【徹底】琉球王国が薩摩に勝つにはどうすればよかったのか?【討論】アーカイブ最終更新 2024/05/24 02:081.番組の途中ですが転載は禁止ですgOKVs610 年 隋の流求侵攻(台湾説あり)715年「奄美・夜久・度感・信覚・球美」から日本へ来朝753年 鑑真を乗せた遣唐使船が阿児奈波(あこなは、現在の沖縄本島)に到着[注 1][1]。1187年頃 舜天が即位したといわれている。中山(浦添城)に都を定めたと伝わる。1250年 飢饉で人民の半数が死亡。当時の王義本から英祖への禅譲に繋がる[2]1260年頃 英祖が即位したといわれている。伊祖城を構えたと伝わる。1264年 久米、慶良間、伊平屋から英祖に入貢がある(『球陽』)1265年 琉球に仏教伝来、浦添に極楽寺創建。1266年ごろ 与論島などが英祖に入貢[注 2]。1317年 「密牙古人」が中国に漂着する(「元史」、「温州府志」)。1350年頃 察度が中山王に即位したといわれている。1368年 波上山に護国寺創建。1370年 - 1380年代 北山、中山、南山の各王が相次ぎ明に朝貢する。後に冊封を受け、進貢貿易開始。なお、年次は諸説あり定まらない。1372年(洪武5年) 一説には中山の察度が明に入貢したとある。1380年 - 1385年 南山の承察度、続けて明に入貢(『大明実録』)。1394年 北山の珉、明に入貢。1389年 察度、朝鮮人被慮人を倭寇より買取り、玉之掟を遣して高麗に送還する。1390年 宮古の与那覇勢頭豊見親、中山に入貢する[3]。1392年頃 閩人三十六姓(久米三十六姓)が帰化したといわれている。1394年 南山の承察度、朝鮮に亡命したと伝わる(『李朝実録』)1404年(永楽2年) 明の永楽帝が中山王武寧に冊封使を遣わす。(『球陽』)1406年(永楽4年) 尚巴志、浦添城の武寧を討ち察度王統を滅ぼす。中山の都を浦添から首里に移す。尚思紹が中山王に即位する。第一尚氏王統開始。1414年 中山王、室町幕府に遣使する。[4]1420年(永楽18年) 護佐丸が座喜味城を築く。1421年 朝鮮に向かう琉球船が倭寇(対馬海賊)に襲撃される。[5]第一尚氏王統編集1429年(宣徳4年) 尚巴志王が三山統一を果たす。1431年 対馬海賊頭目早田六郎次郎の警固により通信使が朝鮮に至る[5]。1441年 - 1447年 この頃奄美大島を攻撃し[6][7]、同島を尚思達王が制圧。1448年 北京の会同館で琉球使が騒動を起こす。1450年 京の禅僧、芥隠承琥 が来琉する。後の4代、尚泰久王・尚徳王・尚円王・尚真王に仕え、琉球の臨済宗の開祖となる。1451年(宝徳3年) 兵庫津に入港した琉球商船が下ろした交易品を細川勝元が奪い取り、代金を踏み倒す。(『康富記』)1454年(景泰5年) 志魯・布里の乱。首里城が焼け落ちる。1455年 尚泰久王、和僧道安を朝鮮に遣使、倭寇に拉致された人民を送還するのと引替えに大蔵経を請求。1458年(天順2年) 護佐丸・阿麻和利の乱が起きる。万国津梁の鐘鋳造。1466年 尚徳王が喜界島を制圧。同年、芥隠承琥を使節として足利義政に謁見さしめる。第二尚氏王統編集1470年(成化6年) 尚徳王の家臣の金丸(尚円王)が即位する。第二尚氏王統開始。1477年 朝鮮人が与那国島に漂着。帰途に立ち寄った先島、沖縄諸島の島々の様子を本国に伝える[8]。1493年 この頃琉球と「日本甲船」が奄美で紛争となり、琉球が勝利したと記されている[9]。1500年 石垣島でオヤケアカハチの反乱、尚真王が送った琉球軍によって制圧。この頃、宮古島の仲宗根豊見親は与那国島のサンアイイソバを攻める。1501年(弘治14年) 玉陵を建てる。1511年 尚真王が久米島を制圧。1522年 与那国島の鬼虎、宮古島の仲宗根豊見親に征伐さる。1531年 『おもろさうし』第1巻を編集。1532年 宮古島で大嶽城の変起こる。1537年 尚清王、奄美大島の与湾大親を討つ。1542年(嘉靖21年) 陳貴事件が起こる[10]。1557年 尚元王、奄美大島を討伐。1562年 一説には、徳之島に首里大親役「首里之主」派遣とある。1570年 東南アジア貿易を廃止。1571年 尚元王、奄美大島の反乱を制圧。1590年 島津義久、関東平定を成した豊臣秀吉への上洛を尚寧王に進請[11]。1592年 豊臣秀吉が朝鮮出兵のため琉球に賦役を命ずる。1601年 熊普達事件が起こる[12]。1604年 野国総管、甘藷(サツマイモ)を中国よりもたらす。なおこの頃に先島諸島にも各島ばらばらに伝来するが、他の島には波及せず。1609年 薩摩藩の侵攻を受け、支配下に入る(→琉球侵攻)2024/05/23 20:23:158すべて|最新の50件2.番組の途中ですが転載は禁止ですxg9Lf立地的に無理ゲーでは?攻めにくい守れやすい海流があるわけでもない豊富な資源があるわけでもない2024/05/23 21:26:033.番組の途中ですが転載は禁止ですzG0os秀吉が台湾方面に対しても野心を見せ始めたあたりで軍備を整えるべきだった2024/05/23 21:41:214.番組の途中ですが転載は禁止ですludvn熊普達事件がなければ、薩摩侵攻はなかったただ、薩摩の庇護下に入っていなければ、おそらくアヘン戦争でイギリス領になっていた2024/05/23 21:42:215.番組の途中ですが転載は禁止です3g8XG琉球の王様が記憶そのままで人生やり直すぐらいしないと不可能だろ2024/05/23 22:37:436.番組の途中ですが転載は禁止ですt0qr5琉球は近隣諸島を搾取していたから薩摩に寝返る所が続出しそう2024/05/23 22:48:007.番組の途中ですが転載は禁止ですzG0osいやー薩摩の黒糖地獄は世界的にみても凶悪な搾取だろう・・・2024/05/23 23:01:078.番組の途中ですが転載は禁止ですhwfJj海戦鍛えて海上でやるしかない2024/05/24 02:08:25
東大卒YouTuber「卒業後2年役者を目指してただけなのに怠け者扱いされ東大卒なのに大手企業の書類審査に通らなくなった。面接では体育会系にバカにされ落とされた」ニュー速(嫌儲)351992025/01/13 20:01:06
715年「奄美・夜久・度感・信覚・球美」から日本へ来朝
753年 鑑真を乗せた遣唐使船が阿児奈波(あこなは、現在の沖縄本島)に到着[注 1][1]。
1187年頃 舜天が即位したといわれている。中山(浦添城)に都を定めたと伝わる。
1250年 飢饉で人民の半数が死亡。当時の王義本から英祖への禅譲に繋がる[2]
1260年頃 英祖が即位したといわれている。伊祖城を構えたと伝わる。
1264年 久米、慶良間、伊平屋から英祖に入貢がある(『球陽』)
1265年 琉球に仏教伝来、浦添に極楽寺創建。
1266年ごろ 与論島などが英祖に入貢[注 2]。
1317年 「密牙古人」が中国に漂着する(「元史」、「温州府志」)。
1350年頃 察度が中山王に即位したといわれている。
1368年 波上山に護国寺創建。
1370年 - 1380年代 北山、中山、南山の各王が相次ぎ明に朝貢する。後に冊封を受け、進貢貿易開始。なお、年次は諸説あり定まらない。
1372年(洪武5年) 一説には中山の察度が明に入貢したとある。
1380年 - 1385年 南山の承察度、続けて明に入貢(『大明実録』)。
1394年 北山の珉、明に入貢。
1389年 察度、朝鮮人被慮人を倭寇より買取り、玉之掟を遣して高麗に送還する。
1390年 宮古の与那覇勢頭豊見親、中山に入貢する[3]。
1392年頃 閩人三十六姓(久米三十六姓)が帰化したといわれている。
1394年 南山の承察度、朝鮮に亡命したと伝わる(『李朝実録』)
1404年(永楽2年) 明の永楽帝が中山王武寧に冊封使を遣わす。(『球陽』)
1406年(永楽4年) 尚巴志、浦添城の武寧を討ち察度王統を滅ぼす。中山の都を浦添から首里に移す。尚思紹が中山王に即位する。第一尚氏王統開始。
1414年 中山王、室町幕府に遣使する。[4]
1420年(永楽18年) 護佐丸が座喜味城を築く。
1421年 朝鮮に向かう琉球船が倭寇(対馬海賊)に襲撃される。[5]
第一尚氏王統
編集
1429年(宣徳4年) 尚巴志王が三山統一を果たす。
1431年 対馬海賊頭目早田六郎次郎の警固により通信使が朝鮮に至る[5]。
1441年 - 1447年 この頃奄美大島を攻撃し[6][7]、同島を尚思達王が制圧。
1448年 北京の会同館で琉球使が騒動を起こす。
1450年 京の禅僧、芥隠承琥 が来琉する。後の4代、尚泰久王・尚徳王・尚円王・尚真王に仕え、琉球の臨済宗の開祖となる。
1451年(宝徳3年) 兵庫津に入港した琉球商船が下ろした交易品を細川勝元が奪い取り、代金を踏み倒す。(『康富記』)
1454年(景泰5年) 志魯・布里の乱。首里城が焼け落ちる。
1455年 尚泰久王、和僧道安を朝鮮に遣使、倭寇に拉致された人民を送還するのと引替えに大蔵経を請求。
1458年(天順2年) 護佐丸・阿麻和利の乱が起きる。万国津梁の鐘鋳造。
1466年 尚徳王が喜界島を制圧。同年、芥隠承琥を使節として足利義政に謁見さしめる。
第二尚氏王統
編集
1470年(成化6年) 尚徳王の家臣の金丸(尚円王)が即位する。第二尚氏王統開始。
1477年 朝鮮人が与那国島に漂着。帰途に立ち寄った先島、沖縄諸島の島々の様子を本国に伝える[8]。
1493年 この頃琉球と「日本甲船」が奄美で紛争となり、琉球が勝利したと記されている[9]。
1500年 石垣島でオヤケアカハチの反乱、尚真王が送った琉球軍によって制圧。この頃、宮古島の仲宗根豊見親は与那国島のサンアイイソバを攻める。
1501年(弘治14年) 玉陵を建てる。
1511年 尚真王が久米島を制圧。
1522年 与那国島の鬼虎、宮古島の仲宗根豊見親に征伐さる。
1531年 『おもろさうし』第1巻を編集。
1532年 宮古島で大嶽城の変起こる。
1537年 尚清王、奄美大島の与湾大親を討つ。
1542年(嘉靖21年) 陳貴事件が起こる[10]。
1557年 尚元王、奄美大島を討伐。
1562年 一説には、徳之島に首里大親役「首里之主」派遣とある。
1570年 東南アジア貿易を廃止。
1571年 尚元王、奄美大島の反乱を制圧。
1590年 島津義久、関東平定を成した豊臣秀吉への上洛を尚寧王に進請[11]。
1592年 豊臣秀吉が朝鮮出兵のため琉球に賦役を命ずる。
1601年 熊普達事件が起こる[12]。
1604年 野国総管、甘藷(サツマイモ)を中国よりもたらす。なおこの頃に先島諸島にも各島ばらばらに伝来するが、他の島には波及せず。
1609年 薩摩藩の侵攻を受け、支配下に入る(→琉球侵攻)
攻めにくい守れやすい海流があるわけでもない
豊富な資源があるわけでもない
ただ、薩摩の庇護下に入っていなければ、おそらくアヘン戦争でイギリス領になっていた