の黒沢で確かなような気がするのである。最近はセクハラということで、女性のタイピストそのものをこのようなセクシャルなシンボルとして掲載する事は無いと思う。でも戦前の映画など見ているとタイピストと言うのは、みんなセクシーな存在でセクシー田中さんみたいなものだな。実際問題として私が暮らしていた1970年代でも会社の偉い人が口述筆記するのをタイピストさんがタイプに打つと言うのが普通で、それが仕事のやり方だった。このやり方が劇的に変わったのは、1984年のMacintoshの登場まで待たなければならなかった。それでも私も昔の人間だから、こういうタイピストのセクシャルなシンボルを見ると、ノスタルジーを感じる1人である。それっていけない反社会的行為なんだよね。戦前の林文子の文章など読んでいると当時のタイピストのお給料は40円だったそうである。ライカの値段が600円であるから、タイピストのお給料の1年分がライカの値段であったわけだ。2024/08/13 08:48:34159.名無CCDさん@画素いっぱいn7jbiかつて東京の四谷に存在したインディギャラリーのオーナーが津田基さんであって、彼はロバートフランクと非常に親しいのである。それで何度もロバートフランクのところに行って、いろいろ一緒に生活をしたり、あるいは一緒に旅をしたらしい。津田さんはその意味でヨーロッパあるいはアメリカ的なジェントルマンであるから、世界的な写真家と親しいと言うことをパブリックな場所で発言した事は1度もなかったと思う。しかしロバートフランクが昇天した後に追悼の意味もあっdたと思うけれど、ちゃんとフランクと自分の関係について、彼のブログ等でオフィシャルにしたのである。ロバートフランクのオフィシャルな写真と言うのはちゃんとした世界的写真家であり、イギリスで作られたロバートフランクのフィルムにしても、それはちゃんとした世界的写真家の存在感というところから逸脱していないのである。その一方で津田さんが撮影したこの写真の凄いところは、列車のコンパートメントで靴を脱いでリラックスしているロバートフランクの姿である。これはヨーロッパでもそうなのだけど、こういうリラックスの仕方と言うのは、ジェントルマンのやることではないと言うふうに通常は思われているので、このようにリラックスしたロバートフランクの姿を見ることが私には嬉しいのだ。写真家の繰上さんがロバートフランクが来日したときに彼をずっと記録したらしいのだが、北海道に一緒に旅行に行った時、彼は旅館で自分の靴を見失ってしまって、裸足で雪の中を歩いたと言うのは、これは現代のイエス・キリストだと思う。そういえばビートルズのレコードのジャケットでもあったよね。裸足の男性が歩いていると言う話は、このロバートフランクの件だが、私は実際に真冬のプラハの路面電車で裸足でいる青年を見たことがある。この人も私の目から見ると、イエス・キリストスーパースターのように見えた。5年ほど前に清里の写真ミュージアムでロバートフランクを見た。またロバートフランクの写真展をやっているそうなのでこれは見てみたいと思う。2024/08/17 14:22:32160.名無CCDさん@画素いっぱいVaWF2部屋の窓からの風景と言うのは、日々差し替えられる絵画のようなものである。と言うのは、有名な私の尊敬する小説家のコメントである。この風景にしてもそうだし、世界中のホテルを旅した時は年間230日ぐらい旅行をしていたので、それぞれのホテルの部屋から見るそれぞれの風景と言うのは、冷静に考えてみると、美術館で眺める風景よりもはるかに面白いものであった。しかも1つのホテルに2週間いたりすると、その間の天候の変化というものが非常に面白い変化を私に見せるのである。窓と言うのは、その意味で不思議な存在だな。ただ私が言いたいのはまずから見た風景が、お風呂屋さんの絵のように海岸があって、三保の松原があって、遠くが富士山で綺麗で、絶景絶景と言うような意味ではない。バルセロナの安宿に泊まった時、道の幅があまりになくて、手を伸ばせば反対側の建物の壁に手が届くのではないかと言う。狭い路地のこちら側にあるホテルの窓から見ると、反対側の建物の住民の生活が丸見えになるのである。しかし、ヨーロッパと言うのは礼儀のわきまえているところだから、目があったりするとお互いに挨拶をしたりすると言うのは痛快である。パリジャンの暮らしにしてもそうであって、世界的な有名な写真家を取材に行った時、彼は大金持ちであると聞いていたが、パリで暮らしている部屋というのは、まさに6畳と4畳半の長屋という感じであった。2024/08/18 09:03:03161.名無CCDさん@画素いっぱいoswMp54年前の話である。1970のエキスポに行ったことを記憶している人はもう後期高齢者になっている。それなりの貴重な体験であると思う。私が属していた日本デザインセンターもスタートしてから10年と言うので、高度成長期の波に乗ってきたので、ここら辺で社員教育には公的なイベントだと言うことで、会社の研修で大阪に行ったのは記憶しているが、何を見たのかは全く記憶していない。ただ、ただこの写真のように人混みばっかりだったと言うのは、記憶にかすかに残っている。それともう一つは何時間待ちというのが自慢話になったことだ。日本に有名な世界的美術館クラスの名画が来たりすると、やはり同じことが起こって、そこに到着するまでに何時間待ちというのがステータスになる。主催者側のコンセプトに完全に騙されているのは言うまでもないが、54年前に大阪で開催されたエキスポで、果たして半世紀後に確実に我々の生活に生きていると言うものは、一体何が残っているのであろう。彼らの未来予測と言うのは、ことごとく外れてしまった。1つ確実なのは1984に代表されるような政府が人間を管理するその方法は50年前の仕掛けがそのままうまく機能していると言う位のものであろう。1984が私にとって重要なのはMacintoshがスタートした時と言う意味でもある。2024/08/26 07:14:40162.名無CCDさん@画素いっぱいy37sM女の子の顔がわかるように正面から盗撮とか言うので犯罪を形成するらしい。スナップ写真を撮影して50年以上になるけれども、世の中はどんどんヘンテコリンな方向に行ってしまって、卒業アルバムなどでも個人が特定できるような顔写真の使い方はダメだと言うことらしい。かつてのスターリンが統治した東ヨーロッパよりももっと凄いことになってしまって、しかもそれを誰も危険だうざっと思っていないところが大問題なのである。 このショットは某写真コレクションに入っている1枚であるが気にいっている。何かの弾みで1960年代の京王線のどこかの駅で偶然撮影したショットである。この写真がかなり古いのは、今はこんな床の材料を電車のプラットホームに使っているとこがないからだ。 女の子2人がそれを石けりの感覚で遊んでいるというのが実に不思議であって、しかも2人が後ろ姿であると言うところになんとなくかっこいいなと思っておそらく1枚ぐらいしかシャッターを押していないと思う。これを今の時代に発表すると、正面から女の子の顔がわかるというのが、特定の人間がわかってしまうと言うことで、世の中が騒ぎになると言うことなのであろう。私の感覚は全くその反対側であって、後ろ姿と言うものは、女の子の存在感が普遍的に強調されるものなのである。私が撮っている写真はいずれもそうだけれど、人間の存在感を強力に浮上させるためには、後ろ姿に限るというのが私のセオリーなのである。2024/08/30 06:38:12163.名無CCDさん@画素いっぱいQ1aNE1974年にウィーンのアパートメントで撮影されたものだ。まだ寒い時期であるが、おそらくお正月の記念写真として撮ったものではないか?そういう自分の作品以外の記念写真と言うのを家人が丁寧に保管していて、1996年に日本カメラから出した私のウィーンとライカの日々の本編とは関係ない。読み物のところで使う写真を探していた時に、これらの写真を提供してくれたのである。よく写真集とか何かで作者本人の写真が登場していると言うのは何か意味ありげというか全体の時間的な構造が分厚くなるという意味で効果的だと思う。例えば皮肉なのはアルチュールランボーは武器商人としてアフリカに滞在しているときに、写真の技術に興味を持って、当時のお金で4000フラン位をパリに送金して写真機を手に入れているのだ。ところがアルチュールランボーが撮影した写真は全部で8枚しかなくて、そのうちの6枚は自分を撮影したセルフポートレートなのである。その意味でアルチュールランボーは写真が持っている良い意味と言うものをいち早く認識して、そしてあっという間に写真の興味から遠ざかっていったと言う意味では天才なのだ。このショットは家人を椅子に座らせて、そのすぐ上に私が立って撮影したありきたりのポーズではあるが、その時のセルフタイマーのなる音とか、撮影の瞬間のライカのシャッターの音などを未だによく覚えているのは、このようなセルフポートレート私がめったに撮影しないと言う理由によるのであろう。それで左のほうにある文字列に何が書いてあるのかつまんで読んでみたら、なんと70年代全般にライツオーストリアに行ったら、レアなライカエムピーが50,000円位でウインドウに出ていて、それを買おうと思ったら、お店の人がレアなライカであることに、気がついて、うってくれなかったと言うくどくどしい文章が書いてあった。2024/08/31 07:58:44164.名無CCDさん@画素いっぱいb970Mメイドインオキュパイドジャパンの刻印のついたカメラやレンズやアクセサリーをコレクションする連中がいて、あまり上等な趣味だとは思わないが、平和のためだと言う理屈をつけると通用するようである。私もその1人である。 当時の日本のカメラメーカーとしては国辱的な感じであったのであろう。それでなるべく目立たないところにメイドインオキュパイドジャパンの刻印をつけたのである。これはニッコールレンズの3.5センチであるがレンジファインダーの距離計連動カムのところにうまく刻印してある。同じ時代のキャノンレンズを見て面白いと思うのは確かに刻印はされているのだが、それがレンズ本体ではなくてリアキャップに刻印されているのである。ここら辺の個性の違いがニコンとキャノンの違いだなと分析してみると面白い。 昭和25年の講話条約が締結される。以前のメイドイン生生杯とジャパンの刻印の付いているカメラは、市場にはたくさんあるにもかかわらず、なぜか1番最初のニコンのレンジファインダのカメラだけが数百万すると言うのは、市場の不思議さである。 同じ時代のキャノンのレンジファインダカメラだったら、現在でも20,000円位で買えるものであるからだ。初期のコニカのレンジファインダカメラで面白いのはメイドインオキュパイドジャパンの刻印付きの一番最初のコニカのモデルには2つあって、1つはカメラの裏側のエンボスのレザーの部分に極々目立たないように刻印があるもの。これは業者さんも気がつかないで、そのまま値付けをしてしまうから非常に安い。もう一つのモデルは、ごく初期の最初のコニカであるが、これはトップカバーにメイドインオキュパイドジャパンがかなり大きく刻印されている。それでこちらのほうは値段はかなりお高くなります。2024/09/01 06:35:36165.名無CCDさん@画素いっぱいWMnESドイツの国会図書館ではこの私のライカの本ライカマイライフは写真集として登録されているのは嬉しいことだ。最初は写真集として発刊しようと思ったのであるが、いろいろな事情があって写真集は売れなくて、書店などでも写真集のコーナーに並べられてしまうと全然書いてがつかないのである。それでこのライカマイライフの場合は写真集なのかカメラ本なのかそれともエッセイなのかわからないような中途半端なポジションにセットしたことが逆にうまくいったようである。今の時代であるから重さが2キロも3キロもある思い、写真集を作るより手に取れて持ち歩ける、こういう形の写真集の方が実践的である事は言うまでもない。それで表紙の写真のセレクションなのだが、表紙の織り込んである部分を広げると。実際には2枚の写真が横に連続しているように見えるのである。これがその1部を示したものだが、表の表紙は半分になっているが、裏の表紙のほうは全部広げてあるから、35ミリの横市のように見える。この本を手がけてくれた泉編集長と言うのは、私の知る限り最も優れたエディターであると思うけれども、そこら辺の配慮が非常に効いているのはありがたいことだ。2024/09/03 04:45:54166.名無CCDさん@画素いっぱいHwdyR東京の亀有駅のすぐ近くにあるポーラ化粧品の看板である。例えば70年代に私がいつも発見すると、ノスタルジックオブジェとして撮影していたのに、ベルモットの広告などがある。ドイツバイエルの広告もそうだし、カールツアイスの広告もそうだ。その広告のロゴタイプが、そのままモダンアートの存在感になっているところが好きなのだ。ポーラ化粧品の看板も同じ種類に属する問題だと私は考えているのだが、この亀有駅前のボロボロの看板は時代が変わっていると言う意味でも非常に好きなものであった。ところがどうもある時店のオーナーがちゃんとした看板屋さんに修復を依頼しないで、自分で勉強塗ってしまったような感じが、そこにはあるので、かなり稚拙な感じのプリミティブなポーラの看板になってしまった。言い換えれば、ポーラ化粧品の領域をいっぽ上のクラスに行ってしまって、ポーラ化粧品ダッシュと言う存在感を獲得してしまったのである。。イタリアの田舎のどっかの礼拝堂のイエス・キリストのあるいはマリア様だったかもしれないが、地元のおばあさんが勝手に歴史的な遺恨を修復して、モダンに書き直してしまったようなところがある。ポーラ化粧品の看板が外国にあるかどうかは知らないけれども、あまり日本国内を旅行する機会のない私であるが、数年前高知県立美術館に高知出身の有明写真家の展覧会を見に行く時に駅前にポーラ化粧品のいい感じのお店があったので、これも非常に広いものだと思って満足したのであった。2024/09/04 07:10:59167.名無CCDさん@画素いっぱいKRfoCウィーンに暮らしていた頃に映画の仕事を手伝ったことがある。ちゃんとタイトルロールに私の名前がスタンドフォトグラフと言うので出てくる。ちゃんとした仕事である。1つは有名な古河シュレンドルフがまだ有名になる。前に撮影したとどめの壱発と言う映画で、これは第一次大戦の戦争ロマンなのである。そうなるとウィーンの東ハイドンなどが活躍した古い街の郊外で撮影をした。連日の雪であって、舞台は第一次大戦のロシアと言うのだから格好である。ロケーションがめんどくさいのは、そこに蒸気汽関車が登場して、実際に蒸気で動くわけであるが、その速度をうまく調整するというのが蒸気汽関車ではほとんど不可能なので、何度も取り直しで大変な目にあった。もう1本はwinをテーマにしたコミックなアクション映画であるがこれは1930年代のドイツの街という設定なのでwinのそこら辺の飲み屋とか裁判所とかwinの中央部知事がそのままロケーションになる。要するにかつて大流行したニュージャーマンシネマと言うのはアメリカのハリウッドに比べてコストがかけられないから何でもかんでもロケーションで取ってしまおうと言う極めてドイツ的な経済映画なのである。それでwinに行った時に、何の気なしに駅のターミナルでこーゆー撮影をしたのであるが、3人の登場人物がいて、右の男性は松葉杖の人で左の男性はまた性格的にちょっと問題がありそうな感じの人である。ところがここで主人公と言うのは意外と目立たない中央で、あまりはっきり存在感のない男性なのではないかなどと考えてみると、まさにこういうワンショットがニュージャーマンシネマが醸し出すアピアランスなどだと思う。右に看板がちょっと見えるバンクオーストリアと言うのは50年前に私の写真展を企画してくれたり、コレクションに買い上げてくれた大手銀行である。日本の銀行だと文化的と言うとすぐ手芸とかそういうレベルになってしまうから、最初から文化で色が違うなどと言う事はここで言っても仕方がないね。2024/09/07 09:04:14168.名無CCDさん@画素いっぱいUKBrW^_^通りを歩いている時、私の通行を横断妨害する形で、コカコーラの配送車が入ってきたり、出て行くときに私は一瞬歩行を停止して考える。さてこれは何の夢の続きであったのかと言うことなのだ。日大写真学科の卒業制作の50数点の1連の作品シリーズでも時々中にコカコーラのシンボルマークとか看板が入ってくるのである。今にして思うと、コカコーラと言うのは、当時の最もモダンで憧れの強いアメリカのシンボルマークであった。中学生の文京区立第7中学校に入った時、私のレベルが高かったのではなく、クラスのレベルが低かったのですぐ生徒会長になったりしたのである。それでこれも今ではありえないことだが、理科の担当の梅田先生と言う人が私をすごく可愛がってくれて、高田の馬場の当時、珍しい鉄筋コンクリート、アパートの3階に宿泊に行ったりしたのである。梅沢先生は文化人であるから、ライフのバックナンバーなども山のように持っていたし、キャノンの最新型のレンジファインダカメラには、当時最も明るいav点5のレンズが付いていた。それで梅田先生のお宅で、マクドナルドはまだ日本に来ていなかった。60年代初めであるが、コカコーラとウィンナーソーセージを食べて、何かアメリカ文化の一端に触れたような気がしていた。中学生の私であった。あの頃のコカコーラは結構高くて50円位したと思うけれども、自動販売機にコインを投げ込んでドアを開けて冷えたコーラを1本引っ張り出すと言う方式のやつだった。あの当時のコカコーラの味わいと言うのは何かもっときつい味わいであって、あれが大人の味と言うのだと理解していたのである。時代が食って、日本ではペプシコーラとコカコーラの戦争になったりした。1980年代ポーランドが戒厳令になってその戒厳令が解除された。最初の飛行機で私は週刊朝日の取材でワルシャワに飛んだのであるが、ワルシャワの街はコカコーラではなく、ペプシコーラの帝国であった。国によって、河原のバックグラウンドの色分けも違うなと感心したものである。2024/09/09 08:25:01169.名無CCDさん@画素いっぱい9wBmtロバートフランクはわざわざパリのフラワーを撮影するために取材に出かけたのである。アマチュア写真家にしてみるとお花は綺麗だからとると言うので、カメラメーカーの新型カメラのテーマなどでもやたら推奨されているが、花の写真と言うのは実はそんなに生易しい身近なモチーフではない。写真家にとって花が何者であるのかと言う話を現在書いているのである。それで私にとっての端と言うのは部屋に飾られたいくつかの腹があるけれども、これは家人のお弟子さんが花屋さんを房総半島でやっているのでそこからいただいたものである。そういうお花は確かに綺麗だけど、私が目指しているのは野原にある。花と言う言い方は変だが、ストリートに咲いている花を真面目に撮ってみたい。20年位前に足立区の西新井をフラフラしていた時に駅のすぐそばの東武伊勢崎線の線路のすぐそばに何か存在感の際立つお花があって1枚だけ持参した。ブラックロードのカメラで撮影した。このショットが、私には忘れられない。なんというか、アスファルトの片隅に咲いた大都会の花と言う感じなのである。適当な露出でからネガティブで適当に撮影したら、想像外にみずみずしい写り方をしていたので、それが気にいった。ルネッサンス時期の花をイラストとして、極彩色の色彩を施した細密画があるが、何かそういうルネッサンスのグラフィックの存在感みたいなものを感じたのである。2024/09/11 06:49:44170.名無CCDさん@画素いっぱいUxirO日本カメラにこのシリーズの連載を始めたのは30年位前のことだ。最初は1ページもので1番最初に登場したカメラがロバートキャパが使っていたニコンカメラの話だった。それで読者の皆さんがついてきてくれたので、5年位連載したところで、単行本の出版が決まった。ここら辺はまさに日本カメラの前田編集長のパワーによるものなのである。当時は新製品レビューとか過去のカメラの分析の話が普通にあったけど、カメラを文学として扱うと言うようなジャンルはまだなかった。そこら辺が前田編集長のユニークなところだと思う。業界の大先輩も褒めてくださる時に、カメラの話を始めて文学までを押し上げたと言ってくれるのは本当に嬉しい。そして20年位の連載で、結局このシリーズの単行本は3冊になった。一番最初の本のシリーズで表紙にもなっているが、これはチェコの著名写真家Sudekが使っていた。縦3センチ18センチのカメラで私のアトリエにあったものである。ガラスプレートなので使えるガラスプレートを探すのに苦労したが、ついに1枚だけ見つけたのである。大写真家がよく撮影に行っていた。プラハのセメトリーで三脚に乗せて1枚だけ撮影した。露光時間は確か絞りがエフ22で1秒位だったかな。大写真家に助けられてちゃんと映っていた。感動は未だに忘れられない。2冊目は普通のライカスタンダードが表紙になっていて、ライカスタンダードというかレンジファインダのないカメラは私の半世紀以上使っているカメラなのである。ライカにレンジファインダーは入りませんね。3冊目の表紙はプラウベルマキナの戦後モデルである。その後土井が作った。日本製のやつと比べてしまうと、やはり存在感の本質はドイツ製の金属カメラにあることが理解できる。これでプラハのシリーズをたくさんとって、写真展をしたり、雑誌に発表したりしました。 このクラシックカメラ三部作が私の基本のトライアングルになっているのは、編集長の前田さんに感謝せざるをえない。カメラ雑文をちょっとカメラ文学のほうに押し上げるパワーを私に与えてくれたと言う意味で感謝。2024/09/14 11:55:12171.名無CCDさん@画素いっぱいSfPgnウィーンの駅のターミナルでお花を販売しているジェントルマンである。1970年代の後半の撮影だと思われるが、そうなると使っていたのはソ連製のコンタックスのコピーである。キエフでレンズはこの焦点距離の感じからすると、ジュピター85ミリに違いない。ウィーンで撮影したスナップポートレートの中では1番気に入っている作品である。1時スナップポートレートに興味を持って、ウィーンの蚤の市などでかなり人々を撮影したのであるが、あまりに接近してしまうと、その人の存在の本質が逆に薄れていくようなところがある。それでこのワンショットは結構サイドからとっているのであるが、その人の表情と思っている。お花の間神が私のスナップポートレートの中では結構上のレベルだと思う。我楽多屋のにだいめさんが中心になって、私が70歳と74歳の時に限定版写真集を出してくれた。これは100分限定なので、あっという間に完売になった。その他に、我楽多屋のにだいめさんが、この私の好きなショットをTシャツにプリントしてくれたりしたこともある。ウィーンの人々を撮影したシリーズで他に忘れられないのはカメラ毎日1974年1月号28ページ掲載されたから作品のウィーン記憶の街というのがある。その中で素敵に着飾った双子のおばあさんのおばあさんを縦画面で撮った写真があって、これはダイアンアーバスの双子の姉妹みたいな感じで、これも気に入っているのである。このカメラ毎日、1974年1月号は新聞社の内部規制コードに触れて2ページが切り取られた感じで全国の書店に並んだのであった。それでとばっちりを受けて、その2ページの中の1ページが双子のおばあさんの写真なのである。そして問題になった。そのページの反対側は独裁者の肖像と言うタイトルの政治ポスターであって、そこには毛沢東とかアドルフヒトラーが並んでいる。当時日本と中国の国交下で毛沢東を持ち上げる必要が あったので、こんなことになってしまった。 その話を友人の若い写真家に行ったら、彼はわざわざ国会図書館まで行って、破られる前の完全な状態のカメラ毎日を探してきて、そのコピーを私に示したのであった。2024/09/15 06:29:32172.名無CCDさん@画素いっぱい08iDiWinの日常の日々で毎日のルーティンと言うのは、別に観光客の皆さんのように旧市街のシュテファン大聖堂に行くわけではない。カメラを持ってうろうろするのはなるべくツーリストが集中していない地域なのである。それでそれぞれに私のカメラ散歩のルートが知らない間に出来上がってきたと言うわけだ。映画第3の男で有名だけど、第二次世界大戦が終わって10年間はアメリカフランスともう一つはソ連の占領したのがこのウィーンと言う西ヨーロッパと東ヨーロッパの境界線にある巨大都市であった。その東西大勢の真ん中を仕切っている橋の名前が平和橋というのである。その東側はソ連の占領地域であった。私が住んでいたアパートメントは2回であって、そこからドナウ川の流れがよく見えたが、そこはソ連の占領地域なのであった。それでドナウ運河の流れの右側にそって、北のほうにどんどん歩いていくと、風景はどんどんカントリーの方向になってゆく。そこで犬の散歩のおじさんとドナウ運河を泳いでいるかもちゃん頭頭の国際交流であるかどうかは知らないが、面白い光景をこんな感じで撮影した。写真で見てもわかるけど、ワンチャンとかもちゃん頭とは別に対立関係にはないから喧嘩をするでもないし、お互いに相手の存在を根本的に認めていると言うところが偉いと思う。今のパレスチナ問題とは全く違いますね。2024/09/16 06:42:25173.名無CCDさん@画素いっぱいGBR2R人物スナップと言うのは半世紀やり続けてもなかなか思うように取れないところがある。特に少年少女のスナップショットと言うのは2つのやり方があって、1つは出会い頭にノーファインダーで撮影してしまうことだ。これだと非常に自然なスナップショットが取れる。これがまずその良い例と言うわけだ。スナップショットのカメラの高さと言うのは、目の高さと言うふうに決まっているわけではないのである。これが肘で胸に持ったカメラの高さからカメラを目の高さに上げると、その間に0.2秒位のタイムラグがある。そうするとデリケートな少年少女たちは、その間に自分の表情と言うものを作ってしまう。別に作った表情が悪いと言うわけではない。でも私が忌み嫌っているようなカメラに向かってのブイサインと言うのは、ヨーロッパの子供たちはやらないね。あれをやっているのはウィンストンチャーチル位なものだと思うと、大笑いになってしまう。1970年代の初めごろにスナップした私が住んでいた。アパートメントの近くなのであるが、路上の交通量が非常に少ないのが懐かしい感じがする。ウィーンで暮らしだして2 3年と言うのは非常に寒い気候で暖房などにも苦労した。だから用事があって、ウィーンからパリに行ったりすると、あまりの冬の暖かさにもう春が来たのかと錯覚するほどである。その時のパリの冬の寒さというか、暖かさで最初に私が感じた印象と言うのはこういうものだ。パリの冬なんていうのは子供みたいなもんだね。カメラはソ連製のコンタックスのキエフでレンズはソ連製の35ミリだったと思う。フォーカシングはいつもインフィニティーになっているからピントを外す事は無い。フィルムはそこら辺で買ってきた。安い映画用フィルム。2024/09/21 07:12:50174.名無CCDさん@画素いっぱいQkrPq人類が歩いていく。後ろ姿と言うのは、人類が写真を観察するときの最もシンパシーを感じるシチュエーションの1つであると思う。だから1番有名な人類が歩いて行く後ろ姿と言うものは、友人スミスの撮影したタイトル忘れてしまったけど、楽園への歩行だっけ?あの種類のわかりやすい写真と言うのはちょっとポピュリズムすぎるところがあって、それは気に食わないけれども、写真を理解する。共通点としてはそれなりに有効だと私も考えるのだ。このショットは私が撮ったものではないし、10年近く前にどこかでアップしたものなのだけど、実に優れたヒューマンポートレートだと思う。よく見ると、右のお母さんの後にはもう1人赤ちゃんをおんぶしているようにも見えるが、歩行している。少年が母親を振り返って何かを訴えていると言う。要するにこのショットからありとあらゆる人類の映画というか小説の可能性がここからスタートできるのである。そしてこの人類2人プラスワンが歩いている道が、映画では、なかなかこういうロケーションを設定するのが難しいと思われるようないい感じのカントリーロードである。これが普通の大都会のストリートの道だったら、かなりヘンテコリンなことになってしまって、ストーリーが展開しないと思われる。文芸雑誌新潮に2年間24回書いた私の連載エッセイ、屋根裏プラハであるが、その最後のほうに、こんな意味の記述を私は書いたのを思い出した。プラハのアトリエから路線バスでプラハ空港に行く途中にかなり広いボヘミアの野原がある。季節は春でまだ緑が吹き出す前のボヘミアののかなと言うのは紫色に被っているのである。そして私の不十分な視神経の視点のつける果てに、後ろ姿の男女がもくもくと背中を見せながら歩いていくのが見える。そして、早朝のボヘミアの上からは、全体が紫色に被っているのである。そこに私は後ろ向きに歩いているボヘミアの男女の存在感と言うよりも、この地球上を後ろ向きに歩いて行く人類の共通の識別信号のようなものをそこに感じたのであった。^_^と言うような意味合いの内容を連載エッセイに書いていたと言うことを今思い出した。人々の後ろ姿は重要であるが、同行者の青年が母親に向き直って何かを訴えると言うのもさらに重要なワンシークエンスである。2024/09/23 10:37:53175.名無CCDさん@画素いっぱいy5wHSチューリップの花と、大仏の頭チューリップの話すと大仏の頭と言うのは落語の三題噺みたいで何のことかわからないであろうがちょっと聞いてください。ウィーンの8年間にはいろいろな面白い人とか素晴らしい人とお付き合いがあったが、中で1番面白い人と言うのは日本の有名な大学の跡継ぎのお嬢様であった。ウィーンに音楽の勉強をしにきたのである。お金持ちのお嬢様だから、それはそれで文句を言う事は無いのであるが、彼女の考えている世界観というのが例えばツーリズムから見ても、あまりにも単純極まりないと言うところが滑稽であった。例えば、オランダに行った時は、チューリップの花を見ると言うのは安直なツーリズムである。その直後に日本に帰って、奈良の東大寺の大仏様の頭の上の方を見るツアーというのがあって、これが100年に1階なのだそうである。ツーリズムと言うのは何でも見てやろうと言う。貪欲な視神経に裏付けられた世界の一大産業であるが、当たり前のオランダでチューリップを見た後に日本に行って大仏の頭を見ると言うのはシュールレアリストでなければ、かなりレベルの低いツーリズムに対する意識である。チューリップの花をまともに観察した事は無いのだけど、ウィーン時代に友人からウサギを預かっていたことがある。それでウサギの風貌とその動き方をよく見てわかったことがある。これは私が今までウサギを観察していないし、花も観察していなかった。その反動によることであって大した発見だったのだが、一言で言ってしまうと、ウサギと言う動物はチューリップの花に動きが似ていると言うことだ。まず耳などがすごく似ているのはわかるけどね。それともう一つ、それに関連してウサギの話なのだが、知り合いのギャラリーで私が個展をやったときに、50年前の友人から預かった。そのウサギのポートレートが素敵なので、展示の作品の1つに加えた。そこで入院時代の私の友人の弟さんで国際的に活躍しているジェントルマンが私のギャラリーに見学に来たのである。そしたらそのギャラリーのオーナーが私が事前にそのウサギの素性を教えておいたので、こんなことを言ったのだ。あなたのお兄さんがウィーンの絵描き時代に飼っていたウサギの源氏さんです。記念に買ってください。実の兄貴が飼っていた。ウサギの写真を売ると言うのは、ギャラリービジネスとしてはちょっと考えものではないかと?2024/09/26 06:08:37176.名無CCDさん@画素いっぱいlOkU7京都と言う街は、上から下を見下ろすには向いていないカメラジャーナルの連載で安原カメラを持って出かけたところが京都であった。レンズはコシナレンダーの50ミリef 1.5がついていた。この大振りのレンズは意外と安原カメラに似合うのである。かつての京都ホテルと言うのはよく使ったホテルであって、当時は白い6階建てか7階建て家の建物であった。1976年にヨーロッパを巡回した写真展の準備で来日したときに、その後京都に遊んだのである。すでにヨーロッパの生活に慣れていたつもりの自分でやったから、京都ホテルで部屋に案内された時に1ドル位の小銭を案内してくれた人に渡そうと思ったら拒否された。要するにチップの習慣というのが日本にないと言うことにその時気がついたのである。例えばアマゾンで膨大な注文したものを家に届けてもらっても1ドルも渡さないと言うのは変な話である。これがアメリカだったら大騒ぎになるところだ。ところで、京都ホテルはその後モダンな建築物になってオークラホテルといったっけ?そこもよく使うので、アップグレードで最上階の角部屋にしてもらったのはいいが、冷静にわかったことがある。仕事をしているところは六本木ヒルズの49階であった時、タワーマンションの上の方にも住んだことがあるから、上から見る視神経に慣れているのであるが、日本の京都のような古い都は、別にタワーマンションの上から見ても風景が脆弱になるだけであって、何のプラスにもならないと言うことを、このときの京都ホテルのアップグレードで強烈に感じたのであった。2024/09/27 07:57:23177.名無CCDさん@画素いっぱいk3OyBデジカメ時代にライカピストルのことを考えてみるウィーンでお付き合いのあった図で、ドイツ人でドイツ空軍のパイロットの偵察任務をしていた人がいて、いろいろカメラについて話をした。ピアニストの山下洋介さんがウィーンに演奏できたときにそのデー、ドイツ人を紹介していろいろなピストルを見せてもらったこともあった。そのズデーテンドイツ人は路上を歩く時もピストルを携帯して歩けると言う資格を持っているそうである。桑原桑原。^_^その人から1938年のベルリンオリンピックの時に手に入れたと言うライカ。ピストルと赤いオリジナルボックスと取扱説明書を譲ってもらった。その他に宣伝のリーフレットが付いていて、民族の採点を撮影するにはライカ。ピストルこそがふさわしいなどと言う当時の時代背景を移した。すごいことが書いてあった。ライカピストルとライカビットの違いは今更言うまでもないが、巻き上げのチェーンみたいのが本体に内蔵されている。ライカの開発の巻き上げ装置に関するところで、最大の失敗はバルナックライカ用のライカビットが戦後ライカM3につけてライカムピになったことだ。こういう間違いをライフの偉い写真家とかがライカの会社に進言。すると、会社は開発に対する考えというのがないからホイホイ作ってしまって、後の世の我々に迷惑をかけるのである。私の長い経験でライカピストルが実際の撮影に役に立ったと言うのは1度しかない。その作品が何であるか説明すると、私のウィーンとライカの日々で、左ページに窓枠を外した男性がそれを私のほうに向かって抱えてきて、その背後にはロータスヨーロッパがこっちに向かってくると言う。およそ通常では想像のできない2つの物体の組み合わせが私に目かけて突進してくると言うショットである。このショットはこのカメラと同じ組み合わせで撮影した。その前のショットは何か面白い。子供か何かを映して、はっと気がついたら、左手にロータスヨーロッパとウィンドウズマンが迫っていたのである。それで瞬間的にライカピストルでフィルムを巻き上げて。この改心のショットが撮影できた。2024/10/02 09:39:31178.名無CCDさん@画素いっぱいG1DJs私が撮影したのではない。Facebook上でどなたかが撮影されたものであるのだが、非常に面白い劇サンプルなので保存しておいた。これは見るに非常に日本的な慎ましやかな。遠慮がちなベンチの座り方である。右の下と左の人とは別に知り合いでも何でもなさそうである。むしろ知り合いでこのような座り方をしたら絶交状態と言うわけだ。ベンチの座り方と言うのは、日本ではまだ歴史が浅いから、やはりヨーロッパなどに学ぶべきところが多いと思う。アメリカの人種差別のホワイトと有色人種を隔てて座らせるなどと言うのはとんでもない話だからここで溢れない。一般的にヨーロッパの庭園などだと人気のあるところは、まず夏なら日陰が1番で冬なら日向が1番であるが、1番激戦地になるのはバラの花が咲いている時期だと思う。そしてそういう時バラの花の咲いている前のベンチと言うのは 1つの不文律というかルールができていて、皆さん仲良く譲り合ってベンチに腰掛けているのはさすが民主主義の国だと思う。それでバラの花の最も人気のあるコーナーになると、1つの標準の幅のベンチに5人ぐらいかけているのも何か微笑ましい。^_^もう一つ面白いのはヨーロッパの地下鉄の座席の座り方だ。パリは非常に礼儀正しくて社会的な礼儀というのを皆さん持っているから、正面にしっかり座って向かいの人の動きなどは最初から全く自分は気にしていませんよと言うようなふりをしている。これが自由平等の国の最も重要で基本的な座り方なのだと思う。ところが面白いもので、プラハなどに来てしまうと、地下鉄の向かい合ったベンチで体を相手に向けると言うのは多分になっているのだと言わんばかりの行動力で、90度通路側に体を向けて座っている人もいてくれなどはなかなかプラハ独特な地下鉄の座席の座り方だと思う。要するに、フランツカフカの国であるから、個人主義が鋭敏になって、パブリックな場所としての地下鉄の座席の座り方などにもその個性が出てくると言うところが面白いと思う。2024/10/06 10:08:01179.名無CCDさん@画素いっぱいDQS1Pプラハのアトリエの日時計まだiCloudが実用化する。以前の話であるが、文庫本を1冊書くので全部の半分ぐらいまで書いたらそこでハードディスクがクラッシュしたのである。今では考えられないけれども、それで仕方ないのでいつも宿泊しているイスタンブールのブルーモスクの反対側のトルコの安いホテルで、左は最高裁判所と言う変なロケーションのホテルに3週間ぐらい宿泊して原稿を書き直したことがあった。ところが、イスタンブールのど真ん中で仕事をしているとなかなか誘惑の多い所であって、何しろ目の前の広場はツーリストが何万人も集中する場所なのである。 だから、仕事のデスクと窓から外を見るのが、半分半分になってしまって、全然仕事にならなかった。それに対して、プラハのアトリエは、こんな感じで、何しろ収容所みたいなものだから、他に気が散るものがない。それで何日もここで雑文を書いていると、窓枠にあたる光が日時計そのものであると言うことに気がついた。今のヨーロッパでは大昔に使われていた日時計がそのまま古い建物に残っていたりするが、現代人はiPhoneを見て時間を教えるから、実際の役には立っていない。そういう状況の中で、私のアトリエの日時計はなかなか実ようになったのである。2024/10/20 14:33:56180.名無CCDさん@画素いっぱいDcgse私がヨーロッパに暮らしていた頃は、社会主義のヨーロッパが存在したから、その社会主義の国にぐるりと囲まれたのがオーストリアなのである。そういう時代背景で社会主義を批判するブラックユーモアの言葉を、東ヨーロッパの人たちは研ぎ澄まして上昇させていたのだ。いくつかあるが、結構シニカルで面白いのはポーランドのワルシャワの文化宮殿は典型的なスターリン建築である。ワルシャワの人々はそれを見るのが嫌なので、絶対見ることのできない場所というのがある。それは文化宮殿の展望台に行くことなのであると言うようなブラックジョークは素晴らしかった。それで私も社会主義国時代の文化宮殿の上の展望台に登って、文化宮殿が存在しない当時のワルシャワを見たのである。下に降りて広場で赤い炭酸水を買って飲んだら、それは薄い甘口で、何やらほんのりするような東ヨーロッパの味であったことも思い出した。プラハのアトリエの北側の窓のその先には、このようにプラハの唯一のスターリン建築であるホテルインターナショナルがそびえている。社会主義国時代、つまりビロード革命、前には夜になると、その赤い星がピカピカ光るのがすごかった。世界でここだけしか見ることのできない光景に思えた。ビロード革命から数年経って、ホテルインターナショナルは、西側の資本に買収されて、夜になると、赤い星から緑の星に変わったのである。このショットはまだ星が赤かった頃のものだね。2024/10/21 11:57:59181.名無CCDさん@画素いっぱい952fc^_^フランスのエクレールと言うフィルムカメラメーカーは映画な発明された当初からの代表的なカメラメーカーである。戦前はどこにでもあるような長方形の本体のカメラを制作していたが、戦後になって手持ちカメラにふさわしいムービーカメラを登場させて、それが一世を風靡したのであった。Cameflexである。ヌーベルバーグ時代のありとあらゆるムービーの撮影に使われた。このカメラが面白いのは35ミリスタンダードのフォーマットのほかにアパチュアプレートとマガジンを交換することで、数分の短さで35ミリから16ミリにシステムを移動させたり、あるいはその逆ができると言うことであった。カメラメーカーのアイディアとしてはいかにも便利そうに見えるが、1つのフィルムを制作するときに最初から35ミリ子にするかそれとも16ミリにするかと言うのは決まっていることであって、途中からフォーマットをチェンジすると言う事はありえないので、せっかくの発明もあまり役にはたたなかったようである。もう一つはこのムービーカメラはワイルド撮影しかできないので、同時録音をするときには回転音が大きいから実際には不可能であったと言うことだ。そのためにこのカメラ用のブリンプが出たけれども、これは重さが何10キロもあるので、実際のロケーションで手持ち撮影等はできない。それでクレールの会社はその後16ミリ撮影機でノイズレスポータブルレフレックスと言うモデルを出した。 これは回転音が静かなので、脇にテープレコーダーを置いて同時録音ができる。2024/10/22 18:42:24182.名無CCDさん@画素いっぱいAt3Eiこの時住んでいたのはタイムズスクエアの近くのホテルである。ドルレートが280円の時に1週間で130ドル位するコストだから結構高かった。それで大晦日の大騒ぎをタイムズスクエアで体験した後にマンハッタンの全体が撮りたくなって、フイルムはフォルダーに1枚だけ残っていたのを持ってアンダーグラウンドに乗ってBrooklyn Heightsに撮影に出かけた。天気は良いが非常に寒い。風の強い日であった。それで適当なところまで歩いてここぞと思う。ところでマンハッタンの写真を撮ったのがこれである。今にして思うといろんな意味付けができて、最初で最後のツインタワービルをとったとかいろいろなことが言えるけれども、この時の私の撮影の目的のいうのは、やはりマンハッタンの全貌を撮影したいということになった。まだツインタワーが破壊される時まで17年の時間があるから、意識がそちらの方向に向かってしまうのであるが、やはりこの時の私のカメラを携えた空間構造の認識感覚は、元旦のマンハッタンを撮影すると言うところにあったのだなと今にして理解できるのである。8 × 10インチのカラーフィルムは、アメリカでは非常に高いので、方向変換をして8 × 10インチのモノクロフィルムに転向して、それが結果としては良かったと思う。2024/10/24 06:23:26183.名無CCDさん@画素いっぱいQ7VWY東京ニコン日記は、ニコンのブランドが登場した50年をタイアップして出された戦勝版の800ページ近い写真集である。新書版と言うと、本のサイズとしてはかなり小さいから写真集に向かないと思われているようであるが、この試みは私は大成功だったと思っている。写真の絵柄と言うものはこのぐらいのサイズであれば充分であるということがわかった。普通の世の中の写真の価値と言うのはシャープであればシャープであるほど素晴らしいと言う退屈な価値観なのである。それに対して全く正反対の印刷の試みをしたのがこの新書版の写真集と言うわけだ。最近では中古価格が上がって、私も本屋さんにリクエストをかけているのだが、なかなか発見できなくなってしまった。膨大な数の新書版の本を出したけど、その中で1番好きな新書である。東松さんのショットは1968年に撮影した。新宿がデモで、騒がしかった頃にカメラ毎日の撮影であった。車の中に三脚を立てて、望遠レンズを2つ使っての撮影だった。右のページはデビットダグラスダンカンさんと三木淳さんである。銀座のカメラ屋さんに行った時、偶然お目にかかって楽しく話をしたが、その前にダンカンさんにお目にかかったのは十数年前の1972年にダンカンさんが、英雄なき戦争と言う写真集を作って、その出版記念パーティー以来、だから、ずいぶん久しぶりである。でもダンカンさんは私のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。2024/10/31 15:05:56184.名無CCDさん@画素いっぱいkB0xi1970年代はなかなかウィーンの建物を観察するには良い時代であった。それというのも今のようにセキュリティーの観点からドアのエントランスにオートロックと言う装置がなかったから、建築ガイドブックを見て、有名な建築家の建物のインテリアなどをごく普通に見に行くことができたのである。それぞれの建築家の名前をここでは書かないけれども、例えば、メインのエントランスを入ると、周りはどのぐらい闇であって、その突き当たりに真っ赤なバラの花束をデザインした巨大なステンドグラスがあって、これなどはバロック様式の教会の祭壇よりも迫力があった。^_^その画像は私の写真集に掲載してあったと思うが、そういう有名とか無名を問わず建築のインテリアを見学すると言う楽しみは永久に失われてしまった。これは非常な文化的損失である。もう一つのヨーロッパと日本の建築様式の問題は、どうも螺旋階段にあるらしい。大抵のヨーロッパの螺旋階段はこれもそうだけれども、時計回りの螺旋でできている。ところが、日本の螺旋階段は私が調べた限りでは、反時計回りの螺旋で構成されているものが多い。このエントランスの女性がライトを掲げているデザインもなかなか素晴らしいもので、散歩の時に私はドアを開けてこのインテリアを鑑賞しに行ったものであった。2024/11/07 08:12:32
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている
Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている
それでそこら中にあって、目について好みの分かれるのは不動産屋さんなのである。JR板橋駅の踏み切りの脇にある。この店は大昔から非常に気にいっている。このお店の斜め向かいにあった結構本格的な中華料理の気にいっていたのだが、そこは15年位前から開いていない。
この不動産屋さんの魅力は角部屋になっていると言うことだ。その細い路地を入っていくと、飲み屋がたくさんあって、突き当たりにあった。飲み屋を大昔に私が朝日新聞社の連載でたまたま撮影した。そしたらその飲み屋のオーナーが朝日新聞に連絡を下さって、記念にプリントを欲しいというのである。
それで私は自分で撮影した。その写真のプリントを作って自分で持っていって飲み屋さんに届けたら非常に喜ばれた。お店の名前は既に忘れてしまったし、そのお店も今は既に存在しない。何かアザラシとかラッコとかそういう動物の名前であったような気がする。
それでこの不動産屋さんなのであるが、角地にあると言う。その立地条件が1970年代にウィーンでドラマのロケをしたときに、全体のストーリーの中で有名な役割を持つ喫茶店と言うのを探していて、小さな喫茶店と言う名前の喫茶店が、ウィーンの旧市街にあるのだが、そこで撮影をした。その小さな喫茶店と言うのも、これと同じように角地に立っているのである。
その喫茶店を登場させたサスペンスドラマは、ボンバーとパガニーニと言うやつで、これはYouTubeで今でも無料で見ることができる。不動産屋さんとヨーロッパの喫茶店の雰囲気の共通点を認めているのは、おそらく私ぐらいなものだと思う。日本の場合は残念ながらスタバばっかりだから、お店の個性も何もありはしない。
ロバートフランクが英国のテレビ番組に出たとき、彼はニューヨークのアグレッシブな自分で撮影した風景とパリでバラの花を持って歩こうとこの1枚の作品と並べて語っている。つまりニューヨークは醜いけれどもパリは素晴らしいというのである。
これを普通の価値観の通りに理解してしまうと、かなりの方向違いな場所に行ってしまうのであるが、ロバートフランクがパリにお花の写真を撮りに行ったと言う事は、彼の写真家の人生の中での自分の美学を決定するための1種の総決算、一か八かの旅ではあったのだ。
ロバートフランクの非常にクラシックなパリをテーマにした。お花の写真の中で、私が忘れられないのは縦画面で無骨なトランクが半分開いていて、その中にバラの花が無造作に10本近く置かれている写真である。花屋さんとも見えないし、インスタレーションとも思えないし、実にフランクならではの作品なのである。
この作品は、私が1970年代にウィーンの路面電車で1本のバラの花を手にしたおじさんが眠りこけていると言うショットである。電車の中ではっとこのシーンに気がついて、もちろん1枚しか撮影していない。象徴主義的と言うのでもないだ。それでも人類一般と彼らが抱いているお花に対するRE-ILLUSIONとでも言えるものが浮上していると言うふうに考えられるのである。
お花はそれが綺麗だから取るとか言うものではなくて、極めて意味深長に人生を具体化したものであると言うことになるのかな?
滞在中にソーホー地区のロフトに住んでいたので、自分の楽しみといえば、午後遅くなるとFire Escapeにテーブルと椅子を持ち出してそこでいっぱいやることだった。ただし、Fire Escape出祐川祐祐であるから、下の通行人にものを落とさないように最大の注意を払った。
いっぱいやりながら同時に思いついて、その当時はまだ新しいメディアだったビデオカメラを長時間撮影した。つまりマンハッタンの暮れ、なずむ時間の午後5時ごろから6時間ビデオを回し続けると、午後11時の夜になるわけである。
^_^観察していて面白かったのはワールドトレードセンターはマンハッタンで1番最後に暗くなる建物なのである。それが2001年6月11日にあのようなことになってしまった。私はパナソニックの新しいデジタルカメラの広告の撮影でドイツのバイエルンにいたのであるが、大変なショックであった。
私のカタログの撮影予定では、バイエルンの次にはフランクフルトに行く予定であったけれども、ヨーロッパが攻撃されるとすれば、次は間違いなくフランクフルトであろうとスタッフと協議して、急遽撮影の予定を切り替えて、かつての東西ドイツの国旗大当たりの街巡りにしたのであった。
このショットはデアドルフ8 × 10インチカメラ。360ミリ
結構長いインタビューで、私がヨーロッパで取材していると言うような話をいろいろしたのである。狭い写真業界だと田中長徳はこういう風|の人間であるということを知っているわけであるが、狭い世間だとそういう事は全くわからない。それで普通の人がイメージしている国際的に活躍しているカメラマンあるいは写真家と言うのはこういうイメージであるらしい。印刷物が送られてきて大笑いした。
20年以上前正岡子規をテーマにしたドラマというのがあってテレビドラマであるが、私はそういうのは見ないけど正岡子規であると言うのでちょっと見たのである。これがまた正岡子規と全くイメージの外れた。いわゆるイケメンなのでびっくりして途中で見るのをやめたりしたのである。
この逆のイメージもあるわけで、私は堀口大学の愛読者であるが、何かかっこいい男性を予想していたら、老人になってからの堀口大学の写真を見て非常に驚いたのである。どう見てもケチな呉服屋の親父さんである。
このような一般的なイメージが膨らんでくるのと、実物の間に大変なギャップが生じると言うのは、ごく普通の世間の常識と言うことなのであろう。
当時のウィーンの不動産屋さんのシステムと言うのは、社会問題になるほどいい加減なもので、インチキ不動産屋でアドレスをもらってそこに行ってみるとベッドレンタルする部屋はありませんと言うのが普通のやり方で、これは私が外国人であるからそうなったのではなくて、ウィーンに暮らしている友人の写真家に頼んで一緒に回ったのに、このザマなのである。
ドナウ運河沿いのこのアパートメントは知り合いからその存在をきかされてオーナーに電話して交渉したのだが、ここでまたびっくりしたのはそのオーナーは大学でラテン語は修復したけれども、英語はやってないから意思疎通ができないと言っている。向こうで言っているのである。実際に会話に使わないラテン語を教わったというのが、さすがヨーロッパ文化圏だと思う。
それでこのドナウ運河の小鳥の春夏秋冬を暮らしてきたのである。もとよりシンプルライフであるから天井の高さは4メーターあったけど、そこには空気が入っているだけで室内に置いたり展示するものは何もない?の壊れたベッドと数台のカメラがあるのみなのである。古道具屋で買ってきた旧式のブラウン管のテレビはもちろんものくろ使用であった。
その日、空に展示された唯一の私の家の部屋の舞台は、現在日本写真家展示会のポスターとその隣にあるのが私が制作していたドローイングなのである。
もう一つの理由はカメラ屋さんのプライスタグをチェックすることにある。だから理想的に言えば1メートル位近くまでピントの合うやつがベストなのだが小型双眼鏡でそういうのはないから、以前はカールツアイスの物キラーを首から下げていた。
^_^通常2部屋から観察する時は8 × 30が1番見やすい。この倍率と対物レンズの大きさは陸軍専用と決められている。それに対して海軍の方がちょっと倍率が低い7倍なのに対してレンズ合計は50ミリある。ただしレンズ合計30ミリと50ミリでは50ミリのほうは船に乗せたままで使えるが30ミリのほうは陸軍部隊が使うのであるからそれなりに持ち歩くには楽である。
書類の記載もここに示すのはレンズ合計が15ミリで6倍と言う奴である。小型軽量だから便利なのであるが8 × 35を見た後にこちらの小さい方を見るとやはり細かいところは醜くなる。でもそれ以上に携帯生と言うことを考えるとこちらの方が便利と言ういずれにしても双眼鏡のサイズと使いやすさと言うのはちゃんとした方程式があると言うことなのだ。
中平さんの場合は、東松さんの事務所で会った事はずいぶんあちこちに紹介したけれど、これが1966年の夏の事だった。中平さんはまだ雑誌の編集者であって、そのように紹介されたのである。
吉村君の場合は、1980年の夏の話であって、私がザルツブルグカレッジインターナショナルフォトワークショップで教えていた時に、MITの学生さんのワークショップのグループに入ってきたのだ。他に日大の写真学科の女子が2名いたな。
ところが、私のいい加減な英語はMITの学生さんには通じるけれども、吉村くんたちには通じないということが判明して、急遽英語と日本語の複式学級になったのも懐かしい。
20年位前になるけど、吉村くんが自由が丘にギャラリーで個展を開催しているときに言ったら、吉村くんの話では毎日中平さんが決まった時間にやってくるのです。もうすぐお見えになると思いますよ。
^_^それで中平さんは、吉村君の予言通りにやってきて、写真家の中平琢磨ですと自己紹介をするのである。毎日そのような自己紹介をするのだと吉村君は言っていた。
その時中平さんが持っていたキャノンの一眼レフ200ミリが付いているのを見せてもらって、そのファインダーは6割以上腐食して画像が見えないのである。本物の写真家はこういうカメラを使わなければダメだとその時強く印象付けられたのであった。
しかし、面白いと思ったのは、その漫画の葛飾区あたりの果物屋さんというのが、紙兎ロペの実家なのであるが、その実際のお店と言うのは、豊島区雑司が谷にあって、そのお店のことを私はよく知っているのである。
ドラマの撮影などにも使われている。典型的な八百屋さんの店構えであると言うふうにも聞いた。そして紙兎ロペではそこが果物屋さんになっている。私の友人でも実家が果物屋さんだったところがあって、そのお店の屋号がフルーツパレットなのである。いかにもありそうな名前だね。
それで八百屋さんの現役時代、栃木家さんの時に私は買い物はしたことないけれども、そこがラーメン屋さんになってからは何度か行ったことがある。いわゆる町のラーメン屋さんではなくて、デザイナーズブランドのラーメン屋さんでラーメンはいっぱい1000円位して高い。しかし、昼間からコップ酒がいっぱい飲めるというのが非常に良かった。
20年ぐらいネットオークションを見ていて数多く登場した。出版物ではなかった。出品の中でいまだに忘れられないのはタイムマシンを出品したい人がいたことだ。こういう空想上のネットオークションの冗談と言うものは今では存在できないようになってしまうから、大昔は楽しい時代であった。
だから、タイムマシンが出た時は、入札者のほうも心得たもので、220ボルトにも通用しますかとか、60歳来る地域でもタイムマシンは動きますかなどといろいろ渋い質問があったものである。
それでこれは非常にレアなトップコール。35ミリのファインダーのネットオークションでの紹介である。ご覧になるとお分かりになるようにファインダーの向きが前後逆なのである。しかしこれを叱ることができなくて、ライカのファインダーの90ミリとか135ミリならファインダーの直系の太い方が雪何分になると言うわけだから決して間違いではない。しかしこれは広角レンズ用のファインダーだから、前後が逆になると言うわけだ。
このファインダーで私が感心するのは、レアなファインダーにもかかわらず、非常にちゃんと使い込まれてファインダー本体に磨きがかかっていることだ。これだけ使うと言う事は20年位スナップショットをやった位ではこのようにはなりません。
彼の代表作はいろいろあるけれど初期の作品で1番有名なのは、アメリカ中そこらにある白い木製のフェンスを正面から撮った作品である。
白いフェンスと言うのはアメリカの原風景だね。
白いフェンスと言うのはどうもアメリカに独特なもののようで緑の芝生があって一戸建ての家があって道路と区別しているそのために白いフェンスが作られている。
ヨーロッパではよほどのカントリーに行かない限り集合住宅であるからこのような白いフェンスを見る事は無い。白いフェンスで私が1番思い出すのは古い友人の東京カメラクラブ会長の田村が19歳の時に撮影した横浜の米軍基地の白いフェンスである。
私が非常に記憶している2つの風景としての白いフェンスの作品と言うのはつまりポールストランドと古い友人の田村の2つの作品と言うわけだ。
古い友人田村はニコンS3にニッコール2.8センチをつけてしかも赤外線フィルムでアメリカ軍のフェンスを撮影しているのだ。
その白い柵の永遠性というのが何かすごい感じで好きな作品なのである。
^_^結婚して何十年かだった時に家人から聞いたのであるが、家人の父親は東京帝国大学農学部出身であって、そこのプロフェッサーが忠犬ハチ公の買い越しであったそうだ。こういう歴史的な事実が身近にあったりすると非常にびっくりするのだが、もう一つは私が愛読している。フランス文学者の堀口大学も、家人の親戚にあたるそうである。世の中、油断も隙もないと言うのはこういうことだ。
それで忠犬ハチ公のビザに関してはよく知られているらしいが、ベルギー政府観光局で取材でベルギーに行った時に、編集者から頼まれて、フランダースの犬の舞台になった場所に行ったのであるが、驚いたことに。これは日本だけで夢であって、島のベルギーではほとんど知られていない中堅ハチ公物語なのである。もちろんこういう例は外にあって、2型がどこだか忘れたけども、中けんたま公の銅像と言うのもあったな。わんわん
それでこのショットを見て、私が非常に驚いたのは忠犬。ハチ公が亡くなったときのその時の写真で周りに関係者や学生さんが集まって追悼していると言う写真があったのだ。もちろん当時から有名なワンチャンだからそういう事はあったに違いないが、それが凄いと思うのは、現代のIT技術で着色化されているのである。
^_^最近のブームとしては、IT技術でモノクロから色がついているのを皆さん感激しているようであるが、私は逆の考えである。こういうのは不自然であって、例えばカラー写真でも色を抜いた方が歴史的事実として強烈な印象を与えるというのが私の考え方である。
^_^それで仕事を終えて、チューリヒからプラハ行きの飛行機に搭乗した。プラハの飛行場はプラハ市内の西之保にあるのだが、そこにアプローチするために、飛行機は手前から旋回してプラハの東の端からアプローチしていくのである。そのプラハの東の端というのは、私がいつも移動している。プラハの地下鉄の東の終点にあるのだ。
飛行機が行動を落として、地下鉄の終点にある広場を見ると、ちょうどカーニバルの直前なので、移動の遊園地がメリーゴーラウンドを組み立てているのが飛行機の窓から見えた。
ヨーロッパは巨大な街であっても、そこにディズニーランドみたいなものはないから、祝祭日になると、旧市街の広場などを利用して臨時に遊園地ができて、これが子供も大人も大変なエンターテイメントになるのである。
チューリヒを出てプラハに着陸する。飛行機のファイナルアプローチで遊園地を組み立てていると言う情報を知ったので、空港に着いてプラハのアトリエに戻って荷物をおくとすぐ私はいつものメトロに乗ってメトロの東の終点まで来て撮影した。1連の画像がこれなのである。
^_^ヨーロッパはどこでもそうだが、復活祭の春の到来まで、街の風景はモノクロームで非常に殺風景である。それが復活祭の到来で、花が咲いて、光と色が戻ってくると言う感じだ。
Winに暮らし始めた頃に、基本的な交通機関は今も変わっていないのであるが、ストリートを走る。路面電車があって、赤と白に塗り分けられたバスがある。そして東京の山手線みたいな感じで、街をぐるりと1周するような形の赤いボギー車があった。これが好きだった
直訳すると、街の前者と言う言い方なのだけど、そういう日本語は存在しないから市街電車と言うことにしておく。
この赤い路面電車は、ウィーンの中心部をほぼ三角型に取り囲んでいて、そのしっぽのほうは西に伸びていて、ウィーンの西のカントリーサイドにまで達している。その終点の駅がこのパノラマ写真で撮影したショットである。win人の楽しみと言うのは、そういう町外れのその先の丘というか、ウィーンの森の斜面にあるワイン酒場に行くことなのである。私もずいぶん行きました。
そこら辺の路上の犬がどれだけのんびりしているかというのを私は犬がリラックスできる尺度と言うので世界中観察しているが、犬が1番リラックスできるのはポルトガルである。それから大分クラスは落ちるけれど、50年前のwinも、なかなかワンチャンのリラックス度ではレベルが高かった。
^_^それでこのように市街電車の終点に立ち食いのソーセージ屋さんがあったりするのは別にびっくりしないけれども、右側のエントランスから太ったおじさんの後ろ姿が見えると思うけれども、その先には路面電車の駅の内部の終点なのにガーデンというのがあるのである。
要するに、win人の楽しみとしての強外にワインを飲みに行くと言う。その図式が駅の構内ですすら既に構築つかされていると言うところがすごいと思う。このことは撮影して50年経ってたった今気がついたことなのである。
それでロレックスから始まって、各種高級ブランドに手を出して、バーチャロンコンスタンティンのプレスコンファレンスまで行ったあたりでようやく目が覚めたのである。
ここら辺のウォッチが私の好きなものだが、やはり最高にオシャレなのはタイメックスではないかと思う。30年位前にそのことに気がついて、その当時のタイメックスを手に入れて、その値段の安さにもびっくりしたのであるが、最大の問題点は3年から5年位でバッテリーがアウトになるので、そのたびごとに交換が必要なことだ。
^_^左にある時計とか右にある時計は機械式であるからバッテリーがなくても問題ない。思うに現在の世界と言うのは私がこの文章を吹き込んでいるiPhoneにしてもそうだが、電池がなくなるとこの世界はても足も出なくて動かなくなってしまうのである。
左側にあるのはチェコスロバキアの軍隊が公式に使用していた0マニアなのであるが、東ヨーロッパの時代にはスイスの時計を買う事は非常にお金のかかることであった。さらにチェコ共和国には優秀なプリマと言う名前の時計がある
それでチェコの政府は、自分の国で作った時計を軍用時計に制定したと言うのは、ブランド主義に騙されない真面目な態度であると思う。
その時オーストリアの放送局のインタビューを受けたのである。当時はまだビデオカメラではなくて、フランスの16ミリ撮影機エクレールを回転させて、テープレコーダーで私の声を収録した。
話の内容は、要するにジョナスめかすなんて日本だと雑誌に登場するだけで実際の映画を見ることができないから、この企画が素晴らしいと言うことを英語で話したのである。それにドイツ語の文字の翻訳がついてゴールデンタイムに登場したものだから、私はいちどに有名人になってしまった。
それからちょうど重言年後にニューヨークに暮らしていて、明日は東京に帰ると言う。11月の週末に私はキャナルストリートで本物のめかすに偶然あったのである。
これには感動しましたね。月が変わって12月になって原美術館でジョナスめかすの大きな映画界が開催されたときに、数百人の人々が集まっていた中で、会場に入場したジョナスめかすは、まっすぐ私のほうに歩いてきて、私と握手をしたのだから、主催者としては面白くないよな。
でも、映画監督としては、先月マンハッタンの自分の家の近くで、偶然話しかけてきた日本人だからよく記憶していたと言うのがその理由であろう。
そのオープニングレセプションの時に、私はジョナスめかすの口から数年前に母はなくなりましたと言う言葉を聞いたのである。これは重い言葉だったな。
リトアニアのカントリーサイドにまだ社会主義国のソ連の時代にめかすは28年ぶりに里帰りをしているのである。その時の撮影した画像がこれお母さんである。東ヨーロッパの夫人はある。一定の年代より下上になるとみんな頬被りをすると言うのが愛らしい。
カチューシャ人形みたいなものだ。ウィーンのお知り合いの老婦人もそうであって、まさに、こういうカチューシャ、人形的な風貌なのである。
ジョナスめかすが昇天してから直後のこと。私の古い友人の野々宮がめかすが出身の場所リトアニアのカントリーサイドを実際に取材に行ったのはなかなか見上げた精神だったと思う。
そして、その10年後に、マンハッタンの路上で、尊敬する映画館時に、偶然会うことができたのも、不思議な縁と言うべきであった。
それで自分も自分の映画を取ろうと言うことに思いついて、ロシアから亡命してきた大学教授と偶然蚤の市で出会って、彼から2台のソ連製の16ミリ映画撮影機を手に入れたのである。
ジョナスめかすが彼の映画制作活動ですごく苦労したことが彼の映画日記に書かれている。会心の撮影をしたのだが、現像代がないので、撮影済のフィルムは全部部屋に積み上げてあるというのが気にいった。
私の場合はプラハに行った時に、安い東ドイツ製のフィルムを買ってきて、現像するのは当時の東ベルリンの友人に送って光で現像してもらってそれを送り返してもらったのである。
当時の鉄の壁の東ヨーロッパとしては誠に不思議なことであって、彼らは印刷物に対してのアレルギーはあるが、それ以外のメディアに対してのアレルギーはほとんどなかったと言うことなのである。
ソ連製の16ミリ撮影機はコストパフォーマンスに優れたミラーシャッター式のなかなか優れたカメラであった。後に西側世界で結構売れたのだが、その時はカメラの特集マウントをペンタックスマウントに変えて販売している。スーパー16に改造したものもあった。
それでギターも少しやっていたのであるが、これは行動を抑えるのがめんどくさいのですぐにやめてしまって。そのかわりカメラでノーファインダーで東京を撮影するような方向に行ってしまった。
中学生の頃は、私が入学したときにブラスバンドの楽器が全部入ったので、それでクラスメイトが全員ブラバンの退院になったのである。といっても、中学生のブラスバンドでその当時でたかが知れたものであるから、怒りを上げてとか文京第7中学校の校歌を演奏すると言う位が関の山であった。
それでも3年間練習をすると、卒業式のときには我々同級生の卒業式を送り出す位のレベルまでテクニックが発展したのは何でも練習すればそれなりの結果が出ると言うことなのだ。
それで高校生活も中学生活の名残でブラスバンド部に入ってトランペットを吹いていた。トランペットよりもコルネットの方が楽器としてはちょっと面白いと言うことに気がついたのもこの頃である。
1964年と言う年は東京オリンピックの年であって、その時のファンファーレというのが人気だったが、見よう見まねで似たような演奏をトランペットでやったので、クラスメイトの女子になかなかモテたのだ。ライカでスナップするのは全然モテないけど、楽器と言うのはそういうエンターテイメント性があると言うことに気がついた。
それでも面白いもので、中学と高校の時にちょっと触っただけのトランペットのバルブの押し方と言うのは体が覚えていて、今でも曲を聞いたりすると無意識に右手の3本指が動いた。と言うのは、これはそれなりの効果があったというべきであろう。
ソ連製のカメラで人気が高いのはスプリングモーターを内蔵した。35ミリレンジファインダーモデルで1957年のブリュッセルのエキスポでグランプリを取ったカメラである。ここら辺が実はよくわからないことであって、ブリスベンのグランプリで、どのような背景でグランプリが取れたのかということは未だに明らかになっていない。
さらにその数年前だと思うけど、スプリングモータードライブのカメラ以前にそれよりもさらに作りのよろしいレニングラードと言うカメラのアウトフィットが発表されていた。私などはその当時カメラ雑誌のニュースで見ただけである。
実際にそのカメラを見たのは、発表の時から何十年も経過した後で、フォトキナの会場でソ連カメラの好きな人がいて、その人が持っているのを見せてもらったのが唯一の機械であった。とにかく珍しいカメラなので、こちらも興奮していたが、後で冷静に考えてみると、私が使っていたスプリングモータードライブ付きのレニングラードと、そのオリジナルになるはずの最初のレニングラードカメラの巻き上げがどのようになっていたのかということを全くチェックし忘れていたのである。これは残念なことだ。
それでこのオリジナルのレニングラードカメラは時々世界的なレベルのオークションに登場するのであるが、肝心の巻き上げのシステムの写真がなかったりするので、いまだにこのユニークなカメラはどのようにフィルムを巻き上げるのかわからないでいる。まぁカメラと言うのはそのように謎めいている。ところがそれなりの魅力でもあるのだが。
寺岡と言うのはハカリで有名だが1950年代終わりにその技術を利用してモータードライブスプリングカメラを制作していた。
日本カメラから出した私のカメラ本3冊の1番最初のセクションでこのカメラ大戸寺スーパーのことを紹介している。これにはコレクターの好む頭脳レンズブランドがついている。
しかしこのスプリングカメラはあまり成功しなくてトータルで製造開始から終わりまで4000台弱が作られただけであった。それならばコレクターの間で高い値段がつくかと思うとほとんど相手にされていないから私の周囲にこのカメラが集結すると言うことになる。
レンズ固定式カメラだからレンズの製造番号で台数が特定できる。このブラック仕上げのボディーは警察用に作られたもので製造番号からすると617001でスタートして最後の番号が617033である。つまり30ちょっと作られただけ。
だから値段が高いと言うことではない。これだけ数が少ないとその存在を知っている人もいないのだ。カメラの値段のことを言うわけではないが1番滑稽なのは例えば私が最初に手に入れたライカM2のブラックペイントは当時110,000円で中古を買った。
それから40年後に2500ドルでアメリカから買って安いと思っていたが今では末端価格が10,000,000円位するらしい。ライカM2のブラックペイントは3000台弱の製造台数である。
その100分の1の製造台数のこのカメラが大変なプライスになるかというとそうではないと言うところがクラシックカメラコレクションの面白さだ。
私が見ている慣れ親しんだオペラハウスと言うのはパリであれ、ミラノであれウィーンであれ、普通のクラシックな建築物のファサードであるから、こういうような派手派手なイラストレーションがモザイクになっていると言うのはちょっと想定外なのである。
それでこういうファサードの建物がモダンであるのかと自分に質問してみれば、実はそうではなくて、ギリシャローマ時代の遺跡として残されている床にちりばめられたモザイクがそのままモダンナ劇場のファサードになったと言う感じなのである。
クラシックモダンの典型的な劇場のファサードと言うべきであろう。そしてこのモザイクで描かれたワクワクするようなレビューの感じと言うのは、実際の劇場では起こり得ない夢の世界をここに象徴化していると言うところがむなしいのであるが、それが理想と現実のギャップを、最初から劇場がファサードに合意的に示していると言うことを考えれば、責任感のある劇場のファサードのエントランスと言うこともできる。
この私が好きだった劇場もとっくの昔に取り壊されて今では普通の住居ビルになってしまった。
それでこのイラストは、黒澤タイプライターのエントランスにかかっていたと記憶する。あるいはヨーロッパでこういう場所があったのかとも思うが、どうも銀座の黒沢で確かなような気がするのである。
最近はセクハラということで、女性のタイピストそのものをこのようなセクシャルなシンボルとして掲載する事は無いと思う。でも戦前の映画など見ているとタイピストと言うのは、みんなセクシーな存在でセクシー田中さんみたいなものだな。
実際問題として私が暮らしていた1970年代でも会社の偉い人が口述筆記するのをタイピストさんがタイプに打つと言うのが普通で、それが仕事のやり方だった。
このやり方が劇的に変わったのは、1984年のMacintoshの登場まで待たなければならなかった。
それでも私も昔の人間だから、こういうタイピストのセクシャルなシンボルを見ると、ノスタルジーを感じる1人である。それっていけない反社会的行為なんだよね。
戦前の林文子の文章など読んでいると当時のタイピストのお給料は40円だったそうである。ライカの値段が600円であるから、タイピストのお給料の1年分がライカの値段であったわけだ。
津田さんはその意味でヨーロッパあるいはアメリカ的なジェントルマンであるから、世界的な写真家と親しいと言うことをパブリックな場所で発言した事は1度もなかったと思う。しかしロバートフランクが昇天した後に追悼の意味もあっdたと思うけれど、ちゃんとフランクと自分の関係について、彼のブログ等でオフィシャルにしたのである。
ロバートフランクのオフィシャルな写真と言うのはちゃんとした世界的写真家であり、イギリスで作られたロバートフランクのフィルムにしても、それはちゃんとした世界的写真家の存在感というところから逸脱していないのである。
その一方で津田さんが撮影したこの写真の凄いところは、列車のコンパートメントで靴を脱いでリラックスしているロバートフランクの姿である。これはヨーロッパでもそうなのだけど、こういうリラックスの仕方と言うのは、ジェントルマンのやることではないと言うふうに通常は思われているので、このようにリラックスしたロバートフランクの姿を見ることが私には嬉しいのだ。
写真家の繰上さんがロバートフランクが来日したときに彼をずっと記録したらしいのだが、北海道に一緒に旅行に行った時、彼は旅館で自分の靴を見失ってしまって、裸足で雪の中を歩いたと言うのは、これは現代のイエス・キリストだと思う。そういえばビートルズのレコードのジャケットでもあったよね。
裸足の男性が歩いていると言う話は、このロバートフランクの件だが、私は実際に真冬のプラハの路面電車で裸足でいる青年を見たことがある。この人も私の目から見ると、イエス・キリストスーパースターのように見えた。
5年ほど前に清里の写真ミュージアムでロバートフランクを見た。またロバートフランクの写真展をやっているそうなのでこれは見てみたいと思う。
この風景にしてもそうだし、世界中のホテルを旅した時は年間230日ぐらい旅行をしていたので、それぞれのホテルの部屋から見るそれぞれの風景と言うのは、冷静に考えてみると、美術館で眺める風景よりもはるかに面白いものであった。しかも1つのホテルに2週間いたりすると、その間の天候の変化というものが非常に面白い変化を私に見せるのである。
窓と言うのは、その意味で不思議な存在だな。ただ私が言いたいのはまずから見た風景が、お風呂屋さんの絵のように海岸があって、三保の松原があって、遠くが富士山で綺麗で、絶景絶景と言うような意味ではない。
バルセロナの安宿に泊まった時、道の幅があまりになくて、手を伸ばせば反対側の建物の壁に手が届くのではないかと言う。狭い路地のこちら側にあるホテルの窓から見ると、反対側の建物の住民の生活が丸見えになるのである。しかし、ヨーロッパと言うのは礼儀のわきまえているところだから、目があったりするとお互いに挨拶をしたりすると言うのは痛快である。
パリジャンの暮らしにしてもそうであって、世界的な有名な写真家を取材に行った時、彼は大金持ちであると聞いていたが、パリで暮らしている部屋というのは、まさに6畳と4畳半の長屋という感じであった。
ただ、ただこの写真のように人混みばっかりだったと言うのは、記憶にかすかに残っている。それともう一つは何時間待ちというのが自慢話になったことだ。日本に有名な世界的美術館クラスの名画が来たりすると、やはり同じことが起こって、そこに到着するまでに何時間待ちというのがステータスになる。主催者側のコンセプトに完全に騙されているのは言うまでもないが、54年前に大阪で開催されたエキスポで、果たして半世紀後に確実に我々の生活に生きていると言うものは、一体何が残っているのであろう。彼らの未来予測と言うのは、ことごとく外れてしまった。
1つ確実なのは1984に代表されるような政府が人間を管理するその方法は50年前の仕掛けがそのままうまく機能していると言う位のものであろう。
1984が私にとって重要なのはMacintoshがスタートした時と言う意味でもある。
このショットは某写真コレクションに入っている1枚であるが気にいっている。何かの弾みで1960年代の京王線のどこかの駅で偶然撮影したショットである。この写真がかなり古いのは、今はこんな床の材料を電車のプラットホームに使っているとこがないからだ。
女の子2人がそれを石けりの感覚で遊んでいるというのが実に不思議であって、しかも2人が後ろ姿であると言うところになんとなくかっこいいなと思っておそらく1枚ぐらいしかシャッターを押していないと思う。
これを今の時代に発表すると、正面から女の子の顔がわかるというのが、特定の人間がわかってしまうと言うことで、世の中が騒ぎになると言うことなのであろう。私の感覚は全くその反対側であって、後ろ姿と言うものは、女の子の存在感が普遍的に強調されるものなのである。私が撮っている写真はいずれもそうだけれど、人間の存在感を強力に浮上させるためには、後ろ姿に限るというのが私のセオリーなのである。
そういう自分の作品以外の記念写真と言うのを家人が丁寧に保管していて、1996年に日本カメラから出した私のウィーンとライカの日々の本編とは関係ない。読み物のところで使う写真を探していた時に、これらの写真を提供してくれたのである。
よく写真集とか何かで作者本人の写真が登場していると言うのは何か意味ありげというか全体の時間的な構造が分厚くなるという意味で効果的だと思う。例えば皮肉なのはアルチュールランボーは武器商人としてアフリカに滞在しているときに、写真の技術に興味を持って、当時のお金で4000フラン位をパリに送金して写真機を手に入れているのだ。
ところがアルチュールランボーが撮影した写真は全部で8枚しかなくて、そのうちの6枚は自分を撮影したセルフポートレートなのである。その意味でアルチュールランボーは写真が持っている良い意味と言うものをいち早く認識して、そしてあっという間に写真の興味から遠ざかっていったと言う意味では天才なのだ。
このショットは家人を椅子に座らせて、そのすぐ上に私が立って撮影したありきたりのポーズではあるが、その時のセルフタイマーのなる音とか、撮影の瞬間のライカのシャッターの音などを未だによく覚えているのは、このようなセルフポートレート私がめったに撮影しないと言う理由によるのであろう。
それで左のほうにある文字列に何が書いてあるのかつまんで読んでみたら、なんと70年代全般にライツオーストリアに行ったら、レアなライカエムピーが50,000円位でウインドウに出ていて、それを買おうと思ったら、お店の人がレアなライカであることに、気がついて、うってくれなかったと言うくどくどしい文章が書いてあった。
当時の日本のカメラメーカーとしては国辱的な感じであったのであろう。それでなるべく目立たないところにメイドインオキュパイドジャパンの刻印をつけたのである。これはニッコールレンズの3.5センチであるがレンジファインダーの距離計連動カムのところにうまく刻印してある。
同じ時代のキャノンレンズを見て面白いと思うのは確かに刻印はされているのだが、それがレンズ本体ではなくてリアキャップに刻印されているのである。ここら辺の個性の違いがニコンとキャノンの違いだなと分析してみると面白い。
昭和25年の講話条約が締結される。以前のメイドイン生生杯とジャパンの刻印の付いているカメラは、市場にはたくさんあるにもかかわらず、なぜか1番最初のニコンのレンジファインダのカメラだけが数百万すると言うのは、市場の不思議さである。
同じ時代のキャノンのレンジファインダカメラだったら、現在でも20,000円位で買えるものであるからだ。初期のコニカのレンジファインダカメラで面白いのはメイドインオキュパイドジャパンの刻印付きの一番最初のコニカのモデルには2つあって、1つはカメラの裏側のエンボスのレザーの部分に極々目立たないように刻印があるもの。これは業者さんも気がつかないで、そのまま値付けをしてしまうから非常に安い。
もう一つのモデルは、ごく初期の最初のコニカであるが、これはトップカバーにメイドインオキュパイドジャパンがかなり大きく刻印されている。それでこちらのほうは値段はかなりお高くなります。
それでこのライカマイライフの場合は写真集なのかカメラ本なのかそれともエッセイなのかわからないような中途半端なポジションにセットしたことが逆にうまくいったようである。今の時代であるから重さが2キロも3キロもある思い、写真集を作るより手に取れて持ち歩ける、こういう形の写真集の方が実践的である事は言うまでもない。
それで表紙の写真のセレクションなのだが、表紙の織り込んである部分を広げると。実際には2枚の写真が横に連続しているように見えるのである。これがその1部を示したものだが、表の表紙は半分になっているが、裏の表紙のほうは全部広げてあるから、35ミリの横市のように見える。
この本を手がけてくれた泉編集長と言うのは、私の知る限り最も優れたエディターであると思うけれども、そこら辺の配慮が非常に効いているのはありがたいことだ。
ポーラ化粧品の看板も同じ種類に属する問題だと私は考えているのだが、この亀有駅前のボロボロの看板は時代が変わっていると言う意味でも非常に好きなものであった。ところがどうもある時店のオーナーがちゃんとした看板屋さんに修復を依頼しないで、自分で勉強塗ってしまったような感じが、そこにはあるので、かなり稚拙な感じのプリミティブなポーラの看板になってしまった。
言い換えれば、ポーラ化粧品の領域をいっぽ上のクラスに行ってしまって、ポーラ化粧品ダッシュと言う存在感を獲得してしまったのである。。イタリアの田舎のどっかの礼拝堂のイエス・キリストのあるいはマリア様だったかもしれないが、地元のおばあさんが勝手に歴史的な遺恨を修復して、モダンに書き直してしまったようなところがある。
ポーラ化粧品の看板が外国にあるかどうかは知らないけれども、あまり日本国内を旅行する機会のない私であるが、数年前高知県立美術館に高知出身の有明写真家の展覧会を見に行く時に駅前にポーラ化粧品のいい感じのお店があったので、これも非常に広いものだと思って満足したのであった。
1つは有名な古河シュレンドルフがまだ有名になる。前に撮影したとどめの壱発と言う映画で、これは第一次大戦の戦争ロマンなのである。そうなるとウィーンの東ハイドンなどが活躍した古い街の郊外で撮影をした。連日の雪であって、舞台は第一次大戦のロシアと言うのだから格好である。
ロケーションがめんどくさいのは、そこに蒸気汽関車が登場して、実際に蒸気で動くわけであるが、その速度をうまく調整するというのが蒸気汽関車ではほとんど不可能なので、何度も取り直しで大変な目にあった。
もう1本はwinをテーマにしたコミックなアクション映画であるがこれは1930年代のドイツの街という設定なのでwinのそこら辺の飲み屋とか裁判所とかwinの中央部知事がそのままロケーションになる。
要するにかつて大流行したニュージャーマンシネマと言うのはアメリカのハリウッドに比べてコストがかけられないから何でもかんでもロケーションで取ってしまおうと言う極めてドイツ的な経済映画なのである。
それでwinに行った時に、何の気なしに駅のターミナルでこーゆー撮影をしたのであるが、3人の登場人物がいて、右の男性は松葉杖の人で左の男性はまた性格的にちょっと問題がありそうな感じの人である。ところがここで主人公と言うのは意外と目立たない中央で、あまりはっきり存在感のない男性なのではないかなどと考えてみると、まさにこういうワンショットがニュージャーマンシネマが醸し出すアピアランスなどだと思う。
右に看板がちょっと見えるバンクオーストリアと言うのは50年前に私の写真展を企画してくれたり、コレクションに買い上げてくれた大手銀行である。日本の銀行だと文化的と言うとすぐ手芸とかそういうレベルになってしまうから、最初から文化で色が違うなどと言う事はここで言っても仕方がないね。
日大写真学科の卒業制作の50数点の1連の作品シリーズでも時々中にコカコーラのシンボルマークとか看板が入ってくるのである。今にして思うと、コカコーラと言うのは、当時の最もモダンで憧れの強いアメリカのシンボルマークであった。
中学生の文京区立第7中学校に入った時、私のレベルが高かったのではなく、クラスのレベルが低かったのですぐ生徒会長になったりしたのである。それでこれも今ではありえないことだが、理科の担当の梅田先生と言う人が私をすごく可愛がってくれて、高田の馬場の当時、珍しい鉄筋コンクリート、アパートの3階に宿泊に行ったりしたのである。
梅沢先生は文化人であるから、ライフのバックナンバーなども山のように持っていたし、キャノンの最新型のレンジファインダカメラには、当時最も明るいav点5のレンズが付いていた。
それで梅田先生のお宅で、マクドナルドはまだ日本に来ていなかった。60年代初めであるが、コカコーラとウィンナーソーセージを食べて、何かアメリカ文化の一端に触れたような気がしていた。中学生の私であった。
あの頃のコカコーラは結構高くて50円位したと思うけれども、自動販売機にコインを投げ込んでドアを開けて冷えたコーラを1本引っ張り出すと言う方式のやつだった。あの当時のコカコーラの味わいと言うのは何かもっときつい味わいであって、あれが大人の味と言うのだと理解していたのである。
時代が食って、日本ではペプシコーラとコカコーラの戦争になったりした。1980年代ポーランドが戒厳令になってその戒厳令が解除された。最初の飛行機で私は週刊朝日の取材でワルシャワに飛んだのであるが、ワルシャワの街はコカコーラではなく、ペプシコーラの帝国であった。国によって、河原のバックグラウンドの色分けも違うなと感心したものである。
写真家にとって花が何者であるのかと言う話を現在書いているのである。それで私にとっての端と言うのは部屋に飾られたいくつかの腹があるけれども、これは家人のお弟子さんが花屋さんを房総半島でやっているのでそこからいただいたものである。そういうお花は確かに綺麗だけど、私が目指しているのは野原にある。花と言う言い方は変だが、ストリートに咲いている花を真面目に撮ってみたい。
20年位前に足立区の西新井をフラフラしていた時に駅のすぐそばの東武伊勢崎線の線路のすぐそばに何か存在感の際立つお花があって1枚だけ持参した。ブラックロードのカメラで撮影した。このショットが、私には忘れられない。
なんというか、アスファルトの片隅に咲いた大都会の花と言う感じなのである。適当な露出でからネガティブで適当に撮影したら、想像外にみずみずしい写り方をしていたので、それが気にいった。
ルネッサンス時期の花をイラストとして、極彩色の色彩を施した細密画があるが、何かそういうルネッサンスのグラフィックの存在感みたいなものを感じたのである。
ここら辺はまさに日本カメラの前田編集長のパワーによるものなのである。当時は新製品レビューとか過去のカメラの分析の話が普通にあったけど、カメラを文学として扱うと言うようなジャンルはまだなかった。そこら辺が前田編集長のユニークなところだと思う。
業界の大先輩も褒めてくださる時に、カメラの話を始めて文学までを押し上げたと言ってくれるのは本当に嬉しい。そして20年位の連載で、結局このシリーズの単行本は3冊になった。
一番最初の本のシリーズで表紙にもなっているが、これはチェコの著名写真家Sudekが使っていた。縦3センチ18センチのカメラで私のアトリエにあったものである。ガラスプレートなので使えるガラスプレートを探すのに苦労したが、ついに1枚だけ見つけたのである。
大写真家がよく撮影に行っていた。プラハのセメトリーで三脚に乗せて1枚だけ撮影した。露光時間は確か絞りがエフ22で1秒位だったかな。大写真家に助けられてちゃんと映っていた。感動は未だに忘れられない。
2冊目は普通のライカスタンダードが表紙になっていて、ライカスタンダードというかレンジファインダのないカメラは私の半世紀以上使っているカメラなのである。ライカにレンジファインダーは入りませんね。
3冊目の表紙はプラウベルマキナの戦後モデルである。その後土井が作った。日本製のやつと比べてしまうと、やはり存在感の本質はドイツ製の金属カメラにあることが理解できる。これでプラハのシリーズをたくさんとって、写真展をしたり、雑誌に発表したりしました。
このクラシックカメラ三部作が私の基本のトライアングルになっているのは、編集長の前田さんに感謝せざるをえない。カメラ雑文をちょっとカメラ文学のほうに押し上げるパワーを私に与えてくれたと言う意味で感謝。
ウィーンで撮影したスナップポートレートの中では1番気に入っている作品である。1時スナップポートレートに興味を持って、ウィーンの蚤の市などでかなり人々を撮影したのであるが、あまりに接近してしまうと、その人の存在の本質が逆に薄れていくようなところがある。
それでこのワンショットは結構サイドからとっているのであるが、その人の表情と思っている。お花の間神が私のスナップポートレートの中では結構上のレベルだと思う。我楽多屋のにだいめさんが中心になって、私が70歳と74歳の時に限定版写真集を出してくれた。これは100分限定なので、あっという間に完売になった。
その他に、我楽多屋のにだいめさんが、この私の好きなショットをTシャツにプリントしてくれたりしたこともある。
ウィーンの人々を撮影したシリーズで他に忘れられないのはカメラ毎日1974年1月号28ページ掲載されたから作品のウィーン記憶の街というのがある。その中で素敵に着飾った双子のおばあさんのおばあさんを縦画面で撮った写真があって、これはダイアンアーバスの双子の姉妹みたいな感じで、これも気に入っているのである。
このカメラ毎日、1974年1月号は新聞社の内部規制コードに触れて2ページが切り取られた感じで全国の書店に並んだのであった。それでとばっちりを受けて、その2ページの中の1ページが双子のおばあさんの写真なのである。そして問題になった。そのページの反対側は独裁者の肖像と言うタイトルの政治ポスターであって、そこには毛沢東とかアドルフヒトラーが並んでいる。当時日本と中国の国交下で毛沢東を持ち上げる必要が あったので、こんなことになってしまった。
その話を友人の若い写真家に行ったら、彼はわざわざ国会図書館まで行って、破られる前の完全な状態のカメラ毎日を探してきて、そのコピーを私に示したのであった。
映画第3の男で有名だけど、第二次世界大戦が終わって10年間はアメリカフランスともう一つはソ連の占領したのがこのウィーンと言う西ヨーロッパと東ヨーロッパの境界線にある巨大都市であった。
その東西大勢の真ん中を仕切っている橋の名前が平和橋というのである。その東側はソ連の占領地域であった。私が住んでいたアパートメントは2回であって、そこからドナウ川の流れがよく見えたが、そこはソ連の占領地域なのであった。
それでドナウ運河の流れの右側にそって、北のほうにどんどん歩いていくと、風景はどんどんカントリーの方向になってゆく。そこで犬の散歩のおじさんとドナウ運河を泳いでいるかもちゃん頭頭の国際交流であるかどうかは知らないが、面白い光景をこんな感じで撮影した。
写真で見てもわかるけど、ワンチャンとかもちゃん頭とは別に対立関係にはないから喧嘩をするでもないし、お互いに相手の存在を根本的に認めていると言うところが偉いと思う。今のパレスチナ問題とは全く違いますね。
これが肘で胸に持ったカメラの高さからカメラを目の高さに上げると、その間に0.2秒位のタイムラグがある。そうするとデリケートな少年少女たちは、その間に自分の表情と言うものを作ってしまう。別に作った表情が悪いと言うわけではない。でも私が忌み嫌っているようなカメラに向かってのブイサインと言うのは、ヨーロッパの子供たちはやらないね。あれをやっているのはウィンストンチャーチル位なものだと思うと、大笑いになってしまう。
1970年代の初めごろにスナップした私が住んでいた。アパートメントの近くなのであるが、路上の交通量が非常に少ないのが懐かしい感じがする。ウィーンで暮らしだして2 3年と言うのは非常に寒い気候で暖房などにも苦労した。
だから用事があって、ウィーンからパリに行ったりすると、あまりの冬の暖かさにもう春が来たのかと錯覚するほどである。その時のパリの冬の寒さというか、暖かさで最初に私が感じた印象と言うのはこういうものだ。
パリの冬なんていうのは子供みたいなもんだね。
カメラはソ連製のコンタックスのキエフでレンズはソ連製の35ミリだったと思う。フォーカシングはいつもインフィニティーになっているからピントを外す事は無い。フィルムはそこら辺で買ってきた。安い映画用フィルム。
このショットは私が撮ったものではないし、10年近く前にどこかでアップしたものなのだけど、実に優れたヒューマンポートレートだと思う。よく見ると、右のお母さんの後にはもう1人赤ちゃんをおんぶしているようにも見えるが、歩行している。少年が母親を振り返って何かを訴えていると言う。要するにこのショットからありとあらゆる人類の映画というか小説の可能性がここからスタートできるのである。
そしてこの人類2人プラスワンが歩いている道が、映画では、なかなかこういうロケーションを設定するのが難しいと思われるようないい感じのカントリーロードである。これが普通の大都会のストリートの道だったら、かなりヘンテコリンなことになってしまって、ストーリーが展開しないと思われる。
文芸雑誌新潮に2年間24回書いた私の連載エッセイ、屋根裏プラハであるが、その最後のほうに、こんな意味の記述を私は書いたのを思い出した。
プラハのアトリエから路線バスでプラハ空港に行く途中にかなり広いボヘミアの野原がある。季節は春でまだ緑が吹き出す前のボヘミアののかなと言うのは紫色に被っているのである。そして私の不十分な視神経の視点のつける果てに、後ろ姿の男女がもくもくと背中を見せながら歩いていくのが見える。
そして、早朝のボヘミアの上からは、全体が紫色に被っているのである。そこに私は後ろ向きに歩いているボヘミアの男女の存在感と言うよりも、この地球上を後ろ向きに歩いて行く人類の共通の識別信号のようなものをそこに感じたのであった。
^_^と言うような意味合いの内容を連載エッセイに書いていたと言うことを今思い出した。人々の後ろ姿は重要であるが、同行者の青年が母親に向き直って何かを訴えると言うのもさらに重要なワンシークエンスである。
チューリップの話すと大仏の頭と言うのは落語の三題噺みたいで何のことかわからないであろうがちょっと聞いてください。ウィーンの8年間にはいろいろな面白い人とか素晴らしい人とお付き合いがあったが、中で1番面白い人と言うのは日本の有名な大学の跡継ぎのお嬢様であった。ウィーンに音楽の勉強をしにきたのである。
お金持ちのお嬢様だから、それはそれで文句を言う事は無いのであるが、彼女の考えている世界観というのが例えばツーリズムから見ても、あまりにも単純極まりないと言うところが滑稽であった。
例えば、オランダに行った時は、チューリップの花を見ると言うのは安直なツーリズムである。その直後に日本に帰って、奈良の東大寺の大仏様の頭の上の方を見るツアーというのがあって、これが100年に1階なのだそうである。
ツーリズムと言うのは何でも見てやろうと言う。貪欲な視神経に裏付けられた世界の一大産業であるが、当たり前のオランダでチューリップを見た後に日本に行って大仏の頭を見ると言うのはシュールレアリストでなければ、かなりレベルの低いツーリズムに対する意識である。
チューリップの花をまともに観察した事は無いのだけど、ウィーン時代に友人からウサギを預かっていたことがある。それでウサギの風貌とその動き方をよく見てわかったことがある。これは私が今までウサギを観察していないし、花も観察していなかった。その反動によることであって大した発見だったのだが、一言で言ってしまうと、ウサギと言う動物はチューリップの花に動きが似ていると言うことだ。
まず耳などがすごく似ているのはわかるけどね。それともう一つ、それに関連してウサギの話なのだが、知り合いのギャラリーで私が個展をやったときに、50年前の友人から預かった。そのウサギのポートレートが素敵なので、展示の作品の1つに加えた。
そこで入院時代の私の友人の弟さんで国際的に活躍しているジェントルマンが私のギャラリーに見学に来たのである。そしたらそのギャラリーのオーナーが私が事前にそのウサギの素性を教えておいたので、こんなことを言ったのだ。
あなたのお兄さんがウィーンの絵描き時代に飼っていたウサギの源氏さんです。記念に買ってください。
実の兄貴が飼っていた。ウサギの写真を売ると言うのは、ギャラリービジネスとしてはちょっと考えものではないかと?
カメラジャーナルの連載で安原カメラを持って出かけたところが京都であった。レンズはコシナレンダーの50ミリef 1.5がついていた。この大振りのレンズは意外と安原カメラに似合うのである。
かつての京都ホテルと言うのはよく使ったホテルであって、当時は白い6階建てか7階建て家の建物であった。1976年にヨーロッパを巡回した写真展の準備で来日したときに、その後京都に遊んだのである。
すでにヨーロッパの生活に慣れていたつもりの自分でやったから、京都ホテルで部屋に案内された時に1ドル位の小銭を案内してくれた人に渡そうと思ったら拒否された。要するにチップの習慣というのが日本にないと言うことにその時気がついたのである。例えばアマゾンで膨大な注文したものを家に届けてもらっても1ドルも渡さないと言うのは変な話である。これがアメリカだったら大騒ぎになるところだ。
ところで、京都ホテルはその後モダンな建築物になってオークラホテルといったっけ?そこもよく使うので、アップグレードで最上階の角部屋にしてもらったのはいいが、冷静にわかったことがある。仕事をしているところは六本木ヒルズの49階であった時、タワーマンションの上の方にも住んだことがあるから、上から見る視神経に慣れているのであるが、日本の京都のような古い都は、別にタワーマンションの上から見ても風景が脆弱になるだけであって、何のプラスにもならないと言うことを、このときの京都ホテルのアップグレードで強烈に感じたのであった。
ウィーンでお付き合いのあった図で、ドイツ人でドイツ空軍のパイロットの偵察任務をしていた人がいて、いろいろカメラについて話をした。ピアニストの山下洋介さんがウィーンに演奏できたときにそのデー、ドイツ人を紹介していろいろなピストルを見せてもらったこともあった。
そのズデーテンドイツ人は路上を歩く時もピストルを携帯して歩けると言う資格を持っているそうである。桑原桑原。
^_^その人から1938年のベルリンオリンピックの時に手に入れたと言うライカ。ピストルと赤いオリジナルボックスと取扱説明書を譲ってもらった。その他に宣伝のリーフレットが付いていて、民族の採点を撮影するにはライカ。ピストルこそがふさわしいなどと言う当時の時代背景を移した。すごいことが書いてあった。
ライカピストルとライカビットの違いは今更言うまでもないが、巻き上げのチェーンみたいのが本体に内蔵されている。
ライカの開発の巻き上げ装置に関するところで、最大の失敗はバルナックライカ用のライカビットが戦後ライカM3につけてライカムピになったことだ。こういう間違いをライフの偉い写真家とかがライカの会社に進言。すると、会社は開発に対する考えというのがないからホイホイ作ってしまって、後の世の我々に迷惑をかけるのである。
私の長い経験でライカピストルが実際の撮影に役に立ったと言うのは1度しかない。その作品が何であるか説明すると、私のウィーンとライカの日々で、左ページに窓枠を外した男性がそれを私のほうに向かって抱えてきて、その背後にはロータスヨーロッパがこっちに向かってくると言う。およそ通常では想像のできない2つの物体の組み合わせが私に目かけて突進してくると言うショットである。
このショットはこのカメラと同じ組み合わせで撮影した。その前のショットは何か面白い。子供か何かを映して、はっと気がついたら、左手にロータスヨーロッパとウィンドウズマンが迫っていたのである。それで瞬間的にライカピストルでフィルムを巻き上げて。この改心のショットが撮影できた。
これは見るに非常に日本的な慎ましやかな。遠慮がちなベンチの座り方である。右の下と左の人とは別に知り合いでも何でもなさそうである。むしろ知り合いでこのような座り方をしたら絶交状態と言うわけだ。
ベンチの座り方と言うのは、日本ではまだ歴史が浅いから、やはりヨーロッパなどに学ぶべきところが多いと思う。アメリカの人種差別のホワイトと有色人種を隔てて座らせるなどと言うのはとんでもない話だからここで溢れない。
一般的にヨーロッパの庭園などだと人気のあるところは、まず夏なら日陰が1番で冬なら日向が1番であるが、1番激戦地になるのはバラの花が咲いている時期だと思う。そしてそういう時バラの花の咲いている前のベンチと言うのは 1つの不文律というかルールができていて、皆さん仲良く譲り合ってベンチに腰掛けているのはさすが民主主義の国だと思う。
それでバラの花の最も人気のあるコーナーになると、1つの標準の幅のベンチに5人ぐらいかけているのも何か微笑ましい。
^_^もう一つ面白いのはヨーロッパの地下鉄の座席の座り方だ。パリは非常に礼儀正しくて社会的な礼儀というのを皆さん持っているから、正面にしっかり座って向かいの人の動きなどは最初から全く自分は気にしていませんよと言うようなふりをしている。これが自由平等の国の最も重要で基本的な座り方なのだと思う。
ところが面白いもので、プラハなどに来てしまうと、地下鉄の向かい合ったベンチで体を相手に向けると言うのは多分になっているのだと言わんばかりの行動力で、90度通路側に体を向けて座っている人もいてくれなどはなかなかプラハ独特な地下鉄の座席の座り方だと思う。
要するに、フランツカフカの国であるから、個人主義が鋭敏になって、パブリックな場所としての地下鉄の座席の座り方などにもその個性が出てくると言うところが面白いと思う。
まだiCloudが実用化する。以前の話であるが、文庫本を1冊書くので全部の半分ぐらいまで書いたらそこでハードディスクがクラッシュしたのである。今では考えられないけれども、それで仕方ないのでいつも宿泊しているイスタンブールのブルーモスクの反対側のトルコの安いホテルで、左は最高裁判所と言う変なロケーションのホテルに3週間ぐらい宿泊して原稿を書き直したことがあった。
ところが、イスタンブールのど真ん中で仕事をしているとなかなか誘惑の多い所であって、何しろ目の前の広場はツーリストが何万人も集中する場所なのである。 だから、仕事のデスクと窓から外を見るのが、半分半分になってしまって、全然仕事にならなかった。
それに対して、プラハのアトリエは、こんな感じで、何しろ収容所みたいなものだから、他に気が散るものがない。それで何日もここで雑文を書いていると、窓枠にあたる光が日時計そのものであると言うことに気がついた。
今のヨーロッパでは大昔に使われていた日時計がそのまま古い建物に残っていたりするが、現代人はiPhoneを見て時間を教えるから、実際の役には立っていない。
そういう状況の中で、私のアトリエの日時計はなかなか実ようになったのである。
そういう時代背景で社会主義を批判するブラックユーモアの言葉を、東ヨーロッパの人たちは研ぎ澄まして上昇させていたのだ。いくつかあるが、結構シニカルで面白いのはポーランドのワルシャワの文化宮殿は典型的なスターリン建築である。ワルシャワの人々はそれを見るのが嫌なので、絶対見ることのできない場所というのがある。それは文化宮殿の展望台に行くことなのであると言うようなブラックジョークは素晴らしかった。
それで私も社会主義国時代の文化宮殿の上の展望台に登って、文化宮殿が存在しない当時のワルシャワを見たのである。下に降りて広場で赤い炭酸水を買って飲んだら、それは薄い甘口で、何やらほんのりするような東ヨーロッパの味であったことも思い出した。
プラハのアトリエの北側の窓のその先には、このようにプラハの唯一のスターリン建築であるホテルインターナショナルがそびえている。社会主義国時代、つまりビロード革命、前には夜になると、その赤い星がピカピカ光るのがすごかった。世界でここだけしか見ることのできない光景に思えた。
ビロード革命から数年経って、ホテルインターナショナルは、西側の資本に買収されて、夜になると、赤い星から緑の星に変わったのである。このショットはまだ星が赤かった頃のものだね。
Cameflexである。
ヌーベルバーグ時代のありとあらゆるムービーの撮影に使われた。このカメラが面白いのは35ミリスタンダードのフォーマットのほかにアパチュアプレートとマガジンを交換することで、数分の短さで35ミリから16ミリにシステムを移動させたり、あるいはその逆ができると言うことであった。
カメラメーカーのアイディアとしてはいかにも便利そうに見えるが、1つのフィルムを制作するときに最初から35ミリ子にするかそれとも16ミリにするかと言うのは決まっていることであって、途中からフォーマットをチェンジすると言う事はありえないので、せっかくの発明もあまり役にはたたなかったようである。
もう一つはこのムービーカメラはワイルド撮影しかできないので、同時録音をするときには回転音が大きいから実際には不可能であったと言うことだ。そのためにこのカメラ用のブリンプが出たけれども、これは重さが何10キロもあるので、実際のロケーションで手持ち撮影等はできない。
それでクレールの会社はその後16ミリ撮影機でノイズレスポータブルレフレックスと言うモデルを出した。 これは回転音が静かなので、脇にテープレコーダーを置いて同時録音ができる。
天気は良いが非常に寒い。風の強い日であった。それで適当なところまで歩いてここぞと思う。ところでマンハッタンの写真を撮ったのがこれである。今にして思うといろんな意味付けができて、最初で最後のツインタワービルをとったとかいろいろなことが言えるけれども、この時の私の撮影の目的のいうのは、やはりマンハッタンの全貌を撮影したいということになった。
まだツインタワーが破壊される時まで17年の時間があるから、意識がそちらの方向に向かってしまうのであるが、やはりこの時の私のカメラを携えた空間構造の認識感覚は、元旦のマンハッタンを撮影すると言うところにあったのだなと今にして理解できるのである。
8 × 10インチのカラーフィルムは、アメリカでは非常に高いので、方向変換をして8 × 10インチのモノクロフィルムに転向して、それが結果としては良かったと思う。
新書版と言うと、本のサイズとしてはかなり小さいから写真集に向かないと思われているようであるが、この試みは私は大成功だったと思っている。写真の絵柄と言うものはこのぐらいのサイズであれば充分であるということがわかった。
普通の世の中の写真の価値と言うのはシャープであればシャープであるほど素晴らしいと言う退屈な価値観なのである。それに対して全く正反対の印刷の試みをしたのがこの新書版の写真集と言うわけだ。最近では中古価格が上がって、私も本屋さんにリクエストをかけているのだが、なかなか発見できなくなってしまった。膨大な数の新書版の本を出したけど、その中で1番好きな新書である。
東松さんのショットは1968年に撮影した。新宿がデモで、騒がしかった頃にカメラ毎日の撮影であった。車の中に三脚を立てて、望遠レンズを2つ使っての撮影だった。
右のページはデビットダグラスダンカンさんと三木淳さんである。銀座のカメラ屋さんに行った時、偶然お目にかかって楽しく話をしたが、その前にダンカンさんにお目にかかったのは十数年前の1972年にダンカンさんが、英雄なき戦争と言う写真集を作って、その出版記念パーティー以来、だから、ずいぶん久しぶりである。でもダンカンさんは私のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。
それぞれの建築家の名前をここでは書かないけれども、例えば、メインのエントランスを入ると、周りはどのぐらい闇であって、その突き当たりに真っ赤なバラの花束をデザインした巨大なステンドグラスがあって、これなどはバロック様式の教会の祭壇よりも迫力があった。
^_^その画像は私の写真集に掲載してあったと思うが、そういう有名とか無名を問わず建築のインテリアを見学すると言う楽しみは永久に失われてしまった。これは非常な文化的損失である。
もう一つのヨーロッパと日本の建築様式の問題は、どうも螺旋階段にあるらしい。大抵のヨーロッパの螺旋階段はこれもそうだけれども、時計回りの螺旋でできている。ところが、日本の螺旋階段は私が調べた限りでは、反時計回りの螺旋で構成されているものが多い。
このエントランスの女性がライトを掲げているデザインもなかなか素晴らしいもので、散歩の時に私はドアを開けてこのインテリアを鑑賞しに行ったものであった。