大原麗子

1.
ユーザー
KA0Sc
大原 麗子(おおはら れいこ、1946年〈昭和21年〉11月13日 - 2009年〈平成21年〉8月3日[)は、日本の女優。

本名:飯塚 麗子(いいづか れいこ)。

身長157cm、B80cm、W56cm、H83cm(1975年5月)
38
すべて
|
最新の50件
2.
ユーザー
KA0Sc
老舗和菓子屋の経営者を父として、東京都文京区で誕生。

潤徳女子中学校、北豊島高等学校卒業。

六本木野獣会に属し、大野伴睦の長男で東京放映の社長である大野直にスカウトされ、芸能界入り。

中尾ミエ主演の東宝映画『夢で逢いましょ』(1962年)にも端役で出演していたが、

1964年(昭和39年)、テレビドラマ『幸福試験』(NHK)の出演でデビューし、翌年、東映へ入社。
3.
ユーザー
KA0Sc
「夜の青春シリーズ」をはじめ、高倉健の『網走番外地』シリーズ、千葉真一主演作品での助演等、数々の映画に出演したが、

この時期の東映は"不良性感度映画"を推進していたため、大原の役は酒場のホステスやパンスケ役が多かった。

他社出演した『ドリフターズですよ! 前進前進また前進』(東宝)でもお色気担当だった。

1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍。

ただ、1972年2月14日に東京プリンスホテルであった渡瀬恒彦との婚約発表を伝える『スポーツニッポン』1972年2月15日の記事に「東映の渡瀬恒彦と同じく東映女優の大原麗子」と書かれており、

同席した岡田茂東映社長が「二人とも我が社の看板スターです。今後ともよろしく」と報道陣に話した。
4.
ユーザー
KA0Sc
以降テレビドラマを中心に一転して「しっとりとした日本的美人像」を演じ、

映画『おはん』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮した。

その演技力を買われて主演した橋田壽賀子脚本の『春日局』では大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%(ビデオリサーチ、関東地区調べ)を叩きだした。

橋田をはじめ、石井ふく子からも演技力を高く評価されていた
5.
ユーザー
KA0Sc
バラエティ番組への出演はさほど多くなかったものの、1994年(平成6年)5月19日放映の『ダウンタウンDX』(よみうりテレビ)では、

本人たっての希望で、うさぎの着ぐるみを着たり、禿げかつらをつけてコントをしたり、

さらに番組内の一コーナー「ダウンタウンの社会見学」ではセーラー服姿でダウンタウンの2人に同行した。

1996年4月15日にフジテレビ系列で放送がスタートしたバラエティ番組『SMAP×SMAP』の名物コーナー「BISTRO SMAP」の第1回のゲストが大原であり、

大原の死去から1週間後の2009年8月10日に、大原への追悼の意を込めて同回が再放送された。

この時の映像は、のちに番組内でも幾度となく紹介された
6.
ユーザー
KA0Sc
テレビCMへの出演も多く、とりわけ、和服姿でぷっと頬を膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」という台詞で知られる、

サントリーレッドのCMは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送された。

歌手としても、数枚のレコードをリリースした。

明石家さんまや清水ミチコによく声真似をされた。
7.
ユーザー
KA0Sc
1975年に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。

1999年11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止した。

その後、休止中にギラン・バレー症候群の主治医が亡くなった。

2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負った。

この転倒は、同症候群の影響で身体のバランスを崩したものとされていたが、

同じくギラン・バレー症候群を患った演出家の鴨下信一や専門医はこの病が再発することは滅多にないとして再発に懐疑的であり、

大原の実弟も再発は姉の思い込みだったのではないかと否定的である
8.
ユーザー
KA0Sc
さかのぼって47歳の時には乳がん手術を受けた。

1999年に左目の二重まぶたの整形手術をしたが手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまったため、

主演が決まっていた映画『天城越え』(第2作)を降板した。

その後、再手術をして可能な限り元に戻したが、自宅に引きこもるようになった。

同年11月、ギラン・バレー症候群が再発したこともあり、芸能活動を休止した。

大原の死後、弟・政光がテレビ番組で、「姉は左目のまぶたが一重で、メイクのとき自分で二重まぶたにしていた」と告白した。
9.
ユーザー
KA0Sc
活動休止中も現場復帰に向けて、自宅でリハビリと筋力トレーニングに励んでいたという。

晩年は母親の介護や自身の病気療養もあって、公の場に姿を見せる機会はめっきり減っていったが、

俳優仲間にはたびたび電話をかけ、ドラマを観た感想などを語っていたという。

2008年末に「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。いえ、必ず復帰するわ。

そうね復帰はどんな形がいいかしら。やっぱりテレビドラマよね。山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。

それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」と語った
10.
ユーザー
KA0Sc
2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。

62歳だった。

行政解剖の結果、死亡推定日時は同年8月3日。

死因は不整脈による脳内出血であると診断された。

8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、森光子、石井ふく子、浅丘ルリ子らが発起人となり、

元夫である渡瀬恒彦や森進一のほか、八千草薫、池内淳子、徳光和夫、加藤和也、堺正章、井上順、松原智恵子、音無美紀子、浅野ゆう子、中村雅俊らが参列。

大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、「浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたこと」を明かした
11.
ユーザー
KA0Sc
研究熱心な“演技の虫”であり、台本のセリフを自分なりに書き換えたりしていた。

そのため脚本家や演出家と口論することがしばしばあり、それが原因で関係者に敬遠されて仕事のオファーがなくなったこともある

売れていき地位が上がるにつれ、映画やドラマのスタッフに対して脚本と演出の注文を付けるようになり、それが年を重ねるごとにエスカレートしたという。

それが原因となり、一時はどこからも出演オファーがなかった。

死後、遺品の中には多くの台本があり、台本には場面ごとに細かく立ち位置がメモされ、セリフも自分なりに変更されていた。

弟・政光は、「姉の夢は、監督・脚本から主演までをこなすことだったと思います」と述べている。

また弟によれば、1998年に大河ドラマ『徳川慶喜』でナレーションに挑戦した後、宮﨑駿監督から声優のオファーを貰うも、「ごめんなさい。私は女優であって、声優ではありません。

せっかくのお話ですが、お断りします」と返事をしたと言う。

「自分はあくまで女優として生きたい」と言う信念があったからだと言う。
12.
ユーザー
G7OB2
こだわりの強い役者さんかね😉
13.
ユーザー
RTGA8
スタッフからすると面倒くさいタイプかしら
14.
ユーザー
g6oWs
人生哲学ですよね😉
15.
ユーザー
EA7Vw
昔のとんねるずの番組で見たような
16.
ユーザー
TVpbJ
まさに女優様
17.
ユーザー
9gPYq
麗しの😃
18.
ユーザー
KJ6cO
れいこたん
19.
ユーザー
oNs0w
かわいいの頂点
20.
ユーザー
6AWgN
まあ綺麗だわさ😉
21.
ユーザー
QxpDd
かわいいは正義
22.
ユーザー
Q0Rkd
とてもお美しいですたいへん素晴らしい
23.
ユーザー
JtZWs
れいこタン😃
24.
ユーザー
ltUA1
処女じゃなかったのかよ騙された
25.
ユーザー
6e1zj
生で見たことあるけどひっくり返るぐらい美人だったな
いまでもあの衝撃は忘れられないわ
26.
ユーザー
EYvAi
色気のある女優さんだな
27.
ユーザー
qQJf8
やはり姿勢の良さって大事だな
28.
ユーザー
SUfSr
とてつもなく可愛いな
29.
ユーザー
Kbxt9
この人も雰囲気女優だったよなぁ
何年やっても芝居は巧くならなかった
30.
ユーザー
HbCOG
容姿はもちろん所作も美しいよな
31.
ユーザー
zqg9l
愛してるぞーっ!
32.
ユーザー
5B68o
愛されてるな
33.
ユーザー
Q6YjA
たいげんれいし😃
34.
ユーザー
5fCPJ
更に若い頃はかわいかったな
人間である以上年齢には勝てない
35.
ユーザー
NxNZk
たいげんれいし
36.
ユーザー
6uJiE
さんまのモノマネの十八番やったな
37.
ユーザー
0S3rf
酒のCMばかり言われてるが大河ドラマとか代表作あるだろ
38.
ユーザー
BmGMa
うちの母ちゃんと学生時代に仲良くしててよく実家の和菓子屋に遊びに行ったエピソード聞かされたな
芸能界に入ってから疎遠になっちゃったみたい
亡くなったあとにお別れ会に行ったが著名人ばかりで居づらくなって帰ってきたと話してた