老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】最終更新 2025/03/07 08:081.名無CCDさん@画素いっぱいLeV7k2vw0思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっているFacebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている出典 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/16451023192022/02/17 21:51:59213コメント欄へ移動すべて|最新の50件164.名無CCDさん@画素いっぱいb970Mメイドインオキュパイドジャパンの刻印のついたカメラやレンズやアクセサリーをコレクションする連中がいて、あまり上等な趣味だとは思わないが、平和のためだと言う理屈をつけると通用するようである。私もその1人である。 当時の日本のカメラメーカーとしては国辱的な感じであったのであろう。それでなるべく目立たないところにメイドインオキュパイドジャパンの刻印をつけたのである。これはニッコールレンズの3.5センチであるがレンジファインダーの距離計連動カムのところにうまく刻印してある。同じ時代のキャノンレンズを見て面白いと思うのは確かに刻印はされているのだが、それがレンズ本体ではなくてリアキャップに刻印されているのである。ここら辺の個性の違いがニコンとキャノンの違いだなと分析してみると面白い。 昭和25年の講話条約が締結される。以前のメイドイン生生杯とジャパンの刻印の付いているカメラは、市場にはたくさんあるにもかかわらず、なぜか1番最初のニコンのレンジファインダのカメラだけが数百万すると言うのは、市場の不思議さである。 同じ時代のキャノンのレンジファインダカメラだったら、現在でも20,000円位で買えるものであるからだ。初期のコニカのレンジファインダカメラで面白いのはメイドインオキュパイドジャパンの刻印付きの一番最初のコニカのモデルには2つあって、1つはカメラの裏側のエンボスのレザーの部分に極々目立たないように刻印があるもの。これは業者さんも気がつかないで、そのまま値付けをしてしまうから非常に安い。もう一つのモデルは、ごく初期の最初のコニカであるが、これはトップカバーにメイドインオキュパイドジャパンがかなり大きく刻印されている。それでこちらのほうは値段はかなりお高くなります。2024/09/01 06:35:36165.名無CCDさん@画素いっぱいWMnESドイツの国会図書館ではこの私のライカの本ライカマイライフは写真集として登録されているのは嬉しいことだ。最初は写真集として発刊しようと思ったのであるが、いろいろな事情があって写真集は売れなくて、書店などでも写真集のコーナーに並べられてしまうと全然書いてがつかないのである。それでこのライカマイライフの場合は写真集なのかカメラ本なのかそれともエッセイなのかわからないような中途半端なポジションにセットしたことが逆にうまくいったようである。今の時代であるから重さが2キロも3キロもある思い、写真集を作るより手に取れて持ち歩ける、こういう形の写真集の方が実践的である事は言うまでもない。それで表紙の写真のセレクションなのだが、表紙の織り込んである部分を広げると。実際には2枚の写真が横に連続しているように見えるのである。これがその1部を示したものだが、表の表紙は半分になっているが、裏の表紙のほうは全部広げてあるから、35ミリの横市のように見える。この本を手がけてくれた泉編集長と言うのは、私の知る限り最も優れたエディターであると思うけれども、そこら辺の配慮が非常に効いているのはありがたいことだ。2024/09/03 04:45:54166.名無CCDさん@画素いっぱいHwdyR東京の亀有駅のすぐ近くにあるポーラ化粧品の看板である。例えば70年代に私がいつも発見すると、ノスタルジックオブジェとして撮影していたのに、ベルモットの広告などがある。ドイツバイエルの広告もそうだし、カールツアイスの広告もそうだ。その広告のロゴタイプが、そのままモダンアートの存在感になっているところが好きなのだ。ポーラ化粧品の看板も同じ種類に属する問題だと私は考えているのだが、この亀有駅前のボロボロの看板は時代が変わっていると言う意味でも非常に好きなものであった。ところがどうもある時店のオーナーがちゃんとした看板屋さんに修復を依頼しないで、自分で勉強塗ってしまったような感じが、そこにはあるので、かなり稚拙な感じのプリミティブなポーラの看板になってしまった。言い換えれば、ポーラ化粧品の領域をいっぽ上のクラスに行ってしまって、ポーラ化粧品ダッシュと言う存在感を獲得してしまったのである。。イタリアの田舎のどっかの礼拝堂のイエス・キリストのあるいはマリア様だったかもしれないが、地元のおばあさんが勝手に歴史的な遺恨を修復して、モダンに書き直してしまったようなところがある。ポーラ化粧品の看板が外国にあるかどうかは知らないけれども、あまり日本国内を旅行する機会のない私であるが、数年前高知県立美術館に高知出身の有明写真家の展覧会を見に行く時に駅前にポーラ化粧品のいい感じのお店があったので、これも非常に広いものだと思って満足したのであった。2024/09/04 07:10:59167.名無CCDさん@画素いっぱいKRfoCウィーンに暮らしていた頃に映画の仕事を手伝ったことがある。ちゃんとタイトルロールに私の名前がスタンドフォトグラフと言うので出てくる。ちゃんとした仕事である。1つは有名な古河シュレンドルフがまだ有名になる。前に撮影したとどめの壱発と言う映画で、これは第一次大戦の戦争ロマンなのである。そうなるとウィーンの東ハイドンなどが活躍した古い街の郊外で撮影をした。連日の雪であって、舞台は第一次大戦のロシアと言うのだから格好である。ロケーションがめんどくさいのは、そこに蒸気汽関車が登場して、実際に蒸気で動くわけであるが、その速度をうまく調整するというのが蒸気汽関車ではほとんど不可能なので、何度も取り直しで大変な目にあった。もう1本はwinをテーマにしたコミックなアクション映画であるがこれは1930年代のドイツの街という設定なのでwinのそこら辺の飲み屋とか裁判所とかwinの中央部知事がそのままロケーションになる。要するにかつて大流行したニュージャーマンシネマと言うのはアメリカのハリウッドに比べてコストがかけられないから何でもかんでもロケーションで取ってしまおうと言う極めてドイツ的な経済映画なのである。それでwinに行った時に、何の気なしに駅のターミナルでこーゆー撮影をしたのであるが、3人の登場人物がいて、右の男性は松葉杖の人で左の男性はまた性格的にちょっと問題がありそうな感じの人である。ところがここで主人公と言うのは意外と目立たない中央で、あまりはっきり存在感のない男性なのではないかなどと考えてみると、まさにこういうワンショットがニュージャーマンシネマが醸し出すアピアランスなどだと思う。右に看板がちょっと見えるバンクオーストリアと言うのは50年前に私の写真展を企画してくれたり、コレクションに買い上げてくれた大手銀行である。日本の銀行だと文化的と言うとすぐ手芸とかそういうレベルになってしまうから、最初から文化で色が違うなどと言う事はここで言っても仕方がないね。2024/09/07 09:04:14168.名無CCDさん@画素いっぱいUKBrW^_^通りを歩いている時、私の通行を横断妨害する形で、コカコーラの配送車が入ってきたり、出て行くときに私は一瞬歩行を停止して考える。さてこれは何の夢の続きであったのかと言うことなのだ。日大写真学科の卒業制作の50数点の1連の作品シリーズでも時々中にコカコーラのシンボルマークとか看板が入ってくるのである。今にして思うと、コカコーラと言うのは、当時の最もモダンで憧れの強いアメリカのシンボルマークであった。中学生の文京区立第7中学校に入った時、私のレベルが高かったのではなく、クラスのレベルが低かったのですぐ生徒会長になったりしたのである。それでこれも今ではありえないことだが、理科の担当の梅田先生と言う人が私をすごく可愛がってくれて、高田の馬場の当時、珍しい鉄筋コンクリート、アパートの3階に宿泊に行ったりしたのである。梅沢先生は文化人であるから、ライフのバックナンバーなども山のように持っていたし、キャノンの最新型のレンジファインダカメラには、当時最も明るいav点5のレンズが付いていた。それで梅田先生のお宅で、マクドナルドはまだ日本に来ていなかった。60年代初めであるが、コカコーラとウィンナーソーセージを食べて、何かアメリカ文化の一端に触れたような気がしていた。中学生の私であった。あの頃のコカコーラは結構高くて50円位したと思うけれども、自動販売機にコインを投げ込んでドアを開けて冷えたコーラを1本引っ張り出すと言う方式のやつだった。あの当時のコカコーラの味わいと言うのは何かもっときつい味わいであって、あれが大人の味と言うのだと理解していたのである。時代が食って、日本ではペプシコーラとコカコーラの戦争になったりした。1980年代ポーランドが戒厳令になってその戒厳令が解除された。最初の飛行機で私は週刊朝日の取材でワルシャワに飛んだのであるが、ワルシャワの街はコカコーラではなく、ペプシコーラの帝国であった。国によって、河原のバックグラウンドの色分けも違うなと感心したものである。2024/09/09 08:25:01169.名無CCDさん@画素いっぱい9wBmtロバートフランクはわざわざパリのフラワーを撮影するために取材に出かけたのである。アマチュア写真家にしてみるとお花は綺麗だからとると言うので、カメラメーカーの新型カメラのテーマなどでもやたら推奨されているが、花の写真と言うのは実はそんなに生易しい身近なモチーフではない。写真家にとって花が何者であるのかと言う話を現在書いているのである。それで私にとっての端と言うのは部屋に飾られたいくつかの腹があるけれども、これは家人のお弟子さんが花屋さんを房総半島でやっているのでそこからいただいたものである。そういうお花は確かに綺麗だけど、私が目指しているのは野原にある。花と言う言い方は変だが、ストリートに咲いている花を真面目に撮ってみたい。20年位前に足立区の西新井をフラフラしていた時に駅のすぐそばの東武伊勢崎線の線路のすぐそばに何か存在感の際立つお花があって1枚だけ持参した。ブラックロードのカメラで撮影した。このショットが、私には忘れられない。なんというか、アスファルトの片隅に咲いた大都会の花と言う感じなのである。適当な露出でからネガティブで適当に撮影したら、想像外にみずみずしい写り方をしていたので、それが気にいった。ルネッサンス時期の花をイラストとして、極彩色の色彩を施した細密画があるが、何かそういうルネッサンスのグラフィックの存在感みたいなものを感じたのである。2024/09/11 06:49:44170.名無CCDさん@画素いっぱいUxirO日本カメラにこのシリーズの連載を始めたのは30年位前のことだ。最初は1ページもので1番最初に登場したカメラがロバートキャパが使っていたニコンカメラの話だった。それで読者の皆さんがついてきてくれたので、5年位連載したところで、単行本の出版が決まった。ここら辺はまさに日本カメラの前田編集長のパワーによるものなのである。当時は新製品レビューとか過去のカメラの分析の話が普通にあったけど、カメラを文学として扱うと言うようなジャンルはまだなかった。そこら辺が前田編集長のユニークなところだと思う。業界の大先輩も褒めてくださる時に、カメラの話を始めて文学までを押し上げたと言ってくれるのは本当に嬉しい。そして20年位の連載で、結局このシリーズの単行本は3冊になった。一番最初の本のシリーズで表紙にもなっているが、これはチェコの著名写真家Sudekが使っていた。縦3センチ18センチのカメラで私のアトリエにあったものである。ガラスプレートなので使えるガラスプレートを探すのに苦労したが、ついに1枚だけ見つけたのである。大写真家がよく撮影に行っていた。プラハのセメトリーで三脚に乗せて1枚だけ撮影した。露光時間は確か絞りがエフ22で1秒位だったかな。大写真家に助けられてちゃんと映っていた。感動は未だに忘れられない。2冊目は普通のライカスタンダードが表紙になっていて、ライカスタンダードというかレンジファインダのないカメラは私の半世紀以上使っているカメラなのである。ライカにレンジファインダーは入りませんね。3冊目の表紙はプラウベルマキナの戦後モデルである。その後土井が作った。日本製のやつと比べてしまうと、やはり存在感の本質はドイツ製の金属カメラにあることが理解できる。これでプラハのシリーズをたくさんとって、写真展をしたり、雑誌に発表したりしました。 このクラシックカメラ三部作が私の基本のトライアングルになっているのは、編集長の前田さんに感謝せざるをえない。カメラ雑文をちょっとカメラ文学のほうに押し上げるパワーを私に与えてくれたと言う意味で感謝。2024/09/14 11:55:12171.名無CCDさん@画素いっぱいSfPgnウィーンの駅のターミナルでお花を販売しているジェントルマンである。1970年代の後半の撮影だと思われるが、そうなると使っていたのはソ連製のコンタックスのコピーである。キエフでレンズはこの焦点距離の感じからすると、ジュピター85ミリに違いない。ウィーンで撮影したスナップポートレートの中では1番気に入っている作品である。1時スナップポートレートに興味を持って、ウィーンの蚤の市などでかなり人々を撮影したのであるが、あまりに接近してしまうと、その人の存在の本質が逆に薄れていくようなところがある。それでこのワンショットは結構サイドからとっているのであるが、その人の表情と思っている。お花の間神が私のスナップポートレートの中では結構上のレベルだと思う。我楽多屋のにだいめさんが中心になって、私が70歳と74歳の時に限定版写真集を出してくれた。これは100分限定なので、あっという間に完売になった。その他に、我楽多屋のにだいめさんが、この私の好きなショットをTシャツにプリントしてくれたりしたこともある。ウィーンの人々を撮影したシリーズで他に忘れられないのはカメラ毎日1974年1月号28ページ掲載されたから作品のウィーン記憶の街というのがある。その中で素敵に着飾った双子のおばあさんのおばあさんを縦画面で撮った写真があって、これはダイアンアーバスの双子の姉妹みたいな感じで、これも気に入っているのである。このカメラ毎日、1974年1月号は新聞社の内部規制コードに触れて2ページが切り取られた感じで全国の書店に並んだのであった。それでとばっちりを受けて、その2ページの中の1ページが双子のおばあさんの写真なのである。そして問題になった。そのページの反対側は独裁者の肖像と言うタイトルの政治ポスターであって、そこには毛沢東とかアドルフヒトラーが並んでいる。当時日本と中国の国交下で毛沢東を持ち上げる必要が あったので、こんなことになってしまった。 その話を友人の若い写真家に行ったら、彼はわざわざ国会図書館まで行って、破られる前の完全な状態のカメラ毎日を探してきて、そのコピーを私に示したのであった。2024/09/15 06:29:32172.名無CCDさん@画素いっぱい08iDiWinの日常の日々で毎日のルーティンと言うのは、別に観光客の皆さんのように旧市街のシュテファン大聖堂に行くわけではない。カメラを持ってうろうろするのはなるべくツーリストが集中していない地域なのである。それでそれぞれに私のカメラ散歩のルートが知らない間に出来上がってきたと言うわけだ。映画第3の男で有名だけど、第二次世界大戦が終わって10年間はアメリカフランスともう一つはソ連の占領したのがこのウィーンと言う西ヨーロッパと東ヨーロッパの境界線にある巨大都市であった。その東西大勢の真ん中を仕切っている橋の名前が平和橋というのである。その東側はソ連の占領地域であった。私が住んでいたアパートメントは2回であって、そこからドナウ川の流れがよく見えたが、そこはソ連の占領地域なのであった。それでドナウ運河の流れの右側にそって、北のほうにどんどん歩いていくと、風景はどんどんカントリーの方向になってゆく。そこで犬の散歩のおじさんとドナウ運河を泳いでいるかもちゃん頭頭の国際交流であるかどうかは知らないが、面白い光景をこんな感じで撮影した。写真で見てもわかるけど、ワンチャンとかもちゃん頭とは別に対立関係にはないから喧嘩をするでもないし、お互いに相手の存在を根本的に認めていると言うところが偉いと思う。今のパレスチナ問題とは全く違いますね。2024/09/16 06:42:25173.名無CCDさん@画素いっぱいGBR2R人物スナップと言うのは半世紀やり続けてもなかなか思うように取れないところがある。特に少年少女のスナップショットと言うのは2つのやり方があって、1つは出会い頭にノーファインダーで撮影してしまうことだ。これだと非常に自然なスナップショットが取れる。これがまずその良い例と言うわけだ。スナップショットのカメラの高さと言うのは、目の高さと言うふうに決まっているわけではないのである。これが肘で胸に持ったカメラの高さからカメラを目の高さに上げると、その間に0.2秒位のタイムラグがある。そうするとデリケートな少年少女たちは、その間に自分の表情と言うものを作ってしまう。別に作った表情が悪いと言うわけではない。でも私が忌み嫌っているようなカメラに向かってのブイサインと言うのは、ヨーロッパの子供たちはやらないね。あれをやっているのはウィンストンチャーチル位なものだと思うと、大笑いになってしまう。1970年代の初めごろにスナップした私が住んでいた。アパートメントの近くなのであるが、路上の交通量が非常に少ないのが懐かしい感じがする。ウィーンで暮らしだして2 3年と言うのは非常に寒い気候で暖房などにも苦労した。だから用事があって、ウィーンからパリに行ったりすると、あまりの冬の暖かさにもう春が来たのかと錯覚するほどである。その時のパリの冬の寒さというか、暖かさで最初に私が感じた印象と言うのはこういうものだ。パリの冬なんていうのは子供みたいなもんだね。カメラはソ連製のコンタックスのキエフでレンズはソ連製の35ミリだったと思う。フォーカシングはいつもインフィニティーになっているからピントを外す事は無い。フィルムはそこら辺で買ってきた。安い映画用フィルム。2024/09/21 07:12:50174.名無CCDさん@画素いっぱいQkrPq人類が歩いていく。後ろ姿と言うのは、人類が写真を観察するときの最もシンパシーを感じるシチュエーションの1つであると思う。だから1番有名な人類が歩いて行く後ろ姿と言うものは、友人スミスの撮影したタイトル忘れてしまったけど、楽園への歩行だっけ?あの種類のわかりやすい写真と言うのはちょっとポピュリズムすぎるところがあって、それは気に食わないけれども、写真を理解する。共通点としてはそれなりに有効だと私も考えるのだ。このショットは私が撮ったものではないし、10年近く前にどこかでアップしたものなのだけど、実に優れたヒューマンポートレートだと思う。よく見ると、右のお母さんの後にはもう1人赤ちゃんをおんぶしているようにも見えるが、歩行している。少年が母親を振り返って何かを訴えていると言う。要するにこのショットからありとあらゆる人類の映画というか小説の可能性がここからスタートできるのである。そしてこの人類2人プラスワンが歩いている道が、映画では、なかなかこういうロケーションを設定するのが難しいと思われるようないい感じのカントリーロードである。これが普通の大都会のストリートの道だったら、かなりヘンテコリンなことになってしまって、ストーリーが展開しないと思われる。文芸雑誌新潮に2年間24回書いた私の連載エッセイ、屋根裏プラハであるが、その最後のほうに、こんな意味の記述を私は書いたのを思い出した。プラハのアトリエから路線バスでプラハ空港に行く途中にかなり広いボヘミアの野原がある。季節は春でまだ緑が吹き出す前のボヘミアののかなと言うのは紫色に被っているのである。そして私の不十分な視神経の視点のつける果てに、後ろ姿の男女がもくもくと背中を見せながら歩いていくのが見える。そして、早朝のボヘミアの上からは、全体が紫色に被っているのである。そこに私は後ろ向きに歩いているボヘミアの男女の存在感と言うよりも、この地球上を後ろ向きに歩いて行く人類の共通の識別信号のようなものをそこに感じたのであった。^_^と言うような意味合いの内容を連載エッセイに書いていたと言うことを今思い出した。人々の後ろ姿は重要であるが、同行者の青年が母親に向き直って何かを訴えると言うのもさらに重要なワンシークエンスである。2024/09/23 10:37:53175.名無CCDさん@画素いっぱいy5wHSチューリップの花と、大仏の頭チューリップの話すと大仏の頭と言うのは落語の三題噺みたいで何のことかわからないであろうがちょっと聞いてください。ウィーンの8年間にはいろいろな面白い人とか素晴らしい人とお付き合いがあったが、中で1番面白い人と言うのは日本の有名な大学の跡継ぎのお嬢様であった。ウィーンに音楽の勉強をしにきたのである。お金持ちのお嬢様だから、それはそれで文句を言う事は無いのであるが、彼女の考えている世界観というのが例えばツーリズムから見ても、あまりにも単純極まりないと言うところが滑稽であった。例えば、オランダに行った時は、チューリップの花を見ると言うのは安直なツーリズムである。その直後に日本に帰って、奈良の東大寺の大仏様の頭の上の方を見るツアーというのがあって、これが100年に1階なのだそうである。ツーリズムと言うのは何でも見てやろうと言う。貪欲な視神経に裏付けられた世界の一大産業であるが、当たり前のオランダでチューリップを見た後に日本に行って大仏の頭を見ると言うのはシュールレアリストでなければ、かなりレベルの低いツーリズムに対する意識である。チューリップの花をまともに観察した事は無いのだけど、ウィーン時代に友人からウサギを預かっていたことがある。それでウサギの風貌とその動き方をよく見てわかったことがある。これは私が今までウサギを観察していないし、花も観察していなかった。その反動によることであって大した発見だったのだが、一言で言ってしまうと、ウサギと言う動物はチューリップの花に動きが似ていると言うことだ。まず耳などがすごく似ているのはわかるけどね。それともう一つ、それに関連してウサギの話なのだが、知り合いのギャラリーで私が個展をやったときに、50年前の友人から預かった。そのウサギのポートレートが素敵なので、展示の作品の1つに加えた。そこで入院時代の私の友人の弟さんで国際的に活躍しているジェントルマンが私のギャラリーに見学に来たのである。そしたらそのギャラリーのオーナーが私が事前にそのウサギの素性を教えておいたので、こんなことを言ったのだ。あなたのお兄さんがウィーンの絵描き時代に飼っていたウサギの源氏さんです。記念に買ってください。実の兄貴が飼っていた。ウサギの写真を売ると言うのは、ギャラリービジネスとしてはちょっと考えものではないかと?2024/09/26 06:08:37176.名無CCDさん@画素いっぱいlOkU7京都と言う街は、上から下を見下ろすには向いていないカメラジャーナルの連載で安原カメラを持って出かけたところが京都であった。レンズはコシナレンダーの50ミリef 1.5がついていた。この大振りのレンズは意外と安原カメラに似合うのである。かつての京都ホテルと言うのはよく使ったホテルであって、当時は白い6階建てか7階建て家の建物であった。1976年にヨーロッパを巡回した写真展の準備で来日したときに、その後京都に遊んだのである。すでにヨーロッパの生活に慣れていたつもりの自分でやったから、京都ホテルで部屋に案内された時に1ドル位の小銭を案内してくれた人に渡そうと思ったら拒否された。要するにチップの習慣というのが日本にないと言うことにその時気がついたのである。例えばアマゾンで膨大な注文したものを家に届けてもらっても1ドルも渡さないと言うのは変な話である。これがアメリカだったら大騒ぎになるところだ。ところで、京都ホテルはその後モダンな建築物になってオークラホテルといったっけ?そこもよく使うので、アップグレードで最上階の角部屋にしてもらったのはいいが、冷静にわかったことがある。仕事をしているところは六本木ヒルズの49階であった時、タワーマンションの上の方にも住んだことがあるから、上から見る視神経に慣れているのであるが、日本の京都のような古い都は、別にタワーマンションの上から見ても風景が脆弱になるだけであって、何のプラスにもならないと言うことを、このときの京都ホテルのアップグレードで強烈に感じたのであった。2024/09/27 07:57:23177.名無CCDさん@画素いっぱいk3OyBデジカメ時代にライカピストルのことを考えてみるウィーンでお付き合いのあった図で、ドイツ人でドイツ空軍のパイロットの偵察任務をしていた人がいて、いろいろカメラについて話をした。ピアニストの山下洋介さんがウィーンに演奏できたときにそのデー、ドイツ人を紹介していろいろなピストルを見せてもらったこともあった。そのズデーテンドイツ人は路上を歩く時もピストルを携帯して歩けると言う資格を持っているそうである。桑原桑原。^_^その人から1938年のベルリンオリンピックの時に手に入れたと言うライカ。ピストルと赤いオリジナルボックスと取扱説明書を譲ってもらった。その他に宣伝のリーフレットが付いていて、民族の採点を撮影するにはライカ。ピストルこそがふさわしいなどと言う当時の時代背景を移した。すごいことが書いてあった。ライカピストルとライカビットの違いは今更言うまでもないが、巻き上げのチェーンみたいのが本体に内蔵されている。ライカの開発の巻き上げ装置に関するところで、最大の失敗はバルナックライカ用のライカビットが戦後ライカM3につけてライカムピになったことだ。こういう間違いをライフの偉い写真家とかがライカの会社に進言。すると、会社は開発に対する考えというのがないからホイホイ作ってしまって、後の世の我々に迷惑をかけるのである。私の長い経験でライカピストルが実際の撮影に役に立ったと言うのは1度しかない。その作品が何であるか説明すると、私のウィーンとライカの日々で、左ページに窓枠を外した男性がそれを私のほうに向かって抱えてきて、その背後にはロータスヨーロッパがこっちに向かってくると言う。およそ通常では想像のできない2つの物体の組み合わせが私に目かけて突進してくると言うショットである。このショットはこのカメラと同じ組み合わせで撮影した。その前のショットは何か面白い。子供か何かを映して、はっと気がついたら、左手にロータスヨーロッパとウィンドウズマンが迫っていたのである。それで瞬間的にライカピストルでフィルムを巻き上げて。この改心のショットが撮影できた。2024/10/02 09:39:31178.名無CCDさん@画素いっぱいG1DJs私が撮影したのではない。Facebook上でどなたかが撮影されたものであるのだが、非常に面白い劇サンプルなので保存しておいた。これは見るに非常に日本的な慎ましやかな。遠慮がちなベンチの座り方である。右の下と左の人とは別に知り合いでも何でもなさそうである。むしろ知り合いでこのような座り方をしたら絶交状態と言うわけだ。ベンチの座り方と言うのは、日本ではまだ歴史が浅いから、やはりヨーロッパなどに学ぶべきところが多いと思う。アメリカの人種差別のホワイトと有色人種を隔てて座らせるなどと言うのはとんでもない話だからここで溢れない。一般的にヨーロッパの庭園などだと人気のあるところは、まず夏なら日陰が1番で冬なら日向が1番であるが、1番激戦地になるのはバラの花が咲いている時期だと思う。そしてそういう時バラの花の咲いている前のベンチと言うのは 1つの不文律というかルールができていて、皆さん仲良く譲り合ってベンチに腰掛けているのはさすが民主主義の国だと思う。それでバラの花の最も人気のあるコーナーになると、1つの標準の幅のベンチに5人ぐらいかけているのも何か微笑ましい。^_^もう一つ面白いのはヨーロッパの地下鉄の座席の座り方だ。パリは非常に礼儀正しくて社会的な礼儀というのを皆さん持っているから、正面にしっかり座って向かいの人の動きなどは最初から全く自分は気にしていませんよと言うようなふりをしている。これが自由平等の国の最も重要で基本的な座り方なのだと思う。ところが面白いもので、プラハなどに来てしまうと、地下鉄の向かい合ったベンチで体を相手に向けると言うのは多分になっているのだと言わんばかりの行動力で、90度通路側に体を向けて座っている人もいてくれなどはなかなかプラハ独特な地下鉄の座席の座り方だと思う。要するに、フランツカフカの国であるから、個人主義が鋭敏になって、パブリックな場所としての地下鉄の座席の座り方などにもその個性が出てくると言うところが面白いと思う。2024/10/06 10:08:01179.名無CCDさん@画素いっぱいDQS1Pプラハのアトリエの日時計まだiCloudが実用化する。以前の話であるが、文庫本を1冊書くので全部の半分ぐらいまで書いたらそこでハードディスクがクラッシュしたのである。今では考えられないけれども、それで仕方ないのでいつも宿泊しているイスタンブールのブルーモスクの反対側のトルコの安いホテルで、左は最高裁判所と言う変なロケーションのホテルに3週間ぐらい宿泊して原稿を書き直したことがあった。ところが、イスタンブールのど真ん中で仕事をしているとなかなか誘惑の多い所であって、何しろ目の前の広場はツーリストが何万人も集中する場所なのである。 だから、仕事のデスクと窓から外を見るのが、半分半分になってしまって、全然仕事にならなかった。それに対して、プラハのアトリエは、こんな感じで、何しろ収容所みたいなものだから、他に気が散るものがない。それで何日もここで雑文を書いていると、窓枠にあたる光が日時計そのものであると言うことに気がついた。今のヨーロッパでは大昔に使われていた日時計がそのまま古い建物に残っていたりするが、現代人はiPhoneを見て時間を教えるから、実際の役には立っていない。そういう状況の中で、私のアトリエの日時計はなかなか実ようになったのである。2024/10/20 14:33:56180.名無CCDさん@画素いっぱいDcgse私がヨーロッパに暮らしていた頃は、社会主義のヨーロッパが存在したから、その社会主義の国にぐるりと囲まれたのがオーストリアなのである。そういう時代背景で社会主義を批判するブラックユーモアの言葉を、東ヨーロッパの人たちは研ぎ澄まして上昇させていたのだ。いくつかあるが、結構シニカルで面白いのはポーランドのワルシャワの文化宮殿は典型的なスターリン建築である。ワルシャワの人々はそれを見るのが嫌なので、絶対見ることのできない場所というのがある。それは文化宮殿の展望台に行くことなのであると言うようなブラックジョークは素晴らしかった。それで私も社会主義国時代の文化宮殿の上の展望台に登って、文化宮殿が存在しない当時のワルシャワを見たのである。下に降りて広場で赤い炭酸水を買って飲んだら、それは薄い甘口で、何やらほんのりするような東ヨーロッパの味であったことも思い出した。プラハのアトリエの北側の窓のその先には、このようにプラハの唯一のスターリン建築であるホテルインターナショナルがそびえている。社会主義国時代、つまりビロード革命、前には夜になると、その赤い星がピカピカ光るのがすごかった。世界でここだけしか見ることのできない光景に思えた。ビロード革命から数年経って、ホテルインターナショナルは、西側の資本に買収されて、夜になると、赤い星から緑の星に変わったのである。このショットはまだ星が赤かった頃のものだね。2024/10/21 11:57:59181.名無CCDさん@画素いっぱい952fc^_^フランスのエクレールと言うフィルムカメラメーカーは映画な発明された当初からの代表的なカメラメーカーである。戦前はどこにでもあるような長方形の本体のカメラを制作していたが、戦後になって手持ちカメラにふさわしいムービーカメラを登場させて、それが一世を風靡したのであった。Cameflexである。ヌーベルバーグ時代のありとあらゆるムービーの撮影に使われた。このカメラが面白いのは35ミリスタンダードのフォーマットのほかにアパチュアプレートとマガジンを交換することで、数分の短さで35ミリから16ミリにシステムを移動させたり、あるいはその逆ができると言うことであった。カメラメーカーのアイディアとしてはいかにも便利そうに見えるが、1つのフィルムを制作するときに最初から35ミリ子にするかそれとも16ミリにするかと言うのは決まっていることであって、途中からフォーマットをチェンジすると言う事はありえないので、せっかくの発明もあまり役にはたたなかったようである。もう一つはこのムービーカメラはワイルド撮影しかできないので、同時録音をするときには回転音が大きいから実際には不可能であったと言うことだ。そのためにこのカメラ用のブリンプが出たけれども、これは重さが何10キロもあるので、実際のロケーションで手持ち撮影等はできない。それでクレールの会社はその後16ミリ撮影機でノイズレスポータブルレフレックスと言うモデルを出した。 これは回転音が静かなので、脇にテープレコーダーを置いて同時録音ができる。2024/10/22 18:42:24182.名無CCDさん@画素いっぱいAt3Eiこの時住んでいたのはタイムズスクエアの近くのホテルである。ドルレートが280円の時に1週間で130ドル位するコストだから結構高かった。それで大晦日の大騒ぎをタイムズスクエアで体験した後にマンハッタンの全体が撮りたくなって、フイルムはフォルダーに1枚だけ残っていたのを持ってアンダーグラウンドに乗ってBrooklyn Heightsに撮影に出かけた。天気は良いが非常に寒い。風の強い日であった。それで適当なところまで歩いてここぞと思う。ところでマンハッタンの写真を撮ったのがこれである。今にして思うといろんな意味付けができて、最初で最後のツインタワービルをとったとかいろいろなことが言えるけれども、この時の私の撮影の目的のいうのは、やはりマンハッタンの全貌を撮影したいということになった。まだツインタワーが破壊される時まで17年の時間があるから、意識がそちらの方向に向かってしまうのであるが、やはりこの時の私のカメラを携えた空間構造の認識感覚は、元旦のマンハッタンを撮影すると言うところにあったのだなと今にして理解できるのである。8 × 10インチのカラーフィルムは、アメリカでは非常に高いので、方向変換をして8 × 10インチのモノクロフィルムに転向して、それが結果としては良かったと思う。2024/10/24 06:23:26183.名無CCDさん@画素いっぱいQ7VWY東京ニコン日記は、ニコンのブランドが登場した50年をタイアップして出された戦勝版の800ページ近い写真集である。新書版と言うと、本のサイズとしてはかなり小さいから写真集に向かないと思われているようであるが、この試みは私は大成功だったと思っている。写真の絵柄と言うものはこのぐらいのサイズであれば充分であるということがわかった。普通の世の中の写真の価値と言うのはシャープであればシャープであるほど素晴らしいと言う退屈な価値観なのである。それに対して全く正反対の印刷の試みをしたのがこの新書版の写真集と言うわけだ。最近では中古価格が上がって、私も本屋さんにリクエストをかけているのだが、なかなか発見できなくなってしまった。膨大な数の新書版の本を出したけど、その中で1番好きな新書である。東松さんのショットは1968年に撮影した。新宿がデモで、騒がしかった頃にカメラ毎日の撮影であった。車の中に三脚を立てて、望遠レンズを2つ使っての撮影だった。右のページはデビットダグラスダンカンさんと三木淳さんである。銀座のカメラ屋さんに行った時、偶然お目にかかって楽しく話をしたが、その前にダンカンさんにお目にかかったのは十数年前の1972年にダンカンさんが、英雄なき戦争と言う写真集を作って、その出版記念パーティー以来、だから、ずいぶん久しぶりである。でもダンカンさんは私のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。2024/10/31 15:05:56184.名無CCDさん@画素いっぱいkB0xi1970年代はなかなかウィーンの建物を観察するには良い時代であった。それというのも今のようにセキュリティーの観点からドアのエントランスにオートロックと言う装置がなかったから、建築ガイドブックを見て、有名な建築家の建物のインテリアなどをごく普通に見に行くことができたのである。それぞれの建築家の名前をここでは書かないけれども、例えば、メインのエントランスを入ると、周りはどのぐらい闇であって、その突き当たりに真っ赤なバラの花束をデザインした巨大なステンドグラスがあって、これなどはバロック様式の教会の祭壇よりも迫力があった。^_^その画像は私の写真集に掲載してあったと思うが、そういう有名とか無名を問わず建築のインテリアを見学すると言う楽しみは永久に失われてしまった。これは非常な文化的損失である。もう一つのヨーロッパと日本の建築様式の問題は、どうも螺旋階段にあるらしい。大抵のヨーロッパの螺旋階段はこれもそうだけれども、時計回りの螺旋でできている。ところが、日本の螺旋階段は私が調べた限りでは、反時計回りの螺旋で構成されているものが多い。このエントランスの女性がライトを掲げているデザインもなかなか素晴らしいもので、散歩の時に私はドアを開けてこのインテリアを鑑賞しに行ったものであった。2024/11/07 08:12:32185.名無CCDさん@画素いっぱいwaW0g世界で1番最初に作られたわけではないが、35ミリカメラの基本を作って大成功したのがこのカメラである。生涯に3回このカメラに触らせてもらったことがある位。1回目と2回目はカメラ雑誌の取材で最初のライカに触りたいと言って、ライカのドイツの会社に行ったのだから、ライカの会社としても弱みを握られているので触らせてくれるわけだ。これは2度目の訪問であって、日本カメラの取材ではなかったかな。手にしてみると、別にカメラの神様と言うわけでは無いから、見慣れないスタイルの古いカメラと言う感じがする。3度目に行った時はこれはよく覚えているのは、2001年の9月の12日、すなわちワールドトレードセンター攻撃の翌日であった。その時にも触らせてもらった。^_^その時はライカの社長さんが30分ほど社長室を開けると言うので、最初のライカと30分2人ぼっちになったのである。この時私には悪い計画があってフィルムを1本隠し持っていてこのカメラに装填して撮影しようと言う悪企みがあったのだ。ところが1番最初のライカは構造としてかなり変わっているようで、私の大脳のレベルではまずどのように蓋を開けていいのかわからない。そんなことで失敗して人類の重要な遺産である。1番最初のライカを壊してはならないと思い断念したのである。よく考えてみたら、このライカに触ったのは3回ではなく4回であることに今気がついた。東京のデパートで中古カメラ市のアトラクションだったと思うけど、世界最初のライカを展示すると言う企画があって、その時にライカの社長さんが来日したのである。新橋のホテルに出向いて、社長さんからウィーンのライカショップに修理を依頼してあったハンガリー製のレアな一眼レフの修理の上がったの受け取った。社長さんは黒いカバンの中からもう1台のカメラを出して私の手に握らせたらのである。それがこのカメラUr Leicaであった。2025/01/01 16:03:45186.名無CCDさん@画素いっぱいPzt0V東京メトロ丸ノ内線の淡路町と御茶ノ水の間がランドスケープとしてかなり有名になって、聖橋の上から写真を撮る人が絶えない。その人々を観察するに、いわゆるてっちゃんの方面の人ではなく、普通の通行人、つまり聖橋の上を歩いているエキストラさんが、この光景に興味を持って取ると言うような感じであるようだ。たくさんの写真が撮られていると思うが、アングルは決まっているし、そんなに変わり映えもしなくて似たり寄ったりの写真が撮られているはずである。その中で私がいいと思ったのは3年ほど前に片岡義雄さんが出した。コーヒーに関するエッセイの中に結構写真が収録されていて、その中の1枚がこれと似たようなアングルであるので感心した。そこら辺の片岡さんの写真のセレクションに関して、私も長いお付き合いがあったから分析しておきたいのであるが、普通片岡よしおと言う写真は、こういう俗な風景の写真を撮らない人なのである。これは私の経験でかなり確かなことで片岡さんとお付き合いのあった10年間位彼をライカウィルスに感染させてやろうと思って使っていない。ライカを差し出してこれを使ってくださいと渡そうとしたら、片岡さんはそれに接触することも拒否したのである。これは本人の意思が強烈であると言うことの証なのだ。2つ目はこれとも関連してくるのだけれども、炭鉱本を出す対談で、坂崎幸之助さんや東儀秀樹さんは私の六本木ヒルズのオフィスに来て、そこで対談をしてくれたのであるが、加藤岡さんの場合はそうではなく、六本木ヒルズには来ないからと言うので、神保町にある瀬戸と言う名前の喫茶店を指名してきたのである。そういう片岡さんであるから、東京の風景で言えば、この聖橋の上からの丸ノ内線と言うのは、風景のライカであり、風景の六本木ヒルズで通俗的なところである。だからこの写真を選んだということは、片岡さんの内部で何かが変貌してきたのではないかと言う気がするのである。2025/01/02 07:11:45187.名無CCDさん@画素いっぱい9IIXcお正月なので、自分の出した写真集をめくって、いろいろなことを考えているさんが日である。こういう時間が楽しい。ウィーンモノクローム7ティーズと言うのは、重さが2.5キロあって、ハードカバーで箱に入ったトータルで3キログラム近い。大きな思い写真集である。1人出版社で出してもらったから、全部吸って、それが完売になったので、出版社には損はさせていないつもりである。それでこれは以前からの私の写真集を作るときの哲学でもあるのだが、セレクションもデザインも第三者にお任せしてしまうというのが良い結果を生むということなのだ。それでこの時も消えのデザイナーさんにお願いしたのだが、彼はそういうことを頼まれたのは初めてであるらしく、本当に自分がセレクトしていいんですか?と3回聞かれたのが未だに忘れられない。それで結果として非常に良い成果を残すことができた。これは誰でもいいと言うことではなくて、そのデザイナーが優秀であると言うことを、私が他の仕事で見抜いたからに他ならないのである。確かその時のプロダクションの名前はマッチボックスとか言うタイトルだったと思うけれども、1番すごいなと思ったのはこの見開きページである。そこには3枚の写真が均等にレイアウトされている。左は古い自転車屋さんの看板であって、この自転車屋さんの看板はライト兄弟が自転車屋さんであったと言うことを思い出すに、十分な自転車と言う乗り物がかなり高級で精神が高揚する要素の言い換えれば、ママチャリとは正反対の。実用から最も遠いところに存在する精神であると言う名残が、この看板に残っている点だ。真ん中の写真は私が最も好きなもので、ウィーンのステファン大聖堂のすぐ裏手にモーツァルトが住んでいた。アパートがあるのだが、そこから歩いて20メーター位のところにある。素敵なワイン酒場なのである。ここにはよく通ったものであるが、このエントランスの素敵なガラスの看板は、もうなくなってしまった。ウィーンの風景で50年前にはエントランスにかなりリアルな感じのハイパーリアリズムとでも読めそうなLINEグラスに満たされたワインのガラスの看板があったものであった。今はもう存在しない。2025/01/03 08:56:27188.名無CCDさん@画素いっぱいhc1yd仕事の関係でマンハッタンでフルストレッチ、リムジンの林間をチャーターしたことがあるが、あれは内部は意外と狭いし便利ではない。フルストレッチのリムジンで効果があるのは、やはりこのフィアットみたいに小さい車を伸ばしたのがベストであると思う。ライトパブリシティーの仕事で、キャノンサークルと言う雑誌の作品を出品したり、連載のエッセイを書いていた時代の話であるが、田中さんと言う人がアートディレクターでよく私を使ってくれた。ライトパブリシティーのtanakaさんは当時としてはかなり進んだ。ライフスタイルでグァム島に別荘があって、週末はそこに出かけたりするのである。ライトパブリシティーを辞めた後は銀座のすぐ近くに自分の事務所を開いたりした。それで彼が面白いのはフィアットが大好きでこれと同じタイプなのであるが、イタリアで走っている。車と同じように改造してタクシーのライトまでつけたのである。そこら辺は法律違反になるからタクシーライト付きで行動を走る事はしなかった。Tanakaさんとは今は連絡が堪えているが、イタリアに取材に行くとこのタイプのフィアットを見るとtanakaさんを思い出すのである。もっともこれはこのタイプのフィアットが走っていた。25年前の大昔の話をしているのだ。フィアット500等は大好きであるが、あれは実用性というのがライフスタイルを形作っていると言うところで秀逸なのである。言っておくけど、最近のフィアット500はダメですよ。フィアットアバルトなどにしても、エンジンをいろいろ加工しすぎてエンジンドアが閉まらないと言うので、半分開けた状態で走っているなどと言うのは、エンジニアリングの極みであると思う。2025/01/04 08:57:19189.名無CCDさん@画素いっぱいZ8ADOJosef Sudekのライフスタイルを伝える貴重な写真である。彼は2カ所のアトリエを持っていたが、1つはモルダウ川の建物の中庭にある。この場所。そこでは狭くなってしまうので、2つ目はプラハのお城の坂を上った。その先の修道院を見下ろす建物の1階であった。スペースはどちらも非常に狭かった。私のプラハのアトリエより狭かったのだから尊敬に値するが、本物のアーティストはそういう狭い。完璧な空間でも仕事がちゃんとできるものなのだな。大写真家は非常にくつろいで生活しているように見える。それで周りに置かれているのはなかなか魅力的な雑多なオブジェである。それでここのアングルでは見えないが、写真家が向かっている。テーブルの反対側の空間というのが、そこが巨匠自らがタイトルをつけた写真家のラビリンスと言う壁面なのである。 11× 14インチの大型カメラで撮影された作品が残っている。それで大写真家の右手にぐちゃぐちゃ置かれている。トレーシングペーパーのような塊は単なるゴミではなくて、巨匠の作品でこのトレーシングペーパーをバックグラウンドにした。美しい作品がたくさん生まれている。ライティングは自然光であるから、バックからの差し込んでくる光でうまく構成したスチールライフをとっている。だから大写真家の仕事場と言うのはそのままがすぐスタジオに変化することができると言う。素晴らしい空間なのである。生活のミニマリストとしての大写真家の暮らしぶりはさらにすごくて物が堆積した。テーブルの真ん中に紅茶の茶碗とパンひときれとゆで卵が置かれていて、それが彼の日常の食事と言うのも何か禅寺のお坊さんみたいですごいと思う。2025/01/08 05:44:26190.名無CCDさん@画素いっぱいukvWJロバートフランクは1947年にチューリヒからマンハッタンに移動して、当時の有名なディレクター、ブロードビッチに彼のポートフォリオを見せた。それが現在ワシントンナショナルギャラリーのコレクションになっているこの作品なのである。それで私はロバートフランクの最も初期の作品を見て、かなり肝を潰した人間の1人であった。要するにそこに表現されている40点高41点の作品と言うのは、普通の写真、学生の卒業制作に全くことらならないものであって、退屈極まりないものなのだ。その典型的な例をここにあげておくが、確かにロバートフランクの時代は、真空管は未来の大変なテクノロジーだったのであろう。恐れずに言うならば、ロバートフランクの卒業制作よりも、私の日大写真学科の卒業制作の方が中平、卓馬も褒めてくれたし、それなりのインパクトあると思うのである。チューリヒからニューヨークにやってきた駆け出しの20代の青年のこのポートフォリオを見てブロードビッチが彼に35ミリカメラを使うように指示したと言うのはなかなか凄いことだと思う。アートディレクターはロバートフランクの隠れた35ミリカメラによる才能を一体どこで知りえたのであろうか?2025/01/11 08:01:12191.名無CCDさん@画素いっぱいrZ8z3寺山修司さんが天井桟敷で活躍していた当時、私は友人の写真家須田さんと一緒に天井桟敷に出入りしていた。ちょうどカルメンマキがデビューした頃だからずいぶんの昔になる。その頃の天井桟敷がよくやった。小屋は新宿の厚生年金会館だった。今はもうないのかなこれは?それで東京ニコン日記などにも、その頃のリハーサルの写真が何点か掲載されている。けれども、舞台を監督するときの寺山さんはかなり怖い人に見えた。オーストリアの偉大な指揮者カール、ベームは、柔和な性格で知られているが、ザルツブルグ音楽祭でリハーサルを取材したときのその怖さと言うのもなかった。リハーサルが終わって、こちらがビクビクしながらサインをもらいに行ったら、元の柔和なプロフェッサーに戻っていた。マエストロはその次の年の春に来日公演を予定していたからそこら辺の背景もあったのかもしれない。寺山修司さんが講演しているときに、好きなものはライスカレーのカレーをスパゲティにかけたもので、今はそういうメニューがあるかもしれないが、当時はなかったからスパゲッティーだけとカレーのルーを別々に注文したのである。それから何十年か経過して、朝日新聞の朝刊の岩波の広告に寺山修司さんと並べて、私の名前が掲載されたのは実にありがたい次第である。2025/01/11 15:51:16192.名無CCDさん@画素いっぱいCB5bOしばらく前に入手した。非常に不思議なシルバーに塗装された。オートニッコール20センチである。全く同じシルバーに塗装されたレンズが他にもあって2.8センチと5センチと10.5センチであった。つまりちゃんとした写真を撮る人が何かの理由でレンズをこのような色にペイントする必要があったと言うわけである。その理由と言うのを考えてみると、どうもわからない。周りの連中に聞いたら、これは冠婚葬祭のためのレンズのペイントではないのかなどと言うけど、どうも話がそれているような気がする。1970年代に学生運動のデモをやっていた頃は、カメラを目立たなくさせるために、素人のブラックペイントをすることなどが流行した。しかしそれとも方向が違う。1970年代に日本デザインセンターの撮影でトヨタの工場に出入りしていた時、我々が使っていたのは普通のハッセルブラッドであり、リンホフカメラであったが、出入りの写真屋さんが使うカメラは許可を得たものしか持ち込むこなかった。秘密保持の問題なのであるが、その時トヨタの会社が用意したカメラと言うのは全部真っ赤にペイントされているのである。ナミヤプレスが真っ赤にペイント等と言うのはかなり迫力があったな。2025/01/15 09:37:20193.名無CCDさん@画素いっぱいtqkwEウィーンの中心部の観光客の来るランドマークと言うのはあまり魅力的なものがない。ステファン大聖堂はあまりにも大きすぎて、カメラアングルが迷ってしまう子蔵弁の通りにあるペスト記念塔の場合は高さがありすぎるから。これもカメラアングルでツーリストは苦労するのである。その先をちょっと行った左側にあるファーマシーのファサードは、モザイクでエンジェルをテーマにしているので、こちらは非常にフォトジェニックであるからウィーンを訪問したツーリストが1番撮影をしたショットなのではないか?私もそのツーリストの1人であって、4 × 5インチのリンホフカメラでこれを撮影したものがスイスのカメラに掲載されたこともあった。私が最初にこの天使のモザイクをしてから50年以上が経過しているのであるが、その間に少なくとも3回はリノベーションが行われていることを私は知っている。第1階のリノベーションは1970年代後半であって、その時はカバーをかけた内側で専門家が壁画の修復をしていた。それは私のウィーンとライカの日々と言う写真集に掲載されている。この天使の薬局は、巨大な住居の1部分のファサードにあたるのであって、建物のちょうど上のほうはアパートメントになっている。そこに音楽の勉強で宿泊していた日本人留学生が言うには、家の大家さんは今度winの市長さんになっちゃったというのである。私の長くお付き合いのあったズデーテンドイツ人も同じアパートメントの屋根裏部屋に住んでいてヤマシタ洋介さんをお連れして彼が持っている。ピストルの数々を見せてもらったこともあった。その時の件は山下さんのピアノ弾き飛んだと言うエッセイで掲載されている。山下さんにヨーロッパであったのはいちどだけだけど、その時の私の実際の様子が同じ星に出てくる。なかなか面倒見の良いカモフラージュジャケットを着た男の子と言うような感じで紹介されている。山下さんのその次に登場してくるのがタモリさんなのであるから、芸能界デビューは私の方が古いと言うわけだ。2025/01/19 07:51:04194.名無CCDさん@画素いっぱいpzBbrリスボンα間の時計屋さんを30年間見続けたこと歳をとってきて面白いと思うのはある。1つの建物なり現象なりランドマークなりを自分の記憶の記録の体積として認識できるところにある。これは長生きの楽しみと言うことになるのであろう。リスボンのアルファマは迷路の代表のように言われているが、この場合、急な斜面で高い所と低いところがあるから、地形は理解しやすいのである。これが東京の雑司が谷のようにほとんどフラットな場所だと高い。低いで理解ができなくなるから、逆に道に迷ったりする。Αを下からどんどん道に迷いながら登っていって、その迷路のつきたところに小さな公園があって、子供たちがいつも遊んでいて関西が聞こえるところがある。その広場の西側の角に小さな時計屋さんがあって、50年前はそこに展示されている。時代遅れのウォッチを見に行くのがそれなりの楽しみであった。その時代がどの時代であるのかと言うと、IKKOさんがヨーロッパに暮らしていて、田原圭一はパリに暮らしていて、田原は泥棒に入られて、カメラを全部撮られてしまったので、IKKOさんがペンタックスのエムイーを田原に貸したと言う話が伝わってきた時代だから 30年位前かな?その後この時計屋さんは店を閉めて、それから15年ぐらい経って行ったら、建物はかなり荒れて、ドアなども壊れるような状況になっていた。その時点からさらに15年位経過して、それが私が前回リスボンを訪問した時なのであるが、時計屋さんはきれいに修復されてちょっと行きな小さなアパートメントになっていた。不動産業者の看板も出ていたし、こんなところでちょっと暮らしてみるのも大なものではないかと思ったのである。2025/01/22 04:35:46195.名無CCDさん@画素いっぱいVKnUv写真家のKawada Kikujiさんと1960年代半ばにヨーロッパでの巡回写真展の打ち合わせでお宅にお伺いしていろいろな話をしたのである。その時に細グラファーが言うには自分は東洋人であるから、ヨーロッパに行って撮影するときに、自分が東洋人であるということを認識される。ストレスとでも言うものが自分の撮影のパワーになっているとおっしゃるのである。この東洋人である存在の違和感というのを、私もウィーンに滞在した。初期には強烈に感じた。そしてそれが撮影の原動力にしたと言う。尊敬する写真家のパワーの転換方法がすごいなと感心したのである。当時のウィーンでは、東洋人などは少なかったから、家人などもウィーンの音楽大学に向かうときに珍しがられて、子供を後ろに数人連れて歩いていたそうである。それで日本がだんだん経済的に豊かになって、私の実感ではこの30年間にウィーンのホテルのクラスが3つぐらい上になったと思うのであるが、その後の経済的にセッションでまた元のように戻ってしまったのは面白い。それでウィーンの街並みをこのように撮影して歩いていると、時々鏡の中にエキストラとしての通行人の東洋人が写っていると言う次第になるわけである。2025/01/24 06:38:25196.名無CCDさん@画素いっぱい34cUvウィーンに到着した。1913年の5月の半ばごろから数週間滞在したのが、ウィーンの中心から、かなり西に離れた場所にあるこのアパートメントであった。2階建ての建築物と言うのは、ウィーンでもなかなか古いもので。19世紀の終わり頃からは5回6回建てに変わるのである。それでこの2階建ての建築物は300年経っているのかな?エントランスの奥には中庭があって、そこではいつも金属を切るような音がしていたから、鉄工所か何かだったのであろう。ウィーンの建築は、劣悪な住環境で、当時有名だったから、バスルームなどはもちろんなくて、漫画によく出てくるような巨大な金属製のたらいみたいなのが置かれていて、それにお湯を沸かして入れて、家人などはそれに入って面白がっていたのであるが、あまりにも暮らしにくいので、すぐ付きの別のアパートメントに移動した。そのシャワー付の別のアパートメントも数ヶ月いただけで、1973年の秋には、それからずっと済んだトラブルが沿いの天井の高い大きなアパートメントに移動したのであった。面白いのはこの町外れの2階建てのいかにも不便そうなアパートであるが、10年ほど前にウィーンの中心部から西に伸びる。地下鉄の駅がまさにこの場所の土まんまにできたのである。だから町外れの不便なところがいきなり中心部まで、すぐ行けるようなところに変貌してしまった。2025/01/27 07:25:53197.名無CCDさん@画素いっぱいDky1R1683年にできたと言うふうに、エントランスにちゃんと断りが気がついている。旧市街の中心部にあるエステルハーツという名前のワイン居酒屋である。とにかくこのワイン酒場は非常に危険な場所でエントランスを入ると、急な階段が地下20メーター位まで一気に続いているのである。そこに足掛け8年間お世話になったということは、このワイン、酒場に行く時に1度も階段を踏み外さなかったから、いまだに生存していると言う証拠なのである。ワイン、酒場と言うのは、まさに生きた戦場みたいなものだ。ウィーンの東にある愛染シュタットと言う街で作られた辛口の安くて良いワインを出すのでよく行ったと言うよりもここに暮らしていたようなものだ。1915年に木村兵さんがこの場所を訪問してなかなか良い作品を残している。かなり暗い酒場であるのに、全然ぶれていないというのがさすが名人の技だと思う。このワイン、酒場が良いのは外から食品を持ち込んでも大丈夫だと言う点だ。それで日本人同士誘い合わせて正月の宴会をおせち料理を持ち寄ってここでやったこともあったが、おせち料理にワインは合わないんだよね。1613年とは第二次トルコ戦争でウィーンがあと1歩でトルコ人に占領されると言う危ない状況であった。それでウィーンではその時にトルコの軍隊が残していったコーヒー豆を使って、ウィーンで最初の喫茶店が作られたと言う伝説がある。それから300年経過した。1913年にニューヨークにいた。私は家人と一緒に久しぶりにウィーンを訪問したのである。トルコ戦争の勝利と言うのと、ウィーンのコーヒー豆が最初にお湯をかけられたというのが同じ年代であるというのが、なんとも皮肉である。2025/01/29 10:38:49198.名無CCDさん@画素いっぱいxOfM7著名な映画監督のセルフポートレートと言うのはなかなか興味がある。世界の図監督が使っていたカメラがライカではなくコンタックスであったと言うところがまず非常な宣伝効果を上げている。どこかの旅館に置かれた鏡の前でリラックスした感じの図鑑監督はカメラに向かって結構曖昧な表情を浮かべている。こういう曖昧な表情と言うのは、映画館督として俳優やカメラに資料を出す時とは全く別の表情であると言わなければならない。言い換えれば、演出家としての映画監督が自分を監督することに戸惑っている。その戸惑いの表情が、この不思議なセルフポートレートに現れていると言えよう。スタンレーキューブリックも若い頃にライカを手にして鏡に向かった。セルフポートレートが残っているが、これも表情が曖昧である。この場合も自分を監督しようと言うその方向性がわからなくて、視神経が混乱していると言うような表情なのだ。後の時代になって、キューブリックが対策を監督するようになって、彼はカメラ好きだったらしく、使っているのが2台か3台のニコンのレンジファインダーカメラなのである。2025/01/31 06:49:12199.名無CCDさん@画素いっぱいj6F1e北京とつながりができたのは、ニフティアドレス、中国の大きな通信社の報道写真コンテストの審査委員長をやったことにある。その時北京でいろいろ通訳をしてくれた人が友人になっていろいろなことを教えてもらったのである。それでカメラ付きが集まって、北京の西の方50キロ位のカントリーに行った時に撮影した写真があって、それは当時のデジタルカメラマガジンに掲載されたのだが、それを私の友人が複写してくれて、それを送ってくれたと言う複雑ないきさつがある。北京から高高50キロぐらい離れたところの農村であるのに、そこに文化大革命の頃の偉大な火事取り、毛沢東、主席、万歳と言うスローガンが建物の前面に消えかかっていたけれども、はっきり読めると言うのにはびっくりした。すでに半世紀が経過しているからである。非常に暑い日で水を求めていた。我々1つの農家の庭に入って、そこにあるたらいの水を飲んだのである。金魚やぼうふらもいたかもしれないが、これが非常にうまい水であった。それで農家の部屋の中を見学させてもらったときに撮影したのがこれである。驚くべきは中国共産党がスタイリストに頼んで作ったのではないかと思えるほどあるのは、シンプルなテーブルと椅子そして毛沢東万歳のポスターだけしかない。そして暑い日にもかかわらず、部屋はぴったりとガラス等が占められていた。これが革命の本質なのかと、ちょっと感心したものであった。2025/02/02 07:40:34200.名無CCDさん@画素いっぱいK2JCa34年間もトータルでプラハに暮らしたと言うと、皆さんびっくりするのであるが、実際には1年の家の何回かプラハに行って、後はファイストにいて、残りの時間は別のヨーロッパに行ったりしていたわけである。つまり、細切れ体験のプラハですね。それでもこの34年間は私にとって非常に貴重な体験であった。プラハをテーマにしたエッセイを出すこともできたし、写真展もたくさんやったのだが、何よりも重要なのはプラハでこのような形で自分の時間を過ごすことができたと言うことにある。天窓が北側に開いた。何もない空間のアトリエであって、唯一自慢できるのは右側にある。3つの椅子はバルセロナチェアである。しかも本物であると言うところを付け加えておかなければならない。バルセロナチェアのコピーと言うのは世界的な大流行であって、六本木ヒルズのエントランスにもコピーが並べられていたけれども、これは日本人の体格には合わないし、変な風にリラックスをさせようと言う。椅子の構造からして逆にリラックスできない椅子ということである。座ることを拒否する。椅子と言う。あの存在感に結構近いと思う。2025/02/04 05:58:16201.名無CCDさん@画素いっぱいvjhOrニコンにつけるベストなハンドグリップ世界的な報道写真家友人スミスが日本の日立に招かれて日立の写真集を作るために来日したのは1962年だったかな?その時の友人スミスの仕事ぶりがアサヒカメラに紹介されていて写真かどこかに腰掛けて休憩しているところなのだがごだい位のカメラをぶら下げていた。それらに全てかっこいいハンドグリップが付いている。あゆハンドグリップが欲しいなぁと思ったが日本では売っていない。それで似たようなハンドグリップを港商会のアクセサリーの中で見つけて使っていた。ブランドはマイネッテ。それから半世紀以上経過してほぼ友人スミスのハンドグリップに匹敵するグリップを手に入れた。これは非常にバランスが良いしカメラをしっかりホールドできる。ニコンではケーブルレリーズでシャッターの切れるハンドグリップを純正として出していたがあれは非常に使いにくい。めったに出ない付属品なのであるが10年位前に四谷荒木町のガラクタ屋さんでニコンの純正グリップを手に入れたのだが結局使わないでそのままになってしまった。ニコンのハンドグリップはおそらくニコンの頭の良い人が脳内で考えて作ったのだと思うがそういうのは実はダメなのである。友人スミスの場合は実践的な体験から来ているから道具としての使いやすいクリップなのだ。ケーブルレリーズでクリップでコントロールできる必要は全くないというか邪魔である。2025/02/05 18:59:50202.名無CCDさん@画素いっぱいnID8dJosef Sudekに関する画像はあまり残っていないのであるが、撮影された時期がフルシチョフの時代なのだから、仕方がない。これもソ連の文化番組のテレビ放送からピックアップしたものである。スクのアトリエは、モルダウ側の近くのかなり奥に入り込んだ。建物の1番奥の中庭にあった。1920年代に建てられたものらしい。それで1度更地になったが、その時の設計図が残っていたので、同じように再建されたと言うところがヨーロッパ文化の物持ちの良さである。テレビ番組では大写真家こんな感じで自分の庭の植物に水をあげている。ヨーロッパの場合は集合住宅が多いから、自分の庭で植物の手入れをすると言う事はそれなりのステータスの高さなのだ。集合住宅だと自分の庭がないから、別に小さな小屋付きの庭を借りて、そこに休みの日に行って、自然に親しんだりする人もいる。ドイツのあたりではこれを小さな庭師と言うのである。写真家が自分の庭を愛したと言う別のワンショットがあって、庭の手入れをしたときに、建物のエントランスの階段に腰掛けてリラックスしているのがあった。代写真家に敬意を表して同じ場所に行って、私は階段に腰掛けてみたこともあった。2025/02/07 08:14:50203.名無CCDさん@画素いっぱいtVnalJosef Sudekのポートレートと言うのは案外に残っていない。西側にデビューしたのが遅かったので、画像のデータベースが非常に希薄なのである。それでこのショットは、当時のソ連のテレビ番組か、何かでこの偉大な写真家を紹介する番組の中から抽出したものである。写真家は修正。妹さんと一緒に暮らしていた。ここら辺が私にとって興味津々なのは正岡子規はやはり妹さんと一緒に暮らしていたと言うところにある。妹さんの証言であるが、彼が亡くなった時、彼のアトリエには物が堆積していて、窓際までも歩いて行くことができなかったと供述しているのである。ところがそれが建物が一旦全部解体されて、当時の設計、そのまんまに建物が再建されて、今ではギャラリーになっているのである。その当時の以前のアトリエで唯一残っているものは、大写真家が写真を水洗いするときに使った石を繰り抜いた巨大な水槽である。君がなくなってしばらく経って、かつてのアトリエが全部更地になった時、復活祭の朝であったが、私はアトリエの跡地の脇に置いてある。椅子に座って商業無常を感じざるを得なかった。それで注意してみると、見覚えのある巨大な石を送り抜いた水槽がそこに置いてある。解体業者さんも重いので、それは持っていかなかったものと見える。その水槽はすくのアトリエが元のままに再建されて、元のダークルームの良い位置に収まったのだから、まずはめでたしめでたし。2025/02/09 06:53:58204.名無CCDさん@画素いっぱいU4vYB今まで235冊位の本を出したので、いろいろな思い出があるが、25年位まだ自分の方が出ることというのがビックイベントであったからら、今週の売り上げのランキングを教えてもらうと、喜びさんで東京駅の八重洲ブックセンターにチェックに行ったものだった。売れ筋の席というのは平積みになっていて、1番売れるのが右側に積んであると言う不思議な点灯が存在するのである。自分の本が登場すると言うことに慣れてしまってから、すっかり書籍を切り、本屋さんに行かなくなった。本と言うのはアマゾンとか日本の古本屋で買うものであると言う認識が私の中に定着してしまったのだ。銀座六丁目に外国人観光客がよく行く。松坂屋デパートも後も何とか言う商業施設は私が嫌いなので、その前を通るときは目をつぶって息を止めて歩いたりするのである。その建物の6階高に結構有名な書店があって、そこに私の写真集が世界的な写真家と並んで展示されていると言うのを友人が写真に撮って教えてくれたのがこれである。私のウィーンのモノクロの写真集は表紙も真っ黒で暗いので、友人はわざわざ黄色いマークをつけてくれたのも感謝感謝。2025/02/13 01:58:43205.名無CCDさん@画素いっぱい4PBAZドラ運河は自然に作られたのかそれとも水分のために作られたのか前から気になっているが、いまだに調べたことがない。インターネットでいっぱつでわかるのであるが、逆にそういうことは知らないほうが良いと感じている部分もある。映画の第三の男で有名であるが、オーストリアはアドルフの出身地ではあり、第二大戦の後20年間はアメリカフランスとソ連に占領されていた。それでドナウ運河のちょっと上のほうの端が平和の端と言うタイトルの端があってそこに電車の駅があって、平和の橋という名前はいつからつけられたのかは知らない。けれども、建物のほうは100数十年前のワグナーの設計なのである。そしてこの駅は私が暮らしたウィーン体験のほとんどがこの駅で乗り降りを知っていたことになる。それでこのショットはパノラマカメラであるが、かなり初期のものであることがわかって面白い。建物の右手のほうは中がタバコ屋さんになっているのだ。そしてその右側のスペースはここでは何もないけれども、ソーセージ屋さんとか花屋さんがゴタゴタと店を並べてしまって、今ではこんなにすっきりした風景は見えないのである。興味深いのは、駅のエントランスもすぐ側に置かれている場みたいな形の物があるが、これは伝統的な運搬用の手押し車なのである。プラハの有名な写真家の作品などでも時々このバングルマメーター手押し車が登場するので、これは私にとってのメランコリーオブジェなのだ。2025/02/15 10:20:13206.名無CCDさん@画素いっぱい2x0w4Neocaカメラと言うのは、60年代に人気のブランドであった。最後のほうのモデルは、なんとなくそのアピアランスがニコンSPに似ている。レンズシャッター式のレンジファインダカメラはレンズ交換ができないからアマチュア用であると言うふうに当時はみなされていたのであるが、逆に写真をちゃんと取る人だけ交換。レンズなどは使わないで45ミリのレンズが1つあればそれで充分であったと言う見方も成り立つ。この時は今はもう既にない。日本カメラの私のカラーの連載の最後の会であった。何か記憶に残るようなものを取りたいと思って、日本カメラの編集部からダラダラ歩いて門前仲町に行った。その途中でごく普通のオフィスの駐車場のエントランスと言う表示が、いつになく存在感が浮き上がって見えたので、それを撮影した。この時期の私の撮影方法は、もっぱら135のフィルムをカラーネガで撮ってそれをデジタルスキャンすると言う。まぁ当時の普通の人はみんなやっているのと同じやり方であった。それでスキャンデーターが上がってきたらどういう理由か知らないが、この駐車場のエントランスを表示するワンショットが、かなり私の心に響いてきたのだ。こういう体験は結構大切にしたいものである。スナップショットでこれは確実に完璧に撮れたと思うのが画像を後で観察すると、そのお目当てのショットがドロップアウトしてしまうと言うのはよくあることだ。撮影した画像が上がってきた後に、それぞれの画像が自分を主張していると言うことなのである。2025/02/17 08:03:23207.名無CCDさん@画素いっぱいdesYw1970年代にパリの街を歩いていると、所々の公園でペタンクで遊ぶ人の姿をよく見かけた。なかなか複雑なルールがあるようで、外国人として見ている分には全くルールがわからない。デパートに行くと、そのペタンク用の金属のボールを売っているが、思いつきでお土産で日本に持ち帰れると言うほどのドンではなく、結構な重さである。1970年代頃のパリジャンのペタンク遊びを見ていると、まずこちらが若かったから、ペタンクをやるのはみんなおじいさんと言う第一印象がある。おばあさんはいなかったような気がする。これは男性の遊びなのかしら?天才荒木は流行者が好きだから結構昔のことになるが、1時は自分のことをペタンク荒木と呼んでいた。何かこのキャッチフレーズはいい感じだね。このワンショットは私が日本で初めてペタンク遊びをしている東洋人のおじいさんのショットである。肖像権とか関係あるのでプレイしてる人は入れませんでした。と言うのは、嘘で、たまたまこういうショットで撮っただけなのだ。1番強烈に印象づけられたのはペタンクをやっているのは1970年代のパリでは老人がやっていたが、現代のファーイーストでは私と同年代の人がやっていると言うことに気がついた。要するに、ペタンク世代に私が追いついたという意味でもある。2025/02/20 08:32:55208.名無CCDさん@画素いっぱいcFqM31979年にヤマシタ洋介トリオがウィーンにピアノを壊しに来たときに山下さんに初めて会ったのである。当時のメンバーがサックスが坂田さんでドラムスが大山3であった。郊外のワイン、酒場で盛り上がってに山下さんをウィーンの私の友人の頭で、ドイツ人にお連れした。その人はピストルのコレクターなので、山下さんが興味を持ったのである。短い滞在実感だったが、意気投合して楽しかった。出発の前日になって主催者からもらった小切手がすぐ現金化できないと言うので、騒ぎになって私はお手伝いしたことがあった。それで私は全日本冷やし中華協議会のことを知っていたのでをしたら、山下さんは私を支部長に任命してくれたのである。それでウィーン時代に1700年頃、つまりモーツァルトが生きていた頃のお皿に冷やし中華をのせて満足していたのだが、大問題はナルト巻が上では当時手に入らなかった。パスオーバーの時に種を入れないパンを作ったユダヤ人の伝統と同じように、ウィーンの冷やし中華は鳴門巻きが入っていないと言うのが5200年なのである。それで、私が考えているのはが生きていた時代に、ひょっとしたら冷やし中華は存在していたのではないかと言うことだ。トルコ戦争には勝利した。オーストリアだから中国人の食べているヌードルぐらいはどっかにありそうで、それで適当にソースを販売すればモーツァルト時代の冷やし中華ができると思う。モーツァルトは冷やし中華が好きだった。と言うことになれば、空前絶後の新発見である。これはモーツァルトが食べていた冷やし中華を再現したものであると、堂々と公言することもできる。2025/02/22 07:21:48209.名無CCDさん@画素いっぱいAxj341973年の5月にウィーンに到着した直後だけど、友人のウンジンの写真家に連れられて、ウィーンの森を散策した。電車の終点からワンブロック行きといきなり森が始まると言うのは感動者だった。逆のことも言えるわけで、ウィーンの美術評論家を連れて日本を旅したときに彼が驚いたのは新幹線で東京から大阪まで走って田園地帯がほとんどなくて全部家があると言うことだった。その違いがこの違いなんだね。それで、1973年の5月にこの写真を撮っていかにもいい写真が撮れたという感じで気分を良くして、1976年のヨーロッパを巡回した。大きな写真展でも展示して、カタログにもこのショットが載っているんだけれども、私はウィーンの滞在の全般と後半とで写真に対する考え方がすごく違ったので、今の時点で考えるとこういう写真を良いと思っていた。自分は否定されなければならない。こういうのって1種の悪い象徴表現主義なんだね。記憶を失う。以前の中平琢磨が記号論でとっていた。写真と全く同じなんだ。どうしても頭で考える連中はこういう象徴主義的な写真を撮りたがる。そういう人を驚かすような写真に全く興味がないと言っていたのは26歳の時のウォーカーエバンスなんだから、えらいことだと思う。よく勘違いされるけど、ウォーカーエバンスはストレートフォトグラフィーの人です。ドキュメンタリーの人のふりをしているけど、実は大違いなんだ。2025/02/24 08:33:15210.名無CCDさん@画素いっぱい3ZmJd78年前に東京芸術大学でロバートフランクの特別展示をやったときに、私の周りも浮き足立ってしまって、みんなで何の関係もないのに東京芸大に行ったのである。その時の記念に出版された写真集めいたものは、実際には写真集ではなくて、ドイツの出版社が南ドイツ新聞社のサポートを得て、体裁は全く新聞と同じなんだけど、それがロバートフランクの写真集になっていると言うもので、これはなかなか存在感があって良かった。もともとロバートフランクの作品はゴシップ的であるからだ。私は日大が逃走中でロックアウトされていたから、もっぱら家人が通っていた東京芸大のほうに入り浸っていて、まるで芸大生のような顔をして割っていたのである。そのせいではないと思うが、1969年の東京芸大の秋の芸術祭に登場した。誰かの描いた写真論であるが、そこに私が書いたワンフレーズが適用されている。すなわち田中長徳さんに聞いてみたい。あなたもトライエックスですか?私は音楽大学のほうに入り浸ってキャッスルと言う名前の洋食屋さんで時間をつぶしたりしていた。当時はホットレモンとか言うのがあったんだけれども、理想的にはアルコールがあるともっと良いけれども、何しろ大学の食堂だからそうはいかないよね。それで美術関係の道を渡った。反対側で結構有名なメニューが豆腐のバター焼きなのである。もやしと豆腐をマーガリンで調理したものだから、バター焼きというのは不当表示になるな。家人も、現役の頃は、豆腐のバター焼きとアジのお刺身などをよく食べたらしい。それで私がロバートフランクの写真展のついでに、豆腐のバター焼きを宣伝したら、結構売り上げが上がったのだそうである。こういうブランド物が価値があるのはそれを提供されるお皿の内側にちゃんと東京芸術大学だから何か忘れたけど、それ関係の文字が印刷されていることだ。皆さん何かわからないけど、ライカという名前が付いていればありがたがあるのとここら辺は同じレベルだね。すなわちライカと豆腐のバター焼きは同じクラスである。豆腐のバター焼きとライカは、その存在感が平等である。2025/02/27 08:12:28211.名無CCDさん@画素いっぱいB74tkニューヨークで撮影した200点近い8 × 10インチのモノクロネガなんだけども、そのうちのほとんどは信頼して預けた。友人の写真家が紛失してしまったので、非常に私は怒っているのである。土浦の写真家のSakaiという人である。ところが、30点ほどの写真が何か別の事情でよそにプリントを依頼していたので、それだけは手元に残った。不幸中の幸いと言うやつだ。ニューヨークに暮らした間は、夏の数ヶ月は双方地区に住んでいたが、それ以外は当日治安が最も良くないと言われていた。タイムズスクエアの野洲ホテルで暮らしていて、そこが面白かった。オフofブロードウェイの芸人などが売り込みに来たときに泊まるホテルだし、ウェルフェアの連中もここを根にしていた。夜になると、巨大な黒人のガードマンが、銀色のレボルバーを見せびらかしながら、ガードマンをしていた。家人はなかなか優秀なニューヨークタイムズの読者であって、タイムスを読む時は必ず手袋をして読むのである。今は知らないけれど、40年前のタイムズはインキが質が良くなかったのか、手に持って読んでいると、指先が真っ黒になるのだ。タイムスの付録にある動物園のフィギアを、家人は丁寧に切り抜いて髪のお皿の上に並べた。それを私はディアドルフの8 × 10インチで撮影して、これを夜の動物園と命名したのである。私のオンラインギャラリーで100点位のプリントが売れたのだけど、このプリントはなかなか売れなかった。ブルックリンブリッジとかミュージアムとかわかりやすいランドマークの写真はすぐ売れるのだが、何しろ状況が込み入って私が個人的に好きな作品だからなかなか売れない。それでも九州のほうのコレクターが買ってくれたのは本当に嬉しかった。夜の動物園と言うのは、実はちょっとしたバックグラウンドがあって、正岡子規は、動物園のすぐそばの根岸に住んでいたから、夜の動物園のことをちらっと書いているのである。セントラルパークサウスには規模が小さいが動物園がある。ニューヨークの人々の懐かしい子供の頃の思い出のランドマークであるといろんな人から聞いた。2025/03/01 15:49:44212.名無CCDさん@画素いっぱいCzL0O大学生の当時から、東松照明さんの大ファンであった。それで新宿の事務所に初めて遊びに行った時に、キャノンから大きな段ボールが届いて、その中にたくさんのキャノン一眼レフと交換レンズが入っていた。それまで東松さんは、ニコンエフを使っていたのだがこの辺からキャノンはスポンサーになったようである。その1連の広告は60年代後半でキャノンF1が出る前まで続いたが、この広告シリーズがかっこよかった。誤解を恐れずに言えば、キャノンF1になってからキャノンの一眼レフが変な風にプロっぽい大衆カメラになってしまった。だからカメラとしての知的な品格がちょっと下がったりしたのである。東松さんの当時の代表的な仕事で日録というのがある。カメラ毎日の雑誌のトップで30ページ以上発表された彼の日常生活の日記なのであるが、これにはしびれました。その当時のキャノンの広告は、ライトパブリシティーがやっていて、キャッチコピーで忘れられないのは、世界中の手がキャノンを磨いている。その後私は日本デザインセンターに入って、ニコンの一眼レフの広告を手がけたのだが、ライトパブリシティーには最初から負けていると思っていた。フイルム一眼レフなら60年代後半のキャノンに限ります。しかも手に入れやすくてここに示すカメラはどちらも2500円。こういうのをおすすめします。2025/03/05 16:24:41213.名無CCDさん@画素いっぱい39xsOウィーンに行ったときの話である。その時はライカの1番最初のモデルに凝っていて、最初のライカさえあれば何でもできると言う認識で、私はライタハイになっていた。一例をあげれば、アレクサンダーロードチェンコが初期の傑作を全部レンズ交換のできない。1番最初のライカカメラで撮影している。そして彼独特の画面を斜めにした画面構成で画像にムーブメントを与えているのである。それが私の表現者としてのメインのカメラであったが、その他に記録用としてもう一つコンパクトデジタルカメラを持っていた。おそらくリコーのデジタルカメラであると思うけれども、28ミリ相当のレンズがついたJRではなかった。プラハのよく行くレストランでランチを食べて、沸騰ミールと目の前に雀さんがスープの残りを食べている。スズメがすごいと思うのはちゃんとスプーンに泊まりに代わりに足をかけて礼儀正しくスープの残りを突っ突いているのである。ヨーロッパ人はいずれも大変なこと好きで、散歩の時にパンくずを持って行ったりするのは普通であるが、私が暮らしたウィーンのドナウ運河のそばの裏手にある。巨大な公園などは真冬は鳥が苦労すると言うので、ベーコンの油の切れっ端を紐で、ぶら下げたものが樹木の間にぶら下げてある。これなども冬の厳しい間の鳥さんの貴重な食料なのである。2025/03/07 08:08:49
【兵庫県】百条委から「クロ判定」斎藤知事は「可能性ということですから」と逆ギレし「AさんのPCにわいせつ文書があった」と連呼…「死体蹴りやめろ」とカオスにニュース速報+5361016.52025/03/07 11:44:02
【令和の百姓一揆】トラクター30台が東京・青山公園に集結しデモへ…参加する無農薬コメ農家(44)は「離農の一番の原因は農政の失敗」「公表されたコメ農家の所得は年1万円」ニュース速報+121015.52025/03/07 11:43:15
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている
Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている
当時の日本のカメラメーカーとしては国辱的な感じであったのであろう。それでなるべく目立たないところにメイドインオキュパイドジャパンの刻印をつけたのである。これはニッコールレンズの3.5センチであるがレンジファインダーの距離計連動カムのところにうまく刻印してある。
同じ時代のキャノンレンズを見て面白いと思うのは確かに刻印はされているのだが、それがレンズ本体ではなくてリアキャップに刻印されているのである。ここら辺の個性の違いがニコンとキャノンの違いだなと分析してみると面白い。
昭和25年の講話条約が締結される。以前のメイドイン生生杯とジャパンの刻印の付いているカメラは、市場にはたくさんあるにもかかわらず、なぜか1番最初のニコンのレンジファインダのカメラだけが数百万すると言うのは、市場の不思議さである。
同じ時代のキャノンのレンジファインダカメラだったら、現在でも20,000円位で買えるものであるからだ。初期のコニカのレンジファインダカメラで面白いのはメイドインオキュパイドジャパンの刻印付きの一番最初のコニカのモデルには2つあって、1つはカメラの裏側のエンボスのレザーの部分に極々目立たないように刻印があるもの。これは業者さんも気がつかないで、そのまま値付けをしてしまうから非常に安い。
もう一つのモデルは、ごく初期の最初のコニカであるが、これはトップカバーにメイドインオキュパイドジャパンがかなり大きく刻印されている。それでこちらのほうは値段はかなりお高くなります。
それでこのライカマイライフの場合は写真集なのかカメラ本なのかそれともエッセイなのかわからないような中途半端なポジションにセットしたことが逆にうまくいったようである。今の時代であるから重さが2キロも3キロもある思い、写真集を作るより手に取れて持ち歩ける、こういう形の写真集の方が実践的である事は言うまでもない。
それで表紙の写真のセレクションなのだが、表紙の織り込んである部分を広げると。実際には2枚の写真が横に連続しているように見えるのである。これがその1部を示したものだが、表の表紙は半分になっているが、裏の表紙のほうは全部広げてあるから、35ミリの横市のように見える。
この本を手がけてくれた泉編集長と言うのは、私の知る限り最も優れたエディターであると思うけれども、そこら辺の配慮が非常に効いているのはありがたいことだ。
ポーラ化粧品の看板も同じ種類に属する問題だと私は考えているのだが、この亀有駅前のボロボロの看板は時代が変わっていると言う意味でも非常に好きなものであった。ところがどうもある時店のオーナーがちゃんとした看板屋さんに修復を依頼しないで、自分で勉強塗ってしまったような感じが、そこにはあるので、かなり稚拙な感じのプリミティブなポーラの看板になってしまった。
言い換えれば、ポーラ化粧品の領域をいっぽ上のクラスに行ってしまって、ポーラ化粧品ダッシュと言う存在感を獲得してしまったのである。。イタリアの田舎のどっかの礼拝堂のイエス・キリストのあるいはマリア様だったかもしれないが、地元のおばあさんが勝手に歴史的な遺恨を修復して、モダンに書き直してしまったようなところがある。
ポーラ化粧品の看板が外国にあるかどうかは知らないけれども、あまり日本国内を旅行する機会のない私であるが、数年前高知県立美術館に高知出身の有明写真家の展覧会を見に行く時に駅前にポーラ化粧品のいい感じのお店があったので、これも非常に広いものだと思って満足したのであった。
1つは有名な古河シュレンドルフがまだ有名になる。前に撮影したとどめの壱発と言う映画で、これは第一次大戦の戦争ロマンなのである。そうなるとウィーンの東ハイドンなどが活躍した古い街の郊外で撮影をした。連日の雪であって、舞台は第一次大戦のロシアと言うのだから格好である。
ロケーションがめんどくさいのは、そこに蒸気汽関車が登場して、実際に蒸気で動くわけであるが、その速度をうまく調整するというのが蒸気汽関車ではほとんど不可能なので、何度も取り直しで大変な目にあった。
もう1本はwinをテーマにしたコミックなアクション映画であるがこれは1930年代のドイツの街という設定なのでwinのそこら辺の飲み屋とか裁判所とかwinの中央部知事がそのままロケーションになる。
要するにかつて大流行したニュージャーマンシネマと言うのはアメリカのハリウッドに比べてコストがかけられないから何でもかんでもロケーションで取ってしまおうと言う極めてドイツ的な経済映画なのである。
それでwinに行った時に、何の気なしに駅のターミナルでこーゆー撮影をしたのであるが、3人の登場人物がいて、右の男性は松葉杖の人で左の男性はまた性格的にちょっと問題がありそうな感じの人である。ところがここで主人公と言うのは意外と目立たない中央で、あまりはっきり存在感のない男性なのではないかなどと考えてみると、まさにこういうワンショットがニュージャーマンシネマが醸し出すアピアランスなどだと思う。
右に看板がちょっと見えるバンクオーストリアと言うのは50年前に私の写真展を企画してくれたり、コレクションに買い上げてくれた大手銀行である。日本の銀行だと文化的と言うとすぐ手芸とかそういうレベルになってしまうから、最初から文化で色が違うなどと言う事はここで言っても仕方がないね。
日大写真学科の卒業制作の50数点の1連の作品シリーズでも時々中にコカコーラのシンボルマークとか看板が入ってくるのである。今にして思うと、コカコーラと言うのは、当時の最もモダンで憧れの強いアメリカのシンボルマークであった。
中学生の文京区立第7中学校に入った時、私のレベルが高かったのではなく、クラスのレベルが低かったのですぐ生徒会長になったりしたのである。それでこれも今ではありえないことだが、理科の担当の梅田先生と言う人が私をすごく可愛がってくれて、高田の馬場の当時、珍しい鉄筋コンクリート、アパートの3階に宿泊に行ったりしたのである。
梅沢先生は文化人であるから、ライフのバックナンバーなども山のように持っていたし、キャノンの最新型のレンジファインダカメラには、当時最も明るいav点5のレンズが付いていた。
それで梅田先生のお宅で、マクドナルドはまだ日本に来ていなかった。60年代初めであるが、コカコーラとウィンナーソーセージを食べて、何かアメリカ文化の一端に触れたような気がしていた。中学生の私であった。
あの頃のコカコーラは結構高くて50円位したと思うけれども、自動販売機にコインを投げ込んでドアを開けて冷えたコーラを1本引っ張り出すと言う方式のやつだった。あの当時のコカコーラの味わいと言うのは何かもっときつい味わいであって、あれが大人の味と言うのだと理解していたのである。
時代が食って、日本ではペプシコーラとコカコーラの戦争になったりした。1980年代ポーランドが戒厳令になってその戒厳令が解除された。最初の飛行機で私は週刊朝日の取材でワルシャワに飛んだのであるが、ワルシャワの街はコカコーラではなく、ペプシコーラの帝国であった。国によって、河原のバックグラウンドの色分けも違うなと感心したものである。
写真家にとって花が何者であるのかと言う話を現在書いているのである。それで私にとっての端と言うのは部屋に飾られたいくつかの腹があるけれども、これは家人のお弟子さんが花屋さんを房総半島でやっているのでそこからいただいたものである。そういうお花は確かに綺麗だけど、私が目指しているのは野原にある。花と言う言い方は変だが、ストリートに咲いている花を真面目に撮ってみたい。
20年位前に足立区の西新井をフラフラしていた時に駅のすぐそばの東武伊勢崎線の線路のすぐそばに何か存在感の際立つお花があって1枚だけ持参した。ブラックロードのカメラで撮影した。このショットが、私には忘れられない。
なんというか、アスファルトの片隅に咲いた大都会の花と言う感じなのである。適当な露出でからネガティブで適当に撮影したら、想像外にみずみずしい写り方をしていたので、それが気にいった。
ルネッサンス時期の花をイラストとして、極彩色の色彩を施した細密画があるが、何かそういうルネッサンスのグラフィックの存在感みたいなものを感じたのである。
ここら辺はまさに日本カメラの前田編集長のパワーによるものなのである。当時は新製品レビューとか過去のカメラの分析の話が普通にあったけど、カメラを文学として扱うと言うようなジャンルはまだなかった。そこら辺が前田編集長のユニークなところだと思う。
業界の大先輩も褒めてくださる時に、カメラの話を始めて文学までを押し上げたと言ってくれるのは本当に嬉しい。そして20年位の連載で、結局このシリーズの単行本は3冊になった。
一番最初の本のシリーズで表紙にもなっているが、これはチェコの著名写真家Sudekが使っていた。縦3センチ18センチのカメラで私のアトリエにあったものである。ガラスプレートなので使えるガラスプレートを探すのに苦労したが、ついに1枚だけ見つけたのである。
大写真家がよく撮影に行っていた。プラハのセメトリーで三脚に乗せて1枚だけ撮影した。露光時間は確か絞りがエフ22で1秒位だったかな。大写真家に助けられてちゃんと映っていた。感動は未だに忘れられない。
2冊目は普通のライカスタンダードが表紙になっていて、ライカスタンダードというかレンジファインダのないカメラは私の半世紀以上使っているカメラなのである。ライカにレンジファインダーは入りませんね。
3冊目の表紙はプラウベルマキナの戦後モデルである。その後土井が作った。日本製のやつと比べてしまうと、やはり存在感の本質はドイツ製の金属カメラにあることが理解できる。これでプラハのシリーズをたくさんとって、写真展をしたり、雑誌に発表したりしました。
このクラシックカメラ三部作が私の基本のトライアングルになっているのは、編集長の前田さんに感謝せざるをえない。カメラ雑文をちょっとカメラ文学のほうに押し上げるパワーを私に与えてくれたと言う意味で感謝。
ウィーンで撮影したスナップポートレートの中では1番気に入っている作品である。1時スナップポートレートに興味を持って、ウィーンの蚤の市などでかなり人々を撮影したのであるが、あまりに接近してしまうと、その人の存在の本質が逆に薄れていくようなところがある。
それでこのワンショットは結構サイドからとっているのであるが、その人の表情と思っている。お花の間神が私のスナップポートレートの中では結構上のレベルだと思う。我楽多屋のにだいめさんが中心になって、私が70歳と74歳の時に限定版写真集を出してくれた。これは100分限定なので、あっという間に完売になった。
その他に、我楽多屋のにだいめさんが、この私の好きなショットをTシャツにプリントしてくれたりしたこともある。
ウィーンの人々を撮影したシリーズで他に忘れられないのはカメラ毎日1974年1月号28ページ掲載されたから作品のウィーン記憶の街というのがある。その中で素敵に着飾った双子のおばあさんのおばあさんを縦画面で撮った写真があって、これはダイアンアーバスの双子の姉妹みたいな感じで、これも気に入っているのである。
このカメラ毎日、1974年1月号は新聞社の内部規制コードに触れて2ページが切り取られた感じで全国の書店に並んだのであった。それでとばっちりを受けて、その2ページの中の1ページが双子のおばあさんの写真なのである。そして問題になった。そのページの反対側は独裁者の肖像と言うタイトルの政治ポスターであって、そこには毛沢東とかアドルフヒトラーが並んでいる。当時日本と中国の国交下で毛沢東を持ち上げる必要が あったので、こんなことになってしまった。
その話を友人の若い写真家に行ったら、彼はわざわざ国会図書館まで行って、破られる前の完全な状態のカメラ毎日を探してきて、そのコピーを私に示したのであった。
映画第3の男で有名だけど、第二次世界大戦が終わって10年間はアメリカフランスともう一つはソ連の占領したのがこのウィーンと言う西ヨーロッパと東ヨーロッパの境界線にある巨大都市であった。
その東西大勢の真ん中を仕切っている橋の名前が平和橋というのである。その東側はソ連の占領地域であった。私が住んでいたアパートメントは2回であって、そこからドナウ川の流れがよく見えたが、そこはソ連の占領地域なのであった。
それでドナウ運河の流れの右側にそって、北のほうにどんどん歩いていくと、風景はどんどんカントリーの方向になってゆく。そこで犬の散歩のおじさんとドナウ運河を泳いでいるかもちゃん頭頭の国際交流であるかどうかは知らないが、面白い光景をこんな感じで撮影した。
写真で見てもわかるけど、ワンチャンとかもちゃん頭とは別に対立関係にはないから喧嘩をするでもないし、お互いに相手の存在を根本的に認めていると言うところが偉いと思う。今のパレスチナ問題とは全く違いますね。
これが肘で胸に持ったカメラの高さからカメラを目の高さに上げると、その間に0.2秒位のタイムラグがある。そうするとデリケートな少年少女たちは、その間に自分の表情と言うものを作ってしまう。別に作った表情が悪いと言うわけではない。でも私が忌み嫌っているようなカメラに向かってのブイサインと言うのは、ヨーロッパの子供たちはやらないね。あれをやっているのはウィンストンチャーチル位なものだと思うと、大笑いになってしまう。
1970年代の初めごろにスナップした私が住んでいた。アパートメントの近くなのであるが、路上の交通量が非常に少ないのが懐かしい感じがする。ウィーンで暮らしだして2 3年と言うのは非常に寒い気候で暖房などにも苦労した。
だから用事があって、ウィーンからパリに行ったりすると、あまりの冬の暖かさにもう春が来たのかと錯覚するほどである。その時のパリの冬の寒さというか、暖かさで最初に私が感じた印象と言うのはこういうものだ。
パリの冬なんていうのは子供みたいなもんだね。
カメラはソ連製のコンタックスのキエフでレンズはソ連製の35ミリだったと思う。フォーカシングはいつもインフィニティーになっているからピントを外す事は無い。フィルムはそこら辺で買ってきた。安い映画用フィルム。
このショットは私が撮ったものではないし、10年近く前にどこかでアップしたものなのだけど、実に優れたヒューマンポートレートだと思う。よく見ると、右のお母さんの後にはもう1人赤ちゃんをおんぶしているようにも見えるが、歩行している。少年が母親を振り返って何かを訴えていると言う。要するにこのショットからありとあらゆる人類の映画というか小説の可能性がここからスタートできるのである。
そしてこの人類2人プラスワンが歩いている道が、映画では、なかなかこういうロケーションを設定するのが難しいと思われるようないい感じのカントリーロードである。これが普通の大都会のストリートの道だったら、かなりヘンテコリンなことになってしまって、ストーリーが展開しないと思われる。
文芸雑誌新潮に2年間24回書いた私の連載エッセイ、屋根裏プラハであるが、その最後のほうに、こんな意味の記述を私は書いたのを思い出した。
プラハのアトリエから路線バスでプラハ空港に行く途中にかなり広いボヘミアの野原がある。季節は春でまだ緑が吹き出す前のボヘミアののかなと言うのは紫色に被っているのである。そして私の不十分な視神経の視点のつける果てに、後ろ姿の男女がもくもくと背中を見せながら歩いていくのが見える。
そして、早朝のボヘミアの上からは、全体が紫色に被っているのである。そこに私は後ろ向きに歩いているボヘミアの男女の存在感と言うよりも、この地球上を後ろ向きに歩いて行く人類の共通の識別信号のようなものをそこに感じたのであった。
^_^と言うような意味合いの内容を連載エッセイに書いていたと言うことを今思い出した。人々の後ろ姿は重要であるが、同行者の青年が母親に向き直って何かを訴えると言うのもさらに重要なワンシークエンスである。
チューリップの話すと大仏の頭と言うのは落語の三題噺みたいで何のことかわからないであろうがちょっと聞いてください。ウィーンの8年間にはいろいろな面白い人とか素晴らしい人とお付き合いがあったが、中で1番面白い人と言うのは日本の有名な大学の跡継ぎのお嬢様であった。ウィーンに音楽の勉強をしにきたのである。
お金持ちのお嬢様だから、それはそれで文句を言う事は無いのであるが、彼女の考えている世界観というのが例えばツーリズムから見ても、あまりにも単純極まりないと言うところが滑稽であった。
例えば、オランダに行った時は、チューリップの花を見ると言うのは安直なツーリズムである。その直後に日本に帰って、奈良の東大寺の大仏様の頭の上の方を見るツアーというのがあって、これが100年に1階なのだそうである。
ツーリズムと言うのは何でも見てやろうと言う。貪欲な視神経に裏付けられた世界の一大産業であるが、当たり前のオランダでチューリップを見た後に日本に行って大仏の頭を見ると言うのはシュールレアリストでなければ、かなりレベルの低いツーリズムに対する意識である。
チューリップの花をまともに観察した事は無いのだけど、ウィーン時代に友人からウサギを預かっていたことがある。それでウサギの風貌とその動き方をよく見てわかったことがある。これは私が今までウサギを観察していないし、花も観察していなかった。その反動によることであって大した発見だったのだが、一言で言ってしまうと、ウサギと言う動物はチューリップの花に動きが似ていると言うことだ。
まず耳などがすごく似ているのはわかるけどね。それともう一つ、それに関連してウサギの話なのだが、知り合いのギャラリーで私が個展をやったときに、50年前の友人から預かった。そのウサギのポートレートが素敵なので、展示の作品の1つに加えた。
そこで入院時代の私の友人の弟さんで国際的に活躍しているジェントルマンが私のギャラリーに見学に来たのである。そしたらそのギャラリーのオーナーが私が事前にそのウサギの素性を教えておいたので、こんなことを言ったのだ。
あなたのお兄さんがウィーンの絵描き時代に飼っていたウサギの源氏さんです。記念に買ってください。
実の兄貴が飼っていた。ウサギの写真を売ると言うのは、ギャラリービジネスとしてはちょっと考えものではないかと?
カメラジャーナルの連載で安原カメラを持って出かけたところが京都であった。レンズはコシナレンダーの50ミリef 1.5がついていた。この大振りのレンズは意外と安原カメラに似合うのである。
かつての京都ホテルと言うのはよく使ったホテルであって、当時は白い6階建てか7階建て家の建物であった。1976年にヨーロッパを巡回した写真展の準備で来日したときに、その後京都に遊んだのである。
すでにヨーロッパの生活に慣れていたつもりの自分でやったから、京都ホテルで部屋に案内された時に1ドル位の小銭を案内してくれた人に渡そうと思ったら拒否された。要するにチップの習慣というのが日本にないと言うことにその時気がついたのである。例えばアマゾンで膨大な注文したものを家に届けてもらっても1ドルも渡さないと言うのは変な話である。これがアメリカだったら大騒ぎになるところだ。
ところで、京都ホテルはその後モダンな建築物になってオークラホテルといったっけ?そこもよく使うので、アップグレードで最上階の角部屋にしてもらったのはいいが、冷静にわかったことがある。仕事をしているところは六本木ヒルズの49階であった時、タワーマンションの上の方にも住んだことがあるから、上から見る視神経に慣れているのであるが、日本の京都のような古い都は、別にタワーマンションの上から見ても風景が脆弱になるだけであって、何のプラスにもならないと言うことを、このときの京都ホテルのアップグレードで強烈に感じたのであった。
ウィーンでお付き合いのあった図で、ドイツ人でドイツ空軍のパイロットの偵察任務をしていた人がいて、いろいろカメラについて話をした。ピアニストの山下洋介さんがウィーンに演奏できたときにそのデー、ドイツ人を紹介していろいろなピストルを見せてもらったこともあった。
そのズデーテンドイツ人は路上を歩く時もピストルを携帯して歩けると言う資格を持っているそうである。桑原桑原。
^_^その人から1938年のベルリンオリンピックの時に手に入れたと言うライカ。ピストルと赤いオリジナルボックスと取扱説明書を譲ってもらった。その他に宣伝のリーフレットが付いていて、民族の採点を撮影するにはライカ。ピストルこそがふさわしいなどと言う当時の時代背景を移した。すごいことが書いてあった。
ライカピストルとライカビットの違いは今更言うまでもないが、巻き上げのチェーンみたいのが本体に内蔵されている。
ライカの開発の巻き上げ装置に関するところで、最大の失敗はバルナックライカ用のライカビットが戦後ライカM3につけてライカムピになったことだ。こういう間違いをライフの偉い写真家とかがライカの会社に進言。すると、会社は開発に対する考えというのがないからホイホイ作ってしまって、後の世の我々に迷惑をかけるのである。
私の長い経験でライカピストルが実際の撮影に役に立ったと言うのは1度しかない。その作品が何であるか説明すると、私のウィーンとライカの日々で、左ページに窓枠を外した男性がそれを私のほうに向かって抱えてきて、その背後にはロータスヨーロッパがこっちに向かってくると言う。およそ通常では想像のできない2つの物体の組み合わせが私に目かけて突進してくると言うショットである。
このショットはこのカメラと同じ組み合わせで撮影した。その前のショットは何か面白い。子供か何かを映して、はっと気がついたら、左手にロータスヨーロッパとウィンドウズマンが迫っていたのである。それで瞬間的にライカピストルでフィルムを巻き上げて。この改心のショットが撮影できた。
これは見るに非常に日本的な慎ましやかな。遠慮がちなベンチの座り方である。右の下と左の人とは別に知り合いでも何でもなさそうである。むしろ知り合いでこのような座り方をしたら絶交状態と言うわけだ。
ベンチの座り方と言うのは、日本ではまだ歴史が浅いから、やはりヨーロッパなどに学ぶべきところが多いと思う。アメリカの人種差別のホワイトと有色人種を隔てて座らせるなどと言うのはとんでもない話だからここで溢れない。
一般的にヨーロッパの庭園などだと人気のあるところは、まず夏なら日陰が1番で冬なら日向が1番であるが、1番激戦地になるのはバラの花が咲いている時期だと思う。そしてそういう時バラの花の咲いている前のベンチと言うのは 1つの不文律というかルールができていて、皆さん仲良く譲り合ってベンチに腰掛けているのはさすが民主主義の国だと思う。
それでバラの花の最も人気のあるコーナーになると、1つの標準の幅のベンチに5人ぐらいかけているのも何か微笑ましい。
^_^もう一つ面白いのはヨーロッパの地下鉄の座席の座り方だ。パリは非常に礼儀正しくて社会的な礼儀というのを皆さん持っているから、正面にしっかり座って向かいの人の動きなどは最初から全く自分は気にしていませんよと言うようなふりをしている。これが自由平等の国の最も重要で基本的な座り方なのだと思う。
ところが面白いもので、プラハなどに来てしまうと、地下鉄の向かい合ったベンチで体を相手に向けると言うのは多分になっているのだと言わんばかりの行動力で、90度通路側に体を向けて座っている人もいてくれなどはなかなかプラハ独特な地下鉄の座席の座り方だと思う。
要するに、フランツカフカの国であるから、個人主義が鋭敏になって、パブリックな場所としての地下鉄の座席の座り方などにもその個性が出てくると言うところが面白いと思う。
まだiCloudが実用化する。以前の話であるが、文庫本を1冊書くので全部の半分ぐらいまで書いたらそこでハードディスクがクラッシュしたのである。今では考えられないけれども、それで仕方ないのでいつも宿泊しているイスタンブールのブルーモスクの反対側のトルコの安いホテルで、左は最高裁判所と言う変なロケーションのホテルに3週間ぐらい宿泊して原稿を書き直したことがあった。
ところが、イスタンブールのど真ん中で仕事をしているとなかなか誘惑の多い所であって、何しろ目の前の広場はツーリストが何万人も集中する場所なのである。 だから、仕事のデスクと窓から外を見るのが、半分半分になってしまって、全然仕事にならなかった。
それに対して、プラハのアトリエは、こんな感じで、何しろ収容所みたいなものだから、他に気が散るものがない。それで何日もここで雑文を書いていると、窓枠にあたる光が日時計そのものであると言うことに気がついた。
今のヨーロッパでは大昔に使われていた日時計がそのまま古い建物に残っていたりするが、現代人はiPhoneを見て時間を教えるから、実際の役には立っていない。
そういう状況の中で、私のアトリエの日時計はなかなか実ようになったのである。
そういう時代背景で社会主義を批判するブラックユーモアの言葉を、東ヨーロッパの人たちは研ぎ澄まして上昇させていたのだ。いくつかあるが、結構シニカルで面白いのはポーランドのワルシャワの文化宮殿は典型的なスターリン建築である。ワルシャワの人々はそれを見るのが嫌なので、絶対見ることのできない場所というのがある。それは文化宮殿の展望台に行くことなのであると言うようなブラックジョークは素晴らしかった。
それで私も社会主義国時代の文化宮殿の上の展望台に登って、文化宮殿が存在しない当時のワルシャワを見たのである。下に降りて広場で赤い炭酸水を買って飲んだら、それは薄い甘口で、何やらほんのりするような東ヨーロッパの味であったことも思い出した。
プラハのアトリエの北側の窓のその先には、このようにプラハの唯一のスターリン建築であるホテルインターナショナルがそびえている。社会主義国時代、つまりビロード革命、前には夜になると、その赤い星がピカピカ光るのがすごかった。世界でここだけしか見ることのできない光景に思えた。
ビロード革命から数年経って、ホテルインターナショナルは、西側の資本に買収されて、夜になると、赤い星から緑の星に変わったのである。このショットはまだ星が赤かった頃のものだね。
Cameflexである。
ヌーベルバーグ時代のありとあらゆるムービーの撮影に使われた。このカメラが面白いのは35ミリスタンダードのフォーマットのほかにアパチュアプレートとマガジンを交換することで、数分の短さで35ミリから16ミリにシステムを移動させたり、あるいはその逆ができると言うことであった。
カメラメーカーのアイディアとしてはいかにも便利そうに見えるが、1つのフィルムを制作するときに最初から35ミリ子にするかそれとも16ミリにするかと言うのは決まっていることであって、途中からフォーマットをチェンジすると言う事はありえないので、せっかくの発明もあまり役にはたたなかったようである。
もう一つはこのムービーカメラはワイルド撮影しかできないので、同時録音をするときには回転音が大きいから実際には不可能であったと言うことだ。そのためにこのカメラ用のブリンプが出たけれども、これは重さが何10キロもあるので、実際のロケーションで手持ち撮影等はできない。
それでクレールの会社はその後16ミリ撮影機でノイズレスポータブルレフレックスと言うモデルを出した。 これは回転音が静かなので、脇にテープレコーダーを置いて同時録音ができる。
天気は良いが非常に寒い。風の強い日であった。それで適当なところまで歩いてここぞと思う。ところでマンハッタンの写真を撮ったのがこれである。今にして思うといろんな意味付けができて、最初で最後のツインタワービルをとったとかいろいろなことが言えるけれども、この時の私の撮影の目的のいうのは、やはりマンハッタンの全貌を撮影したいということになった。
まだツインタワーが破壊される時まで17年の時間があるから、意識がそちらの方向に向かってしまうのであるが、やはりこの時の私のカメラを携えた空間構造の認識感覚は、元旦のマンハッタンを撮影すると言うところにあったのだなと今にして理解できるのである。
8 × 10インチのカラーフィルムは、アメリカでは非常に高いので、方向変換をして8 × 10インチのモノクロフィルムに転向して、それが結果としては良かったと思う。
新書版と言うと、本のサイズとしてはかなり小さいから写真集に向かないと思われているようであるが、この試みは私は大成功だったと思っている。写真の絵柄と言うものはこのぐらいのサイズであれば充分であるということがわかった。
普通の世の中の写真の価値と言うのはシャープであればシャープであるほど素晴らしいと言う退屈な価値観なのである。それに対して全く正反対の印刷の試みをしたのがこの新書版の写真集と言うわけだ。最近では中古価格が上がって、私も本屋さんにリクエストをかけているのだが、なかなか発見できなくなってしまった。膨大な数の新書版の本を出したけど、その中で1番好きな新書である。
東松さんのショットは1968年に撮影した。新宿がデモで、騒がしかった頃にカメラ毎日の撮影であった。車の中に三脚を立てて、望遠レンズを2つ使っての撮影だった。
右のページはデビットダグラスダンカンさんと三木淳さんである。銀座のカメラ屋さんに行った時、偶然お目にかかって楽しく話をしたが、その前にダンカンさんにお目にかかったのは十数年前の1972年にダンカンさんが、英雄なき戦争と言う写真集を作って、その出版記念パーティー以来、だから、ずいぶん久しぶりである。でもダンカンさんは私のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。
それぞれの建築家の名前をここでは書かないけれども、例えば、メインのエントランスを入ると、周りはどのぐらい闇であって、その突き当たりに真っ赤なバラの花束をデザインした巨大なステンドグラスがあって、これなどはバロック様式の教会の祭壇よりも迫力があった。
^_^その画像は私の写真集に掲載してあったと思うが、そういう有名とか無名を問わず建築のインテリアを見学すると言う楽しみは永久に失われてしまった。これは非常な文化的損失である。
もう一つのヨーロッパと日本の建築様式の問題は、どうも螺旋階段にあるらしい。大抵のヨーロッパの螺旋階段はこれもそうだけれども、時計回りの螺旋でできている。ところが、日本の螺旋階段は私が調べた限りでは、反時計回りの螺旋で構成されているものが多い。
このエントランスの女性がライトを掲げているデザインもなかなか素晴らしいもので、散歩の時に私はドアを開けてこのインテリアを鑑賞しに行ったものであった。
これは2度目の訪問であって、日本カメラの取材ではなかったかな。手にしてみると、別にカメラの神様と言うわけでは無いから、見慣れないスタイルの古いカメラと言う感じがする。3度目に行った時はこれはよく覚えているのは、2001年の9月の12日、すなわちワールドトレードセンター攻撃の翌日であった。その時にも触らせてもらった。
^_^その時はライカの社長さんが30分ほど社長室を開けると言うので、最初のライカと30分2人ぼっちになったのである。この時私には悪い計画があってフィルムを1本隠し持っていてこのカメラに装填して撮影しようと言う悪企みがあったのだ。
ところが1番最初のライカは構造としてかなり変わっているようで、私の大脳のレベルではまずどのように蓋を開けていいのかわからない。そんなことで失敗して人類の重要な遺産である。1番最初のライカを壊してはならないと思い断念したのである。
よく考えてみたら、このライカに触ったのは3回ではなく4回であることに今気がついた。東京のデパートで中古カメラ市のアトラクションだったと思うけど、世界最初のライカを展示すると言う企画があって、その時にライカの社長さんが来日したのである。
新橋のホテルに出向いて、社長さんからウィーンのライカショップに修理を依頼してあったハンガリー製のレアな一眼レフの修理の上がったの受け取った。社長さんは黒いカバンの中からもう1台のカメラを出して私の手に握らせたらのである。それがこのカメラUr Leicaであった。
その人々を観察するに、いわゆるてっちゃんの方面の人ではなく、普通の通行人、つまり聖橋の上を歩いているエキストラさんが、この光景に興味を持って取ると言うような感じであるようだ。
たくさんの写真が撮られていると思うが、アングルは決まっているし、そんなに変わり映えもしなくて似たり寄ったりの写真が撮られているはずである。その中で私がいいと思ったのは3年ほど前に片岡義雄さんが出した。コーヒーに関するエッセイの中に結構写真が収録されていて、その中の1枚がこれと似たようなアングルであるので感心した。
そこら辺の片岡さんの写真のセレクションに関して、私も長いお付き合いがあったから分析しておきたいのであるが、普通片岡よしおと言う写真は、こういう俗な風景の写真を撮らない人なのである。
これは私の経験でかなり確かなことで片岡さんとお付き合いのあった10年間位彼をライカウィルスに感染させてやろうと思って使っていない。ライカを差し出してこれを使ってくださいと渡そうとしたら、片岡さんはそれに接触することも拒否したのである。これは本人の意思が強烈であると言うことの証なのだ。
2つ目はこれとも関連してくるのだけれども、炭鉱本を出す対談で、坂崎幸之助さんや東儀秀樹さんは私の六本木ヒルズのオフィスに来て、そこで対談をしてくれたのであるが、加藤岡さんの場合はそうではなく、六本木ヒルズには来ないからと言うので、神保町にある瀬戸と言う名前の喫茶店を指名してきたのである。
そういう片岡さんであるから、東京の風景で言えば、この聖橋の上からの丸ノ内線と言うのは、風景のライカであり、風景の六本木ヒルズで通俗的なところである。
だからこの写真を選んだということは、片岡さんの内部で何かが変貌してきたのではないかと言う気がするのである。
ウィーンモノクローム7ティーズと言うのは、重さが2.5キロあって、ハードカバーで箱に入ったトータルで3キログラム近い。大きな思い写真集である。
1人出版社で出してもらったから、全部吸って、それが完売になったので、出版社には損はさせていないつもりである。それでこれは以前からの私の写真集を作るときの哲学でもあるのだが、セレクションもデザインも第三者にお任せしてしまうというのが良い結果を生むということなのだ。
それでこの時も消えのデザイナーさんにお願いしたのだが、彼はそういうことを頼まれたのは初めてであるらしく、本当に自分がセレクトしていいんですか?と3回聞かれたのが未だに忘れられない。それで結果として非常に良い成果を残すことができた。これは誰でもいいと言うことではなくて、そのデザイナーが優秀であると言うことを、私が他の仕事で見抜いたからに他ならないのである。
確かその時のプロダクションの名前はマッチボックスとか言うタイトルだったと思うけれども、1番すごいなと思ったのはこの見開きページである。そこには3枚の写真が均等にレイアウトされている。
左は古い自転車屋さんの看板であって、この自転車屋さんの看板はライト兄弟が自転車屋さんであったと言うことを思い出すに、十分な自転車と言う乗り物がかなり高級で精神が高揚する要素の言い換えれば、ママチャリとは正反対の。実用から最も遠いところに存在する精神であると言う名残が、この看板に残っている点だ。
真ん中の写真は私が最も好きなもので、ウィーンのステファン大聖堂のすぐ裏手にモーツァルトが住んでいた。アパートがあるのだが、そこから歩いて20メーター位のところにある。素敵なワイン酒場なのである。ここにはよく通ったものであるが、このエントランスの素敵なガラスの看板は、もうなくなってしまった。
ウィーンの風景で50年前にはエントランスにかなりリアルな感じのハイパーリアリズムとでも読めそうなLINEグラスに満たされたワインのガラスの看板があったものであった。今はもう存在しない。
ライトパブリシティーの仕事で、キャノンサークルと言う雑誌の作品を出品したり、連載のエッセイを書いていた時代の話であるが、田中さんと言う人がアートディレクターでよく私を使ってくれた。
ライトパブリシティーのtanakaさんは当時としてはかなり進んだ。ライフスタイルでグァム島に別荘があって、週末はそこに出かけたりするのである。ライトパブリシティーを辞めた後は銀座のすぐ近くに自分の事務所を開いたりした。それで彼が面白いのはフィアットが大好きでこれと同じタイプなのであるが、イタリアで走っている。車と同じように改造してタクシーのライトまでつけたのである。そこら辺は法律違反になるからタクシーライト付きで行動を走る事はしなかった。
Tanakaさんとは今は連絡が堪えているが、イタリアに取材に行くとこのタイプのフィアットを見るとtanakaさんを思い出すのである。もっともこれはこのタイプのフィアットが走っていた。25年前の大昔の話をしているのだ。
フィアット500等は大好きであるが、あれは実用性というのがライフスタイルを形作っていると言うところで秀逸なのである。言っておくけど、最近のフィアット500はダメですよ。
フィアットアバルトなどにしても、エンジンをいろいろ加工しすぎてエンジンドアが閉まらないと言うので、半分開けた状態で走っているなどと言うのは、エンジニアリングの極みであると思う。
私のプラハのアトリエより狭かったのだから尊敬に値するが、本物のアーティストはそういう狭い。完璧な空間でも仕事がちゃんとできるものなのだな。大写真家は非常にくつろいで生活しているように見える。それで周りに置かれているのはなかなか魅力的な雑多なオブジェである。
それでここのアングルでは見えないが、写真家が向かっている。テーブルの反対側の空間というのが、そこが巨匠自らがタイトルをつけた写真家のラビリンスと言う壁面なのである。 11× 14インチの大型カメラで撮影された作品が残っている。
それで大写真家の右手にぐちゃぐちゃ置かれている。トレーシングペーパーのような塊は単なるゴミではなくて、巨匠の作品でこのトレーシングペーパーをバックグラウンドにした。美しい作品がたくさん生まれている。ライティングは自然光であるから、バックからの差し込んでくる光でうまく構成したスチールライフをとっている。だから大写真家の仕事場と言うのはそのままがすぐスタジオに変化することができると言う。素晴らしい空間なのである。
生活のミニマリストとしての大写真家の暮らしぶりはさらにすごくて物が堆積した。テーブルの真ん中に紅茶の茶碗とパンひときれとゆで卵が置かれていて、それが彼の日常の食事と言うのも何か禅寺のお坊さんみたいですごいと思う。
それで私はロバートフランクの最も初期の作品を見て、かなり肝を潰した人間の1人であった。要するにそこに表現されている40点高41点の作品と言うのは、普通の写真、学生の卒業制作に全くことらならないものであって、退屈極まりないものなのだ。
その典型的な例をここにあげておくが、確かにロバートフランクの時代は、真空管は未来の大変なテクノロジーだったのであろう。恐れずに言うならば、ロバートフランクの卒業制作よりも、私の日大写真学科の卒業制作の方が中平、卓馬も褒めてくれたし、それなりのインパクトあると思うのである。
チューリヒからニューヨークにやってきた駆け出しの20代の青年のこのポートフォリオを見てブロードビッチが彼に35ミリカメラを使うように指示したと言うのはなかなか凄いことだと思う。アートディレクターはロバートフランクの隠れた35ミリカメラによる才能を一体どこで知りえたのであろうか?
その頃の天井桟敷がよくやった。小屋は新宿の厚生年金会館だった。今はもうないのかなこれは?それで東京ニコン日記などにも、その頃のリハーサルの写真が何点か掲載されている。けれども、舞台を監督するときの寺山さんはかなり怖い人に見えた。
オーストリアの偉大な指揮者カール、ベームは、柔和な性格で知られているが、ザルツブルグ音楽祭でリハーサルを取材したときのその怖さと言うのもなかった。リハーサルが終わって、こちらがビクビクしながらサインをもらいに行ったら、元の柔和なプロフェッサーに戻っていた。マエストロはその次の年の春に来日公演を予定していたからそこら辺の背景もあったのかもしれない。
寺山修司さんが講演しているときに、好きなものはライスカレーのカレーをスパゲティにかけたもので、今はそういうメニューがあるかもしれないが、当時はなかったからスパゲッティーだけとカレーのルーを別々に注文したのである。
それから何十年か経過して、朝日新聞の朝刊の岩波の広告に寺山修司さんと並べて、私の名前が掲載されたのは実にありがたい次第である。
つまりちゃんとした写真を撮る人が何かの理由でレンズをこのような色にペイントする必要があったと言うわけである。その理由と言うのを考えてみると、どうもわからない。周りの連中に聞いたら、これは冠婚葬祭のためのレンズのペイントではないのかなどと言うけど、どうも話がそれているような気がする。
1970年代に学生運動のデモをやっていた頃は、カメラを目立たなくさせるために、素人のブラックペイントをすることなどが流行した。しかしそれとも方向が違う。
1970年代に日本デザインセンターの撮影でトヨタの工場に出入りしていた時、我々が使っていたのは普通のハッセルブラッドであり、リンホフカメラであったが、出入りの写真屋さんが使うカメラは許可を得たものしか持ち込むこなかった。秘密保持の問題なのであるが、その時トヨタの会社が用意したカメラと言うのは全部真っ赤にペイントされているのである。ナミヤプレスが真っ赤にペイント等と言うのはかなり迫力があったな。
その先をちょっと行った左側にあるファーマシーのファサードは、モザイクでエンジェルをテーマにしているので、こちらは非常にフォトジェニックであるからウィーンを訪問したツーリストが1番撮影をしたショットなのではないか?
私もそのツーリストの1人であって、4 × 5インチのリンホフカメラでこれを撮影したものがスイスのカメラに掲載されたこともあった。私が最初にこの天使のモザイクをしてから50年以上が経過しているのであるが、その間に少なくとも3回はリノベーションが行われていることを私は知っている。第1階のリノベーションは1970年代後半であって、その時はカバーをかけた内側で専門家が壁画の修復をしていた。それは私のウィーンとライカの日々と言う写真集に掲載されている。
この天使の薬局は、巨大な住居の1部分のファサードにあたるのであって、建物のちょうど上のほうはアパートメントになっている。そこに音楽の勉強で宿泊していた日本人留学生が言うには、家の大家さんは今度winの市長さんになっちゃったというのである。
私の長くお付き合いのあったズデーテンドイツ人も同じアパートメントの屋根裏部屋に住んでいてヤマシタ洋介さんをお連れして彼が持っている。ピストルの数々を見せてもらったこともあった。その時の件は山下さんのピアノ弾き飛んだと言うエッセイで掲載されている。
山下さんにヨーロッパであったのはいちどだけだけど、その時の私の実際の様子が同じ星に出てくる。なかなか面倒見の良いカモフラージュジャケットを着た男の子と言うような感じで紹介されている。山下さんのその次に登場してくるのがタモリさんなのであるから、芸能界デビューは私の方が古いと言うわけだ。
歳をとってきて面白いと思うのはある。1つの建物なり現象なりランドマークなりを自分の記憶の記録の体積として認識できるところにある。これは長生きの楽しみと言うことになるのであろう。
リスボンのアルファマは迷路の代表のように言われているが、この場合、急な斜面で高い所と低いところがあるから、地形は理解しやすいのである。これが東京の雑司が谷のようにほとんどフラットな場所だと高い。低いで理解ができなくなるから、逆に道に迷ったりする。
Αを下からどんどん道に迷いながら登っていって、その迷路のつきたところに小さな公園があって、子供たちがいつも遊んでいて関西が聞こえるところがある。その広場の西側の角に小さな時計屋さんがあって、50年前はそこに展示されている。時代遅れのウォッチを見に行くのがそれなりの楽しみであった。
その時代がどの時代であるのかと言うと、IKKOさんがヨーロッパに暮らしていて、田原圭一はパリに暮らしていて、田原は泥棒に入られて、カメラを全部撮られてしまったので、IKKOさんがペンタックスのエムイーを田原に貸したと言う話が伝わってきた時代だから 30年位前かな?
その後この時計屋さんは店を閉めて、それから15年ぐらい経って行ったら、建物はかなり荒れて、ドアなども壊れるような状況になっていた。
その時点からさらに15年位経過して、それが私が前回リスボンを訪問した時なのであるが、時計屋さんはきれいに修復されてちょっと行きな小さなアパートメントになっていた。不動産業者の看板も出ていたし、こんなところでちょっと暮らしてみるのも大なものではないかと思ったのである。
その時に細グラファーが言うには自分は東洋人であるから、ヨーロッパに行って撮影するときに、自分が東洋人であるということを認識される。ストレスとでも言うものが自分の撮影のパワーになっているとおっしゃるのである。
この東洋人である存在の違和感というのを、私もウィーンに滞在した。初期には強烈に感じた。そしてそれが撮影の原動力にしたと言う。尊敬する写真家のパワーの転換方法がすごいなと感心したのである。
当時のウィーンでは、東洋人などは少なかったから、家人などもウィーンの音楽大学に向かうときに珍しがられて、子供を後ろに数人連れて歩いていたそうである。
それで日本がだんだん経済的に豊かになって、私の実感ではこの30年間にウィーンのホテルのクラスが3つぐらい上になったと思うのであるが、その後の経済的にセッションでまた元のように戻ってしまったのは面白い。
それでウィーンの街並みをこのように撮影して歩いていると、時々鏡の中にエキストラとしての通行人の東洋人が写っていると言う次第になるわけである。
2階建ての建築物と言うのは、ウィーンでもなかなか古いもので。19世紀の終わり頃からは5回6回建てに変わるのである。それでこの2階建ての建築物は300年経っているのかな?エントランスの奥には中庭があって、そこではいつも金属を切るような音がしていたから、鉄工所か何かだったのであろう。
ウィーンの建築は、劣悪な住環境で、当時有名だったから、バスルームなどはもちろんなくて、漫画によく出てくるような巨大な金属製のたらいみたいなのが置かれていて、それにお湯を沸かして入れて、家人などはそれに入って面白がっていたのであるが、あまりにも暮らしにくいので、すぐ付きの別のアパートメントに移動した。
そのシャワー付の別のアパートメントも数ヶ月いただけで、1973年の秋には、それからずっと済んだトラブルが沿いの天井の高い大きなアパートメントに移動したのであった。
面白いのはこの町外れの2階建てのいかにも不便そうなアパートであるが、10年ほど前にウィーンの中心部から西に伸びる。地下鉄の駅がまさにこの場所の土まんまにできたのである。だから町外れの不便なところがいきなり中心部まで、すぐ行けるようなところに変貌してしまった。
とにかくこのワイン酒場は非常に危険な場所でエントランスを入ると、急な階段が地下20メーター位まで一気に続いているのである。そこに足掛け8年間お世話になったということは、このワイン、酒場に行く時に1度も階段を踏み外さなかったから、いまだに生存していると言う証拠なのである。
ワイン、酒場と言うのは、まさに生きた戦場みたいなものだ。ウィーンの東にある愛染シュタットと言う街で作られた辛口の安くて良いワインを出すのでよく行ったと言うよりもここに暮らしていたようなものだ。1915年に木村兵さんがこの場所を訪問してなかなか良い作品を残している。かなり暗い酒場であるのに、全然ぶれていないというのがさすが名人の技だと思う。
このワイン、酒場が良いのは外から食品を持ち込んでも大丈夫だと言う点だ。それで日本人同士誘い合わせて正月の宴会をおせち料理を持ち寄ってここでやったこともあったが、おせち料理にワインは合わないんだよね。
1613年とは第二次トルコ戦争でウィーンがあと1歩でトルコ人に占領されると言う危ない状況であった。それでウィーンではその時にトルコの軍隊が残していったコーヒー豆を使って、ウィーンで最初の喫茶店が作られたと言う伝説がある。
それから300年経過した。1913年にニューヨークにいた。私は家人と一緒に久しぶりにウィーンを訪問したのである。トルコ戦争の勝利と言うのと、ウィーンのコーヒー豆が最初にお湯をかけられたというのが同じ年代であるというのが、なんとも皮肉である。
どこかの旅館に置かれた鏡の前でリラックスした感じの図鑑監督はカメラに向かって結構曖昧な表情を浮かべている。こういう曖昧な表情と言うのは、映画館督として俳優やカメラに資料を出す時とは全く別の表情であると言わなければならない。
言い換えれば、演出家としての映画監督が自分を監督することに戸惑っている。その戸惑いの表情が、この不思議なセルフポートレートに現れていると言えよう。
スタンレーキューブリックも若い頃にライカを手にして鏡に向かった。セルフポートレートが残っているが、これも表情が曖昧である。この場合も自分を監督しようと言うその方向性がわからなくて、視神経が混乱していると言うような表情なのだ。後の時代になって、キューブリックが対策を監督するようになって、彼はカメラ好きだったらしく、使っているのが2台か3台のニコンのレンジファインダーカメラなのである。
それでカメラ付きが集まって、北京の西の方50キロ位のカントリーに行った時に撮影した写真があって、それは当時のデジタルカメラマガジンに掲載されたのだが、それを私の友人が複写してくれて、それを送ってくれたと言う複雑ないきさつがある。
北京から高高50キロぐらい離れたところの農村であるのに、そこに文化大革命の頃の偉大な火事取り、毛沢東、主席、万歳と言うスローガンが建物の前面に消えかかっていたけれども、はっきり読めると言うのにはびっくりした。すでに半世紀が経過しているからである。
非常に暑い日で水を求めていた。我々1つの農家の庭に入って、そこにあるたらいの水を飲んだのである。金魚やぼうふらもいたかもしれないが、これが非常にうまい水であった。
それで農家の部屋の中を見学させてもらったときに撮影したのがこれである。驚くべきは中国共産党がスタイリストに頼んで作ったのではないかと思えるほどあるのは、シンプルなテーブルと椅子そして毛沢東万歳のポスターだけしかない。そして暑い日にもかかわらず、部屋はぴったりとガラス等が占められていた。これが革命の本質なのかと、ちょっと感心したものであった。
それでもこの34年間は私にとって非常に貴重な体験であった。プラハをテーマにしたエッセイを出すこともできたし、写真展もたくさんやったのだが、何よりも重要なのはプラハでこのような形で自分の時間を過ごすことができたと言うことにある。
天窓が北側に開いた。何もない空間のアトリエであって、唯一自慢できるのは右側にある。3つの椅子はバルセロナチェアである。しかも本物であると言うところを付け加えておかなければならない。
バルセロナチェアのコピーと言うのは世界的な大流行であって、六本木ヒルズのエントランスにもコピーが並べられていたけれども、これは日本人の体格には合わないし、変な風にリラックスをさせようと言う。椅子の構造からして逆にリラックスできない椅子ということである。
座ることを拒否する。椅子と言う。あの存在感に結構近いと思う。
世界的な報道写真家友人スミスが日本の日立に招かれて日立の写真集を作るために来日したのは1962年だったかな?その時の友人スミスの仕事ぶりがアサヒカメラに紹介されていて写真かどこかに腰掛けて休憩しているところなのだがごだい位のカメラをぶら下げていた。
それらに全てかっこいいハンドグリップが付いている。あゆハンドグリップが欲しいなぁと思ったが日本では売っていない。それで似たようなハンドグリップを港商会のアクセサリーの中で見つけて使っていた。ブランドはマイネッテ。
それから半世紀以上経過してほぼ友人スミスのハンドグリップに匹敵するグリップを手に入れた。これは非常にバランスが良いしカメラをしっかりホールドできる。ニコンではケーブルレリーズでシャッターの切れるハンドグリップを純正として出していたがあれは非常に使いにくい。めったに出ない付属品なのであるが10年位前に四谷荒木町のガラクタ屋さんでニコンの純正グリップを手に入れたのだが結局使わないでそのままになってしまった。
ニコンのハンドグリップはおそらくニコンの頭の良い人が脳内で考えて作ったのだと思うがそういうのは実はダメなのである。友人スミスの場合は実践的な体験から来ているから道具としての使いやすいクリップなのだ。ケーブルレリーズでクリップでコントロールできる必要は全くないというか邪魔である。
スクのアトリエは、モルダウ側の近くのかなり奥に入り込んだ。建物の1番奥の中庭にあった。1920年代に建てられたものらしい。それで1度更地になったが、その時の設計図が残っていたので、同じように再建されたと言うところがヨーロッパ文化の物持ちの良さである。
テレビ番組では大写真家こんな感じで自分の庭の植物に水をあげている。ヨーロッパの場合は集合住宅が多いから、自分の庭で植物の手入れをすると言う事はそれなりのステータスの高さなのだ。
集合住宅だと自分の庭がないから、別に小さな小屋付きの庭を借りて、そこに休みの日に行って、自然に親しんだりする人もいる。ドイツのあたりではこれを小さな庭師と言うのである。
写真家が自分の庭を愛したと言う別のワンショットがあって、庭の手入れをしたときに、建物のエントランスの階段に腰掛けてリラックスしているのがあった。代写真家に敬意を表して同じ場所に行って、私は階段に腰掛けてみたこともあった。
それでこのショットは、当時のソ連のテレビ番組か、何かでこの偉大な写真家を紹介する番組の中から抽出したものである。写真家は修正。妹さんと一緒に暮らしていた。ここら辺が私にとって興味津々なのは正岡子規はやはり妹さんと一緒に暮らしていたと言うところにある。
妹さんの証言であるが、彼が亡くなった時、彼のアトリエには物が堆積していて、窓際までも歩いて行くことができなかったと供述しているのである。ところがそれが建物が一旦全部解体されて、当時の設計、そのまんまに建物が再建されて、今ではギャラリーになっているのである。
その当時の以前のアトリエで唯一残っているものは、大写真家が写真を水洗いするときに使った石を繰り抜いた巨大な水槽である。
君がなくなってしばらく経って、かつてのアトリエが全部更地になった時、復活祭の朝であったが、私はアトリエの跡地の脇に置いてある。椅子に座って商業無常を感じざるを得なかった。
それで注意してみると、見覚えのある巨大な石を送り抜いた水槽がそこに置いてある。解体業者さんも重いので、それは持っていかなかったものと見える。その水槽はすくのアトリエが元のままに再建されて、元のダークルームの良い位置に収まったのだから、まずはめでたしめでたし。
自分の本が登場すると言うことに慣れてしまってから、すっかり書籍を切り、本屋さんに行かなくなった。本と言うのはアマゾンとか日本の古本屋で買うものであると言う認識が私の中に定着してしまったのだ。
銀座六丁目に外国人観光客がよく行く。松坂屋デパートも後も何とか言う商業施設は私が嫌いなので、その前を通るときは目をつぶって息を止めて歩いたりするのである。
その建物の6階高に結構有名な書店があって、そこに私の写真集が世界的な写真家と並んで展示されていると言うのを友人が写真に撮って教えてくれたのがこれである。私のウィーンのモノクロの写真集は表紙も真っ黒で暗いので、友人はわざわざ黄色いマークをつけてくれたのも感謝感謝。
映画の第三の男で有名であるが、オーストリアはアドルフの出身地ではあり、第二大戦の後20年間はアメリカフランスとソ連に占領されていた。それでドナウ運河のちょっと上のほうの端が平和の端と言うタイトルの端があってそこに電車の駅があって、平和の橋という名前はいつからつけられたのかは知らない。けれども、建物のほうは100数十年前のワグナーの設計なのである。
そしてこの駅は私が暮らしたウィーン体験のほとんどがこの駅で乗り降りを知っていたことになる。それでこのショットはパノラマカメラであるが、かなり初期のものであることがわかって面白い。建物の右手のほうは中がタバコ屋さんになっているのだ。
そしてその右側のスペースはここでは何もないけれども、ソーセージ屋さんとか花屋さんがゴタゴタと店を並べてしまって、今ではこんなにすっきりした風景は見えないのである。
興味深いのは、駅のエントランスもすぐ側に置かれている場みたいな形の物があるが、これは伝統的な運搬用の手押し車なのである。プラハの有名な写真家の作品などでも時々このバングルマメーター手押し車が登場するので、これは私にとってのメランコリーオブジェなのだ。
レンズシャッター式のレンジファインダカメラはレンズ交換ができないからアマチュア用であると言うふうに当時はみなされていたのであるが、逆に写真をちゃんと取る人だけ交換。レンズなどは使わないで45ミリのレンズが1つあればそれで充分であったと言う見方も成り立つ。
この時は今はもう既にない。日本カメラの私のカラーの連載の最後の会であった。何か記憶に残るようなものを取りたいと思って、日本カメラの編集部からダラダラ歩いて門前仲町に行った。その途中でごく普通のオフィスの駐車場のエントランスと言う表示が、いつになく存在感が浮き上がって見えたので、それを撮影した。
この時期の私の撮影方法は、もっぱら135のフィルムをカラーネガで撮ってそれをデジタルスキャンすると言う。まぁ当時の普通の人はみんなやっているのと同じやり方であった。それでスキャンデーターが上がってきたらどういう理由か知らないが、この駐車場のエントランスを表示するワンショットが、かなり私の心に響いてきたのだ。
こういう体験は結構大切にしたいものである。スナップショットでこれは確実に完璧に撮れたと思うのが画像を後で観察すると、そのお目当てのショットがドロップアウトしてしまうと言うのはよくあることだ。
撮影した画像が上がってきた後に、それぞれの画像が自分を主張していると言うことなのである。
デパートに行くと、そのペタンク用の金属のボールを売っているが、思いつきでお土産で日本に持ち帰れると言うほどのドンではなく、結構な重さである。
1970年代頃のパリジャンのペタンク遊びを見ていると、まずこちらが若かったから、ペタンクをやるのはみんなおじいさんと言う第一印象がある。おばあさんはいなかったような気がする。これは男性の遊びなのかしら?
天才荒木は流行者が好きだから結構昔のことになるが、1時は自分のことをペタンク荒木と呼んでいた。何かこのキャッチフレーズはいい感じだね。
このワンショットは私が日本で初めてペタンク遊びをしている東洋人のおじいさんのショットである。肖像権とか関係あるのでプレイしてる人は入れませんでした。と言うのは、嘘で、たまたまこういうショットで撮っただけなのだ。
1番強烈に印象づけられたのはペタンクをやっているのは1970年代のパリでは老人がやっていたが、現代のファーイーストでは私と同年代の人がやっていると言うことに気がついた。要するに、ペタンク世代に私が追いついたという意味でもある。
郊外のワイン、酒場で盛り上がってに山下さんをウィーンの私の友人の頭で、ドイツ人にお連れした。その人はピストルのコレクターなので、山下さんが興味を持ったのである。
短い滞在実感だったが、意気投合して楽しかった。出発の前日になって主催者からもらった小切手がすぐ現金化できないと言うので、騒ぎになって私はお手伝いしたことがあった。
それで私は全日本冷やし中華協議会のことを知っていたのでをしたら、山下さんは私を支部長に任命してくれたのである。それでウィーン時代に1700年頃、つまりモーツァルトが生きていた頃のお皿に冷やし中華をのせて満足していたのだが、大問題はナルト巻が上では当時手に入らなかった。
パスオーバーの時に種を入れないパンを作ったユダヤ人の伝統と同じように、ウィーンの冷やし中華は鳴門巻きが入っていないと言うのが5200年なのである。
それで、私が考えているのはが生きていた時代に、ひょっとしたら冷やし中華は存在していたのではないかと言うことだ。トルコ戦争には勝利した。オーストリアだから中国人の食べているヌードルぐらいはどっかにありそうで、それで適当にソースを販売すればモーツァルト時代の冷やし中華ができると思う。
モーツァルトは冷やし中華が好きだった。と言うことになれば、空前絶後の新発見である。これはモーツァルトが食べていた冷やし中華を再現したものであると、堂々と公言することもできる。
逆のことも言えるわけで、ウィーンの美術評論家を連れて日本を旅したときに彼が驚いたのは新幹線で東京から大阪まで走って田園地帯がほとんどなくて全部家があると言うことだった。その違いがこの違いなんだね。
それで、1973年の5月にこの写真を撮っていかにもいい写真が撮れたという感じで気分を良くして、1976年のヨーロッパを巡回した。大きな写真展でも展示して、カタログにもこのショットが載っているんだけれども、私はウィーンの滞在の全般と後半とで写真に対する考え方がすごく違ったので、今の時点で考えるとこういう写真を良いと思っていた。自分は否定されなければならない。
こういうのって1種の悪い象徴表現主義なんだね。記憶を失う。以前の中平琢磨が記号論でとっていた。写真と全く同じなんだ。どうしても頭で考える連中はこういう象徴主義的な写真を撮りたがる。
そういう人を驚かすような写真に全く興味がないと言っていたのは26歳の時のウォーカーエバンスなんだから、えらいことだと思う。よく勘違いされるけど、ウォーカーエバンスはストレートフォトグラフィーの人です。ドキュメンタリーの人のふりをしているけど、実は大違いなんだ。
その時の記念に出版された写真集めいたものは、実際には写真集ではなくて、ドイツの出版社が南ドイツ新聞社のサポートを得て、体裁は全く新聞と同じなんだけど、それがロバートフランクの写真集になっていると言うもので、これはなかなか存在感があって良かった。もともとロバートフランクの作品はゴシップ的であるからだ。
私は日大が逃走中でロックアウトされていたから、もっぱら家人が通っていた東京芸大のほうに入り浸っていて、まるで芸大生のような顔をして割っていたのである。
そのせいではないと思うが、1969年の東京芸大の秋の芸術祭に登場した。誰かの描いた写真論であるが、そこに私が書いたワンフレーズが適用されている。すなわち
田中長徳さんに聞いてみたい。あなたもトライエックスですか?
私は音楽大学のほうに入り浸ってキャッスルと言う名前の洋食屋さんで時間をつぶしたりしていた。当時はホットレモンとか言うのがあったんだけれども、理想的にはアルコールがあるともっと良いけれども、何しろ大学の食堂だからそうはいかないよね。
それで美術関係の道を渡った。反対側で結構有名なメニューが豆腐のバター焼きなのである。もやしと豆腐をマーガリンで調理したものだから、バター焼きというのは不当表示になるな。
家人も、現役の頃は、豆腐のバター焼きとアジのお刺身などをよく食べたらしい。それで私がロバートフランクの写真展のついでに、豆腐のバター焼きを宣伝したら、結構売り上げが上がったのだそうである。
こういうブランド物が価値があるのはそれを提供されるお皿の内側にちゃんと東京芸術大学だから何か忘れたけど、それ関係の文字が印刷されていることだ。
皆さん何かわからないけど、ライカという名前が付いていればありがたがあるのとここら辺は同じレベルだね。すなわちライカと豆腐のバター焼きは同じクラスである。
豆腐のバター焼きとライカは、その存在感が平等である。
ところが、30点ほどの写真が何か別の事情でよそにプリントを依頼していたので、それだけは手元に残った。不幸中の幸いと言うやつだ。
ニューヨークに暮らした間は、夏の数ヶ月は双方地区に住んでいたが、それ以外は当日治安が最も良くないと言われていた。タイムズスクエアの野洲ホテルで暮らしていて、そこが面白かった。オフofブロードウェイの芸人などが売り込みに来たときに泊まるホテルだし、ウェルフェアの連中もここを根にしていた。
夜になると、巨大な黒人のガードマンが、銀色のレボルバーを見せびらかしながら、ガードマンをしていた。
家人はなかなか優秀なニューヨークタイムズの読者であって、タイムスを読む時は必ず手袋をして読むのである。今は知らないけれど、40年前のタイムズはインキが質が良くなかったのか、手に持って読んでいると、指先が真っ黒になるのだ。
タイムスの付録にある動物園のフィギアを、家人は丁寧に切り抜いて髪のお皿の上に並べた。それを私はディアドルフの8 × 10インチで撮影して、これを
夜の動物園
と命名したのである。私のオンラインギャラリーで100点位のプリントが売れたのだけど、このプリントはなかなか売れなかった。ブルックリンブリッジとかミュージアムとかわかりやすいランドマークの写真はすぐ売れるのだが、何しろ状況が込み入って私が個人的に好きな作品だからなかなか売れない。それでも九州のほうのコレクターが買ってくれたのは本当に嬉しかった。
夜の動物園と言うのは、実はちょっとしたバックグラウンドがあって、正岡子規は、動物園のすぐそばの根岸に住んでいたから、夜の動物園のことをちらっと書いているのである。
セントラルパークサウスには規模が小さいが動物園がある。ニューヨークの人々の懐かしい子供の頃の思い出のランドマークであるといろんな人から聞いた。
それまで東松さんは、ニコンエフを使っていたのだがこの辺からキャノンはスポンサーになったようである。その1連の広告は60年代後半でキャノンF1が出る前まで続いたが、この広告シリーズがかっこよかった。
誤解を恐れずに言えば、キャノンF1になってからキャノンの一眼レフが変な風にプロっぽい大衆カメラになってしまった。だからカメラとしての知的な品格がちょっと下がったりしたのである。
東松さんの当時の代表的な仕事で日録というのがある。カメラ毎日の雑誌のトップで30ページ以上発表された彼の日常生活の日記なのであるが、これにはしびれました。
その当時のキャノンの広告は、ライトパブリシティーがやっていて、キャッチコピーで忘れられないのは、世界中の手がキャノンを磨いている。
その後私は日本デザインセンターに入って、ニコンの一眼レフの広告を手がけたのだが、ライトパブリシティーには最初から負けていると思っていた。フイルム一眼レフなら60年代後半のキャノンに限ります。しかも手に入れやすくてここに示すカメラはどちらも2500円。こういうのをおすすめします。
一例をあげれば、アレクサンダーロードチェンコが初期の傑作を全部レンズ交換のできない。1番最初のライカカメラで撮影している。そして彼独特の画面を斜めにした画面構成で画像にムーブメントを与えているのである。
それが私の表現者としてのメインのカメラであったが、その他に記録用としてもう一つコンパクトデジタルカメラを持っていた。おそらくリコーのデジタルカメラであると思うけれども、28ミリ相当のレンズがついたJRではなかった。
プラハのよく行くレストランでランチを食べて、沸騰ミールと目の前に雀さんがスープの残りを食べている。スズメがすごいと思うのはちゃんとスプーンに泊まりに代わりに足をかけて礼儀正しくスープの残りを突っ突いているのである。
ヨーロッパ人はいずれも大変なこと好きで、散歩の時にパンくずを持って行ったりするのは普通であるが、私が暮らしたウィーンのドナウ運河のそばの裏手にある。巨大な公園などは真冬は鳥が苦労すると言うので、ベーコンの油の切れっ端を紐で、ぶら下げたものが樹木の間にぶら下げてある。これなども冬の厳しい間の鳥さんの貴重な食料なのである。