rolleiflexとrolleicordと仲間たち最終更新 2024/08/07 14:321.名無しさん脚i3ZF1RZL二眼rollei関連のスレが無くなってしまったので建ててみました。情報交換にご利用下さい。flexとcordの垣根は当スレでは無しでお願いします。ただ35は別スレがあるので,そちらを利用願います。だれか関連スレまとめとかFAQ続けていただけると助かります。出典 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/camera/13776047102013/08/27 00:00:0040コメント欄へ移動すべて|最新の50件2.名無しさん脚VQaBBワロタ2023/07/15 09:45:023.名無しさん脚mp9sLいいね2023/07/16 08:06:554.名無しさん脚hbDtG埋め2023/07/18 07:55:155.名無しさん脚2vcewローライフレックスでも国産のなんとかフレックスでもその写りはほとんど変わらない。その写りがほとんど変わらないと言うことになればその中には個人的な好みと言うものが出てくる。いって見ればワインの好みみたいなものである。押せば写真が映るのと同じで同じように酔っ払うわけだ。東京の板橋の奥の方で作られた東京光学のプリモフレックスである。なかなかよくできたカメラで仕上げも良い。私がよく記憶しているのは亡くなった山崎博に私が大学1年の頃に銀座の路上で会ったことがある。彼が持っていたのがプリモフレックスだった。それから数十年経過して山崎博の家に遊びに行ったときにその話をしたら彼はプリモフレックスは使っていないと言うのである。私が50代のときの山崎と私の会話なのであるが、山崎と言う奴は大変な酒飲みであるから記憶がそこらは欠落しているのであろう。私の場合は記憶はもともといい加減だけど特定の人間がどんなカメラを持っていたのかと言うことに関してはしっかり記憶しているから私の方が記憶の信頼度が高いと思う。袴田事件みたいな様子になってきた。山崎がプリモフレックスを使っていたと言う記憶が鮮烈なのは当時の日本の写真家そして写真愛好家はローライフレックスが買えないので皆さんミノルタオートコードのほうに行ってしまったせいである。山崎はあらゆる意味でちょっと変わり者であったから大衆がなびくミノルタではなくてプリモフレックスのほうに行ったと言うのは彼の人となりで理解できる。この間出雲の小池さんが父上が撮影した4 × 4センチの2眼レフを使用した写真を笑顔と言うタイトルで小さな写真集として発表してこれが素晴らしかった。6 × 6センチに比べて当時のベスト盤は4 × 4センチだからそれなりに値段も安かったししかも小型軽量であるのが良かった。ある時私の岩波書店から出版する本の打ち合わせで担当編集者さんが岩波書店の地下の倉庫にいたのでそこに打ち合わせに行った。そこで発見したのは名取陽之助が戦前アメリカを広く旅行したときのコンタクトプリントのスクラップブックであった。その仕事は私は知らなかったので非常に興味を持ったと同時に何しろコンタクトプリントであるから名取の仕事が全部わかるのである。結局6時間ぐらいかけてそのコンタクトプリントを鑑賞して、担当編集者さんとは全く打ち合わせをしなかったけれどもそれはそれで貴重な体験だったと思っている。2023/08/05 00:32:516.名無しさん脚thgtE岩波書店の倉庫と言うのは確か本社からちょっと離れたところにあって地下室であるが貴重な資料が保管されているわけであるから、火事になるとフロンガスが充満するような仕掛けになっているらしい。つまり人間は死んでしまうが貴重な資料は残ると言ういかにもちゃんとした文化に理解のある岩波書店なのである。ところでここに掲載したのは6 × 6センチではなくてそのジュニアサイズのプリモJrと言うカメラである。リコーの大先輩の藤森さんと言う人が資料を整理していたときにこれは他の会社のだからいらないよーと言うので私にくださったカメラである。それで非常に感心したことなのだが山崎が使っている66番のカメラとはこの4 × 4センチのカメラのファインダーフードのデザインが全く同じでそこが良い感じだった。世界中の2眼レフの中でこのファインダーフードのデザインが1番好きだ。2023/08/07 04:54:507.目のつけ所が名無しさんTtHsB最近では、新宿というのはヒルズの先にある。だから仕事が終わって、新宿のゴールデン 街などはとんでもない。方向が逆というのは歳をとるとなかなか決心がつかないのだ。吉 田健一がくいものの本の中で「以前はよく行った烏森の飲み屋が、その後、牛込に引っ越 してから順序が逆になったので最近は行かない」という意味のことを書いている。 数日前、好天に誘われて、ヒルズに行くのは止めにしてそれが朝のラッシュの時間であっ たので、大江戸線外回りにて新宿に出た。久しぶりにカメラの「キ(タ)ムラ」に行っ た。数点、面白いものがあったがそういう場合、その面白いモノ数点はすべて以前に買っ たことがあるか、あるいは現在、持っているものである。そういう品物なウイッシュリス トから外して行くと、まだ買ったことはなくしかも今回、ここで初めて出会ったものとい うのに、自然に絞り込まれて行くものだ。その二眼レフがこれである。昨年の今頃、青山達夫と名古屋のカメラ店を徘徊して、そこ で買ったドイツ製の二眼レフの場合にはすでに同じものを持っていたが、カメラの背部の輸入代理店の金属プレートに、テヘランとかバグダッドとかあったので手に入れた。今回 のこのカメラの場合、そのネームプレートが恐らく、6x6サイズの二眼レフの中では世 界一大きいであろうということから手に入れた。こういうことは忘れないものだ。ちなみ にリスボンの貴族の館をもとにした、ホテルの鍵についているタグでこれが新書サイズよ り大きいのがあった。こういうことは案外に忘れない。Nikono Flexに惹かれるのは本体がベークライトで出来ていることだ。ベークランドさんが石炭酸とホルマリンで生成した、世界最初の人工の樹脂であること は、wikiで知ったが、この二つの薬品は少年時代、昆虫採集で必要であったから音羽の角 の薬屋でも買うことが出来た。その液体がこのような、立派なしっかりした重い物質にな るのは不思議だ。このカメラのデザインはアールデコである。あるいはデコ風である。最近の金属製の高級 カメラより、さらに重厚感があるのが痛快だ。カメラの棚のこやしにせずにこれで撮影をしようと思う。2023/09/02 09:39:018.目のつけ所が名無しさんHLSouいいね2023/09/16 08:49:089.目のつけ所が名無しさん7NY4uワロタ2023/09/19 20:12:3910.目のつけ所が名無しさんOE6rnワロタ2023/09/20 09:16:3911.目のつけ所が名無しさんTng54メカスのリトアニア世界よりもEU加盟後のギリシャの方が大変と見える。そヶそう、リトアニアを含むバルト3国ももうすぐEUに加盟するんだっけ。例のカメラアゴラに行く。となりのバーから飲み物を運ばせて、始終出入りが絶えない店であるが、誰も買い物をしない。店主は店を開いて6年になるが、もう店を閉めたいとこぼす。イランから来て11年になるという常連さんもあり。テヘランはいいとこだぞ、是非来いと言われる。話題はもっぱら私の持参したローライ35RFと、プラナー80ミリの話。こういうHFTのレンズを作ってしまうコシナのコバヤシは偉いやつだ、という会話になる。常連の話題はあとは、プロミネント用のウルトロンの評価が高いこと。ウルトロンをライカに使うヘリコイドがある話をしたら、みんな欲しがっていた。ここらは是非、小林社長に生産してもらいたい、帰国したらリクエストしておく、というと一同安心する。皆、プロミネントのボディの使いにくさにまいっているのだ。店主の話では、私のことを覚えている、10年以上前にフレンチフォトの日本特集に出ていたでしょうと言う。そう言えば、1990年の2月頃にフォトの編集のフランス人と銀座で会って、8×10の東京の作品を20枚ほど渡した記憶がある。しばらくしてその写真は送り返して来たので、不採用になったのかと思っていたが、返送された作品と一緒にレイアウトが8ページだかあったのを変に思っていたが、どうやらその号に写真は掲載されたらしいことが今になって判明した。ただし、掲載誌も稿料ももらった記憶なし。パリジャンのしそうなことだ。いや、一般のパリジャンを批判しているのではない。シンタグマ広場の路地で老人が露店を店しまいして帰りかけようとする時、例のギリシャ正教徒がいつも手にしている念珠を買う。10ユーロ。メトロの中などでおやじが、手の先に振り回して念珠を巻き付けて「じゃらじゃら、チャッ」とやるのが格好良いので手に入れたモノなり。しかしこれもライカさばきと同様に年期の要る技ならん。露店のじいさんは私のパネライを見て、それ2023/09/24 05:47:5912.目のつけ所が名無しさんbELCy巨匠ファッションフォトグラファーヘルムートニュートンが使っていたのがテレビローライフレックスで、これはテレと言う名前はついているけれども、別に遠くのものを撮影すると言うのではなくて、ちょっと長めのレンズなので、モデルのプロポーションを正しく撮影することができると言うだけの話なのである。ヘルムートニュートンにはいろいろ逸話があって、1970年代にウィーンで生活していた頃にGFがニューヨークのヘルムートニュートンにアポなしで会いに行った。ニュートンはベルリン生まれだし、彼女はウィーン生まれだから、別にドイツ語で意思疎通に関しては問題がない。それで戻ってきたときに感想を聞いてみたら、あんな変態写真家はダメというのである。荒木にしてもそうであるが、変態写真家のふりをしているのがコマーシャリズムなのだと言う説明をした記憶。この写真の左の人はMNと言う人で、当時結構話題になったのだ。写真が素晴らしいと言うので、1983年のアサヒカメラの新人特集などにも写真を掲載している。テレローライフレックスで撮影したこの場所は秋葉原であって、アパートメントの夏の暑さに耐え、かねて扇風機を買いに行くところである。40年以上前の人の暮らしはシンプルであったな。MNは、40年前の写真関係者で結構話題であったが、東京総合写真専門学校の同時代は、いなくんとか、吉村くんの時代であるから、その歴史的な存在感が貴重である。彼女はすでに還暦を超えているであろう。2023/09/25 04:02:0613.目のつけ所が名無しさんeDfER1950年代のモナコグランプリとか、そういう自動車レースを見ていると、そこで撮影している。カメラマンが手にしているのがこの望遠レンズである。不思議なのはカメラマンが同時に使っている。もう一つのカメラはローライフレックスなのだ。日本のカメラが登場する以前は、これが基本的な機材であった。このシステムは240ミリと400ミリと640ミリのレンズ構成であって、1番ポピュラーなのは400ミリである。240ミリもあるが、ちょっと焦点距離が短いし、640ミリのほうはレンズの本体が長すぎて、パブリックなところで今の時代にこれを送りますのはちょっと気が引ける。と言っているだけであって、実際東京スカイツリーができる時などは640ミリを振り回していた私だった。レンズは2枚構成の極めてシンプルなものであるが、コントラストが高くてシャープネスは十分にある。400ミリのレンズだけ2枚構成ではなく、もっと高級な3枚のレンズを合わせたやつがあって、これはちょっとお値段が高い。でも2枚構成と3枚のレンズを比較してみると、その性能の差はほとんどないように見える。このシステムの最大の強みはピストルグリップがフォーカシングデバイスになっていて、かなり迅速正確に見えたものにピント合わせることが出来る点にある。慣れるとオートフォーカスの一眼レフなるよりも早い。それともう一つはフィックスフォーカスができるから、瞬時に事前に決めたポイントにピントを合わせることもできる。私は800ミリのレンズをよく使うことが多いが、いかに小型軽量な800ミリと言ってもなかなか手持ちでは困難である。それでそれよりもちょっと短い640ミリは十分な望遠効果があるこのレンズを有名にしたのは、友人の写真家の東京カメラクラブ会長の田村代表である。彼がまだ学生の頃に横田基地を撮影するのに長いレンズが必要で、これを統治両国にあった。カメラレンズのレンタル屋さんから借りていった。長いレンズであるから、レンズの安定性が悪いので、三脚等が立てられないので、同行した友人の方の上にレンズを乗せて撮影したそうだ。例のファントムが離陸するときの超望遠レンズ撮影などがその作品である。2023/10/15 05:21:3214.目のつけ所が名無しさんSDrGCいいね2023/11/23 00:46:2415.目のつけ所が名無しさんRCvgg小さなこだわりがカメラ好きの心を掴む。『ローライ公式プロダクト プルオーバーパーカー』が自分用にもプレゼントにもおすすめな理由とは?ShaSha編集部ドイツの名門カメラメーカー“ローライ”をモチーフにライフスタイルグッズを作っているローライ公式プロダクトの冬のマストアイテム『プルオーバーパーカー』をカメラのキタムラ一部店舗・カメラのキタムラネットショップにて販売しています。このパーカーは、これまでカメラ本体のデザインを商品に入れていたローライ公式プロダクトの他商品と異なり、1からデザインして作られたものです。今回はローライ公式プロダクト プルオーバーパーカーがカメラ好きの心を掴むポイントを紹介します。2023/12/02 17:53:1416.目のつけ所が名無しさんnsYp8二眼もローライコードのⅣ型辺りが気になってるんですけど流石にそこまで大人買いはできませんね〜2023/12/05 10:16:2217.目のつけ所が名無しさんYx7Fa保守2023/12/15 00:04:3418.目のつけ所が名無しさんpLOm7二眼レフを使っている方に質問、魅力ってどう感じているのですか?2023/12/23 19:31:3519.目のつけ所が名無しさんwUrLq2009年の9月の初めだったが、日本の暑い盛りにエジプトのカイロに行ったらもっと暑かった。カイロに行った。犯行の動機と言うのは誰かのエッセイを読んでいて、その人は地球上の街をずいぶん歩いているんだがカイロの下街が1番面白いと言うので、それに騙されて出かけたら嘘ではなくてほんとに面白かった。カイロにいたのは2週間位であったが、モスクワ経由で出かけたのである。飛行場に着陸する直前行動下げたら目の下をピラミッドとスフィンクスが通過していたので、そこに行くのはやめようと思った。ところが皮肉なもので、最近私がはまっている若い人の世界旅行のYouTubeを見ていると、皆さんハンコで押したようにピラミッドを見に行く。しかもエジプトの街とギザの街を逆に考えていて、エジプトカイロにピラミッドがあると思っていてなかなか笑える。カイロ中心部のエジプト考古学博物館に似た博物館がGizaの街にあるのかと思っていたら、そのユーチューバーの勘違いなのである。それで私は毎日、交通機関は使わずにカイロの街を歩きまわった。街中をどんどん東に行って、 死者の町まで行って、また戻ってくると言うようなルートだった。古い街の周辺部に興味のある私であるが、帝国主義時代の街並みを通過しないと、そこにいけないからそれはやむを得ない。それでこの右側の写真であるが、こーゆー凹面鏡みたいなクラシック建築が私は好きなのだ。理想的に言えば、このようないかめしいものではなくて、通常のアパートメントで凹面鏡みたいな建物が以前ハンガリーのブダペストで出会って、そこに本気で住みたいと考えたこともあった。2009年9月のこの旅行の時はライカで35ミリでカラーで撮ったものはアサヒカメラ10ページほど掲載した。それでこの写真は カールツアイスの2眼レフで撮影している。それはカメラマガジンで8ページほど掲載した。それで現在考えてみると、この2つのカメラ雑誌はきれいさっぱり存在していないのだから、逆にすっきりして非常に気分がよろしい。2023/12/30 07:33:1120.目のつけ所が名無しさんamqLM運用2024/01/04 07:34:1921.目のつけ所が名無しさんopMWORollei B35 Triotar 35/3.5かいました!メーター不良5000円です笑2024/01/21 05:05:5022.目のつけ所が名無しさんNOvuh日本製の6 × 6センチの一眼レフカメラと言えばブロニカとかコーワが有名である。どちらも素晴らしいメカニズムのカメラであるが私のような変わり者になると高級なメカニズムよりもプリミティブなメカの方が好きと言うことになる。ブロニカが登場したのと同じ1950年代終わりに藤田から出たのがこのカメラであった。実に地味なスペックであってミラーなどは一応クイックリターンと言うことになっているけれどもこれはカメラを押す指のパワーでミラーを持ち上げてシャッターから指を離すとミラーが復帰すると言う極めてプリミティブなメカニズムである藤田を最初に手にしたのは1970年頃で私の給料が35,000円であったときに中古カメラ屋さんの値段は50,000円近くしたからそれなりに中古カメラではあるが高いカメラであった。その頃の私は日本デザインセンターのスタッフで当時天文学的に高いカメラであったハッセルブラッドを使っていたのだがその反動としてこういうシンプルな藤田に魅力を感じるところがあった。この藤田のカメラは私にとっては8年目とか10年に一塊のマイブームが来るようであって、前回は8年位前に藤田ブームが来たのが今回またブーム到来なのである。^_^大昔に日本カメラから出した私のクラシックカメラ本の三部作というのがあるのだがその1番最初の本だったと思うが葛飾の矢切の渡しを撮影に行ったことがあった。80ミリの標準レンズは非常にシンプルな三昧玉なのである。トリプレットレンズが好きと言うのは昔からの私のレンズに対する好みであるがその理由を考えてみると3枚玉のレンズが素晴らしいと言う意味ではなく4枚以上の高級レンズに比べるといささかも遜色がないと言う意味で高性能と言うよりもレンズがシンプルなのにがんばって言うと言う意味で評価しているのだ。自分のシンプルライフを褒めていると言うプライドと割と似たようなところがあるわけだ。2024/01/31 07:45:3123.目のつけ所が名無しさんEQQ7z間宮フレックスオートマットは昭和25年にできた非常にユニークなフルオートマットのフイルム装填のカメラである。このカメラが最初の間宮フレックスの予定だったがいろいろ準備に手間取って実際に登場したのはその後に予定されていた安いバージョンの間宮フレックスJrであった。間宮フレックスJrはその登場が昭和23年頃なのだから凄いと思う。間宮カメラの長い歴史の中で間宮のイメージと言うのは地味なものであるが、1番最初のジュニアカメラがなかなかキラキラしたデザインで派手なところが気にいっている。以前はコレクターズアイテムで結構な値段が付いていたのだけど最近はフイルムの値上がりの関係で手に入れやすいカメラとなった。この戦後に最初に登場した2眼レフだけど有名なストーリーがあってトッププレートのカバーの裏側に当時このカメラの組み立てをしていた3人のゼントルマンの誰が組み立てたのかと言うことでその3人の方のイニシャルが手書きで書き込まれている。実際に組み立てたそのお三方はその事実をすっかり忘れていて割と最近になってそれを思い出して懐かしがっているというのが実に良い感じである。オリジナルプリントにサインが入っていると言う感じだな。私などは間宮フレックスオートマチックのほうに興味をとられていたのでジュニアカメラのほうはお留守になっていたがカメラの楽しみと言うのはどうもそこら辺に存在するようなのである。昭和20年代には結構Jrと言うサブタイトルのついたカメラが登場した。蛇腹カメラにもレンズをちょっとディスバージョンしたものでJrというのがあったしキャノンのレンジファインダカメラでもちょっとディスバージョンにしたモデルにJrカメラと名付けられていたのもあった。日本人は性格として何でもトップでないといけないと言うので最高級カメラを買ったその関係でディスバージョンカメラの人気がなくて売れなかったのが何十年も経過するとそちらの方が評価が高くなったりするのも面白いね。2024/02/07 06:49:3924.目のつけ所が名無しさんpuymcいいね2024/02/17 00:15:2425.目のつけ所が名無しさんxuZ29保守2024/02/26 07:40:4526.目のつけ所が名無しさんZ2U1l運用2024/03/05 19:18:3427.目のつけ所が名無しさん30GKC保守2024/03/19 12:27:4728.目のつけ所が名無しさんoOmjc運用2024/04/03 14:14:1929.目のつけ所が名無しさんsYphRローライフレックスカジノロワイヤルこれは実際にアメリカのカジノで使われていたローライだ。カジノは撮影禁止だが、カメラガールがこの金色のローライを持ち歩いて、お客を撮影するビジネスがあった。ローライの正規の仕上げである。それが人間の欲望に擦り切れて。今ではなにか「百済観音」とでも言えるすがれた金箔を残している。2024/04/22 05:27:2430.目のつけ所が名無しさん8bkbv写真家は見えない的を狙っているものであると何十年も宣言してきたのである。職業写真家よりも別の職業を持っていて、写真家の視神経を持っている人の方がはるかに優れていると言うことも何十年も書いてきた。森山大道も天才荒木も篠山さんも職業写真家としてのプロフェッショナルであるから、それに応じているだけであって、本当の視神経はなかなか発揮できないのだ。だから、優れた写真家は職業としての写真家と言うのは結構怪しくて。それよりも四谷3丁目で中古カメラ販売をやっている人とか、辞書の編纂をやっている人とか、立石の鰻屋さんとか、そして三重県鈴鹿市で公務員をやっているこの人とか、それぞれバラエティーがあってよろしいわけだ。すぎのさんの視神経は前から注目していて、7年前の私の70歳の誕生日パーティーにも駆けつけてくれたのであるが、本人にあなたはいい神経を持っていると伝えても、本人はその認識がない。それで良いわけだ。天才とか自己認識とか言うものを自分で意識しまっていては、それはその人の才能にはならない。杉野さんは最近ローライマジックを手に入れてそれで写真が変わってきたと言うところが面白い。ノートと言うメディアは8対16の横画面と言うので、全く写真のことをわかっていない人が作っているけれども仕方がないからこれは6 × 6を大幅にカットして、このように表示しているのをお断りしておく。ここには私が言うところの空気感が写っている。別の言葉で言えば、アピアランスが感じられるショットなのである。こういう話を大阪の芸術大学で10年間やってきたのであるが、それを理解してくれる人は500人に5人ぐらいであったな。それでそういう視神経の覚醒した連中は別に大学に行かなくても良いのである。だから逆に大学を利用すれば良いのだ。2024/04/24 14:29:3031.目のつけ所が名無しさんa7thV神田神保町の端のほうにあった映画館である。無声映画の時代にスタートしたというのが1920年代だと言うから映画が音声化されると言うのは、割と後の時代の事なんだね。20歳代の私のこの界隈の記憶としては、東洋キネマと言うのはいつもすぐ側にそびえているYMCAのテラコッタの立派なビルと比較して考えるのが常だった。説明しておくと、YMCAの立派なビルよりも建築物としての表現のシャープネスと言うのは、はるかに安直に作られた印象を持つ映画館の段ボール工作のようなその存在に惹かれていたのである。東洋キネマの前を通るときに必ず挨拶のように写真を撮影したものであったが、今になってみると残っている映像はこれ1枚だけのようである。これも映画館がクローズした後のもので、実際に私はここで映画を上映しているのを見た事は1度もない。理由が単純であって、私の場合、劇場上映コマーシャルの映画と言うのはみると言う習慣がないから、どこの映画館であろうと行くと言う事は無いのだ。だから私が日本でよく行った映画館は蒼月シネマテークであり、あるいはウィーンのフィルムミュージアムであった。京橋のフイルムミュージアムだっていった事は無い。これが1981年頃の撮影で、カメラはローライスタンダードだった。1日で慌てて作った映画館のデザインは気に入っていたのだが、意外とその後建築物としては長く生存して70年以上ここに存在したと思う。ソ連邦が存在した時間的長さとあんまり違わないんだよなぁ。2024/05/15 14:58:2632.目のつけ所が名無しさんcgS47巨匠ファッションフォトグラファーヘルムートニュートンが使っていたのがテレビローライフレックスで、これはテレと言う名前はついているけれども、別に遠くのものを撮影すると言うのではなくて、ちょっと長めのレンズなので、モデルのプロポーションを正しく撮影することができると言うだけの話なのである。ヘルムートニュートンにはいろいろ逸話があって、1970年代にウィーンで生活していた頃にGFがニューヨークのヘルムートニュートンにアポなしで会いに行った。ニュートンはベルリン生まれだし、彼女はウィーン生まれだから、別にドイツ語で意思疎通に関しては問題がない。それで戻ってきたときに感想を聞いてみたら、あんな変態写真家はダメというのである。荒木にしてもそうであるが、変態写真家のふりをしているのがコマーシャリズムなのだと言う説明をした記憶。この写真の左の人はMNと言う人で、当時結構話題になったのだ。写真が素晴らしいと言うので、1983年のアサヒカメラの新人特集などにも写真を掲載している。テレローライフレックスで撮影したこの場所は秋葉原であって、アパートメントの夏の暑さに耐え、かねて扇風機を買いに行くところである。40年以上前の人の暮らしはシンプルであったな。MNは、40年前の写真関係者で結構話題であったが、東京総合写真専門学校の同時代は、いなくんとか、吉村くんの時代であるから、その歴史的な存在感が貴重である。彼女はすでに還暦を超えているであろう。2024/05/17 20:59:0533.目のつけ所が名無しさんXIYCHFotodiox Pro Lens Hood for Rollei TLR Camera with Bay III (B3) f2.8 Take Lens - Matte Finish, fits Twin Lens Rollei (TLR) Bay III Mount, 2.8 B/C/D/E/F/GX/FX (Biometer, Planar, Xenotar, Sonnar) Lenses2024/05/23 07:12:4034.目のつけ所が名無しさんR6XTj枠を削って二眼両方にフィルターを嵌めてる奴2024/05/25 09:28:4335.目のつけ所が名無しさんOmLIMサードパーティ製なら薄枠あるお2024/05/28 02:58:1836.目のつけ所が名無しさん1PF6Kリコーフレックスが桐の箱に入ってゴージャス戦後の日本の2眼レフの大ヒット商品になったリコーフレックスである。輸出向けだけだったらしいが、桐箱入りである。こういうのはゴージャスに見えていいね。孫にも衣装。リコーフレックスにはきりのはこ。高級デジタルカメラもこの路線を真似るといいのに、そっちの方には神経がいかないらしい。リコーGRの企画をお手伝いするときに、私は桐箱入りを提案したのであった。浅草あたりのその専門店で値段も調べに行ったのであるが、思いのほか安いのである。次に桐箱入りのカメラを出すメーカーが勝利者になる気がするね。2024/05/29 13:51:0437.目のつけ所が名無しさんzi2juローライ二眼買ったった2024/05/30 06:14:2038.目のつけ所が名無しさんIChp2フィルター買うお2024/06/09 12:26:5939.目のつけ所が名無しさんcQNxo1981年に東京に戻ってきてから、ずっと2眼レフで東京の街を撮影していた。この作品は2眼レフワークショップに掲載されている。持って歩いた。カメラはローライフレックスかミノルタオートコードかあるいはオリンパスフレックスかもしれないが、映りは皆同じものだから、カメラブランドがどうこうと言うまでのこともない。それで問題にしたいのは、かつて赤羽に存在した文化市場のことである。文化と言うのは結構ネガティブな風に聞こえてしまうものであって、例えば大阪の方で大昔流行していた文化住宅とか、あるいは文化星、さらには文化庁などもそれに含まれる。私は文化庁からお金をもらっていて、ニューヨークでその内実がよくわかったのであるが、当時はインターネットもなかったから年に4回藁半紙の4分の1のサイズの文章を東京に封書で送るだけでよかった。こういうノア文化が高いと見ることもできるし、低いと見ることもできる。それでこの黒っぽい巨大な木造建築の赤羽文化市場であるが、ここが私は大好きだった。このような巨大な空間を持った市場と言うのはアジアにもあるし、ヨーロッパにもあるごく普通なマーケットなのである。ところが日本はこういう伝統的な市場がドンドン潰されて小賢しいスーパーマーケットになってしまうのは、資本力の違いとかパワーによるものなのであろうか?例えば、パリで50年以上前から私が通っているパリの東駅のそばの巨大な市場であるが、これ等は50年間同じお店で魚というかお刺身を買い続けたりしていると。当時私と同じで青年だった店の若者が、今では私と同じ後期高齢者になったりするのが非常に興味深い。2024/07/01 09:00:0140.目のつけ所が名無しさん9uYXkいいね2024/08/07 14:32:14
情報交換にご利用下さい。
flexとcordの垣根は当スレでは無しでお願いします。
ただ35は別スレがあるので,そちらを利用願います。
だれか関連スレまとめとかFAQ続けていただけると助かります。
いって見ればワインの好みみたいなものである。押せば写真が映るのと同じで同じように酔っ払うわけだ。
東京の板橋の奥の方で作られた東京光学のプリモフレックスである。なかなかよくできたカメラで仕上げも良い。私がよく記憶しているのは亡くなった山崎博に私が大学1年の頃に銀座の路上で会ったことがある。彼が持っていたのがプリモフレックスだった。
それから数十年経過して山崎博の家に遊びに行ったときにその話をしたら彼はプリモフレックスは使っていないと言うのである。私が50代のときの山崎と私の会話なのであるが、山崎と言う奴は大変な酒飲みであるから記憶がそこらは欠落しているのであろう。
私の場合は記憶はもともといい加減だけど特定の人間がどんなカメラを持っていたのかと言うことに関してはしっかり記憶しているから私の方が記憶の信頼度が高いと思う。袴田事件みたいな様子になってきた。
山崎がプリモフレックスを使っていたと言う記憶が鮮烈なのは当時の日本の写真家そして写真愛好家はローライフレックスが買えないので皆さんミノルタオートコードのほうに行ってしまったせいである。山崎はあらゆる意味でちょっと変わり者であったから大衆がなびくミノルタではなくてプリモフレックスのほうに行ったと言うのは彼の人となりで理解できる。
この間出雲の小池さんが父上が撮影した4 × 4センチの2眼レフを使用した写真を笑顔と言うタイトルで小さな写真集として発表してこれが素晴らしかった。
6 × 6センチに比べて当時のベスト盤は4 × 4センチだからそれなりに値段も安かったししかも小型軽量であるのが良かった。ある時私の岩波書店から出版する本の打ち合わせで担当編集者さんが岩波書店の地下の倉庫にいたのでそこに打ち合わせに行った。
そこで発見したのは名取陽之助が戦前アメリカを広く旅行したときのコンタクトプリントのスクラップブックであった。その仕事は私は知らなかったので非常に興味を持ったと同時に何しろコンタクトプリントであるから名取の仕事が全部わかるのである。結局6時間ぐらいかけてそのコンタクトプリントを鑑賞して、担当編集者さんとは全く打ち合わせをしなかったけれどもそれはそれで貴重な体験だったと思っている。
ところでここに掲載したのは6 × 6センチではなくてそのジュニアサイズのプリモJrと言うカメラである。リコーの大先輩の藤森さんと言う人が資料を整理していたときにこれは他の会社のだからいらないよーと言うので私にくださったカメラである。
それで非常に感心したことなのだが山崎が使っている66番のカメラとはこの4 × 4センチのカメラのファインダーフードのデザインが全く同じでそこが良い感じだった。世界中の2眼レフの中でこのファインダーフードのデザインが1番好きだ。
久しぶりにカメラの「キ(タ)ムラ」に行っ た。数点、面白いものがあったがそういう場合、その面白いモノ数点はすべて以前に買っ たことがあるか、あるいは現在、持っているものである。そういう品物なウイッシュリス トから外して行くと、まだ買ったことはなくしかも今回、ここで初めて出会ったものとい うのに、自然に絞り込まれて行くものだ。
その二眼レフがこれである。昨年の今頃、青山達夫と名古屋のカメラ店を徘徊して、そこ で買ったドイツ製の二眼レフの場合にはすでに同じものを持っていたが、カメラの背部の輸入代理店の金属プレートに、テヘランとかバグダッドとかあったので手に入れた。今回 のこのカメラの場合、そのネームプレートが恐らく、6x6サイズの二眼レフの中では世 界一大きいであろうということから手に入れた。こういうことは忘れないものだ。ちなみ にリスボンの貴族の館をもとにした、ホテルの鍵についているタグでこれが新書サイズよ り大きいのがあった。こういうことは案外に忘れない。
Nikono Flexに惹かれるのは本体がベークライトで出来ていることだ。
ベークランドさんが石炭酸とホルマリンで生成した、世界最初の人工の樹脂であること は、wikiで知ったが、この二つの薬品は少年時代、昆虫採集で必要であったから音羽の角 の薬屋でも買うことが出来た。その液体がこのような、立派なしっかりした重い物質にな るのは不思議だ。
このカメラのデザインはアールデコである。あるいはデコ風である。最近の金属製の高級 カメラより、さらに重厚感があるのが痛快だ。カメラの棚のこやしにせずにこれで撮影をしようと思う。
店主の話では、私のことを覚えている、10年以上前にフレンチフォトの日本特集に出ていたでしょうと言う。そう言えば、1990年の2月頃にフォトの編集のフランス人と銀座で会って、8×10の東京の作品を20枚ほど渡した記憶がある。しばらくしてその写真は送り返して来たので、不採用になったのかと思っていたが、返送された作品と一緒にレイアウトが8ページだかあったのを変に思っていたが、どうやらその号に写真は掲載されたらしいことが今になって判明した。ただし、掲載誌も稿料ももらった記憶なし。パリジャンのしそうなことだ。
いや、一般のパリジャンを批判しているのではない。シンタグマ広場の路地で老人が露店を店しまいして帰りかけようとする時、例のギリシャ正教徒がいつも手にしている念珠を買う。10ユーロ。メトロの中などでおやじが、手の先に振り回して念珠を巻き付けて「じゃらじゃら、チャッ」とやるのが格好良いので手に入れたモノなり。しかしこれもライカさばきと同様に年期の要る技ならん。露店のじいさんは私のパネライを見て、それ
ヘルムートニュートンにはいろいろ逸話があって、1970年代にウィーンで生活していた頃にGFがニューヨークのヘルムートニュートンにアポなしで会いに行った。ニュートンはベルリン生まれだし、彼女はウィーン生まれだから、別にドイツ語で意思疎通に関しては問題がない。
それで戻ってきたときに感想を聞いてみたら、あんな変態写真家はダメというのである。荒木にしてもそうであるが、変態写真家のふりをしているのがコマーシャリズムなのだと言う説明をした記憶。
この写真の左の人はMNと言う人で、当時結構話題になったのだ。写真が素晴らしいと言うので、1983年のアサヒカメラの新人特集などにも写真を掲載している。テレローライフレックスで撮影したこの場所は秋葉原であって、アパートメントの夏の暑さに耐え、かねて扇風機を買いに行くところである。40年以上前の人の暮らしはシンプルであったな。
MNは、40年前の写真関係者で結構話題であったが、東京総合写真専門学校の同時代は、いなくんとか、吉村くんの時代であるから、その歴史的な存在感が貴重である。彼女はすでに還暦を超えているであろう。
このシステムは240ミリと400ミリと640ミリのレンズ構成であって、1番ポピュラーなのは400ミリである。240ミリもあるが、ちょっと焦点距離が短いし、640ミリのほうはレンズの本体が長すぎて、パブリックなところで今の時代にこれを送りますのはちょっと気が引ける。と言っているだけであって、実際東京スカイツリーができる時などは640ミリを振り回していた私だった。
レンズは2枚構成の極めてシンプルなものであるが、コントラストが高くてシャープネスは十分にある。400ミリのレンズだけ2枚構成ではなく、もっと高級な3枚のレンズを合わせたやつがあって、これはちょっとお値段が高い。でも2枚構成と3枚のレンズを比較してみると、その性能の差はほとんどないように見える。
このシステムの最大の強みはピストルグリップがフォーカシングデバイスになっていて、かなり迅速正確に見えたものにピント合わせることが出来る点にある。慣れるとオートフォーカスの一眼レフなるよりも早い。それともう一つはフィックスフォーカスができるから、瞬時に事前に決めたポイントにピントを合わせることもできる。
私は800ミリのレンズをよく使うことが多いが、いかに小型軽量な800ミリと言ってもなかなか手持ちでは困難である。それでそれよりもちょっと短い640ミリは十分な望遠効果がある
このレンズを有名にしたのは、友人の写真家の東京カメラクラブ会長の田村代表である。彼がまだ学生の頃に横田基地を撮影するのに長いレンズが必要で、これを統治両国にあった。カメラレンズのレンタル屋さんから借りていった。長いレンズであるから、レンズの安定性が悪いので、三脚等が立てられないので、同行した友人の方の上にレンズを乗せて撮影したそうだ。例のファントムが離陸するときの超望遠レンズ撮影などがその作品である。
ShaSha編集部
ドイツの名門カメラメーカー“ローライ”をモチーフにライフスタイルグッズを作っているローライ公式プロダクトの冬のマストアイテム『プルオーバーパーカー』をカメラのキタムラ一部店舗・カメラのキタムラネットショップにて販売しています。
このパーカーは、これまでカメラ本体のデザインを商品に入れていたローライ公式プロダクトの他商品と異なり、1からデザインして作られたものです。今回はローライ公式プロダクト プルオーバーパーカーがカメラ好きの心を掴むポイントを紹介します。
質問、魅力ってどう感じているのですか?
カイロにいたのは2週間位であったが、モスクワ経由で出かけたのである。飛行場に着陸する直前行動下げたら目の下をピラミッドとスフィンクスが通過していたので、そこに行くのはやめようと思った。ところが皮肉なもので、最近私がはまっている若い人の世界旅行のYouTubeを見ていると、皆さんハンコで押したようにピラミッドを見に行く。しかもエジプトの街とギザの街を逆に考えていて、エジプトカイロにピラミッドがあると思っていてなかなか笑える。カイロ中心部のエジプト考古学博物館に似た博物館がGizaの街にあるのかと思っていたら、そのユーチューバーの勘違いなのである。
それで私は毎日、交通機関は使わずにカイロの街を歩きまわった。街中をどんどん東に行って、 死者の町まで行って、また戻ってくると言うようなルートだった。古い街の周辺部に興味のある私であるが、帝国主義時代の街並みを通過しないと、そこにいけないからそれはやむを得ない。
それでこの右側の写真であるが、こーゆー凹面鏡みたいなクラシック建築が私は好きなのだ。理想的に言えば、このようないかめしいものではなくて、通常のアパートメントで凹面鏡みたいな建物が以前ハンガリーのブダペストで出会って、そこに本気で住みたいと考えたこともあった。
2009年9月のこの旅行の時はライカで35ミリでカラーで撮ったものはアサヒカメラ10ページほど掲載した。それでこの写真は カールツアイスの2眼レフで撮影している。それはカメラマガジンで8ページほど掲載した。
それで現在考えてみると、この2つのカメラ雑誌はきれいさっぱり存在していないのだから、逆にすっきりして非常に気分がよろしい。
ブロニカが登場したのと同じ1950年代終わりに藤田から出たのがこのカメラであった。実に地味なスペックであってミラーなどは一応クイックリターンと言うことになっているけれどもこれはカメラを押す指のパワーでミラーを持ち上げてシャッターから指を離すとミラーが復帰すると言う極めてプリミティブなメカニズムである
藤田を最初に手にしたのは1970年頃で私の給料が35,000円であったときに中古カメラ屋さんの値段は50,000円近くしたからそれなりに中古カメラではあるが高いカメラであった。
その頃の私は日本デザインセンターのスタッフで当時天文学的に高いカメラであったハッセルブラッドを使っていたのだがその反動としてこういうシンプルな藤田に魅力を感じるところがあった。
この藤田のカメラは私にとっては8年目とか10年に一塊のマイブームが来るようであって、前回は8年位前に藤田ブームが来たのが今回またブーム到来なのである。
^_^大昔に日本カメラから出した私のクラシックカメラ本の三部作というのがあるのだがその1番最初の本だったと思うが葛飾の矢切の渡しを撮影に行ったことがあった。
80ミリの標準レンズは非常にシンプルな三昧玉なのである。トリプレットレンズが好きと言うのは昔からの私のレンズに対する好みであるがその理由を考えてみると3枚玉のレンズが素晴らしいと言う意味ではなく4枚以上の高級レンズに比べるといささかも遜色がないと言う意味で高性能と言うよりもレンズがシンプルなのにがんばって言うと言う意味で評価しているのだ。
自分のシンプルライフを褒めていると言うプライドと割と似たようなところがあるわけだ。
間宮フレックスJrはその登場が昭和23年頃なのだから凄いと思う。間宮カメラの長い歴史の中で間宮のイメージと言うのは地味なものであるが、1番最初のジュニアカメラがなかなかキラキラしたデザインで派手なところが気にいっている。以前はコレクターズアイテムで結構な値段が付いていたのだけど最近はフイルムの値上がりの関係で手に入れやすいカメラとなった。
この戦後に最初に登場した2眼レフだけど有名なストーリーがあってトッププレートのカバーの裏側に当時このカメラの組み立てをしていた3人のゼントルマンの誰が組み立てたのかと言うことでその3人の方のイニシャルが手書きで書き込まれている。
実際に組み立てたそのお三方はその事実をすっかり忘れていて割と最近になってそれを思い出して懐かしがっているというのが実に良い感じである。オリジナルプリントにサインが入っていると言う感じだな。
私などは間宮フレックスオートマチックのほうに興味をとられていたのでジュニアカメラのほうはお留守になっていたがカメラの楽しみと言うのはどうもそこら辺に存在するようなのである。
昭和20年代には結構Jrと言うサブタイトルのついたカメラが登場した。蛇腹カメラにもレンズをちょっとディスバージョンしたものでJrというのがあったしキャノンのレンジファインダカメラでもちょっとディスバージョンにしたモデルにJrカメラと名付けられていたのもあった。
日本人は性格として何でもトップでないといけないと言うので最高級カメラを買ったその関係でディスバージョンカメラの人気がなくて売れなかったのが何十年も経過するとそちらの方が評価が高くなったりするのも面白いね。
これは実際にアメリカのカジノで使われていたローライだ。
カジノは撮影禁止だが、カメラガールがこの金色のローライを持ち歩いて、お客を撮影するビジネスがあった。
ローライの正規の仕上げである。
それが人間の欲望に擦り切れて。今ではなにか「百済観音」とでも言えるすがれた金箔を残している。
森山大道も天才荒木も篠山さんも職業写真家としてのプロフェッショナルであるから、それに応じているだけであって、本当の視神経はなかなか発揮できないのだ。
だから、優れた写真家は職業としての写真家と言うのは結構怪しくて。それよりも四谷3丁目で中古カメラ販売をやっている人とか、辞書の編纂をやっている人とか、立石の鰻屋さんとか、そして三重県鈴鹿市で公務員をやっているこの人とか、それぞれバラエティーがあってよろしいわけだ。
すぎのさんの視神経は前から注目していて、7年前の私の70歳の誕生日パーティーにも駆けつけてくれたのであるが、本人にあなたはいい神経を持っていると伝えても、本人はその認識がない。それで良いわけだ。天才とか自己認識とか言うものを自分で意識しまっていては、それはその人の才能にはならない。
杉野さんは最近ローライマジックを手に入れてそれで写真が変わってきたと言うところが面白い。ノートと言うメディアは8対16の横画面と言うので、全く写真のことをわかっていない人が作っているけれども仕方がないからこれは6 × 6を大幅にカットして、このように表示しているのをお断りしておく。
ここには私が言うところの空気感が写っている。別の言葉で言えば、アピアランスが感じられるショットなのである。こういう話を大阪の芸術大学で10年間やってきたのであるが、それを理解してくれる人は500人に5人ぐらいであったな。それでそういう視神経の覚醒した連中は別に大学に行かなくても良いのである。だから逆に大学を利用すれば良いのだ。
20歳代の私のこの界隈の記憶としては、東洋キネマと言うのはいつもすぐ側にそびえているYMCAのテラコッタの立派なビルと比較して考えるのが常だった。
説明しておくと、YMCAの立派なビルよりも建築物としての表現のシャープネスと言うのは、はるかに安直に作られた印象を持つ映画館の段ボール工作のようなその存在に惹かれていたのである。
東洋キネマの前を通るときに必ず挨拶のように写真を撮影したものであったが、今になってみると残っている映像はこれ1枚だけのようである。これも映画館がクローズした後のもので、実際に私はここで映画を上映しているのを見た事は1度もない。
理由が単純であって、私の場合、劇場上映コマーシャルの映画と言うのはみると言う習慣がないから、どこの映画館であろうと行くと言う事は無いのだ。だから私が日本でよく行った映画館は蒼月シネマテークであり、あるいはウィーンのフィルムミュージアムであった。京橋のフイルムミュージアムだっていった事は無い。
これが1981年頃の撮影で、カメラはローライスタンダードだった。
1日で慌てて作った映画館のデザインは気に入っていたのだが、意外とその後建築物としては長く生存して70年以上ここに存在したと思う。ソ連邦が存在した時間的長さとあんまり違わないんだよなぁ。
ヘルムートニュートンにはいろいろ逸話があって、1970年代にウィーンで生活していた頃にGFがニューヨークのヘルムートニュートンにアポなしで会いに行った。ニュートンはベルリン生まれだし、彼女はウィーン生まれだから、別にドイツ語で意思疎通に関しては問題がない。
それで戻ってきたときに感想を聞いてみたら、あんな変態写真家はダメというのである。荒木にしてもそうであるが、変態写真家のふりをしているのがコマーシャリズムなのだと言う説明をした記憶。
この写真の左の人はMNと言う人で、当時結構話題になったのだ。写真が素晴らしいと言うので、1983年のアサヒカメラの新人特集などにも写真を掲載している。テレローライフレックスで撮影したこの場所は秋葉原であって、アパートメントの夏の暑さに耐え、かねて扇風機を買いに行くところである。40年以上前の人の暮らしはシンプルであったな。
MNは、40年前の写真関係者で結構話題であったが、東京総合写真専門学校の同時代は、いなくんとか、吉村くんの時代であるから、その歴史的な存在感が貴重である。彼女はすでに還暦を超えているであろう。
戦後の日本の2眼レフの大ヒット商品になったリコーフレックスである。
輸出向けだけだったらしいが、桐箱入りである。こういうのはゴージャスに見えていいね。孫にも衣装。リコーフレックスにはきりのはこ。
高級デジタルカメラもこの路線を真似るといいのに、そっちの方には神経がいかないらしい。
リコーGRの企画をお手伝いするときに、私は桐箱入りを提案したのであった。浅草あたりのその専門店で値段も調べに行ったのであるが、思いのほか安いのである。次に桐箱入りのカメラを出すメーカーが勝利者になる気がするね。
それで問題にしたいのは、かつて赤羽に存在した文化市場のことである。文化と言うのは結構ネガティブな風に聞こえてしまうものであって、例えば大阪の方で大昔流行していた文化住宅とか、あるいは文化星、さらには文化庁などもそれに含まれる。私は文化庁からお金をもらっていて、ニューヨークでその内実がよくわかったのであるが、当時はインターネットもなかったから年に4回藁半紙の4分の1のサイズの文章を東京に封書で送るだけでよかった。こういうノア文化が高いと見ることもできるし、低いと見ることもできる。
それでこの黒っぽい巨大な木造建築の赤羽文化市場であるが、ここが私は大好きだった。このような巨大な空間を持った市場と言うのはアジアにもあるし、ヨーロッパにもあるごく普通なマーケットなのである。ところが日本はこういう伝統的な市場がドンドン潰されて小賢しいスーパーマーケットになってしまうのは、資本力の違いとかパワーによるものなのであろうか?
例えば、パリで50年以上前から私が通っているパリの東駅のそばの巨大な市場であるが、これ等は50年間同じお店で魚というかお刺身を買い続けたりしていると。当時私と同じで青年だった店の若者が、今では私と同じ後期高齢者になったりするのが非常に興味深い。