『仏道』一切法空に座し柔和忍辱を心得て大慈悲心を起こすべし最終更新 2026/10/05 19:031.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏門名:法介創価学会、日蓮正宗を経て現在はどこの団体にも宗派にも属する事無く、一人の仏法者として日蓮仏法を日々実践しております。2026/10/05 17:49:42104コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.法介◆T3azX0Hk1UvboCl第一章 法華経『迹門 – 開三顕一』2026/10/05 17:50:343.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「諸佛世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したもう」2026/10/05 17:51:174.法介◆T3azX0Hk1UvboCl『法華経方便品第二』に示されるこの言葉は、仏はただ一つの大事をなす為だけにこの世に現れるという意味です。これを「一大事の因縁」といいます。2026/10/05 17:51:565.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「一大事」とは仏自らが悟った「智慧」を衆生にも〝開かせ〟〝示し〟〝悟らせ〟そしてその境地に〝入らせる〟ことで、これを開示悟入の「四仏知見」といいます。2026/10/05 17:53:086.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「一大事」について日蓮大聖人は、『御義口伝巻上』の中で(御書P.717)、 「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」と仰せになり、空・仮・中の三諦が円融することが南無妙法蓮華経であると御指南あそばされております。2026/10/05 17:54:167.法介◆T3azX0Hk1UvboClではその「円融の三諦」とはどういうことなのかを詳しくお話していきます。2026/10/05 17:55:048.法介◆T3azX0Hk1UvboClまず一念三千の法門と空・仮・中の三諦の関係についてですが、『一念三千法門』の中で日蓮大聖人は、次のように仰せです(P.413)。「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり 千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり」2026/10/05 17:55:569.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 一念三千の法門は、仮諦で捉えた一念三千と、空諦に転じた一念三千と、中諦に即した一念三千によって成り立ちます。創価学会や日蓮正宗では「一念三千の法門」を説明する際、必ず用いるのが「十界論」です。十界論は過去世の行いによってもたらされる現実社会の十界の差別の色相を説いたもので、上の御文の「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり」にあたります。2026/10/05 17:57:0210.法介◆T3azX0Hk1UvboCl日蓮正宗の教学では「開会」の意味を誤って解釈してしまっている為、学会員さんや日蓮正宗の法華講員さん達は、法華経以前に説かれた「空」および「無我・無自性」についての知識が大きく欠落しています。2026/10/05 17:57:2511.法介◆T3azX0Hk1UvboCl法華経以前の教えは全て法華経に集約されているので学ぶ必要はないと教えられているからです。2026/10/05 17:58:2812.法介◆T3azX0Hk1UvboClですから爾前経の中で説かれる「空理」や、それに関わる「無我・無自性」といった大事な教学の理解が出来ていません。その結果、日蓮正宗や創価学会の教学では仮諦で捉えた一念三千の解釈にとどまってしまい、その先にある空諦、中諦の悟りにまで至っておりません。2026/10/05 17:59:0213.法介◆T3azX0Hk1UvboCl法華経迹門の中で示される「開会」は、三乗に開いて説いた教えを一仏乗に顕す「開三顕一」のことで、2026/10/05 17:59:4014.法介◆T3azX0Hk1UvboCl三乗の教えとは、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗のそれぞれの境涯に即して説かれた三種の教えを指し、「乗」は乗り物の意で,衆生を迷いの世界から,悟りへと運ぶことを意味します。2026/10/05 17:59:5715.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「顕一」とは仏界を顕すと言う事で、簡単に言えば、「三乗を説いて仏の道へと導く」と言う事です。2026/10/05 18:00:1016.法介◆T3azX0Hk1UvboCl釈迦は、『法華経』の方便品の中で十如是を説いて、ほぼ要略して「開三顕一」を説きます。これを「略開三顕一」と言うのですが、これに対して方便品第二の後半から授学無学人記品第九にわたって法理や譬喩、因縁を通して広く三乗を開いて「開三顕一」が説かれます。これを「広開三顕一」と言います。2026/10/05 18:00:5217.法介◆T3azX0Hk1UvboCl・法説周・譬説周・因縁説周の三周の説法によって明かされた「広開三顕一」は、上根の舎利弗が法説周によって未来成仏の記別を受け、その後の、譬説周・因縁説周によって中根・下根の二乗の成仏が説き明かされます。2026/10/05 18:01:2418.法介◆T3azX0Hk1UvboCl法華経の前半部にあたる迹門は、このように「開三顕一」の説法が中心となって二乗作仏が説かれています。舎利弗をはじめとする声聞の弟子達は三周の説法を聞いて、今まで実践してきた声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の修行が全て一仏乗に集約されることを悟って成仏していきます。2026/10/05 18:01:5019.法介◆T3azX0Hk1UvboCl日蓮正宗では、この「開三顕一」を便品第二の「正直捨方便」の一節にもとづいて、方便として説かれた三乗の教えは捨てるべき教えであると解釈しています。ですから爾前経の中で説かれる空理や、それに関わる無我・無自性といった教学を学ぶ必要の無いものと捉えています。空・仮・中を説く三諦論は「空」を学んではじめて理解できる法論で、「空」を知らない学会員さんや法華講員さん達が空・仮・中の三諦を正しく語れるはずもありません。2026/10/05 18:02:3820.法介◆T3azX0Hk1UvboCl実際に創価学会第二代会長の戸田会長の「三諦論」をみてみましょう。2026/10/05 18:02:5221.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 『戸田城聖全集 第二巻 質問会編』より「空仮中の三諦」 空仮中の三諦などというと、ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相がどういうものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」というのがあるのです。これは、天台大師の師匠である南岳大師が考えだした哲理なのです。 このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはいかないでしょう。もう十年もたって、私がもし生きて六十七歳にもなったら「先生、ずいぶん変わりましたね」ということになるでしょう。 しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまのように美男子でないのと、どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。ですから仮の実体というのです。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。 空諦とは、あるといえばある、ないといえばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。私の生命も空諦です。おまえはおじいさんの時があるといえば、それはいまはないでしょう。 たしかにおじいさんではない、私は青年です。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえば、なかったのではない、あったのです。そうなると生命は空であります。それであって戸田城聖は中道法相(ちゅうどうほっそう)、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦であります。(「ブログで読める戸田城聖全集 第二巻 質問会編 (創価学会)SGI」H.P.より引用)2026/10/05 18:05:1022.法介◆T3azX0Hk1UvboCl戸田会長は空仮中の三諦は、「生命の考え方」であると前置きし、生命は常に変化するものであって今一瞬の姿は仮の姿であり真実の姿は空である。しかし戸田城聖という人間は現実に実在している。仮でもあり空でもあるから中道なのであると説明されています。2026/10/05 18:05:5023.法介◆T3azX0Hk1UvboCl空仮中の三諦はそのような「生命の考え方」などではありません。また「生命のあり方」でもありません。苦しみや悩みといった煩悩をいかに悟りに転換していくかという「煩悩即菩提の法門」を説く教えです。2026/10/05 18:06:0624.法介◆T3azX0Hk1UvboCl次に第三代会長の池田会長の三諦論をみてみましょう。2026/10/05 18:06:2325.法介◆T3azX0Hk1UvboCl『池田会長の三諦論』空諦 仮諦 中道空諦は事物の性分、仮諦は事物のあらわれた姿・形中道は事物の本質人間生命でいえば、その人の性分・心は 空諦姿・形は 仮諦生命は中道 たとえば水。お湯になろうが、氷になろうが 水蒸気になろうが そのものの本質には変わりがない。H2Оそれ自体は、中道であり、法身といえよう。水蒸気となり、あるいは氷となり、あるいは冷水となる。その姿・形は仮諦であり、応身である。 また、水は、表面張力があり、あるいは溶解力があり、そしてまた、零度以下では氷となり百度以上では水蒸気になる等の性質を持つ。それは空諦であり、報身といえる。実相をありのままに把握することが正しい認識である。実相をそのままわが心に受け止め、それに対しどう価値創造していくか、どう対処するか、それが智慧である。 人をどう評価していくかという場合も、まず、その人に対する正しい認識なくして、どうして正しい判断が下しえようか。その人の表面の姿・行動のみを見、その人の本質を見失えば、判断を誤る。また、その人の本質はこういうものだときめつけて、時々刻々と移り変わる姿・行動をありのままに把握しないとすれば、やはり正しい認識とはいえない。その人の、姿・行動も、その人の特質・個性も、その人の本質も、全部、そのまま受け止めることが大事となる。信心を根本にして、一切を見通していけるのである。(池田会長全集5 御義口伝講義より)2026/10/05 18:07:5526.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 池田会長は、H2Оが水蒸気となったり、あるいは氷となったり、あるいは冷水となったりするその姿・形が応身であり、H2Оの持つ特性が報身であり、H2Оそれ自体が法身だと説明されていますが、応身・報身・法身の三身の解釈がでたらめです。2026/10/05 18:08:4927.法介◆T3azX0Hk1UvboCl相・性・体が元となって本末究竟する十如是の説明を用いておりますが、相は仮・性は空・体は中なのですが仮が姿・形とするまでは良いのですが空諦・中諦の説明がまるでなっておりません。池田会長は「本質」や「実体」という言葉を良く使いますが、実体や本質を説くのは仏法ではなく外道です。我や本質が「有る」と見るのが外道で、我も本質も「無い」と見るいわゆる「無我・無自性」を説くのが仏法です。「我有り・本質有り」は「有(実体)」に執着した物の見方で釈迦在世のインドではこの外道義が強くはびこっていました。釈迦在世の直弟子達のことを「声聞の弟子」と呼びますが、「有」に対する執着が強い仏法修行者の境涯のことを「声聞」といいます。2026/10/05 18:09:4328.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「声聞」に対して「観音」という仏法用語があります。「声聞」は声を「聞く」ですが「観音」は音を「観じる」のです。音は通常聞くものですが、音を聞くのではなく音を観じると書いて「観音」。同じような意味合いで「見る」と「観る」の違いがあります。「見る」は私たちが目に映る様を認識する行為で「観る」は目を閉じて心で観んじる行為を意味します。目に映りこむ姿だけをとって真実とするのではなく、目には見えない部分をも感じ取ってはじめて物事の真実が見えてくる。といったことを池田会長は言わんとされているのでしょうが、それは仏法の初歩である蔵教であらわされた仮の真実、仮諦のお話です。2026/10/05 18:10:1829.法介◆T3azX0Hk1UvboCl蔵教は声聞に対して説かれた説法で、声聞は「有」に執着した「声を聞く」境涯です。物は「見る」もので温度は「感じる」もの。食は「味わう」もので香りは「臭う」もの。いわゆる五感を頼りに生きている人達で「有」という実在(実体)に対する執着から抜けきれずにいる境涯です。2026/10/05 18:10:4330.法介◆T3azX0Hk1UvboCl人は外界の物事を五感を駆使して認識します。そのことを仏法では五蘊とか五陰という言葉であらわしています。この五蘊で外界を認識することで立ち上がっている世界を五陰世間といいます。人は自身の五蘊(五陰ともいう)の働きによって自身を中心(視点)とした世界が立ち上がって現実の世界を認識していきます。また、人はそれぞれに異なった感性を持ち合わせていますので五蘊の働きも人それぞれで、それぞれに異なった世界がたちあがっています。健常者が認識する世界と眼が不自由な人が認識する世界とでは全く違った世界が立ち上がっていることを考えれば解り易いかと思います。2026/10/05 18:11:0331.法介◆T3azX0Hk1UvboClこのように感性の違い(五蘊の働きの違い)から同じ空間であっても人はそれぞれ異なる自分だけの世界を立ち上げて、それを世界として認識しています。その事を境涯(生命の状態)もふまえて説き顕されたのが一念三千の法門の中の三世間の一つ、五陰世間になります。五陰世間は間性の違い、境涯の違いといった個々人の性質の違いが大きく関わると同時に、心の状態にも大きく関わってきます。その心の働きを詳しく説き顕した法門が十如是です。先に紹介しました御書の「千如は総て空の義なれば空諦の一なり」に当てはまる部分です。2026/10/05 18:11:4332.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-2 色・受・想・行・識(五蘊)2026/10/05 18:12:5933.法介◆T3azX0Hk1UvboClお釈迦様は一仏乗の法華経があまりにも複雑で高度な教えな為、解り易いように三つにひも解いて説き明かしていきます。いわゆる三乗の教えです。蔵教で仮諦を説き、通教で空諦を、別教で中諦が説かれます。法華経は一念三千の法門を説きあかした経文ですが、その一念三千の法門を像法時代に天台が初めて理論的に説き明かします(理の一念三千)。一念三千の法門は法華経以前において明かされてきた三乗の教え、即ち仮諦・空諦・中諦の三諦がすべからく法華経に集約することが「開三顕一」として法華経迹門の三周の説法として明確に示されています。2026/10/05 18:13:5234.法介◆T3azX0Hk1UvboCl蔵教・通教・別教において個別に説かれてきた空・仮・中の三諦が法華経迹門において円融することがあかされ、それを解り易くひも解いて解説したのが天台の理の一念三千です。2026/10/05 18:14:1335.法介◆T3azX0Hk1UvboCl天台が一念三千の法門を解説する際に用いる華厳経に説かれる「心は工(たくみ)なる画師の如く種種の五陰を造る」の文は、大聖人様も『一念三千理事』や『三世諸仏総勘文教相廃立』等の御書の中で引用されています。自身の心が造りだす世界が五陰世間で、その世界は自身の心の状態が変わればまた違った別の世界にも見えてきます。自身の心の状態(境涯)次第でどのようにも変化する世界が五陰世間であり「空」の意味するところです。2026/10/05 18:14:4536.法介◆T3azX0Hk1UvboCl五陰とは、「色・受・想・行・識」のことで人間が外の世界を認識する働きを示したもので、色(しき)は、色相を意味し受(じゅ)はそれを感じ取る感覚いわゆる五感を意味します。人は外界のありさま(色相)を自身の肉体に具わる感覚器官である五感をもって感じ取り、感じ取った情報を脳の中の記憶と照らし合わせて行動に転じます。この記憶と照らし合わせる作業を想像の「想」をもってあわらし、行動に転じてその一連の結果が認識として統合され記憶に蓄えられていきます。2026/10/05 18:15:1337.法介◆T3azX0Hk1UvboCl職場で苦手な上司がいるとします。なぜ苦手なのかと言えば、過去にその上司との間で嫌な経験があったからです。ですからその上司の顔(色相)を見る(受)と過去の嫌な記憶がよみがえって(想)、避けるように身を隠します(行)。その一連の行動が自身の記憶の中に識として蓄えられていきます。認識出来る意識層が第六識の表層意識ですが、本人の意識が及ばない深層意識にトラウマとなって潜在的に深く刻まれる記憶もあります。2026/10/05 18:15:4038.法介◆T3azX0Hk1UvboCl六識や表層意識、深層意識という言葉は天親菩薩(世親)が大成した唯識思想の中で用いられる言葉ですが、天親は御書『波木井三郎殿御返事』の中で「正法一千年には竜樹・天親等・仏の御使と為って法を弘む」(P.1372)とあるように竜樹と並ぶ正法時代の仏法の正統な継承者で仏の滅後に衆生のよりどころとなった四依の大菩薩の一人です。複雑な一念三千の法門を竜樹が「空」を専門に、天親が「唯識」を専門に扱いひも解いていきます。2026/10/05 18:17:0839.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「心は工(たくみ)なる画師の如く種種の五陰を造る」の経文に示されるように「色・受・想・行・識」といった自身の五陰の働きによって我々は自身を取り巻く世界を立ち上げています。そしてその立ち上がった世界に存在する姿、仏法では色相と言いますがその姿もまた、自身の心次第でいかようにも変化します。我々が認識している世界は自身の心が勝手に造りだしている幻影のようなもので、変化することなくそのまま存在し続けるものは一つとして無いのです。2026/10/05 18:17:4240.法介◆T3azX0Hk1UvboClですから「無我」であり「無自性」であって一時的に仮に認識している姿に過ぎません。2026/10/05 18:18:1841.法介◆T3azX0Hk1UvboClその一時的に仮に佇む姿、「仮」について更に詳しく掘り下げてお話してまいります。2026/10/05 18:18:2942.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-3 仮諦2026/10/05 18:19:3243.法介◆T3azX0Hk1UvboClまず、「仮」といいましても「仮観」と「仮諦」があるのですが、先に紹介しました池田氏の三諦論のようにこの二つを混同してしまっている仏法者が沢山います。「仮諦」がなんたるか、また一念三千が何たるかが正しく理解出来ていないとこのような誤った解釈をしてしまいます。2026/10/05 18:19:5844.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「仮」は、仮に佇む姿を指して「仮」といいます。では「仮観」はと言いますと、これは天台宗で説かれる修行法「一心三観」の仮観のことを指します。一心三観は一心に三を観じる観法で、ここでいう三は仮観・空観・中観をいいます。2026/10/05 18:22:2645.法介◆T3azX0Hk1UvboCl人が物事を認識するさい、客観認識と主観とに別けられます。客観認識は誰が見ても、誰が行ってものように万人に共通する立場で物事を捉えることをいいます。それに対して主観は万人とは無関係に自身が個人的に感じとる自分一個の意見をいいます。2026/10/05 18:22:4446.法介◆T3azX0Hk1UvboCl化学や医学は客観認識がベースとなって成り立っています。誰がリンゴを落としても地面に落下するから「引力の法則」が成り立つ訳で、人はみな声帯を使ってしゃべるから医学が成り立ちます。1と1を足したら二つになるから数学が成り立ちます。すべて客観性に基づいて展開されたのが医学であり化学であり数学です。2026/10/05 18:23:0647.法介◆T3azX0Hk1UvboClでは文学はといいますと主観の世界のように思うかもしれませんが、文を読んで感じ取るその感じ方は主観ですが読み取る文は客観によって表現されたものです。2026/10/05 18:23:2248.法介◆T3azX0Hk1UvboCl国語辞典に「楽しい」という言葉はこういう事をいうのだと定義づけがなされているから共通認識言として成り立っているのです。また主観で感じた事を言葉に転換しなければ人には伝えられません。言葉という共通認識言に転換した時点ですでに主観は客観に変わっています。2026/10/05 18:23:3449.法介◆T3azX0Hk1UvboClあなたが食べたリンゴの「美味しい」と、私が食べたリンゴの「美味しい」とでは同じリンゴの「美味しい」であっても個々人の感性の違い(五陰の違い)が生じますので全く同じ「美味しい」ではありません。個々人が感じ取る主観は定義ずけられた言葉に転じた時点で既に客観に変わっています。2026/10/05 18:23:4950.法介◆T3azX0Hk1UvboClこのように我々人間が生活の中で用いる言葉も含めて文学や数学、医学や科学や哲学といったものは全て客観をベースに発展されてきたものです。2026/10/05 18:24:0351.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行います。どうして客観から離れるのかというと、客観認識の中にこそ人々を苦しめる苦の原因が潜んでいるからです。そこのところはまた別の機会に詳しくお話するとしまして、要は人の人生は客観ではなく主観そのものであるという点でお話を続けさせて頂きます。2026/10/05 18:24:3152.法介◆T3azX0Hk1UvboCl一人の人間が「おぎゃー!」と生まれて、年老いて死んでいくまでに、何をどのように感じながら生きていくかという、まさに主観の中の出来事がその人の人生です。2026/10/05 18:24:4353.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏法はその主観を軸として成り立っています。客観性をベースにした医学や化学、哲学などとは全く立ち位置が異なります。海の生き物と陸の生き物とでは、呼吸の仕方も進み方も全く異なるように、主観を説いた仏法と客観を説いた医学や化学や哲学とでは、捉え方が全く違うということです。2026/10/05 18:25:0254.法介◆T3azX0Hk1UvboClそれを仏法を医学や化学や哲学と同じ次元で語っているのが創価学会です。水がお湯になったり氷になったり、はたまた水蒸気となって姿が見えなくなったりとかいう池田会長の三諦論は化学のお話です。化学の話しをあたかも仏法であるかのように話しているのです。2026/10/05 18:25:1555.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仏法はモノのありかたを説いた教えではありません。モノの方ではなく、モノをモノと認識する人の心を説いているのが仏法です。モノの有無のような心の外の事を説く教えを仏法では外道と言います。2026/10/05 18:25:3556.法介◆T3azX0Hk1UvboClお釈迦様は「モノの有る無し」といった二辺から離れた中道(縁起)を説きます。2026/10/05 18:25:5157.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「モノの有る無し」で説く科学や医学、哲学も文学も政治学もあらゆる学問・学術すべてが客観性をベースとして展開されています。そういった「モノの有る無し」から離れて仏法では〝縁起〟を真理として説きます。縁起を真理とする仏法を〝真諦〟と言いい、それに対して世間一般における真理を〝俗諦〟と言います。2026/10/05 18:26:1058.法介◆T3azX0Hk1UvboCl池田氏の三諦論のように〝真諦〟と〝俗諦〟を同じ次元でごちゃ混ぜにして語ることは、高い教えと低い教えをごちゃ混ぜにしてしまい仏法を汚す行為として日蓮大聖人は推尊入卑の謗法として開目抄の中で厳しく戒められています。(開目抄上 P.189)2026/10/05 18:26:4259.法介◆T3azX0Hk1UvboCl我々は外の世界の情報を主観で感じ取り、それを客観認識の言葉に転換して意思の疎通を行います。主観で感じ取るさいに眼や耳や鼻や口や肌といった五感を駆使して様々な情報を察知して実体を捉え、客観的な認識として医学や科学、哲学といった学識として自身の意識層に蓄えられていきます。2026/10/05 18:27:0860.法介◆T3azX0Hk1UvboClこの「色・受・想・行・識」といった第1~第6意識までの表層意識の働きによって形成される世界を衆生世間と言います。2026/10/05 18:27:2561.法介◆T3azX0Hk1UvboCl我々衆生は、自身の五蘊の働きによって実在の世界を主観と客観とで認識している訳ですが、仏法では更に仮観という認識を用います。それが縁起です。2026/10/05 18:27:4662.法介◆T3azX0Hk1UvboCl縁起によって仮に佇む姿が実在であって、縁が変わればその姿もまた変わって顕れます。ですから実在ではなく仮在と見るのが「仮観」です。2026/10/05 18:28:0463.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「仮観」は凡夫の所作(認識法)です。それに対し「仮諦」は仏の悟りです。「仮諦」の「諦」という字は「あきらかにする」とか「真実」といった意味を含んだ言葉で、「仮諦」とは仏の悟りを意味します。仮観と仮諦は混同してしまいがちなので、この違いについてもう少し詳しくお話しさせて頂きます。2026/10/05 18:28:1864.法介◆T3azX0Hk1UvboCl仮観という観法は、五感の働きを沈めて自身の意識を表層意識から深層意識へと移行させます。表層意識とは九識論で言うところの六識までの我々が意識として認識出来る識層のことで、五陰世間のところでお話しました「色・受・想・行・識」、いわゆる五蘊が働く場所です。眼・耳・鼻・口・肌の五識で外界の情報を感じとって六識で「意識」として統合されて我々が日常認識している実在の世界が立ち上がります。2026/10/05 18:28:3265.法介◆T3azX0Hk1UvboCl立ち上がった世界は実は実在すると思い込んでいるだけで、実際は人それぞれに見え方あり方は異なっており、また自身の心の状態の変化によっても認識するその姿は変わってきます。世の中には常に変わらず存在し続ける物は何一つ存在しえません。ですから「無我」であり「無自性」なのです。ただ「縁」によってさまざまな姿をあらわす「縁起の法門」があるだけで、それが仏が悟られた「仮」の真実、「仮諦」です。仮諦が詳しく説かれたのは時代で言えば正法時代、教えで言えば蔵教です。2026/10/05 18:29:0466.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-4 蔵教2026/10/05 18:48:2967.法介◆T3azX0Hk1UvboCl蔵教は天台が釈迦一代の説法をその教えの内容から振り分けた蔵教・通教・別教・円教の四教の中の仏法の初歩の教えにあたります。2026/10/05 18:48:5768.法介◆T3azX0Hk1UvboCl四教はそれぞれの境涯に即した形でそれぞれの法が説かれており、蔵教は声聞の為に、通教は縁覚の為に、別教は菩薩の為に、そして円教は末法の衆生の為に法が説かれています。2026/10/05 18:49:1069.法介◆T3azX0Hk1UvboCl蔵教が説かれた釈迦在世の正法時代は、外道思想が強くはびこっていた時代でもあります。外道とは書いて字の如く、外にあらわれた認識出来る範囲でしか物事を捉えようとしない実体思想のことですが、創価学会や日蓮正宗では三世を説いていないキリスト教のことを、「内道」の仏法に対して「外道」と定義づけしています。2026/10/05 18:49:2970.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「外道」とはキリスト教のような今世しか説いていない教えのみを指していう言葉ではありません。仏法の中にも外道は存在します。日蓮大聖人は「外道」について『一代聖教大意』(P.403)の中で、「外道に三人あり、一には仏法外の外道 九十五種の外道、 二には学仏法成の外道 小乗、 三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり」と外道に三種あることを示されています。2026/10/05 18:50:0971.法介◆T3azX0Hk1UvboCl一の仏法外の外道は創価学会や日蓮正宗でいうところの内道を説かない外道で分かり易いのですが、二の「学仏法成の外道」と三の「附仏法の外道」が解り難いので『十法界事』(P.418)の中で大聖人は詳しく述べられています。2026/10/05 18:50:4172.法介◆T3azX0Hk1UvboCl御抄を拝読すれば、「学仏法成の外道」とは仏法を学んで尚外道から抜けきらない小乗教の析空に陥った仏法修行者のことであることが十分にご理解頂けるかと思います。釈迦は外道の教えを破る為に「無我」を説いたのですが、小乗の声聞の弟子達は「無我」の教えに執着するあまり、かえって迷いを生じて、煩悩が出てくる源である身体と心とをともに滅するという色心俱滅の見解に陥ります。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。2026/10/05 18:51:0673.法介◆T3azX0Hk1UvboCl身も心も無に帰して消滅してしまうという灰身滅智は、無我を誤って解釈した「析空」にあたります。析空に対して空を正しく理解した竜樹が通教において展開した空理(空の理論)を「体空」といいます。2026/10/05 18:51:1974.法介◆T3azX0Hk1UvboCl無我を悟りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる仏法者を「小乗の外道」と言うのだと大聖人は『一代聖教大意』の中で御指南あそばされていますが、仏法の因果や縁起の法門を医学や化学、哲学といった客観認識(実体思想)で語っている創価学会の仏法がまさにそれにあたります。2026/10/05 18:51:4675.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「析空」と「体空」の違いは、蔵教と通教の違いでもあり境涯でいえば声聞と縁覚の悟りの深さの違いでもあります。声聞という境涯は未だ実体思想から完全に抜けきれづにいる仏法修行者なので空を客観認識(実体思想)で理解してしまうのです。2026/10/05 18:52:0076.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「析空」はウィキペディアを見ると、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とあります。2026/10/05 18:52:1777.法介◆T3azX0Hk1UvboClつまり机を例にとってみると、その脚を外してしまえば単なる板と棒になってしまい何も減じていないのに、机そのものの存在は無くなります。池田会長の水と水蒸気の関係と同じ理論です。机は仮の姿であって「仮」であるがばらしてしまえば板と棒であって机の姿は無くなって「空」となる。このような空の解釈を「析空」と言います。説一切有部に代表されるこの析空は、主観にあたる我は空だが、認識として働く法(五蘊)は三世に渡って実在するとみます。その説一切有部の空理を般若心経で説かれる「色即是空」をひも解いて、法(五蘊)も空じる対象であることを示したのが竜樹です。2026/10/05 18:52:3978.法介◆T3azX0Hk1UvboCl先の机の話でいえば、机をばらして天板と脚にすると確かに机の姿はなくなります。しかし「体空」の見方は五蘊を空じるわけですから「見る」のではなく眼をとじて「観る」という観法に入るのです。五蘊を空じて表層意識による認識を止めて、深層意識で観じ取っていきます。何を観じとっていくかは、人それぞれでしょう。ある人にはその机を一生懸命製作している職人の姿が観えてきたり、またある人にはその机を使って一生懸命勉学に打ち込む学生の姿が観えてきたり。2026/10/05 18:53:1279.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「析空」が存在を縁起のかたまりと捉えて種々の構成要素に分析して「空」を悟るのに対して、「体空」は、「見る」認識から「観る」観法へと自身の物事の捉え方を変えることで悟る「空」なのです。・析空=モノの有り様を捉えた空・体空=人の認識の有り様を捉えた空2026/10/05 18:53:5980.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「体空」を得ることで実体から抜け出て仏の世界観である空観に入ることで境涯が声聞から縁覚へと昇進します。境涯が変わることで認識する世界観も変わって来ます。・声聞=衆生世間(実在)主観と客観・縁覚=五陰世間(非実在)空観2026/10/05 18:54:2081.法介◆T3azX0Hk1UvboCl未だ実体思想から抜けきらないでいる声聞の弟子達に、実体に即して説かれた教えが蔵教でそこで示された真理が「仮諦」です。「声聞の弟子」といわれる所以は「物を見る」ように声を聞く境涯だからです。2026/10/05 18:54:3282.法介◆T3azX0Hk1UvboCl「体空」を悟って正しい「空理」に立って初めて仮から空へ進めます。空は般若心経の中で観音菩薩によって説かれますが、音を観じると書いて「観音」。声を聞く「声聞」よりも更に一段高い境涯の教えです。2026/10/05 18:54:4483.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-5 唯識2026/10/05 18:55:4584.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 人の意識には表層意識と深層意識とがあります。表層意識は我々が日常において五感を使って意識として認識している意識で、深層意識は意識の及ばないところで働いている意識です。認識できる識層が意識なので深層意識は正確には末那識や阿頼耶識といった「識」にあたります。これは「唯識」といって、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と意識と二層の無意識の八種類の「識」とによって成り立つ大乗仏教の見解の一つで、創価学会や日蓮正宗では「九識論」として教えられている教学です。2026/10/05 18:56:5785.法介◆T3azX0Hk1UvboCl深層意識は七識のマナ識(末那識)、八識のアラヤ識(阿頼耶識)、更に奥底に九識のアマラ識(阿摩羅識)とがあります。アマラ識のことを「仏識」ともいって、日蓮大聖人は「九識心王真如の都」とも「南無妙法蓮華経」とも呼ばれています。2026/10/05 18:57:1786.法介◆T3azX0Hk1UvboCl表層意識である前五識の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚が五蘊の働きとなって物事を実体視し、実体思想を生み出します。その五蘊の働きを空じることで辿りつく識層が深層意識と呼ばれる識層です。2026/10/05 18:57:2987.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-6 マナ識 (末那識)2026/10/05 18:57:5688.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 自我執着心が眠る七識のマナ識は、人間が本能的に自身を守る為に無意識のうちに働く識層です。心臓や内臓などが私達の意識とは関係なく活動し続けていることや、お腹が空いたり眠くなったりといった食欲、睡眠欲や物に執着する物欲、金銭欲など、人間には本能的に生きて行く為に備わっているさまざまな欲があります。 このような意識とは全く無関係に、「無意識的」に活動を続けているところがマナ識です。私達が自分のことを「自分」と認識するいわゆる自我と呼ばれるものが生まれるのもこのマナ識の働きです。2026/10/05 18:58:3089.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 眼の前に二つの手があるとします。片方はあなたの手。もう片方は他人の手。この二つの手の違いはなんでしょう?2026/10/05 18:58:4790.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 自分の手は自分の想い通りに動かすことが出来ます。他人の手の方は自分の想い通りには動かせません。人は自分の想い通りにならない時にストレスを感じたり苦しみが生じたりします。2026/10/05 18:59:0091.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 仕事が思い通りにならなかったり、恋愛が想い通りにならなかったり、子育てが思うようにならなかったり、お金が思い通りにならなかったりで人生なかなか自分の想い通りにはならないものです。そのような時、人は悩み苦しんだりします。悩みや苦しみの根源には必ずこの「自分」という自己意識の存在があってこれを「自我」といいます。2026/10/05 18:59:1492.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 仏法では人間の苦しみの根源を煩悩といいますが、実はこの煩悩は全て「自我」から生じています。自我がもととなって我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩が生じます。2026/10/05 18:59:2793.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 我癡(がち)は自己に対する愚かさで別名を無明とも言います。人生や事物の真相に明らかでなく、すべては無常であり固定的なものは何もない(無我)という事実に無知なことです。2026/10/05 18:59:4094.法介◆T3azX0Hk1UvboCl この無明=我癡が根本原因となって,あとの我見・我慢・我愛の3煩悩が生じてきます。我見(がけん)は自分という我に執着する心で他者と自分を立て別けて見ることをいいます。 物事の真実に明らかでない我々凡夫は、本来は「而二不二」である自分と他人とを別視して分別してしまいます。他者と自分を分別する心から、今度は他者よりも自分は優れている勝っているという自身への慢心、我慢が生じます。2026/10/05 18:59:5795.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 我慢(がまん)は次の七慢(①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢)からなります。①慢とは、無意識下にある我という観念により、相手に対抗してしまうこと。②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。2026/10/05 19:00:3996.法介◆T3azX0Hk1UvboCl このような我慢が働いて最終的に自己に対する愛着、「我愛(があい)」が深まっていきます。2026/10/05 19:00:5597.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 職場には嫌な先輩や苦手な上司が必ず一人は居るものです。しかしそういった人物の存在を見方を変えることで自身の欠点や克服すべき課題に気づかせてくれている有難い存在であると捉えて感謝の心で接していけるようになっていくのが仏法の素晴らしいところです。2026/10/05 19:01:0698.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 自我に執着すると人は自分と他人を隔てて見てしまいます。しかし自我への執着から離れることで他者は自分の一部であるという「而二不二(二にして二に非ず)」の境地に入っていきます。そして人としてあるべき正しい姿を顕していきます。2026/10/05 19:01:1799.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 仏法は法則を説いたものではありません。法則は誰がりんごを落としても地面に落下するように、誰が見ても太陽は東から昇って西に沈むように万人に共通する客観性を解いたものです。 仏法の中で説かれているのはそのような「法則」ではなく、「法門」が説かれているのです。「法門」は仏の智慧であり悟りです。そしてそれは仏しか知りえません。お釈迦様は自身が習得した仏の境地を智慧第一といわれた弟子、舎利弗に伝えようとしますが、「止めておこう、舎利弗よ、もうこれ以上話すのを止めよう。なぜなら、仏の習得したものは、最高に稀有で難しい法なのだ。ただ仏どうしがよく仏法の真実を見極めることができる」と伝えることを止めます。2026/10/05 19:01:51100.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 言葉で伝えるということは、お釈迦様が悟りえた主観を「言葉」という客観に転換しなければなりません。しかし客観に展開してしまえば、お釈迦様が主観で悟りえた仏の境地ではなくなります。仏の悟りは客観では伝えることは出来ないのです。2026/10/05 19:02:07101.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 医学や化学や哲学をもってしても、説明しきれないのが仏様の悟りえた真実です。その真実を可能な限り主観に基づいて言葉で顕されたのがお釈迦様の一代聖教です。 限界ぎりぎりの所まで言葉を用いて主観の仏法を説き顕し、そこから先は言葉を離れるといった手法で仏法は説かれています。2026/10/05 19:02:21102.法介◆T3azX0Hk1UvboCl 法華経の迹門と本門がまさにその「言葉を離れる」境界にあたります。理論をもって説かれる一念三千と心で観じ取っていく一念三千の違いです。 何を観じ取っていくのかといった具体的なお話は、話し出すと長くなりますので次章で詳しくお話したいと思います。2026/10/05 19:02:36103.法介◆T3azX0Hk1UvboCl お釈迦様は自身が悟りえた主観を、未だ実体思想から抜け切らないでいる声聞の境涯の弟子達にも理解出来るように、実体に即した客観の言葉を用いて説いていきます。 それが仏法の初歩の教えである蔵教で説かれた「仮諦」です。この声聞の弟子達は師匠であるお釈迦様の声(説法)を聞いて悟る境涯なので「声聞」なのです。2026/10/05 19:02:53104.法介◆T3azX0Hk1UvboCl1-7 空の世界観2026/10/05 19:03:17
創価学会、日蓮正宗を経て現在はどこの団体にも宗派にも属する事無く、一人の仏法者として日蓮仏法を日々実践しております。
これを「一大事の因縁」といいます。
これを開示悟入の「四仏知見」といいます。
「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」
と仰せになり、空・仮・中の三諦が円融することが南無妙法蓮華経であると御指南あそばされております。
どういうことなのかを
詳しくお話していきます。
「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり 千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり」
これを「広開三顕一」と言います。
・譬説周
・因縁説周
の三周の説法によって明かされた「広開三顕一」は、上根の舎利弗が法説周によって未来成仏の記別を受け、その後の、譬説周・因縁説周によって中根・下根の二乗の成仏が説き明かされます。
空仮中の三諦などというと、ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相がどういうものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」というのがあるのです。これは、天台大師の師匠である南岳大師が考えだした哲理なのです。
このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはいかないでしょう。もう十年もたって、私がもし生きて六十七歳にもなったら「先生、ずいぶん変わりましたね」ということになるでしょう。
しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまのように美男子でないのと、どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。ですから仮の実体というのです。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。
空諦とは、あるといえばある、ないといえばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。私の生命も空諦です。おまえはおじいさんの時があるといえば、それはいまはないでしょう。
たしかにおじいさんではない、私は青年です。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえば、なかったのではない、あったのです。そうなると生命は空であります。それであって戸田城聖は中道法相(ちゅうどうほっそう)、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦であります。
(「ブログで読める戸田城聖全集 第二巻 質問会編 (創価学会)SGI」H.P.より引用)
空諦 仮諦 中道
空諦は事物の性分、
仮諦は事物のあらわれた姿・形
中道は事物の本質
人間生命でいえば、
その人の性分・心は 空諦
姿・形は 仮諦
生命は中道
たとえば水。お湯になろうが、氷になろうが 水蒸気になろうが そのものの本質には変わりがない。H2Оそれ自体は、中道であり、法身といえよう。水蒸気となり、あるいは氷となり、あるいは冷水となる。その姿・形は仮諦であり、応身である。
また、水は、表面張力があり、あるいは溶解力があり、そしてまた、零度以下では氷となり百度以上では水蒸気になる等の性質を持つ。それは空諦であり、報身といえる。実相をありのままに把握することが正しい認識である。実相をそのままわが心に受け止め、それに対しどう価値創造していくか、どう対処するか、それが智慧である。
人をどう評価していくかという場合も、まず、その人に対する正しい認識なくして、どうして正しい判断が下しえようか。その人の表面の姿・行動のみを見、その人の本質を見失えば、判断を誤る。また、その人の本質はこういうものだときめつけて、時々刻々と移り変わる姿・行動をありのままに把握しないとすれば、やはり正しい認識とはいえない。その人の、姿・行動も、その人の特質・個性も、その人の本質も、全部、そのまま受け止めることが大事となる。
信心を根本にして、一切を見通していけるのである。
(池田会長全集5 御義口伝講義より)
五陰世間は間性の違い、境涯の違いといった個々人の性質の違いが大きく関わると同時に、心の状態にも大きく関わってきます。その心の働きを詳しく説き顕した法門が十如是です。先に紹介しました御書の「千如は総て空の義なれば空諦の一なり」に当てはまる部分です。
蔵教で仮諦を説き、通教で空諦を、別教で中諦が説かれます。法華経は一念三千の法門を説きあかした経文ですが、その一念三千の法門を像法時代に天台が初めて理論的に説き明かします(理の一念三千)。一念三千の法門は法華経以前において明かされてきた三乗の教え、即ち仮諦・空諦・中諦の三諦がすべからく法華経に集約することが「開三顕一」として法華経迹門の三周の説法として明確に示されています。
自身の心が造りだす世界が五陰世間で、その世界は自身の心の状態が変わればまた違った別の世界にも見えてきます。自身の心の状態(境涯)次第でどのようにも変化する世界が五陰世間であり「空」の意味するところです。
人は外界のありさま(色相)を自身の肉体に具わる感覚器官である五感をもって感じ取り、感じ取った情報を脳の中の記憶と照らし合わせて行動に転じます。この記憶と照らし合わせる作業を想像の「想」をもってあわらし、行動に転じてその一連の結果が認識として統合され記憶に蓄えられていきます。
その一連の行動が自身の記憶の中に識として蓄えられていきます。認識出来る意識層が第六識の表層意識ですが、本人の意識が及ばない深層意識にトラウマとなって潜在的に深く刻まれる記憶もあります。
眼・耳・鼻・口・肌の五識で外界の情報を感じとって六識で「意識」として統合されて我々が日常認識している実在の世界が立ち上がります。
「外道に三人あり、一には仏法外の外道 九十五種の外道、 二には学仏法成の外道 小乗、 三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり」
と外道に三種あることを示されています。
釈迦は外道の教えを破る為に「無我」を説いたのですが、小乗の声聞の弟子達は「無我」の教えに執着するあまり、かえって迷いを生じて、煩悩が出てくる源である身体と心とをともに滅するという色心俱滅の見解に陥ります。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。
机は仮の姿であって「仮」であるがばらしてしまえば板と棒であって机の姿は無くなって「空」となる。このような空の解釈を「析空」と言います。
説一切有部に代表されるこの析空は、主観にあたる我は空だが、認識として働く法(五蘊)は三世に渡って実在するとみます。
その説一切有部の空理を般若心経で説かれる「色即是空」をひも解いて、法(五蘊)も空じる対象であることを示したのが竜樹です。
五蘊を空じて表層意識による認識を止めて、深層意識で観じ取っていきます。何を観じとっていくかは、人それぞれでしょう。ある人にはその机を一生懸命製作している職人の姿が観えてきたり、またある人にはその机を使って一生懸命勉学に打ち込む学生の姿が観えてきたり。
・析空=モノの有り様を捉えた空
・体空=人の認識の有り様を捉えた空
・声聞=衆生世間(実在)主観と客観
・縁覚=五陰世間(非実在)空観
認識できる識層が意識なので深層意識は正確には末那識や阿頼耶識といった「識」にあたります。これは「唯識」といって、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と意識と二層の無意識の八種類の「識」とによって成り立つ大乗仏教の見解の一つで、創価学会や日蓮正宗では「九識論」として教えられている教学です。
このような意識とは全く無関係に、「無意識的」に活動を続けているところがマナ識です。私達が自分のことを「自分」と認識するいわゆる自我と呼ばれるものが生まれるのもこのマナ識の働きです。
物事の真実に明らかでない我々凡夫は、本来は「而二不二」である自分と他人とを別視して分別してしまいます。他者と自分を分別する心から、今度は他者よりも自分は優れている勝っているという自身への慢心、我慢が生じます。
①慢とは、無意識下にある我という観念により、相手に対抗してしまうこと。
②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。
③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。
④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。
⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。
⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。
⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。
仏法の中で説かれているのはそのような「法則」ではなく、「法門」が説かれているのです。「法門」は仏の智慧であり悟りです。そしてそれは仏しか知りえません。お釈迦様は自身が習得した仏の境地を智慧第一といわれた弟子、舎利弗に伝えようとしますが、
「止めておこう、舎利弗よ、もうこれ以上話すのを止めよう。なぜなら、仏の習得したものは、最高に稀有で難しい法なのだ。ただ仏どうしがよく仏法の真実を見極めることができる」
と伝えることを止めます。
しかし客観に展開してしまえば、お釈迦様が主観で悟りえた仏の境地ではなくなります。仏の悟りは客観では伝えることは出来ないのです。
限界ぎりぎりの所まで言葉を用いて主観の仏法を説き顕し、そこから先は言葉を離れるといった手法で仏法は説かれています。
何を観じ取っていくのかといった具体的なお話は、話し出すと長くなりますので次章で詳しくお話したいと思います。
それが仏法の初歩の教えである蔵教で説かれた「仮諦」です。この声聞の弟子達は師匠であるお釈迦様の声(説法)を聞いて悟る境涯なので「声聞」なのです。