在日台湾人は無国籍だから二重国籍問題は存在しないアーカイブ最終更新 2016/09/07 02:391.名無しさんjDBWBHxc0日本に生まれ、そして無国籍者となった経緯 http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0406_chin.html 私が無国籍だった頃の具体的なケースでお話したいと思います。私は1971年に生まれた時に台湾 の中華民国のパスポートをもっていました。当時、日本は台湾にある「中華民国」を中国の正統政府 とし、国交を結んでおりました。1949年に成立した「中華人民共和国」は共産国ということで、日本は 外交関係を有していなかったのです。 当時、日本には華僑が5万人ほどいました。その人達は「中華民国」の国民として扱われていました。 しかし、1972年に日本の外交政策が変わり、中国の正統政府は「中華人民共和国」であると認識を 変え、新たに国交を結び、一方「中華民国」とは国交を断絶しました。その時に日本に在住していた 華僑の人たちは、国籍の問題を抱えたのです。日本が認めない国の人間として暮らす場合の不便を 考えて、日本が認める中華人民共和国の国籍に変更したり、日本の国籍を取得する人が出てきまし た。しかし、今まで「○○国の人間、国民だ」と思っていきてきた人が一夜にして、国籍を変更して違う 国の人間になるというのは、難しいことです。 私の父は、1912年旧満州、ハルピンの生まれで地主の息子でした。当然、日本語の教育を受けた 経験を持っています。第2次世界大戦後、共産党と国民党が争う中、共産党からは第一に捕まえら れ、殺されるような立場でした。そこで、内乱のなか田舎から逃げるようにして、香港を経由して台湾 渡りました。しかし、彼にとって台湾は生まれた地と気候も習慣も違い、自分の居場所ではないような 気がしていたのでしょう。数年後にはハルピンに戻ろうという気持ちでいましたが、状況が許さず帰ること はできませんでした。そして自分や子どもの将来を考え、台湾を離れ新天地を拓くため、言葉のできる 日本にきたという経緯があります。 父は1972年国籍問題が起こった時、今までの経緯や社会的背景から、日本国籍をとることも、中 華人民共和国の国籍を取得することも、できなかったのだと思います。そこで家族全員が無国籍とな ったのです。つまり、私が「無国籍」になったのは戦後、台湾から来日した父母が1972年の日台国交 断絶で、日本か中国かの選択を迫られた際にどちらも選ばなかったからなのです。そのころ私は1歳未 満だったのですが、その後無国籍の状態で日本に暮らすこととなります。幼稚園はインターナショナル・ スクールに通いました。その後、両親は日本の某有名小学校に私を入学させようと考えましたが、無国 籍児を教育したという前例がないということで入学できませんでした。結局、中国人として育てたいという 父の意向から、その後は横浜中華学院という民族学校に進学しました。言葉の面では、中国語と日 本語を使い、自分の中では色々な文化があるのが普通でした。私のアイデンティティも、そんな中で形 成されてきたと思います。出典 https://egg.5ch.net/test/read.cgi/diplomacy/14731835832016/09/07 02:39:431すべて|最新の50件
【速報】明日のお昼12時に文春から『プロ野球大活躍ルーキー』と『アイドル』の熱愛記事クル━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!【乃木坂46か!?】IDなし乃木坂462153150.62024/05/07 22:45:12
http://www.taminzoku.com/news/kouen/kou0406_chin.html
私が無国籍だった頃の具体的なケースでお話したいと思います。私は1971年に生まれた時に台湾
の中華民国のパスポートをもっていました。当時、日本は台湾にある「中華民国」を中国の正統政府
とし、国交を結んでおりました。1949年に成立した「中華人民共和国」は共産国ということで、日本は
外交関係を有していなかったのです。
当時、日本には華僑が5万人ほどいました。その人達は「中華民国」の国民として扱われていました。
しかし、1972年に日本の外交政策が変わり、中国の正統政府は「中華人民共和国」であると認識を
変え、新たに国交を結び、一方「中華民国」とは国交を断絶しました。その時に日本に在住していた
華僑の人たちは、国籍の問題を抱えたのです。日本が認めない国の人間として暮らす場合の不便を
考えて、日本が認める中華人民共和国の国籍に変更したり、日本の国籍を取得する人が出てきまし
た。しかし、今まで「○○国の人間、国民だ」と思っていきてきた人が一夜にして、国籍を変更して違う
国の人間になるというのは、難しいことです。
私の父は、1912年旧満州、ハルピンの生まれで地主の息子でした。当然、日本語の教育を受けた
経験を持っています。第2次世界大戦後、共産党と国民党が争う中、共産党からは第一に捕まえら
れ、殺されるような立場でした。そこで、内乱のなか田舎から逃げるようにして、香港を経由して台湾
渡りました。しかし、彼にとって台湾は生まれた地と気候も習慣も違い、自分の居場所ではないような
気がしていたのでしょう。数年後にはハルピンに戻ろうという気持ちでいましたが、状況が許さず帰ること
はできませんでした。そして自分や子どもの将来を考え、台湾を離れ新天地を拓くため、言葉のできる
日本にきたという経緯があります。
父は1972年国籍問題が起こった時、今までの経緯や社会的背景から、日本国籍をとることも、中
華人民共和国の国籍を取得することも、できなかったのだと思います。そこで家族全員が無国籍とな
ったのです。つまり、私が「無国籍」になったのは戦後、台湾から来日した父母が1972年の日台国交
断絶で、日本か中国かの選択を迫られた際にどちらも選ばなかったからなのです。そのころ私は1歳未
満だったのですが、その後無国籍の状態で日本に暮らすこととなります。幼稚園はインターナショナル・
スクールに通いました。その後、両親は日本の某有名小学校に私を入学させようと考えましたが、無国
籍児を教育したという前例がないということで入学できませんでした。結局、中国人として育てたいという
父の意向から、その後は横浜中華学院という民族学校に進学しました。言葉の面では、中国語と日
本語を使い、自分の中では色々な文化があるのが普通でした。私のアイデンティティも、そんな中で形
成されてきたと思います。