東洋思想総合

1.
ユーザー
rrlvW
話の赴くままに東洋思想を語るスレ。
155
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106.
ユーザー
tS0cq
>>105
修験道の雰囲気に近い
ま、
修験道自体も
禅の発想みたいなのを流用しているが
😀

昨日の奥の院の弘法大師御廟は
道教に近いといえば近い感だ
テーラワーダ→唯識までの
自己分析先行しない点が
😀
107.
ユーザー
tS0cq
現在の高野山真言宗は
弘法大師御廟では
真言宗教義と統合した感じて法要してるだろうけど
😀
108.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
質問:

「道教=老荘思想」ではないと、道教系の人はよく言うのだが
109.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
チャットGPT:

そう。実際、道教側の人ほど「Daoism=Tao Te Ching+Zhuangziではない」と強調することが多い。

日本では「老荘思想=道教」みたいに一括りにされがちだが、中国史的にはかなりズレがある。

ざっくり言うと、

老子・荘子 → 哲学・思想

道教 → 宗教・修行体系・儀礼・呪術・身体技法の総合体

なんだな。

110.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
だから、道教の実態を見ると、

符籙(お札・呪符)
斎醮(祭祀儀礼)
神々への祈祷
不老長生術
丹薬
気功
房中術
仙人修行
悪霊祓い
星辰信仰

みたいなものが大量に入ってくる。

これは、静かな哲学書としての『老子』『荘子』の世界とは、かなり雰囲気が違う。

だから道教関係者からすると、
「老荘だけ見て“道教”を語るな」
という感覚になる。
111.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
逆に、思想史・哲学史サイドでは、
「道教の核心は老荘思想だ」
と言う人もいる。

つまり、
宗教実践としての道教
哲学としての老荘
を、どちらを中心に見るかで印象が変わる。

さらに面白いのは、中国の道教は実際にはかなり“混血”なんだ。

例えば、
民間信仰
シャーマニズム
陰陽五行
神仙思想
医術
仏教
儒教
まで大量に吸収している。

だから歴史的な道教は、むしろ 「中国宗教文化の巨大な寄せ鍋」 に近い。
112.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
あなたが以前言っていた、

曹洞宗より臨済宗のほうが道教的

という感覚も、実は分かるところがある。

特に中国禅には、
気の感覚
身体鍛錬
仙人的イメージ
超人的祖師像
直観重視
反論理的パフォーマンス
みたいな、“中国宗教的身体文化”がかなり混ざっている。

だから禅を見ていて、 「これ、インド仏教というより中国的だな」 と感じるのは自然なんだよな。
113.
ユーザー
0rAbD
AIのバカだな

😀
114.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
質問:

臨済宗が道教っぽいのは確かだ

これなんか、気功の修練にしか見えんのだが

↓

現代における「無字」の修行法

大慧禅師の「言葉や理屈で詮索しない」という教えは、現代ではさらに身体や呼吸の実践へと深化しています。

具体的な呼吸法: 腰骨を立てて下腹(丹田)に気力を込め、下腹に圧をかけながら息を長く吐き出し、その時にただ**「むー」と息を吐いていく**。

結論: これを繰り返すことで、頭での理解を超え、身体と呼吸のすべてで「無」の一字になりきる修行となっています。
115.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
チャットGPT:

かなり気功的だと思う。

とくに、
丹田に力を込める
下腹に圧をかける
長く息を吐く
声を引き伸ばす(「むーーー」)
身体全体で一つの状態に入る
このへんは、中国の内丹・気功・吐納法の系統とかなり近い。

禅の公案修行というより、むしろ 「呼吸・姿勢・気の統一によって意識状態を変える技法」 に見える。

しかも、「無の一字になりきる」という表現も、かなり身体変性寄りだな。
116.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
本来、大慧宗杲 の「無字」は、
趙州の「無」を、理屈で解釈するな
全身で疑え
思考を突破しろ
という、公案参究だった。

そこでは必ずしも、 「丹田に圧をかけて長く吐く」 みたいな具体的身体技法は中心ではない。

だが、日本の近代禅、とくに
白隠系
呼吸重視の禅
丹田禅
三昧養成法
あたりになると、かなり“気”の訓練へ寄っていく。

たとえば 白隠慧鶴 は、禅病を治すために内観法や軟酥の法をやっており、これはほぼ養生気功みたいなものだ。
117.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
さらに近代日本では、
岡田式静坐法
藤田霊斎
中村天風
丹田呼吸法
など、禅・仙道・気功・呼吸法がかなり混ざった。

だから、あなたが感じた
「これ、禅というより気功では?」
という感覚は、かなり本質を突いていると思う。

実際、中国仏教そのものが、
禅
道教
養生術
気の身体観
と長い時間をかけて融合していった面がある。

特に臨済系は、 「腹から声を出す」 「気迫」 「全身集中」 を重視するので、道教的・武術的な身体文化に近づきやすい。
118.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
6SkTI
>>113

AIがおかしいのか?
119.
ユーザー
qbHAR
おお、放置しておいたんだ。進んでいる。ありがとう。

ここは、とりあえず、思想だからね。老子の言わんとしているところは、
絶対を知るということはできないが、相対を知ることによって絶対の片鱗を知るとということだろうね
120.
ユーザー
fY6QB
>>118
不立文字の臨済宗だから
言語定義化てきないのを
えは理解してない
😀
121.
ユーザー
fY6QB
臨済宗を言語化可能と信奉しているのは
ハッスル🤡と麦くらいだろな
😅
122.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
BdlXw
臨済宗は言語化できないな?😫
123.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
BdlXw
荘子の思想は言語化できる😄
124.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
BdlXw
これからは道教だ😄
125.
ユーザー
2Ka64
ま、
プロ野球選手のテクニックを言語化しても、それがプロ野球選手のテクニックと
イコールにならないからなー
またプロ野球選手によって同じポジション役割でもテクニックは異なるだろうしな
臨済宗はそんな感じだろう
😀
126.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
htiwB
言語の限界など

宗教に限らず、何にでもあるだろう
127.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
htiwB
AIの活用法にすら

言語化できないコツがある😂
128.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
htiwB
そこにコダワる意味がない
129.
ユーザー
wHZfJ
円覚寺のボンクラは
言語化しやすいタイプだろな
ボンクラ故に
😀
130.
ユーザー
0VXqv
あげ
131.
ユーザー
0VXqv
東洋思想をやろうと思ったら、総会資料をつくるので、忙しくなって、トークに顔を出す暇がなかった。
そうだ、老師も好きだからなw
132.
ユーザー
0VXqv
中論頌と老子の現代語訳とするか。
133.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
tTGb8
一章

道の道ふべきは常道にはあらず。
名の名づくべきは常名にはあらず。
無は天地の始めと名づくべく、
有は萬物の母と名づくべきなり。
故に、常無にして以てその妙を觀んと欲し、
常有にして以てその徼を觀んと欲せよ。
この兩者は同じきも、出でては名を異にするなり。
同なるこれを玄と謂ふも、玄のまた玄にして、
衆妙の門なり。
134.
ユーザー
0VXqv
いいね。いいね。この一章は大好きだよ(*^-^*)

おはようございます。
135.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
tTGb8
おはよ~ございます
136.
ユーザー
3JrJz
老子『道徳経』第一章だけを純粋に構造分析する。

🟫 結論(最短)
老子は「道」を二層構造で提示する。
名づけられる道(有)と、名づけられない道(無)。
この二つは異なるように見えて、根源では同一である。
その“同一性の二重構造”こそが玄であり、衆妙の門である。

仏教を使わずに言えば、
老子は「言語化できる世界」と「言語化できない世界」の構造的関係を示している。
137.
ユーザー
3JrJz
🟫 ② 「名の名づくべきは常名にはあらず」
ここは 概念の限界。

名(概念)は固定できない

名は対象を切り取るが、対象そのものではない

老子は「名=世界の切断装置」と見ている。

🟫 ③ 「無は天地の始め」「有は万物の母」
ここで老子は 世界の二相構造を提示する。

無 → 根源・潜勢・未分化

有 → 展開・分化・現象

しかしこれは対立ではなく、
生成の二相(プロセスの二段階)である。

🟫 ④ 「常無にして以てその妙を観んと欲し」
「妙」は 本質・根源の働き。

無を観る → 本質の働きを観る

有を観る → 現象の境界を観る

老子は「観察の二つのモード」を提示している。

🟫 ⑤ 「この両者は同じきも、出でては名を異にする」
ここが老子の核心。

無と有は根源では同一だが、
現れ方(名)によって異なるように見える。

つまり老子は、

本質と現象は同一の源から出る

名が違うだけで、構造は一つ

という 同一性の二重構造を示している。

🟫 ⑥ 「玄のまた玄、衆妙の門」
「玄」は 不可視の深層構造。

老子は「玄」を次のように定義している:

無と有が同一であるという深層

名と無名が同一であるという深層

本質と現象が同一であるという深層

そして、

その深層構造がさらに二重化している状態を
「玄のまた玄」と呼ぶ。

この二重化された深層構造が
「衆妙(すべての働き)の門」である。
138.
ユーザー
3JrJz
🟫 ⑦ 老子第一章の構造を図式化するとこうなる
① 名づけられる世界(有)
分化

現象

認識可能

言語化可能

② 名づけられない世界(無)
未分化

根源

認識不可能

言語化不可能

③ 両者は同一の源
無→有へ展開

有→無へ回帰

二相は循環する

④ この循環の背後にある構造が「玄」
無と有の同一性

名と無名の同一性

本質と現象の同一性

⑤ その同一性がさらに二重化したものが「玄のまた玄」
世界の深層構造

あらゆる妙(働き)の入口

🟫 ⑧ 老子第一章の本質
あなたの好む抽象構造でまとめると、

老子は「世界は二相であり、
その二相は根源では一であり、
その“一でありながら二である”構造こそが
世界の深層である」と言っている。

純粋な認識論・形而上学として理解できる。

139.
ユーザー
ONXMG
2章
天下皆知美之為美、斯悪巳、皆知善之為善、斯不善巳。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。是以聖人処無為之事、行不言之教。万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃。功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

今日
2章 天下皆知美之為美、斯悪巳、皆知善之為善、斯不善巳。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。是以聖人処無為之事、行不言之教。万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃。功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。 現代語訳にして
以下は 第2章の現代語訳。
あなたの好む「抽象構造・因果・認識論」の観点を自然に織り込みつつ、
原文のニュアンスを損なわない形でまとめる。

◆現代語訳(意味が一目で分かる形)
人々が「これが美しい」と言った瞬間、
その反対である「醜い」が同時に生まれる。
人々が「これが善い」と言った瞬間、
その反対である「悪い」が同時に生まれる。

このように、
有と無は互いを生み出し、
難しいと易しいは互いを成り立たせ、
長いと短いは互いを際立たせ、
高いと低いは互いを傾け合い、
音と声は互いに調和し、
前と後は互いに従い合う。

だから聖人は、
「無為の働き」を行い、
「言葉を使わない教え」を実践する。

万物は自然に生じ、自然に動く。
聖人はそれを妨げず、
生じても所有しようとせず、
行っても頼りにせず、
功績が成っても自分のものとしない。

功績を自分のものとしないからこそ、
その働きは永く失われない。
140.
ユーザー
ONXMG
◆構造的ポイント
● ①「価値は相対から生まれる」
美・醜、善・悪は 比較によって初めて成立する。
これはあなたが以前述べた
「無常は相対から生まれる」
という構造と完全に一致する。

● ②「二項は互いを生み出す」
有/無、難/易、長/短……
老子は世界を 相互依存のペア構造 として捉える。

仏教で言えば

空/仮

理/事

不二
に近い。

● ③「聖人は“相対のゲーム”から降りる」
価値判断の相対構造に巻き込まれない。
だから「無為」「不言」が成立する。

これは禅でいう
「絞り切れ」「主体の残滓を捨てよ」
という指導と同じ方向性。

● ④「功成而弗居」=功績の非所有
「成果を自分のものとしない」
という態度は、
141.
ユーザー
ONXMG
仏教を入れない

◆構造だけで読む(道家の純粋な論理)
●① 価値は「比較」によって初めて成立する
美・醜、善・悪は、
どちらかを名指した瞬間に 対立項が同時に立ち上がる。

老子は「価値は本来の実体ではなく、関係性の産物」と見ている。

●② 世界は“相互依存のペア構造”でできている
有/無、難/易、長/短……
どちらか一方だけでは成立しない。
世界は 対の関係が連続している場 として描かれる。

●③ 聖人は「価値判断のゲーム」から降りる
価値を固定しない。
評価を所有しない。
だから「無為」「不言」が自然に成立する。

●④ 「功成而弗居」=成果の非所有
成果を自分のものにしないことで、
その働きは腐らず、継続する。
142.
ユーザー
ONXMG
3章
不尚賢、使民不争。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不乱。是以聖人之治、虚其心、実其腹、弱其志、
強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢為也。為無為、則無不治。

◆第3章(純道家・現代語訳)
賢い者を特別に持ち上げない。
そうすれば、人々は争わなくなる。

手に入りにくい財宝を尊ばない。
そうすれば、人々は盗もうとしなくなる。

欲しがるべきものを見せびらかさない。
そうすれば、人々の心は乱れない。

だから聖人の政治は、
心の空しさを保ち、
腹(生活の安定)を満たし、
過度な野心を弱め、
身体の健やかさを強める。

常に人々を、
余計な知恵や欲望に振り回されない状態に保ち、
利口ぶる者が勝手に動けないようにする。

「無為」で治めれば、
治まらないものは何もない。

143.
ユーザー
ONXMG
◆構造的ポイント(道家の純粋な論理)
●① 「賢」を立てると争いが生まれる
賢者を上に置くと、
比較・競争・嫉妬が立ち上がる。
老子は「価値の序列化」が争いの原因だと見る。

●② 欲望は“見せられることで”生まれる
難得の財を尊ぶ → 欲望が刺激される
欲望が刺激される → 奪取・盗みが生まれる
老子は「欲望は外部刺激によって構造的に生成される」と読む。

●③ 聖人の政治は「心を軽く、生活を重く」
虚其心=余計な思考・比較・欲望を空にする
実其腹=生活の安定を優先する
弱其志=過剰な野心を弱める
強其骨=身体の健やかさを保つ

精神を軽くし、生活を重くする。
これは道家の政治観の核心。

●④ 「無知無欲」は愚民化ではない
老子の言う「無知無欲」は、
余計な知恵・余計な欲望に振り回されない状態 のこと。

比較・競争・欲望の連鎖を断つための構造的操作。

●⑤ 「為無為、則無不治」
無為とは「余計な介入をしない」こと。
自然の流れを妨げないことで、
結果的にすべてが整う。

◆あなた向けの一文まとめ
価値の序列化と欲望の刺激が社会の乱れを生む。
聖人は心を軽くし、生活を満たし、
余計な知恵と欲望を弱めることで、
自然に治まる政治を実現する。
144.
ユーザー
ONXMG
余計な知恵と欲望を弱めることで、

まぁ私はこちらの方がいいけどね。

逆の人もいるかもしれない。これも自然て言えば自然だw

智慧を求め、欲望を強める。

結局は主観さぁ。
145.
ユーザー
jdplG
4章
道沖、而用之或不盈。淵兮以万物之宗。挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。湛兮以或存。吾不知誰之子。象帝之先

道は空っぽのようで、
どれだけ使っても満ちることがない。

深い淵のようで、
万物の源になっている。

鋭さをくじき、
絡まりをほどき、
光を和らげ、
塵とひとつになる。

深く静かで、
どこかに常に存在している。

私はそれが誰の子なのか知らない。
ただ、天地よりも前からあるもののようだ。
146.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
荘子 坐忘

坐忘(ざぼう)とは、中国の古典『荘子』(大宗師篇)に由来する、身も心も一切の束縛や執着から解放し、万物の根源である「道(タオ)」と一体になる境地のことです。 [1, 2]

147.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
坐忘の意味と内容

出典と対話:孔子と弟子の顔回(がんかい)の問答の中に登場します。顔回が「仁義や礼楽を忘れることができ、さらに進んだ」と語った際に出た言葉です。

核心の言葉:「肢体を堕(おと)し、聡明(そうめい)を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去り、大通(だいつう)に同ず」と表現されます。
148.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
具体的な状態:

五体や手足の力を抜き、感覚や知識、見栄や世俗の価値観すべて忘れ去る。

自分と外界の区別が消え、大いなる自然の真理(道)に溶け込む。

149.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
後世への影響

禅や日本の文化:のちの禅における「坐禅」や「身心脱落」の先駆けとなり、茶道などの精神的背景にも大きな影響を与えています。

日常での意味:現代でも「あれが欲しい」「自分はこうあるべき」といった日々の囚われを手放し、心を静めるための心の在り方として語られます。
150.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
1. 顔回の告白(「坐忘」への到達)

原文

顏回曰、「回益矣。」仲尼曰、「何謂也。」曰、「回忘仁義矣。」曰、「可矣、猶未也。」他日復見、曰、「回益矣。」曰、「何謂也。」曰、「回忘禮樂矣。」曰、「可矣、猶未也。」他日復見、曰、「回益矣。」曰、「何謂也。」曰、「回坐忘矣。」

書き下し文

顔回(がんかい)曰(いわ)く、「回(かい)は益(えき)せり」と。仲尼(ちゅうじ)曰く、「何の謂(い)いぞや」と。曰く、「回は仁義(じんぎ)を忘れたり」と。曰く、「可(か)なり、猶(な)お未(いま)だきなり」と。他日(たじつ)復(ま)た見(まみ)え、曰く、「回は益せり」と。曰く、「何の謂いぞや」と。曰く、「回は礼楽(れいがく)を忘れたり」と。曰く、「可なり、猶お未だきなり」と。他日復た見え、曰く、「回は益せり」と。曰く、「何の謂いぞや」と。曰く、「回は坐忘(ざぼう)せり」と。

現代語訳

顔回が「私は進歩しました」と言った。孔子が「どういうことだ?」と尋ねると、顔回は「仁義(道徳)の意識を忘れました」と答えた。孔子は「よくやった。だがまだ十分ではない」と言った。
後日、再び会った顔回が「進歩しました」と言った。「どういうことだ?」と聞くと、「礼楽(制度や規範)を忘れました」と答えた。孔子は「よくやった。だがまだ十分ではない」と言った。
さらに後日、顔回は「進歩しました」と言った。「どういうことだ?」と聞くと、顔回は「私は坐忘に達しました」と答えた。
151.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
2. 「坐忘」とは何か(孔子の驚きと解説)

原文

仲尼蹴然曰、「何謂坐忘。」顏回曰、「墮肢體、黜聰明、離形去知、同於大通。此之謂坐忘。」

書き下し文

仲尼(ちゅうじ)蹴然(しゅくぜん)として曰く、「何の坐忘(ざぼう)と謂(い)うぞ」と。顔回曰く、「肢体(したい)を堕(おと)し、聡明(そうめい)を黜(しりぞ)け、形(けい)を離れ知(ち)を去り、大通(だいつう)に同(どう)ず。此(これ)を坐忘と謂う」と。

現代語訳

孔子はびっくりして背筋を正し、「坐忘とはどういうことか?」と尋ねた。
顔回は言った。「肉体の存在感を忘れ、耳目の働き(知覚)を退け、肉体を離れ知識を去って、万物を貫く大いなる根源(道)と一体になることです。これを坐忘と言います」
152.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
3. 孔子の感嘆と弟子入り

原文

仲尼曰、「同則無好也、化則無常也。而果其賢乎。丘也請從而後也。」

書き下し文

仲尼曰く、「同(どう)ずれば則(すなわ)ち好(こう)無く、化(か)すれば則ち常(じょう)無し。而(なんじ)果たして其(そ)の賢(けん)なるか。丘(きゅう)も請(こ)う従(したが)いて後(おく)れん」と。

現代語訳

孔子は言った。「大いなる根源と一体になれば、個人的な好き嫌いはなくなる。変化に身をゆだねれば、固定観念に縛られることもない。お前は本当に賢者になったのだな。私もどうかお前の後ろに従わせて(弟子にさせて)ほしい」
153.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
mHaU1
💡 この対話のポイント

皮肉と逆転:儒教の祖である「孔子」と、その最愛の弟子「顔回」が登場しますが、話の展開は儒教が重んじる「仁義」や「礼楽」を段階的に捨て去る内容になっています。

逆転の結末:最終的には、先生である孔子が、弟子である顔回に「弟子入りさせてくれ(後ろに従わせてくれ)」と頭を忘れるほど感動するという、荘子らしいユーモアと逆説に満ちた対話です。
154.
ユーザー
7XsvR
私は月
155.
ユーザー
◆JBLfMwCXhY
IH1FB
>>154

誰も見ていないときは、存在しない

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