『仏道』一切法空に座し柔和忍辱を心得て大慈悲心を起こすべし

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仏門名:法介

創価学会、日蓮正宗を経て現在はどこの団体にも宗派にも属する事無く、一人の仏法者として日蓮仏法を日々実践しております。
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第一章 法華経『迹門 – 開三顕一』
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「諸佛世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故にのみ世に出現したもう」
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『法華経方便品第二』に示されるこの言葉は、仏はただ一つの大事をなす為だけにこの世に現れるという意味です。

これを「一大事の因縁」といいます。
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「一大事」とは仏自らが悟った「智慧」を衆生にも〝開かせ〟〝示し〟〝悟らせ〟そしてその境地に〝入らせる〟ことで、

これを開示悟入の「四仏知見」といいます。
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「一大事」について日蓮大聖人は、『御義口伝巻上』の中で(御書P.717)、

「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」

と仰せになり、空・仮・中の三諦が円融することが南無妙法蓮華経であると御指南あそばされております。
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ではその「円融の三諦」とは

どういうことなのかを

詳しくお話していきます。
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まず一念三千の法門と空・仮・中の三諦の関係についてですが、『一念三千法門』の中で日蓮大聖人は、次のように仰せです(P.413)。

「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり 千如は総て空の義なれば空諦の一なり 三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり」
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 一念三千の法門は、仮諦で捉えた一念三千と、空諦に転じた一念三千と、中諦に即した一念三千によって成り立ちます。創価学会や日蓮正宗では「一念三千の法門」を説明する際、必ず用いるのが「十界論」です。十界論は過去世の行いによってもたらされる現実社会の十界の差別の色相を説いたもので、上の御文の「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり」にあたります。
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日蓮正宗の教学では「開会」の意味を誤って解釈してしまっている為、学会員さんや日蓮正宗の法華講員さん達は、法華経以前に説かれた「空」および「無我・無自性」についての知識が大きく欠落しています。
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法華経以前の教えは全て法華経に集約されているので学ぶ必要はないと教えられているからです。
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ですから爾前経の中で説かれる「空理」や、それに関わる「無我・無自性」といった大事な教学の理解が出来ていません。その結果、日蓮正宗や創価学会の教学では仮諦で捉えた一念三千の解釈にとどまってしまい、その先にある空諦、中諦の悟りにまで至っておりません。
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法華経迹門の中で示される「開会」は、三乗に開いて説いた教えを一仏乗に顕す「開三顕一」のことで、
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三乗の教えとは、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗のそれぞれの境涯に即して説かれた三種の教えを指し、「乗」は乗り物の意で,衆生を迷いの世界から,悟りへと運ぶことを意味します。
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「顕一」とは仏界を顕すと言う事で、簡単に言えば、「三乗を説いて仏の道へと導く」と言う事です。
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釈迦は、『法華経』の方便品の中で十如是を説いて、ほぼ要略して「開三顕一」を説きます。これを「略開三顕一」と言うのですが、これに対して方便品第二の後半から授学無学人記品第九にわたって法理や譬喩、因縁を通して広く三乗を開いて「開三顕一」が説かれます。

これを「広開三顕一」と言います。
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・法説周
・譬説周
・因縁説周

の三周の説法によって明かされた「広開三顕一」は、上根の舎利弗が法説周によって未来成仏の記別を受け、その後の、譬説周・因縁説周によって中根・下根の二乗の成仏が説き明かされます。
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法華経の前半部にあたる迹門は、このように「開三顕一」の説法が中心となって二乗作仏が説かれています。舎利弗をはじめとする声聞の弟子達は三周の説法を聞いて、今まで実践してきた声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の修行が全て一仏乗に集約されることを悟って成仏していきます。
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日蓮正宗では、この「開三顕一」を便品第二の「正直捨方便」の一節にもとづいて、方便として説かれた三乗の教えは捨てるべき教えであると解釈しています。ですから爾前経の中で説かれる空理や、それに関わる無我・無自性といった教学を学ぶ必要の無いものと捉えています。空・仮・中を説く三諦論は「空」を学んではじめて理解できる法論で、「空」を知らない学会員さんや法華講員さん達が空・仮・中の三諦を正しく語れるはずもありません。
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実際に創価学会第二代会長の戸田会長の「三諦論」をみてみましょう。
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『戸田城聖全集 第二巻 質問会編』より「空仮中の三諦」

 空仮中の三諦などというと、ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相がどういうものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」というのがあるのです。これは、天台大師の師匠である南岳大師が考えだした哲理なのです。

 このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはいかないでしょう。もう十年もたって、私がもし生きて六十七歳にもなったら「先生、ずいぶん変わりましたね」ということになるでしょう。

 しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまのように美男子でないのと、どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。ですから仮の実体というのです。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。

 空諦とは、あるといえばある、ないといえばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。私の生命も空諦です。おまえはおじいさんの時があるといえば、それはいまはないでしょう。

 たしかにおじいさんではない、私は青年です。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえば、なかったのではない、あったのです。そうなると生命は空であります。それであって戸田城聖は中道法相(ちゅうどうほっそう)、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦であります。

(「ブログで読める戸田城聖全集 第二巻 質問会編 (創価学会)SGI」H.P.より引用)
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戸田会長は空仮中の三諦は、「生命の考え方」であると前置きし、生命は常に変化するものであって今一瞬の姿は仮の姿であり真実の姿は空である。しかし戸田城聖という人間は現実に実在している。仮でもあり空でもあるから中道なのであると説明されています。
23.
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空仮中の三諦はそのような「生命の考え方」などではありません。また「生命のあり方」でもありません。苦しみや悩みといった煩悩をいかに悟りに転換していくかという「煩悩即菩提の法門」を説く教えです。
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次に第三代会長の池田会長の三諦論をみてみましょう。
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『池田会長の三諦論』

空諦 仮諦 中道

空諦は事物の性分、

仮諦は事物のあらわれた姿・形

中道は事物の本質

人間生命でいえば、

その人の性分・心は 空諦

姿・形は 仮諦

生命は中道

 たとえば水。お湯になろうが、氷になろうが 水蒸気になろうが そのものの本質には変わりがない。H2Оそれ自体は、中道であり、法身といえよう。水蒸気となり、あるいは氷となり、あるいは冷水となる。その姿・形は仮諦であり、応身である。

 また、水は、表面張力があり、あるいは溶解力があり、そしてまた、零度以下では氷となり百度以上では水蒸気になる等の性質を持つ。それは空諦であり、報身といえる。実相をありのままに把握することが正しい認識である。実相をそのままわが心に受け止め、それに対しどう価値創造していくか、どう対処するか、それが智慧である。

 人をどう評価していくかという場合も、まず、その人に対する正しい認識なくして、どうして正しい判断が下しえようか。その人の表面の姿・行動のみを見、その人の本質を見失えば、判断を誤る。また、その人の本質はこういうものだときめつけて、時々刻々と移り変わる姿・行動をありのままに把握しないとすれば、やはり正しい認識とはいえない。その人の、姿・行動も、その人の特質・個性も、その人の本質も、全部、そのまま受け止めることが大事となる。

信心を根本にして、一切を見通していけるのである。

(池田会長全集5 御義口伝講義より)
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 池田会長は、H2Оが水蒸気となったり、あるいは氷となったり、あるいは冷水となったりするその姿・形が応身であり、H2Оの持つ特性が報身であり、H2Оそれ自体が法身だと説明されていますが、応身・報身・法身の三身の解釈がでたらめです。
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相・性・体が元となって本末究竟する十如是の説明を用いておりますが、相は仮・性は空・体は中なのですが仮が姿・形とするまでは良いのですが空諦・中諦の説明がまるでなっておりません。池田会長は「本質」や「実体」という言葉を良く使いますが、実体や本質を説くのは仏法ではなく外道です。我や本質が「有る」と見るのが外道で、我も本質も「無い」と見るいわゆる「無我・無自性」を説くのが仏法です。「我有り・本質有り」は「有(実体)」に執着した物の見方で釈迦在世のインドではこの外道義が強くはびこっていました。釈迦在世の直弟子達のことを「声聞の弟子」と呼びますが、「有」に対する執着が強い仏法修行者の境涯のことを「声聞」といいます。
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「声聞」に対して「観音」という仏法用語があります。「声聞」は声を「聞く」ですが「観音」は音を「観じる」のです。音は通常聞くものですが、音を聞くのではなく音を観じると書いて「観音」。同じような意味合いで「見る」と「観る」の違いがあります。「見る」は私たちが目に映る様を認識する行為で「観る」は目を閉じて心で観んじる行為を意味します。目に映りこむ姿だけをとって真実とするのではなく、目には見えない部分をも感じ取ってはじめて物事の真実が見えてくる。といったことを池田会長は言わんとされているのでしょうが、それは仏法の初歩である蔵教であらわされた仮の真実、仮諦のお話です。
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蔵教は声聞に対して説かれた説法で、声聞は「有」に執着した「声を聞く」境涯です。物は「見る」もので温度は「感じる」もの。食は「味わう」もので香りは「臭う」もの。いわゆる五感を頼りに生きている人達で「有」という実在(実体)に対する執着から抜けきれずにいる境涯です。
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人は外界の物事を五感を駆使して認識します。そのことを仏法では五蘊とか五陰という言葉であらわしています。この五蘊で外界を認識することで立ち上がっている世界を五陰世間といいます。人は自身の五蘊(五陰ともいう)の働きによって自身を中心(視点)とした世界が立ち上がって現実の世界を認識していきます。また、人はそれぞれに異なった感性を持ち合わせていますので五蘊の働きも人それぞれで、それぞれに異なった世界がたちあがっています。健常者が認識する世界と眼が不自由な人が認識する世界とでは全く違った世界が立ち上がっていることを考えれば解り易いかと思います。
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このように感性の違い(五蘊の働きの違い)から同じ空間であっても人はそれぞれ異なる自分だけの世界を立ち上げて、それを世界として認識しています。その事を境涯(生命の状態)もふまえて説き顕されたのが一念三千の法門の中の三世間の一つ、五陰世間になります。
五陰世間は間性の違い、境涯の違いといった個々人の性質の違いが大きく関わると同時に、心の状態にも大きく関わってきます。その心の働きを詳しく説き顕した法門が十如是です。先に紹介しました御書の「千如は総て空の義なれば空諦の一なり」に当てはまる部分です。
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1-2 色・受・想・行・識(五蘊)
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お釈迦様は一仏乗の法華経があまりにも複雑で高度な教えな為、解り易いように三つにひも解いて説き明かしていきます。いわゆる三乗の教えです。
蔵教で仮諦を説き、通教で空諦を、別教で中諦が説かれます。法華経は一念三千の法門を説きあかした経文ですが、その一念三千の法門を像法時代に天台が初めて理論的に説き明かします(理の一念三千)。一念三千の法門は法華経以前において明かされてきた三乗の教え、即ち仮諦・空諦・中諦の三諦がすべからく法華経に集約することが「開三顕一」として法華経迹門の三周の説法として明確に示されています。
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蔵教・通教・別教において個別に説かれてきた空・仮・中の三諦が法華経迹門において円融することがあかされ、それを解り易くひも解いて解説したのが天台の理の一念三千です。
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天台が一念三千の法門を解説する際に用いる華厳経に説かれる「心は工(たくみ)なる画師の如く種種の五陰を造る」の文は、大聖人様も『一念三千理事』や『三世諸仏総勘文教相廃立』等の御書の中で引用されています。
自身の心が造りだす世界が五陰世間で、その世界は自身の心の状態が変わればまた違った別の世界にも見えてきます。自身の心の状態(境涯)次第でどのようにも変化する世界が五陰世間であり「空」の意味するところです。
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五陰とは、「色・受・想・行・識」のことで人間が外の世界を認識する働きを示したもので、色(しき)は、色相を意味し受(じゅ)はそれを感じ取る感覚いわゆる五感を意味します。
人は外界のありさま(色相)を自身の肉体に具わる感覚器官である五感をもって感じ取り、感じ取った情報を脳の中の記憶と照らし合わせて行動に転じます。この記憶と照らし合わせる作業を想像の「想」をもってあわらし、行動に転じてその一連の結果が認識として統合され記憶に蓄えられていきます。
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職場で苦手な上司がいるとします。なぜ苦手なのかと言えば、過去にその上司との間で嫌な経験があったからです。ですからその上司の顔(色相)を見る(受)と過去の嫌な記憶がよみがえって(想)、避けるように身を隠します(行)。
その一連の行動が自身の記憶の中に識として蓄えられていきます。認識出来る意識層が第六識の表層意識ですが、本人の意識が及ばない深層意識にトラウマとなって潜在的に深く刻まれる記憶もあります。
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六識や表層意識、深層意識という言葉は天親菩薩(世親)が大成した唯識思想の中で用いられる言葉ですが、天親は御書『波木井三郎殿御返事』の中で「正法一千年には竜樹・天親等・仏の御使と為って法を弘む」(P.1372)とあるように竜樹と並ぶ正法時代の仏法の正統な継承者で仏の滅後に衆生のよりどころとなった四依の大菩薩の一人です。複雑な一念三千の法門を竜樹が「空」を専門に、天親が「唯識」を専門に扱いひも解いていきます。
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「心は工(たくみ)なる画師の如く種種の五陰を造る」の経文に示されるように「色・受・想・行・識」といった自身の五陰の働きによって我々は自身を取り巻く世界を立ち上げています。そしてその立ち上がった世界に存在する姿、仏法では色相と言いますがその姿もまた、自身の心次第でいかようにも変化します。我々が認識している世界は自身の心が勝手に造りだしている幻影のようなもので、変化することなくそのまま存在し続けるものは一つとして無いのです。
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ですから「無我」であり「無自性」であって一時的に仮に認識している姿に過ぎません。
41.
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その一時的に仮に佇む姿、「仮」について更に詳しく掘り下げてお話してまいります。
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1-3 仮諦
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まず、「仮」といいましても「仮観」と「仮諦」があるのですが、先に紹介しました池田氏の三諦論のようにこの二つを混同してしまっている仏法者が沢山います。「仮諦」がなんたるか、また一念三千が何たるかが正しく理解出来ていないとこのような誤った解釈をしてしまいます。
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「仮」は、仮に佇む姿を指して「仮」といいます。では「仮観」はと言いますと、これは天台宗で説かれる修行法「一心三観」の仮観のことを指します。一心三観は一心に三を観じる観法で、ここでいう三は仮観・空観・中観をいいます。
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人が物事を認識するさい、客観認識と主観とに別けられます。客観認識は誰が見ても、誰が行ってものように万人に共通する立場で物事を捉えることをいいます。それに対して主観は万人とは無関係に自身が個人的に感じとる自分一個の意見をいいます。
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化学や医学は客観認識がベースとなって成り立っています。誰がリンゴを落としても地面に落下するから「引力の法則」が成り立つ訳で、人はみな声帯を使ってしゃべるから医学が成り立ちます。1と1を足したら二つになるから数学が成り立ちます。すべて客観性に基づいて展開されたのが医学であり化学であり数学です。
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では文学はといいますと主観の世界のように思うかもしれませんが、文を読んで感じ取るその感じ方は主観ですが読み取る文は客観によって表現されたものです。
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国語辞典に「楽しい」という言葉はこういう事をいうのだと定義づけがなされているから共通認識言として成り立っているのです。また主観で感じた事を言葉に転換しなければ人には伝えられません。言葉という共通認識言に転換した時点ですでに主観は客観に変わっています。
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あなたが食べたリンゴの「美味しい」と、私が食べたリンゴの「美味しい」とでは同じリンゴの「美味しい」であっても個々人の感性の違い(五陰の違い)が生じますので全く同じ「美味しい」ではありません。個々人が感じ取る主観は定義ずけられた言葉に転じた時点で既に客観に変わっています。
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このように我々人間が生活の中で用いる言葉も含めて文学や数学、医学や科学や哲学といったものは全て客観をベースに発展されてきたものです。
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仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行います。どうして客観から離れるのかというと、客観認識の中にこそ人々を苦しめる苦の原因が潜んでいるからです。そこのところはまた別の機会に詳しくお話するとしまして、要は人の人生は客観ではなく主観そのものであるという点でお話を続けさせて頂きます。
52.
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一人の人間が「おぎゃー!」と生まれて、年老いて死んでいくまでに、何をどのように感じながら生きていくかという、まさに主観の中の出来事がその人の人生です。
53.
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仏法はその主観を軸として成り立っています。客観性をベースにした医学や化学、哲学などとは全く立ち位置が異なります。海の生き物と陸の生き物とでは、呼吸の仕方も進み方も全く異なるように、主観を説いた仏法と客観を説いた医学や化学や哲学とでは、捉え方が全く違うということです。
54.
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それを仏法を医学や化学や哲学と同じ次元で語っているのが創価学会です。水がお湯になったり氷になったり、はたまた水蒸気となって姿が見えなくなったりとかいう池田会長の三諦論は化学のお話です。化学の話しをあたかも仏法であるかのように話しているのです。
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仏法はモノのありかたを説いた教えではありません。モノの方ではなく、モノをモノと認識する人の心を説いているのが仏法です。モノの有無のような心の外の事を説く教えを仏法では外道と言います。
56.
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お釈迦様は「モノの有る無し」といった二辺から離れた中道(縁起)を説きます。
57.
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「モノの有る無し」で説く科学や医学、哲学も文学も政治学もあらゆる学問・学術すべてが客観性をベースとして展開されています。そういった「モノの有る無し」から離れて仏法では〝縁起〟を真理として説きます。縁起を真理とする仏法を〝真諦〟と言いい、それに対して世間一般における真理を〝俗諦〟と言います。
58.
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池田氏の三諦論のように〝真諦〟と〝俗諦〟を同じ次元でごちゃ混ぜにして語ることは、高い教えと低い教えをごちゃ混ぜにしてしまい仏法を汚す行為として日蓮大聖人は推尊入卑の謗法として開目抄の中で厳しく戒められています。(開目抄上 P.189)
59.
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我々は外の世界の情報を主観で感じ取り、それを客観認識の言葉に転換して意思の疎通を行います。主観で感じ取るさいに眼や耳や鼻や口や肌といった五感を駆使して様々な情報を察知して実体を捉え、客観的な認識として医学や科学、哲学といった学識として自身の意識層に蓄えられていきます。
60.
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この「色・受・想・行・識」といった第1~第6意識までの表層意識の働きによって形成される世界を衆生世間と言います。
61.
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我々衆生は、自身の五蘊の働きによって実在の世界を主観と客観とで認識している訳ですが、仏法では更に仮観という認識を用います。それが縁起です。
62.
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縁起によって仮に佇む姿が実在であって、縁が変わればその姿もまた変わって顕れます。ですから実在ではなく仮在と見るのが「仮観」です。
63.
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「仮観」は凡夫の所作(認識法)です。それに対し「仮諦」は仏の悟りです。「仮諦」の「諦」という字は「あきらかにする」とか「真実」といった意味を含んだ言葉で、「仮諦」とは仏の悟りを意味します。仮観と仮諦は混同してしまいがちなので、この違いについてもう少し詳しくお話しさせて頂きます。
64.
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仮観という観法は、五感の働きを沈めて自身の意識を表層意識から深層意識へと移行させます。表層意識とは九識論で言うところの六識までの我々が意識として認識出来る識層のことで、五陰世間のところでお話しました「色・受・想・行・識」、いわゆる五蘊が働く場所です。
眼・耳・鼻・口・肌の五識で外界の情報を感じとって六識で「意識」として統合されて我々が日常認識している実在の世界が立ち上がります。
65.
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立ち上がった世界は実は実在すると思い込んでいるだけで、実際は人それぞれに見え方あり方は異なっており、また自身の心の状態の変化によっても認識するその姿は変わってきます。世の中には常に変わらず存在し続ける物は何一つ存在しえません。ですから「無我」であり「無自性」なのです。ただ「縁」によってさまざまな姿をあらわす「縁起の法門」があるだけで、それが仏が悟られた「仮」の真実、「仮諦」です。仮諦が詳しく説かれたのは時代で言えば正法時代、教えで言えば蔵教です。
66.
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1-4 蔵教
67.
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蔵教は天台が釈迦一代の説法をその教えの内容から振り分けた蔵教・通教・別教・円教の四教の中の仏法の初歩の教えにあたります。
68.
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四教はそれぞれの境涯に即した形でそれぞれの法が説かれており、蔵教は声聞の為に、通教は縁覚の為に、別教は菩薩の為に、そして円教は末法の衆生の為に法が説かれています。
69.
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蔵教が説かれた釈迦在世の正法時代は、外道思想が強くはびこっていた時代でもあります。外道とは書いて字の如く、外にあらわれた認識出来る範囲でしか物事を捉えようとしない実体思想のことですが、創価学会や日蓮正宗では三世を説いていないキリスト教のことを、「内道」の仏法に対して「外道」と定義づけしています。
70.
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「外道」とはキリスト教のような今世しか説いていない教えのみを指していう言葉ではありません。仏法の中にも外道は存在します。日蓮大聖人は「外道」について『一代聖教大意』(P.403)の中で、

「外道に三人あり、一には仏法外の外道 九十五種の外道、 二には学仏法成の外道 小乗、 三には附仏法の外道 妙法を知らざる大乗の外道なり」

と外道に三種あることを示されています。
71.
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一の仏法外の外道は創価学会や日蓮正宗でいうところの内道を説かない外道で分かり易いのですが、二の「学仏法成の外道」と三の「附仏法の外道」が解り難いので『十法界事』(P.418)の中で大聖人は詳しく述べられています。
72.
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御抄を拝読すれば、「学仏法成の外道」とは仏法を学んで尚外道から抜けきらない小乗教の析空に陥った仏法修行者のことであることが十分にご理解頂けるかと思います。
釈迦は外道の教えを破る為に「無我」を説いたのですが、小乗の声聞の弟子達は「無我」の教えに執着するあまり、かえって迷いを生じて、煩悩が出てくる源である身体と心とをともに滅するという色心俱滅の見解に陥ります。いわゆる灰身滅智(けしんめっち)です。
73.
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身も心も無に帰して消滅してしまうという灰身滅智は、無我を誤って解釈した「析空」にあたります。析空に対して空を正しく理解した竜樹が通教において展開した空理(空の理論)を「体空」といいます。
74.
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無我を悟りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる仏法者を「小乗の外道」と言うのだと大聖人は『一代聖教大意』の中で御指南あそばされていますが、仏法の因果や縁起の法門を医学や化学、哲学といった客観認識(実体思想)で語っている創価学会の仏法がまさにそれにあたります。
75.
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「析空」と「体空」の違いは、蔵教と通教の違いでもあり境涯でいえば声聞と縁覚の悟りの深さの違いでもあります。声聞という境涯は未だ実体思想から完全に抜けきれづにいる仏法修行者なので空を客観認識(実体思想)で理解してしまうのです。
76.
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「析空」はウィキペディアを見ると、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とあります。
77.
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つまり机を例にとってみると、その脚を外してしまえば単なる板と棒になってしまい何も減じていないのに、机そのものの存在は無くなります。池田会長の水と水蒸気の関係と同じ理論です。
机は仮の姿であって「仮」であるがばらしてしまえば板と棒であって机の姿は無くなって「空」となる。このような空の解釈を「析空」と言います。
説一切有部に代表されるこの析空は、主観にあたる我は空だが、認識として働く法(五蘊)は三世に渡って実在するとみます。
その説一切有部の空理を般若心経で説かれる「色即是空」をひも解いて、法(五蘊)も空じる対象であることを示したのが竜樹です。
78.
ユーザー
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先の机の話でいえば、机をばらして天板と脚にすると確かに机の姿はなくなります。しかし「体空」の見方は五蘊を空じるわけですから「見る」のではなく眼をとじて「観る」という観法に入るのです。
五蘊を空じて表層意識による認識を止めて、深層意識で観じ取っていきます。何を観じとっていくかは、人それぞれでしょう。ある人にはその机を一生懸命製作している職人の姿が観えてきたり、またある人にはその机を使って一生懸命勉学に打ち込む学生の姿が観えてきたり。
79.
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「析空」が存在を縁起のかたまりと捉えて種々の構成要素に分析して「空」を悟るのに対して、「体空」は、「見る」認識から「観る」観法へと自身の物事の捉え方を変えることで悟る「空」なのです。

・析空=モノの有り様を捉えた空
・体空=人の認識の有り様を捉えた空
80.
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「体空」を得ることで実体から抜け出て仏の世界観である空観に入ることで境涯が声聞から縁覚へと昇進します。境涯が変わることで認識する世界観も変わって来ます。

・声聞=衆生世間(実在)主観と客観
・縁覚=五陰世間(非実在)空観
81.
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未だ実体思想から抜けきらないでいる声聞の弟子達に、実体に即して説かれた教えが蔵教でそこで示された真理が「仮諦」です。「声聞の弟子」といわれる所以は「物を見る」ように声を聞く境涯だからです。
82.
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「体空」を悟って正しい「空理」に立って初めて仮から空へ進めます。空は般若心経の中で観音菩薩によって説かれますが、音を観じると書いて「観音」。声を聞く「声聞」よりも更に一段高い境涯の教えです。
83.
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1-5 唯識
84.
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 人の意識には表層意識と深層意識とがあります。表層意識は我々が日常において五感を使って意識として認識している意識で、深層意識は意識の及ばないところで働いている意識です。
認識できる識層が意識なので深層意識は正確には末那識や阿頼耶識といった「識」にあたります。これは「唯識」といって、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と意識と二層の無意識の八種類の「識」とによって成り立つ大乗仏教の見解の一つで、創価学会や日蓮正宗では「九識論」として教えられている教学です。
85.
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深層意識は七識のマナ識(末那識)、八識のアラヤ識(阿頼耶識)、更に奥底に九識のアマラ識(阿摩羅識)とがあります。アマラ識のことを「仏識」ともいって、日蓮大聖人は「九識心王真如の都」とも「南無妙法蓮華経」とも呼ばれています。
86.
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表層意識である前五識の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚が五蘊の働きとなって物事を実体視し、実体思想を生み出します。その五蘊の働きを空じることで辿りつく識層が深層意識と呼ばれる識層です。
87.
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1-6 マナ識 (末那識)
88.
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 自我執着心が眠る七識のマナ識は、人間が本能的に自身を守る為に無意識のうちに働く識層です。心臓や内臓などが私達の意識とは関係なく活動し続けていることや、お腹が空いたり眠くなったりといった食欲、睡眠欲や物に執着する物欲、金銭欲など、人間には本能的に生きて行く為に備わっているさまざまな欲があります。
 このような意識とは全く無関係に、「無意識的」に活動を続けているところがマナ識です。私達が自分のことを「自分」と認識するいわゆる自我と呼ばれるものが生まれるのもこのマナ識の働きです。
89.
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 眼の前に二つの手があるとします。片方はあなたの手。もう片方は他人の手。この二つの手の違いはなんでしょう?
90.
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 自分の手は自分の想い通りに動かすことが出来ます。他人の手の方は自分の想い通りには動かせません。人は自分の想い通りにならない時にストレスを感じたり苦しみが生じたりします。
91.
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 仕事が思い通りにならなかったり、恋愛が想い通りにならなかったり、子育てが思うようにならなかったり、お金が思い通りにならなかったりで人生なかなか自分の想い通りにはならないものです。そのような時、人は悩み苦しんだりします。悩みや苦しみの根源には必ずこの「自分」という自己意識の存在があってこれを「自我」といいます。
92.
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 仏法では人間の苦しみの根源を煩悩といいますが、実はこの煩悩は全て「自我」から生じています。自我がもととなって我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩が生じます。
93.
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 我癡(がち)は自己に対する愚かさで別名を無明とも言います。人生や事物の真相に明らかでなく、すべては無常であり固定的なものは何もない(無我)という事実に無知なことです。
94.
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 この無明=我癡が根本原因となって,あとの我見・我慢・我愛の3煩悩が生じてきます。我見(がけん)は自分という我に執着する心で他者と自分を立て別けて見ることをいいます。
 物事の真実に明らかでない我々凡夫は、本来は「而二不二」である自分と他人とを別視して分別してしまいます。他者と自分を分別する心から、今度は他者よりも自分は優れている勝っているという自身への慢心、我慢が生じます。
95.
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 我慢(がまん)は次の七慢(①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢)からなります。

①慢とは、無意識下にある我という観念により、相手に対抗してしまうこと。
②過慢とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うこと。
③慢過慢とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくること。
④我慢とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのこと。
⑤増上慢とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうこと。
⑥卑慢とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心。
⑦邪慢とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むこと。
96.
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 このような我慢が働いて最終的に自己に対する愛着、「我愛(があい)」が深まっていきます。
97.
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 職場には嫌な先輩や苦手な上司が必ず一人は居るものです。しかしそういった人物の存在を見方を変えることで自身の欠点や克服すべき課題に気づかせてくれている有難い存在であると捉えて感謝の心で接していけるようになっていくのが仏法の素晴らしいところです。
98.
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 自我に執着すると人は自分と他人を隔てて見てしまいます。しかし自我への執着から離れることで他者は自分の一部であるという「而二不二(二にして二に非ず)」の境地に入っていきます。そして人としてあるべき正しい姿を顕していきます。
99.
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 仏法は法則を説いたものではありません。法則は誰がりんごを落としても地面に落下するように、誰が見ても太陽は東から昇って西に沈むように万人に共通する客観性を解いたものです。
 仏法の中で説かれているのはそのような「法則」ではなく、「法門」が説かれているのです。「法門」は仏の智慧であり悟りです。そしてそれは仏しか知りえません。お釈迦様は自身が習得した仏の境地を智慧第一といわれた弟子、舎利弗に伝えようとしますが、

「止めておこう、舎利弗よ、もうこれ以上話すのを止めよう。なぜなら、仏の習得したものは、最高に稀有で難しい法なのだ。ただ仏どうしがよく仏法の真実を見極めることができる」

と伝えることを止めます。
100.
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 言葉で伝えるということは、お釈迦様が悟りえた主観を「言葉」という客観に転換しなければなりません。
しかし客観に展開してしまえば、お釈迦様が主観で悟りえた仏の境地ではなくなります。仏の悟りは客観では伝えることは出来ないのです。
101.
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 医学や化学や哲学をもってしても、説明しきれないのが仏様の悟りえた真実です。その真実を可能な限り主観に基づいて言葉で顕されたのがお釈迦様の一代聖教です。
 限界ぎりぎりの所まで言葉を用いて主観の仏法を説き顕し、そこから先は言葉を離れるといった手法で仏法は説かれています。
102.
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 法華経の迹門と本門がまさにその「言葉を離れる」境界にあたります。理論をもって説かれる一念三千と心で観じ取っていく一念三千の違いです。
 何を観じ取っていくのかといった具体的なお話は、話し出すと長くなりますので次章で詳しくお話したいと思います。
103.
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 お釈迦様は自身が悟りえた主観を、未だ実体思想から抜け切らないでいる声聞の境涯の弟子達にも理解出来るように、実体に即した客観の言葉を用いて説いていきます。
 それが仏法の初歩の教えである蔵教で説かれた「仮諦」です。この声聞の弟子達は師匠であるお釈迦様の声(説法)を聞いて悟る境涯なので「声聞」なのです。
104.
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1-7 空の世界観
105.
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 蔵教の中で説かれる「仮」の真実は、縁起によって仮に佇む世界を我々は認識しているといった「縁起の法門」です。
 その縁起の法門を正しく理解できた(体空を悟った)竜樹や天親が次のステップである通教の中で「空」と「唯識」をそれぞれに展開し空諦(五陰世間)をひも解いていきます。
106.
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 竜樹や天親は、実体に捕らわれた「声聞」とは違い、縁にふれながら覚りを開いていく「縁覚」という境涯で、そこには師匠の姿(実体)は無いので独覚ともいいます。
 空を悟った境涯に師匠の実体は必要ありません。実体は有りませんが師匠は現として存在し法を説き続けます。そのことが私達が毎日唱える「自我偈」の中に次のように示されています。
107.
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「人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。人々は私の死を見て、私の遺骨を供養し、私をなつかしく思い、慕い敬う心を起こしました。人々が信仰心を起こし、心が素直になり、仏に会いたいと願い、そのために命も惜しまないように、その時私は、弟子たちと霊鷲山に姿を現します。そして人々に語ります。
「私は常にこの世界にあって不滅ですが、人々を導く手段として死んでみせたのです」と。他の国土の人々も、私を信じ敬うならば、その人々のためにも、私は最高の教えを説くでしょう」
108.
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 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の前五識によって「意識」として認識するのが肉体と脳の働きです。「空」を悟った通教の縁覚は、禅定によってそれらの働きを空じて意識をより深いマナ識・アラヤ識へと向かわせます。
 そして見えない(実在しない)お釈迦様を観じ取っていきます。どうして観じ取っていけるのかというと、アラヤ識には過去遠遠劫よりのお釈迦様の記憶が蓄えられているからです。
 また記憶だけでなく現行のお釈迦様の意識も更に奥低に仏性として現在しています。この肉体から生じる実体への執着から離れた境涯が空を悟った縁覚の境涯です。
109.
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 空を知らない創価学会や日蓮正宗の人達は、一念三千の法門を十界論を中心に説明します。前世の行いが縁となって今世の十界の差別の色相(実体)として現れるという彼らの説明は実体に即した「仮諦の一念三千」です。
 創価学会や日蓮正宗の人達が言う一念三千も確かに一念三千の法門です。しかし実体思想から離れて心を空じることで現れてくる別次元の一念三千があります。
110.
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 自身の心(境涯)が変われば同じ人物も同じ空間も感じ方、見え方が変わって十界の変化が生じてくるといった心(十如是)を中心に現れてくる「空諦の一念三千」です。(五陰世間)
111.
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 更に三身に即して現れる一念三千が「中諦の一念三千」なのですがその説明は後ほどするとしまして、要は一念三千といいましても仮諦・空諦・中諦の一念三千が仮諦→空諦→中諦と円融していくことを「三諦の円融」というのです。
 水が氷になったり水蒸気になったりする化学のお話でも、若々しい青年期と枯れ果てた老年期における肉体の変化のお話でもありません。
112.
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 勤行の時に十如是を3回くり返して読み唱えるのも、この三諦の円融を意味しています。自身の意識を仮(表層意識)から空(深層意識)へ、さらに九識の仏性へと向かわせる為の三転読誦なのです。
113.
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1-8 アラヤ識(阿頼耶識)
114.
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 人々の記憶が一堂に蓄えられているのが八識のアラヤ識です。アラヤ識の特徴はここでの意識は共有されるというものです。七識の自我が自他を分別して六識から前五識を形成しています。その下位に位置する八識のアラヤ識には自我や自他といった意識は存在しません。肉体も自我も存在していないので蓄えられた記憶は個々人の「意識」ではなくただ「識」としてアラヤ識に蓄えられていきます。
115.
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 自我意識が存在しないこのアラヤ識では自他の分別は生じません。自他の区別を無くした境涯を菩薩と言いますが、このアラヤ識における意識の共有がそれにあたります。
116.
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 実体(思想)を認識する五感(前五識)と、実体思想を立ち上げている第六識の「意識」、この六つの表層意識に心が覆われているのが凡夫の境涯です。
 仏門に入って瞑想で深層に意識を向かわせ、煩悩が生じる自我を中心としたマナ識と向かい合う境涯が声聞・縁覚になります。そして自我意識よりも更に深く自他の区別が無くなった意識それが菩薩の境涯であるアラヤ識となります
117.
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 仏法では慈悲という言葉をよく使いますが、慈悲とはすべての命に共感していける菩薩の心のことで、世の中の全ての人々に対して、苦を抜いて楽を与えたいと言う「抜苦与楽(ばっくよらく)」の菩薩の心を現わしたものです。
118.
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1-9 分別と無分別
119.
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 仏法では苦しみのもととなっている煩悩の根源にある「自我」と向き合い、いかにしてそれを退治していくかが詳しく説かれています。
120.
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 人と言い争っている場面を想像してみて下さい。互いの主張がぶつかり合って互いが互いの「自分」をぶつけ合います。互いに「自分が正しい」と思い込んでいる心がそうさせているのです。
 「俺が正しい」「私が正しい」と自分の「我」を強く主張すればする程言い合いは益々エスカレートしていきます。しかし、その「我」を「私が悪かった」とひっこめれば、喧嘩にはなりません。
121.
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 世の中の対立や紛争、身近なところでは夫婦の不仲、親子関係のこじれなどこれらは全て「自我」によってもたらされた不幸です。
 人は自分が理解出来ないことをする人に対してイラダチや腹立たしさを感じます。それが発展して様々な対立が起きてきます。不理解がもたらす対立です。
 私達は、ついつい自身の価値観で物事を判断し、相手には相手の価値観があるということを忘れてしまいがちです。
 忘れていなくても相手の言っている事は「間違っている」「自分の方が正しい」のだと思い込んだりしてしまうこともあります。自分にとっては確かにそれが正解であったとしても、育った環境や価値観が全く異なる人にとってはまた別の正解があったりもします。
122.
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 なのに人はついつい自分色のサングラスをかけて物事を見てしまい自分の価値観で物事を判断してしまいます。
 それは「自我」が奥底に潜んでいるからです。その自我がどうして起こるのかというと、自他を分別する心があるからです。
123.
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 その分別の心に対して仏法では無分別を説きます。「無分別」は、創価学会や日蓮正宗の人達には聞きなれない言葉だと思いますが日蓮大聖人は『三世諸仏総勘文教相廃立』P.561の中で、

「方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり」

と仰せの通り、妙法とは無分別の法であるとのべられています。
124.
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 先にお話しました医学や化学、哲学といった客観性をベースとして展開されてきた部類は全て分別から生じたものです。臓器の働きの違い、分子の違い、化学反応の違い、思想の違い、言葉の違い、表現の違い、といった具合です。
 そのような客観性や分別そして自我から離れたところに「空」があり「無我・無自性」があります。
125.
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 自我への執着から煩悩が生じるとして蔵教では「無我・無自性」が説かれます。蔵教の中で示された四諦や八正道は自我意識を退治する為の教えで、実体思想にとらわれている声聞の弟子達に分かりやすいように実体に即した内容で示されています。

<四諦>
苦諦(くたい)
・迷いのこの世は一切が苦であるという真実。

集諦(じったい)
・苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。

滅諦(めったい)
・執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。

道諦(どうたい)
・悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。
126.
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<八正道>
1.正見(しょうけん)
・正しく見ると書くように、ありのままに見ること。

2.正思惟(しょうしゆい)
・正しく考えること、正しい意志を持つこと。欲や怒り、ねたみやうらみを離れること。

3.正語(しょうご)
・正しい言葉を使うこと。お世辞や二枚舌、悪口やウソを離れること。

4.正業(しょうごう)
・正しい行為をすること。生き物をむやみに殺したり(殺生)、他人のものを盗んだり、よこしまな男女関係(邪淫)を造ったりしないこと。

5.正命(しょうみょう)
・正しい生活をすること。戒律を守り、正しい生き方をするということ。

6.正精進(しょうしょうじん)
・正しいところへ向って努力すること。仏法に説かれる真実を探求する努力を怠らないこと。

7.正念(しょうねん)
・正しい信念を持つこと。仏法に説かれる真理を信念として生きること。

8.正定(しょうじょう)
・心をしずめて一つに集中することで、1から7を総括したもの。

 八正道の内容はどれも現実社会における身の置き方、心の有り様で実体思想にもとづいた修行法として示されています。
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1-10 通教
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 日蓮大聖人は『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で、

「蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり」

と仰せになられ、蔵・通・別・円の四教が声聞・縁覚・菩薩・仏の境涯に即した教えであると御指南あそばされています。
 「縁起」で析空を悟った声聞から更に体空を悟って「色即是空」を観じとっていく縁覚、「自我」を空じた縁覚が「而二不二」の菩薩の境地へと入っていきます。
 この境涯の変化は第六意識からマナ識、アラヤ識、そして九識心王真如の都と大聖人様が仰せになられた南無妙法蓮華経へと意識が変わっていく意識の変化でもあります。
129.
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 実体に即して説かれた仮の真実、「仮諦」が声聞に対して説かれた教えなのに対し、縁覚には通教の中で「十二因縁」が示されます。
130.
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 十二因縁は、人間が母親の胎内から生まれ、生をまっとうして死に至るまでの間を「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」の十二の行程に分け、一切の現象は私たちの心に原因があり、現在、生かされている業(行為)が深層意識にすり込まれ、前世などの過去世を含めた時代の業にも影響しあって、現在のそれぞれの幸・不幸が決まることが説かれています。
131.
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<十二因縁>
1.「無明(むみょう)」とは煩悩のことです。人間が過去世で起こした一切の煩悩のこと。

2.「行(ぎょう)」とは行為のことで前生で行った業です。人間が過去世で煩悩によってつくってきた様々な業(善悪の行為)のこと。

3.「識(しき)」とは過去世の煩悩と業によって、この世の母親の胎内で生を受ける最初の心。最初の一念。

4.「名色(みょうしき)」とは、識が具体的な形となったものです。「名色」の「名」は心、「色」は形を表しています。受胎して眼や耳ができるまでの約4週間程度です。

5.「六処(ろくしょ)」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六感ができて出産するまでの三十四週間の間。六根が発達して胎内で盛んに動きだすようになる姿。

6.「触(そく)」とは、生まれてから二、三歳までの間。初めて外界の物に触れ、苦楽を感じる事なく事物を感覚し始める時期。

7.「受(じゅ)」とは、外界から種々の言語や知識を受け取る時代。四、五歳から十四、十五才までの期間。苦楽を識別しながら外から様々なことを受け入れながら人格が形成されていく。

8.「愛(あい)」とは、精神が発達して次第に色欲も強くなっていく十五、十六歳からの青年期。物質的欲求が激しくなり、異性に対する愛情も強くあらわれる。

9.「取(しゅ)」は、欲望がますます激しく起きる二十五、二十六歳から五十歳位までの時代。色欲、物欲、名誉欲すべて旺盛で生涯の中で煩悩が一番強い。あれが欲しい、これが欲しい、ほめられたい、認められたいという欲の心が盛んな時代。

10.「有(う)」とは、生存によって欲望やそれに執着することから未来に再び生まれ出る結果が定まること。ここまで積み重ねてきた業によって未来の果報を有すること。「愛」「取」の煩悩に引きずられ、色々な悪業を造って未来に輪廻転生する種を残します。

11.「生(しょう)」とは、現世に造った業によって未来に生まれることをいう。

12.「老死(ろうし)」とは、生まれてから老衰してやがて死んで行き、また未来世に生まれ輪廻するということ。
132.
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このように、十二因縁は三世にわたっており、

・ 1番目から2番目までは過去世
・3番目から10番目までは現在世
・11番目、12番目は未来世

を示しています。
133.
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 この十二因縁は心から全てが生じる性の十如是を説いたものでその因縁は現在・過去・未来の三世におよぶことが示されています。
 人の行いは本人の意思に関係なく全て無意識のうちにアラヤ識に蓄えられていきます。それら自身の前世の行為が因となって現在の自身の姿(果)が形成されています。『開目抄』で仰せの、

「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」

の御文の通りです。声聞は前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)からなる意識(第六識)を中心とした未だ実体思想にとらわれた境涯ですが縁覚はこれらの表層意識を空じることでマナ識・アラヤ識を観じとっていく境涯です。
134.
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 表層意識を空じることを五蘊を空じると言います。これは般若心経の「照見五蘊皆空」の句によるところですが、人が物事を認識する作用である「色受想行識」の五蘊を空じることで、ものごとのありようは全て条件によって変わるもので、そのもの自体には本質や実態は無く「無我・無自性」であるという真理を得ます。
135.
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「色受想行識」という五蘊の認識作用は肉体から生じる作用です。仏法でよく解脱という言葉を耳にしますが肉体からの解脱とは五蘊を空じることを意味します。
136.
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 肉体がある限り五蘊に惑わされ煩悩が生じます。ですからその肉体を完全に焼き尽くして涅槃に入ろうとして灰身滅智するのが析空で空に入る声聞です。身を灰にして智をも滅してしまいます。
137.
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 それに対し体空で空に入る縁覚は、空の中にある「智」、すなわち仏の智慧を観じとって悟りを深めていきます。
 声聞という境涯は仏の声を聞くことで仏門に入っていくのですが「声を聞く」というのは五蘊による認識作用です。それに対し縁覚は独覚ともいわれるとおり一人で悟りを得ていきます。縁覚は五蘊を空じることで空の中に仏の一大事因縁を観じて悟りを得ます。ですから「縁覚」というのです。
138.
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 一大事因縁とは「仏はただ一つの大事をなす為だけにこの世に現れる」という「一大事の因縁」です。『御義口伝巻上』の中で(御書P.717)、

「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」

と日蓮大聖人が仰せの一大事です。空の中に一大事の因縁を観じとった縁覚は通教の中で空諦を顕していきます。それが竜樹が顕した「中論」です。
139.
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 「中論」の中で竜樹は、お釈迦さまと同じ思想にたって「実体観」を破析し、十二縁起を用いて「無自性」を説き、

 「縁起」→「無自性」→「空」

といった理論で、「縁起」という関係性の中であらゆるものは認識され、縁する対象が変われば認識もまた変わるとして「すべてのものは実体がなく空である」としています。
140.
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 そして竜樹は「空」を実体の有と非実体の無のどちらにも属しない「中道」の「非有非無」として真俗の二諦説を説きます。

・俗諦=モノの有無 --- 世間一般法
・真諦=縁起=空(非有非無)--- 仏法
141.
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俗諦は「世間的真理」で実体思想(実体観)における真理で、真諦は「出世間的真理」で仏法における真理をいいます。

竜樹の二諦説は空・仮・中の仮(俗諦)と空(真諦)のみで中諦は天台が別教の中で顕します。
142.
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1-11 別教
143.
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 竜樹は般若心経の中で説かれる「空」をもって体空観を顕しますが、天台は維摩経の中で説かれる不二の法門をもちいて「而二不二」の中諦を顕します。

<天台の空・仮・中>
・仮‐有
・空‐空(非有非無)
・中‐亦有亦空
144.
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 蔵教で縁起と因果を悟って声聞となった阿羅漢は、通教で空を悟って縁覚となり、別教で不二の法門を悟って菩薩の境涯に至ります。九識で言えば自我が眠るマナ意識よりも更に深い階層のアラヤ識に入ったことになります。この識層では自我が生じないので自他の分別がおきない無分別の境地(菩薩の境涯)となります。
145.
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 人の「悩み」の多くは、他者とのかかわりから起こっています。心理学者であるアドラーは「悩みとはすべからく対人関係の悩みである」と言っていますが、私達は社会の中で生きている以上、家族や友人、同僚や近所の人などさまざまな人達と関わりながら生きています。その関わりの中で、他者と比較されたり比較したりで、他者との軋轢(あつれき)による悩みが生じてきます。
146.
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 仏法では、アラヤ識における無分別の境地に示されるように、自身と他者を区別して考えるのではなく一体と考えます。我々が現実として認識している世界は、分別の心から立ち上がっています。認識器官である前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)は、すべて違いを見分ける器官です。他人と自分といった分別の心から自我が形成され、自我が生じることで我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩が生じます。
147.
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 ですからお釈迦様は「無我」を説いて自我への執着を遠ざけます。自我への執着が強い人は、「人からあなたは馬鹿ですね」と言われると感情のなすがまま激怒します。しかし自我への執着がない人は「この人には私はそういうふうに映っているんだ」と思うだけのことです。これが無我の境地です。
148.
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 また人を見る時も、我見が強い人は自分の価値観で他者をも判断してしまいがちですが、我見が無い人は他者を無自性と見ます。状況によって変わる縁によって今は一時的にこのように顕れて見えているに過ぎない(仮観)と見るのです。常識や自身の価値観は世間一般的な真理で、それは実体にとらわれた実体観です。実体は実は無自性(仮観)で、我もまた無我である(空観)と観じることで中諦の真理が見えてきます。
149.
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 自身が電車の中に居る場面を想像してみて下さい。

 実体観で捉えると客観的に考えて立っている人は辛く座っている人は楽です。ですから座って楽にやり過ごしたいという欲が生じます。これが自身と他者を分別した我有りから生じる一般世間における心理です。我を打ち消して心が欲から離れると視界は外に広がり、困っている人に席を譲ってあげようという心理が働きます。自分が立っていればこの人は楽に居られると思えば、他者貢献の心で自身が満たされます。かりに自分が座っていたとしても立っている人がいるおかげで今自分は座って楽が出来ているんだと思えば「ありがとう」の感謝の心で満たされます。
150.
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 このように自他を分別する心から離れて、自他を一体として捉える心が不二の法門です。二にして而も二に非ずの「而二不二」の悟りです。
151.
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 表に現れた差別の色相(仮)は実在の「有」で、その「有」が認識世界を立ち上げています。その「有」を空じて心で観じとった先に「有」にも「空」にも偏らない中道としての而二不二の「中」があります。「有」でもあり「空」でもあり、また、「有」があるから「空」がある。この而二不二の「亦有亦空」が凡夫の真実の姿であり仮観、空観に対して「中観」といいます。
152.
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 仮諦は実体に即した真実の姿、空諦は実体を空じることで現れてくる真実の姿、中諦はその両側面を分別することなく無分別で捉えていく中道としての而二不二で、有でもあり空でもある「亦有亦空」の凡夫の真実の姿です。「亦有亦空」が凡夫の真実の姿なのに対し、仏の真実の姿は「非有非空」です。仏の非有非空については次の章で詳しくお話しさせて頂くとして、蔵・通・別・円の四教は次の様に示すことが出来ます。

・蔵教—声聞乗 有     仮諦
・通教—縁覚乗 空     空諦
・別教—菩薩乗 亦有亦空  中諦
・円教—仏乗  非有非空  円融
153.
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 乗は乗り物の喩えで教えを意味します。未だ実体思想から抜けきれずにいる声聞に対して説かれた蔵教の教え、そして体空を悟った縁覚に対して説かれた通教の教え、而二不二の中道の境地に至った菩薩に対して説かれた別教の教えとここまで順にお話してきました。
154.
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 『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で大聖人様は次のようにご教示あそばされています(P.560)。

「三蔵教より別教に至るまで四十二年の間の八教は皆ことごとく方便の教えであり、夢のなかの善悪を説いたものである。ただしばらくの間、衆生を誘引するために用いられた支度・方便の教えなのである。この権教のなかにも、それぞれに皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があって差別がないのである。また言葉も同じであり、文字にも違いがない。これによって、言葉に迷って権実の差別をわきまえないときを仏法が滅びるというのである」
155.
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 この御文の前半部で蔵教・通教・別教が説かれた四十二年間の教えは方便の教えであると仰せです。ですから方便は用いず真実の教えである法華経だけを用いれば良いと思いこんでいるのが日蓮正宗及びその教学の流れをくむ創価学会です。
 その後に「この権教のなかにも、それぞれに皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。」と大聖人様は明確にお示しになり、更に「四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があって差別がないのである。」と仰せです。
156.
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 権教(蔵・通・別)の中にも方便と真実とがあって蔵・通・別・円の四教の違いによって入り口は違えども、辿りつく到達点はみな同じであると言われております。解り易く言えば、有門の実体に即して説く一念三千(仮諦)も空に転じて説く空門の一念三千(空諦)も、中道(而二不二)を説く亦有亦空門の一念三千(中諦)も、全て中道一実の妙法に集約されると御指南あそばされているのです。
 仮諦を説いた蔵教と、空諦を説いた通教と、中諦を説いた別教の三つの教えが円教である法華経によって円融する訳ですが法華経が説かれる以前の爾前経においては、蔵教を学び八正道を実践した声聞達は、通教の時代に縁覚に転生して十二因縁を悟り、別教の時代に菩薩として転生して六波羅蜜を実践して気の遠くなるような長い歴劫修行の果てにやっと仏の境地に辿りつきます。
157.
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 中諦を中心に説かれた別教では華厳経の中で「毘盧遮那仏」が説かれ、大日経で「大日如来」がそれぞれ法身仏として説かれています。ここで説かれる仏は人の姿からかけ離れたいわゆる仏の三十二相を備えた色相荘厳仏です。十界互具が説かれていない時点においては凡夫は九界を離れて転生によって仏界に辿りつくしかありません。
158.
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 また阿弥陀経の中で説かれる阿弥陀如来は仏界の仏が九界の衆生を他力によって涅槃へと導く「他力本願」の他受用身です。このような別教で説かれた九界から離れた仏のことを「厭離断九の仏(おんりだんくのほとけ)」といいます。
159.
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 最初の方で外道のお話をしましたが、外道にも三種あって1番目が仏法外の外道いわゆるキリスト教などの三世を説かない教えで、2番目が仏法を学んでも未だ実体思想に捕らわれている小乗の外道(灰身滅智)、そして3番目の外道が大乗の外道でこの「厭離断九の仏」がそれにあたります。『十法界事』にそのことが詳しく示されています(418ページ 8行目~11行目)。
160.
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「大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや」

(同ページ17行目に飛んで)

「故に釈に云く「円乗の外を名けて外道と為す」」
161.
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 仏界の仏が九界の衆生を救い導くといった別教で説かれた仏(厭離断九の仏)のことを「他受用身」といいます。「他に受け与える」という意味です。何を受け与えるのかというと仏様が悟った境地であり仏の智慧です。別教で説かれる仏が「他受用身」なのに対して円教で説かれる仏は「自受用身」です。自受用身は「自らに受け用いる身」で、悟りによって得た法を自らに受け用いる仏のことです。法華経では十界互具が明かされることでこの「自受用身」が説かれています。
162.
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 仏は必ず三通りの姿を備えていると経典に示されており、応身如来・報身如来・法身如来の三身如来がそれにあたります。他受用身や自受用身はこの中の報身如来のことで正確には他受用報身如来と自受用報身如来になります。
163.
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1-12 応身・報身・法身
164.
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 応身・報身・法身の中の「法身」は「法」そのものを指して「法身」というのですが、ではどのような法かと言いますと、仏様が悟った様々な御法門のことで五十二の悟りがあると言われています。「縁起の法門」や「因果の法門」はその中の一つに過ぎません。
165.
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 法華経以前の仏道修行者達は歴劫修行の中で蔵教・通教・別教の三乗の修行によってこの五十二の悟りを次第に悟っていきます。そして辿りつくのが厭離断九の他受用報身です。
 実はこの別教の中で説かれる厭離断九の仏は、「毘盧遮那仏」も「大日如来」も共に架空の仏、「権仏」であると大聖人様は御教示あそばされています。どうして「権仏(仮に顕された仏)」かといいますと応身・報身・法身が一体でないからです。三身が一体に具わっているのが仏です。
 『十地経論』に「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とありますように、全ての仏には三身が備わっています。ですから三身が別体の別教の仏は「実仏」には成り得ません。
166.
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 仏は本来、色も形もない言葉を離れた真理なので、人間が認識できるものではありません。しかし人間が認識できず、人間と関係を持てなければ、人間を救うこともできません。ですから仏は、私たちの認識に乗る様々な姿を現わして法を説きます。それが法身・報身・応身といった仏の三身(法報応の三身)の現れ方です。
167.
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 「法身」は、真理であり法そのものですから、人間が認識することができない仏であるのに対し、法を説くために人間が認識出来る姿で(人に応じて)出現された仏が「応身仏」であり、お釈迦さまです。
 そのお釈迦さまの応身の姿にも「劣応身」と「勝応身」とがあり、実体に捕らわれた声聞や仏法をしらない凡夫達が住む「同居穢土」いわゆる娑婆世界に住する蔵教の教主たるお釈迦さまが「劣応身」です。
168.
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 実体思想が強い「同居穢土」の住民は実体に即して法を説かないと理解に至りませんから実体(肉体)を備えた「劣応身」として仏が娑婆世界に出現されました。
 しかし実体思想に捕らわれた声聞達は「析空」に堕ちいってひたすら解脱による「灰身滅智」の境地を目指します。この蔵教がひろく説かれた正法時代の前半の500年を「解脱堅固の500年」といいます。
169.
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 それに対し実体思想から離れた空(体空)を悟った境涯に対しては仏は肉体を必要としません。「方便土」に住して神通力によって変現自在の仏身を示していきます。そのお釈迦さまの仏身が「勝応身」です。
 通教で体空を展開していった竜樹が活躍したこの正法時代の後半の500年を「禅定時代の500年」といいます。
170.
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 お釈迦様は蔵教がひろく説かれた「解脱堅固の500年」では「劣応身」として法を説き、通教が展開された「禅定時代の500年」では肉体から解脱して「勝応身」として法を説いていきました。
 この解脱堅固、禅定時代というのは「五箇の五百歳」といいまして、釈迦滅後の二千五百年間を五期の五百年間に区切って、仏法流布の状態を説明したものです。
171.
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【五箇の五百歳と代表人物】

釈尊滅後、はじめの五百年を解脱堅固 / 迦葉尊者・阿難尊者
・戒律を中心に解脱を目指す小乗の教えが盛んだった時代

次の五百年を禅定堅固(ぜんじょうけんご) / 竜樹菩薩・天親菩薩
・空思想がひろまり禅定が盛んに行われた時代

次の五百年を読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご) / 天台大師(智顗)
・経文が中国に渡り、読誦や教義の研究論議が盛んに行われた時代

次の五百年を多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご) / 伝教大師(最澄)
・経文が日本に渡り、塔や寺が盛んに建造されていった時代

そして五番目の五百年は、闘諍堅固(とうじょうけんご) / 日蓮大聖人
・修行僧らが互いに自説を主張して譲らず、争いが盛んな時代
172.
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 また、法報応の三身を図に示すと次のようになります。

<応身>劣応身・勝応身
<報身>他受用身・自受用身
<法身>当体蓮華の仏(南無妙法蓮華経)
173.
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 これらの図に蔵教・通教・別教・円教の四教と五箇の五百歳を重ねて図にまとめると次に示す<五箇の五百歳と四教の図>のようになります。

https://livedoor.blogimg.jp/butudou/imgs/2/9/29956ffa.gif
174.
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 図に示すように蔵教で劣応身の釈迦が仮諦を説き、通教で肉体から解脱した勝応身の釈迦が変幻自在に「空」を説き、別教で衆生を涅槃へと導く仏、他受用身が顕されます。

・釈迦(応身)--- 蔵教
・阿弥陀仏(他受用報身)--- 通教
・大日法身・毘盧遮那仏(法身)--- 別教
175.
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 このように別教に至って三身が説き明かされた訳ですがここでの三身はそれぞれが別体として顕されています。それぞれが互いに相隔たったかたちで説かれているので「隔歴の三諦(きゃくりゃくのさんたい)」といいます。一身に三身を具えているのが仏ですから別教で説かれる別体の仏はみな権仏となります。
176.
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1-13 円教
177.
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 蔵・通・別・円の四教の中で最後に位置する円教において法華経が説かれ、それまでは決して明かされることが無かった「十界互具」が初めて示されて一念三千の御法門が説き明かされます。
 それによって今まで別体として説かれてきた応身・報身・法身が一身に顕され空・仮・中の三諦が円融します。
178.
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 そのことが『三世諸仏総勘文教相廃立』(P.571)の中で示されています。

「損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損じ仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず」
179.
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【解説】

 「生死には「分段生死」と「変易生死」の二種があります。「分段生死」は凡夫の生死(六道輪廻)で、「変易生死」は五蘊を空じた聖者(声聞・縁覚・菩薩)の不可思議な生死をいいます。
 声聞・縁覚・菩薩の各々が菩薩の道を修行して仏に成らんとする因を積んでいく中で、数えきれない程の劫数を経て同居土(穢土)から方便土へ、方便土から実報土へ下位を捨てて上位に転生(生まれ変わり)し遥か遠くの仏(厭離断九の仏)が住む浄土を目指すことを「変易の生死」といいます。しかし、穢土において凡夫が法華経を修行すれば十界は互具し、三身は一身に現れて「変易の生死」を一生の内に修めて即身成仏を遂げることができるのです。」
180.
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 一念三千の法門はとても複雑で難解極まりない法門です。ですからお釈迦様は衆生が理解に至るように分かり易いところから徐々に法を説いていかれたのです。本来一仏乗の教えである法華経を三乗に開いて説き、最後に再び一つに集約されます。それが「開三顕一」の意味するところです。
181.
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 法華経が説かれる以前の正法・像法時代の仏道修行は、<五箇の五百歳と四教の図 P.29>に示されるように声聞から縁覚そして菩薩へと次第に境涯を高め、気の遠くなるような歴劫修行の果てに最終的に九界の凡夫の身を滅して転生によって浄土へと向かう「変易の生死」でした。
182.
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 末法の時代に生まれてきた私たちは、そのような大変な修行をしなくても日蓮大聖人が顕して下さった「事の一念三千」である御本尊様に日夜朝暮に又懈らず「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えていくことで、隔歴の三諦である「変易の生死」を、円融の三諦として一生の内に修めていくことが出来ます。その三諦が円融する仕組みを次章「円融三諦」で詳しくお話ししてまいりたいと思います。
183.
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法華経 第一章 『 迹 門 』 完

令和元年 八月 十五日 法介
185.
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第二章 法華経『本門 – 円融三諦』
186.
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2-1 相待妙と絶待妙
187.
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日蓮大聖人は『実相寺御書』の中で、

「夫れ法華経の妙の一字に二義有り一は相待妙・麤を破して妙を顕す二は絶待妙・麤を開して妙を顕す」

と仰せになり妙法には、麤法に対する妙法と麤法を開いて顕す妙法との二つの意義があると御指南あそばされています。
麤法(そほう)とは、粗雑な劣った法という意味で最高の教えである法華経の「妙法」に対する言葉です。「麤法を破して妙を顕す」というのは麤法と妙法とを比較対象することで、教えの勝劣を示して法華経を最高の教えとします。そうやって顕された法華経が「相待妙」です。
それに対して「絶待妙」は「麤法を開して妙を顕す」なのですが、そのことを大聖人様は『諸宗問答抄』の中で、

「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり」

と仰せになっております。「開会」とは、法華経の教えがあまりに高度過ぎて衆生にとっては難信難解な教えな為、お釈迦様は、本来は一仏乗の教えである法華経を声聞・縁覚・菩薩といった三乗の教えに開き、それぞれの機根に即した形で法を説いていきます。そして開いた三乗の教えを再び一つに会わせて集約して最後に法華経を顕します。この開いて示した三乗の教えを一つに会わせて示すことを法華経の「開会」といいます。
188.
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【三乗の教え】
声聞=蔵教 (但空の理) 仮諦
縁覚=通教 (不但空の理) 空諦
菩薩=別教 (但中の理) 中諦

【法華経の開会】
仏=円教 (一念三千)   円融の三諦
189.
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更に大聖人様は、『一代聖教大意』の中で次のようにも仰せです。

「相待妙の意は、前四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節(かせつ)と申す。絶待妙の意は、一代聖教は即ち法華経なりと開会す」

当分というのは“そのままそこで”ということで、ある限られた範囲内で論じる事をいい、跨節は、“節を跨ぐ”ということで、その小さな範囲を跨いで、より大きな視野に立って一重立ち入って論ずる事をいいます。
要するに相待妙は比較対象から理解する浅い法華経ですが絶待妙は一代聖教から理解するより踏み入った法華経であると御指南あそばされています。
開いた三乗の教えを「正直者方便」の教えのもと学ぶ必要は無い教えだと勘違いして捨ててしまっては正しい法華経の解釈には至りません。
空や無我・無自性は爾前権教で詳しく説かれた教えです。「空」を正しく理解出来てはじめて三諦の円融が何たるかの理解に至ります。
前回まとめた法華経 第一章(迹 門)はそういった一代聖教からひも解く法華経を解説したもので、そこで述べられている法華経が「絶待妙」としての法華経です。
190.
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『諸宗問答抄』の「絶待妙と申すは開会の法門にて候なり」の御文の続きには次のようにあります。

「絶待妙というのは開会の法門である。このときには爾前権教と嫌って捨てたところの経を皆、法華の大海におさめ入れるのである。したがって法華経の大海に入るならば爾前の権教といって嫌われるものはないのである。皆、法華経の大海の不可思議の徳として南無妙法蓮華経という一味にしてしまうのであるから、念仏・律・真言・禅という別の名を呼び出すような道理は全くないのである。」

相待妙と絶待妙は別々にあるのではなく、妙の一文字の中に同時に含まれているというのが法華経です。別々と考えてしまうと、相待妙で法華経を第一とした後、爾前教は必要ありませんので捨てるだけになります。そのように比較対象の考えのみになってしまっているのが日蓮正宗や創価学会の誤った解釈です。

法華経を最高の教えとさとしたいのであれば、相待妙だけでよいはずですが、「二妙」ということですので、もう一つの妙があります。それが絶待妙です。絶待妙は、一代聖教がすなわち法華経であると考えます。
爾前経の中にも重要な法門がたくさん説かれています。それは捨てるべき教えではなく、法華経を正しく理解していく中で生きてくる教えなのです。(体内の権)

法華経が説かれた後は、念仏宗だとか真言宗だとか天台宗だとか言っても意味がないのです。どの水も海に流れ込めばみんな一同に塩味の海水になるのですから。すべては「法華経」に集約されるのです。
相待妙、絶待妙の考え方からすると、お釈迦様が説かれた一代聖教は、無駄になるものは何一つないということです。
191.
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現代用語では「相対」に対して「絶対」という言葉を用いますが、なぜここでは「相待・絶待」という字を用いているかについて、次に説明致します。

「相待」という言葉は「あいまつ」という意味で縁起という言葉と同じ意味をもっています。要するに「あいまつ」というのは、世の中の全ての事物は、それ自体が独立して成り立つものではなく、相互の関係の中で始めてその存在が成立するといった縁起の関係を含めた言葉なのです。

一人の女性はまず男性に対して女性といいます。そして、両親にむかっては娘であり、夫にむかっては妻であり、子にむかっては母です。
それぞれが、それ自らは「無自性」ではあるが、縁する対象によって女性として、また娘として、妻として、母として顕れます。何に縁するかによって意味合いが変わってくる、そのことを「相待」といった言葉で表しています。

更に、「相対」と「相待」の違いについて説明すると、たとえば電車の中で立っている人と、座席に座っている人がいたとします。相対では「立っている人に対して座っている人」ですから、「立っている人は座っている人よりも辛い」、「座っている人は立っている人よりも楽」、といった比較相対になります。(客観認識)

それに対して相待は、「立っている人がいるから自分は座れている」、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」、といった相互の関係の中の自分となります。(主観認識)
192.
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では、それぞれの文を「絶対」と「絶待」に展開してみましょう。比較相対の「相対」に対する言葉である「絶対」を用いると、「絶対座っている方が楽だよね」となります。
かたや「相待」に対する「絶待」はと言いますと、「立っている人がいるから自分は座れている」の文は、「ありがとう」の感謝の心へ展開され、「自分が立っていることで、座っている人が楽に乗車出来ている」の文は、他者貢献による自身の心の満足へと展開されます。

電車の中のささいな出来事ですが、それを比較相対で認識すると、「座っている方が楽だ」という欲が自身の心に生じます。
しかし「相待」で認識すると感謝の心や心の満足を得ることが出来ます。これが相待妙と絶待妙の二妙の力用です。

比較相対で物事を認識する生き方は。我欲が中心となって煩悩に覆われて苦しみの人生となっていきます。相待妙と絶待妙の二妙の力用を備えた妙法(法華経)の認識の中に心をおいてこそ真実の幸福な人生を感じ取っていけるのです。
193.
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2-2 教相と観心
194.
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「相待妙」では、お釈迦様が説かれた一代聖教を五時八教に分類わけして比較対象し、その勝劣をあきらかにする訳ですが、それは文字によって示された教相による判別で、「教相判釈(はんじゃく)」と言います。
その「教相」に対する言葉で「観心」があるのですが、『観心(の)本尊抄』で大聖人様は、

「観心とは我が己心を観じて十法界を見る 是を観心と云うなり」

と仰せになり、十界曼荼羅の御本尊を「観心の本尊」として顕されました。御文の中の「己心を観じて十法界を見る」とは、十界曼荼羅を本尊として崇めて「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えた時、自身の心が観じて十法界を見ることが出来るということです。
195.
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御本尊は仏の十法界が示されており、我々凡夫は凡夫の十法界です。人の心は意識から成ります。意識が遠のくことで人は死を迎えます。しかしそれは、表層の意識が停止しただけであって死後も深層意識として意識は存在し続けます。
歴劫修行によって肉体から解脱した阿羅漢は天界に留まり、そうでないものは六道輪廻をくり返します。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の欲にまみれた六つの境界でこの六つをまとめて欲界と呼びます。

その欲界の上に色界があって更に最上部に無色界が存在します。この三つを三界と称して仏法の世界観は形成されています。
凡夫が住処とする欲界の上に位置する色界は、禅定によって肉体から解脱し、淫欲と食欲の二つの欲を離れた穏やかな境地です。しかし、因縁によって再び欲界に転生するので欲界と等しく未だ物質的要素を含んだ世界です。

欲界が六道が住む世界なのに対し、色界は声聞・縁覚・菩薩・仏の住む世界とも言えます。
三つ目の無色界は、物質的なものから完全に離れた如来の住む真如で、三界の最上部に位置します。ここに位置する如来を法身如来と呼び、法身如来が色界まで降りてきて声聞・縁覚・菩薩に対して法を説くのが報身如来、そして欲界の凡夫にも認識出来る姿で地上に現れるのが応身如来です。
196.
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【法身】(無色界) – 色も形もない真理(法)そのもの。真如。

【報身】(色界) – 声聞・縁覚・菩薩の三乗は修行の果徳として仏の法を受け用いる。果徳の受け方には以下の二種がある。

・自受用身 – 自らに法楽を受け用いる。(一念三千)
・他受用身 – 衆生に法楽を受け与える。(阿弥陀仏)

【応身】(欲界) – 衆生に応じて出現する仏。地上に出現したお釈迦様。
197.
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この三界を別々にみるのが爾前権教の教えで、実教の法華経では三界が凡夫の一身にあらわれると説きます。
方便として説かれた阿弥陀仏は「他力本願」の他受用身ですので報身仏です。三身も三界も別々に位置する爾前権教の教えなので欲界の凡夫を他界の仏が救っていきます。
対して法華経で説かれる一念三千は、自受用身の報身です。法身は「南無妙法蓮華経」で凡夫の体が応身で、この法身・報身・応身の三身が凡夫の一身にあらわれて三身即一身の本仏(真実の仏)の三身如来と成ります。
大聖人様は伝教大師の言葉をかりて「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」と仰せになられています。
198.
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御本尊に向かってお題目を唱えることで、己心に十法界を観じて即身成仏の本仏となります。それが「観心の本尊」の観心の意味するところで、一念三千の仏の智慧(自受用身)を観じとるということです。

三身相即なるが故に、一念三千は自らに法の果徳を受け用いる自受用身ですが、それ以外の仏像等の本尊は三身が別体の他受用身ということで権仏(仮に示された仏)となります。
199.
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2-3 四土
200.
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「依正不二」という教学用語がありますが、これは依報と正報とが不二の関係にあることを示す言葉です。
依報・正報の「報」とは、「報い」の意で正報とは仏法の修行の「因」を積んだ声聞・縁覚・菩薩の三乗が、修行の報いの「果」として法楽をその身に受けることを意味します。
そして、それぞれの修行者がその報いを受ける為のよりどころとなる環境や国土のことを依報といいます。
修行が進んでいく中で、悟りが深まっていくと、その悟りにともなってあらわれてくるそれぞれの依報も変化していきます。それを示したのが「四土」という四種の修行者の国土空間です。一念三千の御法門の三世間の国土世間のお話です。

四土は、凡聖同居土、方便有余土、実報無障礙土、常寂光土の四つの国土のことをいいます。それぞれの説明は以下の通りです。
201.
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【凡聖同居土】
略して同居土。迷いの凡夫と覚りを得た聖人とが、ともに存在する国土をいう。この国土の仏身は劣応身とされる。

【方便有余土】
略して方便土。見思惑を断じた声聞・縁覚の二乗が生まれ住む国土のこと。すなわち方便の教えを修行して、煩悩の一部を断ずる小乗経の聖者が住む国土をいう。阿羅漢・辟支仏(縁覚)のように方便道を修行して一切の煩悩を仮に断じたゆえに「方便」といい、いまだ元品の無明を断ずることができないゆえに「有余」という。この国土の仏身は勝応身とされる。

【実報無障礙土】
略して実報土。無明の煩悩を段々に断じて、まことの道理を得た菩薩の住む国土をいう。実報とは真実の仏道修行をすることの報いとして、必ず功徳が現れること。この土は他受用報身を教主とすることから受用土とも呼ばれる。この国土の仏身は他受用身。

【常寂光土】
本仏・円仏が住む国土。迹土に対して本土ともいう。『観無量寿経疏』に「常寂光とは、常は即ち法身、寂は即ち解脱、光は即ち般若、是の三点縦横、並別ならざるを、秘密蔵と名づく。」とある。法身・般若・解脱とは仏にそなわる三種の徳相のことで、法身とは仏が証得した真理、般若とは真理を覚る智慧、解脱とは生死の苦悩から根源的に解放された状態をいう。法身が法身如来、般若は報身如来、解脱は応身如来としてあらわれる。それが時系列的・並列的ではなく円融して不縦不横となる。この国土の仏身は自受用身。
202.
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四土を悟りの側面に照らして示すと次のようになります。

【同居土】 蔵教=但空の理 (声聞)仮諦
【方便土】 通教=不但空の理(縁覚)空諦
【実報土】 別教=但中の理 (菩薩)中諦
【常寂光土】 円教=一念三千 (仏) 円融の三諦
203.
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蔵教で但空の理を悟った声聞が、通教で不但空の理を悟って縁覚へと境涯を高め、別教で但中の理を悟って菩薩となり、円教で一念三千の悟りを得て仏となります。
そのことを天台大師は摩訶止観の中で「円融の三諦」として顕しました。文字によって示された「円融の三諦」は教相の法華経です。観念観法によって自力で己心の十法界を見ようとします。それに対して日蓮大聖人の「観心の本尊」は、御本尊の徳用によって己心の十法界を直ちに観じ取ることが出来ます。これを「直達正観(じきたつしょうかん)」と言います。
204.
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天台は、止観法を用いて無意識層に意識を向かわせることで己心の十法界を見ることが出来た訳ですが、しかしそれは、過去世において仏に会い直接の教えを受けて一切の煩悩を断ち、何度も生死をくり返すなかで同居土、方便土、実報土、そしてその果てに常寂光土へと向かう気の遠くなるような歴劫修行な訳でして、仏に会ったこともない末法の本未有善の荒凡夫達がとても成し得るものではありません。

末法の衆生が自力で己心の十法界を見ることはまずあり得ません。どんなに頑張っても見れるのは九界までです。過去世において仏との縁がありませんので法に対する「因」が無いため報いとしてあらわれる「果」は実り得ません。仏果を得る事はあり得ないのです。ですから末法には仏に相当する徳用を備えた本尊が必要不可欠となります。
205.
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2-4 因行果徳の二法
206.
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仏の悟りを得るということは、仏の法に対する因(修行)を積んでその報いとして悟りとしての果を得るということです。
仏法修行者が、仏の悟りを修得するまでの全ての修行のことを万行といいます。仏の「五十二位」の悟りや、菩薩が行ずる六つの修行過程「六即」の行位がこれにあたります。これらを因位の万行といいます。
そしてその修行の因の報いとして受ける仏に備わる全ての功徳相を果位の万徳といいます。
大聖人様は、『観心本尊抄』で次のように仰せです。

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給(たも)う」

ここで仰せの「因行果徳の二法」とは、今ご説明しました「因位の万行」と「果位の万徳」のことを言います。
207.
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歴劫修行が根幹となっている釈迦仏法では、三祇百大劫という気が遠くなる程遥かに長い年月の間に転生し、修行を行わなければ成仏することは出来ません。
仏に成る因を積んでその結果として成仏という果報を得るといった因と果に長い時間差が生じる「因果異時」の立ち場で説かれた厭離断九の仏だからです。因と果に隔たりがあるため個別に説かれた空仮中の三諦も隔たった隔歴(きゃくりゃく)の三諦となります。

それに対して日蓮大聖人の仏法は、受持即観心を説いた「因果倶時(いんがぐじ)」の仏法で因と果が同時に備わります。妙法を唱うる一念に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」とありますように三世十方の諸仏のあらゆる因位の修行も果位の万徳も妙法蓮華経の五字に同時にそなわっているのです。
208.
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空仮中においても三即一、一即三と言いまして三は一に即し、一は三に即して相即相入して三諦が円融します。

一念三千の法門は、客観認識で解釈した実体に即した仮諦の一念三千と、主観に即して五蘊を空じることで観じとる空諦の一念三千と、仏の悟りに即して三身が我が身に顕れる中諦の一念三千とがあります。
仮諦の一念三千は日蓮正宗や創価学会の客観認識で展開された差別相からみた一念三千です。善悪といった分別観から離れることが出来ていないため互いの存在を悪と決めつけて罵り合っているのが実情です。

善も悪も自身の分別する心から生じているのだと客観認識から離れて五蘊を空じることで対象の捉え方が180度変わって見えたりもします。それが空によってもたらされる一念三千です。
空の一念三千は、いうなれば「気づき」とでも言いましょうか、見方を変えることで今までは悪人と思い込んでいた人物が実は善人だったというような話に喩えられます。
209.
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気づきの先に悟りがあります。仏の悟りは我々凡夫の想像を遥かに超えるものでそれは言葉では言いあらわせません。体験することで確信していきます。まさに信をもって会得するものです。
その悟りの世界観に我が身がつつまれて法身・般若・解脱の仏の三種の徳相が中諦の悟りの一念三千として顕れます。

【法身】とは仏が証得した真理。(法身如来)
【般若】とは真理を覚る智慧。(報身如来)
【解脱】とは生死の苦悩から根源的に解放された状態。(応身如来)
210.
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客観で認識できる現実にあらわれた色相を中心に十如是が働くと仮の一念三千が広がって自身をとりまく仮の世界が立ち上がります。(衆生世間)

客観世界を立ち上げている自身の五蘊を空じ、心から生じると書いて「性」を中心として十如是が働くと、実体への執着が離れて心を中心に空諦の一念三千を観じとることが出来ます。(五陰世間)

表層の意識をとらえていた心(六識)が、末那識(七識)・阿頼耶識(八識)と深層へと向かうことで、認識の変化が起こります。そして奥底の「九識心王真如の都」である南無妙法蓮華経という仏の因行・果徳の二法を譲り受け給って中諦の悟りの一念三千が顕れます。(国土世間)
211.
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このように凡夫の一身に空・仮・中の三諦が円融して顕れるのが一身即三身、三身即一身の三身相即の円融の三諦です。そのことを大聖人様は、『一念三千法門』の中で次のように仰せです。

「此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす 是れ僻事にて二義かけたり 天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、 第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ 如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり 是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり 八万四千又は般若とも申す、 第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり 是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり 是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり 又は解脱とも申す、 第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり 是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、 此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す 此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す」
212.
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この御書は、大聖人様が三七歳の御時、いまだ観心の本尊を顕される以前に顕された御書なので、教相の立場で一念三千の法門を示されています。ですから「此の一念三千一心三観の法門は」と観法(止観法)とまず述べて論を走らせ天台の教相の法華経をもって三諦の円融を御指南あそばされております。
そして十如是の三遍読に示されるように法華経(もしくは釈迦像)を本尊とした読誦の「教相の法華経」がここでは示されています。

三諦の円融にも教相と観心の違いがありますが、その違いが文上の理の一念三千と文底の事の一念三千の相違です。

観法や仏像を本尊とする修行法はすべて教相の法華経で、大聖人様は52歳の御時に『観心本尊抄』を顕して「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と末法に於ける本尊を「南無妙法蓮華経」と定められました。

私たち末法の凡夫は、因果の功徳を摂(おさ)めた妙法五字の御本尊に向かい唱題に励むとき、受持即観心の義が相成って、仏が証得された因果一念の功徳を自然に受けたまわることができるのです。
213.
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2-5 方便品第二
214.
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法華経は二十八品からなり、前半十四品の迹門と後半十四品の本門から構成されます。前半の中心となるのが法華経第二の「方便品」で、その教えには主に次のようなものがあります。

1.諸法実相
2.十如是
3.一大事因縁
4.開三顕一

大聖人様は『三大秘法抄』の中で「一念三千の証文は如何に」と問われて次のように返答されます。
215.
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「問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」

一つは「方便品」の諸法実相として示された十如是と衆生をして仏知見を開かせ、示し、悟らせ、入らしめ(開示悟入)ようとする仏の一大事因縁の御文。
もう一つは「寿量品」の「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の本地を明かす御文。

「寿量品」の方はまた後程ご説明させて頂くとしましてここでは「方便品」に絞って解説させて頂きます。
216.
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図書館に行くと「大正蔵」という漢訳大蔵経を読むことが出来ます。大正蔵は、正蔵(中国所伝)55巻、続蔵(日本撰述)30巻、別巻15巻(図像部12巻、昭和法宝総目録3巻)の全100巻から成る漢訳の仏典の最高峰と呼ばれている大蔵経です。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっています。

「大正新脩大藏經」
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php

データベース版の大蔵経では「方便品第二」は、鳩摩羅什による漢訳で、

T0262_.09.0005b24: 6妙法蓮華經方便品第二

から始まります。「T0262」はデータベース版での振り分け番号でその次の「09」が書籍の第9巻を示し「0005」がその巻内のページ数で「b」はページ内の上段(a)・中段(b)・下段(c)を意味します。最後の「24」はその段の先頭行から24行目ということです。

大聖人様が一念三千の証文とされている箇所は、

T0262_.09.0007a21: 能知之。所以者何。諸佛世尊。唯以一大事

から始まります。私達が日ごろ目にしない「方便品長行」の部分です。以下①~③の三つのパートに区切って説明していきます。
217.
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所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世①。

諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世②。

仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来但以。一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三③。
218.
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真読で①の分段を抜粋すると、

①[真読]

所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。

でこれを訓読に訳すと次のようになります。

[訓読]
所以は何ん、諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうと名くる。

仏はただ一大事の因縁を以てこの世に出現するという箇所です。②へ続きます。
219.
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②[真読]
諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。

[訓読]
 諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。

「開示悟入」の四つの仏知見を示す箇所ですが、この四仏知見は、十如是を三つの教えに開いて蔵教・通教・別教として示し、空・仮・中の三諦を悟らせ南無妙法蓮華経の一仏乗の円融の三諦へと入らせるという「開三顕一」の意義が含まれています。

『御義口伝』の中で大聖人様がそこのところを詳しく御指南あそばされていますので後程紹介させて頂くとして③に進みます。
220.
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③[真読]
仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。

[訓読]
仏、舎利弗に告げたまわく、諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし。

この分段の中で「唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわん」の文を『御義口伝』に習って解釈すると、「仏の知見とは即ち応身と報身をもって衆生に三乗の教えを示し、悟りをもって常寂光土へ入らせたもう」となります。そして「仏の教えは一仏乗であって、衆生の機根に合わせて説いたもので、他経のように二乗、三乗とあるものではない。」と示されています。
221.
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更に15進んで、

T0262_.09.0007b18: 故。欲令衆生入佛*之知見故。舍利弗。我今

舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。以種種因縁。譬喩言辞。方便力故。而為説法。舎利弗。如此皆為。得一仏乗。一切種智故。舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。舎利弗。諸仏出於。五濁悪世。所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。慳貪嫉妬。成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別説三。

【現代語訳】
舎利弗よ、われも今、またかくの如し。諸の衆生に、種種の欲と深く心に著する所とあることを知りて、その本性に随って、種種の因縁と譬喩と言辞と方便力とをもっての故に、しかも、ために法を説くなり。舎利弗よ、かくの如きは、皆、一仏乗の一切種智を得せしめんがための故なり。

舎利弗よ、十方世界の中には、なお二乗すらなし。何に況や、三あらんや。舎利弗よ、諸仏は、五濁の悪世に出でたもう。謂う所は、劫濁と煩悩濁と衆生濁と見濁と命濁との、かくの如きなり。 舎利弗よ、劫の濁乱の時には、衆生は垢重く、慳貪・嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏は方便力をもって、一仏乗において分別して三と説きたもう。

ともある。また『法華経 譬諭品第三』にも次のような御文があります。

T0262_.09.0013c13: 如來亦復如是。無有虚妄。初説三乘引導

初説三乗。引導衆生。然後但以大乗。而度脱之。何以故。如来。有無量智慧。力無所畏。諸法之蔵。能与一切衆生。大乗之法。但不尽能受。舎利弗。以是因縁。当知諸仏。方便力故。於一仏乗。分別三説。

【現代語訳】
初め三乗を説きて衆生を引導し、しかして後、但、大乗のみをもって、これを度脱するなり。何をもっての故なりや。如来には無量の智慧・力・無所畏の諸法の蔵有りて、能く一切衆生に大乗の法を与うるに、但し、尽くは受くること能わざればなり。舎利弗よ、この因縁をもって、当に知るべし、諸仏は方便力の故に、一仏乗において、分別して三と説きたもうなり。
222.
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またページをまたいで「T0262_.09.0014c28」から「T0262_.09.0015a02」にも、

【現代語訳】
また教え詔すと雖も、しかも信受せず、諸の欲染において、貪著すること深きが故なり。ここをもって方便して、ために三乗を説きて、諸の衆生をして、三界の苦を知らしめ、出世間の道を、開示し演説するなり。

とあります。これらの文章から開示悟入とは「三乗に開いて教えを示し悟らせ一仏乗に入らせる」ということが読み取れます。
223.
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2-6 御義口伝
224.
ユーザー
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『御義口伝(おんぎくでん)』は日蓮大聖人の講述を弟子である日興上人が筆録され、大聖人様の御允可(許可)を得て書かれた「寿量文底下種の法門」が明かされている御相伝書です。
その『御義口伝』の「第三 唯以一大事因縁の事」の中で大聖人様は、「方便品第二」について次のような御指南をされています。

「此の大事を説かんが為に仏は出世したもう 我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり」
225.
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この御文の内容を分かり易く解説してまいります。

仏は「一大事の因縁」を説かんが為にこの世に出現します。我らの一身が妙法五字であると悟った時が即身成仏なのです。「開示悟入」の四仏知見の開くというのは信心の別名です。

「信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり」

の御文の意味は、南無妙法蓮華経と唱え奉るならば我が身が即、空・仮・中の三諦と開くということです。

「然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり」

その信心を開くにあたり、南無妙法蓮華経を声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えとして示すことが示仏知見と云うのです。

「示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり」

三乗の教えの中で示された悟りの国土が一身に現われるを悟ることを悟仏知見といいます。

「悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり」

直至道場(じきしどうじょう)とは、「直達正観」といって瞑想や禅定をするまでもなく直ちに即身成仏することを言います。私達の身にあてはめるなら御本尊と境智冥合した当にその体こそが当体蓮華の入仏知見となります。

「然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり」

空・仮・中に開いた三諦を正意とするのですが、入仏知見の入の字は迹門の意で解釈すると実相ではあるものの理の範囲内での悟りであって、本門に入って考えると入の意は理論を超えた悟りそのものになるのです。

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり 、爰を以て之を思う に仏とは九界の衆生の事なり」
226.
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今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入ることであり、開仏知見の「仏」とは九界所具の仏界であり、「知見」とは妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法であり、色心因果であり、所詮知見とは妙法をみることであり、九界所具の仏界を法華経の知見にて開く事です。
この部分は少しわかり難いので、もう少しかみ砕いて説明します。

止観の二字については、

【止観】
仏教では瞑想を止と観の二つに大別する。止とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することで観とは、不動の心が智慧のはたらきとなって事物を真理に即して正しく観察することをいう。このように止は禅定に当たり、観は智慧に相当する。ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱したとされる。

とあるように「真理(止)と智慧(観)」ということです。寂照の二徳は、

【寂照】
 寂照とは、小乗に説く「寂滅」に対する語。小乗教では「生滅滅已・寂滅為楽」とあるように、煩悩を断じ尽くし、生死をはなれるところに悟りがあるとする。それに対し、大乗で説く「寂照」は、煩悩即菩提であり生死即涅槃のことである。此の土こそ常寂光土と説き、この世をはなれて悟りはなく、この身体はそのまま常楽我浄なりと説く。

とありますように煩悩(寂)即菩提(照)となります。

生死の二法は、「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」と仰せになられるように「体の仏と用の仏」の倶体倶用の関係を示し、色心因果は「色心の二法十如是是なり」と仰せになられております。

妙法の二字の解釈は、様々な言葉が含まれてきますので判断が難しいところですが「妙法の二字に諸仏皆収まれり」との御指南からここでは「諸仏の智慧」と解釈しておくのが妥当かと思われます。そういったことをふまえて、

「知見とは妙法の二字 止観の二字 寂照の二徳 生死の二法なり色心因果なり」

の御文を解釈すると、「知」は真実を知るということで色心の因果は十如実相に収まるということで、「見」はありのままを見るということではないでしょうか。止観の止がまさにそれにあたります。また寂照の二徳とは煩悩即菩提で、生死の二法は仏の用の働きと凡夫の体の働き(具体具用の仏)で、それらをふまえて妙法の二字には一切の諸仏の智慧が収まるのです。
227.
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要するに「仏知見」の「仏」は法身、「知」は報身、「見」は応身を意味し、九界所具の仏界(法身)を法華経の知(報身)見(応身)で開くという意味で、即ち、法華経に説かれている諸仏の智慧で凡夫の奥底に眠る仏界を開くということです。

『御義口伝』ではこの「四仏知見」の御指南の後に、続いて「一大事因縁」の説明文が示されています。

「又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦のことであり、この円融の三諦は何物ぞというと南無妙法蓮華経是なのです」

「仏は一大事の因縁により世に出現する」といった方便品の御文についての御指南ですが、先の「開示悟入の四仏知見」が凡夫の仮諦の一念三千なのに対して、この「一大事因縁」は本来、実体を空じて天上界に住する仏が、空を空じて(非空)下界に出現します。その仏の空諦の一念三千であり、性(如是性)を中心とした十如是が展開して空諦の一念三千が開かれます。

応身として現れたお釈迦様が報身の一念三千の法門を説いて衆生を仏界(法身)へと入らせるといった悟りの面で空・仮・中が開かれて体(如是体)を中心に十如是が展開され中諦の一念三千が応身・報身・法身として凡夫の一身に顕れて三身即一身の本仏となります。

「仏知見」はそういった仏(法身)知(報身)見(応身)を意味しています。

凡夫には凡夫の一念三千があり(仮諦の一念三千)、仏には仏の一念三千(空諦の一念三千)があります。これを体の仏(凡夫)、用の仏(仏)といいまして南無妙法蓮華経で境智冥合して「倶体倶用」の本仏となります(中諦の一念三千)。

これが「九界所具の仏界を法華経の知見にて開く事です」という大聖人様の御指南です。
228.
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2-7 多宝如来
229.
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先ほどの解説文の中で、「入仏知見の入の字は迹門の意で解釈すると実相ではあるものの理の範囲内での悟りであって、本門に入って考えると入の意は理論を超えた悟りそのものになるのです」とありましたが、これは「理の一念三千と事の一念三千」の話です。

仮諦の一念三千は実体に即した実相の話なので、言葉で説明出来る一念三千です。良く耳にする三千の差別の色相として語られる十界論です。

空諦の一念三千は、空を説く『般若心経』のなかで不垢不浄(ふくふじょう)の教えとして、心から生じる「性」から立ち上がる認識世界として語られます。

では、中諦の一念三千は、と言いますとこれは仏の悟りの境界で展開する一念三千で、お釈迦様が舎利弗に対して「言葉では言いあらわせない」と言い放った、理論を越えた悟りそのものの境地です。

理の一念三千は言葉で理論的に語り伝える事が出来るのですが、この悟りの一念三千だけはそうはいきません。概念から抜け出た真理としての事の一念三千ですから。
それが先にお話ししました「教相の法華経と観心の法華経」の違いなのです。
230.
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我々が現実として認識している世界は、縁起によって仮に佇む仮の世界で、その仮の世界は衆生世間・五陰世間・国土世間の三世間で形成されています。
この仮のなかの三世間は、衆生世間が仮(相)、五陰世間が空(性)、国土世間が中(体)となって仮の中で更に空・仮・中が互具して三三九諦を成します。

実体思想(客観認識)で世間や人々を認識する事で、善悪の分別の差別の色相が生じてきます。それが仮の一念三千の世界観です。

実体思想は五蘊の働きから起こるもので、その五蘊を空じることで仮のなかの空である五陰世間を中心にした「空の一念三千」を開く事が出来ます。
そして御本尊と境智冥合することで仮のなかの「中」へと入って煩悩を菩提へと転じる「中」の悟りとしての一念三千が開いて煩悩が寂滅した寂光土が国土世間として顕れます。
231.
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お釈迦様は本来、五蘊を空じた実体から解脱した空の空間に住んでいます。『寿量品』の自我偈の中に書かれている世界です。

「私の住む世界は安らかで天人や人々で一杯です。その国土の花園や宮殿は、種々な宝石で飾られ、木々には多くの花や実がなり、人々はそれらを楽しんでいます。天人たちは天の楽器をならし、常に多くの音楽を演奏し、マンダラの花が仏や人々の上に降り注いでいます」

空を住処とするお釈迦様は、我々仮を住処とする凡夫と違い、空の中で空・仮・中が展開します。お釈迦様は空を空じる(非空)ことで有の実在世界に出現します。その地上に出現したお釈迦様が、法華三昧にふけると実在の有が滅して「非有」となって再び空の世界へ舞い戻ります。空理(空の理論)の中で良く目にする「非有」とか「非空」といった用語はそういった意味で用いられます。
232.
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凡夫の仮の世界が「立有」とか「亦有」とかで表現され、お釈迦様の空の世界が「非有」とか「滅有」とかの言葉で表現されています。同じ仮の世界に実在していても元々の立ち位置(住処)の違いから凡夫は「亦有」でお釈迦様は「非空」で表現されます。

三昧という言葉は、良く勉強三昧とか仕事三昧とか言ったりしますが本来は瞑想にふける行為をさして言った仏法用語なのです。精神集中が深まった状態のことです。
お釈迦様は「無量義経」という経典を説いて、無量義処三昧に入ってから法華経の説法を始めたという記述が残っていますので法華経は空の空間で説かれたということです。ですから肉体から解脱した空間なので宝塔が宙に浮いて出現したり、如来が飛来して来たりの非現実の「虚空絵の儀式」が成り立つのです。

応身仏として空の世界から仮の実体世界へ舞い降りてきたお釈迦様は、自らの姿を劣応身・勝応身・他受用身・自受用身と変化させ、蔵・通・別・円の四つの教えをそれぞれ説いて衆生に示し、一念三千の自受用身をもって衆生を悟らせ、仏の境地である仏界の法身へと入らせます。
233.
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【劣応身】
身体を伴って蔵教を説いて声聞の弟子達を教化する応身のお釈迦様の姿。

【勝応身】
肉体を伴わず通教で竜樹や天親(世尊)の縁覚達(辟支仏)に空を説く知恵の象徴としての観音菩薩(般若心経で空を説く)の姿。

【他受用身】
別教で九界から離れた浄土を説いて衆生を悟りに導いた大日法身
や阿弥陀如来、毘盧遮那仏などもお釈迦様の化身としての姿。

【自受用身】
衆生が視覚で認識出来る「応身仏」から智慧としての「法」に転じた「報身仏」としてのお釈迦様の姿。それが法華経であり一念三千の法門。
234.
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経典に説かれている観音菩薩や阿弥陀仏、大日如来などは、お釈迦様が真理をあまねく一切衆生に悟らしめんが為に知恵を客体(お釈迦さまの意志や行為が及ぶ目的の譬えの対象として人格化した姿)として表現されたものです。

では法華経に登場する「多宝如来」はと言いますと、それとは違ってお釈尊様以前に悟りを開いた無数の過去仏の中のお一人で、東方無量千万億阿僧祇の宝浄国に住するといわれる仏様です。「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」という意味でそれ程はるか遠い昔に既に悟りを開かれた仏様です。
法華経信仰に基づいて釈迦仏とともに二体一組で表される場合がほとんどで、そのように釈迦仏と多宝仏を一対で表すのは、法華経第十一品の『見宝塔品』の次の説話に基づいています。
235.
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「釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった」

法華経は凡夫と仏が而二不二で倶体倶有の本仏として顕れることが説かれた経典です。その事からひも解くと久遠で菩薩の修行をしていたお釈迦様を成仏へと導いた仏様が多宝仏だったということになります。
236.
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日蓮正宗では日蓮本仏論を正当化する為の教学として「久遠においてお釈迦様は大聖人様の元で修行して仏になった」としていますがちょっと無理のあるお話です。その話をしだすと長くなりますのでまた別の機会にお話するとしまして、要は凡夫と仏は常に一体となって表裏の関係で存在するという事が言いたのです。

「妙は死 法は生なり 此の生死の二法が十界の当体なり 又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云 此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし(明らかである)、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観(摩訶止観)に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
237.
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『生死一大事血脈抄』の「生死の一大事」の言葉の意味は、「死ぬか生きるかの一大事」ではありません。「仮の世界に生きる凡夫(仮観)と、空の世界に死する仏(空観)の空・仮・中」という意味なのです。

『御義口伝』
「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦のことであり、この円融の三諦は何物ぞというと南無妙法蓮華経是なのです」
238.
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2-8 四句分別
239.
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インドの論理学に「四句分別」というのがありまして、竜樹はこれを用いで空の理論を「中論」という著書にまとめました。
その著作から「中観派」と呼ばれる大乗仏教の一大学派が生まれます。当時のインドは小乗仏教が主流でしたが、未だ悟りは得ていないものの、仏道に励む菩薩の立場で衆生救済を目的として大乗仏教が広まります。
その竜樹が用いた「四句分別」は、

1.肯定(Aである)
2.否定(Aではない)
3.肯定かつ否定(Aであり且つAではない)
4.肯定でも否定でもない(AであるのでもなくAでないのでもない)

といった四つの立場の主張です。この四句分別で竜樹は「空」を実在の「有」に対して「有」でも無く、かと言って「無」でもないとした「非有非無」として定義します。
240.
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空は、実在の世界を立ち上げている五蘊を空じることで煩悩を断ち切ろうとする訳ですが、五蘊を完全に消滅させるものでは無いので「空」を「無」とはせず「非有非無」とします。

【竜樹の空理】
六道‐俗諦(有)
三乗‐真諦(非有非無)

このように六道を「俗諦」、声聞・縁覚・菩薩の三乗を「真諦」として竜樹は「二諦説」を唱えます。この時代(正法時代)は、“仏”が説かれていませんので「縁起」を真理(中道)として「凡夫の空・仮・中」を竜樹が顕します。
像法時代に入って仏法が中国に渡り天台智顗が、有でもあり空でもある「亦有亦空」の而二不二の「中道」を別教を通して示して、仮観・空観・中観の「一心三観」を顕します。

【天台の三観】
仮観‐有(俗諦)
空観‐空(真諦)
中観‐亦有亦空(中道)

天台のこの三観は、修行者における心の観法で、心に「仏の空・仮・中」を観じ取っていきます(空観)。具体的にはお釈迦様が仏として示された仏の空・仮・中の姿です。(劣応身・勝応身・他受用身・自受用身)

【釈迦の空・仮・中】(仏の空・仮・中)
実在の釈迦‐仮 非空
始成の釈迦‐空 非有
久遠の釈迦‐中 非有非空

肉体を伴う凡夫の空・仮・中(三観)を「四句分別」であらわすと、「有・空・亦有亦空」となりますが、解脱して天界(色界)を住処としている仏は肉体が寂滅した「空」の空間に存在しています。一大事の因縁によって再び肉体を伴って空を空じて「非空」で地上に出現します。やがてお釈迦様は菩提樹の下で、全ての「有」を滅して「非有」で悟りの境地に入ります。
241.
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法華三昧で「有」を滅して「非有」で空観に入って法華経の説法を始めます。そして『寿量品』で、

「我は実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」

と久遠に成仏した事を明かして「非有非空」となって無始無終の法身の仏と成ります。

上図の「実在の釈迦」は生まれて死んでいく「有始有終」の応身の仏です。そして悟りを開く事で全ての「有」を滅した始成正覚の釈迦は、「無終」となります。しかし生まれてきた事実は存在しているので「有始無終」となります。
しかし久遠の昔から仏であったと『方便品』の中で明かされることで「無始無終」の真の法身となります。そのことが御書の『一代五時鶏図』の中で次のように示されています。

      ┌ 応身───有始有終
始成の三身 ┼ 報身───有始無終
      ├──真言大日等
      └ 法身───無始無終

242.
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そして天台は、「凡夫の空・仮・中」と、「仏の空・仮・中」を応身・報身・法身の「悟りの空・仮・中」で開くことで三観・三諦を円融させます。そこの所をかみ砕いて分かり易く説明すると、まず

<隔歴の三諦>

【凡夫の空・仮・中】(仮)
仮観‐仮
空観‐空
中観‐中

【仏の空・仮・中】 (空)
仮諦‐仮
空諦‐空
中諦‐中

【悟りの空・仮・中】(中)
応身‐仮
報身‐空
法身‐中

の三観・三諦・三身が空・仮・中を成します。分かり易いように凡夫の空・仮・中を黑文字で、仏の空・仮・中を緑文字で、悟りの空・仮・中を青文字にします。
243.
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上の状態ですと凡夫は凡夫の中で空・仮・中します。仏も同じで仏の中で空・仮・中し、悟りの空・仮・中も三身が空・仮・中します。この状態が「隔歴の三諦」です。

天台は、凡夫の三観の中観で「而二不二」をまず悟らせます。実在への執着を「縁起」と「無我・無自性」を示して仮から空へ意識を転換させます。そして中観の「而二不二」を悟ることで凡夫が仏の空・仮・中を観じて悟りの空・仮・中へと入っていきます。
244.
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<円融三諦>

【仮諦の一念三千】
仮観‐仮‐①
仮諦‐仮(縁起・無我)
応身‐仮(而二不二)

【空諦の一念三千】
空観‐空‐②
空諦‐空(唯識)
報身‐空(色即是空)

【中諦の一念三千】‐③
中観‐中
中諦‐中
法身‐中

①の仮観では縁起と無我・無自称を観じて「而二不二」の悟り(仮諦)を得ます。②の空観では五蘊を空じることで「色即是空」の悟り(空諦)を得ます。

この①と②の「仮諦の一念三千」と「空諦の一念三千」は、これまでに詳しく説明して来ましたのでご理解頂けているかと思います。

③の中諦の一念三千(悟りの一念三千)がとても重要で「本門と迹門」、「文上と文底」、「理と事」の一念三千の違いとなってくる所なので次で詳しく説明してまいります。
245.
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2-9 円融の三諦
246.
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先に示した凡夫の三諦(空・仮・中)、仏の三諦、悟りの三諦を、報法応の三身にあてはめると「凡夫の三諦」が応身、「仏の三諦」が報身、「悟りの三諦」が法身となります。

肉体を伴った応身のお釈迦様は、蔵教の中で実体に執着する声聞の弟子達に「縁起・無我」を説いて実体からの執着を離れさせます。

菩提樹の下で法華三昧で実体を空じたお釈迦様は、悟りを得て法華経迹門の方便品で十如是を説き、始成正覚の立場で報身の理の一念三千を顕します。

そして法華経の本門で久遠を明かした立場で寿量品の文底で事の一念三千を明かします。
247.
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【釈迦の仏の空・仮・中】
実在の釈迦‐仮 縁起・無我
始成の釈迦‐空 方便品(迹門)
久遠の釈迦‐中 寿量品(本門)

このお釈迦様の空・仮・中を「仏の三諦」として「凡夫の三諦」、「仏の三諦」、「悟りの三諦」を方便品の“十如是の三篇読み”で開いてみましょう。
248.
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仮諦の一念三千
【凡夫の三諦】      (仮諦読み)
仮観‐仮 (亦有)    相の十如是
仮諦‐仮 (非空)    縁起・無我
応身‐仮 亦有非空(有)の本尊(十界の相)
|____|______|___(実体空間)   ←凡夫の国土

空諦の一念三千
【仏の三諦】      (空諦読み)
空観‐空 (亦空)    性の十如是
空諦‐空 (非有)    方便品(譬喩蓮華)
報身‐空 亦空非有(空)の理の一念三千
  |____|______|___(非実体空間)  ←仏の国土

中諦の一念三千
【悟りの三諦】     (中諦読み)
中観‐中 (亦有亦空)  体の十如是
中諦‐中 (非有非空)  寿量品(当体蓮華)
法身‐中 亦有亦空・非有非空の事の一念三千(南無妙法蓮華経)
(実体、非実体の分別もない空間) ←真如の国土
249.
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「十法界は十なれども十如是は一なり 譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是(凡夫の十如是)は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し 仏法界の十如是(仏の十如是)は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体(凡夫の三諦)と用(仏の三諦)と一具にして一体の仏(南無妙法蓮華経)と成る」

『総勘文抄』
250.
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2-10 三因仏性
251.
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『御義口伝』の「一大事因縁」の御文を紹介しましたが『総勘文抄』でも次のように御指南あそばされています。

「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり 因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり 縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」
252.
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ここで空・仮・中の三諦を「総の三諦」と大聖人様は仰せです。これはその下位に更に三諦が互具している事を意味しています。そしてここで下位の三諦の「三因仏性」にふれられています。

『爾前二乗菩薩不作仏事』の中でも慈覚大師の速証仏位集を引いて、

「又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし、抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもう」

 と述べられています。
253.
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 三因仏性とは、仏となるための三つの要因のことで、正因仏性・了因仏性・縁因仏性をいいます。

 正因仏性とは、一切衆生に本来具わっている真如の理のことで、了因仏性とは、正因仏性を自覚する智慧のことです。縁因仏性とは、智慧を発現するための助縁となる善行をいいます。

天台大師はこの三因を摩詞止観において、「応身は縁因、報身は了因、法身は正因より生ずる」と述べて応身・報身・法身の因となるべき仏性であると説明されています。要するに「悟りの空・仮・中」の元となる衆生に備わる仏性です。
254.
ユーザー
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法身の因となる正因仏性は真理の面からみると中諦にあたり、それが縁によって仮りに色々な形で現実の姿として表われるので縁因仏性は応身の因となって仮諦となります。正因仏性を覚る了因仏性は、覚りの智慧なので報身の因となって空諦となります。

【悟りの空・仮・中】(総の三諦の中の中身)
仮諦‐縁因仏性
空諦‐了因仏性
中諦‐正因仏性

 「悟りの空・仮・中」をこのように三因仏性として空・仮・中を開くと三諦は円融して一念三千の法門は成立します。しかし、迹門ではその三因仏性の実態までは明かされていない為、一念三千の法門と言えどもそれは名ばかりで実態が伴わない「理の一念三千の法門」でしかありません。

【悟りの空・仮・中】(総の三諦の中の中身)
応身‐縁因仏性 (実態が不明)
報身‐了因仏性  一念三千の法門
法身‐正因仏性 (実態が不明)

では縁因仏性の応身は何かというと、仮の定義は「有」であり「実体」であり「色相」です。そして報身の了因仏性の「仏の智慧」を発現するための助縁となる善行ですので、信仰の対象となる「本尊」がそれにあたるかと思います。
255.
ユーザー
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法身は姿も形も無い法性真如です。その真如(真理)を人が理解出来るように智慧として働くのが報身です。その報身(智慧)を発現すべき助すけとなる「縁」が応身です。
仏が一大事の因縁により世に出現すると言うのもその「縁」を意味しています。先の『総勘文抄』の、

「善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず 善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」
256.
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の御文が示す「縁」です。今、仏の空仮中は緑文字で表示しています。総の三諦の空仮中を空(緑文字)仮(黑文字)中(青文字)で示しています。「仏の空・仮・中」の具体的な姿がお釈迦様(仏の「仮」の応身)です。そして今世で悟りを開いた始成正覚のお釈迦様が仏の「空」の報身です。更に久遠実成のお釈迦様が仏の「中」の法身です。

【仏の空・仮・中】(総の三諦の空の中身)
仮‐実在の釈迦 (応身)
空‐始成の釈迦 (報身)
中‐久遠の釈迦 (法身)

では青文字の総の三諦の「悟りの空・仮・中」の仮、3色の仮(応身)の中でも最もグレードの高い青文字の応身、それが三十二相をまとった色相荘厳の仏様です。
しかし、それは経典の中で描かれた象徴としてかりに示された権仏・迹仏であって教相(経典の文字に示された)の本尊でしかありません。
257.
ユーザー
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そして「悟りの空・仮・中」の「中」である法身(正因仏性)も迹門では未だ明かされてはおりません。

【悟りの空・仮・中】(総の三諦の中の中身)
応身‐仮 三二相の仏 ←教相の本尊(迹仏)
報身‐空 一念三千の法門
法身‐中 (       )
      ここ↑がまだ明かされていない
258.
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2-11 本因本果の法門
259.
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『十法界事』に次のような御文があります。

「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且(しばら)く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず」

現代語訳は次の通りです。

迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏もすべて今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。
260.
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御文の中の「本無今有」とは「本無くして今有る」と読み、現在における結果だけがあってその因が示されていないということです。
今世で初めて仏に成ることを「始成正覚」と言いますが、迹門ではその始成正覚の立場で一念三千の法門が示されています。

仏法では因果を説きます。「因位と果位」でお話したように、因位の修行を積んでその報いとして果位の悟りが得られます。お釈迦様が仏になられた因位は、久遠における菩薩行であってそれは本門に至って初めて語られます。
261.
ユーザー
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どうして迹門では因位をかくして果位だけを明かされたのでしょうか。その答えが『寿量品得意抄』に示されています。

「本門寿量品に至つて始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ、因とは修行弟子の位なり、爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」『寿量品得意抄』
262.
ユーザー
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迹門で示された「仏の空・仮・中」はお釈迦様の四教の中で示された四仏の姿で、『一代五時鶏図』に示された、

     ┌応身───有始有終(蔵)
始成の三身┼報身───有始無終(通)
     │├真言大日等   (別)
     └法身───無始無終(円)

の仏の三身です。この四仏の中の大日法身について大聖人様は、『法華真言勝劣事』で次のように述べられています。
263.
ユーザー
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「いま大日経ならびに諸大乗経で説く「無始無終」は法身の無始無終であり、三身の無始無終ではない。法華経で説く「五百塵点劫」は諸大乗経が破らなかった伽耶城近くで始めて成道したという教えを打ち破った五百塵点劫の成道である。」

応身・報身・法身の三身が共に無始無終であって真実の「仏の空・仮・中」と成りえます。『一代五時鶏図』の始成の三身の隣に久遠実成のお釈迦様の三身の図が次のように示されています。

      ┌応身┐
久成の三身 ┤報身├──無始無終
      └法身┘
264.
ユーザー
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迹門で示された始成の三身は、法身だけが無始無終であって三身が無始無終でないので本仏とは言えません。本門でこの久成の三身を示すことで『寿量品得意抄』で仰せのように「四教の因」を打ち破っているのです。
四教の因とは「修行弟子の位なり」と仰せの通り、爾前迹門の教え(修行)のことで、それらを悉く打ち破っているのです。
このように本門で久遠実成を明かして成仏の本因を明かすことで仮の教えとして用いた爾前権教の教えを打ち破る事を「本因本果の法門」と言います。
265.
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2-12 開三顕一
266.
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法華経迹門の教説の中心となっているのが「開三顕一」です。「三乗に開いて一仏乗を顕す」といった意味ですが、その開三顕一に略開三顕一と広開三顕一とがあります。

方便品第二の十如実相によって顕わされた「理の一念三千の法門」が略開三顕一にあたります。
略開三顕一で示される十如是は、仏が仏の主観で説いたまさにただ仏と仏のみしか判らないもので、声聞の弟子達は理解出来ずに戸惑います。
そこで弟子達が理解出来るように、弟子の境涯に合わせて三段階に分けて説法を始めます。それが広開三顕一です。
267.
ユーザー
C4Dxj
最初に略開三顕一を示してその後に広開三顕一を示されたのは、十如是を三段階(空・仮・中)に開くというお釈迦様の意図が含まれていました。
広開三顕一は、「三周の説法」と言って「法説周・譬説周・因縁周」からなります。

この三つの説法の題名を見て気づくことがあります。

因縁周の因縁は、因が縁によって果を生じる訳で、縁起によって立ち上がる仮の世界観を意味します(衆生世間)。譬説周の譬は、譬えをもって悟らせる仏の智慧を意味します。仏の三身の内の報身の智慧の部分です(空の五陰世間)。法説周の法は「法(真理)」そのものの法身で悟りの国土世間です。

因縁周‐衆生世間‐仮
譬説周‐五陰世間‐空
法説周‐国土世間‐中

そして、三段階に分けられた声聞の弟子達の境涯は、声聞という境涯の中に更に声聞・縁覚・菩薩といった十界が互具するということが示されています(十界互具)。
268.
ユーザー
C4Dxj
【声聞の弟子】
因縁周‐声聞の声聞
譬説周‐声聞の縁覚
法説周‐声聞の菩薩

仏の主観で示された「十如是」を法説周(国土世間)・譬説周(五陰世間)・因縁周(衆生世間)で開く(10×3)ことで凡夫の九界と仏の仏界が一つになって十界が成立します(10×10×3)。そしてその十界が更に互具(10×10×10×3)して三千となります。
この横に広がった三千の色相は人によってそれぞれ異なった世界が十如是を軸として立ち上がります。
269.
ユーザー
C4Dxj
どうして異なった世界が立ち上がるのかと言えば、縁するものが人それぞれに異なるからです。縁だけではありません。境涯もそれぞれに異なっています。そのそれぞれに異なって立ち上がっている世界を自身を取り巻く世界として認識して意識(第六識)が生じます。その意識が作り出している世界観(欲界)が「仮観」です。

その意識を構成する要素である五陰を空じて、肉体から解脱した仏の世界観(色界)が「空観」です。
270.
ユーザー
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蔵教で「縁起」がとかれ、通教で「空観」が説かれ、別教で「中観」が而二不二の真理として説かれます。開三顕一で開かれた蔵教・通教・別教の三乗の教えを円教(法華経)で集約して一仏乗の「仏の空・仮・中」が完成します(三諦)。「仏の空・仮・中」の中身は四教で示されたそれぞれの教主たる四仏です。

【仏の空・仮・中】
蔵教の釈迦(応身)実在の釈迦
通教の釈迦(報身)架空の観音・他自受用身の阿弥陀仏
別教の釈迦(法身)法身の大日

迹門でここまで明かされました。ここでの「仏の空・仮・中」は始成正覚の立場の「始成の三身」で、本門で久遠実成が明かされることで「久成の三身」の立場で一念三千の法門が明かされます。
271.
ユーザー
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2-13 境智の二法
272.
ユーザー
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法華経の『見宝塔品第十一』で、大地から巨大な宝塔が出現し空中に留まります。その塔の中に禅座していた多宝如来が、自身の座を半分空けてお釈迦様に譲り、二仏並坐(にぶつびょうざ)して虚空会の儀式が始まります。
この二仏が並んで座っている姿は、「境智の二法」を意味しています。大聖人様は「境智の二法」について『曾谷殿御返事』の中で次のように御指南あそばされています。

「仏になる道は豈(あに)境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず、今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」
273.
ユーザー
C4Dxj
「自体顕照」というのは、「自らの体を照らし顕す」という意味で、「境」に照らされて自らの体が智慧として顕われることを境智一如、即ち境智冥合といいます。

『見宝塔品第十一』でお釈迦様と多宝如来が二人並んでお座りになられている姿がまさにその境智冥合を意味している訳ですが、更に深く考察することでもう一つ気づくことがあります。それは何かと言いますと、二仏は同じ仏であっても大きな違いがあるという事です。
274.
ユーザー
C4Dxj
お釈迦様は仏です。多宝如来も仏です。なのにかたや「境」でかたや「智」。その違いは何なのか。
仏を真理の側面で顕したのが、

【仏の三諦】(仏の空・仮・中)
仮諦‐「有」の真理
空諦‐「空」の真理
中諦‐「而二不二」の真理

で、悟りの側面が、

【仏の三身】(悟りの空・仮・中)
応身
報身
法身

です。真理を説く人が仏で悟った人が如来ということで、どちらも同じ仏ですが、違いがあります。仏が悟った姿は「始成の三身」です。
275.
ユーザー
C4Dxj
【始成の三身】(仏の空・仮・中)
応身‐有始有終
報身‐有始無終
法身‐無始無終

法身だけ↑が無始無終の仏です。それに対して悟った人、即ち悟りの境地から来た人(如来)は、

【久成の三身】(悟りの空・仮・中)
応身‐無始無終
報身‐無始無終
法身‐無始無終

三身が↑無始無終の本仏なのです。
276.
ユーザー
C4Dxj
ここまで、大聖人様の御指南を通して空・仮・中の三諦を説明してきましたが、三観・三諦は元は天台智顗が顕したものです。智顗がどのように三観・三諦を論じているのか次に紹介致します。
277.
ユーザー
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2-14 四教義
278.
ユーザー
C4Dxj
天台智顗(ちぎ)には、『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』といった、いわゆる「天台三大部」と呼ばれる法華経に関連した注釈書(解説書)があります。

これらは智顗の代表的な著作として良く知られているところですが、その「三大部」以外に智顗が晩年期に晋王広、即ち後の隋朝の第二代皇帝、煬帝に献上した維摩経疏という維摩経の注釈書の一群があります。

『維摩経玄疏』、『維摩経文疏』からなるこの維摩経疏には、天台教学の中でも最も重要な教理である三観・三諦説の最終形態がまとめられた『三観義』、『四教義』も含まれています。
279.
ユーザー
C4Dxj
その『維摩経玄疏』巻第二に、『三観義』、『四教義』の内容に相当する「三観解釈」と「四教分別」があります。

その「四教分別」の中で三観と四教の関係が次のように述べられています。

問曰四教從何而起。答曰今明四教。還從前所明三觀而起。爲成三觀。初從假入空觀。具有折體拙巧二種入空不同。從折假入空故有藏教起。從體假入空故有通教起。若約第二從空入假之中。即有別教起。約第三一心中道正觀。即有圓教起。(T1929_.46.0724a05~10行目まで)
280.
ユーザー
C4Dxj
“蔵・通・別・円の四教の教えは何から起こるのか?”という質問に対して、“四教は三観から起こる”と答えています。

この記述に出てくる「従仮入空」「従空入仮」「一心中道」が仮観・空観・中観の三観のことで、仮観(従仮入空観)から蔵教と通教が起こり、空観(従空入仮観)から別教が起こり、中観(中道第一義観)から円教が起きて三観が円融して円融三諦となります。
281.
ユーザー
C4Dxj
上記記述にそって説明すると、

最初に出てくる従仮入空観(仮観)とは、析と体という二種類の入空という相違を備えており、まず初めに析仮から空に入るので「析空」を観じて蔵教が起こります。

次に体仮から空に入ることで「体空」を観じて通教が起こり、第二の従空入仮観(空観)を観じることで別教が起こります。

そして第三の一心三観の中道(中観)の正観(第一義諦)に意識を合わせることで円教が起こります。

となるのですが、これをもう少し詳しく説明しますと、従仮入空観の「従仮」は、「仮に従って」ということで意識が「有」の実体思想にある状態を意味します。その「有」である実体を寂滅させて空へ入る教えが蔵教です。
282.
ユーザー
C4Dxj
この蔵教が説かれたのは、正法時代で三観・三諦は未だ説かれておらず、竜樹が「真諦」と「俗諦」の二諦説をもとに大乗仏教を展開していました。
空・仮・中の「中」が意味するところは、悟りの領域ですがこの時代、凡夫は仏にはなれないというのが定説でしたので、仮の俗諦と空の真諦の二諦に分けて中道と空を真理として第一義諦としていました。

蔵教は実体思想から完全に抜けきらずにいる声聞の弟子達に対して因縁関係にある師匠のお釈迦様がじきじきに説かれた教えです。しかし実体に強い執着を持っていた声聞達は、空を実体思想で解釈してしまい析空に陥ります。(析仮入空)
283.
ユーザー
C4Dxj
それに対して、実体思想から抜け出ることが出来た縁覚(竜樹)は、体空を観じて体仮入空して通教を起こします。

【従仮入空観】(凡夫の空・仮・中)
仮(仮観)俗諦 (蔵教)
空(空観)真諦 (通教)
中(中観)縁起

二番目の従空入仮観(空観)の「従空」は、「空に従って」ということで「有」を完全に寂滅した境地、即ち肉体を伴わない無死退滅の仏の立場を意味します。その「仏の空・仮・中」を像法時代の天台智顗が所観の境(対象とすべき真理)として顕します。
284.
ユーザー
C4Dxj
智顗は四教を説く仏の姿から「仏の空・仮・中」を示すのですが、それが別教で説かれる応身の仏(釈迦)、報身の仏(阿弥陀仏)、法身の仏(大日法身)の仏の三身にあたります。

【従空入仮観】(別教)(仏の空・仮・中)
仮(仮諦)釈迦  (応身)
空(空諦)阿弥陀仏(報身)
中(中諦)大日如来(法身)

『摩訶止觀』卷第三上に「此の観は衆生を教化せんが為なることを。真は真には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」(T1911_.46.0024c09)とありまして、仏が衆生を教化せんが為に空を空じて「非空」で有の実在世界に出現します。これが空から仮(有)に入る「従空入仮観」です。従空入仮観で仏の空・仮・中が説かれて別教が起こります。
285.
ユーザー
C4Dxj
ここでお気づきかと思いますが、「仮」の従仮入空観、「空」の従空入仮観のそれぞれが更に空・仮・中に互具しています。この「空」「仮」の二観に修行の果として得られる三つの「徳」、即ち法身・般若・解脱の三徳を法身・報身・応身の中観(悟りの空・仮・中)として配列して空・仮・中の三観・三諦は成立します。

『維摩経文疏』巻第二にはこの三観・三諦を別教の菩薩が「別相の三観」として修する旨がしるされています。
286.
ユーザー
C4Dxj
三觀之義具如玄文。今更略明三觀之相。三藏既不見眞不須論也。通教三觀但約二諦只成二觀無第三觀。非今答意。今但約別圓以簡三觀則有三種。一別相二通相三一心。一別相者歴別觀三諦。從假入空但得觀眞。尚不觀俗豈得觀中。從空入假但得觀俗亦未觀中。若入中道方得雙照。玄義已具。二通相者則異於此。從假入空非但俗空。眞中亦空。從空入假非但俗假眞中亦然。若入中道非但知中是中。俗眞亦中。是則一空一切空無假中而不空。一假一切假無空中而不假。一中一切中無空假而不中。但以一觀當名解心皆通。雖然此是信解虚通。就觀除疾不無前後。三一心者知一念心不可得不可説。而能圓觀三諦。即此經云一念知一切法是道場成就一切智。故玄義已具。此三三觀初別相的在別教。通相一心的屬圓教。(T1778_.38.0661c19~662 a06行目まで)
287.
ユーザー
C4Dxj
ここでは「従仮入空観」、「従空入仮観」、「中道第一義観」の三観からなる別相の三観が「歴別観三諦」(隔歴の三諦)としてしるされています。

<別相三観(隔歴の三観)>

【従仮入空観】(凡夫の空・仮・中)―――――三観
仮(仮観)俗諦 (蔵教)
空(空観)真諦 (通教)
中(中観)真俗の二諦観

【従空入仮観】(仏の空・仮・中)(別教) ――三諦
仮(仮諦)釈迦  (応身)
空(空諦)阿弥陀仏(報身)
中(中諦)大日如来(法身)

【中道第一義観】(悟りの空・仮・中)――――三身
 仮(仮諦)応身
 空(空諦)報身
 中(中諦)法身

この「別相三観」に対して円教で説かれる「円融の三観」を「通相の三観」といいます。
288.
ユーザー
C4Dxj
この通相三観は、上記の説明にあるように一假一切假、一空一切空、一中一切中といったぐあいに凡夫の空・仮・中を仏の空・仮・中で開いて悟りの空・仮・中へ展開し、悟りの三観の仮と空が中に集約して最終的に中道第一義観の法身に円融(まどかに融け合う)します。

<通相三観>

【一假一切假】
仮(凡夫の仮観)
仮(仏の仮諦)
仮(悟りの応身)

「一假一切假 無空中而不假」一仮一切仮、空・中として仮ならざるは無し。※ 全てが仮

【一空一切空】
空(凡夫の空観)
空(仏の空諦)
空(悟りの報身)

「一空一切空 無假中而不空」一空一切空、仮・中として空ならざるは無し。※ 全てが空

【一中一切中】
中(凡夫の中観)
中(仏の中諦)
中(悟りの法身)

「一中一切中 無空假而不中」一中一切中、空・仮として中ならざるは無し。※ 全てが中

この別相三観と通相三観の関係を図に顕すと次に示す三三九諦の図になります。
289.
ユーザー
C4Dxj
290.
ユーザー
C4Dxj
2-15 一心三観
291.
ユーザー
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凡夫が仏の智慧を授かることで図のように「凡夫の空・仮・中」が「仏の空・仮・中」で開かれ応身・報身・法身の三身が凡夫の一身に現われます。
では、「通相の三観」で開かれた三観の内容をそれぞれ見てまいりましょう。そこのところも『維摩經玄疏』の中で詳しく述べられています。

今明此一心三觀亦爲三意。一明所觀不思議之境。二明能觀三觀。三明證成。
(T1777_.38.0528c22~24行目まで)

「今、此の一心三観を明かすに、亦た三意と為す。一に所観の不思議の境を明かし、二に能観の三観を明かし、三に証成を明かす。」

一心三観は「所観の不思議の境」と「能観の三観(能観の智)」と「証成」の三つの意味があると述べられています。

一明不思議之觀境者即是一念無明心因縁所生十法界以爲境也。問曰。一人具十法界。次第經無量劫。云何
(T1777_.38.0528c24~26行目まで)

「一に不思議の観境を明かすとは、即ち是れ一念の無明心の因縁もて生ずる所の十法界、以て境と為すなり。」
292.
ユーザー
C4Dxj
所観の境とは、一念無明の因縁より生じるところの十法界を対境とするとあります。そして、十法界についての質問に答える形で「十二因縁所成の十法界」には、即空・即仮・即中の三観・三諦の理を含む無量の法がおさまっているものの、三惑によって心が覆われている凡夫は、真実を見て取れないでいるという説明がなされています。

我々人間が認識している現実の世界は、凡夫の無明の一念(真理に暗い迷い心)が因となって十二因縁が生じて立ち上がった仮在の世界観です。
実相(実体)を縁起(空)の角度から説き明かし、ありのままを受け入れる事が苦を滅する第一歩となることが説かれています。
293.
ユーザー
C4Dxj
真理に疎(うと)い凡夫の一念(凡夫の空・仮・中)を境(対象)とするのではなく、真理を悟った仏の一念(仏の空・仮・中)を境として三観・三諦の理を起こすことが所観の境だと『維摩經玄疏』の中では述べられています。

私達が朝夕に勤行の中で十如是を三遍繰り返し読んでいるのは、凡夫の無明の一念が因となって立ち上がっている仮在の世界観(凡夫の仮)を打ち払い、真理を悟った仏の心を因として真実の実相(仏の仮)を観じとっていく修行を実は行じているのです。
その十如是の「相」を中心にした仮諦読みは、「一仮一切仮」の即仮を体現している訳ですが、その因となる対象(境)の「相」が仏の十法界の相を顕された十界曼荼羅御本尊にあたります。
294.
ユーザー
C4Dxj
【一仮一切仮】(通相三観の仮)
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)亦有非空の従仮(仮観)
※ 全てが仮の即仮

総じて言えば所観の境とは仏の空・仮・中を対境として(ここでは仮を中心に一仮一切仮の)諸法実相を悟るということです。
295.
ユーザー
C4Dxj
2-16 能観の三観
296.
ユーザー
C4Dxj
一心三観に含まれる三つの意味の二番目の「能観の三観」について『維摩經玄疏』では次のように説明がなされています。

「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず。而して能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理を照らす。此れは即ち観行即なり。」(維摩經玄疏 529a11-15)
297.
ユーザー
C4Dxj
まずこの文章の中の「観行即」という用語について説明します。

天台智顗が『摩訶止観』巻一下で、法華経(円教)を修行する者の境地を六つの階位に振り分けた「六即」というものがありまして、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即からなります。
298.
ユーザー
C4Dxj
① 理即とは、理の上では衆生はことごとく仏性を備えてはいるものの、未だ正法を聞かず、全く修行の徳がない位をいいます。

② 名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。

③ 観行即とは、名字を知ってその教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位をいいます。

④ 相似即とは、修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる位をいいます。

⑤ 分真即とは、分証即とも言って、真理の一部分を体現している位をいいます。

⑥ 究竟即とは、完全なる覚りに到達している位をいいます。
299.
ユーザー
C4Dxj
能観はこの六即の中の三番目の観行即にあたるということで、己心に仏性を観じとる階位にあたります。

仏性を観じとるとは具体的にどういうことかと言いますと、仏性は仏の「性」で、十如是で言うところの「性」にあたります。我々凡夫は凡夫の空・仮・中の「空」、即ち無明の一念の心を起点として判断し、そして行動を起こします。ですから自身に競い起こる全ての事象は全て自身の心が因となって生じたものなのです。(心から生ずると書いて性)
300.
ユーザー
C4Dxj
人間が視覚的に認識するさま(色相)を「相」というのですが、先ほど説明しました「所観の境」は、その相を中心とした「仮諦」のお話でした。凡夫が凡夫の心で認識している仮在の相を「仮観」といい、仏の心に照らされて顕れる真実の相を「仮諦」といいます。

それに対し「空」は、仏性を心で観じとっていく心を中心にした観法で、具体的に言えば、その仏性、即ち仏の心とは「衆生を迷いの暗闇から救いたい」という仏の深い慈悲の一念です。
その慈悲の一念が「一大事の因縁」となって衆生の住む実在の世界に仏は出現します。それがお釈迦様です。
301.
ユーザー
C4Dxj
仏法の世界観は欲界・色界・無色界からなることは先にお話ししました。この三界の仏法的解釈は、

欲界 =欲にとらわれた衆生が六道輪廻する世界。(凡夫)

色界 =欲を離れてはいるが因縁によっては肉体が生じる物質的条件が未だ残る世界。聖人が住むとされる天上界。(仏)

無色界=欲望も物質的条件も超越した姿も形も存在しない真理(悟り)のみが存在する真如。(如来)

とありますように、仏は実在の「有」から解脱した「空」の天上界を住処としています。その空を破して「非空」で有の実在の世界に出現するわけですが、これは「方便」なのです。
302.
ユーザー
C4Dxj
非空という方便を使ってかりに「有」の世界に現れるわけで、方便(非空)で用いた「有」を払えば再び「非有」の「空」の世界に戻ります。

しかしなぜ「空」ではなく「非有」と表現するかと言いますと、方便として「有」を滅しているという意味がそこには含まれているのです。我々が朝夕に唱える自我偈の中に、

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

というくだりがありますが、その意味は次のようになります。

「人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。」
303.
ユーザー
C4Dxj
自我偈の前に読む方便品では、先ほど説明しました「仮」の真理である「諸法実相」をお釈迦様が声聞の弟子である舎利弗に諭している様子が述べられています。この方便品を読誦している時は、仏の空・仮・中の仮諦を体現しています。

そしてここ自我偈の読誦は、我々凡夫が仏の「空」を自らの心に観じとっていくところなのです。十如是で言えば「性」を中心にして読む番の空諦読みの十如是です。
304.
ユーザー
C4Dxj
2-17 長者窮子の譬
305.
ユーザー
yK33J
仏は方便を用いて「有」の実体の世界に現れ、方便を取り払って空の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、有(実体)を完全に寂滅して「空」に入ろうとします。それが析空(灰身滅智)です。
しかし空を方便として滅する「非空」という仏の空観を観じることで、有を滅することなく有(俗諦)を空(真諦)へと転換することが出来るのです。それが煩悩を菩提へと転じる「煩悩即菩提」の悟りです。
306.
ユーザー
yK33J
『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。

「此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」⑦
(仏は非空から仮に入るから従空入空観という。)

「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。」⑧
(凡夫の空・仮・中は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)

「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う。」⑨
(仏の空・仮・中は非空(有)から非有(空)へ入空観する。)

從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空⑦。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法⑧。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法⑨。破用既均異時相望故言平等也。(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで)
307.
ユーザー
yK33J
仏は方便として有を用いる(非空)のですが、さらに用いた有を破して空に入ります(非有)。その仏の空観を観じた凡夫は、本来なら従仮入空観で「有を破して空に入る」ところを「(方便として)有を破して(方便の)空に入る(非有)」に転じることで、有を滅することなく方便として空に入る「非有」の従空入仮観を観じます。

【一空一切空】
空(凡夫の空観)亦空 従仮入空
空(仏の空観) 非有 従空入仮
空(悟りの空観)非有非空

この意味するところが先に紹介しました『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」についての説明文にあたります。
308.
ユーザー
yK33J
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(真実の仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(悟りの空・仮の非有・非空)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空観)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」(維摩經玄疏 529a11-15)
309.
ユーザー
yK33J
これが具体的にどういう事かと言いますと、今世で身を滅して天上界へ転生する(灰身滅智)しかなかった凡夫が、今世で方便として空へ入る事が出来るということです。(凡夫も仏に成ることが出来るということ)
しかし、「方便として空へ入る(非有)」となると、その前提に破するべき方便としての有(非空)がある訳です。分かりにくい表現なので例えてお話ししましょう。
310.
ユーザー
yK33J
不幸な境遇に生まれてきた子供がいたとしましょう。不幸な境遇というのが実在の「有」です。「有を滅して空に入る」には、不幸な境遇という事実を打ち消すか、そういった感情を完全に寂滅させるしかありません。

ですがその事実を方便と受け止めるとどうなるでしょう。

意味があって不幸な境遇に生まれてきたのであってその意味を分かっていないから悩み苦しんでいるのです。不幸な境遇は何かを成す為の方便の姿であってその真意を悟った時、不幸な境遇も苦では無くなるのです。その意味(真理)を観じとるのが非空の有から入る非有の仏の従空入仮観(仏の空観)です。これが凡夫が仏の智慧をかりて悟りを得るという「煩悩即菩提」の理です。
311.
ユーザー
yK33J
この例えから何か思い浮かびませんか。そうです『法華経』の三周の説法の中の「信解品第四」の中で語られる「長者窮子の譬(ちょうじゃぐうじのたとえ)」です。
312.
ユーザー
yK33J
ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子(困窮しきった人物)が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。

この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。

『ウィキペディア』より

313.
ユーザー
yK33J
ここまで「所観の境」と「能観の三観」を説明してきました。

所観が相を中心にした色相の「仮観」で能観が心を中心にした「空観」です。

【一仮一切仮】(所観の境)
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)非空亦有の従仮(仮観)
(全てが仮の即仮)

【一空一切空】(能観の三観)
空(凡夫の空観)亦空
空(仏の空観) 非有(空)
空(悟りの空観)非有亦空の従空(空観)

所観・能観の「能所」の意味は、「例えば依り手を能依、依り所となるもの(依られ手)を所依、物を見る目は能見、見られるものは所見、行ずる者は能行、行われる内容は所行、帰依する者は能帰、帰依されるものは所帰」というような関係になります。
314.
ユーザー
yK33J
2-18 証成
315.
ユーザー
yK33J
一心三観に含まれる三つ目の意味は、修行の果として得られる証(あかし)から成る「証成」です。修行者は次のような修行の果徳を身体に得ると智顗は述べています。

三明證成者。若證一心三觀。即是一心三智五眼也。若得六根清淨名相似證即十信位也。若發眞無漏名分證眞實即即是初住也。(T1777_.38.0529a15~18行目まで)
316.
ユーザー
yK33J
「証成を明らかにするとして、一心三観を証する(体得する)とは、一心の三智・五眼を得ることで、もし六根清浄を得るならば六即の第四位の相似即を得た証で仏の五十二位の十信の位にあたり、真無漏を生ずれば六即の第五位の分真即を得たことになり、これは五十二位の中の第11位、十住の初め即ち初住を得たことになります。」

三智とは、

①一切智‐声聞・縁覚の智慧。
②道種智‐菩薩の智慧。
③一切種智‐仏の智慧。

の三つの智慧のことで、別教ではこの三智を順次に証得すると説き、円教では三智を同時に一心に証得すると説きます。

五眼の内容は、

①‐人間が所有している肉眼 (にくげん) 。
②‐色界の天人が所有している天眼 (てんげん) 。
③‐声聞・縁覚の人が一切の現象は空であると見抜くことのできる慧眼 (えげん) 。
④‐菩薩が衆生を救うために一切の法門を照見するところの法眼 (ほうげん) 。
⑤‐仏が所有している,前記の四眼をすべてそなえた仏眼 (ぶつげん) 。
317.
ユーザー
yK33J
で、「六根清浄」は、九識の中の第六識までの人が意識を形成する認識器官の眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚)・舌根(味覚)・身根(触覚)・意根(意識)の六根が浄化されて清らかになることをいいます。

「仏の五十二位」は、仏に至るまでの52位の悟りの位のことで、

十信‐1段目~10段目の悟り。
十住‐11段目~20段目の悟り。
十行‐21段目~30段目の悟り。
十廻向‐31段目~40段目の悟り。
十地‐41段目~50段目の悟り。
等覚‐51段目の悟り。仏の悟りに等しい事から等覚と言われる。
妙覚‐52段目の悟り。仏、仏陀、正覚。

から成ります。ここでは一心三観を体得することで六根清浄を得ることで「相似即」の階位に至り、仏の覚りに相似した智慧を得たとして十信を得るとしています。
318.
ユーザー
yK33J
真無漏は、全ての執着を取り払い、心の中が真に解放された状態をいい、真無漏を生ずることで仏の真理の一部分を体現しているとして「分真即」の階位に至って十住の初め、11段目の初住の悟りを得るとしています。
319.
ユーザー
yK33J
2-19 平等
320.
ユーザー
yK33J
天台智顗は一心三観の内容として「所観の境」と「能観の三観」と「証成」の三つを提示していますが、それらの内容を統括していくと一心三観の意味するところが明らかになってきます。

まず、維摩経疏の『三観義』、『四教義』の内容から天台智顗の三諦と三乗が次のような関係にあることが分かります。

仮‐未だ実体(有)思想の声聞
空‐空を悟った縁覚
中‐不二を悟った菩薩

この仮(声聞)・空(縁覚)・中(菩薩)に開かれた三乗を一仏乗に集約して一心三観が完成します。三観が一つに集約することで一仏乗の仏の境地が顕れるということです。
321.
ユーザー
yK33J
しかもそれが時間をおって順次に一つに集約されていくのでは無く、一時に同時に三観・三諦が一心に顕れて生身の仏の体となるのですが、ここで重要なポイントとなるのが「時間」です。

実は話がややこしくなるので先ほどは取り上げませんでしたが、「17.長者窮子の譬」のところで提示した『摩訶止觀』卷第三上の、

322.
ユーザー
yK33J
『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。

「此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」⑦
(仏は非空から仮に入るから従空入空観という。)

「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。」⑧
(凡夫の空・仮・中は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)

「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う。」⑨
(仏の空・仮・中の三観は非空(有)から非有(空)へ入空観する。)

從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空⑦。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法⑧。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法⑨。破用既均異時相望故言平等也。

(摩訶止觀卷第三上T1911_.46.0024c07~14行目まで)
323.
ユーザー
yK33J
↑の箇所ですが、

よく見ると「平等」という文字がやたら飛び交っていることに気づかれるかと思います。
324.
ユーザー
yK33J
これは何を言っているのかと言いますと、「破用不等」と「破用平等」の説明がここでなされているのです。どういう説明かといいますと、別相の三観の凡夫の空・仮・中(従仮入空観)は、

【凡夫の空・仮・中】(仮観)
仮‐亦有(俗諦を用う)
空‐亦空(俗諦を滅して真諦を用う)従仮入空
中‐亦有亦空

俗諦と真諦は裏表の関係で、一方を用いれば一方は滅する亦有亦空の関係になります。亦有亦空は「やくうやっくう」と読みますが字の意味は「またわ」です。「またわ有またわ空」といった意味で両方が同時に表となることはありません。

俗諦を破して真諦を用いるので破用が平等ではありませんので破用不等です。(故に竜樹は真俗の二諦観とした)

これに対して別相の仏の空・仮・中(従空入仮観)は、肉体(実体)から完全に解脱している仏は「空」が基本体なので、正確には空からはじまります。

【仏の空・仮・中】(空観)
空‐非有(有を滅っしている‐天界)
仮‐非空(滅した有を方便として用いて仮に入る)従空入仮
中‐非有非空

有を破して天界に入り、破した有を方便として用いて仮(有)に入るのでどちらも「有」を用いているので破用平等となります。

凡夫の空・仮・中がコインの裏表のように俗諦(有)と真諦(空)、どちらか片面しか現れないのに対して仏の空・仮・中は、「空・仮」が破用平等なので裏表の関係ではなく同じ面に同時に顕れます。

『維摩経玄疏』の中でも同じような説明がなされています。
325.
ユーザー
yK33J
次釋從空入假觀者。若不住空還入幻化。假名世諦分別無滯。即是從空入假觀也。 而言平等者。若前破俗用眞不名平等。此觀破用等故名平等也。

(維摩経玄疏巻二 T1777_.38.0525b29~c04行目まで)

「次に従空入仮観を釈すれば、若し空に住せざれば、還た幻化に入る。仮りに(方便として)世諦と名づけ、分別して滞ること無き、即ち是れ従空入仮観(空から入る仮観)なり。而して平等と言う者は、前の若(ごと)き(凡夫の三観のこと)は俗を破して眞を用いるのみなれば平等と名づけず。此の観(仏の三観のこと)は破用等しければ平等と名づくるなり。」
326.
ユーザー
yK33J
破用不等と破用平等の関係が分かったところでもう一度先ほどの『摩訶止觀』卷第三上の

從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空。分別藥病而無差謬故言入假。平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法。破用既均異時相望故言平等也。

の箇所をはしょらずに訳すると次のようになり、『維摩経玄疏』の説明とほぼ同じ内容を述べていることが分かります。
327.
ユーザー
yK33J
「従空入仮をば平等観と名づくる者は、若し是れ空に入らば、尚お空の有とす可きすら無し、何の仮か入る可けん。当に知るべし、此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。薬病を分別して而して差謬無し、故に入仮と言う。平等なる者は、前に望んで平等と称するなり、前観は仮病を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。一を破して一を破せざれば未だ平等とは為さず。後観は空病を破して還た仮法を用う。破用既に均しければ異時に相い望む、故に平等と言うなり。」
328.
ユーザー
yK33J
この文章は破用不等と破用平等の関係を説明しながら、仏は方便として「有」をもちいて世に出現するという意味も含み、かつ最後に更に気になる言葉を織り込んできています。

「破用既に均しければ異時に相い望む」

仏の従空入仮観は、平等ではあるが異時に相い望むということで、同じ面に「空・仮」が顕れるがそれは同時にではなく異時に顕れるということです。

異時では一心即三観とはなりえません。
329.
ユーザー
yK33J
2-20 時間
330.
ユーザー
yK33J
先ほど「破用不等」と「破用平等」の関係を分かりやすくコインの裏表の関係に例えましたが、実はここにも深い意味が含まれています。

コインの裏表の関係は、実は生死の関係を意味しているのです。

肉体を寂滅すること(無死退滅)でしか真諦へ入れなかった「破用不等」を非有・非空の方便を用いたことで、有生出在の生の側面に「破用平等」で入空し、仏の空を観じとっていきます。
331.
ユーザー
yK33J
そこのところを『維摩経文疏』の別相三観の中道第一義觀の説明にそって解説していきます。

若修此觀還用前二觀雙忘雙照之方便也。雙忘方便者。初觀知俗非俗。即是俗空。次觀知眞非眞。即是眞空。忘俗非俗忘眞非眞。非眞非俗即是中道。

(T1777_.38.0528b03~6行目まで)

若し此の観(仏の空・仮・中)を修せば、還た前の二観を用いて双忘双照の方便とす。双忘の方便なる者は、初観に俗は俗に非ず(非有)と知る、即ち是れ俗空なり。次観に眞は眞に非ず(非空)と知る。即ち是れ眞空なり。俗を忘ずるは非俗(非有)、眞を忘ずるは非眞(非空)にして、非眞非俗(非有非空)なる即ち是れ中道なり。
332.
ユーザー
yK33J
還った前の凡夫の空・仮を用いてということですので、まず凡夫は実体の世界①に身を置いているので俗を滅して「仮」から真諦の「空」へ「従仮入空」②で空に入ります。

この時、析仮入空してしまうと灰身滅智して身を灰にすると同時に法界に含まれる智までも焼き尽くしてしまい完全に無に帰してしまいます。

【凡夫の空・仮・中】
仮‐俗諦(俗を用う)①
空‐真諦(俗を滅して真を用う)破用不等 従仮入空②(※体仮入空)
中‐亦有亦空

「還た前の二観」とはこの「従仮入空②」の空・仮の二観のことで、それを用いて「双忘双照の方便」とする訳ですが、まず「双忘の方便」とは、最初の仏の空・仮・中の③空観、なぜ空が最初に来るのかと言えば、仏は空が立ち位置だからです。

【仏の空・仮・中】空諦⑨
③空‐非有(方便として有を滅する)④俗空
⑤仮‐非空(方便として滅した有を用う)破用平等 従空入仮⑥
⑦中‐非有非空⑧

①仮から従仮入空②で空観③に入った凡夫が「俗は俗に非ず」即ち「非有」という方便を用いて④俗空(方便の空)を観じます。

「俗は俗に非ず(方便として有を滅している)と知る、即ち是れ④俗空なり」

そして仏の空・仮・中の「④俗空」から今度は、眞は眞に非ずの「非空」の方便を用いて次観の仏の「⑤仮」に従空入仮⑥して仏の「空・仮」を観じることで仏の中観⑦に入って「非有非空⑧」の真の空(総の三諦の仏の空諦⑨)を観じます。

「眞は眞に非ず(方便として滅した有を用いている⑤)と知る。即ち是れ眞空なり⑨。」

「双忘」とは、このように「非有」と「非空」の二つの破を用いることをいいます。「双照」は、この二つが裏表の関係ではなく「非有」を用いると同様に「非空」も用いるので二つが共に方便という同じ面で照らされるというのが「双忘双照の方便とす」の意味です。
333.
ユーザー
yK33J
別相の三観はこの後、総の三諦の中諦(悟りの空・仮・中)に入っていくのですが、

【悟りの空・仮・中】(別相の中諦)
仮‐亦有亦空 (凡夫の中)
空‐非有非空 (仏の中)
中‐亦有亦空・非有非空

この構成は通相三観の「一中一切中」の構成と全く同じ内容になります。

【一中一切中】(通相の中諦)
中‐亦有亦空 (凡夫の中)
中‐非有非空 (仏の中)
中‐亦有亦空・非有非空

「別相の中諦」も「通相の中諦」もどちらも一時平等の三諦です。しかし、そこに至るまでのそれぞれの過程は、次のようになります。
334.
ユーザー
yK33J
<別相の三観>
別相の仮諦‐破用不等
別相の空諦‐破用平等(異時平等)
別相の中諦‐破用平等(一時平等)

<通相の三観>
通相の仮‐一仮一切仮(一時平等)
通相の空‐一空一切空(一時平等)
通相の中‐一中一切中(一時平等)

この構図何かと同じだと思いませんか。

     ┌応身───有始有終(蔵)
始成の三身┼報身───有始無終(通)
     │├真言大日等   (別)
     └法身───無始無終(円)

      ┌応身┐
久成の三身 ┤報身├──無始無終 (法華経)
      └法身┘

重要なポイントとなる「時間」が意味する事とはこういうことなのです。
335.
ユーザー
yK33J
2-21 無始無終
336.
ユーザー
yK33J
この「別相三観」と「通相三観」の比較図が、何を意味しているのかといえば、始成正覚と久成実成の違いです。言いかえれば今世で悟りを開いた仏と、悟りの境地から来た如来の違いです。

今世で最終的に無始無終の仏に成ったお釈迦様は、法身だけが無始無終の仏です。対して応身・報身・法身の三身如来の「悟りの空・仮・中」は、三身がともに無始無終です。法身だけが無始無終であるのと三身がともに無始無終なのとでは、何が違ってくるのか。それは「通相三観」に展開した時にその違いが明らかとなります。

<通相の三観>

【一仮一切仮】
仮 凡夫の仮
仮 仏の仮
仮 応身 無始無終

【一空一切空】
空 凡夫の空
空 仏の空
空 報身 無始無終

【一中一切中】
中 凡夫の中
中 仏の中
中 法身 無始無終
337.
ユーザー
yK33J
三身が共に無始無終でなければ今一瞬の一念に三身が同時に顕れないのです。別相の隔歴の三諦は次第三観とも言いまして、仮諦から空諦、空諦から中諦へと順をおって次第に悟りを得て最終的に中諦の悟りの法身を観じとって仏の境地に入ります。

<別相の三観>

【仮観】‐破用不等
凡夫の仮→空→中
       ↓
【空諦】‐破用平等(異時平等)
仏の空→仮→中
 ↓
【中諦】‐破用平等(一時平等)
悟りの仮→空→中
338.
ユーザー
yK33J
このように最終的に中諦で一時平等と成って無始無終の仏となるのですが、この最終段階に辿り着くには気の遠くなるような歴劫修行を要します。どこかで聞いたようなフレーズですね。
法華経 第一章「迹 門」で仏法が後の五百歳(2500年)という長い時代の流れの中で、蔵教・通教・別教・円教といった順に、最初は分かりやすい教えから次第に高度な教えと説き明かされ、衆生を導いていったお話しをしました。
339.
ユーザー
yK33J
「五時八教」に即した話しの中で、気の遠くなるような歴劫修行の果てにようやく辿り着いたのが隔歴の三諦なるが故の「厭離断九の仏」でした。ここで今いうところの歴劫修行もまさにそれです。

第一章「迹 門」では時代の流れの中で示されていった、教相という教えのありようを通して、一念三千を横にずら~と広げて語ってきました。
340.
ユーザー
yK33J
ここでは三観・三諦といった悟りの側面から、一念三千の法門をお話ししています。

今回は横にずら~と話しを広げるのではなく、「凡夫の心」、「仏の心」、「悟りの心」といった心を中心に今一瞬の一念の心がどのように顕れ変化ていくのかを縦に一念を三千に膨らませて一念三千の法門をお話ししてきました。
341.
ユーザー
yK33J
その一念三千の法門の最後に辿り着くところが中諦の「悟りの空・仮・中」です。しかしその三諦の実態が何なのか、

【凡夫の空・仮・中】竜樹と世親が詳しく明かす
仮観‐俗諦(有)
空観‐真諦(空)
中観‐中道(亦有亦空)

【仏の空・仮・中】天台智顗が詳しく明かす
仮諦‐非空
空諦‐非有
中諦‐非有非空

【悟りの空・仮・中】↓この部分!
応身‐縁因仏性
報身‐了因仏性
法身‐正因仏性
342.
ユーザー
yK33J
天台智顗は、この中諦(中道第一義諦)の内容を「証成」という果徳を示すだけでその実態については三因仏性とするだけでその具体的な内容(実態)には一切触れておりません。

それは智顗には法の付属がなかったからです。末法の時代に入って法の付属を受けられた大聖人様がそこのところを詳しく明かされていきます。

智顗は、実態を明かしこそはしなかったものの、次のような言葉でそれを表現しています。

「それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし。もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す」

(『摩訶止観』第七章「正修止観章」より)
343.
ユーザー
yK33J
2-22 月こそ心、花こそ心
344.
ユーザー
yK33J
『摩訶止観』第七章「正修止観章」の智顗の言葉を解説致します。

まず最初の、

「それ一心に十法を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り」

の文句は、一念から生じる実相の話で「所観の境」でお話ししました「一念無明の因縁より生じるところの十法界」のことです。さらに「能観の三観」の心から生じる相を、

「若し心無くんば而巳なん。介爾も心あらば即ち三千を具す。また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。例せば、八相、物を遷(うつ)するがごとし。物、相の前に在らば、物遷されず。相、物の前に在らばまた遷(移さ)されず、前もまた不可なり。後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし」

と論じ、八相が何の八相を指して言われているのかは、この文章だけでは判断しかねますが(おそらく釈迦の八相でしょう)、言わんとすることは、物の相は変化するものであり、変化することなく永遠に留まる相は無いということです。
345.
ユーザー
yK33J
その物が、相があるから物として認識されるのか。物があるからそれに応じて相が顕れるのか。

また、相があるから変化を認識するのか。変化するから相を認識できるのか。という人が物を認識する論理を語っています。

心から相は生じますが、その心、一心は物よりも前に起こるのか、それとも物が先にあって後に心が生じるのかというお話です。
346.
ユーザー
yK33J
そのことを大聖人様がとても分かり易い例えで御指南あそばされている御書があるので紹介します。

「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし 草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず 心即ち大地 大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし 心のきよきは花のごとし、法華経はしからず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり」

『白米一俵御書』の一説です。
347.
ユーザー
yK33J
蔵教では、「心から万法を生ずる」といった説き方をします。ここでいう万法とは、因果と縁起のことで、最初に因があってそれが縁によって最終的に結果が生じるといった時間的流れに則った法理(声聞の悟り)です。それはちょうど「大地から時間をかけて草木が茂っていく」ようなものです。
348.
ユーザー
yK33J
しかし法華経はそうではなく、「大地が即草木であり草木が即大地である」と説きます。

これは因と果が異時ではなく同時に存在するという法華経でしか説かれていない当体蓮華の法理を端的な言葉で言い表しています。

また心を中心に説く通教では「心が澄むのは月のようである。心が清いのは花のようである」と説きます。

これは譬えであり譬えを説くのは通教が得意とするところです。澄んだ清らかな心が示すもの、それは縁覚の悟り「色即是空」です。

しかし、どちらの譬えも心と月、心と花といったように心と物が分別によって対比され区別されています。
349.
ユーザー
yK33J
それに対し無分別の法を説く法華経は、「月こそ心、花こそ心」と、月も花も自身の心そのものであると説きます。これを「不二の法門」とも「而二不二(ににふに)」の真理ともいいます。

この真理を悟った境涯が菩薩です。空・仮・中の三観・三諦で言えば中道第一義諦、ここでは「悟りの空・仮・中」と表現してきましたが三諦の中の「中諦」にあたります。

一心三観は別相を通相で三観を開いて、開いた一仮一切仮を所観の境、即ち声聞の悟り(仮諦)とし、一空一切空を能観の三観、即ち縁覚の悟り(空諦)として、次のような関係になります。
350.
ユーザー
yK33J
【一仮一切仮】(所観の境)相 声聞の智慧
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)非空亦有の従仮(仮観)
※ 仮(実体)に即した真理(因果・縁起・相の十如是)

【一空一切空】(能観の三観)性 縁覚の智慧
空(凡夫の空観)亦空
空(仏の空観) 非有
空(悟りの報身)非有亦空の従空(空観)
※ 空(非実体)に即した真理(色即是空・性の十如是)

これらの悟りを得た証として一中一切中の(証成の)三身が身体に徳として体現されます(中諦)。

【一中一切中】(証成の三観)体 菩薩の智慧
中‐応身(仮諦の一念三千)亦有亦空 声聞の智慧
中‐報身(空諦の一念三千)非有非空 縁覚の智慧
中‐法身(中諦の一念三千)亦有亦空・非有亦空(中観)
※ 体(当体)に即した真理(当体蓮華・体の十如是)

「相」から生じる十如是は、因果と縁起の法理からなる三千の差別の色相が、一時に横に広がって実在の世界を立ち上げる、実体に即した仮諦の一念三千です。

また心から生じる「性」の十如是は、縦に三千に変幻する今一瞬の心をとらえた一念三千で、こちらは三千の異なる色相が横に同時に幾重にも顕れてくるのではなく、縦に三千に変幻する心が、今一瞬の一念の心となって十如是が働き、心から生じる空諦の一念三千が顕れてきます。

心は常にただ一つの一念(空諦の一念三千)で、その一念から生じる十如是が三千の異なる衆生の心の色相となって横一杯に広がって今現在の自身を取り巻く世界(仮諦の一念三千)が立ち上がってきます(亦有亦空)。
351.
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そのことを智顗は、

「もし一心より一切の法を生せば、これ即ち縦なり。もし心、一時に一切の法を含まば、これ即ち横なり。」

と表現しています。そして、先ほどの「物と相の関係」に示すように物があるから心が生じるのではなく、心があるから物の相を認識するわけでもない。それを縦に非ず、横に非ず(非有非空)、また前に非ず後ろに非ず(異時ではなく一時に)物も心も全てが同時に同体で存在しているというのが、次の表現です。

「縦もまた可ならず、横にまた可ならず、ただ心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。ゆえに縦に非ず、横に非ず。一に非ず、異に非ず。玄妙深絶にして識の識るところに非ず。言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境と為す」

同時に同体で存在していると私は書きましたが、智顗が不可思議境と言ったこの心の法は、まず時間の流れが存在しない空間であることは間違いありません。なぜなら「無始無終」とは、生じることも無く、滅することも無い、といった意味ですからそこには実体は存在しません。
352.
ユーザー
yK33J
また、実体が存在しない空間に於いては時間の流れも存在しえません。そのような次元において同時とか同体といった表現が成り立つものでしょうか。

言葉では表現しかねるが故に「不可思議境」と智顗はいったのでしょう。

お釈迦さも弟子である舎利弗に「言葉では言い尽くせない」と言った仏と仏にしか分かりえない真如(真理)があるのです。

ですからお釈迦様は仏と同等の悟りを既に得ている等覚の菩薩である地涌の菩薩を久遠より呼び出だしてその究極の真理の法を付属します。
353.
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法華経 第二章「円融三諦」 完

令和3年1月23日

            法介
354.
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第三章 法華経『文底 – 前編』(当体蓮華)
355.
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3-1 三五の法門
356.
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『兄弟抄』の中に、

「経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり」

という御文があります。法華経の経文には二十の大事な法門があり、中でも第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門であると日蓮大聖人は、御指南あそばされています。

また、『法華取要抄』にもこの二つの法門について述べられています。

「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り其の中最要二有り所謂三五の二法なり」

今、法華経と諸経とを比較すると、法華経が釈尊一代の他の諸経よりもはるかに勝れている点が二十種ある。その中でも最も重要なことが二つある。いわゆる三千塵点劫・五百塵点劫の二法である。

日蓮正宗では、「久遠元初」という言葉を用いて日蓮本仏論を立てていますが、日蓮大聖人は御書の中で久遠元初という用語は一度たりとも使われておりません。
上に示した二つの御抄に於いて、最も重要なのは“三千塵点劫”と“五百塵点劫”の二つの法門であると仰せになられています。
357.
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“三千塵点劫”で説かれている法門とは、略開三顕一による迹門『方便品第二』の十如実相によって顕わされた理の一念三千の法門です。

しかし、略開三顕一で示される十如実相は大変不可思議であり、舎利弗以下の声聞衆にとっては明確に領解することはできません。そこで舎利弗は、さらに広く分別して説法されるよう願い、以下、法説周・譬説周・因縁説周といった形に広げて『授学無学人記品第九』に至るまで三周の説法として展開されていきます。(広開三顕一)

この三周の説法を受けて一念三千の理を信解したと承認された声聞の弟子達はお釈迦様より成仏の記別を授かります。

しかしここで声聞達が悟った法理は「理の一念三千の法門」であり迹門の分域です。
358.
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日蓮大聖人は『開目抄』に、

「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず」

と仰せのように、本門で五百塵点劫が明かされて初めて一切衆生成仏の原理である真実の「事の一念三千の法門」が明かされます。
359.
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法華経本門で登場する五百塵点劫の久遠の弟子達(地涌の菩薩)の姿を日蓮大聖人は『開目抄』の中で、次のように表現されています。

「其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集する大菩薩・大日経等の金剛薩タ等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば獼猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず、」

[現代語訳]
釈尊にとっては、第一の御弟子と思われる普賢菩薩・文殊師利菩薩等すら比較にならない偉大さである。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経等の金剛薩埵等の十六人の大菩薩や大日経等の大菩薩なども、この地涌の菩薩に比べると、猿のむらがっている中に帝釈天が来たようなものである。あたかも山奥の賤民の中に月卿等の貴人がまじわっているのと同様であった。
360.
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yK33J
大地が裂け、その中から涌き出てきた上行菩薩はじめ無量千万億の地涌の菩薩は、「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」と『法華経従地涌出品第十五』に説かれています。体が皆金色で、三十二相を具え、無量の光明を放っていたそうです。これは仏と等しい悟りを得た菩薩の最高位である「等覚」の菩薩を意味しています。

法華経本門において五百塵点劫より呼び出だされた「等覚」の菩薩は、菩薩でありながら仏である、「九界即仏界」の十界互具の姿でした。
361.
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yK33J
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」

の『開目抄』の御文が示すところです。

その菩薩でありながら「仏」の「九界即仏界」の上行菩薩に対し、釈迦は、

「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」
(我もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず)

と、仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の姿が示されています。仏界と九界とが、かけ離れている爾前迹門の「厭離断九の仏」ではなく、九界の中に仏界を具そくする十界互具の「菩薩」と、仏界の中に九界を具そくする十界互具の「仏」であるから、寿量品の仏「久遠実成の釈尊」も、久遠から呼び出された上行菩薩も、どちらも「本仏」と成り、本来ならば仏から仏へ成されるはずの結要付嘱の儀式が、仏から上行菩薩への付嘱として説かれています。
362.
ユーザー
yK33J
この結要付嘱の儀式に示される「九界即仏界」「仏界即九界」こそが 本門に至って始成正覚を破ることで爾前迹門の十界の因果を打ちやぶり本門の十界の因果をとき顕す「真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」の「本因本果の法門」になります。

次に、「五百塵点劫の久遠の弟子」と「三千塵点劫の声聞の弟子」の相違について更に深く掘り下げてお話ししたいと思います。
363.
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yK33J
3-2 比喩蓮華と当体蓮華
364.
ユーザー
yK33J
「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」『開目抄上』

「爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす、是れ則ち本因本果の法門なり」『寿量品得意抄』

この『開目抄』と『寿量品得意抄』の中で示されている「本因本果の法門」は、三千塵点劫・五百塵点劫ととても深い関係にあるのでお話をさせて頂きます。
365.
ユーザー
yK33J
法華経本門で登場する「九界即仏界」の等覚の菩薩と、「仏界即九界」の久遠実成の釈尊は、菩薩と仏が同時に一体(同体)として存在している「真の十界互具」の真仏の姿です。

「真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」『開目抄』

菩薩と仏は本来、因位と果位の関係にあたります。
366.
ユーザー
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「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますように、菩薩道を行じてそれが因となって仏の果を得るといった因果関係に基づく成仏観なのですが、この成仏観では「因を元として果に成る」わけでして、仏に成る瞬間が生じます。いわゆる始成正覚です。

迹門に示される今世で始めて悟りを開いたとされる「始成正覚の釈迦」は、因果関係に基づいた成仏観を顕しています。
367.
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yK33J
しかし始成正覚の釈迦は、「本無今有(久遠の本地を顕わさないで、今日の垂迹のみを示す)」と破折されました。“根無し草”のようなものだと。(三千塵点劫)

それに対し五百塵点劫の本有常住の本仏は、無始としての本因(真の十界互具)が示され、その因果関係が「因を元として果に成る」因果関係ではなく、因と果が同時に同体として存在しうる「因果倶時」の関係にあると説かれているのです。いわゆる「本因本果の法門」です。
368.
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「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す」

「爾前迹門の十界の因果」と「本門の十界の因果」の違い、そこに本因本果の法門の意味するところが秘められています。

まず、「迹門と本門の十界の因果の相違」について説明します。
369.
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爾前迹門における十界の因果は、三千塵点劫の声聞の弟子とお釈迦様の師弟関係における因果関係を意味しております。その関係が「因を元として果に成る」関係で、時間の流れにそった因果関係です。(因果異時)

それに対し本門の十界の因果は、菩薩でありながら仏と等しい「九界即仏界」の等覚の菩薩と、仏でありながら菩薩の道を行じ続ける「仏界即九界」の真の十界互具の関係になります。
この五百塵点劫の十界互具は、時間の流れを伴わない同体として一時に因と果が共に存在するという「因果倶時」の因果関係になります。
370.
ユーザー
yK33J
<本門・迹門における十界の因果の相違>
迹門の十界の因果—因果異時
本門の十界の因果—因果倶時

「因果異時」と「因果倶時」の関係は、『当体義抄』の中で説かれる「比喩蓮華と当体蓮華」の関係にあたります。
371.
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3-3 当体義抄
372.
ユーザー
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三周の説法に約してここのところを論ずると、『方便品第二』で諸法実相をもって法体とする法説周を当体蓮華といい、上根の声聞は「蓮華」という呼び名は、喩えていったものではなく、蓮華は法の名であって法華経の法門のことであると悟ります。

かたや中根・下根の声聞に約する時、「蓮華」という譬えの名を借りた譬喩説であり、蓮華は因果が一時にそなわっているところが妙法に似ているという譬喩蓮華となります。
天台大師が法華玄義の第一の巻に 、「妙法は解しがたいが、譬えを仮りれば理解しやすい」と釈したのはこの意味です。
373.
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『当体義抄』では、そこのところを次のように述べられています。

「問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云、此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」
374.
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【現代語訳】

 問う、天台大師は法華玄義で妙法蓮華経を当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。

 答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを見るがよい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七下に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとり、その道理にふさわしい名をつけていったようなものである」とある。また、法華玄義巻七下に「今、蓮華という呼び名は、喩えていったものではない。それこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華が、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。

またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経のことである。だが法華経といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いて知ることができる。そこで理解しやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華を譬えたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法にあって、上根・中根・下根の機根にそれぞれにかなうような説法を行った。上根のものに約せば蓮華という法の名を、中根、下根の者に約せば蓮華という譬えの名を借りたのである。このように上中下の三根合論し、ならべて法説と譬喩説をあらわしたのである。このように理解すれば、誰がこの問題でどうして論争するであろうか」と。
375.
ユーザー
yK33J
 天台大師の法華玄義巻七下の意味は、妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人がその理を勧じて万物に名をつけるとき、因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである。

この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具足して、一法も欠けるところがない。よってこの妙法蓮華を修行する者は、仏になる因行と果徳とを同時に得るのである。聖人は、この妙法蓮華の法を師として修行し覚られたから、妙因・妙果を倶時に感得し、妙覚果満の如来となられたのである。
376.
ユーザー
yK33J
「本門における十界の因果」が因果倶時に基づいた本覚本有の真実の十界互具であり、そのことが『十法界事』で次のように述べられています。

「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず」

【現代語訳】
迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏も今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。
377.
ユーザー
yK33J
と、ここで「無始無終の義」についてふれられていますが、この「無始無終」も重要な言葉ですのでその意味するところを説明します。
378.
ユーザー
yK33J
3-4 無始無終
379.
ユーザー
yK33J
「無始無終」というのは、生じることも無く滅することも無いという仏の本有常住の姿を言いあらわした言葉で、始まりも終わりも無いといった意味です。

お釈迦様が菩提樹の下で今世で始めて悟りを開いたことを「始成正覚」と言いますが、これは凡夫であった釈迦が仏に成る瞬間が生じますので「始成正覚の仏」であって「無始無終の本仏」とは呼びません。

「無始無終」を絶対条件とした応身仏としての「無始無終の本仏」は、始成正覚のお釈迦様ではないのです。
380.
ユーザー
yK33J
そこのことろを日蓮大聖人は『呵責謗法滅罪抄』の中で、

「二千二百余年が間・教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす、然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏・真言大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし」

[現代語訳]
二千二百余年の間、教主釈尊の絵像、木像を賢王や聖主は本尊とした。しかしながら、但小乗・大乗・華厳経・涅槃経・観経・法華経迹門・普賢経等の仏、真言・大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝などは書いたけれども、いまだに寿量品の釈尊はどこの山寺や精舎にもおられない。

と、正法・像法時代に於ける「始成正覚の仏」としての本尊は示されて来ましたが、末法に於ける寿量品文底の「無始無終の本仏」は未だどこにも示されていないと述べられています。
381.
ユーザー
yK33J
では、寿量品の中で「無始無終の本仏」として説き明かされている応身仏としての応身如来は、どのような仏かと言いますと、応身如来の「如来」の意味は、真如のことであり真理です。ここで言う真理とは自然界に元から備わっている生じることも滅することも無い「無始無終」の存在を言います。

また、応身の意味は、「衆生に応じて出現する仏身」ということで、衆生の認識に乗る形で顕われる仏ということです。

日蓮大聖人は末法においてその無始無終の応身の仏の姿(相)を「曼荼羅ご本尊」として顕わされました。そして曼荼羅ご本尊を顕わすにあたって、寿量品の中の「如来秘密神通之力」の御文を依文となされている旨が『御義口伝』の中に示されています。
382.
ユーザー
yK33J
「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」
  ※ 依文とはより所となる経文のこと。

また、

「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり」

と、「即身成仏」とは即ち「如来秘密神通之力」なりとまで仰せです。

この寿量品の「如来秘密神通之力」とはどういうことなのか。大聖人様は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』 に、

「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」

と仰せです。爾前経では、

「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」
                      『開目抄上』

と云われるように、別教において大日法身の無始無終(有名無実の権仏)は説かれていますが、応身・報身の本地は秘して顕されず、法華経に至って初めて明かされるその応身の本地は、

<応身の本地>
迹門・方便品—三千塵点劫—始成正覚の釈迦   (迹仏)
本門・寿量品—五百塵点劫—無始無終の本仏の本地(本仏)

となります。これが三五の法門の意味するところで、この「三五の法門」によって明かされる「本因本果の法門」が、理解できてはじめて一身即三身、三身即一身の「三身の法門」の理解に至ります。
383.
ユーザー
yK33J
三身が別体として説かれている爾前権教(別教)では、応身・報身の本地やその実態も明かされておりません。仏(如来)だけが知る秘密なので「如来秘密」なのです。

『諸法実相抄』 に、

「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」

と、神通之力について、法身、報身、応身の「用の三身」であると示されています。「用の三身」は「体の三身」に対する用語で、『諸法実相抄』に、

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

と仰せの「倶体・倶用の三身」のことです。
384.
ユーザー
yK33J
3-5 倶体・倶用の三身
385.
ユーザー
yK33J
三身は法身如来、報身如来、応身如来の三身如来のことを言うのですが、如来と仏という言葉がどちらも仏を意味する言葉として誤って認識されていることが多いので、本来の正しい解釈を説明しておきます。

まず仏とは修行の因を積むことでその果報としての悟りを得た境地をいいます。ですから仏に成る瞬間が生じる「始成正覚」なのです。
386.
ユーザー
yK33J
それに対し如来とは、「悟りの境地より来た人」の意味で、最初から既に悟りの境地にある「無始無終の本仏」を指す言葉です。

虚空絵の儀式で宝塔の中に釈迦と多宝の二仏が鎮座して法華経が説かれる様は、仏と如来が同体として妙法にはおさまっているという当体蓮華が示された様です。

当体蓮華について理解を深める為に『十法界事』という御書の御指南を紹介したいと思います。
387.
ユーザー
yK33J
『十法界事』

「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり」(421:13~422:01)

【現代語訳】
迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏もすべて今始めて覚るという立場である。もしそうであるなら、本無くして今有るという欠陥をどうして免れることができようか。まさに知りなさい。蔵・通・別・円の四教の四仏が円仏となるというのは、一往の立場で迹門の説いたものである。

このゆえに迹門では無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。また無始の色心常住の義もない。「この法は法位に住する」と説いているのも、これは、未来へ向けての常住であって、これは過去からの常住ではない。本有の十界互具を顕さないから、本有の大乗の菩薩界もない。

ゆえに迹門の二乗は未だ見思惑を断じていず、迹門の菩薩は未だ無明惑を断じていず、六道の凡夫は本有の六界に住さないので、名のみ有って実がないということが分かるのである。
388.
ユーザー
yK33J
『十法界事』のこの御指南は、迹門で説かれた十界互具が未来に向けての常住であって、過去からの常住ではない旨を指摘しています。

実際、声聞の弟子達は未来において成仏する記別をそれぞれ与えられて二乗の成仏が確約(二乗作仏)されました。

ここで言う「過去からの常住」とは、「無始無終の義」の事で、比喩蓮華ではない、当体蓮華としての十界互具を指しての言葉です。
389.
ユーザー
yK33J
ここで御指南あそばされている「無始無終の義」は、「真の十界互具」のことで応身・報身・法身の三身に当てはめて言えば報身としての「仏の智慧」としての一念三千の自受用身のことです。

大聖人様が伝教大師の言葉をかりて「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」と仰せになられた、姿・形をともなわない(出尊形の仏)衆生を成仏へと導く「仏の智慧」として顕れる報身仏です。
390.
ユーザー
yK33J
応身における無始無終の義は、『呵責謗法滅罪抄』を拝して説明しました通り、

<応身の本地>
三千塵点劫—始成正覚の迹仏(三十二相の仏)
五百塵点劫—無始無終の本仏(十界曼荼羅ご本尊)

となります。

そして報身における無始無終の義は、と申しますと

<報身の本地>
三千塵点劫—理の一念三千(迹門方便品)(比喩蓮華)
五百塵点劫—事の一念三千(本門寿量品)(当体蓮華)

となります。この当体蓮華が当体蓮華たるべき証が『如来寿量品第十六』の中で示される、

「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽」
(我もと菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今なお未だ尽きず)

と、仏でありながら菩薩の道を行ずる「仏界即九界」の仏の姿と、菩薩でありながら「仏(等覚の菩薩)」の「九界即仏界」の上行菩薩の姿です。
391.
ユーザー
yK33J
報身とは修行の報いとして受け用いる仏身という意味で、応身とは違って衆生が認識出来ない視覚的に認識することのない「法理」を指して言います。「一念三千の法門」がこれにあたります。

応身や報身といった三身にまつわる部分が詳しく説かれているのが通教の次に説かれた別教の教えです。別教では法身として大日法身が説かれ、他受用身として阿弥陀仏が説かれ、三十二相の釈迦仏が応身として説かれています。しかし別教で説かれている三身は、蔵・通・別・円の四教を通して示された比喩蓮華の三身如来です。全て迹仏で本仏ではありません。これを「用の三身」と言います。
392.
ユーザー
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衆生を悟りの境地へと導く為に迹仏として用いられた三身ということです。この「用の三身」に対して「体の三身」という三身が本仏としての三身如来になります。

<法身の本地>
用の三身(迹仏)— 別教で説かれた三身(始成正覚の仏)
体の三身(本仏)— 円教で説かれた三身(無始無終の如来)

この「体の三身」と「用の三身」が同体として存在する姿が俱体・俱用の当体蓮華の本仏と成ります。その法理を日蓮大聖人が「南無妙法蓮華経」と名づけられたのです。
ここまで三千塵点劫と五百塵点劫にまつわるお話をして参りましたが、要約すると「三千塵点劫と五百塵点劫」の違いは悟りの深さの違いということです。

三千塵点劫—始成正覚の仏の悟り     (比喩蓮華)
五百塵点劫—無始無終の本仏(如来)の悟り(当体蓮華)
393.
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物事は因果関係によって成り立ちます。それは因を元として果が生じる因果関係です。その真理は実体に即して顕れる仮諦の一念三千ですが、更に実体を空じることでより深い真理に辿り着きます。それが肉体を伴わない仏の空諦の一念三千です。

空諦の一念三千は仏の智慧としての「自受用身」です。応身(仮観)と報身(空観)が一身に同体で顕れると因果倶時の法身が顕れて一身即三身の本仏と成ります。
394.
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通教では、四禅天を中心とした仏の空観が詳しく説かれています。そして別教に入って仏よりも更に深い悟りの境地である応身・報身・法身の「三身如来」が説かれています。如来と仏の相違は、

仏 —三千塵点劫(声聞・縁覚・菩薩)
如来—五百塵点劫(応身・報身・法身)

このような関係になり、仏の世界観が空観(三千塵点劫)です。それよりも更に深い如来の悟りの世界観が中観(五百塵点劫)になります。
395.
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その仏と如来の関係が比喩蓮華と当体蓮華の関係であり、三千塵点劫の迹仏と五百塵点劫の無始無終の本仏(三身如来)の関係となります。

五百塵点劫の無始無終の本仏としての三身如来は、応身が「曼荼羅ご本尊」で報身が「事の一念三千」、法身が当体蓮華の「南無妙法蓮華経」となります。この三身が凡夫の一身に顕れて三身相即の無始無終の本仏となります。

<悟りの空・仮・中> (三身如来)
応身—曼荼羅ご本尊
報身—事の一念三千
法身—南無妙法蓮華経

法華経 第三章(前編)『文底 – 当体蓮華』完(後編に続く)
396.
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2021年5月22日

     法介
397.
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第四章 法華経『文底 – 中編』(概念と真理)
398.
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4-1 御本尊
399.
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〝御本尊〟の原理を説明された御書に『草木成仏口決』という御書があります。大聖人様が51歳の御時、佐渡の塚原において、最蓮房に与えられた御書です。最蓮房は大聖人様と同じように佐渡に流罪となっていた学識のある天台宗の僧侶でしたが大聖人様に折伏されてお弟子となられました。その『草木成仏口決』は、次のような内容で始まります。

「止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す無情仏性惑耳驚心す」此の一色とは五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり・一とは法性なり、爰を以て妙楽は色香中道と釈せり、天台大師も無非中道といへり、一色一香の一は二三相対の一には非ざるなり、中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言は・かはれども草木成仏の事なり」
400.
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この文章を解りやすく説明します。

 天台大師の摩訶止観の第一に「一色一香といえども中道実相の理でないものはない」とあります。これは、〝地球上の如何なるものであっても、仏法の真理でないものはない〟という意味ですが、妙楽大師(天台宗の第6祖)がこの文を受けて、

「世の中全てにその理(一念三千)が通ずるといっても、無情のもの(例えば石ころなど)がどうして仏性を観じとることが出来ようかと世間の人たちは耳を疑うであろう」

 と言っています。ここで言う〝一色〟とは、青、黄、赤、白、黒の五色の中のどれか一色といった意味ではなく、「一とは法性なり」とありますように一念三千の今一瞬の目の前の実在の光景(認識世界)が三千の要因が縁となって立ち上がった世界観であるという真理。これを妙楽大師は「色香中道」と訳されています。一色一香の一は、二や三に相対した一ではなく、「中道法性」即ち一念三千を指しての一というのです。そして、

「所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし」

 と、十界・三千の依正等を備えないものはないと言われています。依正とは、「依報と正報」のことで、過去の宿業の報いとして受ける環境とそれをよりどころとする身体のことです。「一色一香」の〝一香〟は、一つの香り。感覚・意識の対象を代表させていった言葉で目の前に映る今一瞬の光景(一色)や意識として感じる感覚(一香)を〝色香〟と表現し、

「此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり」

 と、非情の対象である草木も成仏、即ち仏に成りえると言い、それは蓮華の成仏であると大聖人様は御指南あそばされています。そして次の文に繋がります。
401.
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「口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云、法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」

 草や木は非情であり、人や動物などの生き物は有情です。草木が成仏することの意味は、寿量品の釈迦にあると言われ、その極意は「如来秘密神通之力」であると言われています。

〝寿量品の釈迦〟とは「始成正覚」に対する「久遠実成」の釈迦の意で、時空を超えた世界観(虚空会)においては、草や木も人や動物も全てが一体として顕れます。それがどういうことなのか、「石」を例に説明します。

「石」は人が石として(五蘊で)認識して初めて〝石〟として立ち上がる色相で、生まれつき盲目の人にはその姿は立ち上がりません。単独で「石」という〝モノ〟が存在する訳ではありません。

 また、日本人が見る石は、〝石〟ですがアメリカ人が見ると同じ石であっても〝Stone〟に変わります。縁が変われば同じ石でもその認識のされ方が変わってきます。漬物屋さんが見れば漬物を作る為の〝道具〟であり、墓石屋さんが見れば墓石を作る〝素材〟として認識される訳です。では、認識する人がいない場合、石はどうなるでしょう。

 例えば宇宙空間に漂う石は、誰からも認識されません。その場合の石は「石」でも「Stone」でもなく石そのものの存在自体が生じません。存在しているにも関わらず、誰の心にもその石の存在が認識されない為、存在自体が認められないのです。誰かが肉眼で認識して初めて「石」とも「Stone」ともなります。その石が「石」や「Stone」であることを定義づけるのが〝概念〟です。「始成正覚の釈迦」は、この概念で説き顕された〝仏〟です。それに対し、時空を超えた虚空会の世界観で描かれる「久遠実成の釈迦」は、その概念から抜け出た〝仏〟です。この概念から抜け出た時空を超越した〝寿量品の釈迦〟が真如(真理)の世界です。(国土世間)

始成正覚の釈迦=概念としての仏
久遠実成の釈迦=真理としての仏

釈迦が禅定でたどり着いた法華経本門の虚空絵は、「人間の概念」を遥かに超越した次元です。なので如来が飛来して来たり宝塔が宙に浮いて存在したりで、現実とかけ離れた世界として描かれています。現在・過去・未来といった時間の概念から抜け出ていますので〝過去仏〟である多宝如来もその姿を顕わします。その「概念から抜け出た世界」がどのような世界なのか、少し考えてみましょう。
402.
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まず石は〝石〟ではなくなる訳ですが、大きな〝それ〟を手に取ると〝重い〟と感じます。しかし〝重い〟という言葉もまた概念です。その〝それ〟が足に落ちれば〝痛い〟と感じます。〝痛い〟という表現もまた概念です。言葉の概念の中で生きている人は思わず「痛い!」と叫ぶでしょう。では言葉の概念がない人は、なんと叫ぶでしょう?

「あー!」とか「うぅぅぅ!」といったところでしょうか。実は「南無妙法蓮華経」とは、そういった言葉の概念から抜け出た言葉なのです。あるのは、ただ一つの一念三千という真理。今一瞬の光景は三千の要素が複雑に絡み合って立ち上がった自身の心が造り出している〝世界観〟であるということ。それを「南無妙法蓮華経」と名付けられたのです。大聖人様が勝手に名付けた訳ではありません。天台智顗もそれは知っていました。知っていたが弘めなかった。その話はまた別の機会にお話しするとして、法華経寿量品の虚空会に出てくる「七つの宝物で飾られた塔」、それを七文字の〝南無妙法蓮華経〟として大聖人様が法華経に予言されている上行菩薩の立場で顕されました。
403.
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 お釈迦様は仏法が東の国、日本に伝わっていくことを解っていて「七つの宝物で飾られた塔」と表現されたのでしょう。世界に類をみない程に日本語ほど繊細な表現力をもった言語はありません。仏法は伝わるべくして日本に広まっていったのです。石や草や木といったものは、人の心が〝概念〟として認識して顕れるもので、その概念を取っ払って心を〝南無妙法蓮華経〟だけにしたら、全てのものは南無妙法蓮華経として顕れるという事です。

「全てのものに仏性は存在する」とは良く言いますが、石や草や木に仏界がある訳ではありません。『草木成仏口決』で云う「一色一香」は、目の前に映る今一瞬の光景(一色)や意識として感じる感覚(一香)を〝色香〟と表現し、「中道法性をさして一」と云い、その十界・三千・依正等を備えた(非情の草木も含めた)一念三千が〝南無妙法蓮華経〟となって草木といえども成仏、即ち仏になります。
404.
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「中道法性をさして一と云うなり、所詮・十界・三千・依正等をそなへずと云う事なし、此の色香は草木成仏なり是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言葉は変われども草木成仏の事なり」

全てのものは「無我」であり「無自性」です。縁によってその姿が顕れているに過ぎません。自身の心から生じた石(石と自身が而二不二で一体)なのでそこには仏性(南無妙法蓮華経=一念三千)が備わる訳です。

 人は五感で外の情報を感じ取りそれを意識として統合します。これを認識といいます。その意識を中心に立ち上がる実体の世界を衆生世間と言います。〝凡夫の一念三千〟です。その世界における真理(縁起)が仮諦です。

 その表層の五蘊(五感)を空じて肉体(実体)が存在しない第七マナ識、第八アラヤ識、という深層の意識層に意識が入っていくと非実体の五陰世間が立ち上がります。〝仏の空観の一念三千〟です。その世界における真理「色即是空 空即是色」が空諦です。
405.
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 そしてさらに奥底の九識に究極の一念三千が真理(真如)として存在します。その真理が九識心王真如の都「南無妙法蓮華経」です。〝概念〟ではなく〝真理〟を中心に立ち上がる空間認識の変化から生じる一念三千(国土世間)です。

 そこのところを理解して御書の『十如是事』を拝読してみましょう。
406.
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「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相(実体)を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性(非実体)を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体(当体蓮華の凡夫の体)なり是を法身如来とも又は中道とも法性(中諦)とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是(相・性・体)を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、
407.
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されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり、譬えば春夏・田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり」
408.
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 一念三千の軸となる起点は〝十如是〟の最初の如是〝相〟と如是〝性〟です。石には石の〝相〟があります。それを石だと認識する心が〝性〟です。アメリカ人にとっては同じ石の相であっても性は「Stone」です。性はそれを認識する人の〝心〟です。心を「概念」で開くのか、心を法華経(南無妙法蓮華経)で開くのか、それによって〝体〟も異なってきます。概念で開けば凡夫の〝体〟、南無妙法蓮華経で開けば仏の〝体〟です。

十如是はこの「相・性・体」を軸として動き出します。凡夫の〝相〟と概念からなる〝性〟が〝体〟となって働く十如是が凡夫の一念三千(仮諦)です。肉体を持たない仏の場合、凡夫の認識に応じて応身として顕れた仏がその〝体〟となります。インドに生を受けたお釈迦様です。その応身(始成正覚)の〝相〟と法華経という概念(理の一念三千)からなる〝性〟が〝体〟となって顕されたのが法華経迹門の『方便品』の十如是の仏の一念三千(空諦)です。概念(理の一念三千)で顕された始成正覚の〝迹仏〟です。
409.
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 では、〝寿量品の釈迦〟はと言いますと、その始成(有始)の十如是を打ち破った久遠仏(無始)の十如是になります。それがどういうことかと言いますと、仏という「概念」を軸として開く一念三千ではなく、概念を超えた〝真理(真如)〟として開かれる一念三千が真実の覚りの(事の)一念三千(中諦)であるという事です。『白米一俵御書』の〝月こそ心、花こそ心〟の一節がそれにあたります。
410.
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4-2 月こそ心、花こそ心
411.
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「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし 草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず 心即ち大地 大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし 心のきよきは花のごとし、法華経はしからず 月こそ心よ 花こそ心よと申す法門なり」

『白米一俵御書』のこの一節は、『本門 – 円融三諦』の章の中の「22.月こそ心、花こそ心」のところでも紹介しましが、そこでは分別・無分別の角度から解説させて頂きました。言葉による分別で実体という概念が形成され(仮諦)その実体思想から抜け出て仏の空観に入ることで無分別の境地に至ります。(空諦)

今回は同じ御書の一節ですが中諦の「概念から抜け出た世界(国土)観」で解説させて頂きます。
412.
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 蔵教では、「心から万法を生ずる」といった説き方をします。ここでいう万法とは、因果と縁起のことで、最初に因があってそれが縁によって最終的に結果が生じるといった時間的流れに則った法理(声聞の悟り=仮諦)です。それはちょうど「大地から時間をかけて草木が茂っていく」ようなものです。

 しかし法華経はそうではなく、「大地が即草木であり草木が即大地である」と説きます。これは因と果が異時ではなく同時に存在するという法華経でしか説かれていない当体蓮華の法理を端的な言葉で言い表しています。
413.
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また心を中心に説く通教では「心が澄むのは月のようである。心が清いのは花のようである」と説きます。これは譬えであり譬えを説くのは通教が得意とするところです。澄んだ清らかな心が示すもの、それは縁覚の悟り「色即是空 空即是色」」です(空諦)。

しかし、どちらの譬えも心と月、心と花といったように心と物が分別(言葉)によって対比され区別されています。それに対し「無分別の法」を説く法華経は、「月こそ心、花こそ心」と、月も花も自身の心そのもの(南無妙法蓮華経)であると説きます。

これを「不二の法門」とも「而二不二(ににふに)」の真理ともいいます。この真理を悟った境涯が菩薩です。空・仮・中の三観・三諦で言えば中道第一義諦の「中諦」にあたります。
414.
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 仏は修行の因を積んでその報いとして仏としての徳を得ます。この因行果徳は、因を元として果が生じると言った時間の流れ、即ち「時間という概念」の中で起こるお話です。過去遠々劫の宿業が蓄積する八識のアラヤ識はそういった記憶から生じる時の流れという概念によって生じる一念三千の世界観の範疇です。

仮諦=声聞の境涯
空諦=縁覚の境涯
中諦=菩薩の境涯

その更に奥底に位置する時の流れといった概念から抜け出た世界(次元)、それが〝南無妙法蓮華経〟という真如(真理)として開く一念三千の世界(国土)観です。仏界の相(真如の虚空絵)である御本尊を〝相〟として(応身如来)、法華経の心を〝性〟として(報身如来)、南無妙法蓮華経(法身如来)を我が〝体(当体蓮華)〟として一念三千を開くと石も草も木も人も動物も全てが南無妙法蓮華経(一念三千)という真理として顕れます。その心が、

「月こそ心、花こそ心」

 であり、

「草にも木にも成る仏なり」

 です。ではその〝南無妙法蓮華経〟が『寿量品』のどこに沈められているのか。大聖人様は、〝寿量品の文の底に秘して沈めたり〟と仰せになられていますが、それが寿量品のどの文なのか。

「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり」

 と『御義口伝』にあります。『御講聞書』にも、

「本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり」

「法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり」

 とあります通り、寿量品の中の「如来秘密神通之力」の文がそれにあたります。大聖人様は、「如来秘密」について、『三大秘法抄』の中で、天台の「法華文句」の巻九の言葉をもって説明されています。
415.
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「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す、又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」

 これは法華経本門に至って初めて明かされる法理であって、三身如来の一身即三身、三身即一身を他経では秘して説かずにいたと。
416.
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4-3 密教
417.
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yK33J
お釈迦様が衆生の機根に応じて説いていかれた教えは、言葉による教説です。言葉という〝概念〟で示された「仏の道」です。しかし真理というものは〝言葉〟という概念から離れた高い次元にあります。この概念として言葉で顕された教えを〝顕教〟といいます。そして「言葉という概念」から離れて説かれた教えを〝密教〟といいます。

天台智顗が「法華文句」の巻九の中で、寿量品の〝如来秘密〟を「昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す、仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」と釈している部分です。
418.
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yK33J
別教の中で「密教の本尊」として崇められている大日如来は「無相の法身」で姿・形の無い真理そのものになります。にもかかわらず説法(大日説法)を行うという矛盾を含んでいます。また大日の実態は不明で、般若心経を説く観音と同様に釈迦の垂迹の姿と見るのが正しい捉え方で、大聖人様も『真言天台勝劣事』の中で「大日経は釈迦の大日となつて説き給へる経なり」と云われております。

その密教では『金剛頂経』にもとずく金剛界と、『大日経』からなる胎蔵界がそれぞれ曼荼羅として顕されていますが、この二つの経典は密教の二大経典にあたります。金剛界は唯一絶対の実在界の真理が説かれ、胎蔵界は大日如来の慈悲が説かれています。
419.
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yK33J
また密教には、「東密の真言密教」と「台密の天台密教」とがありますが、共に「従因至果・従果向因」を説きます。〝従因至果〟とは、原因があってそれが時間経緯で結果が生じるという意味で「因によって果に至る」と読みます。対して〝従果向因〟の方は、どうしてこのような結果が顕れているのか、その原因を解明する方向に向っていくという意味で「果に従って因に向かう」と読みます。

【従因至果】
因によって果に至る。

【従果向因】
果に従って因に向かう。

密教の中心となる大日法身(大日如来)の真理や悟りの境地を顕した金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅は、この従因至果と従果向因を〝曼荼羅〟として顕したものです。それまでの仏教では仏という〝概念〟が中心でしたが密教では概念から向け出た〝真理〟を説きます。
420.
ユーザー
yK33J
因によって果が生じる〝従因至果〟は、実体がともなう因果律で時間の経過によってその実体に変化が顕れる因果で、物理や科学の科学実験や観察実験、また医学における臨床実験などがこれにあたります。お釈迦様は『阿含経』の中で、仏門に入りながらも未だ実体思想から抜け切れていない声聞の境涯の弟子達に、まず解りやすい実体に即した〝従因至果〟の因果を示して縁起を説きます。この従因至果の縁起は、「実体における真理」で仏法では〝実体〟は実在ではなく〝仮在〟と見ますのでその仮在における真理ということで〝仮諦〟と呼びます。〝諦〟は真諦の意味で真理をあらわします。

この〝従因至果〟の縁起のことを〝此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)〟とも言います。科学実験や臨床実験にみられるように「実体の有り様」を因果でとらえたこの縁起は、「因が縁によって果が生じる」といった時間の経緯によって生じる〝順観〟の縁起です。
421.
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yK33J
この「実体における真理」に対し龍樹は、「実体から抜け出た真理」が『般若心経』で説かれていることに気づきます。それが〝空観〟という五蘊を空じることで起こる縁起です。この空観における縁起を〝逆観〟の縁起といいまして、お釈迦様が説かれた「順観の縁起」は、此縁性縁起ですが、龍樹が般若心経を解明して顕した「逆観の縁起」は、相依性縁起(そういしょうえんぎ)と言います。

この相依性縁起は、自身の五蘊を空じることで起こる縁起ですが、具体的に何が起こるかと言いますと、今まで真理だと信じて疑わなかった事実がくつがえって全く別の認識が立ち上るということです。龍樹が顕した『中論』の中の第2章、「運動(去ること)の考察」の中でそのことが示されています。
422.
ユーザー
yK33J
すでに去ったものは、去ることがない。 まだ去らないものも、去ることがない。 さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、現に去りつつあるものも、また去ることがない

この偈(詩)は、一見するとあたりまえの事を言っているようで、実は大変深いところを表現されています。その真意をつかみやすいように現代風に解りやすく表現すると次のようになります。
423.
ユーザー
yK33J
向かってきている時の救急車のサイレンの音と、救急車が遠ざかっていく時のサイレンの音とでは、「同じ音」にもかかわらず音程の違いが生じます。〝音〟というものは、そのものに「変わらずに有り続ける本質」は無く、人がそれを認識してはじめて生じる〝音〟であって、その人の状況が変わればその音もまた別の音として認識されるという解りやすい事例です。 龍樹はそれを〝音〟ではなく〝運動〟を取り上げて「去るという行為」を例えに用いて説明しています。

去るということは「今ここには既に居ない」という事実が無いと立証されません。しかし既に去っている訳でしてその「ここに居た姿」はもう存在していないので「すでに去ったものは、去ることがない」といった表現になっています。
424.
ユーザー
yK33J
また、その人がまだ去らずにその場に居たとしたら「まだ去らないものも、去ることがない」となって観測者がどの時点の「去る人」を見ても去るという行為がどこにも存在しないことをパラドックス的(逆説的)に表現しています。

この偈が意味するところは、我々があたりまえのように信じ込んでいる〝法理(実体における真理)〟が、実は自身の概念が造り出すもので、実体を空じたところ(世界観)に実は真実の姿が顕れるという空の真理、即ち空諦を説いています。
425.
ユーザー
yK33J
実体に即した順観の縁起で生じる世界観が「色即是空」で、実体を空じた逆観の縁起で立ち上がる世界観(空観)が「空即是色」です。

要するに龍樹は、お釈迦様が空じる対象を〝我(われ)〟として「無我」を説いたの対し、その空じた〝我〟を縁として起こり得る事象の法理を逆観で説いて「無自性」とした訳です。 解りやすく言うと、我々は引力は「自然界に元から備わっている法則」だと思って疑いませんが、その引力の法則は過去と現在の物体の位置の変化から起こる縁起です。(順観の縁起)
426.
ユーザー
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しかし、目の前の自身の息子に向かって「あなたは誰ですか?」と尋ねる〝認知症〟のおばあちゃんが引力で落ちたリンゴを見ても「落ちたリンゴ」ではなく「地面においてあるリンゴ」でしかなく、去る行為が存在し得ないと龍樹が言っているように「引力の法則」も実は存在せず(逆観の縁起)人間の脳が持つ〝記憶〟という能力から起こる人間の概念の中で起こる出来事(縁起)であって、そのような高度な脳を持たない生物においては引力は生じないということに成ります。

お釈迦様が〝人(我)〟を中心にした「無我」を説き、龍樹が〝法〟を中心とした「無自性」を説くことで、 実体における真理=順観の縁起(仮諦)と、 実体を空じた真理=逆観の縁起(空諦) の仮諦・空諦の二諦が解き明かされます。『阿含経』で説かれるを空(人空)を析空といい、『般若心経』で説かれている空(法空)を体空と言います。
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人空=析空(阿含経)
法空=体空(般若心経)

析空は小乗仏教の空の理解で、「机は脚を外せば棒と板になって机の姿が無くなる」といった細分化することでその姿が見えなくなるといった科学や物理学的な「実体に即した空」の理解です。対して龍樹が起こした大乗の体空は、空観を体感することで起こる縁起になります。
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仏門に入って最初に得られる境涯の〝声聞〟では縁起を実体思想でしか理解出来ません。それが「此れ有るとき、彼れ有り」といった因が縁によって果を生じるといった此縁性縁起です。この此縁性縁起は、時間の経緯によって起こる変化を捉えた縁起で、〝時間〟と言う概念の中での縁起の理解です。(仮諦)

この時間という〝法〟が絶対的な存在ではなく、概念に過ぎないと理解することで更に深い真理を悟って修行者は〝縁覚〟という境涯へと進みます。

「時間も概念に過ぎない」と法空を悟った龍樹は、縁起を更に深く解明し相依性縁起を『中論』の中で詳しく解き明かします。 その違いを例えを用いて解りやすく説明します。
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「電車の中の風景」を想像してみて下さい。仕事でクタクタに疲れ果て座って楽に過ごしたい所なのですが、運悪く座れずに立って過ごさなければなりません。苦しいです。この苦しみを打ち消すのに此縁性縁起では、苦しいという思いを打ち消す為に座りたいという願望を打ち消して〝無我〟の境地を築きます。小乗仏教が目指す〝寂滅〟です。煩悩が有るから苦しみが生じるといった「此れ有るとき、彼れ有り」の此縁性縁起です。

それに対して相依性縁起は、時間という概念から離れていますので同じ状況にあっても心の動き(十如是)が異なります。先程〝音〟を例にして説明しましたが〝時間〟にしても絶対的な存在ではありません。「好きな事をしている時」の1時間はあっという間に過ぎますが「苦痛に感じている時」の1時間はとても長く感じます。同じ1時間なのにその長さは違って感じます。
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物事は全てが(法も含めて)相対関係で成り立っているという相依性縁起を理解出来ている境涯(縁覚)ですと、同じ電車の状況にあっても、相対関係の縁起が起こります。それがどういった縁起かと言えば、「自分は立って苦しい状況にあるけれども、自分が立っていることで座っている人達が楽に過ごせている」と思えて他者貢献の心で満たされ苦しみの感情は消え去ります。

また、逆に自分が座っていたとしたら、「立っている人達のおかげで自分は楽に過ごせているんだ」という感謝の心で満たされます。これが大乗仏教で説かれる〝煩悩即菩提〟です。小乗仏教のように煩悩を寂滅させるのでなく、煩悩を菩提へと転換する教え、それが空諦の相依性縁起です。 此縁性縁起を流転門(順観)といい、相依性縁起を還滅門(逆観)とも言います。
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大聖人様はこの二種の縁起について『御義口伝巻下』の中の「第三鬼子母神の事」で次のように述べられています。

「御義口伝に云く鬼とは父なり子とは十羅刹女なり母とは伽利帝母なり、逆次に次第する時は神とは九識なり母とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり、流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり、仍つて十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり、三宝荒神とは十羅刹女の事なり所謂飢渇神・貪欲神・障碍神なり、今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり荒神とは法華不信の人なり法華経の行者の前にては守護神なり云云」
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ここで言う、「流転門の時は悪鬼なり」の〝流転門〟が流転の縁起のことです。実体に即した(仮)流転の縁起で顕れる姿(仮在)は悪鬼であるが、「還滅門の時は善鬼なり」と、(五蘊皆空で)空観に入って還滅の縁起(心の変化)で顕れる姿は善鬼である。そして「十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり」悟りの中諦の真如として顕れる姿は、鬼子母神十羅刹女であるとの御指南です。

 仮の真理(縁起)=流転の縁起
 空の真理(縁起)=還滅の縁起
 中の真理(縁起)=因果具時の縁起

そして空・仮・中のそれぞれが一念三千しますので、

 仮の縁起=仮諦の一念三千
 空の縁起=空諦の一念三千
 中の縁起=中諦の一念三千

となります。この空・仮・中の三諦が南無妙法蓮華経で円融して三身如来が凡夫の一身に顕れて涅槃の悟りの境地に入ります。これを即身成仏といいます。
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「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり 十界を形と為すは応身なり 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり 身土不二なり 一仏の身体なるを以て寂光土と云う」『三世諸仏総勘文教相廃立』

法華経 第三章『文底 – 中編』(概念と真理)完 (後編に続く)
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2022年7月30日 法介