隋唐帝国 三最終更新 2023/12/13 06:541.世界@名無史さん前スレ隋唐帝国 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1614635693/隋唐帝国 二 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1617951377/出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/16333208452021/10/04 13:14:05141コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.世界@名無史さんJCJ8H隋は異民族2023/08/19 06:24:473.世界@名無史さんJCJ8H唐も異民族2023/08/19 06:24:594.世界@名無史さんPbkuM唐は、アメリカ合衆国のような移民の国だった新たな「漢民族」の形成が、ここから始まる2023/08/19 16:28:555.世界@名無史さんPbkuM秦や漢は、滅んだ先住民族による幻の古代文明だ北魏や隋唐あたりが、実質的な「中国」のスタート2023/08/19 16:30:456.世界@名無史さんPbkuM「中国の歴史は、日本より長い」そんな錯覚してる人が、世間には多い実質的には、ほぼ同じ時期のスタート2023/08/19 16:31:287.世界@名無史さんOwI8l隋唐の文化は、あまり残っていない それに比べて、奈良時代や平安時代の日本の文化は残っている2023/08/20 09:55:118.世界@名無史さんXLndN>>6中国のほうが長いよ2023/08/20 15:46:209.世界@名無史さんG5OJ6>>8そうなのか2023/08/20 16:06:0310.世界@名無史さんG5OJ6唐の貴族は優雅な生活をしていた2023/08/20 16:12:3011.世界@名無史さんG5OJ6と思うところだか、平安時代の日本の貴族の日記とかを見ると、彼らは役人としての事務に追われて忙しかったおそらく、唐の貴族もそうだったのでは2023/08/20 16:13:5812.世界@名無史さんG5OJ6しかし、唐の貴族の場合は、科挙官僚に事務をやらせることができる2023/08/20 16:14:5513.世界@名無史さんG5OJ6平安時代の日本の貴族と比べて、唐の貴族のことは記録が少ない2023/08/20 16:37:1714.世界@名無史さんRyVGv他の時代と比べた、隋唐時代の最大の特徴それは、優雅な貴族の世であったということ2023/08/21 06:01:5515.世界@名無史さんRyVGv北周から禅譲を受けた隋であったが、その制度は斉制を継ぎ、貴族制もまた受け継いだ。595年(開皇15年)に中正が廃止され、開皇年間(581年–600年)中には科挙制度が確立された。これと平行して任子制もまた行われており、この頃では貴族は任子によって官界に入り、科挙に応じることはまずなかった。隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観6年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。2023/08/21 06:02:2616.世界@名無史さんRyVGvこのように、初唐では山東系を強く抑圧した形で関隴系が主導権を握っていた。この状態を大きく崩したのが武則天である。武則天自身も関隴系の出身であるが、本流からは遠く、女性の身で権力を握ることへの反発もあり、関隴集団の助力は受け難かった。そこで武則天は自らの手足として科挙官僚を積極的に登用し、関隴系の権力を切り崩しにかかった。これにより関隴系の勢力は減退せざるを得なくなり、それに代わって山東系とこの時代における貨幣経済の伸張に伴って勢力を伸ばしてきた新興地主勢力とが官界を二分するようになり、関隴系の存在は小さなものとなった。武則天後の玄宗は再び関隴集団を登用する反動政治を行うが、玄宗自身の退嬰とそれによって起きた安史の乱により頓挫した。安史の乱の大動乱の後、地方には藩鎮勢力が割拠するようになる。各地の藩鎮勢力はその幕下に優秀な人材を集めるために辟召を行った。2023/08/21 06:04:1817.世界@名無史さんRyVGv貴族層は官僚の出処進退を司る尚書吏部を支配下に置いており、科挙官僚を中央から排斥していた。そのような人物がこの藩鎮の辟召を受けることとなる。その代表としては韓愈が挙げられる。憲宗の時期より関隴系の牛僧孺・李宗閔らと山東系の李徳裕らの争いが勃発するが(牛李の党争)、その中で両派は自派の勢力を拡大するために盛んに辟召を行い、その結果として新興勢力の進出はますます促進された。さらに唐末の戦乱の中で、貴族勢力は壊滅的な打撃を受けた。後に唐を滅ぼして後梁を建てる朱全忠は、905年に配下李振から「かつて貴族たちは自ら清流と自称していた。こいつらを黄河に沈めて、濁流としてしまいましょう」という進言を聞き、その通りに実行した(白馬の禍)。この事件の時点で貴族勢力は完全に壊滅したと考えられる。北宋以降は、科挙官僚たちが完全に主導権を握り、「士大夫」と呼ばれる新しい支配層を形成した。2023/08/21 06:04:3118.世界@名無史さんRyVGv隋唐門閥士族有多豪橫?皇帝想結親“五姓七望”卻被看不上,為何?https://youtu.be/nIrpZ857m1o2023/08/21 06:12:3119.世界@名無史さんMaAAv唐の貴族は、どういう人たちだったか?ビジュアル的には、聖徳太子とか奈良時代の日本の貴族とかを思い浮かべるのが良かろう平安時代の貴族となると、国風化が進んで異質になる2023/08/21 06:46:3120.世界@名無史さんR4VUA大勢の聖徳太子がいるそれが、唐の宮廷2023/08/21 08:07:4521.世界@名無史さんR4VUA奈良時代の貴族唐朝の貴族も、こんな感じ手に笏を持ってるのが特徴http://www.takata-courtrobe.co.jp/naradanshicyoufuku.jpg2023/08/21 08:09:5322.世界@名無史さんbeQPK國學院大學メディアほぼ毎日、どこかでおこなわれていた唐代の祭祀儀礼唐代の祭祀儀礼とは ー前編ー中国文学科文学部 准教授 江川 式部2023年6月5日更新 皇帝も役人も、年がら年中、朝から晩まで祭祀儀礼に追われて汲々としている──そんな唐朝の姿を、想像できるだろうか。一見コミカルにさえ思える当時の宮中の様子だが、しかしそこには、必死になる理由もまた存在した。 唐代の祭祀儀礼について研究を進める、江川式部・文学部史学科准教授。インタビューでその内容を尋ねると、一般的なイメージとはすこし離れているかもしれない唐朝の姿が、生き生きと伝わってきた。2023/08/22 04:33:2323.世界@名無史さんbeQPKじつは私自身、最初から中国王朝の祭祀儀礼に興味があったわけではありませんでした。大学院に入るときに関心を抱いていたのは、唐代の商工業、特に手工業についてでした。そのなかで当時の酒造業や酒造の技術に目を留めたのが、現在に至る私の研究を方向づけるきっかけになりました。 酒は地域を問わず、古来より人間の生活に密接に関係してきた加工品です。その酒をテーマにして、唐という時代の中での生産と消費の様子を見ていこうとした……のですが、どうも不思議なんですね。 たとえば、官制や法制といった国家の制度について書かれている『唐六典(とうりくてん)』をひもとくと、「良醞署(りょううんしょ)」という醸造機関が、官署の中に置かれていたことがわかりますが、そこで造られている酒の種類が驚くほど多いのです。しかもそれぞれが「汎斉(はんせい)」「事酒(じしゅ)」「鬱鬯(うっちょう)」など奇妙な名前の酒類でした。 当時はすでに、民間でふつうに酒がつくられている状況でした。宮中での飲食に用いるだけでしたら、世に出回っている上等な酒を手に入れればいい。しかし、そうした調達の仕方ではなく、官署において特殊な酒類をたくさん造っていたわけです。そして、そうした酒類の配供を専門とする人たちもいる。これは一体何をする組織なのだろうか……と調べていくうちに、祭祀儀礼の研究に入っていったのでした。 そこから改めて、多くの史料を読み込んでいくことになりました。唐代の礼典として、150巻のうちそのほとんどが現存している『大唐開元礼』(以下『開元礼』)には、当時の祭祀儀礼に関わる諸規定や儀式次第などがまとめられています。こうした史料を読み解きながら博士論文『唐代酒礼の研究』をまとめて、より広く、唐代における祭祀儀礼のあれこれについて考えていくことになったのです。2023/08/22 04:34:0724.世界@名無史さんbeQPK 唐朝の祭祀儀礼は、調べていけばいくほど驚くことばかりでした。都では、ほぼ毎日どこかで、何かしらの祭祀儀礼が執り行われていた。それぞれに設営や準備、終われば片付けも必要であるわけですから、関係部署の役人たちは、ほとんど年がら年中、祭祀のために奔走していたといっても過言ではありません。 『開元礼』をみますと、唐皇帝が執り行うべきとされた祭祀儀礼の種類が、とても多いことがわかります。一般的に、中国王朝の皇帝というと、悠然と玉座にすわって臣下に命令を下しているようなイメージがあるかもしれません。しかし皇帝自らが何日も潔斎し、当日はまだ日ものぼらない早朝から祭祀儀礼に出張らなければならなかったり、ときには何十日もかけて地方に出向いて祭祀を行うようなこともありました。本当に忙しかったことがわかります。 もちろん、いわゆる日常の政務もおこなわなければなりません。ですから予定されている祭祀儀礼のすべてを、皇帝が執り行う(=「皇帝親祭」)ことができるわけではありませんでした。しかし、では祭祀儀礼を取りやめるかといえば、決してそうではありません。皇帝の代理として役人が担当する(=「有司摂事」)ことまでもが決められていたんですね。とにもかくにも、祭祀儀礼を予定通り執り行うことが優先されていたのです。2023/08/22 04:34:4625.世界@名無史さんbeQPK加えて面白いのが、当時の他の史料もあわせて読んでいくと、唐朝の祭祀儀礼においては規定と実際のあいだに乖離があったのがわかる、ということです。 『開元礼』はあくまで礼典としてまとめられたものであって、年間を通じて多くの祭祀儀礼を滞りなく執り行うための“慣例”については書かれていません。代理を立てるといっても実際には、代理として定められている役職の人間が、必ずしも担当できるわけではないのです。たとえば、タイミング悪くその人の身内に不幸があれば、当日は代理を務められません。 そのとき、“代理の代理”をどう立てるかということが、議論されたりもしています。国家祭祀ですから誰でもいいわけではないので、祭祀挙行をまかせる官の任命には、慣例として一定の原則があったのです。関係部署の役人ではなくとも、動員される場合がありました。 2023/08/22 04:35:0426.世界@名無史さんbeQPK唐朝は、なぜそこまで祭祀儀礼を重視していたのでしょうか。 漢代以後、中国の皇帝というものは、天から地上の支配権(天命)を任された人物だと考えられてきました。天命を受けているから、地を支配できる。では天がその皇帝を、不適切だ、皇帝失格である、と判断した場合はどうでしょうか。天災や戦乱が起こり、その王朝は倒れ、天命は他姓の人間にうつっていくわけです。これがいわゆる「革命」思想です。 だからこそ歴代王朝の皇帝と官府は、天の意向をうかがう必要があった。王朝が祭祀儀礼を執り行うということは、彼らがこうした世界観のなかで生きていたということに基づいているのです。 唐の『開元礼』は、中国の歴代王朝の祭祀儀礼制度の決定版ともいえるほど、詳細な規定がまとめられたマニュアルです。『開元礼』以前の各王朝の国家礼典については、散逸して残っていません。あるいは後の宋朝においても礼典は編纂されていますが、残念ながら唐の『開元礼』のようなほぼ完全な状態のものは、現存していません。 インタビュー後編では、調査研究をめぐる近年の動向もあわせてご2023/08/22 04:35:3827.世界@名無史さんbeQPKなるほど2023/08/22 04:36:1428.世界@名無史さんbeQPKこれを見ても、よく分かる2023/08/22 04:36:2629.世界@名無史さんbeQPK唐朝の政治の特徴は「呪術的だった」ということ2023/08/22 04:36:5630.世界@名無史さんbeQPK年がら年中、祭礼ばかりやっていた2023/08/22 04:37:3231.世界@名無史さんbeQPK唐朝の皇帝の主な仕事は祭祀2023/08/22 05:18:4332.世界@名無史さんamy8i国を挙げて加持祈祷に狂奔した、迷信深い時代2023/08/22 13:49:5633.世界@名無史さんamy8i日本も影響を受けた2023/08/22 13:50:1134.世界@名無史さんwXa0r隋唐の社会九品中正の特権を失った唐代の貴族層は朝廷の官職につくことを重視して長安・洛陽へ移住し、貴族層は王朝権力に密着した官僚貴族となっていった。あらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばし、王朝権力に寄生する存在となった貴族層は唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていった。2023/08/22 20:15:1635.世界@名無史さんwXa0r隋唐の社会九品中正の特権を失った唐代の貴族層は朝廷の官職につくことを重視して長安・洛陽へ移住し、貴族層は王朝権力に密着した官僚貴族となっていった。あらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばし、王朝権力に寄生する存在となった貴族層は唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていった。2023/08/22 20:16:0136.世界@名無史さんwXa0r科挙隋代に開始された科挙は、唐代に入って大きな発展をとげた。科挙には、詩文の創作を中心とする進士科や、儒教の教義を中心とする明経科などがあったが、唐代では進士科がもっとも重んじられ、高級官僚への登竜門として大変な難関となっていた。2023/08/22 20:16:3837.世界@名無史さんwXa0rしかし唐代には、科挙に合格しただけでは高官になることができず、実際に任官されるためには、吏部でおこなう試験(銓選せんせん)に合格しなければならなかったが、そこで審査されたのは、「身(容姿)・言(言語)・書(筆跡)・判(公文書の文体)」といった貴族的教養であった。また高官の子弟には、父祖の官位によって無試験で官位を与えられる制度(門蔭の制もんいんのせい)や、国立大学である国子監こくしかんへの入学特権など、さまざまな優遇処置があった。科挙(進士科)にしても、合格者の多くは貴族層に属する人々であった。2023/08/22 20:17:0538.世界@名無史さんwXa0r官人永業田また、土地国有を理念とする均田制のもとでは大土地所有が抑制されたが、官僚身分に対しては官人永業田かんじんえいぎょうでんと呼ばれる土地所有が公認されていた。しかし、九品中正という制度的特権を失った唐代の貴族層にとって、手段をつくして代々朝廷の官職につくことが重視され、そのため官界での活動や社交に有利な長安・洛陽への一族をあげての移住が進み、貴族層はしだいに地方における大土地所有という基盤から分離する傾向が強まっていった。この傾向は、安史の乱による地方の荒廃によっていっそう進行し、貴族層は王朝権力に密着した官僚貴族となっていった。一方、両税法による土地所有の公認により、地方には、貴族層にかわってあらたに大土地所有を実現した新興地主層が勢力をのばしていった。こうして土地所有という基盤を失って王朝権力に寄生する存在となった貴族層は、唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていったのである。2023/08/22 20:18:0039.世界@名無史さんfen8Q唐朝は迷信深く、呪術的な文明だった2023/08/23 20:25:1140.世界@名無史さんfen8Q地方の有力者たちが、長安に集まってきて貴族になった2023/08/23 20:25:5041.世界@名無史さんfen8Qだが、中国史における貴族社会のピークは六朝時代の南朝とされている2023/08/23 20:26:4842.世界@名無史さんBaNg3奈良時代の日本を参考に、「唐朝もこんな感じだったんだろうな?」と想像をふくらませる日本と違って、あんまり記録が残ってないから、そうするしかない2023/08/24 18:59:5343.世界@名無史さんBaNg3邪馬台国の時代は魏に残る記録を見て当時の倭を想像するしかなかったが数百年で逆転した2023/08/24 19:01:1344.世界@名無史さんP6htd倭国は、あっという間に隋唐を追い越してしまった2023/08/24 21:00:2545.世界@名無史さんP6htd現代の中国人にとって、唐朝は遠すぎる過去具体的なイメージがわかないらしい2023/08/24 21:40:4546.世界@名無史さんo2ZFv隋唐や新羅は、痕跡をとどめるのみ そこが日本とは違う2023/08/25 06:08:1247.世界@名無史さんo2ZFv実質的に、日本の歴史が格段に長い2023/08/25 06:08:2948.世界@名無史さんo2ZFv隋唐や新羅は、現代の中国・韓国とは別の国で、滅びた旧文明飛鳥時代や奈良時代から継続している日本とは違う2023/08/25 06:09:4049.世界@名無史さんo2ZFvササン王朝時代には、「絹の道」を通じて六朝、隋唐時代の中国と頻繁な交流をもち始めた。中国ではペルシア人のことは「胡」又は「胡人」と呼び、その胡人達は中国の当時の都の洛陽や長安の居留地に、また港の泉州や楊州にも多数住みつき、ペルシアの習慣や服装、宗教などを保持していた。特に彼等の信奉していたゾロアスター教はけん(※)教の名で知られ、長安には数々のけん(※)祠が建立された。当時、彼等の胡風一ペルシア・スタイルが中国人社会に喜んで受け入れられたことは唐詩選のよく伝える処である。※ 「けん」=「示」+「天」2023/08/25 07:00:5750.世界@名無史さんo2ZFv唐代の貴族社会では、まず食事から胡食を珍重し、貴婦人は胡服(左衽の服装) を尊び、胡粧を施し、胡戯に耽り、高昌楽、亀茲楽、康国楽などの胡楽を楽しんだのであった。胡楽に使用された琵琶や箜篌(ハープ)などがいずれもペルシアから伝来され、さらに中国化しつつ、我が国に将来されて現在正倉院宝物中に実在することは既に周知の事実である。2023/08/25 07:01:2351.世界@名無史さんo2ZFv飲食器にしても、ペルシア製の品々が「絹の道」を通過して中国の唐朝で大流行していた事が、例えばかの晋の潘尼の詠んだ「瑠璃碗賦」にガラス碗がはるばるパミールの峻嶮を越え、中央アジアの流沙をわたり、中国本土にもたらされたことが詠まれており、事実正倉院宝物のうちには「白瑠璃碗」の名で呼んでいるササン王朝ペルシアのカット・グラスが収蔵されており、また江戸時代に安閑天王御陵から出土したと伝えられる同種の作品が現在東京国立博物館に所蔵されているのである。2023/08/25 07:01:4552.世界@名無史さんo2ZFvその何ずれも昭和34年頃イラン高原北部のギラーン州のデーラマン地方のパルティア、ササン王朝時代の古墓から出土したと伝えられるペルシアの円形切子装飾瑠璃碗と瓜二つであり、したがって当時、はるばるイラン高原から「絹の道」を通じて中国へ、さらに海を越えて日本に将来されたことが実証された。また、昭和29年玄海灘の洋上に浮ぶ沖ノ島の古墳時代後期(A.D. 6 ~ 7C)の遺跡から浮出し円形切子装飾を有する瑠璃碗断片が出土した。幸いにもこの種のガラス器が昭和35年頃ギラーン州からも出土するに至って、この断片もイラン高原から将来されたものであることが立証された。続いて昭和39年には、二重円形切子装飾瑠璃碗の断片が京都上賀茂から出土、また同種の作品がギラーン州から出土するなど、日本の古墳時代には、既にササン王朝時代の代表的カット・グラスが「絹の道」を通じて我が国に将来されたことがうかがえるのである。2023/08/25 07:02:1653.世界@名無史さんo2ZFv工芸の部門ではこの他に、唐朝では胡瓶と呼ばれる把手付水瓶など、また鳳首水瓶や八曲長坏など、明らかにイランから伝来されたと判断されるペルシア製品やペルシアの影響で製作されたと推定される工芸品の数々が今日中国本土で出土しており、また唐朝のこのペルシア・モードはさらに我が国にも影響を与え、法隆寺の白銅竜首水瓶や帝王獅子狩文錦として、また天平時代の正倉院には漆胡瓶、金銅八曲長坏、緑瑠璃十二曲長坏など数々の作品を遺したのであった。2023/08/25 07:02:3154.世界@名無史さんo2ZFv繰り返すが、ササン王朝ペルシアの文化・芸術の影響は東西両洋の果てまで浸透していったことが言えよう。即ち、アフガニスタンでは仏教美術と結びついて、バーミヤンの壁画やフォンドキスタンにおける塑像などの美術作品を生み、次いで中央アジアの洞窟壁画に、中国に入っては六朝時代から唐代にかけて仏像彫刻の図像や諸工芸品に多大の影響を及ぼし、引いては我が国の飛鳥時代の法隆寺、天平時代の正倉院宝物の数々に直接間接に多大の影響を及ぼしたのであった。西方との関係は、主としてビザンチン世界に影響を及ぼしたのであり、ラヴェンナのサン・ヴィターレのモザイクを始め諸々の建築・工芸作品の証明する処である。ともあれオリエント7000年の歴史の変遷を通じて、このササン王朝時代のペルシア文化・芸術ほど東西両洋の文化に多大の影響関係をもたらした時代は他に全く見られない。(元東京大学教授)(出典:「岡山市立オリエント美術館蔵品図録」より)2023/08/25 07:02:4355.世界@名無史さんo2ZFv隋唐がインドやペルシャから受けた影響は、日本が隋唐から受けた影響に匹敵する2023/08/25 07:03:1756.世界@名無史さんo2ZFv実際のところ、日本人が「中国から来た文化」と思ってるもののうちかなりの部分が、もっと西から来ている2023/08/25 07:03:5557.世界@名無史さん3waSg隋代に開始された科挙は、唐代に入って大きな発展をとげた。科挙には、詩文の創作を中心とする進士科や、儒教の教義を中心とする明経科などがあったが、唐代では進士科がもっとも重んじられ、高級官僚への登竜門として大変な難関となっていた。「五十少進士」(50歳で進士合格は若いほう)という当時のことわざが、その難関ぶりを物語っている。2023/08/26 18:28:0158.世界@名無史さん3waSgしかし唐代には、科挙に合格しただけでは高官になることができず、実際に任官されるためには、吏部でおこなう試験(銓選せんせん)に合格しなければならなかったが、そこで審査されたのは、「身(容姿)・言(言語)・書(筆跡)・判(公文書の文体)」といった貴族的教養であった。また高官の子弟には、父祖の官位によって無試験で官位を与えられる制度(門蔭の制もんいんのせい)や、国立大学である国子監こくしかんへの入学特権など、さまざまな優遇処置があった。科挙(進士科)にしても、合格者の多くは貴族層に属する人々であった。2023/08/26 18:28:1359.世界@名無史さん3waSg唐代にも科挙はあり、すでに超難関となっていた2023/08/26 18:28:4260.世界@名無史さん3waSgでも、明清のような官僚国家にまでは、まだなってなかったあくまでも、貴族社会2023/08/26 18:29:3961.世界@名無史さん3waSgそれを言ったら、清朝でも科挙官僚の上には満州人の軍事貴族がいたが2023/08/26 18:30:5362.世界@名無史さん3waSg科挙の試験内容も、唐朝では実務的でなく貴族的な教養が重視されて2023/08/26 18:32:0063.世界@名無史さん3waSg重視された2023/08/26 18:32:1164.世界@名無史さん3waSg日本では、奈良・平安時代の貴族の世から武士の世へと変わっていったわけだが中国では、武士の世に相当するのはモンゴル人や満州人の軍人階層その下にいたのが科挙官僚2023/08/26 18:39:3665.世界@名無史さん3waSg隋唐は貴族の世だったそこから、北方民族の軍人と、科挙で選抜された高等文官の世になった2023/08/26 18:40:3066.世界@名無史さん3waSgといっても、それはあくまで程度の問題隋唐にも科挙官僚はいたし、その上に北方タクバツ系の軍人階層があった2023/08/26 18:41:2767.世界@名無史さん3waSg唐の前半と後半の違いが大きい唐の前半は、門閥貴族の時代だった日本でいえば源平藤橘みたいな四大貴族がいた奈良時代の日本に似ていたもちろん、日本が隋唐の影響を受けて似たのであって、その逆ではないが(笑)2023/08/26 18:44:3068.世界@名無史さん3waSg唐も後半になると、日本でいえば地方の武士に相当する節度使の時代となる中央では、官僚の力がだいぶ強くなり貴族社会から官僚国家への変質が進み始めた2023/08/26 18:45:5669.世界@名無史さん3waSg何百年もの歴史を誇る貴族の家柄趙郡李氏などは、戦国時代の趙の李牧からの血筋途方もなく古い歴史を引きずっているこういう存在が、宋以降はあんまりいなくなったなくなったわけではないが、目立たない存在になった2023/08/26 18:50:0670.世界@名無史さん3waSg明治維新まで千年ダラダラ続いた京都の貴族と違って 長安の貴族は、唐朝とともに滅びたからなかなか具体的なイメージがわきにくい2023/08/26 18:55:1171.世界@名無史さん3waSgもちろん、外国のことだからイメージがわきにくいってのもあるだろうけどそれ以上に、千年という歳月の断絶によるものが大きいな2023/08/26 18:56:0472.世界@名無史さん3waSg「隋唐の貴族社会」と、言葉では言うけれどなかなか具体的なイメージはわきにくい2023/08/26 18:57:0473.世界@名無史さん3waSg長安は、廃墟になって放置されたいまの長安は、明代に建設された都市さすがに、地理的位置からして天然の要衝だから、永遠に放置されるはずもなかったが唐代の長安とは断絶している2023/08/26 19:29:5674.世界@名無史さんVzGYbまあ、基本は滅びた幻の旧文明2023/08/26 21:04:4275.世界@名無史さんVzGYb隋唐が滅びて、黄河文明から続く旧文明が終了したその後に、モンゴル系やトルコ系が南下してきて、新しい文明を築いた2023/08/26 21:06:1576.世界@名無史さんVzGYb日本文明は、当時からとぎれることなく継続している2023/08/26 21:07:4377.世界@名無史さん3waSgなぜ、唐の長安や、新羅の慶州は廃墟となって放置されたのに 日本の京都や奈良は連面と続いているのか?2023/08/26 21:25:5478.世界@名無史さん3waSgこれを、「日本人は古いものを大事にする国民性だからだ」という人もいるが、そうではない長安や慶州は文明の中心から遠く離れた僻地になってしまったが、京都や奈良はその後も文明の中心であり続けたなんといっても、そこが大きい 日本だって、廃墟となって放置された飛鳥の都には、痕跡しか残っていない マラ石とかサル石とかそんなのしか残っていない2023/08/26 21:28:5279.世界@名無史さん3waSg欧州を見ると、これまたロンドン・パリ・ミラノみんな、二千年前から現代まで文明の中心地であり続けている ローマは、廃墟になって放置されてから再建された都市その点では長安に似ている2023/08/26 21:31:2080.世界@名無史さん3waSg日本と欧州は、実質的に歴史が長い2023/08/26 21:32:0781.世界@名無史さんLCZ8h「京都・祇園で思わず涙が出た」 妻の仕事の関係で、私は中国ではデザイナーや画家、フォトグラファー、雑誌編集者といったアーティスト関係の中国の友人知人が多い。そういった世界の人たちは、ほぼ例外なく日本文化の熱烈なファンである。 その中の1人に画家の男性がいる。中国画を書く人だが、書の評価も高い。十数年前、無名の時代からの付き合いで、当時は絵が売れず、家でよくご飯を食べさせたりしていたが、今では壁に掛けるような小さな作品が日本円で何百万円もする。欧米からも作品を買いたいという画商が引きも切らないという人である。 3年ほど前、彼は初めて日本に行った。京都の祇園界隈で知人と食事をした時、街のたたずまいに衝撃を受ける。彼が長いこと漠然と頭の中に思い描いていた夢の都・長安が、突如として眼前に現われたのである。夜、どうしても眠れず、未明に1人、宿を出て通りをさまよい歩いたという。 「あの光景は忘れられない。世界にこんなところがあるとは思わなかった。誰もいなくて、死ぬほど静かで、簡潔で端正な家並みがぼんやりと光に浮かんでいる。まるで夢を見ているみたいだった」 呆然と立ち尽くしているうちに、涙が出てきたという。https://wisdom.nec.com/ja/business/2017062001/images/001.jpg https://wisdom.nec.com/ja/business/2017062001/images/002.jpg2023/08/27 06:09:2682.世界@名無史さんLCZ8h中国人観光客から、このような声が多く寄せられるようになって久しい中国人や韓国人が、京都や奈良を見て受ける衝撃「きっと、長安もこんな感じだったアル」 「たぶん、慶州もこんな感じだったニダ」2023/08/27 06:11:4383.世界@名無史さんLCZ8h「唐の文化を見たければ、日本に行け」それを見ると、こちらは逆に「なんだ、いまの中国では、唐の文化はそんなに残ってないのか」と驚くことになる2023/08/27 06:13:0284.世界@名無史さんLCZ8h実際のところ、その通り大陸は民族移動が激しいいまの中国にとって、唐は失われた旧文明2023/08/27 06:13:4985.世界@名無史さんLCZ8h以前、唐朝というロックバンドが中国で売れたことがあったがそのバンドの「夢回唐朝」という動画を見ると、砂塵に埋もれた痕跡のような遺跡でロックバンドが歌ってたこれが、中国人にとっての唐の一般的なイメージだhttps://youtu.be/Ba4jXBnkLvo?si=K-Qzp7RtzzJUh5Nj2023/08/27 06:17:2686.世界@名無史さんLCZ8h唐の都の長安は、廃墟になって何百年も放置された後、明代に再建された都市2023/08/27 06:18:2687.世界@名無史さんLCZ8h新羅の都の慶州も、廃墟になって千年も放置された20世紀になって、日本の朝鮮総督府が再建し、朴正熙が再建事業を引き継いだ2023/08/27 06:20:2388.世界@名無史さんLCZ8h隋唐や新羅の文明は、失われてしまった2023/08/27 06:20:4389.世界@名無史さんLCZ8h慈恩寺/大雁塔唐の仏教寺院で、大慈恩寺ともいう。648年、太宗の時、皇太子(後の高宗)が、生母の冥福を祈って都の長安(現在の西安)に創建した。後に玄奘がインドから帰国し、この寺に迎えられ、そのもたらした仏典、仏像類を収めるために境内に大雁塔を建造した。 後に寺院は荒廃して、現在は大雁塔のみが残っているが、シルクロードの終着点の文化遺産として世界遺産に登録されている。塔はレンガと木で汲み上げられ、現在の高さは64.517メートル。西安の観光名所ともなっている。https://www.y-history.net//gazo/0302/dai-gan-tou.jpg2023/08/27 12:02:3390.世界@名無史さんLCZ8h仏教と道教が極めて盛んだったそれが隋唐の特徴2023/08/27 12:03:1591.世界@名無史さんLCZ8hもちろん、隋唐にも儒教はあっただが、後世の明清のような儒教国家にはなっていなかった仏教が盛んだった2023/08/27 12:24:4792.世界@名無史さんLCZ8h隋唐は仏教国2023/08/27 12:25:0193.世界@名無史さんLCZ8h道教と習合していた2023/08/27 12:25:3494.世界@名無史さんLCZ8h隋唐門閥士族有多豪横?(中国語)https://youtu.be/nIrpZ857m1o2023/08/27 17:56:4695.世界@名無史さんLCZ8h北宋になると、官僚国家が完成する地主・科挙合格者・読書人三拍子そろったエリート官僚2023/08/27 17:58:1396.世界@名無史さんLCZ8h隋唐は、まだそこまで行ってない科挙官僚はいたが、官僚国家とまでは言えない貴族社会だった2023/08/27 17:58:4497.世界@名無史さんLCZ8h中国では、貴族とは言わない士族と言っている2023/08/27 17:59:0198.世界@名無史さんLCZ8hノンビリした夜中だ優雅な貴族たちの世界やがて、その幻想はブチ壊される2023/08/27 17:59:5499.世界@名無史さんLCZ8h夜中じゃないなんだ、この変換2023/08/27 18:00:15100.世界@名無史さんLCZ8h「世の中」だ2023/08/27 18:00:54101.世界@名無史さんLCZ8hまあ、騎馬民族が支配する国なので日本みたいに、牛車がノロノロ進むというほどノンビリしてないが2023/08/27 18:01:46102.世界@名無史さんLCZ8hやはり、騎馬での移動が中心2023/08/27 18:02:00103.世界@名無史さんbmVUl唐朝は、安史の乱で崩壊した室町時代でいえば、応仁の乱に相当する2023/08/27 18:58:41104.世界@名無史さんbmVUlそれ以後は、群雄割拠の世「第二戦国時代」と呼んでもいいんじゃないか2023/08/27 18:59:26105.世界@名無史さんbmVUlもっとも、地方に事実上の独立国がいくつもあっただけそれらが、天下統一を目指して競いあってたわけではない2023/08/27 19:00:29106.世界@名無史さんbmVUl単に、統一がゆるくて、事実上バラバラだっただけだ2023/08/27 19:00:50107.世界@名無史さんbmVUl強力な中央集権の統治機構を備えた明清帝国とは、似て非なる存在2023/08/27 19:01:25108.世界@名無史さんMc8Ao明清帝国には、強力な中央権力機構があったとくに清朝は、ほぼ近代国家2023/08/30 19:28:21109.世界@名無史さんMc8Ao隋唐は、統一国家といったって非常に緩い中世的な地方分権体制だった2023/08/30 19:29:23110.世界@名無史さんMc8Ao日本でいえば、室町幕府欧州でいえば、神聖ローマ帝国のイメージ2023/08/30 19:30:25111.世界@名無史さんuct4S唐の文化っていうと、「中国っぽい」文化を思い浮かべるかもしれないけれど、実はかなり国際色豊かな文化だったんだよ。 特にイラン文化の影響を強く受けている。それも当然。唐の領域は、あとちょっとでイラン高原に到達しそうな勢いだったからね。首都の長安にはイラン人が多数居住し、イラン人の宗教であるゾロアスター教や、キリスト教の異端であるネストリウス教、それにイランでは禁じられたマニ教という宗教のお寺も、仏教と道教のお寺に交じって建てられた。それぞれゾロアスター教は祆教(けんきょう)、ネストリウス教は景教(けいきょう)、マニ教は摩尼教(まにきょう)のように呼ばれた。2023/08/31 08:01:15112.世界@名無史さんuct4Sすでに南北朝時代には、各地に白蓮社のような信者グループや研究機関もできて、道教との対立も勃発するようになっていた。ただ、彼らの研究していたお経というのは、クマラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳した漢訳のものだった。彼の翻訳はとってもわかりやすく、いくつもの研究グループ(学派)が生まれ、やがて特定のお経に書いてあることが「ブッダの一番言いたかったことなんだ!」と主張するグループ(宗)へと発展。たがいに競い合うようになっていく(教相判釈)。例えば智顗(ちぎ;ヂーイー)というお坊さんは天台宗の開祖。「法華経」(ほけきょう)を重んじた。天台宗は日本の仏教に大きな影響を与えることになる。あの盲目のお坊さん鑑真(がんじん;ジェンヂェン)もこの天台宗を学んだ人だよ。2023/08/31 08:02:18113.世界@名無史さんuct4S杜順(とじゅん;トゥーシュン)さんの華厳宗。「華厳経」(けごんきょう;ホァイェンジン)を重んじた。ほかにも、戒律を決めようとした律宗(りっしゅう)や、「大切な教えはお経の文字にはない!心で伝えるもんや」(不立文字、以心伝心)とする菩提達磨(ボーディダルマ)による禅宗、さらに阿弥陀仏にすがって極楽行きをひたすら願う浄土教が生まれている。しかし、研究が進むにつれ中国独特の解釈も増えていき、「原典には何が書かれていたか」が問題となっていった。玄奘や義浄がインドに向かったのも、それが動機だ。彼らが持ち帰ったインドのお経は、その後の仏教に大きな影響を与えたよ。玄奘自身は、「唯識」という概念を研究する哲学的な法相宗(ほっそうしゅう)という新しい宗派を開いているね。日本では奈良の薬師寺が有名だ。2023/08/31 08:02:34114.世界@名無史さんuct4Sまた、国公認の教えとして認められ、科挙の試験科目となった儒教では、教えを統一するために訓詁学(字句の解釈を重んじる学派)が重視される。孔頴達(くようだつ、574~648)によって、『五経正義』(ごきょうせいぎ)という儒教の"公式解説ガイドブック"も編纂された。しかし、科挙の試験科目となったのは「五経」の暗記だけではない。お題をもとに、当意即妙に詩を読むテクニックも重んじられたんだ。教養をベースに、頭の回転とセンスが問われるわけである。当時たくさんIPPONをとっていた詩人として、”詩の仙人(詩仙)”李白(701~762)や、”詩の神様(詩聖)”杜甫(とほ、712~770)がいる。白居易(はくきょい、772~846)の『長恨歌』は、運命に翻弄された皇帝の玄宗と楊貴妃との間の悲しいラブストーリーをうたったもの。ファンの多い一品だ。2023/08/31 08:03:39115.世界@名無史さんjj1CY中国大陸、朝鮮半島、日本列島 どれも、8世紀と16世紀では、文明の中心地がまるきり移転してしまった2023/09/04 23:37:33116.世界@名無史さんjj1CY中国大陸では、長安から北京へ朝鮮半島では、慶州からソウルへ2023/09/04 23:39:03117.世界@名無史さんjj1CY日本列島は、ちと違うな江戸が台頭するのは17世紀から始まったことで、日本文明の中心地になるのは18世紀 いや、20世紀かもしれん2023/09/04 23:40:25118.世界@名無史さんjj1CYさすがにそれは無いか19世紀の前半はすでに江戸が圧倒的だったかも2023/09/04 23:40:54119.世界@名無史さんjj1CY日本の中心地は、ずっと京都から動かなかった2023/09/04 23:41:22120.世界@名無史さんjj1CY8世紀だと奈良だけど2023/09/04 23:41:39121.世界@名無史さんjj1CY9世紀から18世紀までは京都2023/09/04 23:42:04122.世界@名無史さんjj1CYだから、日本では千年前の文明が断絶せずに残った2023/09/04 23:42:27123.世界@名無史さんjj1CY「日本人は古いものを大事にする国民性だからだ」という人がよくいるが、そうではない京都から中心地がずっと動かなかったのが、なんといっても大きい2023/09/04 23:43:26124.世界@名無史さんjj1CY隋唐帝国の都・長安は、廃墟になって何百年も放置された明代に再建されたが、文明は断絶した 新羅王国の都・慶州もそうで、廃墟になって何百年も放置されてしまった古いものを大事にしないというよりは、北からきた連中に征服され、文明の中心地を移されてしまった2023/09/04 23:45:50125.世界@名無史さんjj1CY隋唐の文明は、痕跡しか残っていない日本人は、京都や奈良を見慣れているがあんな感じで、中国や朝鮮にも古い文化が残っていると思ったら幻想に終わる2023/09/04 23:47:12126.世界@名無史さんjj1CYここが、見落としがちな視点だ2023/09/04 23:47:42127.世界@名無史さんeqIDQ>>123> 京都から中心地がずっと動かなかったのが、なんといっても大きい思いつきでデタラメを書くなよ北京は大元ウルスの頃からずっと中華世界の首都だぞ2023/09/05 14:17:34128.世界@名無史さんpleTk北京こそ、千年の古都2023/09/06 19:39:18129.世界@名無史さんwGAIj日本のほうが。歴史が長い2023/09/07 19:04:45130.世界@名無史さんWnok7安史の乱で、唐朝は崩壊した日本が追い抜いた2023/09/07 20:10:58131.世界@名無史さんWnok710世紀くらいまでは、中国文明が先を行ってたが11世紀には日本が追い抜いた2023/09/07 20:12:30132.世界@名無史さんWnok7唐は砂塵に埋もれた、幻の古代文明2023/09/07 20:30:57133.世界@名無史さんWnok7隋唐の文明は消滅した日本は二千年前から連続している2023/09/07 20:35:25134.名無しさんC5YId「中国の歴史は長いから、唐など、たいした昔に感じない」という人がいる逆だ唐など、痕跡を残すのみ幻の古代文明だ2023/09/08 15:02:56135.名無しさんQcmEE優美な唐朝の貴族文化憧れる2023/09/16 17:33:13136.名無しさんwhjyp文明の痕跡がほとんど残ってないのが残念2023/09/17 00:08:32137.名無しさんwhjyp京都や奈良に来て、唐朝の文化をしのぶそんな中国人もいる2023/09/17 00:09:18138.名無しさんE7Zen仏教が廃れてしまったのがな2023/09/30 08:49:20139.名無しさんkMN9Dタラス河畔の戦いは勝ちたかったな2023/10/09 12:28:43140.名無しさんVRhVk魚豢『魏略』女王卑弥呼=『日本書紀』神功皇后王沈『魏書』檀石槐の西部大人推寅=『後魏書』献帝魏の書物に皇族を比定する日本と北魏はそっくりさんだね。2023/10/09 21:54:35141.名無しさんfA9bw中国史上西トルキスタンを一部なりとも支配した唯一の国家だからな2023/12/13 06:54:45
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+661981.72024/11/22 02:45:14
隋唐帝国
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1614635693/
隋唐帝国 二
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1617951377/
新たな「漢民族」の形成が、ここから始まる
北魏や隋唐あたりが、実質的な「中国」のスタート
そんな錯覚してる人が、世間には多い
実質的には、ほぼ同じ時期のスタート
それに比べて、奈良時代や平安時代の日本の文化は残っている
中国のほうが長いよ
そうなのか
おそらく、唐の貴族もそうだったのでは
唐の貴族のことは記録が少ない
それは、優雅な貴族の世であったということ
595年(開皇15年)に中正が廃止され、開皇年間(581年–600年)中には科挙制度が確立された。これと平行して任子制もまた行われており、この頃では貴族は任子によって官界に入り、科挙に応じることはまずなかった。
隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。
唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観6年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。
武則天後の玄宗は再び関隴集団を登用する反動政治を行うが、玄宗自身の退嬰とそれによって起きた安史の乱により頓挫した。安史の乱の大動乱の後、地方には藩鎮勢力が割拠するようになる。各地の藩鎮勢力はその幕下に優秀な人材を集めるために辟召を行った。
さらに唐末の戦乱の中で、貴族勢力は壊滅的な打撃を受けた。後に唐を滅ぼして後梁を建てる朱全忠は、905年に配下李振から「かつて貴族たちは自ら清流と自称していた。こいつらを黄河に沈めて、濁流としてしまいましょう」という進言を聞き、その通りに実行した(白馬の禍)。この事件の時点で貴族勢力は完全に壊滅したと考えられる。
北宋以降は、科挙官僚たちが完全に主導権を握り、「士大夫」と呼ばれる新しい支配層を形成した。
https://youtu.be/nIrpZ857m1o
ビジュアル的には、聖徳太子とか奈良時代の日本の貴族とかを思い浮かべるのが良かろう
平安時代の貴族となると、国風化が進んで異質になる
それが、唐の宮廷
唐朝の貴族も、こんな感じ
手に笏を持ってるのが特徴
http://www.takata-courtrobe.co.jp/naradanshicyoufuku.jpg
ほぼ毎日、どこかでおこなわれていた唐代の祭祀儀礼
唐代の祭祀儀礼とは ー前編ー
中国文学科
文学部 准教授 江川 式部
2023年6月5日更新
皇帝も役人も、年がら年中、朝から晩まで祭祀儀礼に追われて汲々としている──そんな唐朝の姿を、想像できるだろうか。一見コミカルにさえ思える当時の宮中の様子だが、しかしそこには、必死になる理由もまた存在した。
唐代の祭祀儀礼について研究を進める、江川式部・文学部史学科准教授。インタビューでその内容を尋ねると、一般的なイメージとはすこし離れているかもしれない唐朝の姿が、生き生きと伝わってきた。
酒は地域を問わず、古来より人間の生活に密接に関係してきた加工品です。その酒をテーマにして、唐という時代の中での生産と消費の様子を見ていこうとした……のですが、どうも不思議なんですね。
たとえば、官制や法制といった国家の制度について書かれている『唐六典(とうりくてん)』をひもとくと、「良醞署(りょううんしょ)」という醸造機関が、官署の中に置かれていたことがわかりますが、そこで造られている酒の種類が驚くほど多いのです。しかもそれぞれが「汎斉(はんせい)」「事酒(じしゅ)」「鬱鬯(うっちょう)」など奇妙な名前の酒類でした。
当時はすでに、民間でふつうに酒がつくられている状況でした。宮中での飲食に用いるだけでしたら、世に出回っている上等な酒を手に入れればいい。しかし、そうした調達の仕方ではなく、官署において特殊な酒類をたくさん造っていたわけです。そして、そうした酒類の配供を専門とする人たちもいる。これは一体何をする組織なのだろうか……と調べていくうちに、祭祀儀礼の研究に入っていったのでした。
そこから改めて、多くの史料を読み込んでいくことになりました。唐代の礼典として、150巻のうちそのほとんどが現存している『大唐開元礼』(以下『開元礼』)には、当時の祭祀儀礼に関わる諸規定や儀式次第などがまとめられています。こうした史料を読み解きながら博士論文『唐代酒礼の研究』をまとめて、より広く、唐代における祭祀儀礼のあれこれについて考えていくことになったのです。
唐朝の祭祀儀礼は、調べていけばいくほど驚くことばかりでした。都では、ほぼ毎日どこかで、何かしらの祭祀儀礼が執り行われていた。それぞれに設営や準備、終われば片付けも必要であるわけですから、関係部署の役人たちは、ほとんど年がら年中、祭祀のために奔走していたといっても過言ではありません。
『開元礼』をみますと、唐皇帝が執り行うべきとされた祭祀儀礼の種類が、とても多いことがわかります。一般的に、中国王朝の皇帝というと、悠然と玉座にすわって臣下に命令を下しているようなイメージがあるかもしれません。しかし皇帝自らが何日も潔斎し、当日はまだ日ものぼらない早朝から祭祀儀礼に出張らなければならなかったり、ときには何十日もかけて地方に出向いて祭祀を行うようなこともありました。本当に忙しかったことがわかります。
もちろん、いわゆる日常の政務もおこなわなければなりません。ですから予定されている祭祀儀礼のすべてを、皇帝が執り行う(=「皇帝親祭」)ことができるわけではありませんでした。しかし、では祭祀儀礼を取りやめるかといえば、決してそうではありません。皇帝の代理として役人が担当する(=「有司摂事」)ことまでもが決められていたんですね。とにもかくにも、祭祀儀礼を予定通り執り行うことが優先されていたのです。
『開元礼』はあくまで礼典としてまとめられたものであって、年間を通じて多くの祭祀儀礼を滞りなく執り行うための“慣例”については書かれていません。代理を立てるといっても実際には、代理として定められている役職の人間が、必ずしも担当できるわけではないのです。たとえば、タイミング悪くその人の身内に不幸があれば、当日は代理を務められません。
そのとき、“代理の代理”をどう立てるかということが、議論されたりもしています。国家祭祀ですから誰でもいいわけではないので、祭祀挙行をまかせる官の任命には、慣例として一定の原則があったのです。関係部署の役人ではなくとも、動員される場合がありました。
漢代以後、中国の皇帝というものは、天から地上の支配権(天命)を任された人物だと考えられてきました。天命を受けているから、地を支配できる。では天がその皇帝を、不適切だ、皇帝失格である、と判断した場合はどうでしょうか。天災や戦乱が起こり、その王朝は倒れ、天命は他姓の人間にうつっていくわけです。これがいわゆる「革命」思想です。
だからこそ歴代王朝の皇帝と官府は、天の意向をうかがう必要があった。王朝が祭祀儀礼を執り行うということは、彼らがこうした世界観のなかで生きていたということに基づいているのです。
唐の『開元礼』は、中国の歴代王朝の祭祀儀礼制度の決定版ともいえるほど、詳細な規定がまとめられたマニュアルです。『開元礼』以前の各王朝の国家礼典については、散逸して残っていません。あるいは後の宋朝においても礼典は編纂されていますが、残念ながら唐の『開元礼』のようなほぼ完全な状態のものは、現存していません。
インタビュー後編では、調査研究をめぐる近年の動向もあわせてご
九品中正の特権を失った唐代の貴族層は朝廷の官職につくことを重視して長安・洛陽へ移住し、貴族層は王朝権力に密着した官僚貴族となっていった。あらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばし、王朝権力に寄生する存在となった貴族層は唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていった。
九品中正の特権を失った唐代の貴族層は朝廷の官職につくことを重視して長安・洛陽へ移住し、貴族層は王朝権力に密着した官僚貴族となっていった。あらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばし、王朝権力に寄生する存在となった貴族層は唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていった。
隋代に開始された科挙は、唐代に入って大きな発展をとげた。科挙には、詩文の創作を中心とする進士科や、儒教の教義を中心とする明経科などがあったが、唐代では進士科がもっとも重んじられ、高級官僚への登竜門として大変な難関となっていた。
また、土地国有を理念とする均田制のもとでは大土地所有が抑制されたが、官僚身分に対しては官人永業田かんじんえいぎょうでんと呼ばれる土地所有が公認されていた。しかし、九品中正という制度的特権を失った唐代の貴族層にとって、手段をつくして代々朝廷の官職につくことが重視され、そのため官界での活動や社交に有利な長安・洛陽への一族をあげての移住が進み、貴族層はしだいに地方における大土地所有という基盤から分離する傾向が強まっていった。この傾向は、安史の乱による地方の荒廃によっていっそう進行し、貴族層は王朝権力に密着した官僚貴族となっていった。
一方、両税法による土地所有の公認により、地方には、貴族層にかわってあらたに大土地所有を実現した新興地主層が勢力をのばしていった。こうして土地所有という基盤を失って王朝権力に寄生する存在となった貴族層は、唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていったのである。
六朝時代の南朝とされている
「唐朝もこんな感じだったんだろうな?」
と想像をふくらませる
日本と違って、あんまり記録が残ってないから、そうするしかない
魏に残る記録を見て
当時の倭を想像するしかなかったが
数百年で逆転した
具体的なイメージがわかないらしい
そこが日本とは違う
飛鳥時代や奈良時代から継続している日本とは違う
中国ではペルシア人のことは「胡」又は「胡人」と呼び、その胡人達は中国の当時の都の洛陽や長安の居留地に、また港の泉州や楊州にも多数住みつき、ペルシアの習慣や服装、宗教などを保持していた。
特に彼等の信奉していたゾロアスター教はけん(※)教の名で知られ、長安には数々のけん(※)祠が建立された。当時、彼等の胡風一ペルシア・スタイルが中国人社会に喜んで受け入れられたことは唐詩選のよく伝える処である。
※ 「けん」=「示」+「天」
胡楽に使用された琵琶や箜篌(ハープ)などがいずれもペルシアから伝来され、さらに中国化しつつ、我が国に将来されて現在正倉院宝物中に実在することは既に周知の事実である。
また、昭和29年玄海灘の洋上に浮ぶ沖ノ島の古墳時代後期(A.D. 6 ~ 7C)の遺跡から浮出し円形切子装飾を有する瑠璃碗断片が出土した。
幸いにもこの種のガラス器が昭和35年頃ギラーン州からも出土するに至って、この断片もイラン高原から将来されたものであることが立証された。
続いて昭和39年には、二重円形切子装飾瑠璃碗の断片が京都上賀茂から出土、また同種の作品がギラーン州から出土するなど、日本の古墳時代には、既にササン王朝時代の代表的カット・グラスが「絹の道」を通じて我が国に将来されたことがうかがえるのである。
西方との関係は、主としてビザンチン世界に影響を及ぼしたのであり、ラヴェンナのサン・ヴィターレのモザイクを始め諸々の建築・工芸作品の証明する処である。
ともあれオリエント7000年の歴史の変遷を通じて、このササン王朝時代のペルシア文化・芸術ほど東西両洋の文化に多大の影響関係をもたらした時代は他に全く見られない。(元東京大学教授)
(出典:「岡山市立オリエント美術館蔵品図録」より)
かなりの部分が、もっと西から来ている
「五十少進士」(50歳で進士合格は若いほう)という当時のことわざが、その難関ぶりを物語っている。
また高官の子弟には、父祖の官位によって無試験で官位を与えられる制度(門蔭の制もんいんのせい)や、国立大学である国子監こくしかんへの入学特権など、さまざまな優遇処置があった。科挙(進士科)にしても、合格者の多くは貴族層に属する人々であった。
あくまでも、貴族社会
科挙官僚の上には満州人の軍事貴族が
いたが
貴族的な教養が重視されて
武士の世へと変わっていったわけだが
中国では、武士の世に相当するのは
モンゴル人や満州人の軍人階層
その下にいたのが科挙官僚
そこから、北方民族の軍人と、
科挙で選抜された高等文官の世になった
隋唐にも科挙官僚はいたし、
その上に北方タクバツ系の軍人階層があった
唐の前半は、門閥貴族の時代だった
日本でいえば源平藤橘みたいな四大貴族がいた
奈良時代の日本に似ていた
もちろん、日本が隋唐の影響を受けて似たのであって、その逆ではないが(笑)
中央では、官僚の力がだいぶ強くなり
貴族社会から官僚国家への変質が進み始めた
趙郡李氏などは、戦国時代の趙の李牧からの血筋
途方もなく古い歴史を引きずっている
こういう存在が、宋以降はあんまりいなくなった
なくなったわけではないが、目立たない存在になった
長安の貴族は、唐朝とともに滅びたから
なかなか具体的なイメージがわきにくい
イメージがわきにくいってのも
あるだろうけど
それ以上に、千年という歳月の
断絶によるものが大きいな
なかなか具体的なイメージはわきにくい
いまの長安は、明代に建設された都市
さすがに、地理的位置からして天然の要衝だから、永遠に放置されるはずもなかったが
唐代の長安とは断絶している
その後に、モンゴル系やトルコ系が南下してきて、新しい文明を築いた
日本の京都や奈良は連面と続いているのか?
長安や慶州は文明の中心から遠く離れた僻地になってしまったが、京都や奈良はその後も文明の中心であり続けた
なんといっても、そこが大きい
日本だって、廃墟となって放置された飛鳥の都には、痕跡しか残っていない
マラ石とかサル石とか
そんなのしか残っていない
ロンドン・パリ・ミラノ
みんな、二千年前から現代まで文明の中心地であり続けている
ローマは、廃墟になって放置されてから再建された都市
その点では長安に似ている
妻の仕事の関係で、私は中国ではデザイナーや画家、フォトグラファー、雑誌編集者といったアーティスト関係の中国の友人知人が多い。そういった世界の人たちは、ほぼ例外なく日本文化の熱烈なファンである。
その中の1人に画家の男性がいる。中国画を書く人だが、書の評価も高い。十数年前、無名の時代からの付き合いで、当時は絵が売れず、家でよくご飯を食べさせたりしていたが、今では壁に掛けるような小さな作品が日本円で何百万円もする。欧米からも作品を買いたいという画商が引きも切らないという人である。
3年ほど前、彼は初めて日本に行った。京都の祇園界隈で知人と食事をした時、街のたたずまいに衝撃を受ける。彼が長いこと漠然と頭の中に思い描いていた夢の都・長安が、突如として眼前に現われたのである。夜、どうしても眠れず、未明に1人、宿を出て通りをさまよい歩いたという。
「あの光景は忘れられない。世界にこんなところがあるとは思わなかった。誰もいなくて、死ぬほど静かで、簡潔で端正な家並みがぼんやりと光に浮かんでいる。まるで夢を見ているみたいだった」
呆然と立ち尽くしているうちに、涙が出てきたという。
https://wisdom.nec.com/ja/business/2017062001/images/001.jpg
https://wisdom.nec.com/ja/business/2017062001/images/002.jpg
中国人や韓国人が、京都や奈良を見て受ける衝撃
「きっと、長安もこんな感じだったアル」
「たぶん、慶州もこんな感じだったニダ」
それを見ると、こちらは逆に
「なんだ、いまの中国では、
唐の文化はそんなに残ってないのか」
と驚くことになる
大陸は民族移動が激しい
いまの中国にとって、唐は失われた旧文明
中国で売れたことがあったが
そのバンドの「夢回唐朝」という
動画を見ると、砂塵に埋もれた
痕跡のような遺跡でロックバンドが
歌ってた
これが、中国人にとっての唐の
一般的なイメージだ
https://youtu.be/Ba4jXBnkLvo?si=K-Qzp7RtzzJUh5Nj
何百年も放置された後、
明代に再建された都市
20世紀になって、日本の朝鮮総督府が再建し、
朴正熙が再建事業を引き継いだ
唐の仏教寺院で、大慈恩寺ともいう。648年、太宗の時、皇太子(後の高宗)が、生母の冥福を祈って都の長安(現在の西安)に創建した。
後に玄奘がインドから帰国し、この寺に迎えられ、そのもたらした仏典、仏像類を収めるために境内に大雁塔を建造した。
後に寺院は荒廃して、現在は大雁塔のみが残っているが、シルクロードの終着点の文化遺産として世界遺産に登録されている。
塔はレンガと木で汲み上げられ、現在の高さは64.517メートル。西安の観光名所ともなっている。
https://www.y-history.net//gazo/0302/dai-gan-tou.jpg
それが隋唐の特徴
だが、後世の明清のような儒教国家にはなっていなかった
仏教が盛んだった
https://youtu.be/nIrpZ857m1o
地主・科挙合格者・読書人
三拍子そろったエリート官僚
科挙官僚はいたが、官僚国家とまでは言えない
貴族社会だった
士族と言っている
優雅な貴族たちの世界
やがて、その幻想はブチ壊される
なんだ、この変換
日本みたいに、牛車がノロノロ進むというほどノンビリしてないが
室町時代でいえば、応仁の乱に相当する
「第二戦国時代」と呼んでもいいんじゃないか
それらが、天下統一を目指して競いあってたわけではない
とくに清朝は、ほぼ近代国家
中世的な地方分権体制だった
欧州でいえば、神聖ローマ帝国のイメージ
「中国っぽい」文化を思い浮かべるかもしれないけれど、実はかなり国際色豊かな文化だったんだよ。
特にイラン文化の影響を強く受けている。
それも当然。唐の領域は、あとちょっとでイラン高原に到達しそうな勢いだったからね。
首都の長安にはイラン人が多数居住し、イラン人の宗教であるゾロアスター教や、キリスト教の異端であるネストリウス教、それにイランでは禁じられたマニ教という宗教のお寺も、仏教と道教のお寺に交じって建てられた。
それぞれゾロアスター教は祆教(けんきょう)、ネストリウス教は景教(けいきょう)、マニ教は摩尼教(まにきょう)のように呼ばれた。
ただ、彼らの研究していたお経というのは、クマラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳した漢訳のものだった。彼の翻訳はとってもわかりやすく、いくつもの研究グループ(学派)が生まれ、やがて特定のお経に書いてあることが「ブッダの一番言いたかったことなんだ!」と主張するグループ(宗)へと発展。たがいに競い合うようになっていく(教相判釈)。
例えば智顗(ちぎ;ヂーイー)というお坊さんは天台宗の開祖。「法華経」(ほけきょう)を重んじた。天台宗は日本の仏教に大きな影響を与えることになる。あの盲目のお坊さん鑑真(がんじん;ジェンヂェン)もこの天台宗を学んだ人だよ。
ほかにも、戒律を決めようとした律宗(りっしゅう)や、「大切な教えはお経の文字にはない!心で伝えるもんや」(不立文字、以心伝心)とする菩提達磨(ボーディダルマ)による禅宗、さらに阿弥陀仏にすがって極楽行きをひたすら願う浄土教が生まれている。
しかし、研究が進むにつれ中国独特の解釈も増えていき、「原典には何が書かれていたか」が問題となっていった。
玄奘や義浄がインドに向かったのも、それが動機だ。
彼らが持ち帰ったインドのお経は、その後の仏教に大きな影響を与えたよ。玄奘自身は、「唯識」という概念を研究する哲学的な法相宗(ほっそうしゅう)という新しい宗派を開いているね。日本では奈良の薬師寺が有名だ。
孔頴達(くようだつ、574~648)によって、『五経正義』(ごきょうせいぎ)という儒教の"公式解説ガイドブック"も編纂された。
しかし、科挙の試験科目となったのは「五経」の暗記だけではない。
お題をもとに、当意即妙に詩を読むテクニックも重んじられたんだ。教養をベースに、頭の回転とセンスが問われるわけである。
当時たくさんIPPONをとっていた詩人として、”詩の仙人(詩仙)”李白(701~762)や、”詩の神様(詩聖)”杜甫(とほ、712~770)がいる。
白居易(はくきょい、772~846)の『長恨歌』は、運命に翻弄された皇帝の玄宗と楊貴妃との間の悲しいラブストーリーをうたったもの。ファンの多い一品だ。
どれも、8世紀と16世紀では、文明の中心地がまるきり移転してしまった
朝鮮半島では、慶州からソウルへ
江戸が台頭するのは17世紀から始まったことで、
日本文明の中心地になるのは18世紀
いや、20世紀かもしれん
19世紀の前半はすでに江戸が圧倒的だったかも
京都から中心地がずっと動かなかったのが、なんといっても大きい
明代に再建されたが、文明は断絶した
新羅王国の都・慶州もそうで、廃墟になって何百年も放置されてしまった
古いものを大事にしないというよりは、北からきた連中に征服され、文明の中心地を移されてしまった
日本人は、京都や奈良を見慣れているが
あんな感じで、中国や朝鮮にも古い文化が残っていると思ったら幻想に終わる
> 京都から中心地がずっと動かなかったのが、なんといっても大きい
思いつきでデタラメを書くなよ
北京は大元ウルスの頃からずっと中華世界の首都だぞ
日本が追い抜いた
11世紀には日本が追い抜いた
日本は二千年前から連続している
逆だ
唐など、痕跡を残すのみ
幻の古代文明だ
憧れる
そんな中国人もいる
王沈『魏書』檀石槐の西部大人推寅=『後魏書』献帝
魏の書物に皇族を比定する日本と北魏はそっくりさんだね。