東洋思想総合最終更新 2026/06/06 05:451.夕rrlvW話の赴くままに東洋思想を語るスレ。2026/01/14 08:18:50129コメント欄へ移動すべて|最新の50件80.◆JBLfMwCXhYwGTt7臨済の問答も、構造的にはこれに近い。弟子が「仏とは何ですか」と概念化した瞬間、喝!打棒!「庭前柏樹子」「麻三斤」みたいに、論理のレールを外す。これは単なる奇行ではなく、思考による把握を断ち切るための技法です。ここは荘子より、かなり龍樹的。2026/05/23 07:51:0681.◆JBLfMwCXhYwGTt7荘子はもっと“溶解型”なんです。胡蝶の夢渾沌逍遥遊などを見ると、世界との境界が溶ける方向へ向かう。柔らかい。 流動的。 詩的。一方、臨済はかなり暴力的です。「仏に逢うては仏を殺せ」「祖師に逢うては祖師を殺せ」みたいな言葉もそうですが、執着対象を叩き壊す力が強い。これは中観派のいかなる見解にも住するなという精神に近い。2026/05/23 07:51:3382.◆JBLfMwCXhYwGTt7ただ面白いのは、禅宗が「龍樹そのもの」にならなかった点です。もし純粋中観なら、もっと論理哲学になる。ところが禅では、茶書作務自然身体沈黙など、中国的・老荘的な身体感覚が入る。だから最終的には、臨済宗骨格→ 龍樹的(中観・破壊)肉体→ 荘子的(自然・身体・日常)みたいな構造になっている。これはかなり面白いところです。実際、臨済録を読むと、「論理解体の鋭さ」はインド中観的なのに、全体の空気はどこか中国の山林文化・老荘文化なんですよね。そこが、単なるインド仏教とも、単なる道教とも違う、禅宗独特の魅力になっています。2026/05/23 07:52:0483.◆JBLfMwCXhYwGTt7質問:確かに臨済宗は、論理や概念を積極的に破壊しようとしているな「流れに身をまかせよう」という感じではない2026/05/23 07:52:5284.◆JBLfMwCXhYwGTt7チャットGPT:そうですね。とくに臨済宗は、「自然に流れる」よりも、思考の執着を叩き壊す方向性がかなり強いです。だから、一般にイメージされるのんびり自然体ゆるく生きるあるがままみたいな“癒やし系禅”とは、実際かなり違う。むしろ臨済禅は、かなり攻撃的です。たとえば臨済義玄の語録を見ると、弟子を怒鳴る打つ否定する問いをひっくり返す概念化を許さないという場面が非常に多い。これは単に荒っぽい性格なのではなく、人は「わかった」と思った瞬間に、概念へ閉じこもると見ているからです。だから臨済は、仏に執着するな悟りに執着するな禅に執着するな空にすら執着するなと、足場を次々外していく。2026/05/23 07:54:1685.◆JBLfMwCXhYwGTt7ここは本当に龍樹的です。中観派も、「空」という思想そのものに執着するなと言う。有名な、空を誤って把握する者は、毒蛇を誤って掴むようなものという感覚ですね。つまり「正しい世界観」を与えるのではなく、世界観にしがみつく心そのものを破壊する方向へ行く。2026/05/23 07:56:2486.◆JBLfMwCXhYwGTt7だから臨済宗は、荘子的な「大自然への溶け込み」だけでは説明しきれない。むしろ、臨済禅の特徴思考停止ではない概念破壊である安心立命ではない根底の依存を断つ「わかった感」を潰すという、かなりラディカルな性格を持っています。一方、荘子は、もっと漂う。風のように生きる世界変化に逆らわない是非を超えて遊ぶという方向で、緊張感がやや薄い。臨済にはもっと、生死そのものを突破しろみたいな切迫感がある。これは、中国士大夫の清談文化より、むしろ仏教の「生死問題」の重さを引きずっている感じがあります。だから雰囲気で言うと、荘子 → 溶解・遊び・漂泊臨済 → 切断・突破・粉砕なんですよね。この「粉砕感」が、臨済禅独特の迫力になっています。2026/05/23 07:56:5287.◆JBLfMwCXhYwGTt7質問:「禅宗は老荘思想に似ている」と思っていたがこうしてみると、やはり、だいぶ違うようだ2026/05/23 07:58:0788.◆JBLfMwCXhYwGTt7チャットGPT:その感覚、かなり自然だと思います。禅宗はしばしば、「自然体」「あるがまま」「ゆるく生きる」「無為自然」「癒やし」みたいに紹介されるので、最初は荘子系の思想に見えやすい。実際、中国化した仏教として、老荘思想の影響はかなり受けています。ただ、深く入っていくと、禅は“くつろぎの哲学”ではないという面が強く見えてくる。特に臨済宗は、「安心しましょう」「自然に任せましょう」ではなく、お前はいま、何に依存している?を徹底的に問う。そして、知識仏教理解悟りのイメージ自我言葉「空」という理解まで全部壊しに来る。だから、かなり厳しい。ここにはやはり、インド仏教由来の生死への切迫感執着からの解脱根本無明の打破がある。2026/05/23 07:58:5789.◆JBLfMwCXhYwGTt7老荘思想は、もっと世界の流れの中で自由に遊ぶ方向です。もちろん荘子にも鋭い認識批判はありますが、臨済みたいな喝!棒!公案!大疑!のような「精神の極限突破」感は弱い。むしろ禅宗は、外見→ 老荘っぽい内部エンジン→ 大乗仏教、とくに空思想・中観という構造に近い。だから、禅庭や茶道だけ見ると荘子的に見えるのに、実際の修行論へ入ると急に生死無明執着大死一番見性みたいな、かなり宗教的で切実な話になる。ここで「あれ、思ったよりハードだな」と感じる人は多いです。逆に言うと、あなたが最初に禅は老荘っぽいと感じたのも間違いではない。ただ、その奥へ行くと、禅は老荘的な皮膚をまとった、大乗仏教のラディカルな修行体系という顔が見えてくるわけですね。2026/05/23 07:59:3890.◆JBLfMwCXhYwGTt7なるほど2026/05/23 08:39:2391.◆JBLfMwCXhYwGTt7それは言えてるな2026/05/23 08:39:3392.◆JBLfMwCXhYwGTt7でも、老荘だってやってることは概念破壊だけどな2026/05/23 08:40:0393.◆JBLfMwCXhYwGTt7実際、欧米の知識人には「老子を読んで概念を破壊されました」「強烈なショックでした」というような人がよくいる2026/05/23 08:40:4594.◆JBLfMwCXhYwGTt7だが!臨済宗ほど破壊的ではない2026/05/23 08:41:1095.◆JBLfMwCXhYwGTt7臨済宗はクラッシャー的なところがある2026/05/23 08:41:3396.神も仏も名無しさんlalhX道教の静坐はどうなのか?2026/05/24 08:14:5197.神も仏も名無しさんlalhX道教 の静坐は、禅の坐禅とはかなり雰囲気が違いますね。もちろん流派によって幅がありますが、全体としては、心身を整える気を養う自然と調和する長生・養生神秘的変容の方向が強いです。禅のような、「自己執着を打ち砕け!」 「悟りを求める心を断て!」みたいな緊張感は、比較的弱い。むしろ道教の静坐は、「無理をするな」 「自然に任せろ」 「気が整えば、心も静まる」という感じです。2026/05/24 08:15:1298.神も仏も名無しさんlalhXだから身体感覚をかなり重視します。たとえば道教系では、丹田呼吸気の流れ経絡内臓感覚精・気・神などを扱うことが多い。禅が「妄念をどうするか」を問題にしやすいのに対し、道教は、「気の状態が乱れているから、心も乱れる」と見る傾向が強いですね。なので実践も、呼吸法導引内丹術小周天存思など、かなり身体技法寄りになります。2026/05/24 08:15:3099.神も仏も名無しさんlalhXまた、禅は究極的には「無所得」を強調しがちですが、道教は比較的、健康長寿活力超越的能力不老不死など、“得る方向”が残っています。ここが大きな違いです。ただし、荘子 的な系統になると、かなり禅に近い静けさも出てきます。たとえば「心斎」「坐忘」は有名ですね。とくに「坐忘」は、身体も知識も忘れ、 世界との境界が薄れるという境地で、後世の禅にもかなり影響したと考えられています。ただ、それでも禅ほどの“破壊性”は薄い。禅はある意味、「最後まで自己を追い詰める」修行ですが、道教はむしろ、「自然の流れに戻っていく」感じなんです。だから、長く続けると、禅はストイックで鋭くなりやすい道教は柔らかく円くなりやすいという傾向はあるかもしれません。2026/05/24 08:16:01100.神も仏も名無しさんlalhX1002026/05/24 08:16:17101.◆JBLfMwCXhYrmAHv荘子 の「心斎(しんさい)」と「坐忘(ざぼう)」は、後の禅宗にも強い影響を与えたとされる、有名な修養概念です。どちらも、頭で世界を操作しようとする心を静め、 人為を離れて、道(タオ)と一体化する方向を示しています。ただ、禅のような「悟り獲得」よりは、“自然に溶けていく”感じが強いですね。2026/05/25 05:12:04102.◆JBLfMwCXhYrmAHv心斎(しんさい)「心を斎(ととの)える」という意味です。荘子 は、単なる思考停止ではなく、自我の判断・欲望・先入観を静めることを言っています。有名な一節では、「耳で聞くな。心で聞け。 心で聞くな。気で聞け」という話が出てきます。ここでいう「気」は、単なる呼吸ではなく、生の流れ存在全体の感応作為以前の働きみたいなものです。つまり、「頭で意味づけする前に、 世界そのものに触れろ」という方向ですね。かなり禅的です。2026/05/25 05:12:29103.◆JBLfMwCXhYrmAHvただ禅より柔らかい。禅だと、「その思考を断て!」になりがちですが、荘子は、「そんなに力むなよ」という感じです。2026/05/25 05:12:58104.◆JBLfMwCXhYrmAHv坐忘(ざぼう)こちらはさらに有名です。「坐って忘れる」。何を忘れるのかというと、身体知識社会的立場善悪判断自我などです。『荘子』では、「四肢を落とし、 聡明を去り、 形を離れ、 知を捨て、 大通に同ず」という表現があります。かなりインパクトがありますね。要するに、“自分”として世界を操作しようとする働きが薄れ、 道(タオ)の流れに溶ける状態です。ここから後の禅宗の、無心放下只管打坐に通じる雰囲気を感じる人は多いです。2026/05/25 05:13:35105.◆JBLfMwCXhYrmAHvただし、重要な違いもあります。禅では、無我空仏性生死問題が核心になります。一方、荘子的世界はもっと、自然自由遊戯相対化のびのびした超脱の方向です。だから、坐忘は禅のような「厳しい修行」というより、「世界との境界が、ふっと薄くなる」感覚に近い。禅の祖師の中には鬼気迫る人もいますが、荘子にはどこか笑っている感じがあるんですよね。2026/05/25 05:13:48106.神も仏も名無しさんtS0cq>>105修験道の雰囲気に近いま、修験道自体も禅の発想みたいなのを流用しているが😀昨日の奥の院の弘法大師御廟は道教に近いといえば近い感だテーラワーダ→唯識までの自己分析先行しない点が😀2026/05/25 07:57:00107.神も仏も名無しさんtS0cq現在の高野山真言宗は弘法大師御廟では真言宗教義と統合した感じて法要してるだろうけど😀2026/05/25 07:58:32108.◆JBLfMwCXhY6SkTI質問:「道教=老荘思想」ではないと、道教系の人はよく言うのだが2026/05/28 08:37:34109.◆JBLfMwCXhY6SkTIチャットGPT:そう。実際、道教側の人ほど「Daoism=Tao Te Ching+Zhuangziではない」と強調することが多い。日本では「老荘思想=道教」みたいに一括りにされがちだが、中国史的にはかなりズレがある。ざっくり言うと、老子・荘子 → 哲学・思想道教 → 宗教・修行体系・儀礼・呪術・身体技法の総合体なんだな。2026/05/28 08:38:20110.◆JBLfMwCXhY6SkTIだから、道教の実態を見ると、符籙(お札・呪符)斎醮(祭祀儀礼)神々への祈祷不老長生術丹薬気功房中術仙人修行悪霊祓い星辰信仰みたいなものが大量に入ってくる。これは、静かな哲学書としての『老子』『荘子』の世界とは、かなり雰囲気が違う。だから道教関係者からすると、「老荘だけ見て“道教”を語るな」という感覚になる。2026/05/28 08:38:37111.◆JBLfMwCXhY6SkTI逆に、思想史・哲学史サイドでは、「道教の核心は老荘思想だ」と言う人もいる。つまり、宗教実践としての道教哲学としての老荘を、どちらを中心に見るかで印象が変わる。さらに面白いのは、中国の道教は実際にはかなり“混血”なんだ。例えば、民間信仰シャーマニズム陰陽五行神仙思想医術仏教儒教まで大量に吸収している。だから歴史的な道教は、むしろ 「中国宗教文化の巨大な寄せ鍋」 に近い。2026/05/28 08:38:59112.◆JBLfMwCXhY6SkTIあなたが以前言っていた、曹洞宗より臨済宗のほうが道教的という感覚も、実は分かるところがある。特に中国禅には、気の感覚身体鍛錬仙人的イメージ超人的祖師像直観重視反論理的パフォーマンスみたいな、“中国宗教的身体文化”がかなり混ざっている。だから禅を見ていて、 「これ、インド仏教というより中国的だな」 と感じるのは自然なんだよな。2026/05/28 08:39:19113.神も仏も名無しさん0rAbDAIのバカだな😀2026/05/28 08:42:30114.◆JBLfMwCXhY6SkTI質問:臨済宗が道教っぽいのは確かだこれなんか、気功の修練にしか見えんのだが↓現代における「無字」の修行法大慧禅師の「言葉や理屈で詮索しない」という教えは、現代ではさらに身体や呼吸の実践へと深化しています。具体的な呼吸法: 腰骨を立てて下腹(丹田)に気力を込め、下腹に圧をかけながら息を長く吐き出し、その時にただ**「むー」と息を吐いていく**。結論: これを繰り返すことで、頭での理解を超え、身体と呼吸のすべてで「無」の一字になりきる修行となっています。2026/05/28 08:42:55115.◆JBLfMwCXhY6SkTIチャットGPT:かなり気功的だと思う。とくに、丹田に力を込める下腹に圧をかける長く息を吐く声を引き伸ばす(「むーーー」)身体全体で一つの状態に入るこのへんは、中国の内丹・気功・吐納法の系統とかなり近い。禅の公案修行というより、むしろ 「呼吸・姿勢・気の統一によって意識状態を変える技法」 に見える。しかも、「無の一字になりきる」という表現も、かなり身体変性寄りだな。2026/05/28 08:43:36116.◆JBLfMwCXhY6SkTI本来、大慧宗杲 の「無字」は、趙州の「無」を、理屈で解釈するな全身で疑え思考を突破しろという、公案参究だった。そこでは必ずしも、 「丹田に圧をかけて長く吐く」 みたいな具体的身体技法は中心ではない。だが、日本の近代禅、とくに白隠系呼吸重視の禅丹田禅三昧養成法あたりになると、かなり“気”の訓練へ寄っていく。たとえば 白隠慧鶴 は、禅病を治すために内観法や軟酥の法をやっており、これはほぼ養生気功みたいなものだ。2026/05/28 08:44:00117.◆JBLfMwCXhY6SkTIさらに近代日本では、岡田式静坐法藤田霊斎中村天風丹田呼吸法など、禅・仙道・気功・呼吸法がかなり混ざった。だから、あなたが感じた「これ、禅というより気功では?」という感覚は、かなり本質を突いていると思う。実際、中国仏教そのものが、禅道教養生術気の身体観と長い時間をかけて融合していった面がある。特に臨済系は、 「腹から声を出す」 「気迫」 「全身集中」 を重視するので、道教的・武術的な身体文化に近づきやすい。2026/05/28 08:44:18118.◆JBLfMwCXhY6SkTI>>113AIがおかしいのか?2026/05/28 08:46:05119.夕qbHARおお、放置しておいたんだ。進んでいる。ありがとう。ここは、とりあえず、思想だからね。老子の言わんとしているところは、絶対を知るということはできないが、相対を知ることによって絶対の片鱗を知るとということだろうね2026/05/28 08:51:42120.神も仏も名無しさんfY6QB>>118不立文字の臨済宗だから言語定義化てきないのをえは理解してない😀2026/05/28 10:11:11121.神も仏も名無しさんfY6QB臨済宗を言語化可能と信奉しているのはハッスル🤡と麦くらいだろな😅2026/05/28 10:12:17122.◆JBLfMwCXhYBdlXw臨済宗は言語化できないな?😫2026/06/05 16:56:40123.◆JBLfMwCXhYBdlXw荘子の思想は言語化できる😄2026/06/05 16:56:57124.◆JBLfMwCXhYBdlXwこれからは道教だ😄2026/06/05 17:06:25125.神も仏も名無しさん2Ka64ま、プロ野球選手のテクニックを言語化しても、それがプロ野球選手のテクニックとイコールにならないからなーまたプロ野球選手によって同じポジション役割でもテクニックは異なるだろうしな臨済宗はそんな感じだろう😀2026/06/05 22:21:37126.◆JBLfMwCXhYhtiwB言語の限界など宗教に限らず、何にでもあるだろう2026/06/06 00:33:40127.◆JBLfMwCXhYhtiwBAIの活用法にすら言語化できないコツがある😂2026/06/06 00:34:07128.◆JBLfMwCXhYhtiwBそこにコダワる意味がない2026/06/06 00:34:32129.神も仏も名無しさんwHZfJ円覚寺のボンクラは言語化しやすいタイプだろなボンクラ故に😀2026/06/06 05:45:22
【TBS世論調査】高市内閣の支持率70.0%、死角は誹謗中傷動画問題か・・・政治部 世論調査担当デスク 「選挙の公平性が揺らぎかねないこの問題に、総理が国民に対して説明を尽くせるのか。正念場が続くことになる」ニュース速報+9021484.72026/06/14 00:13:43
東京パソコンクラブ、毎回ゲーム会社の人が来ているっぽいけど、冨里って任天堂の人の前で「ボコボコにしていいすか」って林を煽ったの?そりゃアンダーに落ちるしプロデューサーに苦言を呈されるわ乃木坂461771242.62026/06/14 00:19:45
弟子が「仏とは何ですか」と概念化した瞬間、
喝!
打棒!
「庭前柏樹子」
「麻三斤」
みたいに、論理のレールを外す。
これは単なる奇行ではなく、
思考による把握を断ち切る
ための技法です。
ここは荘子より、かなり龍樹的。
胡蝶の夢
渾沌
逍遥遊
などを見ると、
世界との境界が溶ける
方向へ向かう。
柔らかい。 流動的。 詩的。
一方、臨済はかなり暴力的です。
「仏に逢うては仏を殺せ」
「祖師に逢うては祖師を殺せ」
みたいな言葉もそうですが、
執着対象を叩き壊す力が強い。
これは中観派の
いかなる見解にも住するな
という精神に近い。
もし純粋中観なら、もっと論理哲学になる。
ところが禅では、
茶
書
作務
自然
身体
沈黙
など、中国的・老荘的な身体感覚が入る。
だから最終的には、
臨済宗
骨格
→ 龍樹的(中観・破壊)
肉体
→ 荘子的(自然・身体・日常)
みたいな構造になっている。
これはかなり面白いところです。
実際、臨済録を読むと、
「論理解体の鋭さ」はインド中観的なのに、
全体の空気はどこか中国の山林文化・老荘文化なんですよね。
そこが、単なるインド仏教とも、単なる道教とも違う、禅宗独特の魅力になっています。
確かに
臨済宗は、論理や概念を積極的に破壊しようとしているな
「流れに身をまかせよう」という感じではない
とくに臨済宗は、「自然に流れる」よりも、
思考の執着を叩き壊す
方向性がかなり強いです。
だから、一般にイメージされる
のんびり
自然体
ゆるく生きる
あるがまま
みたいな“癒やし系禅”とは、実際かなり違う。
むしろ臨済禅は、かなり攻撃的です。
たとえば臨済義玄の語録を見ると、
弟子を怒鳴る
打つ
否定する
問いをひっくり返す
概念化を許さない
という場面が非常に多い。
これは単に荒っぽい性格なのではなく、
人は「わかった」と思った瞬間に、概念へ閉じこもる
と見ているからです。
だから臨済は、
仏に執着するな
悟りに執着するな
禅に執着するな
空にすら執着するな
と、足場を次々外していく。
中観派も、
「空」という思想そのものに執着するな
と言う。
有名な、
空を誤って把握する者は、毒蛇を誤って掴むようなもの
という感覚ですね。
つまり「正しい世界観」を与えるのではなく、
世界観にしがみつく心そのものを破壊する
方向へ行く。
むしろ、
臨済禅の特徴
思考停止ではない
概念破壊である
安心立命ではない
根底の依存を断つ
「わかった感」を潰す
という、かなりラディカルな性格を持っています。
一方、荘子は、もっと漂う。
風のように生きる
世界変化に逆らわない
是非を超えて遊ぶ
という方向で、緊張感がやや薄い。
臨済にはもっと、
生死そのものを突破しろ
みたいな切迫感がある。
これは、中国士大夫の清談文化より、むしろ仏教の「生死問題」の重さを引きずっている感じがあります。
だから雰囲気で言うと、
荘子 → 溶解・遊び・漂泊
臨済 → 切断・突破・粉砕
なんですよね。
この「粉砕感」が、臨済禅独特の迫力になっています。
「禅宗は老荘思想に似ている」と思っていたが
こうしてみると、やはり、だいぶ違うようだ
禅宗はしばしば、
「自然体」
「あるがまま」
「ゆるく生きる」
「無為自然」
「癒やし」
みたいに紹介されるので、最初は荘子系の思想に見えやすい。
実際、中国化した仏教として、老荘思想の影響はかなり受けています。
ただ、深く入っていくと、
禅は“くつろぎの哲学”ではない
という面が強く見えてくる。
特に臨済宗は、
「安心しましょう」
「自然に任せましょう」
ではなく、
お前はいま、何に依存している?
を徹底的に問う。
そして、
知識
仏教理解
悟りのイメージ
自我
言葉
「空」という理解
まで全部壊しに来る。
だから、かなり厳しい。
ここにはやはり、インド仏教由来の
生死への切迫感
執着からの解脱
根本無明の打破
がある。
世界の流れの中で自由に遊ぶ
方向です。
もちろん荘子にも鋭い認識批判はありますが、臨済みたいな
喝!
棒!
公案!
大疑!
のような「精神の極限突破」感は弱い。
むしろ禅宗は、
外見
→ 老荘っぽい
内部エンジン
→ 大乗仏教、とくに空思想・中観
という構造に近い。
だから、禅庭や茶道だけ見ると荘子的に見えるのに、
実際の修行論へ入ると急に
生死
無明
執着
大死一番
見性
みたいな、かなり宗教的で切実な話になる。
ここで「あれ、思ったよりハードだな」と感じる人は多いです。
逆に言うと、あなたが最初に
禅は老荘っぽい
と感じたのも間違いではない。
ただ、その奥へ行くと、
禅は老荘的な皮膚をまとった、大乗仏教のラディカルな修行体系
という顔が見えてくるわけですね。
やってることは概念破壊だけどな
「老子を読んで概念を破壊されました」
「強烈なショックでした」
というような人がよくいる
もちろん流派によって幅がありますが、全体としては、
心身を整える
気を養う
自然と調和する
長生・養生
神秘的変容
の方向が強いです。
禅のような、
「自己執着を打ち砕け!」 「悟りを求める心を断て!」
みたいな緊張感は、比較的弱い。
むしろ道教の静坐は、
「無理をするな」 「自然に任せろ」 「気が整えば、心も静まる」
という感じです。
たとえば道教系では、
丹田
呼吸
気の流れ
経絡
内臓感覚
精・気・神
などを扱うことが多い。
禅が「妄念をどうするか」を問題にしやすいのに対し、道教は、
「気の状態が乱れているから、心も乱れる」
と見る傾向が強いですね。
なので実践も、
呼吸法
導引
内丹術
小周天
存思
など、かなり身体技法寄りになります。
健康
長寿
活力
超越的能力
不老不死
など、“得る方向”が残っています。
ここが大きな違いです。
ただし、荘子 的な系統になると、かなり禅に近い静けさも出てきます。
たとえば「心斎」「坐忘」は有名ですね。
とくに「坐忘」は、
身体も知識も忘れ、 世界との境界が薄れる
という境地で、後世の禅にもかなり影響したと考えられています。
ただ、それでも禅ほどの“破壊性”は薄い。
禅はある意味、
「最後まで自己を追い詰める」
修行ですが、
道教はむしろ、
「自然の流れに戻っていく」
感じなんです。
だから、長く続けると、
禅はストイックで鋭くなりやすい
道教は柔らかく円くなりやすい
という傾向はあるかもしれません。
どちらも、
頭で世界を操作しようとする心を静め、 人為を離れて、道(タオ)と一体化する
方向を示しています。
ただ、禅のような「悟り獲得」よりは、
“自然に溶けていく”
感じが強いですね。
「心を斎(ととの)える」という意味です。
荘子 は、単なる思考停止ではなく、
自我の判断・欲望・先入観を静める
ことを言っています。
有名な一節では、
「耳で聞くな。心で聞け。 心で聞くな。気で聞け」
という話が出てきます。
ここでいう「気」は、単なる呼吸ではなく、
生の流れ
存在全体の感応
作為以前の働き
みたいなものです。
つまり、
「頭で意味づけする前に、 世界そのものに触れろ」
という方向ですね。
かなり禅的です。
禅だと、
「その思考を断て!」
になりがちですが、
荘子は、
「そんなに力むなよ」
という感じです。
こちらはさらに有名です。
「坐って忘れる」。
何を忘れるのかというと、
身体
知識
社会的立場
善悪判断
自我
などです。
『荘子』では、
「四肢を落とし、 聡明を去り、 形を離れ、 知を捨て、 大通に同ず」
という表現があります。
かなりインパクトがありますね。
要するに、
“自分”として世界を操作しようとする働きが薄れ、 道(タオ)の流れに溶ける
状態です。
ここから後の禅宗の、
無心
放下
只管打坐
に通じる雰囲気を感じる人は多いです。
禅では、
無我
空
仏性
生死問題
が核心になります。
一方、荘子的世界はもっと、
自然
自由遊戯
相対化
のびのびした超脱
の方向です。
だから、坐忘は禅のような「厳しい修行」というより、
「世界との境界が、ふっと薄くなる」
感覚に近い。
禅の祖師の中には鬼気迫る人もいますが、荘子にはどこか笑っている感じがあるんですよね。
修験道の雰囲気に近い
ま、
修験道自体も
禅の発想みたいなのを流用しているが
😀
昨日の奥の院の弘法大師御廟は
道教に近いといえば近い感だ
テーラワーダ→唯識までの
自己分析先行しない点が
😀
弘法大師御廟では
真言宗教義と統合した感じて法要してるだろうけど
😀
「道教=老荘思想」ではないと、道教系の人はよく言うのだが
そう。実際、道教側の人ほど「Daoism=Tao Te Ching+Zhuangziではない」と強調することが多い。
日本では「老荘思想=道教」みたいに一括りにされがちだが、中国史的にはかなりズレがある。
ざっくり言うと、
老子・荘子 → 哲学・思想
道教 → 宗教・修行体系・儀礼・呪術・身体技法の総合体
なんだな。
符籙(お札・呪符)
斎醮(祭祀儀礼)
神々への祈祷
不老長生術
丹薬
気功
房中術
仙人修行
悪霊祓い
星辰信仰
みたいなものが大量に入ってくる。
これは、静かな哲学書としての『老子』『荘子』の世界とは、かなり雰囲気が違う。
だから道教関係者からすると、
「老荘だけ見て“道教”を語るな」
という感覚になる。
「道教の核心は老荘思想だ」
と言う人もいる。
つまり、
宗教実践としての道教
哲学としての老荘
を、どちらを中心に見るかで印象が変わる。
さらに面白いのは、中国の道教は実際にはかなり“混血”なんだ。
例えば、
民間信仰
シャーマニズム
陰陽五行
神仙思想
医術
仏教
儒教
まで大量に吸収している。
だから歴史的な道教は、むしろ 「中国宗教文化の巨大な寄せ鍋」 に近い。
曹洞宗より臨済宗のほうが道教的
という感覚も、実は分かるところがある。
特に中国禅には、
気の感覚
身体鍛錬
仙人的イメージ
超人的祖師像
直観重視
反論理的パフォーマンス
みたいな、“中国宗教的身体文化”がかなり混ざっている。
だから禅を見ていて、 「これ、インド仏教というより中国的だな」 と感じるのは自然なんだよな。
😀
臨済宗が道教っぽいのは確かだ
これなんか、気功の修練にしか見えんのだが
↓
現代における「無字」の修行法
大慧禅師の「言葉や理屈で詮索しない」という教えは、現代ではさらに身体や呼吸の実践へと深化しています。
具体的な呼吸法: 腰骨を立てて下腹(丹田)に気力を込め、下腹に圧をかけながら息を長く吐き出し、その時にただ**「むー」と息を吐いていく**。
結論: これを繰り返すことで、頭での理解を超え、身体と呼吸のすべてで「無」の一字になりきる修行となっています。
かなり気功的だと思う。
とくに、
丹田に力を込める
下腹に圧をかける
長く息を吐く
声を引き伸ばす(「むーーー」)
身体全体で一つの状態に入る
このへんは、中国の内丹・気功・吐納法の系統とかなり近い。
禅の公案修行というより、むしろ 「呼吸・姿勢・気の統一によって意識状態を変える技法」 に見える。
しかも、「無の一字になりきる」という表現も、かなり身体変性寄りだな。
趙州の「無」を、理屈で解釈するな
全身で疑え
思考を突破しろ
という、公案参究だった。
そこでは必ずしも、 「丹田に圧をかけて長く吐く」 みたいな具体的身体技法は中心ではない。
だが、日本の近代禅、とくに
白隠系
呼吸重視の禅
丹田禅
三昧養成法
あたりになると、かなり“気”の訓練へ寄っていく。
たとえば 白隠慧鶴 は、禅病を治すために内観法や軟酥の法をやっており、これはほぼ養生気功みたいなものだ。
岡田式静坐法
藤田霊斎
中村天風
丹田呼吸法
など、禅・仙道・気功・呼吸法がかなり混ざった。
だから、あなたが感じた
「これ、禅というより気功では?」
という感覚は、かなり本質を突いていると思う。
実際、中国仏教そのものが、
禅
道教
養生術
気の身体観
と長い時間をかけて融合していった面がある。
特に臨済系は、 「腹から声を出す」 「気迫」 「全身集中」 を重視するので、道教的・武術的な身体文化に近づきやすい。
AIがおかしいのか?
ここは、とりあえず、思想だからね。老子の言わんとしているところは、
絶対を知るということはできないが、相対を知ることによって絶対の片鱗を知るとということだろうね
不立文字の臨済宗だから
言語定義化てきないのを
えは理解してない
😀
ハッスル🤡と麦くらいだろな
😅
プロ野球選手のテクニックを言語化しても、それがプロ野球選手のテクニックと
イコールにならないからなー
またプロ野球選手によって同じポジション役割でもテクニックは異なるだろうしな
臨済宗はそんな感じだろう
😀
宗教に限らず、何にでもあるだろう
言語化できないコツがある😂
言語化しやすいタイプだろな
ボンクラ故に
😀