なぜ「リベラル」は左派も右派も社会を壊すのか 「進歩至上主義」の限界を突破する「共通善保守主義」最終更新 2026/10/12 22:321.番組の途中ですが転載は禁止です6q9wkなぜ「リベラル」は左派も右派も社会を壊すのか 「進歩至上主義」の限界を突破する「共通善保守主義」https://toyokeizai.net/articles/-/958704?display=b西洋近代の主要な政治的伝統である古典的リベラリズム(右派)、進歩的リベラリズム(左派)、そしてマルクス主義は、一見対立しているように見えて、実は「過激な進歩主義と人間社会の変革」を至上課題とする共通の基盤に立っている。この進歩至上主義が引き起こした社会の解体と人間関係の砂漠化を克服するにはどうすればよいのか。新刊『リベラリズムからの体制転換:ポストリベラルと共通善保守主義』から抜粋。著者で、政治哲学者のパトリック・J・デニーン氏が、左右の不毛な対立を超え、人間本来の安定や共同体の秩序を取り戻す「共通善保守主義」の理念と全貌を解き明かす。■左右のリベラリズムに共通する「進歩至上主義」のドグマ 現代の政治空間では、「保守対革新」「右派対左派」という激しい不毛な論争が絶え間なく繰り広げられている。 しかし、政治哲学的視点から俯瞰するならば、近代における主要な政治思想である「古典的リベラリズム(リベラル右派)」「進歩的リベラリズム(リベラル左派)」、そして「マルクス主義(革命的ポピュリズム)」の3者は、根本的なレベルで同一の「共通前提」を共有している。 それは、政治の目的を「終わりなき変化と進歩(Progress)」に置き、人間を過去の伝統や地域、家族の制約から解放することこそが至上命令であるとする「進歩主義のドグマ」である。 まず、ジョン・ロックを祖とする「古典的リベラリズム」は、経済的エリートの優位性を確保し、個人の財産権と市場の自由を拡大することを主目的とした。 彼らは大衆の過激化を恐れ、憲法による制約を用いて資本主義の動的で変革的なエネルギーを解放した。これは「経済における進歩主義」である。 次に、ジョン・スチュアート・ミルに代表される「進歩的リベラリズム」は、経済的自由にとどまらず、伝統的な慣習や道徳、宗教的規範を「個人形成の邪魔になる障害物」とみなして解体を図った。 彼らは「生活の実験」を称賛し、専門家エリートによる指導のもとで文化・社会的な改革を推し進めた。これは「社会・文化における進歩主義」である。 第二次世界大戦後のアメリカにおいて「保守派」と自称してきた新自由主義者(ネオコンやリバタリアン)は、実のところ「古典的リベラリズム」の一形態に過ぎなかった。 彼らは社会や家族の伝統を守ると口では言いながら、経済の領域では「破壊的イノベーション」とグローバル市場の拡大を加速させ、結果として伝統的な生活様式を自ら打ち壊してきたのである。■マルクス主義が陥った「大衆の解放」という幻想と破綻 左右のリベラリズムに対して、第3の進歩主義伝統として現れたのが「マルクス主義」であった。マルクス主義は、リベラルな資本主義がもたらす人間疎外や労働者の細分化(分業の悪影響)を厳しく批判し、プロレタリアート(大衆)による革命を唱えた。 マルクスは、資本主義の矛盾が限界に達したとき、労働者階級が階級意識に目覚めてブルジョアジーを倒し、階級も分業も国家すらも消滅した共産主義ユートピアが到来すると想像した。その理想社会において、人間は「朝に狩りをし、午後に漁をし、夕方に牛の世話をし、夕食後は批評をする」という、何物にも縛られない完全な自己実現を果たすとされた。 しかし、マルクス主義もまた、近代の「進歩のドグマ」から抜け出すことはできなかった。 現実の共産主義革命において起きたことは、大衆の真の解放ではなく、労働者階級の名を語る「前衛党(エリート革命家)」による暴力的な専制統治であった。彼らは旧来の人間関係や宗教、地域秩序を「反革命的」として徹底的に破壊し、人間を国家の機械の歯車へと変えてしまったのである。 こうして見ると、古典的リベラリズム、進歩的リベラリズム、マルクス主義の3者は、支配する層が「経済エリート」か「専門家テクノクラート」か「前衛党エリート」かという違いに過ぎず、いずれも過激な人間改造と伝統社会の解体を推し進める点において、同根のイデオロギーであったことが露わになる。2026/10/12 22:23:145コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.番組の途中ですが転載は禁止です6q9wk■「共通善」を中心に据えたポストリベラルの政治哲学 近代の3大イデオロギーが揃って社会を解体し、人間を根無し草(アトム化された個人)へと追い込んできた歴史を鑑みるならば、私たちが今なすべきことは、進歩主義そのものからの脱却である。 これに対する真の代替案こそが、古代ギリシャ・ローマの哲学やキリスト教的伝統に遡る「共通善保守主義(Common-Good Conservatism)」である。 ここでいう「共通善(Common Good)」とは、一部のエリートや特定の個人だけの私的な利益ではなく、社会のすべての構成員が享受できる「普遍的な人間的繁栄の基盤」を指す。 具体的には、安定した家族形成、持続可能な地域社会、生きがいのある労働環境、相互の助け合いの規範、そして世代を超えて受け継がれる文化と信仰の継続性である。 共通善保守主義の最大の特徴は、自由を「制約からの脱却」として捉えるのではなく、「共通の善を実現するための秩序と徳の修練」として捉える点にある。 この政治哲学は、単純な左右の軸には収まらない。経済領域においては、新自由主義的な過激な資本主義や市場原理主義を批判し、国内労働者の雇用と産業、地域社会を保護する「左派的・労働者優先」の政策をとる。 一方で、社会・文化領域においては、家族や伝統、宗教的価値観を堅固に擁護する「右派的・伝統主義」の立場をとる。 エドマンド・バークやベンジャミン・ディズレーリが唱えた「ワン・ネーション保守主義(トーリー・デモクラシー)」の系譜を引くこの思想は、大衆の「常識」に寄り添い、エリート層に対しては支配ではなく「共通善への奉仕」を義務付ける。 果てしない「進歩」と「自己創造」の幻影に追われ、精神的・社会的な破産に直面している現代人にとって、共通善保守主義は、人間らしい安定と絆を取り戻すための唯一の羅針盤となるのである。2026/10/12 22:24:043.番組の途中ですが転載は禁止です6q9wkヤフコメhttps://news.yahoo.co.jp/articles/b40aed1d99b60e2bc58ec93ddee34ad6f9a35177欧米の思想は日本とちょっと違うから理解がむずい2026/10/12 22:26:204.番組の途中ですが転載は禁止です6q9wk「意識高い系リベラル」の罠 「多様性」を盾に特権を肯定 庶民を見下し自らを正義と信じる「新パワーエリート」の正体https://talk.jp/boards/poverty/17910376572026/10/12 22:29:215.番組の途中ですが転載は禁止ですZJXX0こういうのが理想だろ?で言ってるだけで人間は馬鹿なのを忘れているだろ2026/10/12 22:32:55
https://toyokeizai.net/articles/-/958704?display=b
西洋近代の主要な政治的伝統である古典的リベラリズム(右派)、進歩的リベラリズム(左派)、そしてマルクス主義は、一見対立しているように見えて、実は「過激な進歩主義と人間社会の変革」を至上課題とする共通の基盤に立っている。
この進歩至上主義が引き起こした社会の解体と人間関係の砂漠化を克服するにはどうすればよいのか。新刊
『リベラリズムからの体制転換:ポストリベラルと共通善保守主義』から抜粋。著者で、政治哲学者のパトリック・J・デニーン氏が、左右の不毛な対立を超え、人間本来の安定や共同体の秩序を取り戻す「共通善保守主義」の理念と全貌を解き明かす。
■左右のリベラリズムに共通する「進歩至上主義」のドグマ
現代の政治空間では、「保守対革新」「右派対左派」という激しい不毛な論争が絶え間なく繰り広げられている。
しかし、政治哲学的視点から俯瞰するならば、近代における主要な政治思想である「古典的リベラリズム(リベラル右派)」「進歩的リベラリズム(リベラル左派)」、そして「マルクス主義(革命的ポピュリズム)」の3者は、根本的なレベルで同一の「共通前提」を共有している。
それは、政治の目的を「終わりなき変化と進歩(Progress)」に置き、人間を過去の伝統や地域、家族の制約から解放することこそが至上命令であるとする「進歩主義のドグマ」である。
まず、ジョン・ロックを祖とする「古典的リベラリズム」は、経済的エリートの優位性を確保し、個人の財産権と市場の自由を拡大することを主目的とした。
彼らは大衆の過激化を恐れ、憲法による制約を用いて資本主義の動的で変革的なエネルギーを解放した。これは「経済における進歩主義」である。
次に、ジョン・スチュアート・ミルに代表される「進歩的リベラリズム」は、経済的自由にとどまらず、伝統的な慣習や道徳、宗教的規範を「個人形成の邪魔になる障害物」とみなして解体を図った。
彼らは「生活の実験」を称賛し、専門家エリートによる指導のもとで文化・社会的な改革を推し進めた。これは「社会・文化における進歩主義」である。
第二次世界大戦後のアメリカにおいて「保守派」と自称してきた新自由主義者(ネオコンやリバタリアン)は、実のところ「古典的リベラリズム」の一形態に過ぎなかった。
彼らは社会や家族の伝統を守ると口では言いながら、経済の領域では「破壊的イノベーション」とグローバル市場の拡大を加速させ、結果として伝統的な生活様式を自ら打ち壊してきたのである。
■マルクス主義が陥った「大衆の解放」という幻想と破綻
左右のリベラリズムに対して、第3の進歩主義伝統として現れたのが「マルクス主義」であった。マルクス主義は、リベラルな資本主義がもたらす人間疎外や労働者の細分化(分業の悪影響)を厳しく批判し、プロレタリアート(大衆)による革命を唱えた。
マルクスは、資本主義の矛盾が限界に達したとき、労働者階級が階級意識に目覚めてブルジョアジーを倒し、階級も分業も国家すらも消滅した共産主義ユートピアが到来すると想像した。その理想社会において、人間は「朝に狩りをし、午後に漁をし、夕方に牛の世話をし、夕食後は批評をする」という、何物にも縛られない完全な自己実現を果たすとされた。
しかし、マルクス主義もまた、近代の「進歩のドグマ」から抜け出すことはできなかった。
現実の共産主義革命において起きたことは、大衆の真の解放ではなく、労働者階級の名を語る「前衛党(エリート革命家)」による暴力的な専制統治であった。彼らは旧来の人間関係や宗教、地域秩序を「反革命的」として徹底的に破壊し、人間を国家の機械の歯車へと変えてしまったのである。
こうして見ると、古典的リベラリズム、進歩的リベラリズム、マルクス主義の3者は、支配する層が「経済エリート」か「専門家テクノクラート」か「前衛党エリート」かという違いに過ぎず、いずれも過激な人間改造と伝統社会の解体を推し進める点において、同根のイデオロギーであったことが露わになる。
近代の3大イデオロギーが揃って社会を解体し、人間を根無し草(アトム化された個人)へと追い込んできた歴史を鑑みるならば、私たちが今なすべきことは、進歩主義そのものからの脱却である。
これに対する真の代替案こそが、古代ギリシャ・ローマの哲学やキリスト教的伝統に遡る「共通善保守主義(Common-Good Conservatism)」である。
ここでいう「共通善(Common Good)」とは、一部のエリートや特定の個人だけの私的な利益ではなく、社会のすべての構成員が享受できる「普遍的な人間的繁栄の基盤」を指す。
具体的には、安定した家族形成、持続可能な地域社会、生きがいのある労働環境、相互の助け合いの規範、そして世代を超えて受け継がれる文化と信仰の継続性である。
共通善保守主義の最大の特徴は、自由を「制約からの脱却」として捉えるのではなく、「共通の善を実現するための秩序と徳の修練」として捉える点にある。
この政治哲学は、単純な左右の軸には収まらない。経済領域においては、新自由主義的な過激な資本主義や市場原理主義を批判し、国内労働者の雇用と産業、地域社会を保護する「左派的・労働者優先」の政策をとる。
一方で、社会・文化領域においては、家族や伝統、宗教的価値観を堅固に擁護する「右派的・伝統主義」の立場をとる。
エドマンド・バークやベンジャミン・ディズレーリが唱えた「ワン・ネーション保守主義(トーリー・デモクラシー)」の系譜を引くこの思想は、大衆の「常識」に寄り添い、エリート層に対しては支配ではなく「共通善への奉仕」を義務付ける。
果てしない「進歩」と「自己創造」の幻影に追われ、精神的・社会的な破産に直面している現代人にとって、共通善保守主義は、人間らしい安定と絆を取り戻すための唯一の羅針盤となるのである。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b40aed1d99b60e2bc58ec93ddee34ad6f9a35177
欧米の思想は日本とちょっと違うから理解がむずい
https://talk.jp/boards/poverty/1791037657
人間は馬鹿なのを忘れているだろ