勝海舟が語る太田道灌の江戸城アーカイブ最終更新 2018/03/29 14:161.人間七七四年gf731RTF『氷川清話』より勝海舟の談話「以前、宮内省から頼まれて、江戸の歴史を調べて、一部の書物を作ったが、城郭の沿革はもちろん、法律、風俗、寺社、そのほかすべてもれなく載せてある。これを調べるときに、一つ不審であったのは、江戸城が扇ヶ谷の執事太田道灌の居城にしては、あまり大き過ぎるという事だ。何の記録を見ても江戸城の門は、三十六とあって、全体の結構がなかなか大きそうだ。全体この時分の記録では、漆桶万里軒のが一番確からしい。この人は、もと京都相国寺の僧で、後に道灌の客分になって顧問をしていたので、『江戸名所図絵』などにも、たくさんこの人の記録から引いてあるが、この記録にもやはり城門三十六と書いてある。そこでいろいろ考えていって、とうとうその訳がわかった。当時扇ヶ谷は、関東の管領で、その居城は、今の川越であったが、平生は鎌倉に住んでいて、川越へは一年に一、二度行くばかりであった。それゆへに、万一、八州の野に不意の兵乱でもあると、鎌倉と居城の連絡はたちまち断たれる心配がある。そこで、これに対する予備として、八王子を始め、そのほか諸処につなぎのとりでを置いたので、江戸もまたその一つであるということがわかった。そのころ鎌倉街道というものは、高輪の台から赤坂離宮の中を通っていたとみえて、あの離宮が紀州の屋敷であった時分には、現に鎌倉街道の一里塚が残っていた。鎌倉と川越とのつなぎの城を置くには、この江戸は、実に屈強な所だから、当時管領の威光でもって、城門が三十六もあるような大きな城をここへ築いて、八州の押えにしたのだ。」出典 https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/15223005892018/03/29 14:16:291すべて|最新の50件
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「以前、宮内省から頼まれて、江戸の歴史を調べて、一部の書物を作ったが、
城郭の沿革はもちろん、法律、風俗、寺社、そのほかすべてもれなく載せてある。
これを調べるときに、一つ不審であったのは、
江戸城が扇ヶ谷の執事太田道灌の居城にしては、あまり大き過ぎるという事だ。
何の記録を見ても江戸城の門は、三十六とあって、全体の結構がなかなか大きそうだ。
全体この時分の記録では、漆桶万里軒のが一番確からしい。
この人は、もと京都相国寺の僧で、後に道灌の客分になって顧問をしていたので、
『江戸名所図絵』などにも、たくさんこの人の記録から引いてあるが、
この記録にもやはり城門三十六と書いてある。
そこでいろいろ考えていって、とうとうその訳がわかった。
当時扇ヶ谷は、関東の管領で、その居城は、今の川越であったが、
平生は鎌倉に住んでいて、川越へは一年に一、二度行くばかりであった。
それゆへに、万一、八州の野に不意の兵乱でもあると、
鎌倉と居城の連絡はたちまち断たれる心配がある。
そこで、これに対する予備として、八王子を始め、そのほか諸処につなぎのとりでを置いたので、
江戸もまたその一つであるということがわかった。
そのころ鎌倉街道というものは、
高輪の台から赤坂離宮の中を通っていたとみえて、
あの離宮が紀州の屋敷であった時分には、
現に鎌倉街道の一里塚が残っていた。
鎌倉と川越とのつなぎの城を置くには、
この江戸は、実に屈強な所だから、当時管領の威光でもって、
城門が三十六もあるような大きな城をここへ築いて、八州の押えにしたのだ。」