『仏道』一切法空に座し柔和忍辱を心得て大慈悲心を起こすべし最終更新 2026/10/05 18:531.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏門名:法介創価学会、日蓮正宗を経て現在はどこの団体にも宗派にも属する事無く、一人の仏法者として日蓮仏法を日々実践しております。2026/10/05 17:49:4279コメント欄へ移動すべて|最新の50件30.法介◆T3azX0Hk1UvboCl人は外界の物事を五感を駆使して認識します。そのことを仏法では五蘊とか五陰という言葉であらわしています。この五蘊で外界を認識することで立ち上がっている世界を五陰世間といいます。人は自身の五蘊(五陰ともいう)の働きによって自身を中心(視点)とした世界が立ち上がって現実の世界を認識していきます。また、人はそれぞれに異なった感性を持ち合わせていますので五蘊の働きも人それぞれで、それぞれに異なった世界がたちあがっています。健常者が認識する世界と眼が不自由な人が認識する世界とでは全く違った世界が立ち上がっていることを考えれば解り易いかと思います。2026/10/05 18:11:0331.法介◆T3azX0Hk1UvboClこのように感性の違い(五蘊の働きの違い)から同じ空間であっても人はそれぞれ異なる自分だけの世界を立ち上げて、それを世界として認識しています。その事を境涯(生命の状態)もふまえて説き顕されたのが一念三千の法門の中の三世間の一つ、五陰世間になります。五陰世間は間性の違い、境涯の違いといった個々人の性質の違いが大きく関わると同時に、心の状態にも大きく関わってきます。その心の働きを詳しく説き顕した法門が十如是です。先に紹介しました御書の「千如は総て空の義なれば空諦の一なり」に当てはまる部分です。2026/10/05 18:11:4332.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-2 色・受・想・行・識(五蘊)2026/10/05 18:12:5933.法介◆T3azX0Hk1UvboClお釈迦様は一仏乗の法華経があまりにも複雑で高度な教えな為、解り易いように三つにひも解いて説き明かしていきます。いわゆる三乗の教えです。蔵教で仮諦を説き、通教で空諦を、別教で中諦が説かれます。法華経は一念三千の法門を説きあかした経文ですが、その一念三千の法門を像法時代に天台が初めて理論的に説き明かします(理の一念三千)。一念三千の法門は法華経以前において明かされてきた三乗の教え、即ち仮諦・空諦・中諦の三諦がすべからく法華経に集約することが「開三顕一」として法華経迹門の三周の説法として明確に示されています。2026/10/05 18:13:5234.法介◆T3azX0Hk1UvboCl蔵教・通教・別教において個別に説かれてきた空・仮・中の三諦が法華経迹門において円融することがあかされ、それを解り易くひも解いて解説したのが天台の理の一念三千です。2026/10/05 18:14:1335.法介◆T3azX0Hk1UvboCl天台が一念三千の法門を解説する際に用いる華厳経に説かれる「心は工(たくみ)なる画師の如く種種の五陰を造る」の文は、大聖人様も『一念三千理事』や『三世諸仏総勘文教相廃立』等の御書の中で引用されています。自身の心が造りだす世界が五陰世間で、その世界は自身の心の状態が変わればまた違った別の世界にも見えてきます。自身の心の状態(境涯)次第でどのようにも変化する世界が五陰世間であり「空」の意味するところです。2026/10/05 18:14:4536.法介◆T3azX0Hk1UvboCl五陰とは、「色・受・想・行・識」のことで人間が外の世界を認識する働きを示したもので、色(しき)は、色相を意味し受(じゅ)はそれを感じ取る感覚いわゆる五感を意味します。人は外界のありさま(色相)を自身の肉体に具わる感覚器官である五感をもって感じ取り、感じ取った情報を脳の中の記憶と照らし合わせて行動に転じます。この記憶と照らし合わせる作業を想像の「想」をもってあわらし、行動に転じてその一連の結果が認識として統合され記憶に蓄えられていきます。2026/10/05 18:15:1337.法介◆T3azX0Hk1UvboCl職場で苦手な上司がいるとします。なぜ苦手なのかと言えば、過去にその上司との間で嫌な経験があったからです。ですからその上司の顔(色相)を見る(受)と過去の嫌な記憶がよみがえって(想)、避けるように身を隠します(行)。その一連の行動が自身の記憶の中に識として蓄えられていきます。認識出来る意識層が第六識の表層意識ですが、本人の意識が及ばない深層意識にトラウマとなって潜在的に深く刻まれる記憶もあります。2026/10/05 18:15:4038.法介◆T3azX0Hk1UvboCl六識や表層意識、深層意識という言葉は天親菩薩(世親)が大成した唯識思想の中で用いられる言葉ですが、天親は御書『波木井三郎殿御返事』の中で「正法一千年には竜樹・天親等・仏の御使と為って法を弘む」(P.1372)とあるように竜樹と並ぶ正法時代の仏法の正統な継承者で仏の滅後に衆生のよりどころとなった四依の大菩薩の一人です。複雑な一念三千の法門を竜樹が「空」を専門に、天親が「唯識」を専門に扱いひも解いていきます。2026/10/05 18:17:0839.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「心は工(たくみ)なる画師の如く種種の五陰を造る」の経文に示されるように「色・受・想・行・識」といった自身の五陰の働きによって我々は自身を取り巻く世界を立ち上げています。そしてその立ち上がった世界に存在する姿、仏法では色相と言いますがその姿もまた、自身の心次第でいかようにも変化します。我々が認識している世界は自身の心が勝手に造りだしている幻影のようなもので、変化することなくそのまま存在し続けるものは一つとして無いのです。2026/10/05 18:17:4240.法介◆T3azX0Hk1UvboClですから「無我」であり「無自性」であって一時的に仮に認識している姿に過ぎません。2026/10/05 18:18:1841.法介◆T3azX0Hk1UvboClその一時的に仮に佇む姿、「仮」について更に詳しく掘り下げてお話してまいります。2026/10/05 18:18:2942.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-3 仮諦2026/10/05 18:19:3243.法介◆T3azX0Hk1UvboClまず、「仮」といいましても「仮観」と「仮諦」があるのですが、先に紹介しました池田氏の三諦論のようにこの二つを混同してしまっている仏法者が沢山います。「仮諦」がなんたるか、また一念三千が何たるかが正しく理解出来ていないとこのような誤った解釈をしてしまいます。2026/10/05 18:19:5844.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「仮」は、仮に佇む姿を指して「仮」といいます。では「仮観」はと言いますと、これは天台宗で説かれる修行法「一心三観」の仮観のことを指します。一心三観は一心に三を観じる観法で、ここでいう三は仮観・空観・中観をいいます。2026/10/05 18:22:2645.法介◆T3azX0Hk1UvboCl人が物事を認識するさい、客観認識と主観とに別けられます。客観認識は誰が見ても、誰が行ってものように万人に共通する立場で物事を捉えることをいいます。それに対して主観は万人とは無関係に自身が個人的に感じとる自分一個の意見をいいます。2026/10/05 18:22:4446.法介◆T3azX0Hk1UvboCl化学や医学は客観認識がベースとなって成り立っています。誰がリンゴを落としても地面に落下するから「引力の法則」が成り立つ訳で、人はみな声帯を使ってしゃべるから医学が成り立ちます。1と1を足したら二つになるから数学が成り立ちます。すべて客観性に基づいて展開されたのが医学であり化学であり数学です。2026/10/05 18:23:0647.法介◆T3azX0Hk1UvboClでは文学はといいますと主観の世界のように思うかもしれませんが、文を読んで感じ取るその感じ方は主観ですが読み取る文は客観によって表現されたものです。2026/10/05 18:23:2248.法介◆T3azX0Hk1UvboCl国語辞典に「楽しい」という言葉はこういう事をいうのだと定義づけがなされているから共通認識言として成り立っているのです。また主観で感じた事を言葉に転換しなければ人には伝えられません。言葉という共通認識言に転換した時点ですでに主観は客観に変わっています。2026/10/05 18:23:3449.法介◆T3azX0Hk1UvboClあなたが食べたリンゴの「美味しい」と、私が食べたリンゴの「美味しい」とでは同じリンゴの「美味しい」であっても個々人の感性の違い(五陰の違い)が生じますので全く同じ「美味しい」ではありません。個々人が感じ取る主観は定義ずけられた言葉に転じた時点で既に客観に変わっています。2026/10/05 18:23:4950.法介◆T3azX0Hk1UvboClこのように我々人間が生活の中で用いる言葉も含めて文学や数学、医学や科学や哲学といったものは全て客観をベースに発展されてきたものです。2026/10/05 18:24:0351.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行います。どうして客観から離れるのかというと、客観認識の中にこそ人々を苦しめる苦の原因が潜んでいるからです。そこのところはまた別の機会に詳しくお話するとしまして、要は人の人生は客観ではなく主観そのものであるという点でお話を続けさせて頂きます。2026/10/05 18:24:3152.法介◆T3azX0Hk1UvboCl一人の人間が「おぎゃー!」と生まれて、年老いて死んでいくまでに、何をどのように感じながら生きていくかという、まさに主観の中の出来事がその人の人生です。2026/10/05 18:24:4353.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏法はその主観を軸として成り立っています。客観性をベースにした医学や化学、哲学などとは全く立ち位置が異なります。海の生き物と陸の生き物とでは、呼吸の仕方も進み方も全く異なるように、主観を説いた仏法と客観を説いた医学や化学や哲学とでは、捉え方が全く違うということです。2026/10/05 18:25:0254.法介◆T3azX0Hk1UvboClそれを仏法を医学や化学や哲学と同じ次元で語っているのが創価学会です。水がお湯になったり氷になったり、はたまた水蒸気となって姿が見えなくなったりとかいう池田会長の三諦論は化学のお話です。化学の話しをあたかも仏法であるかのように話しているのです。2026/10/05 18:25:1555.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏法はモノのありかたを説いた教えではありません。モノの方ではなく、モノをモノと認識する人の心を説いているのが仏法です。モノの有無のような心の外の事を説く教えを仏法では外道と言います。2026/10/05 18:25:3556.法介◆T3azX0Hk1UvboClお釈迦様は「モノの有る無し」といった二辺から離れた中道(縁起)を説きます。2026/10/05 18:25:5157.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「モノの有る無し」で説く科学や医学、哲学も文学も政治学もあらゆる学問・学術すべてが客観性をベースとして展開されています。そういった「モノの有る無し」から離れて仏法では〝縁起〟を真理として説きます。縁起を真理とする仏法を〝真諦〟と言いい、それに対して世間一般における真理を〝俗諦〟と言います。2026/10/05 18:26:1058.法介◆T3azX0Hk1UvboCl池田氏の三諦論のように〝真諦〟と〝俗諦〟を同じ次元でごちゃ混ぜにして語ることは、高い教えと低い教えをごちゃ混ぜにしてしまい仏法を汚す行為として日蓮大聖人は推尊入卑の謗法として開目抄の中で厳しく戒められています。(開目抄上 P.189)2026/10/05 18:26:4259.法介◆T3azX0Hk1UvboCl我々は外の世界の情報を主観で感じ取り、それを客観認識の言葉に転換して意思の疎通を行います。主観で感じ取るさいに眼や耳や鼻や口や肌といった五感を駆使して様々な情報を察知して実体を捉え、客観的な認識として医学や科学、哲学といった学識として自身の意識層に蓄えられていきます。2026/10/05 18:27:0860.法介◆T3azX0Hk1UvboClこの「色・受・想・行・識」といった第1~第6意識までの表層意識の働きによって形成される世界を衆生世間と言います。2026/10/05 18:27:2561.法介◆T3azX0Hk1UvboCl我々衆生は、自身の五蘊の働きによって実在の世界を主観と客観とで認識している訳ですが、仏法では更に仮観という認識を用います。それが縁起です。2026/10/05 18:27:4662.法介◆T3azX0Hk1UvboCl縁起によって仮に佇む姿が実在であって、縁が変わればその姿もまた変わって顕れます。ですから実在ではなく仮在と見るのが「仮観」です。2026/10/05 18:28:0463.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「仮観」は凡夫の所作(認識法)です。それに対し「仮諦」は仏の悟りです。「仮諦」の「諦」という字は「あきらかにする」とか「真実」といった意味を含んだ言葉で、「仮諦」とは仏の悟りを意味します。仮観と仮諦は混同してしまいがちなので、この違いについてもう少し詳しくお話しさせて頂きます。2026/10/05 18:28:1864.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仮観という観法は、五感の働きを沈めて自身の意識を表層意識から深層意識へと移行させます。表層意識とは九識論で言うところの六識までの我々が意識として認識出来る識層のことで、五陰世間のところでお話しました「色・受・想・行・識」、いわゆる五蘊が働く場所です。眼・耳・鼻・口・肌の五識で外界の情報を感じとって六識で「意識」として統合されて我々が日常認識している実在の世界が立ち上がります。2026/10/05 18:28:3265.法介◆T3azX0Hk1UvboCl立ち上がった世界は実は実在すると思い込んでいるだけで、実際は人それぞれに見え方あり方は異なっており、また自身の心の状態の変化によっても認識するその姿は変わってきます。世の中には常に変わらず存在し続ける物は何一つ存在しえません。ですから「無我」であり「無自性」なのです。ただ「縁」によってさまざまな姿をあらわす「縁起の法門」があるだけで、それが仏が悟られた「仮」の真実、「仮諦」です。仮諦が詳しく説かれたのは時代で言えば正法時代、教えで言えば蔵教です。2026/10/05 18:29:0466.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-4 蔵教2026/10/05 18:48:2967.法介◆T3azX0Hk1UvboCl蔵教は天台が釈迦一代の説法をその教えの内容から振り分けた蔵教・通教・別教・円教の四教の中の仏法の初歩の教えにあたります。2026/10/05 18:48:5768.法介◆T3azX0Hk1UvboCl四教はそれぞれの境涯に即した形でそれぞれの法が説かれており、蔵教は声聞の為に、通教は縁覚の為に、別教は菩薩の為に、そして円教は末法の衆生の為に法が説かれています。2026/10/05 18:49:1069.法介◆T3azX0Hk1UvboCl蔵教が説かれた釈迦在世の正法時代は、外道思想が強くはびこっていた時代でもあります。外道とは書いて字の如く、外にあらわれた認識出来る範囲でしか物事を捉えようとしない実体思想のことですが、創価学会や日蓮正宗では三世を説いていないキリスト教のことを、「内道」の仏法に対して「外道」と定義づけしています。2026/10/05 18:49:2970.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「外道」とはキリスト教のような今世しか説いていない教えのみを指していう言葉ではありません。仏法の中にも外道は存在します。日蓮大聖人は「外道」について『一代聖教大意』(P.403)の中で、「外道に三人あり、一には仏法外の外道 九十五種の外道、 二には学仏法成の外道 小乗、 三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり」と外道に三種あることを示されています。2026/10/05 18:50:0971.法介◆T3azX0Hk1UvboCl一の仏法外の外道は創価学会や日蓮正宗でいうところの内道を説かない外道で分かり易いのですが、二の「学仏法成の外道」と三の「附仏法の外道」が解り難いので『十法界事』(P.418)の中で大聖人は詳しく述べられています。2026/10/05 18:50:4172.法介◆T3azX0Hk1UvboCl御抄を拝読すれば、「学仏法成の外道」とは仏法を学んで尚外道から抜けきらない小乗教の析空に陥った仏法修行者のことであることが十分にご理解頂けるかと思います。釈迦は外道の教えを破る為に「無我」を説いたのですが、小乗の声聞の弟子達は「無我」の教えに執着するあまり、かえって迷いを生じて、煩悩が出てくる源である身体と心とをともに滅するという色心俱滅の見解に陥ります。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。2026/10/05 18:51:0673.法介◆T3azX0Hk1UvboCl身も心も無に帰して消滅してしまうという灰身滅智は、無我を誤って解釈した「析空」にあたります。析空に対して空を正しく理解した竜樹が通教において展開した空理(空の理論)を「体空」といいます。2026/10/05 18:51:1974.法介◆T3azX0Hk1UvboCl無我を悟りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる仏法者を「小乗の外道」と言うのだと大聖人は『一代聖教大意』の中で御指南あそばされていますが、仏法の因果や縁起の法門を医学や化学、哲学といった客観認識(実体思想)で語っている創価学会の仏法がまさにそれにあたります。2026/10/05 18:51:4675.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「析空」と「体空」の違いは、蔵教と通教の違いでもあり境涯でいえば声聞と縁覚の悟りの深さの違いでもあります。声聞という境涯は未だ実体思想から完全に抜けきれづにいる仏法修行者なので空を客観認識(実体思想)で理解してしまうのです。2026/10/05 18:52:0076.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「析空」はウィキペディアを見ると、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とあります。2026/10/05 18:52:1777.法介◆T3azX0Hk1UvboClつまり机を例にとってみると、その脚を外してしまえば単なる板と棒になってしまい何も減じていないのに、机そのものの存在は無くなります。池田会長の水と水蒸気の関係と同じ理論です。机は仮の姿であって「仮」であるがばらしてしまえば板と棒であって机の姿は無くなって「空」となる。このような空の解釈を「析空」と言います。説一切有部に代表されるこの析空は、主観にあたる我は空だが、認識として働く法(五蘊)は三世に渡って実在するとみます。その説一切有部の空理を般若心経で説かれる「色即是空」をひも解いて、法(五蘊)も空じる対象であることを示したのが竜樹です。2026/10/05 18:52:3978.法介◆T3azX0Hk1UvboCl先の机の話でいえば、机をばらして天板と脚にすると確かに机の姿はなくなります。しかし「体空」の見方は五蘊を空じるわけですから「見る」のではなく眼をとじて「観る」という観法に入るのです。五蘊を空じて表層意識による認識を止めて、深層意識で観じ取っていきます。何を観じとっていくかは、人それぞれでしょう。ある人にはその机を一生懸命製作している職人の姿が観えてきたり、またある人にはその机を使って一生懸命勉学に打ち込む学生の姿が観えてきたり。2026/10/05 18:53:1279.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「析空」が存在を縁起のかたまりと捉えて種々の構成要素に分析して「空」を悟るのに対して、「体空」は、「見る」認識から「観る」観法へと自身の物事の捉え方を変えることで悟る「空」なのです。・析空=モノの有り様を捉えた空・体空=人の認識の有り様を捉えた空2026/10/05 18:53:59
創価学会、日蓮正宗を経て現在はどこの団体にも宗派にも属する事無く、一人の仏法者として日蓮仏法を日々実践しております。
五陰世間は間性の違い、境涯の違いといった個々人の性質の違いが大きく関わると同時に、心の状態にも大きく関わってきます。その心の働きを詳しく説き顕した法門が十如是です。先に紹介しました御書の「千如は総て空の義なれば空諦の一なり」に当てはまる部分です。
蔵教で仮諦を説き、通教で空諦を、別教で中諦が説かれます。法華経は一念三千の法門を説きあかした経文ですが、その一念三千の法門を像法時代に天台が初めて理論的に説き明かします(理の一念三千)。一念三千の法門は法華経以前において明かされてきた三乗の教え、即ち仮諦・空諦・中諦の三諦がすべからく法華経に集約することが「開三顕一」として法華経迹門の三周の説法として明確に示されています。
自身の心が造りだす世界が五陰世間で、その世界は自身の心の状態が変わればまた違った別の世界にも見えてきます。自身の心の状態(境涯)次第でどのようにも変化する世界が五陰世間であり「空」の意味するところです。
人は外界のありさま(色相)を自身の肉体に具わる感覚器官である五感をもって感じ取り、感じ取った情報を脳の中の記憶と照らし合わせて行動に転じます。この記憶と照らし合わせる作業を想像の「想」をもってあわらし、行動に転じてその一連の結果が認識として統合され記憶に蓄えられていきます。
その一連の行動が自身の記憶の中に識として蓄えられていきます。認識出来る意識層が第六識の表層意識ですが、本人の意識が及ばない深層意識にトラウマとなって潜在的に深く刻まれる記憶もあります。
眼・耳・鼻・口・肌の五識で外界の情報を感じとって六識で「意識」として統合されて我々が日常認識している実在の世界が立ち上がります。
「外道に三人あり、一には仏法外の外道 九十五種の外道、 二には学仏法成の外道 小乗、 三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり」
と外道に三種あることを示されています。
釈迦は外道の教えを破る為に「無我」を説いたのですが、小乗の声聞の弟子達は「無我」の教えに執着するあまり、かえって迷いを生じて、煩悩が出てくる源である身体と心とをともに滅するという色心俱滅の見解に陥ります。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。
机は仮の姿であって「仮」であるがばらしてしまえば板と棒であって机の姿は無くなって「空」となる。このような空の解釈を「析空」と言います。
説一切有部に代表されるこの析空は、主観にあたる我は空だが、認識として働く法(五蘊)は三世に渡って実在するとみます。
その説一切有部の空理を般若心経で説かれる「色即是空」をひも解いて、法(五蘊)も空じる対象であることを示したのが竜樹です。
五蘊を空じて表層意識による認識を止めて、深層意識で観じ取っていきます。何を観じとっていくかは、人それぞれでしょう。ある人にはその机を一生懸命製作している職人の姿が観えてきたり、またある人にはその机を使って一生懸命勉学に打ち込む学生の姿が観えてきたり。
・析空=モノの有り様を捉えた空
・体空=人の認識の有り様を捉えた空