「日本」は「百済」の南遷国最終更新 2023/07/12 00:561.日本@名無史さん白村江に敗れた百済王子扶余勇は九州北部に南遷し、大宰府を中心に51㎞の羅城の小国を築いた。小国は東に展開し、近江まで進出した。そこで扶余勇は崩御した。書紀は彼を天智天皇と諡号した。近江政府に吸収されつつあった倭国は壬申の乱で実権を取り戻した。旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地」の「日本」は倭国を従えた近江朝のことである。新唐書「咸亨元年(670年),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」からも、近江朝は倭国を併せその国号を冒したので、近江朝は「日本」を称していたことになる。 壬申の乱で勝利した倭国は驚くべきことに、近江政府の「日本」を称した。白村江で日本に渡った百済貴族が余りに多く、天武自身も扶余勇と同じ扶余家であったので、「日本」を称したのである。倭国は百済人に乗っ取られて「百済」を「日本」と改称したのであった。詳しくはサイト「国際的視点からの古代史考」の扶余勇=天智天皇のページを参照出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/16806696532023/04/05 13:40:532コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.日本@名無史さんi0H2K見果てぬ夢だよな。2023/07/12 00:56:09
小国は東に展開し、近江まで進出した。そこで扶余勇は崩御した。
書紀は彼を天智天皇と諡号した。
近江政府に吸収されつつあった倭国は壬申の乱で実権を取り戻した。
旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地」の「日本」は倭国を従えた近江朝のことである。
新唐書「咸亨元年(670年),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」からも、
近江朝は倭国を併せその国号を冒したので、近江朝は「日本」を称していたことになる。
壬申の乱で勝利した倭国は驚くべきことに、近江政府の「日本」を称した。
白村江で日本に渡った百済貴族が余りに多く、
天武自身も扶余勇と同じ扶余家であったので、「日本」を称したのである。
倭国は百済人に乗っ取られて「百済」を「日本」と改称したのであった。
詳しくはサイト「国際的視点からの古代史考」の扶余勇=天智天皇のページを参照