渡瀬恒彦最終更新 2024/09/07 12:171.なんてったって名無しさん04xG4渡瀬 恒彦(わたせ つねひこ、(1944年〈昭和19年〉7月28日 - 2017年〈平成29年〉3月14日)は、日本の俳優・歌手・タレント。本名同じ。2024/06/21 07:12:4428コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.なんてったって名無しさん04xG4島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ、兵庫県淡路島育ち。東映マネージメント所属。兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。身長174cm、血液型AB型。2024/06/21 07:14:173.なんてったって名無しさん04xG4幼少期はガキ大将だった。同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ。生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。中学の入学試験で「あの野郎2番の成績で入って来た」と兄・渡哲也が回想していたが中学三年で柔道黒帯。高校時代は水泳部に所属。当時から同世代の女子に人気があり運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという。同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内。また恩師によれば、当時から頭の回転が早くリーダーシップがあった。また俳優かけだしの頃、三田学園の寮を何度か訪れ淡路の海を「昔はヤスで魚やサザエを取った」と懐かしんでいたという。渡瀬曰く高校在学中は新聞記者に憧れていた2024/06/21 07:26:184.なんてったって名無しさん04xG4三田学園高等学校卒業後、中央大学・慶應義塾大学法学部に現役合格するも早稲田大学は不合格だった。兄・渡哲也からは「慶應に行け」と言われたが、庭で不合格通知を見た母親が涙を流してるのを見て1浪を選択し尾崎士郎「人生劇場」にも影響された、早稲田大学の第一法学部に入学。当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まる。空手部に所属し、二段の腕前だった。またボクシングもやっていた という説もある。2024/06/21 07:33:235.なんてったって名無しさん04xG4しかし、本人曰く「いい加減な学生」 で、当時の大学は学生運動全盛期で講義もなければ卒論もない。新聞記者になりたい夢はいつしか消え、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあった が、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、仲間たちといつも「何かねぇのかな」と語り合っていたという。だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、兄・渡哲也の「堅い道を進め」という助言もあって卒業見込みで電通PRセンターに就職した。しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った青山の広告代理店「ジャパーク」に移る。仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。東映の傍系会社に電通や博報堂のCM映像を制作する東映CMが銀座にあり、銀座を歩いていた渡瀬を見た同社の役員から、「俳優にならないか?」と声をかけられる。最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる。ジャパークの給料もよく、仕事も面白くなって来たところで、映画にまるで興味もなく、兄からは「芸能界は前近代的な職場だしラクじゃない。お前はふつうの堅い道を進んで欲しい」などと映画界入りに反対されていた。自身も兄を東映に引き抜くための手段に使われているのではないかと懸念し、100%断るつもりで岡田を訪問したところ、「とにかく俺にまかせろ」などと岡田に口説かれた。彼の人柄にすっかり魅了され、「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。30まで人生預けてみよう。一発ためしにやってみるか」と即決で俳優転向を決めた2024/06/21 07:38:276.なんてったって名無しさん04xG41970年1月31日(土曜日)、石井輝男監督の映画「殺し屋人別帳」の主役としてデビューする事になり、マスコミを集めてのデモンストレーションで大学時代の空手を見せて「兄貴には小さい頃から勉強でも喧嘩でも負けた事がない。今やっても負けませんよ。」既に日活のスターになっていた渡哲也へのライバル心を隠そうとはしなかった。外部から迎えた若手タレントで東映で主役デビューは大川橋蔵以来といわれた。岡田から「やれ」の一言で、演技の勉強もなく京都に来て監督の石井と同じ部屋に泊まり、毎朝監督と一緒に起きて撮影所に行き、出番の有無に関わらず終わりまで撮影に付き合う毎日だった。しかし、デビュー作の演技を渡瀬曰く「そりゃそうだ、昨日までは素人だったんだから」と開き直っても、根がマイナス思考のため、凄まじいまでの酷さとひどく落ち込み、間違った世界に来たのかと思ったが、悩む暇がないほど次から次へと仕事が舞い込んでいったという。デビュー当時の渡瀬はやんちゃでとにかく熱く突っ走っていたと大勢の映画関係者が証言しているが、渡瀬と旧知の仲だった東映・奈村協もその1人。奈村は1972年、工藤栄一監督「忍法かげろう斬り」で身体を壊した兄・渡哲也の代役を任された時が初対面。東映京都撮影所駐車場で当時の愛車だったフェアレディ240Zを使ってスピンの練習をしていたり、当時東京から京都まで新幹線で3時間15分でかかっていたが自分なら車で新幹線より早く東京に着けると豪語していた という。「現場では10代の新人でも70、80歳代のベテランでもみんな同じライバル」 という渡瀬にとって、錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が「アクション」だった。人並外れた身体能力の高さから、当初は東映のアクションスターのホープとして期待された。2024/06/21 07:42:107.なんてったって名無しさん04xG41976年の「狂った野獣」では、中島が当初「まがりなりにもスターなんだから顔に怪我させられない」と横転するシーンのみスタントを使うことを主張するが、渡瀬は大型バス運転免許を運転教習所が驚くほどの早さで取得し、中島に「どうしても俺がやる、そのために免許を取ったんだ」と訴え、自らバスを運転し引っ繰り返す命がけの撮影に挑んだ(渡瀬の盟友であるピラニア軍団の面々もバスに同乗したが、本音は「横転するバスになんか乗りたくなかった。でも、世話になっている渡瀬の手前断れなかったという)。中島は当時の渡瀬を「飛び立つヘリコプターにぶら下がったり、運動神経がとにかく抜群だった」と絶賛する。次第に中島は渡瀬が運転に関して自信過剰になっていると危惧する] が、渡瀬のアクションはどんどん過激になっていく。「暴走パニック大激突」(1976年)では200台もの車やバイクが衝突するクライマックスシーンの撮影時に出演者の中でたった1人ノースタントを志願。自らハンドルを握り、対向車に飛び込んだ。2024/06/21 07:50:448.なんてったって名無しさん04xG4「セーラー服と機関銃」では、現場入り朝9時から撮影開始 深夜0時の撮影終了まで薬師丸ひろ子へひたすら集中力を磨くために三國連太郎と共に繰り返し稽古をつけていた(2016年7月22日放映「スタジオパークからこんにちは」ゲスト薬師丸ひろ子より)という。また薬師丸が機関銃を撃つシーンでガラスが飛び散り顔を負傷した際、周囲は「すぐ治るよ」と楽観する中、渡瀬だけが「自分の娘だったらどうする」と薬師丸の怪我を心配した2024/06/21 07:52:329.なんてったって名無しさん04xG4存命中、本人の口から語られることはなかったが、ごく一部の人間のみが知る事実として、1994年に脳梗塞を起こした際、左手に軽い障害が残ったといわれ、それが従来の屈強な渡瀬のイメージと併せ人間味が溢れる類まれな存在感が出てきたきっかけと見る向きもある。脳梗塞がきっかけで「最高の仕事をするために」煙草をスッパリやめ、酒は適量なら血流にいいと言われる赤ワインだけにした。連日のように1時間歩き、趣味のカメラで道端の花を撮影していた姿が目撃されている2024/06/21 07:54:2610.なんてったって名無しさん04xG42015年8月末、体調不良を訴え、受けた検査で胆嚢に癌が見つかった(当時も調子が良くなかったと思われるが、8月2日に大原麗子の七回忌法要に参列 していたことが確認されている)。余命1年の告知を受け、都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受けた。その後も入退院を繰り返しながら、少しずつ仕事をこなしてきた。その間も高額な抗癌剤を試そうとしたり、がん専門病院で特別な放射線治療を受けようとしたが、転移のため叶わなかった。自身が癌に侵されていることは、「あえて自分から話すことではないと思った」という理由 で、2016年5月26日発売の「女性セブン」が報じるまでは公にされなかった。2024/06/21 07:57:1011.なんてったって名無しさん04xG42017年2月中旬に左肺の気胸を発症し入院治療を行うも、3月に入って敗血症を発症。しかし現場に戻る執念は衰えず、一般病棟にいる時から「警視庁捜査一課9係 season12」の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていた。死去の前日にはマネージャーと「警視庁捜査一課9係 season12」の打ち合わせをこなし、「今月から撮影だ、頑張ろう」と自らを鼓舞していた という。しかし、3月14日、細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。病院に駆け付けた妻と長男と長女の家族3人に看取られ、同日23時18分、胆嚢がんによる多臓器不全のため、東京都内の病院で永眠。72歳(享年74)だった2024/06/21 07:59:1912.なんてったって名無しさん04xG4渡瀬の人物像を語る上でしばしば登場するのが「芸能界一喧嘩が強い」という逸話である。渡瀬本人が腕っ節の強さを吹聴するようなことは無かったものの、彼を古くから知る芸能関係者らは「渡瀬さんが一番」と口を揃え、その強さを“伝説”として語り継いでいる2024/06/21 08:01:3113.なんてったって名無しさんjTL4B喧嘩最強らしい2024/06/22 04:39:0314.なんてったって名無しさんu9Tnw最強伝説2024/06/22 16:23:3715.なんてったって名無しさんzZIU0武勇伝たくさん😃2024/06/24 05:23:5516.なんてったって名無しさんmVomNこわもて2024/06/24 15:21:2317.なんてったって名無しさんqMzgF芸能界で一番喧嘩が強かった2024/06/26 10:58:5518.なんてったって名無しさんPsVqj実際、渡瀬恒彦は故郷の淡路島時代から暴れん坊で、学生時代は本職も一目置いてたそうだからな喧嘩は兄貴の渡哲也より強かった2024/06/27 08:50:2119.なんてったって名無しさんjGW56強いのかしら😆2024/06/28 04:41:2120.なんてったって名無しさんKA0Sc渡瀬はビラニア軍団もシメテたからな2024/06/28 08:50:2721.なんてったって名無しさんRTGA8ジジイの喧嘩話なんて興味ないわ2024/06/29 11:07:2222.なんてったって名無しさんFinCy渡瀬も元大学の空手部というベースはあるからなあやっぱり武道の何のベースも無しにセンスだけで喧嘩最強は難しい2024/06/30 12:06:5723.なんてったって名無しさんEA7Vw渡瀬恒彦さんが亡くなった今の芸能界最強は大木凡人だろ?2024/07/01 07:17:0924.なんてったって名無しさんKJ6cOガタイがいい元格闘家だから強いとかだとつまんねーんだよ渡瀬恒彦みたいな中肉中背のオッサンがなぜかケンカはめちゃめちゃ強い、みたいなのがいいんだよ2024/07/03 13:23:0125.なんてったって名無しさんrUrZuガチで強そう怖そう2024/07/05 12:17:0126.なんてったって名無しさんCEekFガチで強そう怖そう2024/08/09 08:07:1227.なんてったって名無しさんqzDDjとてつもなく強そう2024/09/05 12:31:5928.なんてったって名無しさんkiaWzつよい!ぜったいにつよい!2024/09/07 12:17:18
【トランプ暗殺未遂事件】トランプ氏がゴルフ中に茂みの中から銃身が出ているのを発見⇒ シークレットサービスが即発砲⇒ 逃亡した犯人を拘束 照準器付きの自動小銃などが見つかるニュース速報+404748.12024/09/17 04:37:13
【火葬】東京23区「火葬料金」高騰、「モーニングショー」特集…「千葉市の15倍」他の都市との価格差に石原良純&玉川徹氏ら驚き「全然違うじゃない!」ニュース速報+408581.92024/09/17 04:44:55
日本の俳優・歌手・タレント。
本名同じ。
東映マネージメント所属。
兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。
身長174cm、血液型AB型。
同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。
友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ。
生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。
中学の入学試験で「あの野郎2番の成績で入って来た」と兄・渡哲也が回想していたが中学三年で柔道黒帯。
高校時代は水泳部に所属。当時から同世代の女子に人気があり運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという。
同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。
難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内。
また恩師によれば、当時から頭の回転が早くリーダーシップがあった。
また俳優かけだしの頃、三田学園の寮を何度か訪れ淡路の海を「昔はヤスで魚やサザエを取った」と懐かしんでいたという。
渡瀬曰く高校在学中は新聞記者に憧れていた
兄・渡哲也からは「慶應に行け」と言われたが、庭で不合格通知を見た母親が涙を流してるのを見て1浪を選択し尾崎士郎「人生劇場」にも影響された、
早稲田大学の第一法学部に入学。
当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まる。
空手部に所属し、二段の腕前だった。
またボクシングもやっていた という説もある。
新聞記者になりたい夢はいつしか消え、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあった が、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、
仲間たちといつも「何かねぇのかな」と語り合っていたという。
だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、
兄・渡哲也の「堅い道を進め」という助言もあって卒業見込みで電通PRセンターに就職した。
しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った青山の広告代理店「ジャパーク」に移る。
仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。
ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。
宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。
東映の傍系会社に電通や博報堂のCM映像を制作する東映CMが銀座にあり、銀座を歩いていた渡瀬を見た同社の役員から、
「俳優にならないか?」と声をかけられる。
最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる。
ジャパークの給料もよく、仕事も面白くなって来たところで、映画にまるで興味もなく、兄からは「芸能界は前近代的な職場だしラクじゃない。
お前はふつうの堅い道を進んで欲しい」などと映画界入りに反対されていた。
自身も兄を東映に引き抜くための手段に使われているのではないかと懸念し、100%断るつもりで岡田を訪問したところ、「とにかく俺にまかせろ」などと岡田に口説かれた。
彼の人柄にすっかり魅了され、「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。
30まで人生預けてみよう。一発ためしにやってみるか」と即決で俳優転向を決めた
マスコミを集めてのデモンストレーションで大学時代の空手を見せて「兄貴には小さい頃から勉強でも喧嘩でも負けた事がない。
今やっても負けませんよ。」既に日活のスターになっていた渡哲也へのライバル心を隠そうとはしなかった。
外部から迎えた若手タレントで東映で主役デビューは大川橋蔵以来といわれた。
岡田から「やれ」の一言で、演技の勉強もなく京都に来て監督の石井と同じ部屋に泊まり、毎朝監督と一緒に起きて撮影所に行き、出番の有無に関わらず終わりまで撮影に付き合う毎日だった。
しかし、デビュー作の演技を渡瀬曰く「そりゃそうだ、昨日までは素人だったんだから」と開き直っても、根がマイナス思考のため、凄まじいまでの酷さとひどく落ち込み、
間違った世界に来たのかと思ったが、悩む暇がないほど次から次へと仕事が舞い込んでいったという。
デビュー当時の渡瀬はやんちゃでとにかく熱く突っ走っていたと大勢の映画関係者が証言しているが、渡瀬と旧知の仲だった東映・奈村協もその1人。
奈村は1972年、工藤栄一監督「忍法かげろう斬り」で身体を壊した兄・渡哲也の代役を任された時が初対面。
東映京都撮影所駐車場で当時の愛車だったフェアレディ240Zを使ってスピンの練習をしていたり、
当時東京から京都まで新幹線で3時間15分でかかっていたが自分なら車で新幹線より早く東京に着けると豪語していた という。
「現場では10代の新人でも70、80歳代のベテランでもみんな同じライバル」 という渡瀬にとって、錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が「アクション」だった。
人並外れた身体能力の高さから、当初は東映のアクションスターのホープとして期待された。
渡瀬は大型バス運転免許を運転教習所が驚くほどの早さで取得し、中島に「どうしても俺がやる、そのために免許を取ったんだ」と訴え、
自らバスを運転し引っ繰り返す命がけの撮影に挑んだ(渡瀬の盟友であるピラニア軍団の面々もバスに同乗したが、本音は「横転するバスになんか乗りたくなかった。
でも、世話になっている渡瀬の手前断れなかったという)。中島は当時の渡瀬を「飛び立つヘリコプターにぶら下がったり、運動神経がとにかく抜群だった」と絶賛する。
次第に中島は渡瀬が運転に関して自信過剰になっていると危惧する] が、渡瀬のアクションはどんどん過激になっていく。
「暴走パニック大激突」(1976年)では200台もの車やバイクが衝突するクライマックスシーンの撮影時に出演者の中でたった1人ノースタントを志願。
自らハンドルを握り、対向車に飛び込んだ。
(2016年7月22日放映「スタジオパークからこんにちは」ゲスト薬師丸ひろ子より)という。
また薬師丸が機関銃を撃つシーンでガラスが飛び散り顔を負傷した際、周囲は「すぐ治るよ」と楽観する中、
渡瀬だけが「自分の娘だったらどうする」と薬師丸の怪我を心配した
それが従来の屈強な渡瀬のイメージと併せ人間味が溢れる類まれな存在感が出てきたきっかけと見る向きもある。
脳梗塞がきっかけで「最高の仕事をするために」煙草をスッパリやめ、酒は適量なら血流にいいと言われる赤ワインだけにした。
連日のように1時間歩き、趣味のカメラで道端の花を撮影していた姿が目撃されている
余命1年の告知を受け、都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受けた。
その後も入退院を繰り返しながら、少しずつ仕事をこなしてきた。
その間も高額な抗癌剤を試そうとしたり、がん専門病院で特別な放射線治療を受けようとしたが、転移のため叶わなかった。
自身が癌に侵されていることは、「あえて自分から話すことではないと思った」という理由 で、
2016年5月26日発売の「女性セブン」が報じるまでは公にされなかった。
しかし現場に戻る執念は衰えず、一般病棟にいる時から「警視庁捜査一課9係 season12」の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていた。
死去の前日にはマネージャーと「警視庁捜査一課9係 season12」の打ち合わせをこなし、「今月から撮影だ、頑張ろう」と自らを鼓舞していた という。
しかし、3月14日、細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。
病院に駆け付けた妻と長男と長女の家族3人に看取られ、同日23時18分、胆嚢がんによる多臓器不全のため、東京都内の病院で永眠。
72歳(享年74)だった
渡瀬本人が腕っ節の強さを吹聴するようなことは無かったものの、
彼を古くから知る芸能関係者らは「渡瀬さんが一番」と口を揃え、その強さを“伝説”として語り継いでいる
喧嘩は兄貴の渡哲也より強かった
やっぱり武道の何のベースも無しにセンスだけで喧嘩最強は難しい
渡瀬恒彦みたいな中肉中背のオッサンがなぜかケンカはめちゃめちゃ強い、みたいなのがいいんだよ