パーリーの今期周回のまとめ【2】最終更新 2025/04/20 04:181.パーリーwkpXa(1/2)わたくしパーリーの今世における経験と智慧来世に向けての準備をツラツラと書くスレです備忘録ではありますが質問は受け付けます2025/03/26 20:06:04401コメント欄へ移動すべて|最新の50件352.神も仏も名無しさんCaSIv(2/2)>>347オトコダンっ!炸裂しとるやんけーやるねえー😀2025/04/18 20:06:08353.パーリー3pWY0(4/4)アートマン=プルシャ=ブラフマンってのが純粋意識ねこれらは認識主体とされている2025/04/18 20:58:55354.登り棒◆0mnwMe9WsAHPnF1寝てた。いいかい?触というのは根(感覚器官)と境(対象)識(眼識とか)が合わさったもの。作意はそれに注意を向けるということだ。人の体で説明すると目(根)が目の前の景色(対象)を捉える、その信号を眼識(識)が認識し作意が向く。そしてそこから判断が始まりそれを景色と捉える。つまり作意の時点ではそれは何の景色かすらわかってないんだよ。つまり分別前だ。んでリダンの言ってる事はその根の感覚器官には意根、つまり意識も入ってる。だから意識が岩だと認識したものにも意は向けられる。分別したものに意を向けてるわけだ。んでリダンはここしか見えていない。分別前の作意が分からない。だから意を向けるということが分別後のものにしか向けられない。それも時間の流れの中で見ているからだな。意を向ける事に対象は制限されない。私は相互依存という言葉は使うけど相対という言葉は使わんよ。2025/04/19 05:46:25355.登り棒◆0mnwMe9WsA8QiNB(1/4)作意と言ってわかりにくいならとりあえず純粋意識が私の視点と同じかわからないから違ったら馬さんに突っ込んでもらうとして。その純粋意識を理解すると世界の見方がガラッと変わるんだよ。そこを起点に物事を観るようになる。それは全て分別前の視点であり日常はその触に意を向けるだけ。その時は意を向けたものだけの情報が流れてくる。それがありのままの判断になる。これを分別から始まる意を向けるの状態だと、瞑想の熟練者であってもやることは集中によって他のものをとらない、つまり定を行い1点に集中する、あるいはどこにも意を向けないようにしてとらないという選択肢しかなくなる。結果集中したものにしか行為や判断が出来なくなる。だから呼吸に集中して他に意を向けずにいれば心は働かないので静寂は得られるが呼吸以外の認識がなくなってしまい行動出来なくなる。そうなると熟練の瞑想者は行動を起こすために瞬時に集中と分別を切り替えるような技術を追い求め、囚われたままになる。私はこれを三昧に囚われていると判断する。だからカムイさんがよく言ってるように歩く時はただ歩くことだけに集中というのは言葉としては正しいがその中身はまるで別物なのよ。2025/04/19 10:31:55356.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(1/34)>>355噛み合わん理由が分かった馬さんや俺は動中の話やなくて瞑想中の話対象ってのは思考や妄想、心のサンカーラの話2025/04/19 12:00:57357.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(2/34)お釈迦様の修行の一つに死体を見続けるってのがあるんだけどその後に瞑想するとその死体がめちゃくちゃリアルに現象するからなんだこれは?心のなかにも対象があるのではないか?って始まったんが唯識2025/04/19 12:04:20358.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(3/34)カムイさんの言ってる今は集中や分別を切り替えるような技術ではないよカムイさん本人はどうとってるか分からないが棒さんのいうそこを起点に物事を観るようになるにあたる2025/04/19 12:17:31359.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(4/34)正確には起点がここになる2025/04/19 12:18:35360.登り棒◆0mnwMe9WsA8QiNB(2/4)>>358そうよ。カムイさんがそう、ではなくてカムイさんの言う歩く時は歩くだけに集中ってのをこの2つの視点で見ると中身は別物って話。2025/04/19 12:19:23361.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(5/34)ようは坐禅の定、非対象化ってのはこれを分別から始まる意を向けるの状態だと、瞑想の熟練者であってもやることは集中によって他のものをとらない、つまり定を行い1点に集中する、あるいはどこにも意を向けないようにしてとらないという選択肢しかなくなる。↑集中によりとらないという選択肢しかなくなるということではなくとらないことによる非対象化主語の否定によるそのものそれを識ることで起点がここになる2025/04/19 12:28:02362.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(6/34)瞬時に集中と分別を切り替えるような技術を追い求め↑これだと二元のままだから禅やお釈迦様の瞑想は非二元の無分別を言っているのよ2025/04/19 12:31:40363.登り棒◆0mnwMe9WsA8QiNB(3/4)>>356でもこれはまた別の話、その状態でいると日常が瞑想状態になる。だからそのものになる、というよりすでにそのものなんだよ。離脱の話で飛ぼうと思うんじゃなくてすでに飛んでいるという話と同じ。そのきちんと意を向けるというのが出来ないと意を向けた対象の情報が流れてしまうから離脱世界ではそれが現実化してしまう。もっともそれは離脱世界で書き換え自由なレベルの集中あってこそだけども。>>357これは面白いな。唯識の始まりがそんなんだったのか。私の夢の探求と似たようなもんだな。>>361まさにここの理解。ここがリダンが停滞していると考えて私が内観を勧めている部分。よーやく話が近付いた気がする。2025/04/19 12:35:55364.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(7/34)まさにここの理解。ここがリダンが停滞していると考えて私が内観を勧めている部分。よーやく話が近付いた気がする。↑だからさ結局、今が起点になりその正しい念を相続し続ければ離脱世界の生成、あるいは輪廻先の器世間の生成をしないで遠離が可能でありそれが解脱になるのでは?と言うのが俺の見解2025/04/19 12:42:30365.登り棒◆0mnwMe9WsA8QiNB(4/4)>>361まずそれを知るのは修行の段階として大事だけど起点はそこじゃないってこと。分別のしない視点と修行による分別をとらないそのものの視点は状態だけで見たらほとんど変わらないんだよ。でもそのプロセスがまるで違う。そのプロセスの違いを知るには内観が必要。>>364そうなると今が起点という言葉は変わらないけどこの今、という理解が別物になってしまう。正しい念を相続するというより相続はさっき言った意根、つまり分別を起点にしてしまうからあくまで起点は分別の前になることを理解する必要がある。相続は苦しみを生むだろ?離脱世界とかまぁもっと言うなら分別そのものが悪いというわけでもない。例えば岩ってなんだ?と聞かれたら岩は分別だが岩に意を向けて岩の情報を集めるだろ?その時に相続すると岩に何かが付け足された視点で判断するようになる。本来岩の情報を集めるのに執着は起こらないんだよ。2025/04/19 13:09:10366.リダン◆gEV3xsS//kZJIB5(1/2)>>365分別のしない視点と修行による分別をとらないそのものの視点は状態だけで見たらほとんど変わらないんだよ。でもそのプロセスがまるで違う。そのプロセスの違いを知るには内観が必要。↑プロセスっていうか仏教では無分別と言って瞑想や坐禅で識るんだよ棒さんがそのものが多分、分かってないだけ2025/04/19 13:14:23367.リダン◆gEV3xsS//kZJIB5(2/2)>>365正念相続が苦しみを生み出すとかまたわけわからんことをいうね唯識で言う涅槃ってのは有漏の種子のサポートと阿頼耶識の保持を利用して成されるんだよ独自理論もいいが一回、成唯識論の翻訳に目をとおしてみ2025/04/19 13:32:44368.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(8/34)>>365離脱世界とかまぁもっと言うなら分別そのものが悪いというわけでもない。例えば岩ってなんだ?と聞かれたら岩は分別だが岩に意を向けて岩の情報を集めるだろ?その時に相続すると岩に何かが付け足された視点で判断するようになる。本来岩の情報を集めるのに執着は起こらないんだよ。↑涅槃に往する安住って意味からするとその器世間を生成するってのからも遠離する必要がある大乗の菩薩のように涅槃に往さない場合は別2025/04/19 13:36:23369.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(9/34)ふと思ったが棒さんは離脱世界や器世間を全く生成しないってのは分かる?ようは離脱中に相分がない状況2025/04/19 13:59:52370.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(10/34)ようは動中に起点がここってなってないと(八正道の正念)離脱中には必ずワールドがあるわけしかし正念がきちんと成していれば離脱中に相分がないって状況になるこれを死後、正念を相続すれば正しい念の相続やで正しくない念の相続では輪廻する正しい念の相続をすれば死後、器世間は形成されずそこに安住出来るってこと2025/04/19 14:13:36371.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(11/34)縁起をやたらに重視するが涅槃と言う観点からすると器世間を生成する相互依存これからも離れ遠離しそのものを成さないといかんのよ2025/04/19 14:20:07372.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(12/34)相互依存、縁起、依他起性これらは動中において実体ではなく空性であるんだよって理解を進める話でしかないの2025/04/19 14:21:38373.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(13/34)あるのは今ここだけ縁起、相互依存、依他起性による事象、それらは相互依存による幻想である2025/04/19 14:23:37374.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(14/34)相互依存による幻想であるしかしながら実体はかいていても事象としては事実であると非ず非ずが体得出来ないといかんわ2025/04/19 14:31:22375.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(15/34)け2025/04/19 14:31:41376.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(16/34)それが無分別であり非対象、非二元ということであり坐禅で底をみる公案で現す只管打坐(そのもの)ってこと2025/04/19 14:33:29377.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(17/34)坐禅の定は集中にすぎない分別とそうでないを切り替えに囚われているだけという行状ではまだ分かっていないと言わざるをえない2025/04/19 14:38:28378.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(18/34)とにかく棒さんはこれやな↓相互依存による幻想であるしかしながら実体はかいていても事象としては事実であると非ず非ずが体得出来ないといかんわけもっといえば幻想に非ず、事実に非ずか2025/04/19 14:43:38379.登り棒◆0mnwMe9WsAiO7j5(1/6)>>369離脱世界に相分がないのなんて普通やで。そこに世界を作ったってつまらんだけやろ?でも意を向ければそこに世界は現れる>>370だから同じ言葉でも理解が違えば内容はまるで別物になるからコメント出来んね。>>371これもそもそも相互依存の理解が違うから話にならん。>>372今ここだけのここも空であるとわからないのか?>>376リダンは二元で見ないといいながら二元で発想しているという事に自覚出来ないから起点の違いがわからない。だから同じ言葉でも理解が違う。だから議論にならない。そしてそのためにリダンの理解を確認してもリダンは自分の理解を表に出すことが出来ない。これが致命的。>>377これは私が、ではなくそのような理解をしてるものはそうだという話。2025/04/19 14:54:13380.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(19/34)今ここだけのここも空であるとわからないのか?↑その通り刹那に今は過去に落ちる2025/04/19 14:56:36381.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(20/34)リダンは二元で見ないといいながら二元で発想しているという事に自覚出来ないから起点の違いがわからない。だから同じ言葉でも理解が違う。だから議論にならない。そしてそのためにリダンの理解を確認してもリダンは自分の理解を表に出すことが出来ない。これが致命的二元をみないんじゃない非ず非ず事実に非ず、幻想に非ずそのもの2025/04/19 14:58:10382.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(21/34)これもそもそも相互依存の理解が違うから話にならん。↑ではそこを深堀りしていこうか2025/04/19 14:58:56383.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(22/34)棒さんの、いう相互依存とは?2025/04/19 14:59:16384.登り棒◆0mnwMe9WsAiO7j5(2/6)>>380まずこれ、刹那に今は過去に落ちる。この時点で相互依存ではなくて物事を相対的に見てる。まず相互依存とは相対的に見ることではない。だから私に二元の発想をすると言われる2025/04/19 15:05:36385.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(23/34)空間における縁起時系列における縁起は実体に欠いているいわばモニターに映る事象だよってことだよモニターに映ったそれを自我と捉えるから一切が皆苦とおっしゃっておられるのがお釈迦様なわけで2025/04/19 15:07:19386.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(24/34)>>384同期と俺は何度も言ってる事象と事象刹那に過去に落ちるという事象それの空性同期≒一如がなければ過去に落ちると言う二元になるしかしそのものであるならば?棒さんはまずそのもの、の体得から2025/04/19 15:10:25387.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(25/34)過去に落ちる?何が?今が誰がそれを認知する?認知すると言うのは二元だ認知するものと落ちるものそうじゃない非二元とはそのものだ2025/04/19 15:12:30388.登り棒◆0mnwMe9WsAiO7j5(3/6)その空の理解が間違っている。世の中は関係性で成り立っていて独立して存在するものなどない。一時的に成立してにすぎないから空なのではない。そして関係性で成り立ってるのは同期でもない。因と縁があって結果が生まれる。2025/04/19 15:13:04389.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(26/34)>>388このレスで分かったが因果と因果をみるものに棒さんは未だ分かたれてるんだよ2025/04/19 15:14:59390.登り棒◆0mnwMe9WsAiO7j5(4/6)>>389まずリダンの空を説明してもらおうか2025/04/19 15:17:37391.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(27/34)>>390>>3852025/04/19 15:18:15392.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(28/34)では縁起によるモニターに映る事象は幻想か?答え非では実体か?答え非そのものである2025/04/19 15:20:30393.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(29/34)そのものであるとは曹洞宗でいうところの只管打坐2025/04/19 15:22:01394.登り棒◆0mnwMe9WsAiO7j5(5/6)それがリダンの空なん?>>392こう聞かれたら私もそう答える。何度もいうが現れては消える一時的であるがゆえに空なのではない。全ては関係性によって成り立っている。単独で存在するものはない。そしてやたら時間を強調するけどもその時間も相互依存という関係性によって成り立っているのであり単独で存在するものではない。2025/04/19 15:32:59395.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(30/34)>>394それ未だみるものと見られるものに分かたれている棒さんはとにかく無分別とは?戯論が寂滅したとは?そのものとは?ここらへんの探求に努めるべし2025/04/19 15:35:35396.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(31/34)とかく縁起とは仮合物に「すぎない」と言う体感からやね2025/04/19 15:37:27397.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(32/34)仮和合か2025/04/19 15:39:05398.登り棒◆0mnwMe9WsAiO7j5(6/6)ほらね、この説明のどこに見分と相分があるのか。それはリダンの理解がこれが見分と相分であり仮和合だと理解してるからなのよ。だから、同じ言葉で話しても理解が違うので話にならない。2025/04/19 15:48:33399.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(33/34)>>398何がほらねかしらんが見分あれども相分なしこれが無分別、直接知覚だよ2025/04/19 15:50:50400.リダン◆gEV3xsS//kTuGnB(34/34)あと有漏の種子のサポートと阿頼耶識の保持において涅槃は成される煩悩即菩提ということだ正法を聞き、それを正念相続し阿頼耶識に習気するということ棒さんの課題はそのものとは?戯論の寂滅とは?と成唯識論の翻訳で構わんから目を通すこと分かった?2025/04/19 15:59:09401.パーリー1Druf388 登り棒◆0mnwMe9WsA sage 2025/04/19(土) 15:13:04.51 ID:iO7j5その空の理解が間違っている。世の中は関係性で成り立っていて独立して存在するものなどない。一時的に成立してにすぎないから空なのではない。そして関係性で成り立ってるのは同期でもない。因と縁があって結果が生まれる。ーーーその究極がプルシャ=純粋観照者(意識)と対象たるプラクリティー(この世=幻影)であるこれが見分と相分のこと唯識はサンキャ哲学だってことのようだよ2025/04/20 04:18:11
【政治】本名を偽って不倫の一回生議員が謝罪した日に「山尾志桜里氏」の出馬報道…日本国民は「不倫まみれ」の「国民民主党」をどこまで許容するのかニュース速報+1041121.92025/04/23 09:23:30
今世における経験と智慧
来世に向けての準備を
ツラツラと書くスレです
備忘録ではありますが
質問は受け付けます
オトコダンっ!
炸裂しとるやんけー
やるねえー
😀
ってのが
純粋意識ね
これらは認識主体とされている
いいかい?触というのは根(感覚器官)と境(対象)識(眼識とか)が合わさったもの。
作意はそれに注意を向けるということだ。
人の体で説明すると目(根)が目の前の景色(対象)を捉える、その信号を眼識(識)が認識し作意が向く。
そしてそこから判断が始まりそれを景色と捉える。つまり作意の時点ではそれは何の景色かすらわかってないんだよ。つまり分別前だ。
んでリダンの言ってる事はその根の感覚器官には意根、つまり意識も入ってる。だから意識が岩だと認識したものにも意は向けられる。
分別したものに意を向けてるわけだ。んでリダンはここしか見えていない。
分別前の作意が分からない。だから意を向けるということが分別後のものにしか向けられない。
それも時間の流れの中で見ているからだな。
意を向ける事に対象は制限されない。
私は相互依存という言葉は使うけど相対という言葉は使わんよ。
その純粋意識を理解すると世界の見方がガラッと変わるんだよ。そこを起点に物事を観るようになる。
それは全て分別前の視点であり日常はその触に意を向けるだけ。
その時は意を向けたものだけの情報が流れてくる。それがありのままの判断になる。
これを分別から始まる意を向けるの状態だと、瞑想の熟練者であってもやることは集中によって他のものをとらない、つまり定を行い1点に集中する、あるいはどこにも意を向けないようにしてとらないという選択肢しかなくなる。
結果集中したものにしか行為や判断が出来なくなる。だから呼吸に集中して他に意を向けずにいれば心は働かないので静寂は得られるが呼吸以外の認識がなくなってしまい行動出来なくなる。
そうなると熟練の瞑想者は行動を起こすために瞬時に集中と分別を切り替えるような技術を追い求め、囚われたままになる。
私はこれを三昧に囚われていると判断する。
だからカムイさんがよく言ってるように歩く時はただ歩くことだけに集中というのは言葉としては正しいがその中身はまるで別物なのよ。
噛み合わん理由が分かった
馬さんや俺は動中の話やなくて
瞑想中の話
対象ってのは思考や妄想、
心のサンカーラの話
死体を見続けるってのがあるんだけど
その後に瞑想するとその死体が
めちゃくちゃリアルに現象するから
なんだこれは?心のなかにも対象があるのではないか?
って始まったんが唯識
集中や分別を切り替えるような技術
ではないよ
カムイさん本人はどうとってるか分からないが
棒さんのいう
そこを起点に物事を観るようになる
にあたる
そうよ。カムイさんがそう、ではなくてカムイさんの言う歩く時は歩くだけに集中ってのをこの2つの視点で見ると中身は別物って話。
これを分別から始まる意を向けるの状態だと、瞑想の熟練者であってもやることは集中によって他のものをとらない、つまり定を行い1点に集中する、あるいはどこにも意を向けないようにしてとらないという選択肢しかなくなる。
↑
集中によりとらないという選択肢しかなくなる
ということではなく
とらないことによる非対象化
主語の否定によるそのもの
それを識ることで起点がここになる
↑
これだと二元のままだから
禅やお釈迦様の瞑想は
非二元の無分別を言っているのよ
でもこれはまた別の話、その状態でいると日常が瞑想状態になる。
だからそのものになる、というよりすでにそのものなんだよ。
離脱の話で飛ぼうと思うんじゃなくてすでに飛んでいるという話と同じ。そのきちんと意を向けるというのが出来ないと意を向けた対象の情報が流れてしまうから離脱世界ではそれが現実化してしまう。
もっともそれは離脱世界で書き換え自由なレベルの集中あってこそだけども。
>>357
これは面白いな。唯識の始まりがそんなんだったのか。私の夢の探求と似たようなもんだな。
>>361
まさにここの理解。ここがリダンが停滞していると考えて私が内観を勧めている部分。よーやく話が近付いた気がする。
↑
だからさ
結局、今が起点になり
その正しい念を相続し続ければ
離脱世界の生成、あるいは
輪廻先の器世間の生成をしないで
遠離が可能であり
それが解脱になるのでは?
と言うのが俺の見解
まずそれを知るのは修行の段階として大事だけど起点はそこじゃないってこと。
分別のしない視点と修行による分別をとらないそのものの視点は状態だけで見たらほとんど変わらないんだよ。
でもそのプロセスがまるで違う。そのプロセスの違いを知るには内観が必要。
>>364
そうなると今が起点という言葉は変わらないけどこの今、という理解が別物になってしまう。
正しい念を相続するというより相続はさっき言った意根、つまり分別を起点にしてしまうからあくまで起点は分別の前になることを理解する必要がある。
相続は苦しみを生むだろ?
離脱世界とかまぁもっと言うなら分別そのものが悪いというわけでもない。例えば岩ってなんだ?と聞かれたら岩は分別だが岩に意を向けて岩の情報を集めるだろ?
その時に相続すると岩に何かが付け足された視点で判断するようになる。
本来岩の情報を集めるのに執着は起こらないんだよ。
分別のしない視点と修行による分別をとらないそのものの視点は状態だけで見たらほとんど変わらないんだよ。
でもそのプロセスがまるで違う。そのプロセスの違いを知るには内観が必要。
↑
プロセスっていうか
仏教では無分別と言って
瞑想や坐禅で識るんだよ
棒さんがそのものが多分、分かってないだけ
正念相続が苦しみを生み出すとか
またわけわからんことをいうね
唯識で言う涅槃ってのは
有漏の種子のサポートと
阿頼耶識の保持を利用して
成されるんだよ
独自理論もいいが
一回、成唯識論の翻訳に目をとおしてみ
離脱世界とかまぁもっと言うなら分別そのものが悪いというわけでもない。例えば岩ってなんだ?と聞かれたら岩は分別だが岩に意を向けて岩の情報を集めるだろ?
その時に相続すると岩に何かが付け足された視点で判断するようになる。
本来岩の情報を集めるのに執着は起こらないんだよ。
↑
涅槃に往する安住って意味からするとその器世間を生成するってのからも遠離する必要がある
大乗の菩薩のように涅槃に往さない場合は別
棒さんは離脱世界や器世間を
全く生成しないってのは分かる?
ようは離脱中に相分がない状況
なってないと(八正道の正念)
離脱中には必ずワールドがあるわけ
しかし
正念がきちんと成していれば
離脱中に相分がないって状況になる
これを死後、正念を相続すれば
正しい念の相続やで
正しくない念の相続では輪廻する
正しい念の相続をすれば
死後、器世間は形成されず
そこに安住出来るってこと
涅槃と言う観点からすると
器世間を生成する相互依存
これからも離れ遠離し
そのものを成さないといかんのよ
これらは動中において
実体ではなく空性であるんだよって
理解を進める話でしかないの
縁起、相互依存、依他起性
による事象、それらは
相互依存による幻想である
しかしながら
実体はかいていても
事象としては事実であると
非ず非ずが体得出来ないといかんわ
非対象、非二元ということであり
坐禅で底をみる
公案で現す
只管打坐(そのもの)ってこと
分別とそうでないを切り替えに
囚われているだけ
という行状では
まだ分かっていないと言わざるをえない
↓
相互依存による幻想である
しかしながら
実体はかいていても
事象としては事実であると
非ず非ずが体得出来ないといかんわけ
もっといえば
幻想に非ず、事実に非ずか
離脱世界に相分がないのなんて普通やで。
そこに世界を作ったってつまらんだけやろ?
でも意を向ければそこに世界は現れる
>>370
だから同じ言葉でも理解が違えば内容はまるで別物になるからコメント出来んね。
>>371
これもそもそも相互依存の理解が違うから話にならん。
>>372
今ここだけのここも空であるとわからないのか?
>>376
リダンは二元で見ないといいながら二元で発想しているという事に自覚出来ないから起点の違いがわからない。
だから同じ言葉でも理解が違う。だから議論にならない。そしてそのためにリダンの理解を確認してもリダンは自分の理解を表に出すことが出来ない。これが致命的。
>>377
これは私が、ではなくそのような理解をしてるものはそうだという話。
↑
その通り
刹那に今は過去に落ちる
だから同じ言葉でも理解が違う。だから議論にならない。そしてそのためにリダンの理解を確認してもリダンは自分の理解を表に出すことが出来ない。これが致命的
二元をみないんじゃない
非ず非ず
事実に非ず、幻想に非ず
そのもの
↑
ではそこを深堀りしていこうか
まずこれ、刹那に今は過去に落ちる。この時点で相互依存ではなくて物事を相対的に見てる。まず相互依存とは相対的に見ることではない。だから私に二元の発想をすると言われる
時系列における縁起は
実体に欠いているいわば
モニターに映る事象だよってことだよ
モニターに映ったそれを自我と捉えるから
一切が皆苦とおっしゃっておられるのが
お釈迦様なわけで
同期と俺は何度も言ってる
事象と事象
刹那に過去に落ちるという事象
それの空性
同期≒一如がなければ
過去に落ちると言う二元になる
しかし
そのものであるならば?
棒さんはまずそのもの、の体得から
何が?
今が
誰がそれを認知する?
認知すると言うのは二元だ
認知するものと落ちるもの
そうじゃない
非二元とはそのものだ
一時的に成立してにすぎないから空なのではない。そして関係性で成り立ってるのは同期でもない。因と縁があって結果が生まれる。
このレスで分かったが
因果と因果をみるものに
棒さんは未だ分かたれてるんだよ
まずリダンの空を説明してもらおうか
>>385
モニターに映る事象は幻想か?
答え
非
では実体か?
答え
非
そのものである
曹洞宗でいうところの
只管打坐
>>392
こう聞かれたら私もそう答える。
何度もいうが現れては消える一時的であるがゆえに空なのではない。
全ては関係性によって成り立っている。
単独で存在するものはない。
そしてやたら時間を強調するけどもその時間も相互依存という関係性によって成り立っているのであり単独で存在するものではない。
それ未だ
みるものと見られるものに分かたれている
棒さんはとにかく無分別とは?
戯論が寂滅したとは?
そのものとは?
ここらへんの探求に努めるべし
縁起とは仮合物に「すぎない」
と言う体感からやね
だから、同じ言葉で話しても理解が違うので話にならない。
何がほらねかしらんが
見分あれども相分なし
これが無分別、直接知覚だよ
有漏の種子のサポートと
阿頼耶識の保持において
涅槃は成される
煩悩即菩提ということだ
正法を聞き、それを正念相続し
阿頼耶識に習気するということ
棒さんの課題は
そのものとは?
戯論の寂滅とは?
と
成唯識論の翻訳で構わんから
目を通すこと
分かった?
その空の理解が間違っている。世の中は関係性で成り立っていて独立して存在するものなどない。
一時的に成立してにすぎないから空なのではない。そして関係性で成り立ってるのは同期でもない。因と縁があって結果が生まれる。
ーーー
その究極が
プルシャ=純粋観照者(意識)と
対象たるプラクリティー(この世=幻影)である
これが見分と相分のこと
唯識はサンキャ哲学だってことのようだよ