昔のPDA総合4【200LX/Newton/Palm/WinCE/Zaurus…】最終更新 2024/11/02 15:551.ナイコンさん◆過去スレ01 http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/i4004/1471158493/02 http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/i4004/1560009037/03 https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/i4004/1629630403/ . 彡⌒ミ (´・ω・`) 昔のPDAを愛するオッサンの生存確認が目的です ()三三≡∪∪二≡≡二≡≡=) |(i| |(i| |i | 昔のPDAと . |i |⌒ミ | i| 寿命を争うスレ | i|ω・`) オッサン同士仲良くね |(;| |(;| ) ()≡二三==二=二=二≡≡) J |(i| |i | |i | """"出典 https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/i4004/16432173662022/01/27 02:16:0638コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.ナイコンさんsWmreテストカキコ2023/07/12 15:26:173.名無しさんS0VYl保守2023/09/16 09:44:074.名無しさんuafzR運用2023/09/18 08:51:295.名無しさんBBhVaワロタ2023/09/21 08:34:096.名無しさんF8djFワロタ2023/09/22 08:15:307.名無しさんyyyfy埋め2023/09/23 09:56:358.名無しさんR5A0oいいね2023/09/28 14:33:599.名無しさんrPYdepalm-tungsten-t5 買うお2023/09/29 07:51:2610.名無しさん1npkEいいね2023/10/01 08:23:2211.名無しさんSthPZワロタ2023/10/27 21:11:1612.名無しさんklMfKワロタ2023/11/23 00:19:4913.名無しさんhRv9D保守2023/12/01 07:21:5614.名無しさんdw07r運用2023/12/04 10:33:5215.名無しさんpqE7H保守2023/12/10 13:44:3116.名無しさんeTMA5運用2023/12/25 17:43:0717.名無しさんKVojh保守2024/01/03 00:32:0718.名無しさんj6oJu運用2024/01/18 11:12:3319.名無しさんYQrxTMorphyOne完成したら起こして2024/01/27 09:03:1820.名無しさんpWsRtワロタ2024/01/27 09:18:5921.名無しさんFdQmPワロタ2024/02/10 06:42:5822.名無しさんJ2cXR保守2024/02/19 13:55:0723.名無しさんHeyCWChatGPTにおける、特徴量の非常に多くの次元とは、非人間的に超越論的なものである。この話は、ドゥルーズによるカント批判を想起させるな、と思った。カントは『 純粋理性批判』 において、人間は、感性と悟性と理性でできているとか、悟性にはこういうカテゴリーがあって、それによって感性的にインプットされたデータが仕分けされて認識の意味構造が成り立つとか……そういう言ってみれば人間認識のOSレベルの記述を行った。で、省略して言うと、ドゥルーズによれば、カントのその記述は純粋なものになっていない、というのである。カントは、経験を可能にするOSを記述したいわけだが、そのOSが経験世界のある種の引き写しになっていて、「OSレベルにはぜんぜん想像もつかない仕組みがあり、そこから「わかる」経験が出てくる」というような見方にはなっておらず、でもOSレベルがどうなってるかって、そうかもしれないでしょ、いわば、「経験的なわかりから推測してわかる部分」なんてないかもしれないよ? というわけである。僕は以前、この話がピンとこなかった。でも、機械学習のプロセスにおいて意味を量的に成り立たせる「括り」が学習過程で自動的に作り出され、しかもそれは本質的、普遍的なものではなく、おそらくデータを増減したり改変したりしたら括り方は変わるわけで、つまりそれはつねに作業仮説であって、いわば「生成変化する非意味的な作業仮説としての多数の括り」によって意味が生成される??おおよそこのようなことが、経験世界を引き写したものではない超越論的なもの、という話ではないかと思ったのである。ドゥルーズは、コンピュータを論じていたのではない。まず素朴には、おそらく人間の精神、それは脳の働きだとすると、それは、経験的にわかるものではない動的なカテゴリー編成によって作動しているのだろう、ということ。加えて、宇宙論的な含意もあるのではないかと思う。そもそも、世界を端的に自然科学で捉えることは、人間的意味理解とは関係ない、いわば「冷ややか」であるような数理として世界を捉えることなわけだが、しかしそこにまだ人間主義が残っている可能性もあるのかもしれない。自然法則に質的意味がないとしても、人はその合理性を理解しようとする。さらにそれ以前の、「合理的自然以前の自然」みたいなものがあるとしたら、どうか??と考えていくと、メイヤスーによる、自然法則全体におよぶサイコロの振り直し、という話に近づいていく。2024/02/23 18:40:5724.名無しさんO3D60ワロタ2024/03/03 08:19:1425.名無しさんBG3bUhsのパームもっと持つかと思ったがそれほどではなかった。2024/03/06 16:57:4126.名無しさんGktfdいいね2024/03/07 07:50:2227.名無しさんRPw7z保守2024/03/29 09:18:5028.名無しさんpwUzs運用2024/04/07 09:34:2029.名無しさんmlm7k保守2024/04/10 09:55:4230.名無しさんR0a0n運用2024/04/12 15:39:3831.名無しさんuhPTd保守2024/05/13 07:19:4332.名無しさんZaVzM運用2024/05/31 07:11:2933.名無しさんAKwHW保守2024/07/02 06:22:1134.名無しさんlC6nx運用2024/07/16 10:24:1035.名無しさんPuavp保守2024/08/07 06:22:1736.名無しさんaiPzT運用2024/11/02 10:17:3237.名無しさんCP1hSPalm もう使ってないけど Android の IME には Graffiti Pro 使ってるよ2024/11/02 15:14:5238.名無しさんUc0Neいいね2024/11/02 15:55:14
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+6061387.42024/11/21 21:12:30
01 http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/i4004/1471158493/
02 http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/i4004/1560009037/
03 https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/i4004/1629630403/
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この話は、ドゥルーズによるカント批判を想起させるな、と思った。
カントは『 純粋理性批判』 において、人間は、感性と悟性と理性でできているとか、悟性にはこういうカテゴリーがあって、それによって感性的にインプットされたデータが仕分けされて認識の意味構造が成り立つとか……そういう言ってみれば人間認識のOSレベルの記述を行った。
で、省略して言うと、ドゥルーズによれば、カントのその記述は純粋なものになっていない、というのである。カントは、経験を可能にするOSを記述したいわけだが、そのOSが経験世界のある種の引き写しになっていて、「OSレベルにはぜんぜん想像もつかない仕組みがあり、そこから「わかる」経験が出てくる」というような見方にはなっておらず、でもOSレベルがどうなってるかって、そうかもしれないでしょ、いわば、「経験的なわかりから推測してわかる部分」なんてないかもしれないよ? というわけである。
僕は以前、この話がピンとこなかった。でも、機械学習のプロセスにおいて意味を量的に成り立たせる「括り」が学習過程で自動的に作り出され、しかもそれは本質的、普遍的なものではなく、おそらくデータを増減したり改変したりしたら括り方は変わるわけで、つまりそれはつねに作業仮説であって、いわば「生成変化する非意味的な作業仮説としての多数の括り」によって意味が生成される??おおよそこのようなことが、経験世界を引き写したものではない超越論的なもの、という話ではないかと思ったのである。
ドゥルーズは、コンピュータを論じていたのではない。まず素朴には、おそらく人間の精神、それは脳の働きだとすると、それは、経験的にわかるものではない動的なカテゴリー編成によって作動しているのだろう、ということ。
加えて、宇宙論的な含意もあるのではないかと思う。そもそも、世界を端的に自然科学で捉えることは、人間的意味理解とは関係ない、いわば「冷ややか」であるような数理として世界を捉えることなわけだが、しかしそこにまだ人間主義が残っている可能性もあるのかもしれない。自然法則に質的意味がないとしても、人はその合理性を理解しようとする。さらにそれ以前の、「合理的自然以前の自然」みたいなものがあるとしたら、どうか??と考えていくと、メイヤスーによる、自然法則全体におよぶサイコロの振り直し、という話に近づいていく。