舩坂弘さんが超人過ぎるアーカイブ最終更新 2026/09/11 00:461.番組の途中ですが転載は禁止ですtevGS舩坂弘の戦中から戦後にかけての生涯の要約は以下の通りです。◯アンガウル島での激闘と不死身の奮戦第二次世界大戦のアンガウルの戦いにおいて、擲弾筒などで米兵200人以上を殺傷する戦果を挙げる。左大腿部裂傷や腹部盲貫銃創など大小24箇所の重傷を負い、自決を図るも不発に終わるなど極限状態に置かれながらも、驚異的な治癒力で何度も回復し「不死身の分隊長」と称された。◯司令部への単身斬り込みと生還手榴弾6発と拳銃を携え、数夜にわたる匍匐前進で米軍指揮所の20メートル手前まで潜入して突入を試みる。手榴弾信管を叩く直前に左頸部を撃たれて昏倒し、米軍から戦死と判断されたが、野戦病院で奇跡的に蘇生。「勇敢なる兵士」として米兵から称賛を受け、捕虜収容所(ペリリュー島、米本土など)を経て1946年に帰国した。◯復員と大盛堂書店の創業戦死公報が出されていたため戸籍上は死亡扱いとなっており、自らの墓標を抜いて生還を果たす。戦後はアメリカの先進性を学ぶことが日本の発展につながると考え、渋谷駅前の一坪から書店経営を始め、日本初の「本のデパート・大盛堂書店」へと成長させた。◯剣道・文化人との親交剣道教士六段まで昇段し、作家の三島由紀夫と深く親交を結んだ。三島が自決時に介錯刀として用いた名刀「関の孫六」は舩坂が贈ったものである。◯慰霊・国際貢献活動と晩年自著の印税や義援金をもとにアンガウル島をはじめとする激戦地に慰霊碑を建立し、印税は国際赤十字社へ寄付した。遺族の現地墓参や戦没者調査、パラオ諸島との交流・支援に生涯を捧げ「生きている英霊」と称された後、2006年に85歳で死去した。2026/09/10 09:54:3418すべて|最新の50件2.番組の途中ですが転載は禁止ですtevGSアンガウル島の戦いアンガウルの戦い (Battle of Angaur) は第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いで、舩坂は多大な戦果を上げる。擲弾筒と臼砲で米兵を200人以上殺傷する[2]。水際作戦で中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。3日目に舩坂は米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置されたのちに、ようやく軍医が訪れるも、傷口を一目観て自決用の手榴弾を手渡して立ち去る。瀕死の重傷を負いながらも舩坂は包帯代わりに日章旗で足を縛り止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、数日で回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と述べる。舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で米兵を倒し、米兵から鹵獲した短機関銃で2人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、奮戦を続ける。舩坂の姿を見た部隊員らは不死身の分隊長と形容した[3]。食料も水もない戦場の戦いは日本兵を徐々に追い詰め、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相となる。弘も腹部盲貫銃創の重傷で這うことのみが可能で、傷口に蛆虫が涌くありさまを見て、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまで、と思い自決を図るも手榴弾は不発する。舩坂はしばらく茫然として自決未遂の現実に「なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのか」と、深い絶望感を味わう[注 3][注 4]。戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片で、幽鬼か亡霊の如き風貌であった。舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見て、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に発見した米兵もしばし呆然として声も出なかった。米軍の動揺を尻目に舩坂は司令部へ目掛け突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、左頸部[4]を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている[5]。当初舩坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で話題となった。舩坂の無謀な計画に対し、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈る。捕虜収容所その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ[注 5]”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし俘虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。さらに、舩坂は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F. V. CRENSHAW, 生没年不詳)に阻止され失敗。グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。2026/09/10 09:56:263.番組の途中ですが転載は禁止ですtevGS帰国アンガウル島守備隊は1944年10月19日に玉砕し、戦死公報が12月30日に実家へ届く。舩坂は1946年に帰国するまでの1年3か月の間は戸籍上で死亡扱いされる。故郷では、当然戦死したものと思われており、舩坂は帰郷後真っ先に「舩坂弘之墓」と記された墓標を抜く。しばらくの間は、周囲の人々から「幽霊ではないか」と噂をされる。ボロボロの軍衣で生家に戻り、先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌すると、真新しい位牌に「大勇南海弘院殿鉄武居士」と記されており驚いた、と『殉国の炎』に記す。大盛堂書店を開業戦後復興の中、戦争での強烈な体験から舩坂は、この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つ。弘は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を、書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけた。これは日本で初めての試みとなる、建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設へ繋がった。剣道家として戦後、舩坂は剣道教士六段まで昇段した。剣道五段の作家・三島由紀夫とは剣道を通じて親交があり、弘の自叙伝である『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』の序文は三島が寄せている。1970年の三島自決の際、介錯に使われた三島自慢の愛刀・関の孫六(後代)は弘が贈ったものであった。この経緯を自著『関ノ孫六』に詳しく記している。舩坂は当時80歳で範士十段の持田盛二と稽古する機会を得て、初めて持田に挑んだが、太刀打ちできなかった。この体験を自著『昭和の剣聖・持田盛二』で、「不思議であった。範士の前で竹刀を構えてからまだわずかの時間しか経過していないのに、私の顔面には汗がしたたり落ち、全身が熱くなっていた。息はもう途切れはじめていた……」と述べる。慰霊碑を建立弘は『英霊の絶叫』のあとがきに、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自らの生涯を賭けた使命と記した。これは後に同書を読んだ人々からの義援金の助力もあって実現し、以後、戦記を書いてはその印税を投じ、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。慰霊碑の慰文には、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と、刻み込まれている。慰霊碑を建立後、今までの著作や後に執筆した本から更なる印税を得るも、「世界の人々に役立ててもらいたい」との考えから、自分では使うことなく、全額を国際赤十字社に寄付している。書店経営の忙しさの中でも、アンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かさなかった。後年に遺族を募り慰霊団を組織し、現地墓参へ引率し、パラオ諸島原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽力する。長年のあいだ戦没者の調査と遺族らへ連絡など、精力的に活動して人生を捧げた。舩坂を知る人たちは「生きている英霊」と称して業績を称揚している。2006年2月11日午前8時、腎不全のため死去[6]。85歳没。墓所は東京都港区の長谷寺[7]に所在する。2026/09/10 09:56:504.番組の途中ですが転載は禁止ですVY1X5シモヘイヘとルーデルと並びWW2の人外ズメンバー2026/09/10 23:31:345.番組の途中ですが転載は禁止ですVY1X5アンサイクロペディアの舩坂弘のページも好きhttps://ansaikuropedia.org/wiki/%E8%88%A9%E5%9D%82%E5%BC%98舩坂弘撃ってみて、毒を飲ませて殴打して、溺れさせても船坂は死なず~ 舩坂弘 について、山本五十六概要太平洋戦争が始まると日本軍は米国との深刻的な物量差を痛感する事となった。その差を限られた資源の中で解決するため陸軍は1942年3月1日、人型兵器開発機関『F機関』を立ち上げ、人造による《不死身の兵士》を目指し開発を開始。様々な新技術を搭載したため製造は遅れに遅れ、試作機一号機の完成は1944年4月にまでずれ込む事となった。(中略)完成した初号機は舩坂・弘の名と軍曹の階級を与えられ内地で試験をするはずであったが、戦況の悪化により直ちに実戦配備される事となる。舩坂軍曹は絶対国防圏を守るため、パラオの宇都宮歩兵第十四師団宇都宮第五十九連隊石原中隊擲弾筒分隊に配備され、そこで一般兵として分隊長を勤める。アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は第二次世界大戦におけるパラオ-マリアナ戦役最後の戦い。この戦いに舩坂軍曹は参戦し多大な戦果を上げる。個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられる2026/09/10 23:39:486.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi面白さではルーデル閣下のアンサイクロペディアが断トツアンサイクロペディアハンス・ウルリッヒ・ルーデル【称号】スツーカ大佐ソ連人民最大の敵(スターリン公認)スツーカの悪魔アンサイクロペディアに嘘を書かせなかった男空の魔王ハンス・ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel、1916年7月2日 - 1982年12月18日)は、第二次世界大戦の際に活躍したドイツ軍人。航空機パイロット。朝起きて牛乳飲んで朝飯食って牛乳飲んで体操して出撃して昼飯食って牛乳飲んで出撃して晩飯食って牛乳飲んで出撃してシャワー浴びて寝るという毎日を送っていたら、何時の間にか戦車519両を撃破し、世界最強の戦車撃破王になっていた。航空機も9機撃墜しており、爆撃機パイロットの分際でれっきとしたエースである。かつ【30回撃墜されている】ので被撃墜王でもある。間違いなく彼のスコアは世界記録であり今後絶対に更新されることはないだろう。むしろ更新されたら困る注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。以下の文章だって嘘や出鱈目である可能性が高いんです。……と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……ルーデルの逸話は全て事実である。なんてこった!満面の笑みを浮かべるルーデル閣下https://ansaikuropedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%ABhttps://i.imgur.com/iarKlgy.jpeg2026/09/11 00:16:497.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi総合戦績出撃回数2530回被撃墜回数30回(全て対空砲による)戦闘による負傷5回ソ連軍によってかけられた賞金10万ルーブル20世紀の1ルーブルは現在の約1000円に値するのでそれをもとに計算すると……1億円!戦果戦車519輌装甲車・トラック800台以上火砲(100mm口径以上)150門以上(100mm以下も含めると数えきれない)装甲列車4両戦艦1隻撃沈(ガングート級戦艦マラート)嚮導駆逐艦1隻駆逐艦1隻上陸用舟艇70隻以上航空機9機(戦闘機2、爆撃機5、その他2。9機のうち1機は37mm砲による)2026/09/11 00:17:538.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi部下救助篇ルーデルと2番目の相棒ヘンシェル。ルーデルはその生涯で少なくとも4回敵地強行着陸を試みているが、、そのうちもっとも有名な件を紹介する。部下の乗ったスツーカが被弾して不時着したため、彼らを救うべくルーデルも着陸した。(中略)この事件が元で、のちにルーデルには「味方飛行場以外での着陸を禁ずる」という前代未聞の命令が下された。そのため、1944年夏に撃墜され不時着した副官のヘルムート・フィッケル少尉とその相棒を救出した時には、降下→そのまま地表を滑走→救助、乗載→再離陸、という流れで、一応「着陸はすることなく」救助を達成している。ルーデル本人は「地上で停止しなきゃ着陸にならない。うまくトンチで出し抜いてやった」と自賛していたことであろうが、勿論これは敵地着陸など比較にならない程危険な変態機動であったことは言うまでもない2026/09/11 00:22:099.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHiヘンシェルの仇討ち篇彼曰く、「肩の傷など問題とせず、私は敵攻撃に向かうつもりだ」。……でも、まともに歩けないほどボロボロの状態で、新しい相棒のロースマンにスツーカのコックピットまで担いで行ってもらっている。しかもヤッシーに着いて早々(帰還から2、3日後)、上記の状態でバルチにいた強力な敵機甲部隊を爆撃・殲滅。2日間の合計で100両超の敵戦車の内26台を破壊。ルーデル一人で実に四分の一以上を撃破した計算になる。その際の言葉は、「最後の出撃のときは、目を皿のようにしなければならなかった」 、「どこにも戦車の姿は見えない」 、翌朝の明け方の偵察では、「すべてが静かに、まるで死んだように見える」。2026/09/11 00:25:2210.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi総統閣下の勲章篇そうしてソ連戦車のスクラップを積み重ねたルーデルに対してアドルフ・ヒトラーも次々に勲章を贈与していたのだが、戦果が余りにも凄すぎた故にとうとう彼に見合う勲章が尽きてしまった。そこで遂にルーデルの為だけに新たに黄金柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字勲章なる勲章が作られ、これを受け取った。そんなルーデルが戦死することを恐れたのか、ヒトラーは再三にわたって「君を前にして面と向かっては言いにくいが、もうこれ以上は飛ぶな」と言っていたのだが、ルーデルはこれを悉く拒否。前述の勲章を授与された際「もう二度と私に地上勤務をしろと言わないのならば、その勲章を受け取りましょう」とすら言い放ったという。だが、懲りない総統閣下は再び飛行禁止に処するも、これまた懲りないルーデルはこっそりと出撃を繰り返す。……ところが幾ら粉飾しようとも無断出撃は隠し通せなかった。後にルーデルが語るところ、ルーデルの飛行禁止と同時に誰がスクラップにしたかわからないソ連戦車が急増したためだ。なお黄金柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字勲章は、ルーデルに続く新たなる英雄が現れることを願い、円卓の騎士とか使徒とかに準えて合計12個作られたのだが、結局他に受賞した者はいない。2026/09/11 00:27:4411.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi敵編隊迎撃篇ルーデルが2100回出撃を達成した頃、ポーランドのミーレックにあったルーデルの居た基地は、地中海方面から来襲した米軍機の大編隊に襲われた。ドイツ側の被害は大きかったのだが――「我々スツーカ隊はただちに追撃、これに壊滅的損傷を与えた」。何度読み返しても彼の戦記の該当ページには300機の編隊に壊滅的損傷を与えたと書いてあるのだが……いくら何でも鈍足のスツーカでB-17迎撃は不可能だ。我々アンサイクロペディアンも、そこまで荒唐無稽な嘘はつけん!そんな訳で、ウィキペディアンの真似をして真面目に調べてみると、どうやら攻撃終了後の米軍機がソ連軍基地に着陸した所を爆撃しての戦果であると思われる。B17米軍重爆撃機がいくら長大な航続距離を誇るとはいえ、ここまで長距離を飛んで無着陸でUターンしての帰還は不可能だ。ああなるほど、これなら納得できる。……んな訳ゃねぇだろ!! B-17・300機に攻撃されたら、小規模な都市は壊滅だぞ! そんな爆撃食らった直後に反撃・殲滅するなんてこいつやっぱり人間じゃないんじゃないか?2026/09/11 00:30:2712.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi負傷篇ルーデルは休暇中も書類を偽造して出撃し、病院送りになっても病室を抜け出してまで出撃し、ソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという。そして例によって例の如く対空砲によって撃墜され、後席に座っていたガーデルマン共々重傷を負ったルーデル。ところが彼は歩いて陣地へと復帰。先に救出され肋骨3本骨折の治療を受けていたガーデルマンを見つけるや否や「休んでいる暇はないぞガーデルマン、出撃だ!!」と彼を引っ張って戦場に向かい、撃墜されてから数時間後(被撃墜-救出-帰還までの4時間を含め)には恨めしい高射砲を思う存分破壊した。実はこの時の攻撃について、「機体が攻撃を受けてバラバラになり、後部座席にいたガーデルマンが遥か前方に投げ出された」とルーデルは回想している。そんな相棒を引っ張って戦場に出ていくのだから、全く素晴らしい根性と言うべきか、イカレていると言うべきか……。ところが、さしものルーデルも本当に死にかけたことがある。1945年2月8日、飛行中に敵の対空砲で撃たれ右足が吹っ飛んでしまったのだ。後席のガーデルマンに「足が無くなった」と言ったら「何言ってんですか。足が吹っ飛んだら話なんかしていられませんよ。【そんなことより】左翼が燃えてます。不時着しましょう」と返された。なのでそのまま不時着した。当然、魔王ルーデルと言えども病院送りになったのだが、見舞い客が訪れると珍しく泣いている。流石に片足になったら辛いのだろうと友人たちが慰めの言葉をかけると、「もう二度と高飛びもできないしスキーもできないが、まだ一本残っているから脚のことはどうでもいい。この祖国の危機にイワンどもの戦車をしばらく撃破できないのが悔しい」ということだった。そして実際に六週間後、鋼鉄製義足を装着して復帰した。その後、入院していることになっていたルーデルは書類を偽造して出撃し、やっぱり相変わらずソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという2026/09/11 00:33:1813.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi投降篇ついにドイツが無条件降伏した事を知ったルーデルは、連合軍に降伏することを決意する。しかしその途中、ソ連機に遭遇。「昨日と今日で、そう急に変わってたまるものか」と言って撃墜した。いや、あの、無条件降伏……。連合軍に捕虜として投降したルーデル。しかし無礼な連合軍兵士が無言で勲章を奪おうと掴みかかってきたため、ピストルを突きつけられた瞬間に鉄拳教育。そして士官が来るまで、操縦席に引き籠って待機。流石に他の兵士も手出しはできなかった様だ。で、やって来た士官に連れられて捕虜の待機室に行ったところ、他のドイツ兵士達もルーデルのことを知っていたので、全員から敬礼で迎えられる。それを見た連合軍士官から「ドイツ式の敬礼はやめてくれないか? あと、英語が話せたら英語で頼む」と注文をつけられるも、対するルーデルは表情一つ変えずに口を開いた。「私は習った通りに敬礼をしているだけだ、改める気は無い。そしてここはドイツだ。頼まれたってドイツ語以外は喋りたくないね。そもそもドイツ空軍は空の戦いで敗れてなどいない。ただ圧倒的な物量によって押し潰されただけだ。バイエルンに着陸した理由は単にソ連占領地域を避けたに過ぎない」そして唖然とする米軍士官に「……ま、そんなことはどうでもよろしい。シャワーと食事を頼む」と要求。あんた命が惜しくないのか。幸い(?)連合軍は心が広かったらしく、一応の敬意をもって遇されたようだ。その後、両足義足の英軍撃墜王ダグラス・バーダー大佐と会見。前線にて突貫で作られた間に合わせの義足で我慢しているルーデルの為に、わざわざロンドンから義足屋を呼び、無償で新しい義足を提供。また、彼がソ連の捕虜にならないよう全力で支援をしてくれたという。類は友を呼ぶとはこのことではないだろうか2026/09/11 00:36:3114.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHiその後のルーデル尋問篇投降したルーデルは連合軍から様々な尋問を受けるのだが、最もしつこく質問されたのは彼の乗機にはどんなカスタムが施されていたかについてだった。ルーデルは高射砲に落とされたことはあっても戦闘機に撃墜されたことは皆無だから、回避性能を増すためにさぞかし凄まじい改造をしたに違いないと想像する連合軍将校に、ルーデルは自信満々に「戦車の装甲をぶち抜けるよう、37mm対戦車砲を外付けしてもらった」と答えた。もともと低性能なのに対戦車砲搭載でさらに鈍重化……そんなんでは敵戦闘機に狙われて生き延びられるわけがないと指摘する連合軍将校。「そんなに不思議なのかね? 私にはこれという秘訣は無かったのだが……」人外の所業は凄過ぎて一般人の参考にならない、の一例である。2026/09/11 00:38:2815.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHi収容所篇他にもドイツの行っていた強制収容所について聞かれたルーデル。そして回答は「全然知らない」。しかし付け加えて、「だが、戦争の常だ、多少のことはやむを得まい。いつの時代、どこの国でも悲惨なことは起こり得る。君たち紳士がもしこのような写真に関心を払うなら、東の方に行ってみるがいい。写真ではない実物が、現に東方の蛮族の手によって行われているのだ」。これにムッとした連合軍将校は「典型的なナチ将校だな」と吐き捨てたが、「真実を真実として告げるのが、なぜ典型的なのだろう。それが、どうして非難の口ぶりで語られねばならないのか」、とルーデルも怒りを露にしている(しかし大のルーデルはソ連嫌いだから、彼の言う"真実”は偏見混じりだというのが定説)。ルーデルの勲章を見た英国老大尉が「この勲章の為に何人死んだのか……」と呟いたので「ソ連で稼いだものだよ」と教えると、一転して上機嫌になった。このあたりイギリス人は良くわかっていらっしゃる2026/09/11 00:39:4716.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHiこんな嘘くさい事実に対して、これ以上嘘を加えることなんて不可能だよ!ルーデル伝説、まだまだ続くよ!日本で大人気篇ルーデルは『急降下爆撃』を始めとする自伝を執筆。「ローマ教会が脱出に手を貸してくれて助かった」だの「ナチスの戦争は正しかった」だのと空気を読まない発言を繰り返し、色々な人の肝を冷やさせたアレのドイツ語版よりも英語版のほうが記事が充実しているのはまだ理解できるが、日本語版のほうが圧倒的に分量が多いのはどう考えてもおかしい。あまりにもチートなルーデルを語るときには、ウィキペディアンはおろかアンサイクロぺディアンまでも真面目にページを書く羽目になってしまった。ドイツでは2005年にルーデル個人の写真集まで出版されている。祖国でも大人気である。2026/09/11 00:44:2817.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHiルーデルのスコアは大嘘です!!!エースパイロットの「公式戦果」なるものは、多くの場合正確でない。本人や仲間が撃墜数を過大に報告したり、司令部が戦意高揚のためエースの活躍を誇張して宣伝したりするからである。例えば史上最大の撃墜王であるハルトマンも、実は疑わしいスコアがかなり多かったりする。ルーデルの「戦果」もまた、正確性に欠けている。なぜなら彼は前述のように病院を脱走して前線にまぎれ込み、誰が壊したのかわからない戦車を大量生産したり、同僚や部下が休暇をもらえるようマイレージの如く自分のスコアを譲ってあげたり、逆に指揮官に任命されたあとも自身が戦場に留まり続けるために自分のスコアを過小に報告するなど、何度も粉飾を繰り返していたからだ。だから公式戦果を鵜呑みにしてはならない。というわけで、上のルーデルの公式戦果は大嘘です!!! デタラメです!!!状況や人々の証言から未公開の戦果を合わせて、より信憑性の高い数を挙げれば――撃墜数:11機(うち5機は37mm砲により消滅)戦車:1150輌以上装甲車・トラック:1090台以上火砲(100mm口径以上)195門以上装甲列車:8両以上……あれ? 増えた?注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。……と、言いたいところですが……これでもまだ、控えめな予想です。いやー控えめにしすぎたか?……もう駄目だこいつ、存在自体がギャグだ……。2026/09/11 00:45:4018.番組の途中ですが転載は禁止です4NqHiシモ・ヘイヘ/舩坂弘 -枢軸国の人外フレンズたち。ルーデルを加えた三人だけで小国一つは潰せるだろうというのが大方の見解である。2026/09/11 00:46:21
◯アンガウル島での激闘と不死身の奮戦
第二次世界大戦のアンガウルの戦いにおいて、擲弾筒などで米兵200人以上を殺傷する戦果を挙げる。左大腿部裂傷や腹部盲貫銃創など大小24箇所の重傷を負い、自決を図るも不発に終わるなど極限状態に置かれながらも、驚異的な治癒力で何度も回復し「不死身の分隊長」と称された。
◯司令部への単身斬り込みと生還
手榴弾6発と拳銃を携え、数夜にわたる匍匐前進で米軍指揮所の20メートル手前まで潜入して突入を試みる。手榴弾信管を叩く直前に左頸部を撃たれて昏倒し、米軍から戦死と判断されたが、野戦病院で奇跡的に蘇生。「勇敢なる兵士」として米兵から称賛を受け、捕虜収容所(ペリリュー島、米本土など)を経て1946年に帰国した。
◯復員と大盛堂書店の創業
戦死公報が出されていたため戸籍上は死亡扱いとなっており、自らの墓標を抜いて生還を果たす。戦後はアメリカの先進性を学ぶことが日本の発展につながると考え、渋谷駅前の一坪から書店経営を始め、日本初の「本のデパート・大盛堂書店」へと成長させた。
◯剣道・文化人との親交
剣道教士六段まで昇段し、作家の三島由紀夫と深く親交を結んだ。三島が自決時に介錯刀として用いた名刀「関の孫六」は舩坂が贈ったものである。
◯慰霊・国際貢献活動と晩年
自著の印税や義援金をもとにアンガウル島をはじめとする激戦地に慰霊碑を建立し、印税は国際赤十字社へ寄付した。遺族の現地墓参や戦没者調査、パラオ諸島との交流・支援に生涯を捧げ「生きている英霊」と称された後、2006年に85歳で死去した。
アンガウルの戦い (Battle of Angaur) は第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いで、舩坂は多大な戦果を上げる。擲弾筒と臼砲で米兵を200人以上殺傷する[2]。水際作戦で中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。
3日目に舩坂は米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置されたのちに、ようやく軍医が訪れるも、傷口を一目観て自決用の手榴弾を手渡して立ち去る。
瀕死の重傷を負いながらも舩坂は包帯代わりに日章旗で足を縛り止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、数日で回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と述べる。
舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で米兵を倒し、米兵から鹵獲した短機関銃で2人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、奮戦を続ける。舩坂の姿を見た部隊員らは不死身の分隊長と形容した[3]。
食料も水もない戦場の戦いは日本兵を徐々に追い詰め、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相となる。弘も腹部盲貫銃創の重傷で這うことのみが可能で、傷口に蛆虫が涌くありさまを見て、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまで、と思い自決を図るも手榴弾は不発する。舩坂はしばらく茫然として自決未遂の現実に「なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのか」と、深い絶望感を味わう[注 3][注 4]。
戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片で、幽鬼か亡霊の如き風貌であった。
舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見て、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に発見した米兵もしばし呆然として声も出なかった。
米軍の動揺を尻目に舩坂は司令部へ目掛け突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、左頸部[4]を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている[5]。当初舩坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で話題となった。舩坂の無謀な計画に対し、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈る。
捕虜収容所
その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ[注 5]”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし俘虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。さらに、舩坂は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F. V. CRENSHAW, 生没年不詳)に阻止され失敗。グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。
アンガウル島守備隊は1944年10月19日に玉砕し、戦死公報が12月30日に実家へ届く。舩坂は1946年に帰国するまでの1年3か月の間は戸籍上で死亡扱いされる。故郷では、当然戦死したものと思われており、舩坂は帰郷後真っ先に「舩坂弘之墓」と記された墓標を抜く。しばらくの間は、周囲の人々から「幽霊ではないか」と噂をされる。ボロボロの軍衣で生家に戻り、先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌すると、真新しい位牌に「大勇南海弘院殿鉄武居士」と記されており驚いた、と『殉国の炎』に記す。
大盛堂書店を開業
戦後復興の中、戦争での強烈な体験から舩坂は、この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つ。弘は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を、書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけた。これは日本で初めての試みとなる、建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設へ繋がった。
剣道家として
戦後、舩坂は剣道教士六段まで昇段した。剣道五段の作家・三島由紀夫とは剣道を通じて親交があり、弘の自叙伝である『英霊の絶叫-玉砕島アンガウル』の序文は三島が寄せている。1970年の三島自決の際、介錯に使われた三島自慢の愛刀・関の孫六(後代)は弘が贈ったものであった。この経緯を自著『関ノ孫六』に詳しく記している。
舩坂は当時80歳で範士十段の持田盛二と稽古する機会を得て、初めて持田に挑んだが、太刀打ちできなかった。この体験を自著『昭和の剣聖・持田盛二』で、「不思議であった。範士の前で竹刀を構えてからまだわずかの時間しか経過していないのに、私の顔面には汗がしたたり落ち、全身が熱くなっていた。息はもう途切れはじめていた……」と述べる。
慰霊碑を建立
弘は『英霊の絶叫』のあとがきに、アンガウル島に鎮魂の慰霊碑を建立することが自らの生涯を賭けた使命と記した。これは後に同書を読んだ人々からの義援金の助力もあって実現し、以後、戦記を書いてはその印税を投じ、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。慰霊碑の慰文には、「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と、刻み込まれている。慰霊碑を建立後、今までの著作や後に執筆した本から更なる印税を得るも、「世界の人々に役立ててもらいたい」との考えから、自分では使うことなく、全額を国際赤十字社に寄付している。
書店経営の忙しさの中でも、アンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かさなかった。後年に遺族を募り慰霊団を組織し、現地墓参へ引率し、パラオ諸島原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽力する。長年のあいだ戦没者の調査と遺族らへ連絡など、精力的に活動して人生を捧げた。舩坂を知る人たちは「生きている英霊」と称して業績を称揚している。
2006年2月11日午前8時、腎不全のため死去[6]。85歳没。墓所は東京都港区の長谷寺[7]に所在する。
WW2の人外ズメンバー
https://ansaikuropedia.org/wiki/%E8%88%A9%E5%9D%82%E5%BC%98
舩坂弘
撃ってみて、毒を飲ませて殴打して、溺れさせても船坂は死なず
~ 舩坂弘 について、山本五十六
概要
太平洋戦争が始まると日本軍は米国との深刻的な物量差を痛感する事となった。
その差を限られた資源の中で解決するため陸軍は1942年3月1日、人型兵器開発機関『F機関』を立ち上げ、人造による《不死身の兵士》を目指し開発を開始。
様々な新技術を搭載したため製造は遅れに遅れ、試作機一号機の完成は1944年4月にまでずれ込む事となった。
(中略)
完成した初号機は舩坂・弘の名と軍曹の階級を与えられ内地で試験をするはずであったが、戦況の悪化により直ちに実戦配備される事となる。
舩坂軍曹は絶対国防圏を守るため、パラオの宇都宮歩兵第十四師団宇都宮第五十九連隊石原中隊擲弾筒分隊に配備され、そこで一般兵として分隊長を勤める。
アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は第二次世界大戦におけるパラオ-マリアナ戦役最後の戦い。この戦いに舩坂軍曹は参戦し多大な戦果を上げる。
個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられる
アンサイクロペディア
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
【称号】
スツーカ大佐
ソ連人民最大の敵(スターリン公認)
スツーカの悪魔
アンサイクロペディアに嘘を書かせなかった男
空の魔王
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel、1916年7月2日 - 1982年12月18日)は、第二次世界大戦の際に活躍したドイツ軍人。航空機パイロット。
朝起きて牛乳飲んで朝飯食って牛乳飲んで体操して出撃して昼飯食って牛乳飲んで出撃して晩飯食って牛乳飲んで出撃してシャワー浴びて寝るという毎日を送っていたら、何時の間にか戦車519両を撃破し、世界最強の戦車撃破王になっていた。
航空機も9機撃墜しており、爆撃機パイロットの分際でれっきとしたエースである。
かつ【30回撃墜されている】ので
被撃墜王でもある。
間違いなく彼のスコアは世界記録であり今後絶対に更新されることはないだろう。
むしろ更新されたら困る
注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。
以下の文章だって嘘や出鱈目である可能性が高いんです。
……と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……ルーデルの逸話は全て事実である。なんてこった!
満面の笑みを浮かべるルーデル閣下
https://ansaikuropedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB
https://i.imgur.com/iarKlgy.jpeg
出撃回数2530回
被撃墜回数30回(全て対空砲による)
戦闘による負傷5回
ソ連軍によってかけられた賞金10万ルーブル
20世紀の1ルーブルは現在の約1000円に値するのでそれをもとに計算すると……1億円!
戦果
戦車519輌
装甲車・トラック800台以上
火砲(100mm口径以上)150門以上(100mm以下も含めると数えきれない)
装甲列車4両
戦艦1隻撃沈(ガングート級戦艦マラート)
嚮導駆逐艦1隻
駆逐艦1隻
上陸用舟艇70隻以上
航空機9機(戦闘機2、爆撃機5、その他2。9機のうち1機は37mm砲による)
ルーデルと2番目の相棒ヘンシェル。
ルーデルはその生涯で少なくとも4回敵地強行着陸を試みているが、、そのうちもっとも有名な件を紹介する。
部下の乗ったスツーカが被弾して不時着したため、彼らを救うべくルーデルも着陸した。
(中略)
この事件が元で、のちにルーデルには
「味方飛行場以外での着陸を禁ずる」という前代未聞の命令が下された。
そのため、1944年夏に撃墜され不時着した副官のヘルムート・フィッケル少尉とその相棒を救出した時には、
降下→そのまま地表を滑走→救助、乗載→再離陸、という流れで、一応「着陸はすることなく」救助を達成している。
ルーデル本人は「地上で停止しなきゃ着陸にならない。うまくトンチで出し抜いてやった」と自賛していたことであろうが、勿論これは敵地着陸など比較にならない程危険な変態機動であったことは言うまでもない
彼曰く、「肩の傷など問題とせず、私は敵攻撃に向かうつもりだ」。……
でも、まともに歩けないほどボロボロの状態で、新しい相棒のロースマンにスツーカのコックピットまで担いで行ってもらっている。
しかもヤッシーに着いて早々(帰還から2、3日後)、
上記の状態でバルチにいた強力な敵機甲部隊を爆撃・殲滅。
2日間の合計で100両超の敵戦車の内26台を破壊。
ルーデル一人で実に四分の一以上を撃破した計算になる。
その際の言葉は、「最後の出撃のときは、目を皿のようにしなければならなかった」 、
「どこにも戦車の姿は見えない」 、
翌朝の明け方の偵察では、「すべてが静かに、まるで死んだように見える」。
そうしてソ連戦車のスクラップを積み重ねたルーデルに対して
アドルフ・ヒトラーも次々に勲章を贈与していたのだが、戦果が余りにも凄すぎた故にとうとう彼に見合う勲章が尽きてしまった。
そこで遂にルーデルの為だけに新たに黄金柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字勲章なる勲章が作られ、これを受け取った。
そんなルーデルが戦死することを恐れたのか、ヒトラーは再三にわたって「君を前にして面と向かっては言いにくいが、もうこれ以上は飛ぶな」と言っていたのだが、ルーデルはこれを悉く拒否。
前述の勲章を授与された際「もう二度と私に地上勤務をしろと言わないのならば、その勲章を受け取りましょう」とすら言い放ったという。
だが、懲りない総統閣下は再び飛行禁止に処するも、これまた懲りないルーデルはこっそりと出撃を繰り返す。
……ところが幾ら粉飾しようとも無断出撃は隠し通せなかった。
後にルーデルが語るところ、ルーデルの飛行禁止と同時に誰がスクラップにしたかわからないソ連戦車が急増したためだ。
なお黄金柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字勲章は、ルーデルに続く新たなる英雄が現れることを願い、円卓の騎士とか使徒とかに準えて合計12個作られたのだが、結局他に受賞した者はいない。
ルーデルが2100回出撃を達成した頃、ポーランドのミーレックにあったルーデルの居た基地は、地中海方面から来襲した米軍機の大編隊に襲われた。
ドイツ側の被害は大きかったのだが――「我々スツーカ隊はただちに追撃、これに壊滅的損傷を与えた」。
何度読み返しても彼の戦記の該当ページには300機の編隊に壊滅的損傷を与えたと書いてあるのだが……
いくら何でも鈍足のスツーカでB-17迎撃は不可能だ。
我々アンサイクロペディアンも、そこまで荒唐無稽な嘘はつけん!
そんな訳で、ウィキペディアンの真似をして真面目に調べてみると、
どうやら攻撃終了後の米軍機がソ連軍基地に着陸した所を爆撃しての戦果であると思われる。
B17米軍重爆撃機がいくら長大な航続距離を誇るとはいえ、ここまで長距離を飛んで無着陸でUターンしての帰還は不可能だ。ああなるほど、これなら納得できる。
……んな訳ゃねぇだろ!! B-17・300機に攻撃されたら、小規模な都市は壊滅だぞ! そんな爆撃食らった直後に反撃・殲滅するなんてこいつやっぱり人間じゃないんじゃないか?
ルーデルは休暇中も書類を偽造して出撃し、病院送りになっても病室を抜け出してまで出撃し、ソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという。
そして例によって例の如く
対空砲によって撃墜され、後席に座っていたガーデルマン共々重傷を負ったルーデル。
ところが彼は歩いて陣地へと復帰。先に救出され肋骨3本骨折の治療を受けていたガーデルマンを見つけるや否や
「休んでいる暇はないぞガーデルマン、出撃だ!!」と彼を引っ張って戦場に向かい、撃墜されてから数時間後(被撃墜-救出-帰還までの4時間を含め)には恨めしい高射砲を思う存分破壊した。
実はこの時の攻撃について、「機体が攻撃を受けてバラバラになり、後部座席にいたガーデルマンが遥か前方に投げ出された」とルーデルは回想している。
そんな相棒を引っ張って戦場に出ていくのだから、全く素晴らしい根性と言うべきか、イカレていると言うべきか……。
ところが、さしものルーデルも本当に死にかけたことがある。
1945年2月8日、飛行中に敵の対空砲で撃たれ右足が吹っ飛んでしまったのだ。
後席のガーデルマンに「足が無くなった」と言ったら「何言ってんですか。足が吹っ飛んだら話なんかしていられませんよ。【そんなことより】左翼が燃えてます。不時着しましょう」と返された。なのでそのまま不時着した。
当然、魔王ルーデルと言えども病院送りになったのだが、見舞い客が訪れると珍しく泣いている。
流石に片足になったら辛いのだろうと友人たちが慰めの言葉をかけると、「もう二度と高飛びもできないしスキーもできないが、まだ一本残っているから脚のことはどうでもいい。
この祖国の危機にイワンどもの戦車をしばらく撃破できないのが悔しい」ということだった。
そして実際に六週間後、鋼鉄製義足を装着して復帰した。
その後、入院していることになっていたルーデルは書類を偽造して出撃し、やっぱり相変わらずソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという
ついにドイツが無条件降伏した事を知ったルーデルは、連合軍に降伏することを決意する。
しかしその途中、ソ連機に遭遇。
「昨日と今日で、そう急に変わってたまるものか」と言って撃墜した。いや、あの、無条件降伏……。
連合軍に捕虜として投降したルーデル。
しかし無礼な連合軍兵士が無言で勲章を奪おうと掴みかかってきたため、ピストルを突きつけられた瞬間に鉄拳教育。
そして士官が来るまで、操縦席に引き籠って待機。
流石に他の兵士も手出しはできなかった様だ。
で、やって来た士官に連れられて捕虜の待機室に行ったところ、他のドイツ兵士達もルーデルのことを知っていたので、全員から敬礼で迎えられる。
それを見た連合軍士官から「ドイツ式の敬礼はやめてくれないか? あと、英語が話せたら英語で頼む」と注文をつけられるも、対するルーデルは表情一つ変えずに口を開いた。
「私は習った通りに敬礼をしているだけだ、改める気は無い。そしてここはドイツだ。頼まれたってドイツ語以外は喋りたくないね。そもそもドイツ空軍は空の戦いで敗れてなどいない。ただ圧倒的な物量によって押し潰されただけだ。バイエルンに着陸した理由は単にソ連占領地域を避けたに過ぎない」
そして唖然とする米軍士官に「……ま、そんなことはどうでもよろしい。シャワーと食事を頼む」と要求。
あんた命が惜しくないのか。
幸い(?)連合軍は心が広かったらしく、一応の敬意をもって遇されたようだ。
その後、両足義足の英軍撃墜王ダグラス・バーダー大佐と会見。
前線にて突貫で作られた間に合わせの義足で我慢しているルーデルの為に、わざわざロンドンから義足屋を呼び、無償で新しい義足を提供。
また、彼がソ連の捕虜にならないよう全力で支援をしてくれたという。類は友を呼ぶとはこのことではないだろうか
尋問篇
投降したルーデルは連合軍から様々な尋問を受けるのだが、
最もしつこく質問されたのは彼の乗機にはどんなカスタムが施されていたかについてだった。
ルーデルは高射砲に落とされたことはあっても戦闘機に撃墜されたことは皆無だから、
回避性能を増すためにさぞかし凄まじい改造をしたに違いないと想像する連合軍将校に、ルーデルは自信満々に「戦車の装甲をぶち抜けるよう、37mm対戦車砲を外付けしてもらった」と答えた。
もともと低性能なのに対戦車砲搭載でさらに鈍重化……そんなんでは敵戦闘機に狙われて生き延びられるわけがないと指摘する連合軍将校。
「そんなに不思議なのかね? 私にはこれという秘訣は無かったのだが……」
人外の所業は凄過ぎて一般人の参考にならない、の一例である。
他にもドイツの行っていた強制収容所について聞かれたルーデル。そして回答は「全然知らない」。
しかし付け加えて、「だが、戦争の常だ、多少のことはやむを得まい。いつの時代、どこの国でも悲惨なことは起こり得る。君たち紳士がもしこのような写真に関心を払うなら、東の方に行ってみるがいい。写真ではない実物が、現に東方の蛮族の手によって行われているのだ」。
これにムッとした連合軍将校は「典型的なナチ将校だな」と吐き捨てたが、
「真実を真実として告げるのが、なぜ典型的なのだろう。それが、どうして非難の口ぶりで語られねばならないのか」、とルーデルも怒りを露にしている
(しかし大のルーデルはソ連嫌いだから、彼の言う"真実”は偏見混じりだというのが定説)。
ルーデルの勲章を見た英国老大尉が「この勲章の為に何人死んだのか……」と呟いたので「ソ連で稼いだものだよ」と教えると、一転して上機嫌になった。
このあたりイギリス人は良くわかっていらっしゃる
ルーデル伝説、まだまだ続くよ!
日本で大人気篇
ルーデルは『急降下爆撃』を始めとする自伝を執筆。「ローマ教会が脱出に手を貸してくれて助かった」だの「ナチスの戦争は正しかった」だのと空気を読まない発言を繰り返し、色々な人の肝を冷やさせた
アレのドイツ語版よりも英語版のほうが記事が充実しているのはまだ理解できるが、
日本語版のほうが圧倒的に分量が多いのはどう考えてもおかしい。
あまりにもチートなルーデルを語るときには、ウィキペディアンはおろかアンサイクロぺディアンまでも真面目にページを書く羽目になってしまった。
ドイツでは2005年にルーデル個人の写真集まで出版されている。祖国でも大人気である。
エースパイロットの「公式戦果」なるものは、多くの場合正確でない。
本人や仲間が撃墜数を過大に報告したり、司令部が戦意高揚のためエースの活躍を誇張して宣伝したりするからである。
例えば史上最大の撃墜王であるハルトマンも、実は疑わしいスコアがかなり多かったりする。
ルーデルの「戦果」もまた、正確性に欠けている。
なぜなら彼は前述のように病院を脱走して前線にまぎれ込み、誰が壊したのかわからない戦車を大量生産したり、同僚や部下が休暇をもらえるようマイレージの如く自分のスコアを譲ってあげたり、逆に指揮官に任命されたあとも自身が戦場に留まり続けるために自分のスコアを過小に報告するなど、何度も粉飾を繰り返していたからだ。
だから公式戦果を鵜呑みにしてはならない。
というわけで、上のルーデルの公式戦果は大嘘です!!! デタラメです!!!
状況や人々の証言から未公開の戦果を合わせて、より信憑性の高い数を挙げれば――
撃墜数:11機(うち5機は37mm砲により消滅)
戦車:1150輌以上
装甲車・トラック:1090台以上
火砲(100mm口径以上)195門以上
装甲列車:8両以上
……あれ? 増えた?
注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。
……と、言いたいところですが……これでもまだ、控えめな予想です。
いやー控えめにしすぎたか?
……もう駄目だこいつ、存在自体がギャグだ……。
枢軸国の人外フレンズたち。
ルーデルを加えた三人だけで小国一つは潰せるだろうというのが大方の見解である。