混沌魔術師はペイガニズムについて語りたい‼️最終更新 2024/12/27 23:021.神も仏も名無しさんmBoUHペイガニズムについて語るスレ2023/12/20 08:10:0712コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.(。~^~)(~^~。) ポッたん お正月だ もちつけYfLRW熱砂(ねっさ)の砂漠を渡って行く人に 命をつなぐ水が湧き出るオアシスがあり、安心立命(あんいんりつめい)と知る。教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。公案は佛 真理(さとり) を 問う、「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。禅とは、静かにする。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)こころコロコロ、常が無い。無常である。さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)空とは、分別(ふんべつ)しないである。空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。2023/12/28 19:08:543.(。~^~)(~^~。) ポッたん お正月だ もちつけEeurW真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事は出来ない。問いには立ち止まって、検討して行かないと此れにはこれと言う安易な振り分けになる。理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろ言うか。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた原初、禅とは、静かにするの意である。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。 問う。『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である2024/01/04 19:19:584.アハさんパシル語がイヌケリアゲ( ▼▼)rパン☆・・・-(x x)ウギャ[OHI6T問う 名付けられた名詞から名前を剥ぎ取ったそれを何と呼ぼうか。真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨ては出来ない。問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた原初、禅とは、静かにするの意である。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。真理(さとり)は言語によって伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。 問う。『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』2024/01/09 03:15:445.アハさんパシル語がイヌケリアゲ( ▼▼)rパン☆・・・-(x x)ウギャ[IIkyJ佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。問答、名付けられた名詞から名前を剥ぎ取ったそれを何と呼ぼうか。真理(さとり) を 無我 と言う事が出来るのだが、無我と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事はは出来ない。問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた原初、禅とは、静かにするの意である。梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)達磨さんはインドから中国にやって来たのか、否か。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは。道端のタンポポのさよなら、出会えば別れるのであ空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。また、問う。 『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』真理(さとり)は言語によって伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。真理(さとり)である一如。如とは如来、来と言う助辞を漬けたものである。如来とは佛を言う。2024/01/12 23:58:416.ポッタントット(。~^~)(~^~。) ポッたんWDrm2本来、仏罰と言うものは有り得ない。佛は罰する事が無いからだ。では、ほとけは負い目を負わそうとして成仏を言うのか。佛であればこうであろうと為すべきことをしてjけばいいんだよ、と寄り添うっていてくれるのか。良い事をし、悪い事をしない。これがなんなく日常生活の場で実践できるといいな、夢想するぐらいだ。仏道は顛倒(てんどう)していると世のありようを喝破する。手の甲と手のひらと、同じ手ではあるが、表裏がある。表裏で、一いち、手は一つなのであって、表裏は一の如しではない、一いちなのだ。二項対立は無く、二は一の如し、とは、説明であって、一の如しは、一いち なのだ。だが 一は絶対であり、唯一であり、言いきりである。固定した過去のみが存在していることを言う。それは変化していく事が無い。ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、諸行無常である。諸行無常とは、二は一の如しである。一如は佛である。如来は佛を言う。佛は、如である。例えば、ステージ4のドクタにお任せって患者であっても、治療の最終決断はすするんだ。医療は、患者の為に在るのであって、患者の意向に寄り添うものなのだ。多臓器に転移しているからと言って、幾種類ものがんに対応できないのが実際で、ある部位のためのくすりを飲むと極端に消耗する時、拒否を申し出る。釈迦族の聖者、ガウタマシッダールタさんが言った、天上天下唯我独尊。てんじょうてんげ ゆいがどくそん汝こそ汝の主人公。 他の誰が汝の主人公でありうるか。わたしが大事である。わたしが産まれ、わたしが死ぬからなのだ。お金がなくてくやしさに泣きはらした眼にも生と死は わたしのもちものなのである。父親がある日の事10歳前後になった息子を連れて森の中に分け入った。道の左右の草や木を手にとって、息子に手渡し食べてみろ、と言う。これは食べられる、これは食べられない、と教える。息子はさらに森を分け入って、親とは別れて自分の小屋を建て移り住み自立し、一家を為す。毒か、毒でないか、を識別できる。これが自立である。そのどこに、しつけが必要なのだろう、不必要である。大正時代、10歳で尋常小学校を卒業したら、大店おおだな へと丁稚奉公へ入っていき、番頭になり、のれん分けで店主になる。代々、そうやって、いま生きていることが明日のわたしを生かそうとしている。2024/06/15 22:22:187.ネオペイガニズムの神官cU5qh関係無いやつはお黙り2024/09/22 18:02:428.ネオペイガニズムの神官cU5qhさてはAIだな運営に報告しなきゃ2024/09/22 18:03:189.神も仏も名無しさん3s7P2仏祖が 直(じか)に 手渡す 真理(さとり) は縁起(えんぎ)の法、真理、さとり、です。これが有れば、それが有り、それが無ければ、これが無い。色 が 空 です。ここが初関(しょかん)を透(とお)るです。関を 透れば、すぐさまに 空 が 色 です。さとりを 法、達摩、真理 と言います。色即是空は 空即是色へと 還(かえ)る。インドとチャイナは、人種が違い、育んできた文化文明が違うし異なる。なので、1500年前の人たちにとっては、相互に 胸痛土台が無い、と言える。そこでチャイナの天才学僧たちは分業しスピードを上げ、しかも一字一句を数人が推敲に推敲を重ね競技し決定し、、完全にチャイナの言葉に翻訳し、完全にシナ誤に翻訳したので、インドから持ち帰った原本を焼却処分した、程である。なので、達磨大師とは 真理(さとり) を人格化したのであって、具体的な人物ではない。つまりは 二祖 慧可(えか、593年) こそが、中國禅宗の初祖なのであろうが、三祖、までは、伝説的人物であって、実在したのは?祖あたり彼であって、五祖法演『 五祖弘忍禅師のいた黄梅山において禅宗(臨済宗)の宗風を振るったため、「五祖山の法演」という意味で 五祖法演 ( ごそほうえん ) と呼ばれた。 』つまり、禅宗は五祖法演から始まったのではないか。2024/12/25 19:45:5910.神も仏も名無しさんccf69生老病死の成長過程である生涯を5年間毎にひとくくりにして観ると したらばゼロ歳未満の死因は流産、死産だが、一生を通じて死因の第一位は人工中絶0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期5~9 幼児期 ここまで生きていられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学ようがく15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19 縄文時代の平均寿命は15最長30 15歳志学しがく20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張る肌 感触最良バスト 20歳弱冠25~29 おしとねさがり 脱水で細る顔ポソッ30~34 人生再検討期、新興宗教開祖期 三十路にして立つ35~39 立脚点確立 滴る愛液急減少40~44 充実期 自他横一列が欠け始め精子数減少開始 40不惑45~49 昇級、老眼、更年期前期、妊娠からの解放50~54 肩たたき転職勧告、更年期後期 50天命てんめい知命ちめい アル中、肝静脈瘤破裂前期55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中、肝静脈瘤破裂後期60~64 天下り先退職金積み増し期 60還暦耳順じじゅん65~69 年金受給 人生黄金期前期 世界旅行食べ歩き70~74 人生黄金期後期 70年金受給72男健康年齢75~79 ひ孫と面談、ランドセル予約 女健康年齢7580~84 長寿の達人 男平均寿命8285~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命8790~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯 90卒寿そつじゅ95~99 歯茎で噛み切れる刺身がうまい 99白寿はくじゅ100~104 自治体表彰100 百壽ももじゅ105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ120~124 今日も元気だ薬がウマヒィ 120昔寿せきじゅ121歳大還暦2024/12/27 03:25:4911.神も仏も名無しさんccf69坊さんはこのように歩け、と公案を与えられる。わたしは浄土宗だから、与えられることはない。あちらががんを立てなさいまして、必ず救いとるぞ、と約束してもらっているわけです。なので、だいあんじんの 真っ只中です、米国人の神父だったか牧師さんが、片手の人がたたく拍手の音を聞いて来い、の公案に 1年間、取り組んだのだが、さっぱりわからなかった、という本にぶち当たり、わたしは、片手の拍手を聞いた 聞いたら、それは聞こえないんだよと20年語尾またあたまをぶちぬかれた。こうやって、師も無くて、たったひとりで、さとった。だれもそうだよ、とあいづちを打ってくれ証明書を発行してくれたたものではない。だから当然にどっかkぅ出会って、それはかわべりの大木の下で絶食のために死のうとへたり込んで朝を待つシッダールタさんと出会っていた。どっかくん独覚である。そして、 システマチックな悟りではなく、ガウタマ、シッダールタさんが直に手渡してくれたものは、とやかく言わせないぞ、とは思う。だがまあ、わたしが一人で思う事なのだから、誰かがいちゃもんつけrてくるわけでもなくて、のんきなjこと限りが無い。そんなことより、ステージ4肺がん女性が川を渡らずほとりで待っているから、さがしてね、と言う。それで、会おうね、と約束した。でも、眼が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、食べ物の味がしないと訴える人を探すのは苦労が多いが、必ず探し出し、手を取り合い支え合って、渡っていこうと思う。そpれで、今年も暮れていって、明けたら待ちかねていた新年で、また、クリスマスで新年だ。中国語が幼少時からの読み書き喋りが自在の道元も正法眼蔵随聞記も何か残そうしたわけじゃない。ふたりとも死後、布団の下から出てきた備忘録で、説法の座にのぼるための手控えである。つまりはメモである。それを、死後、残されたお弟子たちがあたまをくっつけて合議し体裁を整え、出版に至ったものであって、編集者がいる、と言うことをよくよく考えておく必要がある。本になるについて、加筆訂正されて記憶をたどって、こうも言われた、ああも言われたと分厚くなっていったものであろう。例えば、がんのうびちょく。眼横鼻直「がんのうびちょく」 これはお弟子さんの 作 なのだとか。だが、すばらしい真理さとり である。自主自由と平等を見事に言い表している。わたしは聞いて、泣いた。2024/12/27 22:58:4812.神も仏も名無しさんccf69坊さんはこのように歩け、と公案を与えられる。わたしは浄土宗だから、与えられることはない。あちらががんを立てなさいまして、必ず救いとるぞ、と約束してもらっているわけです。なので、だいあんじんの 真っ只中です、米国人の神父だったか牧師さんが、片手の人がたたく拍手の音を聞いて来い、の公案に 1年間、取り組んだのだが、さっぱりわからなかった、という本にぶち当たり、わたしは、片手の拍手を聞いた 聞いたら、それは聞こえないんだよと20年語尾またあたまをぶちぬかれた。こうやって、師も無くて、たったひとりで、さとった。だれもそうだよ、とあいづちを打ってくれ証明書を発行してくれたたものではない。だから当然にどっかkぅ出会って、それはかわべりの大木の下で絶食のために死のうとへたり込んで朝を待つシッダールタさんと出会っていた。どっかくん独覚である。そして、 システマチックな悟りではなく、ガウタマ、シッダールタさんが直に手渡してくれたものは、とやかく言わせないぞ、とは思う。だがまあ、わたしが一人で思う事なのだから、誰かがいちゃもんつけrてくるわけでもなくて、のんきなjこと限りが無い。そんなことより、ステージ4肺がん女性が川を渡らずほとりで待っているから、さがしてね、と言う。それで、会おうね、と約束した。でも、眼が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、食べ物の味がしないと訴える人を探すのは苦労が多いが、必ず探し出し、手を取り合い支え合って、渡っていこうと思う。そpれで、今年も暮れていって、明けたら待ちかねていた新年で、また、クリスマスで新年だ。中国語が幼少時からの読み書き喋りが自在の道元も正法眼蔵随聞記も何か残そうしたわけじゃない。ふたりとも死後、布団の下から出てきた備忘録で、説法の座にのぼるための手控えである。つまりはメモである。それを、死後、残されたお弟子たちがあたまをくっつけて合議し体裁を整え、出版に至ったものであって、編集者がいる、と言うことをよくよく考えておく必要がある。本になるについて、加筆訂正されて記憶をたどって、こうも言われた、ああも言われたと分厚くなっていったものであろう。例えば、がんのうびちょく。眼横鼻直「がんのうびちょく」 これはお弟子さんの 作 なのだとか。だが、すばらしい真理さとり である。自主自由と平等を見事に言い表している。わたしは聞いて、泣いた。2024/12/27 23:02:04
教師の握り拳(きょうし の にぎりこぶし)
肝心かなめの大事なこと、大切なこと、は、固く握りしめた手のひらの中に握りしめて決して他sに公開する事が無い。とは、よく言われることである。
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が、それぞれがいろめがねを作り上げてしまっているから、本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり) あえば、かならずのわかれである。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)
こんにちは、さようなら。
禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
公案は佛 真理(さとり) を 問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静である。
禅とは、静かにする。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
こころコロコロ、常が無い。無常である。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う。「この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうぜくう。 ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうぜちゅうどう。 くうとは、これ ちゅうどうなり)
空とは、分別(ふんべつ)しないである。
空とは、一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。である。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事は出来ない。
問いには立ち止まって、検討して行かないと此れにはこれと言う安易な振り分けになる。
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、
唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろ言うか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会である。すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
問う。『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によっては、容易に伝わらない。
生まれて以来の知識の蓄積が本来の有りようが知識と言うスクリーン越しにしか見えない、からだ。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である
真理(さとり) を 無我 と言う事が出来る、無我は真理(さとり)であってジョーカーではなく、オールマイティーでもない。
と言うだけのもので、無gふぁ と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨ては出来ない。
問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
さとりとは、真理、法、ダルマである。達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。出会えば別れるのである。
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
真理(さとり)は言語によって伝わらない。生まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
問う。
『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
問答、名付けられた名詞から名前を剥ぎ取ったそれを何と呼ぼうか。
真理(さとり) を 無我 と言う事が出来るのだが、無我と言う言葉を出すだけで なにもかもを切り捨てる事はは出来ない。
問答(もんどう)は子弟が問い答えてきた禅宗弾圧の一時期からの創意工夫の伝統がある
理解(りげ)と言えば むしろ お上品になってしまうけれど、寒風不キス武功や、だね。
宗教のインドにおける語源は、如何に生きるか、と言うもので、あたまの中の変換ではない。
神の存在証明を2000年間立ってもまだやってるキリスト教神学の蜃気楼だね。
唯心論、唯物論は、一方の真理を言う、唯、を取り払う。
心と物が矛盾なく存在しているのが、わたし達の日常なのではないだろうか。
尊公、近頃、如何。(そんこう ちかごろ いかん)。 こんにちは、さようなら。禅は生死(しょうじ)を問う。
問う答えるて問答(もんどう)し師弟は対話し真理(さとり)を伝えてきた
原初、禅とは、静かにするの意である。
梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。 禅定(ぜんじょう、静慮(じょうりょ)
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、否か。ビッグバーン以来の一期一会(いちごいちえ)である。 すずめはチュンチュンこんにちは。道端のタンポポのさよなら、出会えば別れるのであ
空とは、分別(ふんべつ)しない、分けない、である。 一如(いちにょ) 一の如し(いちのごとし)である。
色即是空(しきそくぜくう)は空即是色(くうそくぜしき)へと還(かえ)る。
白隠慧鶴禅師(はくいん えかく ぜんじ) 隻手の音声(せきしゅのおんじょう)
両掌(りょうしょう)打って音声あり、隻手になんの声やある。 隻手の声を拈提(ねんてい)せよ。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
また、問う。 『 この座敷から坐のままで庭の30メートル先の築山(つきやま)に立つ石灯籠のロウソクの炎(ほのお)を吹き消せ』
真理(さとり)は言語によって伝わらない。生
まれて以来の知識の蓄積が眼をくらます。
差別しない、分別しない、これとそれを分けない、である。
真理(さとり)である一如。如とは如来、来と言う助辞を漬けたものである。如来とは佛を言う。
佛であればこうであろうと為すべきことをしてjけばいいんだよ、と寄り添うっていてくれるのか。
良い事をし、悪い事をしない。これがなんなく日常生活の場で実践できるといいな、夢想するぐらいだ。
仏道は顛倒(てんどう)していると世のありようを喝破する。
手の甲と手のひらと、同じ手ではあるが、表裏がある。表裏で、一いち、手は一つなのであって、表裏は一の如しではない、一いちなのだ。
二項対立は無く、二は一の如し、とは、説明であって、一の如しは、一いち なのだ。だが 一は絶対であり、唯一であり、言いきりである。固定した過去のみが存在していることを言う。それは変化していく事が無い。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、諸行無常である。諸行無常とは、二は一の如しである。一如は佛である。如来は佛を言う。佛は、如である。
例えば、ステージ4のドクタにお任せって患者であっても、治療の最終決断はすするんだ。
医療は、患者の為に在るのであって、患者の意向に寄り添うものなのだ。多臓器に転移しているからと言って、幾種類ものがんに対応できないのが実際で、ある部位のためのくすりを飲むと極端に消耗する時、拒否を申し出る。
釈迦族の聖者、ガウタマシッダールタさんが言った、天上天下唯我独尊。てんじょうてんげ ゆいがどくそん
汝こそ汝の主人公。 他の誰が汝の主人公でありうるか。
わたしが大事である。わたしが産まれ、わたしが死ぬからなのだ。お金がなくてくやしさに泣きはらした眼にも生と死は わたしのもちものなのである。
父親がある日の事10歳前後になった息子を連れて森の中に分け入った。道の左右の草や木を手にとって、息子に手渡し食べてみろ、と言う。これは食べられる、これは食べられない、と教える。
息子はさらに森を分け入って、親とは別れて自分の小屋を建て移り住み自立し、一家を為す。
毒か、毒でないか、を識別できる。これが自立である。そのどこに、しつけが必要なのだろう、不必要である。
大正時代、10歳で尋常小学校を卒業したら、大店おおだな へと丁稚奉公へ入っていき、番頭になり、のれん分けで店主になる。代々、そうやって、いま生きていることが明日のわたしを生かそうとしている。
これが有れば、それが有り、それが無ければ、これが無い。
色 が 空 です。
ここが初関(しょかん)を透(とお)るです。
関を 透れば、すぐさまに 空 が 色 です。
さとりを 法、達摩、真理 と言います。
色即是空は 空即是色へと 還(かえ)る。
インドとチャイナは、人種が違い、育んできた文化文明が違うし異なる。
なので、1500年前の人たちにとっては、相互に 胸痛土台が無い、と言える。
そこでチャイナの天才学僧たちは分業しスピードを上げ、しかも一字一句を数人が推敲に推敲を重ね競技し決定し、、完全にチャイナの言葉に翻訳し、完全にシナ誤に翻訳したので、インドから持ち帰った原本を焼却処分した、程である。
なので、達磨大師とは 真理(さとり) を人格化したのであって、具体的な人物ではない。
つまりは 二祖 慧可(えか、593年) こそが、中國禅宗の初祖なのであろうが、三祖、までは、伝説的人物であって、実在したのは?祖あたり彼であって、五祖法演
『 五祖弘忍禅師のいた黄梅山において禅宗(臨済宗)の宗風を振るったため、「五祖山の法演」という意味で 五祖法演 ( ごそほうえん ) と呼ばれた。 』
つまり、禅宗は五祖法演から始まったのではないか。
ゼロ歳未満の死因は流産、死産だが、一生を通じて死因の第一位は人工中絶
0~4 乳児期 2歳までは授乳 天使か妖精の無分別期
5~9 幼児期 ここまで生きていられたら健康の天才児。男女7歳にして席を同じゅうせず
10~14 10歳尋常小学卒業まで生き延びたら丁稚奉公で親元出立 女児初潮生涯卵子数400個保持 10歳幼学ようがく
15~19 結婚適齢期前期 精子のピーク17 最大バスト19 縄文時代の平均寿命は15最長30 15歳志学しがく
20~24 結婚適齢期後期 みずみずしく張る肌 感触最良バスト 20歳弱冠
25~29 おしとねさがり 脱水で細る顔ポソッ
30~34 人生再検討期、新興宗教開祖期 三十路にして立つ
35~39 立脚点確立 滴る愛液急減少
40~44 充実期 自他横一列が欠け始め精子数減少開始 40不惑
45~49 昇級、老眼、更年期前期、妊娠からの解放
50~54 肩たたき転職勧告、更年期後期 50天命てんめい知命ちめい アル中、肝静脈瘤破裂前期
55~59 息子に嫁が来る頃には無勃起閉経 アル中、肝静脈瘤破裂後期
60~64 天下り先退職金積み増し期 60還暦耳順じじゅん
65~69 年金受給 人生黄金期前期 世界旅行食べ歩き
70~74 人生黄金期後期 70年金受給72男健康年齢
75~79 ひ孫と面談、ランドセル予約 女健康年齢75
80~84 長寿の達人 男平均寿命82
85~89 存在確認の同窓会が無い 女平均寿命87
90~94 歯科医の総仕上げ総入れ歯 90卒寿そつじゅ
95~99 歯茎で噛み切れる刺身がうまい 99白寿はくじゅ
100~104 自治体表彰100 百壽ももじゅ
105~109 アルコホルは毒なのに酒がうまい 108茶壽ちゃじゅ
110~114 飲む点滴ポカリスエットがうまい 111歳皇壽こうじゅ
115~119 もっと尿瓶しびんをクレヨンクレパス 119頑寿がんじゅ
120~124 今日も元気だ薬がウマヒィ 120昔寿せきじゅ121歳大還暦
なので、だいあんじんの 真っ只中です、米国人の神父だったか牧師さんが、片手の人がたたく拍手の音を聞いて来い、の公案に 1年間、取り組んだのだが、さっぱりわからなかった、という本にぶち当たり、わたしは、片手の拍手を聞いた 聞いたら、それは聞こえないんだよと20年語尾またあたまをぶちぬかれた。こうやって、師も無くて、たったひとりで、さとった。
だれもそうだよ、とあいづちを打ってくれ証明書を発行してくれたたものではない。だから当然にどっかkぅ出会って、それはかわべりの大木の下で絶食のために死のうとへたり込んで朝を待つシッダールタさんと出会っていた。どっかくん独覚である。
そして、 システマチックな悟りではなく、ガウタマ、シッダールタさんが直に手渡してくれたものは、とやかく言わせないぞ、とは思う。だがまあ、わたしが一人で思う事なのだから、誰かがいちゃもんつけrてくるわけでもなくて、のんきなjこと限りが無い。
そんなことより、ステージ4肺がん女性が川を渡らずほとりで待っているから、さがしてね、と言う。それで、会おうね、と約束した。
でも、眼が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、食べ物の味がしないと訴える人を探すのは苦労が多いが、必ず探し出し、手を取り合い支え合って、渡っていこうと思う。そpれで、今年も暮れていって、明けたら待ちかねていた新年で、また、クリスマスで新年だ。
中国語が幼少時からの読み書き喋りが自在の道元も正法眼蔵随聞記も何か残そうしたわけじゃない。ふたりとも死後、布団の下から出てきた備忘録で、説法の座にのぼるための手控えである。つまりはメモである。それを、死後、残されたお弟子たちがあたまをくっつけて合議し体裁を整え、出版に至ったものであって、編集者がいる、と言うことをよくよく考えておく必要がある。本になるについて、加筆訂正されて記憶をたどって、こうも言われた、ああも言われたと分厚くなっていったものであろう。
例えば、がんのうびちょく。眼横鼻直「がんのうびちょく」 これはお弟子さんの 作 なのだとか。だが、すばらしい真理さとり である。自主自由と平等を見事に言い表している。わたしは聞いて、泣いた。
なので、だいあんじんの 真っ只中です、米国人の神父だったか牧師さんが、片手の人がたたく拍手の音を聞いて来い、の公案に 1年間、取り組んだのだが、さっぱりわからなかった、という本にぶち当たり、わたしは、片手の拍手を聞いた 聞いたら、それは聞こえないんだよと20年語尾またあたまをぶちぬかれた。こうやって、師も無くて、たったひとりで、さとった。
だれもそうだよ、とあいづちを打ってくれ証明書を発行してくれたたものではない。だから当然にどっかkぅ出会って、それはかわべりの大木の下で絶食のために死のうとへたり込んで朝を待つシッダールタさんと出会っていた。どっかくん独覚である。
そして、 システマチックな悟りではなく、ガウタマ、シッダールタさんが直に手渡してくれたものは、とやかく言わせないぞ、とは思う。だがまあ、わたしが一人で思う事なのだから、誰かがいちゃもんつけrてくるわけでもなくて、のんきなjこと限りが無い。
そんなことより、ステージ4肺がん女性が川を渡らずほとりで待っているから、さがしてね、と言う。それで、会おうね、と約束した。
でも、眼が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、食べ物の味がしないと訴える人を探すのは苦労が多いが、必ず探し出し、手を取り合い支え合って、渡っていこうと思う。そpれで、今年も暮れていって、明けたら待ちかねていた新年で、また、クリスマスで新年だ。
中国語が幼少時からの読み書き喋りが自在の道元も正法眼蔵随聞記も何か残そうしたわけじゃない。ふたりとも死後、布団の下から出てきた備忘録で、説法の座にのぼるための手控えである。つまりはメモである。それを、死後、残されたお弟子たちがあたまをくっつけて合議し体裁を整え、出版に至ったものであって、編集者がいる、と言うことをよくよく考えておく必要がある。本になるについて、加筆訂正されて記憶をたどって、こうも言われた、ああも言われたと分厚くなっていったものであろう。
例えば、がんのうびちょく。眼横鼻直「がんのうびちょく」 これはお弟子さんの 作 なのだとか。だが、すばらしい真理さとり である。自主自由と平等を見事に言い表している。わたしは聞いて、泣いた。