物流の歴史最終更新 2024/10/18 22:441.世界@名無史さん元日本通運株式会社の従業員でした。三井物産グローバルロジスティクス株式会社に入社したいです。出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/15441480142018/12/07 11:00:1445コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.ウムウル3YQRXブラたもで埼玉県行田市やってるが古代は利根川と荒川の水運の中心地として栄えたらしい2023/07/15 19:44:443.ウムウルXOgHX向こうはエラーでた406 ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/07/19(金) 23:37:23.97 0意外と江戸の物流の要衝関宿は説明でないんすねぇここには変遷は載ってますが具体的な物流が記載されておりません>>403第22回里川文化塾 関宿で学ぶ、江戸時代の舟運と産業http://www.mizu.gr.jp/bunkajuku/houkoku/022_20151107_sekiyado.htmlhttp://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu01.gifhttp://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu02.gifhttp://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu03.gifhttp://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu04.gifhttp://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu05.gif2023/07/15 23:44:014.ウムウルXOgHXスイカは海関係なかったが信濃の海てきなやつなんじゃろか>>3http://akisantsukue.sakura.ne.jp/Jinja100nen/A-010.htm2023/07/15 23:45:585.ウムウルq2mgp関宿もスイカ井道も利根川変遷の影響を大きく受けたんだろうな、、、2023/08/06 21:35:486.ウムウルBtH5Ahttp://katsunansanpo.fuma-kotaro.com/page005.html 500年前の江戸川の流れ 葛南雑記 行徳・南行徳・浦安昔の江戸川はこうだったかもしれない。関東における中世の水上交通について 利根川が常陸川水系と接続されて本格的な関東の水運が始まったのは承応3年1654年といわれてきました。このホームページも、1600年時点では関宿から常陸川へは水路は繋がっていないという前提で進めてきました。ところが明治から大正にかけて活躍された歴史学者の吉田東伍氏は論文「利根川の変遷と修治」 のなかで、古利根川の派川である逆川が関宿に通じ、さらに関宿からいくつかの湖沼(縄文時代の香取海の名残)をつなげて常陸川に流れていたと、論説しています。下記参照。2023/10/01 09:58:317.ウムウルBtH5A>>6さりながら利根川筋から常陸川への水脈は、近世徳川家康江戸入部以前に於きましては早く細い水脈が有って常陸川へ通船ができます。~中略~天正年中(1573~1593年)の文書で、関宿の旧家に伝へしものに、葛西から庄内川(古の太井川)を登り、栗橋城下まで通船した証がある。是は関宿の江川から今の五箇村島を横断して栗橋城下へ達するもので、江川の渡瀬筋を、当時は栗橋川とも呼ばれて居ます。而して一方は関宿から佐倉までも通船がある。即、関宿で以て逆川の交通路を設けて、葛西から佐倉までの水路が明白に認められる。又、栗橋の南には島川(八甫川ともいひ、利根の支流で、渡瀬の庄内筋へ落ちる者)があり、八甫の通船、権現堂の河岸の事は、慶長以前の者に見えるから、此の島川を通過すれば、更に上利根から常陸川への通船ができた筈です。天正二十年(1592年)の家忠日記に、上利根の埼玉郡新郷より船で下り、矢作、金江津、上代を経て小見川へ到りしと云う事を見れば、是れは合川で渡瀬へ移り、逆川(関宿)で常陸川へ移りました形跡が明白です。関宿は、天造地設水脈の通閉自在の枢機である。水脈の四通八達の要衝である。従ひて兵家の申す必争先制の地である。 吉田東伍著「日本歴史地理之研究」から2023/10/01 09:58:558.ウムウルBtH5Aブラタモは関宿まだやってないっぽいな>>2ここはコピペできないので最低でしたhttps://www.zakzak.co.jp/smp/society/domestic/news/20161120/dms1611201000005-s1.htm天正2年(1574)北条が獲得天正14年(1590)小田原合戦後に家康が獲得とすると16年ぐらいかとりあえず前のサイト読もう、、、2023/10/01 10:14:549.ウムウルAPROv>>8天正2年(1574)北条が獲得天正18年(1590)小田原合戦後に家康が獲得の間違いか、、、他にも気になるところがある2023/10/02 20:27:4210.ウムウルGmW8y>>2ふーむ、忍城はそうでもないな水城公園が離れてるけどあの辺りまでが堀なんだろうなぁ2023/10/02 23:47:1411.ウムウルmjSsC>>5さて、幾つか整理しておきたいこと・関宿に関して引合いに出される北条氏の記述の5W1H>>7>>9・常陸川と利根川の水系を接続したのは誰か・香取海とはなんだったのかふーむ、なんだか盛り上がっておいらがまいりました、、、2023/10/06 04:04:0712.ウムウル0TjRq本家は荒らされてるのかと思ってたけど、どっかバグでもありそうなレベルだなw2023/10/09 23:56:4713.名無しさんykCxZコロナ禍を経て、ほぼ中国一強だった市場に変化過度な依存のリスクが明るみに… “脱中国”が着々と進む海運業界https://courrier.jp/news/archives/353454/2024/02/18 20:01:0614.名無しさんInST8◆国際海上コンテナの鉄道輸送 2001.11作成 2003.4.19更新 2014.12.31更新開始 2015.2.8公開 2015.2.15訂補http://butsuryu.web.fc2.com/kai-con2.html2024/02/23 16:59:5115.名無しさんA7VOlインドのグレート ヘッジ(またはインディアン ソルト ヘッジ[1] )を組み込んだ内陸関税線は、インドの植民地支配者である英国によって、多額の塩税を回避するために沿岸地域からの塩の密輸を防ぐために建設された関税障壁でした。2024/04/14 17:30:1016.名無しさんZhRefhttps://gigazine.net/news/20240414-india-electric-rickshaw/2024年04月14日 23時30分乗り物インドでは四輪のEVではなく三輪の「電動リキシャ」が業界を席巻しシェア1位はまさかの日本企業テスラモーターズっぽい2024/04/18 01:59:0317.名無しさんpfYfwタイマは最近ときどき現れるこれ見たかったなhttps://bijutsutecho.com/magazine/insight/promotion/11019白井 交易で重要な「物流センター」になったのがタールート島です。石製容器も目玉ですが、これらはイランなどでつくられ、タールート島経由でメソポタミアに輸出されていた。象眼による文様表現やヤシの絵があるものなど、様々な文化が交わっていたことがわかります。歴史の断片から、まさに文明の道が見えてきます。文字表現の広がり――展示では、香料の交易で栄えた都市の出土品にも光が当てられています(第3章)。半島北西部のタイマーが重要とのことですが、どんな背景があるのですか?徳永 タイマーはメソポタミアとエジプトをつなぐ都市で、半島の南から来る人々の経由地でもありました。掌握すれば莫大な利益を手にできるため、多くの権力者が支配しようとしたのです。そんな折、前6世紀にメソポタミア南部の新バビロニアの王様がタイマーに遷都してきて、同地で10年間を過ごします。結果、展示している祭壇のようなメソポタミアとエジプトの影響が混在した文化が生まれました。2024/04/28 08:43:2218.名無しさんpfYfw>>17ナボニドゥス編集神殿跡にアーチ型で星型のシンボルの前に立った王の像があり、その図像と楔形文字刻文の断片(名前は残っていない)はバビロニア王ナボニドゥスであることを示す。いわゆる「ハラン碑文」によると、バビロニア王ナボニドゥスは統治3年目(紀元前553年)に政府をタイマーに移した。ナボニドゥスは戦役によってこの地の支配を確立し、ヤスリブ(今のマディーナ)とダダンも征服した。ナボニドゥスの詩も大軍とともにタイマーに出征したという。しかしこの詩の他の部分はプロパガンダ的な性質を持ち、このために史実性が疑われる結果になっている。ナボニドゥスの年代記では王が統治7-11年めにタイマーにいたことを確認できる。ただし最初の6年間についてはテクストが欠落している。ナボニドゥスが今のサウジアラビア北部に興味を示したのは香料貿易の支配などの経済的な理由があったと推測されている。タイマーでは紀元前6世紀以降の楔形文字碑文が発見されている。紀元前500年ごろ以降のアラム語の碑文が出土している。タイマー南西部の丘であるアル・ムシャムラカにはリフヤーン文字の磨崖碑文があり[4]、「NBND / MLK / BBL」という文が記されていて、「バビロニア王ナボニドゥス」と解釈されている[5]。タイマーがアケメネス朝の領地に組みこまれたことがあったかどうかは明らかでない。2024/04/28 09:00:2419.名無しさんziAbSCST-100 スターライナースターライナーはアトラス V、ヴァルカン、とファルコン9を含む様々なロケットに適合するよう設計されるが、当面はアトラスVでの打上げを予定している起動プロファイルアトラスV N22 (フェアリングなし、2 つの SRB、2 つの Centaur エンジン) がスターライナーを発売します。最大 q 、SRB の投棄、ブースターの分離、ケンタウルスの点火、ノーズコーン、エアロスカートの投棄の段階を経て、高さ 181 km (112 マイル) での打ち上げからほぼ 15 分後の分離段階で最終的にスターライナー宇宙船を放出します。準軌道軌道、地球の周りの安定した軌道に入るのに必要な軌道速度のすぐ下。デュアル エンジン ケンタウルスから分離した後、サービス モジュールに取り付けられたスターライナー独自のスラスターが宇宙船を軌道上に押し上げ、国際宇宙ステーションへの旅を続けます。準軌道軌道は衛星の打ち上げとしては異例ですが、スペースシャトルや宇宙発射システムで使用される技術に似ています。これにより、ロケットの上段が制御された方法で大気圏に再突入することが保証されます。スターライナーの軌道投入燃焼はミッション開始から約 31 分で始まり、45 秒続きます。[50]N22 構成は Starliner に固有です。他のすべてのアトラス V ペイロードにはフェアリングが必要ですが、スターライナーは「打ち上げ中止」を実行できなければならないためフェアリングを使用できません。さらに、他のすべての Atlas V ペイロードは Centaur 上段の単発エンジン バージョンを使用していますが、Starliner は打ち上げの後期段階で失敗した場合により柔軟な中止オプションを提供するために 2 発エンジン バージョンを使用しています。これらの変更により乗組員の安全性が向上します。スターライナーはアトラス V の唯一の有人ペイロードです。2024/05/03 10:27:2820.名無しさんJf3El岡山県警「こんにちは、オービスです。速いと光っちゃいます」取り締まり風景の異色投稿に賛否https://talk.jp/boards/newsplus/17148160852024/05/04 19:43:1421.名無しさんeRcm1ガス欠になるのか、、、 ラピダスの物流に落とし穴 ガスが青函トンネル通れない24/05/04 15:12https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/e07113d134c03b3119de5bceb5aade4e2024/05/05 21:57:3722.名無しさんMJ9KJ日本への航路渤海使は北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され主に秋から冬にかけて日本に来航した。多くは晩秋から冬期に多かった。上陸地渤海使は日本海側の山陰から北陸、東北にかけて、多くの津に上陸した。前半は東北から西南の広い範囲に着岸したが、次第に西南の範囲になった。それは航海術の発達によるものと思われる。前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。帰国航路直接日本海を横断するのではなく、対馬海流に乗って東北地方の沿岸を北東に進み、北海道、サハリンで西に梶をとってリマン海流に乗り、沿海州の沿岸を南下したものと思われる。2024/05/10 03:05:1423.名無しさんwVEDDシベリア鉄道の輸送力が限界を迎えていたそうな2024/05/14 21:24:2124.名無しさんrYaz7https://en.m.wikipedia.org/wiki/Periplus_of_the_Erythraean_Seaペリプラスには多くの交易品について言及されているが、交易品の名前に使われている単語の中には古代文献の他のどこにも見当たらない単語もあり、それが何なのか推測するしかない。例えば、交易品の一つに「lakkos chromatinos」がある。lakkosという名前は古代ギリシャやローマの文献の他のどこにも見当たらない。この名前は中世後期ラテン語でlaccaとして再び登場するが、これは中世アラビア語のlakkから借用したもので、lakkはサンスクリット語のlakhから借用したもので、lacはインド原産の赤色の樹脂で、ラッカーとして使用され、赤色の着色料としても使用される。[8]他の交易品の名前は不明のままである。2024/06/07 03:35:3825.名無しさんanl1aゆるい巨大な岩絵は古代の「道路標識」だった!?https://nazology.net/archives/151547オリノコ川は、南アメリカ北部のベネズエラの大部分とコロンビア東部を流域とする巨大な川であり、全長2000km以上、流域面積94km2以上です。その水量は世界で三番目に多いと言われています。このオリノコ川が人々から注目されているのは、その大きさだけではありません。この川の周辺には、謎に包まれた古代の岩絵が複数点在しているのです。これらの所在は、地元の住民に口伝で伝えられてきただけですが、西暦18世紀には、オリノコ川を渡っていた探検家が、岩山の頂上にヘビの岩絵が存在すると報告しました。2024/06/09 01:48:1726.名無しさんyZuZIhttps://news.yahoo.co.jp/articles/0bf15a9b8e66c4d508be3bef9037db7537b0ee01需給バランスの脆さが露呈 輸出大国である中国は、貨物を詰めて海外に送り出すコンテナの数が、海外から入ってくる数よりもはるかに多い。そんな中、物流業界は大量の空きコンテナを海外から中国に回送すると同時に、中国で新たに製造したコンテナも調達することで、需給バランスを維持している。 だが、需給バランス調整の手段が限られているため、何らかのきっかけで不均衡が生じると、修正するのは容易ではない。今回のコンテナ不足に関しては、発端は2023年10月に始まった「ガザ危機」だった。 中東情勢の緊迫により、中国とヨーロッパを結ぶコンテナ船のほとんどが(スエズ運河経由から)喜望峰回りへの航路変更を余儀なくされ、輸送にかかる日数が伸びた。その影響で、コンテナ船に積まれて“海上を漂う”コンテナが増加したタイミングに、中国の輸出回復が重なり、空きコンテナがにわかに足りなくなったのだ2024/06/19 06:48:2327.名無しさんBpF14これなかなかおもしろいです内航海運が活躍してましたhttps://diamond.jp/articles/-/346798「航空機が飛べない…」なぜ日本だけで燃料不足?背景にある石油業界の深刻問題とは小嶌正稔: 桃山学院大学経営学部教授、東北大博士(経済学)経営・戦略 ガソリンの三重苦2024年7月10日 7:002024/07/11 03:30:2428.名無しさんcq3dy物流ニュース死亡シーンに多用されるトラックの悲哀 「メディアはバランスをとってほしい」https://weekly-net.co.jp/news/174582/2024年7月4日「映画やドラマに漫画・アニメ。登場人物が交通事故に遭って亡くなるシーンで使われている車は、必ずと言っていいほどトラックだ」ーー。2024/07/18 20:31:3829.名無しさんKReQL大気の水蒸気輸送のお話緯度方向の寄与は思ってたより少ない他は誰が輸送してるんだろう?大気の川は地球上の水循環に大きな影響を及ぼしている。緯度方向での水蒸気輸送量では10%以下であるが、経度方向での水蒸気輸送量の90%を大気の川が担っている[3]。また、地球上で発生する水蒸気の拡散の内、22%が大気の川によるものであるとされている[16]。2024/07/21 12:03:4530.名無しさんV0Ksiモーダルシフトできないhttps://wedge.ismedia.jp/articles/-/34026?page=32024/08/10 06:09:5531.名無しさん1nxRuアメリカとカナダで別けてるそうhttps://www.dam-net.jp/dam_content/topix/02_topix_list/2011/t201102.html2024/08/10 22:55:1032.名無しさんKgOgjここ最近で最も興味をひく話題ヤプーNEWSは消えるのでコピペしておくhttps://news.yahoo.co.jp/articles/602232a4e7f138a2ec37cac0b896558f994894bb2024/08/18 14:08:3733.名無しさんKgOgj>>32科学誌ネイチャーに発表された論文によると、重さ6トンの「祭壇石」の産地は、ストーンヘンジから見てグレートブリテン島の反対側に位置する現在のスコットランド北東部だったと思われる。1世紀以上の間、祭壇石の産地はグレートブリテン島の南西部に位置するウェールズだと思われていた。しかしここ数年の研究で、この説に対する疑問が浮上。祭壇石の真の産地をめぐる疑問は未解決のままになっていた――。今回の研究が発表されるまでは。ストーンヘンジはウィルトシャー州にある新石器時代の石碑で、巨大な石が環状に配置されている。建設が始まったのはおよそ5000年前とされ、その後2000年の間に何度か変更されたり構造に手が加えられたりしたと考えらえている。「祭壇石はその大きさや重さ、石の種類、巨石群の中の配置などにおいて特異な存在でありながら、ほとんど何も分かっていなかった。この場所にいつ到来したのか、立てられたことがあるのか、それともずっと横たわったままだったのかも分からず、結果として目的もほとんど分かっていない」。ネイチャーに論文を発表したアベリストウィス大学地理地球科学部のリチャード・ベビンズは本誌にそう語った。2024/08/18 14:09:1834.名無しさんKgOgj>>32スコットランド北東部産の岩石か祭壇石がいつ到来したのかは不明だが、紀元前2620年から2480年ごろの第2次建設期に、ストーンヘンジの中心に置かれた可能性がある。ストーンヘンジに関するこれまでの研究で、巨石群の建造には主に、いわゆるサルセン石とブルーストーンという2種類の岩石が使われたことが分かっている。サルセン石のほとんどは、24キロほど離れた現在のウィルトシャー州マールボロに近いウェストウッズ産と思われる。一方、小さい方のブルーストーンの産地は、ほとんどがウェールズ西部だったことが分かっている。祭壇石は砂岩で、従来はブルーストーンと同じ種類に分類されていた。「祭壇石の産地がウェールズ西部だったという説は1世紀以上前にさかのぼる。1923年に地質学者のH・H・トーマスが、ブルーストーンは全て国内の限られた地域から来たと信じてウェールズ西部説を提唱した」とベビンズは説明する。最新の研究では祭壇石の断片の標本に含まれる鉱物の年代と成分を分析した。祭壇石の大きさは長さが約4.9メートル、幅約0.9メートル、厚さ約0.5メートル。分析の結果、鉱物の年代や成分は、スコットランド北東部産の岩石と統計的に区別がつかないことが分かった。ウェールズの岩石とは明らかに異なっていた。2024/08/18 14:09:4935.名無しさんKgOgj>>32海上ルートが使われた可能性どうやって運んだのか分析で判明した化学的特徴は、祭壇石の産地がストーンヘンジから600キロ以上離れたスコットランド北東部のオルカディアン盆地だったことを裏付けていた。「カーティン大学の研究所で実施した年代測定で、スコットランド北東部のオルカディアン盆地にある旧赤色砂岩と祭壇石は地質学的特徴が酷似していることが分かった。我々はこの相関関係を強く確信している」(ベビンズ)今回の発見に伴い、新たに興味深く重要な疑問も浮上した。なぜ、そしてどうやって、新石器時代の限られた技術で巨大な祭壇石を何百キロも離れたスコットランド北部からストーンヘンジまで運んだのか。新石器時代には長距離輸送網が存在していて、これまで考えられていたよりも高度な社会組織があり、予想以上に高度な輸送手段が利用できたと研究チームは推測している。森林に覆われていた当時のイギリスの地形を考えると陸路での輸送は著しく困難だったと思われ、海上ルートが使われた可能性が大きい。2024/08/18 14:10:5036.名無しさんKgOgj>>32ストーンヘンジに詳しいアイルランドのゴールウェイ大学の地質学者ジェイク・シボロウスキー(今回の研究にはかかわっていない)は、ネイチャー誌に掲載された祭壇石の産地に関する結論について、「質の高い」データによる「確固たる裏付け」があると本誌に語った。シボロウスキーは「この研究で祭壇石の産地が特定されたと考える。ストーンヘンジそのものにおいてその意味は非常に大きい」と評価する。一方で、祭壇石がスコットランド北東部の岩場から切り出され、船でストーンヘンジの場所まで運ばれたという説についてはそれほど確信が持てないといい、「それを直接的に裏付ける考古学的証拠がない。採石場も特定されていない。ただし見つかる可能性がないわけではない」とした。「氷河期のスコットランドは厚い氷河に覆われていて、地表の岩石の多くは氷によって動き回っていた。今回の論文の著者はその可能性は低いとしているが、祭壇石が氷によって南へと運ばれ、残りを人が運んだ可能性もある。ただしそれも憶測にすぎない」とシボロウスキーは話している。2024/08/18 14:11:5537.名無しさんSj7dPかなりアグレッシブ黄河改道2024/08/23 19:31:3838.名無しさん8INey9世紀、初代フランドル伯のボードゥアン1世によって建てられた城塞が街の起源とされる。3代アルヌルフ1世の時代に、聖ドナティアン教会や聖サルヴァトール教会が建てられ、城塞も強化された。12世紀に大津波が、海から10km以上も離れたブルッヘを襲った。その時に残された大きな溝に運河を作り、フランドル伯フィリップ・ダルザスのもとでズウィン湾とブルッヘを結ぶ水路が整備され、町中に水路を張り巡らせ、船での交易に便利な港町を作った。ブルッヘは北海に出る玄関口として格好な場所となった。イギリスや北欧と内陸を結ぶ交易は、13世紀になるとハンザ同盟の在外商館がおかれたほか、1277年にジェノヴァ商人が大西洋沿岸を経由してズウィン湾にまで訪れるようになり、金融・貿易の一大拠点として繁栄した。裕福になった市民は、自分たちの成功の象徴として、町の真ん中に高い塔である鐘楼を建てた。教会が社会を支配していた時代、時を告げる鐘楼は、教会や王の権威や権力が強いところでは市民が建てることはできなかったが、ブルッヘの市民は自分たちで市場の開始の時刻を告げる鐘楼を建てることで、その自立を表した。それは資本主義社会の最初の拠点であるとされる。14世紀はフランス王の支配が過酷で、また王がフランドルを併合しようとしたことで、フランス・フランドル戦争(英語版)が起きたが、ブルッヘでもブリュージュの朝(英語版)と呼ばれる市民の反乱が起こり金拍車の戦いが戦われた。15世紀以降、運河やズウィン湾に土砂が堆積して大型船舶の航行に支障を来たすようになり、運河港としても経済の中心地としてもその重要性を失って、衰退していった。しかし、19世紀に運河が再生され、美しい水の都として再び人々を魅了するようになり、中世の面影を残した町並みが現在まで残されることとなった。同世紀末には写真が挿入された小説『死都ブリュージュ』で脚光を浴びた。2024/09/01 08:44:1839.名無しさん6uVuS消えた1万キロの鉄道網「もう一つの“国鉄”」とは? 日本が失った“縄文時代からの営み”ヤフーNEWSはすぐ消える2024/09/01 17:43:5840.名無しさんkRXWf孝謙天皇がよいです。2024/09/11 12:46:5141.名無しさんmWMsYJR貨物、貨物列車の組み立てで不正 該当全車を運用停止に文● @sumire_konhttps://ascii.jp/elem/000/004/221/4221030/申告を受け、同社はほかの車両所についても調査を実施。結果として、前述の広島を含め、輪西(北海道)、川崎(神奈川)の計3ヵ所で類似の不正行為が判明したとしている。2024/09/13 20:32:4342.名無しさんUjy87技術的特徴初期の ESPA リングは、15,000 ポンド (6,800 kg) の主ペイロードと最大 6 個の 400 ポンド (180 kg) の副ペイロードをサポートするように設計されました。各副ペイロードは、直径 15 インチ (380 mm) のポートに放射状に取り付けられ、24 インチ (610 mm) × 28 インチ (710 mm) × 38 インチ (970 mm) の容積が割り当てられています。これにより、ESPA クラスペイロードという通称が生まれました。設計には、取り付けられたペイロード用の標準的な電気インターフェイスが含まれていますが、ミッション固有の要件により、各副ペイロードが 1 つ以上の非冗長ペイロード分離信号を受信できない場合があります。[ 2 ] [更新が必要]ESPAグランデのポートは直径24インチ(610 mm)で、700ポンド(320 kg)のペイロードをサポートできます。[ 3 ] [ 8 ]ムーグのESPAグランデは最大1,543ポンド(700kg)の積載量をサポートします。2024/09/20 20:25:4943.名無しさんT96dzランパプ【韓国】「日本の鶏は韓国から伝わった」断言https://talk.jp/boards/newsplus/17278349882024/10/03 04:27:1344.名無しさんT96dz>>35ちなみにオークニー諸島は巨石遺産の聖地ネス・オブ・ブロッガーを挟んで対岸と正対して遺跡がある一見して特別な場所であると感じられる位地にあるここの石と共通なのかは不明2024/10/03 04:36:4145.名無しさんumWEU総寝です、そうねです2024/10/18 22:44:18
三井物産グローバルロジスティクス株式会社に入社したいです。
古代は利根川と荒川の
水運の中心地として栄えたらしい
406 ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/07/19(金) 23:37:23.97 0
意外と江戸の物流の要衝
関宿は説明でないんすねぇ
ここには変遷は載ってますが
具体的な物流が記載されておりません
>>403
第22回里川文化塾 関宿で学ぶ、江戸時代の舟運と産業
http://www.mizu.gr.jp/bunkajuku/houkoku/022_20151107_sekiyado.html
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu01.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu02.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu03.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu04.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu05.gif
信濃の海てきなやつなんじゃろか
>>3
http://akisantsukue.sakura.ne.jp/Jinja100nen/A-010.htm
利根川変遷の影響を大きく受けたんだろうな、、、
500年前の江戸川の流れ
葛南雑記 行徳・南行徳・浦安
昔の江戸川はこうだったかもしれない。
関東における中世の水上交通について
利根川が常陸川水系と接続されて本格的な関東の水運が始まったのは承応3年1654年といわれてきました。
このホームページも、1600年時点では関宿から常陸川へは水路は繋がっていないという前提で進めてきまし
た。ところが明治から大正にかけて活躍された歴史学者の吉田東伍氏は論文「利根川の変遷と修治」 のなか
で、古利根川の派川である逆川が関宿に通じ、さらに関宿からいくつかの湖沼(縄文時代の香取海の名残)を
つなげて常陸川に流れていたと、論説しています。下記参照。
さりながら利根川筋から常陸川への水脈は、近世徳川家康江戸入部以前に於きましては早く細い水脈が有って常陸川へ通船ができます。~中略~天正年中(1573~1593年)の文書で、関宿の旧家に伝へしものに、葛西から庄内川(古の太井川)を登り、栗橋城下まで通船した証がある。是は関宿の江川から今の五箇村島を横断して栗橋城下へ達するもので、江川の渡瀬筋を、当時は栗橋川とも呼ばれて居ます。而して一方は関宿から佐倉までも通船がある。即、関宿で以て逆川の交通路を設けて、葛西から佐倉までの水路が明白に認められる。又、栗橋の南には島川(八甫川ともいひ、利根の支流で、渡瀬の庄内筋へ落ちる者)があり、八甫の通船、権現堂の河岸の事は、慶長以前の者に見えるから、此の島川を通過すれば、更に上利根から常陸川への通船ができた筈です。天正二十年(1592年)の家忠日記に、上利根の埼玉郡新郷より船で下り、矢作、金江津、上代を経て小見川へ到りしと云う事を見れば、是れは合川で渡瀬へ移り、逆川(関宿)で常陸川へ移りました形跡が明白です。関宿は、天造地設水脈の通閉自在の枢機である。水脈の四通八達の要衝である。従ひて兵家の申す必争先制の地である。
吉田東伍著「日本歴史地理之研究」から
>>2
ここはコピペできないので最低でした
https://www.zakzak.co.jp/smp/society/domestic/news/20161120/dms1611201000005-s1.htm
天正2年(1574)北条が獲得
天正14年(1590)小田原合戦後に家康が獲得
とすると16年ぐらいか
とりあえず前のサイト読もう、、、
天正2年(1574)北条が獲得
天正18年(1590)小田原合戦後に家康が獲得
の間違いか、、、
他にも気になるところがある
ふーむ、忍城はそうでもないな
水城公園が離れてるけど
あの辺りまでが堀なんだろうなぁ
さて、幾つか整理しておきたいこと
・関宿に関して引合いに出される北条氏の記述の5W1H
>>7>>9
・常陸川と利根川の水系を接続したのは誰か
・香取海とはなんだったのか
ふーむ、なんだか盛り上がっておいらがまいりました、、、
どっかバグでもありそうなレベルだなw
過度な依存のリスクが明るみに… “脱中国”が着々と進む海運業界
https://courrier.jp/news/archives/353454/
http://butsuryu.web.fc2.com/kai-con2.html
(またはインディアン ソルト ヘッジ[1] )
を組み込んだ内陸関税線は、インドの植民地支配者である英国によって、多額の塩税を回避するために沿岸地域からの塩の密輸を防ぐために建設された関税障壁でした。
2024年04月14日 23時30分乗り物
インドでは四輪のEVではなく三輪の「電動リキシャ」が業界を席巻しシェア1位はまさかの日本企業
テスラモーターズっぽい
これ見たかったな
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/promotion/11019
白井 交易で重要な「物流センター」になったのがタールート島です。石製容器も目玉ですが、これらはイランなどでつくられ、タールート島経由でメソポタミアに輸出されていた。象眼による文様表現やヤシの絵があるものなど、様々な文化が交わっていたことがわかります。歴史の断片から、まさに文明の道が見えてきます。
文字表現の広がり
――展示では、香料の交易で栄えた都市の出土品にも光が当てられています(第3章)。半島北西部のタイマーが重要とのことですが、どんな背景があるのですか?
徳永 タイマーはメソポタミアとエジプトをつなぐ都市で、半島の南から来る人々の経由地でもありました。掌握すれば莫大な利益を手にできるため、多くの権力者が支配しようとしたのです。そんな折、前6世紀にメソポタミア南部の新バビロニアの王様がタイマーに遷都してきて、同地で10年間を過ごします。結果、展示している祭壇のようなメソポタミアとエジプトの影響が混在した文化が生まれました。
ナボニドゥス
編集
神殿跡にアーチ型で星型のシンボルの前に立った王の像があり、その図像と楔形文字刻文の断片(名前は残っていない)はバビロニア王ナボニドゥスであることを示す。
いわゆる「ハラン碑文」によると、バビロニア王ナボニドゥスは統治3年目(紀元前553年)に政府をタイマーに移した。ナボニドゥスは戦役によってこの地の支配を確立し、ヤスリブ(今のマディーナ)とダダンも征服した。ナボニドゥスの詩も大軍とともにタイマーに出征したという。しかしこの詩の他の部分はプロパガンダ的な性質を持ち、このために史実性が疑われる結果になっている。ナボニドゥスの年代記では王が統治7-11年めにタイマーにいたことを確認できる。ただし最初の6年間についてはテクストが欠落している。ナボニドゥスが今のサウジアラビア北部に興味を示したのは香料貿易の支配などの経済的な理由があったと推測されている。
タイマーでは紀元前6世紀以降の楔形文字碑文が発見されている。紀元前500年ごろ以降のアラム語の碑文が出土している。タイマー南西部の丘であるアル・ムシャムラカにはリフヤーン文字の磨崖碑文があり[4]、「NBND / MLK / BBL」という文が記されていて、「バビロニア王ナボニドゥス」と解釈されている[5]。
タイマーがアケメネス朝の領地に組みこまれたことがあったかどうかは明らかでない。
スターライナーはアトラス V、ヴァルカン、とファルコン9を含む様々なロケットに適合するよう設計されるが、当面はアトラスVでの打上げを予定している
起動プロファイル
アトラスV N22 (フェアリングなし、2 つの SRB、2 つの Centaur エンジン) がスターライナーを発売します。最大 q 、SRB の投棄、ブースターの分離、ケンタウルスの点火、ノーズコーン、エアロスカートの投棄の段階を経て、高さ 181 km (112 マイル) での打ち上げからほぼ 15 分後の分離段階で最終的にスターライナー宇宙船を放出します。準軌道軌道、地球の周りの安定した軌道に入るのに必要な軌道速度のすぐ下。デュアル エンジン ケンタウルスから分離した後、サービス モジュールに取り付けられたスターライナー独自のスラスターが宇宙船を軌道上に押し上げ、国際宇宙ステーションへの旅を続けます。
準軌道軌道は衛星の打ち上げとしては異例ですが、スペースシャトルや宇宙発射システムで使用される技術に似ています。これにより、ロケットの上段が制御された方法で大気圏に再突入することが保証されます。スターライナーの軌道投入燃焼はミッション開始から約 31 分で始まり、45 秒続きます。[50]
N22 構成は Starliner に固有です。他のすべてのアトラス V ペイロードにはフェアリングが必要ですが、スターライナーは「打ち上げ中止」を実行できなければならないためフェアリングを使用できません。さらに、他のすべての Atlas V ペイロードは Centaur 上段の単発エンジン バージョンを使用していますが、Starliner は打ち上げの後期段階で失敗した場合により柔軟な中止オプションを提供するために 2 発エンジン バージョンを使用しています。これらの変更により乗組員の安全性が向上します。スターライナーはアトラス V の唯一の有人ペイロードです。
https://talk.jp/boards/newsplus/1714816085
ラピダスの物流に落とし穴 ガスが青函トンネル通れない
24/05/04 15:12
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/e07113d134c03b3119de5bceb5aade4e
渤海使は北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され主に秋から冬にかけて日本に来航した。多くは晩秋から冬期に多かった。
上陸地
渤海使は日本海側の山陰から北陸、東北にかけて、多くの津に上陸した。前半は東北から西南の広い範囲に着岸したが、次第に西南の範囲になった。それは航海術の発達によるものと思われる。前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。
帰国航路
直接日本海を横断するのではなく、対馬海流に乗って東北地方の沿岸を北東に進み、北海道、サハリンで西に梶をとってリマン海流に乗り、沿海州の沿岸を南下したものと思われる。
ペリプラスには多くの交易品について言及されているが、交易品の名前に使われている単語の中には古代文献の他のどこにも見当たらない単語もあり、それが何なのか推測するしかない。例えば、交易品の一つに「lakkos chromatinos」がある。lakkosという名前は古代ギリシャやローマの文献の他のどこにも見当たらない。この名前は中世後期ラテン語でlaccaとして再び登場するが、これは中世アラビア語のlakkから借用したもので、lakkはサンスクリット語のlakhから借用したもので、lacはインド原産の赤色の樹脂で、ラッカーとして使用され、赤色の着色料としても使用される。[8]他の交易品の名前は不明のままである。
https://nazology.net/archives/151547
オリノコ川は、南アメリカ北部のベネズエラの大部分とコロンビア東部を流域とする巨大な川であり、全長2000km以上、流域面積94km2以上です。
その水量は世界で三番目に多いと言われています。
このオリノコ川が人々から注目されているのは、その大きさだけではありません。
この川の周辺には、謎に包まれた古代の岩絵が複数点在しているのです。
これらの所在は、地元の住民に口伝で伝えられてきただけですが、西暦18世紀には、オリノコ川を渡っていた探検家が、岩山の頂上にヘビの岩絵が存在すると報告しました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0bf15a9b8e66c4d508be3bef9037db7537b0ee01
需給バランスの脆さが露呈
輸出大国である中国は、貨物を詰めて海外に送り出すコンテナの数が、海外から入ってくる数よりもはるかに多い。そんな中、物流業界は大量の空きコンテナを海外から中国に回送すると同時に、中国で新たに製造したコンテナも調達することで、需給バランスを維持している。
だが、需給バランス調整の手段が限られているため、何らかのきっかけで不均衡が生じると、修正するのは容易ではない。今回のコンテナ不足に関しては、発端は2023年10月に始まった「ガザ危機」だった。
中東情勢の緊迫により、中国とヨーロッパを結ぶコンテナ船のほとんどが(スエズ運河経由から)喜望峰回りへの航路変更を余儀なくされ、輸送にかかる日数が伸びた。その影響で、コンテナ船に積まれて“海上を漂う”コンテナが増加したタイミングに、中国の輸出回復が重なり、空きコンテナがにわかに足りなくなったのだ
内航海運が活躍してました
https://diamond.jp/articles/-/346798
「航空機が飛べない…」なぜ日本だけで燃料不足?背景にある石油業界の深刻問題とは
小嶌正稔: 桃山学院大学経営学部教授、東北大博士(経済学)
経営・戦略 ガソリンの三重苦
2024年7月10日 7:00
死亡シーンに多用されるトラックの悲哀 「メディアはバランスをとってほしい」
https://weekly-net.co.jp/news/174582/
2024年7月4日
「映画やドラマに漫画・アニメ。登場人物が交通事故に遭って亡くなるシーンで使われている車は、必ずと言っていいほどトラックだ」ーー。
緯度方向の寄与は思ってたより少ない
他は誰が輸送してるんだろう?
大気の川は地球上の水循環に大きな影響を及ぼしている。
緯度方向での水蒸気輸送量では10%以下であるが、経度方向での水蒸気輸送量の90%を大気の川が担っている[3]。
また、地球上で発生する水蒸気の拡散の内、22%が大気の川によるものであるとされている[16]。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/34026?page=3
https://www.dam-net.jp/dam_content/topix/02_topix_list/2011/t201102.html
ヤプーNEWSは消えるのでコピペしておく
https://news.yahoo.co.jp/articles/602232a4e7f138a2ec37cac0b896558f994894bb
科学誌ネイチャーに発表された論文によると、重さ6トンの「祭壇石」の産地は、ストーンヘンジから見てグレートブリテン島の反対側に位置する現在のスコットランド北東部だったと思われる。
1世紀以上の間、祭壇石の産地はグレートブリテン島の南西部に位置するウェールズだと思われていた。しかしここ数年の研究で、この説に対する疑問が浮上。祭壇石の真の産地をめぐる疑問は未解決のままになっていた――。今回の研究が発表されるまでは。
ストーンヘンジはウィルトシャー州にある新石器時代の石碑で、巨大な石が環状に配置されている。建設が始まったのはおよそ5000年前とされ、その後2000年の間に何度か変更されたり構造に手が加えられたりしたと考えらえている。
「祭壇石はその大きさや重さ、石の種類、巨石群の中の配置などにおいて特異な存在でありながら、ほとんど何も分かっていなかった。この場所にいつ到来したのか、立てられたことがあるのか、それともずっと横たわったままだったのかも分からず、結果として目的もほとんど分かっていない」。ネイチャーに論文を発表したアベリストウィス大学地理地球科学部のリチャード・ベビンズは本誌にそう語った。
スコットランド北東部産の岩石か
祭壇石がいつ到来したのかは不明だが、紀元前2620年から2480年ごろの第2次建設期に、ストーンヘンジの中心に置かれた可能性がある。
ストーンヘンジに関するこれまでの研究で、巨石群の建造には主に、いわゆるサルセン石とブルーストーンという2種類の岩石が使われたことが分かっている。サルセン石のほとんどは、24キロほど離れた現在のウィルトシャー州マールボロに近いウェストウッズ産と思われる。一方、小さい方のブルーストーンの産地は、ほとんどがウェールズ西部だったことが分かっている。
祭壇石は砂岩で、従来はブルーストーンと同じ種類に分類されていた。
「祭壇石の産地がウェールズ西部だったという説は1世紀以上前にさかのぼる。1923年に地質学者のH・H・トーマスが、ブルーストーンは全て国内の限られた地域から来たと信じてウェールズ西部説を提唱した」とベビンズは説明する。
最新の研究では祭壇石の断片の標本に含まれる鉱物の年代と成分を分析した。祭壇石の大きさは長さが約4.9メートル、幅約0.9メートル、厚さ約0.5メートル。
分析の結果、鉱物の年代や成分は、スコットランド北東部産の岩石と統計的に区別がつかないことが分かった。ウェールズの岩石とは明らかに異なっていた。
海上ルートが使われた可能性
どうやって運んだのか
分析で判明した化学的特徴は、祭壇石の産地がストーンヘンジから600キロ以上離れたスコットランド北東部のオルカディアン盆地だったことを裏付けていた。
「カーティン大学の研究所で実施した年代測定で、スコットランド北東部のオルカディアン盆地にある旧赤色砂岩と祭壇石は地質学的特徴が酷似していることが分かった。我々はこの相関関係を強く確信している」(ベビンズ)
今回の発見に伴い、新たに興味深く重要な疑問も浮上した。なぜ、そしてどうやって、新石器時代の限られた技術で巨大な祭壇石を何百キロも離れたスコットランド北部からストーンヘンジまで運んだのか。
新石器時代には長距離輸送網が存在していて、これまで考えられていたよりも高度な社会組織があり、予想以上に高度な輸送手段が利用できたと研究チームは推測している。森林に覆われていた当時のイギリスの地形を考えると陸路での輸送は著しく困難だったと思われ、海上ルートが使われた可能性が大きい。
ストーンヘンジに詳しいアイルランドのゴールウェイ大学の地質学者ジェイク・シボロウスキー(今回の研究にはかかわっていない)は、ネイチャー誌に掲載された祭壇石の産地に関する結論について、「質の高い」データによる「確固たる裏付け」があると本誌に語った。
シボロウスキーは「この研究で祭壇石の産地が特定されたと考える。ストーンヘンジそのものにおいてその意味は非常に大きい」と評価する。
一方で、祭壇石がスコットランド北東部の岩場から切り出され、船でストーンヘンジの場所まで運ばれたという説についてはそれほど確信が持てないといい、「それを直接的に裏付ける考古学的証拠がない。採石場も特定されていない。ただし見つかる可能性がないわけではない」とした。
「氷河期のスコットランドは厚い氷河に覆われていて、地表の岩石の多くは氷によって動き回っていた。今回の論文の著者はその可能性は低いとしているが、祭壇石が氷によって南へと運ばれ、残りを人が運んだ可能性もある。ただしそれも憶測にすぎない」とシボロウスキーは話している。
黄河改道
12世紀に大津波が、海から10km以上も離れたブルッヘを襲った。その時に残された大きな溝に運河を作り、フランドル伯フィリップ・ダルザスのもとでズウィン湾とブルッヘを結ぶ水路が整備され、町中に水路を張り巡らせ、船での交易に便利な港町を作った。ブルッヘは北海に出る玄関口として格好な場所となった。
イギリスや北欧と内陸を結ぶ交易は、13世紀になるとハンザ同盟の在外商館がおかれたほか、1277年にジェノヴァ商人が大西洋沿岸を経由してズウィン湾にまで訪れるようになり、金融・貿易の一大拠点として繁栄した。裕福になった市民は、自分たちの成功の象徴として、町の真ん中に高い塔である鐘楼を建てた。教会が社会を支配していた時代、時を告げる鐘楼は、教会や王の権威や権力が強いところでは市民が建てることはできなかったが、ブルッヘの市民は自分たちで市場の開始の時刻を告げる鐘楼を建てることで、その自立を表した。それは資本主義社会の最初の拠点であるとされる。
14世紀はフランス王の支配が過酷で、また王がフランドルを併合しようとしたことで、フランス・フランドル戦争(英語版)が起きたが、ブルッヘでもブリュージュの朝(英語版)と呼ばれる市民の反乱が起こり金拍車の戦いが戦われた。
15世紀以降、運河やズウィン湾に土砂が堆積して大型船舶の航行に支障を来たすようになり、運河港としても経済の中心地としてもその重要性を失って、衰退していった。しかし、19世紀に運河が再生され、美しい水の都として再び人々を魅了するようになり、中世の面影を残した町並みが現在まで残されることとなった。同世紀末には写真が挿入された小説『死都ブリュージュ』で脚光を浴びた。
ヤフーNEWSはすぐ消える
JR貨物、貨物列車の組み立てで不正 該当全車を運用停止に
文● @sumire_kon
https://ascii.jp/elem/000/004/221/4221030/
申告を受け、同社はほかの車両所についても調査を実施。結果として、前述の広島を含め、輪西(北海道)、川崎(神奈川)の計3ヵ所で類似の不正行為が判明したとしている。
初期の ESPA リングは、15,000 ポンド (6,800 kg) の主ペイロードと最大 6 個の 400 ポンド (180 kg) の副ペイロードをサポートするように設計されました。各副ペイロードは、直径 15 インチ (380 mm) のポートに放射状に取り付けられ、24 インチ (610 mm) × 28 インチ (710 mm) × 38 インチ (970 mm) の容積が割り当てられています。
これにより、ESPA クラスペイロードという通称が生まれました。
設計には、取り付けられたペイロード用の標準的な電気インターフェイスが含まれていますが、ミッション固有の要件により、各副ペイロードが 1 つ以上の非冗長ペイロード分離信号を受信できない場合があります。[ 2 ] [更新が必要]
ESPAグランデのポートは直径24インチ(610 mm)で、700ポンド(320 kg)のペイロードをサポートできます。[ 3 ] [ 8 ]
ムーグのESPAグランデは最大1,543ポンド(700kg)の積載量をサポートします。
【韓国】「日本の鶏は韓国から伝わった」断言
https://talk.jp/boards/newsplus/1727834988
ちなみにオークニー諸島は
巨石遺産の聖地
ネス・オブ・ブロッガーを挟んで
対岸と正対して遺跡がある
一見して特別な場所であると感じられる位地にある
ここの石と共通なのかは不明