須佐之男最終更新 2024/09/23 02:481.名無しさん@京都板じゃないよuOO8Khttps://youtu.be/7yjJ4nq-1VE?si=QsEQHdvnZSvWRhs72024/09/20 10:16:4010コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しさん@京都板じゃないよS9R74記紀に出てくる神様のスサノオが討伐したという八岐大蛇や、あるいは土蜘蛛(つちぐも)、熊襲(くまそ)と呼ばれるものは、迫害され、殺戮されていた地方の人びとへの蔑称です土蜘蛛とは元は、土ごもりと言い、穴倉に暮らしている原始民族への侮蔑の言葉です地方の人々を虐殺し、奴隷化し、差別し続けた歴史が、勝者側にのみ都合よく綴られているのですしかし昔の人の価値観ですから、当時はこれが正史として重んじられたのです今の日本人はそれを神様と呼んで祀っています奴隷にされた黒人が、自国を植民地化した、昔の白人を拝んでいるようなものです2024/09/23 02:44:273.名無しさん@京都板じゃないよS9R74古事記、日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇天武天皇が実権を握ったとき、天智天皇の子を殺害した。これが壬申の乱天武天皇は出自があいまいで、得体のしれない人物天智天皇の弟というのも嘘と思われる天武天皇は天智天皇に近寄って、その家系を根絶やしにして権力を握ったそういう人物が最初に何をするかというと、自分の正当性を世に訴えること自分が正統であるという歴史書を編纂してそれを世間に広めればよい古事記、日本書紀はそういう視点から編纂されたようです2024/09/23 02:44:514.名無しさん@京都板じゃないよS9R74その編纂のときに、日本の建国の時をどうやら釈迦や孔子の時代よりさかのぼらせて権威付けるために、崇神天皇の360年ごろに変って、紀元前660年の神武天皇の東征というものを設定して、二王朝並立をないことにしたようですそのような事情によって、記紀は、「ハツクニスメラミコト(はじめて国を開いた天皇)」が崇神と神武の二人いる、というおかしな記述になっているわけです日本書紀は、このむりな捏造から生じた矛盾をそのまま後世に伝えたということです2024/09/23 02:45:085.名無しさん@京都板じゃないよS9R74『日本書紀』の日付の捏造の証明儀鳳暦、元嘉暦という中国の暦があるこれによると、一年に一歳年を取るのではなく、一年で何歳も年を取る暦のやり方がある、古事記や日本書紀はこの中国の暦のやり方を真似たと考えられている現代の学問の常識からいって、紀元前7世紀の日本にこんなキチンとした暦日がおこなわれていたとは疑わしい小川清彦 (天文学者)帝大主席は『日本書紀』の暦法を西暦450年頃を境に以前を儀鳳暦(麟徳暦)、以後を元嘉暦と考えれば、日本書紀に記載された3箇所の平月を閏月に修正するだけで、『日本書紀』の暦日が全て解明できることに気付き、1938年頃に論文「日本書紀の暦日について」の大略を書いた2024/09/23 02:45:276.名無しさん@京都板じゃないよS9R74また古事記や日本書紀は天地創造の話を擬人化して、人格神にしてしまいました日本書紀の天地開闢が中国の古典神話を模倣しているのは有名な事実です日本書紀の天地開闢は、淮南子や三五暦記の内容を切り貼りする事で、ほとんどの部分を再現できます中国の古典を模倣して創作されたのが、日本の天地を創った古代の神々の正体です2024/09/23 02:45:587.名無しさん@京都板じゃないよS9R74日本の統治者の称号が大王(おおきみ)から天皇になったのは誰からですか?回答壬申の乱に勝利した天武天皇が、初めて、これまでの「大王」(おおきみ)に代わって「天皇」という称号を用いたとする歴史学説が有力です「天皇」の表記については、大陸からもたらされた道教において宇宙の最高神とされる「天皇大帝」に由来する説が知られていますまた、唐の高宗が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇表記を採用したのではないかと推測されています2024/09/23 02:46:188.名無しさん@京都板じゃないよS9R74神道五部書(しんとうごうぶしょ)とは、伊勢神道(度会神道)の根本経典で、以下の5つの経典の総称『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)『倭姫命世記』いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっているが、実際には鎌倉時代に伊勢神宮の度会行忠ら外宮祀官が執筆したものと判明している2024/09/23 02:47:009.名無しさん@京都板じゃないよS9R74歴史学の研究では、伊勢神宮の外宮の神職であった度会氏が、外宮を内宮(祭神・天照大神)と同等以上の存在として格上げすることを目的に、外宮の祭神である豊受大神を、天之御中主神および国之常立神と同一神とすることで、天照大神をしのぐ普遍的神格であることを主張するために執筆されたと推定されている神道五部書は、江戸時代に、尾張の東照宮神官である吉見幸和により、偽書であるとして激しく批判された専門家によると、この偽書である神道五部書こそが神道の根本理論にあたるようです2024/09/23 02:47:1410.名無しさん@京都板じゃないよS9R74伊勢神宮の創建について『古事記』によると、崇神天皇の時代。疫病が蔓延した際、天皇が神に祈ったところ、お告げがあり天照大御神を祀るために最終的に伊勢の地に鎮座することになりました。『日本書紀』では、垂仁天皇の時代。倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀る最適な場所を探し、伊勢にたどり着きました。天照大御神自身が宇治の五十鈴川上を気に入り、ここに鎮座するようにとのお告げをしたとされています。同じ伊勢神宮の話なのに、まったく内容が違いますしかも実際には、伊勢の伊勢神宮より前に伊勢神宮とされた神社は70社もあることが分かっており、多くは近畿〜中部で、岡山にもありますそれらの神社は、「元伊勢」と呼ばれてます神話と一致しませんこの一例のように古事記や日本書紀の記述には嘘や矛盾が多く見られます2024/09/23 02:48:08
【埼玉栄高校】涙ぐむ人…高2死亡、窓から身を乗り出して車が横転 深夜グラウンドで 高校が説明会、保護者「ずさんであり得ない」 頭を下げてあいさつし、真面目な生徒が多い学校「いたたまれない」ニュース速報+6511102.12024/11/22 00:45:15
土蜘蛛とは元は、土ごもりと言い、穴倉に暮らしている原始民族への侮蔑の言葉です
地方の人々を虐殺し、奴隷化し、差別し続けた歴史が、勝者側にのみ都合よく綴られているのです
しかし昔の人の価値観ですから、当時はこれが正史として重んじられたのです
今の日本人はそれを神様と呼んで祀っています
奴隷にされた黒人が、自国を植民地化した、昔の白人を拝んでいるようなものです
天武天皇が実権を握ったとき、天智天皇の子を殺害した。これが壬申の乱
天武天皇は出自があいまいで、得体のしれない人物
天智天皇の弟というのも嘘と思われる
天武天皇は天智天皇に近寄って、その家系を根絶やしにして権力を握った
そういう人物が最初に何をするかというと、自分の正当性を世に訴えること
自分が正統であるという歴史書を編纂してそれを世間に広めればよい
古事記、日本書紀はそういう視点から編纂されたようです
そのような事情によって、記紀は、「ハツクニスメラミコト(はじめて国を開いた天皇)」が崇神と神武の二人いる、というおかしな記述になっているわけです
日本書紀は、このむりな捏造から生じた矛盾をそのまま後世に伝えたということです
儀鳳暦、元嘉暦という中国の暦がある
これによると、一年に一歳年を取るのではなく、一年で何歳も年を取る暦のやり方がある、古事記や日本書紀はこの中国の暦のやり方を真似たと考えられている
現代の学問の常識からいって、紀元前7世紀の日本にこんなキチンとした暦日がおこなわれていたとは疑わしい
小川清彦 (天文学者)帝大主席は『日本書紀』の暦法を西暦450年頃を境に以前を儀鳳暦(麟徳暦)、以後を元嘉暦と考えれば、日本書紀に記載された3箇所の平月を閏月に修正するだけで、『日本書紀』の暦日が全て解明できることに気付き、1938年頃に論文「日本書紀の暦日について」の大略を書いた
日本書紀の天地開闢が中国の古典神話を模倣しているのは有名な事実です
日本書紀の天地開闢は、淮南子や三五暦記の内容を切り貼りする事で、ほとんどの部分を再現できます
中国の古典を模倣して創作されたのが、日本の天地を創った古代の神々の正体です
回答
壬申の乱に勝利した天武天皇が、初めて、これまでの「大王」(おおきみ)に代わって「天皇」という称号を用いたとする歴史学説が有力です
「天皇」の表記については、大陸からもたらされた道教において宇宙の最高神とされる「天皇大帝」に由来する説が知られています
また、唐の高宗が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇表記を採用したのではないかと推測されています
『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
『倭姫命世記』
いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっているが、実際には鎌倉時代に伊勢神宮の度会行忠ら外宮祀官が執筆したものと判明している
神道五部書は、江戸時代に、尾張の東照宮神官である吉見幸和により、偽書であるとして激しく批判された
専門家によると、この偽書である神道五部書こそが神道の根本理論にあたるようです
『古事記』によると、崇神天皇の時代。疫病が蔓延した際、天皇が神に祈ったところ、お告げがあり天照大御神を祀るために最終的に伊勢の地に鎮座することになりました。
『日本書紀』では、垂仁天皇の時代。倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀る最適な場所を探し、伊勢にたどり着きました。天照大御神自身が宇治の五十鈴川上を気に入り、ここに鎮座するようにとのお告げをしたとされています。
同じ伊勢神宮の話なのに、まったく内容が違います
しかも実際には、伊勢の伊勢神宮より前に伊勢神宮とされた神社は70社もあることが分かっており、多くは近畿〜中部で、岡山にもあります
それらの神社は、「元伊勢」と呼ばれてます
神話と一致しません
この一例のように古事記や日本書紀の記述には嘘や矛盾が多く見られます