非二元・ノンデュアリティ・悟り・「私」というものが初めからいなかったことを見抜く方法など最終更新 2026/10/01 20:331.なおしTprXoこんなやり方で「私」と言うものに固定的な実体がないことを見抜いたと言う経験をシェアしませんか?例えば、一切の前提を一旦脇において今ここでそれそのものを直接見ることで「私」と言うものにはそもそも初めから実体がなかったことを見抜いた、など。2026/09/18 13:48:0044コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.なおしTprXo花を見ています。見ている人はいますか?それとも「見ている」と言う現象だけが起こっていますか?究極のシンプル体験を確認してみます。一切の前提を一旦脇に置いて今ここでそのままを観察すると何が起こっているでしょうか?2026/09/18 13:52:093.神も仏も名無しさんsbb1Wそれで?2026/09/19 03:19:084.なおしOuj8N視覚が起こっている場所を調べてみると特定できない。視覚の境界を探したがどこにも見当たらない。目を閉じても視覚は無くならない。視覚の中に入ってしまうとそれは視覚ですらない。起こるが起こっている。「在る」の中で起こっている。たった今ここで確認できることです。(それを表現する際にどのような言葉を使うかは人によります。)2026/09/19 07:45:075.なおしOuj8N>>3「自分」と言うものが実体として固定的に存在しているかどうかを調べる方法ついて書いています。ご意見をください。2026/09/19 07:47:566.なおしMYrLe一切の前提無しにただそのままを直接観る、気づく、ただそれだけ。これだけのことが難しいときは難しい。色々ある理由のひとつに恐怖がある。人は、得体の知れないもの、未知のものを忌避する。「一切の前提無しにただそのままを直接観る」ということは恐ろしいことだ。知っていることを当てはめるからこそ人は安心する。清水の舞台から飛び降りる、「ええいままよ」とその真っ只中に飛び込む、自分の握り締めているものを一瞬ほどく、そんな感覚。踏み出す前は怖いかもしれないが、やってしまうと新しい景色がある。自分がいないことに気づき、自分は世界そのものであることに気づき、本当の自分を見つける。2026/09/20 09:52:317.、E56nQそれであなたの思考は止まっていますか?DMNの俯瞰を通じて心のお喋りが完全に停止した状態在れば見ることが起こっていて見る主体は消えています。2026/09/21 20:37:158.、E56nQ⭐アドヴァイタ・ヴェーダーンタ≪3つのサマディー≫と≪禅の大悟 とサハジャ・サマディー≫https://ameblo.jp/kurokumachin-2020/entry-12976649507.html2026/09/21 20:41:019.なおしij7o4>>7考えている時と考えていない時がありますが、だからといって完全に思考が止まる事は無いようです。2026/09/21 22:08:4010.なおしij7o4>>7あなたがおっしゃるように、見ると言うことだけが起こっていて見ている人はいません。どのような経験も、シンプルにその現象がただそれがそれとして起こってようです。つまり経験だけがあり、経験者はいないということですね。このことを知識ではなく経験として、いつでもどこでも確認することができると思いますか?2026/09/21 22:13:5611.なおしij7o4>>7主体が消えるのですか?それとも、もともといないことに気づきますでしょうか?2026/09/21 22:14:5912.なおしij7o4あなたには帰るところがありますか?ホーム、ベース、基準、土台などと呼ぶことができる「これ」。変わらずにいつでもたった今ここにある「これ」。あのときの「あれ」ではなく「これ」です。たった今すぐにあなたは覚醒します。メソッドは要りません。時間も積み重ねも要りません。説明も想像も要りません。たった今目の前にある丸見えの「これ」です。否、目の前ですらありません。言うなればゼロ距離です。あなた自体です。ですから距離を取ることができません。分かれていないということです。直接にそれそのものを体験することで、あなたは「在る」というこの圧倒的な事実を見出すでしょうか?2026/09/21 22:17:0713.なおしij7o4あの先人はこう言っている。本当にそうか確認する。あの宗教がこう言っている。本当にそうか確認する。鵜呑みにするのではなく確認しましょう。自分自身のために。2026/09/21 22:18:2214.なおしij7o4>>7それはあなたが経験したことでしょうか?あなたが確認したことでしょうか?2026/09/21 22:20:3615.なおし2mty0一切の前提無しにただそのままを直接観る、気づく、ただそれだけ。これだけのことが難しいときは難しい。色々ある理由のひとつに恐怖がある。人は、得体の知れないもの、未知のものを忌避する。「一切の前提無しにただそのままを直接観る」ということは恐ろしいことだ。知っていることを当てはめるからこそ人は安心する。清水の舞台から飛び降りる、「ええいままよ」とその真っ只中に飛び込む、自分の握り締めているものを一瞬ほどく、そんな感覚。踏み出す前は怖いかもしれないが、やってしまうと新しい景色がある。自分がいないことに気づき、自分は世界そのものであることに気づき、本当の自分を見つける。2026/09/23 22:36:5316.なおし2mty0あなたには帰るところがありますか?ホーム、ベース、基準、土台などと呼ぶことができる「これ」。変わらずにいつでもたった今ここにある「これ」。あのときの「あれ」ではなく「これ」です。たった今すぐにあなたは覚醒します。メソッドは要りません。時間も積み重ねも要りません。説明も想像も要りません。たった今目の前にある丸見えの「これ」です。否、目の前ですらありません。言うなればゼロ距離です。あなた自体です。ですから距離を取ることができません。分かれていないということです。直接にそれそのものを体験することで、あなたは「在る」というこの圧倒的な事実を見出すでしょうか?2026/09/23 22:38:4417.なおし2mty0確認するということは確認している自分がいるはずだ、体験するということは体験している自分がいるはずだ、普通はそのように考えます。強固な前提と言えるでしょう。ただ、この普通こそが私たちを迷子にさせているようです。「これは私がしていることである」という幻想を落とすためには、普通と思っていること、当たり前と思っていること、を一旦脇に置いて、たった今ここで起こっていることを、ただそのまんま直接観る必要があります。コツは、この時、説明や理解をしないこと。別の言い方をすると、知っていることを持ち込まない、ということです。知っていることを観るのではなく、今ここで実際に起こっていることを直接観るのです。2026/09/23 22:42:5218.なおし2mty0人は自分の創造物(物語)を体験する。体験者がいないことに気づくとき、あなたは本当の自分を発見する。在るが在る。2026/09/23 22:43:5219.神も仏も名無しさんVgTCC私は、無数の依存対象との関わり方によってその性質を経験し味わい、私を含む思いが産まれ言葉か産まれ物語を産む、その無数の繰り返しが今、と思うようになった2026/09/24 08:22:5420.なおしokwFk>>19おっしゃっていることが私には難しいです。今まで生きてきた中で様々な出来事や人々との関係性の中において様々な概念が積み上がってきて現在の「自分」と言う概念が出来上がった、のような感じでしょうか?違ったらすみません。必ずしも依存によるものかどうかは私にはわかりません。単に信念を積み上げてきただけと言えるでしょうか?2026/09/24 09:04:4321.神も仏も名無しさんVgTCC私にとっては、生きることは依存だと思っています。2026/09/24 12:08:4822.神も仏も名無しさんVgTCCせめて私が依存していることや、依存している対象に気づいて私なりに実感しようと心がけている、裸で外に産まれて外で死ぬのが当たり前の生き物は、ここが私を産んで生かして殺すことを実感し続けることがそのまま生きることになっていると思っている2026/09/24 12:49:5423.なおしokwFk>>21人それぞれいろいろな考え方や信念があると思います。私はこのスレッドで、自分が持っている様々な前提を一旦脇に置いておいて、今ここで実際に起こっていることを直接観るとき(体験するとき)に何が観える(何が起こっている)でしょうか?といったことを発信しています。実際にやってみたらどうだったか?どういうことに気づいたか?など、体験を共有できればと思っています。2026/09/24 16:04:5524.神も仏も名無しさんG0RRO私はそこまでいかないな、できるだけ私が依存しているものに気づいていこうとしているだけだな。2026/09/25 02:16:3325.なおし1TIxB>>24気づきが起こっている時、気づいている人がいるでしょうか?2026/09/25 08:24:3726.神も仏も名無しさんyqOWQ私はそのような問いをしないな、私が、ああ、そうだな、と気づいたことを私はそのように思い決め付けて断定し考え行動する、構造を知ろうとすることはあまりしない。2026/09/25 13:36:5227.なおしOPb3H>>26お返事ありがとうございます。「自分」というものが固定的な実体があるわけではないと言うことを見抜いておくと日々の生活が結構楽になりませんか?といったことについて勝手に発信しています。2026/09/26 09:54:1128.なおし8v8JXあなたがしんどい思いをしているとき、実際には何が起こっていますか?あなたはそこに「自分」というものとの関連を見出すでしょうか?そしてもしあなたが「自分」というものが世界と切り離されたちっぽけな存在ではないことを見抜いてしまった時、何が起こるでしょうか?それはたった今ここですぐに確認できることです。2026/09/29 07:42:2029.なおし8v8JXあなたがしんどい思いをしているとき、例えば「自分から何かが損なわれた喪失感」のような物語があなたの中で密かに進行していることに気づくでしょうか?この時もしあなたが「自分」というものに実体が無く概念でしかないということを見抜いていたら、そしてこの実体が無く概念でしかないものに対して、どのようにしても損なわれるということが起きようがない、ということを見抜いていたら、あなたの日々の生活は、また違ったものになっていたでしょうか?2026/09/29 07:42:4530.神も仏も名無しさんif49H私は調子が悪くなってくると、対処に集中してしまい状態がどうなのかを見る視点がなくなることが多いな、よく親しい人が指摘する。私は、裸で外に産まれて死ぬのが当たり前の生き物は、ここが産んで育てて殺すことを実感し続けることが生きることになっていると思っている、その感覚は私の理想しかし私は無数の依存に支えられて生きていて心地良さを得ている、それらにとても愛着がありとても大切なもので捨てたいとは全く思わない、せめて無数の依存に気づき続けることを心がけている2026/09/29 12:24:2431.なおしHVJDY>>30> 私は調子が悪くなってくると、対処に集中してしまい状態がどうなのかを見る視点がなくなることが多いな、よく親しい人が指摘する。>視野が狭くなって他のことが目に入らなくなると言うことでしょうか?2026/09/30 09:32:0232.なおしHVJDY>>30>> 私は、裸で外に産まれて死ぬのが当たり前の生き物は、ここが産んで育てて殺すことを実感し続けることが生きることになっていると思っている、その感覚は私の理想>その考え方によって精神的な苦しみが減り自由でいられていると言うことでしょうか?2026/09/30 09:34:3133.なおしHVJDY>>30> しかし私は無数の依存に支えられて生きていて心地良さを得ている、それらにとても愛着がありとても大切なもので捨てたいとは全く思わない> 、せめて無数の依存に気づき続けることを心がけているあなたがおっしゃる依存とは具体的にはどのようなことでしょうか?2026/09/30 09:35:4734.神も仏も名無しさんwEkZY>>31そうだね、状態を俯瞰して覚えておかないので、同じことを繰り返しやすい。>>32私にとっては、精神的な苦しみや自由、というのが具体的にどういう事なのかよくわからない、例えば死ぬことについても、私は日常的に何かを飲んで食べる、動物や植物様々なものを食べたり飲んだりする、美味しいと喜び不味いと気分が悪くなる、私の身体が生きること以上に気分のために何らかのものを殺し続けることが生きることになっていると思っている。>>33私が思うようになった依存は私が思いつけるもの何もかもだ、国、社会、街、家や道、下水管、水道、服、身体、身体の調子、身近な人、思い、思いたいこと、キリがないほど依存していると思っている。2026/09/30 14:33:1635.なおしHVJDY> >>32> 私にとっては、精神的な苦しみや自由、というのが具体的にどういう事なのかよくわからない、例えば死ぬことについても、私は日常的に何かを飲んで食べる、動物や植物様々なものを食べたり飲んだりする、美味しいと喜び不味いと気分が悪くなる、私の身体が生きること以上に気分のために何らかのものを殺し続けることが生きることになっていると思っている。精神的な苦しみを感じることがないと言うのであれば私が特にお役に立てることはないと思います。私の投稿に絡んでこられたという事は何かあるのかなと思ったのですが…>> >>33> 私が思うようになった依存は私が思いつけるもの何もかもだ、国、社会、街、家や道、下水管、水道、服、身体、身体の調子、身近な人、思い、思いたいこと、キリがないほど依存していると思っている。で、そう考えることによって精神的な苦しみを感じることがないと言う事ですね。2026/09/30 16:30:0136.神も仏も名無しさんwEkZY私は、苦しむことを辞めたいならさっさと死ぬのが一番いいと思っている、私は苦しんでも生きたいと思っていて、今のところ私にとっては生きることを辞めたいほどの苦しみは味わっていない。私の目的は大喜びで終わることだ、どんな生き死にであっても、私が私に満足し大喜びで終わることが今生きている目的だ、未だ大喜びで終える態度にはなっていないが、このような思いを思えるようになって、無数の出会いや経験にとても感謝している。2026/09/30 17:29:4637.なおしHVJDY>>36> 私は、苦しむことを辞めたいならさっさと死ぬのが一番いいと思っている、私は苦しんでも生きたいと思っていて、今のところ私にとっては生きることを辞めたいほどの苦しみは味わっていない。ひとことで苦しみと言っても、弱いものから強いものまであり、短時間で終わるものから長く居座るものまであるようです。生きることをやめたいほどの苦しみと言うのはなかなか強く長い苦しみですね。>> 私の目的は大喜びで終わることだ、どんな生き死にであっても、私が私に満足し大喜びで終わることが今生きている目的だ、未だ大喜びで終える態度にはなっていないが、このような思いを思えるようになって、無数の出会いや経験にとても感謝している。どのような時に自分が自分に満足し、どのような時に自分が自分に満足できませんか?2026/09/30 20:19:2838.神も仏も名無しさんwEkZY私はできるだけ単純にするのが好きなので、複雑な苦しみがよくわからない、たまにホームレスに飲み物を上げたりすると、快く貰う人もいれば、激怒してぶん投げる人もいる、苦しんでいても私にはわからないことが無数にあるだろうなとは思う。私が満足している時は喜んでいる時だと思っている、私が不満に思う時は何かを失って依存できなくなったことで、依存対象や依存する気持ちや、その依存から何を得ているかに気付き実感する機会になっている。2026/09/30 20:59:1839.なおしZnSlF>>38> 私はできるだけ単純にするのが好きなので、複雑な苦しみがよくわからない、たまにホームレスに飲み物を上げたりすると、快く貰う人もいれば、激怒してぶん投げる人もいる、苦しんでいても私にはわからないことが無数にあるだろうなとは思う。>人の事はわからないんですよね。> 私が満足している時は喜んでいる時だと思っている、私が不満に思う時は何かを失って依存できなくなったことで、依存対象や依存する気持ちや、その依存から何を得ているかに気付き実感する機会になっている。なるほど。そういうことですね。2026/10/01 07:19:3740.なおしZnSlF初めてリンゴを食べる人がいる。目の前にリンゴがある。あとは食べるだけである。他にしなければならないことは何も無い。それでもリンゴを前にして考えてしまう。「どうすれば食べることができるのだろう?」リンゴを食べる方法は無い。たった今ここで食べるだけである。たったそれだけのことが難しいときはとことん難しい。2026/10/01 08:15:2241.なおしZnSlFリンゴを食べた人がいた。その人は言った。「こうすれば食べられる」多くの人がその人のもとに集まった。その方法は本にもなった。別の人が別の方法を見つけた。また人が集まった。「こっちの方法が正しい」「いや、こっちだ」議論が始まった。結局誰もリンゴを食べなかった。2026/10/01 08:15:5742.神も仏も名無しさんqqji8私は初めてのことを覚えることが出来ないな、ということは実感した、初めて見た空や景色何もかも初めて見たことを思うことが出来ない、想像するに無数に繰り返して何かしらの感覚を覚えることで、その感覚を私が思うことができるように表現して現し味あわせることを無数に繰り返しようやく思うことができるようになるのだと思っている。2026/10/01 12:31:4943.なおしZnSlF>>42確かに何かを考えるためには概念が必要ですね。真っ白な状態では、ただそれそのものが起こっているだけで、それそのものについて思い巡らす事はできないようです。2026/10/01 20:19:1944.なおしZnSlF一方、それそのもの(生の現実)とそれに対する概念(説明や理解)は別のものなので、これを混ぜて混同してしまうといろいろ面倒なことになりそうです。りんごを食べることりんごに対する概念(説明や理解)を理解することは別。2026/10/01 20:33:13
乃木坂46 43rdシングルリーク 2026年11月25日発売 初選抜 愛宕心響 長嶋凛桜 選抜落ち 岩本蓮加 筒井あやめ 森平麗心 選抜復帰 小川彩乃木坂4657825.12026/10/02 15:49:41
例えば、一切の前提を一旦脇において今ここでそれそのものを直接見ることで「私」と言うものにはそもそも初めから実体がなかったことを見抜いた、など。
見ている人はいますか?
それとも「見ている」と言う現象だけが起こっていますか?
究極のシンプル体験を確認してみます。
一切の前提を一旦脇に置いて今ここでそのままを観察すると何が起こっているでしょうか?
視覚の境界を探したがどこにも見当たらない。
目を閉じても視覚は無くならない。
視覚の中に入ってしまうとそれは視覚ですらない。
起こるが起こっている。
「在る」の中で起こっている。
たった今ここで確認できることです。
(それを表現する際にどのような言葉を使うかは人によります。)
「自分」と言うものが実体として固定的に存在しているかどうかを調べる方法ついて書いています。
ご意見をください。
これだけのことが難しいときは難しい。
色々ある理由のひとつに恐怖がある。
人は、得体の知れないもの、未知のものを忌避する。
「一切の前提無しにただそのままを直接観る」ということは恐ろしいことだ。
知っていることを当てはめるからこそ人は安心する。
清水の舞台から飛び降りる、「ええいままよ」とその真っ只中に飛び込む、自分の握り締めているものを一瞬ほどく、そんな感覚。
踏み出す前は怖いかもしれないが、やってしまうと新しい景色がある。
自分がいないことに気づき、自分は世界そのものであることに気づき、本当の自分を見つける。
あなたの思考は止まっていますか?
DMNの俯瞰を通じて心のお喋りが
完全に停止した状態在れば
見ることが起こっていて見る主体は消えています。
https://ameblo.jp/kurokumachin-2020/entry-12976649507.html
考えている時と考えていない時がありますが、だからといって完全に思考が止まる事は無いようです。
あなたがおっしゃるように、見ると言うことだけが起こっていて見ている人はいません。
どのような経験も、シンプルにその現象がただそれがそれとして起こってようです。
つまり経験だけがあり、経験者はいないということですね。
このことを知識ではなく経験として、いつでもどこでも確認することができると思いますか?
主体が消えるのですか?
それとも、もともといないことに気づきますでしょうか?
ホーム、ベース、基準、土台などと呼ぶことができる「これ」。
変わらずにいつでもたった今ここにある「これ」。
あのときの「あれ」ではなく「これ」です。
たった今すぐにあなたは覚醒します。
メソッドは要りません。
時間も積み重ねも要りません。
説明も想像も要りません。
たった今目の前にある丸見えの「これ」です。
否、目の前ですらありません。
言うなればゼロ距離です。
あなた自体です。
ですから距離を取ることができません。
分かれていないということです。
直接にそれそのものを体験することで、あなたは「在る」というこの圧倒的な事実を見出すでしょうか?
本当にそうか確認する。
あの宗教がこう言っている。
本当にそうか確認する。
鵜呑みにするのではなく確認しましょう。
自分自身のために。
それはあなたが経験したことでしょうか?
あなたが確認したことでしょうか?
これだけのことが難しいときは難しい。
色々ある理由のひとつに恐怖がある。
人は、得体の知れないもの、未知のものを忌避する。
「一切の前提無しにただそのままを直接観る」ということは恐ろしいことだ。
知っていることを当てはめるからこそ人は安心する。
清水の舞台から飛び降りる、「ええいままよ」とその真っ只中に飛び込む、自分の握り締めているものを一瞬ほどく、そんな感覚。
踏み出す前は怖いかもしれないが、やってしまうと新しい景色がある。
自分がいないことに気づき、自分は世界そのものであることに気づき、本当の自分を見つける。
ホーム、ベース、基準、土台などと呼ぶことができる「これ」。
変わらずにいつでもたった今ここにある「これ」。
あのときの「あれ」ではなく「これ」です。
たった今すぐにあなたは覚醒します。
メソッドは要りません。
時間も積み重ねも要りません。
説明も想像も要りません。
たった今目の前にある丸見えの「これ」です。
否、目の前ですらありません。
言うなればゼロ距離です。
あなた自体です。
ですから距離を取ることができません。
分かれていないということです。
直接にそれそのものを体験することで、あなたは「在る」というこの圧倒的な事実を見出すでしょうか?
強固な前提と言えるでしょう。
ただ、この普通こそが私たちを迷子にさせているようです。
「これは私がしていることである」という幻想を落とすためには、普通と思っていること、当たり前と思っていること、を一旦脇に置いて、たった今ここで起こっていることを、ただそのまんま直接観る必要があります。
コツは、この時、説明や理解をしないこと。
別の言い方をすると、知っていることを持ち込まない、ということです。
知っていることを観るのではなく、今ここで実際に起こっていることを直接観るのです。
体験者がいないことに気づくとき、あなたは本当の自分を発見する。
在るが在る。
おっしゃっていることが私には難しいです。
今まで生きてきた中で様々な出来事や人々との関係性の中において様々な概念が積み上がってきて現在の「自分」と言う概念が出来上がった、のような感じでしょうか?違ったらすみません。
必ずしも依存によるものかどうかは私にはわかりません。単に信念を積み上げてきただけと言えるでしょうか?
人それぞれいろいろな考え方や信念があると思います。
私はこのスレッドで、自分が持っている様々な前提を一旦脇に置いておいて、今ここで実際に起こっていることを直接観るとき(体験するとき)に何が観える(何が起こっている)でしょうか?といったことを発信しています。
実際にやってみたらどうだったか?
どういうことに気づいたか?
など、体験を共有できればと思っています。
気づきが起こっている時、気づいている人がいるでしょうか?
お返事ありがとうございます。
「自分」というものが固定的な実体があるわけではないと言うことを見抜いておくと日々の生活が結構楽になりませんか?といったことについて勝手に発信しています。
あなたはそこに「自分」というものとの関連を見出すでしょうか?
そしてもしあなたが「自分」というものが世界と切り離されたちっぽけな存在ではないことを見抜いてしまった時、何が起こるでしょうか?
それはたった今ここですぐに確認できることです。
この時もしあなたが「自分」というものに実体が無く概念でしかないということを見抜いていたら、そしてこの実体が無く概念でしかないものに対して、どのようにしても損なわれるということが起きようがない、ということを見抜いていたら、あなたの日々の生活は、また違ったものになっていたでしょうか?
私は、裸で外に産まれて死ぬのが当たり前の生き物は、ここが産んで育てて殺すことを実感し続けることが生きることになっていると思っている、その感覚は私の理想
しかし私は無数の依存に支えられて生きていて心地良さを得ている、それらにとても愛着がありとても大切なもので捨てたいとは全く思わない
、せめて無数の依存に気づき続けることを心がけている
> 私は調子が悪くなってくると、対処に集中してしまい状態がどうなのかを見る視点がなくなることが多いな、よく親しい人が指摘する。
>
視野が狭くなって他のことが目に入らなくなると言うことでしょうか?
>
> 私は、裸で外に産まれて死ぬのが当たり前の生き物は、ここが産んで育てて殺すことを実感し続けることが生きることになっていると思っている、その感覚は私の理想
>
その考え方によって精神的な苦しみが減り自由でいられていると言うことでしょうか?
> しかし私は無数の依存に支えられて生きていて心地良さを得ている、それらにとても愛着がありとても大切なもので捨てたいとは全く思わない
> 、せめて無数の依存に気づき続けることを心がけている
あなたがおっしゃる依存とは具体的にはどのようなことでしょうか?
そうだね、状態を俯瞰して覚えておかないので、同じことを繰り返しやすい。
>>32
私にとっては、精神的な苦しみや自由、というのが具体的にどういう事なのかよくわからない、例えば死ぬことについても、私は日常的に何かを飲んで食べる、動物や植物様々なものを食べたり飲んだりする、美味しいと喜び不味いと気分が悪くなる、私の身体が生きること以上に気分のために何らかのものを殺し続けることが生きることになっていると思っている。
>>33
私が思うようになった依存は私が思いつけるもの何もかもだ、国、社会、街、家や道、下水管、水道、服、身体、身体の調子、身近な人、思い、思いたいこと、キリがないほど依存していると思っている。
> 私にとっては、精神的な苦しみや自由、というのが具体的にどういう事なのかよくわからない、例えば死ぬことについても、私は日常的に何かを飲んで食べる、動物や植物様々なものを食べたり飲んだりする、美味しいと喜び不味いと気分が悪くなる、私の身体が生きること以上に気分のために何らかのものを殺し続けることが生きることになっていると思っている。
精神的な苦しみを感じることがないと言うのであれば私が特にお役に立てることはないと思います。
私の投稿に絡んでこられたという事は何かあるのかなと思ったのですが…
>
> >>33
> 私が思うようになった依存は私が思いつけるもの何もかもだ、国、社会、街、家や道、下水管、水道、服、身体、身体の調子、身近な人、思い、思いたいこと、キリがないほど依存していると思っている。
で、そう考えることによって精神的な苦しみを感じることがないと言う事ですね。
私の目的は大喜びで終わることだ、どんな生き死にであっても、私が私に満足し大喜びで終わることが今生きている目的だ、未だ大喜びで終える態度にはなっていないが、このような思いを思えるようになって、無数の出会いや経験にとても感謝している。
> 私は、苦しむことを辞めたいならさっさと死ぬのが一番いいと思っている、私は苦しんでも生きたいと思っていて、今のところ私にとっては生きることを辞めたいほどの苦しみは味わっていない。
ひとことで苦しみと言っても、弱いものから強いものまであり、短時間で終わるものから長く居座るものまであるようです。
生きることをやめたいほどの苦しみと言うのはなかなか強く長い苦しみですね。
>
> 私の目的は大喜びで終わることだ、どんな生き死にであっても、私が私に満足し大喜びで終わることが今生きている目的だ、未だ大喜びで終える態度にはなっていないが、このような思いを思えるようになって、無数の出会いや経験にとても感謝している。
どのような時に自分が自分に満足し、どのような時に自分が自分に満足できませんか?
私が満足している時は喜んでいる時だと思っている、私が不満に思う時は何かを失って依存できなくなったことで、依存対象や依存する気持ちや、その依存から何を得ているかに気付き実感する機会になっている。
> 私はできるだけ単純にするのが好きなので、複雑な苦しみがよくわからない、たまにホームレスに飲み物を上げたりすると、快く貰う人もいれば、激怒してぶん投げる人もいる、苦しんでいても私にはわからないことが無数にあるだろうなとは思う。
>
人の事はわからないんですよね。
> 私が満足している時は喜んでいる時だと思っている、私が不満に思う時は何かを失って依存できなくなったことで、依存対象や依存する気持ちや、その依存から何を得ているかに気付き実感する機会になっている。
なるほど。
そういうことですね。
目の前にリンゴがある。
あとは食べるだけである。
他にしなければならないことは何も無い。
それでもリンゴを前にして考えてしまう。
「どうすれば食べることができるのだろう?」
リンゴを食べる方法は無い。
たった今ここで食べるだけである。
たったそれだけのことが難しいときはとことん難しい。
その人は言った。
「こうすれば食べられる」
多くの人がその人のもとに集まった。
その方法は本にもなった。
別の人が別の方法を見つけた。
また人が集まった。
「こっちの方法が正しい」
「いや、こっちだ」
議論が始まった。
結局誰もリンゴを食べなかった。
確かに何かを考えるためには概念が必要ですね。
真っ白な状態では、ただそれそのものが起こっているだけで、それそのものについて思い巡らす事はできないようです。
りんごを食べることりんごに対する概念(説明や理解)を理解することは別。