【歴史】約160cmを越える大太刀を振るい、織田信長・徳川家康軍の追撃を防ぎ続けた…“猛将”を討ち取ったのは一体誰なのかアーカイブ最終更新 2023/08/12 14:551.玲 ★??? 元亀元年(1570)6月、織田信長は同盟者である徳川家康と共に、近江(滋賀県)北部の浅井長政を攻めるべく軍を発した。 浅井方には、越前(福井県東部)の大名・朝倉氏が加勢。28日、長政の本拠・小谷城の南方を流れる姉川の河畔で、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍は激突した。世にいう「姉川の戦い」だ。〈――押しつ返しつ散々に入り乱れ、黒煙立て、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り〉 と、『信長公記』にも記されたほどに激しい戦闘が続き、やがて、織田・徳川軍が勝利する。浅井・朝倉軍は総崩れとなったかが、そんな中、踏みとどまって抗戦を続ける者がいた。 その大柄な武者は、五尺三寸(約160cm)を超える長大な大太刀を振るい、四方八方に群がる敵を次々と斬り伏せた。 彼の名は、真柄十郎左衛門直隆(なおたか)。「北国無双の大力」と評された、朝倉家の猛将である。敗勢の中で 朝から始まった姉川の戦いは、一説には4時間ほどで勝敗が決したという。 味方の浅井・朝倉勢が、雪崩を打ったように逃げ散る中、真柄十郎左衛門は大太刀を振るって、織田・徳川勢の追撃を斬り防ぎ続けた。(……まさか、このような巡り合わせになろうとはな) 返り血にまみれながら、真柄はふと、そんなことを考えたかもしれない。 今から2年前、現将軍・足利義昭は越前で、朝倉氏の保護下にあった。 義昭は、13代将軍・足利義輝の弟であり、河内(大阪府南東部)の大名・三好氏によって兄を殺され、己の命も危うくなったため京を逃れた。彼は、再び京へ戻り、将軍に就任して幕府を再興するという宿願のため、後ろ盾となる大名を探して諸国を流浪し、やがて越前の有力大名である朝倉義景を頼ったのであった。『朝倉始末記』に伝わる逸話によれば、あるとき、義景・義昭が列席した宴の場で、義昭の近臣の一人が、「朝倉の御家中には、真柄十郎左衛門という大力無双の者がいると聞いておる。天下に隠れなきその力のほど、是非とも拝見したいものじゃ」 と乞うてきた。真柄はこれを受けて、義昭らの御前に進み出ると、従者が数人掛かりでようやく担げるほどの、重く長大な大太刀を二振り用意し、それらを両手に握って軽々と振り回し、剣舞を披露してみせた。その場に居並ぶ者はみな驚嘆し、「四天や夜叉神(鬼神)といえども、これには勝るまい」と舌を巻いた。 朝倉義景は、義昭を手厚く遇した。しかし、彼の志はあくまでも越前を守ることにあったらしく、義昭の求める上洛への協力に応じることはなかった。 その後、義昭は越前を去って織田信長を頼り、その支援によって上洛し、将軍就任を果たす。 しかし、この「義昭・信長政権」と朝倉氏は様々な理由から対立を深め、ついには、義昭の命を受けた信長と、こうして戦場で相まみえることとなった。 あの越前での宴に列席していた頃は、まさか義昭と敵対することになろうとは、真柄は考えもしなかっただろう。そしてまた、かつて義昭に披露した大太刀を、このような形で見せつけることになることも。 だが、彼は己の運命を嘆いたりはしなかったのではないか。人並外れた膂力(りょりょく)も、振るう相手が片田舎の小領主や一揆などでは、乱世に生まれた甲斐がない。天下人の軍勢を相手に、己の武辺を存分に見せつける機会を得たことは、ある意味では僥倖(ぎょうこう)とさえ言えるかもしれなかった。「我が名は真柄十郎左衛門! 志の者あらば、我と引き組んで勝負せぬか!」全文はhttps://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/6606aa7ad2cb41dc83233df75dd5d071f515cf23&preview=auto2023/08/11 10:52:1547すべて|最新の50件2.名無しさん74DHyお前ら佐々木小次郎しらんやろ2023/08/11 10:56:263.名無しさんwS5O4真柄直隆は身長7尺(210cm)の大男で、朝倉家中でも武勇に優れ黒鹿毛の馬に跨り、大太刀を振り回して戦ったことで有名である。2023/08/11 10:59:524.名無しさんZLX0iそれ 味方も斬ってませんか?2023/08/11 11:01:455.名無しさん2BqPa熱田神宮でこの太刀を見ましたでかすぎ2023/08/11 11:04:096.名無しさんaUu2q馬鹿にするなよ😡戦国大戦で学んだわ😡2023/08/11 11:06:007.名無しさんHyNzL俺2023/08/11 11:08:438.名無しさんHyNzL張飛2023/08/11 11:11:139.名無しさんYkNU3長いから3行でお願い2023/08/11 11:20:1310.名無しさんmbHCkお前ら李舜臣しらんやろ2023/08/11 11:24:3811.名無しさんm22Ww鬼武蔵とか?2023/08/11 11:25:1812.名無しさん6aqc2これ隣の佐藤さんだわ2023/08/11 11:28:0313.名無しさんZ9Apg>>3盛りすぎだよな実際は「身長148cmで木の棒振り回して走り回ってた」これが真実なんだぜ2023/08/11 11:38:5514.名無しさんm22WwBMの副社長もこの時代だったら巨人の部類か2023/08/11 11:56:2515.名無しさんBmaPIこういう話ってのはほとんど作り話なんだよ2023/08/11 12:17:3816.名無しさん9DZPB450年前のリアル「四天や鬼人といえど、これには勝るまい」2023/08/11 12:30:0117.名無しさんBsfDc慶次かよ2023/08/11 12:30:0418.名無しさんXvMiQ>>2蔵之介なら知ってる2023/08/11 12:36:4019.名無しさんm41Xv当時の日本人が7尺もある訳が無い加藤清正も6尺もないと思う兜が長いのは目立ちたいからだ2023/08/11 12:45:4320.名無しさんm41Xv木曽馬に乗るんだから150cm程度草が1mも生えてどうやったら騎馬戦になるのか2023/08/11 12:49:5921.名無しさんm41Xvだから田畑を刈って戦をしていた2023/08/11 12:55:2522.名無しさんbuI7X>>12なんかツボったw2023/08/11 12:57:3223.名無しさんC43Uq>>13センスないからやめた方がいい2023/08/11 12:57:3524.名無しさん6FKhMビッグモーターの逃げ出したチビ助より大きい刀か、すげぇな2023/08/11 13:00:2825.名無しさんm41Xv徳川将軍でさえ140cm台がいたからな平均150~155だな2023/08/11 13:00:5326.名無しさんEDPHR真っ先に逃げてるだけで草2023/08/11 13:01:0527.名無しさん6BLO4>>23チビを馬鹿にするなんて最低だよね2023/08/11 13:48:0628.名無しさんcLAua国宝級出土 蛇行剣は長さ237センチ2023/08/11 13:51:3229.名無しさんzSy1Dどうせ実物は140cmのチビだろ。まぁ当時はそれが普通だ2023/08/11 13:53:5030.名無しさんyOfSt>>20いや彼だけは馬を背負って戦陣を駆け回ったので周囲が怯んだ2023/08/11 14:05:2431.名無しさんR64PG韓国には160cmの刀もそれを軽々と振り回す勇士もいません他意はない2023/08/11 14:55:3832.名無しさん3Dlbd姉川合戦は有名な割に同時代の良質な史料に乏しく、戦闘経過は判然としない合戦後も浅井朝倉が南近江で盛んに活動している事実からも、後世軍記物が語るほどの激戦ではなく、双方共損害は軽微だったとする説もある2023/08/11 14:55:5133.名無しさんIVUMTもうしょうがないね2023/08/11 16:47:0834.名無しさんCW4Rk徳川が劣勢の織田助けて勝ち戦に導いたっていういかにも作りっぽい話あるけどやっぱり作りか?司馬の国盗り物語も姉川の描写はこれだった2023/08/11 20:09:5035.名無しさんyOfStあの時代のことはわからん大河『秀吉』では渡哲也・織田信長が姉川の戦いの後浅井朝倉の頭蓋骨を杯にして酒を飲み干すという有名なエピソードの場面があるが文献では「髑髏を飾って酒宴をしたが、そこまではやってない」というしそもそもあの作品以外でも信長が「透明な日本酒を飲み干す」というのはおかしいし2023/08/11 20:45:3136.名無しさんXypHs太郎太刀とかいう奴か2023/08/11 21:25:5937.名無しさんrLspsガンダムに例えるとどのモビルスーツなの?2023/08/11 21:32:1638.名無しさんNpEho>>347段構えの5段目まで抜かれて6段目の家康が支えたって話な。2023/08/11 21:56:2539.名無しさんs5QsP中世って今では大巨人のネーデルランドだって平均すれば160cm代でしょ2m10cmとかもうオアシスのサンドジャイアントとかの領域だよでも飛び道具の標的になるだろう2023/08/11 22:02:4040.名無しさんklK8K和風ベルセルク きたあああああああああああwww2023/08/11 22:05:5841.名無しさんcSWsK信長は下戸で大の甘党だったと書いてあったよな2023/08/11 22:11:5042.名無しさん58cLD戦国時代は動物性たんぱく質をとっていたので、江戸中期以降より身長は低くない江戸中期以降の身長の低さは動物性たんぱく質不足のため、島津藩士の侍とかは普通に肉食ってたので身長は高めだったとか2023/08/11 22:15:1243.名無しさんP7uyB関羽だろ2023/08/12 10:12:1844.名無しさんGghgq>>38いや、大軍の朝倉軍相手に戦っていながら、小勢の浅井軍に崩されかかってる織田軍助けるために寡兵からさらに兵割いて大軍朝倉の横腹に突っ込ませて崩したとかいう、浅井も朝倉も俺が倒したんだと言ってるいかにも嘘っぽいやつ司馬はあれを史実と思って書いたのか物語的に面白いから嘘を承知で書いたのかどっちなんだろ2023/08/12 12:04:3545.名無しさんGghgq間違えた、浅井軍に突っ込ませたっていう話だった2023/08/12 12:06:2446.名無しさんi6dGW川中島や姉川から関ヶ原に至るまで、戦国合戦は具体的な状況は驚くほど明らかになっていない後世に話を盛ってどちらかを顕彰した軍記物は沢山作られたけどね手取川合戦に至っては、謙信の有名な書状以外には同時代史料がなく、果たして「合戦」があったかどうかさえ分からないw2023/08/12 14:48:5447.名無しさんi6dGW>>35菩提山、天野酒といった僧坊酒では、室町中期既に「澄み酒」、即ち現代清酒に通じる製法が確立していたから、透明な日本酒を飲むこと自体はおかしくないただし信長自身は完全な下戸だったと考えられているから、結局あのシーンはおかしいことになるw2023/08/12 14:55:52
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浅井方には、越前(福井県東部)の大名・朝倉氏が加勢。28日、長政の本拠・小谷城の南方を流れる姉川の河畔で、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍は激突した。世にいう「姉川の戦い」だ。
〈――押しつ返しつ散々に入り乱れ、黒煙立て、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り〉
と、『信長公記』にも記されたほどに激しい戦闘が続き、やがて、織田・徳川軍が勝利する。浅井・朝倉軍は総崩れとなったかが、そんな中、踏みとどまって抗戦を続ける者がいた。
その大柄な武者は、五尺三寸(約160cm)を超える長大な大太刀を振るい、四方八方に群がる敵を次々と斬り伏せた。
彼の名は、真柄十郎左衛門直隆(なおたか)。「北国無双の大力」と評された、朝倉家の猛将である。
敗勢の中で
朝から始まった姉川の戦いは、一説には4時間ほどで勝敗が決したという。
味方の浅井・朝倉勢が、雪崩を打ったように逃げ散る中、真柄十郎左衛門は大太刀を振るって、織田・徳川勢の追撃を斬り防ぎ続けた。
(……まさか、このような巡り合わせになろうとはな)
返り血にまみれながら、真柄はふと、そんなことを考えたかもしれない。
今から2年前、現将軍・足利義昭は越前で、朝倉氏の保護下にあった。
義昭は、13代将軍・足利義輝の弟であり、河内(大阪府南東部)の大名・三好氏によって兄を殺され、己の命も危うくなったため京を逃れた。彼は、再び京へ戻り、将軍に就任して幕府を再興するという宿願のため、後ろ盾となる大名を探して諸国を流浪し、やがて越前の有力大名である朝倉義景を頼ったのであった。
『朝倉始末記』に伝わる逸話によれば、あるとき、義景・義昭が列席した宴の場で、義昭の近臣の一人が、
「朝倉の御家中には、真柄十郎左衛門という大力無双の者がいると聞いておる。天下に隠れなきその力のほど、是非とも拝見したいものじゃ」
と乞うてきた。真柄はこれを受けて、義昭らの御前に進み出ると、従者が数人掛かりでようやく担げるほどの、重く長大な大太刀を二振り用意し、それらを両手に握って軽々と振り回し、剣舞を披露してみせた。その場に居並ぶ者はみな驚嘆し、「四天や夜叉神(鬼神)といえども、これには勝るまい」と舌を巻いた。
朝倉義景は、義昭を手厚く遇した。しかし、彼の志はあくまでも越前を守ることにあったらしく、義昭の求める上洛への協力に応じることはなかった。
その後、義昭は越前を去って織田信長を頼り、その支援によって上洛し、将軍就任を果たす。
しかし、この「義昭・信長政権」と朝倉氏は様々な理由から対立を深め、ついには、義昭の命を受けた信長と、こうして戦場で相まみえることとなった。
あの越前での宴に列席していた頃は、まさか義昭と敵対することになろうとは、真柄は考えもしなかっただろう。そしてまた、かつて義昭に披露した大太刀を、このような形で見せつけることになることも。
だが、彼は己の運命を嘆いたりはしなかったのではないか。人並外れた膂力(りょりょく)も、振るう相手が片田舎の小領主や一揆などでは、乱世に生まれた甲斐がない。天下人の軍勢を相手に、己の武辺を存分に見せつける機会を得たことは、ある意味では僥倖(ぎょうこう)とさえ言えるかもしれなかった。
「我が名は真柄十郎左衛門! 志の者あらば、我と引き組んで勝負せぬか!」
全文は
https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/6606aa7ad2cb41dc83233df75dd5d071f515cf23&preview=auto
大太刀を振り回して戦ったことで有名である。
でかすぎ
盛りすぎだよな
実際は
「身長148cmで木の棒振り回して走り回ってた」
これが真実なんだぜ
「四天や鬼人といえど、これには勝るまい」
蔵之介なら知ってる
加藤清正も6尺もないと思う
兜が長いのは目立ちたいからだ
草が1mも生えてどうやったら騎馬戦になるのか
なんかツボったw
センスないからやめた方がいい
平均150~155だな
チビを馬鹿にするなんて最低だよね
いや
彼だけは馬を背負って戦陣を駆け回ったので周囲が怯んだ
他意はない
合戦後も浅井朝倉が南近江で盛んに活動している事実からも、後世軍記物が語るほどの激戦ではなく、双方共損害は軽微だったとする説もある
司馬の国盗り物語も姉川の描写はこれだった
大河『秀吉』では渡哲也・織田信長が姉川の戦いの後浅井朝倉の頭蓋骨を杯にして酒を飲み干す
という有名なエピソードの場面があるが文献では「髑髏を飾って酒宴をしたが、そこまではやってない」というし
そもそもあの作品以外でも信長が「透明な日本酒を飲み干す」というのはおかしいし
7段構えの5段目まで抜かれて6段目の家康が支えたって話な。
2m10cmとかもうオアシスのサンドジャイアントとかの領域だよ
でも飛び道具の標的になるだろう
江戸中期以降の身長の低さは動物性たんぱく質不足のため、島津藩士の侍とかは普通に肉食ってたので身長は高めだったとか
いや、大軍の朝倉軍相手に戦っていながら、小勢の浅井軍に崩されかかってる織田軍助けるために寡兵からさらに兵割いて大軍朝倉の横腹に突っ込ませて崩したとかいう、浅井も朝倉も俺が倒したんだと言ってるいかにも嘘っぽいやつ
司馬はあれを史実と思って書いたのか物語的に面白いから嘘を承知で書いたのかどっちなんだろ
後世に話を盛ってどちらかを顕彰した軍記物は沢山作られたけどね
手取川合戦に至っては、謙信の有名な書状以外には同時代史料がなく、果たして「合戦」があったかどうかさえ分からないw
菩提山、天野酒といった僧坊酒では、室町中期既に「澄み酒」、即ち現代清酒に通じる製法が確立していたから、透明な日本酒を飲むこと自体はおかしくない
ただし信長自身は完全な下戸だったと考えられているから、結局あのシーンはおかしいことになるw